直球和館

2025年

◆125代 平成天皇(継宮明仁親王)124代昭和天皇の長男


■妻  正田美智子 日清製粉社長正田英三郎の娘


●浩宮 徳仁親王  125代天皇
●礼宮 文仁親王  秋篠宮
●紀宮 清子内親王 黒田慶樹と結婚


1986年
19860046


1988年
19880087


1990年
19900170


1991年
19910345


1993年
19930426(1)

◆125代 平成天皇(継宮明仁親王)124代昭和天皇の長男


■妻  正田美智子 日清製粉社長正田英三郎の娘


●浩宮 徳仁親王  125代天皇
●礼宮 文仁親王  秋篠宮
●紀宮 清子内親王 黒田慶樹と結婚


1952年 成年式&立太子の礼 米軍によるカラー写真
9000


1952年
2022


2091


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1959年
30s1160


1959年
3604


1959年
6001


1959年
6002


正田英三郎
3607


1986年 正田英三郎&富美子夫妻
19860008


1993年の記事
19930378

◆高円宮憲仁親王 三笠宮崇仁親王の三男
1954-2002 48歳没


■妻  鳥取久子 鳥取滋治郎の娘
1953年生

*英ケンブリッジ大学卒業


●高円宮承子女王 1986年生
●高円宮典子女王 1988年生
●高円宮絢子女王 1990年生




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高円宮久子妃 2003年

初めて宮様にお会いしたのは、東京青山のカナダ大使館でした。
カナダ大使夫妻のお嬢様が結婚されたので、お祝いのレセプションが開かれたのです。
その場で大使夫人から宮様を御紹介いただきました。
「いま父宮殿下のお手伝いをしております」と御挨拶しました。
〔久子妃は三笠宮崇仁親王の翻訳・通訳を務めた〕
レセプションが終わると、宮様から「このあと一杯飲んで帰るけれども、一緒にどうですか?」と仰ったのです。
「二次会」の後は宮様に送っていただくことになり、別れ際に「電話します」と仰ったので、私の名刺をお渡しいたしました。
社交辞令と思っておりましたが、一週間と経たずに御連絡をいただいたのです。
それからは頻繁に宮様とお会いするようになりました。
仕事をやりくりしては、バレエや音楽会い御一緒させていただきました。
毎日お電話もいただきました。

父宮殿下が宮様に「鳥取さんのことはどう思っている?」とお尋ねになると、
宮様は「いいんじゃない?もう候補に入ってますし」とお答えになったそうです。
私の方にはお仕事でお目にかかった時に、父宮殿下からそれとなく「高円宮をどう思うか?」とお尋ねがありました。
どのようにお答えすべきか戸惑った末に、「宮様らしい宮様でいらっしゃいますね」と申し上げました。
すると父宮殿下は「結婚を考えてもいいんじゃないか」というようなことを仰ったのです。
私はビックリして、「いいえ。私の家はとてもそのようなことを考えられるような家柄ではございません」と申し上げたところ、父宮殿下は「それはない」と仰ってくださいました。
父宮殿下は私が学会のお手伝いとしてお勤めする段階で、これまでの経歴だけでなく祖先の家系図に至るまでお調べになっていらしたようで、コピーを出して見せてくださいました。
宮様が「お見合いの話があるのだったら断るように」と仰ったのは、この次の日でした。
出会ってからわずか2週間。
本当に急展開で、宮様の御決断力には驚くばかりです。
私も素直に宮様の御言葉に従い、お見合いのお話はすべてお断りいたしました。

