■東京本邸 荏原郡大崎町
↓
■東京本邸 芝区高輪南町
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◆8代 池田慶政 中津藩主奥平昌高の子・養子になる
1823-1893
■妻 池田宇多子 鴨方藩主池田政善の娘
1830-1877
●男子 池田政謙 1871年生 生駒親忠男爵となる
●男子 池田政時 1872年生 池田政時子爵となる
●女子 池田万寿子 1848年生 婿養子を迎え9代当主とする
●女子 池田千代子 1865年生 池田政保子爵と離婚
●女子 池田銀子 1878年生 柳原義光伯爵と結婚
=========================
◆9代 池田茂政 水戸徳川斉昭の子・婿養子になる
1839-1899
■妻 池田万寿子 8代池田慶政の娘
1848-1868
●男子 池田勝吉 1874年生 池田勝吉男爵となる
●男子 池田勝順 1885年生 西尾忠篤子爵の養子になり西尾勝順となる
●女子 池田恒子 1880年生 堀河護麿子爵と結婚
●女子 池田隆子 1883年生 中川久任伯爵と結婚
●女子 池田信子 1884年生 佐々木祐哲と結婚
●女子 池田鎮子 1890年生 泉谷祐勝と結婚
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池田勝吉男爵の孫 鮫島純子 財閥渋沢正雄の娘・鮫島員重男爵の妻
池田茂政はお家付きの万寿子姫との間には男児に恵まれず、側室との間に誕生した唯一の男子が母の父でした。
彼は自分が池田侯爵家の跡取りになるとばかり思い込んで成長したらしいのですが、池田家本来の血筋を受け継いでおられる相良子爵家の方が御養子になられ岡山池田本家を継がれました。
祖父は分家して男爵を授かり、私が物心ついた頃には子供の目から見ても芳しからぬ心情の日々を過ごしているように見えました。
侯爵とそれに伴う広大な領地への執着と、当てが外れた人生への不満があったのかもしれません。
父は子会社を作り、名前だけの社長として祖父の収入にしてあげていました。
振り込みが遅れると待ちきれず、娘をあてに受け取りに来訪。
岳父が気がねなくお金を受け取れるよう父は配慮して振り込みにしていたのですが、そんな思いやりもむなしく悪びれる様子もない祖父の態度は、父方の祖父である栄一とのあまりの差にさびしい気がしたものでした。
夜帰宅した父に「申し訳ございません」と低姿勢で詫びる母に対して、
「いいじゃないか。男の照れ隠しが尊大ぶったスタイルになるんだよ」とかえって母を慰め、
「もらう立場よりあげられる立場の方がありがたいさ」と父はあっさり言っているのを聞きました。
もっともある時 父は足の爪を切りながら、岳父にまた母の異母妹〔妾の子〕が誕生したと聞いて、
「母さんの係累がこんなに増えると知ってたら女房にもらわなかったなあ。あれだけは斉昭公〔勝吉の祖父水戸藩主徳川斉昭〕の隔世遺伝かなあ」と冗談交じりに苦笑していました。
(勝吉の死亡時)
父は葬式の準備の指揮をとりました。
私は初めて見る4歳、2歳の幼い「叔父」「叔母」の姿、「殿様ぁ~」と遺体に泣きすがる妊娠中の側室、その光景の異様さにただ呆然としたものでした。
母はすでに生母の亡くなっている腹違いの弟たちの大学卒業と就職の面倒をみて、妹の方は引き取って家の中のことなどを手伝ってもらいながら仲良く過ごし、お嫁入りの世話もしました。
母の異母弟妹がみな穏やかな常識人として成人しましたのはありがたいことでした。
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◆10代 池田章政/池田政詮 最後の藩主
1836-1903
■妻 戸田鑑子 大垣藩主戸田氏正の娘
1838-1906
●長男 池田政保 1865年生 池田政保子爵となる
●二男 池田詮政 1866年生 11代当主
=========================
◆11代 池田詮政 10代池田章政の子
1865-1909
■前妻 島津充子 島津忠義公爵の娘・池田詮政と離婚・松平直亮伯爵と再婚
1873-1958 85歳没
■後妻 久邇宮安喜子女王 久邇宮朝彦親王の娘
1870-1920 50歳没
●後妻の子 池田禎政 1895年生 12代当主
●後妻の子 池田政保 1899年生 池田政保子爵となる
●後妻の子 池田宣政 1899年生 13代当主
●前妻の子 池田博子 1889年生 細川護立侯爵と結婚
●後妻の子 池田鋠子 1892年生 烏丸光大伯爵と結婚
●後妻の子 池田温子 1892年生 六条有直子爵と結婚
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は宗秩寮職員
<安喜子女王&篶子女王の姉妹どんぶり>
1922年8月24日
※宮内官僚小原駩吉の発言
