有馬伯爵家 久留米藩主

  • author: easthall
  • 2010/01/02


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
有馬頼寧伯爵

本郷に前田侯の赤門というのがありますが、私の家も赤門でした。
その頃の私の家は芝の赤羽、あそこに赤門がありました。
この赤門というのは、徳川家から嫁をもらった家だけしか建てられないことになっていました。
徳川家から嫁に行った人を「おすまい様」と言いまして、
世継ぎの男子の生まれるまでは徳川家の娘として特別の取り扱いを受けていたのです。
侍や女中を合せると4,50人はついており、今でも図面がありますが、
その住居などは非常に広いもので部屋も何百とあったようです。
男の子の生まれるまでは徳川家の関係が切れず、世継ぎが生まれてはじめて嫁ぎ先の身になり、
随行した侍も女中も全部解雇されるのです。
ですからその人たちはなるべく子供の生まれぬことを願うので、
妊娠しても無事に生まれぬような工作さえしたのだということです。


私の生まれたのは明治17年12月17日(1884)で、
所は日本橋蠣殻町、現在水天宮のある所と思っていただけばだいたい間違いありません。
近所に芝居小屋があって、4歳の時にそこから火が出て私の家も焼けたのです。
そこで浅草の橋場に別荘のようなものがあったので、そこに移って住むことになりました。
その頃の家族は、一番上は曾祖母。
これは私から言えば3代前の頼永という人の連れ合いでした。
頼永はわずか27歳かで亡くなったのですが、曾祖母はその未亡人でありまして、
薩摩の島津家から嫁入りした人なのです。当時すでに80を越えていたと思います。
次は祖母。
私の祖父頼咸というのは頼永の弟で、先代が早逝したので跡を継ぎました。
この祖父は私の生まれる前に亡くなっていました。
祖母は有栖川宮家の出でありまして、徳川将軍の養女となり私の家に嫁に来たのです。
次に父の兄、すなわち私の伯父がおりました。
この人は父の前に一度家を継いだのですが、健康を害したため隠居して、
弟であった父がその跡を襲ったのです。
健康を害したというのは、幼い頃に寒いからといって駕籠の中に火鉢を入れたために
ガスの中毒を起こしたのでしょう、頭が悪くなってしまったのだそうです。
それから父と母でありますが、母は後添えで私には継母にあたります。
二度目の母が来たのは私がまだ幼い頃です。
本当の母ではないということを知ったのはずっと後で、15歳ぐらいまでは知りませんでした。
ですから、継母というような感じはほとんど持っていません。
だいたい私たちの家庭では母親が直接子供の面倒をみるというようなことがなく、
万事女中任せなので母子の情愛というものが一般家庭のようではありません。
親子が寝食を共にするなどということはありません。
朝一度、晩に一度、ご機嫌ようと挨拶をするだけなのです。
したがって私には母が実母であろうと継母であろうと大した問題ではなかったのです。
次に姉弟のことですが、姉が1人・弟が3人・妹が1人、都合6人姉弟です。


私の幼い頃は行灯でした。
夜中つけっぱなしなので油煙のために壁はすすけているし、
朝起きて顔を洗うと鼻の穴が真っ黒という風でした。
何か儀式があるとか宴会の時は蝋燭を使いました。
次いでランプを使うようになりましたが、
なにしろ部屋数が多いのでランプ掃除も容易なことではありませんでした。
それからガスそして最後に電気になったわけです。
なぜこんなに世間とかけ離れていたかと申しますと、
老女に加寿山という頑固な婆さんがいてなかなか賛成しなかったからです。

