直球和館

2026年

◆秩父宮雍仁親王(淳宮雍仁親王)123代大正天皇の二男
1902-1953 50歳没


■妻 松平勢津子 外務官僚松平恒雄の娘/会津藩主松平容保の孫
1909-1995 85歳没

*米フレンドスクール卒業


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『東久邇日記』東久邇宮稔彦王

1945年8月29日
秩父宮は御病気が良くなり久しぶりに上京され、私に会いたいと言われているので秩父宮邸に行く。
秩父宮邸の西洋本館は焼失しているが、庭の奥に日本館が残っている。
ここでいろいろと時局の御話をした。
よほど良くなられて、大いに肥えられている。
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田島道治『日記』宮内庁長官

1949年3月6日
元東宮伝育官石川岩吉氏来室、秩父宮・高松宮の性格談。

1949年7月13日
GHQ副官ローレンス・バンカーと会見。
秩父宮のインタビューを昭和天皇に持って行けと言う。

1949年7月14日
秩父宮の意見は、Mutsu の Misrepresentation 大部分にて日本人の自覚反省要旨にて進駐軍の批評にあらずとのこと、少し争う。
ローレンス・バンカー訪問、ありのまま言う。
秩父宮は自分に I regret 的なことを言われたと言う。
misunderstand の原因をまきしことにつき、バンカー了承す、ただし釘を差さる。

1949年7月15日
昭和天皇に拝謁、昨日のこと委細言上す。
逆効果かも知れぬが三殿下〔秩父宮・高松宮・三笠宮〕にこの際念のため注意を申し上げるよう御命令あり。
なお、節子皇太后にも言上せよとのこと。

1949年7月16日
秩父宮に委細申し上ぐ。
帰る時「また厄介かけるかもしれぬ」とわがまま口あり。
高松宮に御話す。
「昭和天皇の御話は承り置くも、新聞社に会わぬことはできぬ」との御話。
利用云々の御言葉もあり、不遜との御言葉ちょうだいす。

1949年9月28日
皇太后宮大夫坊城俊良来訪。
宮様方の行動につき御不満の話、節子皇太后としっくりせぬようなこと。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1949年7月13日
昭和天皇◆秩父宮の陸奥イアン陽之助会見記のこと、陸奥は日本人なるに英語で話したとはどういう訳か。
とにかく御殿場に行き、聞け。
御病気でナーバスゆえ、強い言葉が出たということも考えられる。
私の希望としては、秩父宮が適当に軽い陳謝的なことを言われる方がよいと思う。

1949年7月15日
田島長官◆御殿場の回答を繰り返し、またGHQ副官ローレンス・バンカーとの話を繰り返したる上、まず無事に納まりましたが、バンカー副官を通してマッカーサーが釘を差しました故、今後万一にもこれと同様のことが起きたとすれば言い訳は一つも成り立たず、結果より責任を取らされることとなりますゆえ、そしてそれは宮様の責任としてでなく昭和天皇に御迷惑の及ぶこととなりますと思います。
昭和天皇◆宮様たちにはマッカーサーの言ったことは既に言ったことでもあるが、この際念のため改めて田島より私の希望を伝えてくれ。
節子皇太后にも。

1949年7月23日
昭和天皇◆昨日節子皇太后がお出でになったのは秩父宮のためだ。
田島からいろいろお聞きになって、新聞記者というもののことが少しお分かりになったようだ。
ただし「日本の新聞記者はそんなものかもしれぬが、外人は良いか」とのことなりしゆえ、
「そんなことはありませぬ。同じです」との御話をした。
例の「陸軍的な動機が良ければ結果は構わぬ」というお考えは困るということを申し上げ、
「むしろ結果のよいことは少し動機が悪くてもその方がよろしいぐらいだ」と申し上げた。

1949年9月7日
昭和天皇◆進駐軍の趣旨には悪いが、先だっての秩父宮の新聞事件のことに関して、別当のようなものを新設して秘書的に置くということはどうだろうか。
田島長官◆仰せの通り進駐軍は宮家の人を宮内庁で負担することには大反対でありますが、それは別として高松宮の現状ではその制度ができても何もなりませぬ。
高松宮自ら御会見して、御面会者の選択を事務官吉島六一郎にもお許しにならぬ状況でありますから。
しかし仰せゆえ、研究しましょう。
昭和天皇◆もう、研究せんでもよい。

田島長官◆秩父宮の新聞事件に発する昭和天皇の命を高松宮にお伝えせし際、「不遜なことを言う」と叱られた。
昭和天皇◆先年高松宮が御名代の時、強く新聞記者のこと仰せにありし時は「行かぬ」との仰せありしゆえ、「それならばやめてもらう」と仰せにより、高松宮「行く」と仰せになりし由。
田島長官◆元高松宮別当石川岩吉に聞きし高松宮の御性質等より、何かにおもねらるる様にも思わるる旨。
昭和天皇◆東条英機・嶋田繫太郎は大反対で、しかし海軍砲術学校の時は主戦論、何か周囲の者に主観的に同意せられ表論的に意見を述べ先見を誇らるる傾向あり。
田島長官◆秩父宮は先日申し上げし際、「また厄介をかける」との雑談的御返事なりしも、厄介をかけたとの御挨拶と存じました。
また高松宮も新聞記者のために相当苦い御経験もあるらしく、御利口の方ゆえ今後新聞でお困りになることはありますまい。
〔妻子を残してフランスに留学した稔彦王は、再三の帰国命令を無視して関東大震災で息子が死んでも7年間も帰国しなかった〕
昭和天皇◆東久邇稔彦王のフランス問題の時は、結局私から促してやっと帰られたが、この時 秩父宮は稔彦王に同意せられたことがある。

1949年9月15日
〔昭和天皇の研究『相模湾産後鰓類図譜』が出版される〕
田島長官◆宮様方にも科学上の御知識はとにかく、贈呈しかるべきと存じます。
昭和天皇◆秩父宮に「研究所で採集のものを本にする」と話した時に、
秩父宮から「昭和天皇御自身の御名前をお出しになること云々」の御話があり、また本をあげればそれを蒸し返されるかもしれず、イヤなのだ。
田島長官◆それはやはり大きくお考えのうえ御贈呈しかるべきと思います。

1949年9月19日
昭和天皇◆三笠宮から本の御礼がすぐ来た。
三笠宮は近来よほどよくおなりになったように思う。
『改造』に寄稿は困るが、まあよくおなりと思う。
高松宮は遅く御礼が来た。
秩父宮はまだ何とも言ってこない。
東宮も御礼が遅かったが、これは年少で侍従の出したのに気づかれるのが遅くとも仕方ないが、宮様方は新聞も御覧で早く御礼あってしかるべきだ。

その後三谷侍従長曰く、「昭和天皇は今回の本につきては非常に particular である。例えば『田島は東宮御床上げのとき賜物に反対したが、今回は希望するのはどうか』との御話あり。三谷その区別を申し上げ御了解になりし由」

昭和天皇◆『サンデー毎日』三笠宮が「自然科学に興味がない」と仰せになるとしても、
「こういう本〔『相模湾産後鰓類図譜』〕が出たことを喜ぶ」と一言あそこで言ってくれたらよさそうだと思う。
それなのに、「国民の方が私たちより近い」とか何とか言うのは嫌味のようで、共産党らが兄弟間がうまく行ってないというようなことを持ち込む余地を与えるようなことはまずい。
田島長官◆昭和天皇がお気に遊ばすほど一般読者は思いますまい。
それよりも三笠宮の新聞と自由の御発言の方がよくなかったかと存じます。
昭和天皇◆三笠宮は本の御礼の御挨拶は早かったが、御話は一向に出ず、三笠宮妃が美術的な御話のあとで「模様になる」とちょっとおっしゃるぐらいだ。
秩父宮は御礼は遅かったが、秩父宮妃の御話では外人にお見せになって御利用になさるようだ。
高松宮はしばらくお目にかからぬからわからぬ。
よくお出かけになるようだ。

1949年12月5日
昭和天皇◆いつか秩父宮が共産党を論ずればソ連に亘ることゆえ遠慮して意見は言わぬが、民主主義については議論されたようで甚だ変だ。
どうも秩父宮は、日独同盟を謳歌されたり、何も遠慮せんでもいいものを遠慮せられる。
田島長官◆共産党に関しては秩父宮も高松宮も皇室皇族を否定するものゆえあまり好感はお持ちないと存じますが、三笠宮はお若い方ゆえ多少理解をお持ちになりがちの点もあるかと思う程度であります。

1949年12月9日
田島長官◆恋愛結婚とか見合結婚とかいうことは皇室については如何お考えでございますか。
昭和天皇◆恋愛はとてもで、三笠宮ぐらいがちょうどよいと思う。
私と高松宮は全然古い風で、秩父宮は少し違い、三笠宮ぐらいがいいと思う。
節子皇太后は三笠宮の言いなりで、細川の娘〔細川護立侯爵の娘細川泰子〕を広幡大夫は「御顔が」と言ったが、私は御顔より照宮成子内親王と同級で、叔母様になる人が照宮成子内親王と同級ではと思って私は反対し、百合子妃は私が推薦したのだ。
その時のことを思うと、いま三笠宮がいろいろ言われるのはどうかと思ってる。

1950年1月2日
田島長官◆今朝の秩父宮の御放送はお聴きになりましたか。
昭和天皇◆まずよかったが、「皇太子はスキーに行けるが、私の頃はできなくてうらやましい」というような御言葉はどうかと思った。
第一その頃はスキーはなし、また天皇で言えば明治天皇はよほど御自由で、次に大正天皇、それから私だ。
私も皇孫の頃は相当自由であり、皇太子としては大正天皇、それから私、今は東宮が一番自由がないぐらいで、これは時世である。
田島長官◆それぐらいのことはまずまず結構で大したことではございませぬ。

1950年1月6日
昭和天皇◆今朝の新聞に高松宮が東宮御洋行のことを話しておられるが。
高松宮は新聞社員などには実にうまく仰せになり、時期の問題だと仰せになった誠によろしい。
こういうことは秩父宮や三笠宮と違っておよろしい。
三笠宮は御正直で、御口と御腹は一つでその点はおよろしいが、仰せにならぬでもよきことを仰せになり、それも御自分のことをいつでも省みて仰せになるが、多少歪められている場合もある。
例えば結婚の問題なども、私と高松宮は決まっていたようなもので、秩父宮は少し違うが、三笠宮はずっと御自由で御自分で御選択になり、節子皇太后はいいなりであったのに、御自分では外部の力によったように思って御話になり、ちょっとわからぬ点がある。
日光や葉山の御用邸の付属邸など、節子皇太后と三笠宮と御一緒にお住みのために作ったものだが、「親子兄弟一緒でなかった」という風に人に御話になるが、あの点はどうかと思う。

1950年6月22日
昭和天皇◆田島は知らぬから宮中服のできた沿革を話しておこう。
それは第一に高松宮妃の主唱でできたので、秩父宮妃などと研究の結果できた。
私はむしろ反対だったが、結局出た。
理由は洋服は英米的だというのである。
同盟の独伊も洋服だからと反駁したが、軍人などは何か国粋的なものという声を上げてた。
これに妃殿下方がまず乗ぜられた。
第二に繊維不足という時勢の声に対し、一反の反物ででき、上衣は丸帯でできるということであって、まあ結局承知したが、後でわかったことには、上衣は丸帯ではできず新調ということになり、東久邇の叔母さん〔東久邇宮聡子妃〕など「洋服以上に面倒だ」と私にこぼされるようになり、宮内大臣松平恒雄に上衣をやめることをいくら話してもなかなかやらず、通牒でやっと出したが、「戦時中」とあったゆえ、これを「当分」と変えようとしたが、松平は遂にやらず宮内大臣が石渡荘太郎になってこれが実現した。
上衣のヤメやら何やらで節子皇太后は結局今までお着にならず、お作りにならない。
なお高松宮妃の御自分的な理由は、今までの洋服裁縫師がいなくなったことであるが、これは私的な理由で私はどうも賛成できなかった。
その高松宮妃が戦後批評が出るとすぐ洋服を自由になさるのはどうかと思う。
秩父宮妃の、相当の研究の結果ゆえ不評でも何とか改良してという立場の方が理解できる。
フランス大使か誰かが三笠宮妃に「この服はなってない。パリでお作りなさい」と言ったこともあると聞いている。
私は宮中服には本来賛成してない。
和服が良いと思うが、節子皇太后が不様という訳で不賛成で宮中服となり、しかも節子皇太后は宮中服は召さぬ訳だ。
田島長官◆和服について併用の意味で節子皇太后のお許しを得て、和服の方向に行き得るかよく研究いたします。
昭和天皇◆節子皇太后のモンペも戦争の防空から来てて、戦時色はある。

1950年7月5日
田島長官◆三笠宮のことに関連し、明仁皇太子・常陸宮のこともなかなか考えさせられまする。
明仁皇太子は特別にて民法に長子相続もなくなったにかかわらず、皇室だけは長子相続の建前で二男・三男は冷や飯で、この点よほど注意しなければならぬと存じます。
明仁皇太子のことは東宮大夫穂積重遠の無責任では駄目ゆえ東宮参与小泉信三に替ってもらうという具体案ができてお許しを得て実行しましたが、常陸宮についてはなお研究中。
昭和天皇◆田島は戦争後になって宮様方が平民的自由と皇族の特権とを両方活発にやられるようになったと言ったが、戦前からずいぶん平民的な特権をやっておいでだった。
一つは別当などの人がついていたことと、今一つは検閲制で新聞に出なかったというだけだ。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1950年8月7日
秩父宮妃 節子皇太后に御対面の節、服装の御話ありし由。
「和装は裾が風にひるがえることが悪い」云々。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1950年12月18日
田島長官◆秩父宮人件費二人分、宮内省特別の御要求をお断りしましたが、御病気のために御殿場の御住居となり、東京事務所と二カ所になりまするために経費増加のやむを得ぬことゆえ、東京の方を縮小の方法か、あるいはまた御療養費として御下賜かの方法も考える必要ありと存じております。
昭和天皇◆御病気ゆえ、よく考えてあげよ。

