■東京本邸 麹町区永田町
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◆初代伯爵 伊東巳代治 農商大臣
1857-1934 77歳
1879年 24歳
ロシアで
■妻 恵阿八重 恵宗猛の娘
1858-1947
●長男 伊東太郎 2代当主
●二男 伊東二郎 伊東久実子爵の養子になり伊東二郎子爵となる
相馬順胤子爵の娘相馬沢子と結婚・奥村祐斉の娘奥村昌子と再婚
●三男 伊東三郎 市島ミネと結婚
●四男 伊東四郎 陸軍山梨半造の娘富子と結婚
●五男 伊東五郎 中野慮吉の婿養子になり中野五郎となる
●六男 伊東六郎
●八男 伊東九郎 兄伊東二郎子爵の養子になり伊東九郎子爵となる
●九男 伊東十郎
●11男 伊東重一郎 浜野澄子と結婚
●実子 伊東ミチ 原口徠男爵と結婚
●庶子 伊東喜美 斉藤馨之助と結婚
●伊東二郎 伊東二郎子爵となる 相馬順胤子爵の娘沢子と結婚
●伊東ミチ 原口徠男爵と結婚
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万朝報 1898年
伯爵伊東巳代治は河原崎座の出方にて野幇間を兼ねチラ粂と呼ばれたる梅田浅次郎養女石田アサ(35歳)が、日本橋数寄屋町にて和泉屋千代という芸妓たりし頃より買い馴染みて妾とし、永田町自邸表門の方の家に置き、裏門の方には住吉町の万屋小達の達子こと中山ノブ(26歳)を妾とし置く。
これにもかかわらず巳代治は昨年雇い入れたる小間使いの永野ケイ(18歳)に通じて孕ませしが、これがためにケイは妻妾の妬みを受けた虐待されこの2月急病を発して堕胎す。
その後病気回復を待ちて再び巳代治方に到り、以前のごとく小間使い兼帯の妾となりつつあり。
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宮武外骨『地獄耳』1917年
奥田義人が男爵に叙せられた際 読売新聞記者に「奥田は国家に如何ような勲功があったのか」と尋ねると、「国家のことは知らないが、親分たる伊東巳代治には大なる功労があったものだ。巳代治が女中に孕ませたことは二度や三度ではないのだが、その都度奥田に処分を命ずると、奥田はその親元に対して『子ぐるみ引き取るならば一時金千円もらってやる。月手当を望むならば子供の生存中は毎月30円もらってやる。子供を伊東家に渡して去るならば500円もらってやる』というふうにいわゆる奥田案を提出するので、親元との交渉は造作なく結了する。巳代治はこれを嬉しく感じていたのみでなく、自分が大株主たる東京電燈庇護案を東京市会に通過せしめてくれたため、相場で莫大な利益を占め得られた殊勲もあったので、臨終に取り急いで男爵奏請の運動をしたのだ」と。
当今はこんな筋合いで華族になるのが多いのである。
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宮武外骨『地獄耳』1917年
伊東巳代治は傲岸不遜をもって有名な男であるが、政界における自己の野心を満足させるには新聞記者を懐柔するに限ると思っているのか、自宅に刺を通じて来る訪問記者に対しては先生扱いで誰にでも「先生、どうか椅子に」という風だから、学校出の世間慣れぬ新聞記者はこの丁重なる待遇に感じ入るそうである。
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宮武外骨『地獄耳』1918年
犬養毅を伊東巳代治に紹介した者は関直彦で、関は巳代治の新聞であった東京日日の記者であった関係から、巳代治とは切っても切れぬ仲である。
そこで巳代治も犬養も刀剣道楽というを利用して、この道楽にかこつけて交際を開かしめたものであるという。
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宮武外骨『地獄耳』1918年
伊東巳代治の腰巾着は前田蓮山。
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宮武外骨『地獄耳』1918年
時事新報に『政変物語』を出して、何かの政治記事にはきっと伊東巳代治を引っ張り出して、伊東を大学者の如く大政治家の如く至誠愛国の士のように書いてあるが、これは伊東の睾丸を握っている前田蓮山の筆である。
また『太陽』に連載されている政界の表裏を書いている無名隠士というのも前田蓮山の匿名で、同じく伊東巳代治を書いている。
少々の提灯なら構わぬとしてよいが、あまり激しいので至るところで鼻つまみにされている。
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1927年『お鯉物語』安藤照子・芸者お鯉・15代目市村羽左衛門と離婚・首相桂太郎の妾
