■東京本邸 豊多摩郡千駄ケ谷町穏田→渋谷区隠田 8千坪
1890年
■那須別邸 83万坪
舶来品のストーブ
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◆初代公爵 大山巌 陸軍大臣
1842-1916 74歳没
1871年 パリで
1872年
1873年 ジュネーブで
1879年 39歳
■前妻 吉井沢子 吉井友実伯爵の娘・死別
■後妻 山川咲子/捨松 士族山川重固の娘・日本最初の女子留学生5名の一人
1860-1919 58歳没
1871年 左から 上田悌子・永井繁子・山川捨松・津田梅子・吉益亮子
1872年 シカゴで
左から 永井繁子8歳・上田悌子14歳・吉益亮子14歳・津田梅子6歳・山川捨松11歳
ニューヨークで
1882年 帰国報告のため参内した時 カメラ:丸木利陽
カメラ:小川一真
●前妻の子 大山信子 三島弥太郎子爵と離婚・小説『不如帰』のモデル
●前妻の子 大山芙蓉子 細川一之助男爵と結婚
●前妻の子 大山留子 渡辺千春伯爵と結婚
●後妻の子 大山高 早逝
●後妻の子 大山柏 2代当主
●後妻の子 大山久子 井田磐楠男爵と結婚
1900年 渡辺千春邸で
立つ9人左から 男性・男性・千春・渡辺千秋・渡辺・大山巌・以下略
椅子8人左から 女性・久子・女性・留子と赤ちゃん・捨松夫人・以下略
1904年 左から 捨松夫人・高・大山巌・柏・久子
●大山信子 三島弥太郎子爵と離婚・小説『不如帰』のモデル
●大山留子 渡辺千春伯爵と結婚
10年という長期の留学に際して両親は「捨てたと思って待つのみ」という願いを込めて、本名の咲子を捨松に改名させて御国のために送り出した。
捨松はヴァッサー大学を首席で卒業、アメリカの大学を卒業した日本人女性第一号となる。
生物学・看護学などを修めて帰国するが、日本にはその受け皿がなかった。
悩む捨松に大山巌が求婚する。
大山は先妻をなくして再婚であり、三人も娘があり、18歳も年上で見込みはないと思われた。
しかし捨松の提案でデートを重ねるうちに、フランス留学の経験があり生活は洋風でモダンな大山とアメリカ育ちの捨松は意気投合、翌年に再婚した。
結婚してからも仲睦まじく、捨松は終生大山を「イワーオ」と呼んでいた。
他人に聞かれたくない話は互いにフランス語で会話したという。
1904年児玉源太郎は日露戦争開戦に際して、参謀本部次長という降格人事を引き受ける際、
「山県有朋では困る。ガマ坊(大山巌)とならやれる」という条件を出した。
日清戦争後引退を考えていた大山だったが、引っ張り出されて満州軍総司令官を務める。
妻の捨松夫人は
「イワオの好きなものは、第一に児玉源太郎さん、第二に私、第三にビーフステーキ」とよく語った。
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土方梅子 三島弥太郎子爵の娘・土方久敬伯爵の妻
祖母に「『不如帰』にはお祖母様はとっても意地悪だと書いてあるそうよ」と申しましたら、
「そうだってね。あれは慈恵医大病院長の高木兼寛博士が『大山元帥の長女に良いお嬢さんがいらっしゃるから弥太郎どんのお嫁さんにどうか』と言われたので、健康な方かとお尋ねしたらそうだとおっしゃるから安心して来ていただいたんだよ。そうしたら間もなく肺結核になってしまって」と話しました。
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津田梅子 アメリカの友人あての手紙 1911年
シゲ〔永井繁子・瓜生外吉男爵の妻〕はいつも陽気で忙しくしています。
彼女は夫の地位のおかげで多くの責任を持たされ、たくさんの仕事をこなしています。
彼女はそうした生活のすべてと、高い地位が気に入っています。
彼女には多くの孫がいて、家庭生活は幸せで、かわいそうなステマツよりもはるかに幸せです。
ステマツは家族も病気がちで、彼女自身もあまり丈夫ではありません。
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◆2代 大山柏 1代巌の子
1889-1969 80歳没
*ヨーロッパに留学
■妻 近衛武子 近衛篤麿公爵の娘
1897-1983 86歳没
●長男 大山梓 3代当主
●二男 大山桂
●三男 大山檀
●長女 大山咲子 内田健次と結婚
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◆3代 大山梓 2代柏の子
1916-1992
■妻 浜地智子 浜地秋太郎の娘
1927年生
●長女
