寺内正毅伯爵 総理大臣

  • author: easthall
  • 2005/03/25


◆寺内正毅 総理大臣
1852-1919 嘉永05-大正08


*寺内内閣は議会の支持なしに組閣された超然内閣だったため、
「非立憲」とルックスが似ていたビリケン像を掛けて「ビリケン宰相」と揶揄された。


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■前妻 小田隼見の娘 タニコ
1858-1890


■後妻 軍人長谷川貞雄の娘 タキコ
1862-1920


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『明治大臣の夫人』 明治35年出版

寺内正毅伯爵にはどうしても直らぬ一つの癖がある。
陸軍部内には将軍の七癖というものがあって、寺内伯爵もその一つに加えられてあるのだ。
寺内伯爵は金玉の前でマッチをするのが癖である
いつしかこれが夫人の耳に入ると、ある日寺内伯爵が客に接して意気揚々と話をしていた。
夫人は寺内はどんな事をして煙草を吸うかと部屋の隙間から覗いていた。
さりとは知らぬ寺内伯爵例によってマッチをすり、
夫人もおかしくってたまりかね思わず笑い出すと、
寺内伯爵も何の事かと傍らなる扉を開けたら、立っていた夫人寺内伯爵の顔を見て笑い続けたが、
肝心の寺内伯爵いっこうに解せない。
夫人に向かって「何がおかしいのか」と言った時、
夫人は「あなた陸軍部内に将軍の七癖とやらがある噂を御承知ですか。
してあなたが先程も両股のところでマッチをおすりになったが、
あまりみっともないから御注意なすってはいかが」との諌告。
寺内伯爵もここに初めて合点つき、「罪もない癖だろう」と言いざままたも客間に戻ったとか。

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●前妻の子 寿一
●前妻の子 沢子 児玉秀雄伯爵夫人
●前妻の子 須恵 福羽真城子爵の前妻
●後妻の子 毅雄 官僚中川健蔵の綾子と結婚・綾子は毅雄の戦病死後ピストルで後追い自殺


立つ左から 
吉富庄祐 タキコ夫人の弟長谷川鉄雄 沢子の夫児玉秀雄 寺内正毅 
毅雄 寿一 寺内の甥宇田川義三 中谷兵之進 タキコ夫人の弟長谷川巌
座る左から
沢子 児玉源太郎の娘元子 須恵 寿一の前妻百合 タキコ夫人
児玉源太郎の叔母 沢子の娘児玉貞子 児玉源太郎の娘鶴子/木戸幸一侯爵夫人
児玉源太郎の娘芳子 児玉源太郎の娘仲子/穂積重遠男爵夫人 宇佐川スミコ 川村大佐夫人

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『横から見た華族物語』 昭和7年出版

<寺内沢子の結婚>

児玉源太郎伯爵は子供の教育には周到な用意を払った。
嫁を探すについても非常な関心をもってこれに当たった。
だが当人の心持にまで立ち入って干渉するような愚はせぬ。
誰でも本人の気に入った者を選ぶがよいが、
ただ児玉家は小姑が大勢いるからそれとも折り合いを上手くつける女を探せと言った。
秀雄氏も親父の言葉を承服して親子ともどもその条件に合った女を探したが、
いわゆる帯に短しタスキに長しで思うようなのが見当たらない。
寺内正毅伯爵の屋敷に内輪の祝宴が開かれて児玉父子もこれに招かれた。
寺内家には沢子と呼ぶ娘があって、
長女ではあるが大勢の兄弟達と義理の母親との間に立って三方四方に心を配り
家庭の円満に努めているので当時評判となっていたが、この沢子が当日のお客の接待に出た。
その姿に目をつけたのが児玉伯爵であった。
寺内家から帰ってから「あの娘はどうか」とさっそく秀雄氏の意見を聞くと、
実は秀雄氏も沢子の淑やかな風姿に心を動かしていたのであったから、
「実は私もあれなら理想の嫁だと思っていたところです」というようなことで、
それは面白い、
期せずして親子とも理想の婦人に邂逅したとはよくよくの巡り合わせだということになって、
さっそく先方にも掛け合った上とうとう沢子を秀雄氏の嫁にすることになった。
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◆寺内寿一●子供ナシ
1879-1946 明治12-昭和21


