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2026年

◆三笠宮崇仁親王(澄宮崇仁親王)123代大正天皇の四男
1915年生


■妻  高木百合子 高木正得子爵の娘
1923年生


●三笠宮寬仁親王  2代当主 麻生太賀吉の娘麻生信子と結婚・兄は総理大臣麻生太郎
●三笠宮宜仁親王  桂宮
●三笠宮憲仁親王  高円宮  三井物産社長鳥取滋治郎の娘鳥取久子と結婚

●三笠宮甯子内親王 近衛忠煇と結婚
●三笠宮容子内親王 茶道家千宗室と結婚




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『入江相政日記』侍従長

1974年12月11日
宇佐美長官から三笠宮寛仁親王についてのこと。
同憂に堪えない。

1974年12月25日
昭和天皇から、「今日宇佐美長官が三笠宮寛仁親王について三笠宮へ上がるにつき、江崎玲於奈がスウェーデンの皇族が『日本の皇族はいばっている』と言ったということをよく説くように」との仰せ。
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『入江相政日記』侍従長

1975年6月11日
昭和天皇から御召。
昨夜の三笠宮寛仁親王をめぐってのこと。

1975年12月10日
昭和天皇が宇佐美長官から三笠宮寛仁親王のこといろいろお聞きで御心配。

1975年12月11日
宇佐美長官と昨日の三笠宮寛仁親王のことについて協議。

1975年12月31日
エリザベス女王の御訪日もまた大騒ぎになった。
「我がイギリス」人種が多数現れた。
秩父宮勢津子妃・高松宮夫妻・三笠宮寛仁親王・麻生和子夫妻。
外務大臣宮沢喜一や儀典長内田宏を脅したりしてさんざんの醜態だった。
三木首相も驚いたことだろう。
昭和天皇がしっかりしてらっしゃるからいいようなものの、さもなければ大変面倒なことになるところだった。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1975年3月30日
突然、三笠宮容子内親王スイス・フランスより御帰国の御挨拶に参内。
昭和天皇が御談話室にて御対面遊ばす。
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『入江相政日記』侍従長

1977年4月4日
三笠宮邸へ。
三笠宮百合子妃と、昭和天皇と高松宮との御間柄についてお話し合う。

1977年10月8日
秩父宮勢津子妃から御電話。
三笠宮寛仁親王が本を出し、例の対談『皇族団欒』も載せると。
絶対に不可と言う。

1977年10月9日
三笠宮寛仁親王から電話。
「伯母さん〔秩父宮妃〕から伺ったが、承知なさった高松宮に取り止めると言ったら妙にお思いになるだろう」とのこと。
「そんなこと問題にならない。もしこれが出た時のと比べれば、皇室としての損害は比較にならない」と言ったら、
「やめます」とのこと。
まあよかった。

1977年10月11日
昭和天皇に三笠宮寛仁親王の一件を話す。
予の処置にまったく同意。
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『入江相政日記』侍従長

1978年12月8日
正午より午餐。
三笠宮が「娘が中国で大変大事にされた」〔三笠宮甯子内親王の訪中〕とおっしゃったら、
法務大臣古井喜実が「三笠宮はもうしばらく中国へおいでにならない方がいい」とピシャリとやったのはよかった。
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『入江相政日記』侍従長

1979年5月30日
小川宮務課長来室。
三笠宮寛仁親王が札幌から電話で、「帰京後宮内庁病院に入るから準備しろ」と言ったとのこと。
「それは診察を受けてからにすべき」ことを言い、
西野侍医長に、「これ以上評判を落としてはいけないから引き受けるな」と言う。

1979年6月5日
三笠宮百合子妃から三笠宮寛仁親王のこと。
真相を聞かせろとのこと。
侍従職に反対があるとはどういうことという話。
宮内庁病院・皇宮警察の甚だしい不評を告げる。
結局それを【しゃくい】上げておやめ願ったと言う。

1979年9月24日
明日三笠宮崇仁親王御参内につき、昭和天皇は「ナポレオンはあんなに素晴らしかったのが、なぜセントヘレナに流されそこで死ななければならなかったのか、それを例にして三笠宮寛仁親王のことを言ってはどうか」との仰せ。

1979年9月26日
昭和天皇に「三笠宮いかがでございましたか」と伺う。
「三笠宮百合子妃は良子皇后と話していたので聞えなかったかもしれないが、三笠宮には言っておいた」との仰せ。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1979年9月14日
昭和天皇より、三笠宮寛仁親王に関して、竹田宮や山階宮が若年の頃グレた話を御引用。
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『入江相政日記』侍従長

1980年5月21日
三笠宮寛仁親王、納采につき御参内。
少し感じがよくなった。
落ち着かれたか。

1980年6月9日
賜金700万円持って三笠宮邸へ。
〔三笠宮寛仁親王の結婚祝〕
三笠宮百合子妃に渡す。
大変喜んでいらっしゃった。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1980年6月13日
三笠宮寛仁親王が御婚約の御礼。
昭和天皇から三笠宮寛仁親王に、「外見だけでなく明治天皇の精神を見習う。テレビなどでウケのよい話などを慎む」の二点。
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『入江相政日記』侍従長

1981年12月13日
文春の三笠宮寛仁親王の放言について新潮より電話。

1981年12月21日
昭和天皇が三笠宮寛仁親王のこといろいろおっしゃっていた。
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『入江相政日記』侍従長

1982年3月4日
昭和天皇が三笠宮寛仁親王IOC委員就任につき強い不信任感をお持ちで、「富田長官によく言ってくれ」との仰せ。

1982年3月5日
富田長官から、三笠宮寛仁親王のIOC問題は消えた由。
昭和天皇も御安心だったそうで、よかった。

1982年4月24日
午前7時前に富田長官から電話。
三笠宮寛仁親王が「皇籍を離脱して宮廷行事から解放されて、身障者関係のことに専念したい」と言い出したとのこと。
手がつけられない。

1982年4月25日
テレビでは三笠宮寛仁親王に同情的なことを言っている。
そんなに皇族というものに重圧がありイヤなら、さっさとおん出てもらいたい。

1982年4月26日
岸田君・大竹君来室。
いずれも三笠宮寛仁親王のこと。
あきれている。

1982年5月13日
三笠宮寛仁親王のこと未解決。
秩父宮・高松宮から三笠宮寛仁親王にサンドイッチと〈お料〉を進ぜられが、〈お料〉は返したとか。
どういう気か。

1982年6月18日
昭和天皇から三笠宮寛仁親王に、「イランは国王一族の乱れが国を亡ぼしたこと、戦後GHQは華族制度を一代に限って認めると言ったのを日本の方から全廃を主張したこと、そういうことをよく考えて行動するよう言ってくれ」との仰せ。

1982年6月19日
高松宮邸へ。
高松宮から「三笠宮寛仁親王にも困った」とのこと、「彼は気が弱い」とのこと。
噂に聞いていた三笠宮寛仁親王が宮内庁はいけないというのとは、ちょっと調子が違う。
戻って富田長官に言っておく。

1982年6月22日
昭和天皇が三笠宮寛仁親王のことをイラン・エチオピア・ロマノフ王朝の例を挙げて御心配になっていた。
本当に困った人である。

1982年6月28日
昭和天皇が三笠宮寛仁親王のことばかりいろいろ仰せになる。
こんなに御心配をかけて本当にくだらない。

1982年8月7日
昭和天皇が「三笠宮寛仁親王は何も音沙汰なし、桂宮はだいぶ落ち着いてきた」ことなど仰せになる。

1982年11月1日
明日のエジンバラ公の午餐に三笠宮寛仁親王が出ることにつき、
昭和天皇から「午餐列席前に挨拶に来い。来ないなら午餐には出るなと私が言ったと言っていいから」との仰せ。
小川宮務課長が三笠宮寛仁親王に伝えた結果、「それなら出ない」とのこと。
あきれたもの。

1982年11月12日
三笠宮寛仁親王御参内。
「ごきげんよう」と言ったが、まったく応対なし。
昭和天皇も「まだ普通でない」とおっしゃる。

1982年12月29日
皇族拝賀。
三笠宮寛仁親王は来ず、三笠宮信子妃のみ。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1982年7月9日
入江侍従長・徳川侍従次長から先般の皇族会議の話を聞く。
主題は富田長官追い出しとか、麻生太郎〔三笠宮信子妃の兄〕や田中六助などが動いているとか、まさに昭和天皇の御気持を逆なでするような話。

1982年7月23日〔那須御用邸〕
三笠宮寛仁親王の鳥羽行中止とのこと。
昭和天皇は御安堵の御様子なり。

1982年11月12日
三笠宮寛仁親王が昭和天皇と10分足らずの御対面。
堅い表情でさっさとお帰り。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1982年5月9日
昭和天皇は三笠宮寬仁親王のこと(皇室離脱宣言)で御心痛の御様子で、今朝も靴下をお履きになりながらしばらく考え事でじっとなさっていたり、御食事中も御手をしばらく動かさなかったりなど、考え事が多いように見受けられたとのこと。

1982年11月1日
明日のエジンバラ公午餐に三笠宮寬仁親王が見えることについて、
昭和天皇が「病気(寬仁親王の病気&皇室離脱宣言)の後一度も会っていないのに、午餐の場で急に会うのはよくない。事前に会うようにするとか考えるように」とのことで、入江侍従長は富田宮内庁長官と相談してなんとかするということだったが、結局御不参ということになるという。

1982年11月2日
エジンバラ公午餐。
三笠宮寬仁親王は結局、「それなら出席しない」ということになった。
今後の行事のこともあり、いつまでも未解決では済まされまい。
富田宮内庁長官などもっと早くあらかじめ解決しておくべきものであったろう。
寬仁親王の方ではもう解決しているとお考えになっているらしいが、三分の理はあろう。
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『入江相政日記』侍従長

1983年6月3日
昭和天皇から、徳仁皇太子御留学につき、秩父宮の留学・三笠宮寛仁親王の留学がうまく行かなかったこと、久邇宮との複雑な因縁をなかなかわかってくれないとか、徳仁皇太子が帰るまでの二年間生きていられるかなど、クヨクヨしたことをクドクドとおおせになる。

1983年6月8日
〔三笠宮容子内親王&裏千家千政之、婚約〕
今度の御縁を「皇室と京都が再びしっかり結ばれたといって喜んでいる」由。
昭和天皇もお喜び。

1983年12月13日
昭和天皇が中川融〔徳仁皇太子オックスフォード留学の主席随員・元国連大使〕に、
「秩父宮も三笠宮寛仁親王もオックスフォード留学は失敗だったが、徳仁皇太子の時はそんなことがないように」と仰せになったことにつき、
中川さんが「三笠宮寛仁親王のことは十分わかるが、秩父宮のはどういう御意味か」と言っていた由。
三笠宮寛仁親王は駐英大使平原毅に手紙を出して、徳仁皇太子がいろいろな人にお会いになるよう、それを大使館が妨げると言われたことも聞く。

1983年12月28日
昭和天皇が「秩父宮のオックスフォードの教育は失敗だった」と仰せの件伺う。
つまり不十分だったのと、秩父宮の性質によるが、参謀総長閑院宮載仁親王をダラ幹と言い、当時の軍の勢いに乗ったことなど、との仰せだった。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1983年1月3日
高松宮御誕生日につき、昭和両陛下と御談話室で御対面。
例年30分くらいのところ今年は大変長い。
昨夏以来ヘルペスで公式行事には御不参の美智子妃のこと、(皇室離脱宣言をした)三笠宮寛仁親王のことなどがあったからか。

1983年2月1日
昭和天皇より「三笠宮寛仁親王はイギリスのことについては自分が一番よく知っていると思い上がっている。一昨日吹上に見えた時に『徳仁皇太子のオックスフォード御留学について誰が決めたのか』と言っていた。富田宮内庁長官と入江侍従長に伝えておくように」と。

1983年2月2日
昭和天皇より「三笠宮寛仁親王は徳仁皇太子の留学の新聞記事を読んで話していたが、あれは正式に閣議了解で決まったものではないと思うが、寛仁親王は新聞を信用しすぎる。富田宮内庁長官と入江侍従長にさらに追加して伝えておくように」と。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1984年5月9日
三笠宮寛仁親王・桂宮、特に最近は桂宮の行状が定まらず、先日のカタール晩餐に出席するとしながら欠席になったり、昭和天皇も大変気になさっている。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1985年2月19日
昭和天皇より、三笠宮寛仁親王の将来についてのお考え承る。

1985年4月15日
宮務課長小松博より、桂宮NHK退職の件。
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『入江相政日記』侍従長

1985年9月13日
連翠の間、皇族方だけ。
三笠宮寛仁親王は御辞儀してもぜんぜん応えず、依然喧嘩腰。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1986年7月4日
侍従田中直より、三笠宮寛仁親王の御旅行届につき物言いありと。
侍医伊東貞三より、肝炎のこと聞く。
主治医から三笠宮寛仁親王の容体と見解など事情を聞いた上、昭和天皇に御了承得る。

1986年7月11日
宮務課長小松博より、三笠宮寛仁親王の退院予定のこと聞く。

1986年9月3日
三笠宮寛仁親王、酒で入院の由。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1987年4月27日
昭和天皇が高円宮のインタビューについて御危惧。

1987年5月20日
宮務課長小松博から、三笠宮寛仁親王が3月~4月入院の件。

1987年10月16日
侍従長徳川義寛から、三笠宮宜仁親王〔桂宮〕の独立の件。

1987年12月16日
三笠宮宜仁親王宮家〔桂宮家〕創設に際し、賜金のことで協議。

1987年12月18日
三笠宮宜仁親王宮家創設については、「桂宮」「三室宮」の二案。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1988年5月26日
桂宮が緊急入院・手術の報。

1988年10月21日〔昭和天皇闘病中〕
高円宮から京都国体閉会式の復命に参内したき旨、前例なきこととお断りするも感情害され、電話で文句言われる。
高円宮は山本侍従長にも電話で当たる。

1988年11月17日
桂宮が11月20日に退院。
いずれ医療費の御援助も必要か。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1988年1月1日
三笠宮宜仁親王〔桂宮〕は今年40歳におなりになるが、それを機に独立し宮家を創設することになり、1月1日昭和天皇の御沙汰書が徳川侍従長から桂宮に授けられた。
鳳凰の間にて三笠宮百合子妃と桂宮が昭和天皇に御対面になり、御礼を言上なさった。
この宮家創設については御結婚でもなくたまたま40歳という機にというだけで、宮家独立の理由がはっきりしない。
とかく交友関係などで風評のある桂宮が、独立すれば私生活に責任を持つようになるというのかもしれないが、かえって監督の目の行き届かなくなるのを良いことにさらに乱れるおそれありという説もある。
御生活態度から言って良すぎるという酷評を下す人もいる。
桂宮という宮号は桂宮の御印が桂の木であるからというが、幕末まで桂宮という宮家があり、これまで使用されなかった宮号をどうしてお使いにならないのか。
「桂離宮」とか「桂宮邸跡」という標識が京都御苑内にあるなど、まぎらわしい。
この宮号を候補としたこと自体が不可解である。

1988年5月26日
桂宮が緊急手術。
御寝室で倒れておいでのところを午後発見され、都立広尾病院で緊急手術されたが意識はなお戻らず重態と。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1989年1月15日〔1月7日昭和天皇死去〕
高円宮がお供えのバナナおねだり。
御要望のモンキーバナナ5本お包みして高円宮にお渡しする。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1992年10月20日
美智子皇后、御誕生日。
三笠宮寛仁親王より樋口侍従に、
「皇族の祝賀の際、平成両陛下というのはいかがなものか。美智子皇后お一人が良いのでは?」とのお尋ねがあり、それについての我々の意見を聞きたいとのことでいろいろ話した。
我々の意見では御一人が良いと思うが、何事もできるだけお揃いでというのが平成流だから、いずれにしても宮内職員手塚英臣にお尋ねのあったことを伝え、その意見・説明をお答えするのがよいと話した。
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◆三笠宮崇仁親王(澄宮崇仁親王)123代大正天皇の四男
1915年生


■妻  高木百合子 高木正得子爵の娘
1923年生


●三笠宮寬仁親王  2代当主 麻生太賀吉の娘麻生信子と結婚・兄は総理大臣麻生太郎
●三笠宮宜仁親王  桂宮
●三笠宮憲仁親王  高円宮  三井物産社長鳥取滋治郎の娘鳥取久子と結婚

●三笠宮甯子内親王 近衛忠煇と結婚
●三笠宮容子内親王 茶道家千宗室と結婚


*皇室では父母を「おもう様」「おたた様」と呼ぶが、三笠宮家では「おとま」「おかま」と呼んでいた。




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『入江相政日記』侍従長

1946年6月8日
枢密院本会議、憲法草案が議せられ正午過ぎまでおかかりになる。
このとき三笠宮が意見を述べられ、採用せられざるや票決には加わらず退場せられた由。
昭和天皇も非常に遺憾に思し召された由。
心ある者でこの憲法草案に満足している者が一人としてあろうか。
しかるにかかる態度を取られることは、誠に御思召のほども知られざれることで申し訳ないことである。
どうして皇族はかくも昭和天皇をお苦しめするようなことばかりされるのであろうか。
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『入江相政日記』侍従長

1947年1月29日
三笠宮夫妻をお招きしての会食、大変賑やかであった。
今日はいよいよ三笠宮に一同で苦言を呈するのかと思っていたところ、三笠宮妃もおられるし大臣夫人もいるしとてもそんな空気ではなく、また本来そういう目的でもなく宮内官とお親しく願えばおひがみもなくなるであろうからという大臣の考えに出発している由。
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三笠宮崇仁親王

東京タイムス 1949年1月1日
『人間としての東宮様』
「明仁皇太子はお付きの人の檻の中にいる籠の鳥という感じがして、お気の毒という一語に尽きると思う。
昭和両陛下がお子様方と今までと同じ形で別居せられているのが残念に思われる」
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田島道治 日記 宮内庁長官

1949年2月20日
三笠宮の新聞にて御感慨ある様子とのこと。

1949年7月15日
昭和天皇に拝謁、昨日のこと委細言上す。
逆効果かも知れぬが三殿下にこの際念のため注意を申し上げるよう御命令あり。
なお、節子皇太后〔貞明皇后〕にも言上せよとのこと。

1949年7月18日
三笠宮御訪問。
高松宮のことに及び落涙す。

1949年9月28日
皇太后宮大夫坊城俊良来訪。
宮様方の行動につき御不満の話。
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『入江相政日記』侍従長

1949年2月8日
宮内庁次長林敬三から「御進講に高松宮もお誘いになっては如何」との件につき話がある。
反対しておく。
また三笠宮と宮内官との懇談会の話もある。

1949年2月21日
田島長官・林次長・鈴木侍従次長・式部頭・栄木・三井・松村と会議。
ようするに三笠宮がつまらないことを新聞におしゃべりにならないようにということから起ってきたもの。
実にくだらないことである。
今日の主題は皇子御教育論。
田島長官は今日の顛末について拝謁して申し上げる。

1949年2月22日
昭和天皇から三笠宮の問題につき、いろいろ御話を伺う。
御前にいたのは1時間半、今までのレコードであろう。

1949年3月14日
田島長官・林次長・鈴木侍従次長・三井・鈴木・山田・予で、いろいろ議論を重ねる。
今日はどういうのか高松宮の御発言も非常に多い。
高松宮はさすがに老熟したところもおありで、だいたい我々と同じ思想のようであるが、三笠宮とはついに平行線的なものであることがわかる。
今日は5時間も毒気にあてられたので参ってしまう。

1949年10月6日
各新聞関係者を御陪食にお召しになる。
三笠宮が「今の新聞に自由があるか」という質問をされた。
この質問も時節柄当たり障りのあるものであるが、
毎日の記者が「占領されているのだから多少の拘束はあるが、大したことはない」と答えた。
入御になり一同後引気配を楽しんでいるところへ三笠宮がまた現れ、「さっきの続きをやりたい」とのこと。
困ったと思った田島長官がなんとか止めようとして、「みなさん忙しいから」と言われたが、
共同の記者たちなどが「いいじゃありませんか」ということになって、とうとう始まってしまった。
内容を悪用されれば占領政策の批判ということになるし、第一後仕手となって現れ、蒸し返してこういうことをおっしゃるということそれ自体が非常識ではないかと思う。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1949年2月12日
田島長官◆直宮様と御一体は世上の変化上、ますます必要。
三笠宮 正月の新聞のことより宮内庁次長林敬三届出の結果、21日に会合。
(松平永芳〔三笠宮の友人・松平慶民子爵の子〕との往復信書のことは申し上げず、往復信書に表れている三笠宮の気持ちのことを申し上ぐ)

1949年2月21日
昭和天皇◆三笠宮の御結婚は最初私には関係なく、節子皇太后〔貞明皇后〕は仰せ通りになっておられた。
最初松平斉光男爵の娘の話があり、それが辞退の後、学習院の前で会った女子〔細川護立侯爵の娘細川泰子〕を貰いたいと神がかり的な変なことがあり、節子皇太后はすべて三笠宮の御意思通りであったが、百合子妃の時は私が骨折ってできたのだ。
陸軍の悪い癖があり、今までにも新聞や雑誌に対談等でいろいろのこと、退位論なども論ぜられたが、今度の正月の皇太子論も困る。
元宮内次官の名が出て、女の人のいたことを良いと書いておられるが、実は良くなくて困ったことがあったぐらいだ。
(松平永芳との往復信書のことも申し上げ)
田島長官◆よほど軽率お認めと存じます。

田島長官◆高松宮・三笠宮御懇談の模様大略御報告。
三笠宮は御自分の体験にて明仁皇太子の御養育を想像して今日の実状をあまり深く極めず、正月の新聞では空論の旨。
(三笠宮の結婚の件の問題等のこと申し上げしに、「ウソ」との仰せ。委細は侍従入江相政よりと申し上ぐ)

1949年2月28日
昭和天皇◆新東宮大夫野村行一・新東宮参与小泉信三は正しい良い人で大変よいと思うが、新任の時に高松宮・三笠宮はいつも何かと仰せになることがあるので、その点注意せよ。

1949年3月8日
昭和天皇◆北白川の叔母さん〔北白川宮房子妃〕が高松宮・三笠宮の少し遊び過ぎらるることを言っておられた。
「節子皇太后〔貞明皇后〕も御承知なき様子ゆえ、昭和天皇から仰せになりては」との御話ありし。

1949年3月11日
昭和天皇◆皇位継承または摂政の立場にあることゆえ、万一にも起こるに備えて修養することが高松宮・三笠宮の本分で、他のことをいろいろなさることは本来必要でないことと思う。
然るに映画またはダンスホール等へ出られるほか、民間人の希望に副っていろいろの所に行かれるが、その民間人の悪口もずいぶんあるらしき様子。
これは本分に顧みていただきたく思う。
これは私の理想論かもしれないが。

1949年3月24日
田島長官◆三笠宮は観念論で、「歴史の発展上君主制はなくなり大統領制になりつつある以上、日本の新憲法も天皇制廃止の課程として宮内庁官吏は考えるか」という御話にて、純然たる観念論。
高松宮は「科学が発達しても宗教が盛んになると同じようで、人間の観念理屈だけで歴史は動かぬ」という議論で、高松宮も天皇制支持のように拝しました。
ただしお二人とも昭和天皇の戦争責任問題に関してはちょっと変な言い回しをなさいました。
昭和天皇◆戦争責任については三笠宮が昭和天皇に仰せありし旨。
その節、宣戦の詔書には朕が志ならんやと言ってるではないかと言った。
またパールハーバーは海軍作戦に過ぎぬ。
(この点、田島はいつも残念と思う)

1949年5月10日
昭和天皇◆三笠宮のお考えはどうかねー?
田島長官◆先頃の皇族会のこと、しかし三笠宮は宮内庁官吏に意見を述べらるる機会を作られたゆえ、あまり外部に意見御発表のことはなからんと信じまするが、根本御意見はさほどに変化ありとも思いませぬ。
内部の者より外部の者の意見を重んぜらるる御傾向ゆえ、今後も外部の人を連れて来て御話を聞いていただくようにするつもりにて、それも30代の人がよいと存じます。

1949年5月11日
田島長官◆三笠宮かねて御外遊御希望お漏らしありしも時期にあらず、経費の点もあり実現不可能のむね次長より申し上げ置きしところ、昨日次長をお訪ねになり、御外遊御希望のこと在米日字新聞に出て醵金の記事あり、それがため某牧師 不日 来日とかいうこと。
「過日の不可能との宮内庁意見は昭和天皇まで通りおるや否や」との御質問ありし由にて、
次長は「昭和天皇は御存知なきやと思うも、御同意見なることは推測するに難からずと存ず」返答せし由。
昭和天皇◆兄弟四人のうち一人だけ外遊なきゆえ同情するも、今は時期でない。

1949年6月28日
昭和天皇◆三笠宮が大変落ち着いてこられたように思う。
昨夜の会食の節、高松宮の御言葉に対しての返事など元と非常に違う。

1949年9月15日
〔昭和天皇の研究『相模湾産後鰓類図譜』が出版される〕
田島長官◆宮様方にも科学上の御知識はとにかく、贈呈しかるべきと存じます。
昭和天皇◆秩父宮に「研究所で採集のものを本にする」と話した時に、
秩父宮から「昭和天皇に御自身の御名前をお出しになること云々」の御話があり、また本をあげればそれを蒸し返されるかもしれず、イヤなのだ。
田島長官◆それはやはり大きくお考えのうえ御贈呈しかるべきと思います。

1949年9月19日
昭和天皇◆三笠宮から本の御礼がすぐ来た。
三笠宮は近来よほどよくおなりになったように思う。
『改造』に寄稿は困るが、まあよくおなりと思う。
高松宮は遅く御礼が来た。
秩父宮はまだ何とも言ってこない。
東宮も御礼が遅かったが、これは年少で侍従の出したのに気づかれるのが遅くとも仕方ないが、宮様方は新聞も御覧で早く御礼あってしかるべきだ。

その後三谷侍従長曰く、「昭和天皇は今回の本につきては非常に particular である。例えば『田島は東宮御床上げのとき賜物に反対したが、今回は希望するのはどうか』との御話あり。三谷その区別を申し上げ御了解になりし由」

1949年9月28日
昭和天皇◆一昨日の三笠宮の会はどうであったか?
(「フリーメーソンのこと。また東久邇稔彦王事件につき『妥協するな』との御話」のこと申し上ぐ)

1949年10月11日
昭和天皇◆『サンデー毎日』の三笠宮の記事や私に関する座談会を読んだか?
三笠宮が話しておられるだいたいの調子はよろしいが、私と話をするかという問いに対して、四方山の話をすると逃げておかれればいいと思うに、「自然科学に限られるから話がない」と言うのはどうかと思う。

1949年10月12日
田島長官◆『サンデー毎日』は、生物学に関しての座談会に三笠宮はお入りになりませぬが、編集者の意図は入っていただく気持ちかと感ぜられます。
したがって自然科学の御話は自分にはできぬ云々は、編集上ああなりますので、別に三笠宮が変なことを仰せになったとは思えませぬ。
昭和天皇◆いや、「人民の方がよく接触してる」とか言うところは、なんだか嫌味のように思われる。
田島長官◆新聞関係御陪食の時 三笠宮新聞の自由のことの御質問につき、ちょっと申し上げ、あれは少し困りました。
昭和天皇◆絶対の自由は放恣である。
自由は多少の制約を免れぬ。
制約をあえて受ける自由があるとも言える。

昭和天皇◆『サンデー毎日』三笠宮が「自然科学に興味がない」と仰せになるとしても、
「こういう本〔『相模湾産後鰓類図譜』〕が出たことを喜ぶ」と一言あそこで言ってくれたらよさそうだと思う。
それなのに、「国民の方が私たちより近い」とか何とか言うのは嫌味のようで、共産党らが兄弟間がうまくいってないというようなことを持ち込む余地を与えるようなことはまずい。
田島長官◆昭和天皇がお気に遊ばすほど一般読者は思いますまい。
それよりも三笠宮の新聞と自由の御発言の方がよくなかったかと存じます。
昭和天皇◆三笠宮は本の御礼の御挨拶は早かったが、御話は一向に出ず、三笠宮妃が美術的な御話のあとで「模様になる」とちょっとおっしゃるぐらいだ。
秩父宮は御礼は遅かったが、秩父宮妃の御話では外人にお見せになって御利用になさるようだ。
高松宮はしばらくお目にかからぬからわからぬ。
よくお出かけになるようだ。

1949年12月5日
田島長官◆共産党に関しては秩父宮も高松宮も皇室皇族を否定するものゆえあまり好感はお持ちないと存じますが、三笠宮はお若い方ゆえ多少理解をお持ちになりがちの点もあるかと思う程度であります。
昭和天皇◆『サロン』の三笠宮のは、書かなければ書かないが一番いいが、書くとすればこの前のよりはよほどいい。
ただし自分の教育の受け方のことをいっておられるあまりに、あの当時でも奉る人ばかりではなかったはずだと思うに、奉られてばかりいたとお思いなのは、如何に御自分の御修養の御力が足りなかったということを言っておられるようなものだ。

1949年12月9日
田島長官◆恋愛結婚とか見合結婚とかいうことは皇室については如何お考えでございますか。
昭和天皇◆恋愛はとてもで、三笠宮ぐらいがちょうどよいと思う。
私と高松宮は全然古い風で、秩父宮は少し違い、三笠宮ぐらいがいいと思う。
節子皇太后〔貞明皇后〕は三笠宮の言いなりで、細川の娘〔細川護立侯爵の娘細川泰子〕を広幡大夫は「御顔が」と言ったが、私は御顔より照宮成子内親王と同級で、叔母様になる人が照宮成子内親王と同級ではと思って私は反対し、百合子妃は私が推薦したのだ。
その時のことを思うと、いま三笠宮がいろいろ言われるのはどうかと思ってる。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1950年3月3日
吉田首相を訪問。
三笠宮洋行のこと、高松宮のことを懇談す。
吉田首相としては、三笠宮の件はGHQ副官ローレンス・バンカーの意見を聞くこと、高松宮の件は何か適職心掛けること。

1950年7月28日
三笠宮、共産党同情的失言のこと。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1950年1月2日
昭和天皇◆三笠宮の読売の記事はお書きにならぬ方がよい。
田島長官◆昨年の皇太子籠の鳥の文章よりはよほどおよろしい。

1950年1月6日
昭和天皇◆今朝の新聞に高松宮が東宮御洋行のことを話しておられるが。
高松宮は新聞社員などには実にうまく仰せになり、時期の問題だと仰せになった誠によろしい。
こういうことは秩父宮や三笠宮と違っておよろしい。
三笠宮は御正直で、御口と御腹は一つでその点はおよろしいが、仰せにならぬでもよきことを仰せになり、それも御自分のことをいつでも省みて仰せになるが、多少歪められている場合もある。
例えば結婚の問題なども、私と高松宮は決まっていたようなもので、秩父宮は少し違うが、三笠宮はずっと御自由で御自分で御選択になり、節子皇太后〔貞明皇后〕は三笠宮の言いなりであったのに、御自分では外部の力によったように思って御話になり、ちょっとわからぬ点がある。
日光や葉山の御用邸の付属邸など、節子皇太后〔貞明皇后〕と三笠宮と御一緒にお住みのために作ったものだが、「親子兄弟一緒でなかった」という風に人に御話になるが、あの点はどうかと思う。

1950年1月9日
昭和天皇◆三笠宮が来られて洋行の話もいろいろあったが、
「私はうすうす田島から聞いているが詳しいことは知らぬ。しかし主義は賛成だが方法は研究を要する」と言っただけで、それ以上いいとも悪いとも言わなかったからそのつもりで。
田島長官◆最近は三笠宮もお違いの様子で、2~3年は勉学の御希望もあり、また一面お子様御教育のために数カ月の御旅行のお考えもあり、お迷いの様子であります。

1950年3月12日
昭和天皇◆『主婦の友』の三笠宮の記事やっと見たが、どうも御自分の御経験から今も宮中でまだその通り行われてると思って御話になるのは実に困る。
目下の内廷もそうだというお考えは困る。

1950年4月3日
田島長官◆三笠宮 孝宮和子内親王御結婚に関し、読売新聞社長馬場恒吾に書簡の事件。
真にどういうお考えか解しかねます。
御洋行など如何なものかと存じます。
昭和天皇◆馬場が取り上げなかったのは非常によかったから、吉田は馬場と懇意ゆえ、感謝してることを伝えてくれ。

