■東京邸 港区南青山 6,729坪
■東京邸 港区三田 1,718坪
■軽井沢別邸「離山荘」22万坪
■葉山別邸「長雲閣」500坪
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆初代公爵 桂太郎 総理大臣 「明治陸軍の三羽烏」の一人 「ニコポン宰相」
1848-1913 65歳没
*身長158センチ・体重67.5キロ・脳重量1,600グラム
*ニコニコ笑いながら相手の背中をポンと叩き、後は頼んだという態度から「ニコポン首相」のあだ名がついた
*胃ガンと診断され、体重は3ヶ月で15キロも減り、死亡
■1番目の妻 斉藤氏 斉藤次郎右衛門の娘・1870年結婚・のちに離婚
■2番目の妻 小田切氏 小田切仲太郎の娘・1874年木戸孝允の紹介で結婚・のちに離婚
■3番目の妻 野田歌子 野田時習の娘・クリスチャン・死別
1857-1886
■4番目の妻 宍道貞子 宍道恒樹の娘・前妻歌子の兄野田時敏の未亡人・クリスチャン・死別
1890年没
■5番目の妻 不明 死別
■6番目の妻 可那子 名古屋の酌婦〈お花〉27歳年下
1875-1940 65歳没
★妾 安藤照子 芸者〈お鯉〉
1880-1948 68歳没
27歳
●歌子の子 桂与一 1882年生 →子は2代当主桂広太郎
●貞子の子 桂三郎 1887年生 井上三郎侯爵となる
●実子 桂四郎 1893年生
●実子 桂五郎 1895年生
●実子 桂新七 1899年生 石部泰蔵の養女石部復子と結婚
●歌子の子 桂蝶子 1880年生 陸軍国光侃と結婚・医者長雄勝馬と再婚
●歌子の子 桂茂子 1883年生 陸軍尾寺勝三と死別・旭石油社長長崎英造と再婚
●貞子の子 桂潔子 1888年生 衆議院議員長島隆二と結婚
●実娘 桂寿満子 1897年生 伊藤文吉男爵と結婚
●庶女 桂輝子 1891年生 官僚天岡直嘉と結婚
●庶女 桂露子/真佐子 学者中村銀作と結婚
●庶女 桂勝子 一時は芸者になり武谷成直と結婚
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『明治大臣の夫人』明治36年出版
桂太郎公爵は妻には縁の薄い男と見える。
最初の夫人はなぜか離縁をなし、その次の夫人は5~6人の子供を遺して帰らぬ旅に行かれ、3度目の夫人は前夫人の兄が未亡人で桂公爵はこの未亡人を迎えて後室とせられたが、これも不運なことには亡くなってしまった。
4度目には素晴らしい美人を貰い受け、いざ安心と思う間もなくまたもや先立って死なれた。
現夫人は前後数えて5回目の妻で、かつて桂公爵が第三師団長に任ぜられ名古屋に赴いた折、最初のほどは真面目くさっていたものの、こればかりは辛抱しきれなかったとみえて花柳の巷に車馬を馳せると、いつしか御目にとまったのが土地に名高い香雪軒の〈お花〉と呼ぶ愛嬌のある娘であったとか。
さてこのお花が身分は何かと調べてみたら桶屋の一人娘、故あって香雪軒に貰われ日々毎日万客の御機嫌を伺うのを常々の勤めとしていた。
立てば芍薬座れば牡丹なんともかとも申しようなき美形、土地の鼻下長連は先を争って香雪軒に乗り込む始末に、肝心の料理はさておきお花の磁石力は毎夜多くの客を満たし思いもよらぬ繁盛を致した。
公爵も美形のお花に接してからは何となく可哀想なヘンテコな気が起こって時々香雪軒に車馬を停めたが、とうとうお花と桂公爵との間に同盟条約が締結され、ついに今日の公爵夫人が出来上がったのである。
そんな訳で10年前のお花が実家は見るも気の毒な侘住まいであったが、今日この頃は打って変った境遇、贅沢三昧に世を送るのは実に幸せなものである。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
万朝報 1898年
越中島機械製造所長沢田仁作はかつて新橋区日吉町の芸妓新津の国屋〆子こと柴田スズ(23)について陸軍大臣桂太郎と激烈なる競争をなし、その結果大金を与えてこれを妾とし、いまなお芸妓稼業をなさしむ。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
宮武外骨『地獄耳』1918年
元来徳富蘇峰はあまりに欲が深すぎるので、ついに長閥からお払い箱になったのです。
先年『政治家としての桂公』という本を書いた時も、桂太郎公爵未亡人かな子からさんざん金銭を巻き上げてそのヘソクリを空にしたため、ついに後家さんも起り出して桂公爵家には出入りの出来ぬようになっております。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は枢密顧問官
1924年7月2日
※宮内官僚酒巻芳男の発言
黒田清輝病気重体なり。
清輝には正妻なく、妾を正妻と為す事の希望あり。
宮内大臣牧野伸顕より相談ありたるゆえ、
「宗秩寮としては聞き届けらるる事は望まず。先例は二様になりおり。これを許す方の先例は桂太郎の妻可那子は井上馨の養女と為りて結婚を許可されおり、これを聞き届けざる例も最近にあり」との事を告げたるに、
宮内大臣は「これを拒む旨を告げ置くべし」と言いたり。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『明治大正名妓物語』1929年
浜の家女将お花←芸者小浜
そういう具合で世の中がドサクサしているうちに、天子様が江戸へ行幸なさいましてね。
私たちは芝口の青柳の前で、天子様をお迎え申し上げたのです。
4~5日経つと木挽町の〈酔月〉に呼ばれました。
お座敷へ出て見ると木戸孝允さんがいらっしゃって、木戸さんのそばに小さくなってたのが桂太郎さんでさ。
「俺も木戸と名を変えたがね、この者に桂を継がせたのだ」ってお引き合せ下さいましたが、桂さんは私と同年ですから二十歳ぐらいでしたろう。
馬鹿に可愛い坊ちゃんでね。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
安藤照子 桂太郎の妾・芸者〈お鯉〉
1880-1948 68歳没
14歳で新橋の芸者になり、1899年歌舞伎役者の市村羽左衛門に見初められて結婚するが1902年離婚、新橋に舞い戻る。
山県有朋の紹介で桂太郎の妾となる。
桂と死別後、1918年銀座にカフェー〈ナショナル〉を開くが1923年関東大震災で焼失、赤坂に待合〈鯉住〉を開くが1934年帝人事件に巻き込まれ偽証罪で執行猶予3年の判決を受ける。
頭山満の勧めで1938年仏門に帰依し、目黒羅漢寺の尼僧として生涯を閉じた。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
1927年『お鯉物語』安藤照子・芸者お鯉・15代目市村羽左衛門と離婚・首相桂太郎の妾
日露戦争勃発、時の内閣は第一次の桂太郎内閣。
元来桂公爵は軍事と政治の他に別段これという道楽の持ち合せがなかった。
「なにか気分転換に役立つものはなかろうか」
当時の元老・大臣らが一様に思い悩んだのがこれであった。
最も心配したのは山県有朋公爵で、世間では厳格そのもののように見なされていたが、山県公爵はあれでなかなか行き届いた粋なお人であった。
お鯉は最初芸者に出た時から山県公爵には一方ならぬ御贔屓を被っている。
ある日のこと、山県公爵のお座敷で、浜町の常盤家に召された。
席には山県公爵と桂公爵のみである。
山県公爵は桂公爵にお鯉のことを話される。
「これがお役者さんに嫁に行って出されてきたお鯉だよ。贔屓にして呼んでやれ」
「山県の御前さんはいつでもそうおっしゃるのですが、どうしてもお百姓さんと聞こえるので嫌でございますわ」
「ほう、お役者がお百姓か。面白いな」
桂公爵は愛嬌よく笑って、相槌を打たれた。
それからまもなくのことである。
また常盤家のお越しの山県公爵は女中頭のおきよに
「どうだ、桂にはこれという決まった芸者はないのか」
「ええ、本当にないんです」
「そうか、それでは困るね。なんとかしてみっともなくないのを決めて世話をして置きたいと思うがな。おきよ、おぬしお鯉を世話してやれよ」
由来、常盤家では客に芸者の世話をしないのを一見識としていた。
井上馨公爵が別荘に桂公爵・児玉源太郎伯爵らを招待した。
料理は常盤家、おきよが出張して采配をふるう。
新橋の芸者たちもいる。
お鯉もその席にいた。
宴もたけなわ、おきよは桂公爵の前に陣取る。
「桂の御前さん、あなたは今ロシアを相手に難しい談判をしてらっしゃるんでしょう。それだのに女の一人ぐらいなんです。直談判なさるがいいじゃありませんか」
児玉伯爵もそばから声援する。
「それがよかろう。場所は四畳半では小さくて面白うないぞ。庭の藤棚の下がいい。あそこには鯉がいるからね」
「どうだ。嫌なのかね」
時は白昼、色恋の掛け合いもこう真正面から切り出されると、さすがのお鯉も冗談にして外すわけにもいかない。
「嫌と申すわけではありませんが、あなた方は伊藤博文の御前をはじめとして人をオモチャになさるから嫌です。いくら芸者でも一人前の人間ですからね、生涯のことを考えてくださるんでなければ御免こうむります」
「よし、わかった。面白いことを言うね。それは確かに承知した」
離れの二階の出窓から顛末を眺めていた児玉伯爵は上から大声を浴びせる。
「おい、桂、どうだった。クロパトキンと条約できたか」
「うむ、クロパトキンを生け捕ったよ」
児玉伯爵は桂公爵の談判首尾よく成立したとの報告に満足して、
「さてここまではこの児玉が参謀じゃが、これから先の粋なことは井上侯爵が適任じゃ」
ここで参謀長交替となる。
その後の桂公爵とお鯉の姿は、十日に一度ぐらい新橋界隈で見かけられた。
たまにお座敷に見えても、多くが山県公爵や井上侯爵と一緒である。
お鯉が顔を出すと、「お鯉、どうかね。よく桂を慰めてやってくれよ」
両人、決まってこうおっしゃる。
ある日いくつかのお座敷を回った後、お約束のお座敷に顔を出すと、「お鯉さん、お前さんにそっくりという評判の女が洲崎にいるというので、それを見に行こうと本物が来るのを待ってたところだ」
評判の女は洲崎大八幡の花魁で、お鯉に生き写しというので、わざわざ見に行く物好きが多いという。
「私はこの後に瓢屋の約束があるのですが」
「なに、大急ぎで行ってきたら間に合わないことはないさ」
そこからお客さんを先頭に芸者・幇間、人力車を連ねて洲崎へ飛ばす。
登楼して呼んでみると、一同は物珍しそうに両人を見比べていろいろな評が出る。
そのうち段々時刻が移る。
夜はもう10時を過ぎていた。
瓢屋の二階では井上侯爵が脇息にもたれて清元を聞いていたが、お鯉の姿を見るやいなや「馬鹿ッ!」霹靂の一声、御落雷。
「どこに行ってた。なに、洲崎。洲崎とは何だ。馬鹿ッ!もう桂は帰る時刻になっているのじゃ。早く下の座敷へ行けッ!」
下の座敷に入ると、桂公爵は泰然と座を構えていた。
時に現れたのが世話好きの大通人平岡凞大尽、いっそお鯉を買い切って置くがよろしいということになった。
買い切りにすると一日のお約束が一つの計算であるから、1カ月170円ぐらいにしかならない。
そのころのお鯉はたいてい1カ月300円以上の収入があったので割に合わない話だった。
そして朝の9時から夜の9時まで瓢屋の平岡大尽の御座敷に詰め切って、ただ座っているのである。
平岡大尽は芸者を集めて毎日毎日飽きもせずに遊んでいるので、お鯉もその中に座らされて1日3円の御祝儀をいただくのである。
1週に1度か10日に1度桂公爵が見えるほかは、毎日ただこうして座っている。
そして夜の9時になると、平岡大尽がお鯉の自宅まで送ってくれる。
決して楽な仕事ではなかった。
日露戦争の進行につれて総理大臣たる桂公爵の日夜の繁劇はいうまでもない。
山県有朋公爵などはたいそう心配されて、「桂だって人間である。たまにはノンキに面白く遊びでもしなければ頭も体も続くものではない。そういえばお鯉はどうした。相変わらず芸者をさせてあるのか」との仰せ。
かく承った例の平岡大尽、かようなことは拙者の十八番、どうか私にお任せ下さいとお鯉落籍の役を買って出た。
永田町の官邸に呼ばれたお鯉は、桂公爵から直接身請けの相談を持ちかけられた。
「山県が大変心配してくれる。自分は忙しくて閑がない。お前の方でよかったら、平岡の言うようにしてくれ」
当時桂公爵は永田町の首相官邸に住まっておられた。
お鯉も官舎からあまり遠く離れていない、桂家で買っておいた赤坂榎坂町の家に住まうことになった。
家に付いた道具というものは全然ないので、すべての島はみんなお鯉のとっておきの品物ばかりだった。
この妾宅にはよく伊藤博文公爵・西園寺公望公爵・井上馨侯爵などのお歴々が見えたが、桂公爵は道具を指しては「これもお鯉の持参金じゃ。これも、これも」と説明する。
お客はあきれて、「たいそう持参金のあるお嫁さんじゃのう」と大笑いするのが毎度のことであった。
後日日露講和の条件が国民の気に入らぬというので例の焼打事件が始まり、「ここが桂の妾の家だ。叩き壊してしまえ」と群衆が襲撃を加えたのもこの家。
榎坂のお鯉の宅へ来られた人はたくさんあるが、最も派手で陽気で異彩を放っていたのはやはり伊藤博文公爵であった。
主人の桂公爵が永田町の官舎からブラブラ歩いて来られる。
その影を追うように伊藤公爵が来られる。
そして何かしら密談が交わされる。
また新橋の若い芸者からお鯉のところに電話がかかる。
「伊藤の御前さんが、あなたのところへ行くからおぬし達も来いよとおっしゃいましたが、伺ってもよろしゅうございますか」
伊藤公爵からは何の御沙汰もなくて、突然こうした電話がかかる。
桂公爵は「また大勢でやって来られるのだろう。繁盛でいいね。お茶屋なら儲かるだろう」と笑っておられる。
仕度をしてお客のおいでを待つ。
やがてやって来られる伊藤公爵にはいつでも取り巻きが大勢である。
桂公爵とお鯉が玄関に出迎えると、伊藤公爵はわざと「この家に約束して来たわけでもないのにどうしたのだ」
桂公爵は「そんな匂いがしたからね」
お鯉は「前もってお申込みのないお客様ですから行き届きませんが、まずまずお通りください」ととりなす。
「いや、前もって申し込むと桂という亭主が出るだろうと思ってね。それが気に入らんからな」
玄関先からすぐ冗談である。
それから座敷へ通るまでに、女中共にまで一人一人からかう。
座につかれるとすぎ、「さて、風呂は沸いているかえ」
どこへ行っても同じこと。
いつでも瓢屋あたりにおられる御気分であるのは、他人の真似できぬところである。
精神を使いすぎるためか桂公爵の健康は日に日に衰えて消化不良となり、食事はそのまま戻すようになった。
主治医である軍医平井政遒は、胃ガンではあるまいかと案じた。
