◆123代 大正天皇(明宮嘉仁親王)122代明治天皇の子
1879-1926 47歳没


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『徳大寺実則日記』明治天皇の侍従長

1892年7月27日
1891年6月より1892年7月まで、嘉仁皇太子の御学業成績は、御読書・御馬術は著しく御進歩あそばされ、御記憶力も増され、ただし御読書御進歩の割には意味を解せらるること御乏しと。
算術は他に比較すれば御困難なり。
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佐々木高行『かざしの桜』明治天皇の娘昌子内親王と房子内親王の御養育係

1900年2月14日
※伊藤博文の発言

嘉仁皇太子とにかく御軽率の御天質にて、何事もしみじみ遊ばされ候御事なく、これには困る。

1900年2月15日
※伊藤博文の発言

嘉仁皇太子御病症あらせられ、かつ御天質なにぶん御軽忽にあらせられ候。

1900年3月10日
※伊藤博文の発言

嘉仁皇太子は明治天皇と大御反対なり。
これまで種々心配せるもなにぶん思うごとくできず致し方なし。
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『原敬日記』総理大臣※当時は内務大臣

1913年1月6日
先年 予が元老伊藤博文に「東宮様御外遊ありては如何」と話したるに、
「それは出来ざる事情あり」と言えり。
何事なるかはいまだに判然せず。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1917年3月20日
午後7時40分、御召あり。
尺八演奏を承る。
奥御座所鶏の御杉戸前御廊下にて、立ちながら千鳥の曲を吹奏す。
畏れ多くも大正天皇は両侍従を随えさせられ、立ちながらお聴きを忝うす。
また節子皇后は女官たちを随えさせられ、鶏の御杉戸裏にてお聴きに達したりと。
我が愛笛またなんたる光栄ぞ。
演奏終わって、大正天皇みずから御拍手の栄光に浴す。
「今夜の演奏なかなか面白ろかりし。この次にはもう少し長き曲を望むぞ」
とのありがたき御言葉あり。
退出時、節子皇后より御菓子一折御下賜を忝うす。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1917年4月3日
体温また37.7度に昇れり。
咳、極めて多し。
他の役所なら本日ぐらいは所労休暇を願うべきなれども、常に病気の二字を非常に怖れ給うに加え、上直日とていかんとも致し難く、常のごとく出勤。
ただし、人力車にて。
御運動扈従に出かける前、咳止め頓服第二回目を服用す。
お陰にてほとんど堪え得たるも、5~6度は堪えかねてお嫌いの咳声を天聴に達したるも恐懼の次第ながら、出る咳を出すまいと努むるほど苦しきものはなし。
かかる経験はあまり多くの人にはあるまじ。

1917年4月13日
出御、拝謁。
侍立中、咳の出ずるを我慢したるは近来の苦痛事なりき。
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『原敬日記』総理大臣※当時は政友会総裁

1917年4月
三浦梧楼子爵曰く、
元老山県有朋在京中大正天皇に拝謁せしに、「いつ辞表出すや」との御尋ねあり。
山県恐懼してただちに辞表を出せりと。
山県がしばしば老躯職に堪えざることを言上せしより起こりたる事ならんかとも拝察するも、その後寺内正毅拝察の際、「山県は人望なきにあらずや」との御諚ありて、寺内恐懼せりと。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1917年5月12日
午後に入り小雨。
馬術の御練習は馬場内において遊ばせらる。
例により扈従す。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1917年7月20日
午後の御運動は午後2時15分おり午後4時20分まで、吹上御苑および紅葉山等なり。
炎天2時間の扈従、申すも畏れ多きことながらなかなか容易にあらず。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1917年8月8日〔田母沢御用邸〕
午後2時30分より4時15分まで御苑内および帝国大学植物園内御運動に扈従す。
日光は涼しなど申しながら、この扈従だけは流汗淋漓、上衣のすべてビッショリとなれり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1918年7月2日
暑気酷烈のため、御日課の御乗馬御取り止めなる。
よって午後2時40分より3時50分まで御苑内御運動あり、扈従し奉る。
わずかに1時間に過ぎざる御供なれども、総身流汗淋漓たり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1918年11月12日
久しぶりにて拝謁す。
畏くも「久しく病気なりし由。全快せしか」とのありがたき御言葉を賜り、感泣措くところを知らず。
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『原敬日記』総理大臣

1919年2月15日
宮内次官石原健三より大正天皇御病気の御様子を聞き取りたるに、葉山へ御避寒後いまだ御入浴もなく御庭にも御出なき様の次第なるが、別にこれという御病症いもあらざれども、少々御熱などのある事もあり、御脳の方に何か御病気あるにあらずやということなりと、甚だ恐懼に堪えざる次第なり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1919年3月1日〔葉山御用邸〕
御警衛艦〈津軽〉乗員270名、海岸南苑下にて陸上運動施行のお許しありたり。
綱引き2回、旗送り競争1回、および軍歌3曲なり。
その間終始石堤上に出御あり。
運動を見そなわせられことのほか御満足に拝し奉るを得たるこそ、臣下の光栄例うるものなし。
運動員一同に清酒1樽下賜せらる。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1919年6月26日
※倉富&宮内次官石原健三の会話

石原◆大正天皇は元老山県有朋の上京をお好みなされず。
それぐらいなるゆえ山県に対する時は御行動も平常のごとく都合良く行かず。
倉富◆これは御病気なるゆえ、他より申し上げても都合良くなることは難しかるべし。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1919年7月4日
※宮内次官石原健三の発言

大正天皇の御健康問題なり。
侍従長正親町実正もやはり公家気質にて悠長なり。
葉山御避寒中に処置すべきはずなりしも、御避寒中には為しがたし。
御還幸後に為すべしと言い置きてそのままになりおれり。
元老山県有朋なども大概は知りおるも、宮内大臣波多野敬直ほどは知りおらず。
波多野宮相に対して種々の小言を言うも、畢竟無理なる事にて何とも致し方なき訳なり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1919年8月6日〔田母沢御用邸〕
午後2時半より御苑内および植物園内の御運動に扈従す。
夜御玉突きの御相手賜ること例のごとし。
大正天皇御気色はいつもに変り給わざるも、御体力はどこと言うにあらざれども、やや御減退あらせられたるにあらずやと拝察し奉る点なきにあらず。
時々御言葉の明瞭を欠くことあるがごときは、近来ようやくその度を御増進あらせられたるにはあらずやと拝し奉るも畏れ多き極みなり。

1919年8月26日〔田母沢御用邸〕
日光着。
ただちに大正天皇に拝謁を賜り、「子供の病気、少しはよろしき方か」とのありがたき御言葉を拝す。
恐懼感激の至りに堪えず。
謹んで両三日前より快方に向かいたるを言上す。

1919年8月27日〔田母沢御用邸〕
今秋挙行せらるべき特別大演習に際し、御召艦に充当せらるべき〈摂津〉準備に関する覚書を得たり。
大正天皇の御健康とかくに優れさせ給わざるため、軍艦としては不相応な設備までのなさざるべからざる憾なきは誠に遺憾に堪えざるところにして、この設備の程度をもって御召艦に対する相当の準備と考うべからざるは識者をまたずして明らかなり。
むしろ海軍国として雄飛せんとする我が国の御召艦としては、後日の範となすべからざるものと信ず。

1919年8月29日〔田母沢御用邸〕
小倉山へ御遊行あらせらる。
本日の御遊行は大正天皇の御機嫌あまり麗しからず。
最初よりいささか御疲労模様に拝し奉りしも恐懼の至りなり。
もっとも午前中は至極御気色麗しかりし由承わりしも、両皇子御出発後急に御疲労の出でさせ給えるやに拝し奉るとなん。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1919年9月4日〔田母沢御用邸〕
夜に入り御球戯に先立ち、尺八一曲の御所望あり。
雲井獅子一曲を奏す。
終って球戯御相手承る。
今晩は大正天皇の御機嫌、平日になく至極麗しく拝し奉れり。

1919年9月26日
御陪食の節 王座に臨御あらせ給いしも、多少御気色優れさせ給わざるものあり。
御咳これに伴い、御姿勢等思わしからざるを拝し奉れりとは畏き極みにこそ。
午後の御運動はわずかに宮殿内の御逍遥にとまり、室外の御運動を控えさせられ、夜間の御玉突も平日と異なりて単に出御遊ばせらるというに過ぎざりしと言う。
漏れ承わるに、特に御大儀の御模様を拝し奉ると。
しかも昨今階段の御昇降には両側より侍従お助け参らするにあらざれば叶わせられずとは、何たることぞ。
一日も早き御快癒を待ち奉ること切なり。
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『原敬日記』総理大臣

1919年9月27日
内大臣松方正義に「聖上近来の御健康につき憂慮すべき次第につき、とくと考慮を望む」と申し入れる。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1919年10月2日
午後の屋外御運動遊ばされず。
大正天皇どこというにはあらねども、御不自由にわたらせられるためなり。
夜の御球戯には久しぶりに自分をも召させらる。
しかしほとんど名のみの御球戯ありしのみ。

1919年10月7日
午後の屋外御運動は依然遊ばされず、宮殿内の御運動あらせられたるのみにつき扈従せず。
夜の御球戯に召させられ御相手承る。
本日は近頃になく天機麗し。

1919年10月24日〔海軍大演習〕
大正天皇御夕食時には例により軍歌の御所望あり。
乗員総員後甲板に集まり、軍楽隊の音頭により4曲を奏す。
御食事終わって相撲を天覧に供す。
御召艦〈摂津〉の力士は我が海軍中随一の尤物揃いにして、連合艦隊における呼び物の一つなればなり。

1919年10月28日
午後8時より御球戯に召さる。
今夜御機嫌ことのほか麗しく、明らかに大演習御統裁の首尾よく済ませられたるを御満足に思召されたることと拝察し奉るもうれしき極みなりき。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1919年11月1日
※倉富&宮内次官石原健三の会話

石原◆昨日の勅語の模様は拝したるならん。
昨日までは幾分の望みを属しおりたるも、到底議会開院式の事は望みがたし。
倉富◆御臨席ありて勅語なき訳には行かざるべし。
石原◆それはできず。開院式前より御避寒になるより他に方法なかるべし。
倉富◆さすれば新年式も止めになり、宴会場の狭き事も心配なくして済むべし。
石原◆その通り。

1919年11月21日
※宮内次官石原健三の発言

大正天皇の御脚の運びよろしからず。
介添を付けるは不体裁にて、観菊会の事は苦心しおりたるところ、幸いに雨天となりて幸せたり。
時によりては御飛びになる様の事もあり。
御容態一定せず。
やはり神経の作用なるべし。
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『原敬日記』総理大臣

1919年11月6日
予は大正天皇の御健康問題は国家の重大問題と思い常に憂慮しおり、山県有朋・松方正義・西園寺公望みなこの点についてはまことに憂慮しおれり。

1919年11月8日
御幼年のころ脳膜炎御悩みありたることゆえ、御年を召すに従って御健康に御障りあり、御朗読物には御支多く、すでにこの間の天長節にも簡単なる御勅語すら十分には参らず、臣下としてことに当局として、予は国家皇室のために真に憂慮しおれり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1919年12月22日
※宮内官僚小原駩吉の発言

〔議会開院式について〕今年は早々御避寒あるべしとの事を聞き好都合と思いたるところ、やはり大正天皇御自身に臨幸ある予定なる様に聞きおれり。
石原健三なども到底出来ざることと思いたるも、侍従等は必ず出来ると言うゆえまたその気になりたる様なり。
先日支那武官に謁を賜るとき初めは単に握手を賜うのみにて何の御詞もなき予定なりしが、式部長官は「外国人に対し一言の御挨拶なきは不作法なり。一言にてよろしきにつき何とか御詞あればそれ以上は通訳にてしかるべく取り成すべし」と言いたるも、到底難しいとの事ととなりおりしが、
元老山県有朋がこれを聞き「左様の事あるべきはずなし。ぜひ御詞あるべし」とのことにて御詞あることとなりたる由。
山県は大礼の時には自身に御練習に関係し、自身も勅語を読みて御練習を為し、ともかく大礼滞りなく済みたる事あるにつき、今日にてもその通り出来る事と思い、式部長官・侍従長列席の所にて、
「宮内大臣波多野敬直は自分の言う事を聞かず。自分は幾度か忠告もし助言も致したれども何事も実行せず。大礼の時かのごとく御出来なされたるものが今日出来ざるはずはなし。畢竟真実にその手段を尽くさざるためなり。聞くところにては、開院式前に御避寒遊ばさるるやの説ある由。言語道断なり」
式部長官は気の毒に思い、
「この事については波多野宮相も非常に苦心しおる。大礼の時と今日では御容態非常に異なり」とてこれを取り成し、
波多野宮相も「大礼の時は様なればよろしきも、今日はなかなかかの時の様に行かず」と言いたる由。