1950年4月5日
田島長官◆三笠宮の御洋行は随行者に松平ぐらいの者がおれば格別として、誰もお連れにならぬ場合、アメリカの空気にお慣れにならぬ内に日本人の新聞記者等に何を御話になるか心配でございます。
御本人も今年は御洋行の意思なきことゆえ結構ですが、三笠宮の対新聞に御意見発表は無軌道ゆえ心配でございます。

1950年5月2日
田島長官◆読売新聞社長馬場恒吾に書簡の件、三笠宮は「馬場に親展で送ったのに云々」との仰せで、読売新聞記者は「社長が何と言っても書く」と申してるくらいでありますので、何と申しても新聞社長への御手紙は如何かと存じます。

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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1950年6月22日
昭和天皇◆田島は知らぬから宮中服のできた沿革を話しておこう。
それは第一に高松宮妃の主唱でできたので、秩父宮妃などと研究の結果できた。
私はむしろ反対だったが、結局出た。
理由は洋服は英米的だというのである。
同盟の独伊も洋服だからと反駁したが、軍人などは何か国粋的なものという声を上げてた。
これに妃殿下方がまず乗ぜられた。
第二に繊維不足という時勢の声に対し、一反の反物ででき、上衣は丸帯でできるということであって、まあ結局承知したが、後でわかったことには、上衣は丸帯ではできず新調ということになり、東久邇の叔母さん〔東久邇宮聡子妃〕など「洋服以上に面倒だ」と私にこぼされるようになり、宮内大臣松平恒雄に上衣をやめることをいくら話してもなかなかやらず、通牒でやっと出したが、「戦時中」とあったゆえ、これを「当分」と変えようとしたが、松平は遂にやらず宮内大臣が石渡荘太郎になってこれが実現した。
上衣のヤメやら何やらで節子皇太后〔貞明皇后〕は結局今までお着にならず、お作りにならない。
なお高松宮妃の御自分的な理由は、今までの洋服裁縫師がいなくなったことであるが、これは私的な理由で私はどうも賛成できなかった。
その高松宮妃が戦後批評が出るとすぐ洋服を自由になさるのはどうかと思う。
秩父宮妃の、相当の研究の結果ゆえ不評でも何とか改良してという立場の方が理解できる。
フランス大使か誰かが三笠宮妃に「この服はなってない。パリでお作りなさい」と言ったこともあると聞いている。
私は宮中服には本来賛成してない。
和服が良いと思うが、節子皇太后〔貞明皇后〕が不様という訳で不賛成で宮中服となり、しかも節子皇太后〔貞明皇后〕は宮中服は召さぬ訳だ。
田島長官◆和服について併用の意味で節子皇太后〔貞明皇后〕のお許しを得て、和服の方向に行き得るかよく研究いたします。
昭和天皇◆節子皇太后〔貞明皇后〕のモンペも戦争の防空から来てて、戦時色はある。

1950年7月5日
田島長官◆三笠宮のことに関連し、明仁皇太子・常陸宮のこともなかなか考えさせられまする。
明仁皇太子は特別にて民法に長子相続もなくなったにかかわらず、皇室だけは長子相続の建前で二男・三男は冷や飯で、この点よほど注意しなければならぬと存じます。
明仁皇太子のことは東宮大夫穂積重遠の無責任では駄目ゆえ東宮参与小泉信三に替ってもらうという具体案ができてお許しを得て実行しましたが、常陸宮についてはなお研究中。
昭和天皇◆田島は戦争後になって宮様方が平民的自由と皇族の特権とを両方活発にやられるようになったと言ったが、戦前からずいぶん平民的な特権をやっておいでだった。
一つは別当などの人がついていたことと、今一つは検閲制で新聞に出なかったというだけだ。

1950年7月8日
田島長官◆三笠宮は宮内職員高尾亮一に「エチケットの点は誠に申し訳ない」と仰せになりましたそうでございますが、「共産党に関しては自分の考えがあり、御国のためと思えば国から皇族費をもらっておる以上言わざるを得ない」というような説をお述べになり、
高尾は「今あなたはパージ同様の御身で、政治につきいろいろ仰せになるはよろしくありませぬ」と申し上げ、まあ御納得の様子とのことでありました。
三笠宮はやはり田島など老人の言よりは、高尾などの若い人の言うことの方が御耳に入りやすいようであります。

1950年7月10日
昭和天皇◆三笠宮が歳費をもらうから国のためと思うことは言わなければならぬと言うは間違ってると思う。
田島などが国から俸給をもらうのと、宮さん方が国から歳費をもらうとは意味が違うと思う。
宮さん方が歳費をおもらいになるのは、皇位継承の身分としてまた摂政になり得る地位として、これは実現する場合が少ないとしても、私の御名代で地方へ行っていただく時などは明らかに私の代りであって、そのためには政治にわたる問題など御話になってることは非常に妨げとなることゆえ、その点をよくお考え願ってよほど慎重に御行動していただくより他ないと思う。

1950年7月11日
昭和天皇◆三笠宮が茶をやっておられるとのことで、近く名古屋に行かれるとのことゆえ、先生は近所の人ということだが、そこへ来る人はどんな客か。
田島長官◆そっと調べましょう。
昭和天皇◆茶道の真髄を把握されればこれは結構だが、茶道によって交わられる人によってはどうかと思う。

1950年7月24日
田島長官◆三笠宮御移転の御希望にて、赤坂御用邸内に新築御希望の由。
昭和天皇◆何の理由で移転か。
田島長官◆お子様通学のため、および洋行の時の御用心ではないかと思います。

1950年7月30日
田島長官◆節子皇太后〔貞明皇后〕に拝謁、三笠宮の共産党云々のことは申し上げように注意しまして事実ありのまま申し上げ、次に三笠宮邸新築の問題はあらかじめ節子皇太后〔貞明皇后〕御承知と承りしところ、初耳のようにて、「新築は相当金額ゆえ、ただいまの所でガソリンを用いて御通学の方がよい」との御話あり。
昭和天皇◆三笠宮はデモクラシーで自動車をお用いに議論あるべし。
田島長官◆宮内庁の内には、「赤坂御用邸内に御邸新築ということと平素の三笠宮の御主張は一致せぬ」と申す者もあります。

1950年9月18日
田島長官◆東京新聞の三笠宮の御意見発表は、現地で同様の御発言がありましたか否か心配になり、現地に聞き質しましたが、現地ではそのことございませんでした。
昭和天皇◆高松宮妃のように発表前にお見せいただくといいのだがねー。
もっとも高松宮は高松宮妃のやり方に御反対だそうだが。

1950年10月31日
田島長官◆三笠宮が白衣勇士のために何か御活動を始められるというニュースが読売方面から入りましたので、宮内職員高尾亮一に事情を伺いに出させましたところ、義手義足の関係からある程度力にはなろうと仰せになり、新聞記者にそのことを電話遊ばしたということでございます。
昭和天皇◆だいたい、新聞記者に進んで電話をおかけになること自体がどうかと思う。
田島長官◆その点ちょっと困ります。

1950年11月14日
田島長官◆三笠宮よりまた御邸問題・洋行問題の御話あり。
洋行は講和後になりても皇弟の御立場上、御留学とは申せ随員等のことも考える要あり。
したがって経費等のこともあり、国際国内状勢に大によることゆえ、なかなか決定難しきむね申し上ぐ。
昭和天皇◆三笠宮は全体的な総合的結論でなく、一局部のことでグラグラ意見が変わるのは困る。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1951年11月27日
三笠宮洋行の件にて拝謁のはずなり。

1951年11月29日
三笠宮御来室、御渡米希望。
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『入江相政日記』侍従長

1951年4月22日
三笠宮から御電話で「これから行ってもいいか」ということでおいでになる。
何かと思ったら、「夜まで御勉強になることになったが夕食の用意がない。何か名案はないか」ということで、お勧めしたら「では御馳走になろう」ということで、いったんお帰りになり、夕食の支度ができてからお知らせして、6時過ぎにおいでになり8時にお帰りになる。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1951年6月5日
昭和天皇◆昨日突然秩父宮妃と高松宮妃が来られて、高松宮妃は宮中服は失敗だったとの観念があるらしく、はっきりあれは間違いだったとの話はないが、秩父宮妃は別の態度で何か一新軌軸を出そうとしたもので、一朝一夕に廃すべきでなく、また戦時に関連したものでもないとのお考えが強く、とても強固だ。
それほど時局に影響ないならば、その時にも私は言ったのだが、
「戦争済んでから日本古来の伝統も考えてゆっくり新しいものを創造していいではないか」
それをあの際やったのは、何と言っても戦時色あるを免れぬと思う。
三笠宮なども「洋服は米英式だ」と言ってたような時代で、
私は「ドイツ式でないのか」と言ったことがある。
だからこの際 私の天皇服のように一時 人の目の見える所のみとして、世の批評を聞き、再検討・再出発すればよいので、そのつなぎに和装をやってみれば、またそれの批評も出よう。
秩父宮妃が宮中服成立の経緯につき、相当主張あることを物語りしゆえ、話が出るかもしれぬから参考に話す。
田島長官◆田島は節子皇太后〔貞明皇后〕に良子皇后和装の明瞭な同意を得るつもりでありましたのが御崩御ですが、昭和天皇の御趣意にも合しまするゆえ、和装をお始め願えばよいと存じます。
昭和天皇◆秩父宮妃が宮中服に執着強く、改良してモノにしたい意思が強いが、何か古い伝統のあるものは廃するに忍びぬことがある。
田島長官◆それはそうでありますが、宮中服はそういうものではありませぬ。
昭和天皇◆そうだよ。

1951年6月15日
昭和天皇◆節子皇太后〔貞明皇后〕の御遺書の事だがねー。
節子皇太后〔貞明皇后〕は筧克彦の御進講「神ながらの道」をお聞きになったのだが、その筆記をどういう意味かわからぬが秩父宮にあげてくれとある。
これはその通りにするだけのことゆえ差し上げてもいいが、どうして秩父宮かということはわからない。
とにかく秩父宮は貞明皇后の一番お気に入りであった。
三笠宮も末のお子さんで〔溺愛され〕高松宮が御不平で、
戦争の時 支那の上海か何か危険な所へお出でになったのも、その御不平のためであったような話も聞いた。

1951年7月9日
昭和天皇◆中部日本の新聞に節子皇太后〔貞明皇后〕を悲しむ歌を秩父宮妃・高松宮妃がお作りの時、三笠宮が断ったというのはどういう訳か、私にはわからぬ。
そのことで秩父宮妃・高松宮妃が廊下まで良子を追いかけてきて聞いておられた。
三笠宮の従来の行動と矛盾で不可解だ。
田島長官◆三笠宮は宣伝的なことはやめたいという御趣意のようでございます。
昭和天皇◆それはおかしい。
従来三笠宮はずいぶん新聞にいろいろ宣伝的なことをなすったではないか。
田島長官◆それは、今後は宣伝的なことをおやめの意味でございましょう。
昭和天皇◆御反省で今後もなさらぬなら結構だが、どうもわからぬ。

1951年9月7日
田島長官◆一億円の宮殿化費用という東京新聞の記事に関し、三笠宮から田島へ御手紙をいただきました。
「住むに家なき人もまだ多く、白衣の勇士の物乞もあり、高税に喘ぐ国民多数の中で、宮殿のできることは不賛成。場合によれば私はそこへは足踏みせぬつもり」というような意味でありましたゆえ、参上して真相を申し上げ御理解を願おうと、御心持には全然同感のむねを申し上げ、外国使臣拝見の場所の絶対的必要・明仁皇太子御成年式は大喪儀のように戸外でやれぬこと・昭和天皇の御住居でなく象徴としての機能施行場所なることを申し上げ、わかったとの御言葉はありませんでしたが、反論は一語も遊ばしませんでした。
なお6千万円という貞明皇后大喪儀の巨額ひねくれてお考えの点は争いましたが、「いや、そういう意味ではない」との仰せで、だいたい御了承を得たと存じております。
6千万円巨額のようでも、英照皇太后の70万円は物価指数を掛ければ約5億円で、その一割強の6千万円は多額とは言えず、それは御納得でありまして、「貞明皇后の場合やむを得ぬ」と仰せになりました。

1951年12月3日
昭和天皇◆三笠宮がまた読売新聞に出てる。
東京新聞には文部大臣天野貞祐との対談があった。
あれはまだいいが、読売の方はどうかと思う。
田島長官◆三笠宮が皇居再建に御反対のことは前からでございます。
最近また増えて参りました。
文芸春秋のレスター女史との御談話の中にちょっとどうかと思います御発言があります。
昭和天皇◆皇族という身分を顧みれば、言うべきでない事はたくさんある。
普通人でも高位とか責任の地位になれば言いたいことも言えず、退職後もその責任は残るものだ。
いやしくも皇位継承のありうる身分の方として言葉を慎んでもらわねば。
田島長官◆高松宮は上手に物を仰せになりますが、三笠宮は純と申しますか仰せになりますので、昭和天皇も時々お困りになりますが、以前から見ればよほどお慎みのように存じます。
昭和天皇◆高松宮も田島の来ぬ前の頃は相当お話になった。
田島長官◆三笠宮の御洋行の件は先年昭和天皇にお伺い致し、御兄弟みなさま御洋行ゆえ時期が来ればお出かけは結構と思うが平和まではとの御話を承りおりました。
終戦直後とは違いアメリカとの関係上御微行といえども事務官か何かが随行せねばどうかと思われまするし、従来は在留邦人とかの寄付にまって費用の御支弁というような話も出ておりまするが、今日となっては国の費用ということになろうかとも思いまするし、皇室としてはその旅費をお出しいただく訳には参らず、いろいろ難しいと存じます。

1951年12月9日
田島長官◆三笠宮御洋行のことは、首相吉田茂は「皇弟として寄付金等にて御旅行は国の威厳にも関しまするゆえ、三笠宮のおいでとなれば国会も費用は承認しましょう」というような話でありました。

昭和天皇◆三笠宮は読売や文芸春秋などで人が政治に利用されてるなんて言っておられるが、三笠宮は文芸春秋に利用されてることには気づかれぬのかしら。
おかしいではないか。
また礼のことを言っておられるが、行事となれば多少バラバラで困るというような場合もあり、きっかけを必要とすることもあるので一概に言えぬのを、ああいう風に言っておられる。
田島長官◆一理あるも全面的には御賛成申し上げかねる節もあります。
昭和天皇◆アメリカがこうやって占拠している以上はいいことは言わず、どうしても長く当局におれば出てくるマズイ事柄を取り上げて、反米思想に乗じて共産の者が共産主義のために美名を平和とか戦争反対とか言っていろいろやるのは困ったものだ。
これはちょうど戦前に軍閥者が忠君愛国というような、ちょっと文句の言えぬ事を看板にして戦争へと駆り立てたのと同じであって真に困ったことだ。
それゆえ政府はアメリカに対しては反米思想の起こる原因を無遠慮に言って反省してもらい、日本国内に対しては共産主義の仮面の平和の美名の正体を暴露して、大いに戦うことをせねばならぬと思う。

1951年12月25日
田島長官◆また三笠宮が読売に載っておられます。
昭和天皇◆あの内容は以前にすればよほど慎重で言葉を濁し、首相が譲位ばかり論じていて、譲位の結果の実際というようなことを少しも考えていないといった事を言っておられる。
田島長官◆言葉を変えますれば三笠宮以外の誰か普通の人の意思ならば結局譲位は駄目かとの結論とも見られ、ああいう風に新聞社へお出かけになりあいう問題に口をお出しになることがいかぬと存じます。
式部官長松平康昌と記事の件を話し合い、「三笠宮は細かいことにはを頭が良いが、大綱の御判断は少し〈おつむり〉(頭)が悪いようだ」と申しましたが、宮様方は逆であって欲しいのでございます。
昭和天皇◆それは陸軍の教育の弊だ。
細かい事に頭を働かしすぎる。
東条なども首相で相当細かった。
田島長官◆三笠宮はああいうジャーナリズムに出ることがお好きのようでありますが、昭和天皇の仰せの通り自由は人権として認められていますが、地位の一番高い天子様は一番自由を束縛されておいでになり、皇族としてはあまり御自由と思し召されぬ方が願わしいのでございます。
三笠宮の御洋行の際、御供が非常に難しいと存じます。
昭和天皇◆それは非常に難しい。
例えその人物が良くても三笠宮とのコンビが悪ければ何もならぬ。
コンビは同型でいいこともあるし異型でいいこともあるが、いずれにしても三笠宮とのコンビが良くなければ駄目だ。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1952年2月13日
三笠宮「イギリス戴冠式名代どうするか。外遊にとっては最も良い機会だが」との御話。
「御差遣あるかもわからず、またあってもお近い御関係の方ですかしら」と言う。

1952年4月20日
三笠宮、ヘルシンキオリンピック行きのことお尋ねあり。
「三笠宮御洋行の当然を政府側が言うまでは待ちの方得策でなきか」と申し上ぐ。

1952年4月25日
三笠宮来室。
金を自弁すればヘルシンキオリンピック行ってもいいかとの御話。
それも不可、時期お待ちのこと申し上ぐ。

1952年4月27日
秩父宮に御言葉の文申し上ぐ。
「固い・抽象的、まずよからん」とのこと。

1952年4月28日
高松宮に御言葉の文申し上ぐ。
「戦争のことは言わぬ方よし。今さら平和論を言うと言われる」とのこと。

三笠宮に御言葉の文申し上ぐ。
約50分熟考、御説あり。

1952年4月29日
三笠宮、御言葉について意見書御持参。

1952年5月3日
式典は無事終了。
約一年苦労の御言葉もよし。

1952年5月5日
白根松介、GHQに三笠宮御渡米のこと相談、大筋の当りよろしいと言う。

1952年5月10日
三笠宮、都立大学寺沢助教授釈放運動のこと話す。
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『入江相政日記』侍従長

1952年3月4日
里見岩雄の『三笠宮に対する公開状』を読む。
実によく書けていて、我々の言わんとすることを全部言っている。
これは相当に効くだろうと思う。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1952年1月3日
昭和天皇◆『貞明皇后』という本を見ると三妃殿下の歌が載ってるが、ああやって載るぐらいなら中部日本から御三方のお歌と言ってきた時、三妃殿下お出しになればいいのに、三笠宮が「そんな宣伝のようなこと」と言われたのだが、矛盾してるねー。
人のことは宣伝などと言って、御自分もずいぶんいろんな新聞に宣伝的なことを書いたり喋ったりしておられる。

1952年2月11日
田島長官◆英ジョージ6世の葬儀は東京で大使館主催の弔祭式があるかと存じますが、ヴィクトリア女王の時は小松宮彰仁親王両殿下、エドワード7世の時は皇太子両殿下〔大正天皇夫妻〕ジョージ5世の時は高松宮両殿下が御名代ということでおいでになっておりますが、今回は国際関係が正常でございませぬので御名代はどなたにお願い致しましょうか。
昭和天皇◆秩父宮は御病気で御無理ゆえ、高松宮にお頼みしてもらおう。
田島長官◆良子皇后御名代も高松宮妃にお願い致しましてよろしゅうございますか。
昭和天皇◆御健康はどうかしら。
万一健康上の問題があれば秩父宮妃にお願いしてくれ。
田島長官◆まだ先のことでありますが、戴冠式が6カ月後なれば国交回復後と存じます。
その節もし駐英大使でなく御名代というような場合はいかがでございましょうか。
昭和天皇◆御親類の国は別として他の国の参列者の振り合いを見て、例えばフランスが大統領自ら行くという場合で政府も希望するようなら、私はむしろ名代が行った方が良いと思う。
その時もそれはやはり高松宮だ。
秩父宮は行かれないから、また三笠宮は歳もお若いから。

1952年2月18日
田島長官◆三笠宮が田島の部屋へおいでになりまして、
「戴冠式の御名代はどうなるか、私の外遊ということについて最も良い機会だが」との仰せでありました。
突然でありましてビックリしましたが、直接こんなに早く御話が出ようとは予期いたしませんでしたが、「8月よりもっと早いかもしれませぬ。したがって正常国際関係が復活していないかもしれませぬし、またその際皇族がお出かけになることになるか大使的な人になるかも分かりませぬ」とハッキリせぬお答えを致しておきましたが、昭和天皇に直接御話があるかもしれませぬゆえ、ちょっとお耳に入れておきます。
昭和天皇◆高松宮は社交のことは御上手で、私なんかよりとても御上手だし、秩父宮が行かれれば一番良いがそれは駄目ゆえ、高松宮はこういう時には適当な御長所がおありだ。
この前高松宮が行かれたのはガーター勲章の御答礼で戴冠式とは違う。
戴冠式だからねー。

1952年2月25日
田島長官◆今日の新聞には戴冠式はやはり8月7日で、先方から招待状が来てみなければわかりませぬのだそうでございます。
昭和天皇◆イギリスは昔から親善だから、できれば今後も。

1952年2月29日
田島長官◆秩父宮から御手紙をいただきましたが、戴冠式に御名代の問題があれば明仁皇太子がよろしいということであります。
田島はそれまで想像もいたしませんでしたが、御手紙を拝見してみればごもっともであり筋の通ったことで、具体的に考えてみるだけの要はあると思いました。
侍従長三谷隆信は消極的で、東宮職では若い連中はとにかく東宮参与小泉信三・東宮大夫野村行一の間では否定的に傾いております様でありますが、秩父宮に直接お伺いして昭和両陛下に申し上ぐべきと存じまして藤沢〔秩父宮別邸〕へ上りました。
秩父宮は例の通り御自分の結論に反する事は枝葉的にお考えになりお論じになりますが、秩父宮の仰せは大筋はよく通っております。
「戴冠式御参列は難しいことでなくなんでもないことで、御役目というものがない。これは高松宮がガーター勲章の御答礼においでになったのとは全然違う。スターとして主役は何もない。ならびに大名的である」ということで、御自分様の御経験の順序を伺いました。
「前夜グロスター公の晩餐会から始まって、当日は式部官に誘導されて席にお着きになるだけ、国会での午餐・バッキンガムでの午餐も向こうの人は不慣れな方にはちゃんと気をつけてくれるから心配無用。私的にはクイーンがお呼びになる少数の宴会もあろうけれども、大してお困りになることはない。随従の者もある程度までお付き添いできる」
「軍艦は無し、飛行機も汽船も外国のものであり、右翼の者から問題にされる」ということも申しましたが、
「日本が一等国だった時のことを思っては駄目だ」との仰せでした。
秩父宮は非常な御熱意で、「話が進まなければ昭和天皇に直訴する」との御話でありました。
田島もこういう場所へ一度おいでになればその御経験は御自信をお付けになる機会でよろしいかとその点は結構と存じますが、田島・宮内庁次長宇佐美毅の積極に傾くこと三谷侍従長・小泉参与の消極に傾くこともあくまでも感じで、まだ意見と申すまでのものでもございません。
昭和天皇◆交通の問題を心配するのは右翼ばかりではない。
東宮ちゃんとしてはまたとない機会であるが、東宮ちゃんは身体が健康とは言えないし、行くとすれば香港・シンガポールの線はどうしても不可と思うゆえ、カナダかアメリカ経由ということになる。
そうするとイギリスに行く前に相当疲れてしまうと思う。
その上イギリスの儀式ということは主役でなくてもやはり疲れるから、その点どうかと思う。
秩父宮の議論は筋は通っている。
これは三笠宮をやめてもらうには非常に良いがねー。

昭和天皇◆東宮ちゃんの御名代の話ね、良子と話したのだが「それはちと早い、若すぎる」と言ったのだ。
しかし私が「私がイギリスへ行った歳と比べると1年かそこらの差だよ」と言ったら、
「そうですか。そんならむしろ賛成です。行ったほうがいい」と言うのだ。
それでまたとない機会だし筋の通ったことだから、具体的な事とか客観情勢とか国民感情とかで行けなくなることもあるかもしれんが、それらの点が全て差し支えないならまあ望むという方の考えだから。
実は私は東宮ちゃんが長く留学というようなことはあまり好かぬので、そういう意味での留学とか洋行とかいうことはやめたいと思うぐらいだ。
アメリカが留学など言う時でも、これをやっておけばそれを断るにもいいしね。

1952年3月4日
昭和天皇◆昨日ニュース映画〔上映会〕に三笠宮が来られて、
「戴冠式には誰が行くのか」という御話であったから、私は「研究中だ」と言っておいた。
田島長官◆御自分でおいでになりたいとは仰せになりませんでしたか。
昭和天皇◆それは言わないが行きたいらしい。

1952年3月5日
田島長官◆吉田首相は戴冠式の問題は明仁皇太子で非常に賛成でありまして、秩父宮から御話のあった際すぐ結構と申し上げましたようでございます。
昭和両陛下の御思召もお進みであり、秩父宮は御発起であり吉田首相も大賛成とありますれば、経費の点もまずよろしかろうと存じます。
この問題は新聞記者の注意を引き、今朝の新聞にも高松宮とか出ております。
昭和天皇◆東宮ちゃんは船に弱いが、それは寝てればいいから船がいい。
飛行機は墜落せぬと限らぬから船がいい。
フランスは共産党が多いからやめか。
それでもベルギー・オランダ・スウェーデンは王国だから行った方が良い。

1952年3月7日
田島長官◆戴冠式の件、第一に船にしましても飛行機にしましても御疲労になることと思われまするし、次に船はまず大丈夫でありまする代り、昭和天皇の時の軍艦とは違いアメリカ汽船等であれば新聞記者の同乗者が相当あります上にアメリカの乗客が相当うるさく、結局船で御静養できず御疲労になるということで、それよりは飛行機の方がよろしくて、同乗者は制限されまするし、早くお着きになって御静養の方がよろしいとの意見。
明仁皇太子となれば飛行機会社の競争激しく、そのためには何か失敗すればその会社の運命にも関しまするゆえ最良の飛行機・最良のパイロットを必ず使うものと思われ、決して危険はないとの説もありまして。
昭和天皇◆うん、それもそうだ。飛行機だねー。
田島長官◆新聞記者なども宮様は三殿下〔秩父宮・高松宮・三笠宮〕で、秩父宮は御病気として、他の二殿下ではあまり世の注目を引かぬらしく、秘かに明仁皇太子と思ってるのもあります。
昭和天皇◆どうしてそんななのかねー。
高松宮は社交は御上手だし、内地でもいろいろお出ましになるが、それがかえって困るということになるらしく、節子皇太后〔貞明皇后〕から直接伺ったが、埼玉県県会議長が直接節子皇太后〔貞明皇后〕へ「高松宮は困る」と言ってきたことがあるとの話で、節子皇太后〔貞明皇后〕は否定の御返事をなすったと聞いたが、そういうこともある。
田島長官◆実は吉田首相が初めから明仁皇太子と思いましたのも、二殿下がイヤなためもあるかと思われます。
昭和天皇◆吉田はどうしてかねー。秩父宮はいいようだが。
田島長官◆高松宮は御招待もお断りしますし、封書も拝見せんでお返しいたしますし、吉田は感情的にイヤらしゅうございます。

昭和天皇◆「糸川松平直鎮子爵は1~2年前だったか、久邇宮朝融王と一緒に来て、何か神がかりの迷信のようなことを言うから反対したことがある。
〈北辰教〉のやり方は真に困る。
そういう邪教はどうしてできるか。
信仰の自由は困るねー。
三笠宮も「天照大神はいかぬ。神様で日本は敗けた。〈高御産巣日神〉の信仰でなければ」と言われたこともある。
田島長官◆三笠宮がいろいろなことお論じになりますことに、御忠告する公開状が右翼の雑誌に出ました。
半分読みましたが、ごもっともと存じます。

1952年3月14日
田島長官◆三笠宮家経済顧問入間野武雄〔元日本専売公社総裁〕が参りまして、三笠宮家では四半期に20万円入間野にお預け年間80万円貯蓄をなさいますことを来年度より御実行とのことであります。
また入間野懇意の本屋から三笠宮に何か書いていただきたいという話がありました時、入間野は田島の名を使いまして駄目と断ったと申しておりました。
昭和天皇◆三笠宮が怒りはせぬか。
田島長官◆それは入間野が適当にいたします。

1952年3月25日
田島長官◆三笠宮がおいでになって、「東宮様は決まったか」とお尋ねがあり、
「三笠宮様も好機会があればお出かけ得られます」と申し上しところ、
「ヘルシンキオリンピックはどうか」との話がありました。
よほど洋行に御熱心と存じます。

1952年4月25日
田島長官◆三笠宮がおいでになりまして、御洋行希望のお話がありました。
「ヘルシンキオリンピック選手の名誉団長というような資格で行くということはどうか」との仰せありましたので、
「宮様の海外御は内地で遊ばしているようなわけには参りませず、国費でしかるべき御供を連れてお出かけが必要と存じます。いつか吉田首相に話しました時も、国費でなければならぬ意見のようでありました。今回イギリスの戴冠式も1億近い金が要るのではないかと思います。その上に皇族様の海外御旅行費を国費でということになれば、何かちゃんとした廉がありませぬとどうかと存じます」と申し上げておきましたところ、
今日は「国に費用を厄介かけねばどうか、オリンピックで」との御話でありましたゆえ、
「天子様の御兄弟としての格式がありますから御供は要りますし、やはり国の費用によるべき事でありますゆえ、お急ぎない方がよろしゅうございます」むね申し上げました。
昭和天皇◆三笠宮の行きたいことはよくわかるが。

1952年4月28日
〔1952年5月3日サンフランシスコ平和条約発効記念式典の御言葉〕
田島長官◆三笠宮は御言葉を綿密に6回はお読み返しになりまして、
そして御意見として「《アメリカを始め》は無くて良い。連合国の中に含まれる」との仰せ。
それから「《国本に培い》とはどういう意味か」との御質問で、
「民力を養い物質的な面に対しての精神的な基本の意味」と申し上げましたが、
「どうもわからぬ、字引を持ってこい」とて引きましたが、国の基本となることとあるのみでありました。
その他には「全体的に文章語と口語がチャンポンである。もっと文章語を取って口語文にすればよい」との仰せでありました。
ただし「《今や世局は》から《期してまつべきであります》までは満点だ」との御話もありました。
ずいぶん時間をかけてお考えでありましたが、口語体でないのと《アメリカを始め》の二つだという御話でありましたが、御退位のくだりには何の仰せもありませんでした。
お三方〔秩父宮・高松宮・三笠宮〕ともに御話を致し終りました。
昭和天皇◆《アメリカを始め》は、やはり反米的なのだろうねー。
私は取ることは反対だ。
アメリカが一番友好的であったもの。

1952年4月30日
田島長官◆三笠宮にお目にかかりまして《アメリカを始め》御異議のありますることは既に申し上げましたが、御一心にお考えになりまする御性質で昨夜遅く突然お訪ねになり、文書にしたとてお渡しがあり拝見いたしましたが、文体よりして見ますれば昭和天皇に開陳しておいでのように存じまする。
私はもとより改訂お願いする意思はありませんが、昭和天皇への御意見書を私が途中でしまい込んでしまいますこともできませぬので、ここに差し上げまする。
(と申し上しところ、
内容を見ようともなされず封筒を手になされたままで)
昭和天皇◆三笠宮は何でも一徹で、洋行のこともそうだが、英米といっても今度は違う。
またアメリカのやり方も感心せぬ事もあるが、朝鮮動乱でもアメリカが率先しなければイギリスはじめ誰も出兵しないし、もし朝鮮の南までソ連化すれば日本はどういうことになるか。
経済援助もアメリカのみがしてくれたし、条約がを結ぶとしてもイギリスだけだったらあれより寛大でないものになったろうと思う。
イギリス国風が保守的ということと王室があるということとが日本の親しみだが、国情から言ってイギリスは日本に対してはアメリカと違った立場に立つようになってるから、《英米を始め》とすることはできぬし、単に連合国とだけはアメリカに対する気持ちとしても不十分だと思う。
三笠宮は個々の事柄で筋が通れば大局から見ないで、その個々との小さいと思われる事から結論を出されるのはどうも感心できない。
文章の体のことは過渡期で程度の問題で、私もみなにわかる方がいいが、いろいろ考えてああなったので。

昭和天皇◆三笠宮のを読んだけれども、第一こういう文案を見せて意見を聞いているのではないのを誤解してるようだ。
田島長官◆その点は誤解ありませぬように三笠宮にも申し上げました。
今回こういうものをお出しになりますことになりましたが、昭和天皇としては宮様方が式で初めてお聞きになるのも御不本意で、事前にお見せになるという意味のことは誤解なきようお伝えいたしまして、秩父宮・高松宮は御了解であります。
三笠宮も御承知でありますが、御性格上思い込みになりますと申し上げられずにおられない方と存じます。

