北白川宮家 その2

  • author: easthall
  • 2001/02/17


◆北白川宮智成親王
1856-1872 安政03-明治05 15歳没
もと伏見宮邦家親王の子 北白川宮を創設




◆北白川宮能久親王
1847-1895 弘化04-明治28 48歳没
もと伏見宮邦家親王の子 初代智成親王の兄

*ドイツに留学するがなかなか帰国せず、
ベルタ・フォン・テッタウ男爵未亡人と勝手に結婚して、現地の新聞に結婚広告まで出した。
明治天皇は激怒、単身日本に連れ戻された。

*日清戦争中、台湾に出征しマラリアのため現地で死亡。

*お騒がせ宮様の一人である。側室も多く、庶子も多い。
死後にも認知されていなかった庶子が現れ大問題となった。


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<能久王の国際結婚騒動>

明治天皇紀 明治10年4月21日

ドイツ留学の北白川宮能久王に帰朝を命じたまう。
能久王は明治3年ドイツ留学を命ぜられ4年来ベルリンに在りて、
学費年額7,000円にては支え難く1年2万円を要せんとす。
他の各親王家1年の用度もなお能久王の学資に及ばざるが如き状態なるをもって、
能久王の請求に応ぜらるべくもあらず、
明治9年4月に至り既に学業も進歩せる趣なれば本年中に帰朝すべしと命じたまう。
しかるに能久王は私費をもってなお滞留せんとの志あり、
さらに留学の延期を懇請す、聴したまわず、今年の1月さらに帰朝すべしと命じたまう。

能久王はドイツ貴族ブリタアの娘と結婚の内約あり。
これが勅許を得んと欲して徳大寺実則に内願の書を発し、
また書を岩倉具視に寄せて曰く「帰朝の命ありといえども学業半途にして帰朝せば
数年間の勉学水泡に帰せんとす。ゆえになお2,3年の留学を切望す。
また文明の源流は婦人に発すという欧州の通論により
ドイツ貴族の娘を娶りて皇家を助け国家に尽くさんと欲す。

よりてこれが勅許を得んことを願う」と。
さらに家令をして委曲の内情を岩倉具視に告げしむ。

三条実美・岩倉具視・徳大寺実則ら、能久王の書を見て意外なるに驚く。
徳大寺これを木戸孝允に商る。木戸また愕然として
「こと皇室の尊厳に関し、その影響甚大なり」と決して聴許せらるべからざるを説く。
三条もとより同意なるをもってすぐに天裁を仰ぎ、
徳大寺をして能久王に電報を発せしめて曰く
「皇族の外国人と婚嫁するを得るの規定なし。かつこと重大に属す。
突然申請せらるるは軽率の至りなり。決して聴許あらせられず。
かつ既に帰朝の勅命あり。すぐに発程せるべし」と。
岩倉また寺島宗則をしてドイツ公使青木周蔵に電命し、
速やかに帰朝せらるべき旨を能久王に伝達せしむ。
この日、天皇さらに徳大寺をして本年中に帰朝すべき旨を能久王に伝えしめたまう。


明治天皇紀 明治10年7月3日

北白川宮能久王留学延期を請願せしが許されざるをもって、
5月12日ベルリンを発して帰朝の途に就く。
能久王留学中にドイツ貴族の娘と私に婚約を結び帰朝せんとするに臨み、
これを同地の新聞に広告せり。
その解決の方法および能久王の処分につきて内議する所あり。
これを岩倉具視に一任することに決す。岩倉、外務卿輔らと協議し能久王に説く所あり。
能久王その婦人に破約を通告し、また謹慎の意を表せんとす。
ただし東京の邸に在りては外人の訪問する者多くして籠居に適せず京都に赴かんとす。
天皇これを聴したまう。能久王この月26日をもって京都に入り、
爾来京都に在りしがこと漸く解け11月6日京都を発して帰邸す。


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■前妻 土佐藩主山内容堂の娘 光子 離婚 妹は東伏見宮依仁親王の前妻八重子
1859- 安政06-


■後妻 伊達宗徳侯爵の娘 富子
1887-1923 文久02-昭和11 74歳没

*何かと口をはさみたがる、やかまし屋の宮妃の一人であった。


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島津忠重公爵の証言

富子妃殿下は伊達家の出で、かつては私の父の弟に内約のあった方であったが、
正式に決定する前にその叔父が亡くなったので、
一応久光の養女として北白川宮家に嫁せられた方である。


