■東京本邸 本郷区元町
1047(1)



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◆10代 松平頼胤   8代松平頼儀の子
1810-1877


■妻  徳川文子/結子 将軍徳川家斉の娘
1809-1837


●男子 松平頼熙 1826年生 松平頼徳の娘謳子と結婚
●男子 松平頼温 1862年生 松浦詮伯爵の娘逸子と結婚
●男子 松平頼和 1865年生 松平頼和子爵となる 和歌山徳川茂承侯爵の娘保子と結婚

●女子 不明        公家大原重実と結婚
●女子 松平衛子 1849年生 松平頼策子爵と結婚


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◆11代 松平頼聡  9代松平頼恕の子 最後の藩主
1834-1903


■妻  井伊千代子 彦根藩主井伊直弼の娘 
1845-1927


●実子 松平頼寿 1874年生 12代当主
●実子 松平胖  1879年生 鍋島直大侯爵の娘俊子と結婚→子頼明は13代・娘誠子は李鍵公妃
●実子 松平翠  1881年生 永井直諒子爵の養子になり永井直翠となる

●庶子 松平晨若 1863年生 尾張徳川慶勝の娘の婿養子になり徳川義礼侯爵となる
●庶子 松平頼親 1872年生 南部甕男男爵の娘敏子と結婚

●実娘 松平岳子 1882年生 松平親信子爵と結婚

●庶女 松平総子 1869年生 水戸徳川篤敬公爵と結婚


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『木戸幸一日記』内大臣※当時は文部大臣

1937年7月19日
松平頼寿伯爵より、令弟松平胖氏の財政問題につき内話を聴く。
李鍵公家事務官末松多美彦を招き、松平胖氏の内情を語り、注意を促す。
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◆12代 松平頼寿 11代松平頼聡の子
1874-1944


■妻  徳川昭子 水戸徳川昭武公爵の娘 東京女子師範学校出身
1883-1976


●庶子 松平貞雄 1909年生
●庶子 松平正  1913年生
●庶子 松平清  1915年生
●庶子 松平隆  1917年生


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宮武外骨『スコブル』1917年

「騒動の裏に女あり」
昔からお家騒動の裏面には必ず女が伏在しているものであるが、大正の今日 早稲田大学の騒動にもやはり女が陰になっているとは、今さらながら閨門の勢力の大なるに驚かざるを得ない。
今度の騒動の表面の立役者はむろん高田・天野の両人であるが、その陰に隠れて秘かに彼らを煽動したのは大隈綾子夫人である。
近刊の『日本及日本人』の「早稲田騒動の人々」と題せる記事中にも「西太后のあだ名ある綾子婆さんの出しゃばり、婆さんの親戚筋なる三枝某のワガママ、知恵のないくせに野心の強い劣等な人格の信常の干渉などが因となり果となってこんがらがった騒動」とあった。
綾子は元来官僚的の女で虚栄に憧れること深く、今度の騒動も自分の養子たる信常を早稲田大学の総長にしたいという野心から出たのである。
すなわち高野・天野の両人にケンカをさせ結局喧嘩両成敗として両人を首切り、その後任として大隈家の幇間たる早大法科教授阪本三郎を学長にすえ、おもむろに時機を待って重信に引退させ、その代りとして信常を総長に押し進める考えであった。
さきに綾子の銅像を構内に建てることに反対した少壮教授連を免職にしたのも、むろん綾子の差し金である。
阪本三郎は小学教員あがりで一時は大審院判事であったが、無能な故をもって免職されしばらく浪人でいたのを大隈に救われて県知事になったが、それもつかの間で今は早大法科の教授である。
彼は無能のくせに野心が深く、先年ドイツで博士号をもらったのにはドイツのある売文社に頼んで博士論文を代作してもらったのであった。
恥さらしの男ではないか。
親族法の講義などでその無能を知っている学生らは阪本が学長と聞いて強硬に反対し血を見るまでの騒ぎが起ったので阪本はやむなく辞することになったが、その後釜に擬せられたのが讃岐高松の馬鹿殿様松平頼寿である。
これは調停者の中野武営が旧藩士であるところから引っぱってきたのでもあろうが、これも大隈綾子の魂胆である。
松平頼寿は信常の実家松浦家の縁族であり、また早稲田大学の出身であるという縁故からであるが、これもおっては馬鹿な信常を総長にすえることに便宜であるがためにほかならなかった。
松平頼寿は大の低能児なので帝国大学へはむろん行けず学習院へも入れないので、親族の縁故でやっと早大卒業ということにしてもらったのであるという。
ところがいかに調停者たる中野・渋沢らの推挙だとはいえ、民本主義を唱える学校の学長に田舎の馬鹿殿様をすえるとはけしからぬと息巻く者が多かったのでこれもおジャンになって、結局は当分は学長なしということで姑息のケリはついたらしいが、おっては再騒動が起こるであろうし、綾子婆さんがどんな知恵をしぼってどんな魂胆を巧むか、その大詰めは猫騒動の講談でも聴くつもりでゆるゆる待つのも一興だろう。

