直球和館

2024年

カテゴリ: 勲功華族

■父  長与専斎 東京大学総長
1838-1902 64歳没


■母  後藤園子 士族後藤多仲の娘
1849-1919


●長男 長与弥吉 初代男爵
●二男 長与程三 実業家茂木保平の娘茂木沢子と結婚
●三男 長与又郎 初代男爵
●四男 長与裕吉 岩永裕吉となる 獣医学者田中宏の娘田中鈴子と結婚
●五男 長与善郎 作家

●長女 長与保子 公爵松方巌と結婚
●二女 長与藤子 早逝
●三女 長与道子 医者平山金蔵と結婚


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作家 長与善郎 長与専斎の五男

今日南山小学校のある港区宮村町の僕の邸は3,500坪もある高台の景勝の地で、洋館の二階からははるかに品川の膿が見晴らされるという景勝さに父がすっかり惚れ込み、そこに相当広い家を建てた。
父がハイカラ好みのところから、家の造りも六分が洋風四部が和風という調子で、着物にしても食物にしても洋風がかっていた。二頭びきの馬車まであったが、僕が物心ついた頃には父の病気がちと官職が面白くなかったためか既に現役を退き、家には馬車の代わりに人力車が父用と医者の長兄用とがあるだけだった。
僕の家は人にも羨まれるほど、和気あいあいと円満欠ける所のないもので、楽しく美しい雰囲気に包まれていた。

明治27年夏、数え15歳であった二番目の姉藤子が鎌倉で溺死した。
家の中のあちこちに藤子の面影が思い出されるものだから、母は気を転じるために引っ越したいと言い足した。
ちょうど同じ麻布区内で気に入った邸があり、そこへ引っ越した。
日ヶ窪の家は面積も前の1/3で1,200坪ぐらいのものだったが、今度新築した家は前の家とはまるで違って純日本式な洋間の一つもない日本間ばかり。
この頃は長兄が開業医として景気よく発展していたので、父は半分遊んでいても自分で兄に金をかけた以上に長兄が働いて貢ぎ、そんな家ができたわけである。
熱心な欧化主義者であった父は、東洋的文化墨客風の隠遁者じみてきた。
世間との交際の閑散な中にも、たまにはパッチばきに尻はしょりという出で立ちの福沢諭吉翁が長い竹の杖をつき、書生二人ぐらいを供に連れ自分でついたという米を1,2升袋に入れたのを土産の印に、
ふらりと三田の邸から散歩に来訪されたりした。

母は大村藩の家老の長女で、長与の家より石が多かった。
しかし父は藩内きっての出来物として聞こえていたので、母が長与の家に半ば目見えとして嫁してきたのが、まだ数え15の時のことであった。
父は西洋風科学主義の心酔者であったにもかかわらず、二十いくつかで夫と死別した母が気に入り、その母に孝行を尽す嫁でさえあればいいという気持ちから結婚した。
家には頭の良く意地の悪い姑を始め出戻りの2人の小姑もおり、夜は晩遅くまでその肩を揉み足をさすり、朝は早くから赤ん坊をおんぶして井戸端仕事をするという全く召使同様の忙しさであった。
その不憫な様をみかねて憤慨した母の兄が妹を引き取ると申し出に来たのを、母が泣いて止めたこともあったという。
しかも働き盛りの壮年期の例にもれず一夫一婦主義の堅人なわけでもなかったらしく、母はその方でも人知れぬ苦労をなめた。
その上長兄の弥吉が17歳で10年間ドイツに留学し、これがまた後にはよく稼いで両親に楽をさせた代り、金遣いの荒いことも父親以上で留学先から始終送金をねだってくる。
そんな長の苦労の疲れが年を取って更年期の母に急にヒステリー的に爆発し、わなわなと震えて食ってかかるのに、病気と衰弱とに寝たきりの父がなだめすかしようもなく弱りぬいていた。
ほどなくその父も世を去り、跡継ぎの弥吉の仕事が有卦に入ってから、母にもようやくのどかな閑日月が訪れたのであった。

母や元来じっとしていることのないマメな質であったが、なにぶん広い屋敷のこととてイタズラ盛りの僕がどこで何をしているか目は届きようがなく、僕に対する監視は三番目の兄又郎に任せているいった風であった。
その上の二人の兄は僕とは歳も違いすぎ、常に接触のある怖い目の上のタンコブは無口で秀才の方であった又郎とその下の兄裕吉とであった。
僕は4人の兄のどれも嫌いではなかったが、中では一番気の弱くおとなしい程三が、僕とは最も交渉が薄く会うことも稀だったためか、最も好きだったかもしれない。

父の死後急に閑散となり、めったに使うことのない表座敷は昼間も雨戸を締め切りにしていることが多かった。
そんな広い家に住んでいるの者は母と僕と姉の道子の3人きりで、4,5人の女中、1,2人の書生、抱えの車夫、それに巡査の一家まで置いていた。
そんなノンキな暮らしができたのは、父の遺産や恩給以上に長兄弥吉が開業医として大いに当たっていた上、孝行者でしかも無闇に気が大きいというか、気前のいい性分のためであった。
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■夫  長与称吉  長与専斎の長男
1866-1910 44歳没


■妻  後藤延子  伯爵後藤象二郎の娘 
1877-1960


●長男 長与立吉  2代当主

●長女 長与美代子 外交官斎藤博と結婚
●二女 長与仲子  犬養健と結婚→子は評論家犬養道子と共同通信社社長犬養康彦


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作家 長与善郎 長与専斎の五男

ドイツのドクトル称を得て帰朝した弥吉は、さっそく日本橋の目抜きの場所に小さい医院を構え、遠い山の手の中でも狐狸の住む麻布内田山の父の家からそこへ通勤し、同じ専門の競争者のなかった胃腸病専門の当時のこととて大いに当たり、妻の義兄にあたる財閥岩崎氏から3,000円の金を借りて麹町幸町に病院を建て、わずか3,4年でその借財を返済した上自分たち夫婦子供だけの新居を病院のそばに建てるという繁盛ぶりであった。