伊東巳代治伯爵も一時は飛ぶ鳥を落とす勢いでおられたので、お鯉もよくお目にかかった。
しかしいつも人の御招待のお席で、伊東伯爵自身でお遊びになるようなことはなかった。
もっとも永田町の御邸内には、髪の結い方から着物・帯すべて同じようにそろえた幾人かのお妾がいた。
「伊東の御前さんはおよばれにはお出かけになるが、御自分でみんなを呼んでお遊びになることなぞないんだから、本当に憎らしいよ」
なんとかして伊東さんの御馳走になろうではないかとの相談が、いたずら好きの芸者たちの間に一決した。
お鯉を含む3人の芸者が、伊東さんの芸者赤坂の鹿の子を連れ出して目黒の恵比寿館に陣取った。
その趣向はできるだけ贅沢をして、みんなで遊んで、
「伊東さん、鹿の子さんも商売が忙しいので少し身体の養生をしたいとのことですから、我々も御供して養生をさせていただきました。誠にありがとうございました」と有難がって、恵比寿館の勘定を払わせようというのである。
いよいよ園遊会の当日が来た。
大勢集まった当代のお歴々の並みいる中で伊東伯爵をつかまえて、
「伊東の御前さん、本当にありがとうございました。お蔭で私たちまで平素の疲れが休まりました」
「そんなことは知らぬよ」
「いいえ、ありがとうございました。沢山御礼を申し上げます」という騒ぎ。
しまいには野次馬まで加わって伊東伯爵を祭り上げるので、「そんなことは知らぬよ」では通らなくなって、目的を達したとは大手柄であった。
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『明治天皇紀』
1892年3月19日
天皇曰く、伊藤と松方とは性質相異なり。
伊藤は才智をもって事を処す、その進歩速やかなるも、時に顛躓し退歩することなきを保しがたし。
松方はこれに対し鈍き方なるをもって、その進歩遅々たるといえども、その進むや確実なり。
要するにこれ両人の天性に帰するをもっていかんともすべからず。
伊藤これを知らざるにあらず。
しかも近時松方を譏り、その矢を数えて寛仮せざるの状あり。
松方すこぶるこれを苦となす。
両人の間をしてこのごとくならしめたるは、陸奥が松方の矢を伊藤に告げ、また井上毅・伊東巳代治等が日々内閣の失策、松方の欠点を密かに伊藤に報ずるをもってなり。
伊藤は過日これらの書翰を積み重ねて岩倉具定に示し、その不平を漏らして松方を攻撃せしかば、岩倉も大いに伊藤の大人げなきに驚けることあり。
また憲法論にて井上毅・伊藤巳代治・金子堅太郎3人の意見時に一致せず、松方その決断に悩むものの如し。
松方と伊藤相和し相一致するに至らば可なれども、それ容易に行われがたし。
松方にその意あるも、松方はその方法を過まれり。
もし松方が井上馨と結び、井上馨をして適宜に斡旋せしめば事円滑に行わるべきも、松方は井上馨を好まず、常に山県を撰りてもって伊藤を説かしめんとす。
しかれども伊藤・山県の相善からざること久し。
その傾向近時ますます著しく、相対すれば既に互いに不快の感を生ずと言えり。
ゆえに山県は伊藤との間を周旋しあたわざるなり。
井上毅・伊東巳代治等も今や気大になりて、松方に使役されざるの状あり。
山県の首相たりし時は、井上毅・伊東巳代治も相応に使役せられたりしが、今日はしからざるなりと。
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『原敬日記』総理大臣
1920年12月7日
陸軍大臣田中義一の内話に「山県は枢密院議長を辞して清浦奎吾を議長となし、伊東巳代治を副議長に挙ぐることを伝言せよとは言わざるも、その意味なりしがごとく」と言うにつき、
予は「清浦の適否の問題にあらざれども、この際元老さりてさようの変化を宮中に起こすは国民の感情の上にて得策ならず。予は反対せざるを得ず」と物語りたり。
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『原敬日記』総理大臣
1921年2月25日
法制局長官横田千横田来訪。
「伊東巳代治が大隈重信と組んで陰謀をなしおる様子なり」と言えり。
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『原田熊雄日誌』西園寺公望の私的秘書
1932年1月15日
外務省の連中は「満州の問題は何とかしなければならん。2月11日紀元節を期して新国家を建てると言って出先ではどんどんやっているのに、こっちは相変わらずぐらついている。吉田茂が現地を見て来て何とか引き締めなければらなんとしきりに言っていた。政治家森恪なんかは外務省の谷正之に向かって『伊東巳代治を委員長に、平沼騏一郎を委員にして、出先をコントロールさせるより仕方がないだろう』などと言うが、今 伊東や平沼を担ぎ出されては困る。全然余計な物が出来上がる」と言った。
