◆20代 大谷光沢/広如 仏職近松暉宣の子・養子になる
1798-1871


■妻  鷹司祥子 公家鷹司政熙の娘
1817-1846


★側室 岡田為子 京都府士族岡田栄柄の娘
1826年生


●側室の子 大谷光尊 1850年生 21代当主
●側室の子 大谷沢依 1852年生

●側室の子 大谷朴子 1863年生 大谷昭然と結婚


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◆21代 大谷光尊/明如 20代大谷光沢の子
1850-1903 53歳没

*5代目尾上菊五郎と並び称されるほどの美男だった。


■妻  大谷枝子 大谷光威/徳如の娘
1858年生


★側室 松原藤子 和歌山県士族松原有積の娘
1854年生


●藤子の子 大谷光瑞 1876年生 22代当主
●藤子の子 大谷孝慈 1881年生 木辺孝慈となる男爵 醍醐忠敬侯爵の娘静子と結婚
●藤子の子 大谷光明 1885年生 ゴルファー
九条道孝公爵の娘九条紝子と結婚→子光照は23代当主・娘正子は近衛文隆と結婚
●藤子の子 大谷尊由 1886年生 小出英尚子爵の娘小出泰子と結婚→娘益子は朝香宮正彦王妃

●本妻の子 大谷義子 1897年生 壬生泰弘男爵と結婚・広瀬千秋と再婚

●藤子の子 大谷文子 1877年生 常磐井堯猷男爵と結婚
●藤子の子 大谷武子 1887年生 九条良致男爵と結婚→歌人九条武子


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『侍従次長 河井弥八日記』参議院議長※当時は侍従次長&皇后宮大夫

1929年2月12日
東本願寺事務局長の来訪を求め、良子皇后より大谷智子への賜金を交付し、その趣旨を説明す。
①御姉妹の関係をもって特に智子夫人に内賜ありしこと
②ゆえに東本願寺に賜しにあらず
③智子夫人が別院建築費に差し出さるるも、良子皇后より建築費として賜りしにはあらざること
などなり。

1931年6月10日
宮内次官関屋貞三郎より、西本願寺大谷尊由から「東本願寺別院建築につき良子皇后より御下賜金ありし由につき、西本願寺別院建築につき同様に御下賜金ありたし」との申し出ありし由なり。
右は一昨年2月14日大谷智子に下賜ありしにて、東本願寺に下されしにあらず。
智子夫人が寺院建築のため使用することは妨げざるも、恩賜の由を発表すべからずと告げ千円を下されし事実を指すものなり。
よりてその次第を関屋次官に報告す。
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西園寺公望公爵 総理大臣

かつて大谷尊由が来て、
「近頃左傾がはびこって困る。今のうちに何とか対策を講じておかなければ」としきりにそればかり言っていたから、
「君の御先祖の親鸞上人は非常な左傾じゃないか」とからかってやると、
「いや、あれは左傾どころじゃありません。立派な反逆であります」と言ったので、
「そうか、それなら一つ君も反逆をやったらどうか」と言って笑ったことがある。
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『高松宮日記』

1940年11月14日
音羽正彦侯爵&大谷尊由の娘大谷益子の御披露。
大きな砲丸投げやるだけ左肩を上げた癖のある、許婚が長かっただけ慣れたお嫁さんだった。

1943年6月30日
音羽正彦侯爵の奥様〔大谷尊由の娘大谷益子〕御病気なりしとのことにて御見舞の件 秩父宮と御相談せるも、音羽侯爵は別に女あるらしく、奥様は今まで黙ってきたのだがそれが原因とのことにて、御見舞はもう少し調べてからとなる。
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◆22代 大谷光瑞/鏡如 21代光尊の子
1876-1948 72歳没

*当時としては珍しい180センチ超、80キロと大柄であった。


■妻 九条寿子 九条道孝公爵の娘・妹は貞明皇后
1882-1911 29歳没


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光瑞には嫌いなものが6つあった。
蛇と雷、これは単に苦手なもの。
囲碁と将棋、これは時間を浪費するから。
そして、女と老人。
女は愚痴を言い、老人は過去を語るから。
光瑞は特に女のおしゃべりを毛嫌いした。
女々した旧式の女を好まなかった。
光瑞の眼鏡に適ったのは妹の武子だけであった。
美しく、好奇心が強く、ユーモアがあり、自分の意見を持っている人物だったからである。

女嫌いであった光瑞は妻の死後再婚せず、六甲山に二楽荘を造って移り住んだ。
総面積は24万6000坪、ケーブルカーを3本備えていた。
建坪は500坪。
イギリスの沈没船を引き揚げて解体して作られた建物で、アラビア室・インド室・中国室・イギリス室・エジプト室など各国の部屋が設けられ、各部屋には金にまかせて世界各地から買い集められた物が飾られていた。

住み込みの仕立屋と中国人のコックがおり、食堂には2人のイギリス人少年がいた。
すべてに豪華好みの光瑞であったが食事だけは粗食であり、主食は麦飯であった。
しかし食事の作法は外国式で、食堂での言葉は英語である。
「ワンモア・ミソシル」「ワンカップオブ・メシ」と光瑞が言うと、礼服を着たイギリス人のボーイは優雅に命じられたことを行った。
光瑞が目指したものは単なる別荘ではなく、学校も造って教育事業も併せて行うという壮大な理想郷の設立であった。
二楽荘の近くに2階建ての校舎を建設し武庫仏教中学を設けた。
生徒は日本全国から選んだ450人。
光瑞は耳の形のいい者にしか立派な人間はいないと信じていたから、生徒の選考基準はまず耳の形のいい少年。
次が容姿の美しい少年であった。
学校の生徒一人一人にロンドンから純毛の毛布を取り寄せ、1人に3枚ずつ支給して鉄製のベッドで眠らせた。
洋服や靴も、ヨーロッパの貴族の子弟並みの物を与えた。
美少年が揃った学校の中でも光瑞が選びに選んだ美少年が、光瑞の身辺にはべり世話をした。

しかし別荘と学校さらに大谷探検隊により負債が膨らんで、光瑞は爵位を返上して法主の座も去った。
武庫仏教中学と二楽荘は手放したが、その後は世界中を飛び回り、旅順に策進書院・大連に浴日荘・上海に無憂園・台湾に逍遥園・インドネシアに環翠山荘と耕雲山荘などを持った。
戦後は京都に戻り、別府で最期を迎えた。
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宮武外骨『地獄耳』1917年

本願寺の大谷光瑞が今度僧籍を脱して還俗すると言っているそうであるが、大野心家の俗物 今さら形式の還俗でもあるまい。
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原田熊雄男爵 西園寺公望の私的秘書

大谷光瑞氏は立派な人かもしれないけれども、財政とか経済の頭がまるでない。
光瑞氏は非常に大きな金をオランダ中央銀行から借りて、オランダ領で山を買って大きな別荘を建て仕事を始めたが、とうとう払えずに追っ払われてしまい、後から木村鋭市元アジア局長が行って後始末をしたようなわけで、あの方面では非常に迷惑をかけている。
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◆23代 大谷光照/勝如 22代光瑞の甥/大谷光明の子
1911-2002 91歳没


■妻  徳大寺嬉子 徳大寺実厚公爵の娘
1918年生


●長男 大谷光真  1945年生 24代当主

●長女 大谷篤子  1939年生
●二女 大谷紀美子 1941年生
●三女 大谷登代子 1949年生