東京本邸 麻布区市兵衛町(現:港区六本木)
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◆初代 東久邇宮稔彦王 久邇宮朝彦親王の子 総理大臣
1887-1990 102歳没

*結婚後フランスに留学したが、再三の帰国命令を無視して7年も帰らなかった。
お騒がせ皇族の一人である。


■妻  泰宮聡子内親王 明治天皇の娘 
1896-1978 81歳没


●東久邇宮盛厚王 2代当主
●東久邇宮師正王 関東大震災で死亡
●東久邇宮彰常王 侯爵粟田彰常となる
稲葉直通子爵の娘稲葉典子と離婚・畠中四郎右衛門の娘畠中久江と再婚
●東久邇宮俊彦王 ブラジルに移民して多羅間氏の養子になり多羅間俊彦となる・花城勝子と結婚


1915年 稔彦王&聡子内親王の結婚晩餐会のメニュー
8005(1)


8005(2)



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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1923年3月18日
久邇宮付属官も昨年8月自動車を運転し、その自動車に電車が突き当りたるため、老婆を倒しその衣類を破り賠償を為したる事あり。
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『高松宮日記』

1935年1月1日
朝香様〔朝香宮鳩彦王〕したたかに御酒まわり、「私は独り者だ」とてさんざんお泣き出しになり、東さん〔東久邇宮稔彦王〕がまたつられてボロボロ泣き出す騒ぎ、やっとお帰しす。
なんでも宮城より秩父さん・三笠さんと連続で、とてもお酒が入ったらしかった。
こんなのも珍しいお正月なり。

1935年1月3日
秩父宮をはじめ叔父様・叔母様・皆様をお招きして佐和様〔北白川宮佐和子女王〕のお別れの宴をする。
朝香様にまた泣かれてはと警戒しつつ、みなお酒を相当上がる。

1936年1月8日
近ごろ皇族が芸者に関係ある方あり、そうした芸者の出る宴会や待合に出入りされることが人の話になって困ったという話。
東久邇宮稔彦王が新橋の芸者と関係なさって胤を宿しているのがいて話題になっている。
その女将が相当な腕利きで、早くなんとかしなくては面倒になるだろうと心配している由。
また■■王も■■宮もそうした方で困ったもの、■■宮がどうかしらぬが深入りさせてはならぬと考える。
皇族のそうした行動はただちに御上の御徳に関することである。
皇族は道徳的存在として御上を取り囲んでいなくてはならぬ。
若い方が早くから堕落なさっては真に困るのである。
■■宮もああした書生的なところのある方であるから、芸者に子を産ませてその処置につき誤りなきようになさり得るか。
昔ならそれを方々に押しつけてしまえるであろうが、今はなかなかそうも行かぬ。
事務官にしてよくそこを片づけられるだろうか。
■■宮事務官も近く金銭上の不取締の理由でやめるそうだがどうなるか。
彼が今までそうしたことをアレンジしていたようだが、それがいなくなって結果は良くなるかかえって悪くなるか。
問題は若き皇族にいかにして自覚せしめ道徳的に精進せしめるかである。
なにか青年団とか少年団とかの運動に熱心ならしめることもよい方法である。
従来の軍人オンリー、さわりないようにとの指導方針では余力の始末に困って性的に堕落する。
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内大臣 木戸幸一侯爵 日記

1942年7月10日
東久邇宮稔彦王殿下より、内大臣邸を盛厚王の御邸に云々の話あり。
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<稔彦王の戦後の騒動>

昭和22年3月、戦後収入を絶たれた稔彦は新宿駅西口に古物商の店を持つ。
家宝を売りに出したが慣れぬ皇族商売でいっこうに儲からなかった。
昭和22年11月、稔彦は不渡り手形をふりだして告訴される。
昭和25年には〈ウルトラ・ニュー・コスモポリタン・プシュスム〉(超新国際的仏教)という発想を発表する。
稔彦はこれをもとに〈ひがしくに教〉という新興宗教の教祖となる。
曹洞宗住職の小原竜海が得度式を行ったが、もともと小原は詐欺で逮捕されたこともある怪しげな僧侶だったため、たった2ヶ月で〈ひがしくに教〉違法として終わりを迎える。
昭和27年2月には東久邇家が依頼した人夫十数人が他人の住居を破壊したとして告訴される。
昭和37年には「天皇陛下から御下賜のお許しがあった」と主張して、皇室に属する国有地3万8800平米の土地を要求して国を相手に裁判を起こす。
昭和53年には増田きぬと入籍するが、後に覚えがないとして訴訟、「戸籍ジャック事件」と呼ばれる。

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1983年 増田きぬ
19830243

1987年
19870691

1990年
19900357

1995年
19950450

2000年
20000174



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◆2代 東久邇宮盛厚王 1代稔彦王の子
1917-1969 51歳没


■前妻 照宮成子内親王 昭和天皇の娘・死別
1925-1961 35歳没


■後妻 寺尾佳子    歯科医寺尾幸吉の娘/1代稔彦王の生母寺尾宇多子の親族 
1927年生


●前妻の子 東久邇宮信彦王  3代当主
●前妻の子 東久邇宮秀彦王  壬生基博となる
●前妻の子 東久邇宮真彦王   
●前妻の子 東久邇宮文子女王 大村和敏と離婚・高木代々吉と再婚
●前妻の子 東久邇宮優子女王 東作興と結婚

●後妻の子 東久邇厚彦    寺尾厚彦となる
●後妻の子 東久邇盛彦


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内大臣 木戸幸一侯爵 日記

1937年3月11日
広幡太夫より、照宮様と東久邇宮盛厚王との御縁談につき、皇太后陛下〔貞明皇后〕に言上の結果を聴く。
すぐに宮内大臣・宮内次官とも協議の上、東久邇宮邸に伺候、東久邇宮妃殿下に拝謁し、上記の件につき、両陛下におかせられては右の成立を御希望あらせらるる旨を申し上げ、御受あいなるよう御勧め申し上ぐ。
なお稔彦王殿下の御意向もあることなれば、名古屋より帰京のうえ御返事すべきむね御話ありたり。

1937年3月23日
御召により東久邇宮邸に伺候、東久邇宮殿下に拝謁。
東久邇宮殿下より、先日言上せし件の御返事を承る。
「過日話のありたる厚盛に照宮を戴くことは、自分ならびに泰宮〔聡子妃殿下〕において異存なく、ありがたく御受申し上る。なお盛厚にも話せしに、『しばらく考えさせてくれ』とのことなりしが、『御受申し上げる。ただ自分はいまだ生徒の身で何もわからないから、将来ああもしてもらいたい、こうもしてもらいたいということがあるかもしれないが、その場合無理でないことは容れてもらいたい」との話であった。右様の次第で、3人とも異存なく喜んで御受するから、どうかその御返事を申し上げてもらいたい」とのことであった。
太夫より両陛下へ奏上、万事好都合に運びたるむね報告を受く。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1949年9月2日
東久邇宮稔彦王訴訟のこと。
〔東久邇宮稔彦王は戦前自分の土地で戦後国有地となった市兵衛町の土地の返還を求めて国を提訴した〕

