◆初代男爵 原田一道 陸軍少将
1830-1910 

1879年 51歳
0051



■妻  中村志計子 士族中村市五郎の娘
1847-1923 


●男子 原田豊吉  2代当主
●男子 原田直次郎 洋画家


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西園寺公望から原田熊雄への発言

自分が初めて洋行する時、前から懇意にしていた大村益次郎のところへ行って何か参考になる話を聞こうと思ったら、
「いや、それなら自分より原田一道の方がいい」と言って、当時フランスやオランダの見学を終えて帰朝したばかりの君のお祖父さんに紹介してくれて、時々お話を伺いに出たもんだ。
いわば半分先生さ。
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原田熊雄

祖父原田一道は別に平常怒鳴るとか威張るとかいうにあらずして、黙してしかもニコニコしていてどことなく恐いのである。
後から自分は西園寺公についてから、物言いの丁寧さがよく似ており、ものの考え方もよく似ているようにつくづく思った。
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◆2代 原田豊吉 地質学者 1代一道の子
1861-1894 

*日本を10年も離れていた豊吉は日本語を忘れてしまったので、帰国してからはしばらく日本語の通訳を連れて歩いていた。


■妻  高田照子 ドイツ人武器商人マイケル ベアの娘・父ドイツ人&母日本人のハーフ
1868年生


●長男 原田熊雄 3代当主
●長女 原田信子 画家有島生馬と結婚



照子は、明治のはじめに来日して貿易商を営んだドイツ人ミカエル・ベア氏と日本女性荒井ロクとの間に生まれた。
ベア氏の貿易商会はここに勤めていた高田慎蔵が引き継いで明治の三大貿易商高田商会になるのだが、ベア氏は幼い照子を高田の養女にして明治13年頃本国に帰ってしまった。
なお、ベア氏は帰国後フランス人女性と結婚してフランスに帰化した。


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西園寺公望公爵

久しぶりにヨーロッパから帰って熱海に出かけたところ、
「原田豊吉が細君連れで来ているが大した美人をもらったものだ」とみんなで噂をしていた。
会ってみたらなるほどお綺麗な方だった。
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◆3代 原田熊雄 2代豊吉の子・クォーター
1888-1946 

*原田は電話魔で、グリーンのラシャを張って声が洩れないようにした電話室の他に、二階の寝室に2本、トイレにまで切り替えの電話機を置いていた。


■妻  吉川英子 子爵吉川重吉の娘
1893年生

*イギリスに留学


●長男 原田敬策
●二男 原田興造

●長女 原田美智子 銀行家勝田龍夫と結婚
●二女 原田智恵子


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有馬信子 原田熊雄の妹・洋画家有馬生馬の妻

学校に行く途中に大きな犬を飼っている家があってね。
兄はそこを通るのが嫌で、毎朝「おい信子、犬がいるか見てこい」って。
それで「いるわよ」と言うと、ずっと遠回りして学校へ行くの。
それに雷が怖くてね、いつも「バカ、キチガイ、トンチキ」なんて私のことを呼んで威張っているのに、布団をかぶって震えているんだからね。
「なんでそんな呼び方するの?」って聞いたら、「カワイイってことだよ」ですって。
子供の頃はよく病気で寝ていたような。
でも中学校の頃から柔道を習い始めて、講道館に通うようになってから丈夫になったの。
お祖父さんが陸軍の偉い人だったから、自分は海軍に入るつもりらしかったけど、柔道で肩の骨を折ってからあきらめたようね。

母が日本銀行へ入れちゃったの。
中村雄次郎さんがいたし、三島弥太郎さんもいらしたから、ツテで入れちゃったの。
それで、嫌で嫌でね。全然自分に合わないでしょう、作業ばっかりして。

英子さんのお母様とうちの母は跡見女学校にいた頃のお友だちなの。
そんなことからでしょう、どうかって縁談が来たの。
それでお見合いしたんだけれど、はやり家柄が大変な違いでしょう。
こちらは岡山の一介の藩士から成った家だし、向こうはなにしろ岩国の吉川家、お殿様のお姫様ですからね。
だからお断りするって兄が行ったんです。
するとどういうわけだかその断り方がとてもいいから、ぜひもらってくれって。
お父様、その頃病気で弱ってらしたの。
で、兄はお気の毒になってね、お断りしにくいから、もういいからもらうって。
そんなわけで結婚したけれど、新婚旅行に一晩行ってそのあくる日お父様はお亡くなりになったの。
だから武郎兄が「あの方は実に立派なひとだから熊雄さんいいですね、いいお父様でしたね」
って喜んでいらしたけれど、お父様と言ってもほんの2日ぐらいなものでした。
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岩田幸子 原田熊雄の妻英子の妹・松方勝彦と死別・作家獅子文六(本名:岩田豊雄)と再婚