(「第二に」とて《アメリカを始め》を削り《英米を始め》とすることについて昭和天皇は強い反対の御意見で)
昭和天皇◆三笠宮はアメリカがはじめに共産党を歓迎し後に圧迫したと言っておいでだが、その他はじめにまずくて変えたことが多いと言っておられるが、行きがかりにこだわって頑張るより君子豹変でアメリカが過を見て改めるは私は偉いと思ってるくらいだ。そしてアメリカのやり方が大局において日本のためであったことは争えぬことだ。

1952年5月12日
田島長官◆三笠宮が5月1日の事件で検挙されました都立大学の寺沢恒信という助教授が、『人物がいいから釈放されたい』と元警視総監石田馨を通じて警視総監田中栄一に御話になったということであります。
こういう一種変な進歩的な事を遊ばす方は、御洋行はよほど考えものと思っております。

1952年5月13日
田島長官◆宮内職員高尾亮一から三笠宮に寺沢助教授釈放御依頼の件の御軽挙をお責め致しましたところ、相当御困却の御様子で「宮内庁長官・次長は知ってるか」とのお尋ねがありました由。
いわんや昭和天皇にまで申し上げありとは御存知ありません。
「砂が少しついてても検挙するという警視庁のやり方を非難し、寺沢もその程度と思ってやったことだ」との御弁解だったそうですが、寺崎は一隊を指揮したとかの話であります。
たとえ端役でありましても、宮様としてそういう軽い御行慎んでいただかなければ困ります。

1952年7月2日
昭和天皇◆散歩してる所へ三笠宮が突然おいでになって、〈世界仏教徒会議〉の総裁をやるのがおイヤのようで、その理由が前例になるからとか形ばかりの総裁で内容に触れぬからというようなことらしいのであるが。
田島長官◆田島はこのことにつきまして相談に与っておりますが、宮内庁と致しましてはお受けになりましても差し支えないものでありますが、ぜひお受け願いたいとも申し上げておりません。
三笠宮は「受けなければならぬ」というようなお口ぶりでありましたが、その際田島は初めて5千万円くらい募金の要があり、博善社と申します葬儀屋を事業としている坊さん〔中山理々〕が事実上の首脳者ということを伺いまして、「その2点はちょっとイヤなことと思います」と申し上げました次第で、三笠宮は「先方としては大会の時の挨拶とレセプションの時の主人役だけだ」と言っておいででありました。
「ただ仏教を一つやると宗教のことは今後断れるぬようになるから」との御話もありました。
よくわかりませぬが、受けるかどうかお迷いのようであります。
昭和天皇◆田島の今の話を聞かぬうちは、私はむしろお受けになったらいいと思ってた。
三笠宮の言われる会の内容にあまり立ち入れぬのことはつまらぬという考え方は間違ってるので、皇族が名誉総裁になるのはその方がよろしいと私は思ってるので。
ただし今田島に聞いた話では私も考えを変えねばならぬ。
田島長官◆高松宮の赤十字社の場合など総裁として相当仕事に関わりがあったような御話でありますが、これはおよろしくないかと思いますので。
昭和天皇◆皇族は責任を取ることができない。
例えその総裁を辞めても皇族は辞めるという訳にはいかぬ。
実際の仕事に当るということはやらないようにしなければならんと思う。

1952年7月4日
昭和天皇◆さっき三笠宮が来て、田島が言ってた募金のことが少しイヤだがとて、今日は別に受けるのをイヤがる口調はなかったよ。
田島長官◆三笠宮が『赤旗』にインタビューで御話になりましたことが外国へ響いているということで、ロシアに関係ある世界的な会合に日本も出席すべきだというようなことと聞いております。
先だって福島の新聞の事件は申し上げましたが、〔三笠宮が福島県の警察予備隊誘致を批判した〕三笠宮は一部的に真理と思われますると全体的にどうかと思うこともドンドン言われまする。
昭和天皇◆地位を考えない、その影響がどうあるかということを少しも考えない、困る。
それは秩父宮も高松宮も、御地位ということ影響如何ということのお考えがどうかと思う。
田島長官◆高松宮は御言葉はなかなか御利口に仰せになりますが、御行動は必ずしもそうも参りませぬようで、平和になったという御気持が多少は関係あるかもしれません。
昭和天皇◆平和になった今日ますます世間の目が光るから慎重の要がある。
田島長官◆警視総監田中栄一が三笠宮につきまして宇佐美次長に話したいことがあると申しておりました由。
これは騒擾被告釈放のことと存じまするが、場合により御忠告申し上げようと存じております。

1952年7月18日
昭和天皇◆その後三笠宮の『赤旗』のことはどうか。
田島長官◆三笠宮のあまり御慎重でないことが世間にも広まり、だんだん重きを置くことがないようになる傾向があるやにも存じます。
この度予備隊へ参りました元侍従武官吉橋戒三が申しておりましたが、士官学校時代から同じ御性格で、どうもちゃんとしておいでにならない御性格というようなことでありました。
昭和天皇◆三笠宮は御子様も4人もおありで、そんな風では困る。

1952年8月27日
田島長官◆三笠宮の仏教大会の問題は結局お断りになりましたそうでございます。
今になって小さな理由でお断りになりましたことは少しどうかと存じますし、こういう風で外国へなどおいでになりますことは皇弟としていかがなものか、ちょっと考えさせられまする。

1952年9月8日
田島長官◆小泉参与が「明仁皇太子はdutifulである」と申しまして、先般の長野県御旅行の際も大変よく遊ばしたということで結構なことと存じております。
昭和天皇◆評判がいいのはいいことだ。
それにしても宮様方は。
田島長官◆三笠宮が皇居前広場をメーデーに禁じ警視庁の練習に許すのかどうかということを厚生大臣吉武恵市に御話になり、それが警視庁に伝わり警視庁では皇居内の一部を貸してくれとて申して参りました。
甚だ面白くないのでございます。
御意見を宮内庁の者にでもちょっとお漏らしになればと存じますが、直接政府の役人に仰せばまずい場合を生じると存じます。
昭和天皇◆常に政治向きの発言なきよう言ってあるのだが。

1952年9月10日
田島長官◆外務省から連絡がありまして、いよいよエリザベス2世戴冠式に昭和天皇の御名代がおいでいただけるか、またそれはどなたかを御通知願うというような申し入れが、駐日イギリス大使デニングから外務大臣宛にありました由。
(とて、右文章を翻訳して申し上ぐ。
ミッションは3人以内とか一行も最小限度とか注意事項に)
昭和天皇◆3人の制限が一行のことでなければそれでよろしい。
(交通に関しては往路カナダ経由・帰路アメリカの御希望あり)
昭和天皇◆フランスは共産党強きが如何。

1952年9月13日
田島長官◆イギリス戴冠式の招待が参りましたために吉田首相と打ち合せましたところ、これを閣議に付して決めるとのことでありましたが、閣議は機密が保たれませぬからと交渉を重ねまして、閣議で原則として御名代は御差遣に相なるということだけ決めましたが、外務大臣岡崎勝男と話しましたところ、外務省としては今月一杯いっぱいくらいに原則的なことを返事をいたし、どなたがお出かけになりますかということは今年一杯くらいと申しておりました。
イギリス女王にどなたということがわかるまでは秘密にというイギリス側の希望も、他国の招請に応ずる具体的返事など公表されますると新聞社の問い合せもありましょうがと心配しますが、岡崎外相はノーコメントと申しておりました。
予算の裏付けのないのは困りまするが、これは総選挙後の国会の補正予算以外に手はなく、予算を作りますためには日程供奉員御巡遊国等目安を宮内庁で秘密に立てませんと大蔵省へ要求もできませぬゆえ、極秘でこれにかかっております。
昭和天皇の御意思は御決定と拝しまするが、明仁皇太子は既に御了承でございましょうか。
昭和天皇◆招待状なき以上まだ話していない。
私が言うか、良子にでも言ってもらうか、田島の方からか。
田島長官◆昭和両陛下から御内話願えばよろしいかと存じます。

田島長官◆明仁皇太子御名代のことは極秘のことでありますが、秩父宮の御発言によって参りましたことゆえ、招請のあったことぐらい昭和天皇から秩父宮と御話になりますることは如何と存じました次第であります。
(昭和天皇、別に何とも仰せなし)

1952年12月9日
田島長官◆三笠宮が『青年よ、銃をとるなかれ』という一文をお書きになりまして雑誌にお載せになりましためか、ウィーンで開かれる共産系の会合の案内が来まして、その返事を書くよう式部にお話があり、官長が御返事なき方が良いむね申し上げ、どうしてもお出しになるとしてもお断りというだけで良いと思うとのことで、日本文で変な御返事でもお出しになれば良くないと存じます。
御地位をお考え願いませんと。
昭和天皇◆困るね、それは。高松宮もだ。
田島長官◆高松宮は改進党の代議士に招かれて栃木県においでになりましたのが、だいぶ問題のようであります。
昭和天皇◆改進党なれば。
田島長官◆保守党ではありますが、その代議士の人物がどうも感心しませぬので、政治的に御利用になられたことで反対党の代議士連がブーブー申しておりまして。

1952年12月18日
田島長官◆明仁皇太子御誕辰拝賀のことでありますが、新嘗祭の時明仁皇太子が殿上で御拝になります時、宮様〔高松宮か三笠宮〕から「前例はあるのか」とのお尋ねがありまして、「あります」と申し上げましたが、その御質問の裏には宮様方はモーニングで拝礼かと思っておいでであったかと想像されますから、「本来は宮様方も御装束をおつけ願うのであります」と申し上げましたが、「それは嫌だ」との仰せもありました。
それから御神楽の時明仁皇太子御拝の時に臣下は起立いたしますが、もちろん宮様方はおかけのままであります。
これは親王として御同等とのお考えもあるかと存じまするゆえ、御誕辰拝賀となりますると宮様方の御誕辰にも明仁皇太子が賀にお出かけになるべきかという問題もあり、真に難しくデリケートでありますため、御思召を拝したいと存じまして。
昭和天皇◆それはなかなかデリケートだが、皇太子の身位は未来の天皇で、私には叔父甥でも公には一段高いのだから行かぬでもよいと思う。

田島長官◆雑誌『改造』に細川護貞の話が出ておりまして、〔『真相天皇に達せず』〕今回は天皇に真相伝わらずという書き方でありますが、近衛文麿びいきで木戸幸一ぎらいのようであります。
昭和天皇◆ちょっと私にも当たっているような所もある。
三笠宮が終戦の時はそんな言い方であった。
大統領の方がいいくらいだ。
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三笠宮崇仁親王から宮内庁長官田島道治への手紙

1953年7月20日
田島長官様
渡欧の件につきいろいろ御配慮を感謝いたします。
1954年度に海外へ旅行することは過早のように考えられます。
私個人としては3~4年後の留学を目標として諸準備を整えたいと思っております。
それ以前でも特に好機があれば、かならずしも不可能ではありません。
主滞在地はヨーロッパとし、帰途比較的余裕のある日程でアメリカ大陸を視察したいと思います。
滞在の基幹は予算の許す限り長いことを希望いたします。
家族の件は状況に応じて定めたいと思います。
ただしこの1~2年の中であれば、私一人ということになりましょう。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1953年8月18日
三笠宮訪問。
三笠宮妃必ずしもお子様置いて行くのはイヤでない御様子。

1953年12月2日
三笠宮、南米行きむしろ御希望のこと。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は132万

1953年1月21日
田島長官◆今朝の朝日新聞の記事に三笠宮が式部の部屋へ『New York Times』を御持参になり、昭和天皇が御葬儀に列せられなかったこと・御生前に御見舞においでにならなかったことを書いてあるのだという記事がありましたが、これは〔批判〕覚悟でお願いしたことでありますが、独善でおせっかいなど困ります。
昭和天皇◆日本人の普通の常識のある人は黙ってる癖があるし、投書でもする人とか何か言う人はやや癖のある人で、行われていることに同意の人は多くても黙しているし、ちょっと独善的・批判好きな人の議論がいかにも多数説のごとく見える点がある。
節子皇太后〔貞明皇后〕の御葬儀の時でも賛成の人は黙してて、反対の人が言ってきたねー。
それは葬儀のことだけではない。
反米思想の問題でもそうだし、古い事を言えば戦争勃発前の日米間の関係もそうだ。
この問題になるとアメリカもうちょっと上手くやれば良いのに、あの時も通商断絶とかなんとか強く出る。
海軍軍縮会議でも5:5:3が無理ならもう少し日本に認めて秘密の紳士協定で適当にあるとかすればいいが、アメリカの国柄なかなかできない。
今日の場合も同じで、アメリカ側が奄美大島返還とか巣鴨戦犯釈放とか占領政策中の行き過ぎを認めて改定に協力するとかいう事実に表れる手を打てば良いのだが、アメリカはそれをしない。
しなければ占領中の失敗はどうしたって無くはないから、反米思想は日本人の例の批判・独善的な人の議論で溢れる。
真に困ったことだ。

1953年2月25日
田島長官◆三笠宮のことは心配でありまして、クラーク大将らアメリカ軍を鴨猟に御召の節、皇族としておいでお願いましたところ拒否するなど、反米的な御気持が相当露骨のようでありまする。
昭和天皇◆そのことは初めて聞いた。
田島長官◆総裁の仕事を願うこともいろいろ難しい点があり、やはり御洋行が一番よろしいかと存じます。
イギリス戴冠式への御希望を申出ありましたが、秩父宮の御発議で明仁皇太子となりましたゆえ、三笠宮としては御失望かと存じます。
それゆえ政府に頼み何かの名義で御洋行の機を作ることは、三笠宮のためにも皇室にも日本国にもよろしいかと存じます。
昭和天皇◆高松宮妃もそんなことを言っておられて、洋行は第一の方法と思うが随員が大切だ。
田島長官◆式部官長松平康昌は外交官僚日高信六郎が良いとのことであります。三谷侍従長も日高は良いと申し、三谷は明仁皇太子随員首席にも一度日高と申したことがあります。
昭和天皇◆日高は立派ないい人物だと思う。
ただし三笠宮に対して影響を及ぼす力があるかどうか、その点が駄目なら人物が良くても駄目だ。
三笠宮がその意見に動かされるようなあまり年齢の違わぬいい人はないものか。
田島長官◆秩父宮・高松宮は皇孫でお生まれになり、三笠宮は皇子としてお生まれで、節子皇太后〔貞明皇后〕が末っ子は可愛いと言うのでお可愛がりになったというようなことも多少ございましょうか。
昭和天皇◆私などは〈おもう様〉〈おたた様〉と御一緒のことはあまりないが、日光や葉山の付属邸というものは三笠宮のためにできたという一例を見ても、田島の言ったようなことはあった。
三笠宮はワンパクで、籐椅子をお振り上げになったのを女官がお止めしたのを、子供は活発でなければと節子皇太后〔貞明皇后〕がお止めになったというような例もある。
陸軍少将田内三吉というのが養育掛としてずっとお付きしてた。
秩父宮や高松宮は恥ずかしいのかちっとも三笠宮と遊ばない。
私は遊んでやったことがある。

1953年2月27日
田島長官◆元宮内大臣松平慶民の長男松平永芳という人はいい人でありますが少し調子の違った人で、元学習院院長山梨勝之進を訪ね三笠宮の御同級で、三笠宮の御近状について非常に心配だといろいろ申し出ましたようであります。
要するに他の宮様のように出る人も少なくをお寂しいかおひがみのようで、そこへ赤い系統の者が詰めかけるのかと思われるというような意味であったようでございます。
御洋行はどうしても必要でありますが、明仁皇太子の御帰朝まではもちろん少し時が経ちませんと、引き続き政府にも頼めませぬ。
準備行動はいたしまするが実行は先になりますゆえ、もし松平永芳の言うような点もありますれば、もう少し世間の交渉もありますように工夫いたしますることも良いかと存じますが。
昭和天皇◆そんなことをして、また変な人間との交渉ができるのではないか。
田島長官◆秩父宮の後のスポーツ関係の総裁にでもおなりになりまするということは、如何なものかと考えられます。

1953年3月3日
田島長官◆赤十字社の名誉副総裁をお願い致しましたところ、高松宮夫妻はお引き受けになりまして「義務はないか」くらいの御話でありましたが、三笠宮は「引き受けるが、国連軍関係のことには出ない」という条件付との話がありましたそうです。
昭和天皇◆赤十字が国連軍と無関係ということはない。
田島長官◆国連軍関係の人とは御同席がおイヤというだけのことと存じます。
鴨猟にクラーク大将御召の時の御出席御拒否と同じ御心持であります。
ああいうことを無造作に仰せになり世間に出ますれば、御地位が御地位で困ると存じます。

1953年3月17日
昭和天皇◆昨夜三笠宮が活動〔活動写真の上映会〕で見えた時の話に、
「聖心女子学院や立教大学の卒業式に行ったが非常に良い」という御話であったから、
「宗教的なためか」と聞いたら、
「そうではない」ということで、
「それならば欧米的か」と言ったら黙っておいでであって、黙認されたと思うが、それは結局伝統を認められたことと思う。
日本でも昔は伝統的に私の写真に敬礼して君が代を歌うということが伝統的になってたが、戦後自由主義の履き違えで伝統を重んじなくなったが、これはどうかと思う。
三笠宮の洋行もいいが、それまでの間に伝統の精神を重んじていただくために、俳句は季を重んじるゆえ伝統を重んじると思うから、三笠宮は俳句がお好きであるから、その俳句界で俳人富安風生などと御話になれば自然伝統ということがおわかりになるのではないかと思う。
田島長官◆お好きな道から致すことも一方法でございますから。

1953年3月26日
田島長官◆高松宮妃が三笠宮御洋行に関して御話になりましたと見えまして、
三笠宮は「高松宮妃は私の子供のことなど少しも考えておられぬ」との御話がありましたとかで、
「自分は外国旅行より留学したい」との仰せでありましたそうです。
昭和天皇◆それは高松宮妃から聞いた。
高松宮妃を通して三笠宮の考えというのも聞いた。
我々はお父様お母様とは言わないで〈おもう様〉〈おたた様〉と言うのだが、三笠宮はこれを改めて普通のお父様お母様として御実行になっているそうだが、それはそれでいいとしてその裏付けになっているものに何かあれば面白くないと思う。
高松宮妃のお話に「子供を連れて行かなければ三笠宮百合子妃が神経衰弱になってしまう」とのことだが、私は神経衰弱になるのは三笠宮ではないかと思う。
なぜならお父様お母様のような皇族として従来なかったことを始められているのが、御留守中に壊されるのを御心配になるからだ。
皇族たる権利と庶民たる権利を二重に享有せんとする思想である。
権利ある者はそのための義務があるはずだ。
二重の権利はいかぬ。

1953年3月31日
昭和天皇◆田島は東宮御所を子供さんと一緒と言っておったが、果たしてその同居説は行われるか。
東宮ちゃんの時 西園寺公望なども強硬に言ってああなったことで、ヴァイニング夫人から聞かれた時には家が狭いからと言ったほどで、私の本心はもちろん同居を希望するのだが、元侍従次長鈴木一でも元侍従次長木下道雄でも元帝室林野局長官岡本愛祐でも強い西園寺主義の信奉者で、ヴァイニング夫人の時でも今さら従来の主義を変更遊ばしては困りますと言うのだから、容易にできるとは思えない。
三笠宮のお子さんが果たしてどういう風におなりかは、注目すべきことだと思う。
私たちのように別居で養育教育されたものに比して、旧皇族では御同居でお育てになった方々の方に問題が多いということも考えてみなければならぬ。
これはやはりお甘やかしになるためではないかと思う。

1953年4月4日
昭和天皇◆新聞で見たが、三笠宮はどうしてああいう話をされるのだろう。
リクレーションの歌の監督というのかそういう所まで出かけて、著作権の問題があるのかしら。
民主政治云々はまだいいとして、東宮ちゃんのことを引き合いに出して、国民が東宮ちゃんのことに熱するのに反対してるようで、三笠宮の気持ちを邪推する者もあろう。
聞く人にどう作用するかを考えて、もう少し自重してもらわないと。
田島長官◆少し口軽い発言と存じます。
明仁皇太子に対する三笠宮の御不平みたようにも取られますゆえどうかと存じます。

1953年4月10日
昭和天皇◆同居問題だがねー。
あれはみな一致して反対で、侍従長鈴木貫太郎も元侍従次長広幡忠隆も女官がいるから駄目だと言うので。
田島長官◆西園寺公望も反対と承りましたが、直接昭和天皇に申し上げましたでしょうか。
昭和天皇◆いや、宮内大臣湯浅倉平や広幡を経ての話で間接だ。
間接だが西園寺もその説で決まった。
女官はそんなことはない、御同居で結構だという考えのようだった。
私はむろん賛成で、成年に達するくらいまでは同居で教育する、結婚すればもちろん別居するという考えであったが、みな反対でそうなった。
日本では奉仕の観念とか教育の関連とがどうしても矛盾する面があるため駄目ということだった。
(これは初めて伺う言葉だが、心中簡明で要を得た反対論の真髄と思った。
どうも昭和天皇は同居希望は仰せになりつつも、一面別居の方教育上よろしくにあらずやとの強い疑問を心中に潜在的に御抱持になるものか、この際表れ来るものかと拝察せら)
昭和天皇◆もし手元で教育ということになると、学校へ対しての父兄は皇太子妃または皇太子が直接学校に当るのか。
将来は天皇・皇后が当たるのか。
田島長官◆それは同居別居とは関係ありませぬので、関係の者が学校へ出ますれば結構と存じます。
昭和天皇◆直接手元で養育すれば父母として子供のことを最もよく知ってるゆえ、学校に対して行くということが起きてくるのではないか。
田島長官◆そういうことはないと存じますが。
昭和天皇◆家庭教師は置くのだろうなー。
三笠宮がいいモデルだ。
御自分の御意見でああやって教育をしておられるが、三笠宮妃の健康が悪い。
あれは皇族の立場としての仕事の他に、普通の家の母としての仕事を多くやりすぎられるためではないかしら。
三笠宮は私達より長くを節子皇太后〔貞明皇后〕のそばにおられたゆえ、高松宮なんかよりワガママなところがあるように思う。
私は節子皇太后〔貞明皇后〕とは時々意見が違い、親孝行せぬというようはことにもあるかと思うが、同居が長ければもっと意見が一致するのかもしれぬが、時代の空気にもよるし、内閣官房長官緒方竹虎のような人でも天皇に父母ナシ的な考えといつか聞いていたようなわけで、元来私も希望したことゆえ、子供も同居すれば増築可能という建築方針はいいと思うが、物には一利一害でこの問題も難しい。

1953年4月30日
昭和天皇◆三笠宮が来月学者の仲間のように学会へ旅行されるとのことだが、もう少し他の公共のために旅行せられて、高松宮がスポーツ関係とかなんとかで旅行せられるような風はなく、ただ学会のために出られるというのは、私が生物学が好きでその学会のようなものへ出て、そのために公共のものに出なければ大変なことだ。
皇族も皇族の義務を重んじて、もう少し考えてやってもらわなくては本当に困る。

1953年5月18日
田島長官◆吉田首相が逆コースと言われますのは、昨日なども交通規制に違反で平気で飛ばしまするし、つまらぬことには気を用いませぬから。
昭和天皇◆だからワンマンだと言われるのだよ。
田島長官◆ワンマンも結構ですが、つまらぬことでワンマンはつまらぬと思います。
宮内庁の責任者としましては、内廷費および皇族費の増額の問題・三笠宮の御洋行の問題・常陸宮御成年の問題等、政府と篤と協議すべき問題を持っておりますので、皇族費の問題は現に秩父宮妃で迫られておりまするし、三笠宮はどうもいろいろな面から考えましてできるだけ早く御洋行を願った方がよろしいと存じます。
御兄弟中お一人だけ御洋行のないこと、今回は明仁皇太子がお出かけになりましたことなどで、お心持ちの上からもおよろしくない点がありましょうし、また思想その他御行動の上にも多少改めていただきたいためにも、この際どうしても御洋行が一番よろしいとの結論は動きませんので、昨年メーデーの容疑者の貰い下げを遊ばすなどは御軽挙と存じまするし、今年のメーデーに宮内職員高尾亮一がちょっと伺いましても、「外出はするが行き先は言えぬ」とのことであったとかで。
昭和天皇◆三笠宮は万一の時には皇位継承の権件がある方だという御自覚が足らんと思う。
洋行は良いと思う。
田島長官◆ただそれにはお付きの人が良い人が見出されねば案が良くても実行できませんので、明仁皇太子の随員首席も苦労いたしましたが、三笠宮の随員も非常に人選が難しいと存じます。
昭和天皇◆東宮ちゃんの場合は何も輔導は要らんが、三笠宮の場合はそうでないから人選は難しい。
(少し明仁皇太子偏愛と言うか公平なる御意見とは拝承せざるも要点は三笠宮につき)
田島長官◆明仁皇太子は御教導するだけでありますが、三笠宮には御言動についてお止めしたりお諫めしたりする必要がありますので非常に難しいと存じて、今申した人と今一人従僕でもありませんがそういう風の人と二人は入用かと存じます。
三谷侍従長と松平式部官長とに相談致しまして、両者のとの意見まず一致したのは元上海総領事日高信六郎でございます。
田島は一度も会ったことのない人でわかりませんでしたので、先日小泉参与の送別会の節一緒に食事をいたしましたが誠によろしい人のように存じました。
昭和天皇も御通訳もいたしましたことゆえ御承知かと存じますが、いかがでございましょうか。
昭和天皇◆いい人だよ。
通訳もしたが、大使の時に私もよく話を聞いたが、いいと思う。
田島長官◆小泉参与もいい人だと思うとの話でありましたが、果たして三笠宮に強く御意見を申し上げるというような強さがありまするか如何と存じております。
昭和天皇◆いや、それは南支の大使をしてて、あの軍の力の強いところであれだけやってたから相当やれると思う。
あるいは東宮大夫に適任かもしれぬね。

1953年6月22日
田島長官◆田島が宮内庁長官を拝命いたしましたのは芦田内閣からでありましたが、突然の話で驚き断りましたが、「5月3日の憲法記念日までに決まらねば、GHQの方から先方へ猟官運動をしている者を押しつけてくるかもしれぬ」と芦田首相が申しましたのが気になりまして、GHQに猟官するような奴よりは田島の方がまだマシだと存じ、ついに拝命するに至りました次第で、芦田首相に侍従長は田島の推選する者に同意してほしいという条件を出しました。
侍従長三谷隆信はおとなしい人で誰にでも評判はよろしいが、何一つしないので学習院ではやや持て余しておりましたが、人物は誠実で頭が良くて大人しくて、侍従長はむしろ消極的な方がよろしいぐらいで、かつて御通訳をいたしたこともありますので三谷に承諾してもらいましたが、侍従長としては誠に適当と存じます。
申さば田島は追放の多い最中に代用食のようなことで拝命いたしました次第で、その時分はまだ東京裁判以前でありまして、今日とはずいぶん違っておりまして、昭和天皇御退位の問題もやかましく、昭和天皇から「元内大臣牧野伸顕にはよく打ち明けて大切なことは相談する方がよろしい」とのお示しもありましたので、大事と思いますることは考え抜きました結果を牧野のところへ参り相談いたしました。
爾来表の方のいろいろな問題にも当たりましたが、この問題は昨年5月3日の昭和天皇の御言葉によりまして終止符を打ちました。
奥のことも5年間いろいろな人からいろいろなことを耳にいたしましたし、表のことに関する奥のこともありますので、自然奥のことにも頭を使うは当然でありました。
例えば三笠宮の思想・行動の上にどうかと思われる節があり、三笠宮にも少し御態度を変えていただきたいなどということを申して参りましたけれども、一面田島は宮内庁のことに全責任ある身として考えてみますれば、三笠宮がどうしてそういう風におなりになるのか、おなりになるには宮内庁長官として職務の不十分なところがないのかと反省してみますると、やはりないとは申されませぬ。
しばしば御洋行の御希望を承りました時、「在外邦人の金などでは駄目でございます。お兄様はみなさま御洋行ゆえ、堂々皇族としておいでになれますような機会を考えます」と申して参っておりましたところ、今回のイギリス女王戴冠式には明仁皇太子がおいでになりますことになり、三笠宮としては御不満にお思いにもなりませんが、自分はいつ行けるかとお思いになりますことは当然であり、また昭和天皇は終戦と同時にひどくお変りになりましたが、宮家の変化に比べますれば日常の御生活ことに経済の面では格段お違いにならぬとも申されまするに反し、特に三笠宮はお子様も大勢さんおありで、今後いかになり行くかと先をお考えになれば、進歩的な思想についてのお考えになりますのも多少は理由のあることと反省して考える必要があり、さすれば宮内庁長官として三笠宮の思想・行動をただ困るというだけでなく、その原因になることに対策を立てぬが職責上悪いということになりまするので、具体案としてとにかく一度御洋行願うことがよろしい、またできる限り経済上お楽になりますよう取り計らいますことが必要と存じまして、昨年来政府側に対しても予算等を頼んでおります次第であります。
田島は一長官でありまするが、昭和天皇と遊ばされましては、皇族の一員である三笠宮に対して望ましいかぬ思想・行動おありの時には、それはどういうわけか、どうしてかとお考え頂き、単に困るというだけではなく、なんとかお考えいただくことが必要ではないかと存じまする。
高松宮にしてもいろいろのことがあり、最近霜害が最もひどかった川越地方へ視察においでの節、宿屋以外の料理屋にお泊まりになるというので地方新聞にちょっと出まして、埼玉県知事が心配して宮内庁次長のところまで参りましたようなことがあります。
軍人でおいでの方が毎日お勤めになる軍職がなくなり、ありがたかっておいでを願うとなれば、時間がおありゆえお出かけになります。
いくら共産党の世の中になりましても、皇位継承権をお持ちの三笠宮が如何とも遊ばされることはできぬは明白で、皇室の首長たる昭和天皇に大きな御立場から大らかになっていただくことが必要かと存じます。
昭和天皇◆その点は分かったが、高松宮妃もヴァイニング夫人の時に良子に先んじて英語を習い、またじきに辞めてしまうとか、秩父宮が私にゴルフを勧め、それではとやりだすと御自分は飽きてやめておしまいになる。
秩父宮妃も高松宮妃と一緒に宮中服をお作りになるに熱心でいて、評判が悪くなると一緒になって悪口を言い、そして御自分は和服を着るというように、飽きやすくて人より先じたがったりなさるから、どうもそういう点が…。
田島長官◆田島の立場としては申し上げるのもつらいことでありまするが、そういうことはすべて宮様の方がお悪いとは存じます。
宮様方の方がお悪いと断言せざるを得ぬとしましても、昭和天皇が宮様方と同列に立って向こう様がこうだからこうだと仰せになりますことは、昭和天皇の御立場としてはいかがかと存じます。
田島は仏教の家ですが、キリスト教の方では羊飼いは普通についてくる羊の群れよりも迷える羊の方を余計に心配するということであります。
この羊飼いのようなお気持ちで、弟様方をも親心で子のように思いになればと存ずるのでございます。
(昭和天皇「うんうん」と強く御応えになり、「具体的にどういう方法にしたらばよいか」との仰せあり)
田島長官◆毎週のニュースはおやめになり、月2回ぐらい御懇談の御食事でも共にせらましたらばと存じますが、よく侍従次長稲田周一と練りまして申し上げます。