壬生基義伯爵の性質は金銭に汚く品行不良にて、妻篶子の姉妹の寡婦となりおる者と私したる事多く、先年死去したる池田詮政の寡婦安喜子のごときもその一人にて、池田家の家職などはしきりに苦心したりし。
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◆12代 池田禎政 11代池田詮政の子
1895-1920 25歳没
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◆13代 池田宣政 11代池田詮政の子
1904-1988
■妻 津軽富貴子 津軽行雅男爵の娘
1908-1978
●男子 池田隆政 1926年生 14代当主
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◆14代 池田隆政 13代池田宣政の子
1926-2012 86歳没
■妻 順宮厚子内親王 昭和天皇の娘
1931年生
1977年
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官
1950年10月9日
次長鈴木一退官に際し、
「昭和天皇の服装問題にかれこれ仰せになることを御諌言的に申し上げしこと、高松宮らをよく御抱擁願いたしとの申し出のこと、ゴルフの問題のこと、順宮厚子内親王は浅野長愛へ御降嫁よろしかるべし」とのこと申し上げし由承る。
昭和天皇◆鈴木は辞めてよかった。
田島長官◆線が太いので場所によっては大いに使えると思いますが、侍従次長のような気を配る点は不適。
1950年10月10日
昭和天皇「昨日聞いた浅野長愛の話だが、なぜ女子学習院へ転任したろうか。順宮厚子内親王との結婚に何らかの関連ありや。あれば縁談できぬ時は変なものだ。順宮厚子内親王が女子学習院に通学中に転任して来たのは」という御話、焦点どうもハッキリせず。
田島長官「順宮厚子内親王と浅野長愛の転任は没交渉と存じます」と申し上ぐ。
「そうか」と深くおうなずきなれど、この御話の焦点ちょっとわからず。
昭和天皇「順宮厚子内親王の意思は今結婚にないが、大谷光紹への口実が〔良子皇后の妹東本願寺大谷智子が孝宮和子内親王・順宮厚子内親王を子大谷光紹の妻に望んだが皇室側から断った〕留学三年ということゆえ、帰朝前に結婚する方が賢明だ」との仰せにて、浅野長勲の曾孫にて、長勲の息子という人もどんな人か調べる要あり。
1950年11月7日
田島長官◆順宮厚子内親王の御縁談、新陣容で間違いなく慎重に見てやってまいりますつもりでおります。
昭和天皇◆大谷光紹への口上から、大谷の帰国せぬ内というのは頬かぶりではあるが。
1950年12月1日
昭和天皇「久邇邦昭〔久邇宮朝融王の子〕に順宮厚子内親王をもらいたいと良子に話があった」という御話を初めて仰せになり拝承す。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従
1950年5月23日
娘からクラス会での順宮厚子内親王の御様子について聞かされ、学習院大学教授岩田九郎も非常に心配しているとのこと。
名取女官に話さねばならないが、いろいろ続いては困ってしまう。
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田島道治『日記』宮内庁長官
1951年10月3日
岡山に順宮厚子内親王のこと、侍従次長稲田周一困却の話聞く。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従
1951年1月8日
田島長官・宇佐美次長・三谷侍従長・侍従徳川義寛と、順宮厚子内親王の御結婚問題につき協議。
池田・両徳川・松平・鍋島が候補者に残り、結局池田隆政ということで少し進めてみようということになる。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官
1951年3月2日
田島長官◆順宮厚子内親王の御縁談は公爵・侯爵から順次ずいぶん繰りましたが、ちょうどおよろしいというは少なく、御年齢等のことを加味して約10人ほどに縮め、久松伯爵の子〔久松定成〕とか徳川達孝の孫とか徳川宗家とか鍋島一家とかずいぶん調べましたが、結果として岡山の池田隆政が一番よろしいかと存じましたが、これとて難点はありまする他、鍋島も一人ありまするが、中間御報告的にだいたいのことを申し上げ、御指図によりよろしい者を本格的に調べるということに進むのがよろしいかと存じます。
昭和天皇◆よろしい。
1951年3月9日
順宮厚子内親王の御縁談は結局三名になりたりとて、池田隆政のことを式部官長松平康昌の関係より調べ得たることより申し上ぐ。
鍋島・徳川は三人の内の一人なりしというだけにて、興信所調書には触れず。
昭和天皇◆順宮厚子内親王が下情に通ぜぬため、東京を離れて何か事が起きた場合に、遠隔ゆえ事前に防ぐことができず、手遅れになるようなことはないかしら。
