*和歌山徳川侯爵家は1898年の長者番付で全国9位となった資産家
■東京本邸 麻布区飯倉町 1万2000坪
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◆14代 徳川茂承 西条藩主松平頼学の子松平頼久・養子になる
1844-1906 62歳没
■前妻 伏見宮則子女王 伏見宮邦家親王の娘
1850-1874 23歳没
■後妻 本多広子 越後新発田藩系本多忠興の娘
1856-1886 30歳没
●前妻の子 徳川久子 婿養子を迎え15代とする
●前妻の子 徳川孝子 伊達宗陳侯爵の後妻
●後妻の子 徳川保子 松平頼和子爵と結婚
=========================
◆15代 徳川頼倫 田安徳川慶頼の子 婿養子になる
1872-1925 52歳没
■妻 徳川久子 14代徳川茂承の娘
1873年生
●男子 徳川頼貞 16代
●男子 徳川宣方
●男子 徳川治 落馬で死亡
=========================
◆16代 徳川頼貞 15代徳川頼倫の子
1982-1954 61歳没
■妻 島津為子 島津忠義公爵の娘・姉は山階宮常子妃・久邇宮俔子妃
1898-1989 91歳没
●男子 徳川頼韶 17代
●女子 徳川宝子 婿養子を迎える
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『横から見た華族物語』昭和07年出版※当時の総理大臣の年給は9,600円
先代の頼倫侯爵は物柔らかな利口な人物であったが、当主の頼貞侯爵はあまり評判が良くない。
頼倫侯爵が死んだ時、頼貞侯爵は3000万円の財産を相続して80万円の相続税を納めた。
その前には十五銀行の騒ぎに56万なにがしの損害をこうむった。
それやこれやで財政が苦しくなったので、1928年に什器の売り立てをやって臨時収入200万円を手に入れた。
頼貞侯爵は旧弊な家職どもに取り囲まれているにもかかわらず、皮肉にも日本より外国のことを好む。
特にフランスのことを好む。
だから紀州家の本邸は万事フランス式でやっているが、特に台所は一切フランス張りでその料理が頼貞侯爵の何よりの自慢だとある。
これは先年頼貞侯爵が大阪ホテルで食事をした時料理が非常にお気に召したところから、そこのコックを高い給金をはらって本邸へ雇い入れてから始まったという話だ。
紀州家では予算制度がやまかしくて、1年の経常費を50万円と計上している。
先代頼倫侯爵の時には80万円であったが、当時は使用人が70人もいた。
今は西洋風の簡単な生活で、頼貞侯爵の召使としては4人きりである。
それで年50万円といえば、月に割って2万5000円の勘定となる。
どんな贅沢でもできそうに思われるが、頼貞侯爵に言わせると自由に使える金といってはあまりないそうだから、生活費以外に無駄な金がよほど消えるのであろう。
1930年の春、欧米漫遊の旅に立った。
一行は7名それで旅費として月に1万円ずつ費やす予算であったが、行ってみるとその倍額の要求となり、外遊2年の間に50万円に近い金を使ってしまった。
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上田貞次郎の日記 和歌山徳川家の相談役・経済学者
1927年4月
徳川家の問題はもちろん財政整理である。
今春は予定通り什宝売却を断行して好成績であった。
売上160万円に達した。
手取り124万9000円。
しかし十五銀行破綻のために毎年7万円の収入減となる。
頼貞侯爵も大いに節約の意思はあるが、実行はできない。
本邸は今年も予定超過で、総額20万円以上使っている。
今借金は210万円で昨年末に比すれば70万円減じたが、結局本邸も売却しなければ整理はできない。
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上田貞次郎の日記 和歌山徳川家の相談役・経済学者
1929年9月
徳川家の借金はまだ250万円ある。
先代からの引き継ぎの時350万円あったのが、什器売却で100万、土地売却で200万作ったにも関わらず100万しか減らないのは、現在支出超過が毎年20~30万円ずつあるからだ。
頼貞侯爵は今外遊中だが毎月1万円の旅費を予定していたのに、5月以来すでに8万円すなわち倍額出ている。
何事にしても、主人が締まらなければ何もならぬ。
この顧問の仕事は実に馬鹿馬鹿しい。