1949年9月20日
東久邇氏の事件、明日新聞に出るとのこと。

1949年9月26日
高輪〔東久邇稔彦王〕のこと。
昔は木戸・近衛らありしも、今なし。
高輪頑固にて聞かず。
敗訴明白のように思わるが、その暁は困ることとなる。
場合によりては進駐軍から高輪にいることもやかましくなるかもしれず、早く市兵衛町に土地と家屋を求めて得るよう、誰か考えられぬかと思うとのこと。

1949年9月28日
皇太后宮大夫坊城俊良来訪。
宮様方の行動につき御不満の話、大宮様としっくりせぬようなこと、東久邇のこと一度参上のこと。

1949年10月6日
栗田氏夫妻の件、夫人イヤな人と皇后様仰せの旨語らる。

1949年12月12日
東久邇宮盛厚王来室。
六本木地価のこと、投資失敗のこと、株式のこと。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1950年5月14日
東久邇宮訪問、ひがしくに教に関し。

1950年7月5日
東久邇宮稔彦王、訴訟取り下げの情報あり。

1950年7月7日
東久邇宮稔彦王、訴訟取り下げのこと聞く。

1950年7月29日
東久邇盛厚氏来訪、真面目直説法にて反省要望す。

1950年8月5日
秩父宮妃殿下より聞くところによれば、照宮成子内親王パーティにて御不慣れの由、companion 必要。

1950年10月10日
東久邇盛厚氏電話、高輪玉川縁手切金は坊主〔小原龍海〕立て替え、近来坊主と絶縁を考えつつあるらしきも、坊主もさるもの離れぬ様子、小原は不動産もなかなか売らぬとか。

1950年12月9日
照宮成子内親王訪問。
献上のこと御話す、東久邇稔彦王御承知なき様子。

1950年12月21日
入江氏。
東宮様スキー、東久邇夫妻御同行やめていただくこと。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は72万円

1950年10月13日
昭和天皇◆栗田彰常〔東久邇宮稔彦王の子〕さんの夫人〔稲葉直通子爵の娘稲葉典子〕がまた病気だということだが、東久邇宮の叔母様〔東久邇宮聡子妃〕がお困りになるというようなことは何も聞いておらぬか。
田島長官◆2~3日前東久邇宮盛厚王〔東久邇宮稔彦王の子〕から御電話の節、栗田さんの就職の御話はありましたが、御病人の御話は聞きませんでした。
その会社はイギリスの自動車を売る会社で伊藤忠の会社とのことゆえ、基礎はまずあるゆえよろしいかと思います。
昭和天皇◆自動車会社でいいかなー。
田島長官◆1~2度お目にかかりましただけでございますが、どこでも歓迎申すという方とも思えませんぬので、基礎のちゃんとした所ならば良いかと存じます。
東久邇宮家の今一つの問題はブラジルのことで、
〔東久邇宮稔彦王の子俊彦王はブラジル移住を考えていた〕
一部の右翼的団体は総裁にでもして歓迎しましょうが、大部分の人は反対でありますゆえ、お出でになるのは好ましからぬことと思います。
しかし遠くから見守る以外、積極に出ても如何と存じます。
なお稔彦王は玉川の女と手を切られ、その金も小原龍海立て替えの様子で、小原とも以前ほどでない由あれども、小原の方は離さぬらしくあります。

1950年10月23日
昭和天皇「大宮様は東久邇俊彦さんを比較的悪く仰せなきゆえ、女官長から北白川の叔母様〔北白川宮房子妃〕に話し、叔母様から東久邇の叔母様〔東久邇宮聡子妃〕に話し、それから俊彦さん、その上おもう様〔父・稔彦王〕という順が良いと思う」とて、ブラジル移民止めの順序を御話あり。

1950年11月2日
田島長官◆東久邇宮稔彦王 今回本当に小原龍海排斥の御決定にて、御自分で印章取り戻しなどなされしこと。
昭和天皇◆それは結構だ。

1950年11月24日
田島長官◆東久邇宮稔彦王のことは非常に順調にて、小原龍海もどこかへ閑居しましたとか。
300万円ぐらいで話がつくとか。
また稔彦王手形訴訟お受けの様子なるも、小原の刑事訴訟となるかもしれぬとか。
昭和天皇◆それはいいことだ。

1950年12月18日
田島長官◆東久邇宮稔彦王もいろいろなことで宮内省のやり方を怨みひがんでいらしたらしいのが、昨夜はそんな御様子はありませんでした。
昭和天皇◆それは東久邇さんばかりではない。
皇族さんは多少みなそうだ。
その一つの原因は大宮さんが少し御厚遇が過ぎるからだと思う。
大宮様は少し程度の過ぎた場合には御同意もできぬし、また理に合わぬことを仰せの時には議論もせねばならぬ。
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宮内庁長官 田島道治 拝謁記

※当時の総理大臣の年給は96万円

1951年8月31日
東久邇50万円事件のこと。

1951年9月3日
東久邇氏自動車事故のこと。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は96万円

1951年1月24日
昨日外務次官太田一郎より聞きし、東久邇俊彦さん〔東久邇宮稔彦王の子〕ブラジル行きの要領申し上げる。

1951年1月30日
昭和天皇◆東久邇俊彦さんのことを照ちゃんに聞いたのだが、もう養子のことはできてしまっているということだ。
田島長官◆もし御養子縁組済ならば菊栄会は。
昭和天皇◆あれは長子だけだから関係ない。
田島長官◆しからば東久邇氏でない方の新年拝賀などどうかと思われますが、まだ宮内庁の宗親係にも御申出もないようでございます。
出入国管理庁長官鈴木一もそのことを久邇宮稔彦王に申し上げたと聞いております。
昭和天皇◆鈴木は言うことがどうも…。
だいたい東久邇さんでは何でもない小事と簡単に考えておられるのかと思う。

田島長官◆東久邇宮稔彦王は小原龍海はお避けになりましたが、また別に変な者が上がるようになりますのは困りますので、緒方竹虎がそういう人物を一人お雇いになってはと申し上げましたようでございますが、結局給料が出せないからという御話でありました。

1951年2月13日
田島長官◆東久邇宮稔彦王はずいぶん長く小原と御一緒でありましたため、その関連でイヤなことが少しずつまだあるようでございます。
御生活の道が立ちますれば経済顧問新木は御免をこうむると申しておりました。
昭和天皇◆盛厚さん〔東久邇宮盛厚王〕と合わないのかねー。
その時はまた誰か考えてくれ。

1951年2月22日
田島長官◆最近、東久邇宮稔彦王が俊彦さんと大宮御所にお上りになったとのことでございます。

1951年2月23日
昭和天皇◆おたた様は俊彦さんのブラジル行きのことは御存知であった。
しかし養子の話は御存知なく、正月拝賀のなかったのは風邪だと思ってらっしゃったらしい。

1951年3月13日
田島長官◆東久邇宮聡子妃は東久邇俊彦さんのブラジル移住はやはり御満足でもないでございましょう。
昭和天皇◆照ちゃん〔東久邇宮盛厚王の妻照宮成子内親王〕まで賛成で、東久邇さんの御家ではみなさん御賛成のようだよ。

