◆秩父宮雍仁親王(淳宮雍仁親王)123代大正天皇の二男
1902-1953 50歳没
■学習院初等科で選ばれた御学友は13名
放課後は二名一組が月水金組と火木土組になり一日交代で参殿した
小笠原長英
奥田成孝
近衛忠麿
佐竹義勝
三条実憲
千田貞栄
高辻正長
伊達定
千頭映臣
南部信英
丹羽氏郷
松浦治
毛利敬四郎
■学習院中等科で選ばれた御学友は11名
小笠原長英
奥田成孝
近衛忠麿
佐竹義勝
富永惣一
成田正彦
成瀬大児
芳賀信政
松浦治
毛利敬四郎
山根弘之
■学習院から陸軍幼年学校に連れて行かれた御学友3名
小笠原長英
芳賀信政
富永惣一
■陸軍幼年学校の御学友
長命健一
西村庚
松平定堯
■イギリス留学の随員 1925年05月24日~1927年01月17日
松平慶民 式部官
中村順一 侍医
岡崎清三郎 秩父宮付武官
前田利男 秩父宮事務官
渡辺八郎 秩父宮御用掛
武者小路公共 外務省
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小笠原長英 秩父宮の学習院時代の御学友
熱海御用邸は沼津と共に気候に恵まれ、冬でも遠足ができました。
東海道線を旧式な軽便鉄道で行きました。
ところがトロッコに屋根のついたような客車で、人が駆けるぐらいのノロノロ運転で、2~3時間かかったのではないかと思われる速度でした。
私はまるで外国へでも連れて行かれるような心細さに、ついシュンとした記憶がございます。
この時も秩父宮は景色を喜ばれながら、一人ではしゃいでおられましたよ。
私は秩父宮から「しっかりしろ」とずいぶんからかわれたものです。
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堀秀雄 高松宮の御学友
秩父宮は相撲がお強かった。
どうがんばっても負かされるばかり。
くやしかったが、歯が立たなかった。
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松浦治 秩父宮の御学友
雨の日に校庭に出られないと、秩父宮が「玉台の上で相撲を取ろう」とおっしゃる。
取ったとたん台の縁に脚を取られて床に叩きつけられた。
あんなに痛かったことはありません。
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閑院宮春仁王 戦後に閑院純仁と改名
秩父宮は「皇族は当然入校するのだから試験は無意味だ」と陸軍大学校の入学試験はお受けにならなかった。
私は秩父宮といささか見解を異にし、陸大学生として受験は全員が経験する一つの過程であるから、私といえども入校する以上は、形式的でもいいからこの過程を踏むべきであると考えた。
試験の結果はむろん落第点であったろうと思うが、入校した。
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三笠宮崇仁親王
実は秩父宮は海軍志望だった。
そして高松宮は陸軍を志望していたんです。
ところがそのころは陸軍の方が力関係が強かったせいもあって、最初の皇族は陸軍に次の皇族は海軍へということになったんです。
高松宮は実は船に弱かったんですよ。
おそらく海上勤務ではずいぶん苦労したと思います。
私の番になるとどっちでもいいと。
私はそのころ乗馬に熱中してましたので陸軍を選んだわけです。
ただ問題は幼年学校から入るか士官学校から入るかということでした。
幼年学校から入る人は中学1年か2年を終わって入る。
士官学校へ入る人は中学の4年か5年を終わって受ける。
秩父宮は幼年学校から入ったわけですが、貞明皇后はどうも秩父宮が幼年学校から入ったために一般的な常識とか教養を身につける時間が少なかったと思われたようです。
ですから私は学習院中等科4年を修了してから士官学校の予科に入りました。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人
秩父宮が木馬から本物の馬に初めてお乗りになった時に、ついていた別当がお乗せしようとすると秩父宮が怒って足で別当を蹴飛ばされたということを聞いたが、後に成年になられた秩父宮の闊達な御気質はその当時すでに芽生えていたのである。
当時三殿下〔昭和天皇・秩父宮・高松宮〕は毎週土曜日におそろいで大正両陛下に拝謁のため御参内されていたが、三殿下が奥に行かれると供奉の者には酒がふるまわれた。
いつもなら酒を楽しむ秩父宮の伝育官たちが酒に手もつけない。
東宮職の人ばかりが酒を飲んでいる。
変に思って聞いたところ、禁酒令が出たので飲めないのだと言う。
秩父宮が子供であるのにお酒が好きであったので、それは良くないから成年になられるまで御付の者が酒を慎めば自然秩父宮もお慎みになるだろうということで禁酒令となったというのであった。
秩父宮の酒好きは成年になられてからも相変わらずで、宮中で皇族方の宴会がある時など他の皇族方がお帰りになっても、秩父宮一人いつまでも遅くまで飲んでおられて、女官の部屋まで行って騒いでおいでになったことを今でも思い出す。
当時警視庁では秩父宮のお帰りが遅いので、警備の関係もありいつもお帰りの時間を問い合せてきたものであるが、秩父宮はいつもこっそり裏伝いにお帰りになってしまわれた。
当時宮内次官だった関屋貞三郎が御殿に御機嫌伺いに上った。
やがて秩父宮が大礼服をお召しになって出てこられた。
関屋はお節介で細かなことに気のつく口やかましい人であったが、見ると秩父宮の勲章の副章が反対についている。
そこで関屋は副章の位置が反対であると御注意を申し上げた。
ところが秩父宮は非常に腹立たし気に、
「いったいお前は何をしにここに来たのか!」と言われたので、
関屋が「御機嫌を伺いに参りました」とお答えすると、
秩父宮は「それなら用が済んだらすぐ帰ればよいではないか。なぜ自分に注意する必要があるのか。自分にはちゃんと伝育官長がついている。言いたいことがあるなら伝育官長に伝えればよいではないか!」とますます威丈高になられるので、関屋はほうほうの態で退き下がった。
当時宮家の御結婚には興信所を通して調査される慣わしがあったが、興信所の調査員が私の家に松平勢津子姫について調べに来た時、他にも6~7人候補者があるのでと知らせてくれた。
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岡部長章『回想記』昭和天皇の侍従
私の受けた印象では、昭和天皇の悩みの種は主として陸軍だったようです。
侍従武官長の宇佐美中将が御前に出ている時に、昭和天皇がちょっと激しい調子で御話になるのを耳にしてしまったことがありました。
二二六事件の時の武官長は本庄繁大将で私が3月20日に侍従になって三日間ほどで退官、宇佐美興屋中将が新たに就任したのです。
宇佐美さんが拝謁している時に、「壬申の乱のようなことになる」という意味の事を大声で申されたのが聞こえました。
秩父宮を担ごうとする陸軍の運動があったと仄聞していたので、それに関連することだなと思いました。
秩父宮が多少激しい御性質の方だということは私も心得ていました。
それをまた陸軍の青年将校が担ごうとするのです。
おそらく宇佐美武官長は昭和天皇に対して、秩父宮の意見もいろいろ聞いてほしいと言ったのではないでしょうか。
それで昭和天皇が壬申の乱というような例を持ち出されたのだと思います。
ところが宇佐美武官長は「はあ」とか言って、壬申の乱が何なのかわからない様子でした。
秩父宮のようなお直宮が昭和天皇に会われるのは奥の方になります。
当時秩父宮は陸軍の佐官でしたから、御兄弟として来られるだけで軍事上の奏上はできません。
陸軍では皇族を金枝玉葉の御身分などと言いますが、それも昭和天皇にとってはプライベートな関係だけになります。
朝香宮が陸軍内のことに触れ、叱られて退出されたこともあります。
階級は大将でも軍事参事官で、上奏する立場ではなかったのです。
昭和天皇はそうした公私の別を固くお守りになりました。
陸軍の過激な将校は、この点の認識が足りません。
勝手に思い入れをしていたのです。
高松宮に対しても細川護貞君が懸命にネジを巻いたようですが、高松宮はそれを受け入れず、秩父宮・高松宮とも、この点ははっきりと身を処せられました。
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陸軍大尉寺倉小四郎 秩父宮御付武官
菅波三郎や安藤輝三が秩父宮にお目にかかって種々言上しても、このような場合秩父宮は決して御自身の御意見を言われない。
これはいつの場合でもそうである。
それが当時の皇族方の置かれた立場だったのである。
このことが秩父宮が実に聞き上手な御方だと自然に言われるようになった原因の一つである。
しかし時にはこのことが相手に対して、言上した意見に秩父宮が同意くだされたと錯覚を起こさせる原因となったことも否定できない。
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梨木止女子→坂東長康の妻坂東登女子 明治天皇・大正天皇に仕えた女官〈椿の局〉
大正天皇は昔からの明治天皇の仰せになるような言葉で仰せになった。
昭和天皇はいくらか大正天皇にお似ましのようですね。
秩父宮は下方にお成り遊ばしてるので、兵隊の中で揉まれてござるわね。
一般の人にふさわしいような、近いような御言葉ですわね。
今の明仁皇太子〔平成天皇〕は余計もう、さばけておいでになる。
それにお付きしてる人がみんなそんな粗雑な言葉を使うので。
秩父宮は大西さんという人と幼年学校が一緒で、その人が一番だもんで、それに勝とうと思って一生懸命御勉強遊ばした時に、おつむ〔頭髪〕真っ白になりましたよ。
「秩父宮、どう遊ばしたんでやんすか、そのおつむさん」って言ったら、
「大西に勝とうと思って一生懸命やったのよ」とおっしゃって、神経衰弱っていうのですかね、おつむが真っ白い。
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奈良晃 陸軍大学校 戦術教官
秩父宮の御成績は、陸大初期には全体的に見て悪い方であった。
残念ながら陸軍の俊英たちとは比肩するべくもなかった。
教官の立場から秩父宮の御成績を見ると、第一学年当初は最下位に近く、中期には中位の下ぐらいで、末期はようやく中位であった。
第二学年中期になると、上位から1/3くらいの御成績で、末期になって上位から1/6くらいのところに上昇し、第三学年になると五指の中に入るような成績となられた。
陸大成績は戦術が群を抜く最重要科目で、学生の成績の序列は90パーセント以上が戦術の成績で決定するようになっていた。
もし秩父宮が一般学生であったならば、当然恩賜組であることは間違いのない事実である。
秩父宮は「戦術の研究は私の性分に合っているとみえ、面白いと思ってやっております」としみじみと漏らされた。
なるほど、戦術は究極のところどうしたら敵に勝てるかということのみを探求する学術であるから、秩父宮のようにひとしお御気性の強い御方には、その研究が気質にかない面白いと感じられるのも当然のことで、裏返せば秩父宮がいかに負けず嫌いであられたかの立証ともなろう。
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高橋柳太 主計大尉※当時は調査班
日本は武力闘争を満州事変で一応打ち切り、今後は少なくとも15年間は決して戦争をしてはならない。
その間に新しい時代に備えるため、日本の国力の画期的発展と拡充を期し、超近代的軍備への改編を行わなければならない。
そのためには当面、まず日華親和・対ソ防衛の完備・満州国の完成・航空機工業の拡充・科学および技術の創造および画期的進歩向上等に挙国全力を尽くすべきである。
好むと好まざるとにかかわらず、人類文明は一大飛躍を来たし、科学と文明の飛躍による昭和維新は必ず実現する。
という意味のことを、石原莞爾は秩父宮に強調された。
この思想に秩父宮は心から共鳴されていた。
それゆえ当時一般からは突飛もないこと、狂気じみたこと、誇大妄想的な考えとされていたこの構想を一つ一つ成功させたいものと、秩父宮を中心に課内一同情熱を傾けていた。
秩父宮が特に熱意を示されたのが、科学技術の発展と産業の拡充であった。
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『秩父宮雍仁親王』秩父宮を偲ぶ会
秩父宮は御食事にさほど好き嫌いはなかったが、どういうわけか牛乳だけは苦手であった。
ある日 東宮と秩父宮が鬼ごっこの遊びをされている時、御二方はつい廊下の障子をやぶってしまった。
侍女が「室内のお遊びにしては少し乱暴でございます。障子を破くなどなされてよろしいのでございますか」と御注意すると、
東宮は「いけないことだ」と恥ずかしそうにされたが、
秩父宮は侍女を睨みつけたかと思うと、「えいっ!」とさらに大きく障子を破ってしまった。
秩父宮は学習院初等科に入学されて間もなく、
「図画・手工・体操・唱歌は好きだが、あとは嫌いだ」と言われた。
秩父宮は本を読むことがお好きだったし、教えられた漢字は次々に覚えられていった。
特にお嫌いだったのが作文と算術だった。
しかし、中等部では数学とフランス語が秀抜な成績になった。
1909年両国に国技館が完成、秩父宮は初めて相撲を御覧になってすっかりお好きになった。
翌日秩父宮は学習院から帰られると、カバンを廊下に置かれたまま、御学友たちを集めて相撲を始められた。
時には侍女たちをつかまえてパッと足をかけると、侍女たちはストンと倒れる。
侍女たちの隙を見ては不意に足をかけたりするので、侍女たちはときおりこの被害を受けた。
秩父宮はいつの間にか青大将を捕まえて鳥籠に飼っておられた。
秩父宮は傅育官や侍女たちをつかまえては、「蛇は好きか?」と聞かれる。
好きだと言えば、「では面倒を見てやれ」ということになる。
嫌いだと言えば、蛇を籠から出して手にぶらさげてこられる。
皆はこれに大いに悩まされ、好きとも嫌いとも言えず黙って逃げてしまうのであった。
1913年は明治天皇の崩御で喪が明けず、新年の儀式は行われなかった。
この年の沼津の冬は寒く肌の弱い秩父宮は耳を凍傷に冒されたりしたので、もっぱら室内で遊んだり勉強されたりしていた。
元来秩父宮は御幼年時代から、寒中でも手袋のようなものを使用されない習慣であった。
その理由は不明であるが、時にはスキーなどの場合にも使用されなかった。
1916年正月、御祝御膳につかれた秩父宮は、例年祝酒として出される雉酒がないのに気づかれた。
これは侍医たちが協議の結果、御酒の害がなにか禍いするようなことがあってはと、本年から秩父宮には御酒をやめにしていただくことになっていた。
秩父宮は俄然お怒りになった。
「雉酒はめでたい儀式の時に祝酒として飲むものなのに、どうして出さんのか」
侍女たちは秩父宮のお怒りの御様子にビックリし、傅育官たちはその理由を説明したが、筋の通らないことをやった傅育官たちではおさまりがつかなくなった。
そのうち報告を受けて急遽参殿した丸尾傅育官長が、
「お怒りはごもっとものことでございますが、侍医が心配を致しておりますので、どうかこれで御辛抱をいただきたいと存じます。その代り私も今日から決して御酒をいただきません」と申し上げてお許しを願った。
秩父宮は丸尾傅育官長の酒好きをよく御存知であったので、
「未成年の間は仕方があるまい」とお許しになった。
たとえ宮中のしきたりがどうであろうと、自分を血の通った人間として納得のいく処置を取らない限り、お前たちが何と言ってもその通りにはならないぞ、自分は人形ではないのだ。
これが秩父宮の信念であり人生観であったと申し上げたらよかろう。
まさに皇族中の反逆児である。