私たちの家では夫人は直接家政を見ませんでしたから、
実権はほとんど老女が握っており、表向きのことは家令が支配していましたが、
奥向き日常生活のことは老女の同意なしには何事も実現できなかったのです。
加寿山は私の祖母が有栖川宮家にいた頃からついていた人で、
徳川将軍の養女になった時も私の家に嫁入りした時もついていたのです。
祖母よりやや年少で何しろ16歳ぐらいから80何歳まで一生奉公を通した人ですから、
男だか女だか区別のつかないような人で、
学問もあったのでしょうが行儀作法など特にやかましく、女中たちはピリピリしていました。
加賀山は頭がほとんど禿げていました。
男のように思われたのもそのためかもしれませんが、
電燈が点くようになってから部屋では頭巾を被るようになりました。
上に灯りが点くので頭が熱いからだと言うていました。


11人の家族で使用人はどのくらいいたかと言いますと、男女合わせて50人くらいいたと思います。
男の方は家令・家扶・家従、この辺までがいわば高等官で、
その下に家丁という判任官級の者がおり、その他に小使・車夫・馬丁がいました。
女の方では老女とその下に上女中があり、台所にいる者は「半下」と言いました。
これは「ハシタ」と呼びますので、あまりひどいので後に「下女中」と改めました。
なおこの他に女中が下に使っている下女のようなものがありました。
今でも宮中の女官はそうですし昔の御殿女中もそうですが、
女中たちはみな部屋に「部屋子」とも言うべき者を使っているのです。
それは老女なり女中なりは私たちの奥向きのことをしますから、自分のことをする暇がない。
食生活は自炊制度ですから食事を作ってもらう人を必要としますし、
その他洗濯や縫物などをしてもらう必要があるからです。
それで女中たちが共同して下女を置くので、この人たちは私の家とは直接の関係はないのです。

世間では私たちの生活はどんなに贅沢なものかと思っていたようですが、
家は大きく使用人も多くはあったものの衣と食とはかなり質素でした。
朝は一汁一菜で、味噌汁と何か野菜の煮た物、それに漬物ですが、
昼と晩は一汁二菜で、魚と野菜とおつゆ、それだけでした。
しかも分量に制限がありまして、ご飯は2杯半ぐらい、
お腹が空いたからと言うて余計に食べるわけにはゆかないのです。
もっと食べたいと言うてお膳にぶら下がったこともありますが、
適当の時が来ると女中がずんずんお膳を下げてしまうのです。
私たちの家では行儀ということがやかましく、
特に食事の時は厳しくてご飯を二口食べたらおかずを一口、
そしておつゆを一口という風に型にはめられたような食べ方でして、
食事中足など崩そうものならすぐつねられるかお膳を下げられてしまうのです。

おかずにしたって肉など食べたことがありません。
魚も種類が決まっていて、鯛とか鰈とか主に白身のものばかり。
しかも一匹の魚も全部食べることは許されないのです。
例えば鰈なども白い方は食べますが、裏を返して黒い方を食べたことはありません。
前にも申しましたように女中たちは自炊生活なので
ご飯もおかずも自分たちで買わねばならないわけですが、
それは相当の負担なので御主人のお残りがあれば「おした」と称してそれを食べるのです。
ですから御主人がおかずを全部食べてしまうと自分のおかずに事欠くことになるので、
これも私たちが食事を制限される一つの理由であったかと思います。


部屋は50近くありましたが、
これでも祖母が嫁に来た旧幕時代に比べたら比較にならぬほど狭いものです。
11人の家族は各自1室か2室より使わず、あとは客間とか事務所とか使用人の部屋であったわけです。
それにしても衣服や食物に比べて住居が大きく使用人が多かったことは事実で、
これは体面と言いますか格式と言いますか、封建の遺風がなお残っていたわけだと思います。

