直球和館

2026年

◆高松宮宣仁親王(光宮宣仁親王)123代大正天皇の三男
1905-1987 82歳没


■妻 徳川喜久子 将軍徳川慶喜の孫/徳川慶久公爵&有栖川宮実枝子女王の娘
1911-2004 92歳没


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前任の有栖川宮務監督平山成信から後任の有栖川宮務監督西紳六郎への手紙

1916年10月20日 必親展
過日拝顔の節お尋ね御座候 徳川喜久子様の件は、小生宮務監督奉職中の1913年6月22日 当時の宮内大臣渡辺千秋 舞子御別邸に伺候し、故有栖川宮威仁親王〔高松宮喜久子妃の祖父〕の御病室で拝謁の上、第三皇子宣仁親王に高松宮の御称号を賜ることに内定なりたるむね言上せしに、深く聖旨の厚きに御感佩遊ばされ、その儀御決定の上はなるべく早く御発表なり候よう取り計いくるるよう渡辺宮相に御頼談ありたる後、他日徳川喜久子様御成長の上、高松宮妃に御選定の御都合にもなり候はば、誠に御満足遊ばさるむね御内話あり。
渡辺宮相も御希望の趣にはまったく御同感につき、時機を見て大正両陛下にも内奏仕るべきむねお答え申し上げ退席さられ表客室にて休息中、有栖川宮慰子妃は威仁親王の思召により御滞在中の徳川喜久子様を親しく客室にお連れになり、渡辺宮相にお引き合せ遊ばされたる次第に御座候。
この段、参考まで申し上げ置き候。
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宮内大臣波多野直敬から有栖川宮務監督西紳六郎への手紙

1917年3月27日
高松宮妃に関係する件、前宮内大臣渡辺千秋より別紙の通り中継を受け候。
1916年12月、節子皇后より本大臣へ同様の御沙汰あり候。
当時御内約済と言うまでには運びおらざるも、相当の時機においてお取り極めあらせらるべき御内意と伺い奉り候。
参考まで申し置き候なり。
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別紙
有栖川宮威仁親王御病気重くならせられ候際、宣仁親王に高松宮の御称号を賜い、かつ成長の後は徳川慶久公爵の娘喜久子を妃にならせられたき御内願を拝承し、帰京の上そのむね委細言上置き候こと、お引き継ぎ申し述べ候。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1923年8月9日
※宮内官僚小原駩吉の発言

秩父宮・高松宮に随従し岐阜県に御供したるが、なるほど秩父宮にはよほど大切なる場合なり。
御行動においても野卑なる事を特に為さる事もあるが、第一に御直しなさる必要あるは御言葉なり。
ほとんど巻舌にてべらんめえ調の御言葉が出る事あり。
これは若い士官等の風に感染なされたるものならん。
御性質は弱き者をいじめなさる傾あり。
これに反し高松宮は人に対する御思遣りも深く何事も研究心強く、秩父宮が無理になさざるとはよほど異なる所あり。
スカールを為さるを拝見したるに、秩父宮は教師の言も聞かずして無理をもって漕がんとなされ、高松宮は充分に会得したる後に漕がるる様の差あるを見たり。
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『侍従次長 河井弥八日記』参議院議長※当時は侍従次長&皇后宮大夫

1931年4月25日
高松宮喜久子妃がニューヨークで「ヨーロッパに学ぶべき一物も無し」と述べられしこと、ワシントンで「禁酒法はいつまで続くや」と問わせられしことにつき、宮内次官関屋貞三郎よりの照会に対し出淵勝次大使より回答あり、その真相を了解したり。
しかれどもいったん新聞紙に登載せられし以上は満天下の誤解あるをもって、これが対策を宮内大臣一木喜徳郎・関屋次官・宗秩寮総裁仙石政敬に進む。
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『木戸幸一日記』内大臣

※1932年8月、3代宮内大臣田中光顕伯爵が9代宮内大臣一木喜徳郎に辞職を迫り、
一木宮相は1933年1月に辞職する。

1932年8月25日
田中光顕伯爵の行動の真相を知ることができた。
問題は高松宮と徳川喜久子姫の御成婚に関連するものであって、田中氏が宮内大臣当時、有栖川宮栽仁王に内親王を配せんとする議があったところ、
明治天皇は「有栖川宮の系統には狂人があるので、かくのごとき系統のところには内親王を婚嫁せしむることを得ず」と仰せられたることあり。
田中氏はこの点より見て高松宮に喜久子姫を配するはよろしからずと考え、かねて御内意の存したる時も宮内当局に注意したるが、御成婚御内定の際も一木宮相に考慮方を注意したるにもかかわらずこれを決行したるは実に不都合なるゆえその責任を問うというのであって、もし宮内大臣にして辞職せざるにおいては、この問題を暴露して争うと言うのである。

1933年4月25日
湯浅宮相が元宮相田中光顕伯爵と会見し、
田中氏より「高松宮の御子孫と皇室の御縁談なきよう取り計われたし」と申し入れ、
湯浅宮相が「深く念頭に入るる」ということにて、円満解決せしとのことなりき。

1937年10月12日
*10月1日伊勢神宮祭主を務めていた久邇宮多嘉王が死亡

賀陽宮家松浦別当来訪。
伊勢神宮祭主につき賀陽宮恒憲王より、「現在のところ軍籍を去って奉仕するの意思はなく、兼任なれば梨本宮もおいでのことなれば、この次ぐらいにはお勤めしてもよろし」との御意を漏らされたりとの話ありたり。

※東宮〔平成天皇〕伝育官石川岩吉の発言

伊勢神宮祭主につき、かねてより高松宮は御希望あり。
今回もその御気持はあり、多嘉王の御勤務ぶり等も御調べありたり。
高松宮は軍籍を退きてとの御考なるが、
「これは今日海軍において容易に御同意せざるべし」と申し上げたるに、高松宮もその点は御同様に思し召され、結局今回は別段御申出はなかりしなり。
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『入江相政日記』侍従長

1947年3月19日
高松宮へ行く。
加藤宮内庁次官・三井・犬丸・高尾と予。
赤十字が島津忠承社長・赤木朝治副社長・原泰一副社長。
日赤渉外部長池田徳馬君・松平信子夫人・葛西社会局長。
いろいろ仰せがあり良子皇后を名誉総裁と仰いだ以上、宮内省も考えろ赤十字も考えろとのことだが、 例によって例のごとく、主旨は御自身の聡明さを一同に誇示しようというのに尽きている。
おそらく何の効果もなかったろう。
どうしてこうもお違いになるのか。

1947年9月24日
高松宮明日より群馬県の水害地へ御差遣につき御召になりいろいろ御注意になったところ、いちいち反抗遊ばした由。
実に済度しがたきものである。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1948年5月23日
高松宮と掛け違いの様子。

1948年6月24日
高松宮のこと昭和天皇の思召を伺う。

1948年7月3日
御回顧録を読む。
御回顧録を読了す。

1948年7月6日
高松宮問題。

1948年7月9日
退位問題をお確めす。

1948年7月16日
高松宮問題。

1948年7月21日
政府の特例上の要求ならば考えぬこともない様子なれども、高松宮の行動上、今回はこれにて止めたいと思う。

1948年7月28日
高松宮、総裁問題御了承。
ただし今後多少御隠忍御不願、当方も担えず拝辞す。
牧野伸顕参内、退位然るべからずと奏上の旨。

1948年12月18日
良子皇后御召、昭和天皇御心配のこと、高松宮があること言いしによる、女のことかと御心配ゆえだいたい申し上げ、昭和天皇にも申し上ぐと申す。

1948年12月20日
昭和天皇に拝謁、高松宮のこと言上。
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『入江相政日記』侍従長

1948年2月5日
侍従長大金益次郎の所へ行く。
高松宮を御招待。
宮内庁次長加藤進・侍従次長鈴木一・三井安弥・高尾亮一・徳川義寛という顔ぶり。
牛鍋で非常に愉快。
さすがの高松宮も全然皮肉をお飛ばしになる隙がない。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1949年3月6日
元東宮伝育官石川岩吉氏来室、秩父宮・高松宮の性格談。

1949年3月11日
高松宮喜久子妃来室、女のこと。

1949年3月15日
式部頭松平康昌に高松宮妃のこと、昨日の高松宮 皇太子御外遊のこと言う。

1949年7月16日
秩父宮に委細申し上ぐ。
帰る時「また厄介かけるかもしれぬ」とワガママ口あり。
高松宮にお話す。
「昭和天皇の御話は承り置くも、新聞社に会わぬことはできぬ」との御話。
利用云々の御言葉もあり、不遜との御言葉ちょうだいす。

1949年7月18日
三笠宮御訪問。
高松宮のことに及び落涙す。

1949年9月28日
皇太后宮大夫坊城俊良来訪。
宮様方の行動につき御不満の話。
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『入江相政日記』侍従長

1949年2月8日
宮内庁次長林敬三から「御進講に高松宮もお誘いになっては如何」との件につき話がある。
反対しておく。
また三笠宮と宮内官との懇談会の話もある。

1949年3月14日
田島長官・林次長・鈴木侍従次長・三井・鈴木・山田といろいろ議論を重ねる。
今日はどういうのか高松宮の御発言も非常に多い。
高松宮はさすがに老熟したところもおありで、だいたい我々と同じ思想のようであるが、三笠宮とはついに平行線的なものであることがわかる。
今日は5時間も毒気にあてられたので参ってしまう。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1949年2月12日
田島長官◆これ要するに昭和天皇の御思召と多少の背馳覚悟にて、直宮様との融和のために力を尽くすこと。
昭和天皇◆高松宮など進駐軍その他に他言されしことあり、案外信用できず。
皇弟の自覚なし。
田島長官◆直宮様と御一体は世上の変化上、ますます必要。
高松宮は「宮内庁は何の役にも立たぬ」との仰せを拝しながら、できるだけのことは致すつもりでおります。

1949年2月21日
昭和天皇◆皇族と親しくしたく思うが、どういうことをするのが親しくなるのか、日曜日の映画もそのためだがあまり来られぬ。
高松宮は特に食事が御趣味で、あまり出さぬ葡萄酒を出したら非常に喜ばれたが、食事に招くのがいいのか、いったいどうすればいいか。

1949年2月28日
昭和天皇◆新東宮大夫野村行一・新東宮参与小泉信三は正しい良い人で大変よいと思うが、新任の時に高松宮・三笠宮はいつも何かと仰せになることがあるので、その点注意せよ。

1949年3月8日
昭和天皇◆北白川の叔母さん〔北白川宮房子妃〕が高松宮・三笠宮の少し遊び過ぎらるることを言っておられた。
「節子皇太后〔貞明皇后〕も御承知なき様子ゆえ、昭和天皇から仰せになりては」との御話ありし。

1949年3月11日
昭和天皇◆皇位継承または摂政の立場にあることゆえ、万一にも起こるに備えて修養することが高松宮・三笠宮の本分で、他のことをいろいろなさることは本来必要でないことと思う。
然るに映画またはダンスホール等へ出られるほか、民間人の希望に副っていろいろの所に行かれるが、その民間人の悪口もずいぶんあるらしき様子。
これは本分に顧みていただきたく思う。
これは私の理想論かもしれないが。

1949年3月24日
田島長官◆三笠宮は観念論で、「歴史の発展上君主制はなくなり大統領制になりつつある以上、日本の新憲法も天皇制廃止の課程として宮内庁官吏は考えるか」という御話にて、純然たる観念論。
高松宮は「科学が発達しても宗教が盛んになると同じようで、人間の観念理屈だけで歴史は動かぬ」という議論で、高松宮も天皇制支持のように拝しました。
ただしお二人とも天皇陛下の戦争責任問題に関してはちょっと変な言い回しをなさいました。
昭和天皇◆戦争責任については三笠宮が昭和天皇に仰せありし旨。
その節、宣戦の詔書には朕が志ならんやと言ってるではないかと言った。
またパールハーバーは海軍作戦に過ぎぬ。
(この点、田島はいつも残念と思う)

1949年9月7日
昭和天皇◆進駐軍の趣旨には悪いが、先だっての秩父宮の新聞事件のことに関して、別当のようなものを新設して秘書的に置くということはどうだろうか。
田島長官◆仰せの通り進駐軍は宮家の人を宮内庁で負担することには大反対でありますが、それは別として高松宮の現状ではその制度ができても何もなりませぬ。
高松宮自ら御会見して、御面会者の選択を事務官吉島六一郎にもお許しにならぬ状況でありますから。
しかし仰せゆえ、研究しましょう。
昭和天皇◆もう、研究せんでもよい。

田島長官◆秩父宮の新聞事件に発する昭和天皇の命を高松宮にお伝えせし際、「不遜なことを言う」と叱られた。
昭和天皇◆先年高松宮が御名代の時、強く新聞記者のこと仰せにありし時は「行かぬ」との仰せありしゆえ、「それならばやめてもらう」と仰せにより、高松宮「行く」と仰せになりし由。
田島長官◆元高松宮別当石川岩吉に聞きし高松宮の御性質等より、何かにおもねらるる様にも思わるる旨。
昭和天皇◆東条英機・嶋田繫太郎は大反対で、しかし海軍砲術学校の時は主戦論、何か周囲の者に主観的に同意せられ表論的に意見を述べ先見を誇らるる傾向あり。
田島長官◆秩父宮は先日申し上げし際、「また厄介をかける」との雑談的御返事なりしも、厄介をかけたとの御挨拶と存じました。
また高松宮も新聞記者のために相当苦い御経験もあるらしく、御利口の方ゆえ今後新聞でお困りになることはありますまい。

1949年9月15日
〔昭和天皇の研究『相模湾産後鰓類図譜』が出版される〕
田島長官◆宮様方にも科学上の御知識はとにかく、贈呈しかるべきと存じます。
昭和天皇◆秩父宮に「研究所で採集のものを本にする」と話した時に、
秩父宮から「昭和天皇御自身の御名前をお出しになること云々」の御話があり、また本をあげればそれを蒸し返されるかもしれず、イヤなのだ。
田島長官◆それはやはり大きくお考えのうえ御贈呈しかるべきと思います。

1949年9月19日
昭和天皇◆三笠宮から本の御礼がすぐ来た。
三笠宮は近来よほどよくおなりになったように思う。
『改造』に寄稿は困るが、まあよくおなりと思う。
高松宮は遅く御礼が来た。
秩父宮はまだ何とも言ってこない。
東宮も御礼が遅かったが、これは年少で侍従の出したのに気づかれるのが遅くとも仕方ないが、宮様方は新聞も御覧で早く御礼あってしかるべきだ。

その後三谷侍従長曰く、「昭和天皇は今回の本につきては非常に particular である。例えば『田島は東宮御床上げのとき賜物に反対したが、今回は希望するのはどうか』との御話あり。三谷その区別を申し上げ御了解になりし由」

1949年9月30日
昭和天皇◆高松宮のことだがねー。
新憲法でいくら自由とか平等とか言っても差別はあるので、皇族として明治天皇・大正天皇の御血筋として私の皇弟としておいでの上は、普通の人より不自由は当然だと思うのだが。
田島長官◆ごもっとも、その通り。
昭和天皇は最も御不自由の御方。
昭和天皇◆高松宮は皇弟という御自覚の上に御行動をしていただくようにはできないものか。
私の行くことのできない時は私の心を体して、公式ではなく非公式でもなく、心持ちの上だけで私に代ってという気持ちで御行動して下さるという訳にはならぬものか。
田島長官◆高松宮に初めて拝謁の時、「宮内庁は皇族のことは考えぬ所」と仰せにて、とうてい高松宮の取り巻き連のように耳を傾けていただくことはできぬと思いますが、決して捨てずに努力いたします。
昭和天皇◆私もあからさまに言えば喧嘩になるが、賛成できぬ時は喧嘩にならぬよう賛成はせぬため、話がいつも難しくなる。
田島長官◆ある県知事などは高松宮夫妻はごめんだと申しおる由。
陰口をたたくうちはよろしいが、いつかはもっと悪声が強くなると思います。
元高松宮家別当石川岩吉の言によりましても、何か勢力のある者に媚びてなさる傾向あるゆえ、popularity は気になさると思います。
昭和天皇◆海軍御勤務中に皇族として国民がお待ちしていると、裏道から抜けて鼻を明せる類のことをなさる。
田島長官◆高松宮が皇弟の自覚をお持ちになるような方法はありませぬから、皇族様との月一回の会をもっと充実してお近づき申すことと、両陛下との御食事をよく遊ばすことと思います。
昭和天皇◆高松宮は食事が一番よい。
(察するに皇后宮大夫坊城俊良の話と総合して、宮様のことを仰せになるのは27日の節子皇太后との御話の結果と拝察す。
坊城皇太后宮大夫の「近来節子皇太后と宮城と御仲およろしくおなりになったのに」との語調ちょっと心配なり)

1949年11月5日
田島長官◆昭和天皇より高松宮らとお近きような方法との御話もございましたが、高松宮は他の御約束が多く、ずいぶん先まで御予定済のこと多く、御出席を得ず残念に存じます。
やはり昭和天皇の方から大らかなお気持ちをもって高松宮を御夕飯にでもお招きになりましては如何でございましょうか。
ずいぶん各地へ旅行なさいますゆえ、旅先の状況等をお聞きになればよろしいかと存じます。

田島長官◆先だって大宮御所へ行幸啓の折り、高松宮も御会食のようで。
昭和天皇◆高松宮は御先約で2時頃帰られた。
田島長官◆昭和天皇が高松宮を〔候補日を〕4日も出してお招きのところ、すべて御先約済のことあり、ああいうとき多少御繰替願えればと思います。

1949年12月9日
田島長官◆恋愛結婚とか見合結婚とかいうことは皇室については如何お考えでございますか。
昭和天皇◆恋愛はとてもで、三笠宮ぐらいがちょうどよいと思う。
私と高松宮は全然古い風で、秩父宮は少し違い、三笠宮ぐらいがいいと思う。
節子皇太后は三笠宮の言いなりで、細川の娘〔細川護立侯爵の娘細川泰子〕を広幡大夫は「御顔が」と言ったが、私は御顔より照宮成子内親王と同級で、叔母様になる人が照宮成子内親王と同級ではと思って私は反対し、百合子妃は私が推薦したのだ。
その時のことを思うと、いま三笠宮がいろいろ言われるのはどうかと思ってる。

1949年12月12日
昭和天皇◆皇室が里方の場合に嫁入先に干渉するとの批評は受けぬか心配。
ことに宮様方から批評出るように思う。
高松宮夫妻はタンスの引出まで見るという風で、実は女官なども大困りであり、大宮御所の女官も困っている。
良子もこれには閉口してる。


昭和天皇◆昨日高松宮夫婦が晩餐にお出でになったが、
その折り良子が高松宮に「大公使の所へもお出でになりますが、それは日を指定参りますか、数日の内高松宮の選択にまつのか」と質問せしところ、
「3~4日を言ってくるから、その内から選ぶ」と言われたが、ちょっと腑に落ちないと思う。
皇居へは毎週月曜日と約束がしてあるのに、その一般的前約は顧みずして月曜日を御選択になる場合があるのはどういうものか。
もう一つおかしいと思ったのは、
良子が「高松宮夫妻がシベリアの将官連が厚遇されてる様子だが、あれは少し魂胆があるのではないか」というような話をして、私もその意見に賛成したら、
高松宮は「何も魂胆などない」と仰せになったが、高松宮はは人が右と言えば左と仰せになる。
田島長官◆それは高松宮の御癖と存じます。
昭和天皇◆日独同盟を謳歌し、開戦論を主張しながら、東条の開戦の時にはにわかに平和論をお出しになったこともあり、どうもそういう御癖がある。
田島長官◆初耳がお好き、御自身が第一にという御気持ちがお強いからでしょうか。
昭和天皇◆ヴァイニング夫人の場合も良子より先に先生にしたいと言い、良子が始めたら何の挨拶もなしにおやめになったことがあるが、どうもおかしい。

昭和天皇◆高松宮はスキーか何かでずーっとお出かけのようだが、本来は私と連絡して、私が行くと大袈裟になるような時に名代である如くない如くにして皇弟としてお出かけになると一番良いと思う。
田島長官◆宮様の御旅行は主催者側よりの旅費によりて御支弁の場合もあります御様子にも伺いまする。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1950年3月3日
吉田首相を訪問。
三笠宮洋行のこと、高松宮のことを懇談す。
吉田首相としては、三笠宮の件はGHQ副官ローレンス・バンカーの意見を聞くこと、高松宮の件は何か適職心掛けること。

1950年3月8日
高松宮スキー御負傷第一報、侍医御差遣等手配す。

1950年6月13日
小倉氏談。
高松宮、御旅行多し、花柳あること希望とのこと。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1950年1月2日
田島長官◆先日三笠宮から高松宮の御旅行のため民間に怨言あることの御話出ました際、高松宮が反抗的に御話になりしこと。
昭和天皇◆高松宮妃も御話あったが、高松宮は人が言えば余計にかぶせて仰せにはなるが、実行はなさらぬようだ。
また高松宮は上の者とか宮内庁から言えば非常に御反抗的だが、民間の者や投書にはなかなかお聞きになるとのことだ。

1950年1月6日
昭和天皇◆今朝の新聞に高松宮が東宮御洋行のことを話しておられるが。
高松宮は新聞社員などには実にうまく仰せになり、時期の問題だと仰せになった誠によろしい。
こういうことは秩父宮や三笠宮と違っておよろしい。
三笠宮は御正直で、御口と御腹は一つでその点はおよろしいが、仰せにならぬでもよきことを仰せになり、それも御自分のことをいつでも省みて仰せになるが、多少歪められている場合もある。
例えば結婚の問題なども、私と高松宮は決まっていたようなもので、秩父宮は少し違うが、三笠宮はずっと御自由で御自分で御選択になり、節子皇太后はいいなりであったのに、御自分では外部の力によったように思って御話になり、ちょっとわからぬ点がある。
日光や葉山の御用邸の付属邸など、節子皇太后と三笠宮と御一緒にお住みのために作ったものだが、「親子兄弟一緒でなかった」という風に人に御話になるが、あの点はどうかと思う。

1950年3月10日
〔高松宮、スキーで負傷〕
田島長官◆高松宮、御軽傷にて結構でございました。
昭和天皇◆私はこれが新聞などへも出て、多少御反省の機会になればよいと思っている。
国民の状態がこんな時、行楽的にお出かけが多すぎるように思うから。

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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1950年3月11日
田島長官◆高松宮は莫大な税金のようでございますが、秩父宮・三笠宮は大したことないと存じます。