1950年12月21日
昭和天皇◆秩父宮が二人の人件費を持ってくれと言い出された動機が何かあるか。
田島長官◆だいたい御病気のため経済面には御無理があり、最近40年も勤務の者が不始末を致し、すでに解雇になりましたが、慰労金を差し引いて大した御損害ではありませぬ由ですが、こんなことが動機かと思いまするが他にはちょっと思い当りませぬ。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1951年2月5日
昭和天皇◆節子皇太后が前の式部長官武井守成のことをお褒めになるのはどういう理由からから私は知らぬが、宮中服を作る時に骨折ったことなどをお考えかもしれないが、宮中服は戦時型であり、また宮廷以外に用いられないことが民主的でないとの批評を買っていると思うのだが、節子皇太后はずいぶん宮中服のことを遊ばしたが、裳衣が駄目だからという理由でなく、その前から一度もお召しにならないのでよくわからないのだ。
田島長官◆御服装の問題は難しゅうございますから、格別現状を変えず時には和服もお召しになり、
自然落ち着くところに落ち着きますことと存じますが、良子皇后が和服をお用いになりますことを田島より明らかに節子皇太后に申し上げまするのは好機でなければならぬと存じます。

1951年2月20日
昭和天皇◆昨日主治医からも聞いたが秩父宮は軽い容体ではないらしい。
腸結核とは言えぬまでも、腸にも少し結核が来てるようにも聞いた。
万全慎重の御療養をしていただきたいと思う。
またお金の費用もかさむだろからよく考えてくれ。

1951年5月29日
昭和天皇◆昨日の三笠宮の話は服装のことであって、宮中服のことなど一般的な私の考え方を話し、また照宮成子内親王の今度の宮中服のことはむしろ良子に聞くことで何だか物の軽重がおかしい。
良子より女官長に言ってもいいような問題だ。
すぐ良子に聞いたら照宮成子内親王も宮中服に決まった。

1951年6月5日
昭和天皇◆昨日突然秩父宮妃と高松宮妃が来られて、高松宮妃は宮中服は失敗だったとの観念があるらしく、はっきりあれは間違いだったとの話はないが、秩父宮妃は別の態度で何か一新軌軸を出そうとしたもので、一朝一夕に廃すべきでなく、また戦時に関連したものでもないとのお考えが強く、とても強固だ。
それほど時局に影響ないならば、その時にも私は言ったのだが、
「戦争済んでから日本古来の伝統も考えてゆっくり新しいものを創造していいではないか」
それをあの際やったのは、何と言っても戦時色あるを免れぬと思う。
三笠宮なども「洋服は米英式だ」と言ってたような時代で、
私は「ドイツ式でないのか」と言ったことがある。
だからこの際 私の天皇服のように一時 人の目の見える所のみとして、世の批評を聞き、再検討・再出発すればよいので、そのつなぎに和装をやってみれば、またそれの批評も出よう。
秩父宮妃が宮中服成立の経緯につき、相当主張あることを物語りしゆえ、話が出るかもしれぬから参考に話す。
田島長官◆田島は節子皇太后〔貞明皇后〕に良子皇后〔香淳皇后〕和装の明瞭な同意を得るつもりでありましたのが御崩御ですが、昭和天皇の御趣意にも合しまするゆえ、和装をお始め願えばよいと存じます。
昭和天皇◆秩父宮妃が宮中服に執着強く、改良してモノにしたい意思が強いが、何か古い伝統のあるものは廃するに忍びぬことがある。
田島長官◆それはそうでありますが、宮中服はそういうものではありませぬ。
昭和天皇◆そうだよ。

1951年6月15日
昭和天皇◆節子皇太后の御遺書の事だがねー。
節子皇太后は筧克彦の御進講「神ながらの道」をお聞きになったのだが、その筆記をどういう意味かわからぬが秩父宮にあげてくれとある。
これはその通りにするだけのことゆえ差し上げてもいいが、どうして秩父宮かということはわからない。
とにかく秩父宮は貞明皇后の一番お気に入りであった。
三笠宮も末のお子さんで〔溺愛され〕高松宮が御不平で、
戦争の時 支那の上海か何か危険な所へお出でになったのも、その御不平のためであったような話も聞いた。

1951年6月27日
昭和天皇◆秩父宮は節子皇太后の伝記のことをしきりに言っておられたから、
「天皇皇后の実録は編纂する義務のあるものと思うから、書陵部で然るべくやると思う。しかし今は特殊な人を雇うような大掛かりなことはできぬだろう」と言っておいた。

1951年7月13日
昭和天皇◆吉田と話して講和後のことを言ったら、
「締結後、御言葉をいただきたい。あまり有頂天にならぬような意味で」と言っていた。
「宮内庁長官とよく相談してくれ」と言っておいたから。

昭和天皇◆菊栄親睦会で朝香宮鳩彦王と東久邇宮稔彦王がしきりに私にゴルフをやれとの御話。
「私は採集などをやってこれも運動ですから、まあやりません」と言った。
どうも今ゴルフというのは一部の人には何か贅沢のような感じを与えてよくないと思う。
稔彦王に那須御用邸のリンクのことを聞かれたから、「草ぼうぼう」だと言ったら、
「みなの行くリンクの方に出かけたら」という話であった。
葉山であまり人目に立つというに、そんな御話だった。
だいたい皇族さんの発言はあまり考えないことが少なくない。
宮中服でも熱心にやり出して、不評の時は自分らはさっそくやめて、矢面に当るのは我々だ。
こんな馬鹿らしいことはない。
ゴルフが第二の宮中服みたようになるのは私は御免だ。

1951年10月4日
田島長官◆吉田首相、宮中服はあまり好かぬらしく。
昭和天皇◆あれは誰も好かぬ。
秩父宮妃ぐらいだろう。


1951年12月13日
田島長官◆『原田熊雄日誌』第6巻に西園寺公望が綏靖天皇の事を引き、「直宮様方は何もお考えにならぬが、勢というもので何か起こらぬとも限らぬ」という意味を二度申しておりますが。
昭和天皇◆西園寺は私にそういう事は言わぬし、原田に言ったかどうかも知らぬが、秩父宮は英米反対で日独同盟論を強く主張せられ、私はついに「そういう意見はもうあなたから聞かない。板垣陸相に言ってください」と言ったぐらい、第三連隊に関係が深く当時の陸軍の考えの通りであった。
参謀本部で閑院宮載仁親王が、「秩父宮は食堂へもおいでにならぬ」というようなことを言っておられた。
高松宮は砲術学校の時にかなり主戦論をされて私とケンカし、高松宮妃も同席して困っておられたこともある。
そんな事が自然西園寺の耳に入り心配してたのかも知れぬ。

1951年12月17日
田島長官◆高松宮が宮内職員高尾亮一に、
「終戦の際昭和天皇が万世の為に太平を開かんと仰せられたのに照応して、条約効力発生の時 何事か仰せになった方が良いと思われる」との御話があり、退位論など影をひそめていると確信するとの話がありました。
昭和天皇◆そうか、高松宮は今は退位論ではないのか。
高松宮は私に直接退位をおっしゃった。
そして「毎日のことでないから、御病身でも秩父宮が摂政にならればいい」と言われた。
口では秩父宮と言ってたが、腹では自分と思っていたのではないかしら。
東宮ちゃんが成年に達し、御自分が摂政になれないから退位論を改説されたのかしら。
秩父宮は終戦直後に内大臣木戸幸一や内大臣秘書官長松平康昌に、退位論ではない御説をはっきりお言いになった。
田島長官◆田島は一昨年や昨年は秩父宮のそうではない御意思の印象を受けております。
昭和天皇◆お変りになったか…。
田島長官◆いずれにしましても先だって来の文章ができますれば、世間発表前には御兄弟様に御内示になり御納得願った方が良いように思われます。
昭和天皇◆その方がよかろう。

1951年12月20日
昭和天皇◆秩父宮が退位論らしいという話だが、松平慶民〔宮内大臣〕時代は明らかに退位に反対しておられたが、どういうわけか。
当時の反対は誰か摂政にならなければならぬので反対で、今日は摂政の問題が無くなったゆえ退位論になられたのかしら。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1952年2月20日
秩父宮より御手紙。

1952年4月20日
秩父宮「御言葉は難しい。この際やめて正月御放意という例よくはなきや」とのこと。

1952年4月27日
秩父宮に御言葉の文申し上ぐ。
「固い・抽象的、まずよからん」とのこと。

1952年4月28日
高松宮に御言葉の文申し上ぐ。
「戦争のことは言わぬ方よし。今さら平和論を言うと言われる」とのこと。

三笠宮に御言葉の文申し上ぐ。
約50分熟考、御説あり。

1952年4月29日
三笠宮、御言葉について意見書御持参。

1952年5月3日
式典は無事終了。
約一年苦労の御言葉もよし。

1952年10月12日
秩父宮「大勲位論、東久邇宮盛厚王に勲一等等云々の論は不愉快」との仰せ。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官 

1952年2月11日
田島長官◆英ジョージ6世の葬儀は東京で大使館主催の弔祭式があるかと存じますが、ヴィクトリア女王の時は小松宮彰仁親王夫妻、エドワード7世の時は嘉仁皇太子夫妻〔大正天皇夫妻〕ジョージ5世の時は高松宮夫妻が御名代ということでおいでになっておりますが、今回は国際関係が正常でございませぬので御名代はどなたにお願い致しましょうか。
昭和天皇◆秩父宮は御病気で御無理ゆえ、高松宮にお頼みしてもらおう。
田島長官◆良子皇后御名代も高松宮妃にお願い致しましてよろしゅうございますか。
昭和天皇◆御健康はどうかしら。
万一健康上の問題があれば秩父宮妃にお願いしてくれ。

田島長官◆まだ先のことでありますが、戴冠式が6カ月後なれば国交回復後と存じます。
その節もし駐英大使でなく御名代というような場合はいかがでございましょうか。
昭和天皇◆御親類の国は別として他の国の参列者の振り合いを見て、例えばフランスが大統領自ら行くという場合で政府も希望するようなら、私はむしろ名代が行った方が良いと思う。
その時もそれはやはり高松宮だ。
秩父宮は行かれないから、また三笠宮は歳もお若いから。

田島長官◆御静養のためおいでになりましたことゆえ、秩父宮お上りになりましても行幸啓の必要はないと存じます。
昭和天皇◆いや、私はまず上るということは断るつもりだ。
秩父宮の来られる日は暖かい日だろう。
つまり私も海に出たい日だから、その代りこちらから出かけて行くと言いたいのだ。
出かけて行くなら私は寒い日でも構わぬからねー。

1952年2月16日
田島長官◆高松宮邸に出まして昭和両陛下御名代の事をお願い致しましたところ、何か御機嫌が悪いことがありましたかいちいち何か仰せになり、
「私は秩父宮御病気ゆえ御名代を引き受けても良いが、良子皇后御名代は秩父宮妃が本当だ」という御説を強く仰せになり、
「昭和天皇の御思召もそうだ」と申し上げましたところ、
「ヴィクトリア女王・エドワード7世・ジョージ5世など、みな秩父宮夫妻お揃いの前例などを田島が申し上げぬから悪い」とか「秩父宮妃が御病気になればいい」とか「リッジウェイとの関係を田島が配意するのは馬鹿なことだ。日本が敗けた以上、下になるのが当り前だ」というようなお話でありましたが、辞去後高松宮より御電話がありまして、
「藤沢〔秩父宮別邸〕との打ち合せの結果、めんどくさいから私のところでやれとの話ゆえ、それでよろしい」とのことで決まりましたのでございます。
昭和天皇◆高松宮は秩父宮妃のことをいろいろ言われたのだなー。
田島長官◆何だかいろいろ順調な御返事がありませんでした。
まずイギリス弔祭式について御国威を失墜することなしに済んだと存じます。

1952年2月18日
田島長官◆三笠宮が田島の部屋へおいでになりまして、
「戴冠式の御名代はどうなるか、私の外遊ということについて最も良い機会だが」との仰せでありました。
突然でありましてビックリしましたが、直接こんなに早くお話が出ようとは予期いたしませんでしたが、
「8月よりもっと早いかもしれませぬ。したがって正常国際関係が復活していないかもしれませぬし、またその際皇族がお出かけになることになるか大使的な人になるかも分かりませぬ」とハッキリせぬお答えを致しておきましたが、昭和天皇に直接御話があるかもしれませぬゆえ、ちょっとお耳に入れておきます。
昭和天皇◆高松宮は社交のことは御上手で、私なんかよりとても御上手だし、秩父宮が行かれれば一番良いがそれは駄目ゆえ、高松宮はこういう時には適当な御長所がおありだ。
この前高松宮が行かれたのはガーター勲章の御答礼で戴冠式とは違う。
戴冠式だからねー。

1952年2月25日
田島長官◆今日の新聞には戴冠式はやはり8月7日で、先方から招待状が来てみなければわかりませぬのだそうでございます。
昭和天皇◆イギリスは昔から親善だから、できれば今後も。

1952年2月29日
田島長官◆秩父宮から御手紙をいただきましたが、戴冠式に御名代の問題があれば明仁皇太子がよろしいということであります。
田島はそれまで想像もいたしませんでしたが、御手紙を拝見してみればごもっともであり筋の通ったことで、具体的に考えてみるだけの要はあると思いました。
侍従長三谷隆信は消極的で、東宮職では若い連中はとにかく東宮参与小泉信三・東宮大夫野村行一の間では否定的に傾いております様でありますが、秩父宮に直接お伺いして昭和両陛下に申し上ぐべきと存じまして藤沢〔秩父宮別邸〕へ上りました。
秩父宮は例の通り御自分の結論に反する事は枝葉的にお考えになりお論じになりますが、秩父宮の仰せは大筋はよく通っております。
「戴冠式御参列は難しいことでなくなんでもないことで、御役目というものがない。これは高松宮がガーター勲章の御答礼においでになったのとは全然違う。スターとして主役は何もない。ならびに大名的である」ということで、御自分様の御経験の順序を伺いました。
「前夜グロスター公の晩餐会から始まって、当日は式部官に誘導されて席にお着きになるだけ、国会での午餐・バッキンガムでの午餐も向こうの人は不慣れな方にはちゃんと気をつけてくれるから心配無用。私的にはクイーンがお呼びになる少数の宴会もあろうけれども、大してお困りになることはない。随従の者もある程度までお付き添いできる」
「軍艦は無し、飛行機も汽船も外国のものであり、右翼の者から問題にされる」ということも申しましたが、
「日本が一等国だった時のことを思っては駄目だ」との仰せでした。
随行者の人選の問題は松平康昌らの名前なども申し上げましたが、
「松平は十分いいとは言えぬが、最近イギリスなどへ行ったということで及第点とも言えぬこともない。イギリスに在勤・在住・留学等の然るべき人がきっとあるだろう」との仰せでありました。
「なかなかありません」と田島が申し訳しても、
「小泉さんというような人も知らなんだが、明仁皇太子にああいう人ができたように探せばあるよ」との話でありました。
重光葵も足が悪くなければとの御話もありましたが、これはイギリスでは好評でもとにかく戦犯の点もあり問題になりませんし、徳川家正など良い点たくさんありますが、グロスター公接伴として当時問題になりました由で問題になりません。
秩父宮は非常な御熱意で、「話が進まなければ昭和天皇に直訴する」とのお話でありました。
田島もこういう場所へ一度おいでになればその御経験は御自信をお付けになる機会でよろしいかとその点は結構と存じますが、田島・宮内庁次長宇佐美毅の積極に傾くこと三谷侍従長・小泉参与の消極に傾くこともあくまでも感じで、まだ意見と申すまでのものでもございません。
昭和天皇◆交通の問題を心配するのは右翼ばかりではない。
東宮ちゃんとしてはまたとない機会であるが、東宮ちゃんは身体が健康とは言えないし、行くとすれば香港・シンガポールの線はどうしても不可と思うゆえ、カナダかアメリカ経由ということになる。
そうするとイギリスに行く前に相当疲れてしまうと思う。
その上イギリスの儀式ということは主役でなくてもやはり疲れるから、その点どうかと思う。
秩父宮の議論は筋は通っている。
これは三笠宮をやめてもらうには非常に良いがねー。

