■夫  松平恒雄 宮内大臣 会津藩主松平容保の子
1877-1949 72歳没


■妻   鍋島信子 鍋島直大侯爵の娘・姉は梨本宮伊都子妃
1886-1969 82歳没


左:母鍋島栄子 右:信子
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●長男 松平一郎 次代当主
●二男 松平次郎 早逝

●長女 松平節子 秩父宮勢津子妃
●二女 松平正子 尾張徳川義親侯爵の子徳川義知と結婚


左から 松平恒雄・勢津子・信子・正子
手前  次郎
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左から 信子夫人・一郎・正子・勢津子・松平恒雄
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左から 正子・勢津子
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●松平正子 尾張徳川義親侯爵の子徳川義知と結婚
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徳川久美子 公爵徳川慶久の娘・侯爵松平康昌の子松平康愛と死別・医者井手次郎と再婚

恒雄様もご立派な方でしたが、信子夫人も堂々とされたご立派な御婦人でした。
信子さまは猫が大のお嫌いで、二階から振り投げたことがあると聞きました。
豪快な女性だったのですね。
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侍従 岡部長章 回想記

内大臣の中で毎日宮城に勤めて苦労されたのは、湯浅倉平さんでした。
その前の牧野伸顕さんは月に1度しか出勤しなかったと聞きました。
二二六事件の時なども湯河原の天の屋別館に行っていたのです。
牧野内府はそういう状態でしたから、二二六事件の時には宮内大臣の湯浅さんが詰め切りで、牧野内府に代わって陛下のご相談相手になっていたのです。
私が任官した時にも「牧野さんはめったに出てこないんだから、あれではどうにもならない」という話をよく聞きました。
湯浅さんが内大臣になり、松平恒雄駐米大使が新しく宮内大臣に親任された時が、一番宮内省が充実していた時代だという声もありました。
その湯浅さんがが病気で退官して、人がいないものだから近衛首相が近衛内閣の国務大臣木戸幸一を擁して内大臣にしたのです。
木戸内府は毎日出てきてはいましたが、日常的に接している私たち侍従の目からは湯浅内府とはずいぶん違って見え、沢本砲兵大佐などは小柄な木戸さんの目が鋭く知恵者らしい風貌から、「猛禽類」だと評したことがありました。
この「猛禽類」というのは陸軍では評判の良い人物につけるあだ名とされています。
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『木戸幸一日記』内大臣

1940年10月9日
中山侯爵来訪。
賀陽宮殿下の御意を体し、松平恒雄宮相の進退につき話あり。
一応承り置くこととす。

1940年10月15日
賀陽宮邸に伺候、賀陽宮殿下に拝謁。
中山侯爵を通じお話ありたる松平恒雄宮相の進退につき、
●松平宮相が政治外交に関与するがごとく宣伝せらるるは全く事実にあらざること、
●今日宮内大臣の進退は我国が目下外交転換に際し諸般の準備不十分なる点に鑑み、英米を刺激する行動は相当慎重を要すること
●皇族方がこの種のデマにお迷いになり策動せらるるがごときことありては容易ならざる旨
を言上、御嘉納を得たり。

1940年10月24日
お召により竹田宮邸に伺候、竹田宮殿下に拝謁す。
以下の諸件につきご意見を賜る。
いずれも重大なる事項なれば、研究すべきむね言上す。
●重大なる時局に鑑み、側近の整備強化・松平恒雄宮相の進退
●聖上のご相談お相手としての侍補のごとき制度の必要
●侍従人選についての考慮
●内親王御降嫁に対する方針の確立
●皇族養子禁止制度の再検討

1940年10月25日
お召により閑院宮邸に伺候、閑院宮殿下に拝謁。
以下の点につきご意見を賜る。
●聖上の御健康上御運動の励行の要あるべし。
●松平恒雄宮相の進退、皇族方の御内意を承る。
●聖上と皇族方とのお親みを深くするため、一段の工夫をなす要あるべし
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1950年1月10日
田島長官◆宮中炎上の際 戦災にもかかわらず、宮内大臣松平恒雄辞任の例もあり。
昭和天皇◆松平の場合は表面は炎上になっているが、裏が少しある。
私と意見の違ったこともあったが、だいたい長いせいか宮内省内の空気が事が進まぬので困ってたらしいので、内大臣木戸幸一が宮内次官白根松介の意見を聞いたところ、「辞めていただく方が宮内省のためによい」とのことでああなったのだ。
なお田島は戦災と言うと空襲のことを思ってるかも知れぬが、空襲警報の終わった後で御堀を越しての参謀本部跡の測量部からの飛び火である。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1951年12月17日
昭和天皇◆宮内大臣や宮内庁長官はよく変わることはいかぬ。〔元宮内大臣〕松平恒雄は8年ぐらいやってた。
田島長官◆松平恒雄はあまりに長く、近衛文麿らはこれを変えたく、〔元文部大臣〕前田多門に内交渉しまして、田島は前田から相談を受けお受けするよう勧めましたが、これは実現を見ませんでした。
後で〔元大蔵大臣〕池田成彬に聞けば、原田熊雄が近衛なども大いにこの事を言ってたとのことでありました。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1952年3月25日
昭和天皇◆松平信子だがねー、良い点もたくさんあるがいかぬ点もあるので、それは誰か若い人でその欠点を補う人を付けたらいいのではないかと思う。
信子をどうかと思った一例は、おたた様に宮中服のことをよく伝達してくれなかったことだ。
これは〔元宮内大臣〕松平恒雄と〔恒雄の妻〕信子の連絡が悪かったためかもしれん。
また信子が私の気持がわかってても、おたた様への申し上げようがいけなかったのかどちらか知らぬが。
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■夫  松平一郎 先代松平恒雄の子
1907-1922 85歳没


■妻  徳川豊子 徳川家正公爵の娘
1913年生


後列立つ左から 正子の夫徳川義知 一郎 次郎
前列椅子左から 正子 信子夫人 秩父宮勢津子妃 恒雄 一郎夫人豊子
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●長男 松平恒忠
●二男 松平恒孝 本家徳川家当主 徳川恒孝となる 寺島宗従伯爵の娘寺島幸子と結婚
●三男 松平恒和