◆123代 大正天皇/嘉仁親王 122代明治天皇の子
1879-1926 47歳没
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権命婦 樹下定江〈松の局〉1927年
大正天皇様は申すも畏いことながら、御幼少より御健にましまさず、明治大帝はもとより御側の方々も一方ならず御心配申し上げ、朝夕神仏に御成長をお祈り奉ったほどでございました。
御大患御本復の御祝の際には明治大帝は御心から御満足そうに御酒を召し上り、畏くもお嬉し涙さえ拭われつつ、「これでわしも安心した。あの人に万一のことがあったら国民に対しても相済まぬわけで本当にどうしようと思ったが、まあめでたいことじゃ」とお洩し遊ばすのを承り、まことに畏れ多く思ったことがございます。
その後 御成人とともにますます御健康にならせられ、ついに皇太子妃殿下をお迎え遊ばす佳き日が参りました。
その折りの御上の御満足と申せば、いままでかつて拝し奉ったことのないほどでございました。
皇孫殿下すなわち昭和天皇の御降誕のお喜び、それも拝察するにあまりあります。
御安産のお知らせの後は一日も早く皇孫殿下の御顔を御覧遊ばしたい御様子にお見受け申しましたが、初の御参内は御産服と申して30日間は御遠慮になりますため、その日をどんなに御待ち受けあそばしたかわかりません。
まるまるとお太り遊ばされた皇孫様が賢所の御拝を済まされ御内儀で御対面遊ばされるその日の大内山は、本当に瑞気のたなびくを覚えました。
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明治・大正・昭和の天皇に仕えた 小川金男
大正天皇は金口のエジプト煙草か葉巻を相当お喫いになった。
貞明皇后は細巻の金口煙草をお好みだった。
大正陛下は玉突がお好きで、女官なども御相手した。
明治陛下はことに乗馬がお好きであったが、大正陛下は馬はあまりおやりにならなかったのではないかと思う。
ふだん陛下がお乗りになっているのを、私はお見かけしたことがない。
明治天皇が崩御になって大正天皇が御位につかれたその直後、宮内省から私たち仕人に次のような訓示があった。
「陛下は誰にでも気安く話しかけられるから、仕人は決して陛下の御前に姿をお見せしてはならぬ」
私が最初に大正陛下の供奉をしたのは、明治陛下の御大葬が青山で行われた夜であった。
深夜に青山から半蔵門までを馬車でまっしぐらに駆けて行った時の光景がありありと瞼に浮かぶ。
真夜中であたりがシンと寝静まっている中を馬蹄の音がカッカッと強く鳴り響いた。
沿道には拝観の人影がかすかに見える。
馬車は全速力で飛んで行く。
危なくてしようがない。
私は馬車の上から人影に向かって「どけ!」「どけ!」と怒鳴ったのを今でも覚えている。
私はあの時 初めて陛下の御気性の一端に触れたのであった。
陛下は御乗物を早く駆らせて喜ばれるという無邪気なところがおありになった。
軍艦に乗られても「もっと速力を出せ」と命令されるので困ると海軍の将校から聞いたこともあったが、あの御大葬の夜は陛下御自身が主馬頭の藤波言忠に向かって、「御所まで何分で帰り着くことができるか」と御下問になっているのをちらとお見受けしたのを覚えている。
その結果があの馬車の疾駆となったのであった。
御幼少の時、植木屋が桜の木を切っているのを陛下が熱心に御覧になっていた。
陛下は何本かの大きさの違った桜を指差され、御供の者に「それぞれ種類の違ったノコギリで何分で切ることができるか」とお尋ねになったので、御供の者はお答えができなくて弱った。
すると陛下は「これは何分、あれは何分」と一々御説明になったので、植木屋がきっているのを御自分で時間を計っておいでになったことがわかって謎が解けたことがあった。
また御幼少の頃 沼津で山中を御運動の際、陛下の御足があまりに早いので侍従がついて行くことができずに、とうとう陛下を見失ってしまった。
