■東京本邸 芝区三田(現:港区三田)1万坪
洋館はコンドル設計、1905年竣工、岩崎弥之助が娘繁子&松方正作への結婚プレゼント
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〈恵露閣〉
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■松方巌邸 芝区南佐久間町(現:港区西新橋)
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■「富岡別荘」横浜市金沢区 400坪


■「鶴陽荘」鎌倉市由比ヶ浜 敷地4,000坪・建物400坪


■「松影荘」神戸市御影 700坪


■「水月荘」熱海市 140坪


■「万歳閣」西那須町別荘
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■「千本松農場」那須 1,650町歩
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◆初代公爵 松方正義 総理大臣
1835-1924 89歳没


■妻  川上満左子 士族川上助八郎の娘 
1845-1920 75歳没


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子供は8男3女 庶子も合わせると15男7女の22人。
晩年には子ではなく孫として届け出していた。
明治天皇から子供は何人か聞かれたが思い出せず、
「後日調査の上、御報告申し上げます」と答えたほどであった。
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●長男 松方巌   2代当主
●二男 松方正作  財閥岩崎弥之助男爵の娘岩崎繁子と結婚
●三男 松方幸次郎 子爵九鬼隆義の娘九鬼好子と結婚
●四男 松方正雄  海軍河原要一の娘河原マスコと結婚
●五男 松方五郎  法学者渋川忠二郎の娘渋川カメコと結婚  
●八男 松方乙彦  伯爵山本権兵衛の娘山本トミコと結婚  
●九男 松方正熊  実業家新井領一郎の娘新井美代と結婚→娘ハルはライシャワー夫人
●十男 松方義輔  子爵井上勝の娘井上辰子と結婚
●13男 松方虎吉  松本虎吉となる 稲畑勝太郎の娘稲畑鞠子と結婚
●14男 松方義行  財閥森村開作の娘森村松子の婿養子になる
●15男 松方三郎  3代当主

●長女 松方千代子 工学者武笠清太郎と結婚
●三女 松方広子  銀行家川上直之助と結婚
●四女 松方津留子 海軍谷村愛之助と結婚
●五女 松方光子  実業家松本松蔵と結婚
●六女 松方梅子  呉服商堀越角次郎と結婚
●七女 松方文子  医者野坂三枝と結婚


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『明治天皇紀』明治23年5月17日

内閣総理大臣山県有朋、
内務次官芳川顕正を文部大臣に、特命全権公使陸奥宗光を農商務大臣に任ず。
宗光および顕正を擢任するは、人の多く異数とするところなり。
はじめ有朋宗光を擢抜せんとし、命じて帰朝せしむ。
けだし有朋国会の開設に鑑み、宗光が民間諸党に縁因あり、かつ政党の事情に通ずるをもって、これを閣班に列し議員を操縦せしめんとする意に出でしなり。
しかるに宗光帰朝するや内閣組織すでに成り、宗光を奏薦するの余地なし。
宗光喜ばず、或は民間志士と交わり、或は逓信大臣後藤象二郎と結託す。
有朋その長く閣外に止むべからざるを察し、ついに岩村通俊を罷めて宗光をこれに代えんとす。
有朋また顕正と相善し、すなわち榎本武揚を罷め顕正をもってこれに代えんと欲して、並びにこれを奏薦す。
天皇意やや安んじたまわざるところあり。
有朋に告げて曰く「宗光かつて10年のことあり。人となりにわかに信じがたし。
顕正もまたすこぶる衆望に乏し。この二人を擢任する深慮せざるべからず」
有朋対えて曰く「宗光の前罪はすでに消滅せり。今日採用するにあらずんば、民間にありてかえりて政府の妨礙をなすべし。むしろこれを擢抜してその才幹を利用するにしかず。もし反覆することあらば臣その責に任じ、あえて宸慮をわずらわすことなかるべし。また顕正の人となり、臣よくこれを知る。いまだこれに内務を託すべからずといえども、もって文部を託するに足れり。臣よくこれを指揮せん」
天皇ようやくこれを聴したまう。
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『明治天皇紀』明治25年3月19日

