直球和館

2025年

2001/02

◆122代 明治天皇 祐宮睦仁親王 121代孝明天皇の子
1852-1912 59歳没

*身長167センチ

*西洋医学嫌いで、東洋医学の治療しか受けなかった。

*持病の糖尿病から尿毒症を発症し、心不全で死亡。


■妻  昭憲皇太后 一条忠香公爵の娘一条美子
1849-1914 64歳没

*お妃候補時代、明治天皇は昭憲皇太后を将棋に誘う。
その勝負ぶりに感銘したことが、皇后と決める決め手の一つとなった。

*明治天皇は昭憲皇太后を「天狗さん」と呼んでいた。

*昭憲皇太后はヘビースモーカーで、常にキセルを手放さずに喫っていた。




★女官長 典侍 高倉寿子〈新樹の局〉
1840-1930 90歳没

*昭憲皇太后の家庭教師で、輿入れの際に一条家からともについてきた女官。
本人は「お清の典侍」(天皇のお手がつかない女官)として、毎夜の明治天皇の夜伽の相手は高倉が決めていた。
明治天皇が身分の低い女官に手をつけて皇子を作らせないための措置であった。


★副女官長 お清の権典侍 姉小路良子〈藤袴の局〉
1857-1926


★側室 権典侍 柳原愛子〈早蕨の局〉公家柳原愛光の娘・大正天皇の生母・明治天皇がつけたあだ名は「ちゃぼ」
1859-1943 84歳没

*男子を産んだことで権典侍から典侍に出世〈二位の局〉となる


★側室 権典侍 園祥子〈小菊の局〉公家園基祥の娘 4人の内親王の生母
1867-1947 79歳没


★側室 権典侍 葉室光子〈梅の局〉 公家葉室長順の娘
1853-1873 20歳没

*明治天皇の子を1人産むが、母子ともに死亡


★側室 権典侍 千種任子〈花松の局〉公家千種有任の娘
1855-1944

*明治天皇の子を2人産むが、2人とも早逝


★側室 権典侍 橋本夏子〈小桜の局〉女官橋本麗子&公家東坊城夏長の娘 
1856-1873 17歳没

*明治天皇の子を1人産むが、母子ともに死亡


★側室 権典侍 小倉文子〈緋桜の局〉
1861-1929


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侍従 日野西資博

遠く御父君のもとを離れて御遊学の李垠王に対しての御心づくしは格別でおわした。
岩倉具定公爵を御教育主任に定めさせられ、絶えず種々の御注意を岩倉公爵に御沙汰あり、御父君に代って幼き李垠王を労らせ給う御懇情は、御側で拝する私どもも涙ぐましい感激に打たれた。
されば李垠王御参内の折りなどには、御自身いろいろの物をお選び遊ばされては御下賜があった。
李垠王におかれても大帝を御父君のごとく思召され、その間柄はまったく御親子のお親しさに拝し奉った。

土方久元伯爵が宮内大臣奉仕中のことである。
大帝は小石川の伯爵邸へ行幸遊ばされた。
その時 天覧に供された品々の中に、天狗の面の形をした御盃がたいそう御意に入って、
御供の私に「この盃は二つとない珍しい物だ、大切にして持ち帰れ」との御命。
鼻があるために下に置かれず、どうしても飲み干さねばならぬところが御意に入ったものと見える。
表御座所にお着きのさいにも、「よいか、二つとない盃じゃ、大切に持って参れよ」と重ねて御注意の御沙汰があった。
よくよく御意に召したらしい。
私は注意に注意を加えて御供して参った。
すると今一歩で御内儀に入ろうとする時、どうしたはずみかこの御大切な御盃をパタリと落してしまった。
御盃は二つに割れた。
御注意をいただいたばかりであるのに自分は何たる粗忽者かと恐縮を通り越して呆然と立ち尽くしてしまった。
その私の耳朶に響いたのは、「日野西心配するな。明日また土方に言って代りを探してもらおう」というお優しい玉音であった。
あまりのもったいなさに、熱い涙が滂沱として下ったのであった。
明くる日土方宮相を召されて、「昨夜せっかくもらった天狗の盃を帰りにちょっと粗相して傷つけてしまった。まことに惜しいことをした。何か変わった面白い物があったらくれないか」とあたかも御自身の御粗相のように御話遊ばされ、私のことなど御一言も仰せられなかったと承り、私はまたさらに御仁慈の深きに感泣した。
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学習院院長 一戸兵衛

日露戦争後我々武官に対し豊明殿のおいて昼の御陪食を賜ったことがあったが、その時が最も御側近くで龍顔を拝しまた玉音にも接した時であった。
正面には明治陛下、その御左右には皇族方、それから大山巌元帥・山県有朋元帥、明治陛下とお向き合いの席には宮内大臣というような席次であった。
たまたま明治の初年、最初の西国御巡幸のみぎりに御話を遊ばされた。
西郷隆盛が供奉長であったこと、どういう間違いからかその時お乗りになった軍艦龍宮が浅瀬に乗り上げてしまったことなどを御話になり、30余年前の御事を偲び給うがのごとく、
「あの時は西郷が怒ってのう」と供奉長西郷隆盛が艦長その他の過失を憤ったことを御話になった。
西郷はその時 恐懼措く所を知らず、一方いたく艦長その他の失態を憤り、刀を抜いて館内にあったスイカを斬り、ようやく胸の怒りを鎮めたということである。
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掌典 慈光寺仲敏

私は1882年12月、9歳の折りお稚児の資格をもってお勤め致してから30年明治天皇の御側近くに奉仕致しました。

明治陛下のお若い頃は実にお盛んのもので、少しぐらいの雨や雪などはお構いなく、午後には必ず御乗馬の御練習を遊ばすという御元気です。
山岡鉄舟などを御相手に、御学問所の御苑で相撲を遊ばしたとの御話もなるほどと思われました。

明治陛下は武器、ことに鉄砲・刀剣類をお好み深くあらせられ、御鉄砲掛は米田侍従・御刀剣掛は日野西侍従が承り、週二回ずつ御手入をされました。
御刀剣類は古刀・新刀それぞれお好み遊ばしました。
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侍従 石山基陽

1894年日清戦争の当時、出仕として9歳でお召し出しを蒙ってから20年にわたって御仕え申し上げる光栄を荷ったのであります。

御熱心に御勉強あそばされたのは御馬術で、明治皇后も明治陛下の御沙汰で御馬に召されたように漏れ承っています。
女官の乗馬はなかなか盛んであって上手の方が多くあったほどで、侍従・内舎人・侍従の属官・大膳職の者などは吹上の御馬場において運動乗をして練習致しました。
御手許には馬の名はもちろん産地性質まで記入した馬名簿を差し上げてありますが、明治陛下はそれらによらせられずとも産地から毛色までことごとく御記憶遊ばされて、初心の者にはおとなしい馬というように一々適当に御割当を賜りました。
明治陛下の御在世中 宮中にある者は、馬に乗れぬ者なく、歌の詠めぬ者なしといってよいくらいで、実に文武ともに御奨励のありがたき大御心が拝せられました。

薩摩琵琶はことのほか御意に召されて、お喜びあそばされました。
謡曲もお好み遊ばされ、時折り女官の方々をしてお歌わせになってお楽しみ遊ばされました。
明治陛下は犬をたいそう御寵愛遊ばされました。
日清戦争中 丁汝昌が愛育していた犬が献上されましたが、名前を〈順〉と賜って非常に御寵愛遊ばされ、明治陛下には常に御膝元に御撫育遊ばされました。
御刀剣類も非常にお好み遊ばされ、御座所・御内儀とも御床の間はほとんど御刀剣類で一杯であったぐらいでした。
週二回御剣掛の者が御蔵に入ってお手入れしていました。

お召上り物の御嗜好を申し上げれば、魚類では鱈および鰉・鮎などの川魚、肉類は鴨をことのほか御賞美遊ばされ、またカボチャ・スイカなどをお好みになり、杏の砂糖煮・道明寺なども愛でさせられました。
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掌侍 樹下範子

1860年、私は18歳・明治陛下御年9歳の時に御側に上りました。
万事の御世話は御所からの御付人 中山慶子一位局〈新宰相典侍〉が遊ばされました。
その他には室町清子清子様〈高松様〉梨木持子様〈御乳人〉私〈御小姓〉と判任の者四人が御勤め申し上げたのみで、何もかも至って御質素な御生活であられました。

朝は7時頃お目ざめになります。
御膳を召上った後、お身じまいを遊ばされ白粉までもおつけになって、高松様が御髪を稚児髷に御上げ申されました。
御召物は御模様のある御振袖、ちょうど姫宮様のような御つくりで、その御様子の御美しく御気高くましましたことは今なお眼前に拝するようでございます。
毎日の御日課は、お昼までは御局で中山様が御手習やらいろいろの御稽古の御相手、私は御墨をすったりかれこれとお手伝い致しました。
昼の御食事が住みますと、御召替になります。
緋綸子の御衣・白絹の御袴、鮮やかな御姿で御所に参内遊ばします。
私どもが若宮御殿から花の御殿までお見送り申し上げますと、そこからは御所よりのお迎え人と御一緒にお出でになります。
お稚児さんだけ御供して。
かくて午後の3時頃まで、御父君孝明天皇様の御側にいらせられました。
御所では毎日御父君から御歌の御題二つずつ頂戴されては御詠進遊ばされ、また有栖川宮の御師匠で御手習をなされ、正親町様がその間々の御指導をなさったように承っております。
御所から御下がり遊ばしても別段外へお出ましのようなこともなく、中山一位の局様を御相手に御読書をなされたり、御歌をお作りになったり、静かにお暮しでございました。
御夕飯の時には一位様・高松様・お稚児様が御給仕申し上げ、私や判任の者がお運び致しました。
夜分は私どもがお相手申してカルタを遊ばしたり、時には御題をいただいてつまらぬ腰折れを詠んで御覧に入れたりしてお慰め申し上げました。

御15歳の折り、明年は東宮様にお成り遊ばすとの御沙汰がありましたので、私たちまで非常に喜び楽しんでお待ちしておりましたところ、折柄天皇様には御不例に渡らせられました。
当時薩摩や桑名の兵隊は乾門・栄町門などにたむろして、長州の兵隊を御所の中に入れまいとする、長州の兵は押して入ろうとする、それはそれは騒ぎで、御縁側に御食事の手を清めになど参りますと、ビュッ!ビュッ!と空を切る弾の音が凄まじい波動と共に鼓膜を打ちます。
しかしながらさすが一天万乗の大君とならせ給う御方は御幼少から違ったもので、そうした騒乱の中にも泰然としていささかもお取り乱しの御模様などあらせず、かえって私たちなどがお恥かしゅう存じたことでございました。

ずいぶん御腕白に利かぬ気のお遊びも烈しゅうございましたが、その中にも下々の者はどこまでもお慈しみ下さって常にお優しい御言葉をいただきましたので、そのお可愛い御声が今も耳元に残って、思い出でてはいつも涙にかきくれております。
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女官長・典侍 高倉寿子〈新樹の局〉

