陸奥宗光伯爵 政治家 その2

  • author: easthall
  • 2005/04/09


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明治天皇紀 明治23年5月17日

内閣総理大臣山県有朋、
内務次官芳川顕正を文部大臣に、特命全権公使陸奥宗光を農商務大臣に任ず。
宗光および顕正を擢任するは、人の多く異数とするところなり。
はじめ有朋宗光を擢抜せんとし、命じて帰朝せしむ。
けだし有朋国会の開設に鑑み、宗光が民間諸党に縁因あり、かつ政党の事情に通ずるをもって、
これを閣班に列し議員を操縦せしめんとする意に出でしなり。
しかるに宗光帰朝するや内閣組織すでに成り、宗光を奏薦するの余地なし。
宗光喜ばず、或は民間志士と交わり、或は逓信大臣後藤象二郎と結託す。
有朋その長く閣外に止むべからざるを察し、ついに岩村通俊を罷めて宗光をこれに代えんとす。
有朋また顕正と相善し、すなわち榎本武揚を罷め顕正をもってこれに代えんと欲して、
並びにこれを奏薦す。
天皇意やや安んじたまわざるところあり。
有朋に告げて曰く「宗光かつて10年のことあり。人となりにわかに信じがたし。
顕正もまたすこぶる衆望に乏し。この二人を擢任する深慮せざるべからず」
有朋対えて曰く「宗光の前罪はすでに消滅せり。
今日採用するにあらずんば、民間にありてかえりて政府の妨礙をなすべし。
むしろこれを擢抜してその才幹を利用するにしかず。
もし反覆することあらば臣その責に任じ、あえて宸慮をわずらわすことなかるべし。
また顕正の人となり、臣よくこれを知る。
いまだこれに内務を託すべからずといえども、もって文部を託するに足れり。
臣よくこれを指揮せん」
天皇ようやくこれを聴したまう。


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明治天皇紀 明治25年3月19日

天皇曰く、
伊藤博文がはじめ政党組織を提唱するや陸奥宗光は大いにこれを賛し
「共に民間に下り自らその任に当たらん」と言いしが、
伊藤がいよいよ辞表を提出するに及びたちまち豹変し
「伊藤にして政党を組織するも板垣退助の三分の一の勢力をも獲得しがたかるべし」
とてその政党組織を困難視し、しきりに嘲弄の口吻を弄せしかば、
井上毅これを聞きて大いにその反覆を憤りこれを侍従長に告ぐ。
また去年の議会解散に際しても陸奥ははじめ「解散すべからず」と論じたりしが、
12月24日に至りにわかに「今日中に解散せざるべからず」と松方正義に迫りたる由なり。
また陸奥は内閣において機密の議あるごとにこれを他に漏洩し、
改進・自由の両党にも気脈を通ずるもののごとし。
大臣等これを斥けんとするもあたわず、
内々山県有朋が「陸奥を簡抜したるは失策なりき」と嘆ずと言う。
もっとも伊藤・井上馨は同人の才幹を愛するの風あり。
陸奥もまた才子なるをもって、内閣のことはもちろん松方の失態を列挙してこれを伊藤に報じ、
伊藤にして復職するにあらずんば何事も為すべからずとの意を告ぐるを常とせり。
ゆえに陸奥がいよいよ辞表を提出するに至りしは、大臣等の大いに幸とするところなりき。
しかれどもこの間の事情は互いに知りて知らざるがごとく、
陸奥も表面意見合わずと言うをもって辞職せりと。