私の家には「表」と「奥」の区別があり、
奥というのは女の世界、表というのは男の世界でありますが、
この限界は相当厳しく、夜は鍵をかけて交通はできません。
私も9歳までは姉と一緒に奥の女中たちの中に住み、
9歳の時に表に移って男の手に委ねられたのです。
加寿山の教育といいますのは習字と漢文の素読ですが、
習字は朝学校に行く前に習うので冬などは行灯の下で書きました。
学校では「ハト、ハナ」というような読本を習っている時、
家では『千字文』とか『孝経』とか『大学』とかいうものの素読をやっていたわけです。
ところがなかなか婆さんの思うようには覚えないので、
時にはぶたれたりお灸をすえられたりしました。
裏から表に移って男の手で育てられたのですが、
学問以外に家庭で何をやったかと言いますと、剣道と馬術と水泳です。
家の道場で家来の子供たちと一緒に剣道を習いました。
水泳は家が隅田川の川べりにあったので早くから習いました。
その頃の隅田川は水もきれいで白魚さえ獲れたのですから、
今のように汚いものではありませんでした。
馬の稽古は、家にも馬はいましたが先生の所に通いました。
先生は丁髷を結っていました。


小松宮妃殿下は私には叔母にあたるので時々伺ってはいたのですが、
この日は他にもお客様があって少し勝手が違っていました。
というのはきれいな女の子が二人ばかり来ていたからです。
その女の子というのは北白川宮能久親王のお子さんで、小松宮殿下の姪になるのですが、
能久親王殿下薨去の後その縁談について心配され、
小松宮妃殿下のお里ということから私の家にその一人を嫁にやるという両殿下のお考えから、
見合いという意味だったことを後で聞きました。
しかしその時私は13歳で妻は10歳ですから、何のことやら少しもわからなかったのです。
小松宮殿下が健康がすぐれなかったため特に急がれたので、
とうという明治36年2月6日(1903)私が20歳、妻が17歳で結婚することになりました。
中学も出ていない身で結婚なんて恥ずかしくてできないとは思いましたが、
式は学校から帰ってから、午後の3時から夕方にまで及びました。
私の家は旧式ですから家で挙げました。
小笠原流とでもいいますか、何だかわけはわかりませんが面倒な式でした。
私は紋付羽織袴でしたが、妻は袿に髪はお垂髪という御所の型でした。
今日のように挙式の日に披露するというような簡単なことでなく、
何日か経って里帰りを済ませ披露はさらに日を置いて行うのが昔の風でした。
何ヶ月か後に親戚の人だけを招待してお近づきという意味で宴会を開きましたが、
特に披露宴というようなものはやりませんでした。
それは小松宮殿下の御容態がにわかに悪くなられたからです。
2月6日に結婚式を挙げたのも小松宮殿下の御容態が急に悪くなられたためですが、
越えて2月18日殿下は薨去になりました。
したがって私たちは披露をする時機を逸したばかりでなく、
新婚早々妻は喪服を着て御葬儀に参列せねばならぬことになりました。

私はまだ中学6年という時代ですから、結婚しても毎日学校通いです。
運動場にいたら初等科の生徒が5,6人入ってきて、
いきなりその中の一人が「有馬さん御結婚」と叫んだので
友だちは笑うし私は赤くなってしまいました。
その生徒というのは後の近衛文麿公です。
20歳で結婚する私も早いですがそれをからかった近衛君は13歳ぐらいだったのですから、
この方も相当早熟だったわけです。
後になってこの時のことを私が話しましたら、近衛君もそんことがあったなあと言うていました。
明治36年に長男が生まれ、1年置いて明治38年に長女が生まれ、明治40年に次男が生まれました。
高等科を卒業した明治39年にはすでに3人の父親だったのです。
私は家では親父であり、学校では子供だったのです。
先生には叱られ試験のたんびにヒヤヒヤするという始末で、
落第坊主でなくて落第親父などは困ったものです。

