榊原子爵家 高田藩主 その2

  • author: easthall
  • 2004/07/13


◆榊原政敬
1843-1927 84歳没


■前妻 丸岡藩主有馬温純の娘 久仁子 離婚


■後妻 金沢藩主前田慶寧の娘 礼子


★側室 長瀬庸
昭和31 78歳没


●生母不明 延子
●生母不明 重子 伊藤忠寿と結婚
●後妻の子 彜子 次代当主の前妻
●庸の子  鑑子 次代当主の後妻




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孫榊原政春の妻/徳川慶久公爵の娘 榊原喜佐子 

<後々まで君臨する側室>

長瀬庸は正室礼子に付いて前田家から来た侍女だったが、
礼子が大変身体が弱かったため祖父の御手が付いて政和の後妻鑒子を産んだのだ。
当時側室はあくまでも御女中と見なされたが、
後にお子様たちの世話をすることになって「おばあ様」と呼ばれるようになったのだという。

長瀬は派手好きで目端のきく人だった。だから祖父に気に入られたのであろう。
弟たちも、ことに幼かった末の弟二人は母親同然に慕っていた。
そして私はと言えば、そういう家族の間で長い間家を守りながら
兄弟が仲良く暮らしていくにはどうすれば良いか、絶えず神経をすり減らしてきたように思う。

嫁いで2年目、夫が出征中の事だった。
私は家の相談役で日本金属工業社長だった田沼義三郎氏を会社に訪ねた。
すると氏はいきなり立ち上がり、改まった口調でこう切り出した。
「奥様にお詫び申し上げねばならない事があります。5人のお子たちのお世話をしてもらうのだから、
長瀬を「おばあ様」と呼んではどうかと勧めたのは自分です。いや、大失敗でした」
と深々と頭を下げたのだ。

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◆榊原政和 榊原職政の子 婿養子になる
1868-1927 59歳没


■前妻 先代の娘 彜子
1875-1906 31歳没


■後妻 先代の娘 鑒子 前妻の妹
1892-1926 34歳没


●前妻の子 政職 早逝
●後妻の子 政春 次代当主
●後妻の子 政徳
●後妻の子 政道
●後妻の子 政行
●後妻の子 政美
●後妻の子 政明 早逝


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榊原政春の妻/徳川慶久公爵の娘 榊原喜佐子

榊原家は本来7人兄弟だった。そのうち兄政職は23歳で末の弟政明は3歳で亡くなり、
私が嫁いだ時には夫の下に政徳・政道・政行・政美と4人の弟たちがいた。
私と夫は10歳の歳の差があったから、いずれも私より年長だった。

政徳は九州帝大を卒業、勤めていた満州重工から召集。
学習院時代には野球部に在籍し、東急の五島昇氏とともに投手捕手のコンビを組んでいたという。
夫はこの弟の事を「徳さん、徳さん」と呼んでいた。
他の弟は「ちゃん」付けだったから、彼には一目置いていたのであろう。
ただしその「徳さん」は早くから榊原家の事から逃げて、
とかく自己本位に楽しんで生きる調子のいい人だった。
酒好きがこうじて3回も脳出血を起し、妻に先立たれてボケがひどくなった。
今は老人ホームで『ヤンシューかもめ』を歌うのが楽しみだという。

政道は学習院から九州帝大を卒業、日本鋼管に入社した。
どこかひ弱な感じがあった。兄弟中で一番優しかったように思う。
長瀬の対応にとまどっている私に、
「そう大事にしなくていいんだよ」と声をかけてくれたのも彼だった。
昭和19年に召集が来て、戦後になってフィリピン諸島で戦死との報があった。26歳だった。

政行は学習院から九州帝大を卒業、三井造船に就職したがほどなく召集、
復員後は私たちと共に暮らしながら再び三井造船に勤めた。
ところがその後労働争議がきっかけで会社を辞め、以後まったく働かなくなった。
それからおよそ13年、競馬に打ち込むなどすさんだ暮しを続ける。
彼は性格が強く、どこか夫と似ていたと思う。だから逆に反発もあったのだろうか。
長く暗いトンネルを抜け出て妻とともに始めた会社を軌道に乗せていたが、食道ガンに襲われた。
13年の遅れを取り戻そうとしたのだろうか、
医者にも行かずひたすら仕事に熱中し手遅れとなり69歳で亡くなった。

政美は身体が弱く学習院を出た後園芸学校に入学したというが、
私が来た頃は獣医学校に通っていた。
卒業後どうしても人間の医師になりたいと熊本医科大学を受験、みごと合格して医者となった。
アリナミンを開発し世に出した。
しかし新築したばかりに二階の階段から落ちて脊椎を損傷、
頑張り屋の彼はリハビリに励んだ結果両手だけは動かせるようになり、
81歳の現在もなお内科医師として診察を続けている。

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◆榊原政春
1911-


■妻 徳川慶久公爵の娘 喜佐子 姉は高松宮喜久子妃
1921-2013 92歳没


●光子
●政信





榊原子爵家 高田藩主 その1

  • author: easthall
  • 2004/07/12


◆榊原政敬
1843-1927 84歳没





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■前妻 丸岡藩主有馬温純の娘 久仁子 離婚


■後妻 金沢藩主前田慶寧の娘 礼子





★側室 長瀬庸
昭和31 78歳没




●生母不明 延子
●生母不明 重子 伊藤忠寿と結婚
●後妻の子 彜子 次代当主の前妻
●庸の子  鑒子 次代当主の後妻




◆榊原政和 榊原職政の子 婿養子になる
1868-1927 59歳没





■前妻 先代の娘 彜子
1875-1906 31歳没


■後妻 先代の娘 鑒子 前妻の妹
1892-1926 34歳没




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●前妻の子 政職 早逝
●後妻の子 政春 次代当主
●後妻の子 政徳
●後妻の子 政道
●後妻の子 政行
●後妻の子 政美
●後妻の子 政明