子供たちに言わせると「出会って1カ月でプロポーズだなんてありえない」らしいのですが、カナダ大使館でお会いしてから1カ月後にすっかり有名になってしまったプロポーズの御言葉をいただきました。
場所は東京赤坂のホテルでした。
「大垂髪が似合う顔でよかった」とか、ラブラドール犬が好きだと申し上げると、「うちの庭は広いから、ラブラドールを飼うのにちょうどいいね」とか、結婚を連想させるようなお話が出ていました。
でも私自身は正式に申し込みをいただいているわけでもなく、恐縮しながら「いつもそう仰っていただきますが、まだプロポーズをしていただいていませんし」と申し上げたのです。
そうしたら「ああ、そう言えばそうだっけ」と少し困った表情をされた後、「Will you marry me ?」と照れくさそうに仰ったのです。
私も英語で、「Yes」とお答えしました。
日本語で「結婚してくれますか?」と言われたら、「両親ともよく相談いたしましてから」といったフレーズがついたと思います。
驚いたのはプロポーズの後でした。
宮様は「じゃあ、御両親に伺わなくっちゃ」と仰って、私の自宅へ向かわれたのです。
時間は深夜12時頃。
母は私が帰宅するのを待っていましたが、父はすでに寝ており、母に叩き起こされたあげく、何が怒っているのか見当がつかないという面持ちで、着替えをして二階から滑るように降りてきました。
宮様は「たとえ皇族として生活できなくなる時が来たとしても、必ず何らかの形で生活できるよう、久子さんをきちんとお守りしますから」と仰ってくださいました。
父は「よろしくお願いいたします」とお答えして、二階に上がって行きました。
父はベッドに腰を下ろし、「もしかしたら大変なことを申し上げてしまったのかも」とつぶやいたそうです。
母も「ええ。大変なことを申し上げた気がします」と答えたそうです。
気を落ち着かせて降りてきた両親は、宮様と私のためにシャンパンを開けてくれました。

結婚前のお妃教育は4回通いました。
皇后陛下や皇太子妃殿下は何度もお受けになられるのですが、私の場合は4回でした。
そのうち2回は、宮様が「僕も知らないことがあるから」と仰って、一緒にいらっしゃいました。
私はほとんど外国で生活していたため、知らないことばかりでした。
宮様からは「わからないことがあったら、何でもお母様に聞けばいいから」と温かい御言葉をいただき、それからはすべて三笠宮百合子妃殿下に教えていただきました。
一日に何度もお電話したり、伺ったりいたしました。
結婚の日取りについては、宮様が母宮殿下とお話になって、「12月に結婚式を挙げれば、新年の行事から一年間を通して経験することができる」とお考えになってお決めくださいました。

結婚の儀では2時間かけて大垂髪を結い、さらに2時間かけて十二単を身に着けました。
私が着させていただいたものは、もともと貞明皇后が大正の御大礼のためにお作らせになったものです。
けれども父宮殿下がおみ腹にいらしたので、その十二単はお召しにはなりませんでした。
後に父宮殿下の御成婚の際には、戦時中であったため、母宮殿下は十二単を御遠慮されて、小袿をお召しになりました。
その十二単を私がお借りすることになりました。
記念撮影の時は、「久子は大垂髪がきっと似合う」と仰っていた宮様が、「言った通りでしょ」と御満悦でした。
御自分については、「面長なので束帯が似合う。それは成年式で確認済」などと仰っていました。
結婚の儀を終えた後に、宮様は「面白いでしょう」と仰いました。

この日昭和天皇から「高円宮」の宮号をちょうだい致しました。
宮様は「いい宮号をいただいて良かった」と、とてもお喜びでした。
「高円山と三笠山は二つ並んでいて、高円山の方が少し高いんだ」と。

母宮殿下が「高円宮は食べ物にうるさい上に小食なので、栄養には気をつけてやってほしい」と仰いましたが、私は耳を疑いました。
最初にお目にかかって以来、宮様はどちらかというとよく召し上がる印象があったからです。
宮様にお聞きすると、家庭の主婦の場合は毎回微妙に味が変わってしまいますが、宮家には専門の料理番がプロの腕をふるうので味にブレがないらしいのです。
一期一会という言葉がお好きだった宮様は料理に対しても同様で、「おいしい料理にめぐりあうと、もう二度と会えないないかもしれないと思って全部食べてしまう。久子は料理の本には絶対に載っていないようなものを作るからね」と仰って、たくさん召し上がってくださいました。
凝られることには凝られる宮様も、お料理だけは御自分でなさいませんでした。
もしなさっていたら、きっと私より上手においしくお作りになったことでしょう。
お蔭さまで宮様は周囲の方に、「久子は料理が上手、おいしい」などと仰ってくださいました。