天皇曰く、
伊藤博文がはじめ政党組織を提唱するや陸奥宗光は大いにこれを賛し
「共に民間に下り自らその任に当たらん」と言いしが、伊藤がいよいよ辞表を提出するに及びたちまち豹変し、
「伊藤にして政党を組織するも板垣退助の三分の一の勢力をも獲得しがたかるべし」とてその政党組織を困難視し、しきりに嘲弄の口吻を弄せしかば、井上毅これを聞きて大いにその反覆を憤りこれを侍従長に告ぐ。
また去年の議会解散に際しても陸奥ははじめ「解散すべからず」と論じたりしが、12月24日に至りにわかに「今日中に解散せざるべからず」と松方正義に迫りたる由なり。
また陸奥は内閣において機密の議あるごとにこれを他に漏洩し、改進・自由の両党にも気脈を通ずるもののごとし。
大臣等これを斥けんとするもあたわず、内々山県有朋が「陸奥を簡抜したるは失策なりき」と嘆ずと言う。
もっとも伊藤・井上馨は同人の才幹を愛するの風あり。
陸奥もまた才子なるをもって、内閣のことはもちろん松方の失態を列挙してこれを伊藤に報じ、伊藤にして復職するにあらずんば何事も為すべからずとの意を告ぐるを常とせり。
ゆえに陸奥がいよいよ辞表を提出するに至りしは、大臣等の大いに幸とするところなりき。
しかれどもこの間の事情は互いに知りて知らざるがごとく、陸奥も表面意見合わずと言うをもって辞職せりと。

伊藤と松方とは性質相異なり。
伊藤は才智をもって事を処す、その進歩速やかなるも、時に顛躓し退歩することなきを保しがたし。
松方はこれに対し鈍き方なるをもって、その進歩遅々たるといえども、その進むや確実なり。
要するにこれ両人の天性に帰するをもっていかんともすべからず。
伊藤これを知らざるにあらず。しかも近時松方を譏り、その矢を数えて寛仮せざるの状あり。
松方すこぶるこれを苦となす。
両人の間をしてこのごとくならしめたるは、陸奥が松方の矢を伊藤に告げ、また井上毅・伊東巳代治等が日々内閣の失策、松方の欠点を密かに伊藤に報ずるをもってなり。
伊藤は過日これらの書翰を積み重ねて岩倉具定に示し、その不平を漏らして松方を攻撃せしかば、岩倉も大いに伊藤の大人げなきに驚けることあり。
また憲法論にて井上毅・伊藤巳代治・金子堅太郎3人の意見時に一致せず、松方その決断に悩むものの如し。
松方と伊藤相和し相一致するに至らば可なれども、それ容易に行われがたし。
松方にその意あるも、松方はその方法を過まれり。
もし松方が井上馨と結び、井上馨をして適宜に斡旋せしめば事円滑に行わるべきも、松方は井上馨を好まず、常に山県を撰りてもって伊藤を説かしめんとす。
しかれども伊藤・山県の相善からざること久し。
その傾向近時ますます著しく、相対すれば既に互いに不快の感を生ずと言えり。
ゆえに山県は伊藤との間を周旋しあたわざるなり。
井上毅・伊東巳代治等も今や気大になりて、松方に使役されざるの状あり。
山県の首相たりし時は、井上毅・伊東巳代治も相応に使役せられたりしが、今日はしからざるなりと。

伊藤は松方に対し、箇条書をもってその非違と思うところのものを質せり。
松方朕に奏して曰く「伊藤の為すところ、徳川家康が大阪城に詰問せるごとく、強国の弱国に向かい難問を強示するがごときあり。臣すこぶるその処置に苦しめり。
これにおいて朕はたとえ辞職のやむなきに至るも、非違は則ち正ざるべからずと申聞けたり。

後藤象二郎は伊藤博文の政党を組織するを喜ばずして異論を唱うるもののごとし、けだし伊藤はいつにても総理大臣たることを得べく、政権を取るために政党を組織するの要なし。
改進・自由両党が同志をもって組閣し、その主義を実行せんとすることとその事情を異にせり。
これ伊藤の政党を組織せんとする真意を知るに苦しむゆえんなりと言うにあり。
後藤象二郎は伊藤の辞職には反対せるが、その言極めて条理あり、陸奥のごとく反覆の挙動なし。
近時は大いに真面目になりたる風あり。

佐佐木高行聖話を拝承し、奏して曰く、
伊藤の常に我を張り、その跋扈の状実に恐懼に堪えざるところなり。
しかも今日我意を主張する者はひとり伊藤のみに止まらず、はなはだ憂慮に堪えざる景況なり。
この上はこのごとき我を張る者は聖上において厳戒して寛仮したまうことなく、万事宸断をもって決定し叡慮して真に国民の間に貫徹せしめば、全国中には誠忠の士・才識の士乏しからざれば自然現出して陛下を輔佐し奉るに至らん。
しかれどもこれを急激に望むべからず。
耐忍もって進みたまわば、叡慮を徹底せらるる期のあるべきなり。
伏して乞い願わくは十二分に奮発あらせられんことを。
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◆2代 松方巌 1代正義の子
1862-1942 80歳没