どこの家にも家風というものはありますが、それはあんまりハッキリしたものではないし、
またずいぶん変わるものでもあります。
私の家は大名の家で相当長い間の習慣とかしきたりとかいうものはありました。
しかし私の祖母が将軍家の娘であったため、私の家の本来のものよりも
祖母の里の徳川家やその生家の有栖川宮家の風が相当多くなってきました。
それに加えて私の妻が北白川宮家から来たために、
またそこで宮家の風が重ねて入ってきたわけです。
その頃宮家というものは生活は豊かではありませんでした。
例えばその頃宮殿下の妃となる方は多く金のある大名から迎えられていました。
それは生活が豊かでなかったからで、
私の家でも小松宮へ妃殿下を差し上げたため相当多くの費用を使ったことは事実で、
妃殿下のお里で面倒をみなければ宮殿下の御洋行の費用など出所はなかったのです。
私の妻が北白川宮にいた頃もまだあまり豊かでなく、
私の家に来て生活全体はむしろ良くなったのですが、
食物に関してはかなり貧弱で初めのうちは困ったようです。
私の家は衣食が極めて粗末でしたから、妻も来た当座はこれには閉口したようです。

歳はもう20ではありましたが、女の問題など何もありませんでした。
しかし家にはたくさんの女中もいるし、中には相当きれいな女もいたのですから、
目を離したらどんな間違いが起こるとも限らぬというので
急に結婚するということに決められたのです。
私を独身の危険から防ごうとして早く結婚させた家の考えはその当座は一応成功したようでしたが、
結婚によって女というものを知りそれに興味を持つようになって、
私の乱行の素質はかえって促進された感があります。
結婚3,4年は無事でしたが、
長男が生まれ長女が生まれた頃からそろそろ花柳界に出入りするようになりました。
私の叔父が道楽者でしたし父のイトコに大した通人がいたため、
その人たちの指導で花柳界に興味を持つようになったのです。
これが私の花柳界出入の皮切りで、長い間道楽したそもそもの最初です。


私の実母は維新の元勲岩倉具視の娘ですが、
明治16年に姉が生まれ、続いて明治17年に私が生まれた後、まもなく里へ帰ったのだそうです。
なぜ帰ったか本当の事情は聞きもしませんしいまだに知りませんが、
やがて当時文部大臣であった森有礼さんのところに再嫁したのです。
ところがほどなく森さんが凶刃に斃れた、私の母は本当に不幸なひとだったのです。

私の生まれたのは明治17年ですが、その前年に維新の元勲岩倉具視が亡くなったことです。
私が生まれるとまもなく里に呼び戻され、後に森有礼に嫁したのです。
もし私の生まれた頃に岩倉具視が生きていられたとしたら、
おそらく母は私を捨てて里に帰ることはなかったと思います。
詳しい事情は知りませんが、私の父が有能でないことが理由であったようですが、
それは嫁する前からわかっていたことです。
とにかく右大臣亡き後の岩倉家の勢力がどうなったかを思うと、
母の意志が何人かに強制されたこともうなずかれるのです。

80歳で亡くなるまで非常に壮健で、歯など1本も入れ歯をしていませんでした。
私は非常に歯が悪くてほとんど入れ歯なのですが、
母は私に「どうしてあなたはそんなに入れ歯なんかしているのですか」と言いますから、
「それはお母様が良い歯を残してゆかなかったので、私が悪いのではありません」
と言うたことがあります。

確かな年月は記憶しませんが、
それが私の大学在学時代であったことは確かですから私の25,6歳の時であったと思います。
ある日私は長女の静子をヒザの上に乗せ人力車で牛込の戸田家を訪うべく家を出ました。
戸田家というのは本来から言えば私の伯母の家、私の実母の姉の嫁ぎ先でありますが、
母が離婚となったので表向き親類つきあいはしていませんでした。
私の母は私が生まれてまもなく実家に帰りそのまま離婚になったのですから、
私には母の面影は全然念頭にありませんでした。
実母の弟に当たる岩倉道具という人が学校の上級にいて、
時々私に母のことを話して聞かせてくれたこともありますが、
私のことを心配してくれたほど私自身は母を想っていませんでした。
ですから母と対面させてやると周囲の人が心配してくれても、
本人である私はどうでもよいという態度でした。
そんなわけからそういう機会もなくて過ぎたのですが、
いよいよ二十数年ぶりで母子の体面という時が来たのでした。