1950年6月22日
昭和天皇◆田島は知らぬから宮中服のできた沿革を話しておこう。
それは第一に高松宮妃の主唱でできたので、秩父宮妃などと研究の結果できた。
私はむしろ反対だったが、結局出た。
理由は洋服は英米的だというのである。
同盟の独伊も洋服だからと反駁したが、軍人などは何か国粋的なものという声を上げてた。
これに妃殿下方がまず乗ぜられた。
第二に繊維不足という時勢の声に対し、一反の反物ででき、上衣は丸帯でできるということであって、まあ結局承知したが、後でわかったことには、上衣は丸帯ではできず新調ということになり、東久邇の叔母さん〔東久邇宮聡子妃〕など「洋服以上に面倒だ」と私にこぼされるようになり、宮内大臣松平恒雄に上衣をやめることをいくら話してもなかなかやらず、通牒でやっと出したが、「戦時中」とあったゆえ、これを「当分」と変えようとしたが、松平は遂にやらず宮内大臣が石渡荘太郎になってこれが実現した。
上衣のヤメやら何やらで節子皇太后は結局今までお着にならず、お作りにならない。
なお高松宮妃の御自分的な理由は、今までの洋服裁縫師がいなくなったことであるが、これは私的な理由で私はどうも賛成できなかった。
その高松宮妃が戦後批評が出るとすぐ洋服を自由になさるのはどうかと思う。
秩父宮妃の、相当の研究の結果ゆえ不評でも何とか改良してという立場の方が理解できる。
フランス大使か誰かが三笠宮妃に「この服はなってない。パリでお作りなさい」と言ったこともあると聞いている。
私は宮中服には本来賛成してない。
和服が良いと思うが、節子皇太后が不様という訳で不賛成で宮中服となり、しかも節子皇太后は宮中服は召さぬ訳だ。
田島長官◆和服について併用の意味で節子皇太后のお許しを得て、和服の方向に行き得るかよく研究いたします。
昭和天皇◆節子皇太后のモンペも戦争の防空から来てて、戦時色はある。

1950年7月5日
田島長官◆三笠宮のことに関連し、明仁皇太子・常陸宮のこともなかなか考えさせられまする。
明仁皇太子は特別にて民法に長子相続もなくなったにかかわらず、皇室だけは長子相続の建前で二男・三男は冷や飯で、この点よほど注意しなければならぬと存じます。
明仁皇太子のことは東宮大夫穂積重遠の無責任では駄目ゆえ東宮参与小泉信三に替ってもらうという具体案ができてお許しを得て実行しましたが、常陸宮についてはなお研究中。
昭和天皇◆田島は戦争後になって宮様方が平民的自由と皇族の特権とを両方活発にやられるようになったと言ったが、戦前からずいぶん平民的な特権をやっておいでだった。
一つは別当などの人がついていたことと、今一つは検閲制で新聞に出なかったというだけだ。

1950年9月18日
田島長官◆東京新聞の三笠宮の御意見発表は、現地で同様の御発言がありましたか否か心配になり、現地に聞き質しましたが、現地ではそのことございませんでした。
昭和天皇◆高松宮妃のように発表前にお見せいただくといいのだがねー。
もっとも高松宮は高松妃のやり方に御反対だそうだが。

1950年10月17日
田島長官「高松宮■■事件、御承知なりや」お伺いせしところ、
昭和天皇「高松宮妃が良子に話しておられるのを間接に聞いた」との御話にて、式部官長松平康昌より聞きし大要御話申し上ぐ。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1951年5月18日
〔1951年5月17日節子皇太后死去〕
田島長官◆陵名を石に刻して埋めるのでございます。
大正天皇の時は閑院宮載仁親王の筆でありまするが、今回は殿方様にお願い致しましょうか。
昭和天皇◆高松宮がよい。
秩父宮は御病気のため、毛筆の大字は御無理であるから。
それに高松宮が字も一番御上手だ。

1951年6月5日
昭和天皇◆昨日突然秩父宮妃と高松宮妃が来られて、高松宮妃は宮中服は失敗だったとの観念があるらしく、はっきりあれは間違いだったとの話はないが、秩父宮妃は別の態度で何か一新軌軸を出そうとしたもので、一朝一夕に廃すべきでなく、また戦時に関連したものでもないとのお考えが強く、とても強固だ。
それほど時局に影響ないならば、その時にも私は言ったのだが、
「戦争済んでから日本古来の伝統も考えてゆっくり新しいものを創造していいではないか」
それをあの際やったのは、何と言っても戦時色あるを免れぬと思う。
三笠宮なども「洋服は米英式だ」と言ってたような時代で、
私は「ドイツ式でないのか」と言ったことがある。
だからこの際 私の天皇服のように一時 人の目の見える所のみとして、世の批評を聞き、再検討・再出発すればよいので、そのつなぎに和装をやってみれば、またそれの批評も出よう。
秩父宮妃が宮中服成立の経緯につき、相当主張あることを物語りしゆえ、話が出るかもしれぬから参考に話す。
田島長官◆田島は節子皇太后に良子皇后和装の明瞭な同意を得るつもりでありましたのが御崩御ですが、昭和天皇の御趣意にも合しまするゆえ、和装をお始め願えばよいと存じます。
昭和天皇◆秩父宮妃が宮中服に執着強く、改良してモノにしたい意思が強いが、何か古い伝統のあるものは廃するに忍びぬことがある。
田島長官◆それはそうでありますが、宮中服はそういうものではありませぬ。
昭和天皇◆そうだよ。

1951年6月15日
昭和天皇◆節子皇太后の御遺書の事だがねー。
節子皇太后は筧克彦の御進講「神ながらの道」をお聞きになったのだが、その筆記をどういう意味かわからぬが秩父宮にあげてくれとある。
これはその通りにするだけのことゆえ差し上げてもいいが、どうして秩父宮かということはわからない。
とにかく秩父宮は節子皇太后の一番お気に入りであった。
三笠宮も末のお子さんで〔溺愛され〕高松宮が御不平で、
戦争の時 支那の上海か何か危険な所へお出でになったのも、その御不平のためであったような話も聞いた。

1951年6月21日
田島長官◆〔貞明皇后の墓の〕お土かけのこと、高松宮御電話あり。
皇太子様もとの御説あり。
「お小さい方も印象をはっきりするためになすったらよい」との御意見でしたが、
「順宮厚子内親王が遊ばせば、照宮成子内親王・孝宮和子内親王、またその御配偶者、さすれば東久邇宮稔彦王・東久邇宮聡子妃もとなりますが」と申し上げ、
高松宮は「内廷皇族で線を引ける」との仰せ。
昭和天皇◆それは私としては困る。
稔彦王の関係もどうなるかと思うゆえ、最初の両陛下・直宮・妃殿下方だけか、皇太子を入れただけにしてもらいたい。
皇太子を入れたために他に波及するなら、皇太子もやめてくれ。
田島長官◆高松宮に申し上げましょう。

1951年7月26日
昭和天皇◆久邇宮朝融王はいつでもそうだよ。
そうして御実行にならぬから、初めから嘘をついてるということになるのだ。
その点同じ海軍でも高松宮と反対だ。
その場ではそうだと言わずなんだかだと言われるが、実際の行動は口で反対されたことをやられるのでもなく、むしろこちらの言ったことのような行動をなさる。
それは御利口だから。

1951年7月27日
昭和天皇◆節子皇太后の御遺物の処理のこと、秩父宮・三笠宮に御異存なければ高松宮に御一任して案を立てていただくのがいいと思うが、そう御話を運んでもらいたい。

1951年8月3日
田島長官◆高松宮御遺物処理案作成の件は誠に快く御承諾。
しかもいわば皆で案を作る下働きをすることゆえ、昭和天皇の御裁可は当然、秩父宮・三笠宮の御同意も高松宮より御話するとの、極めてなごやかなる仰せでありました。

1951年8月22日
田島長官◆高松宮に御遺物分配の件「百日祭までにおできでございますか」とお伺い致しましたが、「いや、とてもだ。来月」との仰せでありました。
昭和天皇◆高松宮はいつも三日坊主だ。

1951年9月4日
昭和天皇◆赤十字に関する高松宮の考え方やまた御遺品の分配のことなどで私の憤慨してることから考えて、高松宮という人は何でもちょっと自分が頼まれればその関係の所有権を自分が持っているように振る舞われる人だと思われる。
私が頼んだ節子皇太后の遺品分配のことでも、自分でどんどん女官などにやっておしまいになるし、私は非常に憤慨してる。
田島長官◆田島が昭和天皇の思召をお伝えしました時には、高松宮は「私が下働きの幹事役をするだけ」という御挨拶でありまして、その高松宮と昭和天皇の仰せとは矛盾で私も憤慨いたしまするが、さりとてこの点を昭和天皇が筋を通して高松宮に仰せになれば難しい事態になりまするゆえ、忍び難きをお忍びいただき負けるが勝ちということにお願いいたしたいと存じます。

1951年12月3日
田島長官◆高松宮は上手に物を仰せになりますが、三笠宮は純と申しますか仰せになりますので、昭和天皇も時々お困りになりますが、以前から見ればよほどお慎みのように存じます。
昭和天皇◆高松宮も田島の来ぬ前の頃は相当お話になった。

1951年12月13日
田島長官◆『原田熊雄日誌』第6巻に西園寺公望が綏靖天皇の事を引き、
「直宮様方は何もお考えにならぬが、勢というもので何か起こらぬとも限らぬ」という意味を二度申しておりますが。
昭和天皇◆西園寺は私にそういう事は言わぬし、原田に言ったかどうかも知らぬが、秩父宮は英米反対で日独同盟論を強く主張せられ、私はついに「そういう意見はもうあなたから聞かない。板垣陸相に言ってください」と言ったぐらい、第三連隊に関係が深く当時の陸軍の考えの通りであった。
参謀本部で閑院さん〔閑院宮載仁親王〕が、「秩父宮は食堂へもおいでにならぬ」というようなことを言っておられた。
高松宮は砲術学校の時にかなり主戦論をされて私とケンカし、高松宮妃も同席して困っておられたこともある。
そんな事が自然西園寺の耳に入り心配してたのかも知れぬ。

1951年12月17日
田島長官◆高松宮が宮内職員高尾亮一に、
「終戦の際昭和天皇が万世の為に太平を開かんと仰せられたのに照応して、条約効力発生の時 何事か仰せになった方が良いと思われる」との御話があり、退位論など影をひそめていると確信するとの話がありました。
昭和天皇◆そうか、高松宮は今は退位論ではないのか。
高松宮は私に直接退位をおっしゃった。
そして「毎日のことでないから、御病身でも秩父宮が摂政にならればいい」と言われた。
口では秩父宮と言ってたが、腹では自分と思っていたのではないかしら。
東宮ちゃんが成年に達し、御自分が摂政になれないから退位論を改説されたのかしら。
秩父宮は終戦直後に内大臣木戸幸一や内大臣秘書官長松平康昌に、退位論ではない御説をはっきりお言いになった。
田島長官◆田島は一昨年や昨年は秩父宮のそうではない御意思の印象を受けております。
昭和天皇◆お変りになったか…。
田島長官◆いずれにしましても先だって来の文章ができますれば、世間発表前には御兄弟様に御内示になり御納得願った方が良いように思われます。
昭和天皇◆その方がよかろう。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1952年4月27日
秩父宮に御言葉の文申し上ぐ。
「固い・抽象的、まずよからん」とのこと。

1952年4月28日
高松宮に御言葉の文申し上ぐ。
「戦争のことは言わぬ方よし。今さら平和論を言うと言われる」とのこと。

三笠宮に御言葉の文申し上ぐ。
約50分熟考、御説あり。

1952年5月3日
式典は無事終了。
約一年苦労の御言葉もよし。

1952年6月26日
高松宮行状のこと。
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田島道治『拝謁記』拝謁記

1952年1月25日
田島長官◆元学習院院長山梨勝之進〔海軍大将〕に追放解除願を出すよう勧めておきましたが、山梨は慎重でありまして海軍大将小林躋造と相談して長老岡田啓介海軍大将を訪い同意を得、全海軍大将に手分けして話し一致の行動を取りましたそうでございます。
昭和天皇◆それなれば日本人の例の形式的で玉石混合で、海軍大将はみな良くなるのか。
それがいつも困る。
戦犯も内大臣木戸幸一を良くしようと思うと、また玉石混合で良くなる。
非常に困ることだ。
田島長官◆山梨の話では高松宮など皇族は追放ではありませんが制限は受けておられるので、形式的には追放ではなく実質的には制限あり困ったことであります。
昭和天皇◆高松宮は真珠湾の時の軍令部作戦関係の位置におられたから、あまり良くないことになるとかえってヤブヘビ的ゆえ何もせぬ方が良いと思う。

1952年2月11日
田島長官◆英ジョージ6世の葬儀は東京で大使館主催の弔祭式があるかと存じますが、ヴィクトリア女王の時は小松宮彰仁親王夫妻、エドワード7世の時は嘉仁皇太子夫妻〔大正天皇夫妻〕ジョージ5世の時は高松宮夫妻が御名代ということでおいでになっておりますが、今回は国際関係が正常でございませぬので御名代はどなたにお願い致しましょうか。
昭和天皇◆秩父宮は御病気で御無理ゆえ、高松宮にお頼みしてもらおう。
田島長官◆良子皇后御名代も高松宮妃にお願い致しましてよろしゅうございますか。
昭和天皇◆御健康はどうかしら。
万一健康上の問題があれば秩父宮妃にお願いしてくれ。

田島長官◆まだ先のことでありますが、戴冠式が6カ月後なれば国交回復後と存じます。
その節もし駐英大使でなく御名代というような場合はいかがでございましょうか。
昭和天皇◆御親類の国は別として他の国の参列者の振り合いを見て、例えばフランスが大統領自ら行くという場合で政府も希望するようなら、私はむしろ名代が行った方が良いと思う。
その時もそれはやはり高松宮だ。
秩父宮は行かれないから、また三笠宮は歳もお若いから。

1952年2月16日
田島長官◆高松宮邸に出まして両陛下御名代の事をお願い致しましたところ、何か御機嫌が悪いことがありましたかいちいち何か仰せになり、
「私は秩父宮御病気ゆえ御名代を引き受けても良いが、良子皇后御名代は秩父宮妃が本当だ」という御説を強く仰せになり、
「昭和天皇の御思召もそうだ」と申し上げましたところ、
「ヴィクトリア女王・エドワード7世・ジョージ5世など、みな秩父宮夫妻お揃いの前例などを田島が申し上げぬから悪い」とか「秩父宮妃が御病気になればいい」とか「リッジウェイとの関係を田島が配意するのは馬鹿なことだ。日本が敗けた以上、下になるのが当り前だ」というような御話でありましたが、辞去後高松宮より御電話がありまして、
「藤沢〔秩父宮別邸〕との打ち合せの結果、めんどくさいから私のところでやれとの話ゆえ、それでよろしい」とのことで決まりましたのでございます。
昭和天皇◆高松宮は秩父宮妃のことをいろいろ言われたのだなー。
田島長官◆何だかいろいろ順調な御返事がありませんでした。
まずイギリス弔祭式について御国威を失墜することなしに済んだと存じます。

1952年2月18日
田島長官◆三笠宮が田島の部屋へおいでになりまして、
「戴冠式の御名代はどうなるか、私の外遊ということについて最も良い機会だが」との仰せでありました。
突然でありましてビックリしましたが、直接こんなに早く御話が出ようとは予期いたしませんでしたが、
「8月よりもっと早いかもしれませぬ。したがって正常国際関係が復活していないかもしれませぬし、またその際皇族がお出かけになることになるか大使的な人になるかも分かりませぬ」とハッキリせぬお答えを致しておきましたが、昭和天皇に直接お話があるかもしれませぬゆえ、ちょっとお耳に入れておきます。
田島長官◆高松宮は社交のことは御上手で、私なんかよりとても御上手だし、秩父宮が行かれれば一番良いがそれは駄目ゆえ、高松宮はこういう時には適当な御長所がおありだ。
この前高松宮が行かれたのはガーター勲章の御答礼で戴冠式とは違う。
戴冠式だからねー。

1952年2月25日
田島長官◆今日の新聞には戴冠式はやはり8月7日で、先方から招待状が来てみなければわかりませぬのだそうでございます。
昭和天皇◆イギリスは昔から親善だから、できれば今後も。

1952年2月29日
田島長官◆秩父宮からお手紙をいただきましたが、戴冠式に御名代の問題があれば明仁皇太子がよろしいということであります。
田島はそれまで想像もいたしませんでしたが、御手紙を拝見してみればごもっともであり筋の通ったことで、具体的に考えてみるだけの要はあると思いました。
侍従長三谷隆信は消極的で、東宮職では若い連中はとにかく東宮参与小泉信三・東宮大夫野村行一の間では否定的に傾いております様でありますが、秩父宮に直接お伺いして両陛下に申し上ぐべきと存じまして藤沢〔秩父宮別邸〕へ上りました。
秩父宮は例の通り御自分の結論に反する事は枝葉的にお考えになりお論じになりますが、秩父宮の仰せは大筋はよく通っております。
「戴冠式御参列は難しいことでなくなんでもないことで、御役目というものがない。これは高松宮がガーター勲章の御答礼においでになったのとは全然違う。スターとして主役は何もない。ならびに大名的である」ということで、御自分様の御経験の順序を伺いました。
「前夜グロスター公の晩餐会から始まって、当日は式部官に誘導されて席にお着きになるだけ、国会での午餐・バッキンガムでの午餐も向こうの人は不慣れな方にはちゃんと気をつけてくれるから心配無用。私的にはクイーンがお呼びになる少数の宴会もあろうけれども、大してお困りになることはない。随従の者もある程度までお付き添いできる」
「軍艦は無し、飛行機も汽船も外国のものであり、右翼の者から問題にされる」ということも申しましたが、
「日本が一等国だった時のことを思っては駄目だ」との仰せでした。
秩父宮は非常な御熱意で、「話が進まなければ昭和天皇に直訴する」との御話でありました。
田島もこういう場所へ一度おいでになればその御経験は御自信をお付けになる機会でよろしいかとその点は結構と存じますが、田島・宮内庁次長宇佐美毅の積極に傾くこと三谷侍従長・小泉参与の消極に傾くこともあくまでも感じで、まだ意見と申すまでのものでもございません。
昭和天皇◆交通の問題を心配するのは右翼ばかりではない。
東宮ちゃんとしてはまたとない機会であるが、東宮ちゃんは身体が健康とは言えないし、行くとすれば香港・シンガポールの線はどうしても不可と思うゆえ、カナダかアメリカ経由ということになる。
そうするとイギリスに行く前に相当疲れてしまうと思う。
その上イギリスの儀式ということは主役でなくてもやはり疲れるから、その点どうかと思う。
秩父宮の議論は筋は通っている。
これは三笠宮をやめてもらうには非常に良いがねー。

昭和天皇◆東宮ちゃんの御名代の話ね、良子と話したのだが「それはちと早い、若すぎる」と言ったのだ。
しかし私が「私がイギリスへ行った歳と比べると1年かそこらの差だよ」と言ったら、
「そうですか。そんならむしろ賛成です。行ったほうがいい」と言うのだ。
それでまたとない機会だし筋の通ったことだから、具体的な事とか客観情勢とか国民感情とかで行けなくなることもあるかもしれんが、それらの点が全て差し支えないならまあ望むという方の考えだから。
実は私は東宮ちゃんが長く留学というようなことはあまり好かぬので、そういう意味での留学とか洋行とかいうことはやめたいと思うぐらいだ。
アメリカが留学など言う時でも、これをやっておけばそれを断るにもいいしね。

1952年3月7日
田島長官◆戴冠式の件、新聞記者なども宮様は三殿下〔秩父宮・高松宮・三笠宮〕で、秩父宮は御病気として、他の二殿下ではあまり世の注目を引かぬらしく、ひそかに明仁皇太子と思ってるのもあります。
昭和天皇◆どうしてそんななのかねー。
高松宮は社交は御上手だし、内地でもいろいろお出ましになるが、それがかえって困るということになるらしく、節子皇太后から直接伺ったが、埼玉県県会議長が直接節子皇太后へ「高松宮は困る」と言ってきたことがあるとの話で、節子皇太后は否定の御返事をなすったと聞いたが、そういうこともある。
田島長官◆実は首相吉田茂が初めから明仁皇太子と思いましたのも、二殿下がイヤなためもあるかと思われます。
昭和天皇◆吉田はどうしてかねー。
秩父宮はいいようだが。
田島長官◆高松宮は御招待もお断りしますし、封書も拝見せんでお返しいたしますし、吉田首相は感情的にイヤらしゅうございます。

1952年4月8日
昭和天皇◆良子が市外へ出るとなると一つ例ができると断るに困るようになり、悪い例だが高松宮みたように出てばかりおられ、高松宮妃はいつも御留守で御一緒のことが少なくなる。
これは良い例ではない。

1952年4月22日
〔1952年5月3日サンフランシスコ平和条約発効記念式典の御言葉〕
田島長官◆秩父宮が「高松宮がしきりに御言葉と言っておられるが、私はどうかと思う」とのことでありました。
秩父宮は高松宮とだいたい御意見が一致かと存じましたが。
昭和天皇◆いや、意見は違うんだよ。
高松宮は結局海軍の意見、秩父宮は陸軍の背後というわけで。

1952年4月28日
田島長官◆秩父宮は御言葉を御丁寧に3回熟読になりまして、
「少し堅いようだ。それから抽象的だ」とのお話がありましたが、
正月ぐらいに「何も仰せない方が良い」と仰せになってたことは、別に仰せになりませんでした。
「ああいうものはどうも少し堅くなるのも抽象的になるのもやむを得ない」と御退位のことについては何も御意見ありませんでした。
高松宮は一度ザッとお読みになり、「まあ、こんなものだろう」との仰せでありましたが、
「ブレントラストは誰か」と御質問があり、小泉信三・安部能成と申しました。
「もっと他に書き加えよというような意見はなかったか」との御質問ゆえ、
「原稿はずいぶん変わりましたが、比較的大きなことは戦争の事・終戦前の事に触れるか触れぬかで論がありましたが、この際それはやめた方が良いとなりました」と申し上げましたところ、
「それはやめた方が良い。戦争については昭和天皇は事実平和論者であられるけれども、詔書のことがあるから自分の意思に反した結果となったという仰せはやはりなさらない方が良い。《過去を顧み》という一句もあるし」との仰せで、高松宮も御退位について何の御疑問も御質問もありませなんだ。
昭和天皇◆そうか、高松宮はやはり御自分の御考より周囲の言うものに左右されるのだなー。
砲術学校の時は非常に主戦論で、東条の時は海軍の意を受けて非戦論、また終戦の時はもちろん早くというお考えだった。
御自分の意見というより周囲の意見に従われるのだなー。
田島長官◆先鞭をつけるとか意見をお急ぎになる所がおありではありませんでしょうか。
昭和天皇◆それもそうだが退位は、あの頃よく南原繁が上がってたからだ。
田島長官◆お二方とも御退位なきことに何の御異存もなき御様子に拝し、また御言葉も別に取り立てて仰せはありませなんだ。