兄弥吉は17の歳から10年も外国にいたためまるで日本人離れした風貌と性格になり、ずいぶん乱暴だった。
日本橋に医院を開いて毎朝麻布から人力で出かけるのだが、自分の抱えの車夫が自分よりもちょっとでも遅く玄関に来ると、ステッキでいきなりその背中を撲った。
因循であったという評が当たる父に比してずっと品の下がる俗物であったこの兄にも、激しいほど多情多感で純真な本能的美点があることを後に見出して嬉しく思ったことがある。
病中の無聊の慰めに僕が送った漱石を読んで大の漱石ファンとなり、再起を深く案じられた作者の治癒看護に自分の病院の全力を挙げて尽させた。
僕が突然文科に行くことを決心した時、彼は僕をその病床に招いて言った。
「お前は変わり者だ。文学をやりたいと言うのはわかる。それも面白いだろう。文学で飯を食うのは容易じゃないだろうが、思い切ってやれ。お前の生活ぐらい俺が引き受けてやる。心配するな」と。

腰越に豪壮な別荘を建て、つぎに麻布富士見町で6千何百坪という見晴らしのいい高台の土地を手に入れて大いに喜び、むやみに大きく贅沢な住居や温室を新築したりする豪放さのため、持ち金が足らなくなり空株に手を出したのが悪かった。
当座しのぎのつもりの坊ちゃんらしい遣り繰りがまんまと株屋のいい食い物となり、死ぬと同時にまた木の香がする家を慌てて叩き売らなければならぬハメとなったのだ。

姉保子の結婚の媒酌を務めたのは大西郷の実弟西郷従道公爵夫妻であり、その披露としての盛大な園遊会も催された。
兄の弥吉がその来賓の中の花の一団の中でも際立って人目を引いた17歳の延子を見初め、これこそとひたむきに求婚を申し出たのも、その園遊会の取り持ったことであった。
しかもそれがまた庶子ながら偶然にも後藤伯爵の令嬢というので、二度までもそんな豪家と縁組するという奇縁に反俗精神の強い父が喜ぶはずはなかった。
とはいえ一度は子までなしたドイツ娘を血の涙で思い切らせたことであり、(その手切れ金を持って渡欧したのは後藤新平氏であった)しかも稼ぎ者の孝行息子のたってもという懇願を両親も今度は無下に拒みかねたのだった。
その結婚披露は父の主張でわりあい内輪に済まされたものの、仲人には伊藤博文公爵が自ら買って出るという相当大袈裟なものとなった。

兄嫁延子はなかなかの美人であった。
入って来た花嫁は後藤伯爵令嬢というので、派手なことの嫌いな父は満足でなかったろうと思われるが、そこには両親としてたってもという長兄の希望を今度はかなえてやらぬわけにいかぬ事情もあり、ある夜井上公爵を媒酌人とする2,3台の馬車が家の玄関に景気よく着いた。
僕は姉や兄や女中たちと遠くから、その人形のような人が井上夫人に手を取られてしずしずと入ってくるのを胸を躍らせて覗いた。
その美しい人が一家の一人に加わったことを嬉しく思った。
まだ数え18歳であった延子にとってつらかったことは、長与家に輿入れして1年経つか経たずに溺死した義妹の藤子と2つしか歳がたがわず、しかも嫁入り支度としてのたしなみにかけてはとうていその足元みの及ばぬことがいちいち比較して目につくことであった。
もともと後藤象二郎伯爵は豪傑肌の政治家であり、自然子女の教育やしつけにも無頓着だったせいもあったのであろう、
歌や書道はおろか琴のおさらい一つでもあれば延子が常に肩身の狭い思いをしなければならなかったことは同情さるべきことであったが、そうしたごとに引け目を感じてふさぎ込むにしては彼女の精神は太く強気であった。
ある時夕食の支度の手伝いに台所へ出ていた延子は、ネギの根を若い女中に渡し「これを噛んでおいで」と言った。
何のためか買いかぶりながらも主人の命令でそれを口に咥えた女中は、ネギが目にしみポロポロと涙をこぼした。
他愛ないイタズラと言えばそれまでであったろうが、僕にも何が目的でそんな変なイジメ方をするのかわかるわけはなかった。
それにしてもそんな風な延子が奉公人たちから好感を持たれるはずはなかった。

弥吉の一人息子で本家の跡取りであった立吉は、経済・算盤の方に不得手を自覚する僕だけの頭すらなく、しかも太っ腹でそれが御曹司育ちの甘い人道主義と結びついたのだから無難で済むわけはなかった。
英語の大御所神田乃武男爵の嫡男金樹君という性格破産者と一心同体の深い仲となったのが百年目であった。
金樹君は学習院では武者小路などと同級で、学問特に語学にかけては親譲りの天稟を持ち、大学は医科に入ったが解剖の科目に堪え得ず農科に移り、さらにドイツに留学してフロイトの精神分析学の聴講生となった。
これがまた立吉とは比較にならぬ財産家の上に変質者とも言うべき女性的善意の持ち主ときていたので、悪い取り巻きにはこの上ないカモだったのである。
金樹君は苦し紛れに事実上詐欺を働き、多くの他人に迷惑をかけたとされて破産の宣告を受け、続いて立吉も準禁治産者とすべきかどうかで親族会議が開かれた。
又郎と共にいろいろ損害を蒙っている裕吉はすべしという強硬論者であったが、結局人情家又郎の涙をのんでの犠牲によってそこまで行かずに済んだのだった。