昭和天皇「東久邇の叔母様〔東久邇宮聡子妃〕は俊彦さんを東京で結婚させると言っておいでだそうだ。
3年も経てば一度帰って来て日本で結婚の御意向との話だが、私はこれはいかんと思う。
ブラジルを墳墓の地とされる以上、向こうの人と結婚さるべきと思う。
田島よく注意して東京で御結婚にならぬよう」とかなり強く仰せになる。
御趣旨はわかるも、三年ももっと先のこと、また宮内庁干渉のことでもなく、仰せごもっともと申しかねる。

1951年4月2日
田島長官◆東久邇俊彦さんは非常に御機嫌よろしく、養母多羅間キヌは元東久邇宮邸に奉仕の者ゆえ、「ブラジル行きは私の希望で、兄粟田彰常に行けと言ったが行かず、それで希望した」との御話もあり。
昭和天皇◆照ちゃんから聞いたが、送別会のとき朝香さん〔朝香宮鳩彦王〕は「〔臣籍降下は〕クビを切られたようなものだ」と不平的やっかみ口調だったそうだ。
朝香さんと東久邇さん〔東久邇宮稔彦王〕はことごとに反対であって、公の議論も私の事も本当にいつも違ってた。
同じ年で同じ陸軍で競争的となったためかと思う。
東久邇さんの方はサッパリしてるのに、朝香さんは暗いようで人望の点もあり照ちゃんのこともあり、お羨ましいのか少しどうも。
田島長官◆栗田典子夫人〔粟田彰常の妻稲葉典子〕もあまり好評ばかりではないむね伺いましたが、粟田彰常さんは盛厚王と御同居のように伺いましたが、御同居では照宮成子内親王も大変でございましょう。
昭和天皇◆典子夫人が口中ガンとかで、経済上看護婦という訳にもいかず実家で静養中ゆえ、栗田は家がなく夫人の里に行く訳にもいかず、おもう様の所とお願いしてもお許しなく、それで盛厚さんと一緒ということになったらしい。

1951年4月18日
昭和天皇◆順ちゃんは照ちゃんと同じ方で、孝ちゃんとは違う。

1951年4月21日
田島長官◆大宮様が「東久邇宮稔彦王の所に小原龍海とは反対の側に立っていた者がまた最近出入りしている。それがまた良い人とも限らぬ」という御話がありました。
大宮様はその名前は仰せになりませんでした。
昭和天皇◆照ちゃんの所へ松本というのが出入りしている。
ラスプーチンのような穏田行者〔飯野吉三郎〕のような、科学的に言えば動物電気のよく出る人で、予言をしたり共産党の情報を持ち、共産党嫌いで皇室崇拝の人がいるそうだが、悪い人でもないが穏田的な奴ゆえ照ちゃんなどの所へも来るようだ。
田島長官◆類似のことが久邇宮朝融王の場合にもあり。
坊さんか尼さんかの信者に三谷侍従長の妻の兄長尾新輔とか伽藍とかいうのがいると聞きましたが、宮様方がこういう人たちに騙されるのは一番困ります。

1951年5月23日
田島長官◆東久邇宮稔彦王の件、稔彦王も驚いておられるぐらいで、全然無関係とのことでございます。
ラジオにも出ました飯田という人物が小原絶縁の時は大いに働いた由で、それ以来出入りして他人には私設秘書のようにふるまうとかで、稔彦王は無関係とのことでございます。

1951年7月9日
田島長官◆東久邇宮稔彦王関係の飯田の問題に関して、例の詐欺事件に関連して稔彦王と飯田を訴えるとかありましたが、もとより無関係のことゆえ大したことにはならぬと存じます。

1951年9月10日
東久邇宮盛厚王の自動車事故のだいたいを申し上げる。

1951年10月5日
田島長官◆東久邇宮盛厚王の交通事故は至極円満に片づきましたとのことでありました。
警察の好意と存じております。

1951年10月12日
田島長官◆栗田さんの離婚の問題は既に御存知かと存じますが。
昭和天皇◆照ちゃんから聞いてる。
田島長官◆栗田典子夫人につき、あまりいい評判のないことを承りましたようでございますが。
昭和天皇◆そうだ。

1951年11月21日
田島長官◆東久邇宮稔彦王、高輪御邸を払下御希望の話あり。
稔彦王が訴訟に出られし事に対する遺憾、悪いお取り巻きに知られぬよう時々の会食の意味、窓口を一つにして緒方竹虎と久邇宮再興のような意味で払下をできれば、宮内庁としては皇室財産の外しっぱなしは困る。

田島長官◆栗田彰常さん〔東久邇宮彰常王〕が稲葉氏から来てる夫人〔稲葉典子〕といよいよ離婚のことに決定しました。
先方本人および親からしきりに気性の合わぬこと・将来性のないことを理由に、こちらでは病気のこと御承知で終生このままという話がどうしても承知してもらえぬということ。
昭和天皇◆ブラジルへ渡航された東久邇俊彦さんの夫人を日本で探してるという話だが、私はこれはどうかと思う。
せっかくあちらで新しく生活をなさるゆえ、あちらの人から配偶者を求められたらいいと思う。
田島長官◆それはいい人があれば結構ですが、移民では適当な人がないのではありますまいか。
昭和天皇◆侍従武官をしてた海軍中将中村俊久の娘をとの話があるそうだが、朝融さん〔久邇宮朝融王〕が不服を言われるとのことで、どういう意味か訳がわからぬ。
田島長官◆中村は侍従武官のあと久邇宮家のお世話をしていたことがあるように存じます。
昭和天皇◆朝融さんが中村の家庭に御出入あって、その娘のことまで良いとか悪いとか言われるのではないか。

1951年12月13日
田島長官◆六本木の宮内庁官舎に宮家職員の居住者の立ち退き問題で、東久邇宮稔彦王が田島に談判すると仰せになってるとの話を聞きましたゆえ、「高輪御邸を会社譲り受け希望のこと、土地交換のこと、稔彦王含む現住者満足する住居案あることなどお返事しおる」むね申し上しところ、弁護士として大原龍海事件を引き受け中の元東京都知事松村光磨から「御礼の少なきこと、稔彦王高輪縁故払い下げ先着順なることなど」の申出ありましたこと、緒方竹虎は自由党に参りますゆえ松村なども連絡を取り、稔彦王に間違いないよう致したいと存じております。
市兵衛町の縁故払い下げで400万円できましたゆえ、高輪も快適な御住所以上にお儲けになりたいのかと思います。
隠れたお子さんもなかなか難しいようであります。

1951年12月17日
昭和天皇◆東久邇宮稔彦王御機嫌でいろいろなことを話された。
田島長官◆御殿費を他に御利用のうえ市兵衛町に無償で御住居になりました点は違いまするが、朝香宮鳩彦王との公平上からは地面がおありにならぬのはお気の毒ゆえ、訴訟などなさらずに仰せになれば市兵衛町の土地でも御同情できますのに、訴訟などなさるゆえ問題にならなくなります。
高輪の縁故払い下げのことも、この観点から無下でもなく考えたほうがよろしいと考えております。

1951年12月20日
昭和天皇◆東久邇さん〔東久邇宮稔彦王〕は良いお方で、万事に非常に同情をお持ちになるゆえ、逆に引っかかられる結果になるのではないかしら。
御思想は平民的か知らぬが、御行動はずいぶん貴族的だからねー。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1952年1月18日
照宮成子内親王自動車事故のこと。