やがて母が来ました。
挨拶をしましたが、どちらからも別に何も言いませんでした。
どんな人かしらということは何となく考えていました。
私が最初に受けた印象は極めて平凡で、想像していた人とは必ずしも一致していませんでした。
それというのは私は背丈が5尺5寸以上もあって平均以上の男ですが、
私の父は極めて小柄な人で5尺足らずしかないのです。
ですから母である人が大きいのではないかと想像していたのですが、
これがまた極めて小柄なのですから、私は大きかった祖父に似たものとみえます。
私が母と対面して淡い失望を感じたのは、
母が私を置いて里に帰ったいきさつについて何か聞かしてくれるのではないか、
また母として子供を産んだだけでそのまま25年も過ぎたことについて
詫びてもらいたいとは思いませんでしたが、
何か一言お気の毒なことをしましたくらい言うてくれそうなものだと思っていたからです。
母はそのことについては最後まで一言も触れませんでした。
この時母は記念だと言うて鎖のついた金時計をくれました。
私は今もそれを大切に持っています。

この会見の後、私は長い間再び母と面会しませんでした。
私をしてそうした行動を取らせた原因は、初対面の時の母に対する不満が元となっていたのです。
母に対して持っていた感情も年と共に変わっていき、
母の晩年にはたびたび私の家に迎えたこともありますし、
80歳で亡くなった母の臨終も見送りました。
しかし私は母に会わなかった以前に持ち続けていた母を慕う気持ちをそのまま心に抱いて
一生を終わりたかったと思います。
面会したがためにかえってその美しい感情の幾分かが損なわれたことを
今でも悔やんでいるくらいです。


1月、床の間に鏡餅を飾るのは一般と変わりありませんが、それと並べて「蓬莱」とも言い「おくいつみ」というものがあります。
これは三宝の上に一面に米粒を敷き、海老の大きなのが正面にあって、その前にごまめ・勝栗・昆布などという物が飾られます。ごまめは兵隊の列のように米粒の上に立ち並んでいるのです。
また床の一隅の柱に青竹の筒に柳の長い枝を挿したのをかけます。
元旦は朝早く起きて初日の出を拝み、若水を飲み、紋付羽織袴で年賀の辞を述べる時を待ちます。
私たち子供らは両親や祖母や目上の人の前に揃って年賀の挨拶をし、それから両親と一緒に女中や家職の人たちの年賀の言葉を受けます。
それから屠蘇と雑煮を祝うのですが、私は姉と一緒に祖母の所で食べ、両親とは別であります。
私の弟たちは継母の実子なので両親の方に一緒にいまして、姉と私とは万事祖母の方と一緒でした。
私の家では雑煮を祝うのは元旦だけでして、世間では3ヶ日も続くのが何だかうらやましいように思いました。
餅は金銀と称して白い餅と黄色の栗餅とで、その餅は焼いていないのです。
それにごまめとカズノコが添えてありまして、昼には「お祝御前」と称して口取や酢の物や鯛の塩焼きなどの御馳走があるのです。
元旦はそれだけで、2日の夕方から新年宴会と称して家内中で会食をするのですが、総勢60人ぐらいですからなかなか賑やかで、男の中には歌ったり踊ったりする人もありました。
そして最後に福引があるのですが、各人が出品してクジを引くものや、祖母や両親だけが出品して皆に引かせるクジもありました。
親父は自分の好む者に当たらせたいために時にインチキをやるので、子供心に憤慨したこともありました。
子供は「いろはかるた」両親とは「能かるた」祖母とは「古今集かるた」を取ってました。
私の家では「小倉百人一首」は見ませんでした。

2月の節分には世間には豆まきという行事がありますが、私の家ではやりませぬ。
年越ソバを食べるのと恵方に向かって福茶を飲むことが暮れの大晦日と同じです。

3月の雛祭りは、私の家は4ヶ所ありました。
曾祖母・祖母・母・姉と4ヶ所に雛が飾られました。
私は男の子ですから、3日には雛の客として招かれいろいろ御馳走になるので楽しみでした。