正妻のかな子夫人はほとんど官邸にいることはなかった。
いつも病気保養のため伊香保あたりへ行ききりであった。
お鯉を官邸に入れて世話をさせるがよかろうということになって、お鯉は榎坂の家から官邸へ移った。
思い出してもゾッとするのは、日比谷の焼打事件である。
江戸から東京、何百年来築き上げられた都市の安寧秩序はものの見事に踏みにじられ叩き壊されて、満都市民の肝っ玉をでんぐり返らせた。
いきり立った民衆は丸の内諸官省などを片っぱしから襲撃して回ったが、中でも永田町の首相官邸・三田小山の桂公爵邸などは第一に民衆の襲うところとなった。
「お鯉を殺せ」
「お鯉を焼け」
焼き打ちの始まった日比谷の国民大会の日、9月5日に永田町の官邸で桂公爵と慌ただしい別れを告げて榎坂の家に帰ったお鯉は、外部との交渉まったく絶え、真っ暗闇の家の中で梅干に握飯の生活が20日近く続いた9月23日の朝、初めて桂家からお使者が見えた。
「桂公爵からの御言葉です。
長々御厄介であった。よく世話をしてくれた上に、この度は自分の騒ぎの中にまで引き入れられて、迷惑やら心配やらをかけたことは誠に申し訳がない。そしてよく自分に尽くしてくれたことについて厚く礼を言う。自分も講和のことについてこのような騒ぎを起こした以上、身を退いて世の中を鎮めなければならぬ立場になっている。よろしくそこを察して、そなたはそなたで身の振り方をつけてもらいたい。
桂公爵の御言葉は以上でありますから、よくお考えを願いたい。あなたがこれから何か御商売でもなされるように、ここに1万円を持参致しました」
「御言葉はよくわかりました。私が身を退くことは確かに承知致しました。どうぞお帰りになって御安心くださるよう申し上げてください。
ところでお金のことですが、このお金で何かしたら立ちゆくだろうというのはそちらのお考えだけで、私は人中を歩くこともできない身の上です。今はそれどころではないのですから、このお金はお持ち帰りを願いましょう」
使者は「さっそく御承知くださいましてありがとうございます。桂公爵も定めし喜ばれることでありましょう」と、いったん取り出した札束を再び風呂敷に包んで帰っていった。
やっと見つけた麻布の奥の広尾、南部坂の下り際で、家賃は16円、わずか4間きりの家であった。
広尾の家へ引っ越したのは騒がしかった9月も過ぎた10月の初めであった。
こと多かりし明治38年も暮れて、都も平和の正月を迎えた。
2月某日杉山茂丸が広尾の家を訪ねて来た。
奥の3畳間に大男の杉山を迎える。
「かわいそうになあ」
杉山は思わず同情の声を挙げて、その恐ろしい顔を曇らせながら、
「桂公爵は来られないのか」
「ええ、お暇をいただいたのですから」
話は問題の核心に触れる。
「何か寄こしたか」
お鯉は使者が持って来て持って帰った1万円の話を打ち明けた。
語るお鯉より聞いている杉山の方が、大きな目からボロボロと涙を流し、お鯉の背中を叩きながら「よし、よし、わかった。俺が決して悪いようにはせぬ」といきなり懐から200円の金を出して置いて帰った。
杉山はお鯉の家を出た足ですぐ三田の桂公爵邸に回って、桂公爵と対座していた。
「日露戦争の最中からかな子は病気の保養に転地したりして自分の世話ができなかった。そこへお照〔お鯉〕が官舎に来り表立ったりしたために世間から睨まれたのであろうが、かな子の考えでは焼き打ちもお照のあったためだと思っているのだから、いろいろとことが面倒になって困る。結局家が治まらぬという次第なのじゃ」
桂公爵の正妻かな子夫人は人も知る通り、言わば氏なくして玉の輿に乗った幸福な人である。
「わかりました。私から一つ奥さんに申し上げたいことがあります。どうぞこの席へお呼び願いたい」
桂公爵はかな子夫人を招いて「杉山からお前に話があるそうじゃ」
杉山は「日露戦争の終局、最も頭を使われている最中、あなたが御病気で御留守のところへ、山県さんや井上さんが桂の頭を休めてやってくれと騒ぎ立て、お鯉は芸者を辞めてつきそうことになったのです。そうかと言って桂家では金で落籍したものでもない。そこへ折あしくあの騒動です。お鯉はかわしそうにやり玉に挙げられた形で、ずいぶんひどい目にあった上、今でも外を出歩くこともできず、憐れな境遇に陥っています。妾にするしないは別として、お鯉の生涯を見てやるのは当然ではありますまいか」
かねてお鯉におかんむりを曲げてござるかな子夫人も、「まことに気のつかぬことでした。お鯉のことはどうぞよろしくお取り計らいください」
3月お鯉は広尾の隠れ家を出て、杉山の向島の別荘に招かれ、実に半年ぶりに桂公爵にお目見えした。
今度は桂家公認のお部屋様である。
まさか借家にも置けず都合三軒を買い与えられ、お鯉は新築の家に、実母と養母は2軒の家に住まうことになった。
山県公爵が「明治天皇から侍従長徳大寺実則に『桂のお鯉という女はどういう女か、美人か』という御言葉があったそうじゃ。意外なお尋ねに徳大寺も恐れ入って何と申し上げてよいかわからず、冷や汗を流した後、やむなくただ『さようでございましょう』と申し上げて、逃げるように御前を退出したとのことじゃ。焼打事件の時、『お鯉は傾国の妖婦である』などと書いた新聞があったが、いろんな新聞を常にご覧になっていらっしゃるからだろう」と。
日比谷焼打の後杉山茂丸の忠言もあって、正妻かな子夫人が改めてお鯉の立場を認められたことは前に述べた通りであるが、幾歳月を経てもかな子夫人はお鯉に会って下さらない。
お鯉の方からお目にかかりたいとは言えぬ身の上である。
かな子夫人としては面白からず思われたのも無理はない。
時には桂公爵に対して、猛烈な皮肉やら嫌味やらを並べられたと聞いている。
盆と暮れにはかな子夫人から反物などを下し置かれることがある。
こんな場合桂公爵は上機嫌で、「家内もそんなにわからないんじゃないんだからね」と御自慢であり、お鯉にもかな子夫人に好感を持たせるよう努められる。
「13代目守田勘弥の母親は、ワシが東京へ出て来た時分の初恋の女なのだ。ワシが21の歳じゃから、慶応3年のことじゃ。近所に出入りの八百屋があって、そこに15~16になる娘がいた。これが純江戸式のすっきりした絵にあるような美人だった。この八百屋はなかなか裕福で、娘に遊芸などを習わせて、衣服なども飾り立てておった。家内を持つならぜひこの女をもらわねばならぬと考えたのじゃ。そのうち八百屋のオヤジとは懇意になったが、娘とはつい話をすることができなかった。若かったのう。そのうち明治元年になる。ワシは22歳で正月の3日から伏見鳥羽の戦争を命じられたのをはじめ、その年の11月17日に東京に凱旋するまで多事だった。これからが大仕事じゃ。明治2年8月26日横浜からドイツに立つことになったのじゃが、ワシが外国に行っている間によそへ嫁られては大変じゃ。それで思い切ってオヤジにワシの思いを打ち明けた。『ぜひお前の娘をワシの家内にもらいたい。しかしワシは洋行するのだからすぐではない。約束だけ決めておきたい。実はこのことは3年前から考えつめていたことじゃ』と言うたらね、オヤジも驚きおったよ。オヤジはよく飲み込んで承知してくれたよ。『御言葉通り娘はあなたのお帰りまで決してどこへも嫁ることはありません。御無事のお帰りお待ちします』と言ってオヤジは泣きおった。ワシもうれしかったよ。なにしろ3年越しに思い悩んでおったことが、スラスラ運んだのじゃから。まず結納のつもりで100円オヤジに贈った。いよいよ出発の時にはオヤジは娘を連れて横浜まで見送りにきたよ。明治6年10月、帰朝して官途に就く、家庭を作る、それからまた再度の留学ということにしようと船の中で楽しみに考えておったよ。東京へ着くとすぐ八百屋に行ってみたが、その家が見当たらぬじゃないか。八百屋は失敗して家を売り、憐れな生活をしているという。
ようよう尋ねて当ててみると、オヤジは「旦那、まことに申し訳がありませぬ」と言ったきり。
『嫁にやったか』
『いいえ、もっと申し訳のないことを致しました。私が相場に引っかかったばかりに娘をとうとう芸者にしてしまいました』
やれやれ、まず良かった。なに、人の物にさえなっておらなけりゃ良いのじゃ。さっそくオヤジの案内で新橋の芸者屋へ行ったよ。美しい上にまた磨かれて、まるで天女のように思うたね。お貞さんと言うのじゃが、その後も芸者屋にお貞さんを訪ねて行ったが、どうも口が利けない。つまらぬことを言うて嫌われては困ると思うので、なかなか話ができない。ここに意外な問題が突発した。
母から『お前の嫁を決めたいから、さっそく帰省するように』とのことじゃ。
『嫁は自分の好きなのにして下さい』と申し送った。
『それでは相談にこちらから出て行く』というので、
『実はもうこっちで決めてしまった』と折り返した。
郷里の母は女の身元などについて調べたところ、八百屋の娘で芸者だと知れたので、びっくりしてすぐさま上京ということになった。あの時ほど困ったことはない。そして案のごとく母は大反対であった。
「芸者は困る、それだけはやめてくれ」と言う。ワシも負けてはいられない。
「芸者と言ってもはじめから芸者ではありません。芸者にならぬ前から約束してあったので、ただの芸者とは違います」こう言って力んでみたが、こんな言いぐさは世間のノラ息子の決まり文句じゃ。
それを真面目に母に言っていたのだから、今から考えるとおかしくてならぬ。
「八百屋の娘で芸者に売られた女を嫁にしては御先祖に対して相済まぬし、郷里の者に対しても恥かしいから、この儀だけはまかりならぬ」という仰せである。そこでワシは考えた。これは当人のお貞さんを母に見せるのが上分別、一度でも見たらあの器量や様子に感心するに違いない。母はお貞さんを見てなるほどと感心してくれた。それ見たことかと得意でもあったね。
ところが母曰く「なるほど、美人じゃ、お前が欲しがるのも無理はない。しかしあれ以上の者を母が探してやったらよかろう。長州で家柄も身分も上等な、そしてあれ以上の美人だったら申し分あるまい」
早く父を失ってから母一人の手に育てられたワシとしては、それでもとは言えない。ずいぶん切なかったがお貞さんをあきらめて、嫁のことは母に任せることにした。あれ以上の美人というのを探してくれたのが最初の家内さ。それとなくお貞さんの様子を探ると、もうすでに人のものになっていた」
桂公爵の最初の夫人は同郷の野田氏の令嬢野田歌子。
伊藤博文公爵が歌子夫人の談に及ぶと、「わしもずいぶん美人を見たが、歌子夫人ほどの美人はかつて見たことがない」と言われた。
長男与一・長女蝶子・二女茂子の三子が生まれたが、三子とも母君に似て美しい人であった。
歌子夫人は産後に病を得て亡くなり、第二の夫人宍道貞子を迎え、貞子夫人に1男1女ができたが、幾年の後亡くなられて、今のかな子夫人が入られた。
「ワシは今子供を勘当してきたのだ」
お鯉はギョッとした。
「茂子だ。3人の子供を抱えて若後家じゃ。屋敷の中に住まわしているが、尾寺の舅姑も『あまりに若くて気の毒だから、相当のところへ嫁入りさせてくれ』ということになっていたのじゃ。そこで常々茂子に同情しておった長崎英造という男が嫁に欲しいという話になったらしい。ところが順序が悪くてワシの耳には不義をはたらいた形式に聞かされたのじゃ。まだ籍の入っている尾寺家に対しても相済まんわけじゃ。そこでワシとしては勘当するより他に道がないことになった。順序を踏んでくれれば喜んでやるものを、茂子が至らぬからこんなことになるのじゃ。母親には先立たれ、夫には戦死され、3人の子を抱えて今度は父親に勘当される。不憫な奴じゃ」
勘当された茂子未亡人は、その後熱情ある錚々たる実業家長崎氏の迎えられて、人もうらやむ新家庭を作っておられる。
桂公爵は大阪に行かれることが度々であったために、彼の地の花柳界に残した艶聞もなま少なくない。
ある日お鯉は大阪で桂公爵と一緒になって、その日は宝塚に一泊し、翌日箕面へ行く予定であった。
一行の御供にはいつもは見慣れぬきれいな芸者がそろった。
その中に艶子という当時大阪の藤田組に在勤中の桂公爵の令嗣桂与一と深い関係の美人がいた。
桂公爵は艶子に目を止められ、お鯉に向って、「あの芸者はいいね。うむ、実にいいね」とばかり、間さえあれば艶子の噂で持ち切りである。
事情を知っているお鯉はおかしくて仕方がない。
「なかなかいい奴じゃ。東京にもちょっとない」
お熱がだんだんと高くなる。
「さあ、大変、大変」と、女将連や老妓連が騒ぎ出した。
「あなたがどんなにいいいいとお思いになっても、あの娘ばかりはダメですよ」
「なんでダメなんだ」
「あれは若旦那のですよ」
「なんだ、与一のか。ハハハハ」
桂公爵も腹を抱えて笑われた。
大阪には珍しい総理大臣のお顔を直接見られるというので、花外の門前は常に人立ちがする。
幼い女の子を背負った26~27の痩せた小柄な女がいて、これが始終立っている。
お鯉は花外の女将に心当たりを尋ねた。
女は神戸の常盤華壇にいた女中で、先年桂公爵が常盤華壇に泊まって1~2度知り合ったことがあるらしく、後に常盤華壇から桂公爵の子供を宿したという通知があったので、時の兵庫県知事に託して善後の処置を取ってもらい、すでに解決がついているはずであると。
桂公爵に聞いてみると、「うむ、それは知っている。日露戦争の始まる頃知事の手紙で驚いた。そこで女の子なら金で始末してくれ、男の子ならば世話をして育てて置いてくれと返事をしておいた。その後女の子が産まれたというので、日露戦争から露子と名をつけて、金を2千円送っておいた。それで結末がついているはずじゃが」
世話好きの岩下は生母山田キクの嫁入先まで斡旋して話をまとめた。
嫁入先は岩下の配下である高木貞幹という人で、森永製菓の重役であった人である。
人物もよく生活も豊かに保証されているからとのことで、キクも高木氏のところへ嫁すことに決定した。
いかなる事情があったか知らぬが、キクは高木氏と離婚になった。
せっかくの良縁を残念なことであるが、やはり彼女は放浪の女であったのであろう。
別れる時高木氏から相当のものをもらって出たとのことであったが、大正5年肺結核で36歳でこの世を去ってしまった。
明治45年桂公爵は後藤新平・若槻礼次郎を連れて、4度目の欧州漫遊の度に上った。
「おぬしにも長々世話になった。子供まで救い上げてくれての世話は容易でない。ワシはお前のために数年前から少しずつ貯えておいた。それはワシに万一の場合があった際のワシの礼心であった。もっと増やしてやりたい考えであったが、増えないうちに今日の場合になった。もっとも与一がいるからおぬしの生涯のことは心配はないが、まずこれはワシの礼心だと思うてくれ」
一通の書きつけには、公債・その他種々なる株券・銀行預金を合わせて
