*昭和戦前には華族の中でも5指に数えられる資産家だった

■東京本邸 芝区三田綱町 土地2万坪・建物2千坪
1030(1)


■北海道農場 4,053町歩

■徳島別邸

■高輪別邸

■鉄砲洲別邸

■熱海別邸

■洲崎浜町邸


■北海道農場 1億5千万坪 田畑山林9千町歩 小作人1千戸 馬で回っても一週間かかる広さだった。


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◆14代 蜂須賀茂韶  13代蜂須賀斉裕の子
1846-1918 71歳没

*オックスフォード大学出身


■前妻 蜂須賀斐子 親族蜂須賀隆芳の娘・離婚


■後妻 徳川随子  水戸徳川慶篤の娘
1854-1923 69歳没


茂韶には11人の側室がいたが、すべての側室を辞めさせることが随子側の結婚の条件であった。
しかし随子自身はかつて松平定教子爵(松平定敬とされるのは誤り)と婚約していたことを理由に
「二夫にまみえず」として茂韶とは寝所を共にせず、自分の侍女萩原京を側室にさせた。
茂韶は毎週月・水・金は随子夫人の住む本邸に泊まり、火・木・土・日は側室お京の住む高輪別邸に泊まった。


●庶子 蜂須賀正韶 15代当主


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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

私が知った頃の蜂須賀茂韶侯爵は、浅黒い丸顔の丸々と太った柔和な眼差しをしたお爺さんであった。
ところが古参の仕人が、
「いや、あの爺さん見かけによらずなかなかきかん気の人でね」と言って次のような話をした。
以前宮中で御陪食には明治天皇がお飲みになった盃を順に回して、いわゆる明治天皇のお流れを頂戴したものであった。
ところがある日 明治天皇の御盃が順々に回って蜂須賀侯爵のところに来た。
蜂須賀侯爵はくだんの盃をぐっと一気に飲み干すと恭しく両手で盃を捧げて、
「天盃ありがたく頂戴つかまつりました」と言ってのけるやいなや、あっという間に盃を懐中に入れてしまった。
驚いたのはお流れをまだ頂戴していない末座の人たちである。
怒るわけにもいかずあっけにとられていると、それを御覧になった明治天皇はすかさず、
「蜂須賀、さすがは御家柄だのう」と仰せられたので、緊張していた一座の空気がほどけてどっと賑やかな笑い声が起った。
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◆15代 蜂須賀正韶 14代蜂須賀茂韶の子
1871-1932 61歳没


*ケンブリッジ大学出身

*カエルが嫌いで、恐怖心を抱いていた。
三田綱町の何千坪もある池が蛙の繁殖地となったら慶應義塾に寄付した。

*ノミも蚊も殺さず、尾頭付きの魚も食べず、形がわかる鶏料理は食べなかった。


■妻  徳川筆子 将軍徳川慶喜の娘
1876-1907 31歳没


●男子 蜂須賀正氏  16代当主

●女子 蜂須賀年子  松平康春子爵と結婚離婚・デザイナー
●女子 蜂須賀笛子  松田正之男爵と結婚
●女子 蜂須賀小枝子 佐竹義種子爵と結婚




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蜂須賀年子 蜂須賀正韶の娘

私の父は人間嫌いというほどではなかったが、人に対する情は薄かった。
ことに、女嫌いであったことは事実である。
父は男女関係について全く幼稚だったような気がする。
8年も外国にいたくせに女性というものをほとんど知らない。
自分の妻にさえ、ある種の恐怖心を感じていたようだ。
新婚当時女の扱い方を知らなかったため、夜の営みのことを考えると居ても立ってもいられず、戸棚に隠れて一夜を過ごしたという話もある。
父はすべての動物に対しても、さしたる愛情を持っているとは見えなかった。
たぶん生まれつきなのであろうと思うほかはなかった。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

蜂須賀正韶侯爵は非常に平民的な人物で、私たちの面倒もよく見てくれた人である。
そのくせどういうものか、儀礼ばったことには妙に厳格であった。
たしか鴨猟の時だったと思うが、私が煙草をくわえたままで外套を着せたら、
「その格好はなんだ!」と叱られたことがあった。

この人は色の白いなかなかの好男子で、早くに夫人を亡くしたにもかかわらずついにやもめを押し通してしまった。
宴会の時に芸者などが寄って行くとすぐ逃げ出してしまうほどの堅人であったが、この人の息子は逆に非常な放蕩者で、妾狂いのあげくついに華族の礼遇を停止されてしまったほどだった。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は帝室会計審査局長官