姉は私とは18歳も違い、私の赤ん坊の頃イギリスへ留学した。
滞在中第一次世界大戦の雲行きが怪しくなり帰国することになったが、久々に会った父と日本語で話すのが恥ずかしくて困ったと言っていた。
父はその後病床につき姉の結婚も急がれたが、当時海外へ出た男性は少なく洋行帰りの娘は敬遠されなかなか決まらなかったが、原田熊雄と結ばれ大正4年12月結婚式を挙げた。
同月に父は亡くなり、姉達は新婚旅行から呼び戻された。
義兄は父を亡くした弟妹のために、婿頭と自称して本当によく面倒を看てくれた。
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勝田美智子 原田熊雄の娘・銀行家勝田龍夫の妻 

両親の結婚に関しては面白い話がありまして叔母から聞いたのですけれど、母の父吉川重吉は岩国藩の出でハーバード大学出身の外交官でした。
その重吉が「どうしてもうちの娘をもらってくれ」と原田家へ頼んだそうなのです。
原田の家は新華族で大名でも何でもない家なものですからビックリしたそうです。
大名のお姫様をというので、これは大変だと思って父は断りに行ったのです。
そうしたら祖父に「その断りっぷりが気に入った。気に入ったから、何でもかんでももらってくれ」と言われ、それで結婚したらしいのです(笑)

母は若い時2年間イギリスに留学していましたので、当時としてはやや晩婚でした。
母は普段は優しくて、わりと学者肌なひとでございますのよ。
父は地が強くて、母にしょちゅう大きな声で怒っておりました。
母は口答えは絶対しないで、いつも「そうでございますか」とか「ごめんあそばせ」とか言っておりました。
でも母もたまに我慢ができなくなると、黙って雲隠れしてしまうのです。
そうすると今度は父の方が気が弱いもので、心配して女中さんに「英子はどこに行ったのか、お前たち探してこい」と言って大騒動になるのです(笑)

平河町の家には仏間を別に作ってあって、毎晩線香をあげてたわね。
お墓参りにもしょっちゅう行ったりね。
でもお経をあげてもらっても、「お願いですから、今日は短いとこやって下さい」と言っていたことも多かった。

父はよその方には面白い人で、すごくユーモラスな人でございました。
よく「いいわね、あんな面白いお父様で」とお友達から言われましたけど、家の者にはそれほどでもないのでございますのよ。
父はお客様が大好きで、私達のお友達でもみんな呼んでしまうのでございます。
電話が各部屋にあって、お手洗いにまで電話をつけていました(笑)
歌舞伎座に行っても、いつのまにか席を立って電話室に入り込んでるのよ。
どこかのお家に行っても、電話を拝借してかけるのです。
よその家に行っても自分の家のように振る舞う人だったのですよ(笑)

近衛さんは風呂で「スミレの花咲く頃…」という宝塚少女歌劇団のなんかをよく歌っていた。
すると父はドンドン風呂の中にまで入って行って二人で合唱してた。
他に「愛国行進曲」とか「波浮の港」とか「あなたと呼べば…」なんて歌をよく歌っていたわね。
一緒にドライブすると必ず「箱根の山は天下の天下の嶮…」と歌い出すし、「頭を雲の上に出し…」という歌もよく歌っていたわね。

*美智子は独身の頃テニスミックスダブルス全日本チャンピオンであった。

結婚後は主人とよくゴルフをいたしました。
主人がテニス嫌いで「テニスはするな」と言われたのです。
一度アメリカでやってくれたのですよ。
プロとウチの主人が組んで私の方は神戸商大を出た方と組んでやったら、向こうが負けちゃったのです。
プロと組んで負けたもので、それ以来「絶対するな」ということになったのです。
昔の男の人は奥さんに負ける事は全体にダメね。