1952年7月2日
田島長官◆高松宮の赤十字社の場合など総裁として相当仕事に関わりがあったような御話でありますが、これはおよろしくないかと思います。
昭和天皇◆皇族は責任を取ることができない。
例えその総裁を辞めても皇族は辞めるという訳にはいかぬ。
実際の仕事に当るということはやらないようにしなければならんと思う。

1952年7月4日
田島長官◆三笠宮が『赤旗』にインタビューで御話になりましたことが外国へ響いているということで、ロシアに関係ある世界的な会合に日本も出席すべきだというようなことと聞いております。
先だって福島の新聞の事件は申し上げましたが、〔三笠宮が福島県の警察予備隊誘致を批判した〕三笠宮は一部的に真理と思われますると全体的にどうかと思うこともドンドン言われまする。
昭和天皇◆地位を考えない、その影響がどうあるかということを少しも考えない、困る。
それは秩父宮も高松宮も、御地位ということ影響如何ということのお考えがどうかと思う。
田島長官◆高松宮は御言葉はなかなか御利口に仰せになりますが、御行動は必ずしもそうも参りませぬようで、平和になったという御気持が多少は関係あるかもしれません。
昭和天皇◆平和になった今日ますます世間の目が光るから慎重の要がある。

1952年9月10日
田島長官「外務省から連絡がありまして、いよいよエリザベス2世戴冠式に昭和天皇の御名代がおいでいただけるか、またそれはどなたかを御通知願うというような申し入れが、駐日イギリス大使デニングから外務大臣宛にありました由」とて、右文章を翻訳して申し上ぐ。
ミッションは3人以内とか一行も最小限度とか注意事項に、
昭和天皇「3人の制限が一行のことでなければそれでよろしい」
交通に関しては往路カナダ経由・帰路アメリカの御希望あり。
昭和天皇「フランスは共産党強きが如何」

1952年9月13日
田島長官◆明仁皇太子御名代のことは極秘のことでありますが、秩父宮の御発言によって参りましたことゆえ、招請のあったことぐらい昭和天皇から秩父宮と御話になりますることは如何と存じました次第であります。
(昭和天皇、別に何とも仰せなし)

1952年9月19日
田島長官◆秩父宮につきましてカナダ映画の件は田島が早飲み込みいたしました結果、昭和天皇にも御心配おかけしまたいろいろ迷惑を及ぼしたようでありますが、お詫び申し上げます。
昭和天皇◆私は田島からカナダ映画の話を聞いて、侍従などがあまり見当たらぬという話を聞いたので、秩父宮あたりがまた「侍従の数を減ぜよ」などと言われはせぬかと思い、また服装がいろいろあって、秩父宮妃や高松宮妃などまた宮中服のようなものでも言い出されはせぬかというような気がして、私は秩父宮はお招きせん方がいいと決めた後であったので。
(これは侍従入江相政が「我々平民の社会では通用致しません」と御諫言申せし、
「御自分の御子様方と共に御兄弟もご一緒に御睦びなるべく」旨に辟易してか、こんな変な理由を仰せになり真に変と思う)

1952年9月22日
田島長官◆国体へおいでの時 できれば宮城・山形へもおいでになりたいむね拝承いたしておりましたが、例年と違いまして順宮厚子内親王御慶事・明仁皇太子の成年式・立太子礼など特別の行事がありまして、侍従職の負担が重くなりまするので福島のみとしてお許しを得ましたが、
高松宮から「家来の都合で昭和天皇のおいでを左右するのはおかしい」との仰せで。
昭和天皇◆良子など松島を知らないのだよ。
私は行ったが、外国人と話をする時には松島を知らぬではおかしい。

1952年12月8日
田島長官◆高松宮が翁島の御別荘を無償で福島県へ下附になる件でありますが、 有栖川宮威仁親王が御築造のとき地元民より意に反してお取りになっているような原因でもありますが、地元民にお返し願いたいという請願がありまして、表面高松宮は無償で県へ下附のため国会の協賛を要しておりますが、陰ではどういう風ですか有償であるとの話であります。

1952年12月9日
田島長官◆三笠宮が『青年よ、銃をとるなかれ』という一文をお書きになりまして雑誌にお載せになりましためか、ウィーンで開かれる共産系の会合の案内が来まして、その返事を書くよう式部にお話があり、官長がお返事なき方が良いむね申し上げ、どうしてもお出しになるとしてもお断りというだけで良いと思うとのことで、日本文で変なお返事でもお出しになれば良くないと存じます。
御地位をお考え願いませんと。
昭和天皇◆困るね、それは。高松宮もだ。
田島長官◆高松宮は改進党の代議士に招かれて栃木県においでになりましたのが、だいぶ問題のようであります。
昭和天皇◆改進党なれば。
田島長官◆保守党ではありますが、その代議士の人物がどうも感心しませぬので、政治的に御利用になられたことで反対党の代議士連がブーブー申しておりまして。

1952年12月18日
田島長官◆明仁皇太子御誕辰拝賀のことでありますが、新嘗祭の時明仁皇太子が殿上で御拝になります時、宮様〔高松宮か三笠宮〕から「前例はあるのか」とのお尋ねがありまして、「あります」と申し上げましたが、その御質問の裏には宮様方はモーニングで拝礼かと思っておいでであったかと想像されますから、「本来は宮様方も御装束をおつけ願うのであります」と申し上げましたが、「それはイヤだ」との仰せもありました。
それから御神楽の時明仁皇太子御拝の時に臣下は起立いたしますが、もちろん宮様方はおかけのままであります。
これは親王として御同等とのお考えもあるかと存じまするゆえ、御誕辰拝賀となりますると宮様方の御誕辰にも明仁皇太子が賀にお出かけになるべきかという問題もあり、真に難しくデリケートでありますため、御思召を拝したいと存じまして。
昭和天皇◆それはなかなかデリケートだが、皇太子の身位は未来の天皇で、私には叔父甥でも公には一段高いのだから行かぬでもよいと思う。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1953年1月3日
秩父宮、実は2:30頃御危篤、新聞等公表は4時半薨去。

1953年1月5日
御解剖行われ、2時過ぎ帰宅。

1953年1月10日
次長・侍従長より昨日両陛下 御葬儀に関し御不満のこと聞く。

1953年1月16日
高松宮御来室、秩父宮家財政のこと。
臨時費の他、月額補助従来の2/3になる程度御希望。

1953年1月20日
高松宮拝謁、秩父宮御会計御補助の件、長官にいろいろありがとう。
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田島道治『拝謁記』拝謁記

※当時の総理大臣の年給は132万

1953年1月15日
田島長官◆秩父宮家が親王薨去になりますれば、140万円の年分は停止になりますると1/3にお減りになりますので、御日常御不足かと存じます。
また経常費合理化のため人減らしがあると存じますが、解雇につき退職金が御入用かと存じます。
鵠沼の御邸も相続税が相当あるかと存じます。
御不足分を御本家の内廷費で御支弁いただくより仕方ないと存じます。
昭和天皇◆それは当然内廷費で支弁するようにしてよろしい。
あまりケチでなく。
田島長官◆昨日高松宮妃がおいでになりまして、
「秩父宮家の御会計はどうだろう。高松宮家とて富裕ではないが少しぐらいのことはできるから」というようなお話でありましたから、
「必ず昭和天皇がお許しになると存じますから御心配なく」と申して置きました次第でございます。
医療費の点は解剖の御礼もあり昨年までの分は済んでおりまするが、これはやはり別に賜ることに願いたいと存じます。
昭和天皇◆実行方法はどうするのか。
田島長官◆医療費は全額決定次第御手許上げいたし、従来通りお自ら秩父宮妃にお渡し遊ばされ、その節昭和天皇から秩父宮妃に対し親しく御言葉で「宮家経済のことは長官に話してあるから」と仰せになれば結構かと存じます。
なお一つ内廷費支出のお許しをいただきたいことは、700万円の御葬儀費用を政府は厚意をもってくれましたが、宮内庁職員の徹夜など超過勤務手当に使用は厳禁と釘を差されておりいますが、さりとてなしというわけには参りませぬゆえ、内廷費から20~30万円支弁させていただきたいと存じます。
昭和天皇◆よろしい。

1953年1月16日
田島長官◆昨日豊島岡墓所で秩父宮妃にお目にかかりまして、
「いずれ昭和天皇より御話はありましょうが、皇室で御輔助の御気持でありますから、どうぞ田島に御相談いただきとうございます」と申し上げまして非常に御感激の御様子でありました。
ところが今朝高松宮がおいでになりまして、
「後家さんにおなりになって女さんお一人ゆえ金は要らぬという考えでは困る。田島の先入観がそれでは困る。宮家としても半分以上は妃殿下のための衣食の費用だ。秩父宮妃は特別な御地位と御経歴で国のためにお働き願うという立場で、御費用は御入用と考えてもらわんと困る。皇族の数は少ないし、特殊な立場で国際的にお願いするために費用は要る」との仰せで、今日は別に反対論を申しませなんだ。
高松宮と近い式部官長松平康昌に話しましたが、「それはちょっと行き過ぎですね」とも申しておりました。
昭和天皇◆それは今後は高松宮夫妻で遊ばして、その輔助に秩父宮妃がおいでになればいい。
今まで秩父宮がやってられた程度のことは必要かも知らんが、それ以上は要らぬことと思う。
田島長官◆高松宮は金額の問題を仰せ出しになり、
「1/3になって月額58,000円ではどうも仕方がない。2/3くらいになるように御輔助になるといい」という風な御意見に拝しました。

1953年1月19日
田島長官◆秩父宮の医療費は44万2千円程度でありますが、他にも御医療費はありましょうし、50万円としていつもの通り御手許上げと致しまするゆえ、明日良子皇后が鵠沼へおいででございますれば、良子皇后より秩父宮妃に進ぜられますれば至極結構のことと存じます。

1953年1月20日
田島長官◆秩父宮家の毎月の内廷御輔助の金額を定め願うことが先決となりまするゆえ、宮内庁次長・侍従長・侍従次長・式部長官ら要職の者の個別的意見は期せずして年額70万円と申しまして、つまり法律上秩父宮御在世時の1/3にしかなりませんのを、内廷の御輔助で2/3に願うということであります。
昭和天皇◆よろしい。
田島長官◆高松宮に秩父宮家の件 申し上げましたところ、非常に御満悦の御様子に拝しました。
田島拝命以来初めて「御苦労だった」との御言葉をいただきました。
昭和天皇◆そうか。

1953年2月25日
田島長官◆イギリス戴冠式への御希望を申出ありましたが、秩父宮の御発議で明仁皇太子となりましたゆえ、三笠宮としては御失望かと存じます。
それゆえ政府に頼み何かの名義で御洋行の機を作ることは、三笠宮のためにも皇室にも日本国にもよろしいかと存じます。
昭和天皇◆高松宮妃もそんなことを言っておられて、洋行は第一の方法と思うが随員が大切だ。
田島長官◆式部官長松平康昌は外交官僚日高信六郎が良いとのことであります。
三谷侍従長も日高は良いと申し、三谷は明仁皇太子随員首席にも一度日高と申したことがあります。
昭和天皇◆日高は立派ないい人物だと思う。
ただし三笠宮に対して影響を及ぼす力があるかどうか、その点が駄目なら人物が良くても駄目だ。
三笠宮がその意見に動かされるようなあまり年齢の違わぬいい人はないものか。
田島長官◆秩父宮・高松宮は皇孫でお生まれになり、三笠宮は皇子としてお生まれで、節子皇太后が末っ子は可愛いと言うのでお可愛がりになったというようなことも多少ございましょうか。
昭和天皇◆私などは〈おもう様〉〈おたた様〉と御一緒のことはあまりないが、日光や葉山の付属邸というものは三笠宮のためにできたという一例を見ても、田島の言ったようなことはあった。
三笠宮はワンパクで、籐椅子をお振り上げになったのを女官がお止めしたのを、子供は活発でなければと節子皇太后がお止めになったというような例もある。
陸軍少将田内三吉というのが養育掛としてずっとお付きしてた。
秩父宮や高松宮は恥ずかしいのかちっとも三笠宮と遊ばない。
私は遊んでやったことがある。

1953年3月26日
田島長官◆高松宮妃が三笠宮御洋行に関して御話になりましたと見えまして、
三笠宮は「高松宮妃は私の子供のことなど少しも考えておられぬ」とのお話がありましたとかで、「自分は外国旅行より留学したい」との仰せでありましたそうです。
昭和天皇◆それは高松宮妃から聞いた。
高松宮妃を通して三笠宮の考えというのも聞いた。
我々はお父様お母様とは言わないで〈おもう様〉〈おたた様〉と言うのだが、三笠宮はこれを改めて普通のお父様お母様として御実行になっているそうだが、それはそれでいいとしてその裏付けになっているものに何かあれば面白くないと思う。
高松宮妃のお話に「子供を連れて行かなければ三笠宮妃が神経衰弱になってしまう」とのことだが、私は神経衰弱になるのは三笠宮ではないかと思う。
なぜならお父様お母様のような皇族として従来なかったことを始められているのが、御留守中に壊されるのを御心配になるからだ。
皇族たる権利と庶民たる権利を二重に享有せんとする思想である。
権利ある者はそのための義務があるはずだ。
二重の権利はいかぬ。

1953年4月20日
昭和天皇◆皇族は今皇族としての特権は十分ある上に、昔と違って庶民と同じような生活をもなし得るという両方の得な立場にあるということが、元は同じ皇族であった元皇族から見れば、いかにも両方とも持って得をしているという風にに考え、羨ましく思うという心理があるのではあるまいか。
田島長官◆確かにさようなことはあり得ると存じます。
皇族としてのいろいろな特権は元皇族と大きな違いであります上に、平民的な御行動の御自由も十分お持ちであります。
高松宮など地方へお出ましの時は固い御歓迎の席のみでなく日本流宴会などもお好みとの評判もありまするゆえ、そういうお感じはごもっともとも感じられます。

1953年4月22日
田島長官◆昔は側近という観念は侍従職関係に限られましたが、今日では宮内庁の役人は全部側近のつもりで勤務いたしております考え方に変化しつつありますゆえ、昭和天皇が夜のモーニングはと仰せもあり。
昭和天皇◆私がモーニングは晩餐におかしいと言ったのは、外部の首相や何かを呼ぶ時のことを言ったので、内輪の内宴的にはモーニングでもいいと思う。
高松宮なんか、昔のやり方は内廷皇族や側近のために御不平を言われた。

1953年6月20日
昭和天皇◆昨日田島の言ったことだがねー。
私には田島の言ったことは、私が子供の方に重きを置いて高松宮などのことを次にするというような意味に感じを受けて実は驚いたのだがねー。
田島ががそんな感じを持ってるかと思って。
私はむろん皇族さん方を重んじて子供の方のことはもちろんその次に考えているので、主義としては私は田島の述べたのと同じことを考えているのだが、こと重大だと思ったから良子にも話して今日話すわけだが、ニュース映画〔視聴会〕のことは元皇后宮大夫広幡忠隆の頃に平素はお目にかかることもしずらいから、なるべく御話する機会のあるようにとの高松宮の方の希望で、それではニュースにおいでなさいということになって始まったもので、先方の希望を入れて始めたことなのに、近頃は少しもおいでではない。
それから宮さん方は御機嫌伺いなどということはちっともないけれども、内親王の方は御機嫌伺いというので向こうからやって来る。
それゆえ食事を出すことがあるというに過ぎない。
こちらから食事に呼んだことはない。
それから叔母様方〔照宮成子内親王の嫁ぎ先〕は去年の立太子礼の時にも菊栄会親睦会に呼べたけれども、鷹司〔孝宮和子内親王の嫁ぎ先〕・池田〔順宮厚子内親王の嫁ぎ先〕はどこにも入らなかったから(これは明らかに昭和天皇の御記憶違い)今度呼んだだけのことだ。
今言った通りで昨日田島の言った通り、私は子供より皇族さんを重んじてやっているのを、田島がああいうことを言って驚いた。
(とのお繰り返しゆえ、これは昭和天皇の御意思に反しても変な理論を仰せになっておいでのことを御諫言申さねば昭和天皇の変な御理屈を是認することになるが、笑っておいでではあるが拝命以来の御語勢ゆえ)
田島長官◆さようでございましたか。
田島が昨日申し上げましたことで昭和天皇を驚かせましたことは、誠に恐れ入りましたことと存じます。
この事柄で田島が何か申し上げまするには、覚悟を新たにいたしまする必要もありまするゆえ、今日は退かせていただきまして、覚悟のできました上で改めたただいまの仰せに対し申し上げることにお許しを得たいと存じます。
昭和天皇◆うん、そう。
私はちゃんと田島の考え方と同じであるゆえ、今日ニュース等のやり方をその考えでやってるが、実際のやり方がどうもというので再検討するという意味なら、それは分かるので話は別だ。

1953年6月22日
田島長官◆田島が宮内庁長官を拝命いたしましたのは芦田内閣からでありましたが、突然の話で驚き断りましたが、「5月3日の憲法記念日までに決まらねばGHQの方から先方へ猟官運動をしている者を押しつけてくるかもしれぬ」と芦田首相が申しましたのが気になりまして、GHQに猟官するような奴よりは田島の方がまだマシだと存じ、ついに拝命するに至りました次第で、芦田首相に侍従長は田島の推選する者に同意してほしいという条件を出しました。
侍従長三谷隆信はおとなしい人で誰にでも評判はよろしいが、何一つしないので学習院ではやや持て余しておりましたが、人物は誠実で頭が良くて大人しくて、侍従長はむしろ消極的な方がよろしいぐらいで、かつて御通訳をいたしたこともありますので三谷に承諾してもらいましたが、侍従長としては誠に適当と存じます。
申さば田島は追放の多い最中に代用食のようなことで拝命いたしました次第で、その時分はまだ東京裁判以前でありまして、今日とはずいぶん違っておりまして、昭和天皇御退位の問題もやかましく、昭和天皇から「元宮内大臣牧野伸顕にはよく打ち明けて大切なことは相談する方がよろしい」とのお示しもありましたので、大事と思いますることは考え抜きました結果を牧野のところへ参り相談いたしました。
爾来表の方のいろいろな問題にも当たりましたが、この問題は昨年5月3日の昭和天皇の御言葉によりまして終止符を打ちました。
奥のことも5年間いろいろな人からいろいろなことを耳にいたしましたし、表のことに関する奥のこともありますので、自然奥のことにも頭を使うは当然でありました。
例えば三笠宮の思想・行動の上にどうかと思われる節があり、三笠宮にも少し御態度を変えていただきたいなどということを申して参りましたけれども、一面田島は宮内庁のことに全責任ある身として考えてみますれば、三笠宮がどうしてそういう風におなりになるのか、おなりになるには宮内庁長官として職務の不十分なところがないのかと反省してみますると、やはりないとは申されませぬ。
しばしば御洋行の御希望を承りました時、「在外邦人の金などでは駄目でございます。お兄様はみなさま御洋行ゆえ、堂々皇族としておいでになれますような機会を考えます」と申して参っておりましたところ、今回のイギリス女王戴冠式には明仁皇太子がおいでになりますことになり、三笠宮としては御不満にお思いにもなりませんが、自分はいつ行けるかとお思いになりますことは当然であり、また昭和天皇は終戦と同時にひどくお変りになりましたが、宮家の変化に比べますれば日常の御生活ことに経済の面では格段お違いにならぬとも申されまするに反し、特に三笠宮はお子様も大勢さんおありで、今後いかになり行くかと先をお考えになれば、進歩的な思想についてのお考えになりますのも多少は理由のあることと反省して考える必要があり、さすれば宮内庁長官として三笠宮の思想・行動をただ困るというだけでなく、その原因になることに対策を立てぬが職責上悪いということになりまするので、具体案としてとにかく一度御洋行願うことがよろしい、またできる限り経済上お楽になりますよう取り計らいますことが必要と存じまして、昨年来政府側に対しても予算等を頼んでおります次第であります。
田島は一長官でありまするが、昭和天皇と遊ばされましては、皇族の一員である三笠宮に対して望ましいかぬ思想・行動おありの時には、それはどういうわけか、どうしてかとお考え頂き、単に困るというだけではなく、なんとかお考えいただくことが必要ではないかと存じまする。
高松宮にしてもいろいろのことがあり、最近霜害が最もひどかった川越地方へ視察においでの節、宿屋以外の料理屋にお泊まりになるというので地方新聞にちょっと出まして、埼玉県知事が心配して宮内庁次長のところまで参りましたようなことがあります。
軍人でおいでの方が毎日お勤めになる軍職がなくなり、ありがたかっておいでを願うとなれば、時間がおありゆえお出かけになります。いくら共産党の世の中になりましても、皇位継承権をお持ちの三笠宮が如何とも遊ばされることはできぬは明白で、皇室の首長たる昭和天皇に大きな御立場から大らかになっていただくことが必要かと存じます。
昭和天皇◆その点は分かったが、高松宮妃もヴァイニング夫人の時に良子に先んじて英語を習い、またじきに辞めてしまうとか、秩父宮が私にゴルフを勧め、それではとやりだすと御自分は飽きてやめておしまいになる。
秩父宮妃も高松宮妃と一緒に宮中服をお作りになるに熱心でいて、評判が悪くなると一緒になって悪口を言い、そして御自分は和服を着るというように、飽きやすくて人より先じたがったりなさるから、どうもそういう点が…。
田島長官◆田島の立場としては申し上げるのもつらいことでありまするが、そういうことはすべて宮様の方がお悪いとは存じます。
宮様方の方がお悪いと断言せざるを得ぬとしましても、昭和天皇が宮様方と同列に立って向こう様がこうだからこうだと仰せになりますことは、昭和天皇の御立場としてはいかがかと存じます。
田島は仏教の家ですが、キリスト教の方では羊飼いは普通についてくる羊の群れよりも迷える羊の方を余計に心配するということであります。
この羊飼いのようなお気持ちで、弟様方をも親心で子のように思いになればと存ずるのでございます。
(昭和天皇「うんうん」と強く御応えになり、「具体的にどういう方法にしたらばよいか」との仰せあり)
田島長官◆毎週のニュースはおやめになり、月2回ぐらい御懇談の御食事でも共にせらましたらばと存じますが、よく侍従次長稲田周一と練りまして申し上げます。