私が明治皇后様の御側近くに上りましたのは、まだ明治皇后様が一条家においでの頃、1867年6月21日であったように記憶します。
明治皇后様の御兄上様から〈千枝〉という名を頂戴しておかしづき致しました。
すると一週間ほど経て、お目見えのために御参内遊ばすことになりました。
御供と申しては私一人、御所の筋向いの一条家から御板輿に召されて上がられました。
御所の御聞えもおめでたく、お帰りと同時に女御と御治定にあいなり、数ならぬ私まで上臈の管をおおせつけられました。

1869年かねて御審議中であった東京奠都が確定され、大帝は東京へ行幸遊ばされ、ついて明治皇后様もお引き移りになりました。
私どもに致しましても新しい都の様子は知らず、いよいよ懐かしい京都も今日限りかと思いました時には、なにかしら胸いっぱいになって惜しめども惜しめども京の都に対する名残は尽きませんでした。

明治皇后様は本当に明治陛下のよいお話し相手であらせられ、御食事の折りなどお親しそうにいろいろと御物語遊ばされました。
明治陛下は御身体のお弱くいらせられた明治皇后様の御身上を常にご案じになりまして、沼津・葉山等へ御転地になっておりまする折りなどにも何かと御見舞品を持たせて御使をお遣しになりました。

明治陛下は語学の中でもことにドイツ語がお巧みでいらせられました。
秋の夜長の御清閑の折りなど、御内儀で女官の者どもにお教え下さることもございました。
御教授賜ったと申せば、明治陛下は謡曲が非常に御上手で、私どももよく教えていただいたものです。
謡曲に次いでお好み遊ばしたのは琵琶歌で、なかなか御上手でいらせられました。
どこでお習いになったというわけでもなく、各所へ御臨幸の節 聞え上げたのをよく御記憶なされたのと、蓄音機によって御練習遊ばしたのでございます。
御記憶のお確かなことも実に驚くほどでありました。
「お前たちはどうしてそんなに忘れるのか」とよく御注意をいただきますので、しまいには私は一々書き留めておくように致しました。

例えば御調度類をガラス箱の中へお納めするのも、その納めどころでも平素と違っていると御機嫌がお悪いというくらいで、すべて御生活の御様子が平生お定めになったことをキチンキチンと行われるというふうに拝しました。
そのように物事を決まりよくすることがお好きでしたから、御掃除の行き届いたのをたいそうお好みになり、表御所からお帰りの節など御内儀をきれいに御掃除して取り片付けてありますと、
「よく掃除ができたな」と仰せられて特別に御褒美を下さいました。
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命婦 西西子〈菅の局〉

私は明治皇后〔昭憲皇太后〕がまだ一条家においでの頃、20歳で御側に上りました。
それから御入内と同時に私も御所に上り、50年の間宮中にお勤め致しました。

明治大帝の御高徳について私どもの第一に感じますることは、御規律正しくましましたことでございます。
朝 表への出御の御時刻はもとより、御起床の御時刻、御居間の窓をお開けすることさえ一分でも違うことはお嫌いであらせられました。
万事が御規律正しく、表からに入御になりましてもお寛ぎということはあらせられず、御洋服もなかなかお召替えにならず、いつもきちんとした御態度でいらせられました。

御違例はどなた様も仰せの通り、日露戦争の時の御苦労が玉体に障らせられたのがもとであろうと拝察致します。
明治陛下の御胸のうちは夜も昼も戦争のことのみ思いつめられ、夜中お目覚め遊ばす時でさえ戦争の御話ばかりでございました。
明治陛下は畏れ多いことながらお強い自慢に渡らせられ、今少し早く御手当申し上げたならとただいまになりますと残念でたまりません。
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権命婦 平田三枝〈蔦の局〉

私が初めて御所に上りましたのは1879年の12月でございました。

雪の降る日などはお慰めにと、御庭でよく雪打を御覧に入れたことが記憶に残っております。
私たちが勇ましく戦う様子を明治皇后様と御一緒に御覧あそばされては、たいそう御満足に思召され、
「寒い所で働いたのじゃから、温かいものを馳走してやれ」と仰せられては、御吸物や鯛麺などをたくさんに頂戴致しました。

私たちが週に一度有栖川宮様・北白川宮様の御邸に舞踏の御稽古に参りましたごときも、外人との交際上の準備に資せしめられる叡慮に他ならぬことと拝察致します。
また毎週木曜日には宮城内に茶話会がございまして、各国公使・同夫人をはじめ大臣・外交官・同夫人をお召しになり、高倉様や室町様が御名代として参列せられ、私たちまでも席末に列することを許されました。
またこちらから公使館の招きに応じて参ったことも度々あります。

毎年お催しになる観桜・観菊の御会には諸外国の大公使を召されて御心からなるおもてなしを遊ばされました。
明治皇后様の御通訳は英語の巧みな北島以登子嬢が勤められました。
明治皇后様はいつか英語をお聞き慣れ遊ばされ、暑さ寒さの御挨拶など英語で仰せられるのをよく承りました。

1886年女官の服装が洋服に変わりました時分から、馬術のことは親しく御教えを賜りました。
今考えても私たちは木馬の上へ、明治陛下は下におわしまして、
「足先をこう踏むのじゃ」
「そんなことじゃ落っこちるぞ」
などといろいろ御教導下さったのは、なんとも畏れ多い次第でございます。

日露戦争は日清の役よりまたいっそうの御苦心が多かったことと拝察致します。
夜もろくろく御寝にならぬ晩が幾夜でございましたでしょう。
あの戦争から急に御年を召されたように思われます。
御病気もあの折りからのお始まりの御模様でございました。
あの戦争さえなかったら、あれだけの御体格あれだけの御元気の明治陛下でおはしますもの、かくまで御世を早くし給うことなど決してなかったろうと思います。

1912年7月19日、私は御食事をお運びしておりました。
やがて御食事を終わらせられて食堂から御座所へ赴かせらるるその御足取を拝しまして、私は畏れ多いことながらなんとなく不安な心持が致しました。
平素ちょっとしたおひろいにもしっかり御足を踏ませ給う明治陛下が、どうもこの2~3日御足取がはかばかしく拝せられません。
ことに今日の御様子はと思っているうちに、すでにおうつつとなられました。
明治陛下はそれはそれは蓄音機がお好きでいらせられました。
まして今日のラジオをお聞き遊ばしたらと思うと、それができないのが残念で堪りませぬ。
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権命婦 生源寺伊佐雄〈梢の局〉

私が御所へ上がりましたのは1879年で年は16歳、それから36年明治陛下の御側へお仕え申しました。
一日中政務にお携わりになり、ずいぶんとお疲れ遊ばさるるにも拘わらず、夜分は私たちのために、読書の道、歌の道をはじめとして、フランス語にいたるまでも御教授下されました。
ことに私たち女官どもに乗馬の術をさえ、親しくお教え下されました次第でございます。

どんなことにも御堪能にましまして、どのようなことでもご存じ遊ばさぬというようなことはおあり遊ばしませんでした。
まことに生きながらの神様であらせられたことを、つくづくと拝し奉りました。
「誰が何をした」「誰々の性質はどうである」というようなことは、ちょうど鏡にうつした姿のようにはっきりと御承知であらせられました。

ある時のこと、私たち七八名のものが浜御殿に土筆を摘みに参りました。
これもやはり御諚があったからなのでございます。
その折、「今日は競争じゃ、一番多く摘ってきたものには、褒美を取らせる」
明治陛下のこの忝い御仰せに、私たちは勇み立って、終日春光を浴びながら楽しく摘りつくしたことがございました。
「競争じゃ」との仰せがあると、摘ること、摘ること、中には命がけで、まるで根つきの泥のままのものをも構わずに摘りつくして、竹長持を一杯にして持ち戻ったものもございました。
あの時その泥つきの土筆を御高覧遊ばされて、明治陛下にはひとしおの御興があらせられましたことも、今も目に見えるようで、まことに有難い楽しい思い出の一つでございます。

御承知の通り私たち御所のうちに朝夕を生活いたすものは、外の空気や日光に浴する機会が思うようにはございませぬ。
それをお気遣いになり、「今日は競争じゃ」「たくさん摘ったものには、褒美をとらせる」
この御奨励の大御言葉がかかるのでございまして、これによって私たち女官どもにも戸外の運動に努めさせ給うたのでございます。
何という洪大無辺の有難い御思召ではございませんか。
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権掌侍 吉田鈺子〈撫子の局〉

私は1887年から御所に出まして、28年間お仕え申し上げました。
私はよく御沙汰をこうむりましては大工のするような御仕事を致しました。
博覧会などでお買い上げの材木を賜りまして、「これで何々を作れ」と申されます。
一番たくさん作って差し上げたのが御手拭掛けでございました。
明治陛下は御承知の通り御肥満にいらせられたためよく汗をおかき遊ばし、常に御手拭でお拭いになりましたが、自然たくさんの御手拭が御入用であったのでございます。
それとても慣れぬこととて釘づけに致しますと、じきにグラグラになって役立たなくなります。
「また手拭掛けが壊れたぞ」と仰せになってはお笑い遊ばす。

いつもいつも大きな御声でよくお笑い遊ばしました。
御心配の多い戦時中でも、どうしてあんなに大きな御声でと思われるほどにお笑い遊ばしました。
御心配は御心配ながら、しかしそれに屈託あそばされぬ海のような御宏量、山のような御大胆、それがこの御笑声となって発露遊ばすのでございましょう。
その御笑声を聞くごとに私どもまでなんとも言えぬ心強さを覚えまして、我が大君のおはします限り戦争は必ず勝つものと心の中に固く信ずるようになりました。
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権命婦 樹下定江〈松の局〉

1887年18歳の時 大奥に奉仕しましてから、28年間御奉公申し上げました。
誰やらが冗談のように「明治陛下は老人と子供ばかりがお好きだ」と申しました。
腰も二重になりお勤めがかなわなくなりますと初めてお暇が出ましたが、隠居してから後も何かとお労りになりした。
御老人の方々が参内せられますと、明治陛下はそれはそれは御満足のようでございました。
足元のおぼつかないのを私どもが御手を引いて御前にまかり出たものでございます。
すると明治陛下は「おお、よく参った」と仰せられてニコニコしてお迎えあそばされ、それからなにくれとなくお労りの御言葉を賜るやらおすべりなどを下さるやら。

お若い頃は雪の日は何よりのお慰みで私たちが雪打などして御覧に入れましたが、お年召されてからは御寒もひとしおお感じになりますので300人ぐらいの除雪の人がみえました。
明治陛下はこの様子を御覧遊ばされまして、「寒い折りに気の毒な。何か温かい物をやれ」と仰せになられます。
温かい御茶と御菓子が出ました後で、竹の皮包みのおにぎりと玉子焼きを出すというわけで、大膳寮は大忙しでございました。
その除雪の人々が御庭のあちこちでおいしそうに頂戴しているのを御覧遊ばされて、またたいそう御満足のようであらせられました。

「この天皇様にしてこの皇后様、よくお揃い遊ばしたものよ」と私たち御側に奉仕する者は常々申し合って感激したことでございます。
明治陛下が表の御用多くしてお昼の入御がお遅くなられます時などは、私どもがお昼の御膳を持ちましても、
明治皇后様は「明治陛下が御国のためにお勤め遊ばすのに、どうして私が」と仰せになって決してお許しなく、たとえ3時4時になりましても明治陛下の入御になるまではきちんと御正座遊ばされ、神々に御祈念なされつつお待ち遊ばされます。
そうして明治陛下入御の後、はじめて御一緒に御膳におつき遊ばすのが常でございました。
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権掌侍 薮嘉根子〈紅葉の局〉