立吉は持って生まれた底抜けの楽天的痴呆症が死ぬまで直らず、虫のいいブローカー事業は借金の山を積もらすばかりなのにさすがに焦り、焦れば焦るほどその穴は大きくなるばかりなので、僕がやがてそこに骨を埋める墓地の一部を買ってくれと懇願されそれを買った。
その金はすぐに立吉の治療や手術費に右から左へと回されたが、もとより無駄で立吉は死んだ。
迷惑をかけた友だちも少なくなかったので、その人々への詫びかたがた自宅での葬式には行ったが、
昔は広かった墓地の1/3はとうに売り払われて、さらに1坪、2坪と切り売りされて不格好になっていた。

法事などのある時弥吉夫婦と保子夫婦がしばしば一緒になるのは当然であったが、保子は腹の中では馬鹿にしきっていながら口先では「お姉様」「お姉様」と延子を持ち上げるのである。
僕は延子も充分に意地が悪いと思い、愚にもつかぬ小言を女中に言ったりすることによく不快を感じるのだったが、意地の悪さでも嘘と虚栄の権化のように利口ぶっている保子の方がもっと念が入っており、延子の方が頭が空っぽなだけまだしも深く憎むに足らないと思うのだった。
僕よりもずっと邪推深くない裕吉でさえこんな観察をしていたのである。
「この間俺が松方家へ行くと、幸次郎さんが『なあ義姉さん、こんなこと言っちゃ失礼じゃが、
あんたの家の延子さんな、あれはなかなかの器量良しじゃが、ココはちっとアレなんじゃごわせんか』って頭をコツコツ指してね。幸次郎さん人が悪いから姉さんが良く思っていない人の悪口をすりゃ姉さん嫌に思うはずないし、それがまた貴女は利口だと間接におだてることにもなる。果たして姉さん満足そうにニッと苦笑してるんだ」

母の家を訪ねると、ちょうどそこに延子と保子とが来合せた。
どこかの家の娘の噂に出て、保子は延子に面あてを言った。
「あのお嬢様どんな欠点がおありになるのか、まだ何の御縁談も【おありんならない】とか」
うわべでは白々しく持ち上げられている「お姉様」の延子にとっては一番苦に病んでいる痛い所、すなわち娘美代子がもう25にもなってまだどこからも何の話もかからないことへ触れたのである。
一般に娘の婚期のまだ早かった頃の話であり、これには神経の太い延子も涙ぐまぬばかり顔を赤らめ、厚いヒザをねじっている様が気の毒で居たたまれなかった。
美代子がピアノや英語に打ち込みどうなるかと思っていたところ、待った美代子には思いがけない海路の日よりが訪れたのだった。
取り持ったのは兄裕吉で、彼の友人松岡洋右が太鼓判を捺しての推薦によった斎藤博が、ほとんどノンキなほどの気軽さでOKとばかりに登場したのだった。
彼は学習院高等科の志賀・武者小路・細川護立などの級で、外交官を志願して入学するなり首席となった秀才で人物もしっかりしており、その魅力ある人柄と才智とで後には駐米大使として活躍し国難に殉じた男である。

斉藤博はちょっと賜暇帰朝していた折り後輩の白鳥敏夫を伴い、骨休みに僕の家に好きな花を引きに来遊した。
斉藤は近況報告のためにお会いした天皇が、
「いきなりこっちの一番痛い急所ばかり鋭く衝いて質問されるのには恐れ入った」と激賞した後、口を極めてヒトラーを痛罵し、
「あんなキチガイの悪党と手を組んだ日にゃ、日本はそれこそ取り返しのつかないひどい目にあうよ」と言っていた。
斉藤は頭もよく人柄も高潔で有能な闘士ではあるが、何といっても元来の親米・親英感情からそんな風に見るのだろうと思った。
しかし後から想像すれば、彼が門外漢の僕にあえてそんなことを言ったのは、同伴の危険人物白鳥あてに言ったことだったのかとも思える。
斉藤を姪美代子の婿として熱心に推薦した松岡洋右はやがて外務大臣・特命全権大使として国連脱退を声明したばかりか、枢軸三国同盟をも結んで大得意であった。
そして上役斉藤の前で猫のようにおとなしかった白鳥は、今はヘイコラとその片棒を担いで得意だったのである。
次第にアメリカとの絶体絶命の板ばさみの苦境に立たされた斉藤は、時にあっては敢然と強く抗議し、また非がこっちにある時は衷心から素直に陳謝し、まるで日本とアメリカとを共に敵としてひたすら世界平和のために悪戦苦闘したようなものであった。
それに骨身を削ったことが宿痾を募らせ、ついに困憊衰弱の挙句、54歳の若さで任地に斃れた。
全く戦士と言うべきその死は日頃親しく彼の誠実無私で良心的勇気のある人となりと機略縦横な才智とを信頼していた大統領・国務長官以下の心を強く打ったのみならず、その持って生まれた明朗なアメリカ人好みの調子のよさとに魅了されていた彼我両方の人々から深く惜しまれ、特に異例な尊敬と哀悼を表するためその遺骨を軍艦アストリア号に乗せて寄こした。
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■夫  長与又郎  長与専斎の三男
1878-1941 63歳没

*ドイツに留学


■妻  森村玉子  財閥森村豊の娘
1890-1960


●男子 長与太郎 
作家志賀直哉の娘志賀留女子と離婚・市川宗助の娘市川郁子と再婚・留女子は音楽家土川正浩と再婚  


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作家 長与善郎 長与専斎の五男

別荘で母と僕と朝食を食べていると、すぐ上の姉道子が裸足で走ってきて「ちい姉様が流された!」と叫んだ。
僕たちも青くなってすぐ裸足で飛び降り、浜まで走っていった。
何しろ藤子は身体がひ弱かったし、むろん泳ぎもろくに出来なかった。
その時一人別に別に材木座の方に泳いでいた兄又郎は藤子よりたった1歳年上だったが、責任を感じ「お母さん、ごめんなさい」と砂の上に手をついて謝ったが、その悲痛のため神経衰弱になりしばらく身体まで弱っていた。
寡黙な勉強家で兄弟中の出来物と目された又郎は、一高時代には好きな野球の選手となりめっきり丈夫になると共に、そのむっつりした真面目さや思想も何度か変り、兄たちを恐れさせた額の八の字も消えたのであった。

