◆三笠宮崇仁親王(澄宮崇仁親王)123代大正天皇の四男
1915年生
■妻 高木百合子 高木正得子爵の娘
1923年生
●三笠宮寬仁親王 2代当主 麻生太賀吉の娘麻生信子と結婚・兄は総理大臣麻生太郎
●三笠宮宜仁親王 桂宮
●三笠宮憲仁親王 高円宮 三井物産社長鳥取滋治郎の娘鳥取久子と結婚
●三笠宮甯子内親王 近衛忠煇と結婚
●三笠宮容子内親王 茶道家千宗室と結婚
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『入江相政日記』侍従長
1974年12月11日
宇佐美長官から三笠宮寛仁親王についてのこと。
同憂に堪えない。
1974年12月25日
昭和天皇から、「今日宇佐美長官が三笠宮寛仁親王について三笠宮へ上がるにつき、江崎玲於奈がスウェーデンの皇族が『日本の皇族はいばっている』と言ったということをよく説くように」との仰せ。
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『入江相政日記』侍従長
1975年6月11日
昭和天皇から御召。
昨夜の三笠宮寛仁親王をめぐってのこと。
1975年12月10日
昭和天皇が宇佐美長官から三笠宮寛仁親王のこといろいろお聞きで御心配。
1975年12月11日
宇佐美長官と昨日の三笠宮寛仁親王のことについて協議。
1975年12月31日
エリザベス女王の御訪日もまた大騒ぎになった。
「我がイギリス」人種が多数現れた。
秩父宮勢津子妃・高松宮夫妻・三笠宮寛仁親王・麻生和子夫妻。
外務大臣宮沢喜一や儀典長内田宏を脅したりしてさんざんの醜態だった。
三木首相も驚いたことだろう。
昭和天皇がしっかりしてらっしゃるからいいようなものの、さもなければ大変面倒なことになるところだった。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1975年3月30日
突然、三笠宮容子内親王スイス・フランスより御帰国の御挨拶に参内。
昭和天皇が御談話室にて御対面遊ばす。
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『入江相政日記』侍従長
1977年4月4日
三笠宮邸へ。
三笠宮百合子妃と、昭和天皇と高松宮との御間柄についてお話し合う。
1977年10月8日
秩父宮勢津子妃から御電話。
三笠宮寛仁親王が本を出し、例の対談『皇族団欒』も載せると。
絶対に不可と言う。
1977年10月9日
三笠宮寛仁親王から電話。
「伯母さん〔秩父宮妃〕から伺ったが、承知なさった高松宮に取り止めると言ったら妙にお思いになるだろう」とのこと。
「そんなこと問題にならない。もしこれが出た時のと比べれば、皇室としての損害は比較にならない」と言ったら、
「やめます」とのこと。
まあよかった。
1977年10月11日
昭和天皇に三笠宮寛仁親王の一件を話す。
予の処置にまったく同意。
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『入江相政日記』侍従長
1978年12月8日
正午より午餐。
三笠宮が「娘が中国で大変大事にされた」〔三笠宮甯子内親王の訪中〕とおっしゃったら、
法務大臣古井喜実が「三笠宮はもうしばらく中国へおいでにならない方がいい」とピシャリとやったのはよかった。
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『入江相政日記』侍従長
1979年5月30日
小川宮務課長来室。
三笠宮寛仁親王が札幌から電話で、「帰京後宮内庁病院に入るから準備しろ」と言ったとのこと。
「それは診察を受けてからにすべき」ことを言い、
西野侍医長に、「これ以上評判を落としてはいけないから引き受けるな」と言う。
1979年6月5日
三笠宮百合子妃から三笠宮寛仁親王のこと。
真相を聞かせろとのこと。
侍従職に反対があるとはどういうことという話。
宮内庁病院・皇宮警察の甚だしい不評を告げる。
結局それを【しゃくい】上げておやめ願ったと言う。
1979年9月24日
明日三笠宮崇仁親王御参内につき、昭和天皇は「ナポレオンはあんなに素晴らしかったのが、なぜセントヘレナに流されそこで死ななければならなかったのか、それを例にして三笠宮寛仁親王のことを言ってはどうか」との仰せ。
1979年9月26日