私が御所に上りました当時、私の世話親の典侍室町清子様〈紅梅の局〉や掌侍樹下範子様などから、明治大帝の御幼少の時の御事などいろいろ御伺い致しましたからまずそれを謹述いたします。

明治陛下はお小さい時から非常に勝気にましまして、稚児を相手に戦事など遊ばす際にも自ら木大刀をもって勇ましくお斬り合い遊ばし、決してお負けになるようなことはなかったと承ります。
したがっておいたもなかなか烈しく、ずいぶん女官の方々を困らせたそうにございます。
女官の後ろから水鉄砲で水をかけて驚かせたり、御呉服所の人々が楽しみにておて大切に御縁側にかざっておいた万年青の葉をハサミでちょん切って坊主にしてしまったり、御廊下はいつもおいたで大騒ぎであったと申します。
あまりおいたが過ぎますと、女官の方々がお稚児の私の兄実休をつかまえては叱られました。
すると兄は「夜になっても鳥を入れてやらないぞ」なぞと言って、なかなか素直でなかったそうです。
孝明天皇様御寵愛の鳥、それは駝鳥に似た恐ろしい鳥であったそうですが、夜分になって御小屋に入れますにはどうしても女官の手に負えないものですから、いつもお稚児の手を借りていたとのこと。
兄はその弱点を持ち出しては女官の方々を脅し、明治陛下の御指図に任せていよいよ茶目ぶりを発揮したらしゅうございます。

御生母中山一位の局様はずいぶんお厳しいお育て方を遊ばしたように承りました。
悪いことはビシビシとお𠮟りなり、どうしてもお用いのない時には御文庫の中へ入れ申してまでもお窘めになったようでございます。
もっとも明治陛下一人だけをお入れ申すということはできませんから、いつも兄が御供しては御文庫入りをしたそうにございます。
当時のお勤めというのがなかなか楽でなかったようです。
兄などは冬でも足袋を履くことを許されず、シモヤケが痛んでたまらなくなると、ようやくそのひどい方の片足だけお許しがでたというほどの御厳重であったように承りました。
侍医の方から御転地をお勧め申し上げるようなことがありましても、
「ワシの身体は若い時から鍛えた身体じゃ。寒いから暑いからと言って東京を去るようでは、しまいには東京に暮らせなくなるじゃろう。御歴代におかせられては、転地など決してなさらなんだ」と仰せられて、かえってお叱りをこうむったと承っております。

我が国の美風はどこまでも御保存遊ばすように御努力なされた明治陛下は、また一面世界の大勢に順応なさることをも決してお忘れ遊ばしませんでした。
女官の服装のごときも国交上必要とお認めの上は断然洋装にお改めになり、束髪の結い方・洋食の食べ方・礼式なども宮内省御雇のドイツ人モール夫妻にみなの者が教えていただきました。
御内儀の食堂で明治陛下がテーブルの席までも御指定になって、洋食の食べ方の練習もございました。
始めのうちはいろいろの失敗もございましたが、お陰様でだんだんと礼式にも慣れ、外人と会食もできるまでになりました。
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権典侍 小倉文子〈緋桜の局〉

明治陛下はたいそう動物をお愛しになり、ことに御犬がお好きでございました。
伏見大宮が御渡欧の時、御注文遊ばされた犬が5匹ありました。
そのうち2匹は新宿御苑にお預けになり、一匹は有栖川宮へ御下賜になり、二匹だけ御手元おお留めになりました。
そのうち御内儀にいたのが〈六号〉と申し、表御座所にいましたのが〈花号〉と申しました。
明治陛下崩御あらせられて後は六号・花号は昭憲皇太后様の御手許で御寵愛をこうむりましたが、六号は明治陛下の崩御の翌年に没しました。
花号は昭憲皇太后様崩御あらせられて後、私が頂戴いたしました。
しかしそれも心臓病のためこの世を去り、今は写真となって面影を偲ぶばかりとなりました。
2匹ともたいそう利口な御犬でありました。
夜分9時頃になりますと御道具掛の女嬬へとお預けになりますが、その退出時刻などもよく存じておりまして、その時刻が参りますと明治陛下に御挨拶をして自分から部屋の方へスタスタと歩いて行きます。
翌朝女嬬に連れられて参りますと、いきなり明治陛下の御側に走って行き、嬉しそうに御膝の上に手をかけて、牛乳を召上っていらせられる明治陛下へおすそ分けをお願いします。
明治陛下は御遠慮ないふるまいをニコニコして御覧になりながら、別の御器にお分け与えになるのでした。
また夜分御夕食の折りには、御膝元にいていろいろ御馳走を頂戴致します。

御所の梅の実が熟される頃になりますと、大膳寮から梅の実を採って明治陛下に差し上げます。
明治陛下はそれを女官たちにお分け下さるばかりか女嬬たちにもお下げになるのですが、女嬬の人々は直接頂戴ができませんから、高倉さんや私たちが縁側から御庭へと梅の実を投げます。
するとあちらの木陰、こちらの築山に隠れている女嬬たちが、思い思いの装いで御庭に現れ出て、それを拾うのでございます。
その仮装が面白いとて明治陛下にも明治皇后にもお笑いあそばされましたが、明治陛下には下々と違い御自由にお遊びに出でますこともありませんので、時折こんな御催をして御徒然をお慰め申し上げたこともございます。
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秩父宮雍仁親王

僕は一度も祖父明治天皇の肉声をうかがったことがない。
年に3回すなわち春秋と誕生日とに参内するのが例であって、その時にはお目にかかるのだが、御前に行って御辞儀するとかすかに御唇の動くような気はしたが、ついぞ御声は聞かなかった。
偽らないところは、怖い恐ろしいといったものであった。
祖父明治陛下にお目にかかるということが、当時の僕らにはこの上ない大事件であった。
何しろ参内する日が決まるとまわりの人も何かと心配し、なんと御挨拶すべきかというようなことまでいちいち注意するのだから、孫が祖父の家に遊びに行くというふうななごやかさは微塵もなかったわけだ。
やがて侍従に導かれて明治天皇の御前に幾。
あまり明るくない室に大きな机を前にして、あの肋骨の黒い軍服で明治陛下は立っておられる。
カーキ色の軍服は観兵式などに行幸の時、赤坂の通りを馬車で通られる折に見上げるぐらいのものだ。
僕らは廊下から数歩御部屋の中に入って御辞儀をする。
そして予定の御挨拶を述べる。
正味一分ぐらいだろうが、もしも一言でも何かおっしゃったら、僕は泣き出したかもしれない。

明治陛下とは一度も食卓を囲んだことはない。
宮城で祖母上〔昭憲皇太后〕と会食するのは決まって大演習の御留守で、その時は母上も叔母上方も一緒であった。

祖母上に対しては少しも遠慮を感じなかった。
キセルは祖母上につきもので、いかなる所へでも喫煙セットがついていく。
祖母上は絶えずニコニコして、僕らの勝手放題に騒ぎまわる様子をキセルで煙をふかしながら見守っておられるのであった。

もう崩御だということを聞かされた。
内謁見所のところまで行くと、叔母上方が縁に椅子を出し、眼を泣きはらしておられた。
僕らが側に行くと、「おじじ様はとうとうお亡くなりになりました。おじじ様のような立派な方にならなくては」と言葉もとぎれとぎれに慰めかつ励ましてくださった。
熟睡中起こされて興奮していたのか、死という不思議なことに初めて直面してショックが大きかったのか、この場の光景は今でもまざまざと頭に刻まれているのに反し、その後のことは全然記憶がない。
御遺骸に御辞儀をしたことすら。
しかしその日家に帰って次のように侍女に語っている。
「おばば様が白い布を取ってくださったの。『お忘れにならないようによく御顔を覚えておいで遊ばせ』とおっしゃったのだけど、悲しくてよく拝見できなかったの」

こんなわけで一口に言えば、明治陛下には肉親的な思い出はほとんど何一つないと言ってよい。
後に明治天皇が怖かったと言うと、よく母上〔貞明皇后〕は「おじじ様は宮さん方のことを心にかけておいでにならないどころか、参内してお会いになるのを大変楽しみにしておいでになりました。奥(明治皇后様)からおいただきのオモチャなど、おじじ様の実に御心のこもったものも少なくなかったのです。おじじ様はなかなか細かく御気がつくので、たた(母)に対しても、折に触れて反物など御自分で柄までお選びになって下さいました」と話された。
どうもそのオモチャとあのいかめしい御顔の祖父上とか結びつかないのであった。
僕らをそれほど可愛いと思って下さるなら、なぜもっとその御気持を直接に表して下さらなかったものか。
もっと打ち解けておばば様が僕らにされたようなことを、一年に一度くらいはして下さってもと思わないわけにはいかぬ。
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●明宮 嘉仁親王   123代大正天皇

●常宮 昌子内親王  竹田宮恒久王妃
●周宮 房子内親王  北白川宮成久王妃
●富美 宮允子内親王 朝香宮鳩彦王妃
●泰宮 聡子内親王  東久邇宮稔彦王妃


当時4人の内親王と年齢が釣り合う皇族男子は年齢順に、
竹田宮恒久王・北白川宮成久王・有栖川宮栽仁王・朝香宮鳩彦王・東久邇宮稔彦王の5人であったが、有栖川宮栽仁王が早逝したので残りの四人と結婚となった。

◆122代 明治天皇 祐宮睦仁親王 121代孝明天皇の子
1852-1912 59歳没

*身長167センチ

*西洋医学嫌いで、東洋医学の治療しか受けなかった。

*持病の糖尿病から尿毒症を発症し、心不全で死亡。


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久世通章子爵の娘久世三千子→山川黙の妻山川三千子 明治天皇の女官〈桜木の局〉