昭和天皇◆東宮ちゃんの御名代の話ね、良子と話したのだが「それはちと早い、若すぎる」と言ったのだ。
しかし私が「私がイギリスへ行った歳と比べると1年かそこらの差だよ」と言ったら、
「そうですか。そんならむしろ賛成です。行ったほうがいい」と言うのだ。
それでまたとない機会だし筋の通ったことだから、具体的な事とか客観情勢とか国民感情とかで行けなくなることもあるかもしれんが、それらの点が全て差し支えないならまあ望むという方の考えだから。
実は私は東宮ちゃんが長く留学というようなことはあまり好かぬので、そういう意味での留学とか洋行とかいうことはやめたいと思うぐらいだ。
アメリカが留学など言う時でも、これをやっておけばそれを断るにもいいしね。

1952年3月3日
田島長官◆先日秩父宮にお目にかかりました時、
「明仁皇太子の御服装はさしあたりは普通の服装以外のものは考えません」と申し上げましたら、
「ロンドンの仕立屋では燕尾服でも3回仮縫いをするから3週間ないし1カ月かかる」という御話がありました。
昭和天皇◆秩父宮が戴冠式に行かれたのはまだ日本のいい時で、私が行った時も日英同盟のある頃とは違うとしても、やはりよかった。
今度東宮ちゃんが行っても、その時のような待遇は受けられぬかもしれぬ。
どうもイーデンは労働党の外務大臣より日本に好意を持っていないようだし。
秩父宮の考えも御自分の行かれた時の考えでおられる点が多い。

1952年3月7日
田島長官◆戴冠式の件、新聞記者なども宮様は三殿下〔秩父宮・高松宮・三笠宮〕で、秩父宮は御病気として、他の二殿下ではあまり世の注目を引かぬらしく、ひそかに明仁皇太子と思ってるのもあります」
昭和天皇◆どうしてそんななのかねー。
高松宮は社交は御上手だし、内地でもいろいろお出ましになるが、それがかえって困るということになるらしく、節子皇太后から直接伺ったが、埼玉県県会議長が直接節子皇太后へ「高松宮は困る」と言ってきたことがあるとの話で、節子皇太后は否定の御返事をなすったと聞いたが、そういうこともある。
田島長官◆実は首相吉田茂が初めから明仁皇太子と思いましたのも、二殿下がイヤなためもあるかと思われます。
昭和天皇◆吉田はどうしてかねー。
秩父宮はいいようだが。
田島長官◆高松宮は御招待もお断りしますし、封書も拝見せんでお返しいたしますし、吉田首相は感情的にイヤらしゅうございます。

1952年4月22日
〔1952年5月3日サンフランシスコ平和条約発効記念式典の御言葉〕
田島長官◆秩父宮が「高松宮がしきりに御言葉と言っておられるが、私はどうかと思う」とのことでありました。
秩父宮は高松宮とだいたい御意見が一致かと存じましたが。
昭和天皇◆いや、意見は違うんだよ。
高松宮は結局海軍の意見、秩父宮は陸軍の背後というわけで。

1952年4月28日
田島長官◆秩父宮は御言葉を御丁寧に3回熟読になりまして、
「少し堅いようだ。それから抽象的だ」との御話がありましたが、
正月ぐらいに「何も仰せない方が良い」と仰せになってたことは、別に仰せになりませんでした。
「ああいうものはどうも少し堅くなるのも抽象的になるのもやむを得ない」と御退位のことについては何も御意見ありませんでした。
高松宮は一度ザッとお読みになり、「まあ、こんなものだろう」との仰せでありましたが、
「ブレントラストは誰か」と御質問があり、小泉信三・安部能成と申しました。
「もっと他に書き加えよというような意見はなかったか」との御質問ゆえ、
「原稿はずいぶん変わりましたが、比較的大きなことは戦争の事・終戦前の事に触れるか触れぬかで論がありましたが、この際それはやめた方が良いとなりました」と申し上げましたところ、
「それはやめた方が良い。戦争については昭和天皇は事実平和論者であられるけれども、詔書のことがあるから自分の意思に反した結果となったという仰せはやはりなさらない方が良い。《過去を顧み》という一句もあるし」との仰せで、高松宮も御退位について何の御疑問も御質問もありませなんだ。
昭和天皇◆そうか、高松宮はやはり御自分の御考より周囲の言うものに左右されるのだなー。
砲術学校の時は非常に主戦論で、東条の時は海軍の意を受けて非戦論、また終戦の時はもちろん早くというお考えだった。
御自分の意見というより周囲の意見に従われるのだなー。
田島長官◆先鞭をつけるとか意見をお急ぎになる所がおありではありませんでしょうか。
昭和天皇◆それもそうだが退位は、あの頃よく南原繁が上がってたからだ。
田島長官◆お二方とも御退位なきことに何の御異存もなき御様子に拝し、また御言葉も別に取り立てて仰せはありませなんだ。

1952年7月4日
田島長官◆三笠宮が『赤旗』にインタビューで御話になりましたことが外国へ響いているということで、ロシアに関係ある世界的な会合に日本も出席すべきだというようなことと聞いております。
先だって福島の新聞の事件は申し上げましたが、〔三笠宮が福島県の警察予備隊誘致を批判した〕三笠宮は一部的に真理と思われますると全体的にどうかと思うこともドンドン言われまする。
昭和天皇◆地位を考えない、その影響がどうあるかということを少しも考えない、困る。
それは秩父宮も高松宮も、御地位ということ影響如何ということのお考えがどうかと思う。
田島長官◆高松宮は御言葉はなかなか御利口に仰せになりますが、御行動は必ずしもそうも参りませぬようで、平和になったという御気持が多少は関係あるかもしれません。
昭和天皇◆平和になった今日ますます世間の目が光るから慎重の要がある。

1952年9月13日
田島長官◆明仁皇太子御名代のことは極秘のことでありますが、秩父宮の御発言によって参りましたことゆえ、招請のあったことぐらい昭和天皇から秩父宮と御話になりますることは如何と存じました次第であります。
(昭和天皇、別に何とも仰せなし)

1952年9月19日
田島長官◆秩父宮につきましてカナダ映画の件は田島が早飲み込みいたしました結果、昭和天皇にも御心配おかけしまたいろいろ迷惑を及ぼしたようでありますが、お詫び申し上げます。
昭和天皇◆私は田島からカナダ映画の話を聞いて、侍従などがあまり見当たらぬという話を聞いたので、秩父宮あたりがまた「侍従の数を減ぜよ」などと言われはせぬかと思い、また服装がいろいろあって、秩父宮妃や高松宮妃などまた宮中服のようなものでも言い出されはせぬかというような気がして、私は秩父宮はお招きせん方がいいと決めた後であったので。
(これは侍従入江相政が「我々平民の社会では通用致しません」と御諫言申せし、
「御自分の御子様方と共に御兄弟もご一緒に御睦びなるべく」旨に辟易してか、こんな変な理由を仰せになり真に変と思う)

1952年12月2日
昭和天皇◆秩父宮はどうか。
炎症を起こしてるという話だが、やはり腎臓の方か。
田島長官◆一度手術遊ばしました副睾丸のように伺っておりますが、御発熱はそのためか、そのためにお飲みの薬の副作用かはわかりませぬそうですが、一時は39度以上でもだんだんお下がりで、今日秩父宮妃はフランス大使館の晩餐に御上京で御泊りのようでありますから御順調かと存じます。
昭和天皇◆西本願寺大谷光明〔貞明皇后の義弟〕は腎臓を手術して一つだが、結核はあれでとまってゴルフもやるしピンピンしているようだ。

1952年12月7日
田島長官◆秩父宮妃の御電話では、秩父宮の御発熱は御服薬の反応ではなく、やはり手術なさいました副睾丸だそうで、それだけか他にありますかわかりませんが炎症がありますので、折笠晴秀・児玉周一・遠藤繁清・寺尾殿治の4人が拝診相談の結果、やはり手術願ったほうがよろしいということになりましたそうで、今までの手術は御殿場でありましたが、藤沢はお狭く二階の御書斎の所で遊ばすらしくございます。

1952年12月8日
昭和天皇◆秩父宮の病気、あのバイキンはなかなか勢力あるものに違いないが、結局体力が強ければ出れないと思う。
フットボールやカナダの午餐やお出かけが多いのではないかしら。
田島長官◆御昼寝をお取りになったり、医戒は十分にお守りのようでありますが、だいぶ御回復になりまして医者もよろしいと申しますためか、近来お出かけは多いのでありますが、それだけお感じがよろしいようでございますが。
昭和天皇◆秩父宮は室内でお楽しみのことがないからいかん。
田島長官◆最近はテレビをお買いになりましてお楽しみのようで。
昭和天皇◆あれは献上じゃないか。
秩父宮妃の話では献上のようだよ。

1952年12月10日
田島長官◆秩父宮の手術は延期ということになりました。
全て準備は整いましていつでもよろしいというところで、お吐き気のあることと御脈の多いことのために執刀の折笠博士手術をする勇気なく、内科の医師とも相談して御延期願うということになり、手術が延びて期を失したような取り返しのつかぬことなきことを折笠に確かめました。
先に副睾丸をお取りになり今回また他の副睾丸が悪くなりまして、開いた上あるいは睾丸まで取らねばならぬかもしれませんが、別に他に触りないとのことでありました。
停電ストのため便宜に一時的に電灯をつけてくれました由で、電産ストはずいぶん一般人に迷惑を及ぼします。
昭和天皇◆労働者もこういう一般に迷惑のかかることをなぜやるか。
新聞などももっと労働者の態度を攻めないか。
政府も一般に迷惑のかからぬよう処置を取らぬか。

1952年12月16日
田島長官◆秩父宮御手術の件は共同拝診の結果延期となりまして、引き続き御食欲がおありにならず脈も多いようでございますが、それが新薬の副作用かどうかを見てることかと存じます。
昭和天皇◆副作用ならばいいが、脈が多いとなれば心臓が。
田島長官◆大したことはない御様子で、今日も秩父宮妃がイギリス大使館の晩餐会に御出席で今晩は東京にお泊まりになります。

1952年12月24日
田島長官◆秩父宮の手術のことでありますが、お取り止めとのことであります。局部が手術せずとも快癒の方向ゆえでありまするか、急がぬ手術の性格ゆえお取り止めになりましたか、御手術をお急ぎにならなくても手遅れということは決してないとのことでありますゆえ、その点は心配ないと存じます。
昭和天皇◆それはいいが、御中止の理由によっては安心ならぬ。
どっちの理由かねー。
田島長官◆御手術はおやめになりましたが、医療的な御失費は多くあったと存じます。
手術の際はいつも思召で賜金がありましたが、今回は手術はありませんでしたが遊ばした方がおよろしいかと存じます。
昭和天皇◆それはやはり差し上げた方がいいだろう。
その金額等の事はそちらで考えてくれ。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1953年1月3日
秩父宮、実は2:30頃御危篤、新聞等公表は4時半薨去。

1953年1月5日
御解剖行われ、2時過ぎ帰宅。

1953年1月10日
次長・侍従長より昨日昭和両陛下、御葬儀に関し御不満のこと聞く。

1953年1月16日
高松宮御来室、秩父宮家財政のこと。
臨時費の他、月額補助従来の2/3になる程度御希望。

1953年1月20日
高松宮拝謁、秩父宮御会計御補助の件、長官にいろいろありがとう。

1953年7月25日
「三笠宮については秩父宮も困ったものであったが、御歳召せばよくなるとのこと、東宮妃のこと」
「〔東宮妃には〕秩父宮妃のような方を」と言いしところ、
「あんな人は例外的存在でなかなかない」とのこと。
田島の辞職は時期は別として容認のこと、後任宇佐美も了承のこと。
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『入江相政日記』侍従長

1953年1月3日
秩父宮がお悪いのでご案じ申し上げる。
7時過ぎの連絡で、もう御脈がふれず、御呼吸は27とのこと。
行幸啓になるべきではということになったが、行幸によってショックをお受けになってはというのでお取り止め。
床に入ったが、方々から電話がかかってくる。

1953年1月4日
秩父宮薨去の電話があった。
こんなことならやはり昨夜行幸になればよかった。
鵠沼の秩父宮邸に御供。
秩父宮妃が秩父宮がいますが如く、
「入江が参りましたよ。いろいろ御世話におなり遊ばして」と涙声で申し上げになっていらっしゃる。

1953年1月5日
三谷侍従長から、田島長官の意見として、お舟入りには行幸行啓を願わない方針で、その代り稲田侍従次長をお使いにお出しになったらということを聞く。
稲田侍従次長の部屋で、侍従小畑忠もいる所で、そういう時のお使いは意味をなさないということから始まって、根本的になぜお舟入りに行幸になってはいけないのかということを言う。
三谷侍従長が昭和天皇の思召を伺ったら「ぜひ行きたい」と仰せになって、行幸になることになる。
あきれたものである。