■前妻 官僚得能通昌の娘 百合 死別
1890-1911


■後妻 山下覚次郎の娘 順子
1903-1988





山岡鉄舟伯爵 政治家

  • author: easthall
  • 2005/03/24


◆山岡鉄舟

*身長6尺2寸(188cm)体重28貫(105kg)

*鯨飲馬食が自慢で、饅頭を108個食べたり、ゆで玉子を97個食べたり、
また7升飲んでも酔わないほど酒に強かった。

*毎日1升の飲酒がたたって、40代後半から胃腸病を患う。

*51歳の時に胃ガンと診断され流動食しか食べられなくなったが、
相変わらず飲酒を続け翌年死亡。

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芳川顕正伯爵家 政治家

  • author: easthall
  • 2005/03/23


◆芳川顕正
1842-1920 天保12-大正09 77歳没








■妻 士族川井久中の娘 サダコ
1856-1923 安政03-大正12 67歳没




●実子 シン 出戻り
●実子 セイ 出戻り
●実子 トミ 財閥藤田平太郎男爵夫人
●庶子 鎌子 婿養子を迎え次代当主とする 心中事件を起こす


●トミ 財閥藤田平太郎男爵夫人




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萬朝報 明治31年09月04日

伯爵芳川顕正は自邸に芸妓上がりの伊藤初子(27)という美妾を畜え、
頃日相携えて塩原の松風楼に遊べり。

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◆芳川寛治
もと曽祢荒助子爵の子 婿養子になる
1882- 明治15-




■妻 先代寛治の娘 鎌子 心中事件を起こす
1891-1922 明治24-大正10 31歳没




●明子 三室戸敬光子爵の子 三光を婿養子に迎える


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芳川顕正には4人の娘があったが、3人が本妻の子、四女鎌子だけが妾の子であった。
顕正は鎌子を溺愛しており、鎌子に婿養子寛治を迎えた。
二人の間には長女明子が生まれたが、
もともと寛治は名だたる放蕩児で、茶屋遊びはひどくなるばかりで妾も囲い始めた。
さらに嫁いだ三人の姉のうち、長女と二女が離婚して実家に戻ってきた。
鎌子夫妻が跡継ぎになっていることがおもしろくない姉たちと母親が結託して確執が始まる。
鎌子は楚々とした大和撫子タイプではなく、自信に満ちた美人タイプだった。
鬱陶しい家や夫の放置から鎌子も買物や観劇など外に遊びに出るようになる。
そのたびに同行していたのが運転手の倉持陸助である。
倉持は勉強家で実直な好男子であった。
鎌子は無理矢理倉持に服や靴を買ってやり、お茶や食事に誘うようになった。
精養軒で食事をしていたのを見て夫婦だと思っていた人もいた。
そのうち二人は深い仲になる。
二人の関係は芳川家の知るところとなり、倉持は解雇、鎌子は監禁された。
身分違いは承知している。二人はこの世で結ばれないならば、あの世で結ばれようと思い詰めるようになった。
どうにか屋敷を抜け出した鎌子は倉持と落ちあい、死に場所を求めて千葉に向かった。
二人は線路から列車に飛び込んだ。鎌子は頭を打ち重体、倉持は軽傷だった。
倉持は「奥さん、あなた一人を殺しはしません。私も必ず死にます」と叫んで短刀でノドをついて絶命した。
生き残ってしまった鎌子は夫と離婚して実家からも除籍され、鎌倉にある芳川家の別荘に送られた。
この別荘の運転手を担当したのが出澤佐太郎であった。
罪人のような生活を強いられて孤独に耐え切れなくなった鎌子は出澤と再度駆け落ちする。
世間は二度も運転手と駆け落ちした鎌子に呆れ果てた。
ただし、今回鎌子はもう平民である。結局二人は世間から隠れるように一緒になった。
父顕正が亡くなった際も、連絡もなければ葬儀に参列することも許されなかった。
鎌子はだんだんと生きる希望を失っていった。
心中未遂事件から5年後、鎌子は佐太郎母子のもとで息をひきとった。
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宮武外骨が書いた記事