昭和天皇に「三笠宮いかがでございましたか」と伺う。
「三笠宮百合子妃は良子皇后と話していたので聞えなかったかもしれないが、三笠宮には言っておいた」との仰せ。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1979年9月14日
昭和天皇より、三笠宮寛仁親王に関して、竹田宮や山階宮が若年の頃グレた話を御引用。
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『入江相政日記』侍従長
1980年5月21日
三笠宮寛仁親王、納采につき御参内。
少し感じがよくなった。
落ち着かれたか。
1980年6月9日
賜金700万円持って三笠宮邸へ。
〔三笠宮寛仁親王の結婚祝〕
三笠宮百合子妃に渡す。
大変喜んでいらっしゃった。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1980年6月13日
三笠宮寛仁親王が御婚約の御礼。
昭和天皇から三笠宮寛仁親王に、「外見だけでなく明治天皇の精神を見習う。テレビなどでウケのよい話などを慎む」の二点。
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『入江相政日記』侍従長
1981年12月13日
文春の三笠宮寛仁親王の放言について新潮より電話。
1981年12月21日
昭和天皇が三笠宮寛仁親王のこといろいろおっしゃっていた。
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『入江相政日記』侍従長
1982年3月4日
昭和天皇が三笠宮寛仁親王IOC委員就任につき強い不信任感をお持ちで、「富田長官によく言ってくれ」との仰せ。
1982年3月5日
富田長官から、三笠宮寛仁親王のIOC問題は消えた由。
昭和天皇も御安心だったそうで、よかった。
1982年4月24日
午前7時前に富田長官から電話。
三笠宮寛仁親王が「皇籍を離脱して宮廷行事から解放されて、身障者関係のことに専念したい」と言い出したとのこと。
手がつけられない。
1982年4月25日
テレビでは三笠宮寛仁親王に同情的なことを言っている。
そんなに皇族というものに重圧がありイヤなら、さっさとおん出てもらいたい。
1982年4月26日
岸田君・大竹君来室。
いずれも三笠宮寛仁親王のこと。
あきれている。
1982年5月13日
三笠宮寛仁親王のこと未解決。
秩父宮・高松宮から三笠宮寛仁親王にサンドイッチと〈お料〉を進ぜられが、〈お料〉は返したとか。
どういう気か。
1982年6月18日
昭和天皇から三笠宮寛仁親王に、「イランは国王一族の乱れが国を亡ぼしたこと、戦後GHQは華族制度を一代に限って認めると言ったのを日本の方から全廃を主張したこと、そういうことをよく考えて行動するよう言ってくれ」との仰せ。
1982年6月19日
高松宮邸へ。
高松宮から「三笠宮寛仁親王にも困った」とのこと、「彼は気が弱い」とのこと。
噂に聞いていた三笠宮寛仁親王が宮内庁はいけないというのとは、ちょっと調子が違う。
戻って富田長官に言っておく。
1982年6月22日
昭和天皇が三笠宮寛仁親王のことをイラン・エチオピア・ロマノフ王朝の例を挙げて御心配になっていた。
本当に困った人である。
1982年6月28日
昭和天皇が三笠宮寛仁親王のことばかりいろいろ仰せになる。
こんなに御心配をかけて本当にくだらない。
1982年8月7日
昭和天皇が「三笠宮寛仁親王は何も音沙汰なし、桂宮はだいぶ落ち着いてきた」ことなど仰せになる。
1982年11月1日
明日のエジンバラ公の午餐に三笠宮寛仁親王が出ることにつき、
昭和天皇から「午餐列席前に挨拶に来い。来ないなら午餐には出るなと私が言ったと言っていいから」との仰せ。
小川宮務課長が三笠宮寛仁親王に伝えた結果、「それなら出ない」とのこと。
あきれたもの。
1982年11月12日
三笠宮寛仁親王御参内。
「ごきげんよう」と言ったが、まったく応対なし。
昭和天皇も「まだ普通でない」とおっしゃる。
1982年12月29日
皇族拝賀。
三笠宮寛仁親王は来ず、三笠宮信子妃のみ。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1982年7月9日
入江侍従長・徳川侍従次長から先般の皇族会議の話を聞く。