それからいくらお探ししても陛下が見つからず、ついに夜になってしまった。
供奉の者が青くなって大騒ぎをしたのはもちろんである。
するとひょっこり陛下が犬を一匹つれてお帰りになったので、ようやく一同胸をなでおろしたということがあった。
こうした御幼少の頃の話にもうかがわれるような御性質、ちょっと人を困らせてやろうといった王者の無邪気さや、それもどこか神経の鋭敏さの見えるやり方は陛下が御成人になられてからも随所にのぞかれたのであった。
ある時 御運動で養鶏所に行かれた。
係の者がお喜びになるようにと思って鶏小屋に卵を入れて置いたのであるが、陛下はそれを御覧になって「鶏というものは日付の書いてある卵を産むものなのか」と言われたので、係の者が恐縮したことがあった。
当時養鶏所で産まれた卵には一つ一つ何月何日の日付印が捺してあったのであるが、それをうっかり係の者が置いておいたのである。
また陛下は大勢の者が集まるところで御自分の御存知ない者がお目にとまると、必ずその人について御尋ねがあり、どこの者か・今何をしているか・親はいるのか・子供は何人あるのかというふうに詳細を極めたものであったので、御付の者がしばしがその人の所に何回も往復してお答えするという具合であった。
毎日の日課である御運動には必ずブランデーを持ってゆかれたもので、御自分でもよくお飲みになったが、侍従も御相手をさせられた。
そして侍従を酔わせてお楽しみになるというふうだったので侍従の方でも困ってしまって、しまいには大膳職の方であらかじめ麦茶をブランデーの瓶に詰めておいて侍従の方にはその麦茶を注ぐようにした。
それからは侍従がなかなか酔わない。
敏感な陛下もさすがにこれだけはおわかりにならなかったらしく、「お前はこのごろずいぶん強くなったな」などとおっしゃったそうである。
陛下が御不例になった年の夏には、私も陛下の供奉をして日光御用邸へ行っていた。
ある日陛下は御運動で日光山から御霊屋に回られて、その途中御脚に神経痛を御覚えになり、石段を御降りになることができず、侍従徳川義恕に背負われて降りてこられた。
その年の暮 葉山に行幸になったが、そこで御病状がさらに悪化し、激痛のため脳症を起こされて、翌年から健忘症におかかりになったのである。
陛下は御自分の御身体については神経質なほど気をお使いになっておられた。
陛下は御病気後、いっそう神経質になられた。
御運動の際に侍従がリンゴを差し上げると、そのリンゴが新鮮であるかどうか侍従にお尋ねになったので、侍従が新鮮であることを申し上ると、重ねて「誰が食べても当たらないか」と念を押されるので、当らない旨をお答えすると、初めて御安心の御様子で、しばらく一同を見回してからお気に入りの一人にそのリンゴをお与えになったという。
その時には神経痛もよほどお悪く、手の指を自由にお曲げになれないので、侍従が手のひらにリンゴをお乗せして、それから一本一本指を曲げて差し上げた。
このように陛下は陰ひなたある者や作為を極端に嫌悪されたが、後に陛下の御病気が進むにつれて、それがむき出しの嫌悪の感情になって表れたのであった。
陛下が御病気であるということから女官の中にはうかうかと陰ひなたの行動をする者もあったわけだが、陛下にはそういう行動が敏感におわかりになったらしく、そういう女官が御靴をおそろえした場合などは、陛下は決してその靴をお履きにならなかった。
崩御の前年になるとすっかり御脳にきてしまい、ひどい健忘症におかかりになったのである。
それでも運動をしなければ御身体に悪いと御考えになっていた御様子で、よく廊下を歩いておいでになるのを御見受けした。
廊下を御歩きになりながら、御自分の気をひきたて鼓舞するようによく軍歌を唱われた。
その軍歌は決まってあの「道は六百八十里」というのであるが、健忘症にかかっておられたから、「道は六百八十里、長門の」とまで唱われてもその後をどうしても御思い出しになれない。