1919年12月24日
※倉富&宮内次官石原健三の会話

石原◆一度は年内御避寒の事に内定しおりたるも、侍従中の2~3人が勅語は御差支なき旨を申し出て、そのため御臨幸ある事となりおれり。
今後今一度御練習あるはずなり。
自分は甚だ不安心なるも、侍従の保証あるにつきその事になりたり。
倉富◆侍従が保証したりとて責任を避ける事を得ざるにあらざるや。
石原◆それはもちろん宮内大臣の責任なり。
倉富◆この事は実に重大なる問題にて、また至難なることなり。
当局者は充分に考慮せざるべからず。
石原◆何とも致し方なし。

1919年12月25日
※宮内次官石原健三の発言

明日の議会開院式には御臨幸あるはずなりしが、ついに御止めになりたり。
元老松方正義は熱心に御練習を勧めたるも、結局御止めになる事となれり。
元老山県有朋も参内して御模様を拝見し、結局御止めに同意する事となれり。
これまでは山県らは手続の不行届あり、手続さえ行届けば出来ざる事はなし、と考えおりたる模様なるも、実見して始めて得心せられたる模様なり。
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『原敬日記』総理大臣

1919年12月26日
第42議会開院式。
大正天皇御足痛にて御歩行御困難の次第、昨日宮中より発表ありて、本日臨御なきにより、予勅命を奉じて勅語を奉読したり。
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『原敬日記』総理大臣

1920年1月26日
閣議において、絶対秘密として大正天皇の御病症を内話し、一同痛心に耐えざる旨陳述したり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1920年3月3日〔葉山御用邸〕
夜の御玉突きの御相手承ること常のごとし。
この夜、尺九の一管を御前に演奏す。
節子皇后もまた女官を従えさせ給い、陰の御室に出で給う。
御聴きに達するを得たるは身に余る光栄なりき。
これにて我が有する三管は、畏れ多くもすべて大正両陛下の御聴きに達したることとなりしもありがたし。

1920年3月31日
在京武官一同へ大正天皇の御近状に関し、達せらるるところありたり。
また今日の諸新聞には宮内大臣謹話として、同じく「大正天皇近頃御健康優れさせ給わず。御避寒地葉山よりの還幸も今年は4月中旬となるべき」旨発表せらる。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1920年3月4日
※宮内次官石原健三の発言

イギリス皇太子来年3月頃来日する旨の回答ありたり。
差し向きシャム王が来るにつき苦心中なり。
御面会あればすぐに不結果を来す事は明らかなり。
元老山県有朋などはやむを得ずある程度までは御容態を話す模様なり。
只今三浦謹之助をして御容態書を作らしめおれり。
ある時期において発表するよりほか致し方なかるべし。
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『原敬日記』総理大臣

1920年3月28日
※陸軍大臣田中義一の発言

昨夜元老山県有朋を訪問し、宮内大臣波多野敬直近日来元老間を奔走しおるは大正天皇の御病症発表のためにて、しかして山県元老に持参せし三浦博士御診断書には「数年前より御不例」のように記しあり、穏当ならざるにより訂正を注意したりと内話をせり。

1920年3月30日
波多野宮相より大正天皇御病症につき三浦博士御診断書の書面には内々これを示し、同時に世間に公表の書面も内示したり。
「閣僚にもお示しなるべきところ、それにてはかえって世間の耳目を引くことになるにつき、予より内示せんことを求め、かつ本件は枢密顧問官にも枢密院議長より内示することに取り計うつもりなり。また拝謁等もなるべく閣下よりせられ他の閣員は毎度拝謁せざるようにありたし」と言うにつき、
予これを諒承し「内閣組閣当時元老松方正義より内談の次第もあるにつき、やむを得ざる場合のほか他閣員は拝謁を願わざることになしおれり。ただし陸海外の三相は職務上自ら言上せざるを得ざるはやむを得ぬ次第なり」と付言したる後、
「大正天皇の御病気はいかにも恐懼の次第なるが、それにしても御病症はまったく秘密のうちに置くことは国民に対し相済まざる次第なれば、時々公表を要すべし。さりながらその公表の場合には人心に影響すること多きにより、前もって内示なりたし」と請求し、波多野宮相これを諾せり。
閣議、予より大正天皇の御病症につき波多野宮相内談の次第を告げ、かつ三浦博士拝診書ならびに波多野宮相より世間に公表すべき文案を内示したり。
閣僚一同、如何にも恐懼に堪えざることを述べたり。
陸海外の三相は暫時拝謁につき、つとにその御様子を知り嘆息しおりたることなり。
なお閣僚には「上奏等はなるべく予より取り計うべし」との次第を告げおきたる。
大正天皇には時々親任または親補官の辞令御申渡の際にも御困難のことあり、その時は予側より御助言申し上げるようなこともあり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1920年4月9日
大正天皇は当分御摂養の必要上、御座所において政務を見そなわせらるるの他は一切公式の御執務あらせらざることにお願いすることに決したる旨 大正両陛下に奏請し、ついに御許容あらせられたり。
されば今後は内外人の拝謁等も表向きには大正天皇にはの出御なかるべく、必要やむを得ざる場合には節子皇后・裕仁皇太子代ってその御役を務めさせ給うこととなり。
したがって観桜観菊等の御会にも、大正天皇は臨御遊ばせられざることとなりたる次第なり。
御病気御自覚あらせられざる御模様拝し奉ることとて、ことのほかお痛わしきことと拝し奉るも恐懼に堪えざる次第なり。

1920年4月10日
午前2時頃より絶えず悪夢に襲われ、少しも安眠できず。
縁起にもあらざることながら、大正天皇御身の上について種々の杞憂百出し、かくならば如何にせん、またこの場合には如何に擁護し奉らんなど、決して事実出現あるまじきことどもまでも脳裡に浮かびては神経興奮し、容易に眠れず。

1920年4月12日
来る14日節子皇后には単独東京に還啓あらせらる旨仰せ出ださる。
来る17日の学習院卒業式に台臨、続いて観桜会、先日より待ちおるイギリス大使の勲章捧呈式に臨ませられ御陪食仰せつけらるるためなりと。
大正天皇にはもっぱら御摂養のため当分何らの御儀式にも臨ませ給わざることとなりたるをもって、節子皇后代ってかくも務め給う次第にして、御病気御自覚あらせられざる大正天皇は果たして如何に思召給うにや。
御心中拝察し奉るだに畏し。

1920年4月14日
今日午前、裕仁皇太子は外国使臣を宮中牡丹の間に御引見あり。
世人はたして何と感じ、大正天皇の御近状を拝察し奉るならんや。
側近に奉仕する者必ずこれを詳らかにするあらんとて、我らに反問する者なからんことを願うのみ。
今日はかくのごとく我が国における多くの新例を開きたる日なれば天機如何と案じ奉りしに、御球戯のおり拝し奉るところは平日といささかも変らせ給うことなく、今夜はむしろ御気色麗しき日なるを覚えたり。

1920年4月20日
新宿御苑観桜の御会あり。
後より聞く。
「節子皇后が最先頭に立たせられ臣僚百官を従えさせられ御通行謁を賜りしその御有様は、その御態度等は極めて厳粛荘厳にあらせ給いしも、心ある人々は何やら異様の感なきあたわざりし」とのことなり。
一刻も早く大正天皇の御平癒を祈り奉るのみ。
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『原敬日記』総理大臣

1920年4月10日
元老山県有朋を訪問。
原首相◆大正天皇御病気につき国書奉呈すべき3カ国の公使差し控えおる上にイギリス大使来任につき、これを延期せんことは同盟国として如何にも遺憾の次第なれば、外務大臣内田康哉とも相談し宮内省側とも話し合い、戦時中イタリア等にも前例ありたりというにつき、裕仁皇太子御代理にて国書を受領せられ大正天皇に伝呈せらるることに内定したる。
山県◆もっともの次第なり。
イギリスに対し延引するようにては、ことにあい済まず。

1920年4月13日
大正天皇に拝謁前、侍従長正親町実正の内談に「拝謁せらるる時、御病気のことは言上なきようにありたし」と言えり。

1920年4月14日
本日裕仁皇太子が大正天皇に代らせられイギリス大使はじめ3カ国の公使に謁見を賜い、国書を御受領ありたり。
この御式は我が国においては初めてのことなり。
内田外相の談に「裕仁皇太子の御態度ならびに御言葉など実に立派にて、宮内官一同と共に実に感嘆せり」と言えり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1920年6月20日〔沼津御用邸〕
午後大正天皇は御平服のまま、大山公爵別邸なる臥牛山に御遊幸あらせらる。
午後3時10分還御遊ばさる。

1920年6月25日〔沼津御用邸〕
地久節。
節子皇后は先般来御在京につき、当日沼津に供奉中の武官一同は奉祝の意を書面に認め、皇后宮大夫を経て奉呈せり。
大正天皇御昼餐時御食堂前御庭に供奉。
判任官以上全員を召させ給い、立食の餐を賜わせらる。
女官一同接待の役に任ず。
立食終わって三浦医員の手品を天覧に供し、供奉員の綱引き・競走・旗取りなどの運動を天覧に供し奉れり。
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『原敬日記』総理大臣

1920年6月18日
※原&元老山県有朋の会話

山県◆元老松方正義が「至急に面談したし」と言うにつき何事かと思い会見せしに、
「大正天皇御病気につき摂政を置かるることに決定を要す」と言うに、
自分は「それは重大のことなり。御病気には相違なきも、摂政を置かるることとなるには前もって節子皇后をはじめ皇族方のお考えも承らざるを得ず、また大隈重信のごときしばしば拝謁もなしおるにつき御病はさることにはあらずと言わんもしれず、かくては実に重大なる事件を惹起する恐れあり」とてこれを止めたり。
原首相◆松方元老がなぜに急遽この決定を促したりや。
山県◆松方の言うところにては、伊集院大使がベルギーより御病症をその公使に尋ね来り、またアメリカの新聞には御重態のように記載もありたりとて、その決定を促したるに原因す。
原首相◆ついに摂政を置かるる必要に至らんことと恐察するも、それまでには時々御様子を発表して国民に諒解せしむるの必要もあるべし。
もとより節子皇后はじめ皇族方の十分なる御考慮に待たざるべからず。
また御病気の御様態はなお数回公表の必要あるべし。
山県◆松方の軽挙は論外なれども、過日も松方辞職を言うに、
自分は「その職を辞したりとて先帝以来優渥なる勅諭を拝したるは我々責任を免るることあたわざるべし」と論破せり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1970年7月22日
午後、御苑内および吹上御苑の御運動に扈従し奉る。
近来の暑気厳しきためか、大正天皇やや御倦怠にわたらせられざるかと拝し奉る。
恐懼の至りに堪えず。
夜の御球戯には例により軍歌盛んなり。

1970年7月24日
本日宮内大臣より発表あり。
庶民が大正天皇の御健康を憂慮し奉り時々あられもなき御容態と拝察し奉る者さえあるに至らん現状となりたれば、かえって恐懼に堪えざる次第なるをもって特に宮内大臣より責任ある発表をなし奉れる次第なり。

1970年7月27日
大正両陛下田母沢御用邸への行幸啓の儀あり。
上野駅にて皇族各殿下妃殿下をはじめ首相以下数十の大官より奉送を受けさせられプラットホームに出でさせ給いし後は玉歩やや御困難の御模様にて、御乗車まで途中2度も立ち止まらせ給いしは何らかの御異状あらせ給いしにはあらざりしか。
後方近く扈従し奉る身には、ことさらおいたわしき御事と拝察し奉るも畏し。
日光の御静養なんとかして御相応あらせ給はんことを祈願し奉るのみ。