1952年3月12日
侍従入江相政に東久邇盛厚王および照宮成子内親王のこと話す。

1952年3月22日
久邇宮朝融王・東久邇盛厚王行状のこと、陛下御心配のこと。

1952年7月20日
緒方竹虎に東久邇宮盛厚王のこと話す。
当分握りつぶしてくれとのこと。

1952年8月8日
次長に来てもらい、東久邇宮稔彦王とトラブルのこと聞く。

1952年10月12日
秩父宮「大勲位論、東久邇宮盛厚王に勲一等等云々の論は不愉快」との仰せ。
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田島道治 日記 宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は132万円

1952年2月5日
田島長官◆緒方竹虎が忙しくなり〔元日本専売公社総裁〕入間野武雄を東久邇家に頼むことになりその顔合わせを致しましたが、その席で緒方が「東久邇家経済顧問新木栄吉〔元日本銀行総裁〕と盛厚さん〔東久邇宮盛厚王〕とのことを東久邇宮稔彦王に申し上げよ」と申しましたゆえ、盛厚王について忌憚なきことを申し上げましたところ、稔彦王が「私が何か言おうか」とのことでありましたが、今日はそれには及びませぬむね申し上げました。
稔彦王は訴訟をなさったりなすったので宮内庁内にもあまり同情者なく、高輪邸の縁故払下には不同意のような人もありますが、高輪の換地として病院の適地とか常陸宮御殿の候補地とか良き交換となりますことにしても差し支えないので、それから先は大蔵省との話し合いの問題で宮内庁直接に無関係かと存じます。
元皇族中お家の無い方は御一方だけゆえ御安定の方が願わしいと存じております。

1952年2月20日
昭和天皇◆盛厚さん〔東久邇宮盛厚王〕がミシンで何か作ると50~60万円も儲かるというのでやっておいでだが、うまく行くといいが。
田島長官◆盛厚王は久邇宮朝融王と違って積極的で自信がありすぎて困ります。
日銀へ入ってすぐ経済問題を論じて日銀で問題になったり、ヌートリアを飼ってみたり、どうも慎重が。
昭和天皇◆あれが陸軍の教育だよ。
勝つか負けるかで独断専行、直ちに処置とか臨機の行動とか言うので、これは陸軍のやり方だよ。

1952年2月29日
昭和天皇◆東久邇さん〔東久邇宮稔彦王〕のことだがねー。
価格や坪数など違っても交換していいと思うのだが。
田島長官◆それは仰せのとおりですが、それは当方から申す事ではなく先方から申出てくるべき問題であります。
入間野が緒方に頼まれまして国有財産局に当っておりますゆえ、必ず先方から申して参りますと存じます。
宮内庁内にも外にも稔彦王が市兵衛町の上にまた縁故払下をご希望になりますのは欲が深すぎるという反対の声もあり、訴訟をされたりして御評判の良くない点もありますから、こちらからはっきり申し出るのはちょっと過ぎると存じます。

1952年3月12日
田島長官「〔元日本銀行総裁〕新木栄吉が参りまして、「東久邇家経済顧問のお役はとうてい務まらぬゆえ御免被りたい」とのことで事情を聞きましたがもっともであり、田島としてもこれ以上引き止められませぬゆえとて、新木の反対を押し切り御議論の上お用いなく、島田とかからミシンをば10万円お買いになり内職をおやりになるということで、陛下のいつかお話のありました問題でございます。
宮様内親王様としてはこの種の仕事をなさらぬの方が良いと存じますが、そのうえ御利益にならぬ懸念があります。
この仕事は特に良くないと存じます。
御成功を祈りますが、このお仕事で御成功になりましてもあまり褒めた事とは存じません。
田島としては顧問推薦せしも結局ダメとなりました以上、式部官長松平康昌にご相談になりましたこともありますので、今回も必ず松平へおいでかとお察しいたします」
照宮様〔照宮成子内親王〕も盛厚王同様のお考えのこと、日銀でも盛厚王の評判あまりよろしくなきことも申し上ぐ。

1952年3月14日
田島長官◆東久邇宮盛厚王に上りまして、新木の辞職やむを得ぬこと・田島は荒木と同説のこと、入るを斗って出るを制すること・臣籍降下金の国民の血税たる意味のことなどを申し上げ、比較的素直にお聞きになりましたが、洋服新調費などどうしても儲けたいこと・犬を飼って失敗したこと〔犬への投資〕・東久邇宮母堂の眷顧の人の奉仕あり損なきこと・3人お雇いのことなどお話あり、3人も雇えば税金も出ることなど申し上げました。
昭和天皇◆儲けたい儲けたいという考えがどうかと思う。
照ちゃん〔照宮成子内親王〕も田島の話を聞いてたか。
田島長官◆照宮様はおいでになりませんでした。
昭和天皇◆照ちゃんもいれば良かった。
とにかく営業みたようになるは悪い。
田島長官◆皇族方は社会と没交渉ゆえ、一知半解の御利口で日銀のことなどいろいろ批評されても、ご身分に敬意を表して相槌を打つのを賛同感心とお取りになれば、よほど馬鹿ということになる。
どうも盛厚王は御利口のおつもりでございますが。

1952年3月19日
田島長官「東久邇宮盛厚王が照宮様御同道で新木をお訪ね下さいまして、新木が改めて繰り返して申しましたところ、とても静かにお聞きになってお帰りになりましたとのことでありました。
昭和天皇「趣味ですることなれば実は儲けることでもいいという立場で、趣味でなく儲けたいというような事はどうも」と、従来照宮様をお利口とのみ御言いになっていた陛下としては、多少御観察をお変えになり御懸念の御様子に拝す。

1952年3月27日
田島長官◆先日入間野から東久邇宮家の中間報告がありました。
入間野は退官いたしましても次官を平気で呼びつけますので、大蔵次官舟山正吉を呼んで話してみたそうですが、盛厚王が六本木を譲り受けており、また市兵衛町を東久邇教の片付け以降若干を譲り受けになりましたゆえ、第3回目ということは事務当局はちょっと困るとのことでありましたそうです。
高輪邸の1万坪の地面はないという話でありましたから、先だって陛下からもご注意もありました坪数・価格は必ずしも一致せずとも、それが二つでも三つでも交換物件が皇室用財産として適当なるもの例えば常陸宮様御一家御創立の時の官邸とかなんとか皇室用財産適当のものならば結構といい機会と存じ申しました。
第二の適当な交換物件がありますれば、交換後高輪を払い下げ受けられるのは宮内庁とは無関係で、大蔵省と東久邇家とのことであります。

1952年6月25日
田島長官◆ブラジルに長く住みます宮坂国人とという人物、外務次官等に聞きまして相当の人物と存じましたので会ってみましたが、勝ち組負け組の融和しておらぬ事はひどいと存じました。
多羅間俊彦さん〔東久邇宮俊彦王〕のことも可もなく不可もなくという言い方のように思いました。
ご結婚は勝ち組からもらわれれば負け組は承知せず、また負け組からなれば勝ち組が承知せずという有様で、内地からお迎えより致し方ないのかと存じます。
昭和天皇◆移民の方が良ければそれがいいねー。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1953年12月17日
日銀副総裁に会う。
東久邇宮盛厚王は日銀より他へ紹介できず。
日銀はいつまでも給与すとのこと。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は132万円

