東伏見伯爵 東伏見宮系 

  • author: easthall
  • 2001/12/12


◆東伏見邦英
1910-2014 明治43-平成26 104歳没
もと久邇宮邦彦王の子 邦英王 臣籍降下して東伏見伯爵家を創設
後に僧侶となり東伏見慈洽と改名


東伏見宮周子妃と





■妻 亀井茲常伯爵の娘 保子


●邦子
●韶俶
●慈晃
●睿俶





久邇侯爵家 久邇宮系 

  • author: easthall
  • 2001/12/11


◆久邇邦久●子供ナシ
1902-1935 明治35-昭和10 33歳没
もと久邇宮邦彦王の子 邦久王 臣籍降下して久邇侯爵家を創設


■前妻 島津忠済公爵の娘 量子 離婚

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■後妻 松浦靖子爵の娘 董子 相手死別・政治家山本猛夫と再婚離婚
1907-1989 明治40-平成01 82歳没
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小松侯爵家 小松宮系

  • author: easthall
  • 2001/12/10


◆小松輝久
1888-1970 明治21-昭和45 82歳没

*もと北白川宮能久王の子 輝久王 臣籍降下して小松侯爵家を創設






■妻 島津忠済公爵の娘 薫子
1896-1984 明治29-昭和59 88歳没




●彰久 次代当主
●豊久 林規容子と結婚
●舒子 木戸孝澄夫人


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◆小松彰久
1919-1990 大正08-平成02 71歳没


■妻 西竹一男爵の娘 淑子
1925- 大正14-


●揮世久
●友子
●佐智子
●久美子




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明治天皇紀

<小松宮彰仁親王にふりまわされて東伏見家が創設された話>

明治36年01月31日

小松宮彰仁親王の請を充し依仁親王をして彰仁親王の継嗣たる事を止め、
別に一戸を立てて東伏見宮と称せしめたまう。
彰仁親王男子なきをもって故北白川能久親王の第四子輝久王を養うこと子の如くす。
依仁親王は既に継嗣と為れりといえども彰仁親王はこれに遺産を伝うるの意なく、
ついに自ら臣籍に下り別に養子を納れてその跡を継がしめんと欲し、
去年4月まさにイギリスに航せんとするに臨み、宮内大臣田中光顕子爵に告げ詮議するに、
「もし輝久王をして遺産を継がしめ、これを臣籍に列して侯爵を授け、
小松氏を称するを得しめば、自ら臣籍に下るの一事を断念すべく、
依仁親王には別に家号を賜りて一戸を立てしめんと欲する」の旨をもってす。
こと宸聴に達す。天皇、その情を憐みてこれを充し、ついにこの恩命を下したまえるなり。


明治40年2月26日

北白川宮能久王の寡妃富子および小松宮彰仁親王の寡妃頼子相議し、
能久親王の子輝久王をもって彰仁親王の遺跡を継がしめんがため、
皇族の身位を改むることなくその嗣子と為さんと欲し上書してこれを請う。
天皇、侍従長侯爵徳大寺実則をして伊藤博文の意見を徴せしめたまう。
伊藤以為らく「皇族の養子を許さざるは皇室典範に明文あり。
ゆえに皇族の身位を改めずしてその嗣子と為すことは則ち不可なり。
ただし勅旨または情願をもってこれを臣籍に降し、授くるに公侯爵中の一をもってし、
なお適当の資産を下賜し、もってその嗣と為さば則ち可ならん」と。
天皇、伊藤の意見に基づき翌日徳大寺をして命を宮内大臣子爵田中光顕に伝え、
富子・頼子二妃の情願を斥け、輝久王を臣籍に降ろして公侯爵中の一を授け、
小松の家号を賜い、彰仁親王の遺跡を継がしむべき旨懇諭せしめたまう。



彰仁親王は実子が無かったため異腹弟依仁親王を養子に迎えていた。
当然小松宮家は依仁親王によって継がれるはずであったが、
突然彰仁親王は自分の臣籍降下と北白川宮輝久王を養子にすることを主張する。
輝久王は彰仁親王の同腹弟北白川能久親王が側室に生ませた子である。