5月は端午の節句ですが、私の家などでは女の子は一生雛を飾るのに反して、男の子の端午の節句は5歳までということになっています。

7月はお盆ですが、私の家では何もしませんでした。
ただ一つ「蓮の飯」というものを食べました。
祖母の所で作らせたようですから、京都の風か江戸の風か、あまり他の家では聞きません。
大きな蓮の葉でご飯を包みそれを蒸した物で、ご飯はもち米で椎茸と枝豆た乗せてあるのです。

9月は彼岸があります。
家の菩提寺である麻生の祥雲寺に墓参するのは子供には関係のないことですが、おはぎが食べられるのが楽しみでした。
おはぎのことを家では「おやわやわ」と言いました。
一般にはもち米で作りますが、私の家ではうるち米ですからとても柔らかいのです。

世間では8月15日と9月13日にはお月見をしますが、私の家では何もしません。

冬至には柚子湯を使う他に、「七はね」という食物がありました。
「ん」という字が二つついている物を七種集めたお汁です。
「うんどん・かんてん・はんぺん・にんじん・きんかん・ぎんなん・れんこん」
運がいいと言うのですが、あまりおいしい物ではありませんでした。

12月、年の暮れが近くなればどこの家もざわざわしてきますが、私の家でも畳屋が来て畳を取り替えるやら、経師屋が来て障子を取り替えるやらで何となく落ち着かぬようになります。
押しつまった私の家の行事の一つと言えば煤掃きです。
荒い仕事は男が担当しますが、女中たちも手ぬぐいを被り上っぱりを着て働き、子供は邪魔だというのでたいてい外に遊びに追いやられます。
面白いのは煤掃きの晩で、胴上げをする習慣があって、見つけられれば誰かれの差別はありません。
女の方も負けていないで、どうかすると男の方がつかまって胴上げされることもありました。
子供たちは面白いというよりむしろ恐ろしく、自分についている女中が胴上げされると泣き出すこともありました。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::





細川侯爵家 熊本藩主

  • author: easthall
  • 2010/01/01


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
細川護貞

明治45年7月17日(1912)私は東京の青山高樹町(現港区)に生まれた。
父母が結婚して7年目にやっとできた子だった。
祖母の宏子はすぐ当時の習慣であった蟹と鳥の模様たついた着物を着せ、
待ち望んでいた孫の誕生をたいそう喜んだ。
この祖母は鍋島侯爵家から嫁ぎ、輿入れの時は大隈重信が伴としてついてきたという。
母は岡山の池田公爵家の長女である。

私が生まれた家には4歳までしかいなかった。
宗家の護成が病没するや、父が細川家の本家に入ったのである。
場所は小石川区老松町(現文京区目白台)で、江戸時代は細川藩の下屋敷だったところである。
なにしろこの家は今考えてもべらぼうな広さだった。
神田上水から目白通りにかけて3万8千坪という敷地、家の建坪は全部で千坪もあった。
「一人の女中が朝早くから雨戸を開け始めると、昼頃になってようやく全部の戸が開き、
それからまた閉めにかかると夜に入って全部の戸が閉まる」という伝説めいた話があったぐらいだ。
使用人も女中だけで14,5人いた。

私がこの老松町に移ってきた頃、父は二頭立て馬車を使っていた。
それからまもなく自動車を走らせることになった。当時としてはまことに珍しいものだった。
車種はダイムラーベンツだったと思う。そのうち馬屋は自動車の車庫に取って代られた。
父の運転で屋敷の中を行ったり来たりしたのを覚えている。
まことに広大な庭であったから、ドライブのしがいもあった。
庭園の庭のある方には狸穴があり、その他茂みには獣の穴がたくさんあった。
キジは太平洋戦争あたりまで住んでいた。