宮様はおいしい物とおいしいお酒を召し上がることがお好きでした。
高くておいしいのは当り前ですが、安くてこの味というこだわりを持ったお店。
私はそのこだわりを味わうのが好きでした。
例えば「この店はつくねがとてもおいしい」と聞けばつくねだけを食べて、「このお店はお刺身がおいしい」と聞いたお店に行ってお刺身だけを注文するというように、食べ物屋さんのハジゴをやっていた時期がありました。
「このお店はお豆腐がおいしい」などと聞くと、お豆腐一丁のためだけにタクシーに乗って出向いたこともあります。
宮様からは「飲み屋のハシゴをする人は多いけど、食べ物のハシゴは珍しいね」と仰いました。
結婚の話が決まったとき私はは、「ああ、もうこういう庶民的な所にはこられないのかな」と残念な気持ちがありました。
宮様も「妻となる人とはこういう所では飲めないのかもしれない」とあきらめていらっしゃったそうです。
ところがお互いに、「こういう店に行っても(相手は)大丈夫なんだ」というのがわかりました。
それで、「食べ物の好みも合いそうで安心した」と仰いました。

宮様は本当に御決断の早い方なのです。
例えばお買い物。
とてもお買い物が早い。
よく「どうして迷うのかわからない」と仰っていました。
「どうしても欲しいのだったら買えばいいし、それほどでもないなら買わなければいい」と。
宮様からは本当にいろいろな物をいただきました。
私が冗談で「宮家に嫁いだら、婚約指輪はないし結婚指輪はないし、苗字もなくなってしまいました」と申し上げると、
宮様は「だから、あんなにたくさんいろんな物を買ってあげてるじゃない」とお笑いになりました。

宮様との最初の外国訪問は、結婚から2年半経った、メキシコ・カナダへの公式訪問でした。
私にとっては久しぶりの海外で、飛行機から雲を見て妙にはしゃいでしまいまして、宮様に笑われてしまいました。
私の人生でこんなに長い期間同じ国(日本)に留まったことは過去になかったものですから、ウキウキしてしまったのです。
宮様が外国訪問で時差の解消のためと称して、ディスコに行かれるようになったのも最初のメキシコでのことでした。
宮様はダンスもお上手でした。
ダンスパーティーでは必ず踊っていらっしゃいました。

御相談はいつも英語でいしておりました。
周囲の人たちにわからないようにお話ができますし、娘たちがいる時も子供たちに聞かせたくないようなことは英語で話していました。
もっとも娘たちもそのうち英語がわかるようになってきましたので、そうも行かなくなってきましたから、宮様は「二人で話せるもう一つの言葉を覚えなければいけないね」と仰いました。

宮様が、「新しい語学を勉強したい」と仰いました。
私は「フランス語はカタコトですが私が話せるので、二人ともカタコトのフランス語を話すよりも、カタコトでも結構ですからスペイン語をなさったらいかがですか」と申し上げました。
宮様も乗り気になられて、スペイン語の勉強をお始めになりました。

宮様は、「子供は大勢の方がいい。笑顔の絶えない家庭にしたい」と仰っていました。
私は三人の娘に恵まれました。
長女承子は眠ることを嫌う子供でした。
お料理を作ろうと思ってもなかなか離れられないような時は、宮様が「じゃあ、僕が抱いているよ」とよくあやしてくださいました。
たまに承子に「おかあまがいい」と言われて、「なぜだ」と憮然とされてしまうこともありましたけれど。
子供たちは私たちを、「おとうま」「おかあま」と呼びます。
大きくなってから子供たちは、「ウチだけよね、こんな呼び方してるの」と言ってましたが。
しつけについて特に心がけていらっしゃったことは、お手本となるような日本語をお使いになることでした。
子供たちは、「おとうまに叱られると本当に怖かった」と申しております。