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1934年6月19日の東京朝日新聞に
『徳川侯爵家を恨み老植木師が服毒 積立金を返さぬと』という記事が出る。
長年紀州徳川家に雇われていた植木職人が紀州徳川家事務所に給料から天引きで積み立て貯金をしていたのに、退職の際に総額804円を返してもらえなかった。
何度事務所にかけあっても拒否されたので、徳川家の中で猫イラズを飲んで抗議の自殺をした。
後日遺族に1000円の弔慰金を支払うことで決着した。
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『侯爵徳川義親の日記』〔徳川義親侯爵は徳川里子夫人の弟〕
※徳川義親は「理財の殿様」と呼ばれ、困窮した多くの華族家の財産整理を手助けした
1936年12月5日
徳川頼貞侯爵来訪。
頼貞侯爵家整理につきて話す。
1936年12月26日
頼貞侯爵・夫人を訪ねて、今後の方針を話す。
1936年12月27日
頼貞侯爵家に4万円援助し、一時の急を救う。
1937年1月14日
頼貞侯爵は司直により裁くことを決心す。
1937年1月19日
頼貞侯爵に隠居する決心の必要なることを説く。
1937年2月28日
半田治三郎に頼貞侯爵家の家政を調査させる。
半田の報告にては、現在の状態にては1日700円の損失になると。
1937年5月6日
頼貞侯爵家の岸田秘書来り、日本銀行総裁池田成彬よりの回答を聞く。
聞くまでもなく駄目なことは明瞭なりしなり。
岸田秘書ももとより覚悟なりしも、あまりに冷淡なる態度に憤慨す。
人の落ち目となりたる時には、人は決して助くるものあらざるを痛感す。
頼貞侯爵はことのとにつきて認識を有せず。
今日なお楽観の状態なるを悲しむ。
1937年7月31日
頼貞侯爵家より片岡秘書来る。
自動ピアノをPCLに売りたる代金1,400円を受け取りに来る。
片岡秘書は、主家没落の悲運を嘆じてゆく。
1937年11月12日
十五銀行に阿野季忠子爵を訪ねる。
「頼貞侯爵家の整理問題につき、十五銀行は抵当物全部を投げ出されたならば債務打ち切りまでのことはするも、それ以上はできぬ」とのこと。
極めて至当な話なり。
要するに大名の家として己れの不始末から人の情けを受けることは恥辱なり。
十五銀行は断然債権を主張しても論なし。
1937年12月27日
頼貞侯爵家整理につきての報告。
やや目鼻のつきたるところにして、代々木の邸宅を小田急に売る約束でき、これにて解決の第一歩となすとのことなり。
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徳川頼貞は東京大崎に洋風の大邸宅を作り<パレス・クィーン・エリザベス>と名づけた。
パーティーを開くときは、金ピカの制服を着た召使を玄関に立たせ、ヨーロッパ宮廷風に招待客の名前を読み上げさせた。
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徳川正子 会津松平恒雄の娘・尾張徳川義知の妻
駐英大使で赴任した父の後を追って私もロンドンに参りましたのですが、ちょうど頼貞様の御外遊の時期でごさいました。
お嬢さんの宝子さんがまだお小さくて、5つぐらいでしたでしょうか。
郊外の方にバトラーがいるお家をお借りになって、看護婦が宝子さんをつきっきりで看ておりました。
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◆17代 徳川頼韶 16代徳川頼貞の子
1917-1958 41歳没
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◆18代 徳川剛 日系二世の青山由太郎の子・婿養子になるが離婚
1924年生
■妻 徳川宝子 17代徳川頼韶の娘
1926年生
●長女
●二女
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戦後宝子は生活のために池袋の西武百貨店と日比谷の三井ビルにレストラン「マルキーズ」を開店して成功するが、夫が勝手に権利を売って逃げてしまい離婚に至る。
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1977年
1980年
■東京本邸 麻布区飯倉町 1万2000坪