1919年1月21日
※松田正之男爵の兄 有馬頼寧伯爵の発言

松田正之の結婚を蜂須賀よりしきりに申し込みに来る。
松田の未亡人〔静子〕の性行が普通ならざるゆえ、充分に聞き質したる上に決心せられたき旨を蜂須賀に申し向けおきたる。

1919年6月27日
※松田正之男爵の発言

自分も寡婦〔静子未亡人〕も結婚して異存なきにつき今日電話にて結納の事等しかるべく取り計いくれたき旨を依頼したるところ、
頼寧は「有馬家にて嫁を貰う訳にあらざるゆえ、正之と寡婦と相談してしかるべく取り計いたらばよろしかるべし」と言えり。
左のごとき返答はすこぶる意外なりしも、
ともかく寡婦に対し頼寧の返答とは言わず「松田家の結婚なるゆえ第一に寡婦の希望を聞きたし」旨を話したるところ、
寡婦は「このことは万事頼寧に依頼すべき」旨を告げたり。
やむをえず頼寧の返答を言いたるところ「しからば結納はこちらにて取り計うことにして差し支えなし。その費用は自分より半分出すにつき、正之より半分を出すべし。先年有馬秀雄〔有馬伯爵家職員〕より正之の住居は有馬家にて設備し、生計費も有馬家にて支弁すべき事を申し出ており。かつ自分と正之と別居することは頼寧よりも希望の一条件として申し出ておることにつき、別居と言う以上はその家は有馬家にて設備するが当然なり。よりて家と生計費の事はこの際是非とも有馬家にて引き受けることに相談しおかざるべからず。もし引き受けざるならば自分にも考えあり」と言えり。
自分の考えにては寡婦の希望のごとく有馬家にて引き受けてくれるならば結婚問題を進行してもよろしきも、もしその事が出来ざるならば結納を済まさざるうちに結婚話を止むる方がよろしからん。
しからざれば処置に困ることとなるべし。よりてこの事につき頼寧に相談してくれよ。

1919年6月29日
※松田正之男爵の兄 有馬頼寧伯爵の発言

結納ぐらいは松田家にて取り計いてよろしからんと思い、その趣旨を電話にて正之に答えたるまでにて、絶対世話せざる趣意にあらず。
自分と蜂須賀との間には既に相当の黙契あり。
正之の生計費を幾分にても寡婦より出さしめんとすれば寡婦が承諾せざる事は初めより分かりおるにつき、左様の事は少しも考えおらず。
正之には自分の考えは既に話しおきたることあるにつき、左様の誤解をなすべきはずはなきことなり。

1919年8月1日
※倉富&蜂須賀正韶侯爵の会話

蜂須賀◆末広重雄〔京都大学法学部教授〕は宇和島の人にて伊達家に関係あり。末広の話に松田の未亡人は極端なる性行なるように言うとのことにて懸念なきにあらず。種々の話を総合すれば結局未亡人は利欲の念の強き人のようなるがいかが。
倉富◆予はこれまで一回本人に面会したるのみにてこれを批評するは不都合なれども、要するに利欲心の強き人の様なり。本人は実子ある訳にあらず。ただし相当の資産もある模様につき、この上にそれほど金銭を欲する原因は了解しがたし。
蜂須賀◆本人より伊達宗曜男爵に対し嫁の候補者なきやと言いたる由。これは松田正久の親族某の嫁を探すためなる様なり。未亡人が金を蓄えるは、この某に贈与するためならんと思わる。
倉富◆松田正久の存命中いったん実子として入籍しおりたる者を戸籍の誤りなりとて裁判上の手続をなし除籍したるが、その原因は未亡人がその人を嫌いたるためなる様に聞きおれり。かの人の心理状態は何とも判断できがたし。有馬家と未亡人との間は非常に激しき衝突を起こしたることあり。原因は未亡人より某家に対する負債あり、これを返済するため有馬家より出金してくれよとの相談あり。しかるに負債なき事実明瞭となり有馬家はその請求に応ぜざりし事よりの紛糾にて、結局女の浅薄なる考えと言う他なし。
蜂須賀◆有馬家より持参の5万円と御下賜の3万円とを正之の有となしたらばともかく生計を立つることを得るならんとの話をなしおりたることあるも、3万円はもちろん5万円を取り戻すことも容易ならざるべし。頼寧より松田のために邸宅も設けざるべからずとの話ありたるも、自分は左様のことは如何様になりても頓着せず。娘にも出来得るだけその辺の覚悟はなさしめおるつもりなり。
倉富◆有馬家としてもすぐに松田のために建築する様の事は事情できざるべく、もし只今の住居にて間に合わざるならば当分借家でもせざるをえざるべし。
蜂須賀◆それにて結構なり。
倉富◆正之が選定相続をなし、麻布の邸宅は正久存命中より妻の所有となりおり。正之には何も相続すべき財産なし。
蜂須賀◆頼寧が「蜂須賀より持参する金ありてもその金額等は未亡人に明かさず、元資は蜂須賀家に留め置き利子だけを正之に渡してくれる方が好都合なり」との話あり。その事にいたすつもりなり。