300坪の平屋は広すぎて怖いぐらいだった。
天井が高く、一間の畳廊下をへだてて障子と雨戸があった。
雨や風の日は雨戸を全部開けないので部屋の中は薄暗く、
普段使っていない部屋には気味が悪くて近づく気がしなかった。
冬は大きな部屋に小さな手あぶりが一つあるだけで、とても寒かったのを覚えている。

この屋敷の正月行事はことのほか面倒なものだった。
朝起きて年男の汲んだ若水で手水を使う。
朝食は鰤と玉ねぎの煮込みがつく。
昼は鮎の粕漬が尾頭付きとして出る。
夜は祝いの膳である。
子供まで紋付羽織袴姿で、全員その年の吉方に向かって座る。
そして鮑の熨斗に銅の置物が乗せてある三方に向かって一人ずつお辞儀をする。
縁起物の八十八夜のお茶を飲み、さらに抹茶が少し。これに勝栗・昆布・小梅を入れて飲む。
次に雑煮と屠蘇。
そして一の膳には鰯の生干しなどが載っているが、これには手をつけない。
この頃になると子供はもうヒザが痛いのと空腹で我慢ができなくなる。
やっと二の膳で救われる。
これには鶴の吸い物、鯛の尾頭などが出て食事が終わる。
その後は書き初めがある。奉書で巻いて水引をかけ、
それの昆布・熨斗・根引松などを挟んで床の間に飾ってある鏡餅の横に置く。
とまあ、こんな具合である。

父護立は子供の頃から病弱でやがて胸を患い、
医者から「二十代までは生きるのは無理かも知れぬ」と言われた。
そこで「周囲の人が勧めて刀剣の鑑賞や禅画を楽しむことを教えてくれた」
と懐古したのを聞いたことがある。
禅画は膨大なコレクションとなったが、
先輩たちが皆「俺が死んだらお前のところにやる」と父に譲ったためである。
父は貴族院議員を務めたが、生涯政治的なものには関わろうとしなかった。
独特の勘と鋭い目で、人物や品物の本質を見抜いた。芸術的な物がよくわかった人だった。
20歳までしか生きないと言われたのだが、
86歳まで生きたのだから天寿を全うしたと言っていいだろう。

父は横山大観とも親交があった。
細川家の家扶に蓑田喜太郎という人がいた。父は彼の雅号の「耐軒」をもって読んでいた。
蓑田という老人は怒ったところを見たことがない。
関東大震災では家が揺れみんな外で騒いでいる時、
一人だけ伝記も何もない暗い20畳もある座敷に座って、
再び電気が点くのを少しも姿勢を崩さず待っていたという伝説的に気の長い人である。
耐軒の耐軒たる名の由来であろう。
蓑田老は父の使いでよく横山大観の所に「何か描いてくれ」と頼みに行っていた。
たいていの人は酒を出されて一緒に飲んで酔っぱらって帰ってくるのだが、
この人は酒を出しても「飲みません」とあくまで父の忠実な使者であり通した。
「私はできるまでこうしてお待ちしますから」といつまでたっても帰らなかった。
大観からの手紙があって、
「この人だけは困ります。この人が来たら描かざるをえない」とたいそう嘆いたという。
だから大観のものがたくさん集まった。

学習院で父とほぼ同年配だったのが、
志賀直哉・有島武郎・武者小路実篤といった白樺派の人たちっだった。
父はかつて「俺は白樺派の会計係だった」と言ったことがある。
武者小路さんのことはいつも武者と呼んでいたが、
「よく俺のところに金をもらいに来ていたよ」と言った。
天真爛漫で善意の世界で仕事をされた方だっただけに、金の苦労は絶えなかったようだ。