1953年3月5日
田島長官◆今日農場経営者松原安太郎というブラジル移民の成功者に奉拝させていただきましたが、あちらのことを詳細を聞きましてございます。
松原から初めて聞きましたことは例の勝ち組・負け組の話は、ドイツが降参の時は3日間お祝いの休日がありましたにかかわらず、日本の時にはそれがありませなんだために負けたのではないという組ができ、理解している者は日本の敗北を日本の滅亡のように考え皇室関係に不敬な事をいたしましたために(御真影を踏みにじったということは申し上げず)負け組の憤慨となり、ついに30何人を殺した事件となりましたが、ブラジル官憲には従順でありましたし、感情問題でありましたが今ではほぐれて参りました。
まだ全然なくなったとは申すされませぬとのことでありました。
それから先の革命で15年間政権をとりましたヴァルガス大統領が辞めました時は実にきれいで、金などは一つも儲けず田舎へ引っ越しました進退が立派でありましたため、上院議員選挙に当選いたしまた大統領となりました。
無欲な立派な人と松原は申しておりました。
松原は大正7年に移民として参りましたが、今はコーヒー園のほか牧畜をいたし、2千頭の牛・250頭の馬と金持ちになっておりまするようでありますが、その選挙のとき松原がヴァルガスを訪問して多少の援助をしたのが元で非常に親しいらしく申します。
今回の4千家族移民入国の件も、ヴァルガス大統領と松原との懇意のためとのことであります。
学歴は小学校だけであり労働いたした人で指など太いようでありますが、人物のも良く有能の人らしくありまする。
数日前ブラジル大使の晩餐に招かれました節、ブラジル大使も松原を大いに褒めておりました。
最初の渡航者は16万人ぐらいでありましたが、今は二世・三世で42万人おります由。
州会議員が1人・市会議員が85人で、二世らの大学生が200人と申しておりました。
多羅間俊彦さん〔東久邇宮俊彦王〕の実情を聞きましたところ、養家は松原に比しますれば大したものではありますまいが、コーヒー園があって安定しておりますそうで、ただ俊彦さんは労働はされませぬらしく、酒をよく飲まれるとのことでありました。
また結婚の問題のことも聞きましたが、西洋人をもらいたい御希望のようだとの話でありましたゆえ、「それはいいではありませぬか」と申しましたところ、
「地位のある西洋人ならよろしゅうございますが」とのことで、あまり良くない人で希望してる人があるのではないかと想像しました次第であります。
昭和天皇◆日本人中にいい人がないものかねー。

1953年5月22日
田島長官◆老人達の会合へ参りましたが、元司法大臣岩田宙造より「東久邇宮稔彦王に頼まれた人から宮内庁に対し2,700万円の取らぬ金があるとの話を聞いてくれと言われた」という話ゆえ、「その話をした人は小原龍海ではありませぬか」と聞きましたところ、「そうではない」と申しましたが氏名は明かしませなんだ。
「聞いてはみるが、そんなものの心当たりはないでしょうね」との話でありましたゆえ、秘書課長高尾亮一に聞きましたが、総額が4,700万円で東久邇さんには差し上げ済であり、妃殿下の名で受けて再分配した形のため贈与税がかかり、その計算も先年50万円ばかりお払いしましたとのことでありました。
ちょっと予想できぬようなことを仰せになりますので理解致しかねますが、稔彦王は少しお変りになってる方なのでありましょうか。
首相までなさった方ですが。
昭和天皇◆いや、あの宮さんはあの時はあの方でなければ絶対に軍部を押えられぬのでなられたので、陸軍大臣荒木貞夫などが何か騒ぎかけたのをちゃんと押えておしまいになって、あの時は一番いい方であったのだが、何かおやりになりひとつ変わればサッとおやめになるという気性だ。
田島長官◆その点は小原龍海に担がれて訴訟を起こされ、またサッとお取り下げになりましたゆえ、それはそうかと存じまする。
市兵衛町問題といい今回の話といい、何か経済上の問題のように存じられます。
お家がありませんし、なにかとお考えになるのではないかと存じます。
御年輩の方は昔の皇族のように臣下の関白殿下より下位にあられた時と違い、明治の最もお盛んでありました時に人となられたのでありますゆえ、臣籍降下のうえ経済上もいまだかつてない事情の下に置かれていろいろな問題があるのかと存じられます。
一時的賜金ではまた消えまするゆえ、何か年金的なものを政府で考える余裕はないものかと思いまする次第で、次の世代の方はあまり皇族の御身をお味わいにならぬことはさほどではありますまいから、旧皇族のこの年代の方にだけ何かいい道はないかと考えられます。

1953年6月18日
田島長官◆今夜東久邇さん〔東久邇宮稔彦王〕来るのだが、先だっての話はそれきりか。
別に聞いておくことはないか。
田島長官◆2,700万円宮内庁から取るものがあるという岩田宙造氏の話でありましたが、全部で4,700万円、親王方は軍人のため取れず、女の方・子供さん等でお取りになり、軍人の親王さんたちに贈与したこととなっており、その税金等の引き当てに50万円、宮内庁で保持しておりましたのも精算しましたわけで、これは問題ないと存じております。
しかし稔彦王はお家がありませんために何かお焦りのようであります。
品川のあの邸は宮内庁の総合計画上必ずしも適当でなし、適当なる土地の相当のものを交換することはよろしいと、欲しております人に申しておりますゆえ、先年稔彦王にも申し上げ、そんな話の時は住居人のことは考えてくれと仰せになって、親しい京浜電車側の人にも申してありましたのを、後には進んでご自分で払い下げを得たいとのお話でありました。
よほどいろいろ考慮致しませぬといけませぬので、それはそのままになっているらしいのであります。
そんな関係以外別にありませぬ。

心中直系皇族だけ重んぜられることはどうかとの念あるゆえ、
田島長官「今夜東久邇宮聡子妃お上りでありますが、最近御病気を遊ばしましたことゆえ、何かお見舞い遊ばすならば結構と存じます」
昭和天皇「時期が大切」

