◆初代伯爵 吉井友実 官僚
1828-1891 63歳没

1879年 53歳
0053b





●男子 吉井幸蔵  2代当主
●男子 吉井友武  子爵高島友武となる
●男子 吉井謙治郎
●男子 吉井仲助  広瀬真徴の娘広瀬マサと結婚
●男子 吉井英介  有馬英介となる

●女子 吉井沢子  公爵大山巌と結婚
●女子 吉井久子  侯爵西郷隆盛の子西郷菊次郎と結婚


●吉井友武 子爵高島友武となる
1212(1)



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◆2代 吉井幸蔵 1代友実の子
1856-1927 71歳没

*アメリカ・イギリス・ドイツに留学


■妻  猪飼静子  士族猪飼央の娘
1865年生


●長男 吉井勇   3代当主
●二男 吉井中
●三男 吉井勝稚  子爵高島勝雅となる
●四男 吉井友春
●五男 吉井武蔵
●六男 吉井千代田
●八男 吉井友海

●長女 吉井花子  長田馨と結婚
●三女 吉井百合  伊達徳真と結婚
●四女 吉井桂子  竹迫常栄と結婚


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◆3代 吉井勇 2代幸蔵の子 歌人
1886-1960 74歳没






■前妻 柳原徳子 柳原義光伯爵の娘/柳原白蓮の姪・離婚
1900-1975 75歳没

*勇と徳子は恋愛結婚。華族同士だが徳子の実家はこの結婚に大反対であった。






■後妻 国松孝子 芸者の娘


●前妻の子 吉井滋


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宮武外骨『地獄耳』

吉井幸蔵の子 勇は遊蕩歌人としてデカダン文士の一人である。
吉井勇を伯爵の若様というので大いに歓待して馬鹿な目を見た待合や料理屋がある。
伯爵は伯爵でも吉井家は有名な貧乏華族で、現主人は評判の高利貸し泣かせ、
その長男たる若様の勇も原稿料をあてにして生活しているぐらいだもの。
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吉井勇の前妻徳子は「ダンスホール事件」と呼ばれるスキャンダルを起こす。

1933年ダンスホール「フロリダ」の男性ダンス教師が多くの有閑マダムとの姦通罪で逮捕された。
ダンス教師は女性客を斡旋していたのは柳原義光伯爵の娘で吉井勇伯爵夫人の徳子であると自供した。

歌人でもある吉井勇は若い頃からかなりの放蕩児であった。
結婚しても息子が生まれても生活を改めることがなかったため、当てつけのように徳子も不倫に走ることになる。

斎藤茂吉の妻輝子、近藤廉平男爵の子近藤廉治&樺山愛輔伯爵の娘泰子夫妻など、
徳子の遊び仲間が一斉に検挙された。

そこで徳子は近藤廉治と不倫、妻の泰子もダンス教師と不倫、というダブル不倫も発覚した。
宮内省は世間を騒がせた「不良華族」に厳しい態度で臨み、
近藤廉治&泰子夫妻は華族から除籍されて平民に降下された。
徳子は吉井勇と離婚、吉井は芸者の娘孝子と再婚し京都に住まった。
輝子は斉藤茂吉と長期に渡って別居することになった。

1198


1933年12月22日
5000


8006



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徳子のイトコ 宮崎蕗苳の手記 柳原白蓮&宮崎龍介の娘 

母の兄柳原義光の娘さんのうち、徳子さんとは特に親しくしていました。
徳子さんは大正10年、歌人の吉井勇と結婚しました。
当時柳原家は「若い文士との所帯では食べていけない」と、この結婚には大反対でした。
徳子さんは白洲正子さんのお姉さんや斉藤茂吉の奥さん、
当時の著名な文士、菊池寛や久米正雄・里見弴・川口松太郎といった方々とも親しく交流していました。
モボ・モガといった言葉もありましたが、徳子さんはまさに時代の先端を行くモガという感じでした。
顔立ちは母にも似ていました。字も絵も上手でしたし、佐賀錦織の特技があり広く教えていました。

徳子さんは昭和08年離婚して柳原家に戻りますが、家に半ば閉じ込められ自由に歩けないほどでした。
四面楚歌の柳原家にあって、唯一の味方であった母と頻繁に手紙のやり取りをします。
ある日突然よほど慌てていたのでしょう、
下駄の左右違ったものを履いたままタクシーに飛び乗って宮崎家へやってきました。
祖母の鎚子〔白蓮の姑/宮崎滔天の妻〕はとかくの事情を問うことなく、
「よく来たね」と快く迎えました。しばらく私の家に一緒にいました。
母のことを姉さんという意味でしょうか「あんこ」と呼び、
自分のことを「俺様」とわざと乱暴に男言葉を話します。
母はそれをユーモアと受け止めてか特にたしなめることもなく、
「あなたの好きなようにしたらいいわ」ととてもおおらかでした。
我が家ではよく百人一首をしました。
「この札だけは誰にも渡せない」と、徳子さんは茶目っ気たっぷりにいつも狙っていましたね。
そんな気取らないところも魅力の一端でした。

私の母と同じく、自分で台所仕事や掃除ができる人ではありませんでした。
高田馬場に部屋を借りていましたが、朝になると毎日のように宮崎の家に来ていました。
一緒にいるだけで楽しい、明るく活発な女性でしたね。
晩年入院した折も、「家に連れて帰ってよ」と私たち家族を慕って寂しがっていました。
自由な人生をまっとうしたと思います。
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左:柳原白蓮  右:徳子夫人
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