◆122代 明治天皇 祐宮睦仁親王 121代孝明天皇の子
1852-1912 59歳没
*身長167センチ
*西洋医学嫌いで、東洋医学の治療しか受けなかった。
*持病の糖尿病から尿毒症を発症し、心不全で死亡。
■妻 昭憲皇太后 一条忠香公爵の娘一条美子
1849-1914 64歳没
*お妃候補時代、明治天皇は昭憲皇太后を将棋に誘う。
その勝負ぶりに感銘したことが、皇后と決める決め手の一つとなった。
*明治天皇は昭憲皇太后を「天狗さん」と呼んでいた。
*昭憲皇太后はヘビースモーカーで、常にキセルを手放さずに喫っていた。
★女官長 典侍 高倉寿子〈新樹の局〉
1840-1930 90歳没
*昭憲皇太后の家庭教師で、輿入れの際に一条家からともについてきた女官。
本人は「お清の典侍」(天皇のお手がつかない女官)として、毎夜の明治天皇の夜伽の相手は高倉が決めていた。
明治天皇が身分の低い女官に手をつけて皇子を作らせないための措置であった。
★副女官長 お清の権典侍 姉小路良子〈藤袴の局〉
1857-1926
★側室 権典侍 柳原愛子〈早蕨の局〉公家柳原愛光の娘・大正天皇の生母・明治天皇がつけたあだ名は「ちゃぼ」
1859-1943 84歳没
*男子を産んだことで権典侍から典侍に出世〈二位の局〉となる
★側室 権典侍 園祥子〈小菊の局〉公家園基祥の娘 4人の内親王の生母
1867-1947 79歳没
★側室 権典侍 葉室光子〈梅の局〉 公家葉室長順の娘
1853-1873 20歳没
*明治天皇の子を1人産むが、母子ともに死亡
★側室 権典侍 千種任子〈花松の局〉公家千種有任の娘
1855-1944
*明治天皇の子を2人産むが、2人とも早逝
★側室 権典侍 橋本夏子〈小桜の局〉女官橋本麗子&公家東坊城夏長の娘
1856-1873 17歳没
*明治天皇の子を1人産むが、母子ともに死亡
★側室 権典侍 小倉文子〈緋桜の局〉
1861-1929
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
侍従 日野西資博
遠く御父君のもとを離れて御遊学の李垠王に対しての御心づくしは格別でおわした。
岩倉具定公爵を御教育主任に定めさせられ、絶えず種々の御注意を岩倉公爵に御沙汰あり、御父君に代って幼き李垠王を労らせ給う御懇情は、御側で拝する私どもも涙ぐましい感激に打たれた。
されば李垠王御参内の折りなどには、御自身いろいろの物をお選び遊ばされては御下賜があった。
李垠王におかれても大帝を御父君のごとく思召され、その間柄はまったく御親子のお親しさに拝し奉った。
土方久元伯爵が宮内大臣奉仕中のことである。
大帝は小石川の伯爵邸へ行幸遊ばされた。
その時 天覧に供された品々の中に、天狗の面の形をした御盃がたいそう御意に入って、
御供の私に「この盃は二つとない珍しい物だ、大切にして持ち帰れ」との御命。
鼻があるために下に置かれず、どうしても飲み干さねばならぬところが御意に入ったものと見える。
表御座所にお着きのさいにも、「よいか、二つとない盃じゃ、大切に持って参れよ」と重ねて御注意の御沙汰があった。
よくよく御意に召したらしい。
私は注意に注意を加えて御供して参った。
すると今一歩で御内儀に入ろうとする時、どうしたはずみかこの御大切な御盃をパタリと落してしまった。
御盃は二つに割れた。
御注意をいただいたばかりであるのに自分は何たる粗忽者かと恐縮を通り越して呆然と立ち尽くしてしまった。
その私の耳朶に響いたのは、「日野西心配するな。明日また土方に言って代りを探してもらおう」というお優しい玉音であった。
あまりのもったいなさに、熱い涙が滂沱として下ったのであった。