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
合計6万5千円なり。
右は安藤照子の所有なり。
桂与一殿
太郎
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「もしワシに万一のことがあった時は、この書きつけを与一のところへ持って行けば、与一が悪いようにはせぬから」
明治45年7月6日、桂公爵一行は朝野の盛んな見送りを受けて、新橋を出発した。
新橋駅頭、群がる見送り人の後方に隠れて一人の芸者姿の若い女があった。
それは桂公爵の御落胤で、今は柳橋で芸者をしている女と知れ、翌日の朝刊に大々的に載せられた。
お鯉は抱え主一藤井の春栄姐さんにお座敷をかけてもらった。
「あれは一龍と言うのです。桂さんのお子さんだと申すことですが、人の話では大変よく似申してるそうです。芸は相当できますが、なんとなく内気な娘で、器量も大してよくないし、余り売れないので気の毒な人だと思ってます」
「とにかくそのお子をここへ呼んで私に見せてください」
さっそく電話がかけられて、一龍がお鯉の前に現れた。
なるほど桂公爵によく似ている。
桂公爵を知っている人が見たら、誰でも血縁であることが知れよう。
お鯉は春栄に言った。
「桂公爵のお子に違いありません。私が引き取ってお世話したいと思います」
春栄は大喜びである。
結局2千何百円ということに話がつき、金のないお鯉は借金して落籍を済ませた。
ところが一龍には親類と名乗る人が大勢あった。
おばあさんは小さい待合でも出させてくれと言う。
おじさんは蕎麦屋をやらせてくれと言う。
黙って聞いていたら際限がない。
結局これも1500~1600円の金で埒をあけた。
一龍を産んだ当の母親は現れない。
お鯉は八方手をまわしてやっと探し出した。
神田のある蕎麦屋の家内だったがすこぶる神妙な女で、「私の親が悪くてお邸に再三迷惑をかけて済まぬ」という善良さ。
欲しそうな顔もしなかったこの母親に、お鯉は200~300円の金と包んで渡した。
「ワシの名古屋時代じゃ。日清戦争の時ワシは師団長だった。上京すると山下町の旅館が定宿で、相手はそこの女中じゃ」
その女中にできたのが女の子と聞き、戦勝にちなんで勝子と名づけた。
「当時ワシは最初の家内が子を残して死ぬ、二度目の家内も子を残して死んだ。子供たちは方々の親類に預けていた頃で、日清・日露の戦役はワシの一生中での大事業であった。記念のようにそれぞれ子供ができた。そしてどの子も不運じゃ。おぬしは前に露子を拾い上げてくれた。今度は勝子を引き取ってくれる。もう他に心当たりはないよ。また大きな戦争でもあれば厄介をかけぬとも限らぬが」
柳橋芸者から一足飛びに桂公爵令嬢としてすっかり本物の令嬢にこしらえ直すのは容易な骨折りではなかった。
桂公爵はお鯉と共に、令嗣桂与一が大阪天王寺に新築した屋敷の座敷開きに臨んだ。
しばらく前まで秋田の小坂鉱山にいたが、このほど栄転して大阪に来り、天王寺に新邸を設けた。
まだ30になるやならずの青年実業家としてはなかなかの成功と言わねばならぬ。
知らぬ人は桂公爵の補助もあると考えるだろうが、まったくの独力でやったのである。
学生時代も定額の学費を与えられる以外、他に毫も桂公爵の世話にはならなかったのである。
桂公爵が身長の高くない丸々と太った体格の人であったに似ず、与一氏は背のスラリとした面長の美しい好男子であった。
それは与一氏の母君歌子夫人が絶世の美人であったのを承けたのであろう。
しかし歌子夫人が亡くなり、次の夫人も幾年の後亡くなられて、今のかな子夫人が入られたので、与一氏は生まれた家へ出入することが少なくなり、父君との間は自然疎遠になった。
桂公爵は「親父が相当な位地の進むとどうも倅はろくな奴ができんようじゃが、ワシの口から言うもおかしいが、与一はようできた奴じゃ。ワシは一向かまってやらなかったに」と言った。
与一氏が父の頭脳を継いで明敏聡慧の人であり、母の血統を承けて風采閑雅な貴公子であり、家庭の事情のためによく人情の機微に通ずる人となり、お鯉が赤誠をもって桂公爵はに仕えているのを見て、「自分は幼い時家庭的には非常に不幸であった。しかし親孝行ということはしたいと思っている。しかし実はお父さんがどういうことがお好きであるかさえも分からぬ。食べる物でも何がお好きか知らないのだ。お父さんは何でもできる身の上でありながら、家庭であってさえ始終遠慮をしておられる。あなたは始終お側にいるのだから、どうかできる限りお父さんをお慰めしてください」と言われた。
旻天無情、与一氏は病を得て大正2年桂公爵に先立って行かれた。
大正2年4月7日の夜、日本郵船の加藤正義の招待を受けて芳野家の宴席に列せられたが、突然めまいがして席に堪えられず宴半ばにして帰邸された。
翌日は新政党の関係で浜町の常盤に顔を出して演説をされたが、腹痛でまた中座して帰られた。
その翌日は三田の自邸で支那に行く加藤高明男爵の送別会を開くことになっていたが、腹痛と衰弱でそれもならず、桂公爵が病褥の人となったのは、実にこの日からである。
屋敷からの知らせによれば、病状は項頸筋・背腰大腿の諸筋にリウマチ様の痛みを発し、静かに安臥していれば痛みを覚えないが、わずかでも身体を動かすと激しい疼痛を起すというのである。
その後桂公爵の病状は小康を得て、6月3日かな子夫人同道で葉山の別荘に転地し静養されることになった。
今度は桂公爵の嫡男与一氏が腸内腫瘍症という軽からぬ病気で、桂公爵が葉山へ転地後容態が急変して、かな子夫人は与一氏の看護に東京へ戻られたという知らせを受けた。
「葉山からお電話でございます」という女中の取次に受話器を手にすると、「お照か、おぬしすぐ来いよ」
思いもかけぬ桂公爵自身のお声である。
身支度もそこそこに新橋停車場へ駆けつけ、葉山の別荘の門をくぐって桂公爵の病室に通ってみると、桂公爵は力なく椅子にもたれて、傍らから看護婦が身体を支え、頭をちょっと動かすのも大儀という様子。
発病前まで18貫を越えていた体重は、3カ月の間に4貫減っていた。
「体中に臭い薬を塗られるので、それが鼻について物が食べられぬ。おぬしに何かワシの好きな物をこしらえて食べさせてもらいたいと思うて呼んだのじゃ」
お鯉は夜昼帯も解かずに、桂公爵の食事から身の回りのお世話に没頭して日を暮らした。
病床の桂公爵がお鯉に「勝子の縁談はどうなった」
「はい、あなたが御全快になったら吉日を選んで結納を交わしたいと考えています」
「先方はワシの言うたことを承知したか」
お鯉の懇意な友だちの舞踊家若柳吉登代(中村千世子)の世話で、東大法科を出たばかりの武谷成直と勝子との間に縁談が進行中だったのである。
「ワシの言うたこと」というのは、勝子はお鯉によって救い出されたのだから、勝子をもらう人はお鯉の世話を引き受ける人でなくてはならぬという御注意なのである。
「先方に伝えましたところ承知してくれました。心細ければ勝子ともどもお側にいて、お宅から通ってもよいと申してくれました」
6月16日、与一氏の訃報が葉山の別荘に伝えられた。
「ああ、駄目か。どうしても駄目か」
病躯を押して電話口に出られた桂公爵の口から洩れた数語。
「おぬしに少し聞いてもらうことがある。看護婦を遠ざけてくれ」
お鯉は居ずまいを正した。
「最初の家内は与一・蝶子・茂子の3人を産んで病気になった。母親が患うているので、家内の兄嫁に当る貞子が未亡人じゃったので、看護に来てくれて家事一切の世話をしてくれた。ところが家内の病気は治りそうもない。親類の者は家内が万一の場合には貞子をそのまま後妻に直して子供たちの世話を頼んだ方が良かろうという話が出ておったのじゃ。薄々病人の耳に入ったものと見えて、死ぬ数日前『自分が死んだ後でも決して兄嫁の貞子を娶ってくれるな』言うのじゃ。ワシは死んで行く者に心残りのないように思うたから、気軽にその約束を承知してやった。家内はそのことを繰り返しながら世を去った。その後ワシは死者を欺いた結果になったのじゃ。後妻にした貞子も4年目に死んだ。蝶子はおぬしと同年じゃが、ケガが元で永らくの病人・茂子は未亡人になった上に勘当・与一はワシを残して早死に、悪いことばかりじゃ。そこでおぬしに頼みがある。家内の追善を頼んでもらいたい」
翌日お鯉は葉山から上京、二人の僧を伴い青山の墓地に赴き、丁重な供養を営んで先夫人2人の冥福を祈った。
桂公爵は「ここにいては人が来たりしてうるさくて困る。ワシはこれから箱根にでも行って、おぬしの世話になりたい。箱根の大倉の別荘を借りてもよし、福住の別荘もある」
主治医の軍医平井政遒が診察に見えた時、桂公爵は「お照を連れて箱根に行こうと思うから、君から家内の者に話をして、いいように頼む」と取り成しをお頼みになった。
ところが東京からの返事は、「箱根はあまり遠方で御無理です。鎌倉の岩下さんの別荘にお移りになるよう御支度ができております」ということであった。
「はやりワシの心が分らぬと見える。ワシは遊びに行くのではない。人が来て与一の悔やみを言われるのを聞くのさえ嫌なのじゃ」と憮然として嘆息された。
箱根が遠すぎるのではない、お照を連れてが悪いのであろう。
鎌倉笹目の岩下清周の別荘に移ったのが6月19日、医師と3人の看護婦とお鯉が付き添った。
岩下氏の全盛時代のこととて、別荘はまるで病院と同様の設備ができていた。
桂公爵の女婿長島隆二が鎌倉にお見舞いに来て、お鯉を別室に呼び「安藤さん、突然ですが、今日三田のお母さん(かな子夫人)が来られることになったんですよ」
「そうですか。それでは、あなたからパパさんに申し上げていただきましょう」
「僕は言うのが嫌で」と長島氏はしょげている。
「そんなことおっしゃっては私が困ります」
長島氏はやむなく桂公爵の前に現れる。
「今日お母さんが来られるようです」
「なんだ、急に来るなんて不都合じゃ」
桂公爵はひどく気色ばんでいらっしゃる。
「私は一度出直して、また上がることにいたしましょう」
「おぬしは帰るのか」
うつろな声でこう言われた。
「ワシはもしかすると体の具合で屋敷に帰ることになるかもしれぬ。不幸にしてワシの病気が重態というような場合には、おぬしは人に頼まず自分で子供を連れて屋敷に来い。その時は玄関からやって来るのじゃ。そして奥さんに会いたいと申し出るのじゃ。そうすると奥さんは快くおぬしたちをワシに会わせるであろう。決して心配はない。よいか、よいか」
そのお声が聞き納めになろうとは、お鯉には思い設けなかった。
9月12日に鎌倉を引き上げて帰京に決し、三田の本邸に入られた。
桂公爵の女婿長島隆二氏・伊藤文吉男爵・天岡直嘉氏はお鯉について相談の結果、「安藤としてではなく、パパさんのために2人の子供の世話をしているという関係から、お母様にお願いすることにしよう」ということになった。
10月8日長島氏はお鯉を訪ね、「なんとも申し訳ありません。我々からお母様にいろいろと願ってみましたが許されません。最後に我々は『パパさんの思召しを考えてのことですから』と願ったのです。ところがお母様は『みなさんから見るとパパさんだけが親で、私は親ではないのでしょうから、みなさんの勝手になすって、誰でもお会せになったらよろしい。そのあいだ私はどこぞへ行って、家を外していましょう』と言われた。私共も義理の間ですから、このうえ進んでお願いはできません」
お鯉は「まことにありがとうございました。どうぞよろしくお言伝を願います。いかに公爵の御言葉にせよ強いて私が伺いましては喧嘩腰になるようで、公爵のお顔にもかかわることですから、私は諦めました。私はお目にかかることは断念しましたが、お子たちだけはきっとお会せいたします」
長島氏が辞して帰ると、お鯉は目白の山県公爵邸へ自動車を飛ばした。
山県公爵は「お鯉、えらい心配なことじゃのう」と出てこられた。
「私はお目にかかりたいとは申し上げません。ただ2人のお子たちにはどんなにしてもお会わせ致しとうございます」
「おぬし、本当に自分が会うことは断念したか」
「はい、覚悟いたしております」
じっとお鯉の顔を見守られた山県公爵、「おぬしがその覚悟さえしてくれたら、ワシが後を引き受ける。井上と相談してきっと子供は会わしてやる。安心せい、山県が引き受けたじゃ」
井上馨侯爵は桂家の親戚筆頭である。
かな子夫人は井上侯爵を仮親として嫁いだ人であり、桂公爵の令息三郎氏は井上侯爵の養子という関係もある。
山県公爵・井上侯爵うち揃って三田の桂家を訪問された。
かな子夫人説得のためである。
男勝りのかな子夫人も、さすがに断りかねて聞き届けましたということになった。
「それでは明日にお願いしましょう。昼間では新聞記者の目に立ちますから、夜8時頃がいいでしょう。来る時は表からでは人目について困りますから、庭口から内々でそっと来るようにお申し渡しを願います」と。
勝子は19歳・露子は10歳、二人を呼んでお鯉は言って聞かせた。
「明日はパパ様のお見舞に勝子と露子とお二人で行くのですよ。よくよくお顔を見て覚えてくるのですよ。偉い方たちが大勢おいでになりますから、普段お母さんから教わった通り、お行儀を良くして、決して笑われるようなことがあってはなりません。あなたたちが笑われると、お父様の恥になって、お母さんも笑われますからね」
幼い露子は「お母様はどうして御一緒にいらっしゃないの」
お鯉はハッとしたが、「お母さんはお留守番をします。人がたくさん見えますから。それであなたたちにおかあさんの代理で行っていただくのです。お屋敷にはもう一人お母様がいらっしゃいます。よく気をつけてお目にかからなくてはなりません」
10月10日になった。
お鯉は身支度のできた勝子・露子に、「よくよくパパ様のお顔を拝んで、帰ってからお話を聞かせてください」と言い聞かせて送り出した。
病室の次の間には桂公爵の弟桂二郎夫妻・故与一未亡人・長島隆二夫妻・伊藤文吉夫妻・天岡直嘉夫妻・井上三郎その他が粛然と居並び、桂公爵の枕頭には医師と看護婦が侍していた。
桂二郎夫人はさすがにお歳の功か、つと席を立って「パパ様はもうおわかりにならないから、よくお顔を拝んでお帰りなさい」と2人を病床まで連れて行ってくれた。
2人はおそるおそる御辞儀をしながらお顔を拝んだが、まったく死んだ人のようで生気というものは失せてしまっていた。
2人は御親族の方々に丁寧に敬意を表して引き下がった。
車に乗りかけていると、奥から駆けてきた女中に「しばらくお帰りをお待ちくださいませ」と引き留められた。
2人が上がった時かな子夫人は病室においでいならなかったが、「安藤のところから参った2人が、御挨拶を済ませて帰りました」と聞き、山県公爵・井上侯爵のに約束した以上、2人はかな子夫人みずからの紹介で桂公爵に会わせなければらなぬ、早く2人を呼び返せという厳命が下ったので、女中が追っかけてきたのである。