◆榊原政春
1911-




■妻 徳川慶久公爵の娘 喜佐子 姉は高松宮喜久子妃
1921-2013 92歳没

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●光子
●政信





前田子爵家 大聖寺藩主

  • author: easthall
  • 2004/07/11


◆前田利鬯
1841-1920
もと金沢藩主前田斉泰の子




■前妻 飫肥藩主伊東祐相の娘 久子


■後妻 富山藩主前田利保 祉子
1846-1918



●隆子 稲葉正縄子爵夫人
●亀子 婿養子を迎え次代当主とする


●隆子 稲葉正縄子爵夫人






◆前田利彭
1883-1945
もと七日市藩知事前田利昭の子 婿養子になる


■妻 先代利鬯の娘 亀子
1878-1949


●利満 次代当主
●文子 今枝外二夫人


●文子 今枝外二夫人






◆前田利満
1905-



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<前田利満の廃嫡>

前田利満は学習院中学時代から奔放になり、留学の名目でアメリカに送られてしまう。
エキセーター高校・ハノーバー大学を卒業して帰国したが日本の生活が性に合わず、
すぐにメキシコに渡ってしまう。
メキシコでは農産物のブローカーをして、
現地の女性エスペランとの間にヨルダとノルマという二人の娘をもうけた。

これを知った前田家は驚き、日本へ帰国させる。
親族会議で外国人女性との結婚は認められず、隠居に追い込まれる。
前田家では本家前田利為侯爵の子利弘を迎え子爵を継がせた。
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◆前田利弘
1929-
もと前田利為侯爵の子


■妻 鈴木荘一の娘 三和子
1928-


●肇





保科子爵家 飯野藩主

  • author: easthall
  • 2004/07/10


◆保科正益
1833-1888


■妻 宇和島藩主伊達宗紀の娘 節子
1840-1905


●寧子  財閥岩崎久弥男爵夫人
●建子  沢田鋓義夫人
●正昭  次代当主
●咸次郎 楠田咸次郎男爵となる
●尚子  佐野常羽伯爵夫人


●寧子  財閥岩崎久弥男爵夫人






◆保科正昭
1883-1947




■妻 北白川宮能久親王の娘 武子女王
1890-1977





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●光正


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武子女王は藤堂高紹伯爵と婚約していたが、
藤堂は留学中に密かにイギリス人女性と結婚、
帰国後その事実が発覚して大問題となり破談となった。

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枢密院議長 倉富勇三郎男爵の日記 大正09年10月26日

<保科正昭の不倫>

有馬頼寧伯爵の言葉 (頼寧の妻貞子は武子夫人の姉)

保科正昭、先年来朝鮮京城にあり。夫人武子は東京にあり。
先頃保科より、近々総督府の技師を辞して東京に帰る旨を通知し来り。
親族にても喜びおりたるところ、
聞くところによれば保科は京城にて妓女に通じ既に懐妊しおるとの事なり。
よりて先日伯爵二荒芳徳〔妻拡子は武子夫人の妹〕と協議し、
いかに処置すべきや談合の末まず事実を確かめる必要を生じたるもみだりに問い合す事もできず。
君は京城に知人あるにつき君に依頼して取り調べもらう事に話し合いたるゆえ、
しかるべく問い合せてくれよ。


<武子夫人の婚約解消>

有馬頼寧伯爵の言葉 (頼寧の妻貞子は武子夫人の姉)

武子は初め藤堂高紹に嫁するつもりのところ藤堂が外国婦人の関係ありたるため破談となり、
藤堂との婚約まだ破れざる時、保科より貰い受ける様の話をなしたる事あり。
しかるに藤堂との婚約破れたるより、
北白川宮富子妃は一も二もなく保科に嫁せしむることに決したるが、保科はこの結婚を喜ばず。
結婚後朝鮮へ行き既に7年になれり。
武子は病身にて朝鮮に行きがたく、今日のごとき事となりたる次第なり。



左から 貞子女王 満子女王 拡子女王 武子女王

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◆保科光正
1914-1945




■妻 徳川家正公爵の娘 順子 相手死別・関根勇吉と再婚
1919-


●正興





織田子爵家 柳本藩主

  • author: easthall
  • 2004/07/09


◆織田信陽
1795-1857 寛政07-安政04 62歳没




◆織田信成
1843-1898 天保14-明治31 55歳没




◆織田信及
1843-1889 天保14-明治22 46歳没
先代信成の弟


■妻 小泉藩主片桐貞信の娘 謙子
1848-1914 嘉永01-大正03 66歳没


●秀実 次代当主
●長邦 安西リキと結婚
●綱子 片桐貞央夫人




◆織田秀実
1875-1907 明治08-明治40 32歳没


■妻 久邇宮朝彦親王の娘 純子女王
1884-1911 明治17-明治44 27歳没





●信一 次代当主
●長利 次々代当主
●信定
●豊子 大原次郎と結婚




◆織田信一 先代秀実の子
1902-1909 明治35-明治42 7歳没




◆織田長利 先代信一の弟
1904-1961 明治37-昭和36 57歳没


■妻 鍋島直和子爵の娘 絢子


●長功
●イソコ
●美保子