中山侯爵家 羽林家

  • author: easthall
  • 2002/02/08


◆中山忠能
1809-1888 文化06-明治21 79歳没



■妻 平戸藩主松浦清の娘 愛子


●忠愛 次代当主
●公董 正親町公董となる
●忠光
●慶子 孝明天皇の側室・明治天皇の生母
●康子 本多正憲子爵夫人





◆中山忠愛
1832-1882 天保03-明治15 50歳没


■妻


●忠直
●孝麿 次代当主





◆中山孝麿
1853-1919 嘉永05-大正08 66歳没



■前妻 公家四辻公績の娘 勝子/浅子
1856-1902 安政03-明治35 46歳没


■後妻 成瀬正肥子爵の娘 三千代
1870- 明治03-


●前妻の子 棄彦 今城定政子爵となる
●前妻の子 忠顕
●前妻の子 正子 花山院親家侯爵夫人
●前妻の子 尚親
●前妻の子 妙子
●前妻の子 輔親 次代当主 
●前妻の子 徳子 渡辺修二男爵夫人
●後妻の子 保親 錦織保親子爵となる
●後妻の子 護親


●棄彦 今城定政子爵となる


●徳子 渡辺修二男爵夫人






◆中山輔親
1894-1980


◆九条道実公爵の娘 豊子
1899-1985



●孝子 出雲大社千家尊祀夫人
●忠圀
●忠敬
●福子 渡辺誠一郎夫人
●清子 岡野清輝夫人


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『横から見た華族物語』  昭和07年出版

中山輔親侯爵にも華族の子弟に通有な、ひどく物驚きのしないおっとりとしたところがある。
先年北海道余市の金満家にかつがれて富士生命保険会社の社長になったことがある。
無論名義だけの社長で表看板に利用されたまでのことだが、
名義だけにしても表面上相当の株を持たねばならぬから
なにがしかの株を輔親侯爵の持株ということにした。
ところが実業家仲間のやりくりについては全然認識ゼロな輔親侯爵は、
その株を名実とも自分の物だと思い込んでしまったから会社側では閉口してしまった。
いくら説明しても、この持株は形式だけのもので実際の権利も義務もないものだと言っても、
輔親侯爵の方では承知しない。払い込みは一文もしないでおいて、持主が自分名義である以上
当然利益配当も受くべきものだとがんとして動かぬので、一同も弱り切った結果
名義上の輔親侯爵の社長を解除して壬生基義伯爵へ乗り換えたなどの珍談がある。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::





◆中山忠敬
1923-


■妻 伊藤博精公爵の娘 雪子
1928- 


●敬子
●忠和





広幡侯爵家 清華家

  • author: easthall
  • 2002/02/07


◆広幡忠朝
1860-1905


■妻 岩倉具綱の娘 昭子 岩倉具視の孫
1867-1903 


●忠隆 次代当主
●朝子 大谷瑩誠夫人
●則子 松平忠敬子爵の子久松定省夫人
●庸子 色部庸男夫人
●忠康 児玉秀雄伯爵の娘貞子の婿養子になり児玉忠康となる
●忠良 森村市左衛門の娘由宇と結婚


●則子 松平忠敬子爵の子久松定省夫人



::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
明治天皇紀 明治33年04月27日

有栖川宮家舞子別邸にて

夜必ず供奉の侍臣をして侍寝せしむ。
この夜、侍従広幡忠朝侯爵・侍従試補沢宣元男爵二人これを奉仕す。
広幡は次室に臥し、沢は御榻の下に臥す。
天皇まさに寝に就かんとし、広幡を戒めて寝前燈油を検し終夜燈火を滅せざらしむ。
半夜天皇覚めて圊圂に行かんとし、沢を呼びたまう。沢倉皇手燭を取りて前行す。
時に室内外の燈火みな滅して暗黒なり。沢為に過ちて行燈を覆す。
翌朝沢罪を謝し、心中只管震怒に触れん事を恐る。
天皇あえて咎めず、かえって広幡の忘れて命を守らざりしを責め、かつ後来を戒めたまう。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::