別室では傅育官・御用掛・旧奉仕者たちとの間で次のような会話が続いた。
「雉酒の件ですがね、あれほど厳しいとは思いませんでした」
「このごろの秩父宮は我々の手に負えないようになってきましたな」
「お四つの頃からなかなかきかない御方だったよ」
「僕の時は反抗期だったから、困ったこともずいぶんありましたよ」
「裕仁皇太子とは御気性がまるで違いますからね」
「まるで織田信長ですな」
陸軍幼年学校教官嘉悦基猪は、同郷の友石原莞爾の訪問を受けた。
話は秩父宮の御教育方針に及び、石原から
「君は秩父宮の御教育に直接携わる者としてその責任は重い。しかし私は今のような学校当局の指導・教育には疑問を感ずる。秩父宮は一般生徒と同じように何でもできなければならないということは必要ではないと思う。秩父宮は皇族としての御任務があるのだから、将校のことはひと通り御承知になっているだけで良いと思う。秩父宮本来の御任務はそんな末葉的なものではないはずだ」と言われて、嘉悦は深く考えるところがあった。
後年秩父宮の御発病の第一の遠因は、この陸軍幼年学校時代にあるのではないかというのが一致した見解である。
ちなみに学習院から秩父宮と共に陸軍幼年学校に入学した御学友8名のうち、陸士を卒業したのはわずか2名であった。
その他は病気等の理由で脱落してしまったわけである。
陸軍幼年学校の教育が一般学校に比して厳しいものであったことは、当時世間でも定説となっていたのである。
秩父宮が入学された陸軍士官学校の第34期生は、陸軍幼年学校から300名・一般中学からの合格者180名の480名であった。
しかし、実際に卒業できたのは365名であった。
1922年7月21日 陸軍士官学校卒業式の一週間前、秩父宮は同じ区隊の宮本進の依頼で西田税らとの会合を御承諾された。
西田が駆けつけると、すでに宮本・福永憲・平野勣・潮の4人が秩父宮を中心に静かに語り合っていた。
西田は「青年アジア連盟」の由来、「猶存社」との提携、内外の政治情勢を言上し、最後に彼らが秘かに計画しつつあった「天剣党」の目的について御説明した。
西田は会談が終ると、福永が浄書した『日本改造法案大綱』と『支那革命外史』を秩父宮に献上した。
筧克彦は貞明皇后の御召を受けて沼津御用邸に参上し、前後8回にわたって秩父宮に御進講し、その御筆記が後年節子皇太后職蔵版『神ながらの道』となって、全国主要神社へ配布せられたのである。
1928年12月24日、秩父宮は陸軍大学校に御入学になった。
時の陸軍大学校長は荒木貞夫。
荒木は来たる陸軍定期異動では、参謀次長か師団長が約束されていることを聞かされていた。
ところが満州に転任していた石原莞爾が突然荒木校長を訪ね、歯に衣着せぬ露骨な口調で、
「秩父宮の御教育は日本のため重大な任務であるから、御卒業まで必ず校長の椅子に留まるように」と強く要請して帰った。
荒木は「秩父宮は皇族の筆頭として徳の御養成が第一で、他の生徒とは自ら同一ではない。したがって、第一学年度には一般学生との同一作業で、秩父宮への真の御教育は第二学年度より始めよう」としたのであったが、翌年1928年の人事異動で荒木は熊本の第六師団に転出となったため、荒木の計画はむなしく中断した。
陸大生は優秀な頭脳が要求されることはもちろんであるが、体力も健康に自信のある頑強な者でなければとても務まらない。
いかに頑健な体力を誇る青年将校でも、平均週に二回が徹夜では次第に睡眠不足となるのは明らかであった。
ゆえに陸大入学時の健康診断は綿密厳格を極めたものであった。
陸大では何かとヤセ我慢をして、冬は夏服・夏は冬服で通す反骨的な気風が芽生え、秩父宮まで同調された。
秩父宮の御健康を案じた宮内省から内密に陸大に申し入れがあった。
それは秩父宮の御勉強についてもう少し緩和できないものだろうかという申し入れがあったが、陸大側が拒否した。
そんなことをすれば秩父宮のお怒りが目に見えているからであった。
陸大における秩父宮の御勉強ぶりは凄まじかったの一言に尽きる。
講義の後 教官に質問することも秩父宮が最も多かったし、教官と長時間にわたって白熱の論争をされることもしばしばであった。
教官への質問、学生との論争はすべて御納得の行くまで追及されて、相手が困ることも見受けられ、教官が来るのを待っている間に学生たちとの戦術の論争に夢中のあまり、教官が入って来たのに気づかなかったこともあった。
秩父宮のお手回りの品々は万年筆・時計等すべて国産品であった。
秩父宮がつとめて国産品を愛用された話は枚挙にいとまないが、陸大生は地図に何かと色鉛筆で書き込むので、いわば必需品の筆頭である。
国産品の色鉛筆は枯れて色のつきが悪いので、陸大生の多くはドイツ製の色鉛筆を使用した。
しかし秩父宮はその色鉛筆すら輸入品であるとして使用されず、卒業するまで国産品を愛用されたのである。
しかし一つだけ例外があった。
それは煙草である。
愛煙家の秩父宮はエジプト煙草を好まれ、後にウエストミンスターになる。
秩父宮は御付武官を授業中の講堂に入れなかったが、現地戦術の随行まで許されないのには困った。
現地戦術の場合未知の山野を踏破するのであるから、どうしても危険が伴う。
本間にしてみれば職責上秩父宮に単身で行動され万一御怪我でもされたらと考えると、随行を許されないからといってそれで済むものではない。
そこで本間は秩父宮から何と言われても気づかれぬように後をついて行くのであるが、血気盛んな秩父宮は本間をまいて行方不明になるのが御上手であった。
したがって秩父宮と本間御付武官との間には大人の鬼ごっこが日常茶飯事のように展開されたのであった。
教官や学生たちは山中や雑木林に隠れてしまった秩父宮を見失って立往生している本間の悄然たる姿によく出会い、秘かに秩父宮の隠れた方向を教えながら疲れ切った本間御付武官の姿に同情したものであった。
秩父宮は校長・幹事の将官級には閣下、教官には教官殿、上級生には〈さん〉の敬称をつけられ、同期生のみ呼び捨てで、後輩は君で呼ばれた。
だが二名の御付武官に対してはまったく部下として扱われたので、生徒から見るとずいぶん奇異に見えたものだ。
御付武官は陸軍内においても優秀な人材が任命される。
生徒たちから見れば中隊長・区隊長よりも上官で、しかも大先輩の中佐と少佐である。
現地戦術のある日 同期生の菅井斌麿は、農家の縁側で一服されている秩父宮の軍服のズボンにほころびがあるのを発見した。
菅井は農家の人から針と糸を借りて来て、
「秩父宮殿下、うまくできませんが、ちょっと縫っておきましょう」と申し上げると、
秩父宮は「ありがとう。でも結構です。それをお借りしましょう」と言って菅井から針と糸を借りると、農家の庭の隅にいた本間御付武官のところへ行かれ、本間御付武官にほころびを縫わせた。
菅井は学生から見れば大先輩の本間中佐になにもズボンの繕いをさせなくともと思った。
秩父宮は陸大第二学年の1930年5月、満州戦史視察旅行に出発した。
視察団一行が水師営南方の高地へ到着すると、石原莞爾が熱弁をふるった。
その内容は学生に対する講話としては稀に見る格調の高いもので、満州見学旅行に来る女生徒たちが先人の苦闘に涙を流すような感傷的なものであってはならないとして、当時の日本の満蒙政策についての批判抱負を堂々と熱烈な口調で述べた。
この講話は学生に一大感銘を与えたが、石原参謀の目的は秩父宮にあったのだ。
満蒙通の石原参謀が年来の抱負を直宮の前で堂々と述べる機会は容易には得られなかった。
石原参謀にとっても一世一代の熱弁であったわけだ。
講話の最中秩父宮は、そうか、そうかという御表情で聴いておられた。
石原参謀の熱弁は、秩父宮の御胸中にどのような影響を与えたのであろうか。
秩父宮が陸軍大学校を卒業されて歩兵第三連隊に帰隊されたのは、1931年11月28日であった。
暮れも押し迫ったある日の夕刻、安藤輝三は強引に同志菅波三郎を伴い、兵舎の地下道を利用して第六中隊室の秩父宮を訪問した。
秩父宮が菅波に会われたのはこの時が初めてである。
菅波はロシア革命におけるロマノフ王朝没落の原因などを簡略に申し上げ、平素の勉強ぶりを披瀝した。
このあいだ安藤は、秩父宮の菅波に対する第一印象は決して悪くなかったことを感じ取ったようである。
翌年1932年3月勃発した上海事変で出征するまでの約2カ月の間に、菅波は安藤と共に三度秩父宮にお目にかかった。
1932年新春、菅波は西田税の家を訪問した。
西田は紫の袱紗に包んだ一通の奉書を菅波に渡して、秘かに秩父宮へ献上してくれるようにと依頼した。
これはいわゆる建白書の類で、菅波が一読すると君側の奸を除く必要を説いたもので、特に目新しい内容のものではなかった。
しかし西田はこれを菅波から秩父宮へ献上し、さらに秩父宮から昭和天皇に献上願いたいと言うのであった。
翌朝菅波は出勤すると安藤に西田からの依頼を話した。
じっと考え込んでいた安藤は「秩父宮ならば万一にも心配はない。秩父宮がどう処理されるかはわからないが、いったん秩父宮の御手に渡れば他に漏れるようなことは決してない。その点秩父宮は絶対に信用できる御方だ」と、ただちに秩父宮の御都合を伺い、菅波を伴って第六中隊長室を訪れた。
秩父宮は「よし、預かろう。だが処置は私に任せてもらう」と受領された。
秩父宮は「明日宮中に参内の予定になっているから」と言われ、また「西田はその後どうしておるのか。元気で過ごしておるか」と親しくお尋ねになった。
菅波三郎は「私は歩三で秩父宮にお目にかかった時、僭越にもいろいろなことを言上した。私は秩父宮に我々の考えていることをわかっていただきたかったのだ。直宮であられた秩父宮を利用しようとか何かお願いしようなどという気持ちは、はじめからまったく持たなかった。例外は西田から依頼された件だけである。我々は昭和天皇の大御心に添うことのできる革命がやりたかった。結局二二六事件で私の願望はついえ去ったが、我々の革新運動について秩父宮はある程度御存知であったことと思う。秩父宮は話せばわかる御方であった。おそらく安藤輝三も同じだったと思う」と語っている。
秩父宮の対人関係に差別感を持たれない御性格は最も人間的な面であるが、また同時に多くの誤解を招く原因になったことを、果たして秩父宮はお気づきであったろうか。
1931年9月に勃発した満州事変が拡大して11月に第二師団がチチハルを占領した直後、秘かに帰国した石原莞爾が秩父宮の御召を受け秩父宮御殿に参上したことがあった。
この時 秩父宮は陸大を卒業され、歩兵第三連隊第六中隊長に就任された直後であった。
秩父宮御殿の応接室において御付武官寺崎小四郎が侍立のうえ、秩父宮は石原を御引見になった。
秩父宮の御下問に対して石原は、満州事変勃発の原因についてはさすがに自分の計画によるものであるとは言上できなかったが、その他についてはおおむね真相に近い状況を言上した。
秩父宮が特に指摘されたのは、満州事変が国際連盟から日本の侵略行為と烙印を押されることを憂えられたのである。
しかし石原は満州事変は起こるべくして起こったものとして、自己の主張である東亜連盟論から、満州を世界の理想郷にしたいものと抱負を語った。
1931年秋に昭和天皇御統監の陸軍特別大演習が行われた。
この演習中に参謀総長金谷範三が満州事変に対して航空機の増派理由を上奏し昭和天皇の御裁可をいただいたのであるが、関東軍のチチハル進出もこの時点では東京で陸軍大臣南次郎の提案にもかかわらず、他の閣僚の反対にあった。
この報告を受けられていた昭和天皇は、参謀本部が委任命令権を利用してチチハル進出をするのではないかと侍従武官長奈良武次にただされたのである。
昭和天皇の御下問に委任命令権の危険性と重大性を痛感した奈良は、上奏当夜参謀本部に対して昭和天皇の御心配された点を打電しておいたにもかかわらず、出動は行われてしまった。
参謀本部は航空機の国外増派についてだけ昭和天皇の御允裁を求めて、チチハル進出は匪賊の頭目馬占山の攻撃に余儀なくされたものとして委任命令権のもとずいて出動してしまったのである。
もっとも東京では、南陸相がチチハル進出は馬占山の勢力を駆逐した後は必ず撤退するという条件付きで閣議の承認を取ることができたから、陸軍中央部では委任命令権の乱用にはならないとしたのである。
だが、昭和天皇の御意向を無視した結果になったことは否定できない。
秩父宮は御下問の最後に、以上の点を石原にただされた。
さすがの石原もこれには弱った。
チチハル進出は北満に権益を擁するソ連と不祥事件を勃発させる危険があった。
昭和天皇の御心配もこれであった。
事実関東軍はソ連軍が越境して攻撃をしかけてきた場合、これを叩く覚悟があったのである。
結局軍中央の方針に従い、石原はチチハル撤兵を誓って、この問題は秩父宮の御諒承をいただいた。
秩父宮が石原莞爾と長時間にわたって会談されたのはこの時が初めてである。
石原は持論である東亜連盟思想の中で、中国の国民政府の基礎が脆弱な間は日本が代って満州の治安維持・経済向上に努力し、満州の繫栄によって国民政府の提携を誘い、日中協力して東洋の安定をはかることが対ソ防衛に対する最大の決め手であることを強調した。
石原は秩父宮に対して、満州を領有するとか独立とは決して言わなかった。
この会談で特筆しておきたいことは、秩父宮が石原莞爾という人物の一面を高く評価されたこと、石原が秩父宮に対して秘かに抱いてきた期待を再認識したことであった。
参謀本部第二部ロシア班に勤務していた大越兼二のところへ、第一部作戦課に勤務されていた陸大同期の秩父宮が御姿をお見せになった。
「大越、多田のパンフレットを読んだか」とお尋ねになった。
これは当時陸軍省調査班にいた多田督知大将が書いたもので、
「古代日本の戦いはまつろわぬもの即ち祭り合わぬもの、理想を等しくせぬものを祭り合せるのを目的としていた」ということを取り上げて、これからの日本の戦いがいかにあらねばならぬかを論じたものであった。
もちろん内容を熟知していた大越は、
「しかし、内容が少し神がかりのように思いますが」と申し上げると、
「内容の表現はともかくとして、根本原理はあれでなくてはならないと思う」と、秩父宮は断固たる口調で言われた。
大越は「秩父宮は我々よりも常に二十歩も三十歩も前の方を歩いておられるのだ。新しいモラルの根本を打ち立て血で血を洗う混乱を克服してすべてを新しく立て直さなければならぬ変革の時代にあっては、氏族国家から古代王朝国家への改革期における天武天皇のごとき変革時代の民族のバックボーンが必要なのである」と理解した。
大越はその時から秩父宮をそのような時代の民族のバックボーンと仰ぎ続けてきたと語っている。
惜しむらくは、歩三・陸大を通して広く若い将校から景仰された秩父宮が、あれだけ彼らの手の届く近い存在にありながら、その実体を掴んでおられなかったことであり、二二六事件のような大規模な不祥事件が勃発することをまったく予期されていなかったことであろう。
1936年2月26日、第一師団管区の青年将校が1,483名の将兵を率いて蜂起し、四日間にわたる昭和維新工作を開始した。(二二六事件)
弘前第八師団にいた秩父宮は2月26日午前7時頃、東京の高松宮から電話で事件を知らされた。
しかし秩父宮はいつものように御出勤、午前8時40分に連隊に到着され、連隊馬場において日課である乗馬の練習をされていた。
午前8時50分 連隊長倉茂周蔵が馬場によって秩父宮に朝の御挨拶をすると、
秩父宮は「連隊長殿は東京の事件を御存知ですか」とお尋ねになった。
秩父宮の御表情が普段と少しもお変りがないので、倉茂連隊長は事件と言われても見当がつかなかった。
すると秩父宮は「実は今朝東京の弟のところから電話で知らせて来たのだが、第一師団の将兵が重臣を襲撃したらしい。詳細は不明だが、相当な兵力が出動した模様です」と伝えた。
驚いたのは倉茂連隊長である。
「秩父宮、ただちに御上京の必要はございませんか」と言上すると、
「東京の様子が心配ですが、私には大隊長としての任務がありますから上京はいたしません」と、秩父宮に動揺の色は見えない。
