◆初代子爵 曽我祐準 陸軍中将
1844-1935 91歳没
1879年 38歳
■妻 華園晟子 仏職華園摂信の娘・公家裏辻公愛と離婚・曽我祐準と再婚
1850年生
1871年2月、華園摂信の娘晟子20歳は公家裏辻公愛50歳と結婚する。
しかし30歳も年上の裏辻には、すでに妾との間に2歳から12歳までの4人の庶子があった。
結婚して4年後の1875年3月、妾との間にさらに男子が産まれた。
父摂信は娘晟子に「当方御可給にてもよろしく婦道を守るを善とす」と忍耐を促す手紙を送った。
摂信は裏辻に度重なる借金の連帯保証人になってもらっていたからである。
1876年8月裏辻は単身上京、晟子は実家で暮らすという別居生活が始まった。
摂信は「妾はめでたく暇遣になり候」と喜んだが、1877年に摂信自身が死んでしまう。
1878年、裏辻は摂信の借金の連帯保証人になっていたため破産する。
さらに1882年には政治に手を出して逮捕される。
晟子は裏辻の子を産むことなく離婚して、曽我祐準子爵と再婚できた。
華園信暁は京都府士族神原タツを妾にしていたが、分家が認められ一戸を構えることができたので、東坊城任長子爵の娘成子と結婚した。
●男子 曽我祐邦 1870年生 2代子爵
●男子 曽我祐光 1880年生
●女子 曽我満子 1874年生 軍人立花銑三郎の前妻
●女子 曽我遼子 1876年生 軍人立花銑三郎の後妻
●養女 曽我龍江 1897年生 西徳寺渋谷達性の実娘 東京女子師範学校附属出身
煙草王江副廉蔵の子江副隆一と離婚・東三条実敏男爵と再婚
●養女 曽我龍江 煙草王江副廉蔵の子江副隆一と離婚・東三条実敏男爵と再婚
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国民新聞 1916年4月6日
「新婚の曽我子爵令嬢 花婿江副隆一氏の懺悔を聞きて」
かねて婚約ありたる曽我祐準子爵の令嬢滝江嬢(20)と紳商江副廉蔵氏の令息隆一氏(29)との結婚式は、去月31日日比谷太神宮に挙行され、披露の宴また同夜華族会館において催されたのであった。
爾来日を経ることわずか3日、意外にも新夫婦破鏡の噂を耳にするに至った記者は、
まず江副家に質したるに「主人は病臥中、それに只今どなたもお留守なれば一切分からず」と言う。
さらに曽我家に質せば「令嬢を引き取りしは事実なり。事情は追って発表の期あるべし」とのことに、破鏡の事実なることだけは確かめ得たるより、さらにその事情を各方面に精探したるところ、ここに不徳義な婚約の悲劇が伏在しているのであった。
新郎新婦の婚約がまとまり結納の取り交わされたのは去年2月下旬のことで、当時新郎隆一氏は腸を患い東京病院に入院中とのことなりしより、その全快を待っていよいよ去月31日に華燭の典を挙ぐるに至ったのであるが、式も滞りなく済み披露の宴を致し新郎新婦ただ二人相対の刻となるや、隆一氏は新夫人に向かい、
「過日腸チフスの為に入院中と称せしは虚言にて、慢性淋病なれば結婚の実行はここ12ヶ月猶予されたし」と深く秘めたる徳義上の罪を懺悔したのであった。
滝江嬢の驚愕はいかばかりであったろう。悶々の間に一夜を明かして、開くれば4月1日も終日途方に暮れ、当夜もまた懊悩に一睡だにもせず、かくて2日の午後実家曽根子爵邸への里開きの為に来たのであるが、新郎の秘密はいまだ胸一つに包みて露更に口外しなかった。
同夜子爵邸にては里開きの盛宴が開かれ、一族近親の喜びに夜もいたく更けて、午後11時頃にようやく子爵邸のどよみは静まった。
その時龍江嬢は付き添いの老女に初めて隆一氏の秘密を打ち明けて、身の応置を相談に及んだのである。
老女はただちにこれを老子爵に訴えた。
そしてともかく当夜は一旦滝江嬢を江副家へ返し、翌3日午前中協議の末同日午後子爵自ら電話口に出て、滝江嬢を引き取るとともに今回の婚嫁をも取り消す旨厳重に通じたのであった。
こうして玲瓏の珠玉は微瑕なくして父子爵の掌中に復ったのであった。
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宮武外骨『地獄耳』1917年
「古今無類の再婚女子」
子爵曽我祐準の愛嬢龍江(21)が、煙草成金江副廉造の長男隆一と結婚の約が成立して、昨年3月31日 日比谷の大神宮で結婚式を挙げ、同夜華族会館で披露の宴を催し、龍江嬢はめでたく江副家へ輿入れしたが、床入りとなって後、夫隆一は猛烈な慢性淋病で夫婦の交わりをすることができず、12ヶ月間辛抱してくれと言ったので、龍江嬢が失意煩悶しているうち、そのことを知った父祐準氏は大いに怒って、3日目に龍江嬢を呼び戻しついに離縁となったが、龍江嬢はその後 男爵東三条実敏氏と婚約が調い、今7月1日麻布の出雲大社で結婚式を挙げ、同夜築地の精養軒で披露の宴を催した。