*ドイツに留学

*十五銀行倒産の責任を取って爵位を返上する


■妻  長与保子 医者長与専斎の娘 
1872-1957


●女子 松方竹子 伯爵黒木三次と結婚


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『横から見た華族物語』昭和7年出版

先年十五銀行がいけなくなった時、社長の松方巌公爵は爵位をも辞退し、その他身についた一切の公職を投げ出して一平民の松方巌となり、どこかの長屋へ今は日陰者の身を運び込んだ。
自分が主宰する銀行があんなことになって、世間様を騒がして何とも申し訳がないという意思を表明したものであるが、実を言うとあれは表面だけのことで、本当の心は旧藩主島津家に対する謝罪のためあのような態度に出たと言った者があった。
十五銀行の騒ぎでは旧大小名華族のほとんど全部が大なり小なり手傷を負うたが、中でも最もひどくやられたのは島津公爵家であった。
当時島津家では十五銀行へ150万円の預金があった。
そのうえに2万近い新株を持っていてその払い込みがざっと145万円、もし島津家がこの新株を払い込まないようだったら、十五銀行の整理案が成り立たぬというのっぴきならぬ辛い立場に置かれた。
何と言っても九州の島津だ、動産不動産合わせて8000万円は下るまいと言われている金持華族だから
それぐらいの金は右から左へ出すだろうと思われたが、有るようで無いのは金、無いようで有るのは借金というやつ、こればかりはどうにもならぬ。
そこで袖ヶ崎のあの屋敷、明治大帝がしばしば行幸あらせられたという由緒の深い3万坪の屋敷のうち6千坪だけを残し、後を全部売りに出してそこから浮かんだ240万円の金で銀行の方のカタをつけたものだ。
いくら島津が財産家でもこれはこたえたに違いない。
そこで松方公爵にすれば旧臣の情誼として主家にそれほどの大穴を開けたからには、何とかして申し訳をせねばならぬ道理、昔ならさしずめ切腹ものだが、今ではそんな古手は流行らない。
それで身につくもの一切を投げ出してこれで御勘弁と出たという。
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作家 長与善郎 学者長与専斎の子・2代当主松方巌の妻保子の弟

明治25年の春、皇后陛下台臨という女子学院卒業式に卒業生総代という晴れの役を務めるハメになった17歳の保子に、これこそが嫡男巌の嫁とするにふさわしいと白羽の矢を立てたのが松方公爵夫人であった。
背は四尺八寸あるかなし体重もせいぜい11貫足らずという、その頃の日本ですら小柄の方であった娘が俗に言う山椒の小粒で、十人並みといった容色もその利発そうで自信のある落ち着いた物腰のために、少し分がよく公爵夫人の目には映ったと見える。
もともと保子の両親とも知り合わぬ仲ではなく、どんな家庭かということは改めて調べるまでもなくよくわかっている。
念のため校長の下田歌子女史や主管教員に様子を探ってみても、誰一人口を極めるほどに褒めぬ者はない。
公爵夫人の腹が一目の印象で決まったのは、あるいはおっとりしすぎたお人好しの巌の脇にはこういう才気ばしったやり手が必要だと考えた点もあってのことだったか、ともあれ縁談の交渉はまもなく開始されたのである。

父母は少し釣り合わぬ気持ちもなくはなかったが、兄弥吉に手紙で問い合わせてみたらどうであろう、ちょうど話の主の巌もあっちに行っているということだから、訪ねて会ってみて弥吉の意見を尋ねることにしては、なるほどそれがよかろうと、詳しい手紙をベルリンへ書き送った。
何ヶ月か経って着いた兄の返事は、
「初対面をした印象は甚だ良かった。別に何に優れているといった特徴はなさそうだが、人柄は至極温厚篤実で円満かつ上品であることは確かと思う。こういう人に嫁ぐことができるならば保子としては誠に幸運だと自分は信じ、双手を挙げてこの縁談に賛成する」という旨がしたためられていた。
こうしてめでたく決まった公爵夫妻の華燭の典に先立って、まず弥吉が帰朝しついで巌も帰った。
いよいよ明日は我が生家を去るという前日身内ばかり親子10人の並んだ食卓で、父から弥吉も一つはなむけの言葉を述べてやれと言われ、日本語は上手くしゃべれなくなったからとカイゼル髭の弥吉はドイツ語で祝辞を述べるのだった。