主題は富田長官追い出しとか、麻生太郎〔三笠宮信子妃の兄〕や田中六助などが動いているとか、まさに昭和天皇の御気持を逆なでするような話。
1982年7月23日〔那須御用邸〕
三笠宮寛仁親王の鳥羽行中止とのこと。
昭和天皇は御安堵の御様子なり。
1982年11月12日
三笠宮寛仁親王が昭和天皇と10分足らずの御対面。
堅い表情でさっさとお帰り。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従
1982年5月9日
昭和天皇は三笠宮寬仁親王のこと(皇室離脱宣言)で御心痛の御様子で、今朝も靴下をお履きになりながらしばらく考え事でじっとなさっていたり、御食事中も御手をしばらく動かさなかったりなど、考え事が多いように見受けられたとのこと。
1982年11月1日
明日のエジンバラ公午餐に三笠宮寬仁親王が見えることについて、
昭和天皇が「病気(寬仁親王の病気&皇室離脱宣言)の後一度も会っていないのに、午餐の場で急に会うのはよくない。事前に会うようにするとか考えるように」とのことで、入江侍従長は富田宮内庁長官と相談してなんとかするということだったが、結局御不参ということになるという。
1982年11月2日
エジンバラ公午餐。
三笠宮寬仁親王は結局、「それなら出席しない」ということになった。
今後の行事のこともあり、いつまでも未解決では済まされまい。
富田宮内庁長官などもっと早くあらかじめ解決しておくべきものであったろう。
寬仁親王の方ではもう解決しているとお考えになっているらしいが、三分の理はあろう。
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『入江相政日記』侍従長
1983年6月3日
昭和天皇から、徳仁皇太子御留学につき、秩父宮の留学・三笠宮寛仁親王の留学がうまく行かなかったこと、久邇宮との複雑な因縁をなかなかわかってくれないとか、徳仁皇太子が帰るまでの二年間生きていられるかなど、クヨクヨしたことをクドクドとおおせになる。
1983年6月8日
〔三笠宮容子内親王&裏千家千政之、婚約〕
今度の御縁を「皇室と京都が再びしっかり結ばれたといって喜んでいる」由。
昭和天皇もお喜び。
1983年12月13日
昭和天皇が中川融〔徳仁皇太子オックスフォード留学の主席随員・元国連大使〕に、
「秩父宮も三笠宮寛仁親王もオックスフォード留学は失敗だったが、徳仁皇太子の時はそんなことがないように」と仰せになったことにつき、
中川さんが「三笠宮寛仁親王のことは十分わかるが、秩父宮のはどういう御意味か」と言っていた由。
三笠宮寛仁親王は駐英大使平原毅に手紙を出して、徳仁皇太子がいろいろな人にお会いになるよう、それを大使館が妨げると言われたことも聞く。
1983年12月28日
昭和天皇が「秩父宮のオックスフォードの教育は失敗だった」と仰せの件伺う。
つまり不十分だったのと、秩父宮の性質によるが、参謀総長閑院宮載仁親王をダラ幹と言い、当時の軍の勢いに乗ったことなど、との仰せだった。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従
1983年1月3日
高松宮御誕生日につき、昭和両陛下と御談話室で御対面。
例年30分くらいのところ今年は大変長い。
昨夏以来ヘルペスで公式行事には御不参の美智子妃のこと、(皇室離脱宣言をした)三笠宮寛仁親王のことなどがあったからか。
1983年2月1日
昭和天皇より「三笠宮寛仁親王はイギリスのことについては自分が一番よく知っていると思い上がっている。一昨日吹上に見えた時に『徳仁皇太子のオックスフォード御留学について誰が決めたのか』と言っていた。富田宮内庁長官と入江侍従長に伝えておくように」と。
1983年2月2日
昭和天皇より「三笠宮寛仁親王は徳仁皇太子の留学の新聞記事を読んで話していたが、あれは正式に閣議了解で決まったものではないと思うが、寛仁親王は新聞を信用しすぎる。富田宮内庁長官と入江侍従長にさらに追加して伝えておくように」と。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従
1984年5月9日
三笠宮寛仁親王・桂宮、特に最近は桂宮の行状が定まらず、先日のカタール晩餐に出席するとしながら欠席になったり、昭和天皇も大変気になさっている。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1985年2月19日