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北白川宮家別当岩倉具経男爵から宮内大臣伊藤博文への手紙 明治23年1月10日

<能久王&富子妃の夫婦仲の悪化>

かねがね御配慮下されおり候北白川宮両陛下御間柄の一条、
ことに彼の秘密書状等の義については閣下よりの御申し聞けを堅く相守り、
小生においては今日まで決して口外仕ず候らえども、いかなる筋より相洩れ候ものか。
宮内省中すでに2,3の人は多少承知しおり候模様にこれあり候。

実は両陛下御間柄も目下益面白からぬ有様にて、到底このまま長く打ち捨て置き候えば、
醜聞自然相広がり申すべしと心痛仕り候。

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枢密院議長・男爵 倉富勇三郎の日記 大正12年6月16日

宮内官僚小原駩吉の言葉

北白川富子妃は種々の愚痴も言われたるが、此節は平常に似ず非常におとなしく致しおる。
これは成久王の過失のため上下に対して不面目との御考えがある為ならん。
「成久王の過失のため天皇陛下・皇太子殿下方に御心配を掛け奉り少なからざる費用を要し、
それも公務の為にても死したる事なればまだしも此節の如き事にては実に申し訳なし」
と言われ、何とも挨拶の致し方もなかりし。


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<富子妃の葬儀について>

貞子女王の夫 有馬頼寧伯爵の日記 

昭和11年3月21日

午後7時、御舟入。御近親の方ばかりでなさるので順序が明らかでなく、
誰からよく聞いておいて御指図すればよいと思う。


昭和11年3月25日

今日は霊代祭。指揮をする人もなく多数の御親族連がガヤガヤ・マゴマゴするばかり。
なんという無統制な事だろう。


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●側室の子 恒久王 竹田宮恒久王となる
●後妻の子 成久王 次代当主
●側室の子 輝久王 小松輝久侯爵となる 島津忠済公爵の娘薫子と結婚 
●愛人の子 芳之  能久親王死後認知  二荒芳之伯爵となる 早逝
●愛人の子 正雄  能久親王死後認知  上野正雄伯爵となる 伊達宗基伯爵の娘恵以子と結婚


●側室の子 満子女王 甘露寺受長伯爵と結婚
●側室の子 貞子女王 有馬賴寧伯爵と結婚
●側室の子 武子女王 藤堂高紹伯爵と婚約解消・保科正昭子爵と結婚
●側室の子 拡子女王 二荒芳徳伯爵と結婚


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武子女王は藤堂高紹伯爵と婚約していたが、
藤堂は留学中に密かにイギリス人女性と結婚しており、
帰国後その事実が発覚し、大問題となり破談となった。

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貞子女王の子 有馬頼義

母が父の所へ嫁いだあと岩波稲子〔貞子女王の生母〕は、私の家に長いこといた。
私はこの人にしつけられた。
子供心にも、気の遠くなるような美しさと怖さがあったのを私は今でも覚えている


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貞子女王の子有馬頼義の妻 有馬千代子

お母様〔姑貞子〕を産んだ人がすごい美人だった。
実践女学校の総代に出たぐらいの出来のいい人だったんです。
ここの卒業式には必ず宮様が臨席したそうで、
たまたまその年北白川宮能久王が見えてその人を見初めてしまった。
日本橋の薬問屋の二人娘の一人で、もうお婿さんも決まっていたんだそうです。
才色兼備というのを絵に描いたようなきれいな娘さんで、
北白川さんが「近う寄れ」ということになっちゃったのね。
昔は校長先生でも卒業生が宮家に入るというのは
学校にとっても大変名誉なことだったらしく、結局うちのお母様が生まれたわけです。
うちのお母様とそのお母さんがあまりにきれいなもので、相当いじめられたらしい。

お母様は16歳で華族女学校を出てお父様のところに来たんですけど、
そのお母さんもお付きで一緒に来たんです。
娘が嫁いでしまえば、北白川にいる場所はないんです。
才色兼備で何でもできる人だったから、
お父様〔貞子の夫〕はその人がおっかなくてしようがなかったらしいんです。
だから【おいねさん】はいる場所がなくてほんとに可哀想だった。
最後は宗教に凝って、朝から晩まで拝んでいたそうです。