保子の結婚の媒酌を務めたのは大西郷の実弟西郷従道公爵夫妻であり、その披露としての盛大な園遊会も催された。
そしてそれは真に弥吉が太鼓判を捺したところにたがわず、保子自身にとってはこの上ない幸運な良縁であったと言わなければならなかった。
ただその結縁によって長与家と松方公爵家との付き合いが緊密に結ばれ、本腹・妾腹合せて20何人という貧乏人ならぬ金持ちの子沢山の家と繁く行き来するようになった。
嫡男に嫁した保子はそうした腹のまちまちな大勢の弟妹から、「お姉様」「お姉様」と奉られるように持ち上げられはするものの、自分を長男の嫁に見立てた姑は一見大まかなようで細かく頭の働くシッカリ者であり、そんな意味でちょこまかと気を使う必要のなかった嫁入り前とはガラリとうって変わった複雑な大所帯に飛び込んで、誰からも気うけをよくしながら二代目の若奥様としての威容を保つことは楽な業ではなかったに違いない。

松方正義氏は舅としてはこの上なく仕えいい鷹揚な温かみのある大人であった。
その人柄の良さを享けていた夫の巌も兄の弥吉が太鼓判を捺した所にたがわず、外交官としてはあまり振るわなかったにしても、誰からも高ぶらない善い方と言われた。
保子が一女竹子を挙げて以来子供を産まなくなったのは、彼が遊ぶためと陰口をきかれたりしたらしい。
それでもそのことに気がとがめてか気の毒なようにおどおどしている顔を見るにつけても、保子ははしたない悋気めいた言葉はおくびにも出さなかった。
両親にこまめに孝養を尽しさえすれば充分に満足し、一にも二にも「お保が」「お保が」と自分を立ててくれる優しい理想の夫を持ちながら愚痴をこぼすとすれば、それこそバチが当たると保子はしみじみ自分に言い聞かすのだった。
むろんそうした彼女の胸の奥には、いずれ何年かの後には公爵夫人になれるという最大の楽しみがぞくぞくするように躍っていたのは言うまでもない。

豪勢と言えば、長兄厳の晩い結婚を待ちかねたように追いかけて挙げられた弟正作の花嫁は、財閥岩崎男爵家の長女繁子であり、それがまた奇しくも延子〔伯爵後藤象二郎の娘・男爵長与称吉の妻〕の姪に当たるという、長与家とも遠縁に当たる間柄であった。
持参金は当時の金額で30万円とかいうことであったが、そんなことが大きく騒がれるにしては松方公爵家そのものが富貴な御大家でありすぎた。
次々に輿入れしてくる新嫁たちは、いずれも名だたる富豪か華族の令嬢で、驚くばかり光煌めくダイアの首飾りや長持幾棹という衣装の豪華さで実家の身分と力とを示し、容色や豊満さでも保子とは比べ物にならなくても、ワガママで人づきあいが悪かったり、品は良くても頭がてんで働かなかったりする。
そこへいくと保子の何よりの持参物は、目から鼻へ抜ける才学機転と痒い所に手が届く機敏な務めぶりである。
とはいえ自分だとて華族や金満家の娘でこそなけれ、氏無くして玉の輿に乗ったわけではもとよりない。
れっきとした高官の誇るべき父を持って名家に生まれたのだ。
いささかたりとも卑屈な風があってはならないと高く自ら持するのだった。
そのため保子は目上の者や社会的地位の高い人々に務めることでは至れり尽せりであったにもかかわらず、ともすれば利口さを鼻の先にぶら下げる高慢ちきで、権高い女とも下の者からは見られるのだった。

松方家の家風としてはたとえ外見と口先だけのものであろうと、人には如才なく務めるということが格別大事なこととされていたので、貧乏人の子沢山ならぬ金持ちの子沢山として世間にも稀にみるこの大家族では、本腹の子供までもが妾腹の子供たちにひけを取るまいとして小心翼々と気を使い、長上の機嫌取りに小賢しく立ち回る様は、あたかも気の利いた給仕か小間使いといった風にさえ見えるのだった。
久しぶりに大園遊会を催そうではないかと父に建言したのは、本腹の幸次郎だった。
幸次郎は松方家の息子の中で一人日本実業界での怪物的傑物と言われた変わり種であったが、そういう派手な催しにはもってこいの広大な庭園と豪壮な住居があり、来賓の取り持ち接待は何よりお手の物とする若手の才子が揃っている家族のことである。
むろん大拍手で賛成しない者はいなかった。