それでまた「道は六百八十里、長門の」と御唱いになる。
それをしょっちゅう繰り返されながら、力づけるような御様子で陛下が廊下を歩いておいでになる。
その御姿を拝して、私はなんとも言えないおいたわしい感じを受けたものであった。
当時葉山の御用邸には九官鳥を飼ってあったが、その九官鳥がいつしか陛下の「道は六百八十里」を覚えこんでしまって、陛下が唱っておいでにならない時でも森閑と静まり返った御廊下で「道は六百八十里」とひとり唱うので、女官などはよく陛下とお間違えした。
当時御用掛をしていた稲田・三浦・平井・青山など当時における内科医の権威たちが拝診したのであったが、御容態は非常によろしい、万々歳であるという結果を得て皇后陛下に言上したのであった。
各博士とも葉山を引き上げ、東京に帰ってしまったのである。
ところが翌日から御病状が急に変わって大騒ぎとなった。
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近衛兵 伊波南哲
陛下はフロックコートに山高帽といういでたちで4~5人の侍従に支えられて御姿を見せ、間断なく頭を上下に振りながら始終ニコニコしておられた。
このたびの関東大震災の御衝撃で、いよいよ御病勢が御亢進遊ばされたと漏れ承る。
あの御不自由なおいたましい御姿を拝し奉って、陛下の股肱の臣としてのわれわれ軍人は、いかにして一天万乗の御宸襟を安んじ奉ればよいのか、断腸の思いがする。
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『高松宮日記』
人の死に直面したのは、おもう様のおかくれになった時。
午後侍医頭や侍医がずっと並んで、御廊下の外に侍従や武官がずっと控えたことがあったが、その時はそれなりに解散した。
そしてその夜にまた並んだ時におかくれになった。
お水をあげてから、八代〔侍医八代豊雄〕がおつむを持ってあげた、お目の上にガーゼをかけた。
御上が手を御合せになって拝んでいらっしゃったのを、まことに不思議のように拝した。
あの宵のうちだったろうか、痙攣の御足を押えて、その時もおたた様はすぐに手を洗うようにおっしゃったので洗った。
風と雪がただごとならず、外の様子を見た。
その数日前だったか、おぐしがとても臭かったことがあった。
いや、おかくれの日だったかもしれぬ。
御枕上に行っておつむを押えるのがなかなか臭かった。
本当にすすいであげたかった。
一度下がって出た時にはもう何ともなかった。
その時も御上が押さえて下さっていた。
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■妻 貞明皇后 九条節子 公爵九条道孝の娘
1884-1951 66歳没
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侍従 岡部長章 回想記
宮内官には伝染予防規定というものがありました。
制定されたのは大宮様(貞明皇后)がチフスになられたのが原因と入江侍従から聞かされました。
大膳の方から大宮御所へも人が詰めていて、大膳の係がいろいろ作っていたのです。
だからチフスになるのはおかしいというので侍医がいろいろが調べてみると、大宮様は五摂家の九条家のお生まれで早くから東京府下の農家に里子に出され、その時からお好きなものがあるのです。
それを女官が魚河岸で買ってきて、お側で作って差し上げるのがお楽しみで、この女官奉仕のことを「お清流し」と申したそうで、「お夕食はお清流しで…」という言い方をしていました。
そこから黴菌が入ったので、それをおやめになるように願いを、同時に伝染病予防規定ができたそうです。
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*貞明皇后は自分と同じ誕生日の二男秩父宮を溺愛した。