1932年2月7日
枢密院の空気も満州事変に対する出先機関の専断行為を心配しだした塩梅で、元枢密顧問官伊東巳代治も陸軍の横暴に対していろいろ不満を述べ、「第斧鉞を加えざるを得ない」とまで言っている。
しかしこれまで枢密院がさんざん軍部を煽て上げてきた事実を考えると伊東氏の言葉も矛盾したもので、むしろ従来の枢密院の無責任極まる行動こそ大半の責任を負うべきであると思った。
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『牧野伸顕日記』内大臣
1934年2月13日
湯浅宮相来訪。
伊東巳代治、昇爵運動を開始したること。
鈴木喜三郎より直接湯浅宮相に申込ありたる趣。
動機は金子子爵の例にありとのこと。
彼といいこれといい、呆れたる心事なり。
湯浅宮相は最初より相手にならざる由、心強く感ぜり。
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『原田熊雄日誌』西園寺公望の私的秘書
1935年5月25日
西園寺元老は「だいたい金子堅太郎とか伊東巳代治とかいう連中は憲法制定に直接枢機に参した者ではない。ただ憲法取調にドイツに洋行した時に通訳の任に当たったのは伊東一人の功と言ってもよい。金子のごときはだた英語をよくする者が他にいなかったために参考に英書を調べてもらったぐらいのことで、憲法の制定に本当の意味において働かれた功労者は井上毅で、あるいはフランスのボアソナード、あるいはドイツのグナイストこの三人が主になってやったのである」と言われた。
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◆2代 伊東太郎 初代巳代治の子
1880年生
■妻 西川チカ 印刷業西川忠亮の娘
1890年生
●男子 伊東治正 3代当主
●男子 伊東治次 神田三和子と結婚
●女子 伊東タチコ 真島タチコとなる
●女子 伊東ミヤコ 菅博太郎と結婚
●女子 伊東善子 徳大寺則麿男爵の子徳大寺三郎と結婚
●女子 伊東淑子 鎬木忠胤と結婚
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◆3代 伊東治正 2代太郎の子
1913年生
■妻 瀬下春 三菱銀行瀬下清の娘
1916年生
●長男
●長女
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◆初代伯爵 伊東巳代治 農商大臣
1857-1934 77歳
1879年 24歳
ロシアで
■妻 恵阿八重 恵宗猛の娘
1858-1947
●長男 伊東太郎 2代当主
●二男 伊東二郎 伊東久実子爵の養子になり伊東二郎子爵となる
相馬順胤子爵の娘相馬沢子と結婚・奥村祐斉の娘奥村昌子と再婚
●三男 伊東三郎 市島ミネと結婚
●四男 伊東四郎 陸軍山梨半造の娘富子と結婚
●五男 伊東五郎 中野慮吉の婿養子になり中野五郎となる
●六男 伊東六郎
●八男 伊東九郎 兄伊東二郎子爵の養子になり伊東九郎子爵となる
●九男 伊東十郎
●11男 伊東重一郎 浜野澄子と結婚
●実子 伊東ミチ 原口徠男爵と結婚
●庶子 伊東喜美 斉藤馨之助と結婚
●伊東二郎 伊東二郎子爵となる 相馬順胤子爵の娘沢子と結婚
●伊東ミチ 原口徠男爵と結婚
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万朝報 1898年
伯爵伊東巳代治は河原崎座の出方にて野幇間を兼ねチラ粂と呼ばれたる梅田浅次郎養女石田アサ(35歳)が、日本橋数寄屋町にて和泉屋千代という芸妓たりし頃より買い馴染みて妾とし、永田町自邸表門の方の家に置き、裏門の方には住吉町の万屋小達の達子こと中山ノブ(26歳)を妾とし置く。
これにもかかわらず巳代治は昨年雇い入れたる小間使いの永野ケイ(18歳)に通じて孕ませしが、これがためにケイは妻妾の妬みを受けた虐待されこの2月急病を発して堕胎す。
その後病気回復を待ちて再び巳代治方に到り、以前のごとく小間使い兼帯の妾となりつつあり。
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宮武外骨『地獄耳』1917年
奥田義人が男爵に叙せられた際 読売新聞記者に「奥田は国家に如何ような勲功があったのか」と尋ねると、「国家のことは知らないが、親分たる伊東巳代治には大なる功労があったものだ。巳代治が女中に孕ませたことは二度や三度ではないのだが、その都度奥田に処分を命ずると、奥田はその親元に対して『子ぐるみ引き取るならば一時金千円もらってやる。月手当を望むならば子供の生存中は毎月30円もらってやる。子供を伊東家に渡して去るならば500円もらってやる』というふうにいわゆる奥田案を提出するので、親元との交渉は造作なく結了する。巳代治はこれを嬉しく感じていたのみでなく、自分が大株主たる東京電燈庇護案を東京市会に通過せしめてくれたため、相場で莫大な利益を占め得られた殊勲もあったので、臨終に取り急いで男爵奏請の運動をしたのだ」と。