1953年1月6日
今日の御服装、モーニングか御背広かでもめた由。
これも田島長官のためにお舟入りが昨日遅くまで決まらなかったためである。
実際、イヤになってしまう。

1953年1月9日
式部の案によれば、昭和両陛下・明仁皇太子その他が御一緒におなりになるのが困るとのこと。
また常陸宮・清宮貴子内親王がごゆっくりおいでになるというようなことはスペースもなし具合が悪いとのことである。
そこで結局原案通りでお許しを得る。
その時にも「どうしてそんなに場所が無いのか。今度のことは田島などの形式にとらわれた考えのために事が窮屈になる。椅子はどんなのでもいい。無ければ立っていてもいい」と仰せられた。
式場から還御になったら、「話がまるで違う。場所はいくらでもある。三谷にも言っておいたが、官房の方に強く厳しく言っておくよう」という仰せだった。
三谷侍従長と稲田侍従次長にこの御沙汰を伝え、「今日の行幸は御通夜でないから10分でよいとか、御永訣に鵠沼に行幸になる必要は無いとか、そういう思召に沿わず人情にもとるような決定を軽々にしないよう田島長官に伝えてくれ」と話す。

1953年1月10日
今朝田島長官が昨日のことでお詫びに出たら、昭和天皇がまたいろいろ仰せられ、さらに小畑侍従に追加して御注意の御沙汰もあった由。
今度は相当効いたろうとのこと。

1953年1月13日
妻子から「なぜ昭和天皇が御葬儀にお出になるようにしない。宮内庁の馬鹿にはあきれる」とさんざんやられる。
これが国民の本当の声であろう。

1953年6月14日
三笠宮妃から電話で、
「明日戴冠式のニュース映画を御覧ならば、秩父宮妃も御陪覧になりたい」とのこと。
那須の保科女官長に電話で伺ってもらうように頼む。
那須からの電話で、
「それはあまり勝手というもので、いつもお誘いするニュース映画には来ずに、こういう時だけ来るのはいかん」とおっしゃり、
あとからまた「呼んでもいいが、秩父宮家には3時、三笠宮家には4時に知らせろ」とおっしゃった由。
どういうものか困ったことである。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官 

※当時の総理大臣の年給は132万円

1953年1月4日
秩父宮薨去の御悔み言上。
田島長官◆御喪儀次第は失効いたしました皇室喪儀令を参考としてお決め願っておりますが、その喪儀令の中に直系卑属なき場合の喪主は勅定すとありまして男女の別は買いてありませぬ。
道理でおかしいことはございませぬゆえ、秩父宮妃を喪主に御勅定願いたいと存じます。
昭和天皇◆よろしい。
田島長官◆節子皇太后の時のように国事と致しますことはできませぬゆえ、秩父宮家御喪儀と致しまして費用を要しまするので、内々大蔵当局とは話し合いをいたしております。
喪儀令によりましても御直拝はございませんし、庶民の間でも最近までは目上の者は目下の者の葬儀には参りませぬ習慣もありまするゆえ、昭和両陛下は御代拝しかるべきかと存じます。
昭和天皇◆秩父宮医療費がかかっているだろうから、この間のだけでは足るまいから、その点よく研究してくれ。

田島長官◆右御不幸に関連いたしまして明仁皇太子の御洋行のことでありまするが、予定通り行われて結構と存じます。
(それは無論との御様子にて)
昭和天皇◆3月は東宮ちゃんの壮行会や何やらあると思うし、3月は東宮ちゃんのために忙しい。

1953年1月8日
田島長官◆秩父宮の御本葬以外に宮内庁分室御弔問は御思召もありまするので9日・11日2回お願いいたしまするが、喪主の秩父宮妃の他には高松宮らだけで、それでお許しを得たく存じます。
なお御斂葬後 豊島岡墓所へもなるべく近き機会に御参拝願いましたならば、御兄弟の御情愛の点からも結構かと存じます。
昭和天皇◆それ以上のことは節子皇太后の場合とのこともあるから、それぐらいでよろしい。
田島長官◆秩父宮の解剖のことがどういう筋からか朝日新聞に出ましたために、〔秩父宮は自分の解剖を遺言していた〕今日は各新聞ともなかなか躍起のようでありまするが、内容は新聞でなく解剖関係の学者が学会へ発表すべきものと存じまするが。
昭和天皇◆新聞はいかん。
学会のことでこのあいだ医学博士加藤元一が新聞へ発表して論争になったことがあるし、これはどこまでも学会のことだ。
田島長官◆厚生大臣山形勝見が参りまして「ありがたい思召である」と申してまいりましたゆえ、「御遺志により解剖が行われた。しかし御遺志により発表はされぬ方針」と申しておきました。
なお御遺言中落語のことは、〔秩父宮は自分の葬儀に落語をしてほしいと遺言していた〕ちょうど落語家が鵠沼に御弔問に上がりました節、人を遠ざけ御遺骸に対して2分ばかりお話をいたしまして済みました由で、御遺志も通り非常識との議論を招くこともなく済みまして結構と存じます。
なお御墓所に関して銅像のようなこともお書きになってありましたが、お墓の建設は管理部で設計図を差し出しまして御異存もないように拝しておりますゆえその通りでおよろしく、別に御銅像のようなものを境内にお建てになるのではないかと存じております。
祭祀料は20万円説もありますが、30万円でお願いしたいと存じます。

田島長官◆秩父宮薨去のため多少遅れて参りましたが、明仁皇太子御洋行の予算の点は1億1千万円を今年度予備費で認めてくれ、秩父宮御葬儀に関する700万円も今年度予備金で出すとのことであります。御文庫の営繕2,500万円も昭和27年度予備費にしてくれとの話でありましたが、これはやめまして昭和28年度予備金にして欲しいとのことでありまして、植物の御移植等には帰ってよろしいかと存じ同意いたしました。
昭和天皇◆それは遅い方が良いが、どうして政府は堂々と予算に組まぬのだろう。
いつも予備費支出をするが。
田島長官◆ごもっともでありまして、大蔵省の意思がどういう点かわかりませぬが、正式予算で議論されますれば衆議院には社会党左派もおりまするし、参議院には共産党員もおりまするゆえ、皇室のために議論されるのを取らぬと考えておるのではないかと想像しておりまする。

1953年1月10日
田島長官◆昨日〔秩父宮の葬儀〕行幸啓になりましたにつき、何か御不満な点がありましたむね伝聞いたしましたが。
昭和天皇◆狭い狭いと言ってたが、あれなら十分広いので私は驚いたのだよ。
田島長官◆狭いと申し上げましたのは、便殿を御しつらえするだけの余地のない意味で申し上げたと存じます。
昭和天皇◆それは儀式の時の話で、大宮御所でも御命日に参拝の場合は良子は廊下で待ってたこともある。
形式的でなくていい場合は今でもあるから、節子皇太后の時にも隔殿が狭くて御霊前にいたことはあるよ。
田島長官◆それは田島の心得が足りませなんだので、お詫びいたします。
側近の者に粗忽があった訳ではありませぬゆえ、お叱りなきようお願いいたします。
(あれだけのスペースがあれば、常陸宮ら御一緒に御通夜的に遊ばしたかりし御希望に反せしため御話ありしか)

1953年1月14日
田島長官◆それから東京新聞には解剖のことについて、秩父宮もやはり皇室の習慣や迷信の血統で、解剖はされても結果は秘密にされるというような批難的なことを書き、昭和天皇の科学的態度と秩父宮妃の近代人の感覚でぜひ一般に発表を望むというような記事がありましたが。
昭和天皇◆新聞雑誌に出すことは私は絶対反対だねー。
いつかの加藤博士の論争がやはり感情的になり良くない例を示してる。
どこまでも学会に発表すべきだ。新聞雑誌に発表して意見の必ず一致しない人もあろうから。
どこまでも学問の問題として学会に報告すれば足りるよ。

1953年1月15日
田島長官◆秩父宮家が親王薨去になりますれば、140万円の年分は停止になりますると1/3にお減りになりますので、御日常御不足かと存じます。
また経常費合理化のため人減らしがあると存じますが、解雇につき退職金が御入用かと存じます。
鵠沼の御邸も相続税が相当あるかと存じます。
御不足分を御本家の内廷費で御支弁いただくより仕方ないと存じます。
昭和天皇◆それは当然内廷費で支弁するようにしてよろしい。
あまりケチでなく。
田島長官◆昨日高松宮妃がおいでになりまして、「秩父宮家の御会計はどうだろう。高松宮家とて富裕ではないが少しぐらいのことはできるから」というような御話でありましたから、「必ず昭和天皇がお許しになると存じますから御心配なく」と申して置きました次第でございます。
医療費の点は解剖の御礼もあり昨年までの分は済んでおりまするが、これはやはり別に賜ることに願いたいと存じます。
昭和天皇◆実行方法はどうするのか。
田島長官◆医療費は全額決定次第御手許上げいたし、従来通りお自ら秩父宮妃にお渡し遊ばされ、その節昭和天皇から秩父宮妃に対し親しく御言葉で「宮家経済のことは長官に話してあるから」と仰せになれば結構かと存じます。
なお一つ内廷費支出のお許しをいただきたいことは、700万円の御葬儀費用を政府は厚意をもってくれましたが、宮内庁職員の徹夜など超過勤務手当に使用は厳禁と釘を差されておりいますが、さりとてなしというわけには参りませぬゆえ、内廷費から20~,30万円支弁させていただきたいと存じます。
昭和天皇◆よろしい。

1953年1月16日
田島長官◆昨日豊島岡墓所で秩父宮妃にお目にかかりまして、
「いずれ昭和天皇より御話はありましょうが、皇室で御輔助の御気持でありますから、どうぞ田島に御相談いただきとうございます」と申し上げまして非常に御感激の御様子でありました。
ところが今朝高松宮がおいでになりまして、
「後家さんにおなりになって女さんお一人ゆえ金は要らぬという考えでは困る。田島の先入観がそれでは困る。宮家としても半分以上は妃殿下のための衣食の費用だ。秩父宮妃は特別な御地位と御経歴で国のためにお働き願うという立場で、御費用は御入用と考えてもらわんと困る。皇族の数は少ないし、特殊な立場で国際的にお願いするために費用は要る」との仰せで、今日は別に反対論を申しませなんだ。
高松宮と近い式部官長松平康昌に話しましたが、「それはちょっと行き過ぎですね」とも申しておりました。
昭和天皇◆それは今後は高松宮夫妻で遊ばして、その輔助に秩父宮妃がおいでになればいい。
今まで秩父宮がやってられた程度のことは必要かも知らんが、それ以上は要らぬことと思う。
田島長官◆高松宮は金額の問題を仰せ出しになり、
「1/3になって月額58,000円ではどうも仕方がない。2/3くらいになるように御輔助になるといい」という風な御意見に拝しました。

1953年1月19日
田島長官◆秩父宮の医療費は44万2千円程度でありますが、他にも御医療費はありましょうし、50万円としていつもの通り御手許上げと致しまするゆえ、明日良子皇后が鵠沼へおいででございますれば、良子皇后より秩父宮妃に進ぜられますれば至極結構のことと存じます。

1953年1月20日
田島長官◆秩父宮家の毎月の内廷御輔助の金額を定め願うことが先決となりまするゆえ、宮内庁次長・侍従長・侍従次長・式部長官ら要職の者の個別的意見は期せずして年額70万円と申しまして、つまり法律上秩父宮御在世時の1/3にしかなりませんのを、内廷の御輔助で2/3に願うということであります。
昭和天皇◆よろしい。
田島長官◆高松宮に秩父宮家の件 申し上げましたところ、非常に御満悦の御様子に拝しました。
田島拝命以来初めて「御苦労だった」との御言葉をいただきました。
昭和天皇◆そうか。

1953年1月21日
昭和天皇◆昨日良子が秩父宮の所へ行った時、秩父宮妃が財政のことは秩父宮が全部おやりで今までは少しも触れなかったというお話があったそうだ。
田島長官◆秩父宮妃が従来秩父宮家の財政にお触れになっていなかったということは何の障りもございません。
高松宮には元大蔵大臣渋沢敬三が、三笠宮には元日本専売公社総裁入間野武雄が経済顧問でありますが、田島拝命の当初秩父宮に「もし御用があれば田島が致しても結構でございます」と申し上げました節、秩父宮は「自分の所は人を煩わすほどの財産はない」との仰せでありましたし、それから見ましても財政のことは全部秩父宮の〈おつむり〉(頭)でせられて家職は使い歩きをしていたに過ぎませぬので、秩父宮妃はそう仰せになったのだと存じます。

1953年2月25日
田島長官◆イギリス戴冠式への御希望を申出ありましたが、秩父宮の御発議で明仁皇太子となりましたゆえ、三笠宮としては御失望かと存じます。
それゆえ政府に頼み何かの名義で御洋行の機を作ることは、三笠宮のためにも皇室にも日本国にもよろしいかと存じます。
昭和天皇◆高松宮妃もそんなことを言っておられて、洋行は第一の方法と思うが随員が大切だ。
田島長官◆式部官長松平康昌は外交官僚日高信六郎が良いとのことであります。
三谷侍従長も日高は良いと申し、三谷は明仁皇太子随員首席にも一度日高と申したことがあります。
昭和天皇◆日高は立派ないい人物だと思う。
ただし三笠宮に対して影響を及ぼす力があるかどうか、その点が駄目なら人物が良くても駄目だ。
三笠宮がその意見に動かされるようなあまり年齢の違わぬいい人はないものか。
田島長官◆秩父宮・高松宮は皇孫でお生まれになり、三笠宮は皇子としてお生まれで、節子皇太后〔貞明皇后〕が末っ子は可愛いと言うのでお可愛がりになったというようなことも多少ございましょうか。
昭和天皇◆私などは〈おもう様〉〈おたた様〉とご一緒のことはあまりないが、日光や葉山の付属邸というものは三笠宮のためにできたという一例を見ても、田島の言ったようなことはあった。
三笠宮はワンパクで、籐椅子をお振り上げになったのを女官がお止めしたのを、子供は活発でなければと節子皇太后がお止めになったというような例もある。
陸軍少将田内三吉というのが養育掛としてずっとお付きしてた。
秩父宮や高松宮は恥ずかしいのかちっとも三笠宮と遊ばない。
私は遊んでやったことがある。

