◆122代 明治天皇 祐宮睦仁親王 121代孝明天皇の子
1852-1912 59歳没
*身長167センチ
*西洋医学嫌いで、東洋医学の治療しか受けなかった。
*持病の糖尿病から尿毒症を発症し、心不全で死亡。
■妻 昭憲皇太后 一条忠香公爵の娘一条美子
1849-1914 64歳没
*お妃候補時代、明治天皇は昭憲皇太后を将棋に誘う。
その勝負ぶりに感銘したことが、皇后と決める決め手の一つとなった。
*明治天皇は昭憲皇太后を「天狗さん」と呼んでいた。
*昭憲皇太后はヘビースモーカーで、常にキセルを手放さずに喫っていた。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従
1980年11月4日
京都参内殿奥の明治天皇が東宮時代にお住まいの部屋の、襖への落書を見せてもらった。
竹の節に一本横線を入れたのが2~3箇所あり、また竹の幹から枝を出したような書き入れ、墨の飛び散った跡など。
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『明治天皇紀』
1879年7月4日
アメリカ合衆国前大統領ゼネラル・グラント夫妻らを延見したまう。
当時前大統領一行中の一人が書ける紀行に当日の光景を叙述せり。
その一節に曰く
「皇族方はその夫人達と共に皇帝の近くに列をなし、皇帝は不動の姿勢を取りて立たれたり。
皇帝は一般の日本人よりも背高き方にてすらりとし、その口と唇とはハプスブルブ家の特徴を連想せしめたり。前額は狭く頭髪も鬚髯もすべて漆黒なり。
顔面には何らの感情も表現せられざれば、もしその黒く光る眼にしてグラントの上に注がるるなかりしならば、立像とも誤想せられしならむ。
帝のそばなる皇后は和装したるが、その顔は甚だ白く、その姿も細小にしてほとんど児童の如く、髪は麗しく櫛けずられ、貴金の笄を挿めり。
御双方とも快活の面持し、中にも皇帝は確心と深切とを示せり。
礼式は少しく特異なりしも、これなお近時に至りて大いに変化したるものなりと言う。
吾人の位置定まるや、皇帝は自ら進み出てグラントと握手せり。
皇帝は少しく固くなれる気味あり。
不器用なりき。
あたかも初めて握手する者の如く、またできるだけよくこれを為さんと欲する者に似たり。
握手終われば帝は元の座に帰り、その手を剱の柄に置きて立ち、金色燦爛たる一行にその眼を注げり」
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『木戸幸一日記』内大臣※当時は宗秩寮総裁
1933年9月2日
※宮内大臣湯浅倉平の発言
金子堅太郎参内、『明治天皇紀』編纂の終了を奏上せられたるが、
「日清日露の役の開始の際の明治天皇の御考については、一般に頒布する場合には考慮する要ある」がごとく言上したるところ、
陛下は「このごとき事こそ御聖徳を伝うるためにも発表するを可とすべきにあらずや」との御考を侍従長にお漏しありし由。
1933年9月5日
※元老西園寺公望公爵の発言
『明治天皇紀』については、金子あたりにてとやかく選定がましきことをなすは考えものなり。
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侍医頭岡玄卿から宮内大臣渡辺千秋への報告
1912年7月19日〔明治天皇が倒れた当日〕
明治陛下は1904年末頃より糖尿病に罹らせられ、1906年1月末より慢性腎臓炎を併発、爾来病勢多少の増減ありたるところ、本月14日腸胃症に罹らせられ、15日より少々御嗜眠の傾向あらせらる。
18日来御嗜眠いっそう増加、御食機減少、本日午後より御神経少々恍惚の状態にて脳症であらせられ、尿量頓に甚だしく減少、タンパク質著しく増加。
同日夕刻より突然御発熱、御体温40度5分に昇騰、御脈108、呼吸38の御病状、容易ならざる御容体なり。
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★女官長 典侍 高倉寿子〈新樹の局〉
1840-1930 90歳没
*昭憲皇太后の家庭教師で、輿入れの際に一条家からともについてきた女官。
本人は「お清の典侍」(天皇のお手がつかない女官)として、毎夜の明治天皇の夜伽の相手は高倉が決めていた。