1890年
■那須別邸 83万坪
舶来品のストーブ
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◆初代公爵 大山巌 陸軍大臣
1842-1916 74歳没
1871年 パリで
1872年
1873年 ジュネーブで
1879年 39歳
■前妻 吉井沢子 吉井友実伯爵の娘・死別
■後妻 山川咲子/捨松 士族山川重固の娘・日本最初の女子留学生5名の一人
1860-1919 58歳没
1871年 左から 上田悌子・永井繁子・山川捨松・津田梅子・吉益亮子
1872年 シカゴで
左から 永井繁子8歳・上田悌子14歳・吉益亮子14歳・津田梅子6歳・山川捨松11歳
ニューヨークで
1882年 帰国報告のため参内した時 カメラ:丸木利陽
カメラ:小川一真
●前妻の子 大山信子 三島弥太郎子爵と離婚・小説『不如帰』のモデル
●前妻の子 大山芙蓉子 細川一之助男爵と結婚
●前妻の子 大山留子 渡辺千春伯爵と結婚
●後妻の子 大山高 早逝
●後妻の子 大山柏 2代当主
●後妻の子 大山久子 井田磐楠男爵と結婚
1900年 渡辺千春邸で
立つ9人左から 男性・男性・千春・渡辺千秋・渡辺・大山巌・以下略
椅子8人左から 女性・久子・女性・留子と赤ちゃん・捨松夫人・以下略
1904年 左から 捨松夫人・高・大山巌・柏・久子
●大山信子 三島弥太郎子爵と離婚・小説『不如帰』のモデル
●大山留子 渡辺千春伯爵と結婚
10年という長期の留学に際して両親は「捨てたと思って待つのみ」という願いを込めて、本名の咲子を捨松に改名させて御国のために送り出した。
捨松はヴァッサー大学を首席で卒業、アメリカの大学を卒業した日本人女性第一号となる。
生物学・看護学などを修めて帰国するが、日本にはその受け皿がなかった。
悩む捨松に大山巌が求婚する。
大山は先妻をなくして再婚であり、三人も娘があり、18歳も年上で見込みはないと思われた。
しかし捨松の提案でデートを重ねるうちに、フランス留学の経験があり生活は洋風でモダンな大山とアメリカ育ちの捨松は意気投合、翌年に再婚した。
結婚してからも仲睦まじく、捨松は終生大山を「イワーオ」と呼んでいた。
他人に聞かれたくない話は互いにフランス語で会話したという。
1904年児玉源太郎は日露戦争開戦に際して、参謀本部次長という降格人事を引き受ける際、
「山県有朋では困る。ガマ坊(大山巌)とならやれる」という条件を出した。
日清戦争後引退を考えていた大山だったが、引っ張り出されて満州軍総司令官を務める。
妻の捨松夫人は
「イワオの好きなものは、第一に児玉源太郎さん、第二に私、第三にビーフステーキ」とよく語った。
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土方梅子 三島弥太郎子爵の娘・土方久敬伯爵の妻
祖母に「『不如帰』にはお祖母様はとっても意地悪だと書いてあるそうよ」と申しましたら、
「そうだってね。あれは慈恵医大病院長の高木兼寛博士が『大山元帥の長女に良いお嬢さんがいらっしゃるから弥太郎どんのお嫁さんにどうか』と言われたので、健康な方かとお尋ねしたらそうだとおっしゃるから安心して来ていただいたんだよ。そうしたら間もなく肺結核になってしまって」と話しました。
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津田梅子 アメリカの友人あての手紙 1911年
シゲ〔永井繁子・瓜生外吉男爵の妻〕はいつも陽気で忙しくしています。
彼女は夫の地位のおかげで多くの責任を持たされ、たくさんの仕事をこなしています。
彼女はそうした生活のすべてと、高い地位が気に入っています。
彼女には多くの孫がいて、家庭生活は幸せで、かわいそうなステマツよりもはるかに幸せです。
ステマツは家族も病気がちで、彼女自身もあまり丈夫ではありません。
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◆2代 大山柏 1代巌の子
1889-1969 80歳没
*ヨーロッパに留学
■妻 近衛武子 近衛篤麿公爵の娘
1897-1983 86歳没
●長男 大山梓 3代当主
●二男 大山桂
●三男 大山檀
●長女 大山咲子 内田健次と結婚
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◆3代 大山梓 2代柏の子
1916-1992
■妻 浜地智子 浜地秋太郎の娘
1927年生
●長女
