*三男高松宮より10歳年下の四男生まれてからは末っ子三笠宮を溺愛した。
●迪宮裕仁親王 昭和天皇 久邇宮良子女王と結婚
●淳宮雍仁親王 秩父宮 会津藩主松平容保の孫/外務官僚松平恒雄の娘松平勢津子と結婚
●光宮宣仁親王 高松宮 将軍徳川慶喜の孫/公爵徳川慶久の娘徳川喜久子と結婚
●澄宮崇仁親王 三笠宮 子爵高木正得の娘高木百合子と結婚
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『徳富蘆花日記』
1917年12月29日〔大正天皇の女官烏丸花子退職〕
烏丸花子〈初花の局〉が宮中を出たと新聞にある。
お妾の一人なんめり。
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明治・大正・昭和の天皇に仕えた 小川金男
1913年頃、侍従長徳大寺実則の推薦で貞明皇后のお控えとして入ってきた美しい娘がいた。
彼女は先祖に大納言を持つ烏丸伯爵の娘で、代々権典侍の資格のある家柄であった。
小柄な娘であったが、その美しさは美人の多い女官の中でも、もちろん世間でもまれにみるほどであった。
丸顔で、眉が秀でていて、どこまでも冴えた二つの大きな美しい目を持っていた。
笑うとエクボが出た。
しかしそれほどの美人でいながら少しも剣がなかった。
彼女は権掌侍になり、初雪の局〔烏丸花子〕という源氏名をいただいた。
それから7年ほど経ったある日、私は私の家の主人筋にあたる岡山池田侯爵から不意に呼び出しを受けた。
「君からひとつ皇后宮大夫大森鍾一に伝えてもらいたいことがあるのでね、それで呼んだのだ。
『一人の女官が承知すれば無事に納まることだからよろしくお頼みする』と、ただそう言ってもらえばいいのだ。お願いしたよ」
それだけであった。
私はすぐ大森大夫の官邸に行って、池田侯爵の言葉を直々大森大夫に伝えた。
ところが大森大夫はいつになく狼狽した様子で𠮟りつけるように言った。
「この問題は君などが口を挟むことじゃない!引っ込んでいたまえ!」
私は呆然として引き下がるより仕方がなかった。
いろいろ考えてみたか、かいもく見当がつかない。
癪にも触るし、気も滅入る。
自宅に戻ると大森大夫から使いが来ていてすぐ来てくれと言う。
なにがなんだかわからないが、官邸に引き返して大森大夫の前に出ると、さっきとは打って変わって言葉である。
「先刻は失礼した。君の家は池田の家臣だったんだね。しかし烏丸権掌侍の問題にはちゃんとした証拠が挙がっているんだよ。これはどうしようもないのだ。一つこのことは絶対に秘密にして手を引いてもらえまいか」とさながら懇願する態度である。
私は手を引くも引かぬもない、ただ池田侯爵の言葉を伝えただけである。
もちろん私は承知した旨を述べて引き下がったが、烏丸権掌侍とは意外であった。
かえって秘密にされていた事件の内容に触れたことになってしまった。
翌朝早く不意に父が私を訪れてきた。
「烏丸さんの問題はよほど大事件らしい。お前ごとき身分では荷が重すぎる。早く手を引いた方がいい」
そう言って私が質問するのも恐れるかのように慌てて帰ってしまった。
池田侯爵の姉に当る人が烏丸権掌侍の兄のところに嫁に行っていたから、両家は親類であったのだ。
烏丸権掌侍は退官になった。
その後 縁続きの武者小路家に出入りしていた神官と結婚した。
おそらくその神官が灸点に詳しかったのであろう。
一時原宿で灸点をやって相当に流行っているということも聞いたが、近ごろ新聞に〈烏丸灸〉の広告が出ているのを見ると、やはり今も灸点師としてそれ相当の暮らしを立てているのだろう。
10年ぐらい前にある人から「縁談の世話をしようと思っているんだが、その娘さんは大正天皇の御落胤だという噂のある人でねえ」と言うので、
「それは烏丸さんの娘さんじゃないかね?」と言うと、
「そうなんだよ」と言うことであった。
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1879-1926 47歳没