昭和天皇より、三笠宮寛仁親王の将来についてのお考え承る。
1985年4月15日
宮務課長小松博より、桂宮NHK退職の件。
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『入江相政日記』侍従長
1985年9月13日
連翠の間、皇族方だけ。
三笠宮寛仁親王は御辞儀してもぜんぜん応えず、依然喧嘩腰。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1986年7月4日
侍従田中直より、三笠宮寛仁親王の御旅行届につき物言いありと。
侍医伊東貞三より、肝炎のこと聞く。
主治医から三笠宮寛仁親王の容体と見解など事情を聞いた上、昭和天皇に御了承得る。
1986年7月11日
宮務課長小松博より、三笠宮寛仁親王の退院予定のこと聞く。
1986年9月3日
三笠宮寛仁親王、酒で入院の由。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1987年4月27日
昭和天皇が高円宮のインタビューについて御危惧。
1987年5月20日
宮務課長小松博から、三笠宮寛仁親王が3月~4月入院の件。
1987年10月16日
侍従長徳川義寛から、三笠宮宜仁親王〔桂宮〕の独立の件。
1987年12月16日
三笠宮宜仁親王宮家〔桂宮家〕創設に際し、賜金のことで協議。
1987年12月18日
三笠宮宜仁親王宮家創設については、「桂宮」「三室宮」の二案。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1988年5月26日
桂宮が緊急入院・手術の報。
1988年10月21日〔昭和天皇闘病中〕
高円宮から京都国体閉会式の復命に参内したき旨、前例なきこととお断りするも感情害され、電話で文句言われる。
高円宮は山本侍従長にも電話で当たる。
1988年11月17日
桂宮が11月20日に退院。
いずれ医療費の御援助も必要か。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従
1988年1月1日
三笠宮宜仁親王〔桂宮〕は今年40歳におなりになるが、それを機に独立し宮家を創設することになり、1月1日昭和天皇の御沙汰書が徳川侍従長から桂宮に授けられた。
鳳凰の間にて三笠宮百合子妃と桂宮が昭和天皇に御対面になり、御礼を言上なさった。
この宮家創設については御結婚でもなくたまたま40歳という機にというだけで、宮家独立の理由がはっきりしない。
とかく交友関係などで風評のある桂宮が、独立すれば私生活に責任を持つようになるというのかもしれないが、かえって監督の目の行き届かなくなるのを良いことにさらに乱れるおそれありという説もある。
御生活態度から言って良すぎるという酷評を下す人もいる。
桂宮という宮号は桂宮の御印が桂の木であるからというが、幕末まで桂宮という宮家があり、これまで使用されなかった宮号をどうしてお使いにならないのか。
「桂離宮」とか「桂宮邸跡」という標識が京都御苑内にあるなど、まぎらわしい。
この宮号を候補としたこと自体が不可解である。
1988年5月26日
桂宮が緊急手術。
御寝室で倒れておいでのところを午後発見され、都立広尾病院で緊急手術されたが意識はなお戻らず重態と。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1989年1月15日〔1月7日昭和天皇死去〕
高円宮がお供えのバナナおねだり。
御要望のモンキーバナナ5本お包みして高円宮にお渡しする。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従
1992年10月20日
美智子皇后、御誕生日。
三笠宮寛仁親王より樋口侍従に、
「皇族の祝賀の際、平成両陛下というのはいかがなものか。美智子皇后お一人が良いのでは?」とのお尋ねがあり、それについての我々の意見を聞きたいとのことでいろいろ話した。
我々の意見では御一人が良いと思うが、何事もできるだけお揃いでというのが平成流だから、いずれにしても宮内職員手塚英臣にお尋ねのあったことを伝え、その意見・説明をお答えするのがよいと話した。
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1915年生
