◆34代 宗義和 33代宗義章の弟/32代宗義質の子
1818-1890
1879年 63歳
■妻 浅野嘉代 広島藩主浅野斉賢の娘
1822-1890
●男子 宗重正 35代当主
●男子 宗和徳 原和徳になる
●男子 宗和豊 井上和豊になる
●男子 宗和志 黒田和志子爵となる
●男子 宗和一 佐賀和一になる
●男子 宗定 仁位定になる
●男子 宗和東 杉村和東になる
●女子 宗植子 松平信正子爵と結婚
●女子 宗和子 九条道孝公爵と結婚
●女子 宗宝子 難波宗礼公家と結婚
=========================
◆35代 宗義達/重正 34代義和の子 最後の藩主
1847-1902
1879年 34歳
■妻 鍋島綱子 蓮池藩主鍋島直与の娘
1851-1891
●男子 宗重望 36代当主
●男子 宗正誼 氏家正誼となる
●女子 宗全子 松平武修子爵と結婚
●女子 宗績子 酒井忠道伯爵と結婚
=========================
◆36代 宗重望 35代義達の子
1867-1923
1879年 14歳
■妻 松園尚子 松園尚嘉男爵の娘
1873-1923
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『侯爵徳川義親の日記』
※徳川義親は「理財の殿様」と呼ばれ、困窮した多くの華族家の財産整理を手助けした
重望伯爵は近来とかく病気がちで財政難に陥り、全部の収入を各債権者に渡して、かろうじて一家の生計立ち来り。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
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◆37代 宗武志 36代重望のイトコ/子爵黒田和志の子・養子になる
1908-1985

■前妻 李徳恵 大韓帝国皇帝高宗の娘・李垠王の妹・離婚
1912-1989
1927年
韓国にて 左:義姉李方子 右:徳恵
■後妻 勝村欣永 勝村繁の娘
1931年生
●前妻の子 宗正恵 行方不明のまま死亡認定
●後妻の子 長男
●後妻の子 二男
●後妻の子 二女
●宗正恵
*23歳の時に大学時代に知り合った26歳の中学の英語教師の男性と恋愛結婚したが、
翌年遺書を残して失踪、生死不明のまま死亡と認定された。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
徳恵の義姉 李方子 梨本宮守正王の娘・李垠王の妻
夏休みには私が付き添って伊香保に避暑されていましたが、秋になって学校が始まっても、行きたくないと終日床につかれて食事にも出ようとされません。
夜は強度の不眠症で、時には突然外に飛び出され、驚いてお探しすると、裏門から赤坂見附の方へ歩いておられたりということもあったので、ただごとではないと精神科の先生に来診をお願いし、看護婦もお付きして当分は大磯の別荘で静養されることになりました。
もともと内気な方だったとはいえ、私などには明るく希望に満ちたお話しぶりで、将来は学校の先生になって、と御利発なお言葉を頼もしく伺っていたのに、今は鬱々として床についておられるばかりなのです。
「早く元気におなり遊ばして…」とベッドの枕辺にひざまづいて幾度となく涙を流してお話ししましたが、受け答えもなく、ついに早発性痴呆症と診断されました。
ところが昭和6年を迎えて徳恵様はだいぶ落ち着かれ、お食事も進んでお話しも少しは調子良く話されるようになったため、宗伯爵との御縁談も順調に進んで5月8日には御結婚式が挙げられることになりました。
この日の早いことを誰よりも望んでいた殿下〔李垠王〕と私であったとはいえ、また小康を得られたとはいいながら白い洋装のお姿が何かしらおいたわしい思いがして、そっと涙をぬぐったことでした。
再発への心配と、朝鮮の血を無理矢理日本の血の中へ同化させてしまおうとする当局の意図への反発も、秘かに感じていた私でした。
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平山為太郎の日記 宗武志の教育係
1931年11月3日
午前10時、伯爵〔宗武志〕に伺候し、古森氏・斎藤家令・伯爵と4人、絵画の談および蘭の培養等につき長時間談話をなす。
その時に徳恵夫人も突然来席あり。挨拶を述べしも、一言の言葉なく答礼ありしのみ。
そして絶えず声を出して失笑せらるること数次、真に病的の挙動なり。
伯爵の御胸中果たして如何、嘆息の至りなり。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
中村国枝の証言 昭和13年から昭和15年まで宗伯爵家に勤めた
*対馬の小学校時代、宗武志の担任を務めた米田隆太の娘
その縁で女学校卒業後、上京して宗伯爵家に勤める
私は正恵さんのお勉強やお遊びのお相手をするのが第一の仕事で、他にお掃除や縫い物などもいたしました。
正恵さんは当時小学校の1年ぐらいでしたが、細くて弱い体のお子さんで、御養生のために湯河原の温泉へお供したこともあります。