呼び戻された2人が再び病室に通ってみると、正面に立派な権高い婦人が座っておられるので、丁寧にお辞儀をした。
「安藤のところから来たお子はお前たちかえ?何というお名?」かな子夫人はこう言って、己の誰であるかを相手方に覚らせるという風。
「勝子と申します」「露子と申します」2人はかしこまって答えた。
「ああ、そう。勝子と露子だね。こっちへおいで」
かな子夫人は桂公爵の枕頭に進み寄られ、桂公爵の耳元近く口を寄せて、「安藤のところから、勝子と露子が参りました」と告げた。
すると朝から昏睡を続けておられた桂公爵が、突如大きな目をパッチリと開かれた。
やおら右の手を伸ばして露子のお下げ髪をむんずとつかみ、露子の首を御自分の胸の辺りまで引き寄せた。
つきそいの医師も看護婦も、みな面を覆うて声を飲んだ。
露子は「お母様、パパ様が私のお下げをお引っぱりになりましたの。2度もお顔を拝んだのです。お引っぱりになって痛くて怖かったkれど、パパ様がお側に来いとおっしゃるのだと思って、お胸のところまで行きました。大きな目でじっと私をご覧になって、お笑いになってよ」
勝子は病室の模様を語って最後に、「私の顔をじっとご覧になったかと思うと、私の背後を透かすようにして見つめていらっしゃいました。きっとお母様をお探しになったに違いないわ」
お鯉は丈なす黒髪を根元からプツリと切って、仏壇に供えた。
10月11日三田の本邸から長島家令が来た。
お鯉は長島家令の前に自分の切髪を置いた。
「日陰者の悲しさ、せめてこの黒髪を御棺の中にお入れいただきたい最後の願い、どうぞお計らい句下さいまし」
翌日長島家令から「皆様にお話いたしまして、確かに御棺の中にお入れすることに致しました」という電話があった。
お鯉はこの時34歳であった。
翌月11月にはもう本邸からお鯉のところへ生活費が来なくなった。
桂公爵が逝かれてからふた7日が過ぎた頃、三田の本邸から人が来て、「桂公爵の遺言によって渡すべき財産がある。そして当方へ受け取るべき子供がある。その決まりをつける」と申し込まれた。
桂公爵の遺言によってお鯉に分け与えられた財産について、本邸ではこういう解釈を下したのだそうな。
それはこの財産はお鯉とお鯉に預けられている遺児に遺されたものである、勝子はすぐに結婚するからよいが、露子にはまだ長い春秋がある、今のうちに遺産を分配させて本邸に引き取った方がよいという意見であった。
勝子の方はすでに婚約も整い、桂公爵の忌明を待って嫁入らせることになっている。
本邸の方では捨てて顧みなかった子供を4つの歳から拾い上げ、並々ならぬ苦心をして公爵家の姫君として恥ずかしからぬ人柄になったのは、まったくお鯉の努力の結果であるとして、桂公爵も喜んでおられた。
大正3年2月下旬、三田の本邸からお鯉のところへ、今からすぐ内田山の井上侯爵のお屋敷まで出頭するようにとの仰せである。
井上侯爵は軽い中風を病まれて、2~3の看護婦が傍にお世話申し上げている。
井上侯爵の左右には、益田孝・早川千吉郎・田島信夫いずれも井上侯爵昵懇の偉い方々、末席には珍しや喜楽の女将おきん婆さんが控えている。
これはなかなかお揃いのことと思ったが、喜楽の女将が口を切って、「井上の御前さんがあなたのことを御心配になって、いろいろお取決めをしてくださるんだそうですから、御安心なさい」と言った。
老職どころの田島氏が「このたび桂公爵がお亡くなりになって財産整理が行われた。ついては桂公爵があなたに遺された財産は井上侯爵がお預かりになって、生涯あなたの身の安全を計ってあげたいとの思召である」と口を開く。
お鯉は「まことに恐れ入りましてございます」と丁寧に御礼を申し上げる。
すると井上侯爵は「月々おぬしに200円ずつやるから、自身で取りに来るがよい。病気の時はその由を申し立てて、代人を寄こすかこっちから届けるか、いずれかにするのじゃ。それでよかったら、書きつけが作ってあるから、ここにいる益田・早川などに証人になってもらって、おぬしも判を押すがよい」
田島氏が大判の罫紙4~5枚にしたためてあるものを取り出して読み上げる。
①節操を守ること
②みだりに外出ずべからざること
③桂公爵の遺児を育てるについては、誠心誠意いやしくもぜざること
④子供の教育は自分勝手にせざること、一々相談に来りて御指図を受くべきこと
⑤自分の財産なれば、中途から全部引き渡せなどと言わぬこと。
⑥一身上のことはすべてお任せして、仮にも身儘になさぬこと
以下十数条にわたって綿密苛酷を極めたものであった。
田島氏は書きつけをお鯉の前に出して、「よくお読みになってごらんなさい」と言った。
見てみると終りの方にはすでにこの一座のお歴々の名前が書いてあって、その下にはいちいち書判がしてあるではないか。
田島氏はしびれを切らして口を出した。
「さあ、もうおわかりでしょう。早く井上侯爵にお礼を申し上げて判を押してしまいなさい」
お鯉は「せっかくですが、この箇条書きに判を押すことは勘弁させてもらいます。これはなかなか大変なことのようですから、よく考えてそれからのことにしていただきたいと存じますが」
お鯉の言葉の終わるか終わらないうちに、井上侯爵たちまち大一喝。
「不承知なのか。どこが気に入らぬ。馬鹿ッ!せっかくの親切がわからぬ奴。不届き者め!」
この場合当然現れなくてはならない役者は喜楽の女将である。
「何でもいいからハイと言ってお置きなさいましよ。後のことは後のことでさあね。この場はこの場で。悪いようにはしないからさ」小声で囁く。
「女将さん、私はあなた方と違って井上の御前さんには何のお世話にもなっていないんですよ。どんなことでも御無理ごもっともと承ってさえすれば、何か利益になるような方々とは違いますからね。
私としては一生涯の身の上のことですから、心にもない判を押すようなことはできません。どうぞ私を帰らせてください」
井上侯爵は「言うことのわからぬ奴は帰れッ!」
かくて2~3カ月は夢の間に過ぎた。
自分のものである幾万の財産がありながら、その日その日の生活のために着物を売って行くのだから、なかなか矛盾した話である。
井上侯爵の方ではいろいろ運動が行われる。
益田孝男爵のお妾瀧子さんがお鯉の宅へ訪れる。
「まあまあ理屈は言わずに、早くあのかきつけに判を押して埒をつけた方がよいではありませんか」
お鯉は桂公爵直筆の財産目録6万5千円、その書きつけをもって杉山茂丸のもとを訪れた。
「この間からちょいちょい話に聞いてた。死なれてまもないのに、女一人のことでゴチャゴチャやってるそうじゃが、あきれたものだと思っておったよ」
「私がこの書きつけを持っているから皆さんも御心配なのでしょうから、どうかあなたの御手からこの書きつけを井上侯爵に差し上げてください」
「欲を捨てての決心にはとてもかなわぬ。よし承知した。ワシが井上侯爵のところへ使いに行ってやろう。そして財産を返してきてやる」
「どうぞお願いします。きっぱりと因縁なしにお返ししてくだだい」
杉山氏は井上侯爵にお鯉から預かった財産目録を持参して、お鯉の意志を語った。
井上侯爵は「杉山などを中に入れて怪しからぬ奴じゃ」という腹になった。
杉山氏の方では「オレが間に入ったがどうした」というような具合で、その後しばらくは井上侯爵と杉山氏は睨み合いの状態となってしまった。
杉山氏は「お鯉はお鯉の勝手にさせる」と言う。
こうなると井上侯爵も困られて、杉山氏に謝罪状を送り、改めて談合となった。
「君がもっとも嫌に思う箇条書き、あれは全部撤廃させる。それに桂公爵の書きつけの額は6万5千円であった。井上侯爵の手元にある現在は5万8千円という減額を示している。君の希望としては金の額の問題ではないはず。君さえ承知してくれれば四方八方円満なことになるから承知してくれたまえ」
杉山氏のはからいで箇条書きは撤廃され、増すべきはずの金は減っているが、遺産として5万8千円がお鯉の手に渡されることになった。
ところが白紙無条件でお鯉に渡されるべき約束に、やはり条件が付されていた。
それは遺産のうち2万円は露子に分配しておくという条件である。
そこでお鯉は杉山氏に語り直さねばならなくなる。
「勝子には何もなく露子にばかりお分けになるのは不公平と思います。同じ桂公爵のお子ですから、同じようにお扱い願いたい」
この理屈はなかなか通らなかった。
それは露子に2万円を分配しておいて、その財産ぐるみ桂公爵の弟桂二郎に引き取らせるという相談があったのである。
井上侯爵はようよう納まった問題が再燃しては大変と考え、お鯉の主張を通して勝子を認めることとなり、勝子と露子に各1万円与えて、これは井上侯爵に保管を託し、残金3万8千円がお鯉の手に渡されて、桂公爵の遺産問題はここに解決を見たのである。
勝子はお鯉の主張によって、持参金が1万円増えたのである。
その1万円は勝子の婚礼の支度に用いてもよいはずのものであるが、お鯉は例の意地から自分の財産から公爵令嬢として恥しからぬ支度を調えた。
四季の紋服までそろえて、白無垢の婚礼。
箪笥・長持はもとより手回りの小道具に至るまで、いずれも特別誂えの定紋付である。
御用を承った高島屋が、近来にない御支度あまり見事ゆえ、ぜひ記念の写真も撮り出入りの人々にも見せてとのことで、10畳2間の部屋に飾り立てたほどであった。
5人10人の客に対しても、夏冬の客布団・座布団・蚊帳まで取り揃えた荷物が15荷、1万5千円を費やした。
桂公爵が逝かれた翌年11月、築地精養軒で披露宴が催された。
来賓100余名が列った。
「たいていの御身分の方でもできない婚礼です。桂公爵が御存命であってもこれほどにはなさるまい」と驚き語る者もあった。
勝子の婚礼が済んでまもなく、杉山茂丸がお鯉に向って言う。
「桂公爵の弟桂二郎が露子を息子の妻にしたいと言うのだ。それには一日も早く引き取って、家風に合うように手元で教育したいと言う。ワシも良いように思う。そうしたらどうじゃね」
お鯉にはまた悲しい話がやってきた。
桂公爵没後から始まった露子引き取り問題は、いつまでもいつまでもお鯉につきまとうのである。
「叔父様のところへお嫁に行くのです。勝子姉様もお嫁にいらっしゃったでしょう。今度はあたながいらっしゃるのです」
なだめつすかしつ、やっとのことで承知させた。
お鯉はお嫁入り同様の支度を調え、二郎夫妻をも驚かせたという。
かくて11歳の嫁御寮は、1万円の持参金を携えて、二郎宅に引き取られた。
〔この養女縁組は成立するが、結婚は成立しなかった〕
数奇な運命のお鯉は大正9年、銀座でカフェーナショナルを経営することになった。
その2年後大正11年、露子がカフェーナショナルにお鯉を訪ねてきた。
「お母様、私の本当のお母様はあなたなんですわね。叔父様(桂二郎)に引き取られてからは、ずいぶん長い間あなたは私のお母様でないといろいろ言われました。そしてお前の母親は死んだと、お墓へ連れて行っていただきましたが、私にはお墓の方は私が小さい時に育てられた人だと思います。私中村(夫)へ嫁きましてから、中村にも聞きました。しかし中村もやはり私の母は死んで品川のお墓がそうだと言われます。私はお母様のことを少しも忘れたことはありません。いつもお気の毒で申し訳ないと思っています。私はまだお嫁になったばかりでどうしてよいかわかりませんが、どうかしてお母様のお家をこしらえてお入れ申して、御恩返しを致したいと存じております。どうぞ、露子のお母様だということをおっしゃってください」
お鯉は気を静め、語り出した。
「私はあなたのお尋ねに対して本当のお母様であると言ってあげたいのですが、それは事実と違うのです。皆様がおっしゃるように品川のお墓の山田キクという方があなたの生みのお母様です」
「さようでございましたか。いろいろありがとうございました。御親切な思召は生涯忘れませぬ」
露子はまもなく母となった。
大震災の後お鯉が見舞かたがた露子の家庭を訪れた時、美しい若妻の露子はすっかり母親らしいもの慣れた調子で、「さあ、お祖母様ですよ、御挨拶なさい」とお鯉に紹介するのであった。
桂公爵のニコポンと言えば、知らぬ者はない。
10年以上お鯉のところにいた奉公人も一人として桂公爵の御機嫌が悪いのを見た者はない。
普段の食べ物はもとより調度についても、好き嫌いということがない。
「ワシは何でもよい」と言われる。
お鯉が「あまりお小言もなく御注文のないのは張り合いがありません」と言うと、
「これは困った。小言を言わんとて叱られる」と桂公爵は笑われた。
「ワシは怒ることが嫌いなのだ。世間ではワシのことをお世辞ばかり言う人間のように思うているらしいが、怒ることは自分を不愉快にする、まことにつまらんことじゃ」
桂公爵は晩年日本酒を飲まれず、わずかに葡萄酒の盃を挙ぐるに過ぎなかった。
明治27年日清戦争の時、名古屋の第三師団長として出征し、遼東の各地に転戦した。
その年の12月19日、一夜民家に屯して敵の来襲を待つことがあった。
満洲の冬は寒い。
桂公爵は将卒に酒を与えて士気をを鼓舞し、自分も幕僚と共に盃を重ねていた。
そのうち敵軍の来襲、ソレッとばかり桂公爵に突出した。
ところが今まで焚火と酒とで温めていた身体が急に零下の戸外に出たため、めまいを起して人事不省となり雪中に昏倒した。
部下が抱き起す、軍医が駆けつける、応急手当が届いて回復したのであるが、頭部を雪中に埋めていた結果か、その後時々左半面にマヒを感じて、それがため夜など眠れないことがあるようになった。
桂公爵は深く当時のことを悔恨し、酒を飲んでいたためにかような不覚を取ったのは誠に申し訳ないことである、飲酒は慎むべきものと固く決心して、それから以後は断然酒を飲まなくなったと語られた。
煙草は葉巻を1日に2箱というのだから、ずいぶん喫まれた方である。
くわえている葉巻が尽きると、すぐ次の煙草の口を切っておられるというほどであった。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
■夫 桂与一 初代公爵桂太郎の子
1882-1913 31歳没
■妻 新田テイコ 新田忠純男爵の娘
1887-1956 69歳没
●男子 桂広太郎 1908年生 2代公爵
●男子 桂寿雄 1909年生 野村益三子爵の娘野村美枝子と結婚
●女子 桂友子 1910年生 成蹊女学校出身 三井信託進緯介と結婚
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆2代公爵 桂広太郎 初代公爵桂太郎の孫・林与一の子
1908-2002
■妻 白根富美子 白根松介男爵の娘 学習院出身
1918年生
●長男