1953年6月24日
昭和天皇◆田島の話もあったので、昨夜は御馳走をしたのだが、スッポンもあったので。
田島長官◆スッポンのスープでありますか。
昭和天皇◆いや、スッポンの料理だよ。
高松宮は非常にお喜びだったが、高松宮と御懇親するのは食事以外よりないよ。
御料理の話の中で三笠宮もいろいろな物をお食べになってるようで、牛の頭の料理はおいしいとかなんとか言ってられたが、私は三笠宮は矛盾もはなはだしいと思うのだがねー。
平素いろいろ進歩的な意見を言われるが、ああいう贅沢な料理の御話もなさる。
それにちょっと心配なのは、御口が軽いから昨夜のような御馳走の話を外でされやせぬか。
皇室は御質素などと言っているが、この間は御馳走が出たなどと言われると誠に困ったものだが。
三笠宮は困るよ。
この前 田島に「7千万円もかけて仮宮殿を作るは贅沢だ」など言ってきたなら、牛の頭とか贅沢な料理などは知らぬはずだ。
矛盾だよ、三笠宮は。
田島長官◆三笠宮は7千万円の時も相当仰せありましたが、御説明しますればまあおわかりになりますし、昨年の5月3日の御言葉中の《米国をはじめ》を削れとのことでもなかなかやかましく《英米をはじめ》の訂正にまでお折れになりましたが、反米的でかなりきつく申され、田島へ御手紙、また官邸へもおいでになりなどいたしましたが、昭和天皇がお決めと申しました後は何とも仰せありませんでしたから、お若いためにちょっと進歩的な思いつきのおありの時は仰せになりますが、おわかりになればそれでだいたい静かにおなりのようでありますが、どうも矛盾よりも進歩的なものに余計お気が向くらしく、先だってもアメリカ国務省に太平洋問題調査会の人間が巣食うことの調査拒否を調査報告をお話ししてもらいました時も、普通はずいぶん恐るべきことだと感ずべきなのに、そういうことはまあありがちのようなお考えで、根底に何かちょっとどうも。
昭和天皇◆どうも高松宮も三笠宮とは昨夜もあまりお話なさらぬ。
秩父宮がお亡くなりになって、高松宮は秩父宮妃にいろいろ尽くしておいでになるようだが、どうも三笠宮とは合わぬようだ。
田島長官◆秩父宮は同じ陸軍でもあり、三笠宮も御殿場までお出かけになり、むしろ高松宮への御話は秩父宮を通されたというようなことも聞いておりますが、どうも三笠宮のことは何とか致さなければなりませんが、秩父宮なき今日どうしてもお二方だけゆえ、だんだんにお歳も召してやっていただく他ないと存じております。
田島と致しましてはとにかく経済面その他でできるだけ三笠宮のお気持ちのいいことをすることは必要だと思っております。
昭和天皇◆まあ私としては田島の言った注意で努めてやるから、具体的なやり方は田島の方でよく考えてくれ。
(申さば諫言的な申し上げのこと御容認の御言葉と拝し恐懼す。また感激す)

1953年6月29日
昭和天皇◆皇族さんの名代のことだが、さっき田島が高松宮に聞いても侍従御差遣で結構と仰せになるが、だいたいおイヤなのだ。窮屈で今までどなたもおイヤであるのだ。
田島の言った主意で皇族さんにも一体となって懇意的にするのであるが、食事をしたりニュースだけではつまらぬとなれば、楽しみということのみになり、それが漏れて皇室が楽しみのようなことばかりやっているように間違われるのも困る。
災害の見舞いの御名代となれば公然でよくわかって、皇族もいろいろしておいでということもわかると思うが。

1953年6月30日
田島長官◆三笠宮としては別にアカの方に同情してるという立場でないおつもりかもしれませぬので、例えば職員の30円弁当かなにかお取りの時に、宮内職員高尾亮一が「皇族さんとしてそれはおかしゅうございます。大膳へ頼みどうとも致します」と申し上げまして、「いいよ」との御話でありましたそうで、三笠宮はすべて簡便が良いというお気持ちの御行動で、この点 高松宮はこういう軽いことは少しもありませぬ。
昭和天皇◆高松宮はそういう点はいい。
田島長官◆実は災害地に侍従御差遣のことを高松宮に申し上げましたゆえ、三笠宮にも申し上げねば悪いと存じまして昨日申し上げましたが、その時 下の侍従の部屋で侍従連と御一緒で一つの机で原稿書きをしておいででありました。
戯談的に「いつ侍従を拝命になりましたか」と申し上げたようなわけでございます。
昭和天皇◆それは陸軍の風で、兵隊と同じことをするという流儀なのだ。

1953年8月1日
田島長官◆三笠宮のことでありますが、警視庁で御心配申し上げてることを御本人様に申し上げぬわけには参りませぬので申し上げましたところ、特に御関心の様子もなかったように承りました。
間接に伝言でありまするゆえ、何と仰せになったかはわかりませぬ。
御洋行には外国語は御必要ゆえ、外国語の御勉強をお勧めして、しかるべき思想の良い外人と言語の御勉強としてお付き合いになればよろしいのではないかと考えております。
昭和天皇◆田島への返事に「またいい機会があれば1~2年の内でも行きたい」とあるが、いい機会とはどんなことか。
田島長官◆高松宮も三笠宮のことを非常に御心配で、先日も上がりました節「例えば明年のブラジルの400年祭に高松宮のおいでをお願いしてるとのようなことはどうか」と仰せになっておりましたが。
昭和天皇◆それならば高松宮が三笠宮にそういう風に言えばいいね。
田島長官◆高松宮が先方へ三笠宮をとお話をお付けになりましても、三笠宮がイヤと仰せになりますれば何ともなりませぬ。
昭和天皇◆それもそうだ。
田島長官◆これは田島の拝察でありますが、三笠宮はちょっとした御洋行をお一人で遊ばしたといたしますれば、政府が三笠宮妃と御一緒に諸国御漫遊というようなことに二度とは金を出してくれまい、小さいので済ませられてしまってはつまらぬとのお考えがおありかと思います。
昭和天皇◆私はこの前秩父宮妃ともお話ししたのだが、本当に三笠宮妃が御同行できぬのか、お子様のことを口実にしておいでなのか、実情がわからぬ。
三笠宮妃が三笠宮のお考えをどういう風に考えておられるか。
もし私情で子供と離れたくないとしても、三笠宮のおために洋行が良いとなればこの際私情を捨てるお考えになるべきとも思うし。

田島長官◆那須へ秩父宮妃をお誘いになりまして、秩父宮妃は非常にお喜びで、どうか高松宮・三笠宮も那須へ仰せいただきたいと存じまする。
昭和天皇◆妃殿下方ならともかく、宮さんは来られてもどうも。
田島長官◆お受けになるならぬは宮様方の御自由として、三笠宮などもしこんなことでまたおひがみのようなことは困りまする。
高松宮も三笠宮御洋行のこと御希望が4~5年先とのこと申し上げに出ました際も、「御自分でできることはある程度のことをしても行かれると良い。また外国語の御勉強の方法もいいだろう」と仰せになりました。

1953年9月11日
田島長官◆前回申し上げましたように秩父宮の相続税の金額は29万円だそうでありまするが、新しい相続法ではお子様のありませぬ節は御兄弟にも相続権がありまするので、昭和天皇・高松宮・三笠宮になりまするが、もちろん御取得の御意思はなく秩父宮妃に全部でありますので、宇佐美次長より高松宮・三笠宮の御了承を受けましてございます。
軍人恩給の問題で、皇族のうち高松宮は恩給をお受けになり得られまするし、三笠宮は一時金だそうでありまするが、皇族としては恩給の積金は遊ばしておりませんし、皇族費は国家の支給でありまするゆえ、御遠慮の方しかるべきと考えまして、そのことを宇佐美次長より申し上げ、両宮とも御了承であります。
先日は三笠宮・秩父宮妃をお招き遊ばしまして、みな非常にありがたくお喜びのように拝しました。

1953年12月3日
田島長官◆三笠宮のことでちょっとよろしい朗報でございますが、高松宮の御話で高松宮はブラジルにおいでになりませんが「三笠宮にいかが」との仰せで、三笠宮は「南米へは皇族は誰も行ってないから行ってもよい」と仰せられました由で、三笠宮は往復とも船でおいでになりたく、また北米等には寄らぬとの話でありましたそうでございます。
船はどういうわけか存じませんが、北米へお寄りにならぬのはそれで御外遊が済んだとなってはとの御懸念かとも邪推いたされますが、宇佐美次長が「南米へ直接のものは少なく、自然北米にお立ち寄りとなりましょう」と申しました由であります。
昭和天皇◆皇族さんはみな御自分は独特というようなお考えがあるので、高松宮も誰も南米においでがないからと行ってみようとの御気もあるのだよ。
それができて欧米御周りということになれば一番いいねー。
田島長官◆御本人様御希望も承りましたことゆえ、外務省と話を進めてみますように申します。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1966年6月13日
木戸幸一との対話。
高松宮現状評判(素人の噂、お金のこと)などたっぷり話す。
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『入江相政日記』侍従長

1972年2月20日
昭和天皇が、高松宮妃が宮内官僚高尾亮一のお勧めによって断りもなしに〔新御用邸〕須崎御用邸を見にいらっしゃったことに怒っておいでになる。
秩父宮妃がいつか拝見したいとお申し出になったことはお喜びになっていたが、今日のお集りの時に秩父宮妃・三笠宮妃もお申し出になっては困るとおっしゃっているので、御参内になった時にそれぞれ申し上げる。
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『入江相政日記』侍従長

1973年12月11日
朝日新聞の衣奈君より電話。
高松宮妃からの御召で行ったら、日赤・朝日の共催である良子皇后の展覧会の上りを、常磐会と藤楓協会に寄付するのとのことで、秩父宮妃も御同意とか。
あきれてしまう。

1973年12月25日
宇佐美長官・徳川侍従次長と高松宮妃のこと。
また良子皇后の展覧会の上がりを常磐会と藤楓協会にと言われた由。

1973年12月26日
また高松宮妃が北白川女官長に、良子皇后の展覧会の上がりを常磐会と藤楓協会にとおっしゃった由。

1973年12月28日
高松宮へ行く。
この間からの蒸し返し。
それでその不可なる所以を御話する。
よくわかったとのこと。

1973年12月29日
昭和天皇に高松宮妃のこと申し上げ、御安心いただく。
しかし同時に朝日の人などにおっしゃったことについては、あきれていらっしゃった。
宇佐美長官にも報告、喜んでいただく。
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『入江相政日記』侍従長

1974年7月6日
高松宮妃より御召。
「このあいだの謡はどうなった」とのこと。
つまり駄目、「そういうことは商売人にお任せ願いたし」と言う。
「特に進講の要なし」という。
これは相当に効いた。
帰って、宇佐美長官・徳川侍従次長・北白川女官長に報告しておく。

1974年12月20日
高松宮へ。
高松宮夫妻から、天皇家五十年展についてのこと。
「昭和天皇の人間形成という意味からフランス革命史など御出品になっては」とのこと。
昭和天皇に伺ったら、「沖縄の貝はあまりにも平凡、高松宮が出すことは自由、ただ自分としては出すのはイヤ、フランス革命史については秘かにやるべきで誇示するようなことは好みに合わず」とのこと。
さすがに素晴らしい。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1974年5月17日
高松宮、(3月に完成した)迎賓館に見学においで。
「東宮様(平成天皇)、いまだ■■か?」〔小林は聞き取れなかった〕
昭和天皇から「高松宮は行かれたが、東宮様はどうか。高松宮はでしゃばりの気味があるから」とのことで、「東宮様はいまだ」の旨が判明したが、その言上は田中侍従に申し送り。
この件は昭和天皇が行幸の時から、明仁皇太子お断りなど、少々複雑のいきさつがあるらしい。
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『入江相政日記』侍従長

1975年2月26日
文春の加瀬英明『高松宮かく語りき』を読んで寝る。
高松宮を良い役にしただけのつまらぬもの。

1975年3月3日
昭和天皇に、この間からの高松宮妃・美智子妃などのことについて申し上げる。
御納得いただいた。

1975年4月23日
宇佐美長官来室。
日本の皇族にあきれ返る。
〔5月7日~5月12日のエリザベス女王来日について〕

1975年4月26日
秩父宮妃から駐英大使大野勝己さんにも電話があった由。
八方に手を回して、なんたること。
大臣を押しのけてエジンバラ公に同乗する決意を、「さすがは高松宮様」と讃えられたとか。
この間からのこと、まったく話にならない。

1975年5月1日
宇佐美長官・徳川侍従次長・北白川女官長・式部官長島重信と話し合い。
秩父宮妃・高松宮妃が美智子妃・常陸宮妃に、
「和服ではダンスができないから、良子皇后にお願いして洋服にしろ」と強く言われた由。
お嫁さんたちとしてはそんなことはできないということで、美智子妃・常陸宮妃は和服、他は御勝手にということにしようということになる。

1975年5月3日
晩餐の時のダンスの関係で、美智子妃・常陸宮妃はローブデコルテ、良子皇后は和服の関係上、御一方では具合が悪いので秩父宮妃・高松宮妃も和服ということで両陛下のお許しを得ようということになる。

1975年5月18日
北白川女官長から、秩父宮妃から揺り返しがあった由。
宇佐美長官からも同じこと聞く。

1975年12月31日
エリザベス女王の御訪日もまた大騒ぎになった。
「我がイギリス」人種が多数現れた。
秩父宮妃・高松宮夫妻・三笠宮寛仁親王・麻生和子夫妻。
外務大臣宮沢喜一や儀典長内田宏を脅したりしてさんざんの醜態だった。
三木首相も驚いたことだろう。
昭和天皇がしっかりしてらっしゃるからいいようなものの、さもなければ大変面倒なことになるところだった。
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『入江相政日記』侍従長

1976年1月13日
昭和天皇から御召。
文春の皇族座談会『皇族団欒』の高松宮のこと。
本当につまらないことを申し上げになるから困る。

1976年1月20日
昭和天皇から御召。
また『皇族団欒』の高松宮のこと。

1976年4月30日
「明日の旬祭、御代拝では」と申し上げたら、
「高松宮妃が『昨日の誕生日の後で疲れたのか』と言ってもいかんから」とおっしゃる。
「参列もないし、わかりません」と申し上げたら、
「いやいや、いろいろ情報網を持っているらしいから」とおっしゃる。

1976年7月1日
昭和天皇から「文春の皇族座談会『皇族団欒』のようなものを正しいものと思っていては困る」との仰せ。
三笠宮へ行き、三笠宮妃によく御話する。
あの座談会に批判的だったこと、高松宮一辺倒でないことなどがわかり、すぐ帰り昭和天皇に申し上げる。

1976年7月3日
秩父宮へ行き、秩父宮妃にこの間からのこと洗いざらい申し上げる。
すべて御同意、お喜びだった。

1976年7月5日
昭和天皇に秩父宮妃のことを申し上げる。
「入江、御苦労だった」と仰せくださる。

1976年7月8日
宇佐美長官に、秩父宮妃・三笠宮妃のこと報告する。

1976年7月12日
昭和天皇から、一昨日皇族方御参内の節、高松宮夫妻が大変協調的であったがどういうわけかという仰せ。
「やはりいくらか御反省になったのだろう」と申し上げ、
「それならいいが」との仰せだった。

1976年8月14日
高松宮へ。
高松宮と良子皇后のこと、美智子妃のこと、東久邇文子さんの再婚の縁談のこと。

1976年9月11日
秩父宮妃御参内、高松宮・明仁皇太子などお集りの時にミグ25事件につきみなさんいいことだとお喜びとのことだったが、昭和天皇は「皇族さんは無責任だから」とおっしゃったとのことで、この無責任についてお掘り下げになった結果の御話。

1976年12月31日
1月10日文春の二月号に『皇族団欒』とかいうくだらない座談会の記事が載った。
秩父宮妃・高松宮夫妻・三笠宮寛仁親王という顔ぶれ。
司会は加瀬英明。
つまり高松宮が一人で【誇りかに】しゃべっておられるだけ。
すでに昨年の文春の二月号にも加瀬君が書いているが、高松宮から伺ったようなことが多く、それによれば御自分は根っからの平和論者であり、太平洋戦争をとめたのも自分であるという意味のことが書いてある。
昭和天皇にはこれが非常にお気に入らず、実に数えきれないほど御召があった。
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『入江相政日記』侍従長

1977年3月8日
北白川女官長来室。
秩父宮妃が「高松宮はおさびしいのだ」とおっしゃったことを確かめるのは、秩父宮へどっちが行くかにつき相談。

1977年10月8日
秩父宮妃から御電話。
三笠宮寛仁親王が本を出し、例の対談『皇族団欒』も載せると。
絶対に不可と言う。

1977年10月9日
三笠宮寛仁親王から電話。
「秩父宮妃から伺ったが、承知なさった高松宮に取り止めると言ったら妙にお思いになるだろう」とのこと。
「そんなこと問題にならない。もしこれが出た時のと比べれば、皇室としての損害は比較にならない」と言ったら、
「やめます」とのこと。
まあよかった。

1977年10月11日
昭和天皇に三笠宮寛仁親王の一件を話す。
予の処置にまったく同意。

1977年12月29日
歳末の拝賀。
御退出の皇族方にも自然会う。
高松宮、めずらしく大いに笑顔。
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『入江相政日記』侍従長

1978年1月4日
昭和天皇から、昨日高松宮が非常に御態度が良かったとのこと。
「一時の気まぐれでなければ」と仰せになる。

1978年9月21日
高松宮が富田長官と予に、
「式部官長はそろそろ外務省大使〔から採るの〕をやめて、昔からの儀式に通じている者にすべきである。侍従松平潔がいるじゃないか。本人は言いにくいだろうから、私が本人に言ってやった」とのこと。
まったく問題にならぬ。
富田長官も予も不愉快な気持ち。
富田長官に、高松宮対策につき吉川さんに事情を話し協力を頼もうと言う。

1978年9月22日
北白川女官長に、高松宮の松平問題を話しておく。

1978年9月25日
元式部副長吉川重国を訪ね、松平問題について逐一話す。
高松宮が「吉川が外務省大使の時代ではない」と言ったというのは嘘とわかる。
松平侍従のこと委細話す、あきれておられた。
「前々から変だ変だと思っていた」とのこと。
「でもよく聞かせてくださった」と言って大変喜んでおられた。
すぐ富田長官に報告、喜んでくださる。

1978年10月30日
メキシコ大統領夫妻をお迎え、御会見。
この前後の松平侍従、見るに見かねる。
メキシコ大統領夫人の身体に手をかけて向きを変えたりした由。
北白川女官長大憤慨。

1978年10月31日
富田長官、松平問題驚いていた。

1978年12月31日
松平問題はとうとう年内に片づかず。
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『入江相政日記』侍従長

1979年4月12日
式部官長湯川盛夫と侍従松平潔のことについて話し合う。
昨日もセネガルについて申し上げるのは、
「君は接伴員なのだから、式部副長和智一夫にした方がいい」とまで言った由。
予は1975年のエリザベス女王訪日の時も湯川官長が申し上げない細かいことなど言って、夜に吹上に押し込み一時間半も両陛下に申し上げたことなどすっかり話す。
驚いておられた。
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『入江相政日記』侍従長

1980年6月14日
富田長官から、高松宮が掌典長東園基文の落度(常陸宮の成年式の時の御裾の扱いが良くなかった)と侍従松平潔におっしゃったの件。

1980年6月17日
掌典長東園基文の所へ行き、高松宮の侍従松平潔の件をよく話す。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1980年1月3日
元始祭。
御告文が三殿であるところ、掌典長が皇霊殿で差し上げるのを忘れたらしく、お帰りになるや否や
「掌典長、間違ったね」とおっしゃり、
しばらくして「高松宮、今日来ているだろうか?わかるとよくない」と。
「お見えになっていないのではないか、見えていたとしても御声は届かないと思います」とお答えした。

1980年2月19日
3宮様御参内、晩餐。
高円宮の金婚式の御祝のため、秩父宮・高松宮・三笠宮五方おいで。
大食堂からのお戻りの際 高松宮は良子皇后の御手をお持ちだったが、
高松宮が「昭和天皇がお焼きになるから」とおっしゃり、みなさま大笑い。
昭和天皇がなさったらということで、昭和天皇が良子皇后と御手をつないで御談話室にお戻り。
大変ほほえましい、珍しい情景だった。
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『入江相政日記』侍従長

1981年4月29日
高松宮から「〔随筆をたくさん書いて〕昭和天皇を種に儲けるね」と言われる。
予は「第一印税はそんなに入らない。第二にそれはみんな昭和天皇に返ってくる」と言っておく。
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『入江相政日記』侍従長

1982年6月8日
高松宮が去年以来 御返事していなかったのを蒸し返してこられた。
御陪食の時の皇族の服装を背広ではなくモーニングにしたらとの件。
宮様方がモーニングになると昭和天皇御一方が御背広になってしまう、昭和天皇は御背広・モーニング、モーニング・御背広と御召替が大変だから、宮様方は御背広で昭和天皇を守ってあげていただきたいと申し上げた。
昭和天皇は「あの対応は非常によかった。あれでわからなけりゃもっと強く言え。宮様方は暇だから勝手を言う。もう少し実情を調べて言え」との仰せ。

1982年6月19日
高松宮へ。
高松宮から、三笠宮寛仁親王にも困ったとのこと〔皇室離脱発言〕彼は気が弱いとのこと。
噂に聞いていた三笠宮寛仁親王が宮内庁はいけないというのとは、ちょっと調子が違う。
戻って富田長官に言っておく。

1982年7月8日
官房副長官翁久次郎来訪。
このあいだの皇族会議では、宮内庁長官富田朝彦罷免論を論じ、高松宮から宮沢官房長官に電話。
放っておいたら麻生太郎・田中六助でまた来た由。
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『入江相政日記』侍従長