1970年7月31日〔田母沢御用邸〕
午前の御運動は遊ばせられざりしも、午後は久しぶりに1時間にわたり御苑内御運動遊ばせらる。
ただし沢侍従つねに御側に侍し奉れり。
とかく前日の御元気にはあらせ給わず。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1920年7月15日
※宮内次官石原健三の発言

大正天皇の御病状第2回の発表を為すの必要あり。
三浦謹之助が診断書を作りたるが御病症を恐怖症と書きおれり。
これにては誠に困る事なり。
初めは忘語症と言いおりたるが、恐怖症とせり。
これでは発表しがたし。
今少し不得要領の病名にいたしたし。

1920年7月21日
※倉富&宮内次官石原健三の会話

石原◆大正天皇の御病状書案中「御疲労の折には御態度弛緩し御発語に障害を生じ明晰を欠く事あり」というごとき言葉あり。
倉富◆御発語に障害を生ずと言えば脳の疾患ある様に思わる。
御発語云々は削る訳にはいかざるや。
石原◆この事がこの節の主眼につき、その他は既に第1回に発表せられたる所と異なることなし。
医者の説にては言語に関する神経と意識に関する神経とは別個の物なる由にて、御発語に障害ありても御意識には影響なしということを得る趣なり。
倉富◆それほど研究しあることならばよろしからん。
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『牧野伸顕日記』内大臣※当時は貴族院議員

1920年7月15日
大正天皇、上野御発。
本日は侍従左右に侍し御手を支えながらプラットホームを御歩行、玉車に向かわせらる。
近来一人御側にてワキもしくは御手を支えたるに、両人左右より御支え致すことは今日が初めてなり。

※侍従加藤泰通の発言
大正天皇は塩原御用邸のことを御記憶あらせられざるように拝す。
種々問題を設け御伺いを試みるに何ら御答えなく、御口気より拝察するにかねてしばしば御来遊ありたる事はまったく御念頭に登らざるがごとしとのことなり。
皇太子御時代にはほとんど毎年御滞在であり、自由に御運動御散歩あり、また御践祚後も一回御来遊ありたるにかかわらず以上の御有様なるは、はなはだ痛心の次第なり。
原恒太郎侍従も、お気に入りの土地なるにかかわらず前段の次第とは実に恐驚の至りと申しおる由。
御湯殿は御座所よりおよそ6尺以上も低地にして階段13を下り、御昇降困難なるが従前より何ら変更したる事なく、以前御滞在の時と同様なるにかかわらず、「これは違う」と仰せられたる由。
御進退不自由にならせられるため、従前より構造も違い、別の湯殿のように御思召たるかもしれず。

1920年7月22日
※元老松方正義の言葉

摂政決行の時機はなるべく早きを相当とするも、裕仁皇太子御帰朝後あまり急速に決行するは、いかにも感情上また孝道上においても穏当ならざる傾あるにつき、少し落ち着きたるところにて進行する方よろしかるべし。
10月末あるいは11月頃しかるべくか。要するに議会までに片付くことを目的とすること。
なお節子皇后へ言上することは、自分まず口開きすることに任ずべし。
それはかねて大正天皇の御状態につき御話ありたることあり。
それは1913年頃までは種々御為めを存じ上げ申し上げたるも、もはやなんら効果なきを覚知し爾後は断念せり。
誠に困ったことなり。
また皇子様方、父大正天皇の御前にならせられたる時、時々変なことあり。
皇子様方も不思議に御思召こともあるにつき、なるべく早く御前を御下りになるよう取り計らいおる次第なり。
皇族方へも自分より申し上ぐることに努むべし。要するにこの問題だけには尽力すべし。
その上はもはや来年は88歳になることゆえ、このことが決定したる暁には是非御免を蒙りたし。
この事だけはぜひ始末をつけなければ相済まざる分なり。

この老公の態度、決心いかにも立派なりし。
帝室に対する奉公の誠意に基づくこと無論なり。

1920年7月24日
※侍医頭入沢達吉博士の発言

大正天皇の皇太子時代にはたびたび拝謁し種々御用を承りたり。
しかるに7~8年を経過したる今日、今春以来御用拝診を命ぜられ、時々御伺いするに、どうも入沢を御記憶なきようなり。
数回拝伺のうえ「お前は見たことがあるようだ」と仰せられたる由なるも、はたして御記憶を御呼び出しなりたるか、あるいは侍従等より従前の事を申し上げたる結果なるか判然せず。
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『原敬日記』総理大臣

1920年7月20日
宮内大臣中村雄次郎、大正天皇御病症につき再び発表すべき案文につき相談。
予熟読、差し支えなき旨返答したり。

1920年7月24日
大正天皇御病気の御近況につき、中村宮相より相談ありし通り、本日宮内省から発表あいなりたり。
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『原敬日記』総理大臣

1920年8月4日
大正天皇に拝謁後節子皇后の御機嫌伺をなしたるに、常とは異なり何びとも侍立せず単独にて拝謁し、かつ椅子を賜りたり。
節子皇后より大正天皇の御病気につき「一般にはいかが感じおるや」との趣 御尋ねつき、
予は大体の形勢も奏上しおくこと適当と考え、
「大正天皇の御病気につき甚だ畏れ多く、人心に影響するところ実に憂慮に堪えざりしが、幸いに2回の御様子御発表あり人心の動揺を防止するに至れるやに思わるる」次第を申し上げたり。
「下々のことは新聞ぐらいにて見るの他なければ、独り心配しおる」との旨、お漏らしありたり。
恐懼の至りに堪えざるなり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1920年9月21日
午後の御運動平常のごとく扈従。
また夜の御球戯は名ばかりにて、軍歌のみ盛んなり。
御相手少々閉口。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1920年10月31日
午後8時半ころ「これより供せよ」との御沙汰により御内儀に扈従せしに、「御店」の御催しあり。
節子皇后は変装した女官を従えさせられ、大正天皇御接待あそばせらる二位局〔大正天皇の生母柳原愛子〕またこの座にあらせらる。
おしるこ・西洋菓子・お茶などの御饗応にあずかり、土産としておもちゃ・化粧品・お野菜などをちょうだいす。
お福引には金札との名題にて、御幣1本・反物1反ちょうだいす。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1920年11月17日
御運動の扈従、御球戯の御相手承ること常のごとし。
軍歌は風邪のため発声困難、恐懼に堪えざりき。
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『原敬日記』総理大臣

1920年12月24日
侍従長正親町実正より「近年大正天皇の御署名を要するもの非常に増加し、毎日日課として御署名あるもとうていお運びとならず、如何にも恐懼に堪えざる次第につき、なんとか心配ありたき」旨内談を得たり。
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『牧野伸顕日記』内大臣※当時は貴族院議員

1920年12月11日
大正天皇の御病気のこともだんだん国民に知らるるもののごとく、また事実においても離宮に行幸または伏見宮邸に行幸などあれば、御病気は御肉体にあらずして御脳にあられるぐらいは国民も悟ることと思う。
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『原敬日記』総理大臣

1921年1月15日
大正天皇に拝謁し奏上を終わりたるに、大正天皇は御手づから御机上にありたる紙巻煙草一握りを取りて賜りたるが、御病中にもかかわらずなおかくのごとき御習わしを行わせらるるは、如何にも君臣の御間柄につき御幼少より先輩ら御教育申し上げたる結果もあらんが、ただただ感泣の他なかりしなり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1921年4月16日
内山武官長より「御近況に対し各自の見るところを述ぶべし」とて、各自意見を徴せらる。
御容態につき第三回の御発表あるべきをもってなり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年4月19日
※宮内官僚関屋貞三郎の発言

大正天皇の御容態は葉山より御還幸後に発表せらるる例なる由につき、この節もこの際発表する事となさんと欲す。
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『原敬日記』総理大臣

1921年3月9日
宮内大臣牧野伸顕来訪。
「大正天皇御署名の数あまりに多く、何とか改正の必要を認め研究中なり」と言いたれば、
牧野も「宮中の御祭典その他いかにも多く、往古まったく宮中だけのことにて政事に御関係なき時代のことをそのまま踏襲の有り様につき、これも何とか改正を要すと思い宮内省でも取調中なり」と言えり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1921年5月10日
御内庭にて園遊会あり。
これは一昨日昭和皇太子御無事御着英の趣き昨日来電ありたるにより、その祝賀会なり。
大正両陛下出御、大いに御満悦の御態に拝し奉る。
模擬店は昭和皇太子御巡遊中の御寄港各地における名物を取り揃え、参列者一同に賜る。
香港→シュウマイ
シンガポール→バナナ
コロンボ→カレーライス
スエズ・ポートサイド→タバコ
マルタ→マカロニ
ジブラルタル→西洋酒
その他西洋菓子・果物など
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『牧野伸顕日記』内大臣※当時は宮内大臣

1921年5月9日
節子皇后に拝謁。

牧野宮相◆大正天皇の御負担いかにも多端に渉り、今後はなんとか省略の事を講じなければならぬ趣。
節子皇后◆日記などを見るに、京都時代はただいまよりよほど簡単であったと見ゆ。
明治になり復旧なされたるもの多し。
日記には祭事につき女官が代理したるもの少なからず、御代々の中にお弱き方も入らせられそれがため右のごとき取り計らいありたるものと考えらる。

1921年5月18日
沼津御用邸伺候。
元老山県有朋は久しぶりの拝謁にて、よほど御変りなりたりとの感想を洩らす。
英語云々の御言葉あり、年齢をお尋ねあり、元気であるなど、切れ切れの御言葉のみなりし由。
従前排せざる程の御変調なりと言われ、大正天皇御自分は御病気と御思召さざる由。
このことは今後の取り扱い上困難を感ずる点なるべし云々の意味を洩らさる。
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『原敬日記』総理大臣

1921年5月4日
宮内大臣牧野伸顕と会見。
「御親署の数非常に多数にてあまりに御日課多きにつき、御病中にもあれば御親筆を印刻して御捺印あいなることとしては如何。外に発表せざるものはこれにて可ならん」と過日平田東助に内談したる趣旨を内話して牧野の考慮を促したり。
また牧野は「摂政の議起らば如何なる手続によるものになるにや」と言うにつき、前例もなきことにつき篤と政府も宮内省も取調をなすこととなせり。

1921年5月20日
牧野宮相と内談。
「元老山県有朋は拝謁後大正天皇の御容態について痛嘆して物語れり。到底摂政を置かるるの他なし。元老間においても異議なし。目下宮内省にてその手続等取調中なり」と言う。
予もかねて内談通り「遺憾ながらその他なし」と話し合いたり。

1821年5月31日
山県有朋「英語云々の御言葉あり、年齢をお尋あり、元気であるなど切れ切れの御言葉のみなりし。従前拝せざるほどの御変調、よほど御変りなりたり。大正天皇御自分様は御病気と御思召ざる由。このことは今後の取り扱い上困難を感ずる点なるべし」
大正天皇御病気の御近況につき、山県とともに嘆息談をなし、裕仁皇太子御帰朝の上は速やかに摂政の御必要あるべきことを物語りたり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1921年6月22日
大正両陛下沼津御用邸より宮城に還御遊ばさる。
大正天皇は自動車・汽車・馬車に乗御・御下車の折り、よほど御難儀に拝し奉りたるは畏き極みなり。
もっとも御気色にはなんら御別条を拝し奉らず。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は枢密顧問官