1953年6月24日
昭和天皇◆宮内庁長官の話もあったので、昨夜は御馳走をしたのだが、スッポンもあったので。
田島長官◆スッポンのスープでありますか。
昭和天皇◆いや、スッポンの料理だよ。
高松宮は非常にお喜びだったが、高松宮と御懇親するのは食事以外よりないよ。
御料理の話の中で三笠宮もいろいろな物をお食べになってるようで、牛の頭の料理はおいしいとかなんとか言ってられたが、私は三笠宮は矛盾もはなはだしいと思うのだがねー。
平素いろいろ進歩的な意見を言われるが、ああいう贅沢な料理の御話もなさる。
それにちょっと心配なのは、御口が軽いから昨夜のような御馳走の話を外でされやせぬか。
皇室は御質素などと言っているが、この間は御馳走が出たなどと言われると誠に困ったものだが。
三笠宮は困るよ。
この前 長官に『7千万円もかけて仮宮殿を作るは贅沢だ』など言ってきたなら、牛の頭とか贅沢な料理などは知らぬはずだ。
矛盾だよ、三笠宮は。
田島長官◆三笠宮は7千万円の時も相当仰せありましたが、御説明しますればまあおわかりになりますし、昨年の5月3日の御言葉中の《米国をはじめ》を削れとのことでもなかなかやかましく、《英米をはじめ》の訂正にまでお折れになりましたが、反米的でかなりきつく申され、田島へ御手紙、また官邸へもおいでになりなどいたしましたが、昭和天皇がお決めと申しました後は何とも仰せありませんでしたから、お若いためにちょっと進歩的な思いつきのおありの時は仰せになりますが、おわかりになればそれでだいたい静かにおなりのようでありますが、どうも矛盾よりも進歩的なものに余計お気が向くらしく、先だってもアメリカ国務省に太平洋問題調査会の人間が巣食うことの調査拒否を調査報告をお話ししてもらいました時も、普通はずいぶん恐るべきことだと感ずべきなのに、そういうことはまあありがちのようなお考えで、根底に何かちょっとどうも。
昭和天皇◆どうも高松宮も三笠宮とは昨夜もあまりお話なさらぬ。
秩父宮がお亡くなりになって、高松宮は秩父宮妃にいろいろ尽くしておいでになるようだが、どうも三笠宮とは合わぬようだ。
田島長官◆秩父宮は同じ陸軍でもあり、三笠宮も御殿場までお出かけになり、むしろ高松宮への御話は秩父宮を通されたというようなことも聞いておりますが、どうも三笠宮のことは何とか致さなければなりませんが、秩父宮なき今日どうしてもお二方だけゆえ、だんだんにお歳も召してやっていただく他ないと存じております。
田島と致しましてはとにかく経済面その他でできるだけ三笠宮のお気持ちのいいことをすることは必要だと思っております。
昭和天皇◆まあ私としては長官の言った注意で努めてやるから、具体的なやり方は長官の方でよく考えてくれ。
(申さば諫言的な申し上げのこと御容認の御言葉と拝し恐懼す。また感激す)

1953年6月29日
昭和天皇◆皇族さんの名代のことだが、さっき田島が高松宮に聞いても侍従御差遣で結構と仰せになるが、だいたいおイヤなのだ。
窮屈で今までどなたもおイヤであるのだ。
田島の言った主意で皇族さんにも一体となって懇意的にするのであるが、食事をしたりニュースだけではつまらぬとなれば、楽しみということのみになり、それが漏れて皇室が楽しみのようなことばかりやっているように間違われるのも困る。
災害の見舞いの御名代となれば公然でよくわかって、皇族もいろいろしておいでということもわかると思うが。

1953年6月30日
昭和天皇◆三笠宮の洋行のことねー、あれは留学ということに決まっているのか、ただの視察旅行ではおイヤなのか。
私は御年齢から言っても留学というのはどうかと思うし、参議院なんとかいう婦人議員〔高良トミ〕のようにソ連に入るというようなこともあるまいが、視察旅行ではじめから旅程が決まっている方がよろしいし、留学されても三笠宮妃とでやはり視察旅行はなさりたいであろうから、国の経費も少なく済むと思うから一挙両得と思う。
私は三笠宮は矛盾してると思うよ。
災害地など御名代に行かれたとき代議士の選挙運動に利用されるのはイヤだと言われたというのに、アカのようなものには利用されるようなことをなさるというのはどうもわからぬ。
田島長官◆三笠宮としては別にアカの方に同情してるという立場でないおつもりかもしれませぬので、例えば職員の30円弁当かなにかお取りの時に、
宮内職員高尾亮一が「皇族さんとしてそれはおかしゅうございます。大膳へ頼みどうとも致します」と申し上げまして、
「いいよ」との御話でありましたそうで、三笠宮はすべて簡便が良いというお気持ちの御行動で、この点 高松宮はこういう軽いことは少しもありませぬ。
昭和天皇◆高松宮はそういう点はいい。
田島長官◆実は災害地に侍従御差遣のことを高松宮に申し上げましたゆえ、三笠宮にも申し上げねば悪いと存じまして昨日申し上げましたが、その時 下の侍従の部屋で侍従連と御一緒で一つの机で原稿書きをしておいででありました。
戯談的に「いつ侍従を拝命になりましたか」と申し上げたようなわけでございます。
昭和天皇◆それは陸軍の風で、兵隊と同じことをするという流儀なのだ。

1953年7月1日
田島長官◆皇室経済法および同施行法改正法律案が両院を通過いたしまして、今日官報号外で公布されました。
昭和天皇◆昨日署名したよ。
田島長官◆昭和天皇も内廷費を3,800万円に増加する時 せんでもよろしいとの仰せで、右の次第で今後はちょっと増額は差し控える方が賢明ではないかと考えております。
したがって三笠宮の御洋行も内閣では昭和29年度の費用に計上しますことは結構と申しましても、考える必要があるのではないかと思っております。
政府は明仁皇太子の御洋行1億1千万円も秩父宮御喪儀費もみな予備費支出でありましたが、予算に入るとなれば議会で議論の対象となりますゆえ、よほど慎重に致さねばと存じております。
昭和天皇◆私は三笠宮はイギリスよりアメリカの方がいいと思う。
イギリスはああいう空気もあるし。
田島長官◆アトリー前首相の方でも保健大臣ベヴァンのような左がかりの人もおりますゆえ、イギリスでない方がよろしいかもしれませぬ。
昭和天皇◆三笠宮は東宮ちゃんと違い、洋行に大きな意味はないから。
田島長官◆それはやはり見聞を広められ、また国外から日本を御覧になるということはございましょうが。

1953年7月14日
田島長官◆吉田首相にちょっと三笠宮の御洋行のことを話しましたが、どうもすぐよろしいとは申しません。
三笠宮のお考えも御留学で単身か、三笠宮妃御同行の御旅行か、時に変わりますので、一度軽井沢へ伺い御真意を承りました上で、改めて首相に頼むより他ないかと存じております。

1953年7月20日
田島長官◆三笠宮御洋行の件は、お目にかかり申し上げましたところ、三笠宮妃御同行の御都合、御子様方等のことで御熟考になりますということで、近く御返事を承ることに相なっております。
(この日カラーの上にネクタイを遊ばし、今朝髭剃りもお怠りかと思うほどで、御言葉は快活に大声なれども、御気分はさほどおよろしくなきにこれなきやと思わる)

1953年7月25日
田島長官◆三笠宮御洋行のことについて、御手紙で当分その御希望ないむねお申し越しになりました。
(と御前にて手紙を全部読み上げしところ)
昭和天皇◆陸軍式だねー。
田島長官◆御本人に御希望ないことはやむをえませんが、お考え方などにも一度御外遊あそばしたらと存じまする点もありましたことゆえ、御洋行で一応解決すると存じましたが、それが駄目となりますれば、三笠宮の御思想・御行動に対する何らかのことを考えなければなりませぬと存じまするところ、最近また困ったことを警察方面から申して参りました。
三笠宮ががユダヤ教と関係が濃く、若干金をおもらいになっているとかいうことと、アカがかった者との接触が多いとのことでありまして、そのため右翼的な東亜連盟の元陸軍中佐内山一弥という者が三笠宮に対して何かしら考えているとのことであります。
新聞雑誌上で攻撃するのか、あるいは暴行とか危害ということですかわかりませぬが、そういう噂があります。
実際三笠宮は昨年メーデー事件の関係者の貰い下げをお試みになりましたし、今年のメーデーの節には「外出はするが、どこへ行くかは言えぬ」との御返事でありましたが、とにかく東京都立大学教授阿部行蔵とかいう中共引き揚げなぞに関係のある相当アカがかった者がよく出入りしてることは確かのようであります。
中共引き揚げについても、日赤などがずいぶんこの阿部らに悩まされたとのことであります。
昭和天皇◆私は監視すると言っては悪いが、昔の別当式にちゃんとした人をつけてよく監督することが必要だと思う。
田島長官◆多少左へ傾いておいでとしますれば、右がかった人を入れて中正という風にも考えられまするが、それもやはり駄目で、三笠宮のお考えに同感しながらお導きすることは難しいと存じます。
昭和天皇◆一昨日そのことで良子が鵠沼へ行き、また今日も秩父宮妃が見えていろいろ話して、三笠宮妃は三笠宮のことをどうお考えになっているか、三笠宮妃はなかなか考えがおありの方だから、三笠宮が田島長官などに御話になることが果たして真実なのかどうかを、なんらかの方法で秩父宮妃から尋ねてもらうことを話していたのだが、御本人が今の手紙のように今はイヤで先の話ということになれば、秩父宮妃に話したこともオジャンだから、長官から秩父宮妃に三笠宮の御手紙のことと、その警察の情報も話してくれ。
(との御話ゆえ、秩父宮妃とお直に御電話連絡す。
女官長保科武子からも「あのことはヤメ」との電話があったとの御話。
三笠宮のことはよほど御軫念と見え、いろいろ御話あり。
三笠宮に拝謁の時の三笠宮妃および御子様関係の御話、高木家〔三笠宮百合子妃の実家〕の方の事情、両宮家につき御話のことも申し上ぐ)

1953年8月1日
田島長官◆三笠宮のことでありますが、警視庁で御心配申し上げてることを 御本人様に申し上げぬわけには参りませぬので申し上げましたところ、特に御関心の様子もなかったように承りました。
間接に伝言でありまするゆえ、何と仰せになったかはわかりませぬ。
御洋行には外国語は御必要ゆえ、外国語の御勉強をお勧めして、しかるべき思想の良い外人と言語の御勉強としてお付き合いになればよろしいのではないかと考えております。
昭和天皇◆田島への返事に「またいい機会があれば1~2年の内でも行きたい』とあるが、いい機会とはどんなことか。
田島長官◆高松宮も三笠宮のことを非常に御心配で、先日も上がりました節「例えば明年のブラジルの400年祭に高松宮のおいでをお願いしてるとのようなことはどうか」と仰せになっておりましたが。
昭和天皇◆それならば高松宮が三笠宮にそういう風に言えばいいね。
田島長官◆高松宮が先方へ三笠宮をと御話をお付けになりましても、三笠宮がイヤと仰せになりますれば何ともなりませぬ。
昭和天皇◆それもそうだ。
田島長官◆これは田島の拝察でありますが、三笠宮はちょっとした御洋行をお一人で遊ばしたといたしますれば、政府が三笠宮妃と御一緒に諸国御漫遊というようなことに二度とは金を出してくれまい、小さいので済ませられてしまってはつまらぬとのお考えがおありかと思います。
昭和天皇◆私はこのまえ秩父宮妃とも御話したのだが、本当に三笠宮妃が御同行できぬのか、お子様のことを口実にしておいでなのか、実情がわからぬ。
三笠宮妃が三笠宮のお考えをどういう風に考えておられるか。
もし私情で子供と離れたくないとしても、三笠宮のおために洋行が良いとなればこの際私情を捨てるお考えになるべきとも思うし。
田島長官◆那須へ秩父宮妃をお誘いになりまして、秩父宮妃は非常にお喜びで、どうか高松宮・三笠宮も那須へ仰せいただきたいと存じまする。
昭和天皇◆妃殿下方ならともかく、宮さんは来られてもどうも。
田島長官◆お受けになるならぬは宮様方の御自由として、三笠宮などもしこんなことでまたおひがみのようなことは困りまする。
高松宮も三笠宮御洋行のこと御希望が4~5年先とのこと申し上げに出ました際も、「御自分でできることはある程度のことをしても行かれると良い。また外国語の御勉強の方法もいいだろう」と仰せになりました。

昭和天皇◆三笠宮のことだがねー。
常陸宮の北海道行きのとき本のことで知事に話してくれというような話があったそうで、教科書のようなものならいいがまた変な本など困ると思って、常陸宮には「知事には言わぬ方が良い」と言っておいた。
また清宮貴子内親王が軽井沢へ行く時、「三笠宮と御交際はいい、御話のことは気をつけて」と言っておいた。
とにかく三笠宮は宗教の歴史よりも興亡の歴史を御勉強になれば良いのよ。
ソ連ほど目的のために手段を選ばぬ国はない。
平和とかなんとか言って、あんな侵略主義の国はない。
マレンコフ首相はベリヤ副首相をああいう風にするし、また今度軍閥はマレンコフをもどうかするかもしれぬし、日本との中立条約は破るし。
ソ連のけしからのことは本当にひどい。
(昭和天皇は特にルーマニア王室に関する態度に御憤慨あり)

昭和天皇◆三笠宮がアカがかった者にうまく乗せられても、決して結果は良くないことをどうしてわからぬのか。
その点、英米は条約と言うか約束は固い。
英米も今まで過失なしとはしないが、はるかによろしい。
田島長官◆皇室典範改正の時にも三笠宮は何か新説をお出しになりましたとか。
昭和天皇◆天皇選挙説だよ。
田島長官◆皇長子でなくても良いとのことで、時の内閣書記官長諸橋襄の取り計いで、それが枢密院の人の手には入らなかったとか伝聞いたしておりますが。
昭和天皇◆それが天皇選挙説だよ。
壬申の乱・南北朝等と歴史が証明してる。
歴史を御勉強になってどういうことだ。
社会党では西尾末広とか松岡駒吉とかはわかってると思う。
片山哲もいい人に違いないと思うが、どうも弱い。
クリスチャンが弱いと限ったことではないと思うが、どうも弱い。
三笠宮のことはね一。

1953年8月13日
昭和天皇◆三笠宮のこと、その後 警察の方面から別に何もないか。
田島長官◆ありませぬ。
(三笠宮の矛盾のこと、ルーマニアの王室に対するスターリンのやり方を見れば態度をちゃんとする必要は自明なこと、やり方により逆効果を生ずることを大いに考えねばいかぬこと、4~5年先ならば常陸宮の留学とぶつかって競争になり難しくなること、この点数回強調なされる)

1953年8月27日
田島長官◆軽井沢で三笠宮夫妻に拝謁いたしまして、御洋行の問題をいろいろ承りましたが、御手紙ではあれだけはっきり4~5年先と仰せになりながら決してそうばかりではなく、やはりその前でもお出かけになりたい御希望らしく、また三笠宮妃の御意思も三笠宮の仰せになりましたお子様とお離れになることが駄目というのではなく、適当な御養育なり信頼できる者さえあればお出かけになるとはっきりしました仰せで、この点は昭和天皇が最初から秩父宮妃に御話になりましたことが当たっておりますのでちょっと驚きました。
三笠宮はどうも御意思が時々お変りになりグラグラしておいでのようであります。
ただ一つ仰せになりましたことは、私は学問ということに離れたくない、宗教史には限らぬが歴史の範囲でやりたい、だから今でも留学ということを考えてるとの仰せははっきりしておりました。
昭和天皇◆私の生物学のようなもので自然科学でも人文科学でも学問をなさることは至極結構で、私も御賛成だが、それはどこまでも皇族たる本分を尽くすことが主であって、従たることということをお忘れにならないように願わねばならぬ。
皇族であること、皇弟をとして象徴たる私に代わって御名代的なことをしてもらうとか、万一の場合には皇位継承の義務もある方なのだから、そのことを主たる職分として、学問はどこまでも従でなければならぬ。
三笠宮はどうも意見がグラつく。困る。
田島長官◆三笠宮が積極的に御話がありましたのは、とにかく洋行準備委員会というようなものを作ってもらいたい、三笠宮夫妻と宮内庁の者としかるべき学者とで、との御話がありました。
昭和天皇◆その委員会というのも陸軍のやり方だ。
そしてグラつくのも陸軍だ。
現にアッツ島の惨事もグラついたためだ。
一時は守ると言い、一時は放棄すると言い、また守ると言い、グラグラしたためああなったのだ。
三笠宮は全て陸軍の悪い点をお持ちだ。

1953年9月11日
田島長官◆前回申し上げましたように秩父宮の相続税の金額は29万円だそうでありまするが、新しい相続法ではお子様のありませぬ節は御兄弟にも相続権がありまするので、昭和天皇・高松宮・三笠宮になりまするが、もちろん御取得の御意思はなく秩父宮妃に全部でありますので、宇佐美次長より高松宮・三笠宮の御了承を受けましてございます。
軍人恩給の問題で、皇族のうち高松宮は恩給をお受けになり得られまするし、三笠宮は一時金だそうでありまするが、皇族としては恩給の積金は遊ばしておりませんし、皇族費は国家の支給でありまするゆえ、御遠慮の方しかるべきと考えまして、そのことを宇佐美次長より申し上げ、両宮とも御了承であります。
先日は三笠宮・秩父宮妃をお招き遊ばしまして、みな非常にありがたくお喜びのように拝しました。
昭和天皇◆三笠宮、警察の方の話は別段ないか。
田島長官◆別にございませぬ。
日赤社長島津忠承が御進講いたしました節、三笠宮の御関係の東京都立大学教授阿部行蔵は中共引き揚げで島津もよく存じておりまして、近世史専攻の人と申しておりましたのみならず、三笠宮とこの人との関係も相当よく承知いたしておりました。

1953年9月14日
昭和天皇◆三笠宮のことねー、那須へおいでのことを喜んでおられたとのことだが、それがお考えの上にすぐ影響するということもなかろうが、悪い影響のなかったことは確かだ。
田島長官◆それはもちろんでありますゆえ、御洋行問題の打ち合せ会、三笠宮の御提案でありますゆえ、軽井沢から御帰京後さっそく1~2回開いてその結果を見たいと存じます。
昭和天皇◆そうしてもらうんだねー。
しかし三笠宮宮のグラグラするということは悪いことだが、それだけにまた那須へ来られたりしたことで、左がかったことにもグラグラが来てお変わりになるといいが。
田島長官◆それは結構でありますが、そのような場合にもグラグラの御性格ではまた逆にグラグラとも考えられますゆえ、やはり御身分の御自覚の上に、進歩的なお考えをお持ちになっても先天的に駄目ということをはっきり御承知になりますことが必要で、そのため御洋行はよろしいと存じますゆえ、その方をやってみたいと存じます。
御留学で長期にわたりますると、政府の予算をもらう必要がありますが。
昭和天皇◆私は留学はよして、御巡遊になるのがいいと思う。
田島長官◆さようでありますが、この点は軽井沢で三笠宮両殿下ともはっきり御留学希望のむね仰せでありました。
三笠宮妃御同行云々の点は、三笠宮の御話と三笠宮妃の御話とは少し違いまして不思議に思いました。
それゆえ今後御要望の相談会の時は、必ず三笠宮妃も御同席願うことにいたしました。
昭和天皇◆三笠宮は神がかりと言うか、デタラメで夢見たようなことを言う癖がある。
御結婚問題の時も学習院の門で会ったとかいうわけで、細川の娘で松井に嫁している人〔細川護立侯爵の娘細川泰子〕と結婚したいと言われて、いろいろ調べたが時間が合わない。
全く夢見たように門で会ったなどと言われる。
自分で思うと何でもそれにくっつけるというか。

1953年9月15日
昭和天皇◆三笠宮は今日の伊勢神宮式年遷宮用神宝を拝見されたかしら。
私はまだその感想を聞いていないが。
田島長官◆今日は是非拝見したいという御話で、良子皇后と御一緒に拝見遊ばしたと存じます。
昭和天皇◆神宝はずいぶん高価なものらしいが、それをまた贅沢な物という風にお考えか、神様のために結構なものだとお考えか。
後者ならば結構だが、前者だと誠に困ることだと思う。
田島長官◆それは万が一にも前者のようなお考えはないと存じます。
昨年3階を7千万円で仮宮殿に改造しました際は御手紙をいただきましたが、今回は国家予算ではありませぬし、国民の浄財によるものでありまするし、元来神様のためのものに昭和時代工芸の最高峰の文化財という意味もありまするゆえ、その御心配はないと存じます。
実は先だって新聞に散見いたしまする明仁皇太子の自動車の件は、松本大使帰国の時に打ち合せまして、戴冠式には各国から多数の人が参り借り上げ自動車などではうまく参りませんので一両お買い上げのことにいたしまして、イギリスの御旅行後にお売り払いもつまりませんので自然お持ち帰りということと存じておりましたことに田島の不周到の点もありましたが、明仁皇太子の記事は新聞が何でも大きく扱いまするので、図らずも神戸着から横浜の荷降しまで大々的に掲載され、いかにもクイーンと同じ車をただお買いになったように取られまして、投書も相当数まいりますので、三笠宮もこのことを何か仰せになりはせぬかと存じておりますがまだ何も仰せありませぬ。
昭和天皇◆自動車は売る方が良いか。
田島長官◆その必要はありませんが、しばらく御乗車になりませぬ方が賢明と存じております。
昭和天皇◆三笠宮がそういう風ならいいが、相手を構わず例えば阿部行蔵のような人に単純に神宝の立派なことをお話しになった場合に、先方がそれを利用するとすれば三笠宮の触れたことを種にするゆえ、三笠宮は話す先とか場合とかを考えぬと、何の気なしに話されても結果の悪いことがある。
田島長官◆三笠宮は従来相手のことやその話の結果をあまりお構いなかったきらいはありましたが。

1953年10月1日
田島長官◆歴史学者が政府に歴史教育の逆コースになることには反対だから政府は考慮すべきという意味の御意見書を提出いたしましたが、その中に三笠宮も入っておいでの記事が各新聞に出ております。
その中には桃色の人がおりますかもしれませんが、歴史学者家永三郎とか民俗学者柳田国男というような名前もありますゆえ、必ずしも不真面目なものではありますまいと存ぜられますが、皇位継承に御関係のあります皇族が政治に御関与のような形になりますことは、違法ではありませんでも不穏当になるかもしれませぬ。
昭和天皇◆私も逆コースと言って軍国主義の時のようなことに帰るのはもちろんいけないが、国の歴史を知ることをも逆コースの言葉で反対するのはいけない。
三笠宮がそういう中に入るということはたとえ穏当でも…。

1953年10月2日
田島長官◆三笠宮のことで、朝日新聞はお付きしている者が悪いというような意味、毎日は記者がお訪ねしてインタビューの記事を相当長く掲げております。
毎日のインタビューもそう極端なことは仰せになっておりませぬが、朝日の記事では皇室を重んずる文部大臣大達茂雄などが心配している様子に見えます。

1953年10月7日
昭和天皇◆三笠宮だがねー、さっき大阪高等検察庁検事長藤原末作が中共引き揚げの話をした時に阿部という教授が〔東京都立大学教授阿部行蔵〕と口まで出たけれどもやめたが、その後三笠宮はどうかしら。
田島長官◆今日あの席で昭和天皇は三笠宮の御顔を御覧になりましたか。
昭和天皇◆見ない。
田島長官◆田島は三笠宮が札幌高等検察庁検事長草鹿浅之介から聞いておいでの時と大阪検事長が舞鶴の話を申し上げました時とは、確かに御顔つきが違ったように感じました。

1953年10月14日
田島長官◆警視庁から聞きました三笠宮と阿部行蔵との関係を少しつきとめたく、法務大臣犬養健に頼んでおきましたところ田島に報告がありましたが、赤旗編集の経歴もあり純然たる党員であるらしくあります。
しかも同志社大学出身のためか四谷教会の牧師ともありまして、この点はちょっと世間を欺きやすいかと存じます。
昭和天皇◆新教の人は自由が多く許されてるから、その点カソリックはまずそういう点はない。
三笠宮は国体に行くようだから、その前に話した方が良いと思う。

1953年10月15日
田島長官◆三笠宮の件は犬養法相の調査で阿部がれっきとした共産党員であるということだけでありまして、三笠宮といかなる関係にあるか具体的に確たることが分明でありませず、今なお調査中でありまする。
今日の程度で三笠宮に申し上げましても何の効果もなく、あれこれと反対の抗弁を遊ばすだけでありますが、何か動かぬ証拠が出てどうしても御反省を願うという時に申し上げました方が有効と存じまする上に、馬術大会で関西にお出かけで実質上19日国体行幸啓前に申し上げることは不可能でございます。
明仁皇太子の御外遊の費用は1億1千万円の内3千万円概算では残るのではないかと考えられますが、これはもちろん政府へ返上いたします。
また内廷の方の1千万円、明仁皇太子御持参の分は500万円ぐらいで御済と存じます。
昭和天皇は皇族費増加とのバランスもあり、既に国会を通過しまして来年からは3,800万円、今年も3,600万円はあります。
500万円ぐらいは年々基金に繰り入れができるのではないかと存じます。
さすれば内廷費の内から三笠宮の御洋行費に若干賜りましても、別に内廷にお困りのことはないかと存じますゆえ、三笠宮に対してもさようの御仕向になりますれば三笠宮は御言動にも影響あるかとも存じられます。

1953年10月30日
昭和天皇◆三笠宮が歴史教育の意見書に名を列ねておられることだが、古事記にはこうある日本書紀にはこうあるということで日本歴史を教えることは私は少しも悪いとは思わぬに、歴史教育をすることに反対というのはどういうのか。
田島長官◆あの意見書は柳田国男のような学者も名を列しておりますゆえ、アカがかった人のみではありませぬし、逆コースで戦前の通りに旧に復するのは困るというのかと存じますが、三笠宮を岡山の考古学の村〔月の輪古墳〕へ御案内いたしましたのはちょっとアカがかった教授であり、またあの村の教育委員の一人は共産党員とか聞きました。それからその考古学研究に1万円御寄付になりましたそうでございます。
昭和天皇◆そうか。
学問上の友だけならばよろしいが、その人物が右翼か左翼かに偏しておれば、学問の上だけのことにならぬ影響を与えるからそこを考えればならぬ。
私はそれゆえ海運会社の社長小畔四郎が学問上のことをはいいが右翼に過ぎるので断然生物学研究所へ出入りせぬことにした。

1953年11月3日
昭和天皇◆岡山の件ねー、〔月の輪古墳〕三笠宮が食堂でも盛んにそればかり言っておいでゆえ、私はちょっと文部大臣大達茂雄には言ったが、あまりあればかり熱心では困るゆえ、田島から大達文相に三笠宮のことをよく話してくれ。
(大達文相に国家地方警察本部斉藤昇より聞きし、考古学発掘の村の教育委員に共産党員あること、誘導者もアカがかった人であること、1万円寄付のこと、都立大学教授阿部行蔵のこと、目下どんな関係か調査依頼中のことなど話し、昭和天皇より話せとの御話のことを話す)

1953年11月4日
昭和天皇◆三笠宮のことだがねー。
大達文相はああいう人で皇族の言うことは何でもまともにそのまま受け取るような人だから昨日ちょっと私も言ったのだが、三笠宮は考古学のことだけがよければそのために裏面ではどういう影響があるかということを少しも考えないのは困るねー。
田島長官◆これはをお聞き流しを願いたいと存じまするが、靖国神社で今回奉賛会のようなものを作り6億とかの募金をいたしまするので、総裁は皇族ということで筑波藤麿宮司の方から高松宮にお願いに出ましたところ、他にも募金のものたくさんおありでお断りになりまして、三笠宮に御内話になりましたところ、軍人であった関係もあり合祀の必要は大いに認め結構なことだが、裏面に再軍備と関連がにあることゆえイヤだとの仰せでありまして、田島はこのを考えは内部の御話としてはよろしいとしまして、外部ことに神社などには聞こえぬ方がよろしいと存じておりまして、宮司の方も三笠宮には一蹴されそうだとも申しておりますゆえ、直接は三笠宮にお会いにならぬの方がよろしいかと考えております。
高松宮がどうしても駄目ならば、女性でも秩父宮妃にでもおなり願うほうがよろしいのではありますまいかと考えております。
これなどは三笠宮は表面のことでなく裏面のことを想像しての御議論で、表面裏面の問題でなく御興味を引くことには進歩的と申しますか、非戦・平和・反米という一連のことに全ておくっつけになってお考えということになるかと存じられます。
昭和天皇◆矛盾だねー。
あることは裏面を考え、あることは表面だけを考え、矛盾だ。

1953年11月6日
昭和天皇◆三笠宮ねー、宮内庁長官も言ってたが矛盾な話で、あることには裏など考えずに表面だけを見て、ある問題には裏がいかんと言い、実に矛盾だ。
三笠宮には困る。
田島長官◆個々の問題に困りましても仕方ありませんので、やはり何とかして御洋行が一番よろしいかと存じます。
昭和天皇◆御留学とか歴史とかだけれども、それより御視察的な方が良く、歴史よりも王室と国民との関係を諸外国にわたり見てきていただきたいよ。
田島長官◆三笠宮なども宮内庁の者より外部の者を信用なさる傾向がありますから。

1953年11月8日
昭和天皇◆阿部行蔵が検挙されたが、三笠宮は。
田島長官◆とうとう新聞に出ましたようになりましたゆえ、この機会に正面からああいう人とお近く遊ばすことはお考えを願いたいむね申し上げたいと存じております。
近く例の御洋行相談会を開きますることになっておりますゆえ、少し卑怯でありますが役所の者大勢でああいう人とお近いのは困りますむね申し上げたく、この機会を逸しないようにいたしたいと存じております。
以前メーデー事件の時の東京都立大学助教授寺沢恒信の釈放を御申出になりましたことがありましたが、そのことはいけなかったと御自覚でございましょうから、今度もまた阿部について釈放など遊ばすことはないと存じております。

1953年11月9日
田島長官◆三笠宮は吊し上げられた婦人がスパイかどうかというような御話でありまして、宮内職員高尾亮一が「そんなことよりも阿部が連れて行かれる以上、あまり良い人物ではありますまい」と申し上げ、それでその辺のことはおわかりになりましたと思いますとの話であります。

1953年11月10日
昭和天皇◆昨夜三笠宮から阿部の話は出なかった。
しかし考古学の方には利用されることを少しも心配されないくせに、菊栄会親睦会の会場がいつも光輪閣ではどうかとの高松宮の御話で三笠宮がいろいろ研究されたが、目白の椿山荘とかの話も出たが、それは商売だから会場にすると利用されるといかんというので、決められたのは三井クラブで、商売上利用されないからいいとの話だが、どうも矛盾の話で、あることには利用されることを気にしあることには利用されるかもしれぬということをお考えにならぬ。
おかしい。
田島長官◆御興味のないことには利用されやせぬかと御戒心になりますが、御自分の好きな事には利用されるかもしれぬという警戒心が浮かばぬということならば、まあ理詰で御注意申し上げてわかっていただけるかとも思われまだよろしゅうございますが、普通何でも利用されると悪いとお気づきの方が考古学等の名前のものには利用される以上に、興味や同情をお持ちのために利用されるもいいとかいう風な御気分が御腹にありますようでございます。

1953年11月18日
田島長官◆ただいま教科書は国定ではなく各本屋の競争でありますが、三笠宮を編纂委員の一人とお頼みして、その部分は既にできて御名を出すかということで、宮内職員高尾亮一まで御話があり、お出しにならぬ方がよろしいと申し上げましたそうでありますが、これも事後に仰せあっても困ります。
昭和天皇◆それは困るねー。
本屋は広告に使うかもしれぬ。
商売に利用されると悪いからとて菊栄親睦会の会場に椿山荘をお避けになるだけのお考えならば、本屋に利用されることがおわかりにならぬはずはないと思う。
歴史の学者と言われるもまだ始めて年数も経たぬし、専門の学者でもなし。

1953年11月20日
昭和天皇◆三笠宮のことだがねー、本の問題。
もし三笠宮が私が本を出してるからと思って出してもいいと思われてるようなことはないと思うが、もしあるとすればそれは私を例にされても全然違う。
今まで出てる本は私の著書というわけではない。
今までのは研究所の結果で、主として調べた人があるのだ。
将来私の本が出ることがあるとしても、それは私一人ではなく御用掛富山一郎なり誰なりと相談してから出すので、三笠宮のようにいきなり自分の考えの本を出すことはない。
また私が歌を出すことがあるが、あれをまた例にされるかもしれぬが、これも宮内庁長官なんかが見て良いものを出すということにしているので、私だけのものを私だけの意見で出すのではないから。
田島長官◆それは事情が違います。
もし三笠宮が昭和天皇のことを仰せになりましても、その点は心得ております。

1953年11月24日
昭和天皇◆三笠宮の新嘗祭に関する本をもらったからはしがきを呼んだが、阿部行蔵の話によってということを明記したことはない方が良いと思う。
ああいう人の名前をわざわざ出す必要はないと思う。
どういう影響があるかという考えがもう少し欲しい。
極右の人ではけしからんと思うし、左翼の者は実際以上に利用するかもしれぬし。
田島長官◆阿部が拘引される前にお書きになりましたかとは存じますが、既に阿部の評判はあるのでございますから、そういうことをお書きは無益で有害かと存じますが。