1983年1月4日
昨日の高松宮のこと伺う。
昭和天皇から高松宮に相当いろいろおっしゃった。
例の文芸春秋のことすべて仰せになった由。
高松宮も浩宮〔令和の天皇〕の御留学につける人のこと、元イギリス大使加藤匡夫なくて元国連大使中川融でもいいとおっしゃった由。
これについて富田長官・宮務課長ら、さらに徳川侍従次長や侍医卜部とも相談してくれとの仰せ。

1983年1月5日
高松宮から電話。
3日のことにつき御話あり。
いつまでも御気に遊ばしていてもいけないから、何とでもするとのこと。
いい塩梅だった。
思っていたより具合よく行きそうになってきた。

1983年1月20日
高松宮へ。
高松宮御機嫌。
すっかり申し上げ、全部済む。

1983年1月24日
昭和天皇に高松宮のこと申し上げる。
大変御満足で、お褒めいただく。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1983年1月3日
高松宮御誕生日につき、両陛下と御談話室で御対面。
例年30分くらいのところ今年は大変長い。
昨夏以来ヘルペスで公式行事には御不参の美智子妃のこと、(皇室離脱宣言をした)三笠宮寛仁親王のことなどがあったからか。
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『入江相政日記』侍従長

1984年1月4日
昭和天皇より、「昨日の高松宮大変静か。今までで一番よかった」とお喜びだった。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1987年2月3日
高松宮薨去。
肺ガンのためと発表された。
秩父宮が薨去の際は鵠沼御別邸に行幸啓になったが、今日は午前中にお別れしたばかりでもあり、高松宮邸には行幸にならない。
明日行幸啓の予定という。

1987年2月4日
御服喪の期間。
両陛下はじめ東宮御一家各殿下は30日。
他の皇族方についても同様で、高円宮家の承子女王に至るまで一律30日。
高松宮妃は90日。
全ての皇族を一律にしていることは不可解。
昭和天皇も疑問をお持ちで、やはり親等に応じて異なるべきもの。
高松宮邸へ行幸啓。
宮内庁長官・主務官・侍従長・侍従次長・侍従・女官長・女官と本式のお供。
これが適当か否か。
秩父宮の時の例によるというが、あの時は鵠沼への行幸啓だった。
もっとひっそりとはいかぬものか。

1987年2月5日
高松宮の薨去で何となく慌ただしい。
新聞記者の出入りも多い。
NHKはFMの音楽番組を組み替えたので抗議の電話が殺到しているとか。
日本テレビでは天下関係特別番組を長時間流したので、TBSは10日御葬儀の日に同様にするとか、エスカレートしてきているらしい。
国葬ではあるまいし、弔意の表明ないし報道も適度にしないとかえって国民の反発を買うことになり、皇室制度にとってマイナスになるのではないか。

1987年2月10日
御葬儀次第の混乱と失敗。
お席など雑然としてまったく図面通りではく、拝礼の位置も予定とは異なる所にせざるを得ない。
皇后宮使の次第も混乱がひどかったという。
勅使が朝寝の間から出ないのに先導され途中待たされ、間では御榊を入れる台が祭壇前に置いてなく、拝礼が一時中断されたなどひどいもの。
昨夜も酷い扱いだったという。
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三笠宮寛仁親王 2005年

「高松伯母様の薨去」
2~3年前高松伯母様が一時危篤になられたことがありました。
そのとき父から「万が一の時は喪主を頼む。自分は秩父宮勢津子妃の時に喪主を務めてすっかり疲れてしまったから」と言われていたので、その時から覚悟はしていました。

娘二人を連れて高輪の御殿に直行、御寝所で悲しい御対面になったのですが、気になったのは長年の御闘病のせいか、御顔がかなりの範囲で黒ずんでおられました。
「これは大変」と思った私は、高松伯母様の末の妹御である井出夫人と田代侍女を呼んで御化粧道具を指示し、三人で必死の御化粧作戦を開始しました。
常日頃私はオナゴの友だちの多さを誇っていますが、さすがの私も御化粧に手を貸したことはなく、生まれて初めてパフなどを使って高松伯母様の死化粧のお手伝いをすることになりました。
御舟入では枕の高さを調節するのに苦労しました。
低すぎると御口が開いてしまうので、タオルを何枚か枕の下に入れ、ちょうどよい角度に安置することができました。
御舟入の儀までに3回御化粧をして差し上げたおかげで実にお美しい御顔で、弔問客がみな声をそろえて「いまにも何かおっしゃりそう」と言ってくださったのは、高松伯父様・秩父伯母様そして高松伯母様と三方続けた葬儀屋冥利に尽きることでした。
喪服は昼間はモーニング・黒のベスト・黒ネクタイ・黒トップハット・黒手袋、夜間はフロックコート。

斂葬の儀では高松伯母様御生前ゆかりの人々6名が、御霊車をお守りしながら歩いて行くのですが、宮内庁の誰に指導されたのか、なんとも珍妙な形でシルクハットを持っていたのが愉快でした。
どうせ借りた帽子でしょうからサイズが合わず、被れずに持つしかないのはわかりますが、慣れないことをやらされて可哀相でした。
私はきちんと自前のトップハットを被って歩きました。
寒くなかったので黒の手袋は持っていましたが、男の場合屋外では帽子は被るものであり、手袋ははめるものであるというマナーが、近頃まったく理解されていないのは残念なことです。
数日前親族総代の徳川慶朝氏に「トップハットは持っているの?」と聞いたら、「エーッ!」と言われたので、わざわざ平田暁夫帽子店に私の予備のシルクハットを届け、徳川慶朝氏のサイズにしてあげて黒手袋も貸しましたが、被る勇気がなかったようでした。

故高円宮の葬儀の時 喪主である久子妃が宮中の賢所風に同格の人が参進している時、座ったままだったのを見ていて「格好が良くない」と思っていましたので、高松伯母様の葬儀の時は宮内官たちとの打ち合せで「勅使・喪主・代表皇族・旧皇族代表・親族総代の礼拝の後、皇族方・旧皇族方・親族方の順に参進し、三権の長・外交団長までは立って応対し、参列しているその他大勢の臣下の者どもの時は座ろう」と決めていたのですが、式部官も慌てたと見え礼拝の案内の順番を間違えて、御親族の前に三権の長以下を出したしまったため、私は座るタイミングを失い結局全員が終わるまで立って目礼を繰り返すハメになりました。
高等科で応援団長をやっていた経験が妙なところで役立ちました。

落合火葬場を出る時は、我が家のセンチュリーの中で私は一生懸命「斂葬詞」の練習をしていました。
大和言葉に当て字の漢字ですから、スピーチの名人と言われる私も必死の練習を繰り返しました。
ギャラリーに強いトモさんは、本番ではミスなしで読むことができました。
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■東京本邸 芝区高輪西台町→現在仙洞仮御所になる

正面
0001(1)


背面
0001(2)


0003


0004



■葉山別邸 神奈川県三浦郡葉山町一色


■箱根宮ノ下別邸 神奈川県足柄下郡底倉 
1895年允子内親王と聡子内親王の避暑のために建てられた御用邸が高松宮に譲られる。


■翁島別邸 福島県耶麻郡翁島


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◆高松宮宣仁親王(光宮宣仁親王)123代大正天皇の三男
1905-1987 82歳没


■妻 徳川喜久子 将軍徳川慶喜の孫/徳川慶久公爵&有栖川宮実枝子女王の娘
1911-2004 92歳没


◆1905年01月03日 誕生 49センチ・820匁(3,075グラム)
◆1909年04月14日 学習院幼稚園入学
◆1910年04月11日 学習院初等科入学
◆1917年04月09日 学習院中等科入学
◆1920年05月08日 学習院中等科3年修了後、海軍兵学校予科入学(予科は皇族だけの特別措置)
◆1921年08月24日 海軍兵学校本科に進学
◆1924年07月24日 海軍兵学校本科卒業
◆1925年01月13日 成年式
◆1926年12月01日 海軍水雷学校普通科入学
◆1927年04月13日 海軍水雷学校普通科卒業
◆1927年04月14日 海軍砲術学校普通科入学
◆1927年07月27日 海軍砲術学校普通科卒業
◆1930年02月04日 結婚
◆1930年04月21日 ヨーロッパ外遊に出発
◆1931年06月11日 ヨーロッパから帰国
◆1931年12月01日 海軍砲術学校高等科入学
◆1932年11月29日 海軍砲術学校高等科卒業
◆1934年11月10日 海軍大学校入学
◆1936年11月26日 海軍大学校卒業
◆1986年10月22日 肺結核で入院
◆1987年02月03日 死去
◆2004年12月18日 高松宮妃死去


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『高松宮日記』

1933年9月3日
宮ノ下御用邸を見分する。
考えたより地形の悪い敷地だ。
残そうという御殿も景色は見えず、場所が具合よくない。
水道があり温泉がかなり出るのが取り柄なり。

1934年5月31日
宮ノ下御用邸を改造した家へ泊まりに行く。
思ったより新しそうに見えてよろし。
温泉は透明で頼りないが量は十分なり。
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★外遊 1930年4月21日~1931年6月11日

■全行程の随員

山県武夫 式部官
石川岩吉 高松宮務官
水野恭介 御付武官
黒田実  宮内職員
落合タカ 高松宮御用掛
山本タケ 高松宮侍女

■イギリスでの随員

安保清種 海軍大将
堀義貴  大使館員
渋谷忠治 宮内職員

■スペインでの随員

坂本恒雄 高松宮御用掛
荒井金太 大使館員



1930年4月 出国
1025


1930年4月 アメリカ
1031


1930年6月 パリ
1022


1930年6月 イギリス
1038


1930年6月 イギリス
1033


1930年7月
1010


1930年
ベルギー
左から
ベルギー国王アルベール1世
高松宮喜久子妃
エリザベート王妃
高松宮
王太子レオポルド3世
2001


1930年
イタリア
王太子ウンベルト2世と高松宮夫妻
2016


1930年10月 パリ
1015


1931年6月 ハワイ
1028


1931年6月 帰国
1027

◆高松宮宣仁親王(光宮宣仁親王)123代大正天皇の三男
1905-1987 82歳没


1925年 成年式 未成年男子皇族の正装
1000


1925年 成年式 成年男子皇族の正装
1001





■妻 徳川喜久子 将軍徳川慶喜の孫/徳川慶久公爵&有栖川宮実枝子女王の娘
1911-2004 92歳没

1006


1928年
19280001


1929年
19290001


母実枝子夫人と
1008


1929年
1929-2038(3)


1930年
1930


1009


1018


0007


1020


1021


1934年
19340001


1004


1936年
19360001


1955年 銀婚式
1024


1976年
19760266


1978年
19780401


19780403


19780404


1980年 金婚式
19800001


1014


1986年
19860132


1987年
19870042


1988年
19880108


1990年
1002

◆秩父宮雍仁親王(淳宮雍仁親王)123代大正天皇の二男
1902-1953 50歳没


■妻 松平勢津子 外務官僚松平恒雄の娘/会津藩主松平容保の孫
1909-1995 85歳没

*米フレンドスクール卒業


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秩父宮雍仁親王

僕は侍女に対しても時々ひどく暴れたらしい。
特に6歳の時は手に負えなかったとみえる。
記録を読んでいたら、次のようなことを約束させられている。
①食物以外のものを口に入れないこと。
②物を投げないこと。
③欄干に登らないこと。
④侍女に噛みつくことをやめること。

連日の夜昼、気を休める時もない看護は並大抵のものではない。
夜中 眠りから覚めるとあたりはしんと静まって、隣の室で寝ている勢津子の寝息も聞こえないし、廊下を隔てた看護婦の方も音もない。
突然痰がひっかかったのか、咳が出だした。
気がつけば飛んでくると思うと、布団を頭からすっぽりかぶって、できるだけ音の漏れないように咳をする。

1944年5月17日、いつもと変わりなく午前6時に目が覚めた。
そのとき右を下にして寝ていたので、仰向けになろうと寝返ったところ、左鎖骨の少し下で胸骨付近から肩甲骨にかけて神経痛的な痛みを意識した。
今までもこのような痛みは時々感じたことがあるので、あまり気にもとめなかった。
熱は36度2分、脈は80で平常と変りはない。
含嗽・洗面などを済ませ、約一時間の後 正常のように朝食をとったが、身体が異常に冷たく感じ、ことに脚が甚だしい。
別に悪寒はないのだが、布団を上の方に引っぱって体全体を暖めようとしたが、いっこうに効果がない。
食後さらに布団を一枚かけてしばらくしたらようやく身体が暖まってきて、それとともに熱が出て来た。
午前9時の体温は38度に昇り、脈は110以上を数えた。
この日はちょうど寺尾殿治博士の定期診察日に当っていたので、午前中まもなく東京から来訪した寺尾博士に診察してもらう。
熱は高いが、気分はそんなに悪くない。
午後2時頃から例のごとく午睡をしようとしたところ、呼吸が少しずつ苦しくなってきた。
こんな経験は初めてだ。
眠ったら良くなるだろうと眠ろうとするが、いっこうに眠れない。
20分・30分と経つにしたがって、楽になるどころか段々と苦しさが増してくる。
しかし耐えられないほどのものではない。
再び寺尾博士の診察を受けて、胸部の痛むところに塗薬してもらった。
この呼吸の苦しさは、2~3時間後にはだいぶ楽になった。
この日の体温は39度近くまで上がり、脈は130、また呼吸は息苦しかった時が40ぐらいであった。
この夜は大変だるくて、安眠ができなかった。

翌日5月18日は呼吸が苦しくなることはなかったが、吐き気があって食欲はほとんどなく、ブドウ糖の注射などしてもらう。
体温は前日より高く、午前中39度5分近く、午後は38度5分から9分の間であり、脈拍は終日130前後であった。
呼吸は割に多く30前後で、最高は40近い。
この日は遠藤清繁博士も来診。

5月19日午前中は、おおむね前日と同様の病状であった。
12時半ころ看護婦が心臓部を冷やす氷嚢の氷の入れ替えに数間行ったと思うころ、突如として強度の悪寒に襲われた。
看護婦はすぐ氷を入れて帰って来たが、僕の顔色のあまりの変化に驚いてしまって、その時ちょうど昼食のために別室へ行っていた勢津子に知らせに行き、勢津子はすぐに飛んできた。
あるだけの布団をかけてもらい、いくつかの湯たんぽを身の回りに入れてもらったが、震えは止まらない。
どうにもならないから身体を海老のように曲げていたが、なかば夢中であった。
いわゆる悪寒戦慄で、初めての体験だ。
この騒ぎの中 看護婦が休憩していた遠藤博士・寺尾博士が来て、カンフル注射を2本打った。
2本であったことは確かにわかっていたが、そのとき「痛い」と言ったことはまったく覚えがない。
悪寒戦慄がどのぐらい続いたかは覚えがない。
かなり長い時間のように思ったが、約30分だったと記録されている。
このあいだ勢津子と看護婦とでかわるがわる僕を呼んだそうだが、僕はぜんぜんこれを記憶していない。
身体が暖かくなってくるにしたがい震えは下火になって楽になったが、これと同時にまた呼吸が苦しくなりだした。
2日前の時はしばらくして収まったが、この日はだんだん苦しさが激しくなるばかりだ。
いよいよ本格的自然気胸が起こったのだ。
肺が破れ空気が胸腔に充満しだしたのだ。
寺尾博士は人工気胸の大家、さっそく空気を抜く準備にかかった。
脈拍は悪寒が起こって以来140以上を数えていた。
発熱と胸苦しさでなかば朦朧としてしまう。
「いま空気を取りますから、すぐお楽になります」とまでは寺尾博士の言うことがおぼろげながらわかったが、その後 気胸針を刺されたことなどは覚えがなく、空気が抜かれるにしたがって楽になり、意識は再びはっきりしてきた。
このとき取った空気は800ccであった。
140以上もの脈が長く続けば心臓も弱り、どんなことになったかもしれなかった。
死線を越えたというのは大袈裟な表現であるかもしれないが、それに近い体験であったことは確かだ。
左の肺はかなり前から空洞ができ、症状も悪い方へと進んでいたので、いつかは自然気胸が起こるかもしれないとは医者には想像されていたようだ。
いつかとはわからないにしても、5月17日に発熱し肺炎らしくもあり自然気胸の徴候もあったので、寺尾博士は5月17日以来、また遠藤博士は5月18日から泊まってくれていた。
そして人工気胸の道具も前日に届いたようなわけで、このように準備万端のできた時に起ったことは非常な幸運だったと言うほかはない。
この日の夕方には体温は36度を割り脈も90くらいとなったが、もちろんこれは一時的現象であった。

5月20日以上は、病状としてはまず落ち着き、熱は毎日36度から38度の間を上下し、脈は100前後であったが、数日後から気胸を起した方の胸に水がたまりだし、5月25日以降随時穿刺を行い、水を取りその後へ空気を入れて、この好機を利用して人工気胸を始めた。
これまでも気胸を試みてはとの意見もあったらしいが、レントゲンによると左肺は胸膜が肥厚して肺の細部が写らない有り様なので、おそらく癒着して気胸はできないだろうとの判断で試みなかった。
ところがこの空洞の破れとともに肺が具合よく圧縮されることとなった。

その頃の自覚症状としては、夜熟睡できないこと、頭がぼんやりしたこと、食欲のないことが特筆すべきものであった。
熱と体力の消耗とで昼夜ぶっ通しに眠りそうなものだが、夜は「眠られぬ夜」であり、昼は「醒めきらぬ昼」であった、昼夜を通しての半睡半醒、一日が長くて長くて持て余す日々であった。
新聞雑誌など読む気にもなれないし、読んでもらおうとも思わなかった。
そして夜になればただただ夜明けが待ち遠しい。
夜中になんべん時間を聞き、また自分で時間を見たかわからない。
そしてその度に針は一時間くらいしか動いていない。
そのうちにクロツグミなど小鳥がやっと鳴き出す。
普段ならもう少し静かにしていてくれればと思うこともしばしばあったが、今はこの小鳥の交響曲でまったく救われた気がする。
やがて欄間から明るさが入って来ると、待ちかねて雨戸を開けてもらい、朝の清い空気を胸いっぱいに呼吸する。
蘇生の思いとはこうんなことかとさえ思われた。
そうするとまたとろとろと一眠りできる。
こんな日が何日も何日も続いた。
頭はよほどどうかしていた。
今から考えるとあまりに馬鹿らしくて自分でも疑いたくなるが、食事をしていると時々これは自分のために口を動かしているのか、人のために食事をしているのかと、常識では説明不可能な迷いに囚われる。
こんな時はきっと瞬間的に眠って夢でも見ているのだろう。
また食べ物が食堂を下って行くとき、右の方へ行けばそれは自分の胃で、左の方へ行けば他人の胃だというようなことを真面目に考えた。
このような状態もしばらく続いた。

自然気胸の起こったことは、結果から見て天祐だったと言えるのではないかと思う。
1940年夏の発病以来一歩一歩悪くなっていたのだが、これを転機として一歩一歩良い方に向かい出したのだから。
しかし良くなりつつあるといえ安心の域に達したのは、数カ月ないし半年以上も後のことだったろう。
心配された膿胸にもならず、1943年の夏以来寝たきりだったのが、1944年の暮にはとにもかくにも床の上に起坐して食事ができるまでになったのだから、僕としてはこんな喜びはなかったわけだ。
喀痰の性質も次第に良くなりつつあったということは、病巣が治癒しつつあることを示した。
あの大戦の最中このような回復を遂げることのできたのも、両博士の万全の処置を第一に、勢津子をはじめ身近で看護に当ってくれた人々、離れていても絶えず心にかけて機会あるごとにいろいろ慰めてくださった肉親の方々、さらにはそれぞれの立場から直接間接に誠意を尽くされた人々のお陰と言うほかはない。
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秩父宮勢津子妃

侍女たちの手でマント・ド・クールから振袖に着替えさせられました。
そのおり足袋のこはぜを自分ではめようとしましたら、慌てて止められ「侍女がいたします」
老女からきっぱり言われ、ただもうビックリ。
お人形のように何もかも任せるということには朝から何回かの着替えでわかっておりましたが、足袋のこはぜまでとは。
そういうことまでできないのかと、とても悲しく暗澹たる思いがいたしました。

足袋のこはぜで承知しているはずですのに青山東御所へ初めて和服で庭つたいに伺いました夜、ついうっかりして自分の履物の向きを変えようとしましたら、「あ、およしあそばして」
手を払いのけんばかりの勢いで止められる始末。
自分でやれば履きやすいように置けるのにと思いました。
上半身のことと下半身のことではお役が違う、つまり担当する侍女が違うこともしって驚いたことでした。
お庭を散歩していて鳥の置物の向きを変えようとしましたら、「君様、私がいたします」と押しとどめられたぐらいです。

節子皇太后〔貞明皇后〕にもお喜びいただき、なるべくたびたび来るようにとの御言葉。
それも和服を着てくるようにとの仰せでした。
節子皇太后はお子様が親王様方ばかりでいらっしゃったため、私の和服や持ち物の色彩や立ち居がお心にもお目にも優しく楽しくお感じになりますようで、それは秩父宮様も同じでいらしたかもしれません。

節子皇太后はフランスのファッションにもお詳しくて、私などよそ行きのものは全部生地もデザインもお見立てで宮内省を通じてお届けいただきました。
お子様が親王様ばかりなので、お楽しみでもあったのかもしれません。

節子皇太后がお楽しそうだったといえば、私が上がった翌年の春から私の雛飾りをご覧になりたいとの仰せで、毎年行啓になりました。
飾った雛檀をとてもお喜びになりましたのも、親王様ばかりのお子様方にはなかった愛らしい行事としてお楽しかったのでございましょう。

当時秩父宮様は青山にあった陸軍大学までお付武官と毎日歩いてお通いになっておりました。
ご帰邸後は晩餐会とか宮中での行事がおありにならない限り、まずおやつにアンパンを召し上がるのでした。
甘い物は何でもお好きでしたが特にアンパンがお好きで、それも一個以上も召し上がりましたので、当然夕食に響いてまいります。
それをお分かりになっていらして召し上がる。それほどお好きだったのです。
私は娘時代からあまり甘い物を好みませんし、一度も手をつけませんでした。
今から思えばたまにはおつきあいすればよろしいのに、ぼんやりで気が回らなかったのです。

先日旧職員が参りましての昔語りのあれこれの中で大笑いいたしましたのは、秩父宮様と私の真夜中のローラースケートのことです。
「お寝み前のひとときよくローラースケートをあそばしました。お寝みになっておいでかと思う時間にお二方であそばす。私ども一階におりますと雷が鳴っているようで、初めは何ごとかと思いました」

