◆13代 上杉斉憲  12代上杉斉定の子
1820-1889


■前妻 山内貞子  高知藩主山内豊資の娘
1821-1847


■後妻 松平郁子  高松藩主松平頼恕の娘
1828-1862


●庶子 上杉茂憲  14代当主
●実子 上杉信謹  吉井藩主吉井信謹となる
●庶子 上杉勝賢  上杉勝賢子爵となる
●実子 上杉忠敬  松平忠敬子爵となる
●庶子 上杉熊松  敦賀藩主酒井忠経の娘酒井定子と結婚
●実子 上杉長裕  丹羽長裕子爵となる
●庶子 上杉長保  丹羽長保子爵となる


●庶子 上杉栄子  結婚3回
人吉藩主相良為知→飛鳥井雅望伯爵→山内豊範侯爵
●庶子 上杉猷子  池田政礼子爵と結婚
●庶子 上杉純子  小笠原忠忱伯爵と結婚
●庶子 上杉千鶴子 細川立興子爵と結婚


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◆14代 上杉茂憲 13代斉憲の子 最後の藩主
1844-1919 75歳没


■1番目の妻 松平幸子 高須藩主松平義建の娘
1845-1872 27歳没


■2番目の妻 竹股猶子 竹股権平の娘



■3番目の妻 松平敏子 岩村藩主松平乗喬の娘
1852年生


■4番目の妻 伊藤兼子 士族伊藤清久の娘


●男子 上杉憲章 15代当主
●男子 上杉勝憲 上杉勝憲子爵となる
●男子 上杉近憲 大給近憲子爵となる

●女子 上杉覚子 池田勝吉男爵と結婚
●女子 上杉重子 山内豊景侯爵と婚約解消・高辻宜麿子爵と結婚
●女子 上杉琉子 松平直幹子爵と結婚
●女子 上杉久子 亀井慈常伯爵と結婚
●女子 上杉直子 経済哲学者左右田喜一郎と結婚
●女子 上杉大子 林安男爵と結婚


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池田覚子の孫 鮫島純子 財閥渋沢正雄の娘・鮫島員重男爵の妻   

母方の祖母覚子は上杉茂憲伯爵の長女で、16歳の時手毬を持って〔池田勝吉男爵に〕嫁がれました。
4人の子供を生んだ後は側室にバトンを渡さざるを得なかったようですが、夫が次々と側室を作り、同じ屋根の下で内縁の女性や13人もの庶子と暮らす理不尽さを、次女である母は見るに見かねたのでしょう。
自分の元に引き取りました。
母の気持ちを理解して、父は義母に憩いの部屋を提供していました。

祖母がイキイキと楽しそうに孫や娘を同伴してゆく先は、実家上杉伯爵邸でした。
祖母の兄弟姉妹は9人。上杉家の家紋が竹に雀なので、この集まりを「九雀会」
次の世代の子や孫も招待する時は「小雀会」と区別していたようです。
和船での江の島巡りや一宮ぶどう狩りのバスツアーなど当時としてはユニーク企画もあり、本当に仲の良い御兄弟でした。
珍しく楽しそうな晴れやかな実家での祖母の顔を見るのは、私たちにとってもうれしいことでした。
上杉家は私にとって、大名家の雰囲気を味わうに充分な楽しい場所でした。
ただひとつお客用のトイレが二畳敷きの畳に黒漆塗唐草模様の金蒔絵の金隠しで、とても恐れ多くて用が足しづらかった記憶が残っております。

いかにも穏やかな品の良い殿様は祖母の兄上で、静かにおっとりお構えですべて奥方と召使いにお任せのようでした。
殿様の前妻の方は鷹司公爵家から来られ、3人の美男美女の御子様に恵まれましたのに最期のお産で亡くなられました。
私が伺う頃は、後添えとして実業家の近藤廉平氏の三女の方が奥様になっておられました。
海外婦人協会会長という肩書をお持ちでしたが、外での御活躍を感じさせない物静かな微笑みを絶やさないおもてなしでした。
それはそれはいろいろ趣向を凝らして、子供たちをも細やかなお気遣いで楽しませてくださいました。
絹のお召し物の裾を長めにお引きずりにお召しの奥方が、召使いがいるとはいえよくあの大人数の御馳走と趣向を凝らした余興の用意をしてくださったものでございます。

祖母は祖父が他界する1年前の昭和15年に、胃ガンのため亡くなりました。
我慢強い性格と、これ以上厄介をかけたくないという気持ちからでしょう。
胃が痛むたびに赤い缶の「ホシ胃腸薬」を飲んで何事もない顔をして暮らしていましたが、吐血、即入院、5日も経たないうちに亡くなりました。
泣き言ひとつ言わず、婿に感謝しつつ、凛とした一生を終えました。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

<上杉重子&山内豊景侯爵の婚約解消>

*山内豊景侯爵は上杉茂憲伯爵の娘重子と婚約していたが、
伏見宮貞愛親王から大正天皇との婚約が解消となった娘禎子女王を押し付けられて繁子との婚約を解消、
重子は高辻宜麿子爵と結婚する。