<華族社会裏面の暴露>

華族富豪等いわゆる上流社会の者は精神的にも立派な人間であるかのごとく一般人に対して威張っているが、
おそらくあらゆる階級中華族ほど不完全な者はなかろう。
芳川鎌子の情死沙汰とこれに関連した芳川寛治の行動は、
今日の華族社会における諸種の欠陥が相合して世間に暴露されたのである。
まず家庭の紊乱が彼ら両人の動機となったのは言うまでもない。
しかし世間では夫寛治の不行跡を言うのみで、
鎌子の父芳川顕正・寛治の父曽祢荒助両人の品行が従来しばしば世人の指弾を受けたことを忘れている。
さらに鎌子と寛治は華族仲間の通弊たる門閥結婚によって夫婦となった者、
すなわち結婚当初の標準が愛情とか理解とかいうのではなく、
地位や財産を主とする不条理の結婚である。
ゆえに彼らは血の無い男女が相結合したにすぎない。
寛治はノメノメと姦婦の介抱に行った上に
「鎌子はいったん悔悟して死を決したのであるから、
幸いにも全快すればその罪を許して何事も水に流してやる」と言ったそうだが、
よくもそんな馬鹿な気になれたものだ。
鎌子は悔悟して死を決したのではない。
嫌な夫を見捨て、恋しい男とは天下晴れて添えぬから、
いわゆる一蓮托生、あの世で添い遂げようとしたのである。
しかし寛治の本心は伯爵の跡継ぎという地位に眷恋する欲望から言ったことで、
今にその汚い根性が失せないのである。

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※当時の総理大臣の年給は1万2000円

<寛治の兄弟争い>

寛治の実家曽祢荒助子爵家は、
昭和3年に当主安輔(荒助の長男)が死亡したためその11歳の嫡男昌孝が新当主となり、
父の弟又男(荒助の四男)が昌孝の後見役となった。
その後又男と芳川伯爵家の婿養子となっていた寛治(荒助の二男)との間に
荒助が遺した骨董類をめぐって争いが起きる。

まず寛治が曽祢家から骨董類を勝手に芳川家に持ち帰る。
そこで又男が仲間とともに芳川家から骨董類2万1800円分を盗んで4200円で売り飛ばす。
ところが盗んだ骨董類は曽祢家から持ち出したものではなく芳川家伝来のものだったため、
寛治は又男を警察に訴える。
又男は家宅侵入・窃盗罪などで昭和5年刑務所に入る。

寛治は婿養子として芳川家に与えた損害の穴埋めをするために、
曽祢家から荒助の銀の胸像を持ち出して売り飛ばす。
この胸像が店先に並んだことから一件がバレて、
『売り物に出た曽祢子爵の銀胸像』『まざまざ物語る名家の末』などと新聞に書かれてしまう。
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佐久間左馬太伯爵家 軍人

  • author: easthall
  • 2005/03/22


◆佐久間左馬太
1844-1915 天保15-大正04 71歳没



■妻 横山勘兵衛の娘 鷹子
1848-1900 嘉永01-明治33 52歳没


●俊一 次代当主





◆佐久間俊一
1876- 明治09-


■妻 勝尾通直の娘 正子
1884- 明治17-

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●美子 賀田以武夫人
●静子 永江晋夫人
●辰雄
●文一
●秀明


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左 美子 賀田以武夫人   右 静子 永江晋夫人





吉井友実伯爵家 政治家

  • author: easthall
  • 2005/03/21


◆吉井友実
1828-1891 文政11-明治24 63歳没






■妻


●幸蔵 次代当主
●友武 高島鞆之助子爵の娘多嘉の婿養子になり高島友武子爵となる
●沢子 大山巌公爵の前妻・本人死別


●友武 高島鞆之助子爵の娘多嘉の婿養子になり高島友武子爵となる






◆吉井幸蔵
1856-1927 安政02-昭和02 71歳没

*アメリカ・イギリス・ドイツに留学


■妻 士族猪飼央の娘 静子


●勇   次代当主
●花子  長田馨夫人
●勝雅  高島勝雅子爵となる
●武蔵
●千代田
●友海
●百合
●桂子  竹迫常栄夫人




◆吉井勇 歌人
1886-1960 明治19-昭和35 74歳没






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宮武外骨が書いた記事

吉井勇を伯爵の若様というので大いに歓待して馬鹿な目を見た待合や料理屋がある。
伯爵は伯爵でも吉井家は有名な貧乏華族で、現主人は評判の高利貸し泣かせ、
その長男たる若様の勇も原稿料をあてにして生活しているぐらいだもの。