それらの点をプラスマイナスして利害はいずれか。
侍従次長稲田周一◆旧藩主で昔の関係地で生産に従事するということは大変よろしいと存じます。
マイナスの御心配の点よりプラスが大きいと思います。
浅野問題〔浅野長愛との縁談〕には御気持はとにかく、事務的には終止符を打ちたりと思うに、とにかく良子皇后御気持の情報を待つこととす。
1951年4月18日
昭和天皇◆順宮厚子内親王は照宮成子内親王と同じ方で、孝宮和子内親王とは違う。
田島長官◆池田の方はただ今のところ何の障害も起らず一応無難であります。
名門であり、御仕事も実業で。
昭和天皇◆その実業も土地についたいい意味の実業だし。
田島長官◆職業軍人なき今日、将来常陸宮の御仕事としても結構かと内々考えておりまするような
ことでございます。
昭和天皇◆地方というのがちょっと欠点だが。
田島長官◆御上京できぬということもございませんし。
昭和天皇◆まあ、今までのところは非常に良いから、これが円滑に進むといいがなー。
1951年7月3日
田島長官◆順宮厚子内親王の池田は最初式部官長松平康昌へ申したることに端を発して進行しましたため、先方は田島にも侍従次長稲田周一にも何か一枚隔てた感じが常々ありますから、話し合いにも松平にすべてかかってくるようでありますから、今回は松平に媒人仰せつけられまするよう。
昭和天皇◆私もよく人物を知っているし、申し分ないことだ。
田島長官◆五摂家の鷹司平通〔孝宮和子内親王の夫〕に二条弼基〔媒人〕大大名の池田に松平、門地の点もちょうどよろしゅうございます。
1951年7月12日
田島長官◆順宮厚子内親王の御縁談ほどなんの障害も起らなかったのは珍しく、池田の親類の細川護立侯爵など何か説が出そうかと存じておりましたが、別に何もなきのみか昨日珍しく挨拶を述べ、喜んだ様子に見受けられました。
1951年8月22日
田島長官◆順宮厚子内親王、先日の三人参内の時など大変結構のように存じますが。
昭和天皇◆「やあ、順ちゃんは素敵だ」などと言うて我々の時代とは時代が違う。
一つにはパンより飯という順宮厚子内親王の嗜好に、隆政も同じというのでとても喜んでる。
とにかく違うが、大変いいようだ。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従
1952年10月7日
順宮厚子内親王、三殿御拝。
袿袴がよくお似合いになり御立派である。
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田島道治『日記』宮内庁長官
1953年11月13日
池田のキリン舎出荷見舞状。
「動物園産業的ならず、猛獣でなかりしは小難、御一考」かと申し送る。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従
1953年10月27日〔四国巡幸〕
岡山の池田邸〔順宮厚子内親王の嫁ぎ先〕
大変な人出。
動物園のあたりを御供して歩きながら、田島長官から昨夜の谷口氏・伊原木氏との会談の結果を聞く。
池田宣政氏〔順宮厚子内親王の舅〕には弱っているらしいし、動物園をやめさせるということもなかなかできないらしい。
いずれも困ったことである。
1953年11月13日
田島長官から「池田動物園のキリン小屋のボヤの御見舞の機会に、本来の姿に返れという忠告のような手紙を出そうと思うがどう思うか」ということで手紙を見せられる。
大賛成を表する。
三谷侍従長はこれを見て賛否を明らかにしなかった由。
驚いたことだ。
いったい何を考えているのであろう。
1953年11月24日
稲田侍従次長に呼ばれて、鷹司平通のこと〔孝宮和子内親王の夫〕・池田隆政のこと〔順宮厚子内親王の夫〕について相談を受ける。
いずれも大したことではないが、困ったことばかりである。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官
1953年10月15日
田島長官◆今回岡山へお立ち寄りにつきまして是非ともお願い致したいと存じますることは、例の池田隆政氏〔順宮厚子内親王の夫〕の動物園のことでございます。
田島は迂闊にもそういうもののできましたことは一向存じませず、それが地方の問題となりましたことを聞きまして、そんなものができたかと承知しましたような次第でありますが、これはいろいろ絡んで他の複雑な関係もあるようでありますが、常識上池田氏の仕事としては牛羊の牧畜は望ましい仕事の部分と存ぜられまするし、たとえ小鳥でも商品として扱われることは、鶏の卵を扱い雛を扱われると同じで結構でありまするが、カバとか虎とかいうものを動物園として経営されることはいかがかと存じられまするので、侍従職の者は全員、侍従次長も徳川義寛侍従も入江相政侍従も、また表の方の総務課長でも一致した意見でありまするゆえ、今回岡山で池田家を御訪問になりますれば同一構内で御覧になりませぬわけには参りませぬが、これをお褒めにならぬよう、少なくも御奨励になったという感じのありませぬように願いたいと存じます。