●二男
●長女
■東京邸 港区三田 1,718坪
■軽井沢別邸「離山荘」22万坪
■葉山別邸「長雲閣」500坪
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆初代公爵 桂太郎 総理大臣 「明治陸軍の三羽烏」の一人 「ニコポン宰相」
1848-1913 65歳没
*身長158センチ・体重67.5キロ・脳重量1,600グラム
*ニコニコ笑いながら相手の背中をポンと叩き、後は頼んだという態度から「ニコポン首相」のあだ名がついた
*胃ガンと診断され、体重は3ヶ月で15キロも減り、死亡
■1番目の妻 斉藤氏 斉藤次郎右衛門の娘・1870年結婚・のちに離婚
■2番目の妻 小田切氏 小田切仲太郎の娘・1874年木戸孝允の紹介で結婚・のちに離婚
■3番目の妻 野田歌子 野田時習の娘・クリスチャン・死別
1857-1886
■4番目の妻 宍道貞子 宍道恒樹の娘・前妻歌子の兄野田時敏の未亡人・クリスチャン・死別
1890年没
■5番目の妻 不明 死別
■6番目の妻 可那子 名古屋の酌婦〈お花〉27歳年下
1875-1940 65歳没
★妾 安藤照子 芸者〈お鯉〉
1880-1948 68歳没
27歳
●歌子の子 桂与一 1882年生 →子は2代当主桂広太郎
●貞子の子 桂三郎 1887年生 井上三郎侯爵となる
●実子 桂四郎 1893年生
●実子 桂五郎 1895年生
●実子 桂新七 1899年生 石部泰蔵の養女石部復子と結婚
●歌子の子 桂蝶子 1880年生 陸軍国光侃と結婚・医者長雄勝馬と再婚
●歌子の子 桂茂子 1883年生 陸軍尾寺勝三と死別・旭石油社長長崎英造と再婚
●貞子の子 桂潔子 1888年生 衆議院議員長島隆二と結婚
●実娘 桂寿満子 1897年生 伊藤文吉男爵と結婚
●庶女 桂輝子 1891年生 官僚天岡直嘉と結婚
●庶女 桂露子/真佐子 学者中村銀作と結婚
●庶女 桂勝子 一時は芸者になり武谷成直と結婚
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『明治大臣の夫人』明治36年出版
桂太郎公爵は妻には縁の薄い男と見える。
最初の夫人はなぜか離縁をなし、その次の夫人は5~6人の子供を遺して帰らぬ旅に行かれ、3度目の夫人は前夫人の兄が未亡人で桂公爵はこの未亡人を迎えて後室とせられたが、これも不運なことには亡くなってしまった。
4度目には素晴らしい美人を貰い受け、いざ安心と思う間もなくまたもや先立って死なれた。
現夫人は前後数えて5回目の妻で、かつて桂公爵が第三師団長に任ぜられ名古屋に赴いた折、最初のほどは真面目くさっていたものの、こればかりは辛抱しきれなかったとみえて花柳の巷に車馬を馳せると、いつしか御目にとまったのが土地に名高い香雪軒の〈お花〉と呼ぶ愛嬌のある娘であったとか。
さてこのお花が身分は何かと調べてみたら桶屋の一人娘、故あって香雪軒に貰われ日々毎日万客の御機嫌を伺うのを常々の勤めとしていた。
立てば芍薬座れば牡丹なんともかとも申しようなき美形、土地の鼻下長連は先を争って香雪軒に乗り込む始末に、肝心の料理はさておきお花の磁石力は毎夜多くの客を満たし思いもよらぬ繁盛を致した。
公爵も美形のお花に接してからは何となく可哀想なヘンテコな気が起こって時々香雪軒に車馬を停めたが、とうとうお花と桂公爵との間に同盟条約が締結され、ついに今日の公爵夫人が出来上がったのである。
そんな訳で10年前のお花が実家は見るも気の毒な侘住まいであったが、今日この頃は打って変った境遇、贅沢三昧に世を送るのは実に幸せなものである。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
万朝報 1898年
越中島機械製造所長沢田仁作はかつて新橋区日吉町の芸妓新津の国屋〆子こと柴田スズ(23)について陸軍大臣桂太郎と激烈なる競争をなし、その結果大金を与えてこれを妾とし、いまなお芸妓稼業をなさしむ。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
宮武外骨『地獄耳』1918年
元来徳富蘇峰はあまりに欲が深すぎるので、ついに長閥からお払い箱になったのです。
先年『政治家としての桂公』という本を書いた時も、桂太郎公爵未亡人かな子からさんざん金銭を巻き上げてそのヘソクリを空にしたため、ついに後家さんも起り出して桂公爵家には出入りの出来ぬようになっております。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は枢密顧問官
1924年7月2日
※宮内官僚酒巻芳男の発言
黒田清輝病気重体なり。
清輝には正妻なく、妾を正妻と為す事の希望あり。
宮内大臣牧野伸顕より相談ありたるゆえ、
「宗秩寮としては聞き届けらるる事は望まず。先例は二様になりおり。これを許す方の先例は桂太郎の妻可那子は井上馨の養女と為りて結婚を許可されおり、これを聞き届けざる例も最近にあり」との事を告げたるに、
宮内大臣は「これを拒む旨を告げ置くべし」と言いたり。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『明治大正名妓物語』1929年
浜の家女将お花←芸者小浜
そういう具合で世の中がドサクサしているうちに、天子様が江戸へ行幸なさいましてね。
私たちは芝口の青柳の前で、天子様をお迎え申し上げたのです。
4~5日経つと木挽町の〈酔月〉に呼ばれました。
お座敷へ出て見ると木戸孝允さんがいらっしゃって、木戸さんのそばに小さくなってたのが桂太郎さんでさ。
「俺も木戸と名を変えたがね、この者に桂を継がせたのだ」ってお引き合せ下さいましたが、桂さんは私と同年ですから二十歳ぐらいでしたろう。
馬鹿に可愛い坊ちゃんでね。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
安藤照子 桂太郎の妾・芸者〈お鯉〉
1880-1948 68歳没
14歳で新橋の芸者になり、1899年歌舞伎役者の市村羽左衛門に見初められて結婚するが1902年離婚、新橋に舞い戻る。
山県有朋の紹介で桂太郎の妾となる。
桂と死別後、1918年銀座にカフェー〈ナショナル〉を開くが1923年関東大震災で焼失、赤坂に待合〈鯉住〉を開くが1934年帝人事件に巻き込まれ偽証罪で執行猶予3年の判決を受ける。
頭山満の勧めで1938年仏門に帰依し、目黒羅漢寺の尼僧として生涯を閉じた。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
1927年『お鯉物語』安藤照子・芸者お鯉・15代目市村羽左衛門と離婚・首相桂太郎の妾
日露戦争勃発、時の内閣は第一次の桂太郎内閣。
元来桂公爵は軍事と政治の他に別段これという道楽の持ち合せがなかった。
「なにか気分転換に役立つものはなかろうか」
当時の元老・大臣らが一様に思い悩んだのがこれであった。
最も心配したのは山県有朋公爵で、世間では厳格そのもののように見なされていたが、山県公爵はあれでなかなか行き届いた粋なお人であった。
お鯉は最初芸者に出た時から山県公爵には一方ならぬ御贔屓を被っている。
ある日のこと、山県公爵のお座敷で、浜町の常盤家に召された。
席には山県公爵と桂公爵のみである。
山県公爵は桂公爵にお鯉のことを話される。
「これがお役者さんに嫁に行って出されてきたお鯉だよ。贔屓にして呼んでやれ」
「山県の御前さんはいつでもそうおっしゃるのですが、どうしてもお百姓さんと聞こえるので嫌でございますわ」
「ほう、お役者がお百姓か。面白いな」
桂公爵は愛嬌よく笑って、相槌を打たれた。
それからまもなくのことである。
また常盤家のお越しの山県公爵は女中頭のおきよに
「どうだ、桂にはこれという決まった芸者はないのか」
「ええ、本当にないんです」
「そうか、それでは困るね。なんとかしてみっともなくないのを決めて世話をして置きたいと思うがな。おきよ、おぬしお鯉を世話してやれよ」
由来、常盤家では客に芸者の世話をしないのを一見識としていた。
井上馨公爵が別荘に桂公爵・児玉源太郎伯爵らを招待した。
料理は常盤家、おきよが出張して采配をふるう。
新橋の芸者たちもいる。
お鯉もその席にいた。
宴もたけなわ、おきよは桂公爵の前に陣取る。
「桂の御前さん、あなたは今ロシアを相手に難しい談判をしてらっしゃるんでしょう。それだのに女の一人ぐらいなんです。直談判なさるがいいじゃありませんか」
児玉伯爵もそばから声援する。
「それがよかろう。場所は四畳半では小さくて面白うないぞ。庭の藤棚の下がいい。あそこには鯉がいるからね」
「どうだ。嫌なのかね」
時は白昼、色恋の掛け合いもこう真正面から切り出されると、さすがのお鯉も冗談にして外すわけにもいかない。
「嫌と申すわけではありませんが、あなた方は伊藤博文の御前をはじめとして人をオモチャになさるから嫌です。いくら芸者でも一人前の人間ですからね、生涯のことを考えてくださるんでなければ御免こうむります」
「よし、わかった。面白いことを言うね。それは確かに承知した」
離れの二階の出窓から顛末を眺めていた児玉伯爵は上から大声を浴びせる。
「おい、桂、どうだった。クロパトキンと条約できたか」
「うむ、クロパトキンを生け捕ったよ」
児玉伯爵は桂公爵の談判首尾よく成立したとの報告に満足して、
「さてここまではこの児玉が参謀じゃが、これから先の粋なことは井上侯爵が適任じゃ」
ここで参謀長交替となる。
その後の桂公爵とお鯉の姿は、十日に一度ぐらい新橋界隈で見かけられた。
たまにお座敷に見えても、多くが山県公爵や井上侯爵と一緒である。
お鯉が顔を出すと、「お鯉、どうかね。よく桂を慰めてやってくれよ」
両人、決まってこうおっしゃる。
ある日いくつかのお座敷を回った後、お約束のお座敷に顔を出すと、「お鯉さん、お前さんにそっくりという評判の女が洲崎にいるというので、それを見に行こうと本物が来るのを待ってたところだ」
評判の女は洲崎大八幡の花魁で、お鯉に生き写しというので、わざわざ見に行く物好きが多いという。
「私はこの後に瓢屋の約束があるのですが」
「なに、大急ぎで行ってきたら間に合わないことはないさ」
そこからお客さんを先頭に芸者・幇間、人力車を連ねて洲崎へ飛ばす。
登楼して呼んでみると、一同は物珍しそうに両人を見比べていろいろな評が出る。
そのうち段々時刻が移る。
夜はもう10時を過ぎていた。
瓢屋の二階では井上侯爵が脇息にもたれて清元を聞いていたが、お鯉の姿を見るやいなや「馬鹿ッ!」霹靂の一声、御落雷。
「どこに行ってた。なに、洲崎。洲崎とは何だ。馬鹿ッ!もう桂は帰る時刻になっているのじゃ。早く下の座敷へ行けッ!」
下の座敷に入ると、桂公爵は泰然と座を構えていた。
時に現れたのが世話好きの大通人平岡凞大尽、いっそお鯉を買い切って置くがよろしいということになった。
買い切りにすると一日のお約束が一つの計算であるから、1カ月170円ぐらいにしかならない。
そのころのお鯉はたいてい1カ月300円以上の収入があったので割に合わない話だった。
そして朝の9時から夜の9時まで瓢屋の平岡大尽の御座敷に詰め切って、ただ座っているのである。
平岡大尽は芸者を集めて毎日毎日飽きもせずに遊んでいるので、お鯉もその中に座らされて1日3円の御祝儀をいただくのである。
1週に1度か10日に1度桂公爵が見えるほかは、毎日ただこうして座っている。
そして夜の9時になると、平岡大尽がお鯉の自宅まで送ってくれる。
決して楽な仕事ではなかった。
日露戦争の進行につれて総理大臣たる桂公爵の日夜の繁劇はいうまでもない。
山県有朋公爵などはたいそう心配されて、「桂だって人間である。たまにはノンキに面白く遊びでもしなければ頭も体も続くものではない。そういえばお鯉はどうした。相変わらず芸者をさせてあるのか」との仰せ。
かく承った例の平岡大尽、かようなことは拙者の十八番、どうか私にお任せ下さいとお鯉落籍の役を買って出た。
永田町の官邸に呼ばれたお鯉は、桂公爵から直接身請けの相談を持ちかけられた。
「山県が大変心配してくれる。自分は忙しくて閑がない。お前の方でよかったら、平岡の言うようにしてくれ」
当時桂公爵は永田町の首相官邸に住まっておられた。
お鯉も官舎からあまり遠く離れていない、桂家で買っておいた赤坂榎坂町の家に住まうことになった。
家に付いた道具というものは全然ないので、すべての島はみんなお鯉のとっておきの品物ばかりだった。
この妾宅にはよく伊藤博文公爵・西園寺公望公爵・井上馨侯爵などのお歴々が見えたが、桂公爵は道具を指しては「これもお鯉の持参金じゃ。これも、これも」と説明する。
お客はあきれて、「たいそう持参金のあるお嫁さんじゃのう」と大笑いするのが毎度のことであった。
後日日露講和の条件が国民の気に入らぬというので例の焼打事件が始まり、「ここが桂の妾の家だ。叩き壊してしまえ」と群衆が襲撃を加えたのもこの家。
榎坂のお鯉の宅へ来られた人はたくさんあるが、最も派手で陽気で異彩を放っていたのはやはり伊藤博文公爵であった。
主人の桂公爵が永田町の官舎からブラブラ歩いて来られる。
その影を追うように伊藤公爵が来られる。
そして何かしら密談が交わされる。
また新橋の若い芸者からお鯉のところに電話がかかる。
「伊藤の御前さんが、あなたのところへ行くからおぬし達も来いよとおっしゃいましたが、伺ってもよろしゅうございますか」
伊藤公爵からは何の御沙汰もなくて、突然こうした電話がかかる。
桂公爵は「また大勢でやって来られるのだろう。繁盛でいいね。お茶屋なら儲かるだろう」と笑っておられる。
仕度をしてお客のおいでを待つ。
やがてやって来られる伊藤公爵にはいつでも取り巻きが大勢である。
桂公爵とお鯉が玄関に出迎えると、伊藤公爵はわざと「この家に約束して来たわけでもないのにどうしたのだ」
桂公爵は「そんな匂いがしたからね」
お鯉は「前もってお申込みのないお客様ですから行き届きませんが、まずまずお通りください」ととりなす。
「いや、前もって申し込むと桂という亭主が出るだろうと思ってね。それが気に入らんからな」
玄関先からすぐ冗談である。
それから座敷へ通るまでに、女中共にまで一人一人からかう。
座につかれるとすぎ、「さて、風呂は沸いているかえ」
どこへ行っても同じこと。
いつでも瓢屋あたりにおられる御気分であるのは、他人の真似できぬところである。
精神を使いすぎるためか桂公爵の健康は日に日に衰えて消化不良となり、食事はそのまま戻すようになった。
主治医である軍医平井政遒は、胃ガンではあるまいかと案じた。