私が上がりましてから陸大の夏休み中にハイキングに連れて行っていただきました。
秩父宮様としてはお好きな山の気分を私にも味あわせてやりたいお気持ちからで、それはよくわかっておりながらも私にとっては大変なハイキングでした。
日光からスタートして金精峠を越えて伊香保に一泊。
それから榛名山に登り途中自動車で軽井沢にでましたが、翌日は上林から発哺まで歩き、翌日は岩菅山に登るというまさに強行軍でございました。
妃殿下というものはこんなに歩かなければならないものかと本気で思ったりしたものです。
秩父宮様は女のご姉妹がおありになりませんので、手加減がおわかりにならなかったのです。

秩父宮様も高松宮様も大正天皇が皇太子殿下でいらした時にお生まれあそばしたので、明治天皇のお孫様ということで「皇孫殿下」と呼ばれておいでになっていたのに対して、三笠宮様は天皇様のお子様である「皇子様」としてお生まれになったわけです。
それで兄宮方はよく冗談で「こちらは生まれが違うから」とおからかいになったとか。

残された私がまず第一にしなければならないことは、ご遺言を実行することでした。
お手帳のご遺言は次の通りです。

『僕は50年の生涯をかえりみて、ただ感謝あるのみ。
特殊な地位に生まれたといふだけで限りない恵まれた一生を終えたいふ以外はない、平々凡々たる一人の人間だが。
ことに最後の10年はわが民族として国家として歴史上未曾有の難局と困苦の間にあったが、この間を静かに静養の生活を送れたことは、幾多の同病の人が筆舌に尽くし得ない欠乏の中にこの世を去って行ったのに比し、あまりにも恵まれすぎてゐたといふ外ない。
なにもわが民族のためになることもせず、ひいては世界人類のために役に立たなかったこの体の最後を少しでも意義あらしめるために、勢津子さえ反対ーーあえて我慢ができるならばと言ひたいところだがーーしないならば、解剖に附してもらいたい』

そのあと解剖の部位や立ち合いの先生方のお名前を挙げ、「結核の専門の人に限りたい」との但し書きもしてございました。
解剖について「勢津子さえ反対しないならば」とあるのを拝見した時は、泣くことを自分に許すまいと決心していた私も、そのお言葉に込められた秩父宮様のお気持ちに涙があふれるばかりでございました。
ご遺言には「火葬にすること」をお命じになっており、ご葬儀についても「墓地もないことだし、勢津子と二人だけのことだから、できるだけ簡素にすべてをしたい」とのお考えのもとに「もし許されるならば、いかなる宗教の形式にもならないものとしたい」とご希望が述べられておりました。
秩父宮様のお心をわが心とする私に反対などあるべきはずはございません。
ともに行こうと仰せられているならば、お供させていただきたいと思っておりました。
ご遺言にもとづいて昭和天皇のご同意を得ました上、ご遺体の解剖が行われました。

イギリスからはチャールズ皇太子ご夫妻が来日されたのですが、儀式の前日のご多忙の中をさっそくお二人で私をお訪ね下さったのです。
チャールズ皇太子はいきなり私に抱きつくようにしてキスをあそばし、「どうして儀式にご参列なさならいのですか。私がどんなにしてもお助けしますから、お出になられてはいかがですか」との愛情のこもった力強いお言葉に、激励と申しますか教えられたと言いますか、息子に叱られた母親の気持ちというのはこうもあろうかと思いました。
チャールズ皇太子は以前から私のことを「日本のお祖母様」とおっしゃられるのです。
チャールズ皇太子ご夫妻は4日間のご滞在中3度もお会いすることができて、最後にもう一度ご説教をいただきました。
「秩父宮妃はクイーンマザーのようにもっとワガママになさらなければいけません。御遠慮やお気づかいをやめて、ご自分の思うとおりになされば健康になられます」
日本ではできない、というより私にはできないと申しましたら、
「できないと言わずにやればいいんです」と日本のお祖母様は叱られながら、
心の中で「ありがとう、チャールズ」と申し上げたことでした。
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◆秩父宮雍仁親王(淳宮雍仁親王)123代大正天皇の二男
1902-1953 50歳没


■学習院初等科で選ばれた御学友は13名
放課後は二名一組が月水金組と火木土組になり一日交代で参殿した

小笠原長英
奥田成孝
近衛忠麿
佐竹義勝
三条実憲
千田貞栄
高辻正長
伊達定
千頭映臣
南部信英
丹羽氏郷
松浦治
毛利敬四郎

■学習院中等科で選ばれた御学友は11名

小笠原長英
奥田成孝
近衛忠麿
佐竹義勝
富永惣一
成田正彦
成瀬大児
芳賀信政
松浦治
毛利敬四郎
山根弘之

■学習院から陸軍幼年学校に連れて行かれた御学友3名

小笠原長英
芳賀信政
富永惣一

■陸軍幼年学校の御学友

長命健一
西村庚
松平定堯

■イギリス留学の随員 1925年05月24日~1927年01月17日

松平慶民   式部官
中村順一   侍医
岡崎清三郎  秩父宮付武官
前田利男   秩父宮事務官
渡辺八郎   秩父宮御用掛
武者小路公共 外務省


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小笠原長英 秩父宮の学習院時代の御学友

熱海御用邸は沼津と共に気候に恵まれ、冬でも遠足ができました。
東海道線を旧式な軽便鉄道で行きました。
ところがトロッコに屋根のついたような客車で、人が駆けるぐらいのノロノロ運転で、2~3時間かかったのではないかと思われる速度でした。
私はまるで外国へでも連れて行かれるような心細さに、ついシュンとした記憶がございます。
この時も秩父宮は景色を喜ばれながら、一人ではしゃいでおられましたよ。
私は秩父宮から「しっかりしろ」とずいぶんからかわれたものです。
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堀秀雄 高松宮の御学友

秩父宮は相撲がお強かった。
どうがんばっても負かされるばかり。
くやしかったが、歯が立たなかった。
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松浦治 秩父宮の御学友

雨の日に校庭に出られないと、秩父宮が「玉台の上で相撲を取ろう」とおっしゃる。
取ったとたん台の縁に脚を取られて床に叩きつけられた。
あんなに痛かったことはありません。
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閑院宮春仁王 戦後に閑院純仁と改名

秩父宮は「皇族は当然入校するのだから試験は無意味だ」と陸軍大学校の入学試験はお受けにならなかった。
私は秩父宮といささか見解を異にし、陸大学生として受験は全員が経験する一つの過程であるから、私といえども入校する以上は、形式的でもいいからこの過程を踏むべきであると考えた。
試験の結果はむろん落第点であったろうと思うが、入校した。
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三笠宮崇仁親王

実は秩父宮は海軍志望だった。
そして高松宮は陸軍を志望していたんです。
ところがそのころは陸軍の方が力関係が強かったせいもあって、最初の皇族は陸軍に次の皇族は海軍へということになったんです。
高松宮は実は船に弱かったんですよ。
おそらく海上勤務ではずいぶん苦労したと思います。
私の番になるとどっちでもいいと。
私はそのころ乗馬に熱中してましたので陸軍を選んだわけです。
ただ問題は幼年学校から入るか士官学校から入るかということでした。
幼年学校から入る人は中学1年か2年を終わって入る。
士官学校へ入る人は中学の4年か5年を終わって受ける。
秩父宮は幼年学校から入ったわけですが、貞明皇后はどうも秩父宮が幼年学校から入ったために一般的な常識とか教養を身につける時間が少なかったと思われたようです。
ですから私は学習院中等科4年を修了してから士官学校の予科に入りました。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

秩父宮が木馬から本物の馬に初めてお乗りになった時に、ついていた別当がお乗せしようとすると秩父宮が怒って足で別当を蹴飛ばされたということを聞いたが、後に成年になられた秩父宮の闊達な御気質はその当時すでに芽生えていたのである。

当時三殿下〔昭和天皇・秩父宮・高松宮〕は毎週土曜日におそろいで大正両陛下に拝謁のため御参内されていたが、三殿下が奥に行かれると供奉の者には酒がふるまわれた。
いつもなら酒を楽しむ秩父宮の伝育官たちが酒に手もつけない。
東宮職の人ばかりが酒を飲んでいる。
変に思って聞いたところ、禁酒令が出たので飲めないのだと言う。
秩父宮が子供であるのにお酒が好きであったので、それは良くないから成年になられるまで御付の者が酒を慎めば自然秩父宮もお慎みになるだろうということで禁酒令となったというのであった。

秩父宮の酒好きは成年になられてからも相変わらずで、宮中で皇族方の宴会がある時など他の皇族方がお帰りになっても、秩父宮一人いつまでも遅くまで飲んでおられて、女官の部屋まで行って騒いでおいでになったことを今でも思い出す。
当時警視庁では秩父宮のお帰りが遅いので、警備の関係もありいつもお帰りの時間を問い合せてきたものであるが、秩父宮はいつもこっそり裏伝いにお帰りになってしまわれた。

当時宮内次官だった関屋貞三郎が御殿に御機嫌伺いに上った。
やがて秩父宮が大礼服をお召しになって出てこられた。
関屋はお節介で細かなことに気のつく口やかましい人であったが、見ると秩父宮の勲章の副章が反対についている。
そこで関屋は副章の位置が反対であると御注意を申し上げた。
ところが秩父宮は非常に腹立たし気に、
「いったいお前は何をしにここに来たのか!」と言われたので、
関屋が「御機嫌を伺いに参りました」とお答えすると、
秩父宮は「それなら用が済んだらすぐ帰ればよいではないか。なぜ自分に注意する必要があるのか。自分にはちゃんと伝育官長がついている。言いたいことがあるなら伝育官長に伝えればよいではないか!」とますます威丈高になられるので、関屋はほうほうの態で退き下がった。

当時宮家の御結婚には興信所を通して調査される慣わしがあったが、興信所の調査員が私の家に松平勢津子姫について調べに来た時、他にも6~7人候補者があるのでと知らせてくれた。
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岡部長章『回想記』昭和天皇の侍従

私の受けた印象では、昭和天皇の悩みの種は主として陸軍だったようです。
侍従武官長の宇佐美中将が御前に出ている時に、昭和天皇がちょっと激しい調子で御話になるのを耳にしてしまったことがありました。
二二六事件の時の武官長は本庄繁大将で私が3月20日に侍従になって三日間ほどで退官、宇佐美興屋中将が新たに就任したのです。
宇佐美さんが拝謁している時に、「壬申の乱のようなことになる」という意味の事を大声で申されたのが聞こえました。
秩父宮を担ごうとする陸軍の運動があったと仄聞していたので、それに関連することだなと思いました。
秩父宮が多少激しい御性質の方だということは私も心得ていました。
それをまた陸軍の青年将校が担ごうとするのです。
おそらく宇佐美武官長は昭和天皇に対して、秩父宮の意見もいろいろ聞いてほしいと言ったのではないでしょうか。
それで昭和天皇が壬申の乱というような例を持ち出されたのだと思います。
ところが宇佐美武官長は「はあ」とか言って、壬申の乱が何なのかわからない様子でした。

秩父宮のようなお直宮が昭和天皇に会われるのは奥の方になります。
当時秩父宮は陸軍の佐官でしたから、御兄弟として来られるだけで軍事上の奏上はできません。
陸軍では皇族を金枝玉葉の御身分などと言いますが、それも昭和天皇にとってはプライベートな関係だけになります。
朝香宮が陸軍内のことに触れ、叱られて退出されたこともあります。
階級は大将でも軍事参事官で、上奏する立場ではなかったのです。
昭和天皇はそうした公私の別を固くお守りになりました。
陸軍の過激な将校は、この点の認識が足りません。
勝手に思い入れをしていたのです。
高松宮に対しても細川護貞君が懸命にネジを巻いたようですが、高松宮はそれを受け入れず、秩父宮・高松宮とも、この点ははっきりと身を処せられました。
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陸軍大尉寺倉小四郎 秩父宮御付武官

菅波三郎や安藤輝三が秩父宮にお目にかかって種々言上しても、このような場合秩父宮は決して御自身の御意見を言われない。
これはいつの場合でもそうである。
それが当時の皇族方の置かれた立場だったのである。
このことが秩父宮が実に聞き上手な御方だと自然に言われるようになった原因の一つである。
しかし時にはこのことが相手に対して、言上した意見に秩父宮が同意くだされたと錯覚を起こさせる原因となったことも否定できない。
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梨木止女子→坂東長康の妻坂東登女子 明治天皇・大正天皇に仕えた女官〈椿の局〉

大正天皇は昔からの明治天皇の仰せになるような言葉で仰せになった。
昭和天皇はいくらか大正天皇にお似ましのようですね。
秩父宮は下方にお成り遊ばしてるので、兵隊の中で揉まれてござるわね。
一般の人にふさわしいような、近いような御言葉ですわね。
今の明仁皇太子〔平成天皇〕は余計もう、さばけておいでになる。
それにお付きしてる人がみんなそんな粗雑な言葉を使うので。

秩父宮は大西さんという人と幼年学校が一緒で、その人が一番だもんで、それに勝とうと思って一生懸命御勉強遊ばした時に、おつむ〔頭髪〕真っ白になりましたよ。
「秩父宮、どう遊ばしたんでやんすか、そのおつむさん」って言ったら、
「大西に勝とうと思って一生懸命やったのよ」とおっしゃって、神経衰弱っていうのですかね、おつむが真っ白い。
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奈良晃 陸軍大学校 戦術教官

秩父宮の御成績は、陸大初期には全体的に見て悪い方であった。
残念ながら陸軍の俊英たちとは比肩するべくもなかった。
教官の立場から秩父宮の御成績を見ると、第一学年当初は最下位に近く、中期には中位の下ぐらいで、末期はようやく中位であった。
第二学年中期になると、上位から1/3くらいの御成績で、末期になって上位から1/6くらいのところに上昇し、第三学年になると五指の中に入るような成績となられた。
陸大成績は戦術が群を抜く最重要科目で、学生の成績の序列は90パーセント以上が戦術の成績で決定するようになっていた。
もし秩父宮が一般学生であったならば、当然恩賜組であることは間違いのない事実である。

秩父宮は「戦術の研究は私の性分に合っているとみえ、面白いと思ってやっております」としみじみと漏らされた。
なるほど、戦術は究極のところどうしたら敵に勝てるかということのみを探求する学術であるから、秩父宮のようにひとしお御気性の強い御方には、その研究が気質にかない面白いと感じられるのも当然のことで、裏返せば秩父宮がいかに負けず嫌いであられたかの立証ともなろう。
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高橋柳太 主計大尉※当時は調査班

日本は武力闘争を満州事変で一応打ち切り、今後は少なくとも15年間は決して戦争をしてはならない。
その間に新しい時代に備えるため、日本の国力の画期的発展と拡充を期し、超近代的軍備への改編を行わなければならない。
そのためには当面、まず日華親和・対ソ防衛の完備・満州国の完成・航空機工業の拡充・科学および技術の創造および画期的進歩向上等に挙国全力を尽くすべきである。
好むと好まざるとにかかわらず、人類文明は一大飛躍を来たし、科学と文明の飛躍による昭和維新は必ず実現する。
という意味のことを、石原莞爾は秩父宮に強調された。
この思想に秩父宮は心から共鳴されていた。
それゆえ当時一般からは突飛もないこと、狂気じみたこと、誇大妄想的な考えとされていたこの構想を一つ一つ成功させたいものと、秩父宮を中心に課内一同情熱を傾けていた。
秩父宮が特に熱意を示されたのが、科学技術の発展と産業の拡充であった。
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『秩父宮雍仁親王』秩父宮を偲ぶ会

秩父宮は御食事にさほど好き嫌いはなかったが、どういうわけか牛乳だけは苦手であった。

ある日 東宮と秩父宮が鬼ごっこの遊びをされている時、御二方はつい廊下の障子をやぶってしまった。
侍女が「室内のお遊びにしては少し乱暴でございます。障子を破くなどなされてよろしいのでございますか」と御注意すると、
東宮は「いけないことだ」と恥ずかしそうにされたが、
秩父宮は侍女を睨みつけたかと思うと、「えいっ!」とさらに大きく障子を破ってしまった。

秩父宮は学習院初等科に入学されて間もなく、
「図画・手工・体操・唱歌は好きだが、あとは嫌いだ」と言われた。
秩父宮は本を読むことがお好きだったし、教えられた漢字は次々に覚えられていった。
特にお嫌いだったのが作文と算術だった。
しかし、中等部では数学とフランス語が秀抜な成績になった。

1909年両国に国技館が完成、秩父宮は初めて相撲を御覧になってすっかりお好きになった。
翌日秩父宮は学習院から帰られると、カバンを廊下に置かれたまま、御学友たちを集めて相撲を始められた。
時には侍女たちをつかまえてパッと足をかけると、侍女たちはストンと倒れる。
侍女たちの隙を見ては不意に足をかけたりするので、侍女たちはときおりこの被害を受けた。

秩父宮はいつの間にか青大将を捕まえて鳥籠に飼っておられた。
秩父宮は傅育官や侍女たちをつかまえては、「蛇は好きか?」と聞かれる。
好きだと言えば、「では面倒を見てやれ」ということになる。
嫌いだと言えば、蛇を籠から出して手にぶらさげてこられる。
皆はこれに大いに悩まされ、好きとも嫌いとも言えず黙って逃げてしまうのであった。

1913年は明治天皇の崩御で喪が明けず、新年の儀式は行われなかった。
この年の沼津の冬は寒く肌の弱い秩父宮は耳を凍傷に冒されたりしたので、もっぱら室内で遊んだり勉強されたりしていた。
元来秩父宮は御幼年時代から、寒中でも手袋のようなものを使用されない習慣であった。
その理由は不明であるが、時にはスキーなどの場合にも使用されなかった。

1916年正月、御祝御膳につかれた秩父宮は、例年祝酒として出される雉酒がないのに気づかれた。
これは侍医たちが協議の結果、御酒の害がなにか禍いするようなことがあってはと、本年から秩父宮には御酒をやめにしていただくことになっていた。
秩父宮は俄然お怒りになった。
「雉酒はめでたい儀式の時に祝酒として飲むものなのに、どうして出さんのか」
侍女たちは秩父宮のお怒りの御様子にビックリし、傅育官たちはその理由を説明したが、筋の通らないことをやった傅育官たちではおさまりがつかなくなった。
そのうち報告を受けて急遽参殿した丸尾傅育官長が、
「お怒りはごもっとものことでございますが、侍医が心配を致しておりますので、どうかこれで御辛抱をいただきたいと存じます。その代り私も今日から決して御酒をいただきません」と申し上げてお許しを願った。
秩父宮は丸尾傅育官長の酒好きをよく御存知であったので、
「未成年の間は仕方があるまい」とお許しになった。
たとえ宮中のしきたりがどうであろうと、自分を血の通った人間として納得のいく処置を取らない限り、お前たちが何と言ってもその通りにはならないぞ、自分は人形ではないのだ。
これが秩父宮の信念であり人生観であったと申し上げたらよかろう。
まさに皇族中の反逆児である。
別室では傅育官・御用掛・旧奉仕者たちとの間で次のような会話が続いた。
「雉酒の件ですがね、あれほど厳しいとは思いませんでした」
「このごろの秩父宮は我々の手に負えないようになってきましたな」
「お四つの頃からなかなかきかない御方だったよ」
「僕の時は反抗期だったから、困ったこともずいぶんありましたよ」
「裕仁皇太子とは御気性がまるで違いますからね」
「まるで織田信長ですな」

陸軍幼年学校教官嘉悦基猪は、同郷の友石原莞爾の訪問を受けた。
話は秩父宮の御教育方針に及び、石原から
「君は秩父宮の御教育に直接携わる者としてその責任は重い。しかし私は今のような学校当局の指導・教育には疑問を感ずる。秩父宮は一般生徒と同じように何でもできなければならないということは必要ではないと思う。秩父宮は皇族としての御任務があるのだから、将校のことはひと通り御承知になっているだけで良いと思う。秩父宮本来の御任務はそんな末葉的なものではないはずだ」と言われて、嘉悦は深く考えるところがあった。
後年秩父宮の御発病の第一の遠因は、この陸軍幼年学校時代にあるのではないかというのが一致した見解である。
ちなみに学習院から秩父宮と共に陸軍幼年学校に入学した御学友8名のうち、陸士を卒業したのはわずか2名であった。
その他は病気等の理由で脱落してしまったわけである。
陸軍幼年学校の教育が一般学校に比して厳しいものであったことは、当時世間でも定説となっていたのである。

秩父宮が入学された陸軍士官学校の第34期生は、陸軍幼年学校から300名・一般中学からの合格者180名の480名であった。
しかし、実際に卒業できたのは365名であった。

1922年7月21日 陸軍士官学校卒業式の一週間前、秩父宮は同じ区隊の宮本進の依頼で西田税らとの会合を御承諾された。
西田が駆けつけると、すでに宮本・福永憲・平野勣・潮の4人が秩父宮を中心に静かに語り合っていた。
西田は「青年アジア連盟」の由来、「猶存社」との提携、内外の政治情勢を言上し、最後に彼らが秘かに計画しつつあった「天剣党」の目的について御説明した。
西田は会談が終ると、福永が浄書した『日本改造法案大綱』と『支那革命外史』を秩父宮に献上した。

筧克彦は貞明皇后の御召を受けて沼津御用邸に参上し、前後8回にわたって秩父宮に御進講し、その御筆記が後年節子皇太后職蔵版『神ながらの道』となって、全国主要神社へ配布せられたのである。

1928年12月24日、秩父宮は陸軍大学校に御入学になった。
時の陸軍大学校長は荒木貞夫。
荒木は来たる陸軍定期異動では、参謀次長か師団長が約束されていることを聞かされていた。
ところが満州に転任していた石原莞爾が突然荒木校長を訪ね、歯に衣着せぬ露骨な口調で、
「秩父宮の御教育は日本のため重大な任務であるから、御卒業まで必ず校長の椅子に留まるように」と強く要請して帰った。
荒木は「秩父宮は皇族の筆頭として徳の御養成が第一で、他の生徒とは自ら同一ではない。したがって、第一学年度には一般学生との同一作業で、秩父宮への真の御教育は第二学年度より始めよう」としたのであったが、翌年1928年の人事異動で荒木は熊本の第六師団に転出となったため、荒木の計画はむなしく中断した。