1953年6月19日
昭和天皇◆叔母様方〔北白川宮房子妃と東久邇宮聡子妃〕に何かあげたらということは良宮とも相談したが、それがはあげたほうがよかろうとのことだから、盆に照ちゃん〔照宮成子内親王〕・孝ちゃん〔孝宮和子内親王〕・順ちゃん〔順宮厚子内親王〕と久邇のおたた様〔香淳皇后の母久邇宮俔子妃〕に差し上げるように1万円だか言ってるが、あれより多いのはどうかと思う。
二親等だからね。
田島長官◆昨日申し上げましたのはそういう定期的なことでなく、ご病気でおありになりましたことからの考えでございますが。
昭和天皇◆それは貴重な薬を差し上げたから、それだけお金が要らなかったわけだから、ご病気のために費用といえばダブる。
田島長官◆田島はお薬を差し上げられましたことを一向に存じませず申し上げましたが、そういうことでございますれば、この際をおやめで結構と存じます。
田島は平素考えておりますることは、皇室では我々平民とは違って叔父叔母とか御兄弟とかは比較的お遠いようでありますが、平民社会のように、直系皇族のみでなく傍系にも親しく遊ばしていただく方がよろしいのではないかと思っております。
臣籍降下の14皇族の多くは親等から申せば非常に遠く、陛下の御兄弟はお二人だけ、〔高松宮と三笠宮〕叔母様もお二人だけという今日ゆえ、もっと親しく願ってよろしいのではないかと存じております。
昨晩のように東久邇宮聡子妃は内親王の姑さんという御関係で、鷹司〔孝宮和子内親王の嫁ぎ先〕・池田〔順宮厚子内親王の嫁ぎ先〕と御一緒に召されますが、北白川宮房子妃はそういう御関係でないのでそういう機会がありませんでしたのを、先だって何かの御関係で御陪食になり、非常にありがたく御思召でおいでと承りました。
さようなわけで田島は、直系のみでなく数少ない傍系の方も機会あればなるべくお親しく願う方よろしいのではないかとの考えから昨日申し上げました。

田島長官◆昨夜は東久邇宮稔彦王は2,700万のことは何も仰せはございませんでしたでしょうか。
昭和天皇◆何もお話はなかった。
御機嫌よくそのためかも知らんが、外交や何かのことをいろいろ私の考えをお聞きになったりしたが、御給仕が女官ならともかく主膳が出ているところであれはどうかと思う。
首相までなすった方としては少しお考えが足りぬのではないかと思う。
田島長官◆あの宮様は直情径行でいらっしゃいますから
昭和天皇◆その直情径行がまた軍に人望がおありになったのだろう。
軍はとかくああいうのが好きだ。
田島長官◆先だって提訴なさいましたことを非を悟られたら、あれは悪かったとはっきり仰せになります。
昭和天皇◆鳩彦王〔朝香宮鳩彦王〕は反対であるものだから、陸軍では評判が良くない。
これが海軍・陸軍と違っておればいいが、同じ陸軍でしかも同じ大将ゆえ、終始この両者の間は良くなかった。

1953年6月22日
昭和天皇「この間 田島が叔母様にお見舞いを差し上げたらと言った時に、田島に言うのもどうかと思ってちょっとごまかしたのだが、実は私はご病気の時にお見舞いのお金をあげるのはイヤなのだ。北白川さん〔北白川宮房子妃〕は西式〔健康法〕の信者で、徳川の多恵子〔房子妃の娘北白川宮多恵子女王・徳川圀禎に嫁ぐが34歳で病死〕のことでちょっと言ったが、まだひどいのは竹田の叔母様〔竹田宮昌子妃〕は肺炎であったのを西式一方で、西洋流の医者が拝診した時はもうダメだった。ラジオで御容態を言った時も西式のことは言わずうまくいったが、実はそうなんだ。それだから北白川さんの叔母さんのご病気にお見舞いのお金を出せば、私はそういう非科学的なことを奨励した結果になる。少し言い過ぎだが、殺人幇助罪ということにもなる」
少し理屈が偏して何ともお返事できず。

1953年10月14日
田島長官◆東久邇宮稔彦王ご病気のことにつきまして、田島は順天堂病院にお見舞いいたしました次第で、急を要しませぬがよく研究いたしたいと存じます。
昭和天皇◆急がぬがとくと研究してくれ。
昔はずいぶんいろいろのことも【ありした】けれども、終戦の時の首相はあの方でなくてはならぬのであったので、国家に功績はあると言わねばならぬし。
田島長官◆東久邇稔彦王は明治天皇の内親王様の婿様でありまするし、また重ねて照宮様の舅さんにお当りのことゆえ、事情を調べまして研究のうえ考えたいと存じます。
吉田は外務大臣として東久邇内閣に列しておりました関係もあり、いずれ研究の上。

1953年11月4日
田島長官◆東久邇宮稔彦王は御全快はないことでありますが、前回の盲腸などの時の経費とか今回の順天堂病院とか医者の礼とか調べましても聞く人によって違いまして、元宮家の会計などちょっとわかりかねます。
昭和天皇◆盛厚さん自身から聞いたが、おもう様の分は盛厚さんが管理してると言っておいでだった。
田島長官◆いえ、市兵衛町の地面〔稔彦王所有の土地〕が売れました際に盛厚王がその代金を管理されたということは伺いましたが、万事盛厚王が会計御管理とは存じられませぬ。
昭和天皇◆私は盛厚さん自身から聞いたのだが
田島長官◆承りますれば稔彦王と東久邇宮聡子妃も別の会計と伺いまするし、その辺なかなか難しいようで。
昭和天皇◆照ちゃんの話では稔彦さんと泰宮さん〔聡子妃〕とは一つ所に寝もなさらず、その点泰宮さんの方もどうかと思うが、先の女は切れたのにまた最近新たに女ができたと照ちゃんは言ってた。
照ちゃんは私はおたた様に申し上げるが、盛厚さんはできんなどと言ってた。
どうもお二人の間もなかなか難しいようだ。

1953年11月25日
田島長官◆東久邇宮盛厚王にお会いいたしましたらば、稔彦王の御退院のことを承りました。
入院費は病院へ1800〔単位不明〕その他の費用も要りますゆえ、なかなかかかりますると存じまする。
金額の点は今少し相談の上申し上げまするが、これは稔彦王へお直きにお上げ願いましたならばと存じております。
秩父宮様の手術料の時のように、御手許上げといたしまして賜りましたらばよろしいかと存じます。盛厚王のお話の節「責任が自分の方へ全部かかってくる」というお話がありましたゆえ、照宮成子内親王もおいででありましたが、「それは結構ではありませんか、親孝行ができまして結構と存じます、たくさん御孝行願います」と申し上げました。
またああいうお育ちでは「日本銀行5年の生活であるが、この上してても」というようなお話で、もう少し大所高所よりというような意味で外務省云々とのお話がありましたが、それは「やはり外務省の事務ならば同じでありますゆえ、世界の大勢にお通じの意味ならば、あそこで出します宣伝用の印刷物がありますから、あれをおもらいになれば」と申し上げまして、それは「そうして欲しい」とのことでありました。
また「日本銀行もそういうお考えならばサラリーマンはお辞めになりまして、一流会社は無理でありますが基礎のある二流ぐらいの会社の重役になられて、一週に一度とか一カ月に一度とか勤務される所へ出られたらばとも思います」と申し上げ、「照宮様ともよろしく御相談の上」と申し上げておきました。
その結果のお話があればどこかへ頼もうかと存じております。
昭和天皇◆こちらからそうそう生活のことに出すということはできぬから、サラリーマンを辞めて月給が無くなっては困る。
田島長官◆毎日お勤めになりませぬでも、重役として同じぐらいの収入はある所へと存じております。
昭和天皇◆あ、そうか。
田島長官◆東久邇家相談役新木栄吉〔元日銀総裁〕が不賛成で田島も同意見でありますビニールの何とかいうお仕事は、当時新木らの心配も杞憂でどうにかうまくいっているらしいお話でありました。
ただ田島の所の敷居が高くてちょっと行きかねているのは、他のある仕事に去年投資なすったのがすっかりダメになったとのお話でありまいした。
どれぐらいの程度のことか分かりませんが、御失敗のようでありました。