明治天皇が身分の低い女官に手をつけて皇子を作らせないための措置であった。
★副女官長 お清の権典侍 姉小路良子〈藤袴の局〉
1857-1926
★側室 権典侍 柳原愛子〈早蕨の局〉公家柳原愛光の娘・大正天皇の生母・明治天皇がつけたあだ名は「ちゃぼ」
1859-1943 84歳没
*男子を産んだことで権典侍から典侍に出世〈二位の局〉となる
★側室 権典侍 園祥子〈小菊の局〉公家園基祥の娘・4人の内親王の生母
1867-1947 79歳没
★側室 権典侍 葉室光子〈梅の局〉公家葉室長順の娘
1853-1873
*明治天皇の子を1人産むが、母子ともに死亡
★側室 権典侍 千種任子〈花松の局〉公家千種有任の娘
1855-1944
*明治天皇の子を2人産むが、2人とも早逝
★側室 権典侍 橋本夏子〈小桜の局〉女官橋本麗子&公家東坊城夏長の娘
1856-1873 17歳没
*明治天皇の子を1人産むが、母子ともに死亡
★側室 権典侍 小倉文子〈緋桜の局〉
1861-1929
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佐々木高行『かざしの桜』明治天皇の娘昌子内親王と房子内親王の御養育係
1899年9月8日
※中山慶子の発言〔明治天皇の生母〕
ただ丈夫と申すのみにても御繁生と申すことも受け合いはできず。
緋桜さん〔明治天皇の側室小倉文子〕のごとき丈夫にても、御繁生はなし。
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※権典侍〈夕顔の局〉植松務子 植松雅言の娘・1883年退官・1884年後梅溪通治と結婚
権典侍〈早蕨の局〉柳原愛子 柳原愛光の娘・大正天皇の生母
読売新聞 1879年4月24日
「夕顔の典侍・早蕨の典侍が懐妊 宮内省で二人の祝い事」
読売新聞 1879年12月9日
「夕顔の典侍が懐妊、来月には青山御所の産所へ引っ越し」
*植松務子の妊娠は流産だったのか、皇室側出産記録はない。
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●明宮 嘉仁親王 123代大正天皇
●常宮 昌子内親王 竹田宮恒久王妃
●周宮 房子内親王 北白川宮成久王妃
●富美宮 允子内親王 朝香宮鳩彦王妃
●泰宮 聡子内親王 東久邇宮稔彦王妃
当時4人の内親王と年齢が釣り合う皇族男子は年齢順に、
竹田宮恒久王・北白川宮成久王・有栖川宮栽仁王・朝香宮鳩彦王・東久邇宮稔彦王の5人であった。
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『明治天皇紀』1893年11月1日
房子内親王を有栖川宮栽仁に婚嫁せしめんとの叡旨あり。
宮内大臣土方久元をして、旨を有栖川宮熾仁親王に告げしめたまう。
熾仁親王喜びて勅旨拝承の旨を奉答す。
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『明治天皇紀』1906年1月9日
昌子内親王をもって恒久王に、允子内親王をもって栽仁王に配せんとし、内旨を侍従長徳大寺実則に伝えたまう。
これより先有栖川宮威仁親王、内親王中一人を得てその嗣栽仁王の妃と為さんと欲し、侯爵伊藤博文を介して内請する所あり。
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『明治天皇紀』1907年3月27日
昌子内親王を恒久王に配せんとするをもって、侍従長徳大寺実則を成久王の第に遣わし、旨を能久親王の寡妃富子に伝え、もって恒久王に伝えしめたまう。
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『明治天皇紀』1909年4月23日
房子内親王をもって成久王の妃と為さんとし、侍従長徳大寺実則を成久王の第に遣わし、
能久親王寡妃富子に由りて内旨を成久王に伝えしめ、さらに高輪御殿に詣りて房子内親王に伝えしめたまう。
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『明治天皇紀』1910年4月29日
允子内親王をもって鳩彦王の妃と為すことを聴したまう。