1921年6月23日
※宮内大臣牧野伸顕伯爵の発言

大正天皇先年来脳の御悩あり。
御静養遊ばされおるが、御身体は御悪しき方にはあらざるも、御脳の方は御よろしき方とは申し上げ難く、昨日還御の時なども停車場にて急に固く御成り遊ばされそのため御帽のかぶり方も曲り、御脚の運び方も自由ならざる様の事なり。
先年来公式にはすべて出御遊ばされず。
外交官の御引目または御陪食でもある様の時はそのため御旅行の必要ある様の事にて誠に都合悪し。
この如き事にて長く弥縫する訳にはいかざるゆえ、裕仁皇太子の還啓でもありたる上は摂政の御詮議も必要ならんと思う。
これを実行するには如何なる手続を要するや取り調べおきたし。
ただいまの所この如き考えを抱きおる事わかりても困るにつき、誰に話す訳にもいかず。
君一人に依頼するゆえ、そのつもりにて調査いたしくれたし。
医師の診断書も必要なるべく、1週1回の拝診には拝診書を作りおり。
また侍従および侍従武官においても、異様の御動作ありたる時はこれを記しおるはずなり。
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『原敬日記』総理大臣

1921年6月6日
内閣の前途につき「予は裕仁皇太子御帰朝までは万難を排して責任上留まるべし。また畏れ多きことながら大正天皇の御容態とうてい御全快なし。ゆえに御帰朝後は摂政となられざるを得ざることはほとんど疑うの余地なし。かくのごとき決定に至るまでいかなることありとも、国家のため皇室のため政変を起こすことを得ず。しかして摂政となられたる時は時機を見て一同辞職して政局面を一新せらるることを奏上すべし」との趣旨を説示したり。

1921年6月7日
元老山県有朋を訪問。
大正天皇御病気につき裕仁皇太子御帰朝の上は摂政を置かるるの他なきことを互いに内話したるに、山県は「御帰朝後はなるべく速やかにその手続をなすの他なし」と言えり。

1921年6月21日
宮内次官関屋貞三郎来訪。
大正天皇御病気の御様子につき内話し、結局摂政問題は裕仁皇太子御帰朝後速やかに御決行の他なかるべしなど内話す。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1921年7月15日
大正天皇、塩原御用邸へ御避暑行幸あらせらる。
御服海軍式御通常礼服にして、いかにもお軽げに拝し奉るぞありがたし。
いかなる時機にも必ず陸軍式にならせられ給いしも、近来御健康優れさせ給わざるにより、陸軍式御佩剣は御歩行を妨げ参らすこと明らかなるをもって、この度は海軍服御着用を願い奉りたる次第にて、短剣はことに御邪魔にならざるの点において御意に叶ひたるべきを恐察し奉る次第なり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年7月15日
※宮内官僚関屋貞三郎の発言

大正天皇の御容態は漸次よろしからざる方に向かわせらるる様なり。
先日漢学者小牧昌業が論語の進講を為したる時、
「『四百余州を挙る』という軍歌を唱へよ」との事にて、小牧は論語を講ぜずしてこれを唱えたる趣なり。
大正天皇も先年は軍歌をお唱え遊ばされたるも、この節はわずかに1~2語ぐらいよりお唱えなさる事はできざる趣なり。
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『高松宮日記』

1921年7月26日〔塩沢御用邸〕
大正天皇は御散歩の時、侍従の補助を要せらるるごとく拝せり。
ますますおよろしからざるがごとし。
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『牧野伸顕日記』※当時は宮内大臣

1921年7月15日
大正天皇、上野御発。
侍従左右に侍し御手を支えながらプラットホームを御歩行、玉車に向かわせらる。
近来一人御側にて脇もしくは御手を支えたるに、両人左右よりお支え致すことは今日が初めてなり。

※侍従加藤泰通の発言
大正天皇は塩原のことを御記憶あらせられざるように拝す。
種々問題を設けお伺いを試みるに何らお答えなく御口気より拝察するに、かねてしばしば御来遊ありたる事はまったく御念頭に登らざるがごとしとのことなり。
皇太子時代にはほとんど毎年御滞在であり、自由に御運動御散歩あり、また御践祚後も一回御来遊ありたるにかかわらず以上の御有様なるは甚だ痛心の次第なり。
侍従原恒太郎も「お気に入りの土地なるにかかわらず前段の次第とは実に恐驚の至り」と申しおる由。
御湯殿は御座所よりおよそ6尺以上も低地にして、階段13を下り御昇降困難なるが、従前より何ら変更したる事なく、以前御滞在の時と同様なるにかかわらず、「これは違う」と仰せられたる由。
御進退不自由にならせられるため、従前より構造も違い、別の湯殿のように御思召たるかもしれず。

1921年7月22日
元老松方正義来談。
節子皇后へ言上することは、まず自分が口開きすることに任ずべし。
大正2年頃までは種々お為を申し上げたるも、もはや何の効果なしを覚知し爾後は断念せり。
誠に困ったことなり。
また皇子方大正天皇の御前にならせられたる時、時々変なことあり。
皇子方も不思議にお思召すこともあるにつき、なるべく早く御前をお下がりになるように取り計いおる次第なり。
左様にて節子皇后は十分政務御取扱いに不可能のことは御納得のことと信ずるにつき、その御話をきっかけに自分よりいよいよ摂政のやむを得ざることを言上に及ぶべし。
皇族方へも自分より申し上ぐることに努むべし。
要するにこの問題だけには尽力すべし。
その上はもはや来年には80歳になることゆえ、このことが決定したる暁にはぜひ御免を蒙りたし。
過日山県が「自分なども万事なるべく差し控え、当事者に任したし」と言いたるにつき、
「それもよかろうが、このことだけはぜひ始末をつけなれれば相済まざる分なり」と申し置きたり。

老侯の態度・決心いかにも立派なりし。
皇室に対する奉公の誠意に基づくこと無論なり。

1921年7月24日
※侍医頭入沢達吉博士の発言

大正天皇が皇太子時代にはたびたび拝謁し種々御用を承りたり。
しかるに7~8年を経過したる今日、今春1月以来御用拝診を命ぜられ時々御伺いするに、どうも入沢を御記憶なきようなり。
数回拝伺のうえ「お前は見たことがあるようだ」と仰せられたる由なるも、果たして御記憶をお呼び出しなりたるか、あるいは侍従らより従前の事を申し上げたる結果なるか判然せず。

1921年7月31日
侍従長正親町実正に、御容態および御動作につき日々侍従職の日誌を備え、これに記入することを重ねて精細に談示しおけり。
侍従は当番につき一定の期間に更迭するにつき、その時の当番中に就き主任を置き、その主任がその日の事を細大洩らさず記入し、しかして二週間くらいにこれを整理し、特に参考に資するに足るべき事実を摘書し、侍従職の責任ある日誌としてこれを調製すべきこと。
既往に遡りても、同様の物をできるだけ調製すること。
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『原敬日記』総理大臣

1921年7月1日
清浦奎吾来訪。
摂政問題につき予は大正天皇の御近況を詳細に内話し「かえすがえすも遺憾なるは日々御経過よろしからず、しかして御病気ということを御自覚なきはなんとも申しようなき次第なり」など物語りたり。

1921年7月6日
元老西園寺公望を訪問。
「山県は節子皇后に摂政問題を申し上ぐることは西園寺にしく者なしと言いたるが、このことは元老総出で言上の他なかるべし。これに先立っては皇族方の御協議あること必要なり」と言う。
「摂政問題は元老はじめ各方面に異議なきところなれども、実際を知らざる者は疑惑を起さずとも限らざるにつき、なるべく速やかに御決行然るべきこと」も物語りたり。

1921年7月7日
元老山県有朋を訪問。
山県「大正天皇の御病症を決定するは医師の進言を主とせざるべからず。それには侍医のみにては如何かと思う。各専門家の意見を徴するの必要もあらん」と言うにつき、
予は「その通りならん。しかしこのことは政事上よりも考慮せざるべからず、今日の御容態にては追々御親署も如何あらせらるるも知れず、ゆえに第一は医師の言なれどもこの辺よりも考慮を要する」と言いたるに、山県同意を表せり。

1921年7月21日
節子皇后日光に行啓あらせられ、また御幼年なる三笠宮も御同伴ありたるは御団欒の御有様を拝し、いずれも感泣に堪えざりき。
それについても大正天皇の御容態はかえすがえすも遺憾の至りなり。
大正天皇は明日塩原より日光に行幸のはずなり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1921年8月24日〔田母沢御用邸〕
午後の御運動に扈従す。
今年は植物園の御運動区域も大いに減じさせ給えり。
御運動時間およそ1時間、夜分の御球戯御相手は以前と変わりしこともなし。
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『牧野伸顕日記』※当時は宮内大臣

1921年8月4日
北白川宮成久王〔大正天皇の妹の夫〕に伺候。
大正天皇と節子皇后との御間柄につき御感想の談あり。
小生が近ごろの御傾向を申し上げたるに、「しからば自分の言うことは杞憂に過ぎず」と仰せらる。
さらに節子皇后の大使・公使等への御陪食等のこと御話あり。
小生が国際関係上やむを得ざる次第を述べたるに、御了解ありたるよう拝せり。
とにかく節子皇后が政務に御関係せるごとき誤解は避けたし云々の御心底なり。
政務の御代理は当然裕仁皇太子の御任務なりとの御意向に基づくものなり。
朝香宮鳩彦王〔同じく大正天皇の妹の夫〕が「牧野宮相が、摂政は裕仁皇太子これにお当りなる方しかるべし」と言いたりとの御話ある由につき、
小生が朝香宮へ伺候当時の顛末を申し上げ、「小生は単に大正天皇御近況を陳上して御静養につきお気づきあるならば伺いたしと申し上げたるに過ぎず、摂政のことには一言も及ばざりし。多分朝香宮の御連想をお漏らしなされたるものならん」と言いたるに、
北白川宮は「その通りなりしならん。朝香宮は平生何事にも率直に御発言なさる御性癖あり」と御話あり。
要するに内親王方は大正天皇の御容態については特に深く御心配遊ばされ、その結果とかく他の務め方につき物足らぬ御思召あるやに拝察す。

1921年8月9日
※大正天皇の侍従加藤泰通の発言

梨本宮夫妻が李垠王帯同にて御用邸伺候の折は、数日前より大正天皇は特に李垠王の参内をお待ちあり。
李垠王は御幼少の時代より御承知あり、かつ御自分朝鮮語を話すとのかねての御抱負もあり、ことに李垠王は8歳下なれば目下に御覧あり、勝手に待遇もできる等のことよりしきりにお待ちあり。
しかるにいよいよ三殿下御揃、御前に伺候ありたる時は何ら御言葉もなく、以前より御待構ありたるに顧み、近側の者不思議に感じたり。
よりて拝謁済たる後、李垠王のことに談及したるに、大正天皇はまったく李垠王をお忘れになり、梨本宮の若宮とお認めなりたるもののごとく、なお李垠王の参内をお待ちなりたる由。
加藤侍従は「先刻の若宮が李垠王なりし」と申し上げ退たる由なり。
李垠王とは従来時々お会いになり、特に年来のお親しみあり、当日お待ち受けなりたるにかかわらず、その時になりお見覚えなしとはよほどの御異状と拝するほかなし。

1921年8月19日
李垠王 詔書御礼のため日光に伺候、拝謁したるも何ら御言葉なかりし由。
前記通りかねて心安く御思召ありたるに関わらず、一言も御沙汰なかりしはやはりお思出しなきか、言葉の出ざりか、誠に痛ましき次第なり。
日々の御運動はなおさら区域は狭くなり、御徒歩の時間も縮まり、武官長内山小二郎の話に、多くは侍従が御手を取るとのことなり。

1921年8月23日
※侍従海江田幸吉の発言

先日の李垠王拝謁の時、大正天皇より何か解しがたき御言葉を御発しなりたる由。
たぶん朝鮮語のつもりにて御話ありたるものなるならんとの推測なり。
この節はよく「庭に人がいる」など仰せらるる由。
過日は「大きな男がいる」と仰せられたる由。
また「小さな男が見ゆ」と仰せられたる趣なり。
なにか御脳の働きにて後になり御記憶と実際と混同したるお感じありしにや。
明らかならず。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1921年9月21日
7月15日以来御避暑中なりし大正両陛下、田母沢御用邸より還幸啓あらせらる。
日光御出発の際 御料自動車に入らせらるるや、誤ってソファに御腰おろし損じ給い、陪乗の侍従次長御扶助申し上げたる由なり。