明治陛下のおひる〔お目覚め〕は午前8時でございました。
侍医頭と当番侍医の拝診が終ると、隣室に宿直した権典侍と権掌侍の手によって、朝の御洗顔のお湯などが御格子の間に運ばれ、御洗顔の後 熱いしぼりタオルで上半身をお拭きになります。
白羽二重の御寝巻着に白縮緬の帯のまま御食堂へ。
御朝食が始まると一の膳・二の膳と前日御覧に入れた通りの品々も並べられますが、いつもパンと牛乳入のコーヒーで軽い御食事をお取りになります。
その後しばらく御座所で、お好きな刀剣類などを眺めておくつろぎになります。
また時計をことのほか愛でておいでになりましたので、置時計・柱時計・懐中時計など形や音が様々な物を集めて、お楽しそうに御覧になってもおりました。
10時半には軍服をお召しになって出御、御学問所で政務を御覧遊ばし、12時半に入御、フロックコートにお召し替えになって明治皇后と御一緒の御部屋で御食事を遊ばしました。
御食事が終れば午後2時、御座所で上奏物を御覧になったり、御歌などをお詠みになります。
毎週木曜日には夕方まで勲章に添えて賜る勲記に御直筆の御署名をお書きになっておりました。
私たちは「木曜のおテーブル」と呼んでいましたが、明治陛下が御署名遊ばすのはこのテーブルの前にお立ちになったままでした。
お墨は古梅園特性の金色の紅花墨で、そろそろとすりますので一時間ぐらいかかりました。
御夕食は午後7時からで、だいぶ品数も多く、いつも20種類以上のように思いました。
明治陛下はどちらかと言えば濃厚な方をお好みになりましたので、同じ魚を差し上げるにしても、つけ焼とか煮つけで、明治皇后は塩焼きやお刺身、またはからすみといった物がお好きでございました。
御夕食後は蝋管の蓄音機で『北白川宮台湾入』とか『大塔の宮』などという琵琶歌をよくお聞きになって、時には御自分で口ずさんでおいでになることもございました。
お慰みと言ってもレコードで琵琶歌をお聴きになるくらいのもので、今のようにラジオやテレビなどができていたらならば、どんなに御満足であったかと残念に思います。
御湯殿・御厠は明治陛下のは御所に、明治皇后のは御休所にございました。
御湯は別の場所でほどよく沸かしたものを八瀬童子が御手桶で運びまして、たくさん重ねて積んでございます。
「お湯を」と仰せ出られますと、それを浴槽に入れるだけは命婦がやります。
燭を持って先に立つのは年配の掌侍で、明治陛下の御湯の御世話は権典侍が、明治皇后は掌侍二人と命婦が御世話申し上げ、御厠の時にも二人ずつおつき申し上げます。
ちょっと書き添えますと、両陛下とも御厠がお済みになりますと、仕人が新しい箱を持って来てお取替え致します。
引出になっていてシッカリと蓋ができ、下行道と呼ばれるところを通って行きますので誰の目にも触れません。
御健康のバロメーターなのですから、そのたびごとに侍医寮に差し出します。
明治陛下は毎日午後11時半に御格子〔御就寝〕になります。
日露戦争までは午後10時半でございましたそうですが、戦争中は夜中にもたびたび上奏がございましたので、遅くなるのが御習慣になったとか承りました。

明治陛下は一言にして言えば、沈着・豪胆とでも申し上げるのでございましょうか、滅多なことにはお驚きにならない。
しかしまた一面細心で、どうしてそこまで御存知なのかと思うほど、よくお気のつくこともございました。

明治陛下は御幼少時分はずいぶん御苦労を遊ばされ、また一位の局〔生母中山慶子〕も実に厳しいおしつけを申し上げましたそうです。
御成婚後 明治皇后にお子様がおできにならないので権典侍をお召しになることになった時も、
「天皇様だと言って御時分の御勝手ばかり遊ばしてはいけません。こういうことは本人も得心の上、これとお定めになった人以外を召されることは断じてございませんように」とくれぐれも御忠告申し上げたと承りました。

御政務上となるとなかなかおやかましくまた誠に強情で、お気に入らぬことはあくまでもお許しがなく、御得心の行くまで御下問になるので、幾度か上奏しても御裁可がなくて困ったこともあると耳にしました。
しかし一度こうとお決めになったら最後、未練がましいことなど絶対に御口に遊ばさしません。

この明治陛下をお驚かせた事件は、伊藤博文公爵がハルビン駅頭で撃たれたとの突然の上奏でございました。
さすがの明治陛下も「ううん、伊藤が殺されたか」と、ただ一言深いため息をおつきになりました。
そして数日後「日本に連れて来られてから、ただ一人『爺や、爺や』と伊藤ばかりを頼りにしていた朝鮮の坊ちゃん〔李垠王〕はさぞ心細いだろう。かわいそうにね。いわば人質だから、このあいだ東宮さん〔大正天皇〕が来た時『これから仲良く可愛がってあげなさい』と言っておいたけれど」と、おいたわりの御言葉をお漏らしになりました。

明治陛下は御体格も立派であったし、落ち着きはらって堂々とした御態度は、外国使節などからも尊敬されておいでになりました。
けれど外人との御交際はあまりお好みにはならないようで、
「秋の観菊会は、大演習の留守中に皇后さんだけで済ましてもらうよ」などと仰せになっておりました。
1911年の秋は福岡県下で大演習が行われましたが、そこからお帰りになったある日の御食事中、
「わしは京都で生まれたからあの静かさが好きだ。死んでからも京都に行くことに決めたよ。今日侍従長徳大寺実則を呼んでその話を始めたら、
『そんな話はまあまあ』などとなかなか聞かなかったけれど、
『人間どうせ誰でも一度は死ぬものだ。あの皇太子〔大正天皇〕では危ないから、何もかもわしが定めておくのだ』と無理矢理聞かせたが、大演習の帰りに汽車の窓から眺めたら御陵にちょうどいい場所が京都にあって、少し離れて小さめの山と二つ並んでいる。小さい方は皇后さんが入るのだよ」と御話になっているのを御配膳しながら承りました。
それが桃山両御陵でございます。
「今は何でも外国使節が出て来るが、東京の式だけは仕方がないとしても、それが済んだら後は日本人ばかり、ことにわしのことをよく考えてくれた人を主として京都で昔風の葬儀をするのだ。もし外人が送ると言っても、名古屋から帰ってもらうんだよ」などと細々の物語を遊ばしました。

6月には例年〈お梅ほり〉というものが行われました。
赤坂離宮や霞が関離宮などの梅林から梅の実が集められて参ります。
どれぐらいあったものか、相当たくさんのものでございました。
御庭にはもう判任女官が集まってお待ちしております。
これを〈御隙見〉といって、障子屏風の切った所から両陛下が御覧になるのです。
命婦たちが御庭に向かって梅をみな勢いよく投げます。
それを判任女官が我先にと争って拾うのですが、拾った人は隠し芸の踊りや手品をやって御覧に入れます。
民謡などを上手に歌う人もあり、詩吟・剣舞などなどなかなか立派にやりますので、私たち一同はやんやと拍手を致します。
両陛下も面白そうにお笑いになったりして、これもまたお慰みの一つでございましょう。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

明治陛下は表御座所に狆を一匹飼っておいでになったが、その狆があたり構わず糞をするので、明治陛下の御機嫌奉伺に来た人たちがうっかり踏みつけるので困ったということを聞いた。

大正になってから、私は何かの用で主馬寮に行った。
そのとき普通の鞍よりもやや小さい鞍が目にとまった。
古参の仕人が、「明治陛下は非常にお酒がお好きだった。女官もお酒の御相手をした。明治陛下は酔った女官を馬に乗せて引き回してお楽しみになったんだ。あの鞍は女官たちが乗った鞍なんだよ」

1912年7月19日の夜のことであった。
いつもは灯りを消して静寂に溶け合っている宮内省官房の中が、その夜に限って明るく電灯が輝き、騒がしく人々が動き回っている様子であった。
しかし私たちは何があったのだろうと思っただけで、そのまま詰所に帰って寝室で寝てしまった。
翌朝、意外にも明治陛下が御大患であるという。
昨夜宮内省から松方侯爵に通知があって、直ちに自動車で宮内省にゆかれたということを聞いた。
松方正義侯爵の運転手の男から、
その時「国家の重大事だからたとえ人を轢き殺してもかまわない。全速力で宮城へ行ってくれ!」と言ったので、とにかくめくら滅法スピードを出して走り、三田の松方邸からわずか数分で宮内省に着いたと聞いた。

その日から重臣や高官たちがそれぞれ憂いを顔にたたえて続々参内してきたが、確かその日に陛下の御不例が号外で発表になったと記憶している。
参内して来た高官たちの接待は私たち仕人の役目であるが、この時の忙しさは目の回るほどであった。
もちろん非番の時でも休むことはできず、一日中立ったままで寝ることもできなかった。
ちょうど真夏の暑い頃なので、大膳職が用意した氷やらサイダーやら麦茶やらを私たちが注いで回ったのである。
陛下が崩御になり、御大葬が行われ、すべてが終わった夜、私たちは初めて寝ることができたが、仕人たちのうちで翌日起きることができた者はわずか三人きりだった。
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■妻  昭憲皇太后 一条忠香公爵の娘一条美子
1849-1914 64歳没

*お妃候補時代、明治天皇は昭憲皇太后を将棋に誘う。
その勝負ぶりに感銘したことが、皇后と決める決め手の一つとなった。

*明治天皇は昭憲皇太后を「天狗さん」と呼んでいた。

*昭憲皇太后はヘビースモーカーで、常にキセルを手放さずに喫っていた。


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昭憲皇太后は贅沢なものではなくありふれた銀のキセルを使っていたが、味が変わるのを嫌い常に2本のキセルに刻み煙草を詰めて交互に喫っていた。

明治天皇は宮中で使用の煙草を一日3~4本喫っていた。
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坊城俊良 大正天皇・昭和天皇に仕えた侍従 

昭憲皇太后はいかなる場合にもお取り乱しなどなく、冷静・聡明・国体の本義・天皇の御位置の大切な事理を明白にあそばされた。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

御歌所の寄人が大正天皇の御歌に朱筆で添削して御覧に入れたということを指して、
昭憲皇太后は「たいへんな世の中になったものだ」とおっしゃった。
以前は天皇陛下の御歌を寄人がお直しすることはなかったのだそうである。
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梨木止女子→坂東長康の妻坂東登女子 明治天皇・大正天皇に仕えた女官〈椿の局〉

明治陛下は明治皇后のことを「天狗さん」と仰せになった。
呼ぶ時、「天狗さん」とお呼び遊ばす。
御鼻がお高くあらしゃったからです。

大正陛下は昭憲皇太后のことを御大事に遊ばして、御自分さんのおみ足がお悪いのに、御自分さん後ろ向きに御階段の御下にお下がり遊ばして、御手々をお持ち遊ばして、
「お危のうございますよ、お危のうございますよ」と仰せになって、お労り遊ばすんですよ。
昭憲皇太后は御涙をためて「恐れ入ります」と言わしゃって、ほんとにお美しいですね。

昭憲皇太后がおかくれ遊ばすまでの期間は、そんなにお長くないですよ。
一年も御畳〔床につく〕にならしゃいましたかね。
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久世通章子爵の娘久世三千子→山川黙の妻山川三千子 明治天皇の女官〈桜木の局〉

夜 明治陛下が御格子を仰せ出されると、「ごきげんよう」と御挨拶遊ばした明治皇后は掌侍二人を従えて御休所へお引き上げになって、すっかり御化粧も落し、おぐしをとかし〈おとき下げ〉に遊ばし、白羽二重の御寝巻着に緋縮緬の細い御帯で、白羽二重の御夜具の揃った寝台の上で御格子になります。
御寝台には両陛下とも、冬は牡丹の地紋白緞子の御緞張を、夏は〈絹もじ〉の御蚊帳をかけました。
御蚊帳の〈しず〉は、明治陛下は白・明治皇后は緋縮緬でした。
掌侍も同じ着物に白羽二重の掻取を着たまま、やはり同じ白い布団で、一人は御寝台のすぐ下へ、一人は命婦と共に次の御部屋で休みます。
朝は午前7時半に御側の掌侍が「ごきげんよう」と御挨拶申し上げると、おひる〔お目覚め〕になるのです。
宿直した方の掌侍が次の御部屋の御掃除を済まし、御化粧道具を揃えておきます。
明治皇后は御化粧着の御掻取を召して、その前にお座りになり、命婦の運んだ御湯で御洗顔、と言っても大きなタライでほとんど上半身お洗いになります。
御化粧の御手伝はその朝出勤した掌侍が、おぐしを上げたり御寝具を干したりは宿直の二人が御世話申し上げます。
御化粧がお済みになると、その場で朝の御食事を遊ばします。
やはり明治陛下と同様に一の膳・二の膳が上るのですが、召し上るのはパンと牛乳入のコーヒーだけ。
御食後には御腰湯を遊ばして、御洋服にお召し替えの後、御所においでになるのです。
御褥〔座布団〕もお用いになりますが、御所の方では明治陛下だけしか御褥をお使いになりません。