はじめ1月15日、時の宮内大臣公爵岩倉具定をして鳩彦王の兄邦彦王に就きて允子内親王帰嫁の内意を伝わしめ、ついで侍従長徳大寺実則を麻布御殿に遣わし、允子内親王に謁して帰嫁勅許の内意あらせらるることを伝わしめたまう。
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4人の内親王の嫁ぎ先は各王子に宮家を持たせて以下の予定であったが、
常宮昌子内親王 竹田宮恒久王妃
周宮房子内親王 北白川宮成久王妃
富美宮允子内親王 有栖川宮栽仁王妃
泰宮聡子内親王 朝香宮鳩彦王妃
有栖川宮栽仁王が20歳で病死したため允子内親王の嫁ぎ先が繰り下がって、
新たに久邇宮稔彦王に東久邇宮家を創設させて以下のように変更となった。
常宮昌子内親王 竹田宮恒久王妃
周宮房子内親王 北白川宮成久王妃
富美宮允子内親王→朝香宮鳩彦王妃
泰宮聡子内親王 →東久邇宮稔彦王妃
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『木戸幸一日記』内大臣
※1932年8月、3代宮内大臣田中光顕伯爵が9代宮内大臣一木喜徳郎に辞職を迫り、
1933年1月に一木宮相は辞職する。
1932年8月25日
田中光顕伯爵の行動の真相を知ることができた。
問題は高松宮殿下と徳川喜久子姫の御成婚に関連するものであって、田中氏が宮内大臣当時、有栖川宮栽仁王に内親王を配せんとする議があったところ、明治天皇は有栖川宮の系統には狂人があるのでかくのごとき系統のところには内親王を婚嫁せしむることを得ずと仰せられたることあり。
田中氏はこの点より見て高松宮殿下に喜久子姫を配するはよろしからずと考え、かねて御内意の存したる時も宮内当局に注意したるが、御成婚御内定の際も一木宮相に考慮方を注意したるにもかかわらずこれを決行したるは実に不都合なるゆえその責任を問うというのであって、もし宮内大臣にして辞職せざるにおいては、この問題を暴露して争うと言うのである。
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1852-1912 59歳没
*身長167センチ
*西洋医学嫌いで、東洋医学の治療しか受けなかった。
*持病の糖尿病から尿毒症を発症し、心不全で死亡。
■妻 昭憲皇太后 一条忠香公爵の娘一条美子
1849-1914 64歳没
*お妃候補時代、明治天皇は昭憲皇太后を将棋に誘う。
その勝負ぶりに感銘したことが、皇后と決める決め手の一つとなった。
*明治天皇は昭憲皇太后を「天狗さん」と呼んでいた。
*昭憲皇太后はヘビースモーカーで、常にキセルを手放さずに喫っていた。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従
1980年11月4日
京都参内殿奥の明治天皇が東宮時代にお住まいの部屋の、襖への落書を見せてもらった。
竹の節に一本横線を入れたのが2~3箇所あり、また竹の幹から枝を出したような書き入れ、墨の飛び散った跡など。
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『明治天皇紀』
1879年7月4日
アメリカ合衆国前大統領ゼネラル・グラント夫妻らを延見したまう。
当時前大統領一行中の一人が書ける紀行に当日の光景を叙述せり。
その一節に曰く
「皇族方はその夫人達と共に皇帝の近くに列をなし、皇帝は不動の姿勢を取りて立たれたり。
皇帝は一般の日本人よりも背高き方にてすらりとし、その口と唇とはハプスブルブ家の特徴を連想せしめたり。前額は狭く頭髪も鬚髯もすべて漆黒なり。
顔面には何らの感情も表現せられざれば、もしその黒く光る眼にしてグラントの上に注がるるなかりしならば、立像とも誤想せられしならむ。
帝のそばなる皇后は和装したるが、その顔は甚だ白く、その姿も細小にしてほとんど児童の如く、髪は麗しく櫛けずられ、貴金の笄を挿めり。
御双方とも快活の面持し、中にも皇帝は確心と深切とを示せり。
礼式は少しく特異なりしも、これなお近時に至りて大いに変化したるものなりと言う。
吾人の位置定まるや、皇帝は自ら進み出てグラントと握手せり。
皇帝は少しく固くなれる気味あり。