1953年6月2日
田島長官◆かねて秩父宮お亡くなりと共に申し上げました秩父宮妃の歳費増額の問題でありますが、あれを親王方と同額にしますることと、皇族費の基本額140万円を190万円にベースアップいたしますことでございます。
内廷費は3,000万円を3,800万円ということであります。
昭和天皇◆内廷費はいいよ。
田島長官◆それはやはり御一所に増額お許しいただきませぬとやはり困ることになりますから。
昭和天皇◆そうか。
田島長官◆実は皇族費の方は従来70万でありましたのを一挙10割増しの140万としまして、首相の俸給等と比しましてこの際合理的なベースアップは必要で、数字上の根拠の上に190万円というものが出ましたし、また3,800万円も細かく合理的に考えました結果でありますからお許しを得たいと存じます。

1953年6月20日
昭和天皇◆昨日田島の言ったことだがねー。
私には田島の言ったことは、私が子供の方に重きを置いて高松宮などのことを次にするというような意味に感じを受けて実は驚いたのだがねー。
田島ががそんな感じを持ってるかと思って。
私はむろん皇族さん方を重んじて子供の方のことはもちろんその次に考えているので、主義としては私は田島の述べたのと同じことを考えているのだが、こと重大だと思ったから良子にも話して今日話すわけだが、ニュース映画〔視聴会〕のことは元皇后宮大夫広幡忠隆の頃に平素はお目にかかることもしずらいから、なるべく御話する機会のあるようにとの高松宮の方の希望で、それではニュースにおいでなさいということになって始まったもので、先方の希望を入れて始めたことなのに、近頃は少しもおいでではない。
それから宮さん方は御機嫌伺いなどということはちっともないけれども、内親王の方は御機嫌伺いというので向こうからやって来る。
それゆえ食事を出すことがあるというに過ぎない。
こちらから食事に呼んだことはない。
それから叔母様方〔照宮成子内親王の嫁ぎ先〕は去年の立太子礼の時にも菊栄会親睦会に呼べたけれども、鷹司〔孝宮和子内親王の嫁ぎ先〕・池田〔順宮厚子内親王の嫁ぎ先〕はどこにも入らなかったから(これは明らかに昭和天皇の御記憶違い)今度呼んだだけのことだ。
今言った通りで昨日田島の言った通り、私は子供より皇族さんを重んじてやっているのを、田島がああいうことを言って驚いた。
(とのお繰り返しゆえ、これは昭和天皇の御意思に反しても変な理論を仰せになっておいでのことを御諫言申さねば昭和天皇の変な御理屈を是認することになるが、笑っておいでではあるが拝命以来の御語勢ゆえ)
田島長官◆さようでございましたか。
田島が昨日申し上げましたことで昭和天皇を驚かせましたことは、誠に恐れ入りましたことと存じます。
この事柄で田島が何か申し上げまするには、覚悟を新たにいたしまする必要もありまするゆえ、今日は退かせていただきまして、覚悟のできました上で改めたただいまの仰せに対し申し上げることにお許しを得たいと存じます。
昭和天皇◆うん、そう。
私はちゃんと田島の考え方と同じであるゆえ、今日ニュース等のやり方をその考えでやってるが、実際のやり方がどうもというので再検討するという意味なら、それは分かるので話は別だ。

1953年6月22日
田島長官◆田島が宮内庁長官を拝命いたしましたのは芦田内閣からでありましたが、突然の話で驚き断りましたが、「5月3日の憲法記念日までに決まらねばGHQの方から先方へ猟官運動をしている者を押しつけてくるかもしれぬ」と芦田首相が申しましたのが気になりまして、GHQに猟官するような奴よりは田島の方がまだマシだと存じ、ついに拝命するに至りました次第で、芦田首相に侍従長は田島の推選する者に同意してほしいという条件を出しました。
侍従長三谷隆信はおとなしい人で誰にでも評判はよろしいが、何一つしないので学習院ではやや持て余しておりましたが、人物は誠実で頭が良くて大人しくて、侍従長はむしろ消極的な方がよろしいぐらいで、かつて御通訳をいたしたこともありますので三谷に承諾してもらいましたが、侍従長としては誠に適当と存じます。
申さば田島は追放の多い最中に代用食のようなことで拝命いたしました次第で、その時分はまだ東京裁判以前でありまして、今日とはずいぶん違っておりまして、昭和天皇御退位の問題もやかましく、昭和天皇から「元宮内大臣牧野伸顕にはよく打ち明けて大切なことは相談する方がよろしい」とのお示しもありましたので、大事と思いますることは考え抜きました結果を牧野のところへ参り相談いたしました。
爾来表の方のいろいろな問題にも当たりましたが、この問題は昨年5月3日の昭和天皇の御言葉によりまして終止符を打ちました。
奥のことも5年間いろいろな人からいろいろなことを耳にいたしましたし、表のことに関する奥のこともありますので、自然奥のことにも頭を使うは当然でありました。
例えば三笠宮の思想・行動の上にどうかと思われる節があり、三笠宮にも少し御態度を変えていただきたいなどということを申して参りましたけれども、一面田島は宮内庁のことに全責任ある身として考えてみますれば、三笠宮がどうしてそういう風におなりになるのか、おなりになるには宮内庁長官として職務の不十分なところがないのかと反省してみますると、やはりないとは申されませぬ。
しばしば御洋行の御希望を承りました時、「在外邦人の金などでは駄目でございます。お兄様はみなさま御洋行ゆえ、堂々皇族としておいでになれますような機会を考えます」と申して参っておりましたところ、今回のイギリス女王戴冠式には明仁皇太子がおいでになりますことになり、三笠宮としては御不満にお思いにもなりませんが、自分はいつ行けるかとお思いになりますことは当然であり、また昭和天皇は終戦と同時にひどくお変りになりましたが、宮家の変化に比べますれば日常の御生活ことに経済の面では格段お違いにならぬとも申されまするに反し、特に三笠宮はお子様も大勢さんおありで、今後いかになり行くかと先をお考えになれば、進歩的な思想についてのお考えになりますのも多少は理由のあることと反省して考える必要があり、さすれば宮内庁長官として三笠宮の思想・行動をただ困るというだけでなく、その原因になることに対策を立てぬが職責上悪いということになりまするので、具体案としてとにかく一度御洋行願うことがよろしい、またできる限り経済上お楽になりますよう取り計らいますことが必要と存じまして、昨年来政府側に対しても予算等を頼んでおります次第であります。
田島は一長官でありまするが、昭和天皇と遊ばされましては、皇族の一員である三笠宮に対して望ましいかぬ思想・行動おありの時には、それはどういうわけか、どうしてかとお考え頂き、単に困るというだけではなく、なんとかお考えいただくことが必要ではないかと存じまする。
高松宮にしてもいろいろのことがあり、最近霜害が最もひどかった川越地方へ視察においでの節、宿屋以外の料理屋にお泊まりになるというので地方新聞にちょっと出まして、埼玉県知事が心配して宮内庁次長のところまで参りましたようなことがあります。
軍人でおいでの方が毎日お勤めになる軍職がなくなり、ありがたかっておいでを願うとなれば、時間がおありゆえお出かけになります。いくら共産党の世の中になりましても、皇位継承権をお持ちの三笠宮が如何とも遊ばされることはできぬは明白で、皇室の首長たる昭和天皇に大きな御立場から大らかになっていただくことが必要かと存じます。
昭和天皇◆その点は分かったが、高松宮妃もヴァイニング夫人の時に良子に先んじて英語を習い、またじきに辞めてしまうとか、秩父宮が私にゴルフを勧め、それではとやりだすと御自分は飽きてやめておしまいになる。
秩父宮妃も高松宮妃と一緒に宮中服をお作りになるに熱心でいて、評判が悪くなると一緒になって悪口を言い、そして御自分は和服を着るというように、飽きやすくて人より先じたがったりなさるから、どうもそういう点が…。
田島長官◆田島の立場としては申し上げるのもつらいことでありまするが、そういうことはすべて宮様の方がお悪いとは存じます。
宮様方の方がお悪いと断言せざるを得ぬとしましても、昭和天皇が宮様方と同列に立って向こう様がこうだからこうだと仰せになりますことは、昭和天皇の御立場としてはいかがかと存じます。
田島は仏教の家ですが、キリスト教の方では羊飼いは普通についてくる羊の群れよりも迷える羊の方を余計に心配するということであります。
この羊飼いのようなお気持ちで、弟様方をも親心で子のように思いになればと存ずるのでございます。
(昭和天皇「うんうん」と強く御応えになり、「具体的にどういう方法にしたらばよいか」との仰せあり)
田島長官◆毎週のニュースはおやめになり、月2回ぐらい御懇談の御食事でも共にせらましたらばと存じますが、よく侍従次長稲田周一と練りまして申し上げます。

1953年6月24日
昭和天皇◆田島の話もあったので、昨夜は御馳走をしたのだが、スッポンもあったので。
田島長官◆スッポンのスープでありますか。
昭和天皇◆いや、スッポンの料理だよ。
高松宮は非常にお喜びだったが、高松宮と御懇親するのは食事以外よりないよ。
御料理の話の中で三笠宮もいろいろな物をお食べになってるようで、牛の頭の料理はおいしいとかなんとか言ってられたが、私は三笠宮は矛盾もはなはだしいと思うのだがねー。
平素いろいろ進歩的な意見を言われるが、ああいう贅沢な料理の御話もなさる。
それにちょっと心配なのは、御口が軽いから昨夜のような御馳走の話を外でされやせぬか。
皇室は御質素などと言っているが、この間は御馳走が出たなどと言われると誠に困ったものだが。
三笠宮は困るよ。
この前 田島に「7千万円もかけて仮宮殿を作るは贅沢だ」など言ってきたなら、牛の頭とか贅沢な料理などは知らぬはずだ。
矛盾だよ、三笠宮は。
田島長官◆三笠宮は7千万円の時も相当仰せありましたが、御説明しますればまあおわかりになりますし、昨年の5月3日の御言葉中の《米国をはじめ》を削れとのことでもなかなかやかましく《英米をはじめ》の訂正にまでお折れになりましたが、反米的でかなりきつく申され、田島へ御手紙、また官邸へもおいでになりなどいたしましたが、昭和天皇がお決めと申しました後は何とも仰せありませんでしたから、お若いためにちょっと進歩的な思いつきのおありの時は仰せになりますが、おわかりになればそれでだいたい静かにおなりのようでありますが、どうも矛盾よりも進歩的なものに余計お気が向くらしく、先だってもアメリカ国務省に太平洋問題調査会の人間が巣食うことの調査拒否を調査報告をお話ししてもらいました時も、普通はずいぶん恐るべきことだと感ずべきなのに、そういうことはまあありがちのようなお考えで、根底に何かちょっとどうも。
昭和天皇◆どうも高松宮も三笠宮とは昨夜もあまりお話なさらぬ。
秩父宮がお亡くなりになって、高松宮は秩父宮妃にいろいろ尽くしておいでになるようだが、どうも三笠宮とは合わぬようだ。
田島長官◆秩父宮は同じ陸軍でもあり、三笠宮も御殿場までお出かけになり、むしろ高松宮への御話は秩父宮を通されたというようなことも聞いておりますが、どうも三笠宮のことは何とか致さなければなりませんが、秩父宮なき今日どうしてもお二方だけゆえ、だんだんにお歳も召してやっていただく他ないと存じております。
田島と致しましてはとにかく経済面その他でできるだけ三笠宮のお気持ちのいいことをすることは必要だと思っております。
昭和天皇◆まあ私としては田島の言った注意で努めてやるから、具体的なやり方は田島の方でよく考えてくれせ。
(申さば諫言的な申し上げのこと御容認の御言葉と拝し恐懼す。また感激す)

1953年6月29日
田島長官◆秩父宮家の車はヒルマンと申します小さい車で、秩父宮御在世当時より買い替えの御希望ありましたが実現せず、その後 本当にボロになりまして今回買い替えになりますることに決まりましたが、秩父宮家の御都合ではちょっと御不足のようなでありますので、50万円だけ無利子で若干期間お貸しくださいますことのお許しを得たいと存じます。
昨年鵠沼の御邸買い上げの節100万円の御立替を願いましたことがありましたが、その節も無利子でありましたがじきに御返金になりました。
今回はそのうち長からず御返上できると存ぜられますゆえ、お許しを得たいと存じます。
昭和天皇◆よろしい。そのくらいあげてもいいね。
田島長官◆それは他様とのバランスの問題もありますので、無利子でお貸し願えば結構で、下されることはよろしくないと存じます。
昭和天皇◆そうか。
田島長官◆昭和天皇の御手許もそうお金持ちでありませぬゆえ、それは困ります。

1953年8月1日
田島長官◆那須へ秩父宮妃をお誘いになりまして、秩父宮妃は非常にお喜びで、どうか高松宮・三笠宮も那須へ仰せいただきたいと存じまする。
昭和天皇◆妃殿下方ならともかく、宮さんは来られてもどうも。
田島長官◆お受けになるならぬは宮様方の御自由として、三笠宮などもしこんなことでまたおひがみのようなことは困りまする。
高松宮も三笠宮御洋行のこと御希望が4~5年先とのこと申し上げに出ました際も、「御自分でできることはある程度のことをしても行かれると良い。また外国語の御勉強の方法もいいだろう」と仰せになりました。

1953年8月27日
田島長官◆秩父宮家相続税は法律改正の結果軽減され、諸種の控除もあり、結局税額50万円程度らしくございます。
かねてお許しを得ております通り、内廷からこれだけのお金を賜りますことお願いいたします。
昭和天皇◆よろしい。

1953年9月11日
田島長官◆前回申し上げましたように秩父宮の相続税の金額は29万円だそうでありまするが、新しい相続法では御子様のありませぬ節は御兄弟にも相続権がありまするので、昭和天皇・高松宮・三笠宮になりまするが、もちろん御取得の御意思はなく秩父宮妃に全部でありますので、宇佐美次長より高松宮・三笠宮の御了承を受けましてございます。
軍人恩給の問題で、皇族のうち高松宮は恩給をお受けになり得られまするし、三笠宮は一時金だそうでありまするが、皇族としては恩給の積金は遊ばしておりませんし、皇族費は国家の支給でありまするゆえ、御遠慮の方しかるべきと考えまして、そのことを宇佐美次長より申し上げ、両宮とも御了承であります。
先日は三笠宮・秩父宮妃をお招き遊ばしまして、みな非常にありがたくお喜びのように拝しました。