昭和天皇◆それは良子ともよく話してだが、やめてしまえというような意味を言うことも。
田島長官◆良子皇后には侍従次長・女官長が申し上げることになっておりまして、昭和天皇からやめよと仰せいただきますこおとは強すぎますが、少なくも御奨励ではないということだけは是非お願いいたしたいと存じます。
昭和天皇◆あまり進まぬようにすればいいのか」
田島長官◆池田氏の方から昭和天皇にあの事業についてご意見を伺われるような場合には、好ましくないむね仰せいただきたく存じます。
昭和天皇◆まあ、そういうつもりでいよう。
1953年12月15日
昭和天皇◆岡山の池田の問題だがねー。
田島道治◆先日キリン小屋火事の時 火事見舞いのお手紙を出しまして、「もしこれが猛獣小屋の火事で順宮厚子内親王ら池田家の人はもちろん近所の人でも被害があれば容易ならぬことになります。産業動物園と伺っておりましたが、拝見しましたらば産業らしいところは少なく浅草の興行物のような感じで、これは御一考を要します」と申しましたところ、返事はキリン小屋で小火事だ心配ないというだけで、将来御一考えに対しては一行半句も書いてありませんでした。
順宮厚子内親王のお里として宮内庁の役人がかれこれ申さば内政干渉だなどと言われますゆえこれ以上は何も申されませぬが、あの動物園に ついて批難せぬ者は絶無と申してもよろしく、先日山陽新聞社社長谷口久吉に聞きましても非常に批難をいたしております。
岡山市長横山昊太も旧池田藩士で岡田在住のしっかりした人が一人欲しいとしきりに申しておりました。
岡山県知事三木行治は動物園攻撃には弁護に立つようなこともしてくれますが、本心はやはり池田家があれをされることには反対らしく、まあ一番同情ある反対で一番公平な立場を取っているのではないかと存じられ、知事らはあの有様では経済上の実体 誰が金を出しているのか、日々の観覧者で現金が入りますが、果たしてどういう計算かわかりませんので、使用人には給料の支払遅延があるとも申します。
いずれにしましてもはっきりさせるために株式会社にして、隆政氏をその社長にして、その月給の形でただいまの個人経営の利益のある所を得られるようにでも仕組むのではないかと思っております。
あるいは市営に移りますかでありますが、とにかく天子様の婿殿が遊ばす品位のある仕事でありませんことは確信をいたします。
牛・羊・鶏等本当の牧畜業でお損をなすっても恥ずかしいことではなく、こんな興行物のようなことで儲かりましてもあまりいい話ではありませんぬ。
先日北海道の土地のことをご進講申し上げました町村敬貴なども動物園のようなことをなさるなら羊や牛や鶏のことなら拝見して何か御来庁になることを申し上げてもと思ったがやめたと申しておりましたような次第で、動物園については誰一人賛成するものはないようでございます。
隆政さんは活動的で少し焦りすぎる点はありますが、まあ若いからと致しまして、池田宣政氏〔隆政の父〕は実につまらぬ人間のようで、当時式部官長松平康昌や侍従入江相政などの話に聞きました以上につまらぬ人間で、これは構うことは要りませんが、これが隆政さんの方の邪魔にならぬようせねばならぬと思います。
池田家の顧問でありました陸軍大将宇垣一成も宣政氏の態度に憤って辞めましたらしく、元内閣秘書官長杉田大三郎は池田家の学資で修学した人でありますが、これも今は池田家の相談人を辞しておりますような訳で、東京と岡山とではいかんともしがたく、ただ警戒しつつ静観するより他はないと存じます。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従
1959年4月13日
侍従次長稲田周一と岡山のことをいろいろ話す。
池田さんの方〔順宮厚子内親王の夫池田隆政〕の問題だということになる。
侍従徳川義寛に話すと、必ずしもそうでもないらしい。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従
1965年5月1日
池田隆政さん〔順宮厚子内親王の夫〕の会社が具合が悪く、5月いっぱいは保つだろうが8千万円の赤字はなんともならないとのこと。
1965年5月28日
宮内庁長官宇佐美毅と岡山の池田隆政さんの経営潰滅のこと。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長
1971年2月4日
宇佐美長官から、岡山の池田隆政さん〔順宮厚子内親王の夫〕の事業はいよいよ駄目とのこと。
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↓
■東京本邸 芝区高輪南町