1921年9月22日
御運動に扈従す。
また夜の御球戯御相手従来通りなるも、とかくに御元気衰えさせ給えるを拝するは恐懼に堪えざる次第なり。

1921年9月28日
両三日前より大正天皇玉体の右に屈曲せらるること甚だし。
しかれども格別いずれに御故障あらせらるるというにもあらず。

1921年9月29日
大正天皇本日は多少御気分御爽快に拝せられ、玉体の御屈曲薄らがせ給う。
午後の御運動も数日前と比すればいささか御徐行遊ばせらるるも、格別の御異状を拝し奉るほどにはあらず。
夜分の御球戯御相手また常のごとし。
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『牧野伸顕日記』内大臣※当時は宮内大臣

1921年9月6日
訪欧供奉長珍田捨巳伯爵を訪問。
昭和皇太子御洋行中の事を巨細あり。
御性質中御落着の足らざること、御研究心の薄きことなどは御欠点なるが如し。

1921年9月25日
昭和皇太子に拝謁、御留守中の大正天皇の御容態を言上す。
医師診断書、侍従長・侍従武官等の報告書御内覧を願いたるに、すぐに御閲覧済にて翌朝御返却遊ばされる。
浜尾東宮大夫進退につき種々懇談したるも容易に肯んぜず。

1921年9月26日
元老山県有朋を訪問、摂政問題につき打ち合せ。
調書を手交し、御容体書発表のことを談示せり。

1921年9月28日
元老西園寺公望を訪問、摂政問題につき成り行きを話す。

閑院宮に伺候。
大正天皇の御容態につき委細御話申し上げ、発表文の御閲覧を願う。
御異存なし。

1921年9月29日
伏見宮貞愛親王に伺候、御容体を申し上ぐ。
粗々御承引あらせられたるも、19条の規程応用の点まで御明言なし。
できるだけ御理解なさるよう努めおきたるも、結局のところまで進まざりし。

1921年9月30日
東伏見宮に伺候、御容体発表のことを申し上ぐ。
摂政問題に及び特に御意向御明言なきも、結局はそのことに到達すべしとの御理解あるがごとし。
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『原敬日記』総理大臣

1921年9月3日
牧野宮相が「大正天皇御病気の様子3月以降のところ詳しく書面にて差し出すはずなり」とて内示せしものによれば、これまで申し上げたる以外、幻覚を感ぜらるることありとの一句あり。
時々何か幻を視らるることあらせらるる趣なり。
いずれそのうち世間にも発表する次第なるが、なにぶんにも痛嘆の他なし。

1921年9月7日
元老松方正義を訪問。
「摂政問題の遺憾ながらやむを得ざること、大正天皇目下の御人気によるもこの際異論あるべしとも思わざれば、まず元老諸公の議論を固め10月ともならば挙行しかるべし」と提案し、松方もこれに同意す。
また「これらのことに対してあえて異議を言う者ありとせば大隈重信ならん」と言いたるに、
松方は「大隈には自分往訪してその趣旨を告ぐべきつもりなり」と言えり。

1920年9月13日
牧野宮相を訪問。
「発表の場合にはこれまでのように御快方なれども御静養を要すと言うのみにては判断に苦しむべしと思わるるにより、御少幼のころ御脳を御病みありて十分ならざりしに、御践祚の後は御容態だんだんにおよろしからずとの趣旨を付する方可ならんかと思う。ただし発表の次第によりては御大患のようにも誤解せざるを保せざれば、そのことは注意を要す」と言うにつき、
「御大患と誤解せば今日まで当局は何をなしたるやと言われ、また御快方に向かわせらるると言えば摂政の必要を疑われ、とにかくその発表に異存なきも発表の次第には十分に注意ありたし」と言いたるに、
牧野宮相は「ことに内親王方は御兄弟の御間柄なれば如何に思召さるるやも計られざるにつき、去3月3日の裕仁皇太子御発程より御帰朝の間、侍従において日々御挙動記載したるもの・侍従武官長の記録したるものあるにつき、これを内親王方をはじめ皇族方の内覧に供し、その了解を得たき考えなり」と言うにつき、
予は「それは大切のことなり。皇族方において十分御諒解なくしては何事の生ぜんも知るべからず。甚だ遺憾のことながら大正天皇今日の御容態は時に良不良あれどもだいたいにおいて一向御了解なき御様子なれば、到底このままになし置くことを得ざるべし。また御静養と申すことも3年の久しきに及びたれば国民の心痛もあらん」と言いたるに、
牧野宮相も「その通りなり」と言えり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1921年10月4日
大正天皇御容態、第4回発表あり。
号外を付したる諸新聞あり。
特に読売新聞のごときは御容態を御重態と誤りたるをもって世上を騒がしたること甚だしく、ある株式のごときは暴落せるものさえ生ずるに至れり。
思うに本日の発表は前3回の発表いずれもいささか事実に遠く、いつもおよろしき方とのみ発表せられありしが、今回は新宮内大臣〔牧野伸顕〕の考えによりやや赤裸々に発表したるの結果、常に大正天皇の御健康を案じ奉る忠誠の臣民に驚愕を与えたること激甚なりしものなるべし。
この発表に付随して宮内大臣の詳細なる説明ありしならんには、今日のごとく世間を騒がすところなかりしなるべしと思惟せられたり。

1921年10月5日
大正天皇は覆奏を聞し召され、また親任に臨御あらせらる。
これらの儀式新聞に発表ありたるをもって、昨日世人を恐懼措くあたざしめたる御容態発表の件も、大いにその疑惧を解き得たるもののごとし。

1921年10月12日
大正天皇近来まれなる御元気に拝し奉るも嬉し。
御運動および御球戯ともに御活発なり。
天候の回復大いに影響し奉るものなるべし。

1921年10月18日
御運動の扈従、夜の御球戯御相手、常のごとし。
本日は平日に勝り、よほど御機嫌御麗し。
拝し奉るも嬉し。
まったく気候のせいなるべし。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は枢密顧問官

1921年10月5日
※倉富&枢密院顧問官清浦奎吾&枢密院顧問官曽我祐準の会話

清浦◆昨日宮内省より大正天皇の御容態を発表せしが用意足らず。
新聞が号外を発行したるため人心を驚かしたり。
自分は倶楽部におりたるが、そこにいる者は一同に驚きたり。
これがため株式の相場も狂いたる様の事なり。
自分らは内情を知りおるゆえ驚かざれども理由を説明する訳にもいかず。
ともかく午後に発表したる事がよろしからず。
倉富◆号外を出す事は午後に発表しても午前に発表しても同じ事なり。
清浦◆それは異なる事なし。
曽我◆自分らも驚きたり。
今朝の新聞には宮内次官の話の事も書きおりたり。
かのごとく書けば事情は分かれども、何事も書かず突然号外を出したるゆえ人を驚かしたるなり。

1921年10月5日
※宮内大臣牧野伸顕の発言

松方正義とともに御前に伺候し、摂政を置かるべきことを奏したるも、ついに御理解あらせられず。
まさに退かんとする時 松方を呼び止め給いたるも、御詞はまったく上奏に関係なきことなりしたり。
実に畏れ多きことなり。

1921年10月25日
※宮内官僚小原駩吉の発言

先日北白川宮邸にて晩餐ありたるが、北白川宮などはやはり節子皇后の大正天皇に対せらるる御態度に幾分の御不満あるようなり。
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『高松宮日記』

1921年10月4日
大正天皇御歩行にも補助を要せられ、御記憶力など減退にて、御良好とは拝し奉らずという御容態書発表になりたり。
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『牧野伸顕日記』※当時は宮内大臣

1921年10月2日
朝香宮に伺候。
御容体書発表のことを言上し、御異存なし。

伏見宮博恭王にも申し上ぐ、別に御異存なし。
竹田宮昌子妃同断。
北白川宮にも申し上げたるに、やむを得ずとの御沙汰あり。

1921年10月3日
節子皇后に拝謁。
御容体書発表の事を申上ぐ、御異存なし。
不治症に入らせらるること充分御覚悟の様おそれながら拝察す。

1921年10月11日
元老松方正義と会談す。
松方元老節子皇后に拝謁、問題につき委細言上、節子皇后も既に御覚悟の色じゅうぶん顕れ、御言葉中に「今まで新聞に奥のことが記載せられざるは幸せなり」と仰せられたる由。
大正天皇のことにつきいかに御焦慮遊ばされおるか伺うに足る。
ただし進行上につき御意見あり。
●補導を置くことは御不賛成なり。
それは権力が自然輔弼たる皇族に加わることを恐るるの意味において。
●青山御所は不可なり。
裕仁皇太子はかねて同所をお嫌いなり。
そのことはたびたびお漏らしなりたるをもって、同所を御住居と定むることは面白からず。
●大正天皇は内閣の伺いものをお楽しみに御思召すにつき、何とか取り扱い上 急にこの種の御仕事の無くならざる工夫はなきか。
要するにまったく御仕事の無くならざる便法はなきや。
特に心配してもらいたし。

以上だいたいの御思召を伺い得て大いに安心せり。

1921年10月19日
原首相より電話あり。
伏見宮博恭王へ伺候、問題につき委細言上、全然御同感にてなんら御異議なかりしとのことなり。

1921年10月22日
閑院宮へ伺候、御異存なし。

1921年10月24日
伏見宮貞愛親王に伺候。
親王方御会合を願い置く。

朝香宮・北白川宮へ順次参上。
朝香宮・北白川宮、十分の御賛成あり。
ただし朝香宮は「大正天皇御同意なき時はいかに成り行くや」とのお尋ねにつき、
「本件は皇族方の御発動にて決するものにして、大正天皇の御思召に依るものにあらず」と申し上ぐ。

1921年10月27日
梨本宮へ伺候。
十分御理解ありて御異存なし。

閑院宮に拝謁。
「すでに親王方の間には御意見も一致したるにつき、このうえ特に会合の必要なかるべし」とのことなり。

1921年10月28日
久邇宮邦彦王に伺候。
事件の詳細申し上げ、御異存なし。
「大正天皇御承諾なき気遣いなきや。また節子皇后の位地いかがなり行くべきや」のお尋ねあり。
「第一については、法律上は御承諾を願う必要なし。第二については、政治上には今までとなんらお変りならせられず」と陳上す。

1921年10月29日
東伏見宮へ伺候。
御異議なく、他親王方と同感のむね仰せらる。

賀陽宮へ伺候。
なんら別意あらせられざるのみならず、「自分は今少し早く実行ありたる方 よろしかりしならんと考う」云々。
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『原敬日記』総理大臣

1921年10月4日
宮内省より大正天皇御容態の発表ありたり。

1921年10月5日
牧野宮相と会見。
摂政問題につき牧野宮相はすでに皇族方9軒御訪問をなし御病気の御様子を申し上げ、この上は摂政を置かるるの他なしということも添えて言上せしが、いずれも御了解ありたり。
「ことに北白川宮富子妃は如何あらんと思い言上せしに、案外御了解ありて御異存あらせられず大いに安心せり」と言えり。

1921年10月13日
牧野宮相と会見。
「去10月11日元老松方正義が節子皇后に拝謁して、摂政を置かるることのやむを得ぬ次第を内奏したるに、節子皇后におかせられてもかねて御覚悟ありたるものと見え、御異論なく一安心なり」と言う。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1921年11月5日
内山武官長の命により、大正9年度分御状況を清書す。

1921年11月7日
武官府ほとんど一同にて御上京を清書す。
大正8年までの分・大正9年の分・大正10年の分。

本日の新聞記事に宮中重大事件は、今月の大演習終了後25日、皇族会議および枢密顧問官会議を開かれ決定すべしとあり。
はたして出所どこぞ。

1921年11月8日
昨日一同にて清書したる御状況書一括、内山武官長より牧野宮相に差し出したる模様なり。
午後御運動の扈従、気のせいにや、大正天皇御元気に乏しく拝せらるるも悲し。
御運動中例の玉体屈曲を拝し奉る。
夜分の御球戯には玉体の御傾斜も直り、御機嫌また日中に比しおよろしきよう拝せらる。

1921年11月22日
宮中においては重大事件着々進捗の様姿にて、なんとなく空気陰鬱を覚ゆるも悲し。
松方内府および牧野宮相打ち揃い拝謁して、いよいよ摂政を置かるるよう会議を開かしめらるべき旨言上せしも、十分の御理解あらせられしや否や知る由なかりしと。