宮様は音楽の才能がとてもおありでいらっしゃいましたが、秘かに御自慢の特技をお持ちでした。
それは他の人の歌声にハモリをおつけになることで、お友たちからも「ハモリの三笠」とお呼ばれになるほどでした。
宮様は音楽をお聴きになりながら、本をお読みになることも少なくありませんでした。
片方の耳にヘッドホンを当てて音楽をお聴きになりながら、もう片方の耳ではテレビのニュースをお聞きになり、さらにコンピューターに向かわれているのです。
宮様は「自分は学者になれる素養はあったかもしれないが、なりたいとは思わない」と仰っていましたが、資料の収集能力やその記録の仕方はまるで学者のような感じでした。

高円宮邸は宮様御自慢の家で、「建てて5年経っても10年経っても嫌いなところがない」と仰って、非常に満足されていました。
皇族は一度家を建てると、簡単に建て替えたり引っ越したりすることはできません。
一度建てたら一生住むことになります。
宮様は建設にあたって、「一生嫌だと思わない飽きない家にしたい」と仰って、驚くほど設計を勉強されました。
宮様は設計士や宮内庁と打ち合せを繰り返し、宮邸づくりに励まれました。
宮様が特にこだわられたのは、どこにいても音楽が聴こえるとう点でした。
例えば宮邸で夕食会を開いた際に、お客様がどこに移動しても音楽が耳にできるように、オーディオやスピーカーの配置にまで気を配られていました。

宮様は御自分の健康にはかなり自信をお持ちで、お熱を出されたとか体調を崩されたということはほとんどありませんでした。
御自分でも、「肩こりや腰痛を感じたことは一切ない」といつも仰っていました。
内臓にも自信がおありでしたので、二日酔いの頭痛なども御経験がなく、お薬をお飲みになったこともほどんどありませんでした。
結婚してからしばらくは救急箱もなく、子供が生まれて初めて救急箱を買ったほどです。
年に二回の人間ドックも、時間ができた時にすればいいという風でいらっしゃいました。
検査の結果どこかお悪いと言われたこともありませんでした。

宮様の御遺体をお乗せした車が宮邸に着いた後、宮様には寝室のベッドで休んでいただきました。
宮様はまるでお眠りになっていらっしゃるようでした。
宮様がお倒れになった時、「父親が亡くなった」ということをどのようにとらえるのか、母親としてまず心配いたしました。
お倒れになった後 子供たちは期末試験を迎え、否応なしに学校生活に再突入したことも、いま考えればよかったのかもしれません。
御棺が宮邸の二階にあった時も、夜中でも当り前に「じゃ、ここで勉強してる」とか言いながら、私の代りに御棺の前に座っていました。

宮様がお小さい頃は公務にお忙しい母宮殿下に代って、容子さまが細かなところまで御面倒を見てくださっていらしたそうで、大人になられてからもよく容子さまに御相談遊ばされ、その御助言をとても御信頼になっていらっしゃいました。

宮様はプライベートでお出ましになることに、「おしのび」という言葉を使うのを嫌われて、絶対にお使いになりませんでした。

徳仁皇太子は音楽がお好きなので、私どもの所にヨーヨー・マを招いて徳仁皇太子との演奏を企画したりしました。
徳仁皇太子がウチの子供たちに「この曲を一緒に弾きましょう」と仰って、パッヘルベルのカノンの楽譜をくださったこともございます。
御成婚なさってからは、徳仁皇太子と雅子妃そして高円宮様とウチの三人の娘による合奏も実現いたしました。
徳仁皇太子はバイオリン・雅子妃はフルート・高松宮様と絢子はチェロ・承子と典子はバイオリンを弾きました。
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◆高円宮憲仁親王 三笠宮崇仁親王の三男
1954-2002 48歳没