龍江嬢は日比谷の伊勢大神宮出張所は縁起が悪かったので、再婚の式は麻布の出雲大社出張所で執行した。
今度は無事に納まるであろう。
由来伊勢の大神は縁結びの神様ではなく、縁結びは出雲の神様に限るのである。
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『牧野伸顕日記』内大臣※当時は宮内大臣
1923年12月12日
久保田男爵来訪。
「宮中顧問官曽我祐準子爵突然退引辞職の決意申出あり。種々の関係上引き留め方に議長等心配中なり。あるいは爵位の方も隠居の願出あるも計りがたしにつき、万一左様のことあらばしばらく握りおりくれ」とのことなり。
別に深き動機あらざるがごとく、震災のため本邸焼失、精神も打撃を受け、全然熱海に退引きいたしたしとの希望に他ならざるがごとし。
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◆2代子爵 曽我祐邦 初代子爵曽我祐準の子
1870-1952 82歳没
■前妻 松園晃子 松園尚嘉男爵の娘・死別
1876-1930
■後妻 多屋タミ 多屋寿平次の娘
1890年生
●男子 曽我祐文 1899年生
●男子 曽我祐虎 1902年生
●男子 曽我準和 3代当主
●男子 曽我準定 1911年生 稲葉良太郎の娘稲葉文子と結婚
●女子 曽我清子 1901年生 学習院出身 貴族院議員金杉英五郎の子金杉恒弥と結婚
●女子 曽我盛子 1904年生 学習院出身 友田二郎と結婚
●女子 曽我友子 1907年生 樋口助弘と結婚
左から 清子・前妻晃子夫人・後ろ祐文・前は準定・曽我祐邦・盛子・準和
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◆3代 曽我準和 2代祐邦の子
1905年生
■妻 平瀬郁子 平瀬又雄の娘
1911年生
●女子 曽我春子 1938年生 川原敏雄と結婚
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◆4代 曽我準雄 3代曽我準和の孫/曽我春子の子
■妻 名取メグミ 名取寛二郎の娘
1844-1935 91歳没
1879年 38歳
■妻 華園晟子 仏職華園摂信の娘・公家裏辻公愛と離婚・曽我祐準と再婚
1850年生
1871年2月、華園摂信の娘晟子20歳は公家裏辻公愛50歳と結婚する。
しかし30歳も年上の裏辻には、すでに妾との間に2歳から12歳までの4人の庶子があった。
結婚して4年後の1875年3月、妾との間にさらに男子が産まれた。
父摂信は娘晟子に「当方御可給にてもよろしく婦道を守るを善とす」と忍耐を促す手紙を送った。
摂信は裏辻に度重なる借金の連帯保証人になってもらっていたからである。
1876年8月裏辻は単身上京、晟子は実家で暮らすという別居生活が始まった。
摂信は「妾はめでたく暇遣になり候」と喜んだが、1877年に摂信自身が死んでしまう。
1878年、裏辻は摂信の借金の連帯保証人になっていたため破産する。
さらに1882年には政治に手を出して逮捕される。
晟子は裏辻の子を産むことなく離婚して、曽我祐準子爵と再婚できた。
華園信暁は京都府士族神原タツを妾にしていたが、分家が認められ一戸を構えることができたので、東坊城任長子爵の娘成子と結婚した。
●男子 曽我祐邦 1870年生 2代子爵
●男子 曽我祐光 1880年生
●女子 曽我満子 1874年生 軍人立花銑三郎の前妻
●女子 曽我遼子 1876年生 軍人立花銑三郎の後妻
●養女 曽我龍江 1897年生 西徳寺渋谷達性の実娘 東京女子師範学校附属出身
煙草王江副廉蔵の子江副隆一と離婚・東三条実敏男爵と再婚
●養女 曽我龍江 煙草王江副廉蔵の子江副隆一と離婚・東三条実敏男爵と再婚
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国民新聞 1916年4月6日
「新婚の曽我子爵令嬢 花婿江副隆一氏の懺悔を聞きて」
かねて婚約ありたる曽我祐準子爵の令嬢滝江嬢(20)と紳商江副廉蔵氏の令息隆一氏(29)との結婚式は、去月31日日比谷太神宮に挙行され、披露の宴また同夜華族会館において催されたのであった。
爾来日を経ることわずか3日、意外にも新夫婦破鏡の噂を耳にするに至った記者は、
まず江副家に質したるに「主人は病臥中、それに只今どなたもお留守なれば一切分からず」と言う。