松方公が「乙彦も今日はきつかったろう」と本腹の乙彦をねぎらうと、その背後にヒョコヒョコついて行く乙彦が「慣れぬもんでごわすからなあ」と言っていた。
嘘も甚だしいオッチョコチョイの見本。
乙彦らが最も慣れていて得意とするところは、ただ一つナンセンスな冗談やチャラッポコのお世辞で皆を笑わせながら御機嫌を取り、気の利いた才子だと思われようとすることなのに。
時代が時代であり、ことにこの家のごとく親の威光・藩閥の威光が七光り八光りであり、それを後ろ盾にしておけば、乙彦のように中学も出ずにアメリカに行って、有名人との社交やダンスを身に着けてくれば、懐手をしていても有力者が公爵の機嫌を取り、その交換に利益を得ようと社長にも重役にも取り立ててくれるのである。
そうしたことを要領として立ち回るだけのちょこ才と世間一応の常識とさえあれば、苦学して日本の大学に入ったり何か真の実力を養う勉強にムキになるのは、間抜けた馬鹿だけがすることである。
人間何より大事なことは世俗的な卑近な意味で利口になることであり、反対に最も軽蔑すべき悪いことは馬鹿正直で嘘一つ言えず、目先の実際のことに役に立たないマヌケな変人であることである。
そうした家風の背景には、もともと松方家が学問的素養・実力を重んずる家柄ではなく、したがって子供たちもそうした方面には不得手でまた必要と認めなかった点もある。

光子さんは僕の姉藤子と同級の姿のいい粋な美人で気立ての優しい人だった。
関西のさる金満家に嫁ぎ早くに未亡人となったが、その夫は一種の非凡人でただのボンクラな道楽者とは選を異にしていたが、光子さんにとっては極めて不幸な結婚であった。

法事などのある時 長与弥吉夫婦と保子夫婦がしばしば一緒になるのは当然であったが、保子は腹の中では馬鹿にしきっていながら口先では「お姉様」「お姉様」と延子を持ち上げるのである。
僕は延子も充分に意地が悪いと思い、愚にもつかぬ小言を女中に言ったりすることによく不快を感じるのだったが、意地の悪さでも嘘と虚栄の権化のように利口ぶっている保子の方がもっと念が入っており、延子の方が頭が空っぽなだけまだしも深く憎むに足らないと思うのだった。
僕よりもずっと邪推深くない兄裕吉でさえこんな観察をしていたのである。
「この間俺が松方家へ行くと、幸次郎さんが
『なあ義姉さん、こんなこと言っちゃ失礼じゃが、あんたの家の延子さんな、あれはなかなかの器量良しじゃが、ココはちっとアレなんじゃごわせんか』って頭をコツコツ指してね。幸次郎さん人が悪いから姉さんが良く思っていない人の悪口をすりゃ姉さん嫌に思うはずないし、それがまた貴女は利口だと間接におだてることにもなる。果たして姉さん満足そうにニッと苦笑してるんだ」

権高い姉が初めて僕の家に姿を現したのはむろんある目的があったからのことで、尊大な会釈で妻を遠ざけ彼女の言い出したのは、他ならぬ彼女の一人娘竹子の婿選びの相談であった。
彼女が自分の名折れにように感じている僕の所へそんな重大な相談を持ち込んでくるのは、よくよく銓衡そ重ねて窮した末のことだと思われた。
あわよくば皇族でもと内々高望みを抱いていたらしいが、何事もほどほどにという主義の夫の同意を得なかったのかどうか、華族名鑑という一冊の本を開いた。
保子は子爵以下は問題にならぬとして公爵家から伯爵家までを順々に操って、既におおよそ絞り残ったらしい5,6人の候補者につき、「この方はどんな方?」「じゃ、この方はどう?」といちいち尋ねるのだった。
人数の少ない学習院出で、5,6年上までの先輩と3,4年の下級生までについては僕はたいてい人柄や成績も知っていた。
松方家にはやはり学習院出で相談相手になる義弟は幾人もいる。
しかしその義弟たちも実は見かけほど保子と折り合いが良くなかったのか、とにかく僕を選んで来たのである。
ずさんな銓衡の挙句、公・侯の中でまだしもと思われる人物は、既婚者か若すぎるか既に話の決まっている者ばかりであった。
余儀なく最低の伯爵家の中で物色した結果、松方家とも旧懇の間である伯爵黒木三次ということに一応話は落ち着いた。
ただ保子から見て黒木の欠点は熱心なクリスチャンであるということで、
「クリスチャン?へーえ、それはちょっと困ったわね」と保子は首を傾げ、僕もとうてい見込みなしと思った。
有名な大将の嫡男である黒木は同年の兄長与裕吉や志賀直哉とも親しく、僕の所へも一度談しに来たことがあり、真面目な良い青年として僕の目に映っていた。
それでどうせこんな昔の政略結婚のような縁談には、彼の方で応ずるはずはないと信じたのだった。
それから約1ヶ月後のこと、偶然虎ノ門の停留所で僕を見つけた黒木は僕を呼び止めて近づくなり
「ねえ、君。僕、変なことになっちゃってね。松方竹子さんと結婚することになったんだよ。ハッハッハ」と自ら高笑いして告げるのだった。
僕は「え?」と言ったなり唖然と黒木の顔を見た。
なんだ貴様はそんな男だったのかと、急に彼を買い被っていたと思う失望と一緒に黒木を軽蔑してしまった。
どう見ても竹子には黒木が本当に心を魅かれる要素があるとは考えらないからであった。