僕は大学中退を決意した時、又郎はおそらく賛成すまいと思ったので、半ば喧嘩腰の手紙を書いたところ、返事は全然予想とたがい、「実は君がいつこのことを言ってくるかと思っていた。
僕が君に対して抱いていた感じは【かくかく】のものであり、今度のことには双手を挙げて賛成する。君の気の済むように思い切りやってみたまえ。僕は非常に愉快だ」とあり、僕は喜ぶよりも拍子抜けした。

又郎と僕との間は兄嫁がその仲を冷やかすぐらい親密なものであった。
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■夫  長与裕吉 長与専斎の四男・岩永裕吉となる
1883-1939 56歳没


・養父 岩永省一 母方の叔父
・養母 山本郷子 絵師山本梅逸の娘


■妻  田中鈴子 獣医学者田中宏の娘 


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作家 長与善郎 長与専斎の五男

母の弟岩永省一には一人の子もなかった。
それで裕吉はまだハイハイしていた頃から本郷にあった岩井家に養子にもらわれることになったのだったが、子供の時から目のパッチリした色白で、丸々と太り、顔立ちも愛くるしく、気質万端弟の僕とは対照的であった。
しかし育つにしたがい養母からは気に入られず、車夫の部屋に同居させられたり、義理の祖母が死ぬとその死体を安置した部屋に一人寝かされたりした。
そんなことで「本郷の家に帰るのは嫌だ」と言って泣くので、両親が不憫がってどうしたものかと困っていた。

そんな風に裕吉は他の兄弟の知らずに済んだ人の世の冷たい風に早くさらされた代り、半官半民の郵船会社の副社長となった省一の遺産をそっくり相続し、兄弟の中では結局一番の金持ちになったのではあるが、それはワガママに甘やかされて育った僕などにはとうてい辛抱のできぬ苦く寂しい思いの代償であった。
にもかかわらず僕はこの兄をくみしやすい遊び相手という以上には尊敬せず、その人間と業績の真価を評価したのは30年以上も後のことであった。
一つにはノンキで滑稽なところがあり、とてもそんな人知れぬ気苦労をなめた者とは思えぬからであった。

裕吉には一高にいた頃から相思の人ができていた。
それは裕吉が京都大学にいた間に抑えがたく嵩じたのであった。
それが相手の人の健康の遺伝に対する懸念から養母の反対を受けて一家の悶着となり、相談を受ける母も弥吉も少し困っていた。
一つは上流階級では男女対等の立場での真剣な恋愛結婚なんというものは、人の陰で物笑いになるという封建的遺風が残っていたこともあったと思われる。
彼のフィアンセは農科大学教授の娘で別に貧しいわけではなかったが、裕吉がゆくゆく兄弟の中での財産家になることを約束されていたために、金の問題を結婚の勘定に入れないのだ。
一人僕だけは裕吉に同情し、その全く不純でない真面目な動機のものであることを皆の前で誉め支持した。
一番子供の僕の発言にどれほどの力があったとも思えないが、養父ははじめから養母ほどに反対だったわけではなく、弥吉もこの養父母の家の円満のため多少取りなしたらしく、結局この事件は裕吉の満足するようにまとまったのだった。

満鉄長春駅長であった裕吉が、当時僕が書き送った手紙を『愛弟通信』と題して丁重に保存していたのを、後に兄嫁から受け取ったこともある。

裕吉は軽井沢の別荘で持病の心臓の最後の発作に斃れた。
元来太っていた裕吉はあまりの急死のため、ベッドの上ではまだ堂々たる体格に見えた。
あまりにも貞淑な夫思いであった兄嫁の悲歎は見かけ以上に深く、生き甲斐とともに生命力も失ったように消えて逝った。
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■夫 長与善郎 長与専斎の五男 
1888-1961 73歳没


■妻 市川茂子 市川常吉の娘 


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作家 長与善郎 長与専斎の五男

臆病なくせに甘やかされて育ってしまうと、みんなが自分を愛さないと満足しないことになり、
しかも他人からは全く手に負えない悪戯っ子、
ワガママなそして変に理屈っぽく嫌味を言ったりするくせに
好色的なところのあったりする子が可愛がられるわけはない。
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■妻  長与保子  長与専斎の長女 
1872-1957


■夫  公爵松方巌 公爵松方正義の子
1862-1942 80歳没

*十五銀行倒産の責任を取って爵位を返上する


●女子 松方竹子 伯爵黒木三次と結婚


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作家 長与善郎 長与専斎の五男

明治25年の春、皇后陛下台臨という女子学院卒業式に
卒業生総代という晴れの役を務めるハメになった17歳の保子に、これこそが嫡男巌の嫁とするにふさわしいと白羽の矢を立てたのが松方公爵夫人であった。
背は四尺八寸あるかなし体重もせいぜい11貫足らずというその頃の日本ですら小柄の方であった娘が俗に言う山椒の小粒で、十人並みといった容色もその利発そうで自信のある落ち着いた物腰のために
少し分がよく公爵夫人の目には映ったと見える。
もともと保子の両親とも知り合わぬ仲ではなく、どんな家庭かということは改めて調べるまでもなくよくわかっている。
念のため校長の下田歌子女史や主管教員に様子を探ってみても、誰一人口を極めるほどに褒めぬ者はない。
公爵夫人の腹が一目の印象で決まったのは、あるいはおっとりしすぎたお人好しの巌の脇には、こういう才気ばしったやり手が必要だと考えた点もあってのことだったか、ともあれ縁談の交渉はまもなく開始されたのである。