さらに曽我家に質せば「令嬢を引き取りしは事実なり。事情は追って発表の期あるべし」とのことに、破鏡の事実なることだけは確かめ得たるより、さらにその事情を各方面に精探したるところ、ここに不徳義な婚約の悲劇が伏在しているのであった。
新郎新婦の婚約がまとまり結納の取り交わされたのは去年2月下旬のことで、当時新郎隆一氏は腸を患い東京病院に入院中とのことなりしより、その全快を待っていよいよ去月31日に華燭の典を挙ぐるに至ったのであるが、式も滞りなく済み披露の宴を致し新郎新婦ただ二人相対の刻となるや、隆一氏は新夫人に向かい、
「過日腸チフスの為に入院中と称せしは虚言にて、慢性淋病なれば結婚の実行はここ12ヶ月猶予されたし」と深く秘めたる徳義上の罪を懺悔したのであった。
滝江嬢の驚愕はいかばかりであったろう。悶々の間に一夜を明かして、開くれば4月1日も終日途方に暮れ、当夜もまた懊悩に一睡だにもせず、かくて2日の午後実家曽根子爵邸への里開きの為に来たのであるが、新郎の秘密はいまだ胸一つに包みて露更に口外しなかった。
同夜子爵邸にては里開きの盛宴が開かれ、一族近親の喜びに夜もいたく更けて、午後11時頃にようやく子爵邸のどよみは静まった。
その時龍江嬢は付き添いの老女に初めて隆一氏の秘密を打ち明けて、身の応置を相談に及んだのである。
老女はただちにこれを老子爵に訴えた。
そしてともかく当夜は一旦滝江嬢を江副家へ返し、翌3日午前中協議の末同日午後子爵自ら電話口に出て、滝江嬢を引き取るとともに今回の婚嫁をも取り消す旨厳重に通じたのであった。
こうして玲瓏の珠玉は微瑕なくして父子爵の掌中に復ったのであった。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
宮武外骨『地獄耳』1917年
「古今無類の再婚女子」
子爵曽我祐準の愛嬢龍江(21)が、煙草成金江副廉造の長男隆一と結婚の約が成立して、昨年3月31日 日比谷の大神宮で結婚式を挙げ、同夜華族会館で披露の宴を催し、龍江嬢はめでたく江副家へ輿入れしたが、床入りとなって後、夫隆一は猛烈な慢性淋病で夫婦の交わりをすることができず、12ヶ月間辛抱してくれと言ったので、龍江嬢が失意煩悶しているうち、そのことを知った父祐準氏は大いに怒って、3日目に龍江嬢を呼び戻しついに離縁となったが、龍江嬢はその後 男爵東三条実敏氏と婚約が調い、今7月1日麻布の出雲大社で結婚式を挙げ、同夜築地の精養軒で披露の宴を催した。
龍江嬢は日比谷の伊勢大神宮出張所は縁起が悪かったので、再婚の式は麻布の出雲大社出張所で執行した。
今度は無事に納まるであろう。
由来伊勢の大神は縁結びの神様ではなく、縁結びは出雲の神様に限るのである。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『牧野伸顕日記』内大臣※当時は宮内大臣
1923年12月12日
久保田男爵来訪。
「宮中顧問官曽我祐準子爵突然退引辞職の決意申出あり。種々の関係上引き留め方に議長等心配中なり。あるいは爵位の方も隠居の願出あるも計りがたしにつき、万一左様のことあらばしばらく握りおりくれ」とのことなり。
別に深き動機あらざるがごとく、震災のため本邸焼失、精神も打撃を受け、全然熱海に退引きいたしたしとの希望に他ならざるがごとし。
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◆2代子爵 曽我祐邦 初代子爵曽我祐準の子
1870-1952 82歳没
■前妻 松園晃子 松園尚嘉男爵の娘・死別
1876-1930
■後妻 多屋タミ 多屋寿平次の娘
1890年生
●男子 曽我祐文 1899年生
●男子 曽我祐虎 1902年生
●男子 曽我準和 3代当主
●男子 曽我準定 1911年生 稲葉良太郎の娘稲葉文子と結婚
●女子 曽我清子 1901年生 学習院出身 貴族院議員金杉英五郎の子金杉恒弥と結婚
●女子 曽我盛子 1904年生 学習院出身 友田二郎と結婚
●女子 曽我友子 1907年生 樋口助弘と結婚
左から 清子・前妻晃子夫人・後ろ祐文・前は準定・曽我祐邦・盛子・準和
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◆3代 曽我準和 2代祐邦の子
1905年生
■妻 平瀬郁子 平瀬又雄の娘
1911年生
●女子 曽我春子 1938年生 川原敏雄と結婚
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◆4代 曽我準雄 3代曽我準和の孫/曽我春子の子
■妻 名取メグミ 名取寛二郎の娘