正妻のかな子夫人はほとんど官邸にいることはなかった。
いつも病気保養のため伊香保あたりへ行ききりであった。
お鯉を官邸に入れて世話をさせるがよかろうということになって、お鯉は榎坂の家から官邸へ移った。
思い出してもゾッとするのは、日比谷の焼打事件である。
江戸から東京、何百年来築き上げられた都市の安寧秩序はものの見事に踏みにじられ叩き壊されて、満都市民の肝っ玉をでんぐり返らせた。
いきり立った民衆は丸の内諸官省などを片っぱしから襲撃して回ったが、中でも永田町の首相官邸・三田小山の桂公爵邸などは第一に民衆の襲うところとなった。
「お鯉を殺せ」
「お鯉を焼け」
焼き打ちの始まった日比谷の国民大会の日、9月5日に永田町の官邸で桂公爵と慌ただしい別れを告げて榎坂の家に帰ったお鯉は、外部との交渉まったく絶え、真っ暗闇の家の中で梅干に握飯の生活が20日近く続いた9月23日の朝、初めて桂家からお使者が見えた。
「桂公爵からの御言葉です。
長々御厄介であった。よく世話をしてくれた上に、この度は自分の騒ぎの中にまで引き入れられて、迷惑やら心配やらをかけたことは誠に申し訳がない。そしてよく自分に尽くしてくれたことについて厚く礼を言う。自分も講和のことについてこのような騒ぎを起こした以上、身を退いて世の中を鎮めなければならぬ立場になっている。よろしくそこを察して、そなたはそなたで身の振り方をつけてもらいたい。
桂公爵の御言葉は以上でありますから、よくお考えを願いたい。あなたがこれから何か御商売でもなされるように、ここに1万円を持参致しました」
「御言葉はよくわかりました。私が身を退くことは確かに承知致しました。どうぞお帰りになって御安心くださるよう申し上げてください。
ところでお金のことですが、このお金で何かしたら立ちゆくだろうというのはそちらのお考えだけで、私は人中を歩くこともできない身の上です。今はそれどころではないのですから、このお金はお持ち帰りを願いましょう」
使者は「さっそく御承知くださいましてありがとうございます。桂公爵も定めし喜ばれることでありましょう」と、いったん取り出した札束を再び風呂敷に包んで帰っていった。
やっと見つけた麻布の奥の広尾、南部坂の下り際で、家賃は16円、わずか4間きりの家であった。
広尾の家へ引っ越したのは騒がしかった9月も過ぎた10月の初めであった。
こと多かりし明治38年も暮れて、都も平和の正月を迎えた。
2月某日杉山茂丸が広尾の家を訪ねて来た。
奥の3畳間に大男の杉山を迎える。
「かわいそうになあ」
杉山は思わず同情の声を挙げて、その恐ろしい顔を曇らせながら、
「桂公爵は来られないのか」
「ええ、お暇をいただいたのですから」
話は問題の核心に触れる。
「何か寄こしたか」
お鯉は使者が持って来て持って帰った1万円の話を打ち明けた。
語るお鯉より聞いている杉山の方が、大きな目からボロボロと涙を流し、お鯉の背中を叩きながら「よし、よし、わかった。俺が決して悪いようにはせぬ」といきなり懐から200円の金を出して置いて帰った。
杉山はお鯉の家を出た足ですぐ三田の桂公爵邸に回って、桂公爵と対座していた。
「日露戦争の最中からかな子は病気の保養に転地したりして自分の世話ができなかった。そこへお照〔お鯉〕が官舎に来り表立ったりしたために世間から睨まれたのであろうが、かな子の考えでは焼き打ちもお照のあったためだと思っているのだから、いろいろとことが面倒になって困る。結局家が治まらぬという次第なのじゃ」
桂公爵の正妻かな子夫人は人も知る通り、言わば氏なくして玉の輿に乗った幸福な人である。
「わかりました。私から一つ奥さんに申し上げたいことがあります。どうぞこの席へお呼び願いたい」
桂公爵はかな子夫人を招いて「杉山からお前に話があるそうじゃ」
杉山は「日露戦争の終局、最も頭を使われている最中、あなたが御病気で御留守のところへ、山県さんや井上さんが桂の頭を休めてやってくれと騒ぎ立て、お鯉は芸者を辞めてつきそうことになったのです。そうかと言って桂家では金で落籍したものでもない。そこへ折あしくあの騒動です。お鯉はかわしそうにやり玉に挙げられた形で、ずいぶんひどい目にあった上、今でも外を出歩くこともできず、憐れな境遇に陥っています。妾にするしないは別として、お鯉の生涯を見てやるのは当然ではありますまいか」
かねてお鯉におかんむりを曲げてござるかな子夫人も、「まことに気のつかぬことでした。お鯉のことはどうぞよろしくお取り計らいください」
3月お鯉は広尾の隠れ家を出て、杉山の向島の別荘に招かれ、実に半年ぶりに桂公爵にお目見えした。
今度は桂家公認のお部屋様である。
まさか借家にも置けず都合三軒を買い与えられ、お鯉は新築の家に、実母と養母は2軒の家に住まうことになった。
山県公爵が「明治天皇から侍従長徳大寺実則に『桂のお鯉という女はどういう女か、美人か』という御言葉があったそうじゃ。意外なお尋ねに徳大寺も恐れ入って何と申し上げてよいかわからず、冷や汗を流した後、やむなくただ『さようでございましょう』と申し上げて、逃げるように御前を退出したとのことじゃ。焼打事件の時、『お鯉は傾国の妖婦である』などと書いた新聞があったが、いろんな新聞を常にご覧になっていらっしゃるからだろう」と。
日比谷焼打の後杉山茂丸の忠言もあって、正妻かな子夫人が改めてお鯉の立場を認められたことは前に述べた通りであるが、幾歳月を経てもかな子夫人はお鯉に会って下さらない。
お鯉の方からお目にかかりたいとは言えぬ身の上である。
かな子夫人としては面白からず思われたのも無理はない。
時には桂公爵に対して、猛烈な皮肉やら嫌味やらを並べられたと聞いている。
盆と暮れにはかな子夫人から反物などを下し置かれることがある。
こんな場合桂公爵は上機嫌で、「家内もそんなにわからないんじゃないんだからね」と御自慢であり、お鯉にもかな子夫人に好感を持たせるよう努められる。
「13代目守田勘弥の母親は、ワシが東京へ出て来た時分の初恋の女なのだ。ワシが21の歳じゃから、慶応3年のことじゃ。近所に出入りの八百屋があって、そこに15~16になる娘がいた。これが純江戸式のすっきりした絵にあるような美人だった。この八百屋はなかなか裕福で、娘に遊芸などを習わせて、衣服なども飾り立てておった。家内を持つならぜひこの女をもらわねばならぬと考えたのじゃ。そのうち八百屋のオヤジとは懇意になったが、娘とはつい話をすることができなかった。若かったのう。そのうち明治元年になる。ワシは22歳で正月の3日から伏見鳥羽の戦争を命じられたのをはじめ、その年の11月17日に東京に凱旋するまで多事だった。これからが大仕事じゃ。明治2年8月26日横浜からドイツに立つことになったのじゃが、ワシが外国に行っている間によそへ嫁られては大変じゃ。それで思い切ってオヤジにワシの思いを打ち明けた。『ぜひお前の娘をワシの家内にもらいたい。しかしワシは洋行するのだからすぐではない。約束だけ決めておきたい。実はこのことは3年前から考えつめていたことじゃ』と言うたらね、オヤジも驚きおったよ。オヤジはよく飲み込んで承知してくれたよ。『御言葉通り娘はあなたのお帰りまで決してどこへも嫁ることはありません。御無事のお帰りお待ちします』と言ってオヤジは泣きおった。ワシもうれしかったよ。なにしろ3年越しに思い悩んでおったことが、スラスラ運んだのじゃから。まず結納のつもりで100円オヤジに贈った。いよいよ出発の時にはオヤジは娘を連れて横浜まで見送りにきたよ。明治6年10月、帰朝して官途に就く、家庭を作る、それからまた再度の留学ということにしようと船の中で楽しみに考えておったよ。東京へ着くとすぐ八百屋に行ってみたが、その家が見当たらぬじゃないか。八百屋は失敗して家を売り、憐れな生活をしているという。
ようよう尋ねて当ててみると、オヤジは「旦那、まことに申し訳がありませぬ」と言ったきり。
『嫁にやったか』
『いいえ、もっと申し訳のないことを致しました。私が相場に引っかかったばかりに娘をとうとう芸者にしてしまいました』
やれやれ、まず良かった。なに、人の物にさえなっておらなけりゃ良いのじゃ。さっそくオヤジの案内で新橋の芸者屋へ行ったよ。美しい上にまた磨かれて、まるで天女のように思うたね。お貞さんと言うのじゃが、その後も芸者屋にお貞さんを訪ねて行ったが、どうも口が利けない。つまらぬことを言うて嫌われては困ると思うので、なかなか話ができない。ここに意外な問題が突発した。
母から『お前の嫁を決めたいから、さっそく帰省するように』とのことじゃ。
『嫁は自分の好きなのにして下さい』と申し送った。
『それでは相談にこちらから出て行く』というので、
『実はもうこっちで決めてしまった』と折り返した。
郷里の母は女の身元などについて調べたところ、八百屋の娘で芸者だと知れたので、びっくりしてすぐさま上京ということになった。あの時ほど困ったことはない。そして案のごとく母は大反対であった。
「芸者は困る、それだけはやめてくれ」と言う。ワシも負けてはいられない。
「芸者と言ってもはじめから芸者ではありません。芸者にならぬ前から約束してあったので、ただの芸者とは違います」こう言って力んでみたが、こんな言いぐさは世間のノラ息子の決まり文句じゃ。
それを真面目に母に言っていたのだから、今から考えるとおかしくてならぬ。
「八百屋の娘で芸者に売られた女を嫁にしては御先祖に対して相済まぬし、郷里の者に対しても恥かしいから、この儀だけはまかりならぬ」という仰せである。そこでワシは考えた。これは当人のお貞さんを母に見せるのが上分別、一度でも見たらあの器量や様子に感心するに違いない。母はお貞さんを見てなるほどと感心してくれた。それ見たことかと得意でもあったね。
ところが母曰く「なるほど、美人じゃ、お前が欲しがるのも無理はない。しかしあれ以上の者を母が探してやったらよかろう。長州で家柄も身分も上等な、そしてあれ以上の美人だったら申し分あるまい」
早く父を失ってから母一人の手に育てられたワシとしては、それでもとは言えない。ずいぶん切なかったがお貞さんをあきらめて、嫁のことは母に任せることにした。あれ以上の美人というのを探してくれたのが最初の家内さ。それとなくお貞さんの様子を探ると、もうすでに人のものになっていた」
桂公爵の最初の夫人は同郷の野田氏の令嬢野田歌子。
伊藤博文公爵が歌子夫人の談に及ぶと、「わしもずいぶん美人を見たが、歌子夫人ほどの美人はかつて見たことがない」と言われた。
長男与一・長女蝶子・二女茂子の三子が生まれたが、三子とも母君に似て美しい人であった。
歌子夫人は産後に病を得て亡くなり、第二の夫人宍道貞子を迎え、貞子夫人に1男1女ができたが、幾年の後亡くなられて、今のかな子夫人が入られた。
「ワシは今子供を勘当してきたのだ」
お鯉はギョッとした。
「茂子だ。3人の子供を抱えて若後家じゃ。屋敷の中に住まわしているが、尾寺の舅姑も『あまりに若くて気の毒だから、相当のところへ嫁入りさせてくれ』ということになっていたのじゃ。そこで常々茂子に同情しておった長崎英造という男が嫁に欲しいという話になったらしい。ところが順序が悪くてワシの耳には不義をはたらいた形式に聞かされたのじゃ。まだ籍の入っている尾寺家に対しても相済まんわけじゃ。そこでワシとしては勘当するより他に道がないことになった。順序を踏んでくれれば喜んでやるものを、茂子が至らぬからこんなことになるのじゃ。母親には先立たれ、夫には戦死され、3人の子を抱えて今度は父親に勘当される。不憫な奴じゃ」
勘当された茂子未亡人は、その後熱情ある錚々たる実業家長崎氏の迎えられて、人もうらやむ新家庭を作っておられる。
桂公爵は大阪に行かれることが度々であったために、彼の地の花柳界に残した艶聞もなま少なくない。
ある日お鯉は大阪で桂公爵と一緒になって、その日は宝塚に一泊し、翌日箕面へ行く予定であった。
一行の御供にはいつもは見慣れぬきれいな芸者がそろった。
その中に艶子という当時大阪の藤田組に在勤中の桂公爵の令嗣桂与一と深い関係の美人がいた。
桂公爵は艶子に目を止められ、お鯉に向って、「あの芸者はいいね。うむ、実にいいね」とばかり、間さえあれば艶子の噂で持ち切りである。
事情を知っているお鯉はおかしくて仕方がない。
「なかなかいい奴じゃ。東京にもちょっとない」
お熱がだんだんと高くなる。
「さあ、大変、大変」と、女将連や老妓連が騒ぎ出した。
「あなたがどんなにいいいいとお思いになっても、あの娘ばかりはダメですよ」
「なんでダメなんだ」
「あれは若旦那のですよ」
「なんだ、与一のか。ハハハハ」
桂公爵も腹を抱えて笑われた。
大阪には珍しい総理大臣のお顔を直接見られるというので、花外の門前は常に人立ちがする。
幼い女の子を背負った26~27の痩せた小柄な女がいて、これが始終立っている。
お鯉は花外の女将に心当たりを尋ねた。
女は神戸の常盤華壇にいた女中で、先年桂公爵が常盤華壇に泊まって1~2度知り合ったことがあるらしく、後に常盤華壇から桂公爵の子供を宿したという通知があったので、時の兵庫県知事に託して善後の処置を取ってもらい、すでに解決がついているはずであると。
桂公爵に聞いてみると、「うむ、それは知っている。日露戦争の始まる頃知事の手紙で驚いた。そこで女の子なら金で始末してくれ、男の子ならば世話をして育てて置いてくれと返事をしておいた。その後女の子が産まれたというので、日露戦争から露子と名をつけて、金を2千円送っておいた。それで結末がついているはずじゃが」
世話好きの岩下は生母山田キクの嫁入先まで斡旋して話をまとめた。
嫁入先は岩下の配下である高木貞幹という人で、森永製菓の重役であった人である。
人物もよく生活も豊かに保証されているからとのことで、キクも高木氏のところへ嫁すことに決定した。
いかなる事情があったか知らぬが、キクは高木氏と離婚になった。
せっかくの良縁を残念なことであるが、やはり彼女は放浪の女であったのであろう。
別れる時高木氏から相当のものをもらって出たとのことであったが、大正5年肺結核で36歳でこの世を去ってしまった。
明治45年桂公爵は後藤新平・若槻礼次郎を連れて、4度目の欧州漫遊の度に上った。
「おぬしにも長々世話になった。子供まで救い上げてくれての世話は容易でない。ワシはお前のために数年前から少しずつ貯えておいた。それはワシに万一の場合があった際のワシの礼心であった。もっと増やしてやりたい考えであったが、増えないうちに今日の場合になった。もっとも与一がいるからおぬしの生涯のことは心配はないが、まずこれはワシの礼心だと思うてくれ」
一通の書きつけには、公債・その他種々なる株券・銀行預金を合わせて