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◆8代 池田慶政 中津藩主奥平昌高の子・養子になる
1823-1893
■妻 池田宇多子 鴨方藩主池田政善の娘
1830-1877
●男子 池田政謙 1871年生 生駒親忠男爵となる
●男子 池田政時 1872年生 池田政時子爵となる
●女子 池田万寿子 1848年生 婿養子を迎え9代当主とする
●女子 池田千代子 1865年生 池田政保子爵と離婚
●女子 池田銀子 1878年生 柳原義光伯爵と結婚
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◆9代 池田茂政 水戸徳川斉昭の子・婿養子になる
1839-1899
■妻 池田万寿子 8代池田慶政の娘
1848-1868
●男子 池田勝吉 1874年生 池田勝吉男爵となる
●男子 池田勝順 1885年生 西尾忠篤子爵の養子になり西尾勝順となる
●女子 池田恒子 1880年生 堀河護麿子爵と結婚
●女子 池田隆子 1883年生 中川久任伯爵と結婚
●女子 池田信子 1884年生 佐々木祐哲と結婚
●女子 池田鎮子 1890年生 泉谷祐勝と結婚
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池田勝吉男爵の孫 鮫島純子 財閥渋沢正雄の娘・鮫島員重男爵の妻
池田茂政はお家付きの万寿子姫との間には男児に恵まれず、側室との間に誕生した唯一の男子が母の父でした。
彼は自分が池田侯爵家の跡取りになるとばかり思い込んで成長したらしいのですが、池田家本来の血筋を受け継いでおられる相良子爵家の方が御養子になられ岡山池田本家を継がれました。
祖父は分家して男爵を授かり、私が物心ついた頃には子供の目から見ても芳しからぬ心情の日々を過ごしているように見えました。
侯爵とそれに伴う広大な領地への執着と、当てが外れた人生への不満があったのかもしれません。
父は子会社を作り、名前だけの社長として祖父の収入にしてあげていました。
振り込みが遅れると待ちきれず、娘をあてに受け取りに来訪。
岳父が気がねなくお金を受け取れるよう父は配慮して振り込みにしていたのですが、そんな思いやりもむなしく悪びれる様子もない祖父の態度は、父方の祖父である栄一とのあまりの差にさびしい気がしたものでした。
夜帰宅した父に「申し訳ございません」と低姿勢で詫びる母に対して、
「いいじゃないか。男の照れ隠しが尊大ぶったスタイルになるんだよ」とかえって母を慰め、
「もらう立場よりあげられる立場の方がありがたいさ」と父はあっさり言っているのを聞きました。
もっともある時 父は足の爪を切りながら、岳父にまた母の異母妹〔妾の子〕が誕生したと聞いて、
「母さんの係累がこんなに増えると知ってたら女房にもらわなかったなあ。あれだけは斉昭公〔勝吉の祖父水戸藩主徳川斉昭〕の隔世遺伝かなあ」と冗談交じりに苦笑していました。
(勝吉の死亡時)
父は葬式の準備の指揮をとりました。
私は初めて見る4歳、2歳の幼い「叔父」「叔母」の姿、「殿様ぁ~」と遺体に泣きすがる妊娠中の側室、その光景の異様さにただ呆然としたものでした。
母はすでに生母の亡くなっている腹違いの弟たちの大学卒業と就職の面倒をみて、妹の方は引き取って家の中のことなどを手伝ってもらいながら仲良く過ごし、お嫁入りの世話もしました。
母の異母弟妹がみな穏やかな常識人として成人しましたのはありがたいことでした。
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◆10代 池田章政/池田政詮 最後の藩主
1836-1903
■妻 戸田鑑子 大垣藩主戸田氏正の娘
1838-1906
●長男 池田政保 1865年生 池田政保子爵となる
●二男 池田詮政 1866年生 11代当主
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◆11代 池田詮政 10代池田章政の子
1865-1909
■前妻 島津充子 島津忠義公爵の娘・池田詮政と離婚・松平直亮伯爵と再婚
1873-1958 85歳没
■後妻 久邇宮安喜子女王 久邇宮朝彦親王の娘
1870-1920 50歳没
●後妻の子 池田禎政 1895年生 12代当主
●後妻の子 池田政保 1899年生 池田政保子爵となる
●後妻の子 池田宣政 1899年生 13代当主
●前妻の子 池田博子 1889年生 細川護立侯爵と結婚
●後妻の子 池田鋠子 1892年生 烏丸光大伯爵と結婚
●後妻の子 池田温子 1892年生 六条有直子爵と結婚
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は宗秩寮職員
<安喜子女王&篶子女王の姉妹どんぶり>
1922年8月24日