1953年12月1日
田島長官◆今朝秩父宮妃から承りましたが、金曜日の会合の後で〔第一回三笠宮洋行相談会〕三笠宮妃から秩父宮妃に御電話がありまして、会合の結果具体的に予算等の困難なこと、留学等の意味などよほどお考えになった御様子だとお話を伺いました。この際あまり時を経たず、ある程度の具体的な方針決定を見たいと存じております。

1953年12月3日
田島長官◆皇族さん方はだいたい今まで人頼みで何の御心配もありませんでしたがこういう時世になりまして、御存知ない割に入ることを欲せらるるため、ひっかかられるのは当然であります。
大体宮家の方々は御自分が御承知ない会計のことを御自分でおやりになりますからこういうことになります。
秩父宮は自分の所は財産もないし相談するまでもないという仰せでありましたが、全部御自分で切り盛り遊ばしてたらしく、その後有利に回る御相談がありました時も田島に大丈夫かとお尋ねあり、少額である程度以上はよろしいと申し上げたことはありましたが、一つも焦げつきなどはできず、この間相続税の時に初めて拝見しまして、つまらぬ株が少々ありましたが、これも少ないのでただいま東芝社長石坂泰三の手で整理いたしておりますが、かような次第で秩父宮妃は会計のことは何も御存知なく、従ってただいまは石坂・田島らでご相談を承っておりまするため少しも危なげもありません。
昭和天皇◆秩父宮は強い方で、御自分でお決めになるとずいぶん激しく言われたのだが。
田島長官◆それは田島も他の問題でずいぶんひどく仰せになりましたこともありますが、一応は筋の通ったことでありますから、かような面からの見方もありますと申し上げれば、そうかと仰せになることもありました。
現に明仁皇太子の御洋行の時でも御熱心に仰せになり、三笠宮御希望も御承知の上で今回は明仁皇太子だときつく御主張で、田島への御手紙にも理路整然と御主張になりました。
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『入江相政日記』侍従長

1970年9月4日〔那須御用邸〕
昭和天皇より御召。
秩父宮妃に、昭和天皇の偏頗なく遊ばすという立場をよく御説明してくれとの仰せ。
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『入江相政日記』侍従長

1972年3月22日
秩父宮妃から電話。
須崎御用邸のことについていろいろ御話がある。
つまり御三方お揃いの都合の良い日はないとのこと。

1972年3月23日
昭和天皇に、秩父宮妃・三笠宮妃からの須崎御用邸のこと申し上げる。
「両宮別々でいいから」と仰せになる。
その方が穏やかでもある。

1972年11月13日
赤坂御用地内の秩父宮新邸、立派におできになった。
秩父宮妃お直に御案内くださる。
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『入江相政日記』侍従長

1973年12月11日
朝日新聞の衣奈君より電話。
高松宮妃からの御召で行ったら、日赤・朝日の共催である良子皇后の展覧会の上りを、常磐会と藤楓協会に寄付するのとのことで、秩父宮妃も御同意とか。
あきれてしまう。

1973年12月25日
宇佐美長官・徳川侍従次長と高松宮妃のこと。
また良子皇后の展覧会の上がりを常磐会と藤楓協会にと言われた由。

1973年12月26日
また高松宮妃が北白川女官長に、良子皇后の展覧会の上がりを常磐会と藤楓協会にとおっしゃった由。

1973年12月28日
高松宮へ行く。
この間からの蒸し返し。
それでその不可なる所以を御話する。
よくわかったとのこと。

1973年12月29日
昭和天皇に高松宮妃のこと申し上げ、御安心いただく。
しかし同時に朝日の人などにおっしゃったことについては、あきれていらっしゃった。
宇佐美長官にも報告、喜んでいただく。
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『入江相政日記』侍従長

1975年4月23日
宇佐美長官来室。
日本の皇族にあきれ返る。
〔5月7日~5月12日のエリザベス女王来日について〕

1975年4月26日
秩父宮妃から駐英大使大野勝己さんにも電話があった由。
八方に手を回して、なんたること。
大臣を押しのけてエジンバラ公に同乗する決意を、「さすがは高松宮様」と讃えられたとか。
この間からのこと、まったく話にならない。

1975年5月1日
宇佐美長官・徳川侍従次長・北白川女官長・式部官長島重信と話し合い。
秩父宮妃・高松宮妃が美智子妃・常陸宮妃に、
「和服ではダンスができないから、良子皇后にお願いして洋服にしろ」と強く言われた由。
お嫁さんたちとしてはそんなことはできないということで、美智子妃・常陸宮妃は和服、他は御勝手にということにしようということになる。

1975年5月3日
晩餐の時のダンスの関係で、美智子妃・常陸宮妃はローブデコルテ、良子皇后は和服の関係上、御一方では具合が悪いので秩父宮妃・高松宮妃も和服ということで昭和両陛下のお許しを得ようということになる。

1975年5月18日
北白川女官長から、秩父宮妃から揺り返しがあった由。
宇佐美長官からも同じこと聞く。

1975年12月31日
エリザベス女王の御訪日もまた大騒ぎになった。
「我がイギリス」人種が多数現れた。
秩父宮妃・高松宮夫妻・三笠宮寛仁親王・麻生和子夫妻。
外務大臣宮沢喜一や儀典長内田宏を脅したりしてさんざんの醜態だった。
三木首相も驚いたことだろう。
昭和天皇がしっかりしてらっしゃるからいいようなものの、さもなければ大変面倒なことになるところだった。
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『入江相政日記』侍従長

1976年1月13日
昭和天皇から御召。
文春の皇族座談会『皇族団欒』の高松宮のこと。
本当につまらないことを申し上げになるから困る。

1976年1月20日
昭和天皇から御召。
また『皇族団欒』の高松宮のこと。

1976年7月1日
昭和天皇から「文春の皇族座談会『皇族団欒』のようなものを正しいものと思っていては困る」との仰せ。
三笠宮へ行き、三笠宮妃によく御話する。
あの座談会に批判的だったこと、高松宮一辺倒でないことなどがわかり、すぐ帰り昭和天皇に申し上げる。

1976年7月3日
秩父宮へ行き、秩父宮妃にこの間からのこと洗いざらい申し上げる。
すべて御同意、お喜びだった。

1976年7月5日
昭和天皇に秩父宮妃のことを申し上げる。
「入江、御苦労だった」と仰せくださる。

1976年7月8日
宇佐美長官に、秩父宮妃・三笠宮妃のこと報告する。

1976年7月12日
昭和天皇から、一昨日皇族方御参内の節、高松宮夫妻が大変協調的であったがどういうわけかという仰せ。
「やはりいくらか御反省になったのだろう」と申し上げ、
「それならいいが」との仰せだった。

1976年9月11日
秩父宮妃御参内、高松宮・明仁皇太子などお集りの時にミグ25事件につきみなさんいいことだとお喜びとのことだったが、昭和天皇は「皇族さんは無責任だから」とおっしゃったとのことで、この無責任についてお掘り下げになった結果の御話。

1976年12月31日
1月10日文春の二月号に『皇族団欒』とかいうくだらない座談会の記事が載った。
秩父宮妃・高松宮夫妻・三笠宮寛仁親王という顔ぶれ。
司会は加瀬英明。
つまり高松宮が一人で【誇りかに】しゃべっておられるだけ。
すでに昨年の文春の二月号にも加瀬君が書いているが、高松宮から伺ったようなことが多く、それによれば御自分は根っからの平和論者であり、太平洋戦争をとめたのも自分であるという意味のことが書いてある。
昭和天皇にはこれが非常にお気に入らず、実に数えきれないほど御召があった。
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『入江相政日記』侍従長

1977年4月9日
秩父宮へ。
『皇族団欒』をめぐってのことにつき、しみじみ申し上げる。

1977年4月11日
昭和天皇に秩父宮へ行った時のこと詳しく御報告、御満足であった。

1977年10月8日
秩父宮妃から御電話。
三笠宮寛仁親王が本を出し、例の対談『皇族団欒』も載せると。
絶対に不可と言う。

1977年10月9日
三笠宮寛仁親王から電話。
「秩父宮妃から伺ったが、承知なさった高松宮に取り止めると言ったら妙にお思いになるだろう」とのこと。
「そんなこと問題にならない。もしこれが出た時のと比べれば、皇室としての損害は比較にならない」と言ったら、
「やめます」とのこと。
まあよかった。

1977年10月11日
昭和天皇に三笠宮寛仁親王の一件を話す。
予の処置にまったく同意。
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『入江相政日記』侍従長

1982年12月17日
このあいだの三笠宮での皇族の集まりについて聞く。
つまらないこと。
浩宮〔令和の天皇〕の御留学などについてのこと。
秩父宮妃まで加担したとか。
驚き入ったこと。
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『入江相政日記』侍従長

1983年6月3日
昭和天皇から、浩宮御留学につき、秩父宮の留学・三笠宮寛仁親王の留学がうまく行かなかったこと、久邇宮との複雑な因縁をなかなかわかってくれないとか、浩宮が帰るまでの二年間生きていられるかなど、クヨクヨしたことをクドクドとおおせになる。

1983年12月13日
昭和天皇が中川融〔浩宮オックスフォード留学の主席随員・元国連大使〕に、
「秩父宮も三笠宮寛仁親王もオックスフォード留学は失敗だったが、浩宮の時はそんなことがないように」と仰せになったことにつき、
中川さんが「三笠宮寛仁親王のことは十分わかるが、秩父宮のはどういう御意味か」と言っていた由。
三笠宮寛仁親王は駐英大使平原毅に手紙を出して、浩宮がいろいろな人にお会いになるよう、それを大使館が妨げると言われたことも聞く。

1983年12月28日
昭和天皇が「秩父宮のオックスフォードの教育は失敗だった」と仰せの件伺う。
つまり不十分だったのと、秩父宮の性質によるが、参謀総長閑院宮載仁親王をダラ幹と言い、当時の軍の勢いに乗ったことなど、との仰せだった。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1995年4月8日
良子皇太后〔香淳皇后〕侍医大橋敏之より、秩父宮妃の御健康状態について聞く。
だいぶ老化が進んでいらっしゃる様子。

1995年5月14日
秩父宮妃の御容体のこと、リンパ腺腫はできれば伏せて心不全で通したい。

1995年8月6日
皇太后宮侍医大橋敏之によれば、秩父宮妃来週いっぱいぐらいか。
その場合の対応についていろいろ話し合う。

1995年8月25日
5時40分、秩父宮妃危篤の発表。
テニス合宿は断る。
せっかく準備したので、テニス荷物の代りにモーニングを持ってバス。
11時28分、秩父宮妃御逝去の報。
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◆秩父宮雍仁親王(淳宮雍仁親王)123代大正天皇の二男
1902-1953 50歳没

*イギリスに留学


■妻 松平勢津子 外務官僚松平恒雄の娘/会津藩主松平容保の孫
1909-1995 85歳没

*米フレンドスクール卒業


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宮内官僚関屋貞三郎から久邇宮邦彦王への手紙

1920年9月5日
秩父宮御好配の件は後日言上致しますが、その後 別に大した進展も見ず、節子皇后〔貞明皇后〕の思召は、皇室に限らず広く華族伯爵級にてもよろしかろうとの事に承り、範囲広くされますことも選択の自由も大きくなるとのことが論旨と思われます。
ことに御洋行の問題が起こり、御年齢もむしろ若い方が良いと存じあげます。
然るに今日具体的になってまいりましたものは致し方なく、のち皇族中より御選定せられずと決定したのではありませず、ただし範囲を広く伯爵級までに及ぼさんことが論旨より窺い知ることができます。
また御年齢などのことを考慮いたします時には、伏見宮女王〔伏見宮敦子女王・伏見宮知子女王〕殿下については思召しなきものと拝察するのが適当と信じております。
まちがっても双子であるという点で節子皇后がどのように考えておられるかは、いまだ拝察する機会を得ておりません。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年6月3日
※倉富&皇子傅育官長松浦寅三郎&宮内官僚仙石政敬子爵の会話

松浦◆秩父宮も来年は御成年につき立派なる輔導者をつけて徳量を成就せらしめられたし。
いかがしたらばよろしからん。
仙石◆御成年後は裕仁皇太子との区別を明らかにする事を自覚せらるる事が必要なるべし。
倉富◆この事は極めて大切なり。
これまでがあまり御待遇が広大すぎる様に思わるるゆえ御気には入らざるも充分に抑える必要ありと思う。
節子皇后は特に秩父宮をお愛し遊ばさるる様なり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1922年2月22日
秩父宮はずいぶんワガママを仰せられる趣にて、その原因も先日松平慶民子爵より話を聞きたる事あるが、初の傅育官丸尾錦作が厳格を主としたるため秩父宮はいじけなされたり。
次の傅育官長三好愛吉はこれに懲りて放任したるため、秩父宮は放縦になられたり。
しかして三好はこれを矯むるに及ばずして死去し、現傅育官長松浦寅三郎はこれを矯むるだけの力なしとの事。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1923年1月10日
※宮内官僚西園寺八郎公爵の発言

秩父宮に随いてスキーを為すため旅行し、初めて殿下の性行を見聞したるが殿下はよほど難物なり。
何事も一通りできるが、御高慢にて人を侮らるる風あり。
殿下の行動には野卑なる事も少ならず。
その原因を探りたるに年少の少尉などと一緒に御暮しなさるゆえ、自然にその感化ある様なり。
殿下は才気あるも、充分に研究なさるる熱心はなし。
これも殿下の短所なり。

1923年8月9日
※宮内官僚小原駩吉男爵の発言

秩父宮・高松宮に随従し岐阜県に御供したるが、なるほど秩父宮にはよほど大切なる場合なり。
御行動においても野卑なる事を特に為さる事もあるが、第一に御直しなさる必要あるは御言葉なり。
ほとんど巻舌にてべらんめえ調の御言葉が出る事あり。
これは若い士官等の風に感染なされたるものならん。
御性質は弱き者をいじめなさる傾あり。
これに反し高松宮は人に対する御思遣りも深く何事も研究心強く、秩父宮が無理になさざるとはよほど異なる所あり。
スカールを為さるを拝見したるに、秩父宮は教師の言も聞かずして無理をもって漕がんとなされ、高松宮は充分に会得したる後に漕がるる様の差あるを見たり。