1953年11月30日
〔三笠宮洋行相談会の第一回が開かれた〕
昭和天皇◆三笠宮のことはどうだった。
田島長官◆田島より外国お出ましのことを口を切り、
「人間三笠宮として御研究のため御留学御希望のようでありますが」ということを申し上しところ、
三笠宮は「私は学問もどこまでも皇族として皇族の枠内でやるのだ」との御話があり、ちょっと田島は拍子抜けいたしましたくらいでありますが、甚だ結構な次第であります。
昭和天皇◆それは結構だね。
三笠宮はフラフラなさるからずっとそのお考えならいいがねー。
田島長官◆その点はアテにはなりませんが、高松宮は社会事業とかいろいろなことを遊ばしますので、同じことをやるよりは各皇族各分担してやるのがいいので、
「私は障害者のためとかいう風にしてるし、皇族として私は学界を何かしたいと思ってる」とのお話がありました。
小泉参与も「〔留学というものは〕まあ先生に面接はできまするが、いわば本を買って帰るくらいと言えぬこともありませんので、別に御留学ということに重きを置かれる必要もないむね」および「ひとたび国外へ出て日本を眺めまする時に国内においてお感じになれぬものを感じまするゆえ、ぜひ一度御外遊は必要なむね」を申し上げました。
三笠宮は単なる短期旅行をすることはイヤだというような意味および従来の経緯を田島に述べよとの仰せもあり、田島がそれを申しませなんだらば御自分で在米邦人の好意の申出、グルー元駐日アメリカ大使の協力、エール大学の便宜等の問題がそのままになっているために、これを全然打ち切るかどうかというむねを仰せありました。
それから費用の問題が話になりまして、政府に頼むためには何か公的な催しに御出席ということでないと政府の予算が取れぬこと、および予算もなかなか大金に上りますこと、皇族として海外においでになります以上御供もしかるべき人が必要であり、また三笠宮妃も御一緒の方がおよろしく、三笠宮妃にも御供が入用でありますゆえ、少なくとも4人の旅費となりますとなかなかの金額に上ります。
皇族の海外旅費というものはありませぬが、仮に普通の人間の3倍といたしますと、御二方で6人分となりお付きを加えて8人分となりますゆえ、先だっての明仁皇太子の供奉員が約300万円でありますから2,400万円、これが半年の御旅程で仮に1年としますと5千万近くとなりますのむねを宮内庁次長・秘書課長より方々申し上げ、三谷侍従長も欧米では妃殿下同伴でなければおかしいと思う話、お付きの三谷でもなぜ一人で来たのかと聞かれたくらいだというような話をいろいろ申し上げまして、留学ということは経費その他いろいろの面から御一考の要あるむねは御承知になったのではないかと存じまする。
そして皇族としての枠内でということを仰せになり、留学でも普通人のようにはできぬことも御承知の様子でありました。
田島は元皇族を担いで在外邦人がお金を出すということが一再ならずありましたが、選挙費などを作る必要の人の利用的態度など想像されておやめを願ったこともありますので、宮様としてはお出かけになります以上皇族としての御体面、従って御費用の要りますことも申し上げました。
三笠宮妃はあまり御発言ありませなんだが、お子様を内地に残しては絶対に行かれぬとの御話もありませんなんだ。
それから田島より新嘗祭に関する本のはしがきのことも申し上げ、
「御本も至極結構でありますが、はしがきの中に明らかに阿部行蔵の名前をお挙げになっておりますが、阿部も釈放になりましたがああいう次第ゆえ、あれの名前お挙げになりましたのは」と申し上げましたところ、
「実際阿部という人の話で発足したという事実を書いただけの話で、あの会合はあの人の力によってできたが、会が始まってからは阿部という人は都立大学へも寄り付かず、平和運動に熱心になってからは学校へも来ないよ」との仰せ。
「都立大学には参りませんが、三笠宮邸へは時に参上いたしましたか」と伺いしところ、
「都立大学にも行かぬぐらいで、もちろん私の所へも来ぬ」という御話でありました。
「式年祭はやめたらばとの御意見は、先ほどの皇族の枠内としましてはいかがなものでございましょう」と申し上げた時に、
「あれは皇紀二千六百年とかいうのは明らかに事実に反していることに基づいてのことは、あれはおかしいからやめたらと思う」との御意見をお述べになりました。
昭和天皇◆私は賢所など祭ることを宗教と認めるという考えにいつも反対しているのであるが、一面宗教的だと言われるれば言えぬこともない点もあるのはその点で、二千六百年というような歴史の史実に反するということはあるが、事実に反するからとて直ちに式年を廃しなくても、それは伝説というもので、国家的に意義あれば何もやめなくていいと私は思うのだが、この論になるとまた賢所などのお祭りをやることを宗教だと見られても仕方がないという結論になり、これはちょっとおかしな話だが困る点だよ。
現に私たちなどはキリストの十字架も史実ではなく、従って復活なども考えられず、これは史実ではないか宗教としては認めてるだのだから。
田島長官◆三笠宮は時々御意見も変わりますゆえ将来のことは何とも申し上げられませぬが、あまり時間を隔てずに同じメンバーで今一度固めたいと存じております。
三笠宮がヘブライの歴史については日本には他の人もありませんような御話で、それに関するアメリカ人のある著述に御興味をお持ちになり、歴史の方面にはその方の人はなく、宗教学専攻の東大の人と二人で御翻訳になりましたそうでございます。
近く原稿ができ上るらしくありますが、せっかく三笠宮の初めての御仕事に万一誤訳などあるとの批難ありませぬよう、一度誰か翻訳の原稿を拝見するように運びました方がよろしくはないかという話が出まして、これは宮内庁次長か秘書課長から三笠宮にお話し致しますことになっております。
昭和天皇◆それはまあよかったが、時々お変りになるから。

1953年12月1日
田島長官◆今朝秩父宮妃から承りましたが、金曜日の会合の後で〔第一回三笠宮洋行相談会〕三笠宮妃から秩父宮妃に御電話がありまして、会合の結果具体的に予算等の困難なこと、留学等の意味などよほどお考えになった御様子だと御話を伺いました。
この際あまり時を経たず、ある程度の具体的な方針決定を見たいと存じております。

1953年12月3日
田島長官◆皇族さん方はだいたい今まで人頼みで何の御心配もありませんでしたがこういう時世になりまして、御存知ない割に入ることを欲せらるるため、ひっかかられるのは当然であります。
大体宮家の方々は御自分が御承知ない会計のことを御自分でおやりになりますからこういうことになります
秩父宮は自分の所は財産もないし相談するまでもないという仰せでありましたが、全部御自分で切り盛り遊ばしてたらしく、その後有利に回る御相談がありました時も田島に大丈夫かとお尋ねあり、少額である程度以上はよろしいと申し上げたことはありましたが、一つも焦げつきなどはできず、この間相続税の時に初めて拝見しまして、つまらぬ株が少々ありましたが、これも少ないのでただいま東芝社長石坂泰三の手で整理いたしておりますが、かような次第で秩父宮妃は会計のことは何も御存知なく、従ってただいまは石坂・田島らでご相談を承っておりまするため少しも危なげもありません。
昭和天皇◆秩父宮は強い方で、御自分でお決めになるとずいぶん激しく言われたのだが。
田島長官◆それは田島も他の問題でずいぶんひどく仰せになりましたこともありますが、一応は筋の通ったことでありますから、かような面からの見方もありますと申し上げれば、そうかと仰せになることもありました。
現に明仁皇太子の御洋行の時でも御熱心に仰せになり、三笠宮御希望も御承知の上で今回は明仁皇太子だときつく御主張で、田島への御手紙にも理路整然と御主張になりました。

田島長官◆三笠宮のことでちょっとよろしい朗報でございますが、高松宮の御話で高松宮はブラジルにおいでになりませんが「三笠宮にいかが」との仰せで、
三笠宮は「南米へは皇族は誰も行ってないから行ってもよい」と仰せられました由で、三笠宮は往復とも船でおいでになりたく、また北米等には寄らぬとの話でありましたそうでございます。
船はどういうわけか存じませんが、北米へお寄りにならぬのはそれで御外遊が済んだとなってはとの御懸念かとも邪推いたされますが、宇佐美次長が「南米へ直接のものは少なく、自然北米にお立ち寄りとなりましょう」と申しました由であります。
昭和天皇◆皇族さんはみな御自分は独特というようなお考えがあるので、高松宮も誰も南米においでがないからと行ってみようとの御気もあるのだよ。
それができて欧米御周りということになれば一番いいねー。
田島長官◆御本人様御希望も承りましたことゆえ、外務省と話を進めてみますように申します。
昭和天皇◆三笠宮のそのことだがねー。
雑誌『キング』に三笠宮をめぐりて民謡の座談会というのが出てる。
内容はいちいち見てないからどういう風に書いてあるか知らぬが、皇族が民謡に関しての座談会においでにならればならぬということはないように思われる。
今度また第二回でもあれば、この間の皇族の枠内でという御話とはちと違うということを言う機会が良い。

1953年12月12日
昭和天皇◆三笠宮のことはその後どうだ。
田島長官◆翻訳の方は文法的なことに万全を期するむね申し上げましたところ、願ったり叶ったりとの仰せで、式部官黒田実が拝見することになっております。
昭和天皇◆三笠宮の会合の〔三笠宮洋行相談会〕第二回目はまだか。
田島長官◆それはまだでありますが、第二回には宇佐美次長も出席し南米のことも十分承知しておりますから、いずれ宇佐美が第二回のことを考えると存じます。

1953年12月15日
昭和天皇◆三笠宮のことだが、あればどうなったろう。
田島長官◆先日申し上げました以降何もございません。
南米のことも宇佐美次長もよく承知で、外務省とも話をしておりますゆえ、田島退きましても何の差異も生じません。
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『入江相政日記』侍従長

1954年10月18日〔京都出張〕
泉井さんと足利惇氏〔日本オリエント学会会長〕さんがみえて、二人とも三笠宮がイラク発掘に担がれていらっしゃるのを心配していた。
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『入江相政日記』侍従長

1959年10月8日
今日三笠宮が拝謁をお願いになり「東宮御所も宮殿も御造営をおやめになった方がいい」とお申し上げになった由。
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『入江相政日記』侍従長

1961年10月6日
三笠宮邸へ。
三笠宮妃にこの間からのことゆっくり御話しようと思っていたら、三笠宮もわざわざ途中で帰って来てくださった。
ありがたいことだが、その代り三笠宮妃にゆっくり話すことはできなくなった。
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『入江相政日記』侍従長

1965年3月20日
宮内庁長官宇佐美毅から、三笠宮が紀元節問題で政府の人といろいろお会いになるので、これ以上発展してはまずいから、三笠宮妃から適当に家族会議でもということを申し上げてくれとのこと。

1965年5月28日
宇佐美長官と、三笠宮甯子内親王の御縁談のこと。

1965年5月31日
三笠宮夫妻にお会いして、甯子内親王の御縁談について伺う。

1965年7月8日
今朝三笠宮妃といろいろお話し合ったことにつき、島津忠承君〔日赤社長・三笠宮甯子内親王の婚約者近衛忠煇の勤め先〕を訪ねる。
いろいろ懇談する。

1965年7月20日
三笠宮妃から長い電話。
宇佐美長官や小川別当から近衞忠煇さん〔三笠宮甯子内親王の婚約者〕に
「週刊誌に会うなとかしゃべり過ぎる」とか注意があるが、そんなこと言っても仕様がないという御話。

1965年9月21日
島津忠承君を訪問。
宇佐美長官が近衞忠煇さんのことについて新聞記者に評判が良くないと言っていたことを注意してもらうように言いに行く。
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『入江相政日記』侍従長

1966年5月31日
三笠宮の紀元節問題、また政治家を大勢を呼び、公聴会に民社推薦で出てもいいと言われたとかのこと。

1966年6月1日
三笠宮家に行き、三笠宮妃に紀元節問題で御協力をお願いする。

1966年9月15日
三笠宮寛仁親王が青山で交通事故の由。

1966年9月16日
三笠宮寛仁親王の事故はUターン禁止区域ではなかったとのこと。
よかった。

1966年12月19日
〔三笠宮甯子内親王結婚〕
三笠宮甯子内親王夫妻参内。
大変な御元気。
おうれしそうなので安心する。
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『入江相政日記』侍従長

1967年7月3日
宇佐美長官から、三笠宮の親王様方の交通事故について聞く。
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『入江相政日記』侍従長

1969年12月9日
宇佐美長官から、清宮貴子内親王のこと、桂宮のこと。
徳川侍従次長から、清宮貴子内親王のこと、東久邇さんのこと。
いい話は一つもなし。
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『入江相政日記』侍従長

1970年8月8日
エチオピア皇太子夫妻をめぐる明仁皇太子の三笠宮のこと。

1970年8月11日
エチオピア皇太子妃の席次のことはまだ続いているらしい。

1970年8月12日
この間からのエチオピア問題につき申し上げ、三笠宮の方ももうこの辺でお済まし願いたいむね申し上げ、それですっかり済む。

1970年9月1日
三笠宮百合子妃から、三笠宮寛仁親王が明仁皇太子夫妻と明方4時まで議論、続いて明仁皇太子夫妻は軽井沢で夜8時から12時半まで同じことについて談じ込まれた由。
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■東京本邸 赤坂区青山東御殿


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◆三笠宮崇仁親王(澄宮崇仁親王)123代大正天皇の四男
1915年生


■妻  高木百合子 高木正得子爵の娘
1923年生


◆1915年12月02日 誕生 51センチ・930匁(3,487グラム)
◆1921年10月13日 学習院幼稚園入学
◆1922年04月08日 学習院初等科入学
◆1928年04月12日 学習院中等科入学
◆1932年04月01日 陸軍士官学校予科入学
◆1934年09月01日 陸軍士官学校本科進学
◆1935年12月02日 成年式
◆1936年05月29日 陸軍士官学校本科卒業
◆1939年12月13日 陸軍大学校入学
◆1941年10月22日 結婚
◆1941年12月05日 陸軍大学校卒業
◆1944年04月26日 第一子甯子内親王誕生
◆1946年01月05日 第二子寬仁親王誕生
◆1948年02月11日 第三子宜仁親王(桂宮)誕生
◆1951年10月23日 第四子容子内親王誕生
◆1954年12月29日 第五子憲仁親王(高円宮)誕生
◆1988年02月26日 前立腺ガン手術
◆2001年09月13日 慢性硬膜下血腫手術
◆2002年11月19日 右鼠径ヘルニア手術
◆2002年11月21日 第五子高円宮死去
◆2010年03月16日 左白内障手術
◆2010年06月22日 右白内障手術
◆2012年06月06日 第二子寬仁親王死去
◆2012年07月12日 僧帽弁形成術
◆2014年06月08日 第三子桂宮死去
◆2016年06月21日 うっ血性心不全によりペースメーカー埋め込み術
◆2016年10月27日 死去




●三笠宮寬仁親王  2代当主 麻生太賀吉の娘麻生信子と結婚・兄は総理大臣麻生太郎
●三笠宮宜仁親王  桂宮
●三笠宮憲仁親王  高円宮  三井物産社長鳥取滋治郎の娘鳥取久子と結婚

●三笠宮甯子内親王 近衛忠煇と結婚
●三笠宮容子内親王 茶道家千宗室と結婚




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三笠宮寬仁親王

私の両親は崇仁・百合子と双方ともにシンメトリーな字であったため、我々5人の子供も全員そうなっています。
甯・寬・宜・容・憲、このようになっています。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年年6月17日
※宮内官僚南部光臣の発言

貞明皇后は三笠宮に御会い遊ばさるる事が唯一の御楽なる趣なる。
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東京朝日新聞 1922年

三笠宮は皇太子を「東宮様」秩父宮〔淳宮雍仁親王〕を「あつ御兄様」高松宮を「ちい兄様」と呼んでおられる。 
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『高松宮日記』

1937年5月22日
三笠宮おねだりにて竹田宮へ今晩お呼ばれとのことに、一緒に来いとのことに上る。
(活動映画とダンスのためなりと)
三笠宮も物心つきて、独りさびしさを覚え始めし有り様なり。
ことに騎兵の連中には誘惑も自然と多きもののようなり。
秩父宮も一般の皇族と自ら異なるものあると自覚せしむるを要すと御出発前に御注意ありし。
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『木戸幸一日記』内大臣

1937年4月2日
大谷太夫来庁。
三笠宮御配偶選定につき、種々懇談す。
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『木戸幸一日記』内大臣

1940年6月4日
松平恒雄宮相来室。
三笠宮御配偶の件につき、懇談す。

1940年9月3日
松平恒雄宮相と三笠宮御配偶の問題につき懇談す。
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『木戸幸一日記』内大臣

1941年1月11日
松平恒雄宮相と三笠宮御配偶の問題につき懇談す。

1941年3月30日
三笠宮妃高木百合子御勅許。
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『入江相政日記』侍従長

1941年2月2日
大谷さんが今朝来て三笠宮からの御話を言った由。
百合ちゃんはなお年少、あまり深い判断もあるまいが、とにかくお受けすることになった由。

1941年2月3日
広幡さんからも百合ちゃんの話がある。
坊城兄上からも百合ちゃんのことにつき今までの経緯を話される。

1941年3月30日
三笠宮御婚約御発表につき各新聞に百合ちゃんの写真がたくさん出ている。
坊城さんと高木さんが御礼に参内される。
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1921年8月16日、東京日日新聞に三笠宮の童謡『月と雁』が発表される。
「月夜の空を 雁飛びて 宮君(みやくん)御殿で それ見てる」
これを作曲家本居長世が作曲、長女本居みどりと二女本居貴美子が歌ったレコードが評判となり、図案化されて反物の模様になったりノートの表紙にまでなった。
三笠宮は次々と童謡を発表、本居長居・本居みどり・本居貴美子でレコード化され、全国に広まり、小学校でも教えられ、三笠宮は「童謡の宮様」と呼ばれるようになる。

◆三笠宮崇仁親王(澄宮崇仁親王)123代大正天皇の四男
1915年生

1935年 成年式 未成年男子皇族の正装 
空頂黒幘に浅黄地雲鶴文浮織の闕腋袍(冬用)に束帯、横目扇を持ち、履物は絲靴
0057


1935年 成年式 成年男子皇族の正装 
垂纓冠の冠に黒字雲鶴文縫腋袍(冬用)に束帯、白木の桧扇を懐中に、手に櫟製の木笏を持ち、履物は靴
0056


0001


アイスダンス
0053


アイスダンス
0073


フォークダンス 1987年
0069



■妻  高木百合子 高木正得子爵の娘
1923年生

194102


194101


194103


9007


0011


貞明皇后より御下賜の装束で
0059


結婚式当日
19410004


結婚式当日
0051


結婚式当日
19410005


結婚式当日
0004


結婚式当日 戦時下のためティアラの着用が不可、ブレスレットとしても使える髪飾りを着用
0072


結婚式当日
0058


結婚式当日
0063


19410006


1941年 伊勢神宮
19410002


1945年
0064


1949年
0067


1949年
19490001


6000


1969年
0068


1991年
0070





●三笠宮寬仁親王  2代当主 麻生太賀吉の娘麻生信子と結婚・兄は総理大臣麻生太郎
●三笠宮宜仁親王  桂宮
●三笠宮憲仁親王  高円宮  三井物産社長鳥取滋治郎の娘鳥取久子と結婚

●三笠宮甯子内親王 近衛忠煇と結婚
●三笠宮容子内親王 茶道家千宗室と結婚




撮影:笹本恒子
0322


1950年 七五三
0065


左から 三笠宮・寬仁親王・甯子内親王・桂宮・百合子妃・容子内親王・高円宮
0054


1966年 甯子内親王の結婚式
4002


1966年 甯子内親王の結婚式で
左から 高松宮・高円宮・容子内親王・桂宮・寬仁親王・百合子妃
2003


左から 近衛忠煇・甯子内親王・三笠宮・容子内親王・桂宮・百合子妃・高円宮 
1000


1968年 桂宮 成年式
19680001


1977年
19770166


19770168


19770169


1987年 桂宮
19870948


1966年 三笠宮甯子内親王&近衛忠煇
2027


1983年 三笠宮容子内親王
19830625


1983年
19830253


1983年
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1985年
19850118

◆高松宮宣仁親王(光宮宣仁親王)123代大正天皇の三男
1905-1987 82歳没


■妻 徳川喜久子 将軍徳川慶喜の孫/徳川慶久公爵&有栖川宮実枝子女王の娘
1911-2004 92歳没


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『高松宮日記』

1941年1月15日
このごろ大毎の吉屋信子の『花』を読み出したが、昨夜航海で見ず。
今朝やっときたら大朝と福岡日日でガッカリ。
一日抜けちゃった。

1月16日
人事局長中原義正少将が来ていた。
会ってみたらば、私に前期が済んだら代れということだった。
「戦争が始まるからというわけか」と聞いたら、
そうでなく「東京の近くにいたほうがよいとのことでだ」とのこと。
「誰が言うのか」と聞いたら、「言えない」と言っていたが、
「昭和天皇がお漏らしになった」というようなことだった。
いつも腰かけ式にちょっとやっては代るので、心づらい限りだ。
砲術学校でお払い箱になれば、すぐ航空に口があるとは言うものの寂しい。
しかも艦に乗る機会はますますなくなる。
もう艦長しかない。
艦長では楽しく平気でやっていけない。
威張りもせねばならず、真面目に装わねばならず、つまらないだろう。
こころがいら立つのをどうにもならぬ。
珍しく夜興奮して寝られなかった。

1月27日
喜久子より久美子〔高松宮喜久子妃の妹徳川久美子〕の婚約につき相談あり、意見なしと返事す。
私は他人の結婚に語る自信なし。
自らにすら自信なき事なればなり。

2月25日
小型自動車ベビーフォード(1938年型)一つ買うように言う。
オースチン(1940年型)ありしも、現物見られぬし2万円でちょっと高くもあるから。
フォードの4千マイルを走った5,500円のにすることにした。

2月28日
喜久子の手紙に川奈の桜〔押し花〕入れてあった。
手紙の文句は相変わらずしつっこくベタベタした文章だが、花はどこのもスッキリと良いものだ。

3月30日
秩父宮へ。
お太りで艶もよくおなりだったが、秩父宮妃がちょっと起きて御覧とおっしゃっても、寒いからとておねんねのままだった。

7月14日
秩父宮に御無沙汰にて、もうだいぶよろしいようだしそろそろ来そうなものとの御気持らしいとの秩父宮妃の電話あり。

7月18日
松平家より久美子縁談のこと〔松平康昌侯爵の子松平康愛&高松宮喜久子妃の妹徳川久美子〕正式に申込あり。
宮内大臣松平恒雄夫妻仲立ちにて心労す。

8月5日
久しぶりに宮城のニュース映画陪覧に上る。

8月6日
節子皇太后 防空の御避難所はじめ日光の予定なりしところ、節子皇太后お気にいらず先日御参内の時に昭和天皇と御話あり。
寒いのはイヤという思召もあり、例の調子にて節子皇太后おひねくれからか昭和天皇もお困りにて、防衛司令部の考えにては日光第一なるも、宮ノ下でもよく沼津でもまずよろしとのことにて、その後沼津ならよろしとのことになる。
何かあると語気の具合で変になり、昭和天皇また余計に御心配になる。

宮内省にて各宮の自動車二台分、代用燃料に改造の経費出すことになり、うちのはすでにプロパン2台あるので、フォードをアセチレン、オースチンを石炭・コーライト兼用に改めることにした。

8月21日
秩父宮へ。
少し御元気が出てきたようだった。
やっと5分くらい身体を起こしてごらんになった由。
まだ血沈早いとのこと、20ぐらいとか。

8月24日
原田熊雄男爵来る。
先日宮城に上った時に私がアメリカと戦争せねば皇太子様の御代が危ないという意味を御話したので、昭和天皇がすごく御心配にて翌日近衛公爵に御話あったとかで、近衛から原田に話あったとか。
あまり御心配になるようなことは言わぬがよいだろうとのことだった。
どうも全然思い当たる節もないが、10月が油の切れ目というくらいのせいぜい連絡会議の話題以外でないと思うのだが、何かお間違いだろうと答えておく。
後でよくよく考えたら、昭和天皇が艦隊を残しておかねば講話の時に威しがきかぬというようなことをおっしゃったので、先の世界大戦のドイツ艦隊みたいに置いておいても何もならぬこともあるとか、北樺太の油では不足ということを言ったのが関係あるやもしれぬと気づいた。

8月26日
宮城にニュース映画陪覧に、暑いから略服でとのことに背広で上がる。
三笠宮がそんなら和服でよいかと伺ったら、洋服がよいとの御返事で、断然軍服で出ると申し上げた由。
三笠宮、このごろ女も和服を着て参内するようにとの御主張。
一時はそんな気で張り切る年頃があるもの。
その意気、その意気と言いたいところなり。

9月1日
秩父宮、心臓の薬あがったらたちまち脈が70とかに減ったので、この際御殿場に移ったらとのことで、数日中にお出かけの由。

9月14日
秩父宮 今朝御殿場にお移りの予定のところ、お出がけに下痢をなさったとてお止め。

9月18日
帝国ホテルの満州国大使館主催晩餐会に行く。
どうも今日の記念日は満州国人がその気になりきっていない。
なんとか早く満州国人が心から一致するように日本側の態度をすべきだ。

10月3日
二位局〔大正天皇の生母柳原愛子〕久しぶりに大宮御所に上るにつき、喜久子御召にて上がる。
12年以来の由。
四輪車に乗ったままにて拝謁。
うれし涙にて、節子皇太后にも感激の御様子なりしと。

永井武官の謹話は実に馬鹿にしたものである。
●時間厳守はけっこうなことであるが、説明するなら他に実例がありそうなものである。
時計を二つ用意されていることは決して自慢にならぬ。
時刻係の人ならばともかく、皇族がそんな神経過敏なことでは仕方がない。
実際私も旅行等には必ず二つ持って行く。
しかし人には見せたくないことなのである。
止めたいと思いつつも、自分の神経衰弱的性質でやめられぬのである。
細心ではなく、過ぎている。
少なくともこれは内緒でなくてはならぬ。
腕時計をしてこれをちょくちょく見たりするのでも慎むべきである。
●神社に必ず御拝礼されることは結構なことである。
●混み合う市電をお選びになって云々は困った宣伝である。
皇族がそうした乗り方をすること自体は決して不可ではなく、目立たずにすることは皇族地震の見聞修養になるのであるが、皇族と知れては面白くない場面もあるので、平民的とかなんとか賞賛さるべきではない。
御付武官として宮の内の人として、いっそう秘すべきことを書き立てるところに、軽率無識を戒めねばならぬのである。

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『賀陽宮邦寿王御付武官永井清雄少佐謹話』10月3日報知新聞

殿下の御日常生活の1~2を申し上げて御高徳を御偲申したいと思う。
殿下が時間を御厳守遊ばされることは非常なもので、常に二つの時計を用意されていた。
また崇神の念の御厚いことは頭の下がるほどで、どんな場合でも神社という神社の前では必ず御拝礼遊ばされる。
それから単独御外出の際には自動車は召させられず、混み合う市電をお選びになって、その平民的な御精神のほどを拝すことがしばしばであった。
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10月12日
秩父宮、お床の上に上体起こしてお会いになる。
たいそうおよろしい御様子。
御話にも痰がからまず御楽に御話のようだった。
おこたで昼食。
木戸から借りた近衛メッセージ・国交調整基礎文書・アメリカ回答覚書・野村大使意見書など御覧に入れてまた持って帰る。

10月19日
大宮御所。
百合子様、母君と御召にて、一度会っておけとて初対面。
お揃い遊ばされともうやっているが、板につかぬところが取り柄なり。
節子皇太后、百合子さんの御仕度御覧、陳列を見る。
〔戦時下という時節柄〕あまりよい着物の帯もなし、御所車に花模様の赤い振袖くらいのもの。
麻の江戸模様は昔のままのイミテーションではあるが珍しかった。

11月7日
御殿場へ。
秩父宮、起きていらしてお茶一緒にいただく。
まったく久しぶりなり。
夜も起きていらして一緒にお遊びす。
秩父宮妃六畳の間にお逃げ出しになり、私たち炉の部屋に寝る。

11月8日
三笠宮お二人を招く。
宮内大臣・宗秩寮総裁、三年越しの苦心の御結婚だけに重荷おろしたとて機嫌よし。
高木子爵すっかりフラフラになる。
奥様は泣き顔にて見ていたが、しまいに落ち着いた。

11月9日
保科・徳川の〔保科正昭子爵の子保科光正&徳川家正公爵の娘徳川順子〕御披露にて会館に行く。
保科さんも大人だし、お嫁さんは身体大きいし、なんとなく華々しさのない御披露だったが、落ち着いた気分だった。

12月3日
入浴してすぐベッドにもぐりこんでいたら、宮城からお電話で来いとのこと、上がる。
7日大宮御所で三笠宮御婚儀晩餐お催しにつき、8日開戦の前日を知ってのお祝の会食は、後日歴史家の誹りもあるだろうから止めたほうがよいと思うがとのことで、私もどうかと思っていたので申し上げることにした。
予想計画状況をお話して自発的におやめになるようにすぐがよかろうとのことだった。

12月4日
大宮御所へ上がる。
8日0130くらいから始めることを申し上げしところ、「それでは御召の中にはそれを知っている者もあるべし、止めた方がよいようだ」との御模様で、「三笠宮のこともあまりスラスラ行ったから一つぐらいこじれてもかえってよかろう」等お話あり。
帰りがけ皇太后宮大夫大谷正男に言ったら、「それは困った、御召状も出ていて、かえってお止めになったら変だろう」と言っていた。
宮城へ上がったら拝謁連続だったので、「申し上げておきました」と侍従に頼んで帰る。
宮内大臣松平恒雄に会ったら、「そのことでお話していたところだが、おやめになるとかえって秘密上よくないかもしれぬと申し上げていたのだ」とのこと。
「それなら、事が現れねばよいかもしれぬ」と言っておく。
「ただ大戦争の立ち上がりというだけが考えねばならぬので、戦争中だからというわけではないと思う」と言った。

12月5日
松平宮相が会いたいとのことで電話で聞いたら、「昨日のこと事が現れねば予定通り、現れたらやめとのことに御聞届けを得た」とのことだった。

12月7日
大宮御所へ。
三笠宮御婚儀につき関係宮内官39人ほどを御召、晩餐。

12月8日
0130マレー上陸開始。
0330第一航空艦隊ハワイ奇襲成功。
0412シンゴラ上陸成功。
0430アメリカ海軍長官、日本に対し戦闘行為を開始せよ。
外国の放送、アメリカ海軍無電の傍受のみでなかなか戦闘概報来らず。
ことに台湾は朝霧ありて飛行機出発せず。
それが出発したかどうかわからず、ハラハラさせられた。
マレーは上陸開始とのみで、上陸後の模様わからず。
1930頃にはボツボツ機動部隊・台湾等の概報来り、パールハーバーの戦果大成功にて喜ぶ。
2200帰邸。
灯火管制、ひっそりしていて町の中真っ暗なり。
入浴、寝る。
一安心なり。
しかし前途なお遠き感深し。

戦況発表につき、陸軍では日本のタイ領進駐にイギリス兵攻撃され戦端を開くに始めんとする案に反対しすべて詔書の後にすることを主張し、今後そんなインチキ発表や武力行使をビクビク遠慮しつつやるような仕方をせぬように言った。
8日の朝まで陸軍ともめて、0600西太平洋で英米と交戦を始めたと大本営発表をして後は全部詔書の後と決まっていたのに、報導部の失策でその前に帝国海軍のハワイ奇襲のニュースをラジオで出して、陸軍を出し抜いたことになり不信なことになった。
陸軍ガンガン言う。
謝ったが、取り返せるものではない。

12月10日
ルーズベルトの親書はグルー大使を通じ、「日本は仏印より撤兵せよ。仏印進駐の目的を伺う」というようなものにて、政府間の話し合いの通り返事せしめられし由。
つまらぬことを言ってくるものだとおっしゃっていた。
7日の夜はこの親書があったので、首相官邸とか外務省とかゴタゴタしているのを、報道関係者はそのためと思い作戦の秘匿になった。
総長がイギリス戦艦二隻の撃沈を申し上げたら、昭和天皇も「それはよかった」というようなことで、お喜びだったとのこと。
作戦室でシャンパン祝杯。
参謀本部二課の連中、竹田様〔竹田宮恒徳王〕も果物持って祝に来られた。