※宮内官僚小原駩吉の発言
壬生基義伯爵の性質は金銭に汚く品行不良にて、妻篶子の姉妹の寡婦となりおる者と私したる事多く、先年死去したる池田詮政の寡婦安喜子のごときもその一人にて、池田家の家職などはしきりに苦心したりし。
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◆12代 池田禎政 11代池田詮政の子
1895-1920 25歳没
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◆13代 池田宣政 11代池田詮政の子
1904-1988
■妻 津軽富貴子 津軽行雅男爵の娘
1908-1978
●男子 池田隆政 1926年生 14代当主
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◆14代 池田隆政 13代池田宣政の子
1926-2012 86歳没
■妻 順宮厚子内親王 昭和天皇の娘
1931年生
1977年
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官
1950年10月9日
次長鈴木一退官に際し、
「昭和天皇の服装問題にかれこれ仰せになることを御諌言的に申し上げしこと、高松宮らをよく御抱擁願いたしとの申し出のこと、ゴルフの問題のこと、順宮厚子内親王は浅野長愛へ御降嫁よろしかるべし」とのこと申し上げし由承る。
昭和天皇◆鈴木は辞めてよかった。
田島長官◆線が太いので場所によっては大いに使えると思いますが、侍従次長のような気を配る点は不適。
1950年10月10日
昭和天皇「昨日聞いた浅野長愛の話だが、なぜ女子学習院へ転任したろうか。順宮厚子内親王との結婚に何らかの関連ありや。あれば縁談できぬ時は変なものだ。順宮厚子内親王が女子学習院に通学中に転任して来たのは」という御話、焦点どうもハッキリせず。
田島長官「順宮厚子内親王と浅野長愛の転任は没交渉と存じます」と申し上ぐ。
「そうか」と深くおうなずきなれど、この御話の焦点ちょっとわからず。
昭和天皇「順宮厚子内親王の意思は今結婚にないが、大谷光紹への口実が〔良子皇后の妹東本願寺大谷智子が孝宮和子内親王・順宮厚子内親王を子大谷光紹の妻に望んだが皇室側から断った〕留学三年ということゆえ、帰朝前に結婚する方が賢明だ」との仰せにて、浅野長勲の曾孫にて、長勲の息子という人もどんな人か調べる要あり。
1950年11月7日
田島長官◆順宮厚子内親王の御縁談、新陣容で間違いなく慎重に見てやってまいりますつもりでおります。
昭和天皇◆大谷光紹への口上から、大谷の帰国せぬ内というのは頬かぶりではあるが。
1950年12月1日
昭和天皇「久邇邦昭〔久邇宮朝融王の子〕に順宮厚子内親王をもらいたいと良子に話があった」という御話を初めて仰せになり拝承す。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従
1950年5月23日
娘からクラス会での順宮厚子内親王の御様子について聞かされ、学習院大学教授岩田九郎も非常に心配しているとのこと。
名取女官に話さねばならないが、いろいろ続いては困ってしまう。
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田島道治『日記』宮内庁長官
1951年10月3日
岡山に順宮厚子内親王のこと、侍従次長稲田周一困却の話聞く。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従
1951年1月8日
田島長官・宇佐美次長・三谷侍従長・侍従徳川義寛と、順宮厚子内親王の御結婚問題につき協議。
池田・両徳川・松平・鍋島が候補者に残り、結局池田隆政ということで少し進めてみようということになる。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官
1951年3月2日
田島長官◆順宮厚子内親王の御縁談は公爵・侯爵から順次ずいぶん繰りましたが、ちょうどおよろしいというは少なく、御年齢等のことを加味して約10人ほどに縮め、久松伯爵の子〔久松定成〕とか徳川達孝の孫とか徳川宗家とか鍋島一家とかずいぶん調べましたが、結果として岡山の池田隆政が一番よろしいかと存じましたが、これとて難点はありまする他、鍋島も一人ありまするが、中間御報告的にだいたいのことを申し上げ、御指図によりよろしい者を本格的に調べるということに進むのがよろしいかと存じます。
昭和天皇◆よろしい。
1951年3月9日
順宮厚子内親王の御縁談は結局三名になりたりとて、池田隆政のことを式部官長松平康昌の関係より調べ得たることより申し上ぐ。
鍋島・徳川は三人の内の一人なりしというだけにて、興信所調書には触れず。