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◆14代 徳川茂承 西条藩主松平頼学の子松平頼久・養子になる
1844-1906 62歳没
■前妻 伏見宮則子女王 伏見宮邦家親王の娘
1850-1874 23歳没
■後妻 本多広子 越後新発田藩系本多忠興の娘
1856-1886 30歳没
●前妻の子 徳川久子 婿養子を迎え15代とする
●前妻の子 徳川孝子 伊達宗陳侯爵の後妻
●後妻の子 徳川保子 松平頼和子爵と結婚
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◆15代 徳川頼倫 田安徳川慶頼の子 婿養子になる
1872-1925 52歳没
■妻 徳川久子 14代徳川茂承の娘
1873年生
●男子 徳川頼貞 16代
●男子 徳川宣方
●男子 徳川治 落馬で死亡
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◆16代 徳川頼貞 15代徳川頼倫の子
1982-1954 61歳没
■妻 島津為子 島津忠義公爵の娘・姉は山階宮常子妃・久邇宮俔子妃
1898-1989 91歳没
●男子 徳川頼韶 17代
●女子 徳川宝子 婿養子を迎える
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『横から見た華族物語』昭和07年出版※当時の総理大臣の年給は9,600円
先代の頼倫侯爵は物柔らかな利口な人物であったが、当主の頼貞侯爵はあまり評判が良くない。
頼倫侯爵が死んだ時、頼貞侯爵は3000万円の財産を相続して80万円の相続税を納めた。
その前には十五銀行の騒ぎに56万なにがしの損害をこうむった。
それやこれやで財政が苦しくなったので、1928年に什器の売り立てをやって臨時収入200万円を手に入れた。
頼貞侯爵は旧弊な家職どもに取り囲まれているにもかかわらず、皮肉にも日本より外国のことを好む。
特にフランスのことを好む。
だから紀州家の本邸は万事フランス式でやっているが、特に台所は一切フランス張りでその料理が頼貞侯爵の何よりの自慢だとある。
これは先年頼貞侯爵が大阪ホテルで食事をした時料理が非常にお気に召したところから、そこのコックを高い給金をはらって本邸へ雇い入れてから始まったという話だ。
紀州家では予算制度がやまかしくて、1年の経常費を50万円と計上している。
先代頼倫侯爵の時には80万円であったが、当時は使用人が70人もいた。
今は西洋風の簡単な生活で、頼貞侯爵の召使としては4人きりである。
それで年50万円といえば、月に割って2万5000円の勘定となる。
どんな贅沢でもできそうに思われるが、頼貞侯爵に言わせると自由に使える金といってはあまりないそうだから、生活費以外に無駄な金がよほど消えるのであろう。
1930年の春、欧米漫遊の旅に立った。
一行は7名それで旅費として月に1万円ずつ費やす予算であったが、行ってみるとその倍額の要求となり、外遊2年の間に50万円に近い金を使ってしまった。
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上田貞次郎の日記 和歌山徳川家の相談役・経済学者
1927年4月
徳川家の問題はもちろん財政整理である。
今春は予定通り什宝売却を断行して好成績であった。
売上160万円に達した。
手取り124万9000円。
しかし十五銀行破綻のために毎年7万円の収入減となる。
頼貞侯爵も大いに節約の意思はあるが、実行はできない。
本邸は今年も予定超過で、総額20万円以上使っている。
今借金は210万円で昨年末に比すれば70万円減じたが、結局本邸も売却しなければ整理はできない。
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上田貞次郎の日記 和歌山徳川家の相談役・経済学者
1929年9月
徳川家の借金はまだ250万円ある。
先代からの引き継ぎの時350万円あったのが、什器売却で100万、土地売却で200万作ったにも関わらず100万しか減らないのは、現在支出超過が毎年20~30万円ずつあるからだ。
頼貞侯爵は今外遊中だが毎月1万円の旅費を予定していたのに、5月以来すでに8万円すなわち倍額出ている。
何事にしても、主人が締まらなければ何もならぬ。