◆広幡忠隆
1884-1961




■妻 山本達雄男爵の娘 文子
1889-1955



●信子 婿養子を迎え次代当主とする
●敦子 松平乗統子爵の子松平悌夫人





◆広幡増弥
1903-1988
もと伊藤安吉の子 婿養子になる


■前妻 先代忠隆の娘 信子
1913-1955


■後妻 工藤貢の娘 静
1908-1988


●前妻の子 忠豊
●前妻の子 忠恒
●前妻の子 忠昌





中御門侯爵家 名家

  • author: easthall
  • 2002/02/06


◆中御門経之
1821-1891
もと公家坊城俊明の子


■妻 公家堀河康親の娘 富子
1823-


●良子
●経明  次代当主
●経隆  中御門経隆男爵となる 
岩倉具視公爵の養子岩倉具綱の娘恭子と結婚→子経恭は次々代当主
●美雄  麻生藩主麻生直敬の子新庄直正夫人
●八千子 安藤直行男爵夫人


●経隆
中御門経隆男爵となる 岩倉具視公爵の養子岩倉具綱の娘恭子と結婚→子経恭は次々代当主






◆中御門経明
1850-1898


■妻 公家坊城俊政の娘 直子
1852-1945


●万千子 伊東祐平夫人





◆中御門経恭
1888-1954
もと中御門経隆男爵の子



■妻 財閥三井高棟男爵の娘 慶子
1894-1985 

3d58fed1.jpg



●宜子
●溢子
●理子
●経資
●脩子





久我侯爵家 清華家

  • author: easthall
  • 2002/02/05


東京本邸 牛込区新小川町 (現:新宿区新小川町)


◆久我建通
1815-1903

1002



■妻 鷹司政通の娘 麗子
1812-1862


●通久 次代当主
●通子 金沢藩主前田慶寧の後妻
●通旭 愛宕通旭となる 中院通富の娘致子と結婚
●幸子 福井松平茂昭侯爵の2/3番目の妻
●通城 北畠通城男爵となる 広幡忠礼の娘富子と結婚・石山基正子爵の娘正子と再婚
●通暉 東久世通暉となる 錦小路頼徳の娘誠子と結婚




◆久我通久
1842-1925 天保12-大正14 83歳没




■1度目の妻 大谷光勝伯爵の娘 厳子 死別
1851-1868 嘉永04-明治01 17歳没


■2度目の妻 大谷光勝伯爵の娘 住子 先妻の妹 離婚
1855- 安政02-


■3度目の妻 久留米藩主有馬頼咸の娘 千代
1858-1886 安政05-明治19 28歳没


●側室の子 常通  次代当主
●生母不明 儀子  東本願寺大谷勝道と結婚
●生母不明 通保  久我通保男爵となる 軍人朝枝惟一の娘シツコと結婚
●側室の子 節子  松浦靖子爵と結婚
●生母不明 静子  津守国栄男爵と結婚
●生母不明 俊通  士族壱岐俊通となる
●生母不明 富久子 園基資伯爵の子園基建と結婚


●節子 松浦靖子爵と結婚






●富久子 園基資伯爵の子園基建と結婚






◆久我常通
1873-1950 明治06-昭和25 77歳没


■妻


●生母不明 三千子 政治家五十嵐佐市と結婚
●生母不明 千万子 大槻為八と結婚
●生母不明 鶴子  伊藤吉次郎と結婚
●本妻の子 通顕  次代当主
●生母不明 通秀  津守通秀男爵となる
●生母不明 松子  平民中根克と結婚
●生母不明 通利  夏目通利となる




◆久我通顕
1903-1982 明治36-昭和57 79歳没


■妻 実業家篠原宗太郎の娘 与志江
1905- 明治38-


●誠通  次代当主
●美子  女優久我美子
●ます江 映画監督今井雄五郎と結婚


●美子  女優久我美子
1931- 昭和06-

*芸名と本名は同じだが、読み方だけを変えている
芸名:クガ ヨシコ 本名:コガ ハルコ






■夫 俳優 平田昭彦
1927-1984 昭和02-昭和59 56歳没








醍醐侯爵家 清華家

  • author: easthall
  • 2002/02/04


◆醍醐忠順
1830-1900 70歳没


■妻 公家華族侯爵の娘 離婚


●庶子 忠告 次代当主
●庶子 忠敬 次々代当主
●庶子 忠貞 一条実良の娘良子の婿養子になったが、不品行のため離縁され醍醐家へ戻る
●庶子 好子 賀陽宮邦憲王妃
●庶子 親子 鶴殿忠善男爵と結婚
●庶子 忠直