だが、倉茂連隊長はそうはいかない。
倉茂連隊長が約1キロ離れた師団司令部に到着したのは午前10時頃である。
ただちに下元師団長に面会すると、すでに旅団長飯野庄三郎・師団参謀長高木義人らが来ていた。
師団首脳も事件勃発の報を受けて沈痛な表情で協議していた。
倉茂連隊長が秩父宮御上京の件を進言すると、下元師団長は、
「このような事件が発生した以上、秩父宮に御上京願うより仕方があるまい」と重々しい口調で言った。
しかし倉茂連隊長が秩父宮の御意向を報告すると、「では、私から直接秩父宮にお願いする」と決意を示した。
倉茂連隊長は師団・旅団首脳部と協議して連隊に帰ったが、この日数回にわたって司令部・連隊間を往復している。
午後になって倉茂連隊長は師団司令部から連隊に帰ると、下元師団長が御上京を希望している旨を秩父宮にお伝えしたが、秩父宮ははやり大隊長の任務を理由にその意志のないことを漏らされている。
師団長が秩父宮御上京を希望しているという報が流れると、青森の第五連隊から秩父宮をお迎えに来るという流言が伝わり、連隊将兵は騒然となった。
「第五連隊から秩父宮をお守りしなければならない」という声が期せずして上がった。
秩父宮は定刻になって帰邸されたが、依然として平常のままであられた。
下元師団長と高木参謀長が秩父宮を訪問し、御上京を進言した。
下元師団長は陸軍省・宮内省と打ち合せの結果、二週間の休暇を申し上げて御上京をお勧めした。
下元師団長の秩父宮への進言は、言い換えれば師団長命令と同じである。
秩父宮が拒否される理由もない。
しかも師団長自らが陸軍省と宮内省の諒解を得ているとあらば、秩父宮も御上京しないわけにはいかない。
かくて秩父宮は御上京を決意された。
早くもこのことが歩兵第31連隊の将校に知れ渡った。
多くの流言が巷に乱れ飛んで、弘前市内は「歩兵第五連隊が秩父宮を擁して上京のため弘前に来る」という噂に騒然となった。
これでは第31連隊の将兵が黙っていない。
逆に「我々が秩父宮の御供をする」といきり立つのを、倉茂連隊長は断固としてこれを制した。
「秩父宮がいったん外へ出られた場合、その御身辺については国家の責任であるから連隊にはその責任なく、一つ間違えばかえって大きな疑惑を招くことにもなりかねない。連隊は平素のように勤務に励むことを要望する」
松本徹は2月27日に秩父宮が弘前から御上京した際、上野駅でお迎えした一人である。
松本は秩父宮邸に出入りのあった者で、妻の実家は被害者の一人である斉藤実の向かいであった。
秩父宮が真っ先に松本にお尋ねになったことは、国民は今度の事件をどう見ているかということであった。
松本は前夜山王ホテル付近において、叛乱将校の街頭演説を聞いた。
「このたび秩父宮が御上京になったので、いよいよ我々の指導者として戴くことになった。したがって、昭和維新の成功はすでに迫っている」と言うのに対し、黒山の大衆は熱烈な拍手を送っていた。
もちろん松本はこの演説の内容が新聞紙上に掲載されないことは承知していたが、国民大衆の面前で行われたことだけに、すでに巷の流言は秩父宮を二二六事件の黒幕的存在として乱れ飛んでいた。
菅波三郎によって高まった革新熱を、秩父宮が御存知ないはずない。
いずれはどこかの青年将校が何かことを起すであろうということは予想されていたに違いない。
秩父宮が歩三御在任時代に安藤に対してなぜ断固たる見解を示されなかったかという疑問と、彼らの運動を過小評価されていたきらいが見られることは否定できない。
1936年12月1日、秩父宮は再び参謀本部第一部に転補された。
今度の任務は新設された戦争指導課であった。
秩父宮の直属の上司は石原莞爾だった。
思えば石原はこの日の来るのをどれほど待ちわびていたことか。
石原にとって二十数年前から秘かに抱いていた秩父宮への期待と戦争指導課の新設は、石原の主張する東亜連盟思想実現への満州事変に次ぐ第二・第三の布石であった。
石原はその抱負構想を積極的に言上した。
秩父宮もまたこの石原の思想に共鳴するところが少なくなかったのである。
ただ運命な皮肉さは、秩父宮が四カ月後にイギリス国王ジョージ6世戴冠式に天皇御名代として渡欧され御留守中に日華事変が勃発して、不拡大派であった石原自身が拡大派に敗れて転出させられたのである。
1937年3月18日秩父宮夫妻は天皇御名代としてイギリス国王ジョージ6世戴冠式に御参列のため横浜港を出発された。
秩父宮はロンドンのホテルに滞在中、毎朝の運動に乗馬をされていた。
毎日御供を命ぜられていた辰巳武官が約束の10分前にホテルの前に行くと、いつものように乗馬学校校長が三頭の馬を連れて到着していた。
校長は「今日はひどい雨なので中止と思ったが、秩父宮から何の御沙汰もないので一応馬を連れて来ました」と報告した。
辰巳武官が部屋に行くと、すでに秩父宮は御乗馬の服装で待っておられた。
辰巳武官が「この雨にお召しになりますか」と口を滑らせた。
秩父宮はたちまち不快な御表情で、「せっかく馬が来ているのだから乗ろう」と言われた。
雨の中を颯爽とホテルの玄関から出てこられた秩父宮の御姿を見て、校長は意外な顔をした。
日頃はイギリスの紳士淑女たちが多数通るハイドパークの騎馬道も、この日は人影がなかった。
土砂降りの中をかつての陸大における乗馬練習そのままに、予定の時間を乗り続けた。
雨は下着を通り、長靴の中には雨水が溜まった。
辰巳武官はさすがに途中で中止するように申し上げたが、秩父宮は返事をされなかった。
一週間後秩父宮は風邪を召されて肺炎にかかられ、十日あまりも御病床につかれた。
そして予定されていた北欧への御旅行は一時中止となった。
辰巳武官は秘かに後悔したが、秩父宮の御性格から言っても予定を立てた以上、よほどのことがない限り予定変更はされない。
いわんや雨くらいでは、いかに辰巳武官が諫言申し上げても決行されたことであろう。
1937年5月12日ウエストミンスター寺院で、ジョージ6世の戴冠式が挙行された。
5月14日にはバッキンガム宮殿で大舞踏会が催された。
午後10時前から始まった絢爛豪華な舞踏会は深夜の2時頃まで続いた。
この会場で御多忙だったのは秩父宮妃であった。
英国王室・各貴族・政府高官・陸軍海軍将官から果ては各国代表からも踊りを望まれて、くつろがれる暇もなかった。
秩父宮は終始悠然と椅子にかけられて黙然と眺めておられたが、秩父宮はこういうことはあまりお好きではない。
御側にいた吉田茂大使がそっと申し上げても、とうとう一度も踊ろうとはされなかった。
やむを得ない場合のほか、御自分から進んでされるようなことはなかった。
戴冠式が終わってまもなく、御二方が御病気になった。
まず秩父宮が風邪を召され半月の御養生で快癒されると、今度は秩父宮妃が風邪を召された。
6月2日宮内省から研究のため出張を命ぜられてヨーロッパ各地を回っていた医学博士高橋信がベルリンに入ると、日本大使館で東京の百武侍従長から「秩父宮妃御病気ゆえただちにロンドンに急行せよ」という電報を受け取った。
高橋がただちにロンドンのホテルに伺候して秩父宮妃の御病状を拝診すると、すでに肺炎を起こされていた。
侍医中村順一・ロンドンの日本人医師加藤伝三郎が昼夜懸命の御看病を続けていた。
一カ月以上の関係者の献身的な努力の甲斐あって、秩父宮妃は7月10日頃には御快癒になった。
7月31日秩父宮御一行は、御二方のスイスでの御静養をかねてロンドンを御出発になった。
ところが7月7日には中国大陸の一角で思いもよらぬ大事件が勃発していた。
盧溝橋事件に始まる日華事変である。
8月4日オランダで、御二方が再びお揃いで発熱された。
約一週間で御二方は快方に向かわれたが、秩父宮は御病床でやはりヒトラーに会っておいた方がよいと考えておられたのである。
8月14日スイスのアルペンホテルに入られた。
スイスの御生活は静かであったが、世界は静かではなかった。
8月26日日本から二荒芳徳伯爵がベルンに到着した。
イギリスへの御帰途、ドイツにお立ち寄りになりヒトラーと会見、ニュルンベルクのナチス党大会に御出席されるよう、ドイツ側の希望を伝えてきたのである。
主席随員松平慶民はお迎えに来ていた外務省の天羽英二とこの問題について意見を交換した。
秩父宮のドイツ訪問に関しては、その国際的影響を検討しなければならない。
松平はイギリス直行を可としていたのであるが、秩父宮の断は会見を決定された。
第二次近衛内閣が成立する一カ月前に、不幸にも秩父宮は御病床に臥される身となられたのであった。
1940年11月11日宮城前で紀元二千六百年記念式典が挙行されたが、秩父宮に代って秩父宮妃が御参列になった。
参列者の中には秩父宮の御姿が見えぬのに不審を抱いた者もあった。
この頃からようやく秩父宮の御異例の噂が国民の間に秘かに囁かれるようになった。
1941年6月7日節子皇太后が御見舞されたのを機に、秩父宮家で御病状を発表することになった。
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御経過御順調にあらせられ、この冬もさしたる御障りもなく、最近は海岸をも散歩遊ばされます。
御体重も以前より2貫以上もお増し遊ばされ、19貫(71.25キロ)であります。
しかし軽度ながら慢性気管支炎の御病状でありますので、今後とも細心の御療養と御鍛練とをお願いして、御病状の根治なるまで引き続き御加養遊ばされるようお願いしております。
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ついに、胸部疾患とも肺結核とも発表されなかった。
秩父宮の御容体は至極順調で、関係者はホッと愁眉を開くようになった。
そこで遠藤清繁博士は本格的な御療養には葉山御用邸は適当でないと判断して、御転地の候補地を考えていた。
遠藤博士は恩師長与博士とも相談の結果、静岡県富士山麓の御殿場が最適であると関係者に進言した。
第一に冬寒くとも夏涼しく、標高もかなりあって比較的湿気が少ない。
第二に東京にあまり近くては訪問客をはじめ何かと御療養の妨害が多く、遠すぎては不便であるということであった。
世間一般の目から見れば冬寒い御殿場を御療養地とするには少なからず疑問・懸念を持つ向きもあったが、遠藤博士は冬期間でもでき得る限り解放主義的治療で御快癒の自信があったのである。
この御転地先については侍医医頭八田善之進も秩父宮侍医中村順一も同意見であった。
御転地先が御殿場と決定すると、宮内省は元大蔵大臣井上準之助の別荘を買い上げた。
1941年12月8日、早朝のラジオは高らかに軍艦マーチに送られて日米開戦を報じた。
御病床の秩父宮は真珠湾の大戦果を聞かれても、瞑目されたまましばらく誰とも話をされなかった。
このとき以来、秩父宮は政治・軍事に関して一切何も語ろうとはされなかった。
1941年9月、節子皇太后が沼津より行啓になった。
秩父宮は和服に袴をおつけになってお迎えした。
ある人物が節子皇太后に「秩父宮が御元気なれば、今度の戦争ではさぞ御活躍されたことでしょうに」と申し上げると、節子皇太后は、
「皇族の中に戦争にまったく関係のない者が一人ぐらいいてもよいでしょう」と仰せられた。
1943年春頃から秩父宮の御病状は悪化の一途をたどり始め、絶対安静の日々が続いた。
1944年1月2日、遠藤博士の推挙によって寺尾殿治博士が新たに侍医として奉仕することとなった。
寺尾博士は水・土の二日拝診することになり、水曜日は寺尾博士単独拝診、土曜日は寺尾博士・遠藤博士の共同拝診となった。
当時御療養中の秩父宮の日課は、午前中は読書、法律と文芸物を30分ずつ読まれ、午後は安静、よるはラジオを楽しまれるという日課であった。
1944年5月17日水曜日 寺尾博士の単独拝診の日であったので、寺尾博士が御殿場駅に着くと、秩父宮家から迎えの運転手から、「今日は秩父宮御不快の御様子です」と告げられた。
到着すると看護婦から、秩父宮は朝から38度の発熱であると聞かされた。
このころ御体温はほとんど平熱であったので、久しぶりの発熱である。
左乳部が少し痛むとのことでただちに検痰すると、肺炎菌と思われる双球菌が発見された。
当時は現在と違ってサルゾールの類以外にはこれといった薬物がなかったので、寺尾博士の心痛はひどかった。
1945年になると、戦況はすでに末期的症状を表してきた。
3月10日の東京大空襲では秩父宮妃の御実家である松平恒雄邸も炎上、5月24日には秩父宮御殿も日本家屋を残して焼失した。
8月11日三笠宮がお見えになり、御二方で種々懇談された。
この日秩父宮は焼失した秩父宮御殿から、肇国絵巻と軍刀を取り寄せられた。
8月15日は早朝より艦載機の波状攻撃が激しかった。
この日は水曜日であったので、寺尾博士の単独拝診日であった。
午前7時20分の東京発の列車に乗るべく東京駅へ行ったが、東海道線は不通であった。
寺尾博士はやむを得ず新宿駅から小田急に乗って、松田駅で乗り換える時ちょうど正午となった。
駅の放送が乗客一同に駅の広場に集合するように伝えたので、人々は何事かとひしめき合った。
やがてラジオから玉音放送が行われると、人々は一斉にどよめいた。
とうとう来るべきものが来てしまったかと、寺尾博士は悲痛な状況に涙した。
午後1時過ぎ重い足取りで御別邸に参上して御病室に伺うと、秩父宮の御態度はいつもと少しもお変りにならなかった。
寺尾博士が「本日の放送は誠に残念なことと存じます」と御挨拶すると、秩父宮は「ああ」と漏らされただけであった。
終戦前後の秩父宮の御容体は順調で、すでに御歩行も可能であった。
8月24日秩父宮は久しぶりに上京されることになった。
5年間の御殿場生活は、遠藤博士の慧眼通り、御静養地として誠に好結果を生んだのである。
秩父宮は秩父宮妃御同列にて、終戦後のまだ生々しい東海道を自動車で御上京になった。
秩父宮御殿に到着されたのは午後8時頃であった。
1948年9月診断の結果、腎臓に異常のあるのが発見された。
寺尾博士の推挙で、湯河原の開業医で結核泌尿器科の権威 折笠秀晴博士が拝診することになった。
拝診後折笠博士が腎臓の手術が必要であることを言上すると、秩父宮はただちに手術をするように希望された。
翌日秩父宮妃が御上京されて、三陛下〔貞明皇后・昭和天皇・香淳皇后〕および各方面の御諒解を得られた。
手術の場所もいろいろと協議の結果、このまま御殿場別邸で行うことに決定した。
9月19日、折笠博士は手術台に秩父宮をお迎えした。
手術上もっとも急処であった腎臓の血管の結びがきっぱりと結ばれて、一同手術の成功にホッと安堵の胸を撫でた。
秩父宮が鵠沼の御別邸に御移居になったのは1952年1月20日であった。
冬の御殿場はさすがに冷え、御看護の秩父宮妃が凍傷にかかられたことさえあったぐらいである。
遠藤博士は冬期間、どこか暖かい湘南地方への御転地をお勧めしていた。
そこで秩父宮妃が下見をして決定したのが鵠沼の御別邸である。
1952年11月10日、皇太子〔平成天皇〕の御成年式ならびに立太子の礼が挙行された。
この日秩父宮も皇居に参内されて、各皇族方と共に儀式に御参列になった。
行事その他を終えられた秩父宮は、11月16日鵠沼にお帰りになった。
しかし秩父宮の御容体は次第に衰弱の度を加えていたのである。
秩父宮の衰弱された御身体に、流行性肝炎が襲った。
再び手術をしなければならない。
折笠博士は遠藤博士と寺尾博士と慎重に協議の結果、二日後に手術を行うことを決定した。
しかし手術当日秩父宮を拝診すると、どうも御容体が思わしくない。
ついに折笠博士は手術を中止することに決断した。
秩父宮の御病状は宿病たる胸の方は非常に良好で熱もなく、喀痰は無菌状態が続き、集菌法・蛍光顕微鏡・培養等いずれも陰性であった。
立太子の礼にも御上京が可能な程度にまで回復されていたが、鵠沼に御帰還後まもなく流行性肝炎に罹患された。