伊藤と松方とは性質相異なり。
伊藤は才智をもって事を処す、その進歩速やかなるも、時に顛躓し退歩することなきを保しがたし。
松方はこれに対し鈍き方なるをもって、その進歩遅々たるといえども、その進むや確実なり。
要するにこれ両人の天性に帰するをもっていかんともすべからず。
伊藤これを知らざるにあらず。しかも近時松方を譏り、その矢を数えて寛仮せざるの状あり。
松方すこぶるこれを苦となす。
両人の間をしてこのごとくならしめたるは、陸奥が松方の矢を伊藤に告げ、
また井上毅・伊東巳代治等が日々内閣の失策、松方の欠点を密かに伊藤に報ずるをもってなり。
伊藤は過日これらの書翰を積み重ねて岩倉具定に示し、その不平を漏らして松方を攻撃せしかば、
岩倉も大いに伊藤の大人げなきに驚けることあり。
また憲法論にて井上毅・伊藤巳代治・金子堅太郎3人の意見時に一致せず、
松方その決断に悩むものの如し。
松方と伊藤相和し相一致するに至らば可なれども、それ容易に行われがたし。
松方にその意あるも、松方はその方法を過まれり。
もし松方が井上馨と結び、井上馨をして適宜に斡旋せしめば事円滑に行わるべきも、
松方は井上馨を好まず、常に山県を撰りてもって伊藤を説かしめんとす。
しかれども伊藤・山県の相善からざること久し。
その傾向近時ますます著しく、相対すれば既に互いに不快の感を生ずと言えり。
ゆえに山県は伊藤との間を周旋しあたわざるなり。
井上毅・伊東巳代治等も今や気大になりて、松方に使役されざるの状あり。
山県の首相たりし時は、井上毅・伊東巳代治も相応に使役せられたりしが、
今日はしからざるなりと。

伊藤は松方に対し、箇条書をもってその非違と思うところのものを質せり。
松方朕に奏して曰く「伊藤の為すところ、徳川家康が大阪城に詰問せるごとく、
強国の弱国に向かい難問を強示するがごときあり。臣すこぶるその処置に苦しめり。
これにおいて朕はたとえ辞職のやむなきに至るも、非違は則ち正ざるべからずと申聞けたり。

後藤象二郎は伊藤博文の政党を組織するを喜ばずして異論を唱うるもののごとし、
けだし伊藤はいつにても総理大臣たることを得べく、政権を取るために政党を組織するの要なし。
改進・自由両党が同志をもって組閣し、その主義を実行せんとすることとその事情を異にせり。
これ伊藤の政党を組織せんとする真意を知るに苦しむゆえんなりと言うにあり。
後藤象二郎は伊藤の辞職には反対せるが、その言極めて条理あり、陸奥のごとく反覆の挙動なし。
近時は大いに真面目になりたる風あり。

佐佐木高行聖話を拝承し、奏して曰く、
伊藤の常に我を張り、その跋扈の状実に恐懼に堪えざるところなり。
しかも今日我意を主張する者はひとり伊藤のみに止まらず、はなはだ憂慮に堪えざる景況なり。
この上はこのごとき我を張る者は聖上において厳戒して寛仮したまうことなく、
万事宸断をもって決定し叡慮して真に国民の間に貫徹せしめば、
全国中には誠忠の士・才識の士乏しからざれば自然現出して陛下を輔佐し奉るに至らん。
しかれどもこれを急激に望むべからず。
耐忍もって進みたまわば、叡慮を徹底せらるる期のあるべきなり。
伏して乞い願わくは十二分に奮発あらせられんことを。

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陸奥宗光伯爵 政治家 その1

  • author: easthall
  • 2005/04/08


◆陸奥宗光
1844-1897 天保15-明治30 53歳没



*ヨーロッパに留学

*肺結核で死亡。


■前妻 大阪の芸者<お米> 蓮子 死別
-1872 -明治05


■後妻 東京の芸者<小鈴> 亮子
1856-1900 安政03-明治33 43歳没






●前妻の子 広吉 次代当主
●前妻の子 潤吉 古河潤吉男爵となる 未婚
●後妻の子 清子 未婚
●愛人の子 冬子 未婚


左から 亮子夫人 宗光 広吉




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『明治大臣の夫人』  明治36年出版

昔を洗えば大阪新町の花柳界で少しは顔の売れた粋者の果て、
その色香に迷い込み日毎に通うお客の中から手練の腕によりをかけ見事生け捕ったはカミソリ大臣、
ここにめでたく泥足を洗う身となり昨日に変わった丸髷姿、
果たせるかな腹を痛めた二人のせがれ、いずれも立身出世し第二の陸奥ができるとの世評は四方八方。
ところが才子多病美人薄命の諺が的中して、悲しいかな夫人には産後の病気でとうとう亡くなられてしまった。