●好子 賀陽宮邦憲王妃




●親子 鶴殿忠善男爵と結婚




::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
醍醐忠順は公家華族侯爵の娘と結婚したが、その侍女に手をつけたため離婚となる。
その後その侍女で滋賀県士族の娘(41)京都府士族の娘(31)大阪府平民の娘(24)
の3人を妾として入籍していた。

また長男醍醐忠告には2人の庶子があったが、生母は妾として入籍していない上、正妻も持たなかった。
さらに次男醍醐忠敬にも4人の庶子があり、生母は妾として入籍したが、正妻は持たなかった。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
萬朝報 明治31年08月02日

侯爵醍醐忠順はもはや69歳の高齢なれども有名の好色家にして、
さる24年より牛込区原町小菅キクの長女イネ(23)を妾としながら、
目下自邸にある雇女の増田カネ(21)石原トヨ(19)前田ミサ(20)宇田川ミネ(16)らに手をつけ、
いずれも3円以上15円以下の手当を与えつつあり。

その嫡男たる忠敬もまた侯爵邸に同居し、京都市葛野郡花園村平民松室滝尾(40)なる妾を畜う。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
枢密院議長・男爵 倉富勇三郎の日記 大正12年7月4日

<新興宗教にハマった鶴殿親子>

宮内官僚小原駩吉の言葉

鶴殿親子は賀陽宮好子妃の妹にて既に寡婦となりおるが素行修らず。
綾部の大本教を信じ綾部に行きおり。書状を好子妃に送り
「何人が何と言うても綾部に留まる。大本教を信ぜざれば日本国は亡う」と言う旨を申し来りたり。
鶴殿家の方より警察に依頼し綾部より寡婦を引き戻し只今は京都におるが、
精神に異常あるをもって精神病院に入るる事につき、
賀陽宮に相談に来り好子妃より自分の意見を問われ、
「病人を病院に入るる事は別に論なき事なるも、
その子孫の婚姻にも関係する事につき充分に親族会の諒解を求めたるうえ処置すべき」旨を申し遣しおけり。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::




◆醍醐忠告 廃嫡となる
1848-1896 48歳没


■妻帯せず


●庶子 格太郎 叔父忠敬を射殺する
●庶子 賢次郎 日清戦争で戦死




◆醍醐忠敬
1849-1899 50歳没

*甥の格太郎に射殺される






■妻帯せず


★妾 京都府平民の娘

●庶子 為子 浅野忠純男爵と結婚離婚・小倉英季子爵と再婚
●庶子 忠重 次代当主
●庶子 信子 水野忠亮子爵と結婚
●庶子 静子 木辺孝慈男爵と結婚


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
<醍醐忠敬殺害事件>

※当時の総理大臣の月給は1,000円

麹町の屋敷には当主忠順と長男忠告一家と次男忠敬一家が暮らしていた。
長男忠告は病弱だったため忠順は次男忠敬を跡取りのように扱っていた。
本来ならば当主は忠順→忠告→格太郎と継がれていくべきと考える格太郎はこれが不服であった。
格太郎は遊興にふけり借金を作る。
勤めていた役所にまで借金取りがやってくるようになった頃に忠告が病死、
格太郎は役所も辞めて屋敷からも飛び出してしまう。
格太郎は叔父忠敬に何度か金を融通してもらっていたが、
度重なる無心のすえ拒絶されるようになる。
そこで借金は400円に膨れ上がる。

明治32年5月23日、進退窮まった格太郎は拳銃を持って麹町の屋敷に向かう。
忠敬は親友四条隆平男爵と談話中であった。
格太郎はいきなり部屋に入って忠敬を撃ち、さらにその場にいた忠敬の娘為子も撃つ。
四条男爵が格太郎を取り押さえ、格太郎は警察に逮捕される。
忠敬は死亡、為子は重傷であった。

この事件はスキャンダルとなるが、
格太郎は醍醐家の当主ではなく被害者も身内であることから爵位の返上は求められず、
忠敬の息子忠重が当主となった。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::






◆醍醐忠重
1891-1947 56歳没






■妻 毛利元昭公爵の娘 顕子
1898-1980 82歳没




●清子 南郷茂重と結婚
●充子 松平永芳子爵と結婚
●和子 黒田長礼侯爵の子黒田長久と結婚
●忠宜
●忠久