父は昔から馬鹿だ馬鹿だというのが口癖の人で、ことに私に対してはしょっちゅうだった。
「これからお謡のお稽古をして参ります」と言うと、
いきなり「馬鹿、しっかりやらんと承知せんぞ」とカミナリが落ちた。
何事か分からないまま立ち尽くしていると、「馬鹿、早く行け!」という調子である。
こんな時に何を置いても私を贔屓にしてかばってくれた70歳余の尼さんがいた。
名前は「海寿」と言っていたが、父がいつもの口癖で馬鹿と叱ると、
曲がった背を伸ばしてツカツカと父の前まで行って
「大切なお跡取りを馬鹿とは何事ですか」と睨みつけていた。
さすがの父もこれには閉口して、海寿のいる時は避けていたように思う。
中学4年で成績が十数番に上がり、ビックリしているうちに5番以内に入ってしまった。
家庭に親父に「馬鹿だ、馬鹿だ」と叱られすっかり自信をなくしていたが、
自分が馬鹿でないことを悟ったので、子供は「馬鹿だ、馬鹿だ」と叱るものではないように思う。

母は父と対照的でおとなしく、典型的な昔風の女性だった。
意見とかはまったく持たない人だった。
母から怒られるというのは、父が怒ってそれを取り次いでいるとしか思えなかった。
母は家父長制のもとでの夫唱婦随を見事に演じた人だった。
手先が器用で晩年あらゆる手芸をやり、また鼓・太鼓・三味線もなかなか上手かった。

大正8年(1919)学習院初等科に入学したが、そこは軍隊の亜流のような所であった。
何事も亜流は本物より劣悪である。
乃木大将の精神主義だけが残り、低級な軍隊教育の延長に反発を覚えた。
しかし中等科はガラリと変わって自由放任の空気に覆われ救われる思いだった。
初等科と比べると天国のごとき自由があった。
初等科の先生はそういう雰囲気を生徒に知らせまちとしたのか、
そのころ四谷の初等科と目白の中等科は犬猿の仲だった。

ある時偉い軍人が来て閲兵するというので、予行演習が全校をあげて行われた。
軍人が来て前へならえとか前進しろと言っても誰も同調しない。
隊列の行進はダラダラして足並みが揃わない。
学生課長が「しっかりやれ!」と激を飛ばすが、一向に効き目がない。
ところが本番になるとプロの軍隊顔負けの行進をやってのけた。
一種の反攻精神だと思うが、それを楽しんでいた。
学習院の生徒は皇族や公卿や大小名の子弟が大部分で、家ではいい言葉を使っていたが、
学校ではほとんどベランメエのような調子でしゃべっていた。
そういう精神が校内に充満していたから、
力ずくや大声で権威を示すようなものには徹底して反発したのだった。

父護立が軽井沢に別荘を作ったのが大正4年、
親友だった徳川慶久公爵を誘い隣り合わせで別荘ができた。
慶久公と父はススキの原を行ける所まで歩いて、
持っていたステッキをそれぞれ投げて別荘を建てる場所を決めたのだという。
1坪20銭とかで3万坪もあった。
別荘ができた時は何もない所で、毎日のように山登りをしていた。

東京文京区目白台にある我が家の隣に細川家の家宝を収蔵する「永青文庫」がある。
約700年の長きにわたって歴代が蒐集してきた武具・武器や茶道具・古書画・彫刻・陶器・近代書画など美術品が約1万5千点、古文書類が約10万点と膨大な数に及んでいる。
昭和25年財団法人が設立され、永青文庫と命名した。
父護立はこの財団法人設立になかなか決心がつかなかったようだ。
ある時は非常に熱心だが、時間が経つとまた嫌になってしまうという具合で、
しょっちゅうグラグラしていた。
私は細川家にせっかく残った物が散逸してしまわないうちに戦前から勧めていたが、
財団というものが別にできて自分のコレクションがそこに取られてしまうと思ったとしても
当時の人には無理からぬことだった。
何か掛け物が見たくなって「あれを持ってこい」と言う。
「それは財団に入れました」というと大変怒る。
コレクションというのは手元になければ駄目なものだ。
財団になると自分の思い通りにならないという気になったと思う。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::