12月11日
今朝御殿場に電話したら、御付武官一戸公哉が隔日に伺うし、陸軍次官木村兵太郎とかも御面談を願っているとのこと。
今夜より情勢変化すれば灯火管制を行わずと言う。
通常管制くらいにしておけばよいのに。

12月17日
アメリカ大統領が「アメリカは48時間以内に重大なる処置をとる。日本はこれにより日本の採れる処置が過失なりしを知るべし」と言ったとて、何だろう。
ソ連が攻撃してくることか、参謀本部では極東軍に攻撃に出ることあるまじと言う。
潜水艦戦をもって機動部隊をやることか、空襲かと頭をひねる人あり。

12月29日
御殿場へ最近陸軍次官木村兵太郎・参謀次長田辺盛武お話に出たので、戦況等につきては御承知と思い大して触れなかった。
御希望ありしルーズベルトの親書、木戸内府より借りて持って行った。
少しお腹の具合悪しとのことなりしも、大したことではなかった。
なにしろ身体の抵抗力に自信がなくなっていらっしゃるようではあった。
節子皇太后沼津にて落ち着きのようなりしも、少しはおさびしいようでもあった。
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『高松宮日記』

1942年1月17日
御殿場へ行く。
秩父宮およろしき様子。
お腹の具合もよくなり、お顔の出来物ほとんど治っていらした。
最近近衛とか人にもちょいちょい会って、かえって気分転換によろしい様子とのこと。

1月18日
太郎坊スキー。
ゲレンデはすごく狭く、上の方まだ雪なくて駄目の由。
久しぶりの膝に力なき足慣らしにはこれでも結構。
雪はあるがデコボコで、1~2間しては転ぶのでとうとう脱いで歩いて下る。
昼食は秩父宮も一緒におこたで食べる。

2月15日
赤坂離宮のお庭でスキーをやりに行く。

5月25日(満州滞在)
満州国皇帝さんから帰ったら申し上げてくれとのこと。
●日満両国は左右の手のとごくでしかも一心なり。
●建国神廟については全満州の崇敬の中心とすべく、率先これに奉仕する覚悟である。
●全力を挙げて大東亜戦争に協力するとともに、北方の護りに対しては満軍も日本軍と協同してその全きを期す。
●大東亜戦争勃発い際しては、その夜に御前会議を開き、まったく日満一体にてこれに当ることを話した。
●汪兆銘来満の節にはよく日本と携えて強力して行くことが唯一の道であることをよくよく話して、汪兆銘も同意見のことを答えた。
●時局は世界の禍福の分れる機であって、昭和天皇の御健康は特に重大であるから、いっそうその御安体をお祈りしておること。

7月11日
御殿場へ。
秩父宮、このごろ日中は杉林の中でお過ごしの由。
少しお痩せになったが、黒くなって具合よさそうになったが、まだ痰がからむ気味だった。

7月12日
秩父宮、林の中の組立バンガローに出ていらっしゃった。
外の時は看護婦白いのはおイヤとて、着物をきてくる。

7月15日
三笠宮妃、今日初めてプールで泳ぎのお稽古。

7月18日
竹田宮恒徳王より明仁東宮の御教育組織に関し、考究の要ありとのお話。

7月27日
理髪。
翼賛型の髪というのが新聞に出ていたが、床屋はそんなことはまだ何も聞いていない由。

7月29日
プール水換え、気持ちよし。

8月1日
プール1/3初めて井戸水にて補給す。
水温冷たくなり気持ち良いくらいなりと。

8月8日
泳ぎ、冷たいくらい気持ちよし。

8月23日
吹上のプールにて昭和両陛下のお相手に泳ぐ。

8月25日
プール水換える。
ニュース映画陪覧、初めて御文庫にてあり。

8月30日
先日キスカ行のこと課長から次長の話してもらったら、危険だから今はいけないという話だったから、今日話してみたらやっぱり危ないからとの話。
危険率にしたら数字にならぬではないか。
前のラポール行の時の大臣の言う空虚な危険視と同じではないか。
大臣の言う今秩父宮もお休みだからなにしろ生きていろと言うなら、またそれでも理屈かもしれぬ。
まったく統率上、生ける屍なり。

9月5日
御殿場へ。
秩父宮も日焼けしてお元気なり。
お咳40分、長い時は一時間も続くことある由なるも、これは気管がふくれていたのがしまってきたためにて良き経過なる由。

9月8日
吹上にてニュース映画陪覧。
ガダルカナル島戦況に大いに御心配にて、新しき情報ないかと御催促あり。

喜佐子〔高松宮喜久子妃の妹・榊原政春子爵の妻〕来邸、オバーサンと折り合い悪し趣。

9月9日
大宮御所より紅茶茶碗お回しいただく、
大倉陶園にこれに組の菓子皿できるか尋ねしところ、50枚同じ描き手にて約三カ月でやれる由。
頼むこととす。

9月14日
プール水換え。

9月18日
涼しくなり泳ぐのをやめる。
7月22日から55回泳いだ勘定になる。

12月4日
良子皇后が横須賀海軍病院にいらっしゃった時、御用掛かなにかの子供が入院していた。
良子皇后は御目をつけられて皇后宮大夫広幡忠隆に囁かれたが、御案内の病院長は何も言わなかった。
東京第一陸軍病院へいらっしゃった時は、院長がわざわざ内務大臣湯沢三千男の子供とか誰の子供とかことさらに指名して申し上げた。
ここに陸軍海軍の気風の違いが認められる。

12月28日
餅つき。

12月29日
大倉陶園より、紅茶碗にあつらえた菓子皿50枚出来。
少し花の色の違ったものあり。
今度の誕生日に果物皿をいただくつもり。
フィンガーボールは形よくないから皿のみ。

12月30日
平泉澄博士と面談。
悲観論派は近衛を中心とし、楽観論派は東条を中心とし、対立の傾向激しからんとす。
近衛と東条とを会わせることにより緩和せしめんため、私の所にて両者を一緒に呼んで聴いたらよいだろうとの話なり。
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『高松宮日記』

1943年1月1日
町では日本髪の娘、年末からちらほら、例年よりも多かった。
女の子、大きなリボンを髪につけたのが多かった。
他に飾るところがないからだろう。
着物でめかしたのは少なかった。
なんとかして飾ろうとするのは女の欠点と言う人あり。
そうばかりでもあるまい。
今年の程度は結構だ。
門松ほとんどなし。
松つけてあるのがおかしいようだった。
二重橋前の人手は今までにない多数だった。
行くところが無いせいもあろう。

1月16日
デソート使い始めてみる。
安物だけに乗り心地はスプリング固い。

1月17日
大宮御所。
デソート御覧に入れ、芝生を回ってお乗せする。

1月18日
デソートを毎日使っているが、1941年型で目立つ。
米が足らぬ着物が足らぬ、そして作戦は苦しくなる。
それをひしひしと感じながら戦利品歴然たる車に乗って歩くことは見た目の感じ甚だよろしからずと考えられ、人心の心に及ぼす影響は皇族が独りよがりで戦利品を乗り回す有り様は遠慮すべきであると思える。
それで新しい車に乗る楽しみは少しもない。
今ある7人乗を乗り延ばすつもりで、デソートの方を早く使い古すのが長期戦の対策かと、まあ消極的な反感は目をつぶってもらうつもりなり。

皇后宮大夫広幡忠隆より明仁東宮御学問所に関する研究経緯を聞く。
現在明仁東宮は算術なども一般より計算等に時間がおかかりになるが答は間違いなくなさるので知能の方は普通であるが、やはり御身体の方が考慮を要する点なり。
宮内大臣松平恒雄の意見にもあり、運動場を一般と一緒に御使いになり、その間に得るところ少なからずと考えその方針なり。

2月16日
吹上御所。
三笠宮より御旅程など詳しい御手紙が来たと珍しいようなお感じらしかった。
大いに現地事情を申し上げるべしと張り切る方なるべし。
東条・近衛を会食に呼んだこと、「どういうのか」と御尋ねだった。
政治に関することなら知らずにおれぬという御気持なるべし。
皇族はでしゃばるなという御気持もあるべし。

2月22日
昨年良子皇后へ五宮〔秩父宮・高松宮・三笠宮・北白川宮・東久邇宮〕より御誕辰に上げる扇面型文庫あまり音沙汰ないので伺ったら、注文するのを忘れていたらしくこれからという話。
それで注文したらしいので御価を入江相政事務官に聞いたら、注文したがわからぬという話。
いよいよノンキなことなり。
高価らしく今年の分もそれに一緒にすることになる。

4月19日
連合艦隊司令長官山本五十六遭難の電報を見てぼんやりとなる。
一部長わざわざ残念なことなりと挨拶される。
総長、午前上奏す。
好んで連合艦隊司令長官が死地に至る時機ではなかったが、軽挙なりということではない。
喜ぶべきこととは考えられぬが、無駄なこととは言えぬ。
主将ことに山本大将の統率力から見て犬死にはならぬ。

5月3日
木阪義胤中佐、明日赴任す。
支那事変以来戦争に参加せぬのは、全海軍の中で木阪氏と私とただ二人なり。
これで本当の一人になったわけなり。
技術関係者はそれでよいが、作戦統率関係で戦争に行かぬとはでくの坊ということなり。
物も言えぬことなり。
極めて憂鬱なり。
出発の挨拶をされて思わず涙ぐむ。
この気持ちわかる人はまた木阪氏のみなるべし。

5月6日
ドイツ語の稽古。

5月8日
《皇族会議の件》
久邇宮徳彦王〔龍田徳彦伯爵となる〕については臣籍降下して伯爵ということには問題なきも、賜金100万円より少なくしては如何との考えもありしが、さてその時期になるとやはり100万円ということになれり。
私としては先に久邇宮家彦王〔宇治家彦伯爵となる〕の時にも問題ありしが、今回も100万円という額が多すぎて皇室財政上の困難ありと言うならばこれを減ずるに差し支えなきも、久邇宮多嘉王〔徳彦王&家彦王の父〕が降下されるべきものをされなかったのだからという考え方には不賛成にて、降下されるその方の直接に必要によるものとして考うべきなりと述べておけり。

《賀陽宮恒憲王の件》
名古屋の師団長に赴かれる時 陸軍関係では自分の知っている者を集めて張り切って行かれし趣なるところ、内大臣木戸幸一に「愛知県知事雪沢千代治ならびに愛知県官房長山田武雄は良くないから交代せしめよ」と注文されて困らせて行かれたが、官房長は原信次郎に代えたが、知事についてもその後も大蔵大臣賀屋興宣にも言われし由。
新内務大臣安藤紀三郎は直ちにはできぬ旨申し上げる由。
宮内省としては内務大臣の決心に対してなお皇族として言われることになれば間に入るべきなるも、いまだ関係すべきであるまいと考えを述べておく。

《東伏見邦英伯爵〔元久邇宮邦英王〕の件》
比叡山真言宗管長のことは元久邇宮属なりし飯田というもの京都にあり真言宗宗務に関係あるとかにて、その策動にて得度する要なくてとて東伏見伯爵に申し入れ、彼は良子皇后の弟宮なりしとのことで宗会議等の関係を丸め得るとでも簡単に考えたるか。
東伏見伯爵も歴史研究にも便なりくらいにて、養母東伏見宮周子妃・実母久邇宮俔子妃に話あり、別に反対もされなかったとのことにて新聞に出たわけにて、得度することに東伏見伯爵は大反対とのことなり。
本願寺の者は「昔は叡山と奈良から妻帯することについて盛んに攻撃されたるに、今度は真言宗の管長から妻帯することになるとは面白いこと」と言っている由。
〔東伏見邦英伯爵はすでに妻子持ち〕
文部省では管長は、
●徳のある者
●得度すること
などを条件と考えある由にて、宗務会議等にて改訂をしてもその点文部省で許可せざるべし。
ただ例の官僚的に申し出なければ、意志を表明せざる態度は不適当なことである。
星島は先に3年の執行猶予なりしも、相変わらず東伏見伯爵の身辺にあり。
他に人もなきらしく、今回のことには直接関係は無いようなり。

5月15日
照宮成子内親王御婚約につき参内。
内謁見所にて昭和両陛下・照宮御揃いにて御祝を御受あり。
御祝酒・サンドイッチ出る。

5月16日
秩父宮、だいぶおよろしき由なるも、御起きになるほどにはならず。
少し痰余計に出る様子。

5月22日
昨日連合艦隊司令長官山本五十六、戦死発表あり。
今朝の新聞に大々的に出る。
知ってることだからなんともないのだが、車中で見た新聞 置き捨てにしがたい気持ちにて鞄に入れた。
おそらく他の人だったらこのように心動くことはあるまい。
海軍として大損失と言えよう。
また世の人にとってもなんとなく惜しむ心を人から人へと伝えて、付け焼き刃ならぬ心の痛みを知ると知らぬとに隔てなき憂いとなるであろう。
亡き人の徳なり。

6月5日
連合艦隊司令長官国葬。
北白川の叔母様〔北白川宮房子妃〕よりお話あり、大臣官邸に場所を用意し、喜久子〔高松宮喜久子妃〕・百合君様〔三笠宮百合子妃〕・東伏見宮おいであり。
先の東郷平八郎の国葬の時もそうだった由。
北白川の叔母様そういうことお好きなり。
涙とまる時なかりし由。

6月16日
先年宮崎県でもらった弓を持ち出して、矢の良いのがないので、弓がけは魚籃坂の弓師にて作ったから、今度は矢というわけで、池田特務大尉が集会所の出入の弓屋に言いつけた。
買うことになる。
4本で25円とはちと高い話だ。
名入りでこれが良いのか悪いのか知らないが、売る方ではこれで値を上げたことになっているのだろう。

6月23日
秩父宮へ寄って秩父宮妃と話す。
秩父宮はかばかしくないので、なんとなくお気になること多き御様子。

6月25日
照宮成子内親王の御新居拝見に行く。

6月30日
音羽正彦侯爵の奥様〔大谷尊由の娘大谷益子〕御病気なりしとのことにて御見舞の件 秩父宮と御相談せるも、音羽侯爵は別に女あるらしく、奥様は今まで黙ってきたのだがそれが原因とのことにて、御見舞はもう少し調べてからとなる。

7月13日
近衛の件で東久邇宮稔彦王来談。
近衛から聞いてくれとのことなりとて、
①私が近衛をつれて昭和天皇にお話を申し上げようとしているとのことなるも本当か。
②私が近衛に会うつもりか。
とのことなり。
①は別に心当たりなし。
近衛は自分から会いたいということを馬鹿に気がねしているとのことなり。

7月15日
ドイツ語の稽古。

秩父宮御病状につき遠藤博士の話を聞く。
左肺の鎖骨の上下にわたる部肺尖に空洞あるらしきも、肋膜が厚くなってきてポータブルのレントゲンではよく見えぬ。
昨年夏ごろから左の横隔膜はずっと上へ上がって左乳の辺まできて、心臓も左にずっと寄り、気管も左に寄って、右肺が広がっている。
これは気胸をやったのと同じ結果であって、肋膜の癒着のため気胸ができぬのだが、やったのと同じになっているのは良いわけなり。
病患は左肺の前葉で、後葉はそんなに侵されておらぬと思える。
右肺には最近は異状を認めず。
腹膜と共に警戒注意している。
腸にもなんらの発見しているものなし。
一般と比べて抵抗力が非常に弱いように見受けられる。
下痢はそんなにほどくないので案ずることはない。
治療としては開放療法を根本として推奨する。
そして鼻カタルとか風邪とかになって病状が後戻りするよりも、これで抵抗力をつけることが大切で、零下10度になってもよいという話なり。
それならば秩父宮のやり方は不徹底で、これを唯一と考えるならば効果を期待するに不十分なり。
それに関しても看護婦は日赤の結核療養所経験者でないため開放についても思い切ってやれぬのではないか。
また看護婦がやろうとしても侍女などがなんとなくやり難くする態度あるべきは、私の病気の時から推して察せられる。
病人にとって看護婦は極めて大切なる存在なれば、医者と気脈をよく通う者で思う通り病人を扱えなくてはならぬ。
それで病人も安心できるわけなりと語る。
一度療養所見学せしめること考えしも、遠慮にて実行せざりし由。
セファランチンにつきては効ナシとの例のみを挙げて、実用せんとする方に心傾かぬ様子なり。
「医者はどうも新しい療法や薬を排斥するばかりで、協力または採用せんとする努力せざる通弊あり」と言ってやる。
檜や椰子の油については実験したることなしと。
お灸はどうかと言えば、やっても差し支えはないが効くとは思わぬと言う。
あれやこれややるのは、かえってどれも効かぬと病人に療養の信念を失わしていけないとも思えると。
今度の土曜にレントゲンを撮って、それから相談して治療につきても考えるとのこと。
治療としてできることは、肋骨切除・空洞吸出なりと。
これは御殿場ではできぬ。
今すぐ動かすことは考えぬと。
遠藤博士も自分の治病の経験からやはり新しいことはやらぬと言う点も、物足らぬ感なり。

7月18日
プール、今日から使用。

7月22日
朝プールで泳ぐ。

平泉澄博士来邸。
戦局ますます困難となり、どうも東条首相では国民の心を満足して敗勢を挽回することに一致せしめることはできないであろう。
国民はいまだ勝っておるつもりでおる。
今から一生懸命に喜んで努力するように立て直さねばならぬ。
それには皇族が乗り出す時機はすでに来ているであろう。
悪化の情勢に昭和天皇が正しい筋の通った人を側近に有せられることは必要である。
またかかる場合には平凡より癖あるも仕事をする人も必要なり云々と。
往年共産主義思想の風靡せる時は、学生も教授も暴動に際してはいずれに加わるべきか、運転手も宮城があって邪魔で回り道をせねばならぬと言い、天皇を敬うとかいう心なく、考えれば無くてもよいものがあるわけだと言うのが共通であった。
それが今日に至ったのはなんと言っても五一五事件で世人はハッとしたこと、満州事変等々によるのである。
もとよりその当事者は未熟の者でその罪は罪として刑せられて適当であるが、しからば今日まで何事もせず罪せられずにおる者が如何にして彼の思想の危機を打開することに努めたか。
何もしておらぬのである。
かくのごとき経緯に対しては十分に今日の時局と考え合せて、その筋道を明らかにしておらねばならぬ云々。
「最悪の例を取って言えば、無条件降伏となった時にも国民が一致して再興を誓い、臥薪嘗胆するつもりになればようであろう」と話したのに対して、今からも少しでもよいということを努力実現しなくてはならぬ。陸海相互に悪口を言い合うようではならぬと。
「皇族と言えば、私はどうも自信が持てぬ。秩父宮ならばであるが、目下東久邇宮稔彦王は近衛公爵とか他の人と常に接触しておられ、経験も理解もあられるからよいかもしれぬ」と語る。

7月25日
プール、水換えしたら溜まらなくて泳げず。
ムッソリーニ辞任、パドリオ任命を報ず。
畑、ジャガイモ収穫。
種芋5貫にて90貫余獲れた。

7月31日
戦局は困難は増大すべく、国際情勢また有利ならざるは速やかに改善せらるべき予想立たざる時、最悪の場合を考えその処置を案ずるは極めて必要なるなり。
すなわち私としてただちに迷う問題はやはり生か死かの分かれ道にたつことなり。
一つは都にありて昭和天皇の側近にあることにして、一つは戦場に赴きて敵中に突撃することなり。
いずれも国体変革暴動に際し皇位を守るためなり。
敗戦による国民の怨みが天皇に直接向けらるるとせば、私が戦死することによって感情的に慰撫するとともに国民を発奮再起を誓わしむることを得べし。
先の大戦にドイツ崩壊にあたりカイゼルはただちに戦場に赴きて決死せば、ホーエンツォレルンの後嗣を立て得んとする進言の意味に合せんとするなり。
然れども現在の人材においては一抹の不安を国内の死後に残さざるを得ざるものあり。
しかして生きて側近にありて何の重責を負うべきやを思えば、また自らの識量の足らざるを憂うること切なり。
ここに生死の迷いに悩むを如何とせば、死を選ぶのみか。
秩父宮にして些かにても活動し得らるるとせば三年の命を一年につめても国家の危急に応ぜらるべきは明らかなれど、いまだこれをたのむべく体力の快復し給わざるを惜しむ。
三笠宮はあまりに幼稚なり。
数年後に委するに足るべきも、今すぐにものの役に立つとは思えず。
軍人たらんとしてすでに命を保つに専心して今日あり。
政治家たらんとしていまだ機運の熟せざるものあり。
もとより政治に関与するにはまず東久邇宮稔彦王を推さんとするも、他の皇族にして頼むに足る者なき観あり。
竹田宮恒徳王は一臂の力となるべし。
北白川宮永久王はすでになし。
世間、皇族の出でて時局の一環を担うべき機は来れりと言う。
皇族出づとあらば国民は自ら安んじて進むべき道につかんと。
我が国の特徴また存すと言うも、いたずらに甘く考うるは不可なるべし。
天皇親政あるべしと言う。
親政とは如何。
天皇一人にて何をなし給うや。
総理大臣と天皇との間に隔たるものありとの不安も、結局は国民の生活苦ないし戦争遂行の不安に依るべし。
皇族出たりとも親政を疑う心理を解決するとは限らざるべし。
要は総理大臣を信頼すべく国民を指導するにあるべし。
皇族の出づる意味もまたこれを覘うに他ならざるべし。
皇族自ら総理大臣たるにおいても同理なり。
要は官吏の奮発反省を得て一億一心の団結信頼により国運を啓かんとするにあり。
如何にしても敗勢を挽回し勝算を得んとの努力に邁進せんとするにあるべし。
かくては敗戦にも国民の決心動揺することなく、復仇再興の念を堅めしめんとするを得べしと言うも、なお直ちに発動して敗勢を転じて必勝の念に不動心を確固にせんと言うなるべし。
少しでもよければ皇族立つべきに疑いなきも、軽率にしてかえって親政の実を乱し、思想戦の遅れを取るがごときは慎むべきなり。
なんとなれば皇族の立つは主として精神作興にして、これをもって国民の物質生活を恵まんとするにあらざればなり。

8月1日
照宮〔照宮成子内親王〕より喜久子に電話にて、プールの御相手に来ぬかとのことで吹上に参る。
一時間泳ぐ。
良子皇后も今年初めてお入りになる。

8月4日
朝、プールで泳ぐ。

8月11日
遠藤博士に秩父宮のレントゲン写真を見せてもらう。
左胸ほとんど白くなってわからぬ。
空洞あるらしいという程度。
絶対安静・大気療法で行くこと。
手術はやらぬ。

8月16日
泳がず。
ローマ、非武装都市宣言。

8月17日
東久邇宮稔彦王来邸。
近衛より「幣原喜重郎の話を聞いたらよい」との伝言を伝えらる。
電話でもよさそうなものなり。

8月27日
三笠宮別当厚東篤太郎より、百合君〔三笠宮百合子妃〕おめでた二カ月とのこと。

8月29日
ブルガリア国王ボリス3世崩ず。
よい王様だった。
枯れた盆栽を日本のだとて飾ってあったので、後から活きのよいのを送った。

8月31日
かぼちゃ収穫。

デンマーク国王クリスチャン10世軟禁せられ、デンマーク海軍艦艇60隻自沈せりと。
国王は海軍好きにて海軍を訓育建設されたのを考えれば、感深し。
デンマーク国王には好感深し、大事なきことを祈る。

9月5日
芝生を畑にする縄張りを見たり、稗の穂をつんだり、小豆つんだりする。
小豆二度つんだので、あとは刈るだけ。

9月9日
イタリア無条件降伏。
夜中の放送でイタリア無条件降伏せりと。
誰もがイタリア脱落は通念になっていたのに、あれよあれよと呆れるばかりなり。
失敗なり。
在ローマ武官光延東洋は8日朝、ナポリ南方に敵船団ありとの情報交換を発電している。
馬鹿にされた話なり。

9月22日
留守中に庭の畑、荒起し完了す。

9月26日
芝生を打ち起したりす。
手の皮薄く、長くやれぬ。

10月4日
かぼちゃの残り収穫。

10月13日
賢所で大前儀参列〔東久邇宮盛厚王&照宮成子内親王の婚儀〕
盛様〔東久邇宮盛厚王〕余裕しゃくしゃくとして現わる。
照宮〔照宮成子内親王〕美しく愛らしく見ゆ。
盛様御簾を出て縁の角にて振り返り、照宮の出てこられるのを見返した形、誠に優に優しい男ぶりなり。
照宮にこやかにて、さすがに朝は涙のあとも伺われたが、午後はあどけなく見ゆ。
盛様も無邪気、よき御夫婦、永く御幸福なれと祈る心地す。

10月23日
内原満蒙開拓青少年義勇軍訓練所生徒5名来り耕作、小麦まく。

10月24日
内原満蒙開拓青少年義勇軍訓練所生徒来邸、広芝の芋掘る。
558貫なり。
200貫貯蔵す。

11月2日
秩父宮妃より新服装〔宮中服〕につき御説明申し上ぐ。
喜久子、着て御覧に入れる。

11月7日
明治神宮錬成大会中央大会。
安南留学生の入場の時 仏印の札を持たせたところ、予行の時から安南と書けとていざこざありしも、大東亜省の意見とかにて仏印のまま無理に持たせたが、私の前に来たら札を返還するような形になって置いて行ってしまった。
その時はなにごとかと思ったが、以上の経緯あり。
なるほど、大東亜と言いつつ仏印か安南かのけものにしていたことなり。
大いに注意すべきことなり。

11月9日
久しぶりに肛門にイボが出る。
ボラギノールを入れる。

11月14日
満州建国大学、本年初めての卒業生を出す。
尾高亀蔵中将・安倍教授に聞く。
日・鮮人の一致せること実に目覚まし。
鮮人の和田教授の影響大なり。
満人はこれに次ぐ。
蒙古人は日本人的なり。
白系ロシア人は劣る。

11月17日
柿、収穫。

11月18日
サツマイモ・ジャガイモ収穫。

11月21日
カラスウリ至るところに赤くなっている。
収穫す。

11月22日
カイロ会議、ルーズベルト・チャーチル・蒋介石。
落花生収穫、9斗3升。

11月29日
宗秩寮総裁武者小路公共来談。
蜂須賀正氏侯爵、礼遇停止の件。

12月1日
テヘラン会議、ルーズベルト・チャーチル・スターリン。
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『高松宮日記』

1944年1月14日
《東伏見邦英伯爵の管長問題》
文部省ははじめから俗人に修行なき人には許さずと言うも、態度極めて消極的なり。
最近得度して僧籍に入るとの考えを持ち、そうすれば管長になれるとの見方をしておられる。
本年になりてより久邇宮朝融王〔東伏見邦英伯爵の兄〕に珍しく面会、その話をされし由。
朝融王は「どうせなっても失敗するであろうからやらせてみよう」との考えの由。
宮内省としてはとめたいが下手にとめだてすると、「東伏見宮の祭祀を継がぬ」と申し出られるのを恐れる。
先の場合にもそういう脅しを用いられた。
東伏見宮周子妃にしてみれば最も重大なることにて、昨年これも珍しく東伏見宮が法隆寺を自ら案内されたのをひどく喜ばれて、宮内大臣松平恒雄・宗秩寮総裁を食事に召したというくらいのこともあり。
僧籍に入ることを望まれぬが、これは絶対ということでないので仕方なしとも考えられようが、祭祀のことになると大問題で東伏見宮周子妃のもっとも痛心されることになり、松平宮相もこの点を考えねばならぬ立場にあり。
管長就任に関しては叡山側もこれで世襲の管長を叡山に置けるという考え。
青蓮院〔天台宗門跡寺院〕ではそれで収入も増すであろうという考え。
上野〔天台宗寛永寺〕では京都久邇宮邸を住居とされよう、そしていずれは東京の移られて上野に来れようというなどの、それぞれの考えで賛成している。
黒幕たる星島・飯田はすでに運動金を消費しているとか。
管長になれば年10万円はもらえよう等、就任のためには100万円も用いられよう等の考えあり。
結局現在ではやはり文部省から速やかに、時局も考えかかる管長は許さぬ方針をそれぞれに示達するを適当とすべしとの所見を宗秩寮総裁に語る。

2月4日
音羽様〔音羽正彦侯爵1944年2月6日戦死公表〕大島島へ行かれ危ないからとて第六根拠地隊参謀に代えたところ、こっちが先に敵の上陸するところとなり変なことになる。
もちろん私は一人ぐらい本当の戦死〔皇族の戦死・音羽正彦は元朝香宮正彦王〕あった方が良いと思ってはいるが。

2月16日
東宮伝育官石川岩吉来談。
平泉澄博士の話にて、時局まことに心痛、いよいよ皇族内閣出現の要ありとの感深し等々。
それにつきその段取りを聞きしに、昭和天皇の思召によるといった考えなりと。
皇族が政治に関せずとて責任を逃れる要はなきも、いたずらに出てみたところで何ができるかとの考えかわりなし。

2月18日
軍令部。
海軍大臣に話す。
「私の保身の時にあらず、戦死するべき時ならずや」
いまだしからずと言う。
「海軍の最後的努力すべき時なり。大臣または総長交代して活を入れ直すべきでないか」
目途が無いのに辞するわけにゆかぬ、信念として悲観した顔・言葉は表さぬとて、なお最後的段階に立ち至り大臣の能力及ばざることに気づかぬようなり。

2月20日
私の銅像三つあるのを壊す。〔金属供出〕

2月21日
伏見宮熱海より御帰京、来邸。
昨日の手紙の件のお話、嶋田大将御信任ありて辞めさせるよう言えぬ、私から昭和天皇に申し上げるようにでもすればともかくとのこと。

2月26日
東久邇宮稔彦王より電話にて、朝香様〔朝香宮鳩彦王〕より音羽様〔戦死した音羽正彦侯爵・元朝香宮正彦王〕に菊花章を賜るわけにいかぬかとの話ありて宮内省に話しせるところ、宮内大臣も不賛成の由につき、朝香様にお話ありしに、私にもう一度話をしてみてもらえとのことなりと。
直ちに宗秩寮総裁武者小路公共に電話し、東様のお話を知らぬ態ににて相談せるも、宮内省に誰も菊花章に賛意を表する者なく、御降下の方として別の方法にて何かする工夫をするつもりとのこと。
もう一度私の意見ありしを宮内大臣に取り次ぐように言う。

2月27日
北白川の叔母様〔北白川宮房子妃〕より話あり。
音羽様のことにて、朝香様よりお話あり、なんとかならぬかとのこと。
私としても皇族が皇族として特別に受け得ることならともかく、一般の行賞をもじって無理をするようになるのは面白くないが、なんとか宮内省に申しましょうと約す。
公爵〔侯爵から公爵への格上げ〕も一案なるべしと言う。

2月28日
明仁東宮の御教育に関しては、かえって万世一系という国体に心易しとするためか、関心足らざるを感ず。
はるかに外国の国王・皇帝の後嗣の教育は直ちに皇室の存続の問題として本能的に考えられ、自他ともに熱心に厳格適切に行わるるにあらずや。
今時局の困難に直面し将来如何なる事態となるも、いよいよ天皇の御素質・英明にまつこと大なるを思えば、いまだ幼き明仁東宮の御身の上には実に容易ならぬ御苦労を願わざるを得ざるなり。
この意味でも速やかに成年の教育を受けしめ、一日も早く天皇として人格を備えらるるよう努めざるべからず。

3月1日
平泉澄博士。
いよいよ私の立つべき時機に立ち至れり。
ラバウルの全軍見殺し、空襲時の暴動化、今にして誠ある政治をもって戦力を全能発揮し、戦争目的を更めて宣戦詔書に基づきて明らかにし、戦争結着に持ってゆく必要あり云々。

3月3日
《東伏見邦英伯爵の管長問題》
その後文部省からインチキな得度では許さぬ旨、宗務当局者に強く話たるところ止めとなる。
東伏見伯爵も断念したとか。
それにつけても星島は磯子に常住し特別の配給として白米・玉子・肉等を警察から、それが受けなくなったので経済部から受けて、しかも代金も払わず、東伏見伯爵が月の半分は京都なのを一カ月分取って、なにかと言うと皇族出をふりまわし、量も皇族以上とか。
神奈川県知事近藤壌太郎も警察に出すなと言って止まったと思って知らずにいたり。
笑い話以上なりと。