父母は少し釣り合わぬ気持ちもなくはなかったが、兄弥吉に手紙で問い合わせてみたらどうであろう、ちょうど話の主の巌もあっちに行っているということだから、訪ねて会ってみて弥吉の意見を尋ねることにしては、なるほどそれがよかろうと、詳しい手紙をベルリンへ書き送った。
何ヶ月か経って着いた兄の返事は「初対面をした印象は甚だ良かった。
別に何に優れているといった特徴はなさそうだが、人柄は至極温厚篤実で円満かつ上品であることは確かと思う。
こういう人に嫁ぐことができるならば保子としては誠に幸運だと自分は信じ、双手を挙げてこの縁談に賛成する」という旨がしたためられていた。
こうしてめでたく決まった公爵夫妻の華燭の典に先立って、まず弥吉が帰朝しついで巌も帰った。
いよいよ明日は我が生家を去るという前日身内ばかり親子10人の並んだ食卓で、父から弥吉も一つはなむけの言葉を述べてやれと言われ、日本語は上手くしゃべれなくなったからとカイゼル髭の弥吉はドイツ語で祝辞を述べるのだった。

そしてそれは真に弥吉が太鼓判を捺したところにたがわず、保子自身にとってはこの上ない幸運な良縁であったと言わなければならなかった。
ただその結縁によって長与家と松方公爵家との付き合いが緊密に結ばれ、本腹・妾腹合せて20何人という貧乏人ならぬ金持ちの子沢山の家と繁く行き来するようになった。
嫡男に嫁した保子はそうした腹のまちまちな大勢の弟妹から「お姉様」「お姉様」と奉られるように持ち上げられはするものの、自分を長男の嫁に見立てた姑は一見大まかなようで細かく頭の働くシッカリ者であり、そんな意味でちょこまかと気を使う必要のなかった嫁入り前とはガラリとうって変わった複雑な大所帯に飛び込んで、誰からも気うけをよくしながら二代目の若奥様としての威容を保つことは楽な業ではなかったに違いない。

松方正義氏は舅としてはこの上なく仕えいい鷹揚な温かみのある大人であった。
その人柄の良さを享けていた夫の巌も兄の弥吉が太鼓判を捺した所にたがわず、外交官としてはあまり振るわなかったにしても、誰からも高ぶらない善い方と言われた。
保子が一女竹子を挙げて以来子供を産まなくなったのは、彼が遊ぶためと陰口をきかれたりしたらしい。
それでもそのことに気がとがめてか気の毒なようにおどおどしている顔を見るにつけても、彼女ははしたない悋気めいた言葉はおくびにも出さなかった。
両親にこまめに孝養を尽しさえすれば充分に満足し、一にも二にも「お保が」「お保が」と自分を立ててくれる優しい理想の夫を持ちながら愚痴をこぼすとすれば、それこそバチが当たると保子はしみじみ自分に言い聞かすのだった。
むろんそうした彼女の胸の奥には、いずれ何年かの後には公爵夫人になれるという最大の楽しみがぞくぞくするように躍っていたのは言うまでもない。

豪勢と言えば、長兄宏の晩い結婚を待ちかねたように追いかけて挙げられた弟正作の花嫁は、財閥岩崎男爵家の長女繁子であり、それがまた奇しくも延子の姪に当たるという、長与家とも遠縁に当たる間柄であった。
持参金は当時の金額で30万円とかいうことであったが、そんなことが大きく騒がれるにしては松方公爵家そのものが富貴な御大家でありすぎた。
次々に輿入れしてくる新嫁たちは、いずれも名だたる富豪か華族の令嬢で、驚くばかり光煌めくダイアの首飾りや長持幾棹という衣装の豪華さで実家の身分と力とを示し、容色や豊満さでも保子とは比べ物にならなくても、ワガママで人づきあいが悪かったり、品は良くても頭がてんで働かなかったりする。
そこへいくと保子の何よりの持参物は、目から鼻へ抜ける才学機転と痒い所に手が届く機敏な務めぶりである。
とはいえ自分だとて華族や金満家の娘でこそなけれ、氏無くして玉の輿に乗ったわけではもとよりない。
れっきとした高官の誇るべき父を持って名家に生まれたのだ。
いささかたりとも卑屈な風があってはならないと高く自ら持するのだった。
そのため保子は目上の者や社会的地位の高い人々に務めることでは至れり尽せりであったにもかかわらず、ともすれば利口さを鼻の先にぶら下げる高慢ちきで、権高い女とも下の者からは見られるのだった。

権高い姉が初めて僕の家に姿を現したのはむろんある目的があったからのことで、尊大な会釈で妻を遠ざけ彼女の言い出したのは、他ならぬ彼女の一人娘竹子の婿選びの相談であった。
彼女が自分の名折れにように感じている僕の所へそんな重大な相談を持ち込んでくるのは、よくよく銓衡そ重ねて窮した末のことだと思われた。
あわよくば皇族でもと内々高望みを抱いていたらしいが、何事もほどほどにという主義の夫の同意を得なかったのかどうか、華族名鑑という一冊の本を開いた。
保子は子爵以下は問題にならぬとして公爵家から伯爵家までを順々に操って、既におおよそ絞り残ったらしい5,6人の候補者につき、
「この方はどんな方?」「じゃ、この方はどう?」といちいち尋ねるのだった。
人数の少ない学習院出で、5,6年上までの先輩と3,4年の下級生までについては僕はたいてい人柄や成績も知っていた。
松方家にはやはり学習院出で相談相手になる義弟は幾人もいる。
しかしその義弟たちも実は見かけほど保子と折り合いが良くなかったのか、とにかく僕を選んで来たのである。
ずさんな銓衡の挙句、公・侯の中でまだしもと思われる人物は既婚者か若すぎるか既に話の決まっている者ばかりであった。
余儀なく最低の伯爵家の中で物色した結果、松方家とも旧懇の間である伯爵黒木三次ということに一応話は落ち着いた。
ただ保子から見て黒木の欠点は熱心なクリスチャンであるということで、
「クリスチャン?へーえ、それはちょっと困ったわね」と保子は首を傾げ、僕もとうてい見込みなしと思った。
有名な大将の嫡男である黒木は同年の兄裕吉や志賀直哉とも親しく、僕の所へも一度談しに来たことがあり、
真面目な良い青年として僕の目に映っていた。
それでどうせこんな昔の政略結婚のような縁談には彼の方で応ずるはずはないと信じたのだった。
それから約1ヶ月後のこと、偶然虎ノ門の停留所で僕を見つけた黒木は僕を呼び止めて近づくなり
「ねえ、君。僕、変なことになっちゃってね。松方竹子さんと結婚することになったんだよ。ハッハッハ」と自ら高笑いして告げるのだった。
僕は「え?」と言ったなり唖然と黒木の顔を見た。
なんだ貴様はそんな男だったのかと、急に彼を買い被っていたと思う失望と一緒に黒木を軽蔑してしまった。
どう見ても竹子には黒木が本当に心を魅かれる要素があるとは考えらないからであった。