これは以前にはカタル性黄疸と称せられた病気で、今日では流行性肝炎または伝染性肝炎と言われる。
秩父宮が罹患された肝炎は黄疸は甚だ軽く、血清の検査によってわずかに胆汁色素の増加が認められた程度のものであったが、食欲は深く侵され嘔吐も伴った。
また以前から腎臓も悪かったので、尿毒症が併発したのではないかとの疑念も生じ、脈の性質が悪くなった。
すなわち、小さくかつ緊張が弱くなり、これが容易に回復しないので、主治医側は心配を始めたのであった。
尿毒症の有無を決定するため血液を採取して即日病院に持ち帰って分析した結果、尿毒症の心配はなく肝炎も快方に傾き胆色素は血液中よりすでに消失し、脈の性質が悪いのは心臓の力が弱って血液を十分に送り出すことができず、ことに心臓の右がひどく弱り肺が深く侵されて衰弱が甚しく、病後の悪い患者に往々にして見られる所見が現れた。
秩父宮の胸部疾患はだいたいにおいて臨床的治癒に近い状態であり、肺はすでに無気肺状態になっていた。
ただ左側の肋膜腔には滲出液が出て以前はその一部を排除したこともあったが、近頃はむしろその量は減少し心臓が左側へ引き寄せられる傾向があった。
しかし長期間滲出液貯溜の結果、肋膜は甚しく肥厚して心嚢と癒着し心臓の運動を妨げていたので、身体運動や長時間の談話の際に息切れを感ぜられていたのはこのためであった。
肝炎に罹患されるまでは、心臓はからに過労状態にありながらも日常生活に耐え得る機能を営み得たのであるが、食欲が減退し栄養が衰えるに及んで全身の衰弱につれ、その一部として心臓も衰弱して脈の性質が悪くなる。
そして心臓が弱るので胃にも肝臓にも鬱血が起こり、それがまた食欲不振の原因ともなる。
よって強心剤で心臓の力を強めるとともに、できるだけ栄養の回復をはからなければならない。
それにはなるべくお好みの食物を口から差し上げるのが最上の策であった。
秩父宮もこれをお聞きになって、それならば努めて食物を摂るようにしようとの御意向であり、また肝炎はすでに回復に向かい食欲もいくぶんかは出る徴向も見えてきたので、これは可能であると信じられたが、不幸にも御別邸に流行性感冒が侵入し宮家の方々はこれに罹患し、ついに秩父宮にも伝染してしまった。
熱は大したことにはならなかったが、止まっていた咳が多く出るようになり、せっかく召し上がった朝食を吐かれるようになり、口から差し上げることが再び困難となった。
個々の御病状はいずれも致命的なものではなかったが、相次いで波状攻撃的に立ち直る余裕を与えずに来たので、心臓が持ちこたえられなかったのである。
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折笠秀晴博士
私が満5年奉仕した間 御容体御治療に関してこちらから申し上げない限り、秩父宮からは一つとして何のお尋ねもなかった。
拝診が終ってからも、「今日はどうであろうか」というような御質問・御疑問の類は一度もなかった。
終始すべて任せたいという御態度であった。
何事も必ず医師の言を聞かれてからおやりになった。
結核の新薬は戦時中・戦後といろいろと出されていたが、それでも「あの薬を使ってみたらどうか」というようなことは絶対に仰せにならなかった。
それでいて新薬のことはよく御存知で、時には専門家の私たちが驚くようなこともあった。
また医師の方から言上しない限り、何事もいつまでも黙っておられた。
まして医師に内緒で薬を飲まれるとか、他の療法をされようと考えることもない。
このことは再三の大手術にもかかわらず、病状を混乱させずによく知ることができた最大の原因である。
私たちが病室でそっと雑談している時にも、秩父宮はよく瞑目して考えておられた。
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1953年1月2日、高松宮と三笠宮が新年の御挨拶をかねて鵠沼御別邸に御見舞に来られた。
1月3日、当時日赤血液銀行所長であった東陽一博士は、神奈川県藤沢の自宅で静かな正月を過ごしていた。
ところが秩父宮はの義弟に当る徳川義知が突然東博士を訪問した。
秩父宮が御重態で静脈注射をしなければならないが、各名医の方々の努力にもかかわらず静脈穿刺に成功しないので東博士に依頼に来たのだ。
東博士は10年以上も静脈注射を試みていないので自信がなかったが、そんなことを言っている余裕はないと、急遽迎えの自動車に同乗して鵠沼御別邸に参上した。
御病室に入ると、秩父宮は東博士に気づかれると、「やあ、しばらく」と懐かしそうに微笑された。
東博士は御挨拶もそこそこに秩父宮の腕を拝見したが、過去の数々の注射ですでに肘静脈からは注射ができない。
そこで「お御足に注射させていただきます」と申し上げると、秩父宮はかすかにうなずかれた。
東博士はなるべくよく切れる細手の注射器で足の甲に穿刺したところ、幸い一回で成功した。
じっと見守っておられた秩父宮妃がホッとした御表情をされたのが印象的であったという。
濃厚なブドウ糖を100ccほど注入して静脈注射の成功をお知らせすると、秩父宮は「ありがとう、東さん」と低い声で言われた。
御臨終は1月4日午前4時30分であった。
秩父宮が御療養生活に入られると、やがて国民の間で病名が結核であることが秘かに囁かれるようになった。
当時宮内省では正式に結核とは発表しなかったが、1941年大東亜戦争が勃発した頃にはすでに公然の秘密であった。
実はすでに早くから胸部疾患の徴候は発見されていたのである。
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下山琢磨 作戦課班長
老生が常に心配していたことは秩父宮が庶民と能力を競われる傾向を持っておられたということで、これがすべての点に無理の重なる根本原因になったのである。
その負けず嫌いの御気質に対して、陸軍幼年学校時代から火に油を注ぐ御指導を申し上げたのはなんとしても無茶であり、また参謀本部に御在職間 作戦計画等の繁雑な細務までお自らおさせしたごときは短見であり、間接の責任者である私は恐懼しているところである。
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1940年6月御病名がはっきりわかるまで、秩父宮はずいぶん御無理を重ねられてきた。
軍人としての軍隊生活と同時に、皇族としての二重の御生活に追われていた。
ときおり側近が「そんな御無理をされなくても」とお諫めしたことがあったぐらいである。
学習院から同時に陸軍幼年学校に進学した生徒のほとんどが、種々の理由で脱落しているのを見てもうなずけることであろう。
これらのことに拍車をかける結果になったのが、秩父宮の御性格である。
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宮内省 高橋信
*秩父宮がヨーロッパ外遊の際に肺炎になった時、急遽ベルリンから呼びつけられた医学博士
秩父宮は元来が御自身の御病気を割合に軽くお考えになり、当時の秩父宮の御病後の状況も良くなく、侍医中村順一もかなり困っていた。
それで私から「流行性感冒の性質上 後日再び罹患されやすいので、病後の御養生をくれぐれも無理なさらぬよう」申し上げておいた。
しかし再三の流感によって御旅行中幾多の行動の制限を余儀なくされた。
ここで注意すべきことは、秩父宮の御性格である。
平生元気な者は病気になっても少しくらいのことは無理を承知で押し通す。
なかなか医師や周囲の人の言を用いない傾向がある。
秩父宮もこの傾向の御方であった。
この御性格は御幼少の頃かららしく、かつて秩父宮侍医であった村地長孝が、
「裕仁皇太子〔昭和天皇〕は侍医の言うことをよく素直にお聞きになるが、我々の方の宮様〔秩父宮〕はなかなかそうではないので骨が折れる」と私に漏らしたことがあった。
秩父宮が世上定評のごとく、才気煥発・鋭気溌溂たる御方であったことは事実である。
御自身でも才能・健康については誰にも負けるものかというお考えがあった。
したがって御病気になっても、自然と無理が重なったことと思われる。
それにかかられた御病気が秩父宮にもっとも不向きな身体の安静、ことに呼吸器の安静に関係ある結核であったことだ。
秩父宮は社交的で、したがって訪問客も多く、普通の人と違って真の静養が困難であった。
言葉を変えて言えば、どんなに身体の調子が良くても世間との没交渉に入り、5年でも10年でも孤独無言の生活をするのが理想とされるような御病気にかかられたので、人一倍お気の毒であった。
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■妻 松平勢津子 外務官僚松平恒雄の娘/会津藩主松平容保の孫
1909-1995 85歳没
*米フレンドスクール卒業
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秩父宮勢津子妃の親友 白洲正子 樺山愛輔伯爵の娘・白洲次郎の妻
秩父宮妃と私は小学3年の時から同級生であった。
性格もあちらは生真面目な秀才で、こちらは名うてのお転婆ときているから、ほんとうならうまくいくはずはない。
それを結びつけたのが富士の裾野での生活というのだから、思えば不思議なこととしか言いようがない。
秩父宮妃の父上の松平恒雄氏と私の父樺山愛輔が昔から親しかったためで、秩父宮妃は毎年夏休みを私どもの別荘で過ごされるようになった。
お互いに正反対の性格であったのがかえっていい結果をもたらしたのだと思う。
富士山によって結ばれたご縁はその程度のことでは終わらなかった。
私が14歳でアメリカに留学すると、その半年後に松平大使がワシントンへ赴任され、秩父宮妃と私は再会する。
今度は私が休暇を大使館で過ごすようになり、楽しさがよみがえった。
それだけではない。
私がハイスクールを卒業して一足お先に日本へ帰って来ると、私の父が貞明皇后から内密の御依頼を受け、勢津子さんを秩父宮妃に迎える実質的なお仲人役を仰せつかった。
父は何度も辞退したようだが、許しては下さらなかった。
周知の通り会津の松平さんは容保の後裔で、明治維新の際には新政府と戦わざるを得なかった悲劇の大名である。
いわゆる戊辰の役では私の祖父たちは敵方で、鶴ヶ城を攻め落とした張本人であった。
中でも松平恒雄氏は会津魂の権化のような人物で、華族になることも快しとせず一生平民で押し通した殿様であった。
そのような人物が喜んでお姫様を妃殿下に差し出すはずはない。
私の父がお仲人役を遠慮したのも、松平さんの性格をよく承知していたからだろう。
案の定、その役目は失敗に終わった。
松平夫妻がお受けしなかっただけでなく、
勢津子さん自身も「そのような重任には堪えられない。どなたか適当な方を」と辞退されたのである。
父はいったん帰国して報告に及んだが、貞明皇后の勢津子さんに対する御執心は並々ならぬもので、
再度のワシントン行きを強要され、父もお引き受けせざるを得なかった。
その時はワシントンに3日滞在し、帰国した時の父は疲労困憊していた。
「セッちゃんの頑固さにはほとほと参ったよ。三日三晩くどいてやっとウンと言わせた」
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秩父宮妃◆うちの宮様は陸軍の幼年学校から士官学校に上がって、任官遊ばすと責任を持つ。だから自分達は育ちが特別だから意気地がないと見られないよう、例えば山を越えて行くんでも必要以上にお頑張りになるわけですね。
実際は御身体が伴わないのに、お頑張りがきく間はお頑張りになったもんだから、秩父宮はそれがオーバーになっておしまいになった。
少々の熱などは無視されるようになったことも確かです。
高松宮妃◆うちの宮様は皇族という御仕事と軍人の仕事と両立させていらして大変でいらしたと思うわ。
特に秩父宮が御病気でいらしたし、皇族としての御立場での御相談相手でもいらした。
秩父宮妃◆うちの宮様はそちら様を一番お頼りでいらした。
早くから御殿場で御安静に専一の御生活ですもの。
ちょうど悪い時に外国にいらしたものですから。
肺炎が流行っていたんです。
向こうで肺炎のとても重いのにおかかりになって、私がまたその後すぐそれをいただいてしまいました。
私も御一緒に葉山でせめて冬のひと月だけでも御静養いただきたいとお医者様から言われたんですけど、その頃はもう戦争戦争という状況だしそれどころではなかった。
一応お治りになってからもお咳はまだ出ておりました。
本当に泣きたくなるほどこっちの知識が足りないのと、今ここが大事だということを何も知らないから、秩父宮がよくお頑張りになられるから大したことないだろうと。
そういう無理をずっと続けていらっしゃったのが悔やまれます。
昭和両陛下ともわざわざ御殿場においでいただきましたし、貞明皇后もたびたびお越しいただきました。
高松宮は高松宮妃と何回もおいでいただきました。
高松宮妃◆終戦日に伺いましたよね。
秩父宮妃◆当日ね。
あの時はお風邪を召していられたので、いったいどういうことになるか不安でした。
昭和天皇の初めての御放送で、こんな悲しい、終戦と言っているけど敗戦ですから。
本当に思いもかけない出来事で、しかも初めて御放送遊ばすから、御兄弟として心配していらっしゃるわけ。
お耐えになれるどうか、それからみんながちゃんとわかるかどうか。
そこへ高松宮が高松妃と御一緒に、お忙しいのにわざわざいらしてくださいました。
お知らせのあった時は、よくぞと嬉しく感激いたしました。
お兄様とご一緒に御放送を伺おうとお思いになったからでしょう。
やっぱり御兄弟で一緒にお育ちになったお兄様がはたしてうまく放送おできになるかどうか、お兄様の気持ちもお辛かろうから、せめてご一緒に聞こうというお気持ちなのね。
高松宮妃◆昭和天皇の放送を四人で御一緒に伺いました。
秩父宮妃◆四人で伺ったのね、涙ばかり。
高松宮はすぐ御用で飛んでお帰りになった。
私はお昼の代わりに何か差し上げなければといっても、あの時代ですからお米とか玉子とか鶏とか飼ったり作ったり全部自給自足していましたから、お粗末な食事でしたけどそれを召し上がっていただいてお立ちになった。
高松宮妃◆お姉様のところへはよく遊びにうかがったわね。
秩父宮妃◆よくいらしていただいた。
ローラースケートもやったしね(笑)
高松宮妃◆そうなのよ。
屋根裏ってとこがあるの。
こちらの三階にね。
秩父宮妃◆三階の屋根裏の板の間でローラースケートの御稽古したんです。
高松宮妃◆ゴロゴロやるのよね。
お兄様がお留守の間に。
お兄様は軍務でしょ。
高松宮妃◆そう言えばお姉様と御一緒に那須にお泊まりに参りましたね。
秩父宮妃◆那須の御用邸には付属邸というのが別におありになって、そこはかなり遠いのね。
高松宮妃◆全然離れているのね。
その付属邸にお姉様と二人でお泊まりして、夜中じゅうおしゃべりしました。
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三笠宮寛仁親王 2008年
秩父伯父様は人の反対があってもお聞き入れにならない豪胆なタイプの方で、ヨーロッパの山登りやスキーなど何にでも挑戦なさったそうです。
秩父伯母様からも、「寛ちゃんは秩父宮様の生まれ変わりみたいだ」と可愛がっていただきました。
よく、「もし秩父宮様が御元気だったら、寛ちゃんと話が合っただろうに」と仰いました。
秩父伯母様は皇族の中で最も英語がお得意で、社交的で素敵な方でした。
日英協会の初代総裁は秩父伯父様、二代目総裁が秩父伯母様、私がいま三代目を継いでいます。
私は秩父伯父様に憧れてオックスフォードに留学したり、スキーやボートの選手になったぐらいですから、尻ぬぐいは甥っ子がやらねばと受けることにしました。
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1902-1953 50歳没