不器用なりき。
あたかも初めて握手する者の如く、またできるだけよくこれを為さんと欲する者に似たり。
握手終われば帝は元の座に帰り、その手を剱の柄に置きて立ち、金色燦爛たる一行にその眼を注げり」
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『木戸幸一日記』内大臣※当時は宗秩寮総裁
1933年9月2日
※宮内大臣湯浅倉平の発言
金子堅太郎参内、『明治天皇紀』編纂の終了を奏上せられたるが、
「日清日露の役の開始の際の明治天皇の御考については、一般に頒布する場合には考慮する要ある」がごとく言上したるところ、
陛下は「このごとき事こそ御聖徳を伝うるためにも発表するを可とすべきにあらずや」との御考を侍従長にお漏しありし由。
1933年9月5日
※元老西園寺公望公爵の発言
『明治天皇紀』については、金子あたりにてとやかく選定がましきことをなすは考えものなり。
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侍医頭岡玄卿から宮内大臣渡辺千秋への報告
1912年7月19日〔明治天皇が倒れた当日〕
明治陛下は1904年末頃より糖尿病に罹らせられ、1906年1月末より慢性腎臓炎を併発、爾来病勢多少の増減ありたるところ、本月14日腸胃症に罹らせられ、15日より少々御嗜眠の傾向あらせらる。
18日来御嗜眠いっそう増加、御食機減少、本日午後より御神経少々恍惚の状態にて脳症であらせられ、尿量頓に甚だしく減少、タンパク質著しく増加。
同日夕刻より突然御発熱、御体温40度5分に昇騰、御脈108、呼吸38の御病状、容易ならざる御容体なり。
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★女官長 典侍 高倉寿子〈新樹の局〉
1840-1930 90歳没
*昭憲皇太后の家庭教師で、輿入れの際に一条家からともについてきた女官。
本人は「お清の典侍」(天皇のお手がつかない女官)として、毎夜の明治天皇の夜伽の相手は高倉が決めていた。
明治天皇が身分の低い女官に手をつけて皇子を作らせないための措置であった。
★副女官長 お清の権典侍 姉小路良子〈藤袴の局〉
1857-1926
★側室 権典侍 柳原愛子〈早蕨の局〉公家柳原愛光の娘・大正天皇の生母・明治天皇がつけたあだ名は「ちゃぼ」
1859-1943 84歳没
*男子を産んだことで権典侍から典侍に出世〈二位の局〉となる
★側室 権典侍 園祥子〈小菊の局〉公家園基祥の娘・4人の内親王の生母
1867-1947 79歳没
★側室 権典侍 葉室光子〈梅の局〉公家葉室長順の娘
1853-1873
*明治天皇の子を1人産むが、母子ともに死亡
★側室 権典侍 千種任子〈花松の局〉公家千種有任の娘
1855-1944
*明治天皇の子を2人産むが、2人とも早逝
★側室 権典侍 橋本夏子〈小桜の局〉女官橋本麗子&公家東坊城夏長の娘
1856-1873 17歳没
*明治天皇の子を1人産むが、母子ともに死亡
★側室 権典侍 小倉文子〈緋桜の局〉
1861-1929
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佐々木高行『かざしの桜』明治天皇の娘昌子内親王と房子内親王の御養育係
1899年9月8日
※中山慶子の発言〔明治天皇の生母〕
ただ丈夫と申すのみにても御繁生と申すことも受け合いはできず。
緋桜さん〔明治天皇の側室小倉文子〕のごとき丈夫にても、御繁生はなし。
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※権典侍〈夕顔の局〉植松務子 植松雅言の娘・1883年退官・1884年後梅溪通治と結婚
権典侍〈早蕨の局〉柳原愛子 柳原愛光の娘・大正天皇の生母
読売新聞 1879年4月24日
「夕顔の典侍・早蕨の典侍が懐妊 宮内省で二人の祝い事」
読売新聞 1879年12月9日
「夕顔の典侍が懐妊、来月には青山御所の産所へ引っ越し」
*植松務子の妊娠は流産だったのか、皇室側出産記録はない。
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●明宮 嘉仁親王 123代大正天皇