陸大生は優秀な頭脳が要求されることはもちろんであるが、体力も健康に自信のある頑強な者でなければとても務まらない。
いかに頑健な体力を誇る青年将校でも、平均週に二回が徹夜では次第に睡眠不足となるのは明らかであった。
ゆえに陸大入学時の健康診断は綿密厳格を極めたものであった。
陸大では何かとヤセ我慢をして、冬は夏服・夏は冬服で通す反骨的な気風が芽生え、秩父宮まで同調された。
秩父宮の御健康を案じた宮内省から内密に陸大に申し入れがあった。
それは秩父宮の御勉強についてもう少し緩和できないものだろうかという申し入れがあったが、陸大側が拒否した。
そんなことをすれば秩父宮のお怒りが目に見えているからであった。
陸大における秩父宮の御勉強ぶりは凄まじかったの一言に尽きる。
講義の後 教官に質問することも秩父宮が最も多かったし、教官と長時間にわたって白熱の論争をされることもしばしばであった。
教官への質問、学生との論争はすべて御納得の行くまで追及されて、相手が困ることも見受けられ、教官が来るのを待っている間に学生たちとの戦術の論争に夢中のあまり、教官が入って来たのに気づかなかったこともあった。

秩父宮のお手回りの品々は万年筆・時計等すべて国産品であった。
秩父宮がつとめて国産品を愛用された話は枚挙にいとまないが、陸大生は地図に何かと色鉛筆で書き込むので、いわば必需品の筆頭である。
国産品の色鉛筆は枯れて色のつきが悪いので、陸大生の多くはドイツ製の色鉛筆を使用した。
しかし秩父宮はその色鉛筆すら輸入品であるとして使用されず、卒業するまで国産品を愛用されたのである。
しかし一つだけ例外があった。
それは煙草である。
愛煙家の秩父宮はエジプト煙草を好まれ、後にウエストミンスターになる。

秩父宮は御付武官を授業中の講堂に入れなかったが、現地戦術の随行まで許されないのには困った。
現地戦術の場合未知の山野を踏破するのであるから、どうしても危険が伴う。
本間にしてみれば職責上秩父宮に単身で行動され万一御怪我でもされたらと考えると、随行を許されないからといってそれで済むものではない。
そこで本間は秩父宮から何と言われても気づかれぬように後をついて行くのであるが、血気盛んな秩父宮は本間をまいて行方不明になるのが御上手であった。
したがって秩父宮と本間御付武官との間には大人の鬼ごっこが日常茶飯事のように展開されたのであった。
教官や学生たちは山中や雑木林に隠れてしまった秩父宮を見失って立往生している本間の悄然たる姿によく出会い、秘かに秩父宮の隠れた方向を教えながら疲れ切った本間御付武官の姿に同情したものであった。

秩父宮は校長・幹事の将官級には閣下、教官には教官殿、上級生には〈さん〉の敬称をつけられ、同期生のみ呼び捨てで、後輩は君で呼ばれた。
だが二名の御付武官に対してはまったく部下として扱われたので、生徒から見るとずいぶん奇異に見えたものだ。
御付武官は陸軍内においても優秀な人材が任命される。
生徒たちから見れば中隊長・区隊長よりも上官で、しかも大先輩の中佐と少佐である。
現地戦術のある日 同期生の菅井斌麿は、農家の縁側で一服されている秩父宮の軍服のズボンにほころびがあるのを発見した。
菅井は農家の人から針と糸を借りて来て、
「秩父宮殿下、うまくできませんが、ちょっと縫っておきましょう」と申し上げると、
秩父宮は「ありがとう。でも結構です。それをお借りしましょう」と言って菅井から針と糸を借りると、農家の庭の隅にいた本間御付武官のところへ行かれ、本間御付武官にほころびを縫わせた。
菅井は学生から見れば大先輩の本間中佐になにもズボンの繕いをさせなくともと思った。

秩父宮は陸大第二学年の1930年5月、満州戦史視察旅行に出発した。
視察団一行が水師営南方の高地へ到着すると、石原莞爾が熱弁をふるった。
その内容は学生に対する講話としては稀に見る格調の高いもので、満州見学旅行に来る女生徒たちが先人の苦闘に涙を流すような感傷的なものであってはならないとして、当時の日本の満蒙政策についての批判抱負を堂々と熱烈な口調で述べた。
この講話は学生に一大感銘を与えたが、石原参謀の目的は秩父宮にあったのだ。
満蒙通の石原参謀が年来の抱負を直宮の前で堂々と述べる機会は容易には得られなかった。
石原参謀にとっても一世一代の熱弁であったわけだ。
講話の最中秩父宮は、そうか、そうかという御表情で聴いておられた。
石原参謀の熱弁は、秩父宮の御胸中にどのような影響を与えたのであろうか。

秩父宮が陸軍大学校を卒業されて歩兵第三連隊に帰隊されたのは、1931年11月28日であった。
暮れも押し迫ったある日の夕刻、安藤輝三は強引に同志菅波三郎を伴い、兵舎の地下道を利用して第六中隊室の秩父宮を訪問した。
秩父宮が菅波に会われたのはこの時が初めてである。
菅波はロシア革命におけるロマノフ王朝没落の原因などを簡略に申し上げ、平素の勉強ぶりを披瀝した。
このあいだ安藤は、秩父宮の菅波に対する第一印象は決して悪くなかったことを感じ取ったようである。
翌年1932年3月勃発した上海事変で出征するまでの約2カ月の間に、菅波は安藤と共に三度秩父宮にお目にかかった。
1932年新春、菅波は西田税の家を訪問した。
西田は紫の袱紗に包んだ一通の奉書を菅波に渡して、秘かに秩父宮へ献上してくれるようにと依頼した。
これはいわゆる建白書の類で、菅波が一読すると君側の奸を除く必要を説いたもので、特に目新しい内容のものではなかった。
しかし西田はこれを菅波から秩父宮へ献上し、さらに秩父宮から昭和天皇に献上願いたいと言うのであった。
翌朝菅波は出勤すると安藤に西田からの依頼を話した。
じっと考え込んでいた安藤は「秩父宮ならば万一にも心配はない。秩父宮がどう処理されるかはわからないが、いったん秩父宮の御手に渡れば他に漏れるようなことは決してない。その点秩父宮は絶対に信用できる御方だ」と、ただちに秩父宮の御都合を伺い、菅波を伴って第六中隊長室を訪れた。
秩父宮は「よし、預かろう。だが処置は私に任せてもらう」と受領された。
秩父宮は「明日宮中に参内の予定になっているから」と言われ、また「西田はその後どうしておるのか。元気で過ごしておるか」と親しくお尋ねになった。
菅波三郎は「私は歩三で秩父宮にお目にかかった時、僭越にもいろいろなことを言上した。私は秩父宮に我々の考えていることをわかっていただきたかったのだ。直宮であられた秩父宮を利用しようとか何かお願いしようなどという気持ちは、はじめからまったく持たなかった。例外は西田から依頼された件だけである。我々は昭和天皇の大御心に添うことのできる革命がやりたかった。結局二二六事件で私の願望はついえ去ったが、我々の革新運動について秩父宮はある程度御存知であったことと思う。秩父宮は話せばわかる御方であった。おそらく安藤輝三も同じだったと思う」と語っている。
秩父宮の対人関係に差別感を持たれない御性格は最も人間的な面であるが、また同時に多くの誤解を招く原因になったことを、果たして秩父宮はお気づきであったろうか。

1931年9月に勃発した満州事変が拡大して11月に第二師団がチチハルを占領した直後、秘かに帰国した石原莞爾が秩父宮の御召を受け秩父宮御殿に参上したことがあった。
この時 秩父宮は陸大を卒業され、歩兵第三連隊第六中隊長に就任された直後であった。
秩父宮御殿の応接室において御付武官寺崎小四郎が侍立のうえ、秩父宮は石原を御引見になった。
秩父宮の御下問に対して石原は、満州事変勃発の原因についてはさすがに自分の計画によるものであるとは言上できなかったが、その他についてはおおむね真相に近い状況を言上した。
秩父宮が特に指摘されたのは、満州事変が国際連盟から日本の侵略行為と烙印を押されることを憂えられたのである。
しかし石原は満州事変は起こるべくして起こったものとして、自己の主張である東亜連盟論から、満州を世界の理想郷にしたいものと抱負を語った。
1931年秋に昭和天皇御統監の陸軍特別大演習が行われた。
この演習中に参謀総長金谷範三が満州事変に対して航空機の増派理由を上奏し昭和天皇の御裁可をいただいたのであるが、関東軍のチチハル進出もこの時点では東京で陸軍大臣南次郎の提案にもかかわらず、他の閣僚の反対にあった。
この報告を受けられていた昭和天皇は、参謀本部が委任命令権を利用してチチハル進出をするのではないかと侍従武官長奈良武次にただされたのである。
昭和天皇の御下問に委任命令権の危険性と重大性を痛感した奈良は、上奏当夜参謀本部に対して昭和天皇の御心配された点を打電しておいたにもかかわらず、出動は行われてしまった。
参謀本部は航空機の国外増派についてだけ昭和天皇の御允裁を求めて、チチハル進出は匪賊の頭目馬占山の攻撃に余儀なくされたものとして委任命令権のもとずいて出動してしまったのである。
もっとも東京では、南陸相がチチハル進出は馬占山の勢力を駆逐した後は必ず撤退するという条件付きで閣議の承認を取ることができたから、陸軍中央部では委任命令権の乱用にはならないとしたのである。
だが、昭和天皇の御意向を無視した結果になったことは否定できない。
秩父宮は御下問の最後に、以上の点を石原にただされた。
さすがの石原もこれには弱った。
チチハル進出は北満に権益を擁するソ連と不祥事件を勃発させる危険があった。
昭和天皇の御心配もこれであった。
事実関東軍はソ連軍が越境して攻撃をしかけてきた場合、これを叩く覚悟があったのである。
結局軍中央の方針に従い、石原はチチハル撤兵を誓って、この問題は秩父宮の御諒承をいただいた。
秩父宮が石原莞爾と長時間にわたって会談されたのはこの時が初めてである。
石原は持論である東亜連盟思想の中で、中国の国民政府の基礎が脆弱な間は日本が代って満州の治安維持・経済向上に努力し、満州の繫栄によって国民政府の提携を誘い、日中協力して東洋の安定をはかることが対ソ防衛に対する最大の決め手であることを強調した。
石原は秩父宮に対して、満州を領有するとか独立とは決して言わなかった。
この会談で特筆しておきたいことは、秩父宮が石原莞爾という人物の一面を高く評価されたこと、石原が秩父宮に対して秘かに抱いてきた期待を再認識したことであった。

参謀本部第二部ロシア班に勤務していた大越兼二のところへ、第一部作戦課に勤務されていた陸大同期の秩父宮が御姿をお見せになった。
「大越、多田のパンフレットを読んだか」とお尋ねになった。
これは当時陸軍省調査班にいた多田督知大将が書いたもので、
「古代日本の戦いはまつろわぬもの即ち祭り合わぬもの、理想を等しくせぬものを祭り合せるのを目的としていた」ということを取り上げて、これからの日本の戦いがいかにあらねばならぬかを論じたものであった。
もちろん内容を熟知していた大越は、
「しかし、内容が少し神がかりのように思いますが」と申し上げると、
「内容の表現はともかくとして、根本原理はあれでなくてはならないと思う」と、秩父宮は断固たる口調で言われた。
大越は「秩父宮は我々よりも常に二十歩も三十歩も前の方を歩いておられるのだ。新しいモラルの根本を打ち立て血で血を洗う混乱を克服してすべてを新しく立て直さなければならぬ変革の時代にあっては、氏族国家から古代王朝国家への改革期における天武天皇のごとき変革時代の民族のバックボーンが必要なのである」と理解した。
大越はその時から秩父宮をそのような時代の民族のバックボーンと仰ぎ続けてきたと語っている。
惜しむらくは、歩三・陸大を通して広く若い将校から景仰された秩父宮が、あれだけ彼らの手の届く近い存在にありながら、その実体を掴んでおられなかったことであり、二二六事件のような大規模な不祥事件が勃発することをまったく予期されていなかったことであろう。

1936年2月26日、第一師団管区の青年将校が1,483名の将兵を率いて蜂起し、四日間にわたる昭和維新工作を開始した。(二二六事件)
弘前第八師団にいた秩父宮は2月26日午前7時頃、東京の高松宮から電話で事件を知らされた。
しかし秩父宮はいつものように御出勤、午前8時40分に連隊に到着され、連隊馬場において日課である乗馬の練習をされていた。
午前8時50分 連隊長倉茂周蔵が馬場によって秩父宮に朝の御挨拶をすると、
秩父宮は「連隊長殿は東京の事件を御存知ですか」とお尋ねになった。
秩父宮の御表情が普段と少しもお変りがないので、倉茂連隊長は事件と言われても見当がつかなかった。
すると秩父宮は「実は今朝東京の弟のところから電話で知らせて来たのだが、第一師団の将兵が重臣を襲撃したらしい。詳細は不明だが、相当な兵力が出動した模様です」と伝えた。
驚いたのは倉茂連隊長である。
「秩父宮、ただちに御上京の必要はございませんか」と言上すると、
「東京の様子が心配ですが、私には大隊長としての任務がありますから上京はいたしません」と、秩父宮に動揺の色は見えない。
だが、倉茂連隊長はそうはいかない。

倉茂連隊長が約1キロ離れた師団司令部に到着したのは午前10時頃である。
ただちに下元師団長に面会すると、すでに旅団長飯野庄三郎・師団参謀長高木義人らが来ていた。
師団首脳も事件勃発の報を受けて沈痛な表情で協議していた。
倉茂連隊長が秩父宮御上京の件を進言すると、下元師団長は、
「このような事件が発生した以上、秩父宮に御上京願うより仕方があるまい」と重々しい口調で言った。
しかし倉茂連隊長が秩父宮の御意向を報告すると、「では、私から直接秩父宮にお願いする」と決意を示した。
倉茂連隊長は師団・旅団首脳部と協議して連隊に帰ったが、この日数回にわたって司令部・連隊間を往復している。

午後になって倉茂連隊長は師団司令部から連隊に帰ると、下元師団長が御上京を希望している旨を秩父宮にお伝えしたが、秩父宮ははやり大隊長の任務を理由にその意志のないことを漏らされている。
師団長が秩父宮御上京を希望しているという報が流れると、青森の第五連隊から秩父宮をお迎えに来るという流言が伝わり、連隊将兵は騒然となった。
「第五連隊から秩父宮をお守りしなければならない」という声が期せずして上がった。
秩父宮は定刻になって帰邸されたが、依然として平常のままであられた。
下元師団長と高木参謀長が秩父宮を訪問し、御上京を進言した。
下元師団長は陸軍省・宮内省と打ち合せの結果、二週間の休暇を申し上げて御上京をお勧めした。
下元師団長の秩父宮への進言は、言い換えれば師団長命令と同じである。
秩父宮が拒否される理由もない。
しかも師団長自らが陸軍省と宮内省の諒解を得ているとあらば、秩父宮も御上京しないわけにはいかない。
かくて秩父宮は御上京を決意された。
早くもこのことが歩兵第31連隊の将校に知れ渡った。
多くの流言が巷に乱れ飛んで、弘前市内は「歩兵第五連隊が秩父宮を擁して上京のため弘前に来る」という噂に騒然となった。
これでは第31連隊の将兵が黙っていない。
逆に「我々が秩父宮の御供をする」といきり立つのを、倉茂連隊長は断固としてこれを制した。
「秩父宮がいったん外へ出られた場合、その御身辺については国家の責任であるから連隊にはその責任なく、一つ間違えばかえって大きな疑惑を招くことにもなりかねない。連隊は平素のように勤務に励むことを要望する」

松本徹は2月27日に秩父宮が弘前から御上京した際、上野駅でお迎えした一人である。
松本は秩父宮邸に出入りのあった者で、妻の実家は被害者の一人である斉藤実の向かいであった。
秩父宮が真っ先に松本にお尋ねになったことは、国民は今度の事件をどう見ているかということであった。
松本は前夜山王ホテル付近において、叛乱将校の街頭演説を聞いた。
「このたび秩父宮が御上京になったので、いよいよ我々の指導者として戴くことになった。したがって、昭和維新の成功はすでに迫っている」と言うのに対し、黒山の大衆は熱烈な拍手を送っていた。
もちろん松本はこの演説の内容が新聞紙上に掲載されないことは承知していたが、国民大衆の面前で行われたことだけに、すでに巷の流言は秩父宮を二二六事件の黒幕的存在として乱れ飛んでいた。
菅波三郎によって高まった革新熱を、秩父宮が御存知ないはずない。
いずれはどこかの青年将校が何かことを起すであろうということは予想されていたに違いない。
秩父宮が歩三御在任時代に安藤に対してなぜ断固たる見解を示されなかったかという疑問と、彼らの運動を過小評価されていたきらいが見られることは否定できない。

1936年12月1日、秩父宮は再び参謀本部第一部に転補された。
今度の任務は新設された戦争指導課であった。
秩父宮の直属の上司は石原莞爾だった。
思えば石原はこの日の来るのをどれほど待ちわびていたことか。
石原にとって二十数年前から秘かに抱いていた秩父宮への期待と戦争指導課の新設は、石原の主張する東亜連盟思想実現への満州事変に次ぐ第二・第三の布石であった。
石原はその抱負構想を積極的に言上した。
秩父宮もまたこの石原の思想に共鳴するところが少なくなかったのである。
ただ運命な皮肉さは、秩父宮が四カ月後にイギリス国王ジョージ6世戴冠式に天皇御名代として渡欧され御留守中に日華事変が勃発して、不拡大派であった石原自身が拡大派に敗れて転出させられたのである。

1937年3月18日秩父宮夫妻は天皇御名代としてイギリス国王ジョージ6世戴冠式に御参列のため横浜港を出発された。
秩父宮はロンドンのホテルに滞在中、毎朝の運動に乗馬をされていた。
毎日御供を命ぜられていた辰巳武官が約束の10分前にホテルの前に行くと、いつものように乗馬学校校長が三頭の馬を連れて到着していた。
校長は「今日はひどい雨なので中止と思ったが、秩父宮から何の御沙汰もないので一応馬を連れて来ました」と報告した。
辰巳武官が部屋に行くと、すでに秩父宮は御乗馬の服装で待っておられた。
辰巳武官が「この雨にお召しになりますか」と口を滑らせた。
秩父宮はたちまち不快な御表情で、「せっかく馬が来ているのだから乗ろう」と言われた。
雨の中を颯爽とホテルの玄関から出てこられた秩父宮の御姿を見て、校長は意外な顔をした。
日頃はイギリスの紳士淑女たちが多数通るハイドパークの騎馬道も、この日は人影がなかった。
土砂降りの中をかつての陸大における乗馬練習そのままに、予定の時間を乗り続けた。
雨は下着を通り、長靴の中には雨水が溜まった。
辰巳武官はさすがに途中で中止するように申し上げたが、秩父宮は返事をされなかった。
一週間後秩父宮は風邪を召されて肺炎にかかられ、十日あまりも御病床につかれた。
そして予定されていた北欧への御旅行は一時中止となった。
辰巳武官は秘かに後悔したが、秩父宮の御性格から言っても予定を立てた以上、よほどのことがない限り予定変更はされない。
いわんや雨くらいでは、いかに辰巳武官が諫言申し上げても決行されたことであろう。

1937年5月12日ウエストミンスター寺院で、ジョージ6世の戴冠式が挙行された。
5月14日にはバッキンガム宮殿で大舞踏会が催された。
午後10時前から始まった絢爛豪華な舞踏会は深夜の2時頃まで続いた。
この会場で御多忙だったのは秩父宮妃であった。
英国王室・各貴族・政府高官・陸軍海軍将官から果ては各国代表からも踊りを望まれて、くつろがれる暇もなかった。
秩父宮は終始悠然と椅子にかけられて黙然と眺めておられたが、秩父宮はこういうことはあまりお好きではない。
御側にいた吉田茂大使がそっと申し上げても、とうとう一度も踊ろうとはされなかった。
やむを得ない場合のほか、御自分から進んでされるようなことはなかった。

戴冠式が終わってまもなく、御二方が御病気になった。
まず秩父宮が風邪を召され半月の御養生で快癒されると、今度は秩父宮妃が風邪を召された。
6月2日宮内省から研究のため出張を命ぜられてヨーロッパ各地を回っていた医学博士高橋信がベルリンに入ると、日本大使館で東京の百武侍従長から「秩父宮妃御病気ゆえただちにロンドンに急行せよ」という電報を受け取った。
高橋がただちにロンドンのホテルに伺候して秩父宮妃の御病状を拝診すると、すでに肺炎を起こされていた。
侍医中村順一・ロンドンの日本人医師加藤伝三郎が昼夜懸命の御看病を続けていた。
一カ月以上の関係者の献身的な努力の甲斐あって、秩父宮妃は7月10日頃には御快癒になった。
7月31日秩父宮御一行は、御二方のスイスでの御静養をかねてロンドンを御出発になった。
ところが7月7日には中国大陸の一角で思いもよらぬ大事件が勃発していた。
盧溝橋事件に始まる日華事変である。

8月4日オランダで、御二方が再びお揃いで発熱された。
約一週間で御二方は快方に向かわれたが、秩父宮は御病床でやはりヒトラーに会っておいた方がよいと考えておられたのである。
8月14日スイスのアルペンホテルに入られた。
スイスの御生活は静かであったが、世界は静かではなかった。
8月26日日本から二荒芳徳伯爵がベルンに到着した。
イギリスへの御帰途、ドイツにお立ち寄りになりヒトラーと会見、ニュルンベルクのナチス党大会に御出席されるよう、ドイツ側の希望を伝えてきたのである。
主席随員松平慶民はお迎えに来ていた外務省の天羽英二とこの問題について意見を交換した。
秩父宮のドイツ訪問に関しては、その国際的影響を検討しなければならない。
松平はイギリス直行を可としていたのであるが、秩父宮の断は会見を決定された。

第二次近衛内閣が成立する一カ月前に、不幸にも秩父宮は御病床に臥される身となられたのであった。
1940年11月11日宮城前で紀元二千六百年記念式典が挙行されたが、秩父宮に代って秩父宮妃が御参列になった。
参列者の中には秩父宮の御姿が見えぬのに不審を抱いた者もあった。
この頃からようやく秩父宮の御異例の噂が国民の間に秘かに囁かれるようになった。
1941年6月7日節子皇太后が御見舞されたのを機に、秩父宮家で御病状を発表することになった。