1919年9月13日
※倉富&有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の会話

橋爪◆寡婦は正之に対し「お前の住居は頼寧が引き受けらるるゆえ、まず家を買いたるうえ結婚することにならざるべからず。家を買い入れるまでは婚期を定むべからず」という趣なり。
倉富◆松田にては住居のことも生計のこともすべて有馬家に一任し寡婦は何も世話をなさずに、家を買うまでは婚期を定めずとはあまりにワガママなる申し分なり。予は頼寧より充分寡婦に交渉せられ一切干渉がましきことをなさざる様取り決めらるる必要あると思う。
橋爪◆寡婦より正之に対し「蜂須賀より持ち来る嫁装はすべて松田家へ運び入れ、入用の分だけ新夫婦の住居に持ち行く様にせよ」と言いたる。
倉富◆言語道断なり。左様の事をなしたらば品物はすべて寡婦が差し押さえることとなるべし。左のごとき事を言うならば、なお一切の干渉を途絶しおく必要あり。
橋爪◆正之の持参したる公債証書5万円は既にこれを売却して株券を買入れ、配当金1万5000円は収入とすることとなりおれり。
「正之が寡婦に対する行動よろしければその資産は正之に譲るも、さもなければ他に遣わす」と言いたる。

1919年9月18日
※倉富&蜂須賀正韶侯爵の会話

倉富◆先日橋爪より松田の寡婦より家買入れのこと、嫁装を松田家に運び入れること等の注文をなす趣を聞けり。
蜂須賀◆娘に対しても寡婦の性行が普通ならざるゆえ、何事も軽率に言わず夫婦の間の意思の齟齬せざる様に注意すべきことを訓示しおけり。

1919年10月6日
※倉富&宮内大臣波多野敬直の会話

倉富◆蜂須賀正韶はいかなる事より娘を松田に嫁せしめる事を考えたるや。なかなか熱心にて予にも会いたいと言い、面会のうえ種々話をなしたり。
波多野◆初めは末広重雄より蜂須賀に話して、蜂須賀もこれを思い立ちたる訳なり。
山本達雄が「松田の寡婦は実に困りたる人なり」と言えり。
倉富◆先頃も松田の婚儀につきちょっと面倒なることありたり。
波多野◆松田の家のことは蜂須賀の方にては「家は自分の所にもあるゆえ、そこに住ましめてよろし」と言いおりたるところ、
石井為吉は「家までも蜂須賀の物に住みては蜂須賀の養子になりたる様になるとて寡婦が承知せざりし」と言えり。

1920年8月20日
※松田正之男爵の発言

先日自分官を辞する時、君〔倉富〕より「官を辞したらば家計に不足を生ずることなきや」と言われ、
その時は「家計には差し支えなし」と妻が言うにつきその旨を答えおきたる所、その後毎月不足を生じ、
妻は「自己の不行届きゆえ実家より補助を受けることとすべし」と言うも、それにては有馬家の面目にも関する事と思い先日有馬家に対し補助の増額を求めおきけり。
これまでは年額600円、今年は妻が出産するゆえそのための費用を請求して400円を補助する旨通知来りおれり。
よりてその他に500円を増して総額1500円と致したし。

全体有馬家より自分に対する態度についても了解しがたきこと少なからず。
安藤信昭〔兄〕に対しては資産として10万円を分与し家屋代として5万円を与えたるに、自分には資産は5万円にて家屋代は1万円なり。
兄弟の別あるにしてもせめて家屋代は安藤の金額ぐらい与えてもよろしかるべきはずなり。
久米子〔妹〕が結婚するについても持参金3万円を遣わしなおその後の補助もなしおり。
頼寧は貧児救済とか貧民教育とかに金を費し新聞などもこれを称賛しおれども、弟に高等貧民ありて生活もできずと言うては兄の面目にも関することと思う。
蜂須賀より妻の出産に要する衣類・器具等はすべて遣わしくれたり。
蜂須賀より厚くしてくれるだけ、自分としては有馬家の薄遇に対する不平あり。