1923年3月26日
※倉富&有馬頼寧伯爵の会話

頼寧◆長女静子は自分より言うはおかしき事ながら、学習院にては評判よろしく「この如き人こそ皇族の妃なるべき人ならん」との噂ある趣なり。もし秩父宮の妃となる事を得れば幸の事なり。ともかく君に談しおく方よろしからん。
倉富◆先般話ありたる久邇宮邦久王および山階芳麿侯爵との結婚話は、双方とも健康充分ならざる様なるにつき止めた方がよろしかりし。
頼寧◆只今の話が成立すれば結構なり。妻貞子〔元皇族〕の関係もある事につき、望まれざる事にはあらざるならんと思わるる。

1923年3月31日
※倉富&皇后宮大夫大森鍾一の会話

倉富◆頼寧の夫人は北白川宮家より出でたる人なるが、娘に女子学習院高等科に入りおる者あり。もし秩父宮の妃と為る事を得る様の機会あらば幸なり。明日は女子学習院の卒業式にて君は節子皇后に供奉して学習院に行くべきにつきこれを見てくれよ。
大森◆実は写真でも見たしとの談は無きにあらず。しかしそれは有馬家の娘のみにあらず。5~6人の写真を見たしと言うことになれり。しかし只今より乗り気になりては困る。

1923年5月5日
※倉富&相談役仁田原重行子爵の会話

仁田原◆静子を入江為守の子為常に配しては如何。
倉富◆静子の事については、予は秘密に聞きおる事あり。他に嫁せしたき希望あり。その方は漠然たる希望にて少しも見込立ちおらず。しかしその希望ある以上は入江の方に約束する事は出来ざるならん。
仁田原◆いずこなりや。
倉富◆〈のぎへん〉なり。〔秩父宮という意味〕

1923年8月26日
※有馬頼寧伯爵の発言

先頃節子皇后より弟安藤信昭に対し静子・澄子の写真を望む旨の御話あり、安藤より姉妹の写真を差し上ぐ。
安藤の推察にては静子よりも澄子の方が思召ある様なりとの事なるが、年齢の関係ならん。
澄子の写真は額に髪がかぶりおり充分に顔容が分からずとの御話にて更に1枚を出せり。
その時「決定もせざる事に写真を幾枚も取りては気の毒なり」との御話ありたる趣なり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1924年2月26日
※宮内官僚渡辺直達の発言

有馬澄子を池田宣政にもらいたき事は、頼寧に問いたるところ「澄子は既に他に婚約ある」旨をもって断りたる趣なり。

1924年3月2日
頼寧は澄子を秩父宮の妃に為さんと欲しおると同時に、妹がその通りになれば姉静子も権衡上相当の所に嫁さしむる必要ありとて、久邇宮朝融王の婚約が破棄せらるるならば、その跡に静子を嫁せしめたき事を望みおる。
朝融王の婚約解除問題は非常に困難なる事となりおるゆえ、たとえ解除と為りてもその跡に嫁せしむる事は面白からざるならんと思う。

1924年4月10日
※倉富&有馬頼寧伯爵の会話

倉富◆朝融王の婚約解除問題は大変に面倒となり容易に解決すべき模様にあらず。婚約解除を待ち、その方の婚約を図らんとする事は面白からざるべしと思う。
頼寧◆この事については自分も迷いおれり。要するに妹の方が決せざるゆえ姉の方もその権衡に迷いおる次第なり。

1924年9月5日
※倉富&宗秩寮総裁徳川頼倫侯爵の会話

倉富◆秩父宮の結婚の事は如何なりおるや。
徳川◆自分はやはり皇族の方がよろしからんとの考えにて閑院宮華子女王を持ち出したり。こちらは容姿もよろしく智徳ともに備わりおる様なり。宮内大臣も至極よろしからんとて調査すべき事を命じたり。また伏見宮の敦子女王・知子女王の事も申し出しある由なるが、こちらは双子という事が難しかるべしと思う。先日賀陽宮好子妃に京都あたりにて双子の事に関する感想如何を問いみたるに、「17~18歳頃までは他より注意するも、それ以上になれば格別噂せず」と言われおりたり。

1924年11月5日
※皇后宮大夫大森鍾一の発言

近日伝聞したる所にては、有馬家にては他より結婚の申込ありたるもこれを拒絶したりとの事なり。
万一先年聞きたる様の事をアテにして、他の申込を拒絶する事ありては当て違いとなるべし。
内議にては決して左様の運びになりおらず。
これは有馬家の事のみにあらず。
他にも2~3の噂ありたる所はありたるも、いずれも取り留まりたる事にあらず。
万一左様の事をアテにしておりては気の毒なるゆえ、一応注意す。

1924年12月1日
※倉富&有馬貞子夫人の会話

貞子◆頼寧は只今の所にては静子は朝融王の妃と為す事を考えおる様なり。
また頼寧は「今後皇室を守るべき者は自分らだけになるにつき、なるべく皇室に接近する手段を取りたし。
ついては澄子は秩父宮の妃と為す事を望む」と言いおれり。
静子はもはや二十歳なるにつき、あまり延ばす事も出来ず。
倉富◆朝融王の事は種々の推測あり。
朝融王は今すぐに結婚せらるる訳にはいかざるべく、また朝融王はその性質飽きやすき方の様なる説もあり。
方々予はこちらは止めらるる方よろしかるべき旨を談したる事あり。
秩父宮は来年5月頃より御洋行の事は内定しおる模様なり。
節子皇后はその前に内定だけはなされたき思召ならんと思わるるが、如何なるべきや。
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『高松宮日記』

1921年5月13日
今日の『国民新聞』に、秩父宮の妃に一条の娘さんがおなりになると出ていた。

1926年1月4日
甘露寺のお嬢さんが二人〔甘露寺績子・甘露寺寿子〕手伝いに来る。
これも候補者なり。
〔秩父宮のお妃候補〕
姉さんの方より妹の方がニコニコしていて愛嬌がある。
顔もおとなしい。
しまいに姉の方も悪くないと思った。

1927年3月1日
宗秩寮総裁仙石政敬談として秩父宮御渡英中止の記事として出たのがとても不出来だったので、皇子御殿へ行ってみたらやっぱりお気に入っていなかった。

1927年9月10日
今朝、内親王御出産。
ああ、嫌になっちまう。
男子はできぬかな。
また秩父宮の妃殿下面倒なりか。
〔秩父宮のお妃選びが難しくなるということ〕

1927年9月27日
節子皇太后〔貞明皇后〕より秩父宮妃の候補としてお考えの者の話承りたれば、竹田宮へ行ってお話しておく。

1927年10月5日
秩父宮の御新邸は表町御殿だそうな。
なにも御殿名をつけなくてもよかりそうなもの。
私の方は御免蒙ります。

1928年1月5日
一木喜徳郎宮内大臣来談。
秩父宮の妃殿下のことなり。
これでスラスラとゆくことだろう。

1928年1月14日
大宮御所へ。
秩父宮妃のことで御満足のようだった。

1928年1月21日
夜は秩父宮へ泊まる。
もうじきお嫁さんが来たらやめる。
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『岡部長景日記』文部大臣※当時は内大臣秘書官長

1929年4月18日
原田熊雄君の招待で住友別邸に赴いた。
秩父宮・東久邇宮をお招き申し上げる。
秩父宮は日本服を召されておくつろぎ遊ばされ、日本間にて錦水の料理、御給仕は近衛文麿・細川護立夫人・高木喜寛夫人・原田熊雄夫人。
そのうち鳥の蒸煮が出た。
秩父宮が「骨がうまい」と言い出され、東久邇宮以下一同不安を感じつつ噛むとなるほどまずくない。
これは不思議と誰も彼も平らげ、秩父宮大得意。
次に出て来たのがあまごのフライ。
秩父宮は骨を平らげられる勇者にかかわらず頭がお嫌いの由にて、あまごの頭までをいちいち取って上がられるのを、ここぞとばかりに東久邇宮が「これは頭から食べられる」とおっしゃる。
両宮の間に大激論、一座大笑いとなる。
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『本庄繁日記』昭和天皇の侍従武官長

満州事変発生の1931年の末より1932年の春期にわたる頃のこと。
当時は満州事変勃発に伴い、国内の空気自然殺気を帯び、十月事件の発生を見るなど、特に軍部青年将校の意気熱調を呈し来れる折柄、ある日 秩父宮参内、昭和天皇に御対談遊ばされ、しきりに昭和天皇の御親政の必要を説かれ、要すれば憲法の停止もやむを得ずと激せられ、昭和天皇との間に相当激論あらせられし趣なるが、その後にて昭和天皇は侍従長に『祖宗の威徳を傷つくるがごときことは自分の到底同意し得ざるところ、親政と言うも自分は憲法の命ずるところにより現に大綱を把持して大政を総攬せり。これ以上何をなすべき。また憲法の停止のごときは明治大帝の創制せられたるところのものを破壊するものにして、断じて不可なりと信ず』と漏らされたりと。
誠に恐懼の次第なり。
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『木戸幸一日記』

1932年6月21日
※木戸・近衛文麿・原田熊雄・宮内大臣一木喜徳郎が会談

秩父宮の最近の時局に対する御考が、ややもすれば軍国的になれる点につき意見を交換す。

1933年3月8日
秩父宮御参内になり、種々昭和天皇とお話あり。
後で昭和天皇は「従来秩父宮は政治についても軍部の見るがごとき軍本位のかたよれる御考が多かりしが、昨今はだいぶ変わられて御眼界も広くなられし」との御感想をお漏し相なりたり。
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二二六事件の叛乱将校 中橋基明の獄中遺書

《判決の不正を絶叫す》
秩父宮殿下 歩三におられりし当時、国家改造法案をよく御研究になり、改造に関してはよく理解さられ、このたび蹶起せる坂井直に対しては、御殿において「蹶起の際は一中隊を引率して迎えに来い」と仰せられしなり。
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朝日新聞 1937年9月14日

『きのう秩父宮殿下 ヒトラー総統と御会見 ニュルンベルク城で』
「秩父宮殿下には、ヒトラー総統・ヘス無任所大臣・ゲーリング航空大臣・党団代表およそ30名に堅き御握手の後、城内の大広間でヒトラー総統以下30数名の日独両国の外交官と午餐を共に遊ばされた」
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■本邸 赤坂区表町御殿→現在跡地は秋篠宮邸

正面
0003(1)


背面
0003(2)


庭園
0005(1)



■葉山別邸 神奈川県三浦郡葉山町一色


■御殿場別邸 元大蔵大臣井上準之助の別荘・建坪73坪木造平屋
0011



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◆秩父宮雍仁親王(淳宮雍仁親王)123代大正天皇の二男
1902-1953 50歳没


■妻 松平勢津子 外務官僚松平恒雄の娘/会津藩主松平容保の孫
1909-1995 85歳没

*米フレンドスクール卒業


◆1902年06月25日 誕生 1尺6寸5分(50センチ)915匁(3,431グラム)
◆1905年10月07日 学習院幼稚園入学
◆1909年04月12日 学習院初等科入学
◆1915年04月08日 学習院中等科入学
◆1917年04月09日 学習院中等科2年修了後、陸軍中央幼年学校予科第2学年編入
◆1918年09月01日 陸軍中央幼年学校本科進学
◆1920年10月01日 陸軍士官学校入学
◆1922年06月25日 成年式
◆1922年07月28日 陸軍士官学校卒業・陸士34期
◆1925年05月24日 英オックスフォード大学留学に出発
◆1927年01月17日 大正天皇死去のため帰国
◆1928年09月28日 結婚
◆1928年12月24日 陸軍大学校入学
◆1931年11月28日 陸軍大学校卒業・陸大43期
◆1937年03月18日 イギリス国王ジョージ6世の戴冠式に出発
◆1937年09月12日 ドイツのニュルンベルク城でヒトラーと会見
◆1937年10月15日 ヨーロッパから帰国
◆1940年08月01日 肺結核と診断、療養生活に入る
◆1941年01月01日 葉山御用邸に転居
◆1941年09月16日 御殿場御別邸に転居
◆1952年01月20日 鵠沼御別邸に転居
◆1953年01月04日 死去
◆1995年08月25日 秩父宮妃死去


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1931年 レコード発売
「秩父の宮さま」
作詞:北原白秋 
作曲:山田耕作


日本アルプス 槍ヶ岳
雪のお山に お登りなるよ
リックサックしょって ステッキついて
登山の宮様 秩父宮様 みんなの宮様

霧のテントに 藁の床
星の光に おやすみになるよ
背嚢とって 夜露に濡れて
スポーツの宮様 秩父宮様 みんなの宮様

強い兵隊 三連隊
赤い軍帽で お進みになるよ
指揮刀ふって 真っ先かけて
士官の宮様 秩父宮様 みんなの宮様

いつもお気軽 御所の前
チカリお眼鏡 お通りなるよ
早いおみ足 お手々を上げて
僕らの宮様 秩父の宮様 みんなの宮様


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★外遊 1937年3月18日~1937年10月15日


1937年
19370001


1937年
19370002


1937年
19370003


1937年
19370005


1937年
19370004


1937年 スイス
19370001


1928年
19280008(1)


19280010(1)


19280012(1)


19280014(1)


19280016(1)


19280018(1)


19280019(1)

◆秩父宮雍仁親王(淳宮雍仁親王)123代大正天皇の二男
1902-1953 50歳没


1922年 成年式 未成年皇族の正装
1000


1001


1002





■妻 松平勢津子 外務官僚松平恒雄の娘/会津藩主松平容保の孫
1909-1995 85歳没

*米フレンドスクール卒業

フレンドスクール卒業記念
1018


1006


1021


1011


父松平恒雄と
1015


母松平信子と
9295


1928年
1928-0001


1928-0003


19280254(1)


1928-1019


常磐会の奉祝会
1012


納采の儀
1013


1022


1031


1034


1035


1928-1005


1030


4000


左から 叔母柳沢尚子伯爵夫人・勢津子妃・秩父宮・母松平信子夫人・父松平恒雄
1048


1009


4001


1029


1030

◆124代 昭和天皇(迪宮裕仁親王)123代大正天皇の長男
1901-1989 87歳没


■妻  香淳皇后  久邇宮良子女王 久邇宮邦彦王の娘
1903-2000 97歳没


●継宮 明仁親王  125代平成天皇
●義宮 正仁親王  常陸宮

●照宮 成子内親王 東久邇盛厚王と結婚
●久宮 祐子内親王 早逝
●孝宮 和子内親王 鷹司平通と結婚
●順宮 厚子内親王 池田隆政と結婚
●清宮 貴子内親王 島津久永と結婚