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御経過御順調にあらせられ、この冬もさしたる御障りもなく、最近は海岸をも散歩遊ばされます。
御体重も以前より2貫以上もお増し遊ばされ、19貫(71.25キロ)であります。
しかし軽度ながら慢性気管支炎の御病状でありますので、今後とも細心の御療養と御鍛練とをお願いして、御病状の根治なるまで引き続き御加養遊ばされるようお願いしております。
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ついに、胸部疾患とも肺結核とも発表されなかった。

秩父宮の御容体は至極順調で、関係者はホッと愁眉を開くようになった。
そこで遠藤清繁博士は本格的な御療養には葉山御用邸は適当でないと判断して、御転地の候補地を考えていた。
遠藤博士は恩師長与博士とも相談の結果、静岡県富士山麓の御殿場が最適であると関係者に進言した。
第一に冬寒くとも夏涼しく、標高もかなりあって比較的湿気が少ない。
第二に東京にあまり近くては訪問客をはじめ何かと御療養の妨害が多く、遠すぎては不便であるということであった。
世間一般の目から見れば冬寒い御殿場を御療養地とするには少なからず疑問・懸念を持つ向きもあったが、遠藤博士は冬期間でもでき得る限り解放主義的治療で御快癒の自信があったのである。
この御転地先については侍医医頭八田善之進も秩父宮侍医中村順一も同意見であった。
御転地先が御殿場と決定すると、宮内省は元大蔵大臣井上準之助の別荘を買い上げた。

1941年12月8日、早朝のラジオは高らかに軍艦マーチに送られて日米開戦を報じた。
御病床の秩父宮は真珠湾の大戦果を聞かれても、瞑目されたまましばらく誰とも話をされなかった。
このとき以来、秩父宮は政治・軍事に関して一切何も語ろうとはされなかった。

1941年9月、節子皇太后が沼津より行啓になった。
秩父宮は和服に袴をおつけになってお迎えした。
ある人物が節子皇太后に「秩父宮が御元気なれば、今度の戦争ではさぞ御活躍されたことでしょうに」と申し上げると、節子皇太后は、
「皇族の中に戦争にまったく関係のない者が一人ぐらいいてもよいでしょう」と仰せられた。

1943年春頃から秩父宮の御病状は悪化の一途をたどり始め、絶対安静の日々が続いた。
1944年1月2日、遠藤博士の推挙によって寺尾殿治博士が新たに侍医として奉仕することとなった。
寺尾博士は水・土の二日拝診することになり、水曜日は寺尾博士単独拝診、土曜日は寺尾博士・遠藤博士の共同拝診となった。
当時御療養中の秩父宮の日課は、午前中は読書、法律と文芸物を30分ずつ読まれ、午後は安静、よるはラジオを楽しまれるという日課であった。
1944年5月17日水曜日 寺尾博士の単独拝診の日であったので、寺尾博士が御殿場駅に着くと、秩父宮家から迎えの運転手から、「今日は秩父宮御不快の御様子です」と告げられた。
到着すると看護婦から、秩父宮は朝から38度の発熱であると聞かされた。
このころ御体温はほとんど平熱であったので、久しぶりの発熱である。
左乳部が少し痛むとのことでただちに検痰すると、肺炎菌と思われる双球菌が発見された。
当時は現在と違ってサルゾールの類以外にはこれといった薬物がなかったので、寺尾博士の心痛はひどかった。

1945年になると、戦況はすでに末期的症状を表してきた。
3月10日の東京大空襲では秩父宮妃の御実家である松平恒雄邸も炎上、5月24日には秩父宮御殿も日本家屋を残して焼失した。
8月11日三笠宮がお見えになり、御二方で種々懇談された。
この日秩父宮は焼失した秩父宮御殿から、肇国絵巻と軍刀を取り寄せられた。
8月15日は早朝より艦載機の波状攻撃が激しかった。
この日は水曜日であったので、寺尾博士の単独拝診日であった。
午前7時20分の東京発の列車に乗るべく東京駅へ行ったが、東海道線は不通であった。
寺尾博士はやむを得ず新宿駅から小田急に乗って、松田駅で乗り換える時ちょうど正午となった。
駅の放送が乗客一同に駅の広場に集合するように伝えたので、人々は何事かとひしめき合った。
やがてラジオから玉音放送が行われると、人々は一斉にどよめいた。
とうとう来るべきものが来てしまったかと、寺尾博士は悲痛な状況に涙した。
午後1時過ぎ重い足取りで御別邸に参上して御病室に伺うと、秩父宮の御態度はいつもと少しもお変りにならなかった。
寺尾博士が「本日の放送は誠に残念なことと存じます」と御挨拶すると、秩父宮は「ああ」と漏らされただけであった。

終戦前後の秩父宮の御容体は順調で、すでに御歩行も可能であった。
8月24日秩父宮は久しぶりに上京されることになった。
5年間の御殿場生活は、遠藤博士の慧眼通り、御静養地として誠に好結果を生んだのである。
秩父宮は秩父宮妃御同列にて、終戦後のまだ生々しい東海道を自動車で御上京になった。
秩父宮御殿に到着されたのは午後8時頃であった。

1948年9月診断の結果、腎臓に異常のあるのが発見された。
寺尾博士の推挙で、湯河原の開業医で結核泌尿器科の権威 折笠秀晴博士が拝診することになった。
拝診後折笠博士が腎臓の手術が必要であることを言上すると、秩父宮はただちに手術をするように希望された。
翌日秩父宮妃が御上京されて、三陛下〔貞明皇后・昭和天皇・香淳皇后〕および各方面の御諒解を得られた。
手術の場所もいろいろと協議の結果、このまま御殿場別邸で行うことに決定した。
9月19日、折笠博士は手術台に秩父宮をお迎えした。
手術上もっとも急処であった腎臓の血管の結びがきっぱりと結ばれて、一同手術の成功にホッと安堵の胸を撫でた。

秩父宮が鵠沼の御別邸に御移居になったのは1952年1月20日であった。
冬の御殿場はさすがに冷え、御看護の秩父宮妃が凍傷にかかられたことさえあったぐらいである。
遠藤博士は冬期間、どこか暖かい湘南地方への御転地をお勧めしていた。
そこで秩父宮妃が下見をして決定したのが鵠沼の御別邸である。
1952年11月10日、皇太子〔平成天皇〕の御成年式ならびに立太子の礼が挙行された。
この日秩父宮も皇居に参内されて、各皇族方と共に儀式に御参列になった。
行事その他を終えられた秩父宮は、11月16日鵠沼にお帰りになった。
しかし秩父宮の御容体は次第に衰弱の度を加えていたのである。
秩父宮の衰弱された御身体に、流行性肝炎が襲った。
再び手術をしなければならない。
折笠博士は遠藤博士と寺尾博士と慎重に協議の結果、二日後に手術を行うことを決定した。
しかし手術当日秩父宮を拝診すると、どうも御容体が思わしくない。
ついに折笠博士は手術を中止することに決断した。

秩父宮の御病状は宿病たる胸の方は非常に良好で熱もなく、喀痰は無菌状態が続き、集菌法・蛍光顕微鏡・培養等いずれも陰性であった。
立太子の礼にも御上京が可能な程度にまで回復されていたが、鵠沼に御帰還後まもなく流行性肝炎に罹患された。
これは以前にはカタル性黄疸と称せられた病気で、今日では流行性肝炎または伝染性肝炎と言われる。
秩父宮が罹患された肝炎は黄疸は甚だ軽く、血清の検査によってわずかに胆汁色素の増加が認められた程度のものであったが、食欲は深く侵され嘔吐も伴った。
また以前から腎臓も悪かったので、尿毒症が併発したのではないかとの疑念も生じ、脈の性質が悪くなった。
すなわち、小さくかつ緊張が弱くなり、これが容易に回復しないので、主治医側は心配を始めたのであった。
尿毒症の有無を決定するため血液を採取して即日病院に持ち帰って分析した結果、尿毒症の心配はなく肝炎も快方に傾き胆色素は血液中よりすでに消失し、脈の性質が悪いのは心臓の力が弱って血液を十分に送り出すことができず、ことに心臓の右がひどく弱り肺が深く侵されて衰弱が甚しく、病後の悪い患者に往々にして見られる所見が現れた。
秩父宮の胸部疾患はだいたいにおいて臨床的治癒に近い状態であり、肺はすでに無気肺状態になっていた。
ただ左側の肋膜腔には滲出液が出て以前はその一部を排除したこともあったが、近頃はむしろその量は減少し心臓が左側へ引き寄せられる傾向があった。
しかし長期間滲出液貯溜の結果、肋膜は甚しく肥厚して心嚢と癒着し心臓の運動を妨げていたので、身体運動や長時間の談話の際に息切れを感ぜられていたのはこのためであった。
肝炎に罹患されるまでは、心臓はからに過労状態にありながらも日常生活に耐え得る機能を営み得たのであるが、食欲が減退し栄養が衰えるに及んで全身の衰弱につれ、その一部として心臓も衰弱して脈の性質が悪くなる。
そして心臓が弱るので胃にも肝臓にも鬱血が起こり、それがまた食欲不振の原因ともなる。
よって強心剤で心臓の力を強めるとともに、できるだけ栄養の回復をはからなければならない。
それにはなるべくお好みの食物を口から差し上げるのが最上の策であった。
秩父宮もこれをお聞きになって、それならば努めて食物を摂るようにしようとの御意向であり、また肝炎はすでに回復に向かい食欲もいくぶんかは出る徴向も見えてきたので、これは可能であると信じられたが、不幸にも御別邸に流行性感冒が侵入し宮家の方々はこれに罹患し、ついに秩父宮にも伝染してしまった。
熱は大したことにはならなかったが、止まっていた咳が多く出るようになり、せっかく召し上がった朝食を吐かれるようになり、口から差し上げることが再び困難となった。
個々の御病状はいずれも致命的なものではなかったが、相次いで波状攻撃的に立ち直る余裕を与えずに来たので、心臓が持ちこたえられなかったのである。

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折笠秀晴博士

私が満5年奉仕した間 御容体御治療に関してこちらから申し上げない限り、秩父宮からは一つとして何のお尋ねもなかった。
拝診が終ってからも、「今日はどうであろうか」というような御質問・御疑問の類は一度もなかった。
終始すべて任せたいという御態度であった。
何事も必ず医師の言を聞かれてからおやりになった。
結核の新薬は戦時中・戦後といろいろと出されていたが、それでも「あの薬を使ってみたらどうか」というようなことは絶対に仰せにならなかった。
それでいて新薬のことはよく御存知で、時には専門家の私たちが驚くようなこともあった。
また医師の方から言上しない限り、何事もいつまでも黙っておられた。
まして医師に内緒で薬を飲まれるとか、他の療法をされようと考えることもない。
このことは再三の大手術にもかかわらず、病状を混乱させずによく知ることができた最大の原因である。
私たちが病室でそっと雑談している時にも、秩父宮はよく瞑目して考えておられた。
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1953年1月2日、高松宮と三笠宮が新年の御挨拶をかねて鵠沼御別邸に御見舞に来られた。
1月3日、当時日赤血液銀行所長であった東陽一博士は、神奈川県藤沢の自宅で静かな正月を過ごしていた。
ところが秩父宮はの義弟に当る徳川義知が突然東博士を訪問した。
秩父宮が御重態で静脈注射をしなければならないが、各名医の方々の努力にもかかわらず静脈穿刺に成功しないので東博士に依頼に来たのだ。
東博士は10年以上も静脈注射を試みていないので自信がなかったが、そんなことを言っている余裕はないと、急遽迎えの自動車に同乗して鵠沼御別邸に参上した。
御病室に入ると、秩父宮は東博士に気づかれると、「やあ、しばらく」と懐かしそうに微笑された。
東博士は御挨拶もそこそこに秩父宮の腕を拝見したが、過去の数々の注射ですでに肘静脈からは注射ができない。
そこで「お御足に注射させていただきます」と申し上げると、秩父宮はかすかにうなずかれた。
東博士はなるべくよく切れる細手の注射器で足の甲に穿刺したところ、幸い一回で成功した。
じっと見守っておられた秩父宮妃がホッとした御表情をされたのが印象的であったという。
濃厚なブドウ糖を100ccほど注入して静脈注射の成功をお知らせすると、秩父宮は「ありがとう、東さん」と低い声で言われた。
御臨終は1月4日午前4時30分であった。

秩父宮が御療養生活に入られると、やがて国民の間で病名が結核であることが秘かに囁かれるようになった。
当時宮内省では正式に結核とは発表しなかったが、1941年大東亜戦争が勃発した頃にはすでに公然の秘密であった。
実はすでに早くから胸部疾患の徴候は発見されていたのである。

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下山琢磨 作戦課班長

老生が常に心配していたことは秩父宮が庶民と能力を競われる傾向を持っておられたということで、これがすべての点に無理の重なる根本原因になったのである。
その負けず嫌いの御気質に対して、陸軍幼年学校時代から火に油を注ぐ御指導を申し上げたのはなんとしても無茶であり、また参謀本部に御在職間 作戦計画等の繁雑な細務までお自らおさせしたごときは短見であり、間接の責任者である私は恐懼しているところである。
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1940年6月御病名がはっきりわかるまで、秩父宮はずいぶん御無理を重ねられてきた。
軍人としての軍隊生活と同時に、皇族としての二重の御生活に追われていた。
ときおり側近が「そんな御無理をされなくても」とお諫めしたことがあったぐらいである。
学習院から同時に陸軍幼年学校に進学した生徒のほとんどが、種々の理由で脱落しているのを見てもうなずけることであろう。

これらのことに拍車をかける結果になったのが、秩父宮の御性格である。

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宮内省 高橋信

*秩父宮がヨーロッパ外遊の際に肺炎になった時、急遽ベルリンから呼びつけられた医学博士

秩父宮は元来が御自身の御病気を割合に軽くお考えになり、当時の秩父宮の御病後の状況も良くなく、侍医中村順一もかなり困っていた。
それで私から「流行性感冒の性質上 後日再び罹患されやすいので、病後の御養生をくれぐれも無理なさらぬよう」申し上げておいた。
しかし再三の流感によって御旅行中幾多の行動の制限を余儀なくされた。
ここで注意すべきことは、秩父宮の御性格である。
平生元気な者は病気になっても少しくらいのことは無理を承知で押し通す。
なかなか医師や周囲の人の言を用いない傾向がある。
秩父宮もこの傾向の御方であった。
この御性格は御幼少の頃かららしく、かつて秩父宮侍医であった村地長孝が、
「裕仁皇太子〔昭和天皇〕は侍医の言うことをよく素直にお聞きになるが、我々の方の宮様〔秩父宮〕はなかなかそうではないので骨が折れる」と私に漏らしたことがあった。
秩父宮が世上定評のごとく、才気煥発・鋭気溌溂たる御方であったことは事実である。
御自身でも才能・健康については誰にも負けるものかというお考えがあった。
したがって御病気になっても、自然と無理が重なったことと思われる。
それにかかられた御病気が秩父宮にもっとも不向きな身体の安静、ことに呼吸器の安静に関係ある結核であったことだ。
秩父宮は社交的で、したがって訪問客も多く、普通の人と違って真の静養が困難であった。
言葉を変えて言えば、どんなに身体の調子が良くても世間との没交渉に入り、5年でも10年でも孤独無言の生活をするのが理想とされるような御病気にかかられたので、人一倍お気の毒であった。
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■妻 松平勢津子 外務官僚松平恒雄の娘/会津藩主松平容保の孫
1909-1995 85歳没

*米フレンドスクール卒業


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秩父宮勢津子妃の親友 白洲正子 樺山愛輔伯爵の娘・白洲次郎の妻

秩父宮妃と私は小学3年の時から同級生であった。
性格もあちらは生真面目な秀才で、こちらは名うてのお転婆ときているから、ほんとうならうまくいくはずはない。
それを結びつけたのが富士の裾野での生活というのだから、思えば不思議なこととしか言いようがない。
秩父宮妃の父上の松平恒雄氏と私の父樺山愛輔が昔から親しかったためで、秩父宮妃は毎年夏休みを私どもの別荘で過ごされるようになった。
お互いに正反対の性格であったのがかえっていい結果をもたらしたのだと思う。

富士山によって結ばれたご縁はその程度のことでは終わらなかった。
私が14歳でアメリカに留学すると、その半年後に松平大使がワシントンへ赴任され、秩父宮妃と私は再会する。
今度は私が休暇を大使館で過ごすようになり、楽しさがよみがえった。

それだけではない。
私がハイスクールを卒業して一足お先に日本へ帰って来ると、私の父が貞明皇后から内密の御依頼を受け、勢津子さんを秩父宮妃に迎える実質的なお仲人役を仰せつかった。
父は何度も辞退したようだが、許しては下さらなかった。
周知の通り会津の松平さんは容保の後裔で、明治維新の際には新政府と戦わざるを得なかった悲劇の大名である。
いわゆる戊辰の役では私の祖父たちは敵方で、鶴ヶ城を攻め落とした張本人であった。
中でも松平恒雄氏は会津魂の権化のような人物で、華族になることも快しとせず一生平民で押し通した殿様であった。
そのような人物が喜んでお姫様を妃殿下に差し出すはずはない。
私の父がお仲人役を遠慮したのも、松平さんの性格をよく承知していたからだろう。

案の定、その役目は失敗に終わった。
松平夫妻がお受けしなかっただけでなく、
勢津子さん自身も「そのような重任には堪えられない。どなたか適当な方を」と辞退されたのである。
父はいったん帰国して報告に及んだが、貞明皇后の勢津子さんに対する御執心は並々ならぬもので、
再度のワシントン行きを強要され、父もお引き受けせざるを得なかった。
その時はワシントンに3日滞在し、帰国した時の父は疲労困憊していた。
「セッちゃんの頑固さにはほとほと参ったよ。三日三晩くどいてやっとウンと言わせた」
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秩父宮妃◆うちの宮様は陸軍の幼年学校から士官学校に上がって、任官遊ばすと責任を持つ。だから自分達は育ちが特別だから意気地がないと見られないよう、例えば山を越えて行くんでも必要以上にお頑張りになるわけですね。
実際は御身体が伴わないのに、お頑張りがきく間はお頑張りになったもんだから、秩父宮はそれがオーバーになっておしまいになった。
少々の熱などは無視されるようになったことも確かです。
高松宮妃◆うちの宮様は皇族という御仕事と軍人の仕事と両立させていらして大変でいらしたと思うわ。
特に秩父宮が御病気でいらしたし、皇族としての御立場での御相談相手でもいらした。
秩父宮妃◆うちの宮様はそちら様を一番お頼りでいらした。
早くから御殿場で御安静に専一の御生活ですもの。
ちょうど悪い時に外国にいらしたものですから。
肺炎が流行っていたんです。
向こうで肺炎のとても重いのにおかかりになって、私がまたその後すぐそれをいただいてしまいました。
私も御一緒に葉山でせめて冬のひと月だけでも御静養いただきたいとお医者様から言われたんですけど、その頃はもう戦争戦争という状況だしそれどころではなかった。
一応お治りになってからもお咳はまだ出ておりました。
本当に泣きたくなるほどこっちの知識が足りないのと、今ここが大事だということを何も知らないから、秩父宮がよくお頑張りになられるから大したことないだろうと。
そういう無理をずっと続けていらっしゃったのが悔やまれます。
昭和両陛下ともわざわざ御殿場においでいただきましたし、貞明皇后もたびたびお越しいただきました。
高松宮は高松宮妃と何回もおいでいただきました。
高松宮妃◆終戦日に伺いましたよね。
秩父宮妃◆当日ね。
あの時はお風邪を召していられたので、いったいどういうことになるか不安でした。
昭和天皇の初めての御放送で、こんな悲しい、終戦と言っているけど敗戦ですから。
本当に思いもかけない出来事で、しかも初めて御放送遊ばすから、御兄弟として心配していらっしゃるわけ。
お耐えになれるどうか、それからみんながちゃんとわかるかどうか。
そこへ高松宮が高松妃と御一緒に、お忙しいのにわざわざいらしてくださいました。
お知らせのあった時は、よくぞと嬉しく感激いたしました。
お兄様とご一緒に御放送を伺おうとお思いになったからでしょう。
やっぱり御兄弟で一緒にお育ちになったお兄様がはたしてうまく放送おできになるかどうか、お兄様の気持ちもお辛かろうから、せめてご一緒に聞こうというお気持ちなのね。
高松宮妃◆昭和天皇の放送を四人で御一緒に伺いました。
秩父宮妃◆四人で伺ったのね、涙ばかり。
高松宮はすぐ御用で飛んでお帰りになった。
私はお昼の代わりに何か差し上げなければといっても、あの時代ですからお米とか玉子とか鶏とか飼ったり作ったり全部自給自足していましたから、お粗末な食事でしたけどそれを召し上がっていただいてお立ちになった。

高松宮妃◆お姉様のところへはよく遊びにうかがったわね。
秩父宮妃◆よくいらしていただいた。
ローラースケートもやったしね(笑)
高松宮妃◆そうなのよ。
屋根裏ってとこがあるの。
こちらの三階にね。
秩父宮妃◆三階の屋根裏の板の間でローラースケートの御稽古したんです。
高松宮妃◆ゴロゴロやるのよね。
お兄様がお留守の間に。
お兄様は軍務でしょ。

高松宮妃◆そう言えばお姉様と御一緒に那須にお泊まりに参りましたね。
秩父宮妃◆那須の御用邸には付属邸というのが別におありになって、そこはかなり遠いのね。
高松宮妃◆全然離れているのね。
その付属邸にお姉様と二人でお泊まりして、夜中じゅうおしゃべりしました。
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三笠宮寛仁親王 2008年

秩父伯父様は人の反対があってもお聞き入れにならない豪胆なタイプの方で、ヨーロッパの山登りやスキーなど何にでも挑戦なさったそうです。
秩父伯母様からも、「寛ちゃんは秩父宮様の生まれ変わりみたいだ」と可愛がっていただきました。
よく、「もし秩父宮様が御元気だったら、寛ちゃんと話が合っただろうに」と仰いました。
秩父伯母様は皇族の中で最も英語がお得意で、社交的で素敵な方でした。
日英協会の初代総裁は秩父伯父様、二代目総裁が秩父伯母様、私がいま三代目を継いでいます。
私は秩父伯父様に憧れてオックスフォードに留学したり、スキーやボートの選手になったぐらいですから、尻ぬぐいは甥っ子がやらねばと受けることにしました。
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