昨日までは手活の花として寵愛して措かなかった恋女房も狂風に散ってしまった後は、
持って生まれた色情の炎なかなかに消ゆべくもなくここに召し出された再度の夫人、
しかしこれも同じく粋界の出身、その頃板垣伯爵が愛妾であった小清とともに新橋の双美と謳われたほどの優物。
もっとも元来が道楽者の陸奥伯爵、
先夫人が芸妓で次もまた芸妓であるときたはこの間の消息あに真面目なるを得べけんや。
陸奥伯爵が有名なる女好きであったことは誰もまた知っていたことだが
不思議なのは惚れた弱みか、また夫人の腕前が優っていたのか、
外へ出てはずいぶん馬鹿もした代り家にいる時は鴛鴦も羨むほどの厚い伉儷、
こればかりは陸奥伯爵の性行中特筆大書すべき異例である。

陸奥伯爵は何を申すも人情にはごく冷淡酷薄で、眼中には絶えて一滴の涙をも持たぬ性質であった。
この冷情な陸奥伯爵がある時都筑馨六男爵を評して、
「人も馨六のように軽薄では仕方がない。今少し人情を斟酌するようでなくては」
そばに沈黙していた夫人は陸奥伯爵の顔を見つめたかと思うと、
「そう仰せられるあなたはどうです。藪を突いて蛇を出すとはこんなことでございませぬか」
と言われた陸奥伯爵、再び何の言葉もなかったとか。

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◆陸奥広吉
1869- 明治02-

*英ケンブリッジ大学に留学




■妻 イギリス人エセル/磯子

1868- 明治01-

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*エセルは広吉が留学していた時の下宿先の娘。
結婚の約束をするが父宗光に反対されたため、父の死後やっと結婚できた。
出会いから17年後、広吉は37歳、エセルは38歳になっていた。


●イアン陽之助




◆イアン陽之助
1907-2002 明治40-平成14 95歳没

*イギリスに留学

*インタナシヨナル映画株式会社を創立

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■前妻 本田須賀


■後妻 祥子





佐野常民伯爵家 政治家

  • author: easthall
  • 2005/04/07


佐野伯爵家は軍人出身ながら資産家で、大正期の資産高は60万円。
芝高輪南町と北品川に1万2000坪の宅地を有していた。
※当時の総理大臣の年給は1万2000円


◆佐野常民
1823-1902 文政05-明治35 79歳没
もと下村三郎左衛門の子





■妻 士族山領真武の娘 駒子
1858-1902




●実子 芳子  士族石川某夫人
●実子 源一郎 ドイツ留学中に死亡
●実子 粂千代 婿養子を迎え次代当主とする
●庶子 常羽  次代当主
●庶子 常砥  法学者
●庶子 常尾  軍人
●庶子 貞子  田村丕顕子爵夫人
●庶子 米子  有馬頼多男爵夫人


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萬朝報 明治31年07月27日

伯爵佐野常民は旧仙台藩士東海林庄五郎の長女春(50)を妾とし、
麹町区三年町の自邸に置く。


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『明治大臣の夫人』  明治36年出版

佐野伯爵が壮時はなかなかの暴れ者で毎日2升も3升も傾けたほどの大酒飲み
一家の財政もあったものではない。酒さえ飲めればその日の用が足りるという主義、
これには夫人も閉口して種々諌告をしてみたけれども、
妻の諌めたぐらいで明日から止めるわけにはゆかない。
昼の内は真面目くさって辛抱したものの夜になると例の鯨飲、
これには夫人も手の付けようがない。
この上は自ら一家の財政を引き受けて種々に心を砕かれたため、ようやく家に事無きを得た。