※倉富&有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の会話

倉富◆先年頼寧が正之と寡婦との不和を仲裁したる結果、正之が持ち行きたる公債証書5万円のうち2万5000円の利子は寡婦が受け取る事となりたるにつき、有馬家よりその金額だけは補助するが当然なるべし。しかるに1250円を補助せず600円を補助する事となしたるは如何なる事情なりしや。
橋爪◆家を買うまでは正之1ヶ月50円の家賃を要したるゆえ、600円以上は家賃と差し引くべくものとして600円と定めたり。
倉富◆それは無理なるべし。以前は家賃を払いたるにしてもその時は単身なりしが、この節は配偶者もできたるゆえ家賃と差引勘定する訳にはいかず。今年は正之の希望通り1500円を補助し、来年よりは1250円を補助せらるる様取り計いを望む。
橋爪◆自分も持参金5万円の利子に相当するだけは補助せらるるが穏当なりと思う。

1920年2月24日
※有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の発言

正之が家を買入れられたる時、1000円の余金あり。
これにて応接間を作られるはずなりしが、
その時は正之は「応接間は強いて作るに及ばず。その金にて電話を買い、その他にも必要なる事あるにつきその方に使いたし」との話あり、これを費消せり。
しかるにこの節に至り舅蜂須賀正韶が松田家に行き、
「空地もあるゆえ応接間の一つぐらいはありたし」と言いたるより、これを作る希望を起したる模様なり。
正之より「有馬家にて500円ばかり貸しもらいたし」との話なり。

1922年9月9日
※松田正之男爵の発言

現住居は狭くして不便なり。
既に2人の子を喪い書生を置けば病気に罹り、ともかく面白からざる事多し。
妻は家の門が鬼門に当るとの事を聞き神経を悩ましおるにつき住居を変更したし。
しかるに現住居を売却したるだけの金にては他に家を買入れる事できざるゆえ、
有馬家にて家を買いその所有はもとより有馬家の物と為しおきてよろし。
無料にて自分の住居に充つる事にいたしたし。

俸給1600円・利子3750円・実家の補助1250円、計6600円なり。
無事の時なればこれだけににて間に合わざる事なし。
ただし妻は何も買う事を得ず。気の毒なり。
妻は先頃より神経衰弱にて微熱あり。
小田原の蜂須賀の別邸に妻の妹小枝子が転地しおるにつき、妻もその方に行きおれり。
しかるに鎌倉あたりに移る事にいたしたしと思いおる所なり。
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◆16代 蜂須賀正氏 15代蜂須賀正韶の子*1945年爵位返上
1903-1953 50歳没

*子供の頃から生き物好きだったが、殺生を異常に嫌う父正韶から解剖道具などを取り上げられてしまうが、戸棚などに隠れて観察を続ける。

*ケンブリッジ大学出身

*北白川宮美年子女王と婚約していたが、破談となった。

*アフリカ探検や女性関係に湯水のごとく金を使い、父正韶が死んだ時には約100万円の負債があることが判明した。


■妻  永峰智恵子 日系アメリカ人 
1909-1996 87歳没


●長女 蜂須賀正子


*正氏の死後、正氏の姉蜂須賀年子と智恵子未亡人と間で財産争いが続く


1977年
19770441(1)





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松平康 蜂須賀正氏の甥

叔父蜂須賀正氏は日本語より英語の方が上手だった。
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東京朝日新聞 1927年10月27日

宗秩寮総裁仙石政敬明が中間に立って橋渡しをして、北白川宮美年子女王と蜂須賀正氏は、来春早々表向きの御縁談が交わされるはずである。
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『木戸幸一日記』内大臣※当時は宗秩寮総裁

1933年10月30日
蜂須賀正氏公爵来庁。
売立出品中の『栄花物語』を高松宮家に献上の件につき相談あり。
予としては入札で意外の高値にて落札したる以上、1/3にしか当たらざる宮家の下賜8万円にて御受納になるは面白からず、打ち切るを至当とする旨を答う。

1933年10月31日
池田成彬氏来庁、『栄花物語』の件なり。
種々相談の結果、高松宮への献納は蜂須賀家より辞退し、いかなる高値にて買い手あるも当分は売却せざる方針にて進むことに一致す。

