■東京本邸 北区西ヶ原 1万坪


■大磯別邸「聴漁荘」
2219(1)


2219(2)


2219(3)

足洗い場
2220(2)

シャワー
2220(1)



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◆初代伯爵 陸奥宗光 外務大臣・農商大臣
1844-1897 53歳没

*ヨーロッパに留学

*肺結核で死亡


■前妻 吹田蓮子 大阪の芸者〈お米〉・死別
1846-1872


■後妻 金田亮子 東京の芸者〈小鈴〉 
1856-1900 43歳没


●前妻の子 陸奥広吉 2代当主
●前妻の子 陸奥潤吉 財閥古河潤吉男爵となる

●後妻の子 陸奥清子 未婚
●愛人の子 陸奥冬子 未婚


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『明治大臣の夫人』明治36年出版

昔を洗えば大阪新町の花柳界で少しは顔の売れた粋者の果て、
その色香に迷い込み日毎に通うお客の中から手練の腕によりをかけ見事生け捕ったはカミソリ大臣、
ここにめでたく泥足を洗う身となり昨日に変わった丸髷姿、
果たせるかな腹を痛めた二人のせがれ、いずれも立身出世し第二の陸奥ができるとの世評は四方八方。
ところが才子多病美人薄命の諺が的中して、悲しいかな夫人には産後の病気でとうとう亡くなられてしまった。

昨日までは手活の花として寵愛して措かなかった恋女房も狂風に散ってしまった後は、
持って生まれた色情の炎なかなかに消ゆべくもなくここに召し出された再度の夫人、
しかしこれも同じく粋界の出身、その頃板垣伯爵が愛妾であった小清とともに新橋の双美と謳われたほどの優物。
もっとも元来が道楽者の陸奥伯爵、
先夫人が芸妓で次もまた芸妓であるときたはこの間の消息あに真面目なるを得べけんや。
陸奥伯爵が有名なる女好きであったことは誰もまた知っていたことだが、
不思議なのは惚れた弱みか、また夫人の腕前が優っていたのか、
外へ出てはずいぶん馬鹿もした代り家にいる時は鴛鴦も羨むほどの厚い伉儷、
こればかりは陸奥伯爵の性行中特筆大書すべき異例である。

陸奥伯爵は何を申すも人情にはごく冷淡酷薄で、眼中には絶えて一滴の涙をも持たぬ性質であった。
この冷情な陸奥伯爵がある時都筑馨六男爵を評して、
「人も馨六のように軽薄では仕方がない。今少し人情を斟酌するようでなくては」
そばに沈黙していた夫人は陸奥伯爵の顔を見つめたかと思うと、
「そう仰せられるあなたはどうです。藪を突いて蛇を出すとはこんなことでございませぬか」
と言われた陸奥伯爵、再び何の言葉もなかったとか。
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明治天皇紀 明治23年5月17日

内閣総理大臣山県有朋、内務次官芳川顕正を文部大臣に、特命全権公使陸奥宗光を農商務大臣に任ず。
宗光および顕正を擢任するは、人の多く異数とするところなり。
はじめ有朋、宗光を擢抜せんとし、命じて帰朝せしむ。
けだし有朋、国会の開設に鑑み、宗光が民間諸党に縁因あり、かつ政党の事情に通ずるをもって、これを閣班に列し議員を操縦せしめんとする意に出でしなり。
しかるに宗光帰朝するや内閣組織すでに成り、宗光を奏薦するの余地なし。
宗光喜ばず、或は民間志士と交わり、或は逓信大臣後藤象二郎と結託す。
有朋その長く閣外に止むべからざるを察し、ついに岩村通俊を罷めて宗光をこれに代えんとす。
有朋また顕正と相善し、すなわち榎本武揚を罷め顕正をもってこれに代えんと欲して、並びにこれを奏薦す。
天皇意やや安んじたまわざるところあり。
有朋に告げて曰く「宗光かつて10年のことあり。人となりにわかに信じがたし。顕正もまたすこぶる衆望に乏し。この二人を擢任する深慮せざるべからず」
有朋対えて曰く「宗光の前罪はすでに消滅せり。今日採用するにあらずんば、民間にありてかえりて政府の妨礙をなすべし。むしろこれを擢抜してその才幹を利用するにしかず。もし反覆することあらば臣その責に任じ、あえて宸慮をわずらわすことなかるべし。また顕正の人となり、臣よくこれを知る。いまだこれに内務を託すべからずといえども、もって文部を託するに足れり。臣よくこれを指揮せん」
天皇ようやくこれを聴したまう。
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明治天皇紀 明治25年3月19日

天皇曰く、
伊藤博文がはじめ政党組織を提唱するや陸奥宗光は大いにこれを賛し、
「共に民間に下り自らその任に当たらん」と言いしが、伊藤がいよいよ辞表を提出するに及びたちまち豹変し、
「伊藤にして政党を組織するも板垣退助の三分の一の勢力をも獲得しがたかるべし」とてその政党組織を困難視し、しきりに嘲弄の口吻を弄せしかば、井上毅これを聞きて大いにその反覆を憤りこれを侍従長に告ぐ。
また去年の議会解散に際しても、
陸奥ははじめ「解散すべからず」と論じたりしが、
12月24日に至りにわかに「今日中に解散せざるべからず」と松方正義に迫りたる由なり。
また陸奥は内閣において機密の議あるごとにこれを他に漏洩し、改進・自由の両党にも気脈を通ずるもののごとし。
大臣等これを斥けんとするもあたわず、
内々山県有朋が「陸奥を簡抜したるは失策なりき」と嘆ずと言う。

もっとも伊藤・井上馨は同人の才幹を愛するの風あり。
陸奥もまた才子なるをもって、内閣のことはもちろん松方の失態を列挙してこれを伊藤に報じ、伊藤にして復職するにあらずんば何事も為すべからずとの意を告ぐるを常とせり。
ゆえに陸奥がいよいよ辞表を提出するに至りしは、大臣等の大いに幸とするところなりき。
しかれどもこの間の事情は互いに知りて知らざるがごとく、陸奥も表面意見合わずと言うをもって辞職せりと。
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◆2代 陸奥広吉 1代宗光の子
1869-1942

*英ケンブリッジ大学に留学


■妻  陸奥磯子 イギリス人エセル・パッシングハム
1868-1930

*エセルは広吉が留学していた時の下宿先の娘。
父宗光に結婚を反対され、父の死後やっと結婚できた。
出会いから17年後、広吉は37歳、エセルは38歳になっていた。


●長男 陸奥イアン陽之助 3代当主


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◆3代 イアン陽之助 2代広吉の子
1907-2002 95歳没

*イギリスに留学

*インタナシヨナル映画株式会社を創立


■1番目の妻 イギリス人 1929年イギリス留学中に結婚・のちに離婚


■2番目の妻 矢野美和子 三井物産ロンドン支店長矢野謹二の娘と見合結婚・のちに離婚
父日本人×母オーストラリア人ハーフ=クォーター
1919-1998 

■3番目の妻 本田寿賀  NHKアナウンサー・死別


■4番目の妻 松田祥子  28歳年下の編集者


●長男 陸奥宗広