明治皇后は御身体は小作りで誠に御華奢でございましたが、これという御病気も遊ばさず、面長の白い御顔に張りのいい御目、きりっと締まった御口元、御鼻は少し高すぎますが、何の非の打ち所もない御綺麗な方でございました。
もうお年を召されていましたが、お化粧がお済みになった時などは「まあ、なんとお美しい」と見とれたものでございます。
御靴下を召されるとき御側にいる掌侍の肩にちょっと御手をおかけになるのですが、私の肩におかけになって、
「三千子は細くて折れそう」とお笑いになるので、
「明治皇后様の御力などでは絶対に折れません」と申し上げると、
「これでも?」と御力を入れてお押さえになったりして、時には御冗談も遊ばしました。

和歌の御上手なことは誰も知る通りで、一日に幾首となくお詠みになります。
御記憶のいいことも驚くばかりで、滅多においでにならない書庫の御本でも、幾段目の右から何番目にあるから持って来てほしいなどとおっしゃるし、日本歴史などもほとんど暗記しておいでになったようです。
お琴の名手でもあられましたが、御自分だけのお遊びは一切お避けになりましたので伺うことができませんでした。

私の出た時分はもう明治皇后も御歳を召しておりましたので御乗馬は遊ばしませんでしたが、元はずいぶん御稽古遊ばしたそうで、女官もほとんど皆が馬に乗れました。
御内庭にも御馬見所という御茶屋があって、御昼食を召されることもありました。
今ならばテント張りに椅子というところでしょうが、組み立てればできるようになっている合印が付いているというは言うものの、御覧になっているところで建てるのですから、全部女官がやるのでございます。
洋装と言っても今とは違って裾は長うございますし、それを紐ではしょって、どんどんと働く姿は知らぬ人からはとても想像もつかない珍妙なものでございましたでしょう。
それが一時間とは経たぬ間に出来上がって、20~30種の御料理まで全部運び終わってしまいます。
こんな時でもなければ明治皇后はめったに御庭にさえお出にならない窮屈な御生活でございましたので、御食事後は明治陛下が明治皇后に「花でも摘んでおいでなさい」と仰せられるので、小さい籠を下げて明治皇后の御供をしてタンポポ・スミレなどを探し回りました。

沼津御用邸で明治皇后は男女がふざけながら波打ち際を歩いているのを御目にとめられ、
「あれはどういう人だろう?」との御言葉に、
「わかりませんが、女は芸者だろうと存じます」と申し上げますと、
「芸者とは何をする人?」と仰せられるので、
「酒宴の席などでいろいろと世話をする女でございます」
「歩くとチラチラ赤い物が見えるけれど、やはり着物の裏が赤いの?」
「あれは長襦袢と申しまして、着物の下に着ております。ペチコートのようなものでございます」
明治皇后は普通一般の人の着る日本服は一度もお召しになったことがないので、下々の着物のことは少しも御存知ございませんでした。
その時分 拝謁に出るほどの高官夫人は和服なら袿袴・洋服なら中礼服と決まっておりましたので、あの女の姿は大変珍しいものと御覧になったらしゅうございます。

明治皇后は御幼少の頃からの御内定で特別の御教育をお受けになり、御歳も若くて始めから皇后におなりになりましたので、御責任も重くすべて控えめがちの御性質も手伝って、何事も御言葉としてでるまではずいぶんよくお考えになる御様子でございました。
大勢いる女官たちにも少しの分け隔てもなく、いつも微笑んでおいでになって御言葉は少なく、こちらから伺わなければあれこれとあまり御指図遊ばしませんが、女官たちの気質もみなよく御存知のようでございました。
明治皇后は女官を名指しで召す場合には、「新樹」とか「早蕨」とか仰せられましたが、誰でもよい時には「どなたか」と大変御丁寧なので、その訳を伺いましたら、
「今は皇后となり女官となったけれど、元を言えば同じ公卿の娘だから」と仰せられました。

私が出仕した時は大変手不足の時でございましたので、先輩たちからゆっくり指導を受ける暇もなく、まごまごしておりました。
すると誰もいない時に、
「わからぬことがあったら、他に人のいない時なら何でも教えてあげるよ」とお優しい御言葉をいただきました。
「●●からはこう教わり、■■からはこう習いましたが」と伺うと、
「人によって少しやり方が違うけれど、私に対して悪いようにと思う人はいない。皆これが良いと思いながらしているのですから黙っています。しかし都合を聞いてくれるのなら、こちらの方が私は好きなのだ」とおっしゃり、ちっとも無駄口は仰せられません。
どちらかといえば冷静で、学者肌のようにお見受け申しました。
あの御聡明な明治皇后に御世嗣の皇子がお生まれにならなかったことはかえすがえすも残念なことで、もし皇太子でもおよろこびになっていたら、あるいはそのために日本の歴史の一部に変更がなどと、儚い夢もふと浮かんでまいります。
昔は男系ということのみに囚われて、腹は借り物などと母性をあまりにも軽く見ていたのではないでしょうか。

明治皇后〔昭憲皇太后〕にお子様がおできにならなかったので権典侍はいましたが、明治皇后に対しての御愛情は深く、何かとお心遣いを遊ばされ、ちょっと御風邪気味で明治皇后が御所においでにならないと、すぐ御見舞の御使が来るという有り様でした。
明治皇后は一度肺炎を遊ばされましたので、侍医が御心配申し上げて冬になると御避寒を願うので、暖かい海岸においでになりました。
やはりなんとなくお寂しいのか、この御留守中はとかく明治陛下の御機嫌が良くないので、側近者はみな困りました。
「皇后さんは弱いからわしより早く死なれては大変だ。一日でもよいから後に残ってもらわなければね。先に死なれては皆がわしを一人にしておいてはくれまいし、今時気に入るような女はないよ」と仰せになっていました。

元来 権典侍は蔭の人なのでお遊びの時以外には明治皇后の行啓の御供はできないことになっておりましたのを、日清戦争の時は大本営が広島に移されて長い長い御滞在なので、明治皇后が特別のお計いで権典侍に御供するように仰せられたのだそうです。

毎年冬だけは侍医の勧めで海岸においでになりましたが、御転地先からは御使をもっていろいろその土地の珍しい御菓子とか産物を明治陛下に御献上になります。
明治陛下の方からも終始御使が出ました。
御転地中も一週間に一度は必ず御両方から御使が出るので、どちら様でもそのお便りをお待ちかねのようでございました。
ある時などは御自分でお見立ての御人形を御使として名前までおつけになり、御手箱の内には帛紗半衿などの小物・小裂などをお入れになって、明治皇后のお慰めにとお贈りになりました。
後にこの御人形のうちの「鶴子さん」というのを明治皇后からいただいて、可愛がっていたことがございます。

両陛下ともずいぶん汗をお召しになるようでしたが、夏は特にお嫌いではないらしく、どちらにもおいでになりません。
〔避暑はしない〕
ただ明治皇后は雷が大変お嫌いでございましたので、すこしでも鳴り出すと御座文庫の上にじっとおうつむきになって、風炉先屏風を囲って小さくなっておいでになります。
すると明治陛下がお隣りからお覗きになって、
「ああ天狗さん、小さく片づいているな」などと御冗談をおっしゃいますが、
「誰か御側に来ておあげ」との御沙汰で掌侍が伺っておりました。

明治陛下の御側にはいつも御愛犬〈六号〉雄と〈花号〉雌のうち一つが交代で来ておりました。
六ちゃんは小さな狆で、朝お目覚めの時から出御までと午後7時頃から御格子までお膝元におりました。
これは毛のフサフサとしたおもちゃのようで、可愛いというだけの犬でした。
花ちゃんの方はなかなかの利口者で、意思表示をはっきりやるのでこの方が御秘蔵のようにお見受け致しました。
花ちゃんはどんなに好きな食い物を目の前に置かれても人が与えないうちは決して口をつけなかったのは、やはり躾というものでしょうか。
三時になると明治皇后からおやつの御菓子をいただく習慣だったのですが、御歌などお考えになって忘れてお出でになると、御側につききりでおねだりしておりました。

明治陛下がどこへお出でになった時お出迎えの用意をするのですが、二重橋におかかりになるころ儀仗兵の吹く「君が代」のラッパがかすかに御内儀までも聞こえてまいります。
すると御愛犬〈花〉がこれを素早く出御道まで駆け出し、一番にお迎え申し上げます。
明治陛下がお渡しになった御手袋を口にしてちぎれるばかりに尾を振りながら、いそいそとして明治皇后にお渡し申し上げるのが例でございました。
明治陛下御崩御後は明治皇后のお膝元で御寵愛を受けることになって、その可愛い仕草はただ一つの昭憲皇太后〔明治皇后〕のお笑いの種でもあり、お慰めになっておりました。

1912年の夏、その時まで日頃と何のお変りもないように御機嫌良く御夕食を済ませられ、まだ食卓からお離れにならないうち急に何かお苦しそうな御様子を遊ばしましたので、皆々驚き慌てながらすぐお隣の常の御座所に大騒ぎでお横たえ申しましたが、その時はもう何もかもしかとはお分かりにならない御様子でございました。
侍医の拝診によれば、尿毒症で御脳もおかされておいでになるとのことです。

その混乱の最中に、時の宮内大臣渡辺千秋が明治皇后へ拝謁を願い出ました。
進み出た渡辺宮相は「今日は重大な御相談に上りましたので、お人払いを願います」と言上しました。
これを聞いた女官長高倉寿子は「御女性のことでございますから、御一方様には致しかねます。女官長の私が承って悪いような御話なら、皇后陛下にも申し上げてはなりません。誰が何と言っても私は御同席申し上げます」と言い切りました。
そして「他の皆様は一時御遠慮申し上げて下さい」と言われたので、私たちは別室に下がっておりました。
青山胤通と三浦勤之助の両博士が即時御用掛を拝命いたし、さっそく拝診に出る運びとなりました。
しかしあの烈しい御気性の明治陛下のことでございますから、お許しを受けずに両博士が拝診してもし万一お気づきになってはと、恐ろしくて宮内大臣せすら踏み切れなかったのを、
「私が全部責任を持つから、早く申し上げるように」と明治皇后の御決断でそのことが決まりましたとか。

この年の暑さはまた大変なもので、御病室に幾つとなく並べた大きな花氷もどんどん溶けてしまいまます。
1~2時間で新しく替えなければなりません。
しかし一人ではできませんので、誰彼の別なく相棒を見つけて頼みました。
あるとき侍従清水谷実英と一緒に運びましたが、ずいぶんよく太った方なので重い物など運ぶのは不得手らしく、私が先に行けば後ろに引かれ、私が後に行けば押しても押しても歩いてくださらないので、
「氷のことでございますから、もう少しサッサと歩いて下さい。どんどん溶けてしまいますから」と、つい大声を出しました。
詰所にいたある侍従武官が「親父のような人を叱りつけて怖い女官さんだ」と評判したとやら、後から聞かされて苦笑したものでございます。