〔大正天皇との婚約が解消になって〕困ったのは伏見宮家である。
貞愛親王・禎子女王御自身の心情はもちろんのこと、宮家としてもなんとなく傷がついた感じである。
それでなるたけ早く姫君は嫁がせた方がよかろうということになり、いろいろと相手の男子を物色されていたのである。
ある時宮中で宴会があって、大勢の華族たちが御陪食にあずかった。
伏見宮は大尉の軍服を着た若い山内侯爵獅子の姿を目に止められた。
やせぎすではあるが、どこかキリッとしていかにも頼もしい好青年士官である。
そこで伏見宮はさっそく近づいていかれて、
「どうだ、君はまだ独身だろう?」とお尋ねになった。
そこで山内大尉が事実を明白にすればよかったのであるが、
ついうかうかと「はい、さようでございます」と言ってしまったのである。
「それではどうだね。ワシの娘を嫁にもらってはくれまいか」と直談判を始められた。
それでもなお山内大尉にもう少し勇気があればよかったのであるが、なにぶんにも伏見宮からの直々の御談判である。
若い大尉がすっかりあがってしまったことも想像に難くない。
「はい」と答えてしまって、その自分の言葉の重大さに気がついた時にはもう遅かった。
「それではよろしくお頼みしますよ」
伏見宮はようやく心の重荷が下りたといったようにご満足気に笑われた。
おそらく帰途についた山内大尉の気持ちは複雑であり、さすがに若くて元気のある青年士官も意気消沈したことであろうと思われた。
と言うのは、その時山内大尉は確かにまだ独身だったことには違いなかったが、すでに上杉伯爵家の娘と婚約が成立していたからである。
若い大尉はその日邸に帰るとすぐ、一家をあげて評議したであろう。
ところが相手がなにぶんにも伏見宮である。
いったん承知してしまったことを覆すということはいかにもできにくい。
一家がどういう結末をつけたかは、その後間もなく山内家と上杉家との婚約が破談になったということが伝わって明白となった。

このことで最も打撃を受けたのは、言うまでもなく上杉伯爵家の娘であったろう。
乙女の純情はみじんに砕かれた。
彼女はその後何事もなかったかのように、高辻子爵と結婚した。
高辻子爵は公卿華族で、大正時代には東宮侍従をやった人物である。
小柄ないかにも温厚な人物で、家庭では寛大なよき主人であることがうかがえた。
また高辻家は公卿華族としては比較的資産にも恵まれており、それ相応の生活をしていた。
夫人との間には子供もあり、長女は音楽学校に入っていた。
そうした表面だけを見れば、高辻家にはどこにも不満や家庭的な破綻を生じる余地がないように見えた。
夫人は中年以降にもその若き日の美貌と怜悧とがいまだに物を言っている風で、年に似合わず夫人の周囲にはいつも華やいだ雰囲気が漂っていた。
高辻子爵夫人の晩年には、とかく自暴自棄の行動が多かった。
中年を過ぎた高辻夫人の乱行を思い浮かべて、女の業の深さに暗澹とした気持ちを抱いたのであった。
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◆15代 上杉憲章 14代茂憲の子
1876-1953  77歳没


■前妻 鷹司房子 鷹司熙通公爵の娘・死別
1887-1918 31歳没


■後妻 近藤貴子 近藤廉平男爵の娘
1887-1967 80歳没


●男子 上杉隆憲 16代当主
●男子 上杉昭雄 上杉勝昭子爵となる

●女子 上杉敬子 真田幸正伯爵の子真田幸尚と結婚・内山英太郎と再婚


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佐々木高行『かざしの桜』明治天皇の娘昌子内親王・房子内親王の御養育係

*鷹司房子は大正天皇のお妃候補となったことがあった

1899年4月8日
※前宮内大臣土方久元の発言

徳川慶喜娘国子は人物よろしき趣きにつき、先日大山巌らと学校へ模様を見に行きたり。なにぶん体格至少にていかがかと考えたれども、人物よろしき趣きにつき、なお体質を検査致せさせ方、これは伏見宮禎子女王〔大正天皇の婚約者に内定していたが、肺病の疑いありとして取消になった〕より一層悪しきと申すことにて致し方なく取り消したり。
久邇宮純子女王は天皇に思召しあらせられ難しい。
北白川宮女王は御体質よろしからず。
一条経子は人柄よろしからず。
華族女学校にて各教師も見込みなしと言う。
鷹司房子は弱体にてすでに当御殿にも参殿せぬくらい。
毛利万子はよろしき趣きなれども、薩長二藩閥うんぬんにて人心に関しおる時に向来の皇后宮まで長とか薩とかにてはしかるべからず。
九条節子は体質は丈夫にて悪心はこれ無し。
もやは致し方なく、まずもって七分通り節子と申すことに相成りおり候。
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『木戸幸一日記』内大臣※当時は宗秩寮総裁

<上杉憲章の宗教問題>

1934年12月10日
今泉国太郎氏来庁。
上杉憲章伯爵の大本教につき話を聴く。

1934年12月24日
上杉憲章伯爵と面談、伯爵の信仰につき注意を促す。

1936年5月14日
今泉氏来庁。
上杉憲章伯爵の件につき、その後の状況を聴く。

1936年7月20日
中島鉄蔵武官来室。
上杉憲章伯爵隠居の件につき相談ありたり。

1936年7月22日
中島武官と上杉憲章伯爵の件につき再び懇談す。

1936年8月15日
上杉伯爵家の今泉氏来庁。
伯爵家家範改正・上杉憲章伯爵信仰の問題につき懇談す。
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◆16代 上杉隆憲 15代憲章の子
1917年生


■妻  徳川敏子 徳川家正公爵の娘
1918年生


●男子 上杉邦憲 17代当主
●男子 上杉隆治 高橋博子と結婚

●女子 上杉統子 筧元成と結婚
●女子 上杉絢子 山中信六と結婚


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◆17代 上杉邦憲 16代隆憲の子
1943年生


■妻  奥紀美子 奥重造の娘
1946年生


●長男
●長女