昭和天皇◆順宮厚子内親王が下情に通ぜぬため、東京を離れて何か事が起きた場合に、遠隔ゆえ事前に防ぐことができず、手遅れになるようなことはないかしら。
それらの点をプラスマイナスして利害はいずれか。
侍従次長稲田周一◆旧藩主で昔の関係地で生産に従事するということは大変よろしいと存じます。
マイナスの御心配の点よりプラスが大きいと思います。
浅野問題〔浅野長愛との縁談〕には御気持はとにかく、事務的には終止符を打ちたりと思うに、とにかく良子皇后御気持の情報を待つこととす。
1951年4月18日
昭和天皇◆順宮厚子内親王は照宮成子内親王と同じ方で、孝宮和子内親王とは違う。
田島長官◆池田の方はただ今のところ何の障害も起らず一応無難であります。
名門であり、御仕事も実業で。
昭和天皇◆その実業も土地についたいい意味の実業だし。
田島長官◆職業軍人なき今日、将来常陸宮の御仕事としても結構かと内々考えておりまするような
ことでございます。
昭和天皇◆地方というのがちょっと欠点だが。
田島長官◆御上京できぬということもございませんし。
昭和天皇◆まあ、今までのところは非常に良いから、これが円滑に進むといいがなー。
1951年7月3日
田島長官◆順宮厚子内親王の池田は最初式部官長松平康昌へ申したることに端を発して進行しましたため、先方は田島にも侍従次長稲田周一にも何か一枚隔てた感じが常々ありますから、話し合いにも松平にすべてかかってくるようでありますから、今回は松平に媒人仰せつけられまするよう。
昭和天皇◆私もよく人物を知っているし、申し分ないことだ。
田島長官◆五摂家の鷹司平通〔孝宮和子内親王の夫〕に二条弼基〔媒人〕大大名の池田に松平、門地の点もちょうどよろしゅうございます。
1951年7月12日
田島長官◆順宮厚子内親王の御縁談ほどなんの障害も起らなかったのは珍しく、池田の親類の細川護立侯爵など何か説が出そうかと存じておりましたが、別に何もなきのみか昨日珍しく挨拶を述べ、喜んだ様子に見受けられました。
1951年8月22日
田島長官◆順宮厚子内親王、先日の三人参内の時など大変結構のように存じますが。
昭和天皇◆「やあ、順ちゃんは素敵だ」などと言うて我々の時代とは時代が違う。
一つにはパンより飯という順宮厚子内親王の嗜好に、隆政も同じというのでとても喜んでる。
とにかく違うが、大変いいようだ。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従
1952年10月7日
順宮厚子内親王、三殿御拝。
袿袴がよくお似合いになり御立派である。
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田島道治『日記』宮内庁長官
1953年11月13日
池田のキリン舎出荷見舞状。
「動物園産業的ならず、猛獣でなかりしは小難、御一考」かと申し送る。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従
1953年10月27日〔四国巡幸〕
岡山の池田邸〔順宮厚子内親王の嫁ぎ先〕
大変な人出。
動物園のあたりを御供して歩きながら、田島長官から昨夜の谷口氏・伊原木氏との会談の結果を聞く。
池田宣政氏〔順宮厚子内親王の舅〕には弱っているらしいし、動物園をやめさせるということもなかなかできないらしい。
いずれも困ったことである。
1953年11月13日
田島長官から「池田動物園のキリン小屋のボヤの御見舞の機会に、本来の姿に返れという忠告のような手紙を出そうと思うがどう思うか」ということで手紙を見せられる。
大賛成を表する。
三谷侍従長はこれを見て賛否を明らかにしなかった由。
驚いたことだ。
いったい何を考えているのであろう。
1953年11月24日
稲田侍従次長に呼ばれて、鷹司平通のこと〔孝宮和子内親王の夫〕・池田隆政のこと〔順宮厚子内親王の夫〕について相談を受ける。
いずれも大したことではないが、困ったことばかりである。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官
1953年10月15日
田島長官◆今回岡山へお立ち寄りにつきまして是非ともお願い致したいと存じますることは、例の池田隆政氏〔順宮厚子内親王の夫〕の動物園のことでございます。
田島は迂闊にもそういうもののできましたことは一向存じませず、それが地方の問題となりましたことを聞きまして、そんなものができたかと承知しましたような次第でありますが、これはいろいろ絡んで他の複雑な関係もあるようでありますが、常識上池田氏の仕事としては牛羊の牧畜は望ましい仕事の部分と存ぜられまするし、たとえ小鳥でも商品として扱われることは、鶏の卵を扱い雛を扱われると同じで結構でありまするが、カバとか虎とかいうものを動物園として経営されることはいかがかと存じられまするので、侍従職の者は全員、侍従次長も徳川義寛侍従も入江相政侍従も、また表の方の総務課長でも一致した意見でありまするゆえ、今回岡山で池田家を御訪問になりますれば同一構内で御覧になりませぬわけには参りませぬが、これをお褒めにならぬよう、少なくも御奨励になったという感じのありませぬように願いたいと存じます。