●常宮 昌子内親王 竹田宮恒久王妃
●周宮 房子内親王 北白川宮成久王妃
●富美宮 允子内親王 朝香宮鳩彦王妃
●泰宮 聡子内親王 東久邇宮稔彦王妃
当時4人の内親王と年齢が釣り合う皇族男子は年齢順に、
竹田宮恒久王・北白川宮成久王・有栖川宮栽仁王・朝香宮鳩彦王・東久邇宮稔彦王の5人であった。
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『明治天皇紀』1893年11月1日
房子内親王を有栖川宮栽仁に婚嫁せしめんとの叡旨あり。
宮内大臣土方久元をして、旨を有栖川宮熾仁親王に告げしめたまう。
熾仁親王喜びて勅旨拝承の旨を奉答す。
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『明治天皇紀』1906年1月9日
昌子内親王をもって恒久王に、允子内親王をもって栽仁王に配せんとし、内旨を侍従長徳大寺実則に伝えたまう。
これより先有栖川宮威仁親王、内親王中一人を得てその嗣栽仁王の妃と為さんと欲し、侯爵伊藤博文を介して内請する所あり。
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『明治天皇紀』1907年3月27日
昌子内親王を恒久王に配せんとするをもって、侍従長徳大寺実則を成久王の第に遣わし、旨を能久親王の寡妃富子に伝え、もって恒久王に伝えしめたまう。
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『明治天皇紀』1909年4月23日
房子内親王をもって成久王の妃と為さんとし、侍従長徳大寺実則を成久王の第に遣わし、
能久親王寡妃富子に由りて内旨を成久王に伝えしめ、さらに高輪御殿に詣りて房子内親王に伝えしめたまう。
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『明治天皇紀』1910年4月29日
允子内親王をもって鳩彦王の妃と為すことを聴したまう。
はじめ1月15日、時の宮内大臣公爵岩倉具定をして鳩彦王の兄邦彦王に就きて允子内親王帰嫁の内意を伝わしめ、ついで侍従長徳大寺実則を麻布御殿に遣わし、允子内親王に謁して帰嫁勅許の内意あらせらるることを伝わしめたまう。
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4人の内親王の嫁ぎ先は各王子に宮家を持たせて以下の予定であったが、
常宮昌子内親王 竹田宮恒久王妃
周宮房子内親王 北白川宮成久王妃
富美宮允子内親王 有栖川宮栽仁王妃
泰宮聡子内親王 朝香宮鳩彦王妃
有栖川宮栽仁王が20歳で病死したため允子内親王の嫁ぎ先が繰り下がって、
新たに久邇宮稔彦王に東久邇宮家を創設させて以下のように変更となった。
常宮昌子内親王 竹田宮恒久王妃
周宮房子内親王 北白川宮成久王妃
富美宮允子内親王→朝香宮鳩彦王妃
泰宮聡子内親王 →東久邇宮稔彦王妃
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『木戸幸一日記』内大臣
※1932年8月、3代宮内大臣田中光顕伯爵が9代宮内大臣一木喜徳郎に辞職を迫り、
1933年1月に一木宮相は辞職する。
1932年8月25日
田中光顕伯爵の行動の真相を知ることができた。
問題は高松宮殿下と徳川喜久子姫の御成婚に関連するものであって、田中氏が宮内大臣当時、有栖川宮栽仁王に内親王を配せんとする議があったところ、明治天皇は有栖川宮の系統には狂人があるのでかくのごとき系統のところには内親王を婚嫁せしむることを得ずと仰せられたることあり。
田中氏はこの点より見て高松宮殿下に喜久子姫を配するはよろしからずと考え、かねて御内意の存したる時も宮内当局に注意したるが、御成婚御内定の際も一木宮相に考慮方を注意したるにもかかわらずこれを決行したるは実に不都合なるゆえその責任を問うというのであって、もし宮内大臣にして辞職せざるにおいては、この問題を暴露して争うと言うのである。
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