世界恐慌によって巌が頭取であった銀行で預かっていた皇室の財産の一部までが損失を免れないという瀕死の状態に陥り、それは弟たちの会社がバタバタと倒れるのを免れようとして銀行の金を大きく使い込んだのが原因だったという。
それで巌は頭取としての責任感と自責の念とから、亡父から受け継いだ公爵の爵位を潔く返上しようと悲愴な決意をした。
中でも一種の豪傑で、万事桁外れのやり方であった幸次郎の残した傷は厖大であったが、松方コレクションという世界にも誇り得る文化的記念事業が図らずも日本に残るプラスの結果になった。
しかしそのために一平民と成り下がった保子にしてみれば人生の一切が無意味になってしまったわけで、さらに十数年後には敗戦による国体の変革によって彼女の信仰の最後の拠り所までが崩された。

20人を越える松方家の子供の中では随一のやり手であり、また日本人離れしたスケールの大きな生まれつきの役者であり怪傑であった幸次郎は、保子とは犬猿の仲であった。
それが露骨となったのは、幸次郎が事実上の社長であった造船会社が破産に瀕したのを巌が無理しないわけにいかなかったことが原因だった。
皇室の財産を若干預かっていた十五銀行がその大穴のために共倒れする致命傷を受けたことに、頭取としての責任上巌が切腹の思いで公爵を返上したことであった。
保子としてはその決断は表面上の術策で、そういう神妙なところを示せば元勲であった先代の大功に免じその儀に及ばずとお赦しが出ると読んでのことだった。
それが「受け入れたらよかろう」という西園寺さんの鶴の一声でまんまとアテがはずれ、松方家は一平民に没落するハメになった。
その実の最大責任者であった幸次郎はこの善良な長兄に迷惑をかけたことは済まなかったという気持ちは抱いていたのであるが、人間万事嘘の猿知恵で渡れるものと思っているこの兄嫁の性分を芯から嫌っていたので、ざまをみろと言わんばかりに詫びの一言も言わず相変わらず辛辣な皮肉を浴びせるばかりで、保子は怨憎のくやし泣きにむせぶのだった。

保子の夫松方巌が重体という電報が届き、すでに高齢であった巌は間もなく没した。
酷暑中の看病疲れに風邪が加わり、衰弱しきった保子は危篤の夫のそばへも動いて行けぬ病状であった。
彼女としては何もかもがあだとなり、最後の命の綱とたのむ夫にまで死なれては生きながらえる空は全くない。

孫ほどに歳の違う異母弟義三郎夫婦を一度跡継ぎにしようとしたにもかかわらず、その結婚が気に入らなかったのか、母娘そろって下婢扱いの態度は見るに見かねた。
裕吉の後継者で今はその方の大立者となっている義三郎の細君の英語は大したもので、なかなかのインテリでもあるが、保子の部屋へ何かの用で来る時は次の間に三つ指をついておどおどと物を言うのに対し、保子は「早くお下がり」と言わんばかりに「そう」と一言鼻先で応えるのみだった。
母親ほどには虚栄の権化というのではなかったが、同じそらぞらしい功言令色でも母親の方は歪められた古風な教養と才気の端とが時折チラリと見えたのに反し、あまりにも民衆を世情から遠ざけられて育った竹子は、これまたその養子夫婦とすら折り合わないばかりか、ほとんど誰とも普通の人づきあいができない泥人形に等しかった。

子供の頃は元気で無邪気で可愛かった竹子は、妃殿下の御学友として恥ずかしからぬ高貴な品位を持たせるように育てて変わり種の女となり、夫の黒木の友達の細君たちがみな世故に疎くない才女ぞろいでキャッキャッと笑い興じるのにそこへ竹子が一人入れば水と油で、共通の話題が何一つなく賑やかな一座は急に白けてしまうという風だった。
すべては母親のお仕込みによることなのだが、家庭の味気なさにヤケ気味になった黒木は相当の放蕩児議員となり里見弴の小説にされたりしたが、案外寿命には恵まれず世を去った。
子供の無い彼女は母の保子と未亡人同士、終戦前の恐ろしい東京空襲にまであったのである。

東京は爆撃の的となり、保子はどうにか娘と二人黒崎の大農場内にある別荘に避難した。
今では十五銀行の賠償の一部に提出し、松方家の物ではなくなっていたのだったが、人々が同情し広い洋館の別荘だけを使用してくれと言われた。
そぞろ歩く保子に畑仕事をしている農婦たちは昔ながらに頭を下げるのに、まるで皇太后か老妃殿下かといった「お前たちもご苦労だねえ」と形式だけのねぎらいの言葉をかけるのだった。