昭和天皇◆それは良子ともよく話してだが、やめてしまえというような意味を言うことも。
田島長官◆良子皇后には侍従次長・女官長が申し上げることになっておりまして、昭和天皇からやめよと仰せいただきますこおとは強すぎますが、少なくも御奨励ではないということだけは是非お願いいたしたいと存じます。
昭和天皇◆あまり進まぬようにすればいいのか」
田島長官◆池田氏の方から昭和天皇にあの事業についてご意見を伺われるような場合には、好ましくないむね仰せいただきたく存じます。
昭和天皇◆まあ、そういうつもりでいよう。
1953年12月15日
昭和天皇◆岡山の池田の問題だがねー。
田島道治◆先日キリン小屋火事の時 火事見舞いのお手紙を出しまして、「もしこれが猛獣小屋の火事で順宮厚子内親王ら池田家の人はもちろん近所の人でも被害があれば容易ならぬことになります。産業動物園と伺っておりましたが、拝見しましたらば産業らしいところは少なく浅草の興行物のような感じで、これは御一考を要します」と申しましたところ、返事はキリン小屋で小火事だ心配ないというだけで、将来御一考えに対しては一行半句も書いてありませんでした。
順宮厚子内親王のお里として宮内庁の役人がかれこれ申さば内政干渉だなどと言われますゆえこれ以上は何も申されませぬが、あの動物園に ついて批難せぬ者は絶無と申してもよろしく、先日山陽新聞社社長谷口久吉に聞きましても非常に批難をいたしております。
岡山市長横山昊太も旧池田藩士で岡田在住のしっかりした人が一人欲しいとしきりに申しておりました。
岡山県知事三木行治は動物園攻撃には弁護に立つようなこともしてくれますが、本心はやはり池田家があれをされることには反対らしく、まあ一番同情ある反対で一番公平な立場を取っているのではないかと存じられ、知事らはあの有様では経済上の実体 誰が金を出しているのか、日々の観覧者で現金が入りますが、果たしてどういう計算かわかりませんので、使用人には給料の支払遅延があるとも申します。
いずれにしましてもはっきりさせるために株式会社にして、隆政氏をその社長にして、その月給の形でただいまの個人経営の利益のある所を得られるようにでも仕組むのではないかと思っております。
あるいは市営に移りますかでありますが、とにかく天子様の婿殿が遊ばす品位のある仕事でありませんことは確信をいたします。
牛・羊・鶏等本当の牧畜業でお損をなすっても恥ずかしいことではなく、こんな興行物のようなことで儲かりましてもあまりいい話ではありませんぬ。
先日北海道の土地のことをご進講申し上げました町村敬貴なども動物園のようなことをなさるなら羊や牛や鶏のことなら拝見して何か御来庁になることを申し上げてもと思ったがやめたと申しておりましたような次第で、動物園については誰一人賛成するものはないようでございます。
隆政さんは活動的で少し焦りすぎる点はありますが、まあ若いからと致しまして、池田宣政氏〔隆政の父〕は実につまらぬ人間のようで、当時式部官長松平康昌や侍従入江相政などの話に聞きました以上につまらぬ人間で、これは構うことは要りませんが、これが隆政さんの方の邪魔にならぬようせねばならぬと思います。
池田家の顧問でありました陸軍大将宇垣一成も宣政氏の態度に憤って辞めましたらしく、元内閣秘書官長杉田大三郎は池田家の学資で修学した人でありますが、これも今は池田家の相談人を辞しておりますような訳で、東京と岡山とではいかんともしがたく、ただ警戒しつつ静観するより他はないと存じます。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従
1959年4月13日
侍従次長稲田周一と岡山のことをいろいろ話す。
池田さんの方〔順宮厚子内親王の夫池田隆政〕の問題だということになる。
侍従徳川義寛に話すと、必ずしもそうでもないらしい。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従
1965年5月1日
池田隆政さん〔順宮厚子内親王の夫〕の会社が具合が悪く、5月いっぱいは保つだろうが8千万円の赤字はなんともならないとのこと。
1965年5月28日
宮内庁長官宇佐美毅と岡山の池田隆政さんの経営潰滅のこと。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長
1971年2月4日
宇佐美長官から、岡山の池田隆政さん〔順宮厚子内親王の夫〕の事業はいよいよ駄目とのこと。
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