義母は大変な姑で偉い人なのです。
大臣を3回務めた御主人の上を行っているような方なのですから、すごく大変でした。
舅は気軽に歩いて行く人でしたが、姑は近くの町に行く時でもいつも渋谷という運転手の自動車に乗って行ったそうで歩いた事がないのです。
そういう偉い姑ですから、私の一挙一動をすっかり注目されちゃってすごくうるさかったです。
主人はマザコンなのですよ。主人は秘蔵っ子だったので、私がちょっとでも主人と親しそうにしていると姑の機嫌が悪くなるのです。
それで主人から「お母様の前ではあまり僕に甘くしないでくれ」と言われてしまいました(笑)
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高木シマ 原田熊雄の妹婿有島生馬の妹 

早いとこ後家さんになって、原田の跡を継ぐ人が世の中に忘れられるといけないっていうんで、熊雄さんが始終偉い人が新橋から発つのを送りに行かされるのよ。
この頃はあんなことしなくなったけれど、そういう時は入場券持って送りに行ったの。
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小関文枝 原田家の女中 

当時としては珍しく気さくな方で、私たちにも遅くなれば心づけを下さったり気を使っていらしたですね。
朝6時に起きてブザーで呼ばれます。
果物から採った塩を水で溶いて1杯、ミルクのたくさん入ったコーヒーを1杯飲んで、寝床で電話をかけ始めるのが毎朝の決まりでした。
同時に受話器を持ちましてね。
それから8時頃、住友の車が迎えに来てお出かけになるか、あるいは朝食会でした。
夕方いったん帰ってらして、お風呂に入って和服に着替えて、また人に会うためにお出かけになりました。
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木戸幸一侯爵 原田熊雄の親友 

原田熊雄君が生まれたのは明治21年、私は明治22年、近衛文麿君は24年である。
原田は途中病気で休学したので高等師範学校附属中学から学習院中等科に転属してきた時、私と同じクラスになった。
以来学習院高等科・京都大学と9年あまり私と原田とは一緒だった。
近衛は学習院で1年下にいた。
私や原田と親しく付き合うようになったのは、彼が東京大学に入学したもののすぐ取り止めて京都大学に入学し直し、京都北白川の原田の下宿に立ち寄った時からと記憶する。
京大時代は原田と近衛と私、それに同じ学習院出身の織田信恒君や橋本実斐君と一緒のことが多かった。
西田幾多郎先生を囲んで『善の研究』を読んだり、休日には西田先生を加えて嵐山に遊んだり、みんなで歌を歌って北白川の辺りを歩き回ったりしたものだ。

大学を出て原田は日本銀行に就職、私は農商務省に勤務、近衛は内務省に籍を置き、お互い3人この頃は仲間としての付き合いはあっても、政治的な意味合いはなかった。
その後近衛が貴族院議員になり、原田が西園寺公の秘書を務めるようになり、私が内大臣秘書官長に任命された頃から、我々の活動はにわかに政治的色彩を深めた。
原田はありとあらゆる情報を聞き込んで、西園寺公に伝えていた。
朝起きてから寝るまで電話機を握りしめ、私の家に来てもまず電話室に飛び込む有様だった。
時の総理・各大臣をはじめ陸海軍の首脳に至るまで、原田ほど顔の広い男はまず見当たらなかった。
情報の集め方は強引なぐらいで、一部の人々には厚かましくも思われたのだろうが、一面では注意深く、しかも政治的な勘が極めて優れていたことは何といっても原田の特性であった。
西園寺公も、嘘をついたり事実を歪めたりあるいはその地位を利用するということのまったくない原田の正直な性格と共にその勘の鋭さをかって秘書として大いに重用されていた。

原田といえばすぐ思い浮かぶシーンがいくつかある。
口を開けば「老公が、老公が」と言って西園寺公を心から尊敬していたこと、誰の家に行っても極めて親しげに振る舞って戸棚から菓子を勝手につまみ出したりしていたこと、三国同盟の話を聞いて「近衛は富士山みたいな奴だ。遠目はいいが近づいてみると岩ばかりゴロゴロしている」と怒っていたこと、終戦近くなって身体を悪くしながらも何度か私に手紙や言伝で和平工作を早く進めるように催促してきたことなど、走馬灯のごとく私の脳裏を懐かしくかすめ去る。