御発病以来しかとはお気がつかれないでこんこんとお眠りの方が多いようでございましたが、時には御目をお開けになって御側の明治皇后に、「なぜ、そうわしの顔ばかり心配そうに見ている」などと仰せられたり、「あの青竹の杖をついて草履をはいて、13日には行こうね」との御声を伺って、言いようのないやるせない気持ちになるばかりでございました。
今こんなことにおなりになるなら、あんなに御希望だった京都への行幸をなぜ一年早くお進めできなかったのでございましょうか。

元来明治陛下は写真嫌いでおいでになったので、本当の御写真というのはごくお若い御成婚時の時のものぐらいで、めったにお写しになりませんでした。
1911年秋の陸軍大演習御統監のとき供奉していた主馬頭藤波言忠子爵の勧めで、地図を御覧の明治陛下を横からお写し申したのが御近影でございました。
「もうし万一お気づきになってお叱りを受ければ、私が切腹して見せる」とまで藤波子爵が言ったので、ようやくお写ししたのだそうでございます。
藤波子爵は崩御後の御顔もぜひ写したいと明治皇后に熱心にお願い申し上げました。
「あの立派な明治陛下の御顔を永久に拝見できなくなるのは誠に残念でございますから。曲げてお許しを」
「藤波の気持ちは十分わかっておりますが、あんなにお嫌いであった写真をたとえ崩御になったとはいえ、思召に添わぬことをするのは私として不本意だから」とお許しにならないので、
さすがの藤波子爵も諦めましたが、「惜しいな、惜しいな」と繰り返しておりました。

主馬頭藤波言忠子爵は小さい時から明治陛下の御相手として始終御側にお付き申し上げていたので、後日までも男子禁制の御内儀にさえ自由に出入りを許されていまして、あまりお気に入らぬようなことでも遠慮なく申し上げたり、物語に聞く大久保彦左衛門のような存在でございました。
明治陛下が少し御風邪気味のある日、つかつかと御前に出た藤波子爵が、
「御上だって生きている人間ですぜ。御病気の時には医者の言うことをお聞きにならなきゃ駄目です。なあ、御上。なあ、御上」と御返事のあるまで繰り返しているので、さすがの明治陛下も「うん」と仰せになりましたが、藤波子爵が退出してから、
「あれはうるさい親父だが、わしは子供の時いたずらしてよく御蔵に入れられたのだ。その時さすがの一位〔明治陛下の生母中山慶子〈一位の局〉〕もわし一人を入れて置くわけにもいかず、いつもあれが御供で一緒に入れられたのだからね」と御述懐になったこともございます。
「習字が嫌いで仕方ないのだけど、『これだけ遊ばさないうちは御食事は差し上げません』と一位がそばで見張っているので、食事は早く欲しいし書くのはイヤなので、一位がちょっと向こうを向いた隙に大急ぎで墨を塗ってどんどんまくってしまった。あの時分は真っ黒な草紙だったのでかえって都合が良かったよ」などと大声でお笑いになりました。

明治陛下の崩御の時、女官全部が一人一人明治皇后に御挨拶申し上げました時は、
「本当に恐れ入った御事で」とはっきりお答えになって涙さえ見せになりませんでしたが、数時間後御召替のために御休所へ御供いたしました時、
「私の悲しいのが誰よりも一番でしょう。しかし私が泣き崩れていては、後のことがどうなると思いますか」と仰せになって、ハンカチーフを御顔にお当てになりました。
常日頃から御言葉の少ない明治皇后が、ひとしお無口におなりになったようにお見受け申し上げました。

大正陛下は議会に行幸の時、御手元にあった勅語の紙をくるくる巻いて会場をお眺めになったとやらは有名な話になってしまいましたが、姑〔元女官山川操〕と共に叔父山川健次郎男爵の宅に参りました節にも、実際に拝見した健次郎が姑と話し合っているのを聞きました。
しかもこんなことまで昭憲皇太后〔明治皇后〕の御耳に入っておりましたのですから、明治陛下崩御後はなかなか御心配が絶えませんでしたろうと存じます。

1913年8月31日は諒闇が明けてからの初の天長節でございます。
しかし8月はあまりにも暑い最中なので二カ月遅れた10月31日が天長節祝日と定められ、花電車も青山御所前を通るという話。
昭憲皇太后〔明治皇后〕にも日の暮れぐれにでも御車寄までおひろい願って、美しく灯の入った花電車を御覧に入れようということになりました。
昭憲皇太后〔明治皇后〕はこんなに近くで電車を御覧になるのは初めてのことで、ちょっと御興味もあるらしく拝しました。
御門の向こう側の道路にも多勢集まってきて、十重二十重に人垣を作って見物しております。
そのうち見物していた誰が「わあ、来た、来た」と大声を出しましたので見てみますと、高砂の尉と姥や松竹梅の幕に覆われました鶴亀などおめでたい人形や作り物を乗せた電車が色さまざまな電燈に輝いて華やかな美しさ。
昭憲皇太后〔明治皇后〕も大変御満足で、「本当にきれいだった」と繰り返し繰り返し仰せになっておりました。

1913年11月、昭憲皇太后〔明治皇后〕は、また沼津御用邸にお出でになりました。
地方への供奉は服装などあまり派手にならぬようにとの注意は受けておりましたが、前年中は明治陛下の諒闇中のこととてみな喪服姿の真っ黒でございましたから、今年こそはと晴ればれした気持ちで、薄紫色のワンピースに白薔薇を飾った大きなボンネット、胸には真珠入りクローバーのブローチ、ハイヒール姿も颯爽と、いささか得意顔で白い手袋の内には新調したダイヤの指輪も光っております。

1914年3月26日〔沼津御用邸〕
昭憲皇太后〔明治皇后〕は東京より御訪問の東伏見宮御夫妻と御対面、御機嫌良くいろいろと御物語りなど遊ばし、東伏見宮御夫妻御退出後お楽しそうに御昼食におつきになりました。
いつもよりゆるゆると御食事をお済しになり、突然お苦しそうな表情を遊ばしました。
「いかが遊ばされましたか」と伺っても、御言葉はございません。
急を知った女官一同が駆けつけて侍医を呼び出すと同時に御床の上にお横には致しましたものの、今の洋装とは違って御首の回りから御手の先までしっかり肌についた御洋服で、しかもコルセットなども鯨の骨をたくさん入れた強いもので、すこしの隙もありません。
どうにかして早く楽な御姿勢にと心は焦りますが、しかたなく多勢かかって布地を少しずつ持ち上げながらハサミを差し込み御洋服を小さく切り取って、ようやく御胸の辺りをゆるくして差し上げました。
拝診の結果は狭心症でいらせられました。

わりあい御安静で激しい発作もお起こしにならず、うつらうつらとお休みになったり、時には「だるい、だるい」と仰せられるので御体を撫でて差し上げると、またスヤスヤと御格子になります。
侍医たちから御脳の方はいくぶんお弱くおなりになることもあり得るという説も出ましたので、私たちの内でも「御命さえ取りとめることができれば」と言う人と、「今までの御聡明さが失われてしまうのではかえってお気の毒さまで、拝見しているのもつらい」と言う人などさまざまで、いずれにしても大変な御病気だとみな憂鬱な顔を見合わせておりました。
ある日ふとお眠りからお覚めになりますと、
「私が急いで桃山の明治陛下の御側に行こうとするのに、皆がまだ成らせられてはいけませんと止めるので仕方なく引き返したが、30年後の日本の姿は見たくないものを、早い方がいいね」と仰せられました。

4月8日、「今日は気分があまり良くない」と仰せられるので、
「拝診を申しつけましょうか」と申し上げると、
「なに、大したことではないし、皆もやすんでいるでしょうから、朝になってからでよい」との御言葉に、
「さようでございますか」と申しながら、そっと御体を撫でておりましたが、一時間ばかりすぎますと、
「もう何時?夜が明けるといつも気分が良くなるように思うのだけれど」と。
「御心持を安らかによく御格子になりますと、もうすぐ明けます」などとお答えしておりましたが、おさすりしている手にビクビクと夢中でお動きになるのが伝わっておいおい激しくなります。
お次ぎの部屋に詰めている人たちに合図をしますと、控えていた侍医や女官たちもそっと集まって参りましたが、もうしかと御目には映らない御様子でございます。
だんだんと御顔色も変り、二回目の発作をお起こしになりました。
御病室は暁の空気が冷えびえと冷たいのですが、人工呼吸をあげている侍医たちの額からは玉の汗が流れております。
だが御呼吸は次第しだいに衰えて如何ともせんすべなく、再びお戻しすることはできませんでした。
「長い長い病気で人から飽きられるのはイヤだから、死ぬ時は急病で」とたびたび御話そばしたのですから、さぞかし御満足のことでございましょう。
それがせめてもの慰めでもあり、諦めでもございました。

ある日 明治皇后が「三時知恩院門跡久世成章〔久世具子〕という人があった。あれは三千子の叔母で昔 若菜と一緒に御目見得に出た人でしょう」と仰せられました。
「はい、さようでございます」
「いつまでも若くてきれいね。だけどずいぶん小さい。あの人は歌も上手だし字も立派だったが、いかにも体が小さいので御縁がなかったのね」
「何の芸もない私と違ってたいていのことは致しました。琴も師の〈らく〉が褒めてくれましたとか」
「まあ、あの〈らく〉に習っていたの。〈らく〉も長生きしましたね」
「では、一条様のお姫様に御稽古申し上げたと承りましたのは、明治皇后の御事で」
「ええ、そう。それで叔母はあれからすぐに尼に?」
「いいえ、さる大名の二男に嫁ぎまして子供も二人おりましたが、なんとも堪え切れぬ事情がございまして一人で帰って参り、それから尼になりました」
「まあ、気の毒な。久世は代々 書の家だからか、おじい〔祖父〕は大変立派な字を書く人だったが、このあいだ見たらおでい〔父〕はあまり上手でないようね」
いろいろと心安く御話いただきました。
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★女官長 典侍 高倉寿子〈新樹の局〉
1840-1930 90歳没

*昭憲皇太后の家庭教師で、輿入れの際に一条家からともについてきた女官。
本人は「お清の典侍」(天皇のお手がつかない女官)として、毎夜の明治天皇の夜伽の相手は高倉が決めていた。
明治天皇が身分の低い女官に手をつけて皇子を作らせないための措置であった。


★副女官長 お清の権典侍 姉小路良子〈藤袴の局〉
1857-1926


★側室 権典侍 柳原愛子〈早蕨の局〉公家柳原愛光の娘・大正天皇の生母・明治天皇がつけたあだ名は「ちゃぼ」
1859-1943 84歳没

*男子を産んだことで権典侍から典侍に出世〈二位の局〉となる


★側室 権典侍 園祥子〈小菊の局〉公家園基祥の娘・4人の内親王の生母
1867-1947 79歳没


★側室 権典侍 葉室光子〈梅の局〉公家葉室長順の娘
1853-1873

*明治天皇の子を1人産むが、母子ともに死亡


★側室 権典侍 千種任子〈花松の局〉公家千種有任の娘
1855-1944

*明治天皇の子を2人産むが、2人とも早逝


★側室 権典侍 橋本夏子〈小桜の局〉女官橋本麗子&公家東坊城夏長の娘 
1856-1873 17歳没

*明治天皇の子を1人産むが、母子ともに死亡


★側室 権典侍 小倉文子〈緋桜の局〉
1861-1929


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久世通章子爵の娘久世三千子→山川黙の妻山川三千子 明治天皇の女官〈桜木の局〉