1921年11月24日
伏見宮貞愛親王・閑院宮載仁親王、また松方元老・西園寺元老も参内、侍従長室において密談せらるるあり。
大正天皇は出御あるも御裁可書類のお取り扱い一つもこれなく、重大事件断行の時刻々と切迫し来れるを知るを得べし。

1921年11月25日
ああ、なんたる発表ぞ。
この発表無くば世上 大正天皇の御病患はたして那辺に存ぜらるるやを憶測する者あらんも、この憶測は放任して可なり。
今や統治の大権施行を裕仁皇太子に托し給い、もっぱら御静養あらせ給わんとする大正天皇に対し、何の必要ありてこの発表を敢えてしたるか。
予はここに至りて牧野宮相の人格を疑わざるを得ざるなり。
しかも今日の新聞のごときむやみに裕仁皇太子の御懿徳を賞揚し奉り、むしろ裕仁皇太子の御孝心を傷つけ奉りしもの多々あるべし。
牧野宮相は国民の諒解を求めんがため必要と思考せしものならんも、心ある者この発表を見て誰か慨嘆せざる者あらん。
むしろ言わざるの言うに勝るもの幾倍なるやを知らず。
ああ、世は澆季なるかな。

正親町侍従長は御前にまかり出でて、裕仁皇太子に捧ぐべきをもって御用の印籠御下げを願いたるに、さすがに大正天皇には快く御渡しなく、一度はこれを拒ませられたりと漏れ承る。
まことに恐懼の至りなり。
その後まもなく内山武官長が御前に出でたるに、「先ほど侍従長はここにありし印を持ち去れり」と仰せありし由なり。
何とも申しあぐるに言葉を知らず。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は枢密顧問官

1921年11月24日
午前宮内次官関屋貞三郎より「〔昭和皇太子を大正天皇の摂政とする事について〕皇族会議を開かるる時臣下の中より大正天皇の御平癒を祈り奉る旨、陳述する必要あるべき趣平沼騏一郎より申し出たるにつき、内大臣松方正義がこれを述ぶべしとの事なり。よりて松方の演述すべき案文を作りくれよ」と言う。
予、これを諾し、すぐにその案文を作りこれを関屋に交し、関屋より松方に交し、松方も異存なきゆえ、松方がその案文の通り演述する事の一項を加え、皇族会議の議事次第書を改作し、かつ松方の演述すべき案文を浄写して、これを松方に交さしむ。
午後9時ごろ宮内官僚酒巻芳男よりの電話にて、「伏見宮博恭王・久邇宮邦彦王・朝香宮鳩彦王ら異議を唱え、『松方が意見を述ぶるならば、会議の初めに述ぶるならばともかく、会議の終らんとする時述ぶれば松方の意見にて事件が決定する様のきらいあり。この如き事にては松方を皇族に準じて待遇するものなりとの説も出てたる趣にて、その旨を宮内大臣に伝うべし』と言われたる」由にて、予、実に意外の事なる旨を告ぐ。

1921年11月25日
牧野宮相は今朝松方正義を訪い、松方が意見を述ぶる事は皇族に反対あるにつき、これを止むる事を相談し、松方もこれを諾したる由なり。
牧野は「皇族の心理は常識にては判断し難し」と言えり。
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『牧野伸顕日記』内大臣※当時は宮内大臣

1921年11月21日
いよいよ伏見宮にて各皇族方の御会同あり。
特に記すべき御発言なきも、朝香宮は摂政を置くことには異存なきも、時機については疑問あり。
「内閣更迭につき御親裁ありたる時より僅々の日数を経たる今日、すぐに天皇の御不能力を発表することは、国民はこれを黙過すべきや、また聖上におかせられ皇族会議につき御不同意の時はいかがなりゆくや」との御質問なり。
「御質問はもっともなるも、今後ともいかな政治問題の突発を生ずるも計られず、親裁を要する事柄は日々絶えず起こるものならば、今日こそ摂政問題を決するに好時機と認むる時は、いずれの日に見るべきや予期することは不可能なり。熟慮のうえ今日を選びたるなり。また聖上御不同意云々については、法律上御許容を要するものにあらざるも、私宮内大臣はあくまで御了解を得るまで申し上ぐべし」と言上す。

1921年11月22日
松方内府同伴、聖上に拝謁。
松方内府より言上に及びたるに、聖上にはただただアーアーと切り目切り目に仰せられ、御点頭あそばされたり。
こと重大なるにつき、私宮内大臣は改めて念を押し奉伺したるに、やはりアーアーと御点頭せられたり。
臣子として実に堪えざることながら、恐れながら両人より言上の意味は御会得あそばされざりしよう我々両人共拝察し奉りたり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1921年12月6日
東宮御所を、高輪御殿より霞ケ関離宮に御移転遊ばせらる。

1921年12月8日
御球戯御相手は午後7時5分の御召に始まり、近頃は8時頃より時の至るのをのみお待ちかねの有り様なりしに、今日はそのことなく午後9時の定刻まで至って天機麗しく、御談笑遊ばされしもありがたきことどもなり。
度々の御言葉に「俺は別に身体が悪くないだろー」と仰せらるるは、今日の御境遇まことにおいたわしき極みなり。
もっとも御自身には格別御病症御自覚あらせられざるものならん。

1921年12月15日
賢所御神楽の儀あり。
大正天皇は終日白御和服を召させらる。
出御もなく、したがって御運動は宮殿内のみなり。
御静養一方とならせ給いし今日なれば御運動等平日通り行わせらるる方よろしからんとは宮内大官連の意見も一致しおるも、誰人かこれを肯ぜざる者ありとかにてついに終日御和装を願い奉るの有り様なり。
御静養専一を旨とするの意味、なお徹底せざるを憾とす。
平日通りの御格子にて御差し支えなきはずなるに、午後10時ようやく入御、実際の御格子は10時半にして、表向きはやはり御神楽終了までは御格子なきことの体裁なり。
姑息と言わずして何ぞや。
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『高松宮日記』

※高松宮は江田島の海軍兵学校在学中

1921年12月1日
近ごろの新聞は昭和皇太子の摂政御就任からして、三笠宮の御写真など種々なのが出る。
私はおかげで気楽だ。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1922年1月1日
大正天皇御不例の故をもって昭和皇太子摂政に任ぜられて、ここに初めての新年を迎う。
大正10年は我が帝国にとって吉凶交々至りし記念すべき年にして、昨日をもってその終わりを告ぐ。
新たに迎える大正11年、願わくば凶事なからんことを祈るものなり。

1922年1月8日〔葉山御用邸〕
御歩様は1ケ月以前に比し確実にして、平地は侍従の手に頼らせらふることなく、御縁先の階段御昇降時侍従の御扶助し奉るは以前同様ながら、各段御一足ずつ進ませらるる。
御気楽の御静養の結果にやあらん。
とにかく嬉しき限りなり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1922年2月2日〔葉山御用邸〕
今夜は御自発的しかも明瞭に「今朝のもの持ち参れ」とて尺八の御催促あり。
出して時々吹奏、天聴に達す。
平日に比し御言葉もやや明瞭にて、「汝は家でも合わすか」とのお尋ねあり。
これには侍従一同も一驚を呈したるほどなりけり。
この奉答にはいささか閉口つかまつりたり。
1922年3月20日〔葉山御用邸〕
午後の御運動扈従その他、常のごとし。
ただ今回は我が喫煙せざることをお忘れになりたるためか、御葉巻を賜る。
否むべきにもあらざれば、ありがたく頂戴す。
いすれは誰か煙草飲む人のいただくに任せん。

1922年3月24日〔葉山御用邸〕
南西風依然として強吹し、怒涛ものすごき程なり。
御馬場内にて守備隊遊戯の予行をなし、午後の御運動これを御覧に供え奉ることとせり。
ただ事前に行事を言上すればいつも朝から「まだか、まだか」の御下問出ること普通なるをもって、
今日は御運動始まりて後 言上することと相談整え、平日通り御茶屋前まで御先導し、ここに初めて「本日守備隊は遊戯を致すべきにつき、暫時御覧を願いたし」と申し上げしに、「しからばただちにその場に臨まん」と仰せられ、万事好都合に天覧を賜わりたり。
時間約10分間なんのお気兼ねもなく、たびたび御笑顔を拝し奉りしは大々的成功なりけり。

1922年3月31日〔葉山御用邸〕
大正天皇、本日より右へ御傾斜あり。
(約1週間)
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1922年4月27日〔葉山御用邸〕
大正天皇鹿島の岩崎俊弥別荘に御遊幸あり。
一昨日来玉体の屈曲ありしのみならず、なにぶん御気色およろしからず。
自動車の御乗降ことに御難儀なりし由にて、岩崎別荘にても甚だしく御活気あらせられず、ことのほか御疲労の態にて一同御心配申し上げたりと。
また還御のとき御車寄せにて自動車よりの御下車も侍従3名にて御扶助申し上げしと承るは、恐懼に堪えざる次第なり。
しかれども午後には御庭先の御運動を仰せ出され、平日のごとく相当御運動遊ばされたりと。

1922年4月28日〔葉山御用邸〕
30日ぶりの拝謁なるに、甚だしく御憔悴の竜顔を拝し奉り恐懼措くところを知らず。
玉体はいまだかつて拝したることなきほど左方に御屈曲あらせられ、御みずから御起立あらせらるるさえ御難儀のほどなり。
さりながら御言葉だけは前回供奉の時に比し格別の御変化ありとも思われず、お手づから葉巻一本を賜り、ただただ恐懼御前を退下せり。
午後より御運動あり。
侍従の手に頼らせらるるも格別のことなく、玉体は左に御屈曲のままにて御漫歩、御馬場に出でさせられ種々隊員の遊戯を天覧あらせ給い、大いに御満悦に拝し奉れるは涙の出るほどう嬉しき心地す。

1922年4月29日〔葉山御用邸〕
大正天皇前日とお変わりなきも、立石に御遊行の御沙汰あり。
自動車にて立石に成らせらる。
自動車の御昇降はおいたわしきほど御難儀に拝し奉るも畏し。
普通人ならばかかる健康状態にてはとうてい外出などの気分起るまじと深く感ぜられたり。

東京よりの申し越しなりとして、来る4日還幸啓を願うことに内定せるをもって、この議お伺いを願いたしとの趣きを耳にす。
現在は玉体にいささか御異状ありしも、従来の例により御傾斜はたいてい1週間以内にて御回復を見るをもって御差し支えなかるべく、侍従職にては容易に伺いを立てん模様あり。
これについては大いに意見あり。
今春以来玉体の傾斜あることすでに2回にして、第1回は2月26日より両三日間にわたり、極めて軽微にして御注意申し上げざれば気づかぬ程度なり。
また第2回は4月1日より約1週間継続、その度合いもやや御著しかりし。
しかるに今回のものは4月27日・28日のごときいまだ拝したることなき程度に甚しく、軽々しく1週間にて御回復と予想すべからずと直感せらるることなり。
万一当日にして多少なりともこの御容態の残らせらるるあらば、自動車・汽車の御乗降の御難儀は拝察するだに恐懼の次第にて、しかも従来お慣れ遊ばさざる場所に臨御あるごとににわかに御態度御硬直となり、時には御歩行中場所柄をも御介意なく玉歩を止めさせ給うころありたるを例とす。
ところで今日万民が大正天皇の御容態につき信じ奉ることろは如何。
もし還幸の沿道・停車場においてこの御憔悴の御容態を拝さしめらるるあらば、果たしてその感いかがあるべき。
宮内省に対する疑惑はたちまちにして向上し、その結果決して面白からざるべき現象を呈せんことを恐るるものなり。
ついてはぜひとも玉体の御屈曲のみにても御回復の時まで、還幸御遷延を極力願い奉るものなり。
しかも4日を選ばるる理由は、来る6日赤十字総会あるに当り、節子皇后の行啓あるべき御予定なるをもって、その前々日の4日を選ばれしものにはあらざるか。
もしこの想像にして事実に遠からずとすれば、既に今日御異状あらせ給う大正天皇に御無理を願うて御還幸を願うは大いに本末を誤れるものと言わざるを得ず。
大正天皇の御病中なるをもって、もしこの際行啓なしとするも、御坤徳になんの障りやあらせ給わん。
畏れながらこの根本義は自分一個としてはその意釈然たるを得ざるところある次第なり。
輔弼の臣僚いっそうその責任を感ぜずんばあるべからず。
今日帰京すべき杉行幸主務官を室に訪い、意見を開陳す。
杉君また立石御遊行の際御車寄せにおいて大正天皇を奉送迎し、みずから御現況を拝したるをもって、我が意見に賛意を表わせられ、必ず事実の正当に発表せんを期すと堅く約して午後帰京す。
徳川侍従長には退出せらるる前とくと意見を述べ、また内山武官長には詳細報告せり。
本夜は心静かならずして、容易に安眠できざりしもやむをえざる次第なりけり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1922年5月2日〔葉山御用邸〕
今日は侍従長・侍従次長出勤。
内山武官長も東京より日帰りにて参邸するあり。
なかなか賑やかなり。
協議たちまちまとまり、節子皇后のみ4日還啓と御治定御発表あり。
大正天皇にはなお当分葉山御静養を願い奉り、勅許ありたり。