当今はこんな筋合いで華族になるのが多いのである。
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宮武外骨『地獄耳』1917年
伊東巳代治は傲岸不遜をもって有名な男であるが、政界における自己の野心を満足させるには新聞記者を懐柔するに限ると思っているのか、自宅に刺を通じて来る訪問記者に対しては先生扱いで誰にでも「先生、どうか椅子に」という風だから、学校出の世間慣れぬ新聞記者はこの丁重なる待遇に感じ入るそうである。
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宮武外骨『地獄耳』1918年
犬養毅を伊東巳代治に紹介した者は関直彦で、関は巳代治の新聞であった東京日日の記者であった関係から、巳代治とは切っても切れぬ仲である。
そこで巳代治も犬養も刀剣道楽というを利用して、この道楽にかこつけて交際を開かしめたものであるという。
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宮武外骨『地獄耳』1918年
伊東巳代治の腰巾着は前田蓮山。
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宮武外骨『地獄耳』1918年
時事新報に『政変物語』を出して、何かの政治記事にはきっと伊東巳代治を引っ張り出して、伊東を大学者の如く大政治家の如く至誠愛国の士のように書いてあるが、これは伊東の睾丸を握っている前田蓮山の筆である。
また『太陽』に連載されている政界の表裏を書いている無名隠士というのも前田蓮山の匿名で、同じく伊東巳代治を書いている。
少々の提灯なら構わぬとしてよいが、あまり激しいので至るところで鼻つまみにされている。
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1927年『お鯉物語』安藤照子・芸者お鯉・15代目市村羽左衛門と離婚・首相桂太郎の妾
伊東巳代治伯爵も一時は飛ぶ鳥を落とす勢いでおられたので、お鯉もよくお目にかかった。
しかしいつも人の御招待のお席で、伊東伯爵自身でお遊びになるようなことはなかった。
もっとも永田町の御邸内には、髪の結い方から着物・帯すべて同じようにそろえた幾人かのお妾がいた。
「伊東の御前さんはおよばれにはお出かけになるが、御自分でみんなを呼んでお遊びになることなぞないんだから、本当に憎らしいよ」
なんとかして伊東さんの御馳走になろうではないかとの相談が、いたずら好きの芸者たちの間に一決した。
お鯉を含む3人の芸者が、伊東さんの芸者赤坂の鹿の子を連れ出して目黒の恵比寿館に陣取った。
その趣向はできるだけ贅沢をして、みんなで遊んで、
「伊東さん、鹿の子さんも商売が忙しいので少し身体の養生をしたいとのことですから、我々も御供して養生をさせていただきました。誠にありがとうございました」と有難がって、恵比寿館の勘定を払わせようというのである。
いよいよ園遊会の当日が来た。
大勢集まった当代のお歴々の並みいる中で伊東伯爵をつかまえて、
「伊東の御前さん、本当にありがとうございました。お蔭で私たちまで平素の疲れが休まりました」
「そんなことは知らぬよ」
「いいえ、ありがとうございました。沢山御礼を申し上げます」という騒ぎ。
しまいには野次馬まで加わって伊東伯爵を祭り上げるので、「そんなことは知らぬよ」では通らなくなって、目的を達したとは大手柄であった。
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『明治天皇紀』
1892年3月19日
天皇曰く、伊藤と松方とは性質相異なり。
伊藤は才智をもって事を処す、その進歩速やかなるも、時に顛躓し退歩することなきを保しがたし。
松方はこれに対し鈍き方なるをもって、その進歩遅々たるといえども、その進むや確実なり。
要するにこれ両人の天性に帰するをもっていかんともすべからず。
伊藤これを知らざるにあらず。
しかも近時松方を譏り、その矢を数えて寛仮せざるの状あり。
松方すこぶるこれを苦となす。
両人の間をしてこのごとくならしめたるは、陸奥が松方の矢を伊藤に告げ、また井上毅・伊東巳代治等が日々内閣の失策、松方の欠点を密かに伊藤に報ずるをもってなり。
伊藤は過日これらの書翰を積み重ねて岩倉具定に示し、その不平を漏らして松方を攻撃せしかば、岩倉も大いに伊藤の大人げなきに驚けることあり。