権典侍は俗な言葉で言えばお妾さんです。
陛下のお身の回りの御世話がその仕事。
お遊びの時はともかくとして、権典侍は公の場所には一切出られないことになっておりました。
陛下が御内儀においでになる時は交代で一人は終始御側に詰めています。
宿直も交代で、その当時御寝台のそばで休むのは小倉文子・園祥子の二人きりでした。

そこへ行くと柳原愛子はちょっと中途半端な存在でした。
両典侍と言って高倉寿子とと共に第一位に名を連ねてなかなかの勢力家ではありましたが、若い時は権典侍でしたし、13歳のとき英照皇太后の女官として上がられたのですから、御所内で育ったような人で世間のことは何もわかりませんから、すべては老女〈ふき〉が一任されておりましたようです。
〈ふき〉は若い時から長年勤めておりましたので、東宮様〔大正天皇〕御誕生の時の有り様などよく聞かせてくれました。
「御産所においでになってからもひどいヒステリーで手のつけようがなく、侍女たちはもとより看護婦さえみなお暇を取りましたので、私一人で寝る間もなく御世話申し上げました。御誕生も大変重く、東宮様は仮死状態でお生まれ遊ばしましたが、よくまあ御二方とも只今のように御元気におなり遊ばして」と涙ながらに述懐しておりましたものです。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

権典侍園祥子は〈小菊の局〉という源氏名をいただいていたが、私が知った頃には顔にホクロの多いお婆さんであった。
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●明宮  嘉仁親王  123代大正天皇

●常宮  昌子内親王 竹田宮恒久王妃
●周宮  房子内親王 北白川宮成久王妃
●富美宮 允子内親王 朝香宮鳩彦王妃
●泰宮  聡子内親王 東久邇宮稔彦王妃


当時4人の内親王と年齢が釣り合う皇族男子は年齢順に、
竹田宮恒久王・北白川宮成久王・有栖川宮栽仁王・朝香宮鳩彦王・東久邇宮稔彦王の5人であったが、有栖川宮栽仁王が早逝したので残りの四人と結婚となった。


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久世通章子爵の娘久世三千子→山川黙の妻山川三千子 明治天皇の女官〈桜木の局〉

当時の皇室は御一家と言っても皆様何もかも別々で、御一緒にお集りになるのは公式の時以外はほとんどなく、東宮様〔大正天皇〕さえ毎週土曜日に御一人で御機嫌伺いのため御参内になるくらいのものでした。
明治陛下には表御座所で、明治皇后には御内儀御座所で御対面になって、茶菓だけの御接待をお受けになってすぐ御退出になるというった形式的なものでございました。
昭和天皇もまだ皇孫殿下と申し上げた頃に時々御参内になりましたが、やはり儀礼的な御機嫌伺を遊ばす程度で、あまりお親しさというものはないように感じられました。
ただ明治皇后が沼津などに御転地中は、附属邸においでになっていた皇孫様方がお遊びにおいでになることがございました。
この時ばかりは本当にお親しそうに御話を遊ばしたり、おもちゃなどをお上げになると、皇孫様方がいろいろと工夫してお遊びになるので、明治皇后はその御姿をほほえましく御覧になっておりました。
ある日 皇孫様方で相撲をお取りになっていた時、どうしたはずみか高松宮様の御腕が抜けました。
お驚きになった明治皇后はそれ以来、「御相撲だけはイヤでございますよ」と仰せられてお笑いになったおりました。

毎年陸軍の秋季大演習が行われますので、明治陛下はその地方へ行幸になりますから、一週間ほど御留守になります。
この御留守に明治皇后の思召しで、内親王様や皇孫様方を御承知遊ばし、御食事中もいろいろな御物語りに楽しくお過ごしになった日もございました。
ある日 明治皇后のお心遣いで特別にお許しをお受けになった内親王様方が御四方おそろいで御参内になりましたが、竹田宮と北白川宮は若宮をお連れになりました。
竹田宮恒徳王は大変おとなしいい方だったのでなにか物おじしたように静かにかしこまっておいでになったのですが、お四歳ぐらいだった北白川宮永久王は「おじじ様」とおっしゃると同時にいきなり明治陛下の御膝に腰をおかけになって、白くフサフサとした長い御髭を引っぱったりしてふざけておいでになりました。
明治陛下もさもお可愛いといった面持ちで、「おかしな子だね」とおつむ〔頭〕を撫でておいでになりました。
「おじじ様、おもちゃありがとう」
「ははは、おもちゃの催促か。何か持ってきてやりなさい」とすこぶる上々の御機嫌でございました。
おそばで明治皇后も、さも御満足そうに微笑んでおいでになりました。
これでこそ本当にお孫様らしいと、なみいる一同も誠にうれしく拝見したものでございます。
あの時分永久王はまだ御幼少でございましたが、御自分も深く印象に残っておいでになったのだろうと存じます。
それは明治陛下崩御後 御真影に御拝においでになった時、
「おじじ様、私を偉い者にしてちょうだい」などとおっしゃって、お慕いになっている御様子を度々拝見しましたが、あの永久王はも太平洋戦争中に御戦死遊ばされて、もはやこの世にはおいでになりません。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1951年5月7日
昭和天皇◆明治天皇御伝記のことだが、明治天皇の時 日清・日露で領土が増えたゆえ何だか侵略的な方のような誤解が世の中にあるゆえ、事実日清戦争決定の時賢所への御奉告を肯んじにならなかったという事実を公表してくれと言ったことがある。
奉告せぬという事柄は明治天皇のなされんとしたことでも私は賛成いたしかねて反対だが、その手段は別として日清戦争の廟議が決まってもそれを奉告すら御躊躇になる平和的な御心持は尊いので、明治天皇の侵略的な誤解を解くにいいことだと思って大臣に言ったが、やはり軍人の勢力を恐れてかそれを書かなかった。
田島長官◆皇居内の山里でよく御馬にお乗りになったようでございます。
昭和天皇◆お若い時はよくお乗りになったようだが、お太りになった。
私の侍医もして明治天皇の侍医もしてた高田寿が、
「お太りになって御脈がよく伺えなかった」と言ってた。
ずいぶんお酒をお飲みになった。
日清戦争奉告を最初おしぶりになった話の公表が先年できなかったのは残念。

1951年5月16日
田島長官◆秩父宮は明治天皇はただお怖い方とお書きになり、大正皇后〔貞明皇后〕も、
「御機嫌伺に出てもウンとか仰せになるきりで、御宴会か何かの時どうかすると御声を伺ったくらいのものだ」との御話でございました。
昭和天皇◆私も明治天皇は何の印象も受けておらぬ。
拝謁に出ても待たされたなどして何の印象もない。
明治天皇のことは成人後に御裏とかいろいろの人の話とかを聞いて御人格を存じ上げたので、直接のことは何もない。
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◆122代 明治天皇 祐宮睦仁親王 121代孝明天皇の子
1852-1912 59歳没

*身長167センチ

*西洋医学嫌いで、東洋医学の治療しか受けなかった。

*持病の糖尿病から尿毒症を発症し、心不全で死亡。


■妻  昭憲皇太后 一条忠香公爵の娘一条美子
1849-1914 64歳没

*お妃候補時代、明治天皇は昭憲皇太后を将棋に誘う。
その勝負ぶりに感銘したことが、皇后と決める決め手の一つとなった。

*明治天皇は昭憲皇太后を「天狗さん」と呼んでいた。

*昭憲皇太后はヘビースモーカーで、常にキセルを手放さずに喫っていた。


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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1980年11月4日
京都参内殿奥の明治天皇が東宮時代にお住まいの部屋の、襖への落書を見せてもらった。
竹の節に一本横線を入れたのが2~3箇所あり、また竹の幹から枝を出したような書き入れ、墨の飛び散った跡など。
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『明治天皇紀』

1879年7月4日
アメリカ合衆国前大統領ゼネラル・グラント夫妻らを延見したまう。
当時前大統領一行中の一人が書ける紀行に当日の光景を叙述せり。
その一節に曰く
「皇族方はその夫人達と共に皇帝の近くに列をなし、皇帝は不動の姿勢を取りて立たれたり。
皇帝は一般の日本人よりも背高き方にてすらりとし、その口と唇とはハプスブルブ家の特徴を連想せしめたり。前額は狭く頭髪も鬚髯もすべて漆黒なり。
顔面には何らの感情も表現せられざれば、もしその黒く光る眼にしてグラントの上に注がるるなかりしならば、立像とも誤想せられしならむ。
帝のそばなる皇后は和装したるが、その顔は甚だ白く、その姿も細小にしてほとんど児童の如く、髪は麗しく櫛けずられ、貴金の笄を挿めり。
御双方とも快活の面持し、中にも皇帝は確心と深切とを示せり。
礼式は少しく特異なりしも、これなお近時に至りて大いに変化したるものなりと言う。
吾人の位置定まるや、皇帝は自ら進み出てグラントと握手せり。
皇帝は少しく固くなれる気味あり。
不器用なりき。
あたかも初めて握手する者の如く、またできるだけよくこれを為さんと欲する者に似たり。
握手終われば帝は元の座に帰り、その手を剱の柄に置きて立ち、金色燦爛たる一行にその眼を注げり」
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『木戸幸一日記』内大臣※当時は宗秩寮総裁

1933年9月2日
※宮内大臣湯浅倉平の発言

金子堅太郎参内、『明治天皇紀』編纂の終了を奏上せられたるが、
「日清日露の役の開始の際の明治天皇の御考については、一般に頒布する場合には考慮する要ある」がごとく言上したるところ、
陛下は「このごとき事こそ御聖徳を伝うるためにも発表するを可とすべきにあらずや」との御考を侍従長にお漏しありし由。

1933年9月5日
※元老西園寺公望公爵の発言

『明治天皇紀』については、金子あたりにてとやかく選定がましきことをなすは考えものなり。
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侍医頭岡玄卿から宮内大臣渡辺千秋への報告

1912年7月19日〔明治天皇が倒れた当日〕
明治陛下は1904年末頃より糖尿病に罹らせられ、1906年1月末より慢性腎臓炎を併発、爾来病勢多少の増減ありたるところ、本月14日腸胃症に罹らせられ、15日より少々御嗜眠の傾向あらせらる。
18日来御嗜眠いっそう増加、御食機減少、本日午後より御神経少々恍惚の状態にて脳症であらせられ、尿量頓に甚だしく減少、タンパク質著しく増加。
同日夕刻より突然御発熱、御体温40度5分に昇騰、御脈108、呼吸38の御病状、容易ならざる御容体なり。
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★女官長 典侍 高倉寿子〈新樹の局〉
1840-1930 90歳没

*昭憲皇太后の家庭教師で、輿入れの際に一条家からともについてきた女官。
本人は「お清の典侍」(天皇のお手がつかない女官)として、毎夜の明治天皇の夜伽の相手は高倉が決めていた。
明治天皇が身分の低い女官に手をつけて皇子を作らせないための措置であった。