■学習院初等科で選ばれた御学友は13名
放課後は二名一組が月水金組と火木土組になり一日交代で参殿した
小笠原長英
奥田成孝
近衛忠麿
佐竹義勝
三条実憲
千田貞栄
高辻正長
伊達定
千頭映臣
南部信英
丹羽氏郷
松浦治
毛利敬四郎
■学習院中等科で選ばれた御学友は11名
小笠原長英
奥田成孝
近衛忠麿
佐竹義勝
富永惣一
成田正彦
成瀬大児
芳賀信政
松浦治
毛利敬四郎
山根弘之
■学習院から陸軍幼年学校に連れて行かれた御学友3名
小笠原長英
芳賀信政
富永惣一
■陸軍幼年学校の御学友
長命健一
西村庚
松平定堯
■イギリス留学の随員 1925年05月24日~1927年01月17日
松平慶民 式部官
中村順一 侍医
岡崎清三郎 秩父宮付武官
前田利男 秩父宮事務官
渡辺八郎 秩父宮御用掛
武者小路公共 外務省
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小笠原長英 秩父宮の学習院時代の御学友
熱海御用邸は沼津と共に気候に恵まれ、冬でも遠足ができました。
東海道線を旧式な軽便鉄道で行きました。
ところがトロッコに屋根のついたような客車で、人が駆けるぐらいのノロノロ運転で、2~3時間かかったのではないかと思われる速度でした。
私はまるで外国へでも連れて行かれるような心細さに、ついシュンとした記憶がございます。
この時も秩父宮は景色を喜ばれながら、一人ではしゃいでおられましたよ。
私は秩父宮から「しっかりしろ」とずいぶんからかわれたものです。
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堀秀雄 高松宮の御学友
秩父宮は相撲がお強かった。
どうがんばっても負かされるばかり。
くやしかったが、歯が立たなかった。
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松浦治 秩父宮の御学友
雨の日に校庭に出られないと、秩父宮が「玉台の上で相撲を取ろう」とおっしゃる。
取ったとたん台の縁に脚を取られて床に叩きつけられた。
あんなに痛かったことはありません。
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閑院宮春仁王 戦後に閑院純仁と改名
秩父宮は「皇族は当然入校するのだから試験は無意味だ」と陸軍大学校の入学試験はお受けにならなかった。
私は秩父宮といささか見解を異にし、陸大学生として受験は全員が経験する一つの過程であるから、私といえども入校する以上は、形式的でもいいからこの過程を踏むべきであると考えた。
試験の結果はむろん落第点であったろうと思うが、入校した。
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三笠宮崇仁親王
実は秩父宮は海軍志望だった。
そして高松宮は陸軍を志望していたんです。
ところがそのころは陸軍の方が力関係が強かったせいもあって、最初の皇族は陸軍に次の皇族は海軍へということになったんです。
高松宮は実は船に弱かったんですよ。
おそらく海上勤務ではずいぶん苦労したと思います。
私の番になるとどっちでもいいと。
私はそのころ乗馬に熱中してましたので陸軍を選んだわけです。
ただ問題は幼年学校から入るか士官学校から入るかということでした。
幼年学校から入る人は中学1年か2年を終わって入る。
士官学校へ入る人は中学の4年か5年を終わって受ける。
秩父宮は幼年学校から入ったわけですが、貞明皇后はどうも秩父宮が幼年学校から入ったために一般的な常識とか教養を身につける時間が少なかったと思われたようです。
ですから私は学習院中等科4年を修了してから士官学校の予科に入りました。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人
秩父宮が木馬から本物の馬に初めてお乗りになった時に、ついていた別当がお乗せしようとすると秩父宮が怒って足で別当を蹴飛ばされたということを聞いたが、後に成年になられた秩父宮の闊達な御気質はその当時すでに芽生えていたのである。
当時三殿下〔昭和天皇・秩父宮・高松宮〕は毎週土曜日におそろいで大正両陛下に拝謁のため御参内されていたが、三殿下が奥に行かれると供奉の者には酒がふるまわれた。
いつもなら酒を楽しむ秩父宮の伝育官たちが酒に手もつけない。
東宮職の人ばかりが酒を飲んでいる。
変に思って聞いたところ、禁酒令が出たので飲めないのだと言う。
秩父宮が子供であるのにお酒が好きであったので、それは良くないから成年になられるまで御付の者が酒を慎めば自然秩父宮もお慎みになるだろうということで禁酒令となったというのであった。
秩父宮の酒好きは成年になられてからも相変わらずで、宮中で皇族方の宴会がある時など他の皇族方がお帰りになっても、秩父宮一人いつまでも遅くまで飲んでおられて、女官の部屋まで行って騒いでおいでになったことを今でも思い出す。
当時警視庁では秩父宮のお帰りが遅いので、警備の関係もありいつもお帰りの時間を問い合せてきたものであるが、秩父宮はいつもこっそり裏伝いにお帰りになってしまわれた。
当時宮内次官だった関屋貞三郎が御殿に御機嫌伺いに上った。
やがて秩父宮が大礼服をお召しになって出てこられた。
関屋はお節介で細かなことに気のつく口やかましい人であったが、見ると秩父宮の勲章の副章が反対についている。
そこで関屋は副章の位置が反対であると御注意を申し上げた。
ところが秩父宮は非常に腹立たし気に、
「いったいお前は何をしにここに来たのか!」と言われたので、
関屋が「御機嫌を伺いに参りました」とお答えすると、
秩父宮は「それなら用が済んだらすぐ帰ればよいではないか。なぜ自分に注意する必要があるのか。自分にはちゃんと伝育官長がついている。言いたいことがあるなら伝育官長に伝えればよいではないか!」とますます威丈高になられるので、関屋はほうほうの態で退き下がった。
当時宮家の御結婚には興信所を通して調査される慣わしがあったが、興信所の調査員が私の家に松平勢津子姫について調べに来た時、他にも6~7人候補者があるのでと知らせてくれた。
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岡部長章『回想記』昭和天皇の侍従
私の受けた印象では、昭和天皇の悩みの種は主として陸軍だったようです。
侍従武官長の宇佐美中将が御前に出ている時に、昭和天皇がちょっと激しい調子で御話になるのを耳にしてしまったことがありました。
二二六事件の時の武官長は本庄繁大将で私が3月20日に侍従になって三日間ほどで退官、宇佐美興屋中将が新たに就任したのです。
宇佐美さんが拝謁している時に、「壬申の乱のようなことになる」という意味の事を大声で申されたのが聞こえました。
秩父宮を担ごうとする陸軍の運動があったと仄聞していたので、それに関連することだなと思いました。
秩父宮が多少激しい御性質の方だということは私も心得ていました。
それをまた陸軍の青年将校が担ごうとするのです。
おそらく宇佐美武官長は昭和天皇に対して、秩父宮の意見もいろいろ聞いてほしいと言ったのではないでしょうか。
それで昭和天皇が壬申の乱というような例を持ち出されたのだと思います。
ところが宇佐美武官長は「はあ」とか言って、壬申の乱が何なのかわからない様子でした。
秩父宮のようなお直宮が昭和天皇に会われるのは奥の方になります。
当時秩父宮は陸軍の佐官でしたから、御兄弟として来られるだけで軍事上の奏上はできません。
陸軍では皇族を金枝玉葉の御身分などと言いますが、それも昭和天皇にとってはプライベートな関係だけになります。
朝香宮が陸軍内のことに触れ、叱られて退出されたこともあります。
階級は大将でも軍事参事官で、上奏する立場ではなかったのです。
昭和天皇はそうした公私の別を固くお守りになりました。
陸軍の過激な将校は、この点の認識が足りません。
勝手に思い入れをしていたのです。
高松宮に対しても細川護貞君が懸命にネジを巻いたようですが、高松宮はそれを受け入れず、秩父宮・高松宮とも、この点ははっきりと身を処せられました。
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陸軍大尉寺倉小四郎 秩父宮御付武官
菅波三郎や安藤輝三が秩父宮にお目にかかって種々言上しても、このような場合秩父宮は決して御自身の御意見を言われない。
これはいつの場合でもそうである。
それが当時の皇族方の置かれた立場だったのである。
このことが秩父宮が実に聞き上手な御方だと自然に言われるようになった原因の一つである。
しかし時にはこのことが相手に対して、言上した意見に秩父宮が同意くだされたと錯覚を起こさせる原因となったことも否定できない。
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梨木止女子→坂東長康の妻坂東登女子 明治天皇・大正天皇に仕えた女官〈椿の局〉
大正天皇は昔からの明治天皇の仰せになるような言葉で仰せになった。
昭和天皇はいくらか大正天皇にお似ましのようですね。
秩父宮は下方にお成り遊ばしてるので、兵隊の中で揉まれてござるわね。
一般の人にふさわしいような、近いような御言葉ですわね。
今の明仁皇太子〔平成天皇〕は余計もう、さばけておいでになる。
それにお付きしてる人がみんなそんな粗雑な言葉を使うので。
秩父宮は大西さんという人と幼年学校が一緒で、その人が一番だもんで、それに勝とうと思って一生懸命御勉強遊ばした時に、おつむ〔頭髪〕真っ白になりましたよ。
「秩父宮、どう遊ばしたんでやんすか、そのおつむさん」って言ったら、
「大西に勝とうと思って一生懸命やったのよ」とおっしゃって、神経衰弱っていうのですかね、おつむが真っ白い。
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奈良晃 陸軍大学校 戦術教官
秩父宮の御成績は、陸大初期には全体的に見て悪い方であった。
残念ながら陸軍の俊英たちとは比肩するべくもなかった。
教官の立場から秩父宮の御成績を見ると、第一学年当初は最下位に近く、中期には中位の下ぐらいで、末期はようやく中位であった。
第二学年中期になると、上位から1/3くらいの御成績で、末期になって上位から1/6くらいのところに上昇し、第三学年になると五指の中に入るような成績となられた。
陸大成績は戦術が群を抜く最重要科目で、学生の成績の序列は90パーセント以上が戦術の成績で決定するようになっていた。
もし秩父宮が一般学生であったならば、当然恩賜組であることは間違いのない事実である。
秩父宮は「戦術の研究は私の性分に合っているとみえ、面白いと思ってやっております」としみじみと漏らされた。
なるほど、戦術は究極のところどうしたら敵に勝てるかということのみを探求する学術であるから、秩父宮のようにひとしお御気性の強い御方には、その研究が気質にかない面白いと感じられるのも当然のことで、裏返せば秩父宮がいかに負けず嫌いであられたかの立証ともなろう。
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高橋柳太 主計大尉※当時は調査班
日本は武力闘争を満州事変で一応打ち切り、今後は少なくとも15年間は決して戦争をしてはならない。
その間に新しい時代に備えるため、日本の国力の画期的発展と拡充を期し、超近代的軍備への改編を行わなければならない。
そのためには当面、まず日華親和・対ソ防衛の完備・満州国の完成・航空機工業の拡充・科学および技術の創造および画期的進歩向上等に挙国全力を尽くすべきである。
好むと好まざるとにかかわらず、人類文明は一大飛躍を来たし、科学と文明の飛躍による昭和維新は必ず実現する。
という意味のことを、石原莞爾は秩父宮に強調された。
この思想に秩父宮は心から共鳴されていた。
それゆえ当時一般からは突飛もないこと、狂気じみたこと、誇大妄想的な考えとされていたこの構想を一つ一つ成功させたいものと、秩父宮を中心に課内一同情熱を傾けていた。
秩父宮が特に熱意を示されたのが、科学技術の発展と産業の拡充であった。
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『秩父宮雍仁親王』秩父宮を偲ぶ会
秩父宮は御食事にさほど好き嫌いはなかったが、どういうわけか牛乳だけは苦手であった。
ある日 東宮と秩父宮が鬼ごっこの遊びをされている時、御二方はつい廊下の障子をやぶってしまった。
侍女が「室内のお遊びにしては少し乱暴でございます。障子を破くなどなされてよろしいのでございますか」と御注意すると、
東宮は「いけないことだ」と恥ずかしそうにされたが、
秩父宮は侍女を睨みつけたかと思うと、「えいっ!」とさらに大きく障子を破ってしまった。
秩父宮は学習院初等科に入学されて間もなく、
「図画・手工・体操・唱歌は好きだが、あとは嫌いだ」と言われた。
秩父宮は本を読むことがお好きだったし、教えられた漢字は次々に覚えられていった。
特にお嫌いだったのが作文と算術だった。
しかし、中等部では数学とフランス語が秀抜な成績になった。
1909年両国に国技館が完成、秩父宮は初めて相撲を御覧になってすっかりお好きになった。
翌日秩父宮は学習院から帰られると、カバンを廊下に置かれたまま、御学友たちを集めて相撲を始められた。
時には侍女たちをつかまえてパッと足をかけると、侍女たちはストンと倒れる。
侍女たちの隙を見ては不意に足をかけたりするので、侍女たちはときおりこの被害を受けた。
秩父宮はいつの間にか青大将を捕まえて鳥籠に飼っておられた。
秩父宮は傅育官や侍女たちをつかまえては、「蛇は好きか?」と聞かれる。
好きだと言えば、「では面倒を見てやれ」ということになる。
嫌いだと言えば、蛇を籠から出して手にぶらさげてこられる。
皆はこれに大いに悩まされ、好きとも嫌いとも言えず黙って逃げてしまうのであった。
1913年は明治天皇の崩御で喪が明けず、新年の儀式は行われなかった。
この年の沼津の冬は寒く肌の弱い秩父宮は耳を凍傷に冒されたりしたので、もっぱら室内で遊んだり勉強されたりしていた。
元来秩父宮は御幼年時代から、寒中でも手袋のようなものを使用されない習慣であった。
その理由は不明であるが、時にはスキーなどの場合にも使用されなかった。
1916年正月、御祝御膳につかれた秩父宮は、例年祝酒として出される雉酒がないのに気づかれた。
これは侍医たちが協議の結果、御酒の害がなにか禍いするようなことがあってはと、本年から秩父宮には御酒をやめにしていただくことになっていた。
秩父宮は俄然お怒りになった。
「雉酒はめでたい儀式の時に祝酒として飲むものなのに、どうして出さんのか」
侍女たちは秩父宮のお怒りの御様子にビックリし、傅育官たちはその理由を説明したが、筋の通らないことをやった傅育官たちではおさまりがつかなくなった。
そのうち報告を受けて急遽参殿した丸尾傅育官長が、
「お怒りはごもっとものことでございますが、侍医が心配を致しておりますので、どうかこれで御辛抱をいただきたいと存じます。その代り私も今日から決して御酒をいただきません」と申し上げてお許しを願った。
秩父宮は丸尾傅育官長の酒好きをよく御存知であったので、
「未成年の間は仕方があるまい」とお許しになった。
たとえ宮中のしきたりがどうであろうと、自分を血の通った人間として納得のいく処置を取らない限り、お前たちが何と言ってもその通りにはならないぞ、自分は人形ではないのだ。
これが秩父宮の信念であり人生観であったと申し上げたらよかろう。
まさに皇族中の反逆児である。
別室では傅育官・御用掛・旧奉仕者たちとの間で次のような会話が続いた。