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昭和天皇の娘 厚子内親王→池田厚子

昭和天皇の第四皇女として生まれ、今ここにこうしております私自身について 思いをめぐらせてみますと、必ず一つの問いかけに行きあたりますように思えます。
「天皇陛下をお父上にもたれるというのはどのようなものですか?」
このようなご質問こそが、世の中の皆様方が私どもに向けられます一番のお問いかけではなかったでしょうか。
客観的に考えましたら、皇室に生まれますことはかなり特殊なことに違いありません。
けれどもそう申し上げますと皆様方なにか拍子抜けなさいますことが多いのですが、天皇陛下を父といたしましたことにつきましては、意識せずに育ったというのが私自身の本当のところでございました。
明仁皇太子を含めて7人の兄妹は全員皇居の中の、焼けてしまって今はない御静養室で生まれました。
そして皇子御殿で幼年時代を過ごしました後、学習院初等科に入学してから結婚までの時期は、早くに亡くなりました姉東久邇成子・まるで昭和天皇の後を慕われるようにして亡くなってしまった姉鷹司和子・妹の島津貴子・それに私を加えました四人の姉妹は、呉竹寮と呼ばれます別棟で暮らしておりました。
呉竹寮では私たちはそれぞれ和室を使い、そこで勉強しておりました。
他に御遊戯室や食堂・寝室がありました。
御遊戯室は遊べるように板の間になっていて、ピンポン台や肋木がありました。
またピアノも置いてありました。
毎週土曜日に良子皇后が、公務や御研究などがおありにならない時は昭和天皇も御一緒に呉竹寮においでくださいました。
良子皇后は私たちのピアノのお稽古や勉強を見て下さいました。
裏山にアヒルを出し、子供たちみんなで追いかけたこともございます。
昭和天皇は側でそれをニコニコして御覧になっておられました。
また今は焼けた皇子御殿の縁側でウサギを抱いたこともございます。
鬼ごっこをして昭和天皇が鬼になられたことも。
竹藪でタケノコ掘りもいたしました。

日曜日昼間は子供たちみんなで、水曜日に姉妹が御夕食に皇居に伺いました。
これは結婚するまで続きました。
水曜日には御夕食を御一緒しながらいろいろ御話をいたしました。
昭和天皇は音楽は特に御好きでなかったようですが、それでも「今日はよっちゃんはピアノは何を弾いたのか?」と御聞きになりました事がございます。
「順宮」(よりのみや)が私の称号でしたので、昭和両陛下は私を「よっちゃん」と御呼びになっておられました。
学校の御話もいたしました。
料理を習うようになってからは、それを持って行くと喜んで召し上がってくださいました。

那須の御用邸で御過しになられている時など、お外に御散歩に出られてゆっくりゆっくり植物の採集をなさって、それは楽しんで御歩きになっておられました。
御一緒に歩いて植物の名を色々伺いました。
昭和天皇の御影響なのか、私はカイコやいろいろな虫が大好きで、学生時代にはよく飼いました。

戦前には夏休みを葉山の付属邸で過ごしましたので、御採集に御出かけになる時はよく御誘いいただき、磯の岩場で御一緒にウミウシの採集をいたしました。
昭和天皇は泳ぐのが御上手でいらっしゃいまして、私にも「大丈夫だから泳いでごらんなさい」とおっしゃってずいぶん励ましてくださったのですが、私は怖がりでなかなかできませんでした。
少し離れた昭和両陛下がお住まいの御用邸に御食事に伺いますと、必ず「今日は何メートル泳いだの?」御尋になります。
その励ましに一生懸命練習いたしました。

昭和天皇が大演習にいらした時には、必ず御土産をいただきました。
いらした先々の名産が多かったように思います。
今でも津軽塗の小ダンスを大切に使わせていただいております。

このように小さい頃から思い出はどれをとっても平穏そのもののようなばかりだったように思えるのですが、幼かった私などには到底知り得ないところで実は日本の国が大変な時代へと向かっていた時代だったのだと、これはずっと後になって知ったことです。
昭和11年二二六事件の当日、当時5歳の私はたまたま葉山の御用邸におりました。
雪がたくさん積もって、葉山の海の沖に軍艦が見えたのをはっきりと覚えています。
子供心になにかとても不思議な感じがして、何かあったのだろうかと漠然と思ったような記憶があります。

昭和16年太平洋戦争開戦のニュースを聞いたのは東京でした。
戦争中の疎開先は、明仁皇太子・常陸宮の御二方は日光へ、姉妹三人は塩原へというように別でございました。
塩原では御用邸から車で塩湧橋まで行き、そこから山道を20分ほど歩いて学校となっている旅館に通っておりました。
姉鷹司和子は体操や音楽を私たちと一緒に習う他、個人教授を受けておりました。
吹雪の時など御用邸から歩いて学校に通うのはなかなか大変で、吹雪の中を一生懸命歩いたものです
。
足が丈夫になったのもそのためだったのでしょう。
塩原に疎開しております間には、昭和天皇から時折 御手紙をいただいておりました。
こちらからもお出ししましたが、しっかり勉強していますと書いてお送りしたように記憶しております。
昭和20年8月15日終戦についての昭和天皇のラジオの御放送を聞いたのは疎開先の塩原でした。
9月になって昭和天皇とマッカーサー元帥が並んで写っておられます写真の載った新聞を見たの塩原でした。

長かった戦争のあと兄妹たちがそれぞれの疎開先から戻り、久しぶりに昭和両陛下と御一緒に家族が揃ってテーブルクロスのかけられた長方形の食卓を囲んでおります写真が一葉私の手元にございます。
昭和両陛下ともまだお若くていらっしゃいまして、おうれしそうに笑っていらっしゃるのが印象的な写真です。
昭和天皇は戦争で焼けた後は皇居の中の吹上御苑と呼ばれているところにある頑丈な防空建設に、昭和36年今吹上御所が新築されるまで住まっておられました。
終戦後だんだんと呉竹寮の中の空気も自由になってきて、学校からいただいた成績表を自分で持って行って昭和天皇にお見せしたりもしておりました。
その度にまたしっかり勉強なさいといつも励ましてくださいました。
ただ一度英語の成績が悪かった時、
「バイニング先生に習っているのにどうしてこんな成績を取ったのか?」とおっしゃった時は一言もありませんでした。
中等科の終り頃高等科の進路を決めるのに、学科の中では理科が好きだったので理科に進みましたが、昭和天皇は「女は家政科に行った方がよいよ」とおっしゃっておられました。
その事が忘れられなかったのでしょうか、短大では家庭生活科に入りたいと思いました。
私が学習院短大に進みます年にはまだ家庭生活科ができておりませんで、先生が「家庭生活科に行きたいのなら国文科からでないと転科できない」とおっしゃったので、1年のとき国文科に入り、2年のとき家庭生活科に転科いたしました。
家庭生活科では食品科学や栄養学などを勉強いたしました。
食物について一通り勉強したので、後々は少しはタメになったような気がいたします。

学習院短大の2年に進みました春、結婚の御話が持ち上がりました。
お相手は旧岡山藩主池田宣政様ご長男隆政様でした。
隆政様は私より5つ年上。
岡山市の西端、京山と呼ばれる小高い丘の中腹に牧場を経営する若き牧場長さんでした。
お背がお高くよく日に焼けていらして、「背広姿より作業姿がよく似合う」と何かの記事に書かれていたような記憶があります。
この縁談は何よりもまず昭和天皇の希望でした。
昭和天皇は「前から皇族または元皇族が一人か二人は地方に行った方が良いと思っていました」とおっしゃいました。
それは斎王になられた伊勢の倭姫の皇族の歴史があるからです。
婚約が整いましてからは、隆政さんは岡山の牧場から時々上京していらして呉竹寮をお訪ねくださり、楽しいひと時を過ごしました。
ところが御話が進められている一方で、貞明皇后がお亡くなりになるという不幸がございました。
貞明皇后は私にとりまして御祖母宮様で、大変可愛がっていただきました。
御話を御聞きになった二日後に亡くなられました。
後で女官から御喜びになっていたことを聞きました。
大変残念でございました

結婚式は宮中喪の明けた翌年10月10日と決まりました。
式は東京芝高輪の光輪閣で行われることになっておりました。
式の時の衣装は、古式の亀甲・地紋の小袿・臙脂の袴、これは良子皇后の物を拝借いたしました。
髪はカツラのおすべらかし。
お雛様を思い浮かべていただくのが一番わかりやすいと思います。
このお着付の御指図は、良子皇后が御自身でなさってくださいました。
結婚式の前から昭和天皇は御風邪を御引きになっていらっしゃいました。
結婚式の当日はだいぶ良くなっていらして御出席になれたのですが、昭和天皇は結婚式の後に大使の認証式を控えていらっしゃるので、御無理をなさらない方が良いとのことでした。
それを聞いて一時は悲しかったのですが、冷静になって考えてみれば本当にそうだと納得いたしました。
私は初めて昭和天皇は私の父親であると同時に、日本という御国の天皇陛下でいらっしゃるということをしみじみと感じました。
御文庫を出ます前に昭和天皇の部屋に御挨拶に伺いました
池田へ嫁ぎ一週間後に岡山へ奥に入りしました
それからはどちらの奥様方もなさいますのと変わらない家庭の中の仕事で終始いたしまして、平和で幸福なものでございました。
夫は大の動物好きで、動物好きが高じて始めた仕事でございました。
日曜日もない仕事ですが、私自身も動物は好きな方ですので、小鳥の世話を手伝ったり犬を飼ったりして楽しんでおりました、
良子皇后からいただいたピアノを時折弾いてみることもありました。

昭和38年、岡山で平穏無事に暮らしておりました私の身に異変が起こりました。
食欲もないので夏負けかしらと思い、検診の日なので病院に行きました。
診察していただいたら熱も39度を越していることがわかり、岡山大学付属病院にそのまま入院いたしました。
熱があると知らなかったのですから、先生の方がびっくりしておられました。
敗血症であったことを退院の後知りました。
昭和天皇の第二皇女になります方が生まれて数ヶ月で敗血症で亡くなっておりましたので、昭和天皇にどうお話ししようかと思われたそうです。
娘の病名を遠く離れた東京で御聞きになられた昭和両陛下は、さぞかし御胸を御痛くださったのでしょう、翌月には御召列車で岡山に御越しになり、私の病室を御見舞くださいました。
本当に嬉しゅうございました。
先生方をはじめ・婦長さん・お世話してくださっている方々・そして夫の隆政にも、
昭和天皇は「お世話になっています。今後ともよろしくお願いします」と丁寧に御挨拶なさって帰られたと、後から周囲の人たちから聞きました。
昭和天皇の深い愛情を身にしみて感じながら闘病生活を送りました。
8ヶ月の闘病生活を送ることになってしまいました。
皆さまのお力で治癒し、数カ月後の後遺症も乗り越え、退院後の静養に昭和両陛下のいらっしゃる那須の御用邸で過ごし、久しぶりにおいしい朝食もいただき、散歩も御一緒しました。
お二人は私の全快を心から御喜びになっておられました。
御散歩の時には植物を見ながらゆっくりを歩きになりますので、合わせているとこちらの方が疲れてしまいます。
「先に行ってもいいよ」とおっしゃってくださるので、「お先に行かせていただきます」と申し上げお先に歩きお待ちしていました。

昭和天皇は私心のおありにならない方でした。
そういう御性格でいらっしゃいますので、御身回りにお仕えする侍従さん達に向かって御怒になったりされたことはなく、ユーモラスにおかわしになっていらした御様子です。
子供のころ食後すぐ相手をしてもらおうと侍従さんを呼びに行こうとすると、
「一服してからにしておやり」と必ずおっしゃいました。
思いやりがなければいけない、そして自分の楽しみよりも相手の気持ちを察してやれと教えていただいたように思います。
また昭和天皇は良子皇后に対してもとても御優しくていらっしゃいまして、どこかを御一緒に御歩きになっている時も、必ず良子皇后の方を御ふり返りになって御心をおかけになっておられました。
テレビなどでそうした御二人の御様子を拝見する度に、ああ、いい御夫婦でいらっしゃるのだなと微笑ましく思っておりました。
昭和天皇は本当に良子皇后を御大事にしておあげになっていらっしゃいました。

昭和天皇が御病床につかれましてからは、鷹司の姉と島津の妹と女のきょうだい3人が電話で相談し、大勢で行ってパッと帰るとおさみしいだろうからと、一人ずつかわりばんこに御見舞することにいたしました。
今改めて指を折ってみますと、二十数回にもなりましょうか。
昭和天皇の方から御手をお出しになったり、私の方から御手をお握りしておりましたが、長い御闘病の間に少しずつ御弱りなっていかれるのが目に見え、帰る車の中で涙を流しました。
生きている方が悲しゅうございました。
朝目が覚めると、いつも祈るような気持ちでテレビをつけておらりました。

1989年1月7日の早朝、東京のホテルに待機しておりました私の所に御危篤の知らせがございました。
午前6時過ぎに吹上御所に入り御寝室に伺いますと、ひっそりとただただ御静かに御休になられているだけのように見えます昭和天皇のベッドの周りに、明仁皇太子夫妻をはじめ、浩宮・礼宮・紀宮・皇族の皆様方がお集まりになっていらっしゃいます。
私は昭和天皇の御ベッドの御足の方におりました。
午後6時33分、昭和天皇にとりまして最も身近でいらっしゃいます皆様方の見守られる中で、昭和天皇は息を御引取りになりました。
昭和天皇が吹上御所で御病床におつきになりましてから、ちょうど111日という日々が過ぎておりました。
本当によく頑張って下さいました。
その間に私たちの誰もがそれぞれの胸の内にそれぞれの覚悟を決めて、昭和天皇の御最期をお見守り申し上げることができたかと思います。
昭和天皇の御顔はとても静かで穏やかにまるで御眠りになっていらっしゃいますような、とてもいい御顔でございました。
どうぞどうぞ安らかに御休みなさってくださいませと、私もまたその時かねてよりの覚悟のうちに心の中で昭和天皇に最後の別れを申し上げ、深く深く頭を下げました。
御最期の瞬間までおさすり申し上げていた昭和天皇の御足は大変に温かでございました。
御手も御足も最後まで御柔く温かでいらっしゃいまして、最後の温もりはきっといつまでも忘れないことでございましょう。
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