■妻 高木百合子 高木正得子爵の娘
1923年生
●三笠宮寬仁親王 2代当主 麻生太賀吉の娘麻生信子と結婚・兄は総理大臣麻生太郎
●三笠宮宜仁親王 桂宮
●三笠宮憲仁親王 高円宮 三井物産社長鳥取滋治郎の娘鳥取久子と結婚
●三笠宮甯子内親王 近衛忠煇と結婚
●三笠宮容子内親王 茶道家千宗室と結婚
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『入江相政日記』侍従長
1974年12月11日
宇佐美長官から三笠宮寛仁親王についてのこと。
同憂に堪えない。
1974年12月25日
昭和天皇から、「今日宇佐美長官が三笠宮寛仁親王について三笠宮へ上がるにつき、江崎玲於奈がスウェーデンの皇族が『日本の皇族はいばっている』と言ったということをよく説くように」との仰せ。
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『入江相政日記』侍従長
1975年6月11日
昭和天皇から御召。
昨夜の三笠宮寛仁親王をめぐってのこと。
1975年12月10日
昭和天皇が宇佐美長官から三笠宮寛仁親王のこといろいろお聞きで御心配。
1975年12月11日
宇佐美長官と昨日の三笠宮寛仁親王のことについて協議。
1975年12月31日
エリザベス女王の御訪日もまた大騒ぎになった。
「我がイギリス」人種が多数現れた。
秩父宮勢津子妃・高松宮夫妻・三笠宮寛仁親王・麻生和子夫妻。
外務大臣宮沢喜一や儀典長内田宏を脅したりしてさんざんの醜態だった。
三木首相も驚いたことだろう。
昭和天皇がしっかりしてらっしゃるからいいようなものの、さもなければ大変面倒なことになるところだった。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1975年3月30日
突然、三笠宮容子内親王スイス・フランスより御帰国の御挨拶に参内。
昭和天皇が御談話室にて御対面遊ばす。
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『入江相政日記』侍従長
1977年4月4日
三笠宮邸へ。
三笠宮百合子妃と、昭和天皇と高松宮との御間柄についてお話し合う。
1977年10月8日
秩父宮勢津子妃から御電話。
三笠宮寛仁親王が本を出し、例の対談『皇族団欒』も載せると。
絶対に不可と言う。
1977年10月9日
三笠宮寛仁親王から電話。
「伯母さん〔秩父宮妃〕から伺ったが、承知なさった高松宮に取り止めると言ったら妙にお思いになるだろう」とのこと。
「そんなこと問題にならない。もしこれが出た時のと比べれば、皇室としての損害は比較にならない」と言ったら、
「やめます」とのこと。
まあよかった。
1977年10月11日
昭和天皇に三笠宮寛仁親王の一件を話す。
予の処置にまったく同意。
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『入江相政日記』侍従長
1978年12月8日
正午より午餐。
三笠宮が「娘が中国で大変大事にされた」〔三笠宮甯子内親王の訪中〕とおっしゃったら、
法務大臣古井喜実が「三笠宮はもうしばらく中国へおいでにならない方がいい」とピシャリとやったのはよかった。
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『入江相政日記』侍従長
1979年5月30日
小川宮務課長来室。
三笠宮寛仁親王が札幌から電話で、「帰京後宮内庁病院に入るから準備しろ」と言ったとのこと。
「それは診察を受けてからにすべき」ことを言い、
西野侍医長に、「これ以上評判を落としてはいけないから引き受けるな」と言う。
1979年6月5日
三笠宮百合子妃から三笠宮寛仁親王のこと。
真相を聞かせろとのこと。
侍従職に反対があるとはどういうことという話。
宮内庁病院・皇宮警察の甚だしい不評を告げる。
結局それを【しゃくい】上げておやめ願ったと言う。
1979年9月24日
明日三笠宮崇仁親王御参内につき、昭和天皇は「ナポレオンはあんなに素晴らしかったのが、なぜセントヘレナに流されそこで死ななければならなかったのか、それを例にして三笠宮寛仁親王のことを言ってはどうか」との仰せ。
1979年9月26日
昭和天皇に「三笠宮いかがでございましたか」と伺う。