母の家を訪ねると、ちょうどそこに長与延子と保子とが来合せた。
どこかの家の娘の噂に出て、保子は延子に面あてを言った。
「あのお嬢様どんな欠点がおありになるのか、まだ何の御縁談も【おありんならない】とか」
うわべでは白々しく持ち上げられている「お姉様」の延子にとっては一番苦に病んでいる痛い所、すなわち娘美代子がもう25にもなってまだどこからも何の話もかからないことへ触れたのである。
一般に娘の婚期のまだ早かった頃の話であり、これには神経の太い延子も涙ぐまぬばかり顔を赤らめ、厚いヒザをねじっている様が気の毒で居たたまれなかった。
美代子がピアノや英語に打ち込みどうなるかと思っていたところ、待った美代子には思いがけない海路の日よりが訪れたのだった。
取り持ったのは兄裕吉で、彼の友人松岡洋右が太鼓判を捺しての推薦によった斉藤博が、ほとんどノンキなほどの気軽さでOKとばかりに登場したのだった。
彼は学習院高等科の志賀・武者小路・細川護立などの級で、外交官を志願して入学するなり首席となった秀才で人物もしっかりしており、その魅力ある人柄と才智とで後には駐米大使として活躍し国難に殉じた男である。

世界恐慌によって巌が頭取であった銀行で預かっていた皇室の財産の一部までが損失を免れないという瀕死の状態に陥り、それは弟たちの会社がバタバタと倒れるのを免れようとして銀行の金を大きく使い込んだのが原因だったという。
それで巌は頭取としての責任感と自責の念とから、亡父から受け継いだ公爵の爵位を潔く返上しようと悲愴な決意をした。
中でも一種の豪傑で万事桁外れのやり方であった幸次郎の残した傷は厖大であったが、松方コレクションという世界にも誇り得る文化的記念事業が図らずも日本に残るプラスの結果になった。
しかしそのために一平民と成り下がった保子にしてみれば人生の一切が無意味になってしまったわけで、さらに十数年後には敗戦による国体の変革によって彼女の信仰の最後の拠り所までが崩された。

20人を越える松方家の子供の中では随一のやり手であり、また日本人離れしたスケールの大きな生まれつきの役者であり怪傑であった幸次郎は、保子とは犬猿の仲であった。
それが露骨となったのは、幸次郎が事実上の社長であった造船会社が破産に瀕したのを巌が無理しないわけにいかなかったことが原因だった。
皇室の財産を若干預かっていた十五銀行がその大穴のために共倒れする致命傷を受けたことに、頭取としての責任上巌が切腹の思いで公爵を返上したことであった。
保子としてはその決断は表面上の術策で、そういう神妙なところを示せば元勲であった先代の大功に免じその儀に及ばずとお赦しが出ると読んでのことだった。
それが「受け入れたらよかろう」という西園寺さんの鶴の一声でまんまとアテがはずれ、松方家は一平民に没落するハメになった。
その実の最大責任者であった幸次郎はこの善良な長兄に迷惑をかけたことは済まなかったという気持ちは抱いていたのであるが、人間万事嘘の猿知恵で渡れるものと思っているこの兄嫁の性分を芯から嫌っていたので、ざまをみろと言わんばかりに詫びの一言も言わず相変わらず辛辣な皮肉を浴びせるばかりで、保子は怨憎のくやし泣きにむせぶのだった。