3月4日
宮内大臣松平恒雄・宗秩寮総裁武者小路公共。
音羽正彦侯爵〔元朝香宮正彦王・戦死〕に対し菊花章・公爵等の御沙汰願えぬかとの研究、いずれもできぬとのこと。
御沙汰御使も難しい。
結局何もできぬという話なり。
伏見博英伯爵〔伏見宮博英王・戦死〕との釣り合いを言うも、伏見伯爵の金鵄章が特別の異例なるため、それは違うは当然と言うも、まず皇族出の者として特別でない方が感じがよいとのことを考えてもおるらしく、仕方なしとなる。

3月5日
喜久子2~3日胃の具合悪くあまり食べず。
ヒステリー気味なり。

3月11日
平泉澄博士が近衛公爵に、私が総長大臣兼任に対して大いに怒っているとの話をせる由。
私は怒っておらず、かえってそれもよいと思っている。

3月29日
叡山の問題が一段落して、残るは村雲日浄門跡〔仙石政敬子爵の実娘仙石温子/九条道実公爵の養女九条温子〕の話。
日浄尼の戦地への慰問文を見た兵隊(それもセックス的な乗ずべきものありと見てとると、所を書いておいて帰還する時の相手にしようとしていた)の選に入って、その兵隊の訪問を受け秘書に採用、今までの尼さんの執事を追い出してどこへでも連れて歩いている。
その兵隊はこれも同じ手で手に入れたのかすでに細君あり。
先の尼公〔村雲日栄〕の時から寺内の経済の乱れもあり後援会のいざこざもあり、寺の宝物・経済に手をつけられても困るし、こんな話もだいぶ京都で話題として賑わっているので、宗秩寮総裁武者小路公共が侍従武官の口を通して陸軍で再びその兵隊を召集さして南方に出すことになったが、船が出ないとかで依然として伏見の連隊におって休日にはちゃんと面会しているとか。
最近村雲日浄が上京し、節子皇太后と良子皇后に御対面を願った。
大宮御所では知らないからすらすらと拝謁したが、皇后宮大夫広幡忠隆は知っていたので拝謁を止めていたので、両方がちぐはぐになってその訳を良子皇后に申し上げなくてはならぬということになり、また広幡大夫足を痛めて休んでいるので武者小路総裁と電話でしきりにその話をしている由。

4月3日
山本英輔大将・内山智照同伴。
(言霊学、四国剣山の件)

4月12日
大学校に行き、寺本武治少将に黙示録・言霊学・四国剣山のことを尋ね、やはり後援したり勉強する必要もなしと思う。

三笠宮来邸。
〔出産予定の第一子の〕お誕生の名として「甯」とする。
ただし「ヤス」「サダ」なれば、男なら「サダ」女なら「ヤス」として、節子皇太后〔貞明皇后〕〔サダコ〕秩父宮〔ヤスヒト〕と同じにならぬようにするつもりと。
支那の字なり。
不賛成とも言えぬ。
よかろうと言う。

4月23日
音羽正彦侯爵〔朝香宮正彦王〕英霊の箱には写真一枚入りしのみなり。
朝香のおじさん〔朝香宮鳩彦王〕は何も入っておらぬだろうとは思いしも、やはりなんにも入っていなかったとてガッカリなさって見えた。
ガダルカナル島戦死者等にて何もなく、現地の慰霊祭の供物と思われるバナナの皮等を入れあるものあり。
地方新聞にてこれを家族の人が怒らぬようにとの記事ありしこともありしが、そのつもりで考えれば写真一枚はいっそうつまらなく思う人もあるべし。
英霊の箱にはあらためて臍緒・歯など収めた。
例の通り〈南無阿弥陀仏〉を書いて8枚収む。
叔父さんはお題目より〈七生報国〉とかそういった文句がよいとて、その場で書く方はそれぞれそうした句になる。
進級したので少佐の襟章と金鵄章二つになった略綬とを収む。
別に小箱を埋められるというので、それに襦袢とか足袋とか杖の型など入れた。
叔父さんは英米に斃されたのだから、シャツなど英米の物は入れてやりたくないとのお気持だった。
小さい箱だったが割に入って、ネクタイも入った。
伏見博英伯爵〔戦死した元伏見宮博英王〕の時は少し大きな箱で雑誌等も入れた由。
伏見伯爵の遺骨は音羽様が横須賀から首にかけて、その時「重かった。感慨無量なり」との話ありし由。
叔父さんのお話なり。

4月24日
三笠宮、沼津にて百合子妃産気づけりとて夕刻沼津へ行く。
少し変なり。
わざわざ行くことはあるまいに。

5月3日
徳川義親侯爵。
帰朝してみて陸軍の人に会って、どうなるのだろうと投げているのを見ていよいよ寝て夢心地にて、皇族が総理大臣になるのではなく打開の道をつけるために積極的に働いてもらう時と考える。
重臣も手をあげている云々。

5月4日
三笠宮、〔第一子の〕命名の御礼にとて来邸。
ちと変なり。

5月17日
秩父宮、ひどくおだるく、息苦し、召し上れぬのでブドウ糖2注射・強心剤2注射。
流感の気味、肺炎菌を認む。

5月18日
秩父宮御容態。
遠藤繫清博士拝診、レントゲンを撮り自然気胸のための呼吸困難と判明、吐き気もそのためと認めらる。
原因わかり一安心の御様子。
秩父宮妃一人で御心配にて、電話かけて私にお知らせになるだけでも気軽になれる御気持ちなり。

5月19日
木更津航空隊着。
さすがに暖かき地なり。
ここまで来ると女の子の顔丸く血色よく愛情ある顔 多くなる。
そのわりに大人の女の顔は平凡。

5月23日
秩父宮少しお楽になり、御食気も回復せり。
御熱上下あり、一時腎盂炎の疑いありしもそうでなしと。
肋膜炎はなにぶん自然気胸にて、汚れた空気が胸腔にたまったので化膿の心配はある由。
寺尾殿治博士泊まり込みなり。

5月27日
内原満蒙開拓青少年義勇軍訓練所生徒4名来邸、イモ植え付け準備。

5月28日
内原満蒙開拓青少年義勇軍訓練所生徒引き続き作業。

5月30日
内原満蒙開拓青少年義勇軍訓練所生徒、午後引き上ぐ。

6月22日
御所、御都合うかがい参る。
サイパンを失うことの重大に関して一言申し上ぐ。
あとつけたりにて「皇族を何にか御相談相手になさる御思召なきや」伺いしところ、
「政治には責任あったからできぬ」
「統率の方も責任あるべし、結局お頼りになる者なしとのことでしょうか」
「それは語弊あり」云々。
相変わらずにて落胆す。

6月24日
親睦会。
会食後談がサイパンのことになり、朝香宮鳩彦王は「奪回作戦を強行せねば、あと目算なし」、東久邇宮稔彦王は「成算なき奪回はやらぬ。あとなんとかなるかもしれぬ」
午後昭和天皇に「元帥会議は形式的なものである。準備期間もない。しかもそれは統帥系統のもので、戦争指導上もっと深く考えをめぐらす上で決定さるべき」旨 手紙を書き、「御苦心遊ばすべきと思う」と書いたが、とうとう差し出さずに止めてしまった。

6月25日
昨日の手紙、やはり差し上ぐ。

6月26日
御所、御二階にて昨日の手紙のこと。
「元帥会議上奏御決定のことなれば、ひっくり返すことなし」との御話あり。
「ひっくり返すにあらず、サイパン確保と言い実行せざるままに問題あり」云々から、
「しつこい」と言うことであった。

7月5日
秩父宮へ行き、作戦の見通しなく国内結束第一重大なること、昭和天皇が依然形式的なること等、よさそうなら秩父宮に申し上げてほしいと言っておく。

7月7日
内大臣・宮内大臣・侍従長と会食。
昭和天皇の修養の御相手必要とすること、御健康には錬成の意味にて強制・克己の御運動が必要なること、組織の乱れた時の御覚悟として御注意を申し上ぐる要あること等話す。

7月8日
昭和天皇の御性質上、組織が動いている時は邪なことがお嫌いなれば筋を通すという潔癖は長所でいらっしゃるが、組織が本当の作用をしなくなった時はどうにもならぬ短所となってしまう。
今後の難局にはその短所が大きく害をなすと心配されるので、そうした時の御心構えなり御処置につき今からお考えを正し準備する要あり。
すなわち精神上の師となる人をおつけすることが必要であるとの話をした。
昭和天皇は筋を踏み外すことがまったくお嫌いなため、内大臣は政治・武官長は軍事・宮内大臣は宮中関係・侍従長には側近のことというふうにまったくそれから少しでも出たことを申し上げれば御気色悪く、自らも決しておおせにならぬ。
侍従長も初めは何事にもついて申し上げるつもりだったが、これはできなくなった。
もちろん二二六事件等の例により侍従長と内大臣を撃たれたということは、大きな衝動としてますますその区別を立てることによりかかることなきようにとの御気持を強くしてしまった。
内大臣はまったくありがたい御気持とは思うが、あまりに極端であるとは感じあり。
先日伏見宮が海軍大臣を代える件につき申し上げられた時も、内大臣に「内閣の更迭は困る。御思召によるとなっては困る」とおおせられたが、伏見宮の御話にありしことなり。
したがって御修養の師たるべき者が得られても自然それが具体的な政治問題に触れたら、かえって御不興をもって一度でお近づけにならなくなるであろうとは皆の考えなり。
そうしたお考えが甚だ困るので、それを改めなくてはならぬ。
内閣の組織更迭はしばしば御経験あるも、それを各種の情況の下に分析的に御認めになることなく、一つの結果だけを経験として前例にされるところも政治性なき御性質なり。
なにしろ今日のごとき憲法〃〃とおっしゃっても、その運用が大切なる時に今のような有り様では、例え天皇として上お一人でも万世一系の一つの繋がりとして、それではあまりに個人的すぎると思う。

7月16日
侍従長。
このあいだ私が何を申し上げたか知らぬが、あとでだいぶ御興奮になっていた。
御性質もあり重大なことを申し上げた時お聞きになるよう、あまり小さなことで御耳をふさぐよう仕向けぬ方がよいだろう云々。

7月26日
山本英輔大将。
四国剣山の件、帝大の考古学の先生などの方から価値ありとなれば、やれと声を掛けよいがと言っておく。

7月29日
平泉澄博士の弟子島田東助少佐。
総参謀長を置き統帥を強化して、私にそれになれと言う。
皇族がなることまでは同意だが、私という点は同意できぬと言っておく。

8月5日
今夏初めてプール水換、泳いでみる。

8月9日
北白川の叔母様〔北白川宮房子妃〕来邸。
7月7日に御所に上って昭和天皇にこと時局重大な時昭和天皇も本当に御自身でなさる思召大切というようなこと申し上げしに、昭和天皇は「どうにもならぬのだ」とて、例のような少し工作するとつまづくと言ったという御話ありしと。
情けないことだ。
どうして平時とこの危機との区別がおつけになれぬのか。

8月11日
喜久子、良子皇后に例の新しき服装の件〔宮中服〕申し上ぐ。
昭和天皇宮内大臣に新服には反対だと御興奮なりしも、松平宮相これは思召とも伺えず、主旨に御賛成とのことで進めておった云々と申し上げ好転せしめた由。
昭和天皇の御興奮も困ったものなり。
困ったぐらいでこの重大時局をどうしたらよいか、ほとほと安き時もなき思いなり。
どうしたらよいのだろう。

8月20日
御殿場へ。
秩父宮、幾分お痩せなるも気先甚だ良く進んでお話になる。

8月21日
喜久子と大宮御所へ。
できたての唐衣〔宮中服の一種〕御覧に入る。

10月6日
宮中婦人新装〔宮中服〕発表まで進んだので、秩父宮妃と喜久子とで大臣・時間・式部次長武井守成・式部課長坊城俊良・皇太后宮御用掛山中貞子を呼んで慰労会食。

12月7日
0130~0240空襲警報。
初めてウチの防空壕に入る。

12月17日
今日も空襲なし。
こうなると少し変なり。
これも神経戦なり。
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『高松宮日記』

1945年1月20日
18日喜久子大宮御所に上りし節、時局なんとしてもよいと思えぬ、宮内省に人なく何もさせぬから歌に詠んで神様に願ってばかりおるが、どうかして予告などせず本当に働いている人々のところにスーッと行って一言でも言葉をかけたらと思う、今ならそれが効果あると考えるが先にはそれも意味ないことになるであろう、自分はこのごろ特に身体に気をつけて以前よりも早くも寝るし大切にしておる、どんなに人が死んでも最後まで生きて神様に祈る心である云々。
この趣、宮内大臣・次官・総裁に話すよう、明日それぞれを呼ぶことにしておいた。

1月26日
京都。
仁和寺の隣の近衛公爵の陽明文庫に行く。
東大田山教授説明。
前田侯爵未亡人〔前田菊子〕ミイ子〔前田美意子〕水谷川夫人〔水谷川正子〕三井弁蔵夫人〔三井栄子〕近衛母堂〔近衛貞子〕・近衛夫人〔近衛千代子〕

2月6日
久しぶりに内大臣と話した。
別にまとまったことなし。
昭和天皇に時局収拾の胸算おありのようかと尋ねたが、別にないらしかった。
昨日内匠頭岡本愛祐子が、外務大臣が拝謁の後で大いに喜んで日本は神風が吹くと言ったとか、満州事変のころの昭和天皇の御心痛と昨今の御様子とを比べて何か見通しがおありになるなからん等 言っていたので。

2月11日
細川護貞。
木戸が内大臣では駄目だということ等々。

大宮御所。
あまり御無沙汰していたので、先日喜久子が上がった時に少し御不満な御話だったとか。
三笠宮御二方も。

2月15日(青森県滞在)
風邪の気分良からず、スキーに出かける気にならず。

2月16日(青森県滞在)
午後スキー。

2月17日(青森県滞在)
午後スキーに行く。

2月21日(青森県滞在)
午後スキー。

2月22日(青森県滞在)
尻内付近で雪の原の街道にただ一人の通りがかりの壮年者が立ち止まって私の車に礼をしていく。
つれだった生徒ら随所に車に礼をする姿を見る。
感激の心にじむ。
この国民をスペインのアルフォンソ国王の自動車に等しく立ち止まって礼をしたスペイン国民が、まもなく革命の君臣たらしめたと同じに考えられぬ。
同じにしてはならぬ。

2月25日
宮城にて午餐お招きのところ、空襲予想にて今朝お断りす。
御召は三笠宮・東久邇宮稔彦王・賀陽宮恒憲王。
ちょっとめずらしい結構なことと思っていたのに惜しいことをした。

東京より電話。
宮城・大宮御所に始めて爆弾投下。
三陛下御安泰。
節子皇太后は少し耳におこたえたとのこと。
秩父宮の御庭に一弾落ちたとのこと。
神田方面大火災となる。

2月27日
御所で侍従長藤田尚徳が出て来たから、「たまには宮城に爆弾が落ちるのも、昭和天皇が戦場の中にいらっしゃることになって結構なことだ」と語っておく。
あまりに側近が戦時体制にならぬのがよくない。

1945年3月1日
秩父宮、少将に御進級。
先年は御病中にてどうしても御進級おいやとのことなりしをもってどうかと伺ったが、今度はそれほどでもないようなので、三笠宮と合同にて御祝として千疋あげる。
別に少し花を添える。

3月9日
夜半よりB29の逐次焼夷弾攻撃。
おりから強風にて各所炎焔、明るく天にうつる。
伊達宗彰侯爵邸の大建物焼け、火の粉庭に振る。
北風にてウチの方にはあまりかからず。
君塚町よりの棕櫚の葉や枯れ枝に少し燃え移る。
0230空襲は終わるも、火災やまず。
0430また寝る。

3月10日
宮城に御機嫌伺いに行く。
板倉坂下から神谷町の両側焼け、慈恵会の前まで延焼。
司法省全焼。
宮内大臣松平恒雄も焼け出されたとのこと。
賀陽宮全焼、山階宮一部焼けた。
賀陽宮は宮内省第二期庁舎に御避難。
山階宮武彦王は山階芳麿侯爵邸へ一時避難。
東久邇宮官舎燃えたが無事。
照宮成子内親王、午後男子御出生。

3月16日
長官邸のベランダにて日向ぼっこ。
日光の温度を十二分に享楽す。
罰が当たりそうな気持だった。

3月21日
これならよかろうと、伊勢神宮に官吏、国民の一部の開戦以来の怠慢をお詫びして今後の祈願を遊ばす、三笠宮か私が御内示を受けて参籠参拝すること如何と手紙書く。

3月24日
御所よりの御返事。
前提条件には議論あるも本論には賛成だから、実行につき宮内大臣と協議せよとのことなり。
前提条件のいかなることに御不賛成か不明。

3月25日
御所へ。
伊勢の件もし私へ御命じになるならば、前提条件の御議論ある点をとくと承らなくては、私として行くのではないから神を偽ることとなり一大事と考えるので、その時は御召をいただきたくあらかじめお願いする旨、再び手紙で申し上ぐ。

宮内大臣・次官・総裁。
伊勢御祈願の件大臣に相談せよとのことにつき話す。
研究の上は直接昭和天皇に申し上ぐるよう話す。

1945年4月1日
高松宮元老女小山トミ、少し頭がおかしく、嫁いじめ、他人から物を欲しがりおかしき由。

4月5日
宮城へ。
伊勢参拝の御告文いただく。
その節先日の手紙の前提条件の御議論につき伺いしところ、
「責任をとって辞めないと言うが、責任は感じている」とのこと。
「私の言うのは辞めることではなく、例えば官吏が高級飲食店閉鎖後も酒や肴を手に入れて飲んだりするのは責任を感じぬことである」と言えば、
「そんな小さなことはどうでもよい。要するに戦争がうまく行かぬ、国際関係がよく行かぬ、内政上にも面白くないことがあるという莫としたこと。そして今後戦局が良くなるようにと言うだけでよい」とのこと。
また例の通り同じことを繰り返しになり、
「神様にはそれでよいでしょうが、私には飲み込めぬ」と言えば、
「それ以上は考えが違えば、やめてもらうより仕方なし」とのこと。
「それでは私は御遠慮いたしましょうか」と言ったが、あまりこれを押してもつまらぬことで閉居するに至るよりないので、それではいっそうよくないと思いお受けした。

4月12日
参内。
伊勢に行った御慰労の意味もあり夕食に御招きいただく。
また余計なことを言うと思召と悪いから、言うのはまたのこととして極力黙っていた。
どうも困ったことなり。

4月14日
昨夜2300から警報で多数機が北上中というので、とうとうそれから京浜地区空襲となり0400まで起こされてしまった。
0430事務官より電話にて、三陛下御安泰 各宮無事なるも、宮城一部・大宮御所一部・山階宮全焼の由。
山階宮ほとんど着の身着のままの由、和服等一揃あげることにして三笠宮で打ち合す。
秩父宮で新しき御召ある由、それを出していただく。
三笠宮ではシャツ類 出せる由。

4月15日
昨夜の空襲にて、内大臣木戸幸一の私邸・農商大臣石黒忠篤・浅野長武侯爵・葛城茂麿伯爵・内匠頭岩波武信・保科正昭子爵など方々全焼。
明治神宮御本殿も焼けしも、御神体は御無事なりし由。
大宮御所も庭の芝に焼夷弾が百数十発落ちて大騒ぎなりし由。
2200より0130東京ついで横浜火災を望見。
木更津方面で十数機火を発し墜落するを認む。
東海道線・横須賀線不通となる。

4月16日
昨日の空襲にて東久邇宮邸全焼せり。
東久邇様〔東久邇宮稔彦王〕鳥居坂〔息子東久邇宮盛厚王邸〕に移るのはイヤだとて、お庭の防空壕にがんばってらっしゃる由。
叔母様〔東久邇宮聡子妃〕と照宮〔東久邇宮成子妃〕は昨日伊香保にいらした後のことなり。

4月19日
鶴見より大井あたりまで鉄道の両側あますなく焼野原となる。
明治製菓と隣の日本電気とは建物あるも中は焼けた様子なり。
その他はすべて鉄骨のみ。
それも曲がり焼けただれている。
蒲田駅もすっかり焼け落ちたり。

三笠宮。
閑院宮春仁王より元帥様〔閑院宮載仁親王〕万一の場合火葬にしたいとの話ありしとのこと。
私の考えとして火葬は好ましくない。
御葬儀までの間の空襲等の懸念は、小田原別邸でお祀りなさって自動車ですぐにお墓へ行けばよいではないかと話す。
御殿場にも伺うとのことなりき。

1945年5月1日
ヒトラー死亡。

5月2日
白金の密輸で蜂須賀正氏侯爵と高辻正長子爵が検挙された記事、新聞に出づ。
高辻がリュックサックにて持ち出すを満州安東で捕まった。
高辻のは御紋付の時計もあり、蜂須賀のは外国の貨幣にて外国のもので儲けようというのがまた悪いと司法側で言う由。
いかにもこの戦時中上層者が悪いことをすると言わぬばかりで、これはかえって赤化宣伝の手伝いのような考えなり。
外国貨幣で儲けるのはかえって良さそうなものを、いっそう良くないと言うのは個人主義的ならずや。

5月8日
ドイツ降伏調印、開戦5年8月6日なり。

麦が穂を出した。
一昨年も麦をまいて、これが獲れるまで無事か思った。
昨年も畑を見て、いつまで続けられるかと考えた。
今も庭の美しさ・草・木の育つを見て、いよいよ来年と言わず秋はどうなるかとやはり寂しさに堪えぬ。
道真の「東風吹かば」の歌がしみじみと想われる。

5月11日
宗秩寮総裁武者小路公共。
閑院宮載仁親王衰弱、万一のことにつき相談。
●国葬となるべきも、時間と取らぬため皇族の参列2人にすること。
●昭和天皇特に御補導の恩を思召され御なりの思召なければ御なり無きを可とす。
●ならば、葬列は自動車にて豊島岡に行くこととなるも、道は宮城前を通りどこかで昭和天皇が御見送りなさることはよろしからん。
●四日ぐらいしていったん東京本邸にお帰り、一夜置きて御葬儀とす。

5月17日
宮内大臣松平恒雄・白根次官・武者小路公共総裁・皇太后宮大夫大谷正男食事して、敵が関東に上陸して来た場合、昭和天皇が御移になる場合の準備を計画する要ある旨話す。
やはり大本営のことは統帥部で主動するべきなれば、宮内省は主動的にはしないという意見なり。
そんなことでは人情がない。
まして今までことごとに手遅れを知っているのに、それでよいか。
まして軍人は自分が開戦主義者として戦争の責任を一身に引き受けようとせぬ。
ズルズルすべてを道づれとして行くと言うタチの人が主脳者である以上、それに任せて話のあるのを待っておれるかというようなこと、節子皇太后は敵の手の届く所におられても乱暴はされぬだろうかというようなこと、和平をやるにも少しでもまだ戦いは続けられるという形を持たねばならぬ、無条件降伏といってもその結果は一つではないはずだ、国の滅びようとする時に宮内省が傍観していられる問題と思うかというようなこと、賢所の御移のこと等々。

5月18日
昨日の話で興奮したのか疲れたのか、胸が晴々せぬ。
朝起きて御殿場に御無沙汰している申訳を自問自答してみたら、泣けてしまった。
秩父宮が御病中にこんな事態になってしまって、御殿場へ出ようとその暇は作れぬことはないけれど、なんとお話してよいか、何か少しでも良い種があったらと思ってとうとう来れなかった。
私はもともと政治には触れる趣味もなく、昭和天皇がそれをお喜びにならぬのをよいことにしてきたら、秩父宮の御病中に大戦争になり、政治にも口を出すべきなのになんの準備もなくとうとう何もできなく、昭和天皇に申し上げることもまずいのか御聴きになるよう申し上げ方もできず、外国とのことも私には何もできず。

5月20日
閑院宮載仁親王御薨去の旨通知あり。
閑院宮春仁王は小田原に行くのをあまりお好みでないようなので、私は一人で午後行ってこようと思ったが、三笠宮は陸軍でもありお世話にもなったかとも考え、行くなら代りに行くように尋ねさせたら行くとのことで私はやめた。

5月22日
新旧横鎮参謀長来訪。
旧参謀長横井忠雄パリの香水をくれるとて持ってきた。
お大切にとかなんとか当り前の挨拶をして帰ったけれど、それが妙にしんみりとこれでもう生きて会えぬというような響きを伝えた。
しかも私の方が大変だろうというふうに言っているのがひしひしと感じられた。
このごろ私の気持ちが安定せぬためかもしれぬが、ドイツにおった人〔横井少将は元駐独御付武官〕としてドイツの最後を聞いての感慨をこもらせておると思える。

5月24日
B29 250機、東京・横浜空襲。
鳥居坂の東久邇宮〔東久邇宮盛厚王邸〕も全焼。
保科正昭子爵、二度目の全焼。
北白川宮、洋館全焼。

首相秘書官松谷誠。
戦争終末問題。
外務大臣東郷茂徳熱心にして、最高戦争指導会議において下僚の議題とは別に首相・陸海両大臣・両総長にてすでに数回意見交換を進めあり。
なお戦争遂行を甘くみる部分あるも漸次進みつつあり。
海軍にては高木惣吉少将のみ関係す云々。
この話を聴いてだいぶ気持ちが良くなった。

5月26日
夜半風あり、B29東京焼夷弾攻撃。
火勢なかなか容易ならざる模様なり。
東京市内電話不通にて、ウチと話通ぜず。
両御所・秩父宮・三笠宮等全焼の旨聞く。
ただちに両御所へ御機嫌伺いに上る。
節子皇太后は御文庫にて食事中なるもちょっと拝謁す。
三笠宮焼け出され食事に来ていた。
三笠宮は夜は防空壕に帰って寝た。
閑院宮も焼けたので、明後日の国葬取り止め。

伊皿子より聖坂にかけて立花種勝子爵の側すっかり焼けた。
赤坂は九分九厘焼けた。
三笠宮でもどえらい煙であった由。
土蔵一つ残る。
大宮御所も手許の御文庫一つのみ残る。

5月27日
電灯・電話・水道・ガスまったく来らず。
都電もまったく不通。
これでは帝都の機能ほとんど断たる。

秩父宮、洋館丸焼けにて日本館のみ残る。
国葬取り止めになったので御殿場に行くつもりにしていたところへ、三笠宮急いで来て予定通り秩父宮妃が品川にお着きになる由を報ず。
危うく行き違いになるところを止めた。
秩父宮妃お立寄り。
昨日来東京の模様よく連絡取れず、秩父宮本邸の焼けたことも昨日遅くそうらしいとおわかりの由。
午後お菓子持って大宮御所焼け跡を見に行く。
節子皇太后御覧中に行く。

5月28日
節子皇太后と御所との御仲よくする絶好の機会なれば、昭和天皇から御見舞にいらっしゃるなり赤坂離宮にお住みなるようお勧め遊ばしたらよいとのことから、手紙を書いてそのこと申し上ぐ。

5月31日
御所より御返書あり。
昭和両陛下の御成りまたは節子皇太后を御所に御招待御会食の件は、「宮内大臣等も相談した結果、当分のうちは実行不可能となり」
節子皇太后が赤坂離宮を御使用なるよう御信書にてでも御勧めいただいたらと申し上げし件は、「赤坂離宮についてはすでにその道を通して申し入れ済でありますが、節子皇太后の大谷大夫に対する御信任関係がわからない」とのことで、
わざとその筋を通してと、私がややもすると時局柄筋を離れて云々することを例によってことさらに反対の意味を御示しなのかもしれず、御親子の情を温めようと思って申し上げたのに困ったことなり。
悲しい。
眼の裏がにじむ心地す。

●皇族としてその特色を発揮するように昭和天皇が御考えにならぬことは残念なり。
●昭和天皇はよく自分は皇室の家長だからとおっしゃるも、その家長たる処置をなさらず、御示しなさらぬから何にもならぬ。
●戦局緊迫して通信連絡も絶えがちとなるべき今日、皇族は如何にすべきことを昭和天皇が御望みなのか伺ってもわからず。
世間では各地に分散配置を取るべしと言う者もあり。
この非常時になってもまだ皇族は形式上の存在として、余計なことはせぬでもよいという御考えには困ったものなり。
皇族に対してすらこれである。
まして一般の国民に対してどうして信頼を御続けになることができようか。
国民の一方的信頼感に依存しているとより言えない。
これが我が神ながらの君民一体、主・師・親たる昭和天皇の御態度と言えようか。

6月2日
昭和天皇よりの御返事、御殿場に黙って御覧遊ばせとて送る。
考え方に開きの距離があるとおわかりになるかどうか。

三笠宮百合妃、また〔妊娠〕二カ月とのこと。

6月9日
前宮内大臣松平恒雄。
〔長野県の〕大本営施設の話は聞いているが、いまだ極秘にて宮内省より見分しあらず。
昭和天皇の時局に関する御判断、楽観に過ぎるを恐る。
御性質、大宮御所との関係等々。

6月14日
都ホテルの朝、日が山を越して登らぬ間の、大地から霧が立ち上って平安神宮の朱の大鳥居、山のふもとから谷ごちの遠近に濃淡の色を変えて次第に白く立つ景色がいつも好きな眺めなり。
そして蹴上の坂を荷車が行き一人二人と通り始めるのを見下ろしていると、静かな一日の始まりという感じがなんとなしに親しまれる。

6月17日
秩父宮妃御上京。
今日は焼け残りの日本間にお泊りとて、夕食だけ食べにいらっしゃった。

7月7日
防空壕の壁、鉄筋組めたのでコンクリート流し込み始まる。

7月23日
三笠宮、節子皇太后軽井沢御移りの件につき来ていた。
また陸軍の軍務課長永井八津次が騒ぎ出してる由。
大臣を通すべきなりと話す。
御殿場でも陸軍の習性を御存知だけに、気をつけるようにとの御話あり。
節子皇太后の御思召など軽々しく陸軍のそうした人に漏らすべきにあらずということもあり。

7月25日
御殿場より御手紙来る。
明仁東宮〔平成天皇〕湯元御移りにつき、国歩きがたき御代を予想し、かつ冬の金精峠を考え、御鍛練をお勧めすること。
さっそく東宮伝育官石川岩吉に申しやる。

早く寝たら2200警報で、そのうちにドカンドカン。
川崎方面を攻撃しだしたので横穴に避退した。
このごろは誰も逃げぬし、湿気でカビだらけで行く気がしないらしい。
時々わざと使ってみる必要あり。

7月27日
三笠宮の望みで、朝香宮鳩彦王・東久邇宮稔彦王・竹田宮恒徳王と会食。
三笠宮は真面目な話をしようつもりだったらしいが、飲めや歌えになった。
後でしばらく話をしていた。

1945年8月2日
華族会館にて映画『風と共に去りぬ』をやる、観に行く。

8月6日
B29、広島来襲。
一機、落下傘爆弾投(新威力弾なり)

8月10日
0700三笠宮。
情勢を聞き、昨夜遅く陸軍省の人が日ソ経済提携を必要とする話をしにきたとだけ言って帰る。
1400三笠宮。
やはり情勢を聞き、皇族の集まることなきやなど東久邇宮稔彦王に伺ってみよと言う。

8月11日
夜中の警報に原子爆弾を持って来るとの予報ありしも来なかった。
明日御所に各皇族を御召の由。
昨夜御前会議決定、御親裁ありし旨、軍令部一部長告ぐ。
これが初耳だった。
1300皇族集り、外務大臣東郷茂徳から経過一般を聴く。
1600植田俊吉氏。
吉田茂憲兵隊に挙げられた話、これは陸軍のクーデターの一部なり、近衛一派と称してこれを全部挙げようとしたのを陸軍大臣阿南惟幾の決断でやめになった云々。

8月12日
吹上大本営防空壕にて皇族集合。
昭和天皇より今回の御決心を御示しあり。
みな国体護持に御思召に添って努める旨 梨本宮よりお答えし、各自の意見をそれぞれ申し上ぐ。
夜三笠宮来り、阿南陸相の考え方昭和天皇の御考と大いに異なるから、鈴木首相の意見を聞かんとのこと。