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枢密院議長 倉富勇三郎男爵日記 大正09年07月25日

倉富&有馬伯爵家職員橋爪慎吾の会話

倉富◆岩波稲子の事は如何なりたるや。
橋爪◆故能久親王遺書を作り置かれ薨去後にこれを開封したるに、
稲子を扶持する事の遺言ありたるも富子妃の事については何らの遺言なかりしため、
富子妃これを怒り遺言書を取り上げこれを実行せず。


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◆北白川宮成久王
1887-1923 明治20-大正12 35歳没

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夫妻でフランスに留学中に交通事故を起こして成久王は死亡、
同乗していた房子妃と朝香宮鳩彦王が重傷を負った。
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■妻 明治天皇の娘 房子内親王
1890-1974 明治23-昭和49 84歳没


フランスへ向かう船上にて

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フランスにて



当時珍しいカラー写真

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フランスにて カラー写真 左から 房子妃 フランス人御用掛エリザベート・ソビー 成久王

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左から 成久王 お世話係エリザベート・ソビー 房子妃 朝香宮鳩彦王

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事故現場

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●永久王   次代当主
●美年子女王 蜂須賀正氏侯爵と婚約解消・立花種勝子爵と結婚
●佐和子女王 東園基文子爵と結婚
●多恵子女王 水戸徳川圀順公爵の子徳川圀禎の1/3番目の妻・本人死別


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枢密院議長・男爵 倉富勇三郎の日記 大正10年4月7日

宮内官僚石原健三の言葉

陸軍にては東久邇宮稔彦王には充分に期待を有しおるも、
北白川宮成久王に対してはさほど期待しおらず。
よりて一通り外遊さられたそれにて気が済むべしと言うぐらいにて、
1年の期限も陸軍で定めたる様にて言いおりたり。


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枢密院議長・男爵 倉富勇三郎の日記 大正10年5月23日

倉富&北白川宮付事務官山辺知春の会話

山辺◆成久王洋行の事は大概殿下の御希望の如く決定したる。
倉富◆年限は2年ぐらいに決したりや。
山辺◆しかり。フランスに1年、イギリスに半年ぐらいの予定なり。
倉富◆房子妃はいつ頃御渡欧の予定なりや。
山辺◆成久王フランス滞在の半ば頃なるべし。
倉富◆成久王はいつ頃御出発のおつもりなりや。
山辺◆宮内大臣は皇太子御帰朝後の方よろしき様の話なるも、
成久王は一日も早き方を望まれおれり。


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◆北白川宮永久王
1910-1940 明治43-昭和15 30歳没

*陸軍大学校卒業後に赴任した蒙古で飛行機のプロペラに巻き込まれて死亡


■妻 尾張系徳川義恕男爵の娘 祥子
1916- 大正5-

*24歳で未亡人となる。 女官長となり長く香淳皇后に仕えた。


●道久王  次代当主
●肇子女王 島津忠広公爵と結婚




◆北白川道久王
1937- 昭和12-


■妻 島津忠承公爵の娘 慶子
1943- 昭和18-


●尚子
●宣子
●明子





北白川宮家 その1

  • author: easthall
  • 2001/02/16


東京本邸 芝区高輪南 (現:港区高輪)

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東京豊島別邸

横須賀別邸

日光別邸

軽井沢別邸

葉山別邸




◆北白川宮智成親王 伏見宮邦家親王の子・北白川宮を創設
1856-1872 安政03-明治05 15歳没




◆北白川宮能久親王 初代智成親王の兄/伏見宮邦家親王の子 
1847-1895 弘化04-明治28 48歳没

*ドイツに留学するがなかなか帰国せず、
ベルタ・フォン・テッタウ男爵未亡人と勝手に結婚して、現地の新聞に結婚広告まで出した。
明治天皇は激怒、単身日本に連れ戻された。

*日清戦争中、台湾に出征しマラリアのため現地で死亡。

*お騒がせ宮様の一人である。側室も多く、庶子も多い。
死後にも認知されていなかった庶子が現れ大問題となった。


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■前妻 土佐藩主山内容堂の娘 光子 離婚 妹は東伏見宮依仁親王の前妻八重子
1859- 安政06-