大家の家財道具を売ってタケノコ生活を送っていては、ついにその皮もはがれ尽きる。
冷酷なような本音を吐けば、夫の臨終の時に自分も相当の重病で死に水も取れなかったのだから、その後直ちに夫の後を追って世を去っていたらまだしも楽だったのである。
10年以上生き延びたために戦禍に遭ったり悲惨な晩年を送った。
何か嫌なことがあれば全て人が悪いとのみ思い、己はどうかと反省する能力を全く欠いていた彼女は、今や生き甲斐のアテを完全に失い無意味となりきった生ける屍を持て余し続けた。
「もうあたしもアコギに生きていたいとは思わないけど、病気で苦しんで死ぬのが嫌なの。
それにこの人のことが気になって」と娘竹子を指さして会う人ごとに漏らすのだったが、次第に頭が呆けガスストーブによりかかったなりウトウトと眠りこけ、ちゃんちゃんこが焦げるきな臭さに竹子が驚いて「お母様たいへん!」と揺り起こし慌てて火を消しても当人は別に驚かず、ただ茫洋と「そうかい」と言うばかりなのに竹子の方が驚くというていたらくだった。
ますます頭のおかしくなっていた保子は、昏々と眠ったまま布団からずり落ちるように小さい身体を折り曲げたなりこと切れていた。
まったく老衰のための自然死で、泣く者は一人もなく、むしろ彼女自身のためにもやっと片づいたのは良かったと心中思う者ばかりだった。
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作家 長与善郎 医者長与専斎の子

ある日婦人公論の記者として波多野秋子が原稿の依頼に来て、ちょっと人目に立つあだっぽい美人であったが、用件を頼むにも「ねえ、いいでしょ?」と色気たっぷりに甘えるような口のきき方をするので、何となくくすぐったくおかしくなったものだ。
その美しい目つきなどを思っても、その夫との間がどうだったにせよ確かに浮気な質で、たまたまとうに夫人を喪って独身になりブルジョアの家に生まれた自分に絶望していた大の堅人の有島武郎さんと出会ったのだから、いろいろの意味であんな最期の道連れにまで行ったのは不思議でなく思える。
ある日僕が上京の折り、新橋のプラットホームで武郎さんとぶつかった。
その時の武郎さんはそれまでの紳士らしい温容とはうって違い、何か殺気立っているような顔つきであり、ろくに話も交わさずセカセカと急いで別れた。
さては共産主義者となっているため僕にも反感を持ってきたのかと思ったが、その頃はもう煩悶懊悩している最中だったに違いない。
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作家 長与善郎 医者長与専斎の子

翌日来訪した武者は例のせっかちな足取りで彼の顔を見るなり、「戦争やったね、敗けないね」といきなり言った。
僕の知っている誰よりも勝気な言葉であった。
純文学の神様と崇められている志賀までが珍しく「天の岩戸開く」という文を寄せた。
文学報国会の第一回で辰野隆君が「ざまあみろとはこのことで」と言ったことも、素朴な愛国者の偽りない気持ちだった。
それに僕が拍手を送ったことは、「一度嫌というほど叩きのめされる必要があるよ、この馬鹿国民は」と自国に憤慨し愛想を尽かしたこととはもちろん矛盾している。
しかし日本が悪いということは、なにも他国が日本を罰する資格のあることにはならない。
来るべきものがついに来たのだ。
誰もがそう感じると共に、かえって武者震いする緊張の中に腹は決まった。
敵は世界の覇王をもって任ずる大国ぞろいである。
しかしそれだけ我々はようやく弱い物いじめの不快な暗雲から脱して、さばさばしとした気持ちだった。
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作家 長与善郎 医者長与専斎の子

新京に着いて一つ僕を困らせたことは、満州国で誰よりも幅のきいている甘粕大尉が僕ら一行を歓迎し映画その他に招待すると言っていることだった。
僕はあの大震災の時どさくさ紛れに乗じ大杉栄と妻子の3人を殺したという鬼畜のような暴悪漢を軍部がなんとかかばって刑罰をごまかし、何年かフランスに亡命させた挙句、誕生した満州国へそっと呼び戻し、そこの黒幕の大立者となっていることに、なんという腐敗し方かと腹の底から腹が立っていた。
現在は満映社長というカモフラージュ的職にあり、肩書は依然憲兵大将でも軍事・政治の実権では関東軍司令官以上ということだった。
不思議にも北京でも彼の評判はいやに良く、実際の甘粕は軍人には珍しく物の解った自由主義者とも言える人間だと口をそろえて弁護するのだった。
それでも僕は応ぜず逃げ回っていたが、偶然ばったりぶつかってしまったのである。
逃げようがなく、ついにこうぶちまけた。
「自分は今度代理団長などという役で中国に来たため、今まで方々のお偉方と面会し無理して務めざるを得なかった。しかしその任はもう終わったのだから、自由にさせてもらいたいと思っている」
「ご苦労さんでした。しかし先生のお部屋はちょうど私の部屋の真向かいですよ」と彼は苦笑で応えた。
一見ムッソリーニを思わせる満身精力の塊の鋼鉄のようなただならぬ形相の男は、宿へ帰るとすぐ僕の部屋にスコッチウイスキー1瓶と上等な満州煙草2缶とに添え、他の方にももうお渡ししたからと紙包みにした1,000円を届けて寄こすのだった。
帰館してみると、なるほど甘粕が一人で占領している部屋の前だった。
大尉自ら姿を現し「ちょっと私の部屋で一杯いかがです?」と言う。
部屋へ行ってみると、壁一面をぎっしり本で埋めているところを見てもただの軍人や憲兵とは変わっていることは確かと思われたのみならず、自分が彼らインテリと言われている連中から憎悪の的とされていることも重々知り抜いていることも明らかと思われた。
ともかく元来頭の悪い人間とは違うことはちょっと話をしてみればわかることだった。
書棚の中から僕の本を2冊抜き取って見せたが、両方ともよく読んだらしいことはその汚れ方でもわかり、また僕に見せるためによそからわざわざ借りてきた物とも思えなかった。
そしてもしこれがいいと先生が推奨する脚本があれば、満映で1億円かけても必ず先生の満足する映画を作ってみせると意気込んでさえ見せた。
これは少しお世辞が過ぎるとも取れたが、莫大な金を彼の一存で自由に使えることはホラとも思えなかった。
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作家 長与善郎 医者長与専斎の子