1922年5月7日〔葉山御用邸〕
大正天皇は御散髪あらせられ、ついで御入浴あらせ給う。
御機嫌麗しと承る。
早朝までは還幸9日と決定せる模様なりしが、また何かぐらつき始め、侍医頭の決心容易に決定できず。
終日大官連鳩首凝議の有り様なり。
今夜の夕刊には9日還幸のことに宮内省の発表ありて、各方面の責任者大いに頭痛鉢巻の態なり。

1922年5月8日〔葉山御用邸〕
鎌倉より松方内府も参邸せられ、還幸に異議なき旨を述べられたる由なり。
とかく老人連は決まりきったことにても責任を重んぜらるためか避けられるためか、容易に事の決せぬには呆れざるを得ざりし。
還幸前日まで決定せざりしは、歯痒き感じ無きあたわず。
今夜明日の東京還幸をお喜びに御模様に拝し奉るを得たり。
葉山の御滞留142日一年のほとんど1/3を過ごされたることなれば、お喜びあらせらるるむ御無理ならざるべし。

1922年5月9日
東京駅御着、宮城に還御あらせらる。
東京駅には裕仁皇太子の御出迎あり。
節子皇后は宮城にてお待ち受けあらせ給う。
普通の考えにては駅頭まで節子皇后の奉迎せらるるこそ適当なるべき訳にて、節子皇后にもお考えあらせ給うは恐察し奉るにあまりあるにかかわらず、なおわざわざお控え遊ばせらる御心中は吾人にあらずして誰か知るべき。
落涙禁ずるあたわざるを如何せん。
大正天皇の御病気とは言いながら、まことにおいたわしき限りなりとす。

1922年5月14日
三浦博士・平井博士の臨時拝診あり。
御頸部に少しく御神経痛の御模様を拝するほか御異状あらせられずとのことなり。

1922年5月25日
このごろ大正天皇は右少しく後方に御傾斜あり。
御外見は御姿元気なるかのごときに拝せらるるも、右後ろへの御傾斜にて左御胸を張り出さるるためにして、御常態にはあらず。
また御歩行やや御緩慢にあらせらる。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1922年7月10日
一カ月余りを隔てての御供なりしが、なんとなく御元気少なく拝し奉るは暑気のためにもやあらんか。
近頃は御運動にて内苑門御出入時には、従来守所にありし番兵もその時刻だけは姿を隠すこととなれり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1922年8月2日〔田母沢御用邸〕
御気色麗しく、概して御在京の折に比すれば御元気に拝し奉る。
夜分の御球戯御相手常のごときも、今夜は軍歌ことのほかお弾みあらせられ、たびたび御同唱遊ばせらる。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1922年9月2日〔田母沢御用邸〕
午前の御運動にて三笠宮邸に扈従し、御沙汰により尺八吹奏す。
昭和皇太子も御在邸中にて、三笠宮御諸共自分のかたわらにお立ち遊ばされ吹奏を聞召さる。
昭和皇太子はいかなる御嗜味あるや承らざるも、三笠宮は音楽に大いなる御嗜味ある由。
高貴の御方にはなんなりかかる御嗜味あらせ給うことまことに結構なるべきを思えば、いっそうありがたみを感じたり。

1922年9月8日〔田母沢御用邸〕
例日同様附属邸へ成らせられ、御休憩中 蓄音機・尺八等聞し召さる。
本日玉体は多少左前に屈せさせ給い、御歩行中も黒田侍従に玉体をなかばもたせ給う。
落合侍従の語るところを聞くに、前日もこの御傾向あらせ給いし由なり。
天気のゆえにもあらんや。

1922年9月28日
裕仁皇太子、久邇宮良子女王と御結婚成約せらる。
すなわち、納采の儀を行わせらる。

1922年9月29日
裕仁皇太子御参内、昼 御内宴ありしも、平常の御内宴とはよほど変わり、御会食の御方少なく、大正天皇も御会食遊ばせられざりし由漏れ承る。
畏れ多きことにこそ。
もっとも大正天皇としてはこの御席に列し給わざりし方、もとより御気楽なりしなるべきは明らかなるところなりと恐察せらる。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1922年10月13日
午後御運動に扈従す。
今日はことのほか御機嫌麗しく、御歩行中多く侍従の扶助を要し給わず。
夜分の御球場におかせられるも、またなかなかに天機麗しくあらせ給う。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1922年11月17日
御運動扈従、夜球戯場の御相手常のごとくなるも、今夜は珍しく軍歌を唱い給わず、いささか御疲労を覚えさせらるるにはあらずやと拝し奉るも畏し。

1922年11月20日
大正天皇のため御内庭にて菊見の御内宴あり。
御前にて種々余興を催し、天覧に供し奉る。
侍医の謡曲・自分の尺八・女官連の豊年舞踏・子供らの幼稚園遊戯・その他仮装行列をなす。
ことのほか御満足にて、午後2時解散す。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1922年12月8日
秩父宮御成年により、御内庭にて奉祝のお催しを行わせらる。
節子皇后の御差図のもとに清水谷侍従委員長となり、盛大に挙行せらる。
大正両陛下・昭和皇太子・秩父宮・高松宮の御前において、側近奉仕者一同の祝詞言上・奉祝歌合唱・余興・模擬店などのお催しなり。
午後5時終了す。
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侍従武官長『奈良武次日記』陸軍大将

1922年12月7日
大正天皇に拝謁す、御機嫌よろし。
「煙草を用いるか」と御下問を賜りつつ、煙草を賜る。

1922年12月8日
大正天皇より煙草を賜る。
その時「■■を呼べ。■■を呼んでくれ」と仰せらる。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1923年1月28日〔葉山御用邸〕
1カ月前の供奉時に比し、御機嫌大いに麗しく、御歩様もよほど確実に渉らせらるるはまことにありがたき次第なり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1923年2月5日〔葉山御用邸〕
今日は伏見宮貞愛親王の宮中喪。
御内儀にては節子皇后御はじめ黒色御喪服をまとわせられ、御謹慎の有り様なり。
大正天皇も御運動をお控え遊ばさる。
大正天皇の御運動は普通一般の御運動にはましまさず、御保健上御薬用に優るものと信ぜらるるをもって、平日同様南苑または海浜の御運動行わせられたりとも、廃朝の御精神にいささかももとらせられることなからんと主張したるも、奥にてはやはり難しく御規程ありと見え、前記のごとくお控え遊ばせらる次第なり。

1923年2月18日〔葉山御用邸〕
本日は有栖川宮董子妃の御葬儀ありしをもって、夜の御玉突き時にも蓄音機御遠慮あり。
なんとなく陰鬱を覚ゆ。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1923年4月1日〔葉山御用邸〕
1カ月ぶりの拝謁なり。
大正天皇御気色およろしく拝し奉るも恐悦至極なり。
越後より持ち帰りの名産梨果を献上す。
大いに御満足にてありがたき次第なり。
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侍従武官長『奈良武次日記』陸軍大将

1923年5月11日
朝拝謁の際、台湾より持ち帰れる新高飴および龍昭肉を献上す。
大正天皇は「あっちの人…」と仰せられつつ、別に何も賜らず。
やや緊張の御模様なりし。

1923年5月12日
伏見宮博恭王拝謁の後に拝謁せしに、何も賜らず。
「お前の考えて、何か献上…」の御言葉あり。

1923年5月17日
朝拝謁の際、何も賜らず。
「あっちの人にお前の考えを言ってくれ」と仰せられ、発音明瞭なりし。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1923年6月18日
暑気かつ蒸熱のためか玉体左に御傾斜甚だしく、御言葉またいっそう御難儀に拝せらるるは恐懼に堪えざる次第なり。

1923年6月25日
玉体の左傾斜なかなか強度にあらせらる。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1923年8月9日〔田母沢御用邸〕
倉賀野武官より聞くところによれば、大正天皇は御脚部に大正のおむくみあり。
玉体また左方に御傾斜あらせらるるため、去4日以来御仮床を願いおる由なり。
なんとも恐懼の至りに堪えず。
暑気酷烈のためにもあられしか。
一日も早き御平癒を祈り奉るのみ。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1923年9月6日〔田母沢御用邸〕
久しぶりに拝謁す。
御機嫌麗しきも、御言葉少なし。
御和服を召させらる。

1923年9月28日〔田母沢御用邸〕
持参の粗菓を献上せしに、大いに御満足遊ばせらる。
御機嫌は麗しきも、なんとなく御疲労の御気色を拝するは恐懼至極なり。
夜飛行機より撮影の東京および横浜市街写真をお示しあり。
御言葉不自由ながら、種々お物語り遊ばせらる。
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『牧野伸顕日記』内大臣※当時は宮内大臣

1923年9月18日
大正天皇に拝謁、前回の時より御気色麗しく、御気分に御異状あらせらぬよう拝したり。
節子皇后に拝謁、委曲言上、御承諾を願いたるに、なんら御異見あらせられず御首肯遊ばされたり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1923年11月16日
昨日奈良武官長より自分更迭のむね大正天皇に言上し御許可を願いたるに、御領得ありし由なるをもって、今日の当番ぐらいあるいはいくぶんか御言葉その事に及ぶものなきや否やなど考えおりしも、ついに何事も仰せられず。
おそらくはなんら御了解なかりしなるべしと拝察せらる。
恐懼に堪えず。

1923年11月25日
現職服務最終の当直なり。
大正6年2月職を侍従武官に奉じて6年10カ月、我が海軍生活のほとんど1/4をここに経過したることとて、今日の当番はなんとなく残り惜しき心地す。
いよいよ午後9時御前を退下する時、それとなく永々奉仕せしめられたる御礼を言上したるも、はたして御了得ありしや否や。
拝察するを得ざるも恐懼至極なり。
ただただ聖寿の万歳を黙祷して退下す。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1923年12月1日
節子皇后に拝謁仰せつけらる。
「永い間よく勤めてくれたことは大いに満足に思います。御上のあのような御容態に長い間まことによく勤めてくれたのですから、御上も御残念に思召すことと思いますが、海軍の方の都合だそうですから仕方がありません。今後どこに勤めることになっても、十分身体に気をつけて達者でいるようになさい」
ただただ感激、措くところを知らず。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1924年10月28日
大正天皇に拝謁を賜り、お手づから御タバコを拝受す。
十分御記憶ありて、かつて側近に奉伺せし時と御同様の御冗談仰せらる。
御言葉御難渋の程度 御増進に拝し奉るは、かえすがえすも残念至極なり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1925年10月28日
奈良武官長より大正天皇の御近状伝達あり。
「格別著しき御症状にはあらざるも、御記憶・御体力・御言語いずれの点より拝し奉るも、一般に御良好とは申し上げ難き御近況にあらせらる」旨拝聞す。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