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後の梨本宮守正王と

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■後妻 伊達宗徳侯爵の娘 富子
1887-1923 文久02-昭和11 74歳没

*何かと口をはさみたがる、やかまし屋の宮妃の一人であった。







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●側室の子 恒久王 竹田宮恒久王となる
●後妻の子 成久王 次代当主
●側室の子 輝久王 小松輝久侯爵となる 島津忠済公爵の娘薫子と結婚
●愛人の子 芳之  能久親王死後認知  二荒芳之伯爵となる 早逝
●愛人の子 正雄  能久親王死後認知  上野正雄伯爵となる 伊達宗基伯爵の娘恵以子と結婚

●側室の子 満子女王 甘露寺受長伯爵と結婚
●側室の子 貞子女王 有馬賴寧伯爵と結婚
●側室の子 武子女王 藤堂高紹伯爵と婚約解消・保科正昭子爵と結婚
●側室の子 拡子女王 二荒芳徳伯爵と結婚


男子左から 成久王 恒久王 輝久王
女子左から 貞子女王 満子女王 武子女王

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左から 貞子女王 満子女王 拡子女王 武子女王

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●恒久王 竹田宮恒久王となる

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●輝久王 小松輝久侯爵となる 島津忠済公爵の娘薫子と結婚




●正雄 上野正雄伯爵となる




●満子女王 甘露寺受長伯爵と結婚




●貞子女王 有馬賴寧伯爵と結婚




●武子女王 藤堂高紹伯爵と婚約解消・保科正昭子爵と結婚




●拡子女王 二荒芳德伯爵と結婚

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◆北白川宮成久王
1887-1923 明治20-大正12 35歳没


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夫妻でフランスに留学中に交通事故を起こして成久王は死亡、
同乗していた房子妃と朝香宮鳩彦王が重傷を負った。
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■妻 明治天皇の娘 房子内親王
1890-1974 明治23-昭和49 84歳没





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●永久王   次代当主
●美年子女王 蜂須賀正氏侯爵と婚約解消・立花種勝子爵と結婚
●佐和子女王 東園基文子爵と結婚
●多恵子女王 水戸徳川圀順公爵の子徳川圀禎の1/3番目の妻・本人死別


●美年子女王 蜂須賀正氏侯爵と婚約解消・立花種勝子爵と結婚

*蜂須賀正氏侯爵と婚約していたが、破談となった。



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●佐和子女王 東園基文子爵と結婚





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●多惠子女王 徳川圀順公爵の子徳川圀禎の1/3番目の妻・本人死別








◆北白川宮永久王
1910-1940 明治43-昭和15 30歳没

*陸軍大学校卒業後に赴任した蒙古で飛行機のプロペラに巻き込まれて死亡



■妻 尾張系徳川義恕男爵の娘 祥子
1916- 大正5-

*24歳で未亡人となる。女官長となり長く香淳皇后に仕えた。

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●道久王  次代当主
●肇子女王 島津忠広公爵と結婚




◆北白川道久王
1937- 昭和12-


■妻 島津忠承公爵の娘 慶子
1943- 昭和18-


●尚子
●宣子
●明子





賀陽宮家 その3

  • author: easthall
  • 2001/02/15


恒憲王&敏子妃 アメリカにて

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ベーブ・ルースと





賀陽宮家 その2

  • author: easthall
  • 2001/02/14


●由紀子女王 町尻量弘子爵の子町尻量基夫人
●恒憲王   次代当主
●佐紀子女王 山階宮武彦王妃 関東大震災で死亡


●由紀子女王 町尻量弘子爵の子町尻量基夫人



●佐紀子女王 山階宮武彦王と結婚 関東大震災で死亡

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立つ左から 治憲王 不明 不明 文憲王 健憲王 不明 章憲王 宗憲王 
座る左から 不明 敏子妃 不明 美智子女王
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賀陽宮家 その1

  • author: easthall
  • 2001/02/13


東京本邸 麹町区一番町 (現:千代田区三番町)

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京都別邸
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◆賀陽宮邦憲王
1867-1989 慶応03-明治42 58歳没
もと久邇宮朝彦親王の子 賀陽宮を創設する