「雉酒の件ですがね、あれほど厳しいとは思いませんでした」
「このごろの秩父宮は我々の手に負えないようになってきましたな」
「お四つの頃からなかなかきかない御方だったよ」
「僕の時は反抗期だったから、困ったこともずいぶんありましたよ」
「裕仁皇太子とは御気性がまるで違いますからね」
「まるで織田信長ですな」
陸軍幼年学校教官嘉悦基猪は、同郷の友石原莞爾の訪問を受けた。
話は秩父宮の御教育方針に及び、石原から
「君は秩父宮の御教育に直接携わる者としてその責任は重い。しかし私は今のような学校当局の指導・教育には疑問を感ずる。秩父宮は一般生徒と同じように何でもできなければならないということは必要ではないと思う。秩父宮は皇族としての御任務があるのだから、将校のことはひと通り御承知になっているだけで良いと思う。秩父宮本来の御任務はそんな末葉的なものではないはずだ」と言われて、嘉悦は深く考えるところがあった。
後年秩父宮の御発病の第一の遠因は、この陸軍幼年学校時代にあるのではないかというのが一致した見解である。
ちなみに学習院から秩父宮と共に陸軍幼年学校に入学した御学友8名のうち、陸士を卒業したのはわずか2名であった。
その他は病気等の理由で脱落してしまったわけである。
陸軍幼年学校の教育が一般学校に比して厳しいものであったことは、当時世間でも定説となっていたのである。
秩父宮が入学された陸軍士官学校の第34期生は、陸軍幼年学校から300名・一般中学からの合格者180名の480名であった。
しかし、実際に卒業できたのは365名であった。
1922年7月21日 陸軍士官学校卒業式の一週間前、秩父宮は同じ区隊の宮本進の依頼で西田税らとの会合を御承諾された。
西田が駆けつけると、すでに宮本・福永憲・平野勣・潮の4人が秩父宮を中心に静かに語り合っていた。
西田は「青年アジア連盟」の由来、「猶存社」との提携、内外の政治情勢を言上し、最後に彼らが秘かに計画しつつあった「天剣党」の目的について御説明した。
西田は会談が終ると、福永が浄書した『日本改造法案大綱』と『支那革命外史』を秩父宮に献上した。
筧克彦は貞明皇后の御召を受けて沼津御用邸に参上し、前後8回にわたって秩父宮に御進講し、その御筆記が後年節子皇太后職蔵版『神ながらの道』となって、全国主要神社へ配布せられたのである。
1928年12月24日、秩父宮は陸軍大学校に御入学になった。
時の陸軍大学校長は荒木貞夫。
荒木は来たる陸軍定期異動では、参謀次長か師団長が約束されていることを聞かされていた。
ところが満州に転任していた石原莞爾が突然荒木校長を訪ね、歯に衣着せぬ露骨な口調で、
「秩父宮の御教育は日本のため重大な任務であるから、御卒業まで必ず校長の椅子に留まるように」と強く要請して帰った。
荒木は「秩父宮は皇族の筆頭として徳の御養成が第一で、他の生徒とは自ら同一ではない。したがって、第一学年度には一般学生との同一作業で、秩父宮への真の御教育は第二学年度より始めよう」としたのであったが、翌年1928年の人事異動で荒木は熊本の第六師団に転出となったため、荒木の計画はむなしく中断した。
陸大生は優秀な頭脳が要求されることはもちろんであるが、体力も健康に自信のある頑強な者でなければとても務まらない。
いかに頑健な体力を誇る青年将校でも、平均週に二回が徹夜では次第に睡眠不足となるのは明らかであった。
ゆえに陸大入学時の健康診断は綿密厳格を極めたものであった。
陸大では何かとヤセ我慢をして、冬は夏服・夏は冬服で通す反骨的な気風が芽生え、秩父宮まで同調された。
秩父宮の御健康を案じた宮内省から内密に陸大に申し入れがあった。
それは秩父宮の御勉強についてもう少し緩和できないものだろうかという申し入れがあったが、陸大側が拒否した。
そんなことをすれば秩父宮のお怒りが目に見えているからであった。
陸大における秩父宮の御勉強ぶりは凄まじかったの一言に尽きる。
講義の後 教官に質問することも秩父宮が最も多かったし、教官と長時間にわたって白熱の論争をされることもしばしばであった。
教官への質問、学生との論争はすべて御納得の行くまで追及されて、相手が困ることも見受けられ、教官が来るのを待っている間に学生たちとの戦術の論争に夢中のあまり、教官が入って来たのに気づかなかったこともあった。
秩父宮のお手回りの品々は万年筆・時計等すべて国産品であった。
秩父宮がつとめて国産品を愛用された話は枚挙にいとまないが、陸大生は地図に何かと色鉛筆で書き込むので、いわば必需品の筆頭である。
国産品の色鉛筆は枯れて色のつきが悪いので、陸大生の多くはドイツ製の色鉛筆を使用した。
しかし秩父宮はその色鉛筆すら輸入品であるとして使用されず、卒業するまで国産品を愛用されたのである。
しかし一つだけ例外があった。
それは煙草である。
愛煙家の秩父宮はエジプト煙草を好まれ、後にウエストミンスターになる。
秩父宮は御付武官を授業中の講堂に入れなかったが、現地戦術の随行まで許されないのには困った。
現地戦術の場合未知の山野を踏破するのであるから、どうしても危険が伴う。
本間にしてみれば職責上秩父宮に単身で行動され万一御怪我でもされたらと考えると、随行を許されないからといってそれで済むものではない。
そこで本間は秩父宮から何と言われても気づかれぬように後をついて行くのであるが、血気盛んな秩父宮は本間をまいて行方不明になるのが御上手であった。
したがって秩父宮と本間御付武官との間には大人の鬼ごっこが日常茶飯事のように展開されたのであった。
教官や学生たちは山中や雑木林に隠れてしまった秩父宮を見失って立往生している本間の悄然たる姿によく出会い、秘かに秩父宮の隠れた方向を教えながら疲れ切った本間御付武官の姿に同情したものであった。
秩父宮は校長・幹事の将官級には閣下、教官には教官殿、上級生には〈さん〉の敬称をつけられ、同期生のみ呼び捨てで、後輩は君で呼ばれた。
だが二名の御付武官に対してはまったく部下として扱われたので、生徒から見るとずいぶん奇異に見えたものだ。
御付武官は陸軍内においても優秀な人材が任命される。
生徒たちから見れば中隊長・区隊長よりも上官で、しかも大先輩の中佐と少佐である。
現地戦術のある日 同期生の菅井斌麿は、農家の縁側で一服されている秩父宮の軍服のズボンにほころびがあるのを発見した。
菅井は農家の人から針と糸を借りて来て、
「秩父宮殿下、うまくできませんが、ちょっと縫っておきましょう」と申し上げると、
秩父宮は「ありがとう。でも結構です。それをお借りしましょう」と言って菅井から針と糸を借りると、農家の庭の隅にいた本間御付武官のところへ行かれ、本間御付武官にほころびを縫わせた。
菅井は学生から見れば大先輩の本間中佐になにもズボンの繕いをさせなくともと思った。
秩父宮は陸大第二学年の1930年5月、満州戦史視察旅行に出発した。
視察団一行が水師営南方の高地へ到着すると、石原莞爾が熱弁をふるった。
その内容は学生に対する講話としては稀に見る格調の高いもので、満州見学旅行に来る女生徒たちが先人の苦闘に涙を流すような感傷的なものであってはならないとして、当時の日本の満蒙政策についての批判抱負を堂々と熱烈な口調で述べた。
この講話は学生に一大感銘を与えたが、石原参謀の目的は秩父宮にあったのだ。
満蒙通の石原参謀が年来の抱負を直宮の前で堂々と述べる機会は容易には得られなかった。
石原参謀にとっても一世一代の熱弁であったわけだ。
講話の最中秩父宮は、そうか、そうかという御表情で聴いておられた。
石原参謀の熱弁は、秩父宮の御胸中にどのような影響を与えたのであろうか。
秩父宮が陸軍大学校を卒業されて歩兵第三連隊に帰隊されたのは、1931年11月28日であった。
暮れも押し迫ったある日の夕刻、安藤輝三は強引に同志菅波三郎を伴い、兵舎の地下道を利用して第六中隊室の秩父宮を訪問した。
秩父宮が菅波に会われたのはこの時が初めてである。
菅波はロシア革命におけるロマノフ王朝没落の原因などを簡略に申し上げ、平素の勉強ぶりを披瀝した。
このあいだ安藤は、秩父宮の菅波に対する第一印象は決して悪くなかったことを感じ取ったようである。
翌年1932年3月勃発した上海事変で出征するまでの約2カ月の間に、菅波は安藤と共に三度秩父宮にお目にかかった。
1932年新春、菅波は西田税の家を訪問した。
西田は紫の袱紗に包んだ一通の奉書を菅波に渡して、秘かに秩父宮へ献上してくれるようにと依頼した。
これはいわゆる建白書の類で、菅波が一読すると君側の奸を除く必要を説いたもので、特に目新しい内容のものではなかった。
しかし西田はこれを菅波から秩父宮へ献上し、さらに秩父宮から昭和天皇に献上願いたいと言うのであった。
翌朝菅波は出勤すると安藤に西田からの依頼を話した。
じっと考え込んでいた安藤は「秩父宮ならば万一にも心配はない。秩父宮がどう処理されるかはわからないが、いったん秩父宮の御手に渡れば他に漏れるようなことは決してない。その点秩父宮は絶対に信用できる御方だ」と、ただちに秩父宮の御都合を伺い、菅波を伴って第六中隊長室を訪れた。
秩父宮は「よし、預かろう。だが処置は私に任せてもらう」と受領された。
秩父宮は「明日宮中に参内の予定になっているから」と言われ、また「西田はその後どうしておるのか。元気で過ごしておるか」と親しくお尋ねになった。
菅波三郎は「私は歩三で秩父宮にお目にかかった時、僭越にもいろいろなことを言上した。私は秩父宮に我々の考えていることをわかっていただきたかったのだ。直宮であられた秩父宮を利用しようとか何かお願いしようなどという気持ちは、はじめからまったく持たなかった。例外は西田から依頼された件だけである。我々は昭和天皇の大御心に添うことのできる革命がやりたかった。結局二二六事件で私の願望はついえ去ったが、我々の革新運動について秩父宮はある程度御存知であったことと思う。秩父宮は話せばわかる御方であった。おそらく安藤輝三も同じだったと思う」と語っている。
秩父宮の対人関係に差別感を持たれない御性格は最も人間的な面であるが、また同時に多くの誤解を招く原因になったことを、果たして秩父宮はお気づきであったろうか。
1931年9月に勃発した満州事変が拡大して11月に第二師団がチチハルを占領した直後、秘かに帰国した石原莞爾が秩父宮の御召を受け秩父宮御殿に参上したことがあった。
この時 秩父宮は陸大を卒業され、歩兵第三連隊第六中隊長に就任された直後であった。
秩父宮御殿の応接室において御付武官寺崎小四郎が侍立のうえ、秩父宮は石原を御引見になった。
秩父宮の御下問に対して石原は、満州事変勃発の原因についてはさすがに自分の計画によるものであるとは言上できなかったが、その他についてはおおむね真相に近い状況を言上した。
秩父宮が特に指摘されたのは、満州事変が国際連盟から日本の侵略行為と烙印を押されることを憂えられたのである。
しかし石原は満州事変は起こるべくして起こったものとして、自己の主張である東亜連盟論から、満州を世界の理想郷にしたいものと抱負を語った。
1931年秋に昭和天皇御統監の陸軍特別大演習が行われた。
この演習中に参謀総長金谷範三が満州事変に対して航空機の増派理由を上奏し昭和天皇の御裁可をいただいたのであるが、関東軍のチチハル進出もこの時点では東京で陸軍大臣南次郎の提案にもかかわらず、他の閣僚の反対にあった。
この報告を受けられていた昭和天皇は、参謀本部が委任命令権を利用してチチハル進出をするのではないかと侍従武官長奈良武次にただされたのである。
昭和天皇の御下問に委任命令権の危険性と重大性を痛感した奈良は、上奏当夜参謀本部に対して昭和天皇の御心配された点を打電しておいたにもかかわらず、出動は行われてしまった。
参謀本部は航空機の国外増派についてだけ昭和天皇の御允裁を求めて、チチハル進出は匪賊の頭目馬占山の攻撃に余儀なくされたものとして委任命令権のもとずいて出動してしまったのである。
もっとも東京では、南陸相がチチハル進出は馬占山の勢力を駆逐した後は必ず撤退するという条件付きで閣議の承認を取ることができたから、陸軍中央部では委任命令権の乱用にはならないとしたのである。
だが、昭和天皇の御意向を無視した結果になったことは否定できない。
秩父宮は御下問の最後に、以上の点を石原にただされた。
さすがの石原もこれには弱った。
チチハル進出は北満に権益を擁するソ連と不祥事件を勃発させる危険があった。
昭和天皇の御心配もこれであった。
事実関東軍はソ連軍が越境して攻撃をしかけてきた場合、これを叩く覚悟があったのである。
結局軍中央の方針に従い、石原はチチハル撤兵を誓って、この問題は秩父宮の御諒承をいただいた。
秩父宮が石原莞爾と長時間にわたって会談されたのはこの時が初めてである。
石原は持論である東亜連盟思想の中で、中国の国民政府の基礎が脆弱な間は日本が代って満州の治安維持・経済向上に努力し、満州の繫栄によって国民政府の提携を誘い、日中協力して東洋の安定をはかることが対ソ防衛に対する最大の決め手であることを強調した。
石原は秩父宮に対して、満州を領有するとか独立とは決して言わなかった。
この会談で特筆しておきたいことは、秩父宮が石原莞爾という人物の一面を高く評価されたこと、石原が秩父宮に対して秘かに抱いてきた期待を再認識したことであった。
参謀本部第二部ロシア班に勤務していた大越兼二のところへ、第一部作戦課に勤務されていた陸大同期の秩父宮が御姿をお見せになった。
「大越、多田のパンフレットを読んだか」とお尋ねになった。
これは当時陸軍省調査班にいた多田督知大将が書いたもので、
「古代日本の戦いはまつろわぬもの即ち祭り合わぬもの、理想を等しくせぬものを祭り合せるのを目的としていた」ということを取り上げて、これからの日本の戦いがいかにあらねばならぬかを論じたものであった。
もちろん内容を熟知していた大越は、
「しかし、内容が少し神がかりのように思いますが」と申し上げると、
「内容の表現はともかくとして、根本原理はあれでなくてはならないと思う」と、秩父宮は断固たる口調で言われた。
大越は「秩父宮は我々よりも常に二十歩も三十歩も前の方を歩いておられるのだ。新しいモラルの根本を打ち立て血で血を洗う混乱を克服してすべてを新しく立て直さなければならぬ変革の時代にあっては、氏族国家から古代王朝国家への改革期における天武天皇のごとき変革時代の民族のバックボーンが必要なのである」と理解した。
大越はその時から秩父宮をそのような時代の民族のバックボーンと仰ぎ続けてきたと語っている。
惜しむらくは、歩三・陸大を通して広く若い将校から景仰された秩父宮が、あれだけ彼らの手の届く近い存在にありながら、その実体を掴んでおられなかったことであり、二二六事件のような大規模な不祥事件が勃発することをまったく予期されていなかったことであろう。
1936年2月26日、第一師団管区の青年将校が1,483名の将兵を率いて蜂起し、四日間にわたる昭和維新工作を開始した。(二二六事件)
弘前第八師団にいた秩父宮は2月26日午前7時頃、東京の高松宮から電話で事件を知らされた。
しかし秩父宮はいつものように御出勤、午前8時40分に連隊に到着され、連隊馬場において日課である乗馬の練習をされていた。
午前8時50分 連隊長倉茂周蔵が馬場によって秩父宮に朝の御挨拶をすると、
秩父宮は「連隊長殿は東京の事件を御存知ですか」とお尋ねになった。
秩父宮の御表情が普段と少しもお変りがないので、倉茂連隊長は事件と言われても見当がつかなかった。
すると秩父宮は「実は今朝東京の弟のところから電話で知らせて来たのだが、第一師団の将兵が重臣を襲撃したらしい。詳細は不明だが、相当な兵力が出動した模様です」と伝えた。
驚いたのは倉茂連隊長である。
「秩父宮、ただちに御上京の必要はございませんか」と言上すると、
「東京の様子が心配ですが、私には大隊長としての任務がありますから上京はいたしません」と、秩父宮に動揺の色は見えない。