1953年11月30日
昭和天皇◆盛厚さん〔東久邇宮盛厚王〕が損をしたという話はどれぐらいか。
経済上に響くようでは困るだろうが。
田島長官◆日本銀行のサラリーマンを辞めて同額くらいとれる重役におなりになるご希望かどうか、照宮様とよくご相談のうえ御腹が決まりましたら田島のところへおいでくださいまし、どこかへお話しいたしてみましょうと申し上げてありますから、おいでになりました節に金額を伺ってみようと存じております。
昭和天皇◆重役ということになれば、洋行くらいはできるようになるか。
田島長官◆それは難しいと存じます。
長年ご貯蓄になりましてもちょっと難しいかと存じます。
しかし会社によっては業務上お出かけできるような所があるかもしれません。
昭和天皇◆もしその去年の損というのが大きかったら何とかしてやらなければ。
田島長官◆田島はそういうことはいけませんと存じます。
人の尻拭いということを申しますが、何か下手なことをなさって両陛下の方でお尻拭いをしていただけるとなりましては、盛厚王のおためにになりません。
どうしても愈窮された場合は別でありますが、ああいう若い方が依頼心をお持ちになるようなことはいけませんと存じます。

1953年12月3日
田島長官◆東久邇宮盛厚王の先だっての額は意外に大きゅうございました。
人造石油事業に500万円を投ぜられ、インチキでありまして150万円は回収されたそうですが、あとの350万円は焦げつきのようであります。
先だってのお話に敷居が高くて田島の所へ行きにくいとのことで、まあ100万円くらいかと思っていましたが500万円で驚きました。
日銀のサラリーマンを辞めて他の会社の重役ということも右から左というわけにはまいりませんので、日銀では3万円もらっておいででうち1万円は特別なものでありますが、3万円の月給を5分利で換算しますれば720万円の財産を持っていることでありますことも申し上げました。
例の内職の方は案外よろしく、2~3人の人を使って夏分は6万円・冬分は1万円とかの収入で、これは成績よろしいのでありますが、今までは税金に一切出してないので不安があるのみならず、1~2年後まで果たしてこの通りかは危ぶんでおられる口ぶりでありました。
東久邇家相談役新木栄吉〔元日銀総裁〕が反対しましたのは内親王様たりし方の御内々の仕事として似つかわしくないことでありますが、入るを計って出ずるを制するという御精神がないから起きますことで、出るだけのものはやむを得ないとして、その額だけの収入を図りたいお気持ちがありますゆえ、今回のような間違いが起きるのであります。
「新木をお出しになりますから」〔経済顧問新木を解任したこと〕と申しましたところ、
「先方が出た」とのお話で、
「結局新木が出るような宮様の行動があったためだ」と申しましたところ、
「新木は固すぎて話しにくい」というようなお話。
少し話しにくいような人の意見を聞かれることが必要で、ちょいちょいご機嫌伺いに出るような人で心安くお感じになるような人は相談相手にはならぬ人が多く、そういう人でしっかりした人はあるかもしれませんが無理でございます。
大名の家にはまだまだいい人があります。
昭和天皇◆そうだ。
従来事務官として宮家についた者は属官上がりのような大した人でないのがついてたしするから、いい人は従来の関係ではないだろう。
入るを計って出るを制するという根本のお考えがないからいけないのだ。
田島長官◆盛厚王は他に犬に共同で50万円ばかり投資のことも聞きましたが。
昭和天皇◆御経済の方は御困りになるのではないだろうか
田島長官◆これは盛厚王のお考えのおよろしくないために起きましたことで、陛下が照宮様等のお話でご慈愛のお手をおのべになりますことは、かえって盛厚王のおためになりませぬゆえ、この度の御失敗はご自分である程度までお受けにならなければダメだと存じます。

1953年12月7日
昭和天皇◆盛厚さんのことは?
田島長官◆重役の口とてそうそうすぐとも参りませぬが、日銀では考えてくれてると存じます。
重役も結構でありますが、日銀でないとかえってまた悪い結果がないとも申されませんし、毎日のお仕事があった方が良いとも存じます。
何にせよ適当なご相談相手のありますことが望ましいのでございますが。
昭和天皇◆御信任になる適当の人があるといいねー。

1953年12月15日
昭和天皇◆盛厚さんのことはどうか?
田島長官◆先日も日銀のサラリーマン生活をお辞めになり、どこかの重役のを形になることを申し上げましたが、時間の間隙ができることは間違いの元となりますゆえこれもいかがかと存じますが、とにかく日銀へはこの希望を申し入れまして、できれば重役になられる会社の社長が宮様に同情を持ち、会社の社長と重役という関係以上に社長が盛厚王の御輔導顧問になるというような人柄の所はないものかと思ったのでありまするので、このことも合せて日銀には申し入れまして、相当の礼を払われないでいいような顧問はダメでありますが、同時に信頼される人でなければやはり実は上がりませぬから、こういうようなちょうどいい会社社長を見つけることはなかなか至難で急には参りませんが、そういう所が見つかりますまでは日銀の方の関係を断つことは絶対にありませぬゆえ、とにかく3万円程度の収入は日銀に確保されておるようなものでありますが、先だっての人造石油の投資失敗の500万円は全財産と申してもよろしく、それの後始末は一応〔西武鉄道〕堤康次郎の紹介で弁護士でやっておいでとのことで、ただいま宮内庁で何か進んで手を打たなければ大変になるということはありません。
しかしこの500万円の焦げつきは大影響がありまして、日銀の収入以外は例のビニールの内職でありまするが、これもいつまで続くかわからずと盛厚王自身も言っておられ、また続けば税務関係の心配もありますので、この際この500万円に懲りられて今後十分お慎みになるよう申し上げました通り、今回は2度目で十分お困りになってご自分の失敗の結果で詰まられてしまうまでは皇室では何も遊ばすべきでなく、どうにもなりませぬ事態が起きました時に何とか手を考える他なく、500万円の焦げつきの後始末がどうなるのかを静観する他ほかないと存じます。
新長官にはこの事情は詳細話してありまするし、宇佐美は何事もよくできまするが財界関係のことだけは田島の方が馴染みが多いかと存じますので、近日田島が宇佐美を日銀当局に紹介しまして田島同様に連絡の取れるようにいたしたいと存じております。
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侍従 小林忍 日記

1984年7月8日
東久邇10方御参内。
東久邇文子さんからお電話あり。
「今日はカメラを持たないようにとの話であるが、1年1回くらいの集まりであるから、両陛下を囲んで記念撮影をしたい。こちらのカメラでなくても侍従職の物で写していただいてもよいし、こちらで写すならフィルムをそちらにお預けしてもよいから」と。
「ご相談いたしますが、こちらではカメラの用意がないので念のためそちらでご用意いただきたい」と申し上げた。
女官候所から北白川女官長にご相談したところ、昨年あまりにくだけすぎた両陛下の御写真が撮られたので、当然外部の人に見られることになってよくないから、カメラはご遠慮願った。
卜部侍従も特に皇后様の正常でないお顔つきのこともありまずいと同様の意見だったので、東久邇文子さんおいでの時に、「皇后様の御写真はおぐしや御服装など御負担が大きいので、できるだけお断りしている。今日も全く御用意していないのでご遠慮願ったらという女官長・事務主管の意見だから」と申し上げた。
「それは残念なこと」とおっしゃっていた。
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東久邇宮彰常王→侯爵粟田彰常