■妻 醍醐忠順侯爵の娘 好子
1865-1941 慶応01-昭和16 76歳没

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●由紀子女王 町尻量弘子爵の子町尻量基夫人
●恒憲王   次代当主
●佐紀子女王 山階宮武彦王妃 関東大震災で死亡


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枢密院議長 倉富勇三郎男爵の日記 大正09年05月14日

宮内官僚小原駩吉の台詞

好子妃は邦憲王の無能なりしに懲り
その娘は財産なきも相当の材幹ある人に嫁さしめたいとの希望にて
由紀子女王は町尻量基に嫁さしめられ、
町尻は家計豊かならず由紀子夫人は子を負いて電車に乗るというぐらいにて、
自分らの妻よりも苦労しおれども少しも不平なく好子妃もこれに満足しおられ、
佐紀子女王も相当の人に嫁さしめたいと言いおらる。

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◆賀陽宮恒憲王
1900-1978 明治33-昭和53 77歳没
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■妻 九条道実公爵の娘 敏子
1903-1995 明治36-平成07 91歳没
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●邦寿王    次代当主
●美智子女王 徳大寺実厚公爵の子徳大寺斉定と離婚
●治憲王
●章憲王
●文憲王
●宗憲王
●健憲王


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枢密院議長 倉富勇三郎男爵の日記 大正10年05月20日

宮内官僚井上勝之助侯爵の部屋へ行き、
恒憲王の自動車が京都にて小児を轢き殺したる事の状を問う。
井上「1人は即死し、1人は軽傷なる趣。
明後日は結婚披露のため園遊会を開かるる予定なりしも延期せらるる事に決したり」と言う。


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倉富日記 大正10年10月07日

宮内官僚小原駩吉の台詞

敏子妃が九条家より従い行きたる老女がおりたるが、
恒憲王がこれを嫌い敏子妃に迫りてこれを返さしむる事となりとて、
賀陽宮家宮務監督工藤一記もその不可なる事を述べ、
賀陽宮家御用取扱大森鍾一もこれを説きたるも、恒憲王が承知せられざるゆえ、
大森が早朝自分の家に来り「何とか処置しくれよ」と言うにつき、
恒憲王に面し種々これを説きたれども承知せられず。


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倉富日記 大正11年07月08日

倉富&賀陽宮家宮務監督工藤一記の会話

工藤◆恒憲王先頃より脳の具合悪しとて学校も休み
夫婦にて田健治郎男爵の別荘に転地せられおり。
陸軍軍医総監平井政遒は「別段の容態を見出さず」と言うも、
恒憲王は頭痛がするとか何とか苦情多し。もし単なる懶惰ならばこれを矯正せざるべからざるも、
平井がかつて「恒憲王の体格は左の方が小さき所あり」と言いたる事もあり。
しかして母好子妃はむしろ愛に溺れおらるる方なるにつき、無理にこれを督励する訳にはいかず。
倉富◆もし診断を拒まれる様ならば、虚病と認めて諌争しざるべからざる。


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<恒憲王の不倫問題>

倉富日記 大正13年06月09日

小原駩吉の台詞

恒憲王が侍女に戯れらるる事あり。困りおりたる所その侍女が暇を乞うて帰りたるゆえ、
ひとまず安心せり。しかるにその後も御殿に来る事あり。
御付武官が恒憲王の反古紙を調べたるに、タイプライターにて打ちたる反古あり。
王殿下よりその侍女に送らるる案文にて
「避妊法を用いれば大丈夫なるゆえ応諾せよ」との事を書きありたる趣。


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<恒憲王の不倫問題>

倉富日記 大正13年09月22日

小原駩吉との約に違い恒憲王が二宮に行きおらるる時、
賀陽宮家より解雇したる婦人を呼び寄せられ、小原は恒憲王にこれを詰責したるところ、
恒憲王は「宮務監督中島正武が承諾せり」と言わるるにつき、
自分はその事についてはもはや何も言わず、
小原との約束に違背せらる事だけはこれを明言すと言い置きたり。


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◆賀陽宮邦寿王
1922-1986 大正11-昭和61 63歳没
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■妻 政治家津雲国利の娘 龍子 離婚