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権命婦 樹下定江〈松の局〉1927年
大正天皇様は申すも畏いことながら、御幼少より御健にましまさず、明治大帝はもとより御側の方々も一方ならず御心配申し上げ、朝夕神仏に御成長をお祈り奉ったほどでございました。
御大患御本復の御祝の際には明治大帝は御心から御満足そうに御酒を召し上り、畏くもお嬉し涙さえ拭われつつ、「これでわしも安心した。あの人に万一のことがあったら国民に対しても相済まぬわけで本当にどうしようと思ったが、まあめでたいことじゃ」とお洩し遊ばすのを承り、まことに畏れ多く思ったことがございます。
その後 御成人とともにますます御健康にならせられ、ついに皇太子妃殿下をお迎え遊ばす佳き日が参りました。
その折りの御上の御満足と申せば、いままでかつて拝し奉ったことのないほどでございました。
皇孫殿下すなわち昭和天皇の御降誕のお喜び、それも拝察するにあまりあります。
御安産のお知らせの後は一日も早く皇孫殿下の御顔を御覧遊ばしたい御様子にお見受け申しましたが、初の御参内は御産服と申して30日間は御遠慮になりますため、その日をどんなに御待ち受けあそばしたかわかりません。
まるまるとお太り遊ばされた皇孫様が賢所の御拝を済まされ御内儀で御対面遊ばされるその日の大内山は、本当に瑞気のたなびくを覚えました。
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明治・大正・昭和の天皇に仕えた 小川金男
大正天皇は金口のエジプト煙草か葉巻を相当お喫いになった。
貞明皇后は細巻の金口煙草をお好みだった。
大正陛下は玉突がお好きで、女官なども御相手した。
明治陛下はことに乗馬がお好きであったが、大正陛下は馬はあまりおやりにならなかったのではないかと思う。
ふだん陛下がお乗りになっているのを、私はお見かけしたことがない。
明治天皇が崩御になって大正天皇が御位につかれたその直後、宮内省から私たち仕人に次のような訓示があった。
「陛下は誰にでも気安く話しかけられるから、仕人は決して陛下の御前に姿をお見せしてはならぬ」
私が最初に大正陛下の供奉をしたのは、明治陛下の御大葬が青山で行われた夜であった。
深夜に青山から半蔵門までを馬車でまっしぐらに駆けて行った時の光景がありありと瞼に浮かぶ。
真夜中であたりがシンと寝静まっている中を馬蹄の音がカッカッと強く鳴り響いた。
沿道には拝観の人影がかすかに見える。
馬車は全速力で飛んで行く。
危なくてしようがない。
私は馬車の上から人影に向かって「どけ!」「どけ!」と怒鳴ったのを今でも覚えている。
私はあの時 初めて陛下の御気性の一端に触れたのであった。
陛下は御乗物を早く駆らせて喜ばれるという無邪気なところがおありになった。
軍艦に乗られても「もっと速力を出せ」と命令されるので困ると海軍の将校から聞いたこともあったが、あの御大葬の夜は陛下御自身が主馬頭の藤波言忠に向かって、「御所まで何分で帰り着くことができるか」と御下問になっているのをちらとお見受けしたのを覚えている。
その結果があの馬車の疾駆となったのであった。
御幼少の時、植木屋が桜の木を切っているのを陛下が熱心に御覧になっていた。
陛下は何本かの大きさの違った桜を指差され、御供の者に「それぞれ種類の違ったノコギリで何分で切ることができるか」とお尋ねになったので、御供の者はお答えができなくて弱った。
すると陛下は「これは何分、あれは何分」と一々御説明になったので、植木屋がきっているのを御自分で時間を計っておいでになったことがわかって謎が解けたことがあった。
また御幼少の頃 沼津で山中を御運動の際、陛下の御足があまりに早いので侍従がついて行くことができずに、とうとう陛下を見失ってしまった。