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
合計6万5千円なり。
右は安藤照子の所有なり。
桂与一殿
太郎
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「もしワシに万一のことがあった時は、この書きつけを与一のところへ持って行けば、与一が悪いようにはせぬから」
明治45年7月6日、桂公爵一行は朝野の盛んな見送りを受けて、新橋を出発した。
新橋駅頭、群がる見送り人の後方に隠れて一人の芸者姿の若い女があった。
それは桂公爵の御落胤で、今は柳橋で芸者をしている女と知れ、翌日の朝刊に大々的に載せられた。
お鯉は抱え主一藤井の春栄姐さんにお座敷をかけてもらった。
「あれは一龍と言うのです。桂さんのお子さんだと申すことですが、人の話では大変よく似申してるそうです。芸は相当できますが、なんとなく内気な娘で、器量も大してよくないし、余り売れないので気の毒な人だと思ってます」
「とにかくそのお子をここへ呼んで私に見せてください」
さっそく電話がかけられて、一龍がお鯉の前に現れた。
なるほど桂公爵によく似ている。
桂公爵を知っている人が見たら、誰でも血縁であることが知れよう。
お鯉は春栄に言った。
「桂公爵のお子に違いありません。私が引き取ってお世話したいと思います」
春栄は大喜びである。
結局2千何百円ということに話がつき、金のないお鯉は借金して落籍を済ませた。
ところが一龍には親類と名乗る人が大勢あった。
おばあさんは小さい待合でも出させてくれと言う。
おじさんは蕎麦屋をやらせてくれと言う。
黙って聞いていたら際限がない。
結局これも1500~1600円の金で埒をあけた。
一龍を産んだ当の母親は現れない。
お鯉は八方手をまわしてやっと探し出した。
神田のある蕎麦屋の家内だったがすこぶる神妙な女で、「私の親が悪くてお邸に再三迷惑をかけて済まぬ」という善良さ。
欲しそうな顔もしなかったこの母親に、お鯉は200~300円の金と包んで渡した。
「ワシの名古屋時代じゃ。日清戦争の時ワシは師団長だった。上京すると山下町の旅館が定宿で、相手はそこの女中じゃ」
その女中にできたのが女の子と聞き、戦勝にちなんで勝子と名づけた。
「当時ワシは最初の家内が子を残して死ぬ、二度目の家内も子を残して死んだ。子供たちは方々の親類に預けていた頃で、日清・日露の戦役はワシの一生中での大事業であった。記念のようにそれぞれ子供ができた。そしてどの子も不運じゃ。おぬしは前に露子を拾い上げてくれた。今度は勝子を引き取ってくれる。もう他に心当たりはないよ。また大きな戦争でもあれば厄介をかけぬとも限らぬが」
柳橋芸者から一足飛びに桂公爵令嬢としてすっかり本物の令嬢にこしらえ直すのは容易な骨折りではなかった。
桂公爵はお鯉と共に、令嗣桂与一が大阪天王寺に新築した屋敷の座敷開きに臨んだ。
しばらく前まで秋田の小坂鉱山にいたが、このほど栄転して大阪に来り、天王寺に新邸を設けた。
まだ30になるやならずの青年実業家としてはなかなかの成功と言わねばならぬ。
知らぬ人は桂公爵の補助もあると考えるだろうが、まったくの独力でやったのである。
学生時代も定額の学費を与えられる以外、他に毫も桂公爵の世話にはならなかったのである。
桂公爵が身長の高くない丸々と太った体格の人であったに似ず、与一氏は背のスラリとした面長の美しい好男子であった。
それは与一氏の母君歌子夫人が絶世の美人であったのを承けたのであろう。
しかし歌子夫人が亡くなり、次の夫人も幾年の後亡くなられて、今のかな子夫人が入られたので、与一氏は生まれた家へ出入することが少なくなり、父君との間は自然疎遠になった。
桂公爵は「親父が相当な位地の進むとどうも倅はろくな奴ができんようじゃが、ワシの口から言うもおかしいが、与一はようできた奴じゃ。ワシは一向かまってやらなかったに」と言った。
与一氏が父の頭脳を継いで明敏聡慧の人であり、母の血統を承けて風采閑雅な貴公子であり、家庭の事情のためによく人情の機微に通ずる人となり、お鯉が赤誠をもって桂公爵はに仕えているのを見て、「自分は幼い時家庭的には非常に不幸であった。しかし親孝行ということはしたいと思っている。しかし実はお父さんがどういうことがお好きであるかさえも分からぬ。食べる物でも何がお好きか知らないのだ。お父さんは何でもできる身の上でありながら、家庭であってさえ始終遠慮をしておられる。あなたは始終お側にいるのだから、どうかできる限りお父さんをお慰めしてください」と言われた。
旻天無情、与一氏は病を得て大正2年桂公爵に先立って行かれた。
大正2年4月7日の夜、日本郵船の加藤正義の招待を受けて芳野家の宴席に列せられたが、突然めまいがして席に堪えられず宴半ばにして帰邸された。
翌日は新政党の関係で浜町の常盤に顔を出して演説をされたが、腹痛でまた中座して帰られた。
その翌日は三田の自邸で支那に行く加藤高明男爵の送別会を開くことになっていたが、腹痛と衰弱でそれもならず、桂公爵が病褥の人となったのは、実にこの日からである。
屋敷からの知らせによれば、病状は項頸筋・背腰大腿の諸筋にリウマチ様の痛みを発し、静かに安臥していれば痛みを覚えないが、わずかでも身体を動かすと激しい疼痛を起すというのである。
その後桂公爵の病状は小康を得て、6月3日かな子夫人同道で葉山の別荘に転地し静養されることになった。
今度は桂公爵の嫡男与一氏が腸内腫瘍症という軽からぬ病気で、桂公爵が葉山へ転地後容態が急変して、かな子夫人は与一氏の看護に東京へ戻られたという知らせを受けた。
「葉山からお電話でございます」という女中の取次に受話器を手にすると、「お照か、おぬしすぐ来いよ」
思いもかけぬ桂公爵自身のお声である。
身支度もそこそこに新橋停車場へ駆けつけ、葉山の別荘の門をくぐって桂公爵の病室に通ってみると、桂公爵は力なく椅子にもたれて、傍らから看護婦が身体を支え、頭をちょっと動かすのも大儀という様子。
発病前まで18貫を越えていた体重は、3カ月の間に4貫減っていた。
「体中に臭い薬を塗られるので、それが鼻について物が食べられぬ。おぬしに何かワシの好きな物をこしらえて食べさせてもらいたいと思うて呼んだのじゃ」
お鯉は夜昼帯も解かずに、桂公爵の食事から身の回りのお世話に没頭して日を暮らした。
病床の桂公爵がお鯉に「勝子の縁談はどうなった」
「はい、あなたが御全快になったら吉日を選んで結納を交わしたいと考えています」
「先方はワシの言うたことを承知したか」
お鯉の懇意な友だちの舞踊家若柳吉登代(中村千世子)の世話で、東大法科を出たばかりの武谷成直と勝子との間に縁談が進行中だったのである。
「ワシの言うたこと」というのは、勝子はお鯉によって救い出されたのだから、勝子をもらう人はお鯉の世話を引き受ける人でなくてはならぬという御注意なのである。
「先方に伝えましたところ承知してくれました。心細ければ勝子ともどもお側にいて、お宅から通ってもよいと申してくれました」
6月16日、与一氏の訃報が葉山の別荘に伝えられた。
「ああ、駄目か。どうしても駄目か」
病躯を押して電話口に出られた桂公爵の口から洩れた数語。
「おぬしに少し聞いてもらうことがある。看護婦を遠ざけてくれ」
お鯉は居ずまいを正した。
「最初の家内は与一・蝶子・茂子の3人を産んで病気になった。母親が患うているので、家内の兄嫁に当る貞子が未亡人じゃったので、看護に来てくれて家事一切の世話をしてくれた。ところが家内の病気は治りそうもない。親類の者は家内が万一の場合には貞子をそのまま後妻に直して子供たちの世話を頼んだ方が良かろうという話が出ておったのじゃ。薄々病人の耳に入ったものと見えて、死ぬ数日前『自分が死んだ後でも決して兄嫁の貞子を娶ってくれるな』言うのじゃ。ワシは死んで行く者に心残りのないように思うたから、気軽にその約束を承知してやった。家内はそのことを繰り返しながら世を去った。その後ワシは死者を欺いた結果になったのじゃ。後妻にした貞子も4年目に死んだ。蝶子はおぬしと同年じゃが、ケガが元で永らくの病人・茂子は未亡人になった上に勘当・与一はワシを残して早死に、悪いことばかりじゃ。そこでおぬしに頼みがある。家内の追善を頼んでもらいたい」
翌日お鯉は葉山から上京、二人の僧を伴い青山の墓地に赴き、丁重な供養を営んで先夫人2人の冥福を祈った。
桂公爵は「ここにいては人が来たりしてうるさくて困る。ワシはこれから箱根にでも行って、おぬしの世話になりたい。箱根の大倉の別荘を借りてもよし、福住の別荘もある」
主治医の軍医平井政遒が診察に見えた時、桂公爵は「お照を連れて箱根に行こうと思うから、君から家内の者に話をして、いいように頼む」と取り成しをお頼みになった。
ところが東京からの返事は、「箱根はあまり遠方で御無理です。鎌倉の岩下さんの別荘にお移りになるよう御支度ができております」ということであった。
「はやりワシの心が分らぬと見える。ワシは遊びに行くのではない。人が来て与一の悔やみを言われるのを聞くのさえ嫌なのじゃ」と憮然として嘆息された。
箱根が遠すぎるのではない、お照を連れてが悪いのであろう。
鎌倉笹目の岩下清周の別荘に移ったのが6月19日、医師と3人の看護婦とお鯉が付き添った。
岩下氏の全盛時代のこととて、別荘はまるで病院と同様の設備ができていた。
桂公爵の女婿長島隆二が鎌倉にお見舞いに来て、お鯉を別室に呼び「安藤さん、突然ですが、今日三田のお母さん(かな子夫人)が来られることになったんですよ」
「そうですか。それでは、あなたからパパさんに申し上げていただきましょう」
「僕は言うのが嫌で」と長島氏はしょげている。
「そんなことおっしゃっては私が困ります」
長島氏はやむなく桂公爵の前に現れる。
「今日お母さんが来られるようです」
「なんだ、急に来るなんて不都合じゃ」
桂公爵はひどく気色ばんでいらっしゃる。
「私は一度出直して、また上がることにいたしましょう」
「おぬしは帰るのか」
うつろな声でこう言われた。
「ワシはもしかすると体の具合で屋敷に帰ることになるかもしれぬ。不幸にしてワシの病気が重態というような場合には、おぬしは人に頼まず自分で子供を連れて屋敷に来い。その時は玄関からやって来るのじゃ。そして奥さんに会いたいと申し出るのじゃ。そうすると奥さんは快くおぬしたちをワシに会わせるであろう。決して心配はない。よいか、よいか」
そのお声が聞き納めになろうとは、お鯉には思い設けなかった。
9月12日に鎌倉を引き上げて帰京に決し、三田の本邸に入られた。
桂公爵の女婿長島隆二氏・伊藤文吉男爵・天岡直嘉氏はお鯉について相談の結果、「安藤としてではなく、パパさんのために2人の子供の世話をしているという関係から、お母様にお願いすることにしよう」ということになった。
10月8日長島氏はお鯉を訪ね、「なんとも申し訳ありません。我々からお母様にいろいろと願ってみましたが許されません。最後に我々は『パパさんの思召しを考えてのことですから』と願ったのです。ところがお母様は『みなさんから見るとパパさんだけが親で、私は親ではないのでしょうから、みなさんの勝手になすって、誰でもお会せになったらよろしい。そのあいだ私はどこぞへ行って、家を外していましょう』と言われた。私共も義理の間ですから、このうえ進んでお願いはできません」
お鯉は「まことにありがとうございました。どうぞよろしくお言伝を願います。いかに公爵の御言葉にせよ強いて私が伺いましては喧嘩腰になるようで、公爵のお顔にもかかわることですから、私は諦めました。私はお目にかかることは断念しましたが、お子たちだけはきっとお会せいたします」
長島氏が辞して帰ると、お鯉は目白の山県公爵邸へ自動車を飛ばした。
山県公爵は「お鯉、えらい心配なことじゃのう」と出てこられた。
「私はお目にかかりたいとは申し上げません。ただ2人のお子たちにはどんなにしてもお会わせ致しとうございます」
「おぬし、本当に自分が会うことは断念したか」
「はい、覚悟いたしております」
じっとお鯉の顔を見守られた山県公爵、「おぬしがその覚悟さえしてくれたら、ワシが後を引き受ける。井上と相談してきっと子供は会わしてやる。安心せい、山県が引き受けたじゃ」
井上馨侯爵は桂家の親戚筆頭である。
かな子夫人は井上侯爵を仮親として嫁いだ人であり、桂公爵の令息三郎氏は井上侯爵の養子という関係もある。
山県公爵・井上侯爵うち揃って三田の桂家を訪問された。
かな子夫人説得のためである。
男勝りのかな子夫人も、さすがに断りかねて聞き届けましたということになった。
「それでは明日にお願いしましょう。昼間では新聞記者の目に立ちますから、夜8時頃がいいでしょう。来る時は表からでは人目について困りますから、庭口から内々でそっと来るようにお申し渡しを願います」と。
勝子は19歳・露子は10歳、二人を呼んでお鯉は言って聞かせた。
「明日はパパ様のお見舞に勝子と露子とお二人で行くのですよ。よくよくお顔を見て覚えてくるのですよ。偉い方たちが大勢おいでになりますから、普段お母さんから教わった通り、お行儀を良くして、決して笑われるようなことがあってはなりません。あなたたちが笑われると、お父様の恥になって、お母さんも笑われますからね」
幼い露子は「お母様はどうして御一緒にいらっしゃないの」
お鯉はハッとしたが、「お母さんはお留守番をします。人がたくさん見えますから。それであなたたちにおかあさんの代理で行っていただくのです。お屋敷にはもう一人お母様がいらっしゃいます。よく気をつけてお目にかからなくてはなりません」
10月10日になった。
お鯉は身支度のできた勝子・露子に、「よくよくパパ様のお顔を拝んで、帰ってからお話を聞かせてください」と言い聞かせて送り出した。
病室の次の間には桂公爵の弟桂二郎夫妻・故与一未亡人・長島隆二夫妻・伊藤文吉夫妻・天岡直嘉夫妻・井上三郎その他が粛然と居並び、桂公爵の枕頭には医師と看護婦が侍していた。
桂二郎夫人はさすがにお歳の功か、つと席を立って「パパ様はもうおわかりにならないから、よくお顔を拝んでお帰りなさい」と2人を病床まで連れて行ってくれた。
2人はおそるおそる御辞儀をしながらお顔を拝んだが、まったく死んだ人のようで生気というものは失せてしまっていた。
2人は御親族の方々に丁寧に敬意を表して引き下がった。
車に乗りかけていると、奥から駆けてきた女中に「しばらくお帰りをお待ちくださいませ」と引き留められた。
2人が上がった時かな子夫人は病室においでいならなかったが、「安藤のところから参った2人が、御挨拶を済ませて帰りました」と聞き、山県公爵・井上侯爵のに約束した以上、2人はかな子夫人みずからの紹介で桂公爵に会わせなければらなぬ、早く2人を呼び返せという厳命が下ったので、女中が追っかけてきたのである。