早稲田騒動は後藤新平が憲政派の中堅たる大隈党に打撃を与えるつもりで学生を煽動したのは事実で、その事実はあれほどの大騒動を警察が袖手傍観でいたのでも証明されている。
小池国三が学生の騒動費に6千円寄付したのもその筋からの関係からであって、株屋あがりの彼が学生に同情するはずがない。
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宮武外骨『スコブル』1917年

「低能児多き華族」
新華族の当人は幾分か知識もあるが、その息子はたいがい低能児か不良少年である如く、旧大名の子孫たる華族にはロクな者なく、十中八九馬鹿殿様である。
去日早稲田大学が大隈綾子の差し金で松平頼寿を新学長にせんとした時、「頼寿伯爵は早稲田出身の校友たりと言うの他、政治家としても学者としても何ら聞く所あらず。ただ高松の馬鹿殿様として知らるるのみ。民本主義の養成所として目されたる早稲田大学が、平凡なる旧大名を迎えんとするに至っては、また驚くべきにあらずや」と言う反対者が多かったので沙汰やみになったが、仮にもせよ学長に推されたほどの伯爵でも、御多分に漏れぬ馬鹿殿様の代表者であるというに呆るだろう。
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東京夕刊新報 大正

「電車で妾宅通いのお殿様」
本宅別宅の雇人に3割の減俸を申し渡した松平頼寿伯爵は、浜町3丁目に芸者上りの妾を囲い、4人の子供をもうけている。
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『茶ばなし』1926年

「松平伯爵夫人のお菓子」
伯爵夫人松平昭子の君はお料理がお上手で、ことにお菓子のこしらえ方は玄人はだしという評判です。
先日御親戚の御婦人方をお招きになった時にお菓子の御馳走という段になって、どういうものかその日に限って恐ろしく出来が悪くて、いくら焼いてもお気に召したものができません。
さりとてお客様には奥様お手製のお菓子を差し上げると申した手前そのまま中止することもできないので、人をやって風月堂からお菓子を取り寄せてその場は間に合せておきました。
お客様の方はそんなことはご存知ないので、「奥様はたいそうお上手でいらっしゃいますこと」と、まったく心の底から感服してお褒めになる。
これも内幕をご存知ない頼寿伯爵も、「どうです。昭さんも隅に置けないでしょう」とすこぶる御満足の態に、奥様はおかしさを奥歯で嚙み殺していらっしゃいましたとか。
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◆13代 松平頼明 12代頼寿の甥/松平胖の子
1909-1990


■妻  酒井香枝子 酒井忠克伯爵の娘 学習院出身
1916年生


●長男 松平頼武 1938年生 14代当主
●二男 松平頼典 1940年生 田中進の娘田中順子と結婚


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◆14代 松平頼武 13代頼明の子
1938年生


■妻  徳川豊子 徳川厚男爵の孫/徳川喜和子&戸田豊太郎の娘
1939年生


●長男
●二男
●三男