佐野伯爵には多くの子供はあるが、夫人の腹を痛めたのは一男二女である。
長男源一郎はドイツに留学中不幸にも亡くなってしまったのは、
いかに夫婦を失望させたのであろうか。
二女の久米千代に佐野常樹を養子としてこれに配し相続をさせる事としたが、
不幸にも久米千代は4人の愛児を遺して帰らぬ旅に赴いた。
不運にも相続人たるべき常樹は病の床に伏したが、とうとう黄泉の客となった。

嗣子は常羽と言い、常羽以下の兄弟は佐野伯爵の子には相違ないが、
駒子夫人の腹を痛めたのではなく妾腹の子である。
ところが夫人はこれらの兄弟に向かっても実子もなお及ばざるくらいの待遇、
決して妾腹の子だからといって分け隔てするような事は爪の垢ほどもなかった。


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◆佐野常樹
婿養子となる


■妻 先代の娘 粂千代


●子供4人





◆佐野常羽●子供ナシ
1871-1956 明治04-昭和31 85歳没
先代常樹の義弟

ボーイスカウト姿で



■妻 保科正益子爵の娘 尚子
1876- 明治09-


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佐野伯爵家は海軍軍人ながら資産家で、大正時代の資産高は50万円もあった。
ところが、佐野常羽の妻尚子の浪費が家を傾ける。
尚子は保科正益子爵の娘で、母は資産家の伊達宗紀伯爵の娘、姉は財閥岩崎久弥男爵夫人、
母と姉の生活を見て尚子自身の経済感覚もマヒしてたらしく、
知らず知らずの借金は少なくとも6万5000円にのぼることが発覚した。
大正8年、佐野家は芝高輪南町と北品川に有していた1万2000坪の宅地も処分し、
那須野の別荘に隠棲するに至った。
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◆佐野常光
1906- 明治39-
もと一条実輝公爵の子 実光


■妻 竹田宮恒久王の娘 礼子女王
1913-2003 大正02-平成15 90歳没


左 竹田宮昌子妃  右 礼子女王

左から 礼子女王 昌子妃 竹田宮恒徳王

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●常行
●常武
●常具





香川敬三伯爵家 官僚

  • author: easthall
  • 2005/04/06


◆香川敬三
1841-1915 天保12-大正04




■妻 藤沢平馬の娘 須磨子
安政02-大正14


●志保子 女官/呉竹の局
●桜男  次代当主
●文子  山井兼文子爵夫人
●雪子  軍人岩村国次郎夫人
●静子  花房太郎子爵夫人


●志保子 女官/呉竹の局



●静子 花房太郎子爵夫人



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萬朝報 明治31年07月30日

伯爵香川敬三は平河町の鈴木ヨシ(30)を妾として、
その母タケに筆墨小間物を商わしむ。
ヨシは類い稀なる美人にて、
かつて自家に下宿せしめたる陸軍大尉今田某に通じ多額の金銭を巻き上げ、
その後 大尉永井某の持物ともなりたるが、29年頃より敬三の妾になりたれども、
夫人や娘たちの攻撃に堪えかねて自宅に引き取り月に3回ずつ伯爵と会合するを例とす。
その場所は主に芝浦鉱泉なり。

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◆香川桜男
明治09-


■妻 松園尚嘉男爵の娘 正子
明治17-


●顕子 木村茂と結婚・山崎貞直と再婚
●敬男 次代当主
●朝男
●保子 実業家梅原章夫人
●須男 日野敏男の娘千鶴子と結婚





◆香川敬男
明治42-


■妻 徳川圀順公爵の娘 典子
大正03-


●拡一
●真須子





後藤新平伯爵家 政治家

  • author: easthall
  • 2005/04/05


東京本邸 麻布区宮村町 (現:港区 六本木または麻布十番または元麻布)