陸軍お抱えの最高戦争画家である有名な藤田嗣治が、この藤野に疎開したがっているというのだった。
将官待遇を与えられているというような景気のいい男がこの小さな部落へ来れば、軍の威勢を傘に何もかも一人で買い占めてしまい。
他の我々はみな大迷惑を蒙ることになるだろう。
それから一両日経つと藤田は数人の従卒のような供を従え、将官用のメッキの拍車の付いた長靴姿で現れた。
果せるかな藤田はまず駅長・校長へ金をばらまき、2倍3倍と跳ね上がっていた薪炭・食料を独占的に買い占めるのだった。
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■父  長与専斎 東京大学総長
1838-1902 64歳没


1872年 ベルリンで
1079



■母  後藤園子 士族後藤多仲の娘
1849-1919


●長男 長与弥吉 初代男爵
●二男 長与程三 実業家茂木保平の娘茂木沢子と結婚
●三男 長与又郎 初代男爵
●四男 長与裕吉 岩永裕吉となる 獣医学者田中宏の娘田中鈴子と結婚
●五男 長与善郎 作家

●長女 長与保子 公爵松方巌と結婚
●二女 長与藤子 早逝
●三女 長与道子 医者平山金蔵と結婚


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◆初代男爵 長与又郎 医学者
1878-1941


■妻  森村玉子  財閥森村豊の娘
1890-1960


●男子 長与太郎  2代当主
●男子 長与道夫  立松美代子と結婚
●男子 長与健夫  岩間千鶴子と結婚

●女子 長与桃子  清水文彦と結婚
●女子 長与八重子 根岸正と結婚


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◆2代 長与太郎 1代又吉の子
1913-1988


■前妻 志賀留女子 作家志賀直哉の娘・長与太郎と離婚・ピアニスト土川正浩と再婚
1917年生


■後妻 市川郁子  市川宗助の娘
1918年生


●長女
●二女

■父  長与専斎 東京大学総長
1838-1902 64歳没


1872年 ベルリンで
1079



■母  後藤園子 士族後藤多仲の娘
1849-1919


●長男 長与弥吉 初代男爵
●二男 長与程三 実業家茂木保平の娘茂木沢子と結婚
●三男 長与又郎 初代男爵
●四男 長与裕吉 岩永裕吉となる 獣医学者田中宏の娘田中鈴子と結婚
●五男 長与善郎 作家

●長女 長与保子 公爵松方巌と結婚
●二女 長与藤子 早逝
●三女 長与道子 医者平山金蔵と結婚


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◆初代男爵 長与称吉 父長与専斎の功績により男爵を授かる
1866-1910 44歳没


■妻  後藤延子  伯爵後藤象二郎の娘 
1877-1960


●長男 長与立吉  2代当主

●長女 長与美代子 外交官斎藤博と結婚
●二女 長与仲子  犬養健と結婚→子は評論家犬養道子と共同通信社社長犬養康彦


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◆2代 長与立吉 1代称吉の子
1898-1957



■妻  本多政子 本多金治の娘
1906-1990


●長女

■父  佐藤泰然/佐藤信圭 蘭学医
1804-1872


■母  タキ


●長男 伊藤惣三郎 山村惣三郎となる
●二男 伊藤順之助 初代男爵 松本良順
●五男 伊藤信五郎 初代伯爵 林董

●長女 伊藤ツル  医者林洞海と結婚
●二女 伊藤キワ  医者三沢精確と結婚
●三女 伊藤トミ  陸軍白戸隆盛と結婚
●四女 伊藤フサ  山内作左衛門と結婚


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◆初代伯爵 林董 佐藤泰然の子・医者林洞海の養子 外務大臣・通信大臣
1850-1913 

1002


1879年 31歳
0031c


1004


1901年 イギリスで ヴィクトリア女王の喪中
1003


 
■妻  蒲生操  士族蒲生重民の娘
1858-1942

1902年 ロンドンで
190202


190201


190203



●長男 林雅之助 2代当主
●長女 林菊   福沢諭吉の子福沢捨次郎と結婚


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◆2代 林雅之助 1代董の子
1877-1958


■妻  横山ユキ 横山岩二郎の娘

1001



●長男 林忠雄 財閥岩崎忠雄となる
●二男 林孝次 
●三男 林信

●長女 林ラク 工学者潮田勢吉と結婚
●二女 林寿美 三菱重工小室俊夫と結婚
●三女 林キミ 三井物産小室雅夫と結婚

■父  佐藤泰然/佐藤信圭 蘭学医
1804-1872


■母  タキ


●長男 伊藤惣三郎 山村惣三郎となる
●二男 伊藤順之助 初代男爵 松本良順
●五男 伊藤信五郎 初代伯爵 林董

●長女 伊藤ツル  医者林洞海と結婚
●二女 伊藤キワ  医者三沢精確と結婚
●三女 伊藤トミ  陸軍白戸隆盛と結婚
●四女 伊藤フサ  山内作左衛門と結婚


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◆初代男爵 松本良順 佐藤泰然の子・松本良甫の養子 医者
1832-1907 

1002


2221


2222


カメラ:内田九一
2226


2225


1879年 49歳
0049




●八男 松本本松 2代当主


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万朝報 1898年

目下大磯に居住する軍医松本順はさる1895年より野村エイ(38歳)なる女を妾とす。
エイは柳橋にて栄吉と名乗りし芸妓なるが、いったん落語家の古今亭今輔の妻となりたれども都合にて離縁となり、大磯の芸妓屋今鎚〈小はな〉と名乗りて勤めいけるに、かねて特別の関係ありしよりたちまち松本のために落籍されその妾となり、松本の松を取りて今は〈お松〉と言いおれり。
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◆2代 松本本松  1代良順の子
1885年生


■妻  津田ワカコ 津田知寛の娘
1882年


●長男
●二男
●三男

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