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■前妻 柳原義光伯爵の娘 徳子 柳原白蓮の姪 離婚
1900-1975 明治33-昭和50 75歳没

*勇と徳子は恋愛結婚。華族同士だが徳子の実家はこの結婚に大反対であった。






■後妻 芸者の子 国松孝子


●前妻の子 滋


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吉井勇の前妻徳子は「ダンスホール事件」と呼ばれるスキャンダルを起こす。

昭和08年(1933)ダンスホール<フロリダ>の男性ダンス教師が多くの有閑マダムとの姦通罪で逮捕された。
ダンス教師は女性客を斡旋していたのは柳原義光伯爵の娘で吉井勇伯爵夫人の徳子であると自供した。

歌人でもある吉井勇は若い頃からかなりの放蕩児であった。
結婚しても息子が生まれても生活を改めることがなかったため、当てつけのように徳子も不倫に走ることになる。

斎藤茂吉の妻輝子、近藤廉平男爵の子近藤廉治&樺山愛輔伯爵の娘泰子夫妻など、
徳子の遊び仲間が一斉に検挙された。

そこで徳子は近藤廉治と不倫、妻の泰子もダンス教師と不倫、というダブル不倫も発覚した。
宮内省は世間を騒がせた「不良華族」に厳しい態度で臨み、
近藤廉治&泰子夫妻は華族から除籍されて平民に降下された。
徳子は吉井勇と離婚、吉井は芸者の娘孝子と再婚し京都に住まった。
輝子は斉藤茂吉と長期に渡って別居することになった。


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徳子のイトコ 宮崎蕗苳の手記 柳原白蓮&宮崎龍介の娘 

母の兄柳原義光の娘さんのうち、徳子さんとは特に親しくしていました。
徳子さんは大正10年、歌人の吉井勇と結婚しました。
当時柳原家は「若い文士との所帯では食べていけない」と、この結婚には大反対でした。
徳子さんは白洲正子さんのお姉さんや斉藤茂吉の奥さん、
当時の著名な文士、菊池寛や久米正雄・里見弴・川口松太郎といった方々とも親しく交流していました。
モボ・モガといった言葉もありましたが、徳子さんはまさに時代の先端を行くモガという感じでした。
顔立ちは母にも似ていました。字も絵も上手でしたし、佐賀錦織の特技があり広く教えていました。

徳子さんは昭和08年離婚して柳原家に戻りますが、家に半ば閉じ込められ自由に歩けないほどでした。
四面楚歌の柳原家にあって、唯一の味方であった母と頻繁に手紙のやり取りをします。
ある日突然よほど慌てていたのでしょう、
下駄の左右違ったものを履いたままタクシーに飛び乗って宮崎家へやってきました。
祖母の鎚子〔白蓮の姑/宮崎滔天の妻〕はとかくの事情を問うことなく、
「よく来たね」と快く迎えました。しばらく私の家に一緒にいました。
母のことを姉さんという意味でしょうか「あんこ」と呼び、
自分のことを「俺様」とわざと乱暴に男言葉を話します。
母はそれをユーモアと受け止めてか特にたしなめることもなく、
「あなたの好きなようにしたらいいわ」ととてもおおらかでした。
我が家ではよく百人一首をしました。
「この札だけは誰にも渡せない」と、徳子さんは茶目っ気たっぷりにいつも狙っていましたね。
そんな気取らないところも魅力の一端でした。

私の母と同じく、自分で台所仕事や掃除ができる人ではありませんでした。
高田馬場に部屋を借りていましたが、朝になると毎日のように宮崎の家に来ていました。
一緒にいるだけで楽しい、明るく活発な女性でしたね。
晩年入院した折も、「家に連れて帰ってよ」と私たち家族を慕って寂しがっていました。
自由な人生をまっとうしたと思います。
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左 白蓮   右 徳子

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