義姉成子はいろいろな動物を飼って内職をしていた。
しかしあがった収益よりかけた支出の方が多かった。
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◆3代 東久邇宮信彦王 2代盛厚王の子
1945年生


■妻  島田吉子    不動産業島田二郎の娘
1943年生


●長男


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昭和天皇の孫・成子内親王&東久邇宮盛厚王の子
長男 東久邇信彦
二男 東久邇秀彦→壬生基博

壬生◆陛下の第一皇女として育った母が、東久邇家に降嫁したのが16歳。学習院を卒業してすぐのことだと思います。その母が子供が4人生まれてもう1人がお腹にいる時に、通信教育で勉強をしていた記憶があります。上の二人の子供と一緒に一生懸命大学の資格を取るための一般教養を勉強しているのですから、今から思えば母は本当に勉強したかったんだろうと思いますね。
東久邇◆相当頑張り屋でしたね。
壬生◆それでなくてもうちの母親はずいぶん苦労したと思います。
東久邇◆今まで世間を知らない人が世間の荒波におっぽり出されているわけですからね。本当に一からね。お金もいじったことがないのに、お金の価値観とかそういうところから始めているわけですから、並大抵の苦労じゃなかったと思います。
壬生◆相当の落差だと想像します。時代が変わって、その中で兄妹5人、私みたいなわんぱくの限りを尽くしている人間を育てながら、なおかつ努力も。私が言うのも変ですけれど、今から思うと母は立派だったと思います。
東久邇◆臣籍降嫁とか敗戦とかあって、今までの立場と全然違うわけですからね。うちの父もそうだったのかもしれませんけれど、母親の方がギャップはもっと大きかったと思います。
壬生◆亡くなった時は35歳でした。私が小学校6年生の時。
東久邇◆ただうちの場合母親が降嫁したということもあって、いろいろなことにこだわらないで済んだというところはあります。「おもうさま」とか「おたたさま」とかいった皇室用語ではなくて、早くからうちはパパ・ママとなっておりました。学校も学習院ではなくて、僕が受けたのは青山と慶応、どっちも家に近いという理由です。うちの父の弟も慶応で、私も最終的には慶応。上の妹は東洋英和。ところが女子だけの学校はというので、下の妹を含め兄妹5人のうち4人までが慶應に行きました。その辺は全く自由選択でした。


壬生◆母が生きている頃は、陛下は毎年母の誕生日に我々の麻布の家に来られました。当時の皇太子様(平成天皇)をはじめとして、母親の御兄妹の皆様がお集りくださいましたね。
壬生◆毎年我々子供は挨拶が済むと裏の方に追いやられておりましたが。前日頃から母親は大変で、私どもも手伝わされたことを記憶しています。
東久邇◆豚御飯というメニューがありまして、中国風の豚の炊き込み御飯に椎茸でとった出汁のスープをかけて、それにいろんな具、椎茸とか玉子とかミカンの刻んだものとか、そういうのを加えて食べるのですが、それがよく出たのを覚えております。海老をパンで包んで串揚げにしたのもありました。うちの母親は割と中華料理も得意でした。
壬生◆娘の誕生日にそうやって内輪の集まりをしているような場合でも、陛下は御帰の時間を延ばされることを非常に気にされていらっしゃいました。普通であれば娘の家に行っているんだから皆で賑やかにやって急いで帰る必要なんてないでしょう。けれども陛下の場合はその間警護の警官がずっと立っているわけですから、あらかじめ時間も決まっています。延長となると5分とか10分とかの単位で陛下はずっと気にされていらして、30分なんてとても難しく、そういう細かいところまで配慮されていらした。
東久邇◆確かに陛下はそういうところを非常に配慮されていらっしゃいました。私は「いろんなところを御覧になったらいかがですか。デパートとか展覧会とか」と申し上げたことがあるのですが、陛下としてはいらっしゃりたいんだけれども、いらっしゃるには警官の人がまず配置される。そういう人たちが気の毒だから、あえてねと。
壬生◆ある意味で葛藤がおありだったのではないかと思います。
東久邇◆そういう風に周りの方に配慮されて、神経が細やかと言うか繊細であられた。陛下御自身は自由なことをなさろうと思っても、御立場を考えられなさらなかった。何かを見たいとか誰かに会いたいと思ってもスケジュールがみんな入っているわけですし、陛下御自身が公人である以上自由な行動が自然と制限された形となってしまいますし、他に及ぼす影響とかバランスを御考になられたと思います。自分が社会に出ていろんなストレスが溜まりますと、陛下はどういう風にしてストレスを解消されてたのかなと考える時があります。一つは御研究に没頭されたことではなかったかと。陛下にとっての御研究はその間は何も考えないで熱中できる時間だったのではないかと思いますね。


壬生◆葉山の御用邸にはプールがあって、陛下(昭和天皇)もそこで泳がれていました。陛下はスポーツの中では水泳が一番お好きだったんじゃないですか。
東久邇◆陛下は水泳は御達者です。日本泳法ですけど。うちの母親(成子内親王)も日本泳法が得意でした。立ち泳ぎして、水の中で扇子に絵を描くとか。
壬生◆抜き手とか〈のし〉とか。私も母から教わりました。
壬生◆葉山では毎日のようにピアノのレッスンなどで御用邸に伺っていましたが、よくお昼御飯に呼んでいただきました。呼んでいただく時はたいてい洋食でした。
東久邇◆たぶん若い者たちはそういうものが特に好きだろうと御考くださったのででしょう。
壬生◆そうですね。まずスープが出て、その後一皿とサラダ。お昼が多かったですからフルコースではないですが、大膳が作るのですからそれなりにきちんとした洋食でした。
東久邇◆我々は御飯にソースをかけて食べるのが好きでした(笑)
壬生◆デミグラスソース(笑)
東久邇◆デミグラスソースをピラフみたいな炒め御飯にかけて食べていました。
壬生◆炒め御飯と言っても油っぽくなくて、炊き込み御飯みたいにできておりました。子供でしたからメインの料理をそっちのけで食べていました。
東久邇◆陛下もそれがお好きでした。
壬生◆陛下も御飯に何かかけるのがお好きみたいでしたね。
東久邇◆もともとみなさま白い御飯よりは混ぜ御飯がお好きで、ピラフ風の混ぜ御飯や炒めた御飯がお好きのようでした。
東久邇◆葉山ではおかわりも自由で、黙っててもおかわりをくださった。御飯でもおかずでも食べ放題でした。
壬生◆自分で取る場合は「自分で食べられる分だけ取りなさい」と。うちの母親はそういうところはうるさかったですね。
東久邇◆そうね。「取ったものは全部食べなさい」と。
壬生◆それは御食事についてだけじゃなくてね、全体の御生活もでもそうでした。陛下(昭和天皇)はちょっとメモを書かれるのもまっさらの紙を使われるんじゃなくて、使い古しの紙の裏を半分ぐらいに切って使われていました。
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