だが、倉茂連隊長はそうはいかない。
倉茂連隊長が約1キロ離れた師団司令部に到着したのは午前10時頃である。
ただちに下元師団長に面会すると、すでに旅団長飯野庄三郎・師団参謀長高木義人らが来ていた。
師団首脳も事件勃発の報を受けて沈痛な表情で協議していた。
倉茂連隊長が秩父宮御上京の件を進言すると、下元師団長は、
「このような事件が発生した以上、秩父宮に御上京願うより仕方があるまい」と重々しい口調で言った。
しかし倉茂連隊長が秩父宮の御意向を報告すると、「では、私から直接秩父宮にお願いする」と決意を示した。
倉茂連隊長は師団・旅団首脳部と協議して連隊に帰ったが、この日数回にわたって司令部・連隊間を往復している。
午後になって倉茂連隊長は師団司令部から連隊に帰ると、下元師団長が御上京を希望している旨を秩父宮にお伝えしたが、秩父宮ははやり大隊長の任務を理由にその意志のないことを漏らされている。
師団長が秩父宮御上京を希望しているという報が流れると、青森の第五連隊から秩父宮をお迎えに来るという流言が伝わり、連隊将兵は騒然となった。
「第五連隊から秩父宮をお守りしなければならない」という声が期せずして上がった。
秩父宮は定刻になって帰邸されたが、依然として平常のままであられた。
下元師団長と高木参謀長が秩父宮を訪問し、御上京を進言した。
下元師団長は陸軍省・宮内省と打ち合せの結果、二週間の休暇を申し上げて御上京をお勧めした。
下元師団長の秩父宮への進言は、言い換えれば師団長命令と同じである。
秩父宮が拒否される理由もない。
しかも師団長自らが陸軍省と宮内省の諒解を得ているとあらば、秩父宮も御上京しないわけにはいかない。
かくて秩父宮は御上京を決意された。
早くもこのことが歩兵第31連隊の将校に知れ渡った。
多くの流言が巷に乱れ飛んで、弘前市内は「歩兵第五連隊が秩父宮を擁して上京のため弘前に来る」という噂に騒然となった。
これでは第31連隊の将兵が黙っていない。
逆に「我々が秩父宮の御供をする」といきり立つのを、倉茂連隊長は断固としてこれを制した。
「秩父宮がいったん外へ出られた場合、その御身辺については国家の責任であるから連隊にはその責任なく、一つ間違えばかえって大きな疑惑を招くことにもなりかねない。連隊は平素のように勤務に励むことを要望する」
松本徹は2月27日に秩父宮が弘前から御上京した際、上野駅でお迎えした一人である。
松本は秩父宮邸に出入りのあった者で、妻の実家は被害者の一人である斉藤実の向かいであった。
秩父宮が真っ先に松本にお尋ねになったことは、国民は今度の事件をどう見ているかということであった。
松本は前夜山王ホテル付近において、叛乱将校の街頭演説を聞いた。
「このたび秩父宮が御上京になったので、いよいよ我々の指導者として戴くことになった。したがって、昭和維新の成功はすでに迫っている」と言うのに対し、黒山の大衆は熱烈な拍手を送っていた。
もちろん松本はこの演説の内容が新聞紙上に掲載されないことは承知していたが、国民大衆の面前で行われたことだけに、すでに巷の流言は秩父宮を二二六事件の黒幕的存在として乱れ飛んでいた。
菅波三郎によって高まった革新熱を、秩父宮が御存知ないはずない。
いずれはどこかの青年将校が何かことを起すであろうということは予想されていたに違いない。
秩父宮が歩三御在任時代に安藤に対してなぜ断固たる見解を示されなかったかという疑問と、彼らの運動を過小評価されていたきらいが見られることは否定できない。
1936年12月1日、秩父宮は再び参謀本部第一部に転補された。
今度の任務は新設された戦争指導課であった。
秩父宮の直属の上司は石原莞爾だった。
思えば石原はこの日の来るのをどれほど待ちわびていたことか。
石原にとって二十数年前から秘かに抱いていた秩父宮への期待と戦争指導課の新設は、石原の主張する東亜連盟思想実現への満州事変に次ぐ第二・第三の布石であった。
石原はその抱負構想を積極的に言上した。
秩父宮もまたこの石原の思想に共鳴するところが少なくなかったのである。
ただ運命な皮肉さは、秩父宮が四カ月後にイギリス国王ジョージ6世戴冠式に天皇御名代として渡欧され御留守中に日華事変が勃発して、不拡大派であった石原自身が拡大派に敗れて転出させられたのである。
1937年3月18日秩父宮夫妻は天皇御名代としてイギリス国王ジョージ6世戴冠式に御参列のため横浜港を出発された。
秩父宮はロンドンのホテルに滞在中、毎朝の運動に乗馬をされていた。
毎日御供を命ぜられていた辰巳武官が約束の10分前にホテルの前に行くと、いつものように乗馬学校校長が三頭の馬を連れて到着していた。
校長は「今日はひどい雨なので中止と思ったが、秩父宮から何の御沙汰もないので一応馬を連れて来ました」と報告した。
辰巳武官が部屋に行くと、すでに秩父宮は御乗馬の服装で待っておられた。
辰巳武官が「この雨にお召しになりますか」と口を滑らせた。
秩父宮はたちまち不快な御表情で、「せっかく馬が来ているのだから乗ろう」と言われた。
雨の中を颯爽とホテルの玄関から出てこられた秩父宮の御姿を見て、校長は意外な顔をした。
日頃はイギリスの紳士淑女たちが多数通るハイドパークの騎馬道も、この日は人影がなかった。
土砂降りの中をかつての陸大における乗馬練習そのままに、予定の時間を乗り続けた。
雨は下着を通り、長靴の中には雨水が溜まった。
辰巳武官はさすがに途中で中止するように申し上げたが、秩父宮は返事をされなかった。
一週間後秩父宮は風邪を召されて肺炎にかかられ、十日あまりも御病床につかれた。
そして予定されていた北欧への御旅行は一時中止となった。
辰巳武官は秘かに後悔したが、秩父宮の御性格から言っても予定を立てた以上、よほどのことがない限り予定変更はされない。
いわんや雨くらいでは、いかに辰巳武官が諫言申し上げても決行されたことであろう。
1937年5月12日ウエストミンスター寺院で、ジョージ6世の戴冠式が挙行された。
5月14日にはバッキンガム宮殿で大舞踏会が催された。
午後10時前から始まった絢爛豪華な舞踏会は深夜の2時頃まで続いた。
この会場で御多忙だったのは秩父宮妃であった。
英国王室・各貴族・政府高官・陸軍海軍将官から果ては各国代表からも踊りを望まれて、くつろがれる暇もなかった。
秩父宮は終始悠然と椅子にかけられて黙然と眺めておられたが、秩父宮はこういうことはあまりお好きではない。
御側にいた吉田茂大使がそっと申し上げても、とうとう一度も踊ろうとはされなかった。
やむを得ない場合のほか、御自分から進んでされるようなことはなかった。
戴冠式が終わってまもなく、御二方が御病気になった。
まず秩父宮が風邪を召され半月の御養生で快癒されると、今度は秩父宮妃が風邪を召された。
6月2日宮内省から研究のため出張を命ぜられてヨーロッパ各地を回っていた医学博士高橋信がベルリンに入ると、日本大使館で東京の百武侍従長から「秩父宮妃御病気ゆえただちにロンドンに急行せよ」という電報を受け取った。
高橋がただちにロンドンのホテルに伺候して秩父宮妃の御病状を拝診すると、すでに肺炎を起こされていた。
侍医中村順一・ロンドンの日本人医師加藤伝三郎が昼夜懸命の御看病を続けていた。
一カ月以上の関係者の献身的な努力の甲斐あって、秩父宮妃は7月10日頃には御快癒になった。
7月31日秩父宮御一行は、御二方のスイスでの御静養をかねてロンドンを御出発になった。
ところが7月7日には中国大陸の一角で思いもよらぬ大事件が勃発していた。
盧溝橋事件に始まる日華事変である。
8月4日オランダで、御二方が再びお揃いで発熱された。
約一週間で御二方は快方に向かわれたが、秩父宮は御病床でやはりヒトラーに会っておいた方がよいと考えておられたのである。
8月14日スイスのアルペンホテルに入られた。
スイスの御生活は静かであったが、世界は静かではなかった。
8月26日日本から二荒芳徳伯爵がベルンに到着した。
イギリスへの御帰途、ドイツにお立ち寄りになりヒトラーと会見、ニュルンベルクのナチス党大会に御出席されるよう、ドイツ側の希望を伝えてきたのである。
主席随員松平慶民はお迎えに来ていた外務省の天羽英二とこの問題について意見を交換した。
秩父宮のドイツ訪問に関しては、その国際的影響を検討しなければならない。
松平はイギリス直行を可としていたのであるが、秩父宮の断は会見を決定された。
第二次近衛内閣が成立する一カ月前に、不幸にも秩父宮は御病床に臥される身となられたのであった。
1940年11月11日宮城前で紀元二千六百年記念式典が挙行されたが、秩父宮に代って秩父宮妃が御参列になった。
参列者の中には秩父宮の御姿が見えぬのに不審を抱いた者もあった。
この頃からようやく秩父宮の御異例の噂が国民の間に秘かに囁かれるようになった。
1941年6月7日節子皇太后が御見舞されたのを機に、秩父宮家で御病状を発表することになった。
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御経過御順調にあらせられ、この冬もさしたる御障りもなく、最近は海岸をも散歩遊ばされます。
御体重も以前より2貫以上もお増し遊ばされ、19貫(71.25キロ)であります。
しかし軽度ながら慢性気管支炎の御病状でありますので、今後とも細心の御療養と御鍛練とをお願いして、御病状の根治なるまで引き続き御加養遊ばされるようお願いしております。
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ついに、胸部疾患とも肺結核とも発表されなかった。
秩父宮の御容体は至極順調で、関係者はホッと愁眉を開くようになった。
そこで遠藤清繁博士は本格的な御療養には葉山御用邸は適当でないと判断して、御転地の候補地を考えていた。
遠藤博士は恩師長与博士とも相談の結果、静岡県富士山麓の御殿場が最適であると関係者に進言した。
第一に冬寒くとも夏涼しく、標高もかなりあって比較的湿気が少ない。
第二に東京にあまり近くては訪問客をはじめ何かと御療養の妨害が多く、遠すぎては不便であるということであった。
世間一般の目から見れば冬寒い御殿場を御療養地とするには少なからず疑問・懸念を持つ向きもあったが、遠藤博士は冬期間でもでき得る限り解放主義的治療で御快癒の自信があったのである。
この御転地先については侍医医頭八田善之進も秩父宮侍医中村順一も同意見であった。
御転地先が御殿場と決定すると、宮内省は元大蔵大臣井上準之助の別荘を買い上げた。
1941年12月8日、早朝のラジオは高らかに軍艦マーチに送られて日米開戦を報じた。
御病床の秩父宮は真珠湾の大戦果を聞かれても、瞑目されたまましばらく誰とも話をされなかった。
このとき以来、秩父宮は政治・軍事に関して一切何も語ろうとはされなかった。
1941年9月、節子皇太后が沼津より行啓になった。
秩父宮は和服に袴をおつけになってお迎えした。
ある人物が節子皇太后に「秩父宮が御元気なれば、今度の戦争ではさぞ御活躍されたことでしょうに」と申し上げると、節子皇太后は、
「皇族の中に戦争にまったく関係のない者が一人ぐらいいてもよいでしょう」と仰せられた。
1943年春頃から秩父宮の御病状は悪化の一途をたどり始め、絶対安静の日々が続いた。
1944年1月2日、遠藤博士の推挙によって寺尾殿治博士が新たに侍医として奉仕することとなった。
寺尾博士は水・土の二日拝診することになり、水曜日は寺尾博士単独拝診、土曜日は寺尾博士・遠藤博士の共同拝診となった。
当時御療養中の秩父宮の日課は、午前中は読書、法律と文芸物を30分ずつ読まれ、午後は安静、よるはラジオを楽しまれるという日課であった。
1944年5月17日水曜日 寺尾博士の単独拝診の日であったので、寺尾博士が御殿場駅に着くと、秩父宮家から迎えの運転手から、「今日は秩父宮御不快の御様子です」と告げられた。
到着すると看護婦から、秩父宮は朝から38度の発熱であると聞かされた。
このころ御体温はほとんど平熱であったので、久しぶりの発熱である。
左乳部が少し痛むとのことでただちに検痰すると、肺炎菌と思われる双球菌が発見された。
当時は現在と違ってサルゾールの類以外にはこれといった薬物がなかったので、寺尾博士の心痛はひどかった。
1945年になると、戦況はすでに末期的症状を表してきた。
3月10日の東京大空襲では秩父宮妃の御実家である松平恒雄邸も炎上、5月24日には秩父宮御殿も日本家屋を残して焼失した。
8月11日三笠宮がお見えになり、御二方で種々懇談された。
この日秩父宮は焼失した秩父宮御殿から、肇国絵巻と軍刀を取り寄せられた。
8月15日は早朝より艦載機の波状攻撃が激しかった。
この日は水曜日であったので、寺尾博士の単独拝診日であった。
午前7時20分の東京発の列車に乗るべく東京駅へ行ったが、東海道線は不通であった。
寺尾博士はやむを得ず新宿駅から小田急に乗って、松田駅で乗り換える時ちょうど正午となった。
駅の放送が乗客一同に駅の広場に集合するように伝えたので、人々は何事かとひしめき合った。
やがてラジオから玉音放送が行われると、人々は一斉にどよめいた。
とうとう来るべきものが来てしまったかと、寺尾博士は悲痛な状況に涙した。
午後1時過ぎ重い足取りで御別邸に参上して御病室に伺うと、秩父宮の御態度はいつもと少しもお変りにならなかった。
寺尾博士が「本日の放送は誠に残念なことと存じます」と御挨拶すると、秩父宮は「ああ」と漏らされただけであった。
終戦前後の秩父宮の御容体は順調で、すでに御歩行も可能であった。
8月24日秩父宮は久しぶりに上京されることになった。
5年間の御殿場生活は、遠藤博士の慧眼通り、御静養地として誠に好結果を生んだのである。
秩父宮は秩父宮妃御同列にて、終戦後のまだ生々しい東海道を自動車で御上京になった。
秩父宮御殿に到着されたのは午後8時頃であった。
1948年9月診断の結果、腎臓に異常のあるのが発見された。
寺尾博士の推挙で、湯河原の開業医で結核泌尿器科の権威 折笠秀晴博士が拝診することになった。
拝診後折笠博士が腎臓の手術が必要であることを言上すると、秩父宮はただちに手術をするように希望された。
翌日秩父宮妃が御上京されて、三陛下〔貞明皇后・昭和天皇・香淳皇后〕および各方面の御諒解を得られた。
手術の場所もいろいろと協議の結果、このまま御殿場別邸で行うことに決定した。
9月19日、折笠博士は手術台に秩父宮をお迎えした。
手術上もっとも急処であった腎臓の血管の結びがきっぱりと結ばれて、一同手術の成功にホッと安堵の胸を撫でた。
秩父宮が鵠沼の御別邸に御移居になったのは1952年1月20日であった。
冬の御殿場はさすがに冷え、御看護の秩父宮妃が凍傷にかかられたことさえあったぐらいである。
遠藤博士は冬期間、どこか暖かい湘南地方への御転地をお勧めしていた。
そこで秩父宮妃が下見をして決定したのが鵠沼の御別邸である。
1952年11月10日、皇太子〔平成天皇〕の御成年式ならびに立太子の礼が挙行された。
この日秩父宮も皇居に参内されて、各皇族方と共に儀式に御参列になった。
行事その他を終えられた秩父宮は、11月16日鵠沼にお帰りになった。
しかし秩父宮の御容体は次第に衰弱の度を加えていたのである。
秩父宮の衰弱された御身体に、流行性肝炎が襲った。
再び手術をしなければならない。
折笠博士は遠藤博士と寺尾博士と慎重に協議の結果、二日後に手術を行うことを決定した。
しかし手術当日秩父宮を拝診すると、どうも御容体が思わしくない。
ついに折笠博士は手術を中止することに決断した。
秩父宮の御病状は宿病たる胸の方は非常に良好で熱もなく、喀痰は無菌状態が続き、集菌法・蛍光顕微鏡・培養等いずれも陰性であった。
立太子の礼にも御上京が可能な程度にまで回復されていたが、鵠沼に御帰還後まもなく流行性肝炎に罹患された。