★副女官長 お清の権典侍 姉小路良子〈藤袴の局〉
1857-1926


★側室 権典侍 柳原愛子〈早蕨の局〉公家柳原愛光の娘・大正天皇の生母・明治天皇がつけたあだ名は「ちゃぼ」
1859-1943 84歳没

*男子を産んだことで権典侍から典侍に出世〈二位の局〉となる


★側室 権典侍 園祥子〈小菊の局〉公家園基祥の娘・4人の内親王の生母
1867-1947 79歳没


★側室 権典侍 葉室光子〈梅の局〉公家葉室長順の娘
1853-1873

*明治天皇の子を1人産むが、母子ともに死亡


★側室 権典侍 千種任子〈花松の局〉公家千種有任の娘
1855-1944

*明治天皇の子を2人産むが、2人とも早逝


★側室 権典侍 橋本夏子〈小桜の局〉女官橋本麗子&公家東坊城夏長の娘 
1856-1873 17歳没

*明治天皇の子を1人産むが、母子ともに死亡


★側室 権典侍 小倉文子〈緋桜の局〉
1861-1929




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佐々木高行『かざしの桜』明治天皇の娘昌子内親王と房子内親王の御養育係

1899年9月8日
※中山慶子の発言〔明治天皇の生母〕

ただ丈夫と申すのみにても御繁生と申すことも受け合いはできず。
緋桜さん〔明治天皇の側室小倉文子〕のごとき丈夫にても、御繁生はなし。
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※権典侍〈夕顔の局〉植松務子 植松雅言の娘・1883年退官・1884年後梅溪通治と結婚
 権典侍〈早蕨の局〉柳原愛子 柳原愛光の娘・大正天皇の生母

読売新聞 1879年4月24日
「夕顔の典侍・早蕨の典侍が懐妊 宮内省で二人の祝い事」

読売新聞 1879年12月9日
「夕顔の典侍が懐妊、来月には青山御所の産所へ引っ越し」

*植松務子の妊娠は流産だったのか、皇室側出産記録はない。
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●明宮  嘉仁親王  123代大正天皇

●常宮  昌子内親王 竹田宮恒久王妃
●周宮  房子内親王 北白川宮成久王妃
●富美宮 允子内親王 朝香宮鳩彦王妃
●泰宮  聡子内親王 東久邇宮稔彦王妃


当時4人の内親王と年齢が釣り合う皇族男子は年齢順に、
竹田宮恒久王・北白川宮成久王・有栖川宮栽仁王・朝香宮鳩彦王・東久邇宮稔彦王の5人であった。


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『明治天皇紀』1893年11月1日

房子内親王を有栖川宮栽仁に婚嫁せしめんとの叡旨あり。
宮内大臣土方久元をして、旨を有栖川宮熾仁親王に告げしめたまう。
熾仁親王喜びて勅旨拝承の旨を奉答す。
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『明治天皇紀』1906年1月9日

昌子内親王をもって恒久王に、允子内親王をもって栽仁王に配せんとし、内旨を侍従長徳大寺実則に伝えたまう。
これより先有栖川宮威仁親王、内親王中一人を得てその嗣栽仁王の妃と為さんと欲し、侯爵伊藤博文を介して内請する所あり。
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『明治天皇紀』1907年3月27日

昌子内親王を恒久王に配せんとするをもって、侍従長徳大寺実則を成久王の第に遣わし、旨を能久親王の寡妃富子に伝え、もって恒久王に伝えしめたまう。
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『明治天皇紀』1909年4月23日

房子内親王をもって成久王の妃と為さんとし、侍従長徳大寺実則を成久王の第に遣わし、
能久親王寡妃富子に由りて内旨を成久王に伝えしめ、さらに高輪御殿に詣りて房子内親王に伝えしめたまう。
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『明治天皇紀』1910年4月29日

允子内親王をもって鳩彦王の妃と為すことを聴したまう。
はじめ1月15日、時の宮内大臣公爵岩倉具定をして鳩彦王の兄邦彦王に就きて允子内親王帰嫁の内意を伝わしめ、ついで侍従長徳大寺実則を麻布御殿に遣わし、允子内親王に謁して帰嫁勅許の内意あらせらるることを伝わしめたまう。
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4人の内親王の嫁ぎ先は各王子に宮家を持たせて以下の予定であったが、


常宮昌子内親王  竹田宮恒久王妃
周宮房子内親王  北白川宮成久王妃
富美宮允子内親王 有栖川宮栽仁王妃
泰宮聡子内親王  朝香宮鳩彦王妃


有栖川宮栽仁王が20歳で病死したため允子内親王の嫁ぎ先が繰り下がって、
新たに久邇宮稔彦王に東久邇宮家を創設させて以下のように変更となった。


常宮昌子内親王  竹田宮恒久王妃
周宮房子内親王  北白川宮成久王妃
富美宮允子内親王→朝香宮鳩彦王妃
泰宮聡子内親王 →東久邇宮稔彦王妃


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『木戸幸一日記』内大臣

※1932年8月、3代宮内大臣田中光顕伯爵が9代宮内大臣一木喜徳郎に辞職を迫り、
1933年1月に一木宮相は辞職する。

1932年8月25日
田中光顕伯爵の行動の真相を知ることができた。
問題は高松宮殿下と徳川喜久子姫の御成婚に関連するものであって、田中氏が宮内大臣当時、有栖川宮栽仁王に内親王を配せんとする議があったところ、明治天皇は有栖川宮の系統には狂人があるのでかくのごとき系統のところには内親王を婚嫁せしむることを得ずと仰せられたることあり。
田中氏はこの点より見て高松宮殿下に喜久子姫を配するはよろしからずと考え、かねて御内意の存したる時も宮内当局に注意したるが、御成婚御内定の際も一木宮相に考慮方を注意したるにもかかわらずこれを決行したるは実に不都合なるゆえその責任を問うというのであって、もし宮内大臣にして辞職せざるにおいては、この問題を暴露して争うと言うのである。
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■明治宮殿 1888年竣工


御車寄せ
1006


正殿
1002


豊明殿
1005


千種の間
1004


表御座所
1000


裏御座所
1001



■横浜御用邸 神奈川県横浜市 1880年設置


■神戸御用邸 兵庫県神戸市 1886年設置


■箱根離宮 神奈川県足柄下郡箱根町 1886年設置 16万3千平米


■伊香保御用邸 1893年設置


■日光山内御用邸 栃木県日光市 1893年設置 
昌子内親王と房子内親王の避暑のために建てられた御用邸
9015



■小田原御用邸 神奈川県小田原市 1900年設置
昌子内親王と房子内親王のために建てられた御用邸


■静岡御用邸 静岡県静岡市 1900年設置


■宮ノ下御用邸 神奈川県足柄下郡箱根町 1895年設置→後に高松宮別邸となる 建坪226坪
允子内親王と聡子内親王の避暑のために建てられた御用邸
9016



■鎌倉御用邸 神奈川県鎌倉市 1899年設置 1万8千坪
允子内親王と聡子内親王の避寒のために建てられた御用邸
9017



■高輪南町御用邸 1897年には36,962坪→1909年には41,500坪
元は和館と洋館が建っていたが、昌子内親王・房子内親王・允子内親王がそれぞれ竹田宮家・北白川宮家・朝香宮家に嫁ぐ際、敷地を三等分して下賜する

後藤象二郎伯爵から買い上げた土地
9014



1912年 皇居前で明治天皇の回復を祈る人々
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1912年 交番に貼られた明治天皇崩御の号外を読む人々
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1912年 皇居前で明治天皇の崩御に奉悼する人々
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1912年 明治天皇の大葬礼

皇族
0023


文武百官
0024


下院議員
0025


鼓列
0016


御弓・御箭
0036


葱華輦
0038

◆122代 明治天皇 祐宮睦仁親王 121代孝明天皇の子
1852-1912 59歳没

*身長167センチ

*西洋医学嫌いで、東洋医学の治療しか受けなかった。

*持病の糖尿病から尿毒症を発症し、心不全で死亡。


1872年 撮影:内田九一
0101


1872年 撮影:内田九一
0100


1872年 撮影:内田九一
0102


0103


0104


1906年
1906


1909年
0105





■妻  昭憲皇太后 一条忠香公爵の娘一条美子
1849-1914 64歳没

*お妃候補時代、明治天皇は昭憲皇太后を将棋に誘う。
その勝負ぶりに感銘したことが、皇后と決める決め手の一つとなった。

*明治天皇は昭憲皇太后を「天狗さん」と呼んでいた。

*昭憲皇太后はヘビースモーカーで、常にキセルを手放さずに喫っていた。


0202


1889年 撮影:丸木利陽
0203


1889年 撮影:丸木利陽
0205


0204


6114





★女官長 典侍 高倉寿子〈新樹の局〉
1840-1930 90歳没

*昭憲皇太后の家庭教師で、輿入れの際に一条家からともについてきた女官。
本人は「お清の典侍」(天皇のお手がつかない女官)として、毎夜の明治天皇の夜伽の相手は高倉が決めていた。
明治天皇が身分の低い女官に手をつけて皇子を作らせないための措置であった。

1892年 撮影:丸木利陽
5211



★副女官長 お清の権典侍 姉小路良子〈藤袴の局〉
1857-1926

8001



★側室 権典侍 柳原愛子〈早蕨の局〉公家柳原愛光の娘・大正天皇の生母・明治天皇がつけたあだ名は「ちゃぼ」
1859-1943 84歳没

*男子を産んだことで権典侍から典侍に出世〈二位の局〉となる

撮影:丸木利陽
5215


1016


1925年
1024


1927年
19270101



★側室 権典侍 園祥子〈小菊の局〉公家園基祥の娘・4人の内親王の生母
1867-1947 79歳没

撮影:丸木利陽
1052


0003(1)



★側室 権典侍 葉室光子〈梅の局〉 公家葉室長順の娘
1853-1873 20歳没

*明治天皇の子を1人産むが、母子ともに死亡


★側室 権典侍 千種任子〈花松の局〉公家千種有任の娘
1855-1944

*明治天皇の子を2人産むが、2人とも早逝
0001(1)



★側室 権典侍 橋本夏子〈小桜の局〉女官橋本麗子&公家東坊城夏長の娘 
1856-1873 17歳没

*明治天皇の子を1人産むが、母子ともに死亡


★側室 権典侍 小倉文子〈緋桜の局〉
1861-1929

撮影:丸木利陽
1051





●明宮 嘉仁親王   123代大正天皇

●常宮 昌子内親王  竹田宮恒久王妃
●周宮 房子内親王  北白川宮成久王妃
●富美 宮允子内親王 朝香宮鳩彦王妃
●泰宮 聡子内親王  東久邇宮稔彦王妃


当時4人の内親王と年齢が釣り合う皇族男子は年齢順に、
竹田宮恒久王・北白川宮成久王・有栖川宮栽仁王・朝香宮鳩彦王・東久邇宮稔彦王の5人であったが、有栖川宮栽仁王が早逝したので残りの四人と結婚となった。


パラソルが昌子 しゃがんでいるのが房子 立っているのが允子 ベンチが聡子


座っているのが昌子 背丈の順に 房子 允子 聡子

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