「三笠宮百合子妃は良子皇后と話していたので聞えなかったかもしれないが、三笠宮には言っておいた」との仰せ。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1979年9月14日
昭和天皇より、三笠宮寛仁親王に関して、竹田宮や山階宮が若年の頃グレた話を御引用。
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『入江相政日記』侍従長
1980年5月21日
三笠宮寛仁親王、納采につき御参内。
少し感じがよくなった。
落ち着かれたか。
1980年6月9日
賜金700万円持って三笠宮邸へ。
〔三笠宮寛仁親王の結婚祝〕
三笠宮百合子妃に渡す。
大変喜んでいらっしゃった。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1980年6月13日
三笠宮寛仁親王が御婚約の御礼。
昭和天皇から三笠宮寛仁親王に、「外見だけでなく明治天皇の精神を見習う。テレビなどでウケのよい話などを慎む」の二点。
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『入江相政日記』侍従長
1981年12月13日
文春の三笠宮寛仁親王の放言について新潮より電話。
1981年12月21日
昭和天皇が三笠宮寛仁親王のこといろいろおっしゃっていた。
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『入江相政日記』侍従長
1982年3月4日
昭和天皇が三笠宮寛仁親王IOC委員就任につき強い不信任感をお持ちで、「富田長官によく言ってくれ」との仰せ。
1982年3月5日
富田長官から、三笠宮寛仁親王のIOC問題は消えた由。
昭和天皇も御安心だったそうで、よかった。
1982年4月24日
午前7時前に富田長官から電話。
三笠宮寛仁親王が「皇籍を離脱して宮廷行事から解放されて、身障者関係のことに専念したい」と言い出したとのこと。
手がつけられない。
1982年4月25日
テレビでは三笠宮寛仁親王に同情的なことを言っている。
そんなに皇族というものに重圧がありイヤなら、さっさとおん出てもらいたい。
1982年4月26日
岸田君・大竹君来室。
いずれも三笠宮寛仁親王のこと。
あきれている。
1982年5月13日
三笠宮寛仁親王のこと未解決。
秩父宮・高松宮から三笠宮寛仁親王にサンドイッチと〈お料〉を進ぜられが、〈お料〉は返したとか。
どういう気か。
1982年6月18日
昭和天皇から三笠宮寛仁親王に、「イランは国王一族の乱れが国を亡ぼしたこと、戦後GHQは華族制度を一代に限って認めると言ったのを日本の方から全廃を主張したこと、そういうことをよく考えて行動するよう言ってくれ」との仰せ。
1982年6月19日
高松宮邸へ。
高松宮から「三笠宮寛仁親王にも困った」とのこと、「彼は気が弱い」とのこと。
噂に聞いていた三笠宮寛仁親王が宮内庁はいけないというのとは、ちょっと調子が違う。
戻って富田長官に言っておく。
1982年6月22日
昭和天皇が三笠宮寛仁親王のことをイラン・エチオピア・ロマノフ王朝の例を挙げて御心配になっていた。
本当に困った人である。
1982年6月28日
昭和天皇が三笠宮寛仁親王のことばかりいろいろ仰せになる。
こんなに御心配をかけて本当にくだらない。
1982年8月7日
昭和天皇が「三笠宮寛仁親王は何も音沙汰なし、桂宮はだいぶ落ち着いてきた」ことなど仰せになる。
1982年11月1日
明日のエジンバラ公の午餐に三笠宮寛仁親王が出ることにつき、
昭和天皇から「午餐列席前に挨拶に来い。来ないなら午餐には出るなと私が言ったと言っていいから」との仰せ。
小川宮務課長が三笠宮寛仁親王に伝えた結果、「それなら出ない」とのこと。
あきれたもの。
1982年11月12日
三笠宮寛仁親王御参内。
「ごきげんよう」と言ったが、まったく応対なし。
昭和天皇も「まだ普通でない」とおっしゃる。
1982年12月29日
皇族拝賀。
三笠宮寛仁親王は来ず、三笠宮信子妃のみ。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1982年7月9日
入江侍従長・徳川侍従次長から先般の皇族会議の話を聞く。