学習院の送り迎えにもお供いたしました。父兄会に私が代理で出席したこともありました。
当時の宗家には十数人の人が働いていたでしょうか。
私達は御当主を「伯爵様」とお呼びし、徳恵様のことを「御前様」とお呼びしていました。
伯爵様は週に何回かは千葉の方へ講義にお出かけで、遠いので夜遅くなられることもありました。
広い洋間の書斎があって、よく書き物などをしておられました。
伯爵様がお風呂に入って大きなお声で『この道』を歌っておられたのを覚えています。
とてもいいお声でした。
一度、伯爵様とピンポンをしたことがありましたが、あれは応接間だったかしら…。
徳恵様のお世話はミヨさんと和田さんの二人が主にしていました。
お召し物は洋服のことも和服のこともありました。
具合の良くない時、御寝巻にガウンをかえけたお姿も多かったようです。
お身体の華奢な、手も本当にほっそりとしてきれいな方でした。
時々2階から、誰も相手がいないのに笑う声が聞こえることもありました。
時たま2階から正恵さんの部屋に降りてきて、椅子にじっと座っていらっしゃることもありました。
そんな時 何もおっしゃらないのですが、お名前をお尋ねすると漢字で「徳恵」とお書きになります。
「お子様は何とおっしゃいますか」と聞くと「正恵」とお書きになりました。
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明治41年 1908
宗武志誕生
大正01年 1912
徳恵誕生
大正08年 1919 徳恵07歳
徳恵の父死去
大正14年 1925 徳恵13歳
徳恵来日
昭和04年 1929 徳恵17歳
徳恵の母死去
昭和05年 1930 武志22歳 徳恵18歳
李垠・方子・徳恵、完成した李王家新邸へ転居、「早発性痴呆症」と診断される
武志と徳恵初対面
昭和06年 1931 武志23歳 徳恵19歳
武志と徳恵結婚
昭和07年 1932 武志24歳 徳恵20歳
正恵誕生
昭和21年 1946 武志38歳 徳恵34歳 正恵14
徳恵精神病院へ入院
昭和30年 1955 武志47歳 徳恵43歳 正恵23歳
正恵結婚
武志と徳恵離婚
武志再婚
昭和31年 1956 武志48歳 徳恵43歳 正恵24歳
正恵失踪、生死不明のまま死亡認定
昭和37年 1962 武志54歳 徳恵50歳
徳恵韓国に帰国
昭和60年 1985 武志 死去 77歳
平成01年 1989 徳恵 死去 76歳
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1818-1890
1879年 63歳
■妻 浅野嘉代 広島藩主浅野斉賢の娘
1822-1890
●男子 宗重正 35代当主
●男子 宗和徳 原和徳になる
●男子 宗和豊 井上和豊になる
●男子 宗和志 黒田和志子爵となる
●男子 宗和一 佐賀和一になる
●男子 宗定 仁位定になる
●男子 宗和東 杉村和東になる
●女子 宗植子 松平信正子爵と結婚
●女子 宗和子 九条道孝公爵と結婚
●女子 宗宝子 難波宗礼公家と結婚
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◆35代 宗義達/重正 34代義和の子 最後の藩主
1847-1902
1879年 34歳
■妻 鍋島綱子 蓮池藩主鍋島直与の娘
1851-1891
●男子 宗重望 36代当主
●男子 宗正誼 氏家正誼となる
●女子 宗全子 松平武修子爵と結婚
●女子 宗績子 酒井忠道伯爵と結婚
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◆36代 宗重望 35代義達の子
1867-1923
1879年 14歳
■妻 松園尚子 松園尚嘉男爵の娘
1873-1923
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『侯爵徳川義親の日記』
※徳川義親は「理財の殿様」と呼ばれ、困窮した多くの華族家の財産整理を手助けした
重望伯爵は近来とかく病気がちで財政難に陥り、全部の収入を各債権者に渡して、かろうじて一家の生計立ち来り。
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◆37代 宗武志 36代重望のイトコ/子爵黒田和志の子・養子になる
1908-1985

■前妻 李徳恵 大韓帝国皇帝高宗の娘・李垠王の妹・離婚
1912-1989
1927年
韓国にて 左:義姉李方子 右:徳恵
■後妻 勝村欣永 勝村繁の娘
1931年生
●前妻の子 宗正恵 行方不明のまま死亡認定
●後妻の子 長男
●後妻の子 二男
●後妻の子 二女
●宗正恵
*23歳の時に大学時代に知り合った26歳の中学の英語教師の男性と恋愛結婚したが、
翌年遺書を残して失踪、生死不明のまま死亡と認定された。
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徳恵の義姉 李方子 梨本宮守正王の娘・李垠王の妻