原田は小さい頃は非常に内気だったらしいんだ。
それであのお母さんが偉い人なんだ。
たしか24歳で後家さんになったと聞いていたが、
原田が内気なもんでね、しきりと偉い人に会わせたんだね。
金子堅太郎とかね、そういう人がよく呼ばれて食事をしに来ていた。
僕はあのお母さんに信用があったと見えて、陪席するのはいつも僕なんですよ。
老人ってのは話をするのが好きでね、若い人に呼ばれると案外喜んで来るんだね。
それでいつまでも帰らずに得意になって話していたよ。
それで結局お母さんが内気でシャイな原田をあれだけ直したんだね。
偉い人と話すのに抵抗を感じないようにってね。
それに彼の行動力が一致したので、非常に交際範囲が広くなったんだよね。

学習院は卒業式でも成績順に並ぶんでね、成績の悪いのはもう出て来ないんだよ。
それを原田は正直だから、出て来たら一番ビリッカスになったんだ。
そいういう点では大変真面目なんだよ、原田は。

日本銀行で帳簿をつけると、みんなキレイな字でつけるわね。
ところが原田は太くて汚い字でつけるんだよ。
それでね、とうとう帳簿を一枚破いちゃったというんだ。
これは大変なことだよね。日本銀行始まって以来の空前絶後のことだという。
それにどうしても原田のソロバンが合わない。
ソロバンが合わないと全員ストップだ、帰ることができない。
待っているけど、どうしても合わない。
それでとうとう女の事務員を呼んで、やってくれと頼んだらしいんだ。
そしたらいっぺんでピシャッと合ったんで、ようやくみんな帰れたという話を聞いたね。
原田が自分で言ってたから本当なんだろうね。
そんなことで彼は銀行員なんてものには全然向かないんだ。

西園寺さんもね、「原田という男は非常にきれいな男だ、何も要求しない」と。
本当に西園寺の秘書に徹しておったな。
普通ならば西園寺さんを担いでね、相当西園寺さんの名前を利用できたと思うんだがね、
その点実にきれいなんだ、西園寺さんも褒めておられた。
それと原田は勘が良くてね、政治的な勘は抜群だった。
その点は僕もずいぶん政治家と付き合ったが、あんまり知らないね。
それに何にも欲のないきれいな人なんだよ、それだけに誰と付き合っても平気でいたわけなんだね。
そこへ行動力があるんだから。

おや、原田の声が聞こえるなと思って出てみると、
もうウチの電話室に入り込んでさかんにあっちこっちに電話してるんだよ

原田のゴルフはそそっかしいゴルフだったな。よく荒れてたよ。
原田はせっかちなんだよね。
終わってシャワーでも浴びてお茶でも飲もうと思って見たらいないんだよ。
フロントへ行って聞くと「いやもう、サーッとお帰りになりました」ってね。
もうすぐ次のことを考えているんだな。
こっちにさよならも言わずに、シャワーも浴びずに帰っちゃうんだから。
近衛はね、それこそあの風貌そっくりのおっとりしたゴルフだよ。
練習が好きで練習ばかりやってるんだよ。だけど背は高いもんだから飛ぶ。
でもノンキに振ってるからね。
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作家 長与善郎 原田熊雄の友人

師範学校附属中学時代から「熊公、熊公」という呼び名で通っていた原田熊雄が、学習院の僕の級へ転校してきたのは中学4年の頃で、僕と同年の原田は病気のため僕同様普通より2年学級が遅れていた。
「自分のマザーは君の家の人をよく知っている」と言って僕を頼りにするようになれなれしく親しみを見せる示し方がどこか可愛げがあり、「来いよ、来いよ」と誘われるままに学校帰りに神田猿楽町の家へ行ってみると、これは全く一風変わった類のない半洋館であった。

色の浅黒い一目で純日本人でないことの知れる顔立ちの母堂は早く未亡人となり、親子三人でわびしく暮らしている人とはとても見えない快活で調子のいい社交家で、まだ腕白盛りの僕をも至極愛想よく迎えていろいろ話しかけ御馳走したりしてくれた。
その一人息子はお父さんが科学者であったなどとはどう見ても思えない底抜けのノンキ者で、ウチでは誰にでも「バカ野郎」「トンチキ」と怒鳴りつけ主人然といばり散らしていたが、学校では落第しない程度に試験勉強だけはしても、教科書とノート以外の本は一冊も読んだことはなく、僕すらあきれていいオモチャにしていたほどだった。
それでも彼に目のない母堂にはそのガラガラのやんちゃぶりがまた可愛く、彼が暴君然と何か命令したりすると、妹の信子さんまでが一緒に笑いながら「はいはい」と従うのである。
そのヤンチャ坊主の僕の家族に紹介し方は「あいつは末っ子だってことだが、あんなワガママ勝手な奴はみたことない。柔道やボートをやって遊んでばかりいるガキ大将の割にはよくできるが、停学を食ったりした悪戯っ子」というのだ。