それからいくらお探ししても陛下が見つからず、ついに夜になってしまった。
供奉の者が青くなって大騒ぎをしたのはもちろんである。
するとひょっこり陛下が犬を一匹つれてお帰りになったので、ようやく一同胸をなでおろしたということがあった。
こうした御幼少の頃の話にもうかがわれるような御性質、ちょっと人を困らせてやろうといった王者の無邪気さや、それもどこか神経の鋭敏さの見えるやり方は陛下が御成人になられてからも随所にのぞかれたのであった。
ある時 御運動で養鶏所に行かれた。
係の者がお喜びになるようにと思って鶏小屋に卵を入れて置いたのであるが、陛下はそれを御覧になって「鶏というものは日付の書いてある卵を産むものなのか」と言われたので、係の者が恐縮したことがあった。
当時養鶏所で産まれた卵には一つ一つ何月何日の日付印が捺してあったのであるが、それをうっかり係の者が置いておいたのである。
また陛下は大勢の者が集まるところで御自分の御存知ない者がお目にとまると、必ずその人について御尋ねがあり、どこの者か・今何をしているか・親はいるのか・子供は何人あるのかというふうに詳細を極めたものであったので、御付の者がしばしがその人の所に何回も往復してお答えするという具合であった。
毎日の日課である御運動には必ずブランデーを持ってゆかれたもので、御自分でもよくお飲みになったが、侍従も御相手をさせられた。
そして侍従を酔わせてお楽しみになるというふうだったので侍従の方でも困ってしまって、しまいには大膳職の方であらかじめ麦茶をブランデーの瓶に詰めておいて侍従の方にはその麦茶を注ぐようにした。
それからは侍従がなかなか酔わない。
敏感な陛下もさすがにこれだけはおわかりにならなかったらしく、「お前はこのごろずいぶん強くなったな」などとおっしゃったそうである。
陛下が御不例になった年の夏には、私も陛下の供奉をして日光御用邸へ行っていた。
ある日陛下は御運動で日光山から御霊屋に回られて、その途中御脚に神経痛を御覚えになり、石段を御降りになることができず、侍従徳川義恕に背負われて降りてこられた。
その年の暮 葉山に行幸になったが、そこで御病状がさらに悪化し、激痛のため脳症を起こされて、翌年から健忘症におかかりになったのである。
陛下は御自分の御身体については神経質なほど気をお使いになっておられた。
陛下は御病気後、いっそう神経質になられた。
御運動の際に侍従がリンゴを差し上げると、そのリンゴが新鮮であるかどうか侍従にお尋ねになったので、侍従が新鮮であることを申し上ると、重ねて「誰が食べても当たらないか」と念を押されるので、当らない旨をお答えすると、初めて御安心の御様子で、しばらく一同を見回してからお気に入りの一人にそのリンゴをお与えになったという。
その時には神経痛もよほどお悪く、手の指を自由にお曲げになれないので、侍従が手のひらにリンゴをお乗せして、それから一本一本指を曲げて差し上げた。
このように陛下は陰ひなたある者や作為を極端に嫌悪されたが、後に陛下の御病気が進むにつれて、それがむき出しの嫌悪の感情になって表れたのであった。
陛下が御病気であるということから女官の中にはうかうかと陰ひなたの行動をする者もあったわけだが、陛下にはそういう行動が敏感におわかりになったらしく、そういう女官が御靴をおそろえした場合などは、陛下は決してその靴をお履きにならなかった。
崩御の前年になるとすっかり御脳にきてしまい、ひどい健忘症におかかりになったのである。
それでも運動をしなければ御身体に悪いと御考えになっていた御様子で、よく廊下を歩いておいでになるのを御見受けした。
廊下を御歩きになりながら、御自分の気をひきたて鼓舞するようによく軍歌を唱われた。
その軍歌は決まってあの「道は六百八十里」というのであるが、健忘症にかかっておられたから、「道は六百八十里、長門の」とまで唱われてもその後をどうしても御思い出しになれない。
それでまた「道は六百八十里、長門の」と御唱いになる。