大正の聖代わずか10有5年にして、大正天皇葉山の離宮に崩御あらせらる。
ここに裕仁皇太子登極、新天子の御位につかせ給う。
大正天皇は宝算48、宝寿万々歳を祈り奉りし甲斐なかりしこそ恐懼に堪えざる次第なり。
大正6年2月侍従武官として側近奉仕の光栄を負いて以来七星霜、職を離れ1年わずかに1~2回御用上京のたびごとに参内、天機を奉伺しては特拝謁を賜りしも、大正天皇この頃よりは漸く御健康優れさせ給わず、御記憶も大いに衰えさせ給えるよう拝するこそまことに恐懼に堪えざる次第なりき。

昨年大正14年12月17日御脳貧血にて御卒倒ありし以来は御病床にお親しみ遊ばされし由漏れ承りしが、大正15年7月御軽快にて葉山御用邸に御転地あらせらる。
しかれども御日常の御散歩さえ御廃止あらせられし趣にて、9月26日肺炎に罹らせられ、同日また御卒倒ありし由にて、以降は常に御熱高く御食欲御減退遊ばされ、日々御衰弱のみ加わせられければ、天下挙げて憂懼措くところを知らず。
万民ことごとく神仏の加護を祈らざる者なかりしも、大正天皇のお悩みは日に日に重く、11月10日頃には奈良侍従武官より我らにまで天機奉伺参邸の時機なるべきを通知し来れるも畏し。
大正天皇の御容態は一進一退なかなか快方に向わせられず、国民の憂慮は筆紙の尽すべきにもあらず。
いたる所の神社仏閣に参詣祈願をこむる者ひきもきらず。
二重橋前に黙祷を捧ぐる諸団体は、常に外国人をしてよく我が国体の君民一体なるを悟らしめたるもののごとし。
12月12日頃よりはいよいよ宮内省より毎日の御容態を天下に公表するに至り、国内まったく憂愁の色に鎖ざさるに至れり。
12月17日東京駅発列車にて葉山に参向、天機を奉伺す。
この日葉山御用邸の雑踏名状すべからず。
各室ほとんど身動きもならぬほどなり。
大正天皇の御容態御大切にあらせられ、もはや時間の問題ならんと侍医頭以下侍医全部詰め切りにて御看護申し上げおりし有様にて、憂愁の気漲る。

大正天皇はこの日を危く過させ給いしが、奇蹟的にもこれより小康を得させられ、国民も神明の加護といったん愁眉を開きし甲斐もなく、12月24日にまたまた御大切に陥らせられ、とうてい御回復の御見込あらせられずとの発表さえ出すに至れり。
ラジオは刻々宮内省より発表する御容態の放送を始めたるにより、10畳の座敷にラジオを引き込み、夫婦のみか子供たちもそばにありて、一語も聞き漏らさじとラジオに注意す。
午後3時 御体温39.3 御脈142 御呼吸52
御脈性軟弱にして御呼吸著しく浅表性に伺い奉る
午後04時 御体温39.1 御脈140   御呼吸50
午後05時 御体温39.7 御脈147   御呼吸58
御脈糸状にして御呼吸疾速に伺い奉る
午後06時 御体温39.7 御脈150   御呼吸60
午後07時 御体温40.0 御脈160   御呼吸60
午後08時 御体温40.2 御脈152   御呼吸58
午後09時 御体温40.3 御脈150以上 御呼吸66
御脈細数にして正確に算し奉り難し
午後10時 御体温40.7 御脈160以上 御呼吸76
午後11時 御体温40.7 御脈150以上 御呼吸72
午後12時 御体温40.8 御脈算し難し 御呼吸84
御気管喘鳴を伺い奉る
午前01時 御体温41.0 御脈算し難し 御呼吸52
12月25日午前1時25分、心臓マヒにて葉山御用邸にて崩御あらせらる。

12月25日葉山御用邸に伺候す。
節子皇太后のありがたき思召あり、旧側近者には大正天皇に拝訣の議お許しあり。
畏れ多くも崩御の御間に参入、大正天皇の御尊骸拝礼するを得たり。
ただただ恐懼の措くところを知らず。
御尊骸は御寝台の上に西枕に改めさせられ、御召物御寝具全部白羽二重にて、御枕高く龍顔にはいささかも御苦痛あらせられし御模様さえ拝し奉らず。
またさほどおやつれの御姿もなく、いと安らけく昇天ましませし御様を拝し奉り感慨無量、御前をも憚らず涙潸然として流れたること、まことに恐懼の極みなりき。
御寝台の御側には二位局〔大正天皇の生母柳原愛子〕悄然として御一人侍立せられ、御二の間には当番侍従4名端座し、女官長正親町典侍立せられしのみなり。

この日諸新聞はいたずらに報道の迅速を競い、紙上改元を麗々しく掲載して「光文」と記し、いかにも決定後発表ありしもののごとくなりしが、午後に至りようやく公式の発表を見るに至れば、元号昭和。
昭和は書経の堯典の中にある「百姓昭明協和万邦」にとり、世界平和・君臣一致を意味するものと言われている。
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作家永井荷風 日記

1926年12月14日
夜銀座に行くに、号外売りしきりに街上を走るを見る。
大正天皇崩御の近きを報ずるものなるべし。
頃日の新聞朝夕、大正天皇の病況を報道すること精細を極む。
日々飲食物の分量および排泄物の如何を記述して、毫も憚るところなし。
今の世において我が国天子の崩御を国民に知らしむるにあたって、飲食糞尿の如何を発表するの必要ありや。
車夫下女の輩 号外を購い来て喋々喃々天子の病状を口にするに至っては、冒涜の罪これより大なるはなし。

1926年12月26日
※歌舞音曲を停止するよう公布があり、国民全体が大正天皇の諒闇に入る

吾妻橋を渡り自動車を降りるに、雷門外の灯火湧くがごとく、行人絡繹たり。
上野広小路を過ぎ万世橋にて諸氏と別れ、1人銀座に至る。
歳暮雑踏の光景毫も諒闇の気味なし。
銀座通りの夜店もまた例年のごとし。
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『本庄繁日記』侍従武官長

1934年2月
※昭和天皇の発言

先帝のことを申すは如何なれども、皇太子時代は極めて快活に元気であらせられ、伯母様の所へも身軽に行啓あらせられしに、天皇即位後は万事御窮屈にあらせられ、元来御弱き御体質なりしため、ついに御病気とならせられたるに、まことに畏れ多きことなり。
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■妻  貞明皇后 九条節子 九条道孝公爵の娘
1884-1951 66歳没


*貞明皇后は自分と同じ誕生日の二男秩父宮を溺愛した。

*三男高松宮より10歳年下の四男が生まれてからは末っ子三笠宮を溺愛した。


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『徳富蘆花日記』

1917年12月29日〔大正天皇の女官烏丸花子退職〕
烏丸花子〈初花の局〉が宮中を出たと新聞にある。
お妾の一人なんめり。
お節さん〔節子皇后〕のイビリ出しだ。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

1913年頃、侍従長徳大寺実則の推薦で貞明皇后のお控えとして入ってきた美しい娘がいた。
彼女は先祖に大納言を持つ烏丸伯爵の娘で、代々権典侍の資格のある家柄であった。
小柄な娘であったが、その美しさは美人の多い女官の中でも、もちろん世間でもまれにみるほどであった。
丸顔で、眉が秀でていて、どこまでも冴えた二つの大きな美しい目を持っていた。
笑うとエクボが出た。
しかしそれほどの美人でいながら少しも剣がなかった。
彼女は権掌侍になり、初雪の局〔烏丸花子〕という源氏名をいただいた。

それから7年ほど経ったある日、私は私の家の主人筋にあたる岡山池田侯爵から不意に呼び出しを受けた。
「君からひとつ皇后宮大夫大森鍾一に伝えてもらいたいことがあるのでね、それで呼んだのだ。
『一人の女官が承知すれば無事に納まることだからよろしくお頼みする』と、ただそう言ってもらえばいいのだ。お願いしたよ」
それだけであった。
私はすぐ大森大夫の官邸に行って、池田侯爵の言葉を直々大森大夫に伝えた。
ところが大森大夫はいつになく狼狽した様子で𠮟りつけるように言った。
「この問題は君などが口を挟むことじゃない!引っ込んでいたまえ!」
私は呆然として引き下がるより仕方がなかった。
いろいろ考えてみたか、かいもく見当がつかない。
癪にも触るし、気も滅入る。
自宅に戻ると大森大夫から使いが来ていてすぐ来てくれと言う。
なにがなんだかわからないが、官邸に引き返して大森大夫の前に出ると、さっきとは打って変わって言葉である。
「先刻は失礼した。君の家は池田の家臣だったんだね。しかし烏丸権掌侍の問題にはちゃんとした証拠が挙がっているんだよ。これはどうしようもないのだ。一つこのことは絶対に秘密にして手を引いてもらえまいか」とさながら懇願する態度である。
私は手を引くも引かぬもない、ただ池田侯爵の言葉を伝えただけである。
もちろん私は承知した旨を述べて引き下がったが、烏丸権掌侍とは意外であった。
かえって秘密にされていた事件の内容に触れたことになってしまった。
翌朝早く不意に父が私を訪れてきた。
「烏丸さんの問題はよほど大事件らしい。お前ごとき身分では荷が重すぎる。早く手を引いた方がいい」
そう言って私が質問するのも恐れるかのように慌てて帰ってしまった。
池田侯爵の姉に当る人が烏丸権掌侍の兄のところに嫁に行っていたから、両家は親類であったのだ。

烏丸権掌侍は退官になった。
その後 縁続きの武者小路家に出入りしていた神官と結婚した。
おそらくその神官が灸点に詳しかったのであろう。
一時原宿で灸点をやって相当に流行っているということも聞いたが、近ごろ新聞に〈烏丸灸〉の広告が出ているのを見ると、やはり今も灸点師としてそれ相当の暮らしを立てているのだろう。
10年ぐらい前にある人から、
「縁談の世話をしようと思っているんだが、その娘さんは大正天皇の御落胤だという噂のある人でねえ」と言うので、
「それは烏丸さんの娘さんじゃないかね?」と言うと、
「そうなんだよ」と言うことであった。
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●迪宮裕仁親王 昭和天皇 久邇宮良子女王と結婚
●淳宮雍仁親王 秩父宮  会津藩主松平容保の孫/外務官僚松平恒雄の娘松平勢津子と結婚
●光宮宣仁親王 高松宮  将軍徳川慶喜の孫/徳川慶久公爵の娘徳川喜久子と結婚
●澄宮崇仁親王 三笠宮  高木正得子爵の娘高木百合子と結婚


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『ベルツの日記』

*昭和天皇・秩父宮・高松宮は川村純義伯爵邸で養育された

1901年9月16日
川村純義伯爵の所へ。
この70歳にもなろうという老提督が嘉仁皇太子の皇子をお預かりしている。
なんと奇妙な話であろう。
このような幼い皇子を両親から引き離して他人の手に託するという不自然で残酷な風習はもう廃止されるものと期待していた。
両親の宮〔嘉仁皇太子夫妻〕は毎月数回、わずかな時間だけ皇子にお会いになる。
自分が聞かされた理由なるものはすべて根拠がない。
例えば妃の側近には子供について何も知らない老嬢・女官しかいないからだと言うのだ。
それならなぜ既婚の婦人をお付きに置かないのだ。
また東京の勤め人の妻である乳母が来ているのだし、赤十字の老練な看護婦が2~3人詰め切っているうえ、侍医も毎日幼い皇子を見舞っているではないか。
まったくバカげている。
どうして他の多くの場合と同様に、ドイツやイギリスの王室に範をとらないのか。
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『ベルツの日記』

1905年3月31日
嘉仁皇太子から皇子たち〔昭和天皇・秩父宮・高松宮〕を見てほしいとのこと。
ただし病気のためではなく、皇子たちは芯から丈夫である。
嘉仁皇太子の皇子たちに対する父親としての満悦ぶりには胸をうたれる。
まず先日拝見したばかりの一番末の皇子〔高松宮〕を見舞う。
生後80日にしては立派な体格・見事な発育で、お母さん似だ。
上の二人の皇子は現在4歳と2歳半になるが、長男の皇子〔昭和天皇〕は穏やかな音声と静かな挙止とで非常に可愛らしく優しいところがある。
二男の皇子〔秩父宮〕はいっそうお母さん似で、すこぶる活発で元気だ。
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