主題は富田長官追い出しとか、麻生太郎〔三笠宮信子妃の兄〕や田中六助などが動いているとか、まさに昭和天皇の御気持を逆なでするような話。
1982年7月23日〔那須御用邸〕
三笠宮寛仁親王の鳥羽行中止とのこと。
昭和天皇は御安堵の御様子なり。
1982年11月12日
三笠宮寛仁親王が昭和天皇と10分足らずの御対面。
堅い表情でさっさとお帰り。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従
1982年5月9日
昭和天皇は三笠宮寬仁親王のこと(皇室離脱宣言)で御心痛の御様子で、今朝も靴下をお履きになりながらしばらく考え事でじっとなさっていたり、御食事中も御手をしばらく動かさなかったりなど、考え事が多いように見受けられたとのこと。
1982年11月1日
明日のエジンバラ公午餐に三笠宮寬仁親王が見えることについて、
昭和天皇が「病気(寬仁親王の病気&皇室離脱宣言)の後一度も会っていないのに、午餐の場で急に会うのはよくない。事前に会うようにするとか考えるように」とのことで、入江侍従長は富田宮内庁長官と相談してなんとかするということだったが、結局御不参ということになるという。
1982年11月2日
エジンバラ公午餐。
三笠宮寬仁親王は結局、「それなら出席しない」ということになった。
今後の行事のこともあり、いつまでも未解決では済まされまい。
富田宮内庁長官などもっと早くあらかじめ解決しておくべきものであったろう。
寬仁親王の方ではもう解決しているとお考えになっているらしいが、三分の理はあろう。
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『入江相政日記』侍従長
1983年6月3日
昭和天皇から、徳仁皇太子御留学につき、秩父宮の留学・三笠宮寛仁親王の留学がうまく行かなかったこと、久邇宮との複雑な因縁をなかなかわかってくれないとか、徳仁皇太子が帰るまでの二年間生きていられるかなど、クヨクヨしたことをクドクドとおおせになる。
1983年6月8日
〔三笠宮容子内親王&裏千家千政之、婚約〕
今度の御縁を「皇室と京都が再びしっかり結ばれたといって喜んでいる」由。
昭和天皇もお喜び。
1983年12月13日
昭和天皇が中川融〔徳仁皇太子オックスフォード留学の主席随員・元国連大使〕に、
「秩父宮も三笠宮寛仁親王もオックスフォード留学は失敗だったが、徳仁皇太子の時はそんなことがないように」と仰せになったことにつき、
中川さんが「三笠宮寛仁親王のことは十分わかるが、秩父宮のはどういう御意味か」と言っていた由。
三笠宮寛仁親王は駐英大使平原毅に手紙を出して、徳仁皇太子がいろいろな人にお会いになるよう、それを大使館が妨げると言われたことも聞く。
1983年12月28日
昭和天皇が「秩父宮のオックスフォードの教育は失敗だった」と仰せの件伺う。
つまり不十分だったのと、秩父宮の性質によるが、参謀総長閑院宮載仁親王をダラ幹と言い、当時の軍の勢いに乗ったことなど、との仰せだった。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従
1983年1月3日
高松宮御誕生日につき、昭和両陛下と御談話室で御対面。
例年30分くらいのところ今年は大変長い。
昨夏以来ヘルペスで公式行事には御不参の美智子妃のこと、(皇室離脱宣言をした)三笠宮寛仁親王のことなどがあったからか。
1983年2月1日
昭和天皇より「三笠宮寛仁親王はイギリスのことについては自分が一番よく知っていると思い上がっている。一昨日吹上に見えた時に『徳仁皇太子のオックスフォード御留学について誰が決めたのか』と言っていた。富田宮内庁長官と入江侍従長に伝えておくように」と。
1983年2月2日
昭和天皇より「三笠宮寛仁親王は徳仁皇太子の留学の新聞記事を読んで話していたが、あれは正式に閣議了解で決まったものではないと思うが、寛仁親王は新聞を信用しすぎる。富田宮内庁長官と入江侍従長にさらに追加して伝えておくように」と。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従
1984年5月9日
三笠宮寛仁親王・桂宮、特に最近は桂宮の行状が定まらず、先日のカタール晩餐に出席するとしながら欠席になったり、昭和天皇も大変気になさっている。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1985年2月19日