これは以前にはカタル性黄疸と称せられた病気で、今日では流行性肝炎または伝染性肝炎と言われる。
秩父宮が罹患された肝炎は黄疸は甚だ軽く、血清の検査によってわずかに胆汁色素の増加が認められた程度のものであったが、食欲は深く侵され嘔吐も伴った。
また以前から腎臓も悪かったので、尿毒症が併発したのではないかとの疑念も生じ、脈の性質が悪くなった。
すなわち、小さくかつ緊張が弱くなり、これが容易に回復しないので、主治医側は心配を始めたのであった。
尿毒症の有無を決定するため血液を採取して即日病院に持ち帰って分析した結果、尿毒症の心配はなく肝炎も快方に傾き胆色素は血液中よりすでに消失し、脈の性質が悪いのは心臓の力が弱って血液を十分に送り出すことができず、ことに心臓の右がひどく弱り肺が深く侵されて衰弱が甚しく、病後の悪い患者に往々にして見られる所見が現れた。
秩父宮の胸部疾患はだいたいにおいて臨床的治癒に近い状態であり、肺はすでに無気肺状態になっていた。
ただ左側の肋膜腔には滲出液が出て以前はその一部を排除したこともあったが、近頃はむしろその量は減少し心臓が左側へ引き寄せられる傾向があった。
しかし長期間滲出液貯溜の結果、肋膜は甚しく肥厚して心嚢と癒着し心臓の運動を妨げていたので、身体運動や長時間の談話の際に息切れを感ぜられていたのはこのためであった。
肝炎に罹患されるまでは、心臓はからに過労状態にありながらも日常生活に耐え得る機能を営み得たのであるが、食欲が減退し栄養が衰えるに及んで全身の衰弱につれ、その一部として心臓も衰弱して脈の性質が悪くなる。
そして心臓が弱るので胃にも肝臓にも鬱血が起こり、それがまた食欲不振の原因ともなる。
よって強心剤で心臓の力を強めるとともに、できるだけ栄養の回復をはからなければならない。
それにはなるべくお好みの食物を口から差し上げるのが最上の策であった。
秩父宮もこれをお聞きになって、それならば努めて食物を摂るようにしようとの御意向であり、また肝炎はすでに回復に向かい食欲もいくぶんかは出る徴向も見えてきたので、これは可能であると信じられたが、不幸にも御別邸に流行性感冒が侵入し宮家の方々はこれに罹患し、ついに秩父宮にも伝染してしまった。
熱は大したことにはならなかったが、止まっていた咳が多く出るようになり、せっかく召し上がった朝食を吐かれるようになり、口から差し上げることが再び困難となった。
個々の御病状はいずれも致命的なものではなかったが、相次いで波状攻撃的に立ち直る余裕を与えずに来たので、心臓が持ちこたえられなかったのである。
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折笠秀晴博士
私が満5年奉仕した間 御容体御治療に関してこちらから申し上げない限り、秩父宮からは一つとして何のお尋ねもなかった。
拝診が終ってからも、「今日はどうであろうか」というような御質問・御疑問の類は一度もなかった。
終始すべて任せたいという御態度であった。
何事も必ず医師の言を聞かれてからおやりになった。
結核の新薬は戦時中・戦後といろいろと出されていたが、それでも「あの薬を使ってみたらどうか」というようなことは絶対に仰せにならなかった。
それでいて新薬のことはよく御存知で、時には専門家の私たちが驚くようなこともあった。
また医師の方から言上しない限り、何事もいつまでも黙っておられた。
まして医師に内緒で薬を飲まれるとか、他の療法をされようと考えることもない。
このことは再三の大手術にもかかわらず、病状を混乱させずによく知ることができた最大の原因である。
私たちが病室でそっと雑談している時にも、秩父宮はよく瞑目して考えておられた。
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1953年1月2日、高松宮と三笠宮が新年の御挨拶をかねて鵠沼御別邸に御見舞に来られた。
1月3日、当時日赤血液銀行所長であった東陽一博士は、神奈川県藤沢の自宅で静かな正月を過ごしていた。
ところが秩父宮はの義弟に当る徳川義知が突然東博士を訪問した。
秩父宮が御重態で静脈注射をしなければならないが、各名医の方々の努力にもかかわらず静脈穿刺に成功しないので東博士に依頼に来たのだ。
東博士は10年以上も静脈注射を試みていないので自信がなかったが、そんなことを言っている余裕はないと、急遽迎えの自動車に同乗して鵠沼御別邸に参上した。
御病室に入ると、秩父宮は東博士に気づかれると、「やあ、しばらく」と懐かしそうに微笑された。
東博士は御挨拶もそこそこに秩父宮の腕を拝見したが、過去の数々の注射ですでに肘静脈からは注射ができない。
そこで「お御足に注射させていただきます」と申し上げると、秩父宮はかすかにうなずかれた。
東博士はなるべくよく切れる細手の注射器で足の甲に穿刺したところ、幸い一回で成功した。
じっと見守っておられた秩父宮妃がホッとした御表情をされたのが印象的であったという。
濃厚なブドウ糖を100ccほど注入して静脈注射の成功をお知らせすると、秩父宮は「ありがとう、東さん」と低い声で言われた。
御臨終は1月4日午前4時30分であった。
秩父宮が御療養生活に入られると、やがて国民の間で病名が結核であることが秘かに囁かれるようになった。
当時宮内省では正式に結核とは発表しなかったが、1941年大東亜戦争が勃発した頃にはすでに公然の秘密であった。
実はすでに早くから胸部疾患の徴候は発見されていたのである。
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下山琢磨 作戦課班長
老生が常に心配していたことは秩父宮が庶民と能力を競われる傾向を持っておられたということで、これがすべての点に無理の重なる根本原因になったのである。
その負けず嫌いの御気質に対して、陸軍幼年学校時代から火に油を注ぐ御指導を申し上げたのはなんとしても無茶であり、また参謀本部に御在職間 作戦計画等の繁雑な細務までお自らおさせしたごときは短見であり、間接の責任者である私は恐懼しているところである。
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1940年6月御病名がはっきりわかるまで、秩父宮はずいぶん御無理を重ねられてきた。
軍人としての軍隊生活と同時に、皇族としての二重の御生活に追われていた。
ときおり側近が「そんな御無理をされなくても」とお諫めしたことがあったぐらいである。
学習院から同時に陸軍幼年学校に進学した生徒のほとんどが、種々の理由で脱落しているのを見てもうなずけることであろう。
これらのことに拍車をかける結果になったのが、秩父宮の御性格である。
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宮内省 高橋信
*秩父宮がヨーロッパ外遊の際に肺炎になった時、急遽ベルリンから呼びつけられた医学博士
秩父宮は元来が御自身の御病気を割合に軽くお考えになり、当時の秩父宮の御病後の状況も良くなく、侍医中村順一もかなり困っていた。
それで私から「流行性感冒の性質上 後日再び罹患されやすいので、病後の御養生をくれぐれも無理なさらぬよう」申し上げておいた。
しかし再三の流感によって御旅行中幾多の行動の制限を余儀なくされた。
ここで注意すべきことは、秩父宮の御性格である。
平生元気な者は病気になっても少しくらいのことは無理を承知で押し通す。
なかなか医師や周囲の人の言を用いない傾向がある。
秩父宮もこの傾向の御方であった。
この御性格は御幼少の頃かららしく、かつて秩父宮侍医であった村地長孝が、
「裕仁皇太子〔昭和天皇〕は侍医の言うことをよく素直にお聞きになるが、我々の方の宮様〔秩父宮〕はなかなかそうではないので骨が折れる」と私に漏らしたことがあった。
秩父宮が世上定評のごとく、才気煥発・鋭気溌溂たる御方であったことは事実である。
御自身でも才能・健康については誰にも負けるものかというお考えがあった。
したがって御病気になっても、自然と無理が重なったことと思われる。
それにかかられた御病気が秩父宮にもっとも不向きな身体の安静、ことに呼吸器の安静に関係ある結核であったことだ。
秩父宮は社交的で、したがって訪問客も多く、普通の人と違って真の静養が困難であった。
言葉を変えて言えば、どんなに身体の調子が良くても世間との没交渉に入り、5年でも10年でも孤独無言の生活をするのが理想とされるような御病気にかかられたので、人一倍お気の毒であった。
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■妻 松平勢津子 外務官僚松平恒雄の娘/会津藩主松平容保の孫
1909-1995 85歳没
*米フレンドスクール卒業
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秩父宮勢津子妃の親友 白洲正子 樺山愛輔伯爵の娘・白洲次郎の妻
秩父宮妃と私は小学3年の時から同級生であった。
性格もあちらは生真面目な秀才で、こちらは名うてのお転婆ときているから、ほんとうならうまくいくはずはない。
それを結びつけたのが富士の裾野での生活というのだから、思えば不思議なこととしか言いようがない。
秩父宮妃の父上の松平恒雄氏と私の父樺山愛輔が昔から親しかったためで、秩父宮妃は毎年夏休みを私どもの別荘で過ごされるようになった。
お互いに正反対の性格であったのがかえっていい結果をもたらしたのだと思う。
富士山によって結ばれたご縁はその程度のことでは終わらなかった。
私が14歳でアメリカに留学すると、その半年後に松平大使がワシントンへ赴任され、秩父宮妃と私は再会する。
今度は私が休暇を大使館で過ごすようになり、楽しさがよみがえった。
それだけではない。
私がハイスクールを卒業して一足お先に日本へ帰って来ると、私の父が貞明皇后から内密の御依頼を受け、勢津子さんを秩父宮妃に迎える実質的なお仲人役を仰せつかった。
父は何度も辞退したようだが、許しては下さらなかった。
周知の通り会津の松平さんは容保の後裔で、明治維新の際には新政府と戦わざるを得なかった悲劇の大名である。
いわゆる戊辰の役では私の祖父たちは敵方で、鶴ヶ城を攻め落とした張本人であった。
中でも松平恒雄氏は会津魂の権化のような人物で、華族になることも快しとせず一生平民で押し通した殿様であった。
そのような人物が喜んでお姫様を妃殿下に差し出すはずはない。
私の父がお仲人役を遠慮したのも、松平さんの性格をよく承知していたからだろう。
案の定、その役目は失敗に終わった。
松平夫妻がお受けしなかっただけでなく、
勢津子さん自身も「そのような重任には堪えられない。どなたか適当な方を」と辞退されたのである。
父はいったん帰国して報告に及んだが、貞明皇后の勢津子さんに対する御執心は並々ならぬもので、
再度のワシントン行きを強要され、父もお引き受けせざるを得なかった。
その時はワシントンに3日滞在し、帰国した時の父は疲労困憊していた。
「セッちゃんの頑固さにはほとほと参ったよ。三日三晩くどいてやっとウンと言わせた」
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秩父宮妃◆うちの宮様は陸軍の幼年学校から士官学校に上がって、任官遊ばすと責任を持つ。だから自分達は育ちが特別だから意気地がないと見られないよう、例えば山を越えて行くんでも必要以上にお頑張りになるわけですね。
実際は御身体が伴わないのに、お頑張りがきく間はお頑張りになったもんだから、秩父宮はそれがオーバーになっておしまいになった。
少々の熱などは無視されるようになったことも確かです。
高松宮妃◆うちの宮様は皇族という御仕事と軍人の仕事と両立させていらして大変でいらしたと思うわ。
特に秩父宮が御病気でいらしたし、皇族としての御立場での御相談相手でもいらした。
秩父宮妃◆うちの宮様はそちら様を一番お頼りでいらした。
早くから御殿場で御安静に専一の御生活ですもの。
ちょうど悪い時に外国にいらしたものですから。
肺炎が流行っていたんです。
向こうで肺炎のとても重いのにおかかりになって、私がまたその後すぐそれをいただいてしまいました。
私も御一緒に葉山でせめて冬のひと月だけでも御静養いただきたいとお医者様から言われたんですけど、その頃はもう戦争戦争という状況だしそれどころではなかった。
一応お治りになってからもお咳はまだ出ておりました。
本当に泣きたくなるほどこっちの知識が足りないのと、今ここが大事だということを何も知らないから、秩父宮がよくお頑張りになられるから大したことないだろうと。
そういう無理をずっと続けていらっしゃったのが悔やまれます。
昭和両陛下ともわざわざ御殿場においでいただきましたし、貞明皇后もたびたびお越しいただきました。
高松宮は高松宮妃と何回もおいでいただきました。
高松宮妃◆終戦日に伺いましたよね。
秩父宮妃◆当日ね。
あの時はお風邪を召していられたので、いったいどういうことになるか不安でした。
昭和天皇の初めての御放送で、こんな悲しい、終戦と言っているけど敗戦ですから。
本当に思いもかけない出来事で、しかも初めて御放送遊ばすから、御兄弟として心配していらっしゃるわけ。
お耐えになれるどうか、それからみんながちゃんとわかるかどうか。
そこへ高松宮が高松妃と御一緒に、お忙しいのにわざわざいらしてくださいました。
お知らせのあった時は、よくぞと嬉しく感激いたしました。
お兄様とご一緒に御放送を伺おうとお思いになったからでしょう。
やっぱり御兄弟で一緒にお育ちになったお兄様がはたしてうまく放送おできになるかどうか、お兄様の気持ちもお辛かろうから、せめてご一緒に聞こうというお気持ちなのね。
高松宮妃◆昭和天皇の放送を四人で御一緒に伺いました。
秩父宮妃◆四人で伺ったのね、涙ばかり。
高松宮はすぐ御用で飛んでお帰りになった。
私はお昼の代わりに何か差し上げなければといっても、あの時代ですからお米とか玉子とか鶏とか飼ったり作ったり全部自給自足していましたから、お粗末な食事でしたけどそれを召し上がっていただいてお立ちになった。
高松宮妃◆お姉様のところへはよく遊びにうかがったわね。
秩父宮妃◆よくいらしていただいた。
ローラースケートもやったしね(笑)
高松宮妃◆そうなのよ。
屋根裏ってとこがあるの。
こちらの三階にね。
秩父宮妃◆三階の屋根裏の板の間でローラースケートの御稽古したんです。
高松宮妃◆ゴロゴロやるのよね。
お兄様がお留守の間に。
お兄様は軍務でしょ。
高松宮妃◆そう言えばお姉様と御一緒に那須にお泊まりに参りましたね。
秩父宮妃◆那須の御用邸には付属邸というのが別におありになって、そこはかなり遠いのね。
高松宮妃◆全然離れているのね。
その付属邸にお姉様と二人でお泊まりして、夜中じゅうおしゃべりしました。
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三笠宮寛仁親王 2008年
秩父伯父様は人の反対があってもお聞き入れにならない豪胆なタイプの方で、ヨーロッパの山登りやスキーなど何にでも挑戦なさったそうです。
秩父伯母様からも、「寛ちゃんは秩父宮様の生まれ変わりみたいだ」と可愛がっていただきました。
よく、「もし秩父宮様が御元気だったら、寛ちゃんと話が合っただろうに」と仰いました。
秩父伯母様は皇族の中で最も英語がお得意で、社交的で素敵な方でした。
日英協会の初代総裁は秩父伯父様、二代目総裁が秩父伯母様、私がいま三代目を継いでいます。
私は秩父伯父様に憧れてオックスフォードに留学したり、スキーやボートの選手になったぐらいですから、尻ぬぐいは甥っ子がやらねばと受けることにしました。
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