また憲法論にて井上毅・伊藤巳代治・金子堅太郎3人の意見時に一致せず、松方その決断に悩むものの如し。
松方と伊藤相和し相一致するに至らば可なれども、それ容易に行われがたし。
松方にその意あるも、松方はその方法を過まれり。
もし松方が井上馨と結び、井上馨をして適宜に斡旋せしめば事円滑に行わるべきも、松方は井上馨を好まず、常に山県を撰りてもって伊藤を説かしめんとす。
しかれども伊藤・山県の相善からざること久し。
その傾向近時ますます著しく、相対すれば既に互いに不快の感を生ずと言えり。
ゆえに山県は伊藤との間を周旋しあたわざるなり。
井上毅・伊東巳代治等も今や気大になりて、松方に使役されざるの状あり。
山県の首相たりし時は、井上毅・伊東巳代治も相応に使役せられたりしが、今日はしからざるなりと。
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『原敬日記』総理大臣
1920年12月7日
陸軍大臣田中義一の内話に「山県は枢密院議長を辞して清浦奎吾を議長となし、伊東巳代治を副議長に挙ぐることを伝言せよとは言わざるも、その意味なりしがごとく」と言うにつき、
予は「清浦の適否の問題にあらざれども、この際元老さりてさようの変化を宮中に起こすは国民の感情の上にて得策ならず。予は反対せざるを得ず」と物語りたり。
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『原敬日記』総理大臣
1921年2月25日
法制局長官横田千横田来訪。
「伊東巳代治が大隈重信と組んで陰謀をなしおる様子なり」と言えり。
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『原田熊雄日誌』西園寺公望の私的秘書
1932年1月15日
外務省の連中は「満州の問題は何とかしなければならん。2月11日紀元節を期して新国家を建てると言って出先ではどんどんやっているのに、こっちは相変わらずぐらついている。吉田茂が現地を見て来て何とか引き締めなければらなんとしきりに言っていた。政治家森恪なんかは外務省の谷正之に向かって『伊東巳代治を委員長に、平沼騏一郎を委員にして、出先をコントロールさせるより仕方がないだろう』などと言うが、今 伊東や平沼を担ぎ出されては困る。全然余計な物が出来上がる」と言った。
1932年2月7日
枢密院の空気も満州事変に対する出先機関の専断行為を心配しだした塩梅で、元枢密顧問官伊東巳代治も陸軍の横暴に対していろいろ不満を述べ、「第斧鉞を加えざるを得ない」とまで言っている。
しかしこれまで枢密院がさんざん軍部を煽て上げてきた事実を考えると伊東氏の言葉も矛盾したもので、むしろ従来の枢密院の無責任極まる行動こそ大半の責任を負うべきであると思った。
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『牧野伸顕日記』内大臣
1934年2月13日
湯浅宮相来訪。
伊東巳代治、昇爵運動を開始したること。
鈴木喜三郎より直接湯浅宮相に申込ありたる趣。
動機は金子子爵の例にありとのこと。
彼といいこれといい、呆れたる心事なり。
湯浅宮相は最初より相手にならざる由、心強く感ぜり。
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『原田熊雄日誌』西園寺公望の私的秘書
1935年5月25日
西園寺元老は「だいたい金子堅太郎とか伊東巳代治とかいう連中は憲法制定に直接枢機に参した者ではない。ただ憲法取調にドイツに洋行した時に通訳の任に当たったのは伊東一人の功と言ってもよい。金子のごときはだた英語をよくする者が他にいなかったために参考に英書を調べてもらったぐらいのことで、憲法の制定に本当の意味において働かれた功労者は井上毅で、あるいはフランスのボアソナード、あるいはドイツのグナイストこの三人が主になってやったのである」と言われた。
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◆2代 伊東太郎 初代巳代治の子
1880年生
■妻 西川チカ 印刷業西川忠亮の娘
1890年生
●男子 伊東治正 3代当主
●男子 伊東治次 神田三和子と結婚
●女子 伊東タチコ 真島タチコとなる
●女子 伊東ミヤコ 菅博太郎と結婚
●女子 伊東善子 徳大寺則麿男爵の子徳大寺三郎と結婚
●女子 伊東淑子 鎬木忠胤と結婚
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◆3代 伊東治正 2代太郎の子
1913年生
■妻 瀬下春 三菱銀行瀬下清の娘
1916年生
●長男
●長女