当然宮内大臣はこれをしりぞける。
すると今度は輝久王だけでも臣籍降下させて侯爵にして自分の遺産を相続させてくれたら、
自分の臣籍降下はあきらめると主張する。
根負けした政府はこれを認め、依仁親王には東伏見宮を創設した。

ところが東伏見宮が創設された直後に彰仁親王が死亡、小松宮家の当主の座が空白となった。
そこで今度は彰仁親王の妻頼子妃と北白川宮輝久王の母富子妃の二人が、
輝久王を臣籍降下させず皇族のまま小松宮家を相続させたいと主張した。
明治天皇はこれを一蹴、当初の予定通り輝久王は臣籍降下して小松輝久侯爵となった。

彰仁親王がそこまで依仁親王に相続させることを嫌がった理由ははっきりしていないが、
彰仁親王と依仁親王は別々の側室の子、彰仁親王と能久親王は同じ側室の子、
異腹弟ではなく同腹弟の子に遺産を遺したかったのかもしれない。
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華頂侯爵家 華頂宮系 

  • author: easthall
  • 2001/12/09


※鎌倉市にある通称旧華頂宮邸は、正確には華頂博信侯爵邸である

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◆華頂博信
1905-1970 明治38-昭和45 65歳没
もと伏見宮博恭王の子 博信王 臣籍降下して華頂宮侯爵家を創設




■前妻 閑院宮載仁親王の娘 華子女王 熟年離婚・戸田豊太郎と再婚
1909-2003 明治42-平成15 94歳没

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■後妻 早川又市の娘 寿美子


●前妻の子 博道 次代当主
●前妻の子 博孝 伏見博孝伯爵となる
●前妻の子 治子 松岡震三夫人
●後妻の子 幸子





◆華頂博道
1930- 昭和05-


■妻 村松明治の娘 隆江
1931- 昭和06-


●尚隆
●博俊
●博行





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<華子妃の不倫問題>

終戦後、収入の道を絶たれた博信は2000坪の庭を利用して養鶏業を始めた。
いっぽう華子は邸宅を利用してダンス教師を始めた。
昭和26年、結婚24年を迎えた博信&華子夫妻に離婚スキャンダルがもちあがる。
関係者がこぞって手記を発表し、手記合戦となる。

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華頂博信

それは7月18日も深夜であった。
その日、夕方から来邸して華子と用談中の戸田氏がなかなか辞去する気配がない。
もうだいぶ遅いようだからと、それとなく帰宅を促そうと客間に行ってみた。
二人の姿は見えなかった。私は付属のクロークルームをなにげなく開けてみた。
そして、私はそこに見てはならない戸田氏と華子との姿を発見したのだ。

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戸田豊太郎の元妻 徳川喜和子

華頂様の離婚を新聞で見た時、
私はすぐ別れた夫の戸田が一役買っているに違いないと思いました。
戸田は最近、ほうぼうのダンスパーティーなどに華子夫人を連れて歩いているようでした。

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戸田豊太郎

華頂家の離婚問題について、私は責任を感じない。
私は華子夫人に愛情はあった。
しかし、結婚するという前提でおつきあいしたわけではなく、もちろん今も結婚する意思はない。
これは恐らく華子夫人も同じ気持ちだろうと思う。

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結局、華子と戸田が再婚、博信は渡米して再婚する。
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葛城伯爵家 山階宮系

  • author: easthall
  • 2001/12/08


◆葛城茂麿
1908-1947 明治41-昭和22 39歳没
もと山階宮菊麿王の子 茂麿王 臣籍降下して葛城伯爵家を創設 

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■妻 細川護立侯爵の娘敏子 相手死別・中島昭吉と再婚
1913-1993 大正02-平成05 80歳没
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●茂久 次代当主
●茂敬 次々代当主
●伸子 志甫徹夫人





◆葛城茂久
1934- 昭和09-





◆葛城茂敬
1936- 昭和11-
先代茂久の弟


■妻 伊達宗彰侯爵の娘 素子
1941- 昭和16-


●宏彦
●郁子