姉保子夫妻には跡取りの息子がないので、腹違いの末弟である三郎を養子のように引き取っていた。
まだ5つか6つの三郎がその複雑な家庭の中で保子を養母のように育ち、早く気苦労をなめている姿は僕も見たものであった。
孫ほどに歳の違う異母弟三郎夫婦を一度跡継ぎにしようとしたにもかかわらず、その結婚が気に入らなかったのか、母娘そろって下婢扱いの態度は見るに見かねた。
長与裕吉の後継者で今はその方の大立者となっている三郎の細君の英語は大したもので、なかなかのインテリでもあるが、保子の部屋へ何かの用で来る時は次の間に三つ指をついておどおどと物を言うのに対し、保子は「早くお下がり」と言わんばかりに「そう」と一言鼻先で応えるのみだった。
母親ほどには虚栄の権化というのではなかったが、同じそらぞらしい功言令色でも母親の方は歪められた古風な教養と才気の端とが時折チラリと見えたのに反し、あまりにも民衆を世情から遠ざけられて育った竹子は、これまたその養子夫婦とすら折り合わないばかりか、ほとんど誰とも普通の人づきあいができない泥人形に等しかった。

保子の夫松方巌が重体という電報が届き、すでに高齢であった巌は間もなく没した。
酷暑中の看病疲れに風邪が加わり、衰弱しきった保子は危篤の夫のそばへも動いて行けぬ病状であった。
彼女としては何もかもがあだとなり、最後の命の綱とたのむ夫にまで死なれては生きながらえる空は全くない。
子供の頃は元気で無邪気で可愛かった竹子は、妃殿下の御学友として恥ずかしからぬ高貴な品位を持たせるように育てて変わり種の女となり、夫の黒木の友達の細君たちがみな世故に疎くない才女ぞろいでキャッキャッと笑い興じるのにそこへ竹子が一人入れば水と油で、共通の話題が何一つなく賑やかな一座は急に白けてしまうという風だった。
すべては母親のお仕込みによることなのだが、家庭の味気なさにヤケ気味になった黒木は相当の放蕩児議員となり里見弴の小説にされたりしたが、案外寿命には恵まれず世を去った。
子供の無い彼女は母の保子と未亡人同士、終戦前の恐ろしい東京空襲にまであったのである。

東京は爆撃の的となり、保子はどうにか娘と二人黒崎の大農場内にある別荘に避難した。
今では十五銀行の賠償の一部に提出し、松方家の物ではなくなっていたのだったが、人々が同情し広い洋館の別荘だけを使用してくれと言われた。
そぞろ歩く保子に畑仕事をしている農婦たちは昔ながらに頭を下げるのに、まるで皇太后か老妃殿下かといった「お前たちもご苦労だねえ」と形式だけのねぎらいの言葉をかけるのだった。
大家の家財道具を売ってタケノコ生活を送っていては、ついにその皮もはがれ尽きる。
冷酷なような本音を吐けば、夫の臨終の時に自分も相当の重病で死に水も取れなかったのだから、その後直ちに夫の後を追って世を去っていたらまだしも楽だったのである。
10年以上生き延びたために戦禍に遭ったり悲惨な晩年を送った。
何か嫌なことがあれば全て人が悪いとのみ思い、己はどうかと反省する能力を全く欠いていた保子は、今や生き甲斐のアテを完全に失い無意味となりきった生ける屍を持て余し続けた。
「もうあたしもアコギに生きていたいとは思わないけど、病気で苦しんで死ぬのが嫌なの。それにこの人のことが気になって」と娘竹子を指さして会う人ごとに漏らすのだったが、次第に頭が呆けガスストーブによりかかったなりウトウトと眠りこけ、ちゃんちゃんこが焦げるきな臭さに竹子が驚いて「お母様たいへん!」と揺り起こし慌てて火を消しても当人は別に驚かず、ただ茫洋と「そうかい」と言うばかりなのに竹子の方が驚くというていたらくだった。
ますます頭のおかしくなっていた保子は、昏々と眠ったまま布団からずり落ちるように小さい身体を折り曲げたなりこと切れていた。
まったく老衰のための自然死で、泣く者は一人もなく、むしろ彼女自身のためにもやっと片づいたのは良かったと心中思う者ばかりだった。
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■夫 松方勝彦 2代巌の甥/松方幸次郎の子
1904-1936


■妻 吉川幸子 男爵吉川重吉の娘・松方勝彦と死別・作家獅子文六と再婚
1912-2002


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岩田幸子 男爵吉川重吉の娘・ 松方勝彦と死別・作家獅子文六(本名:岩田豊雄)と再婚