信子さんもまだお茶の水を出てなかったはずである。
信子さんが兄の命令で弾くピアノが僕が聞きつけている野暮臭い曲とは全然違って、何とも言えぬ本場のものといった感じがある。
しかも信子さんは一種ハイカラな美人であり、よく似合うお嬢さんらしい大きな庇髪が大きく手を動かすにつれてゆっくり左右に揺れる。
僕はこのエキゾチックにハイカラな家庭の魅力にだんだん惹きつけられるようになった。
一度この家庭を訪れた者は、たちまちその親しみのある居心地の良さと一種異国的香気のある雰囲気との魅力とに捉えられたに違いない

原田母子は共に有名人好きな社交家だったといっても、それはただ高貴な身分の者だけを敬重するというのとは違い、優れた学者・芸術家といった文化人を尊敬する共通性のあった所は、数十年の後原田の名を国際的にまでした美点だった。

ぽっくり原田が急死したことは、特別に親密な友情で結ばれていた永い間柄だっただけに痛くこたえた。
思い出の大磯の別荘へ行くと、あの派手な社交家の喪中とも思えず悔やみの客は少なく寂しかった。
忌憚なく言えばそれは原田の一種の無知さの自ら招いた所だったが、それでも原田は学問的知能はほとんどゼロだったにもかかわらず、これが正しいとか永久不変の通だとかいうことに関する勘はよく、むしろ近衛なんかなどよりしっかりしていた。
そして畏敬する人、例えば西園寺さんとか西田幾多郎先生とかの世界的視野に立っての高見に対して徹底的に忠実であり、水火の難も辞さぬ健気さがあった。
そのため終戦近くには家宅捜索をされたりしたそうであるが、その誠忠の結晶である『原田日記』によって思いがけない記録を遺したことは、ちょっと小利口ではあっても小細工の嘘の尻尾をすぐ見透かされて世の信用を失い、結句失意に終わる者の好対照で愉快に思われる。
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有馬頼寧伯爵 原田熊雄の友人 

ある日何か緊急な用があって原田君が近衛君の寝込みを襲ったことがある。
近衛君と奥さんが寝室にいた。
遠慮のない原田君はズカズカその寝室に入るなり、「奥さん、起きて下さい」と言って奥さんを寝室から追い出してしまった。
そして近衛と何か用談を始めたのだが、近衛君は床の中で起きようともせず、原田君は寒くはあるしバカバカしいと思ったのか、奥さんの寝台の抜け殻に横になり近衛君と話を続けた。
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牛場友彦 近衛文麿公爵の秘書 

ある時近衛さんがお妾さんの山本ヌイと蚊帳の中で寝ていると、原田さんがいきなりやってきて蚊帳の中にまで入り込んで「この女だけはよせ」と言った。
山本は意地の悪い女だからね。
ところが近衛さんは周囲が反対すると意地になって、ますますそっちへ走って面白がるとろこがあったんですよ。
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原田熊雄

近衛という奴は他人の迷惑などちっとも考えないワガママ者だ。
僕など一番の被害者だ。
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実業家・政治家 池田成彬

原田君は非常な努力家でしてね、ああいう風に見えておって非常な勉強をしておった。
西園寺さんに心酔して、内閣の更迭・軍縮問題などの時は寝食を忘れて動いていた。
1日に何ヶ所も歩いて、西園寺さんのところに報告しに行く。
翌日はまたすぐ東京に戻って来るというので、実に勉強したものですね。
あれは他の人にはできません。
それに原田君は要領を得たような得ないようなところもあるし、山下亀三郎のようなところも多分に持っておって、実に顔が広かった。
それからあの男は正義ということには非常にやかましい人物でした。
決してやましいことには寛容しないのです。
それからどこまでも皇室に対する忠誠、そいうこうことはなかなか見かけによらない点がたくさんあります。
内務省・外務省等政府の各機関はもちろん民間の者・実業界の者と原田君はいつでも電話一本で話せるという風でした。
ただ、口が悪い。
衆人満座の中でも平気で悪口を放言するものだから、誤解を受けることも多かった。
不思議な人物でした。
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細川護貞