8月13日
三笠宮・鈴木首相来り、阿南陸相の考えにつき語る。
鈴木首相は最後は思召によってすべてをする点につきては阿南陸相を疑えずと。

午後三笠宮・竹田宮恒徳王来省。
昨夜の昭和天皇の御言葉を記憶により記録、明日御殿場に届けることにす。

8月15日
御殿場へ。

8月16日
東久邇宮稔彦王に組閣の御命じあり。
竹田宮恒徳王・朝香宮鳩彦王・閑院宮春仁王に、現地軍に思召を伝うべき御命令あり。

8月17日
初めての詔書を自ら放送せらる。
二千六百年記念式典にすら許されざりしを、かかる場合に未曾有の録音放送をあえて遊ばさるるはなんとも感胸にしむ思いなり。
しかるに手はずは案じていた通り、承る人の心の準備がなかったため、多くの人はソ連参戦いよいよなれば御激励の放送を遊ばすものと考えていて、部隊では総員集合をして承ったが、語句の難解・聴取の不明瞭によるならん、終わっても御激励と思いありがたいことと感激して解散した。
ところが後の次ぐ放送で終戦の仰せであったとわかり、驚き悲憤し自失した思いであったという話もあった。
これが少なくなかったと思う。
せっかくの御思召が十分に達せられず、後の大臣訓示等も通信費消時のために遅れ、上級司令部の部下掌握が不徹底なりし点もあったと思える。
なにしろ陸軍海軍はもちろん他省は寝耳に水であり、なんら準備せざる事態に直面し手配は遅れ〃〃となりしは、どうも致し方ないことであった。
私としてもだいたいの進み方は予想していたが、それでも最後の数日のテンポにはまったく思索が追及できず、ために御裁断あってもハッキリせず、またこれまで思いつかなかった心配すべき件々が思い出されて、いまだにハッキリせぬ。
他の人々においてはなおさらであろう。

8月24日
満州国皇帝溥儀、ハバロフスクに伴われてありとの放送。

8月31日
《大東亜戦争によって得たるもの》
●植民地民族の解放
第一段作戦による東亜民族の解放は、戦局により日本のこれら民族に対して取れる処置は圧迫に終わりし観あり。
行政の不手際は反感を買いたるも、日本の精神は不正ならず。
結果として一度解放せられし諸民族は、例えばフィリピンにおいてアメリカ軍を救世主再来と考えたりといえども、再び過去のフィリピンにはなり得ず。
東洋以外の諸植民地も米英等をして旧来の植民地として維持し得ざらしめしは、ある程度の目的達成に他ならず。
●日本民族の世界的地歩の踏出
過去の日本は実際上は局地の日本に過ぎざりき。
支那事変以来、支那・ビルマ・東印と多くの地域に多くの軍人軍属としてその地を踏み、その人に接し初めて世界的見聞を広め得たりと言うべく、質的に進歩せり。
●戦局不利となれる諸原因すなわち日本の国内の正しからざりし姿を反省し、形式的忠君愛国を脱して真の日本人たる自覚と積極性をもって新発足す。
●上御一人の御稜威のみ唯一の国民の頼るべきところなるを知らしむ。
御親政といい滅私奉公といい、いずれも真の大君のため国のため、そこにのみ国民の生くべき道ありを体得しありし者少なかりしを自覚せり。

1945年9月2日
全国民がこの苦悩を引き受けることを忘れてはならぬ。
しかして堅固なる国民精神を持って征服された民族となってはならぬことを、改めて反省すべきなり。

9月3日
マッカーサーは天岩戸開きの手力男命のところを務めるものだという見方あり。
こうした考え方でいくと、大きく国体護持もできるかもしれぬ。
マッカーサーは確かに人物も大なりとの見方をする者多し。
アメリカの燃料で日本の自動車を走らせて不思議に思わぬならば、手力男命でも猿田彦でもよいわけなり。

9月8日
岡田長景は、オリンピック参加恥さらしだから出ぬがよいとのこと。
練習ができず記録が出ないなら、本当の恥さらしになるから止めるがよい。

9月9日
日曜復回せるも終戦関係はそれでは困るとて、再び日祭休み取り止めの提議をすることとなる。
各所で米兵がキャラメル等を投げたのを大人まで大騒ぎして拾っているとのこと、残念とも限りなし。

9月30日
秩父宮、戦争中御静養になり世間に触れずにおられて、かねてから戦争終了とともにお出ましになれることを祈っていたたらその通りになり、今回の御上京も人にもお会いになれるし、いざという時には摂政にもおなりになれると考えられ、これ以上のことなし。

10月22日
明仁東宮の御教育についても根本的に考えを改むる要あり。
すなわち外国人に対しても単に拝謁でなく、十分応待し得らるべき御教育を必要とす。
御留学もこの見地より考うべきなり。
アメリカかイギリスか、これは各々見方による。
長短あるべし。
アメリカとしてはイギリスはすでに世界的な国にあらずして、今後の問題はなんとしても米ソの問題しかもアメリカが関係を密にせざるべからざる国となるべし。
それには早く御留学になるを可とす。
同年輩のアメリカ人とお近づきになりあることは、将来の両国の提携に資すること極めて大なるべし。
アメリカ人の考え方を御理解ありて将来の日本の優れたるところを具現し給う上に、効果大なるべしとす。
イギリスとすれば王室を持って伝統ある国として他になきものなれば、その味わうべきものは深し、ただちに日本の皇室として例を求むるところ多く、将来親交を結ぶべき国として比すべきものなき国柄なりとなす。
御学問所についてもただちに考えを革めてかかるべき時なり。

10月24日
節子皇太后が御滞在になるので燃料食料をすべてその方に取られてしまうと、軽井沢住民が不平を漏らすと。
節子皇太后お出ましの時、相変わらず警官が「シー」「シー」と人を追い払ったりする由。

10月25日
宮内省より、皇族資産等報告提出の話あり。

10月29日
宮内省に行き参事官三浦義男に、皇族の宝石等の調べ、マッカーサー司令部報告の話せるところ、軽率にも宗秩寮より各宮に連絡電話にて通知あり。
各宮職員に知らしむべからざることとして、昨夜中までかかり親展にて伺うようにした問題をと憤る。

1945年11月2日
近衛文麿が責任逃れのような近衛内閣当時の話しぶりが新聞に出ると、昭和天皇が義憤をお感じになって、「本当のことを言ってしまえ」とおっしゃるとか。
(10のところを8言ってぼやかしてしまうこと)

11月15日
艦載行幸に沿道の百姓が耕作をやめて藁の上に座って拝したり、国民服の馬車引きが勲章をつけてお迎えしたり、老婆が戦死者ならん軍人の写真を胸にかけてお迎えした。
こうした光景を見て、国民の昭和天皇に対する態度は安心なりという報告を閣議にしたとか。
それは戦争に対し反感が高いであろうと予想した考え、直訴もあろうと予期した人に相対的に感じたことであろう。
私には当然のことと思える。
今まで御警衛が田畑の人を強いて一列に並んで奉迎させたり、通行の人を遠くへ押しのかせたりしたのをやめたからの自然の趣で、変わらぬことと思う。
ただそれだから革命ナシとは言えぬ。
こうした堅実な人々は社会政治の変動は上滑りして行われるということなり。

11月20日
朝様〔朝香宮鳩彦王〕より、久邇宮邦昭王のアメリカ留学に対し、宮内省にて大臣・総裁が反対したとて、海軍省から経費の一部を準備する件進まぬからどうかとのお話あり。
私としては賛成のことなりと申し上ぐ。

11月22日
サツマイモ貯蔵の穴、手を突っ込んで盗まる。

11月23日
近くマッカーサー司令部より軍人恩給停止の指令出る由。
大問題なり。
内閣も危しくなるとの話なり。
大蔵省案では45歳以下の恩給は停止するとの考えなりしも、全部なり。
遺家族に及ぶことは重大なり。

1945年12月1日
今日より浪人。
何よりも寂しいことは、若い人・兵隊・理事生たちと会えなくなることなり。
知り合ったこれらの人々の前に辞めた人たちも、海軍にいるとどこへでも気軽く来て会って遊べてたのができなくなるのも寂しい。
ウチに来いと言えるようなウチでないのも寂しい。

12月3日
京都の町の女はほとんど着物になっている。
モンペなし。
しかし町が焼けていないからそんなに変な感じがしない。
そして女の顔が美しいと思った。
服も涼しいし、整った美しさだ。
それも女学生以下でなく、一人前の女においての話だ。
やはり焼かれた町と焼かれぬ町との心の表れでもあろう。
着物の問題ではない。
山紫水明の地、古い文化の伝えられた都、それが焼かれないでいることは尊い。
アメリカ軍にもこれを活かして教えたい。
高尚な日本人の生活文化を教える唯一の地だ。

12月12日
呉の町はさすがに朝早くから人通りあり。
焼けて進駐軍がいるが、まだまだ工廠町の気分があってうれしい。

12月13日
梨本宮へ、殿下お出ましのお見舞いに参る。
戦災後初めて行った。
二間のお家にお住み、静かな御生活にはよい。
手間取っている方の一棟を至急完成しようと、壁土がないので代りにコンクリートを塗っていた。
老人の両殿下にわけもわからぬ拘引で、お気の毒の至りなり。
どうにも皇室の尊厳をヒビを入らせて国民に知らせようというつもりとより思えぬことなり。
それにはまたあまりに御年召をひどいことだと思える。

12月18日
明仁東宮久しぶりにてお目にかかる。
素直にお育ちの様子なり。
皇子御用掛伊地知ミキが退いて男の伝育官が積極的に御世話するようになって、かえってしっかりなさった。
御主人様であるが、お友だちとお遊びの時はまったくお子様らしいとのことなり。
しかも穂積大夫の御指導は良く、東宮としての御教養に努めたものである。

徳川義親侯爵。
御退位に関するマッカーサー司令部若手の意見強くなりしとの情報。

宮内大臣。
中華通信社宗徳和の面会申込は、御退位説に関し私が摂政になるだろうから今のうちに見ておきたいとのことで、明仁東宮にもとのことなりしも、まあ私だけに。
しかし政治の問題には触れぬ約束しありと。

12月25日
東京薬専女学部本庄美都子・村田百合子が島田直枝を連れてきた。
島田は島津治子女官長問題の関係者、予言者、明治天皇の霊を受けると称す。

12月27日
板沢武雄教授より、アメリカ側歴史教育に対する態度、教科書修正の指令について聴く。
神代のこと、明治時代日清以降を全部削除す。
四十七士仇討も削るも、国内の相争う所には筆を加えず。
皇室の仁慈等にも触れず、そのままにしあり。
こうした修正をせねば、二年後歴史・地理・修身の授業停止を指令しあり。

12月30日
細川護貞、近衛最後手記写持参。
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『高松宮日記』

1946年1月1日
詔書発布。
まことに結構なるものだったが、「現御神」の三字は別の「神」というだけの字か何かにしたかった。
幣原首相が英文で書いた原稿をマッカーサーに見せてそれを和文に直したので、侍従職で一度訂正したがどうも原文と異なるとてそのままになりし由。
しかし原文は divine だからなんとかなりそうなものだった。

1月4日
鈴木貫太郎夫妻来て、爆撃調査団に答えて、「日本は責任内閣だから昭和天皇はその決定には反対されぬし、また積極的に指導もされぬ。ただ自分が知っているのは二回、二二六事件で内閣が中絶している時に反乱軍の討伐を令せられた時と終戦の時は自ら指導されたと答えておいた」とのこと。

1月6日
マッカーサー司令部ヘンダーソン大佐の話とて、幣原内閣支持せず、前農林大臣千石興太郎(日本の刻下の問題は食糧なればこれに詳しい人が第一条件。彼が先内閣親任式ただちにマッカーサー司令部を訪問して食糧輸入を懇請せり、官吏でなく農村組合運動の指導者)他には徳川義親侯爵、賀川豊彦(政治力乏しと言える由)有馬頼寧(これを拘引せるは誤り、後で調べたら農村問題の先覚者だったと)などを候補者と考える旨語れる由。

1月16日
松平慶民、宮内大臣となる。
昭和天皇が直接なれとおっしゃったとか。

1月18日
松平康昌、宗秩寮総裁になる。
昨日一日イヤだとて逃げていた由。

1月19日
各妃殿下集まって、服装問題等御相談。
昨年制定の宮中服にみなさま文句多く、もともと国際式典等で日本婦人が洋装で出ることが、宝石で競争すれば負け、容姿でも負け、ファッションでも負けで、支那やタイやみなそれぞれの国の服装で出て来るのに対しても負けとなり話にならぬから、日本の服装をという考えに発端するのだが、みなさまは戦時中の洋服縫製難やモンペに対する洋装、それも宮中的なけばけばしさは着られぬと言ったことからのみ考えるので熱意も出てこぬ。
良子皇后に至ってはまったくただ洋装の情勢で考えていらっしゃる。

1月28日
秩父宮へ。
昭和天皇の問題御相談しようと考えて出かけたが、三笠宮一緒にとて秩父宮にお願いしてずっといたので、言い出せずにしまう。

1月29日
李鍵公の御気持は「公族などとは日韓合併の残り物なれば、自分はこの際それをやめて日本人になりたい。李垠王様はやはり地位をお持ちになりたいお考えのようにて、まったく考えが違うからお会いしない」と言うことなる由。
王公族を皇族にしてしまう案は終戦直後ありしも、マッカーサー司令部との関係で実現せず今日に及ぶ。

2月2日
明仁東宮、お成り。
初めてなり。
客間のライターがお珍しく、点けたり消したり何度も何度も。
南洋でもらった海亀の剥製大中小、お欲しそうだったので「差し上げましょう」と言ったら、二度も見にいらして「あれか、これか」とおっしゃる。
三つともというは少し欲ばりすぎるとお考えらしかったが、「みなお届けしましょう」と言うて片づく。
豚と緬羊はやはり触ってお楽しみ。

2月15日
ブリッジの練習。
世の中の移り変りを思う。
鹿鳴館式なり。

2月16日
ブリッジとダンスの稽古。

2月24日
本間雅晴中将判決に対し、あとはマッカーサー司令部に頼るよりなし。
本間は英語もわかるので山下奉文大将の時のように裁判中居眠りなどせず、証人の人格証言も多大の感銘を与えた。

2月27日
マッカーサー副官ボナー・フェラーズ来邸。
宮内省側近が昭和天皇の御考えを実行するのに手間取ると見ゆ。
マッカーサー司令部と宮内省との直接連絡に、アメリカを知った若い人を置いて常に往復すること。
宮内省にアメリカ人の連絡者を置く。
昭和天皇が現在唯一の指導適格者と認めるから、もっと積極的になさるがいい。
マッカーサーは昭和天皇を認めてやっていくつもりでいる云々。

3月10日
宮ノ下別邸に米兵しきりに盗みに入るので、売買は別として富士屋ホテルにて使用した方が防止になり良からんと申し込み、先方もそうしようということとなる。

3月11日
宮ノ下別邸処分につき侍従職にて思召あらば代地と交換できると考え、別当より木下道雄に話せしむ。

3月16日
ブリッジの練習。

3月21日
ダンスの稽古。

3月23日
越ケ谷鴨猟。
アレン・コルフ氏、お酒のせいか堀に落ちて額をすりむく。

3月25日
ダンスの稽古。

3月27日
宮ノ下別邸を富士屋ホテルに譲る件につき富士屋ホテル社長山口堅吉来邸、60万円でとのこと。

3月31日
秩父宮で夕食。
三笠宮また来たいとのお申し込みで来た。
なにか除け者にされて話を聴き損なうという気がするらしく、別に用談もないのに。

4月1日
ダンスの稽古。

4月5日
英語・ダンスの稽古。

4月11日
英語・ダンスの稽古(タンゴ・パソドブレ)

4月19日
福岡・長崎の麦貧弱なり。
都会近くの下肥の回るあたりだけ元気あり。
肥料の足らぬのは百姓に気の毒なり。

4月20日
鹿児島。
竹藪に筍が3~4尺に伸びてたくさん立っているのは、東京ならとっくに盗まれているものと思う。
夕食なんだか水っぽい酒だと言ったら、焼酎だそうだった。
ここでは日本酒はほとんどないらしい。

4月30日
侍従長交代の件につき大金次長を当て宮内省内で順送りするとの大臣の話から、東大総長南原繁にも高木八尺博士の件を大臣にも一度話すようにと言って南原が話したら、私が言ったのだとて怒っていたとの宗秩寮総裁松平康昌の話。
昭和天皇に侍従長は宮内省外からお取りになるようにと言っている人ありとちょっと申し上げた。

アメリカ側は憲法はどんどん改正してやって行けばよい、今はこういうのでやれというつもりなり。
華族制度廃止は日本側の決心なりと。

5月2日
宮ノ下から宮ノ下別邸は富士屋ホテルに売らずに村に渡せとの陳情あり。
金が欲しくて売るのだから金さえあればなんでもよいわけだが、タダではやれぬ状況になっている。
ダンスの稽古。

御所。
以前はニュース映画を御覧になりそれを御一緒に観ていたが、爆撃がひどくなりニュース映画もあまり出なくなって止めにまっていた。
それ以来ちっとも昭和両陛下とお話する機会が無くなったので、映画なくとも週に一度くらいはと言っていたがちっとも実現せず、やっと先週から始まった。

5月3日
大金次長 侍従長となり、加藤進 次官となり、木下道雄辞めて稲田周一 次長となる。
省内たらいまわし人事。
侍従長は外からと言っていたのに、やはりこんなことになり遺憾なり。

5月4日
自由党総裁鳩山一郎に対し追放を発表。
総理大臣ということになってかかる指令を出すのはけしからぬ。

5月7日
有馬大佐鹿児島から出てきて、私の視察からマッカーサー司令部からアメリカ側に叱言が来て「協力できぬ」と言ってきたとのこと。
やっかいな話なり。

東劇〔歌舞伎〕
戦災で衣装が焼けて、傾城・新造数人しか出られずと。

5月9日
ダンスの稽古。

5月12日
カナモジ会理事長松坂忠則の話を聴く。
カナモジ会としてはすぐに漢字を制限してやって行こうとする態度なり。
私としては漢字乱用時代の前に立ち戻って、日本語の復興をやるとともに再び漢字を用いないで済むようにやって行きたいと思う。
すなわち漢字をやめた穴うめを英語等でやらずに、日本語の本来の表現を活かして行きたい。
そのために国語学者を必要とすると考える。

5月15日
政府より、マッカーサー司令部から皇族の貴族院議席につき追放に対する政府の処置甚だ手ぬるし、これ以上テキパキやらぬならばマッカーサー司令部から直接指令す、そうなるとどうするてもひとからげにやることになる、グズグズしているならば政府の担当者を処罰するとのことで、政府側も慌てて早く片づけねばならぬことになり、皇族については questionnaire も出さぬ、議席にもつかぬでほっかむりをする第一案なりしも、「やはりやめてくれ」「questionnaireは出さぬ」ことに交渉するとの話あり。
宮内省とマッカーサー秘書官ローレンス・バンカーその他との連絡では、ソ連がうるさいので questionnaire は全部そろえておかぬとアメリカ側が困るとのこともあり、結局出すこととなるべし。
いずれにしても相変わらぬ政府のグズグズが、同じことでもまずくまずくなっていく。
私としては皇族が職業軍人でないという考えを持つ。
しかし実際追放令に該当する職にあったことはその通りに考えてもよいと思う。

5月16日
ダンスの稽古。

5月30日
ダンスの稽古。

5月31日
宮内大臣。
昨日私憲法草案の枢密院本会議にはその主権在民があまりはっきりしているので、私としては賛成しかねるから会議に出席せぬつもりでおりますと申し上げた。
その時は何もおっしゃらなかったのに、昭和天皇がとても御心配になっているのにそんなことを申し上げるのはよくないとの話だった。
今まで御心配御心配といって申し上げないでやってきたことのを改めるべきではないか。
それに出席して賛成せぬのでは現情勢からよくもなし。
枢密院として修正するのは民主的でなし。
欠席するのが一番よいではないかと思うと語る。
大臣は「反対だ」と言うだけ申し上げて黙って欠席するがよいとの話なるも、私は終戦後思召で出席することになったと思うので、それはあまりおかしいと思った。

6月5日
宮内省。
寺崎にインターニュースに話したことから昭和天皇のマッカーサー御訪問の時 対皇族指令につき御話なさらんとしたのをお止めの方がいい、先方の忠告ありしとのことで、昨日昭和天皇が御憤慨だったので、その経緯を聴く。
特にことの点という指摘はなかった。
例の新聞に出たことが気になるというのであろう。

6月8日
憲法草案の枢密院本会議ありしも、黙って欠席す。
意見を述べるのも情勢上よからず、賛成する気になれず。

6月19日
本整理。
空襲中地下室に入れたらカビでめちゃくちゃになってしまった。
惜しいことをした。

6月20日
ダンスの稽古。

6月25日
ジャガイモ収穫、102貫。

6月29日
宮内省。
28日の宮内大臣とマッカーサー会談。
皇族に対する覚書につき、これは皇族の starvation の問題で昭和天皇も御心配の由を話し、マッカーサーはsympathetic consideration を約せると。
松平、マッカーサーの話に、昭和天皇が御子様や御兄弟につき特に御心配のようだと話したとのことなるも、これは私としては甚だ面白くないので、皇族全体につき御考えになってるのでなくてはならぬ。

7月2日
情報会、皇族の考えていることを昭和両陛下に聴いていただく会。
昭和天皇にはおっしゃらずに黙って聴いていただくこととして行う。
終って問答もあり。
昭和天皇は皇族が知識でなく道徳的にさすがと言われるようにとのこと。
また私がもっと宮内省と信頼し合うようにと言ったら、侍従長の時 松平宮相が私に人事につき言うと約束したのに、私が南原に言ったことはけしからぬとの御話。
私は約束はせぬと、例のやりとりをした。
なにしろどっちもちっとも新しい時代に対する感覚のない御考えでは話にならず。

7月11日
御所、三笠宮二方と一緒に晩餐、蛍を拝見。
先晩吹上に蛍がいるとの話から、見たいと申し上げたので。

9月3日
松平邸、康愛葬儀参列。
一人っ子なれば康昌夫妻の悲しみひといりなり。
久美子の心中もまたいまさらなり。

9月19日
財産税いまだハッキリせぬが、光輪閣は持ち切れぬだろう。
宮内省から山林か土地かをもらって、それで収入を得ることができれば一法なり。

9月20日
宮内省にて親睦会。
昭和両陛下お出まし。
皇室典範改正のその後の経緯につき聴く。
御退位の条項はやはり入らぬ。
昭和天皇が終戦の時あれだけ御決意ありしに対しその道をつけるのは必要だと思うが、昭和天皇だけの御経験と対米感情もよい方はないからというだけで考えぬのはよくない。

9月23日
宮内省。
大金侍従長にどうして稲田周一次長辞めたのかと尋ねたら、追放令のためで、やはり宮内省もいけないということになったらしい。

9月28日
納税について相談。
建築につきて評価意外に高く、光輪閣、600万~700万円。
本年春のマッカーサー司令部への報告の時は100万円以下としてきた。
とうてい光輪閣を持てぬとの判断なり。
翁島の洋館も手放すを可とすべしぐらいの話より進められず。

9月30日
元侍従次長稲田周一。
やはり追放令がやかましくなりそうだったのでとのこと。
誰か外の空気のわかった者が側近におらねばならぬと思う。

10月8日
親睦会、昭和両陛下お出ましの例会。
今日はちょうど節子皇太后御上京、特に賑々しく結構なりき。
節子皇太后も大変お喜びなりき。
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『高松宮日記』

1947年1月1日
年末年始、町の感じは昨年より気分の出ぬ景色なり。
女の子はチラホラきれいな着物を着たり白粉をつけたりしていたけれども、羽子板も凧もインフレでは出回らぬ。
やっぱり暗い気持ちが流れているのだろう。

1月2日
北白川宮へ。
昨年暮れにお移りになったので初めて伺う。
小山栄三の間借り、借家のようなお使い方だが、古いとりとめのない家なり。

1月5日
新浜鴨猟。
アメリカ赤十字関係を招く。
帰りに公衆衛生福祉局ウィーバー大佐の車、田んぼに滑り落ちてケガはなかったがずぶ濡れになった由。
後で風邪をひいたとか。

3月10日
ヴァイニング夫人の英語のレッスン。

3月23日
伊勢神宮高倉篤麿来り、斎王に北白川宮房子妃を願うにつき近江神宮宮司平田貫一を小宮司に欲しいとの話あり。
現小宮司古川左京は地元の人との折り合いも悪く、新宮祭式につきてもややもすれば慣例にとらわれる等でこの際入れ替えたく、平田氏の他になし。
これには私は古川氏をよく知らぬも、もってのほかのことなり。
伊勢の大切はわかるも、面白くなしとて出す人を押しつける等はけしからぬことと答う。

3月24日
宮内省。
加藤次長に北白川宮房子妃を伊勢斎王に願うことは宮内省の考えかと尋ねしに、先方よりそのお人柄に惚れこみてとのことで、宮内省では第二・第三の候補の方を考えると言いしもその要なし、三笠宮とも考えしがGHQが軍人なりしとて賛成せず、未婚の方でなくてはいけないか等とも聞くぐらいの話なりしと。
斎宮ではなく斎王としてであるから未婚でなくてもよい、しかも未亡人の方がよいと答えたる由なり。

4月1日
池田徳真、高山英華同伴。
東京帝大第二工学部教授なり。
実は久美子〔高松宮喜久子妃の妹・松平康愛の未亡人〕のお婿様にどうだという多恵ちゃん〔北白川宮多恵子女王・徳川圀禎の妻〕の考えなり。

4月2日
ダンス練習の件 宗秩寮総裁松平康昌に尋ねしところ、宮内省では練習したらダンスホールへ余計に行くようになりはせぬかとの相変わらぬ間違った心配あるも、宗秩寮総裁が責任を持つ、他人があまり入り込まぬなら差し支えなしとのこと。

7月4日
アサヒグラフに私の顔としての自画像と感想文が次々に出ている。
そこで私も私自身の顔を描いてみよう。

鏡を持ち出さずに描けること。
一番まずいのは額がというよりおでこのないことだ。
それは外見上は横から見たらまったく鼻の傾斜そのまま頭の上まで直線で描いたことになるし、内容から考えても類人猿の骨相であるから脳の優れた部分を包蔵していない証拠である。
これは人間として最も恥ずかしい表徴であらねばならない。
だから私としてはこれをカモフラージュするために手段として選んだのが、髪の毛を伸ばしてその陰にいかにも頭脳の部分が隠されているかを装うことである。
しかして髪の毛のハゲないでいることは、いまだ神に見放されていなことを示すと信ずる。
つぎにアゴがないために顔面は平面をなすことができずに、その下半分も鼻の頭を頂点とする直角となるごとき投影をしている。
かかるがゆえに横顔は致命的浅薄な幾何学的基礎の上にあることが知られる。

鏡を持って見る時に最近驚いたこと。
外人が支那人を掻く時に目のつり上がった頬骨の突っ張った顔を描くし、『Stars and Stripes』が出た始めににも日本人を描く漫画にはこの式の顔が多かったのを大いに認識の不足と思ったのだが、だんだん私の顔がこの支那人的描写に当てはまる存在であることを発見して、悲哀と自嘲とを禁じえないのであった。
もひとつそれに口の両端が長々と逆への字としていることも同じであった。

生理上のこと。
片眼で白紙を見比べて見ると、左の眼には青味がかかって見えるし、右眼は黄色がかって見える。
右の耳が左の耳より大きいように見える。
子供の時に金環をはめて直そうとしたが直らなかったから、今でも前歯が外に出て上下が合わない。
少なくとも五分以上の暑さがなければ嚙み切ることは不可能である。
しかしながら唇の外に出っ歯が出ないで、唇が常に歯を隠していられることは不幸中の幸いであるとともに、いまだに虫歯の無いことは後天的に資質の良い現実を示すものと言わねばならぬ。

8月24日
久美子、喜久子に話した様子は、やはり杉山〔レストラン〈レバンテ〉支配人杉山万吉〕に想いあり。

9月16日
宮内庁にて皇室会議議員互選あり。
私は良子皇后・秩父宮・賀陽宮敏子妃・朝香宮鳩彦王を書く。
当選は秩父宮妃・私・喜久子・三笠宮。
秩父宮もおよろしいとの宣伝どうも少し足らなかった。
良子皇后と秩父宮とが同点の次点の由。
昭和天皇が、良子皇后が議員になると議長・総理大臣の下になり困るとおっしゃったとか。
このご時世にまだそんなお考えでは細かすぎる。

11月1日
原宿のホームで衛生展覧会列車の発進式があって行く。
秩父宮妃くす玉の紐を引いてそれを合図にピーッと発車のはずが、紐は抜けたがくす玉開かず照れくさいことだった。
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『高松宮日記』

1951年5月23日〔5月17日貞明皇后死去〕
昭和天皇11時に大宮御所。
午後に来るとお茶とか出すから午前にしたとのこと。
こんな時にでもせめて皆様とお茶でも一緒にして御話なさればよいのに。

1951年6月5日
殯宮二十日祭。
殯宮伺候と称して有資格者なるもの御通夜に来てる。
私だったらこんな気づまりなことはまっぴらイヤだ。
生きている時もイヤだが、死んでもイヤだろう。
それよりやはり来てほしい人が一人でも時々来てくれれば沢山。

1951年6月6日
殯宮伺候の人はあらかじめ宮内庁で考えた人数の1/3かもしれぬ。
どうしてこんな違算をしたのか知らないが、休憩所も無駄だったろうし、それよりはじめ女官など入れないと言ったりして椅子が空いて、入れないなど変なことだ。
昭和天皇もいらっしゃらぬ。
前例がどうとか仰る由。
これもおかしい。

1951年6月14日
大宮御所で節子皇太后の御遺書が発見された。
この御遺書は1926年10月22日にお書きになったものであった。
当時大正天皇の御病気等で精神的にも不安と違和を身体に感じられたらしい。
神社等に参拝のこと
形見分けには秩父宮、三笠宮は新家だからそれを考えること
筧克彦博士の書物を秩父宮に預けること等

1951年6月16日
明日御日柄なので支那料理をお供えするついでに宮内庁長官邸で秩父宮・三笠宮と会食するので、ちょうど良いから明仁東宮をお招きしようとしたら、「宮城・大宮御所・学習院以外にいらしゃったことが世間にわかるから」と東宮侍従戸田康英より喜久子に断りあり。
あきれたものだ。
知れて悪いどころか、節子皇太后もどんなにお喜びになるかわからぬことだ。
御殿場にはなかなか御見舞にもいらっしゃれぬ明仁東宮に、秩父宮とお近づきの機会としてめったにないからと思ったのに。
人情や義理は御教育にないと考えている側近者にはまたしてもあきれる。
頭の固い宮内官はいつになったらわかるのだろう。
悲しいことだ。

1951年6月22日
大喪の儀。
鷹司の祭文、声小さく聞こえず。
帰途どしゃ降りになって、明仁東宮の後駆の白バイ滑って転ぶ。
後ろについていた私の自動車危うく轢くところだった。
少し身体をぶつけたかもしれぬ。

1951年7月12日
節子皇太后の御通夜をしていて、私が死んでも私の御通夜に集る人々はこうした種類の人々になるだろう。
とても一人が二人の来てほしい人がおれるような空気にはなりそうもない。
やっぱり生きていてなくては話にならぬ。
御墓も豊島岡のような区域のは好ましくない。
多摩墓地は遠すぎる。
やはり青山墓地あたりなら思いついた人が気軽に花でもくれよう。
そういう所にしたい。
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高松宮 メモ 1962年

《寄る年波》
●手の甲の皮膚にシミが出る。
●物を飲み込む時に食道からはねてむせる。
●老眼になって視力が衰える。明るくないと見えにくい。
●頭髪がハゲ上がって毛が柔らかくなった。

《習性 アレルギー》
●大便所に行くと鼻水が出てクシャミをする
●就寝前に物を食べて胃中に消化せずあると口の中の歯茎粘膜に出来物ができる。
●大便の後 便を出し切らずにスキー・ゴルフなど力の入る動作をすると肛門が腫れ上がる。
●冷寒の空気を呼吸すると水鼻がどんどん出る。
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高松宮 メモ 1974年

幸福な人生を持ったとは思わない。
しかし苦難の人生に喘いだとも思わぬ。
苦心・苦労・病苦を知らぬ。
生活難・入学難・就職難・災難・食糧難・住宅難を知らぬ。
これがどうして幸福な人生と言えないのか。
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