この顧問の仕事は実に馬鹿馬鹿しい。
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1934年6月19日の東京朝日新聞に
『徳川侯爵家を恨み老植木師が服毒 積立金を返さぬと』という記事が出る。
長年紀州徳川家に雇われていた植木職人が紀州徳川家事務所に給料から天引きで積み立て貯金をしていたのに、退職の際に総額804円を返してもらえなかった。
何度事務所にかけあっても拒否されたので、徳川家の中で猫イラズを飲んで抗議の自殺をした。
後日遺族に1000円の弔慰金を支払うことで決着した。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『侯爵徳川義親の日記』〔徳川義親侯爵は徳川里子夫人の弟〕
※徳川義親は「理財の殿様」と呼ばれ、困窮した多くの華族家の財産整理を手助けした
1936年12月5日
徳川頼貞侯爵来訪。
頼貞侯爵家整理につきて話す。
1936年12月26日
頼貞侯爵・夫人を訪ねて、今後の方針を話す。
1936年12月27日
頼貞侯爵家に4万円援助し、一時の急を救う。
1937年1月14日
頼貞侯爵は司直により裁くことを決心す。
1937年1月19日
頼貞侯爵に隠居する決心の必要なることを説く。
1937年2月28日
半田治三郎に頼貞侯爵家の家政を調査させる。
半田の報告にては、現在の状態にては1日700円の損失になると。
1937年5月6日
頼貞侯爵家の岸田秘書来り、日本銀行総裁池田成彬よりの回答を聞く。
聞くまでもなく駄目なことは明瞭なりしなり。
岸田秘書ももとより覚悟なりしも、あまりに冷淡なる態度に憤慨す。
人の落ち目となりたる時には、人は決して助くるものあらざるを痛感す。
頼貞侯爵はことのとにつきて認識を有せず。
今日なお楽観の状態なるを悲しむ。
1937年7月31日
頼貞侯爵家より片岡秘書来る。
自動ピアノをPCLに売りたる代金1,400円を受け取りに来る。
片岡秘書は、主家没落の悲運を嘆じてゆく。
1937年11月12日
十五銀行に阿野季忠子爵を訪ねる。
「頼貞侯爵家の整理問題につき、十五銀行は抵当物全部を投げ出されたならば債務打ち切りまでのことはするも、それ以上はできぬ」とのこと。
極めて至当な話なり。
要するに大名の家として己れの不始末から人の情けを受けることは恥辱なり。
十五銀行は断然債権を主張しても論なし。
1937年12月27日
頼貞侯爵家整理につきての報告。
やや目鼻のつきたるところにして、代々木の邸宅を小田急に売る約束でき、これにて解決の第一歩となすとのことなり。
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徳川頼貞は東京大崎に洋風の大邸宅を作り<パレス・クィーン・エリザベス>と名づけた。
パーティーを開くときは、金ピカの制服を着た召使を玄関に立たせ、ヨーロッパ宮廷風に招待客の名前を読み上げさせた。
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徳川正子 会津松平恒雄の娘・尾張徳川義知の妻
駐英大使で赴任した父の後を追って私もロンドンに参りましたのですが、ちょうど頼貞様の御外遊の時期でごさいました。
お嬢さんの宝子さんがまだお小さくて、5つぐらいでしたでしょうか。
郊外の方にバトラーがいるお家をお借りになって、看護婦が宝子さんをつきっきりで看ておりました。
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◆17代 徳川頼韶 16代徳川頼貞の子
1917-1958 41歳没
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◆18代 徳川剛 日系二世の青山由太郎の子・婿養子になるが離婚
1924年生
■妻 徳川宝子 17代徳川頼韶の娘
1926年生
●長女
●二女
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戦後宝子は生活のために池袋の西武百貨店と日比谷の三井ビルにレストラン「マルキーズ」を開店して成功するが、夫が勝手に権利を売って逃げてしまい離婚に至る。
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1977年
1980年