それをしょっちゅう繰り返されながら、力づけるような御様子で陛下が廊下を歩いておいでになる。
その御姿を拝して、私はなんとも言えないおいたわしい感じを受けたものであった。
当時葉山の御用邸には九官鳥を飼ってあったが、その九官鳥がいつしか陛下の「道は六百八十里」を覚えこんでしまって、陛下が唱っておいでにならない時でも森閑と静まり返った御廊下で「道は六百八十里」とひとり唱うので、女官などはよく陛下とお間違えした。
当時御用掛をしていた稲田・三浦・平井・青山など当時における内科医の権威たちが拝診したのであったが、御容態は非常によろしい、万々歳であるという結果を得て皇后陛下に言上したのであった。
各博士とも葉山を引き上げ、東京に帰ってしまったのである。
ところが翌日から御病状が急に変わって大騒ぎとなった。
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近衛兵 伊波南哲
陛下はフロックコートに山高帽といういでたちで4~5人の侍従に支えられて御姿を見せ、間断なく頭を上下に振りながら始終ニコニコしておられた。
このたびの関東大震災の御衝撃で、いよいよ御病勢が御亢進遊ばされたと漏れ承る。
あの御不自由なおいたましい御姿を拝し奉って、陛下の股肱の臣としてのわれわれ軍人は、いかにして一天万乗の御宸襟を安んじ奉ればよいのか、断腸の思いがする。
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『高松宮日記』
人の死に直面したのは、おもう様のおかくれになった時。
午後侍医頭や侍医がずっと並んで、御廊下の外に侍従や武官がずっと控えたことがあったが、その時はそれなりに解散した。
そしてその夜にまた並んだ時におかくれになった。
お水をあげてから、八代〔侍医八代豊雄〕がおつむを持ってあげた、お目の上にガーゼをかけた。
御上が手を御合せになって拝んでいらっしゃったのを、まことに不思議のように拝した。
あの宵のうちだったろうか、痙攣の御足を押えて、その時もおたた様はすぐに手を洗うようにおっしゃったので洗った。
風と雪がただごとならず、外の様子を見た。
その数日前だったか、おぐしがとても臭かったことがあった。
いや、おかくれの日だったかもしれぬ。
御枕上に行っておつむを押えるのがなかなか臭かった。
本当にすすいであげたかった。
一度下がって出た時にはもう何ともなかった。
その時も御上が押さえて下さっていた。
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■妻 貞明皇后 九条節子 公爵九条道孝の娘
1884-1951 66歳没
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侍従 岡部長章 回想記
宮内官には伝染予防規定というものがありました。
制定されたのは大宮様(貞明皇后)がチフスになられたのが原因と入江侍従から聞かされました。
大膳の方から大宮御所へも人が詰めていて、大膳の係がいろいろ作っていたのです。
だからチフスになるのはおかしいというので侍医がいろいろが調べてみると、大宮様は五摂家の九条家のお生まれで早くから東京府下の農家に里子に出され、その時からお好きなものがあるのです。
それを女官が魚河岸で買ってきて、お側で作って差し上げるのがお楽しみで、この女官奉仕のことを「お清流し」と申したそうで、「お夕食はお清流しで…」という言い方をしていました。
そこから黴菌が入ったので、それをおやめになるように願いを、同時に伝染病予防規定ができたそうです。
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*貞明皇后は自分と同じ誕生日の二男秩父宮を溺愛した。
*三男高松宮より10歳年下の四男生まれてからは末っ子三笠宮を溺愛した。