夏休みには私が付き添って伊香保に避暑されていましたが、秋になって学校が始まっても、行きたくないと終日床につかれて食事にも出ようとされません。
夜は強度の不眠症で、時には突然外に飛び出され、驚いてお探しすると、裏門から赤坂見附の方へ歩いておられたりということもあったので、ただごとではないと精神科の先生に来診をお願いし、看護婦もお付きして当分は大磯の別荘で静養されることになりました。
もともと内気な方だったとはいえ、私などには明るく希望に満ちたお話しぶりで、将来は学校の先生になって、と御利発なお言葉を頼もしく伺っていたのに、今は鬱々として床についておられるばかりなのです。
「早く元気におなり遊ばして…」とベッドの枕辺にひざまづいて幾度となく涙を流してお話ししましたが、受け答えもなく、ついに早発性痴呆症と診断されました。
ところが昭和6年を迎えて徳恵様はだいぶ落ち着かれ、お食事も進んでお話しも少しは調子良く話されるようになったため、宗伯爵との御縁談も順調に進んで5月8日には御結婚式が挙げられることになりました。
この日の早いことを誰よりも望んでいた殿下〔李垠王〕と私であったとはいえ、また小康を得られたとはいいながら白い洋装のお姿が何かしらおいたわしい思いがして、そっと涙をぬぐったことでした。
再発への心配と、朝鮮の血を無理矢理日本の血の中へ同化させてしまおうとする当局の意図への反発も、秘かに感じていた私でした。
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平山為太郎の日記 宗武志の教育係
1931年11月3日
午前10時、伯爵〔宗武志〕に伺候し、古森氏・斎藤家令・伯爵と4人、絵画の談および蘭の培養等につき長時間談話をなす。
その時に徳恵夫人も突然来席あり。挨拶を述べしも、一言の言葉なく答礼ありしのみ。
そして絶えず声を出して失笑せらるること数次、真に病的の挙動なり。
伯爵の御胸中果たして如何、嘆息の至りなり。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
中村国枝の証言 昭和13年から昭和15年まで宗伯爵家に勤めた
*対馬の小学校時代、宗武志の担任を務めた米田隆太の娘
その縁で女学校卒業後、上京して宗伯爵家に勤める
私は正恵さんのお勉強やお遊びのお相手をするのが第一の仕事で、他にお掃除や縫い物などもいたしました。
正恵さんは当時小学校の1年ぐらいでしたが、細くて弱い体のお子さんで、御養生のために湯河原の温泉へお供したこともあります。
学習院の送り迎えにもお供いたしました。父兄会に私が代理で出席したこともありました。
当時の宗家には十数人の人が働いていたでしょうか。
私達は御当主を「伯爵様」とお呼びし、徳恵様のことを「御前様」とお呼びしていました。
伯爵様は週に何回かは千葉の方へ講義にお出かけで、遠いので夜遅くなられることもありました。
広い洋間の書斎があって、よく書き物などをしておられました。
伯爵様がお風呂に入って大きなお声で『この道』を歌っておられたのを覚えています。
とてもいいお声でした。
一度、伯爵様とピンポンをしたことがありましたが、あれは応接間だったかしら…。
徳恵様のお世話はミヨさんと和田さんの二人が主にしていました。
お召し物は洋服のことも和服のこともありました。
具合の良くない時、御寝巻にガウンをかえけたお姿も多かったようです。
お身体の華奢な、手も本当にほっそりとしてきれいな方でした。
時々2階から、誰も相手がいないのに笑う声が聞こえることもありました。
時たま2階から正恵さんの部屋に降りてきて、椅子にじっと座っていらっしゃることもありました。
そんな時 何もおっしゃらないのですが、お名前をお尋ねすると漢字で「徳恵」とお書きになります。
「お子様は何とおっしゃいますか」と聞くと「正恵」とお書きになりました。
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明治41年 1908
宗武志誕生
大正01年 1912
徳恵誕生
大正08年 1919 徳恵07歳
徳恵の父死去
大正14年 1925 徳恵13歳
徳恵来日
昭和04年 1929 徳恵17歳
徳恵の母死去
昭和05年 1930 武志22歳 徳恵18歳
李垠・方子・徳恵、完成した李王家新邸へ転居、「早発性痴呆症」と診断される
武志と徳恵初対面
昭和06年 1931 武志23歳 徳恵19歳
武志と徳恵結婚
昭和07年 1932 武志24歳 徳恵20歳
正恵誕生
昭和21年 1946 武志38歳 徳恵34歳 正恵14
徳恵精神病院へ入院
昭和30年 1955 武志47歳 徳恵43歳 正恵23歳
正恵結婚
武志と徳恵離婚
武志再婚
昭和31年 1956 武志48歳 徳恵43歳 正恵24歳
正恵失踪、生死不明のまま死亡認定
昭和37年 1962 武志54歳 徳恵50歳
徳恵韓国に帰国
昭和60年 1985 武志 死去 77歳
平成01年 1989 徳恵 死去 76歳
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