松方巌氏の一女は黒木伯爵に嫁し、正義公の二男正作氏の所も長男が早逝し、次の幸次郎氏に4人の男子があり勝彦はその四男であった。
先方の黒木氏と私の義兄原田熊雄とは懇意の仲なので、本家の跡をこの二人に継がせたらという事になったらしい。
結婚前の荷物送りの日の事が思い出される。
新居にタンスの鍵を持って行くために一人で出かけた。
電車を降りるとそこに勝彦が立っていて、
「叔母様方はみんな紋付で来ておられるが、あなたはそれで良いのか」と聞かれた。
私は紫色のお召だった。普段着という程度なので、そういう事に気のつく勝彦は私に恥をかかせまいと気遣ってくれたらしい。
「ええ、これしかないの」とすまして同行してしまった。
すべて何事かあれば紋付、まだまだ格式を重んじる家であった。

私もまだ若かったし、すべてに格式高い松方家としてはとんだ嫁が飛び込んだものだったらしい。
初めて御両親に会った時万年のお菓子を渡すと、
舅巌から「私の大嫌いな物を持ってきたね~」と言われシュンとしてしまった。
姑保子は取りなすように「本当はお父様の大好物なのよ」と言って下さったが、事実舅はお酒はほとんど飲まず代の甘党であった事がわかり安心した。
あれほど善人そのものであった父が、時の巡り合せというか親が一代で名声を博した家のすべてを返して一介の野人となった時は、どんなにつらい思いであった事か。
姑は舅の母がが女子学習院の卒業式に行ってを見出された才女で、舅のドイツ留学中に結婚話が勧められた。
松方家の大世帯を切り盛りしてきた手腕は並大抵の女にはできる事ではない。
今思えばさぞ気に入らぬ事の多い嫁だったろうが、馬鹿のおかげで本当に可愛がって下さり、嫁と姑という嫌な感じを一度も持った事がなかった。
跡継ぎの嫁として、美術・建築・料理・社交。その他姑に教わった事はどれだけあったかしれない。

義父幸次郎はその兄巌の謹厳さとおよそ違った磊落な人だった。
小太りで眉毛の下がったにこやかな顔で、「幸子、幸子」と呼んでくれたのも懐かしい。
義母は九鬼子爵の出で、娘時代アメリカに留学し父と同じ船で帰国、結ばれたと聞いたが、6人の子供も留学し、みんな英語が達者なハイカラ気質の一家だった。

その日私は風邪で床にいた。
午後3時頃会社から電話で「御主人が倒れたから来て下さい」と知らせがあった。
事務所の車庫でハシゴに登っていた時脳貧血を起したらしく、後ろに倒れ反対側の棚で後頭部を打ったという事だった。
医務室のベッドに横たわった勝彦はその時はまだ普通に見え、
「風邪なのにわざわざ来なくても良かったのに」と相変わらず私を気遣ってくれる夫だった。
しかし次第に耳からも鼻からも出血がひどくなってきた。駿河台病院へ運ぶ事になった。
「御臨終ですよ」と言われても、あまりの事に私は涙も出なかった。
結婚3年2ヶ月にして勝彦は帰らぬ人となってしまった。

ある日黒木の義兄に呼ばれて、
「松方家も跡継ぎを決めなければならない。候補者はあるが、あなたの籍があっては困ると言うので里へ帰ってくれないか」と言われた。
候補者の名前は教えて下さらなかったが、
「どなたでも結構です。しかし私は勝彦と結婚した以上、松方の姓を変えるのは嫌です」と言って大泣きに泣いてしまった。
ワラにでもすがりたい気持ちの時、義姉〔竹子〕は私の横を何度も通ったが、ただ冷やかな眼差しで見るだけだった。
こういう次第で離縁ではないのだから、何をもらうわけでもなく本家の籍から離れた。
姑は気の毒がって
「後を継ぐ方にあなたの事は特別の人なのだからとよく頼んであるから」と言って下さった。
しばらくして舅も亡くなり次々と使用人もいなくなり、ついに姑一人になってしまったために私が一緒に住む事になった。
乳母日傘で育った私はそこで初めて家事をした。
何もできない私を姑は「それが当然だ」と許して下さった。
昭和16年太平洋戦争が始まり、3年後の冬にはいよいよ東京も空襲にさらされるようになった。
姑は那須から荷馬車を呼び寄せ、黒木の義姉一家と那須へ疎開して行った。
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◆3代 松方三郎 2代巌の弟/1代正義の子
1899-1973


*イギリスに留学


■妻  佐藤星野 実業家佐藤市十郎の娘 
1908-1967


●長男
●二男
●三男
●四男
●長女
●二女
●三女