■妻  鳥取久子 鳥取滋治郎の娘
1953年生

*英ケンブリッジ大学卒業


●高円宮承子女王 1986年生
●高円宮典子女王 1988年生
●高円宮絢子女王 1990年生


*皇室では父母を「おもう様」「おたた様」と呼ぶが、高円宮家では「おとうま」「おかうま」と呼んでいた。




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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1987年4月27日
昭和天皇が高円宮のインタビューについて御危惧。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1988年10月21日〔昭和天皇闘病中〕
高円宮から京都国体閉会式の復命に参内したき旨、前例なきこととお断りするも感情害され、電話で文句言われる。
高円宮は山本侍従長にも電話で当たる。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1989年1月15日〔1月7日昭和天皇死去〕
高円宮がお供えのバナナおねだり。
御要望のモンキーバナナ5本お包みして高円宮にお渡しする。
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三笠宮寬仁親王 1976年

高円宮とは10歳違うんですよね。
この野郎、神経通ってんのかねと思っちゃうことが多い。
高円宮が友人を連れて家に来ますね。
そうすると彼らは座ったまま僕に御辞儀するんですよ。
僕は怒ってね、「目上の人には立って御辞儀をしろ」って言うんですよ。
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三笠宮寬仁親王 1977年

末の弟高松宮は学習院在学中でスキー部の後輩なのだが、先輩である私をそれほどにも思っていないフシがある。
高松宮と私はほとんど10年の違いがあるが、10年というのは恐ろしいほどの違いである。
私の生まれた当時は経済的に最低な時で、今や経済成長諸々のことから我が家も恵まれてきた。
前者の部分で生まれた私と後者の部分で生まれた弟とは、これはもう発想が違う。
私はいまだにキャビアとかフォアグラなどをレストランでオーダーすることに躊躇するというイジケタ部分があるのだが、高松宮は私にとって恐ろしいようなものをスラスラと注文する。
車なども誰にも触らせずにしたものだが、高円宮などはゲタのつもりで乗っているような感じで、そこに愛着というものを感じることができない。

下の弟高円宮も成人はしたの。
でも末っ子のせいか、鷹揚にかまえちゃってね。
僕が開拓したいろんな家来衆のところに連れて行くわけだ。
僕はなるべく自分のことは人の手を借りないでやるわけね。
ところが高円宮ときたら、僕が尊敬している大先生たちが「殿下、殿下」と言って荷物を持とうとしたりすると、ホイと持たせたりする。
「バカヤロー!貴様、自分で持て!」と言ったことも何度かありますよ。
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三笠宮寛仁親王 2005年

故高円宮の葬儀の時 喪主である久子妃が宮中の賢所風に同格の人が参進している時、座ったままだったのを見ていて「格好が良くない」と思っていましたので、高松伯母様の葬儀の時は宮内官たちとの打ち合せで「勅使・喪主・代表皇族・旧皇族代表・親族総代の礼拝の後、皇族方・旧皇族方・親族方の順に参進し、三権の長・外交団長までは立って応対し、参列しているその他大勢の臣下の者どもの時は座ろう」と決めていたのですが、式部官も慌てたと見え礼拝の案内の順番を間違えて、御親族の前に三権の長以下を出したしまったため、私は座るタイミングを失い結局全員が終わるまで立って目礼を繰り返すハメになりました。
高等科で応援団長をやっていた経験が妙なところで役立ちました。
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成瀬史宣 学習院の同級生

中等科の時二人で泳ぎに行ったことがある。
三笠は泳ぎに行くというのに、何も持たずやってきた。
「どうしたの?」と聞いたら、「海水パンツはもう履いているから大丈夫だ」と言う。
ところが泳ぎ終わって着替えをして出てきた彼を見てビックリした。
ズボンがビッショリ濡れていたからだ。
替えのパンツを持って来ていないので、そのまま履いちゃったんですよ。
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石神雅子 学習院初等科の同級生。