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◆後藤新平
1857-1929 安政04-昭和04

*独ベルリン大学に留学




■前妻 資産家の娘 太加子


■後妻 安場保和男爵の娘 カズコ
慶応02-




●後妻の子 一蔵 次代当主
●後妻の子 愛子 政治家鶴見祐輔と結婚
●後妻の子 平八 士族藤沢平八となる


立つ 左から 愛子 後藤新平 一蔵
座る 左から カツコ夫人 新平の母リエコ 新平の姉初勢子

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『横から見た華族物語』昭和7年出版

<前妻を捨てた後藤新平>

後藤新平伯爵が愛知病院長であった時代は、若き院長として信望も厚く前途は洋々として輝いていた。
この後藤院長が患者の一人に付き添っている美人を一目見てから
煩悩の犬となって部下の医員や看護婦達を驚かせた。
美人の名は太加子といって淑やかな娘美しい女として彼は悩ましいほど深い印象を受けたが、
太加子もまた優しい親切な院長さんとして敬慕した。
患者が退院するのを待って、後藤院長は正当の道を踏んで結婚を申し込んだ。
媒酌人は時の愛知県会議長端山忠左衛門夫婦である。太加子の父は土地の富豪であるが、
後藤院長の才幹を認めているのみでなく娘の心もよく知っていたから話は順調に進んで、
太加子は間もなく愛知病院長夫人となった。

新婚の夢もまどかに人生第一の春は幸福に明け暮れてまだ二月も経たぬ間に、
板垣伯爵の遭難事件が突発し後藤院長は招かれて岐阜へ駆けつけた。
治療は手際よく行われて板垣伯爵の生命は見事救われた。
その手腕が出世の端緒となってやがて帝都に招かれ、一躍して内務省衛生局長の栄職に登った。
かくて太加子は夫の後を追って上京したが、
幾ほどもなく突然「お前はしばらく実家に帰っていてもらいたい」と意外な宣告を受けた。
理由を聞けばただ一身上の都合と言うのみで何も語らなかった。
太加子にとっては寝耳に水の驚きであるが、
一旦言い出した上は頑として聞かぬ夫の気性を知っているだけに、
泣く泣く実家へ帰るより他はなかった。
しかしいつかはまた楽しい家庭へ戻れるものと彼女は儚い望みに自らを慰めて東京を立ち退き、
家人の反対を押し切って横浜のフェリス女学校に入学した。彼女はまだ19歳であった。
彼女が女学校へ籍を置いたのは、
衛生局長後藤新平の夫人として恥ずかしからぬ修養をしておかねばならぬとの優しい心からである。
後藤から出されても太加子の心は後藤の妻であった。
自分でそう決めて一心に勉強を続けた。
それにも関わらず後藤伯爵はもう他の女と結婚していた。

太加子は悲しみの中に女学校を卒業した。
望みを失った彼女はこれから先どうしようというあてもなかった。
彼女は女としての一切を諦めて絵筆に親しむようになった。
太加子は後藤伯爵の顔より他のものは何一つ描かなかった。
絵筆を持ち始めてから17年の長い間、夫の似顔のみを描き続けた。
後藤伯爵の身にはその後も幸運に幸運が重なって、
ついには男爵まで授けられ明治41年には桂内閣に入って逓信大臣になったが、
太加子の身の上にはいつまでも不幸が続いて後藤伯爵が大臣になった翌月、
この薄命の花は41を一期としてはかなくも散り失せた。

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◆後藤一蔵
明治26-

*米コロンビア大学に留学


■妻 工学者杉浦宗三郎の娘 春子
明治34-


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枢密院議長 倉富勇三郎の日記 大正10年3月15日

倉富から部下への言葉

先日手続不十分なるも内実結婚する事を許し
その後に至り正当の願を出させてよろしきや否やにつき相談したる事ありしが、
その後後藤新平の長男一蔵は仰山に新聞に吹聴し、
既に結婚を終りたる後に至り願書を出しおりたり。
許可を与えらるる事は予期し得べしとするも、
かの如く公然規則違反をあえてする様にては不都合なり。

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●利恵子 実吉純郎子爵の子実吉安彦と結婚
●美智子 三菱自動車鈴木正雄と結婚
●貞子
●豊子  西村幸雄と結婚
●新一
●健蔵