私が初めて原田さんにお目にかかったのは、中学4~5年のことであったと思う。
近衛文隆君とゴルフをプレイするようになってからだと思うからである。
文隆君の軽井沢の別荘にもよく遊びに行ったし、彼も私の方へ来た。
時にはゴルフ仲間であった朝香宮様の二王子や友人も加わって、軽井沢周辺をドライブしたり山に登ったりした。
そんなことから近衛家にも伺うことが多くなり、たまたま文麿公爵の所に来ておられた原田さんともお話するようになったのだと思う。
我々は「熊さん」と言ってたいそう親しみを持っていた。

あるとき駒沢のゴルフ場にいると、熊さんが岩永祐吉さんと一緒にプレイしながらこちらに向いて来られるのが見えた。
「カナテコ親父」というあだ名の岩永さんがまず坂を上ってて、「おう!」と声をかけられた。
「後ろから来る奴を見てみろよ。まるで西洋の泥棒みてえな格好をしていやがるから!」と例のべらんめえ口調で言われた。
するとそのとき悠然と熊さんがグリーンに上がってこられた。
我々はその格好を見たとたんに吹き出してしまった。
カナテコ親父の言う通り、漫画にあるマヌケな泥棒そっくりのいで立ちで熊さんが立っておられる。
ニッカボッカから細い真っ直ぐな足が出ていて、その上に前に突き出た腹がある。
さらにその上にニコニコ笑った大きな顔があって、口にシガーをくわえている。
帽子はハンティング。
文隆君は芝に転がって笑った。

熊さんは父とも親しくしておられた。
あるひ熊さんから「君の親父が君の妹の相手を探せと言っているが、どんなのがいいのかね」と言われ、候補者の名を2~3人挙げられた。
「その中の一人を父が望んでいる」と告げると、
熊さんは笑って「あんなものでよければ簡単だ。砂利を拾うようなものだ」と言って、その家の世話をしている老人をすぐに電話で呼び出された。
「来たら隣の室で待っていたまえ。そこなら話も聞こえるから」と言われた。
15分ほど経って老人が現れ、熊さんと大声でやり取りがあった。
私はその一部始終を聞くことができた。
老人は「願ってもないことだ」と喜んで帰った。
熊さんは私に「砂利を拾うほどの努力もいらなかったな!」と喜色満面であった。

私は頻繁に大磯の原田さんをお見舞いした。
しかし1946年2月26日ついに不帰の客となられたのである。
このあいだ原田さんは幾度か憲兵の尋問を受けられ、それが病床にまで及んだのであった。
おそらくこのようなことも最期を早めることに作用したであろう。
なんとも痛ましい限りである。
近衛公爵は「原田と言う人は、聞いた話を忠実にそのまま西園寺公爵に伝える。それで信頼されたのです」と話された。
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岡田啓介 総理大臣

首相在任中は西園寺さんの方から原田熊雄がしきりにお使いになってくる。
私の身辺にいた連中の中には、原田のことを「蓄音機」などと失礼なあだ名をつける者もいた。
つまり西園寺さんの口上をそっくりそのまま取次に来るので、そんなことを言ったのである。
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細川護貞の日記 近衛文麿の娘婿 

1946年2月26日
原田男爵、大磯に逝く。
原田男爵はいたって快活、そのあるところ春風堂に満つるの感ありたり。
長く西園寺公の秘書たり。
大正末期の政界に活躍せるは人の知るところ、しかも一点猟官の私心なく東奔西走席の温まることなかりしも、1941年脳血栓に倒れ一時小康を得たるも時々発して弁舌の自由をやや欠きおられたり。
余は原田男爵の愛顧を蒙り、ことに私事において高配を煩わしたることも多かりき。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1952年10月24日
昭和天皇◆『木戸幸一日記』は結論だけを突如として書いてあるだけでそれに至る経歴来歴が書いてなくて物足らぬし、『原田熊雄日誌』は経過ばかり書いてあってその経過がどう着いたか少しもわからぬ。
田島長官◆陛下御自身の御回想を残しますことは、陛下百年の後 御真意がわかることかと存じます。
そのことは東宮参与小泉信三が喜んで致しますと申しておりましたゆえ、御祝事でも済みましたらお願いしたいと存じます。
高宮太平の『天皇陛下』という本やいろいろな物に出てますことについてお伺いして、真相を記録することであります。
とうてい今すぐ公表はできませんが、残すことは必要と存じます。
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