昭和天皇より、三笠宮寛仁親王の将来についてのお考え承る。
1985年4月15日
宮務課長小松博より、桂宮NHK退職の件。
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『入江相政日記』侍従長
1985年9月13日
連翠の間、皇族方だけ。
三笠宮寛仁親王は御辞儀してもぜんぜん応えず、依然喧嘩腰。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1986年7月4日
侍従田中直より、三笠宮寛仁親王の御旅行届につき物言いありと。
侍医伊東貞三より、肝炎のこと聞く。
主治医から三笠宮寛仁親王の容体と見解など事情を聞いた上、昭和天皇に御了承得る。
1986年7月11日
宮務課長小松博より、三笠宮寛仁親王の退院予定のこと聞く。
1986年9月3日
三笠宮寛仁親王、酒で入院の由。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1987年4月27日
昭和天皇が高円宮のインタビューについて御危惧。
1987年5月20日
宮務課長小松博から、三笠宮寛仁親王が3月~4月入院の件。
1987年10月16日
侍従長徳川義寛から、三笠宮宜仁親王〔桂宮〕の独立の件。
1987年12月16日
三笠宮宜仁親王宮家〔桂宮家〕創設に際し、賜金のことで協議。
1987年12月18日
三笠宮宜仁親王宮家創設については、「桂宮」「三室宮」の二案。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1988年5月26日
桂宮が緊急入院・手術の報。
1988年10月21日〔昭和天皇闘病中〕
高円宮から京都国体閉会式の復命に参内したき旨、前例なきこととお断りするも感情害され、電話で文句言われる。
高円宮は山本侍従長にも電話で当たる。
1988年11月17日
桂宮が11月20日に退院。
いずれ医療費の御援助も必要か。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従
1988年1月1日
三笠宮宜仁親王〔桂宮〕は今年40歳におなりになるが、それを機に独立し宮家を創設することになり、1月1日昭和天皇の御沙汰書が徳川侍従長から桂宮に授けられた。
鳳凰の間にて三笠宮百合子妃と桂宮が昭和天皇に御対面になり、御礼を言上なさった。
この宮家創設については御結婚でもなくたまたま40歳という機にというだけで、宮家独立の理由がはっきりしない。
とかく交友関係などで風評のある桂宮が、独立すれば私生活に責任を持つようになるというのかもしれないが、かえって監督の目の行き届かなくなるのを良いことにさらに乱れるおそれありという説もある。
御生活態度から言って良すぎるという酷評を下す人もいる。
桂宮という宮号は桂宮の御印が桂の木であるからというが、幕末まで桂宮という宮家があり、これまで使用されなかった宮号をどうしてお使いにならないのか。
「桂離宮」とか「桂宮邸跡」という標識が京都御苑内にあるなど、まぎらわしい。
この宮号を候補としたこと自体が不可解である。
1988年5月26日
桂宮が緊急手術。
御寝室で倒れておいでのところを午後発見され、都立広尾病院で緊急手術されたが意識はなお戻らず重態と。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1989年1月15日〔1月7日昭和天皇死去〕
高円宮がお供えのバナナおねだり。
御要望のモンキーバナナ5本お包みして高円宮にお渡しする。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従
1992年10月20日
美智子皇后、御誕生日。
三笠宮寛仁親王より樋口侍従に、
「皇族の祝賀の際、平成両陛下というのはいかがなものか。美智子皇后お一人が良いのでは?」とのお尋ねがあり、それについての我々の意見を聞きたいとのことでいろいろ話した。
我々の意見では御一人が良いと思うが、何事もできるだけお揃いでというのが平成流だから、いずれにしても宮内職員手塚英臣にお尋ねのあったことを伝え、その意見・説明をお答えするのがよいと話した。
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