●迪宮裕仁親王 昭和天皇 久邇宮良子女王と結婚
●淳宮雍仁親王 秩父宮 会津藩主松平容保の孫/外務官僚松平恒雄の娘松平勢津子と結婚
●光宮宣仁親王 高松宮 将軍徳川慶喜の孫/公爵徳川慶久の娘徳川喜久子と結婚
●澄宮崇仁親王 三笠宮 子爵高木正得の娘高木百合子と結婚
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『徳富蘆花日記』
1917年12月29日〔大正天皇の女官烏丸花子退職〕
烏丸花子〈初花の局〉が宮中を出たと新聞にある。
お妾の一人なんめり。
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明治・大正・昭和の天皇に仕えた 小川金男
1913年頃、侍従長徳大寺実則の推薦で貞明皇后のお控えとして入ってきた美しい娘がいた。
彼女は先祖に大納言を持つ烏丸伯爵の娘で、代々権典侍の資格のある家柄であった。
小柄な娘であったが、その美しさは美人の多い女官の中でも、もちろん世間でもまれにみるほどであった。
丸顔で、眉が秀でていて、どこまでも冴えた二つの大きな美しい目を持っていた。
笑うとエクボが出た。
しかしそれほどの美人でいながら少しも剣がなかった。
彼女は権掌侍になり、初雪の局〔烏丸花子〕という源氏名をいただいた。
それから7年ほど経ったある日、私は私の家の主人筋にあたる岡山池田侯爵から不意に呼び出しを受けた。
「君からひとつ皇后宮大夫大森鍾一に伝えてもらいたいことがあるのでね、それで呼んだのだ。
『一人の女官が承知すれば無事に納まることだからよろしくお頼みする』と、ただそう言ってもらえばいいのだ。お願いしたよ」
それだけであった。
私はすぐ大森大夫の官邸に行って、池田侯爵の言葉を直々大森大夫に伝えた。
ところが大森大夫はいつになく狼狽した様子で𠮟りつけるように言った。
「この問題は君などが口を挟むことじゃない!引っ込んでいたまえ!」
私は呆然として引き下がるより仕方がなかった。
いろいろ考えてみたか、かいもく見当がつかない。
癪にも触るし、気も滅入る。
自宅に戻ると大森大夫から使いが来ていてすぐ来てくれと言う。
なにがなんだかわからないが、官邸に引き返して大森大夫の前に出ると、さっきとは打って変わって言葉である。
「先刻は失礼した。君の家は池田の家臣だったんだね。しかし烏丸権掌侍の問題にはちゃんとした証拠が挙がっているんだよ。これはどうしようもないのだ。一つこのことは絶対に秘密にして手を引いてもらえまいか」とさながら懇願する態度である。
私は手を引くも引かぬもない、ただ池田侯爵の言葉を伝えただけである。
もちろん私は承知した旨を述べて引き下がったが、烏丸権掌侍とは意外であった。
かえって秘密にされていた事件の内容に触れたことになってしまった。
翌朝早く不意に父が私を訪れてきた。
「烏丸さんの問題はよほど大事件らしい。お前ごとき身分では荷が重すぎる。早く手を引いた方がいい」
そう言って私が質問するのも恐れるかのように慌てて帰ってしまった。
池田侯爵の姉に当る人が烏丸権掌侍の兄のところに嫁に行っていたから、両家は親類であったのだ。
烏丸権掌侍は退官になった。
その後 縁続きの武者小路家に出入りしていた神官と結婚した。
おそらくその神官が灸点に詳しかったのであろう。
一時原宿で灸点をやって相当に流行っているということも聞いたが、近ごろ新聞に〈烏丸灸〉の広告が出ているのを見ると、やはり今も灸点師としてそれ相当の暮らしを立てているのだろう。
10年ぐらい前にある人から「縁談の世話をしようと思っているんだが、その娘さんは大正天皇の御落胤だという噂のある人でねえ」と言うので、
「それは烏丸さんの娘さんじゃないかね?」と言うと、
「そうなんだよ」と言うことであった。
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