初等科の時に殿下と机がお隣同士でした。
殿下は絶対に鉛筆を削ってこられなかった。
家で筆箱を開けることがないのか、毎日当然のように私の筆箱から鉛筆を取り出されていた。
嫌で嫌でたまらなかったが、ある日御一緒に試験勉強をした時、一度教科書をサッと読んで終わりという殿下の姿を拝見して以来、家で勉強しなくても頭に入ってしまわれるのだとわかり、鉛筆を削ってこない理由もその時になって納得できました。
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黒柳徹子

私が三笠宮寛仁親王邸に遊びに行った日、高円宮から呼び止められて、
「ねえ、ねえ、僕こんどこの人と結婚するの。いい人でしょう」と初めて久子様を紹介されました。
「披露宴には必ず来てね」と仰るので、「そんなに金屏風の前に立ちたいの?」と冷やかすと、
「うん、そう」と大きくうなずかれ、本当にうれしそうでいらっしゃった。
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高鳥まな 国際交流基金の同僚

国際交流基金に入社して半年ほど経ったある日、上司に呼ばれました。
「三笠宮憲仁親王がいらっしゃるので、いま使っている机から向かい側の机に替わるように」との指示でした。
当時のオフィスは机が一つの島のようになっており、私の席は一番端でした。
私の向かいの席の方が廊下からの出入口に近いので、万一悪漢が乱入してきた際には襲撃されやすい、殿下には少しでも出入口から遠い方へ座っていただこうということなのでした。

殿下の初日がスタートしましたが、みんな何とお呼びしようか悩んでいたら、殿下から「三笠と呼んでください」と仰いました。
外線電話の取り方・コピーの仕方・ホチキスのとめ方まで説明しましたが、殿下はすぐに下の名前をひっくり返した「なまちゃん」というあだ名を私につけられました。
私も殿下の御名前をひっくり返して、「りのちゃん」と呼ぶことになりました。
あるとき私が「りのちゃんのお席は特別扱いよ。万一の時は出入口から近い私が悪漢から我が身を挺するんだから」と申し上げると、
殿下は「2~3歩の違いなのに、何を考えたのかねえ!」と大笑いされました。
また「いらした時は片づけてピカピカ状態だったでしょう?」と申し上げると、
殿下は「一週間ともたなかったね。無理なのにわかってないよねえ」と鋭い御観察。
周囲も大爆笑となりました。
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小松諄悦 国際交流基金の上司

三笠宮憲仁親王は同僚たちとよく飲みに行かれたが、お酒が強く必ずハシゴになった。
二次会・三次会になって店が閉まる頃には、四次会に行こうと仰る。
四次会は三笠宮邸なのである。
結局宮邸に泊めていただくことになったが、翌朝バッタリと父宮殿下と顔を合せて、
「息子がお世話になっています」と挨拶されて恐縮した。
御結婚されてからも、「三笠です」が「高円です」に変わられただけだった。
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三枝成彰 音楽家

三笠宮憲仁親王は歌い出すと止まらないほどカラオケがお好きで、後の人が歌えなくなるほど玄人はだしだった。
レパートリーはロックから演歌まで幅広かったが、井上陽水の『少年時代』とサザンオールスターズの『TSUNAMI』の二曲が殿下の十八番だった。

お酒はウイスキー・焼酎・日本酒と何でもござれでお強かったが、何時間飲んでもトイレに立たれないのは驚いた。
皇族の方はそういう訓練をされているのかとさえ思ったほどだ。
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◆高円宮憲仁親王 三笠宮崇仁親王の三男
1954-2002 48歳没


■妻  鳥取久子 鳥取滋治郎の娘
1953年生

*英ケンブリッジ大学卒業


●高円宮承子女王 1986年生
●高円宮典子女王 1988年生
●高円宮絢子女王 1990年生




1984年
19840588


1984年
19840470


1984年
19840624

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