呼び戻された2人が再び病室に通ってみると、正面に立派な権高い婦人が座っておられるので、丁寧にお辞儀をした。
「安藤のところから来たお子はお前たちかえ?何というお名?」かな子夫人はこう言って、己の誰であるかを相手方に覚らせるという風。
「勝子と申します」「露子と申します」2人はかしこまって答えた。
「ああ、そう。勝子と露子だね。こっちへおいで」
かな子夫人は桂公爵の枕頭に進み寄られ、桂公爵の耳元近く口を寄せて、「安藤のところから、勝子と露子が参りました」と告げた。
すると朝から昏睡を続けておられた桂公爵が、突如大きな目をパッチリと開かれた。
やおら右の手を伸ばして露子のお下げ髪をむんずとつかみ、露子の首を御自分の胸の辺りまで引き寄せた。
つきそいの医師も看護婦も、みな面を覆うて声を飲んだ。
露子は「お母様、パパ様が私のお下げをお引っぱりになりましたの。2度もお顔を拝んだのです。お引っぱりになって痛くて怖かったkれど、パパ様がお側に来いとおっしゃるのだと思って、お胸のところまで行きました。大きな目でじっと私をご覧になって、お笑いになってよ」
勝子は病室の模様を語って最後に、「私の顔をじっとご覧になったかと思うと、私の背後を透かすようにして見つめていらっしゃいました。きっとお母様をお探しになったに違いないわ」
お鯉は丈なす黒髪を根元からプツリと切って、仏壇に供えた。
10月11日三田の本邸から長島家令が来た。
お鯉は長島家令の前に自分の切髪を置いた。
「日陰者の悲しさ、せめてこの黒髪を御棺の中にお入れいただきたい最後の願い、どうぞお計らい句下さいまし」
翌日長島家令から「皆様にお話いたしまして、確かに御棺の中にお入れすることに致しました」という電話があった。
お鯉はこの時34歳であった。
翌月11月にはもう本邸からお鯉のところへ生活費が来なくなった。
桂公爵が逝かれてからふた7日が過ぎた頃、三田の本邸から人が来て、「桂公爵の遺言によって渡すべき財産がある。そして当方へ受け取るべき子供がある。その決まりをつける」と申し込まれた。
桂公爵の遺言によってお鯉に分け与えられた財産について、本邸ではこういう解釈を下したのだそうな。
それはこの財産はお鯉とお鯉に預けられている遺児に遺されたものである、勝子はすぐに結婚するからよいが、露子にはまだ長い春秋がある、今のうちに遺産を分配させて本邸に引き取った方がよいという意見であった。
勝子の方はすでに婚約も整い、桂公爵の忌明を待って嫁入らせることになっている。
本邸の方では捨てて顧みなかった子供を4つの歳から拾い上げ、並々ならぬ苦心をして公爵家の姫君として恥ずかしからぬ人柄になったのは、まったくお鯉の努力の結果であるとして、桂公爵も喜んでおられた。
大正3年2月下旬、三田の本邸からお鯉のところへ、今からすぐ内田山の井上侯爵のお屋敷まで出頭するようにとの仰せである。
井上侯爵は軽い中風を病まれて、2~3の看護婦が傍にお世話申し上げている。
井上侯爵の左右には、益田孝・早川千吉郎・田島信夫いずれも井上侯爵昵懇の偉い方々、末席には珍しや喜楽の女将おきん婆さんが控えている。
これはなかなかお揃いのことと思ったが、喜楽の女将が口を切って、「井上の御前さんがあなたのことを御心配になって、いろいろお取決めをしてくださるんだそうですから、御安心なさい」と言った。
老職どころの田島氏が「このたび桂公爵がお亡くなりになって財産整理が行われた。ついては桂公爵があなたに遺された財産は井上侯爵がお預かりになって、生涯あなたの身の安全を計ってあげたいとの思召である」と口を開く。
お鯉は「まことに恐れ入りましてございます」と丁寧に御礼を申し上げる。
すると井上侯爵は「月々おぬしに200円ずつやるから、自身で取りに来るがよい。病気の時はその由を申し立てて、代人を寄こすかこっちから届けるか、いずれかにするのじゃ。それでよかったら、書きつけが作ってあるから、ここにいる益田・早川などに証人になってもらって、おぬしも判を押すがよい」
田島氏が大判の罫紙4~5枚にしたためてあるものを取り出して読み上げる。
①節操を守ること
②みだりに外出ずべからざること
③桂公爵の遺児を育てるについては、誠心誠意いやしくもぜざること
④子供の教育は自分勝手にせざること、一々相談に来りて御指図を受くべきこと
⑤自分の財産なれば、中途から全部引き渡せなどと言わぬこと。
⑥一身上のことはすべてお任せして、仮にも身儘になさぬこと
以下十数条にわたって綿密苛酷を極めたものであった。
田島氏は書きつけをお鯉の前に出して、「よくお読みになってごらんなさい」と言った。
見てみると終りの方にはすでにこの一座のお歴々の名前が書いてあって、その下にはいちいち書判がしてあるではないか。
田島氏はしびれを切らして口を出した。
「さあ、もうおわかりでしょう。早く井上侯爵にお礼を申し上げて判を押してしまいなさい」
お鯉は「せっかくですが、この箇条書きに判を押すことは勘弁させてもらいます。これはなかなか大変なことのようですから、よく考えてそれからのことにしていただきたいと存じますが」
お鯉の言葉の終わるか終わらないうちに、井上侯爵たちまち大一喝。
「不承知なのか。どこが気に入らぬ。馬鹿ッ!せっかくの親切がわからぬ奴。不届き者め!」
この場合当然現れなくてはならない役者は喜楽の女将である。
「何でもいいからハイと言ってお置きなさいましよ。後のことは後のことでさあね。この場はこの場で。悪いようにはしないからさ」小声で囁く。
「女将さん、私はあなた方と違って井上の御前さんには何のお世話にもなっていないんですよ。どんなことでも御無理ごもっともと承ってさえすれば、何か利益になるような方々とは違いますからね。
私としては一生涯の身の上のことですから、心にもない判を押すようなことはできません。どうぞ私を帰らせてください」
井上侯爵は「言うことのわからぬ奴は帰れッ!」
かくて2~3カ月は夢の間に過ぎた。
自分のものである幾万の財産がありながら、その日その日の生活のために着物を売って行くのだから、なかなか矛盾した話である。
井上侯爵の方ではいろいろ運動が行われる。
益田孝男爵のお妾瀧子さんがお鯉の宅へ訪れる。
「まあまあ理屈は言わずに、早くあのかきつけに判を押して埒をつけた方がよいではありませんか」
お鯉は桂公爵直筆の財産目録6万5千円、その書きつけをもって杉山茂丸のもとを訪れた。
「この間からちょいちょい話に聞いてた。死なれてまもないのに、女一人のことでゴチャゴチャやってるそうじゃが、あきれたものだと思っておったよ」
「私がこの書きつけを持っているから皆さんも御心配なのでしょうから、どうかあなたの御手からこの書きつけを井上侯爵に差し上げてください」
「欲を捨てての決心にはとてもかなわぬ。よし承知した。ワシが井上侯爵のところへ使いに行ってやろう。そして財産を返してきてやる」
「どうぞお願いします。きっぱりと因縁なしにお返ししてくだだい」
杉山氏は井上侯爵にお鯉から預かった財産目録を持参して、お鯉の意志を語った。
井上侯爵は「杉山などを中に入れて怪しからぬ奴じゃ」という腹になった。
杉山氏の方では「オレが間に入ったがどうした」というような具合で、その後しばらくは井上侯爵と杉山氏は睨み合いの状態となってしまった。
杉山氏は「お鯉はお鯉の勝手にさせる」と言う。
こうなると井上侯爵も困られて、杉山氏に謝罪状を送り、改めて談合となった。
「君がもっとも嫌に思う箇条書き、あれは全部撤廃させる。それに桂公爵の書きつけの額は6万5千円であった。井上侯爵の手元にある現在は5万8千円という減額を示している。君の希望としては金の額の問題ではないはず。君さえ承知してくれれば四方八方円満なことになるから承知してくれたまえ」
杉山氏のはからいで箇条書きは撤廃され、増すべきはずの金は減っているが、遺産として5万8千円がお鯉の手に渡されることになった。
ところが白紙無条件でお鯉に渡されるべき約束に、やはり条件が付されていた。
それは遺産のうち2万円は露子に分配しておくという条件である。
そこでお鯉は杉山氏に語り直さねばならなくなる。
「勝子には何もなく露子にばかりお分けになるのは不公平と思います。同じ桂公爵のお子ですから、同じようにお扱い願いたい」
この理屈はなかなか通らなかった。
それは露子に2万円を分配しておいて、その財産ぐるみ桂公爵の弟桂二郎に引き取らせるという相談があったのである。
井上侯爵はようよう納まった問題が再燃しては大変と考え、お鯉の主張を通して勝子を認めることとなり、勝子と露子に各1万円与えて、これは井上侯爵に保管を託し、残金3万8千円がお鯉の手に渡されて、桂公爵の遺産問題はここに解決を見たのである。
勝子はお鯉の主張によって、持参金が1万円増えたのである。
その1万円は勝子の婚礼の支度に用いてもよいはずのものであるが、お鯉は例の意地から自分の財産から公爵令嬢として恥しからぬ支度を調えた。
四季の紋服までそろえて、白無垢の婚礼。
箪笥・長持はもとより手回りの小道具に至るまで、いずれも特別誂えの定紋付である。
御用を承った高島屋が、近来にない御支度あまり見事ゆえ、ぜひ記念の写真も撮り出入りの人々にも見せてとのことで、10畳2間の部屋に飾り立てたほどであった。
5人10人の客に対しても、夏冬の客布団・座布団・蚊帳まで取り揃えた荷物が15荷、1万5千円を費やした。
桂公爵が逝かれた翌年11月、築地精養軒で披露宴が催された。
来賓100余名が列った。
「たいていの御身分の方でもできない婚礼です。桂公爵が御存命であってもこれほどにはなさるまい」と驚き語る者もあった。
勝子の婚礼が済んでまもなく、杉山茂丸がお鯉に向って言う。
「桂公爵の弟桂二郎が露子を息子の妻にしたいと言うのだ。それには一日も早く引き取って、家風に合うように手元で教育したいと言う。ワシも良いように思う。そうしたらどうじゃね」
お鯉にはまた悲しい話がやってきた。
桂公爵没後から始まった露子引き取り問題は、いつまでもいつまでもお鯉につきまとうのである。
「叔父様のところへお嫁に行くのです。勝子姉様もお嫁にいらっしゃったでしょう。今度はあたながいらっしゃるのです」
なだめつすかしつ、やっとのことで承知させた。
お鯉はお嫁入り同様の支度を調え、二郎夫妻をも驚かせたという。
かくて11歳の嫁御寮は、1万円の持参金を携えて、二郎宅に引き取られた。
〔この養女縁組は成立するが、結婚は成立しなかった〕
数奇な運命のお鯉は大正9年、銀座でカフェーナショナルを経営することになった。
その2年後大正11年、露子がカフェーナショナルにお鯉を訪ねてきた。
「お母様、私の本当のお母様はあなたなんですわね。叔父様(桂二郎)に引き取られてからは、ずいぶん長い間あなたは私のお母様でないといろいろ言われました。そしてお前の母親は死んだと、お墓へ連れて行っていただきましたが、私にはお墓の方は私が小さい時に育てられた人だと思います。私中村(夫)へ嫁きましてから、中村にも聞きました。しかし中村もやはり私の母は死んで品川のお墓がそうだと言われます。私はお母様のことを少しも忘れたことはありません。いつもお気の毒で申し訳ないと思っています。私はまだお嫁になったばかりでどうしてよいかわかりませんが、どうかしてお母様のお家をこしらえてお入れ申して、御恩返しを致したいと存じております。どうぞ、露子のお母様だということをおっしゃってください」
お鯉は気を静め、語り出した。
「私はあなたのお尋ねに対して本当のお母様であると言ってあげたいのですが、それは事実と違うのです。皆様がおっしゃるように品川のお墓の山田キクという方があなたの生みのお母様です」
「さようでございましたか。いろいろありがとうございました。御親切な思召は生涯忘れませぬ」
露子はまもなく母となった。
大震災の後お鯉が見舞かたがた露子の家庭を訪れた時、美しい若妻の露子はすっかり母親らしいもの慣れた調子で、「さあ、お祖母様ですよ、御挨拶なさい」とお鯉に紹介するのであった。
桂公爵のニコポンと言えば、知らぬ者はない。
10年以上お鯉のところにいた奉公人も一人として桂公爵の御機嫌が悪いのを見た者はない。
普段の食べ物はもとより調度についても、好き嫌いということがない。
「ワシは何でもよい」と言われる。
お鯉が「あまりお小言もなく御注文のないのは張り合いがありません」と言うと、
「これは困った。小言を言わんとて叱られる」と桂公爵は笑われた。
「ワシは怒ることが嫌いなのだ。世間ではワシのことをお世辞ばかり言う人間のように思うているらしいが、怒ることは自分を不愉快にする、まことにつまらんことじゃ」
桂公爵は晩年日本酒を飲まれず、わずかに葡萄酒の盃を挙ぐるに過ぎなかった。
明治27年日清戦争の時、名古屋の第三師団長として出征し、遼東の各地に転戦した。
その年の12月19日、一夜民家に屯して敵の来襲を待つことがあった。
満洲の冬は寒い。
桂公爵は将卒に酒を与えて士気をを鼓舞し、自分も幕僚と共に盃を重ねていた。
そのうち敵軍の来襲、ソレッとばかり桂公爵に突出した。
ところが今まで焚火と酒とで温めていた身体が急に零下の戸外に出たため、めまいを起して人事不省となり雪中に昏倒した。
部下が抱き起す、軍医が駆けつける、応急手当が届いて回復したのであるが、頭部を雪中に埋めていた結果か、その後時々左半面にマヒを感じて、それがため夜など眠れないことがあるようになった。
桂公爵は深く当時のことを悔恨し、酒を飲んでいたためにかような不覚を取ったのは誠に申し訳ないことである、飲酒は慎むべきものと固く決心して、それから以後は断然酒を飲まなくなったと語られた。
煙草は葉巻を1日に2箱というのだから、ずいぶん喫まれた方である。
くわえている葉巻が尽きると、すぐ次の煙草の口を切っておられるというほどであった。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
■夫 桂与一 初代公爵桂太郎の子
1882-1913 31歳没
■妻 新田テイコ 新田忠純男爵の娘
1887-1956 69歳没
●男子 桂広太郎 1908年生 2代公爵
●男子 桂寿雄 1909年生 野村益三子爵の娘野村美枝子と結婚
●女子 桂友子 1910年生 成蹊女学校出身 三井信託進緯介と結婚
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆2代公爵 桂広太郎 初代公爵桂太郎の孫・林与一の子
1908-2002
■妻 白根富美子 白根松介男爵の娘 学習院出身
1918年生
●長男
●二男
●長女