1933年12月13日
黒田長敬侍従より、蜂須賀家親戚よりの依頼なりとて、
「蜂須賀侯爵家の乱脈は困ったものなるが、いずれ親族会を開き整理する予定なるゆえ、それまでは処置を取られざるようお願いしたし」とのことなりき。

1934年2月27日
酒井伯爵より蜂須賀侯爵家の内情を聴く。
お家騒動にならなければよいがと思う。

1934年5月9日
蜂須賀正氏侯爵来庁、蜂須賀家の問題につき種々話あり。
予は侯爵の将来の生活につき注意を与え、反省を求む。

1943年6月26日
武者小路宗秩寮総裁来室。
蜂須賀侯爵の問題につき、隔意なく意見を交換す。

1943年11月26日
松平恒雄宮内大臣来室。
蜂須賀侯爵の処分その他につき話あり。
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藤原義江 オペラ歌手

ロンドンの日本人クラブで一条実基男爵をはじめ、蜂須賀正氏侯爵・薩摩治郎八氏など若い連中と知り合いになり、暇な時にはゴルフに行ったりブリッジをしたりして遊んだ。
当時のロンドンには目賀田綱美・一条実基・森村勇の他にも名門の御曹司がかなり集まっていたが、この三氏は際立っていた。
生活ぶりの豪奢なことは、日本人間はもとよりイギリス人間でも有名であった。
衣服にしてもすべてが最高級の特別注文で、お茶の時間にはロンドンの名流夫人が集まるルンプルマイヤーに、夕食は有名料亭か一流ホテルに車を乗りつける。
車の鍵をドアボーイに軽く投げ渡す、左右に並ぶボーイをはじめボーイ長に会釈しながら、食堂に入る前にまずバーに立ち寄るという順序であるが、この乗りつける車もまたありふれている車と違って別誂えである。
一条氏・森村氏はロンドン人でさえあまり知らないノーマという特別誂えのオープンカーを乗り回し、たいていの場合二人は相談して二台のノーマを並べて走り、ボンドストリートやピカデリーの目抜き通りに停車する。
これが人目を引かないはずはない。
甚だしい時は、人だかりで交通巡査が整理したこともあった。
さすがのロールスロイスも、こうした場合ノーマの敵ではなかった。
この人だかりの中を、パイプを咥えた二人の日本人が、手袋をはめながら悠々と乗り込んで、見物に軽く会釈して走り去る。
いつも便乗していた僕はこの光景を見るたびに、ロンドンで最も大日本帝国の国威を発揚しているのはこの二台のノーマだとさえ思った。
目賀田氏はパリが本拠なのでロンドンには車を置いていなかったが、パリではさだめし曲物を乗り回していたに違いない。
目賀田氏はロンドンとパリでダンスを専攻し、金にあかして一流のホテル・クラブでは「バロン目賀田」して木戸御免的なそんざいであった。
僕はよく目賀田氏に誘われて朝の教会へ行った。
必ずモーニングに着替えて行くのである。
お説教やお祈りはどうでもよく、上流家庭の娘さんに会うのが目的であった。
いかなる場所でもダンスにかけては群を抜く腕前と、その均整の取れた堂々たる体格で、教会でもバロン目賀田は評判であった。
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読売新聞 1951年4月

斜陽夫妻、法廷に争う。
蜂須賀元侯爵、在米の夫人と離婚訴訟。
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『高松宮日記』

1945年5月2日
白金の密輸で蜂須賀正氏侯爵と高辻正長子爵が検挙された記事、新聞に出づ。
高辻がリュックサックにて持ち出すを、満州安東で捕まった。
高辻のは御紋付の時計もあり、蜂須賀のは外国の貨幣にて外国のもので儲けようというのがまた悪いと司法側で言う由。
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朝日新聞 1953年5月15日

蜂須賀正氏(元侯爵)狭心症で熱海市の自宅で死去。
蜂須賀家18代に当り、ケンブリッジ大学卒。
12年前から熱海に住み趣味の生活を続けていたが、家庭的には恵まれずロサンゼルスにいる智恵子夫人とは離婚訴訟中であった。
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毎日新聞 1953年5月15日

蜂須賀正氏(元侯爵)狭心症で熱海市の自宅で死去。
蜂須賀氏は戦後在米中の二世智恵子夫人から離婚請求の国際訴訟を起こされ話題をまいた。
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徳島民報 1953年5月16日

猛獣狩りの元侯爵蜂須賀正氏(蜂須賀家18代当主)が狭心症で熱海市の自宅で死去。
阿波藩主の名門に生まれ、日本人離れしたスケールの大きな奇行で注目を浴びた。
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