明くる日土方宮相を召されて、「昨夜せっかくもらった天狗の盃を帰りにちょっと粗相して傷つけてしまった。まことに惜しいことをした。何か変わった面白い物があったらくれないか」とあたかも御自身の御粗相のように御話遊ばされ、私のことなど御一言も仰せられなかったと承り、私はまたさらに御仁慈の深きに感泣した。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
学習院院長 一戸兵衛
日露戦争後我々武官に対し豊明殿のおいて昼の御陪食を賜ったことがあったが、その時が最も御側近くで龍顔を拝しまた玉音にも接した時であった。
正面には明治陛下、その御左右には皇族方、それから大山巌元帥・山県有朋元帥、明治陛下とお向き合いの席には宮内大臣というような席次であった。
たまたま明治の初年、最初の西国御巡幸のみぎりに御話を遊ばされた。
西郷隆盛が供奉長であったこと、どういう間違いからかその時お乗りになった軍艦龍宮が浅瀬に乗り上げてしまったことなどを御話になり、30余年前の御事を偲び給うがのごとく、
「あの時は西郷が怒ってのう」と供奉長西郷隆盛が艦長その他の過失を憤ったことを御話になった。
西郷はその時 恐懼措く所を知らず、一方いたく艦長その他の失態を憤り、刀を抜いて館内にあったスイカを斬り、ようやく胸の怒りを鎮めたということである。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
掌典 慈光寺仲敏
私は1882年12月、9歳の折りお稚児の資格をもってお勤め致してから30年明治天皇の御側近くに奉仕致しました。
明治陛下のお若い頃は実にお盛んのもので、少しぐらいの雨や雪などはお構いなく、午後には必ず御乗馬の御練習を遊ばすという御元気です。
山岡鉄舟などを御相手に、御学問所の御苑で相撲を遊ばしたとの御話もなるほどと思われました。
明治陛下は武器、ことに鉄砲・刀剣類をお好み深くあらせられ、御鉄砲掛は米田侍従・御刀剣掛は日野西侍従が承り、週二回ずつ御手入をされました。
御刀剣類は古刀・新刀それぞれお好み遊ばしました。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
侍従 石山基陽
1894年日清戦争の当時、出仕として9歳でお召し出しを蒙ってから20年にわたって御仕え申し上げる光栄を荷ったのであります。
御熱心に御勉強あそばされたのは御馬術で、明治皇后も明治陛下の御沙汰で御馬に召されたように漏れ承っています。
女官の乗馬はなかなか盛んであって上手の方が多くあったほどで、侍従・内舎人・侍従の属官・大膳職の者などは吹上の御馬場において運動乗をして練習致しました。
御手許には馬の名はもちろん産地性質まで記入した馬名簿を差し上げてありますが、明治陛下はそれらによらせられずとも産地から毛色までことごとく御記憶遊ばされて、初心の者にはおとなしい馬というように一々適当に御割当を賜りました。
明治陛下の御在世中 宮中にある者は、馬に乗れぬ者なく、歌の詠めぬ者なしといってよいくらいで、実に文武ともに御奨励のありがたき大御心が拝せられました。
薩摩琵琶はことのほか御意に召されて、お喜びあそばされました。
謡曲もお好み遊ばされ、時折り女官の方々をしてお歌わせになってお楽しみ遊ばされました。
明治陛下は犬をたいそう御寵愛遊ばされました。
日清戦争中 丁汝昌が愛育していた犬が献上されましたが、名前を〈順〉と賜って非常に御寵愛遊ばされ、明治陛下には常に御膝元に御撫育遊ばされました。
御刀剣類も非常にお好み遊ばされ、御座所・御内儀とも御床の間はほとんど御刀剣類で一杯であったぐらいでした。
週二回御剣掛の者が御蔵に入ってお手入れしていました。
お召上り物の御嗜好を申し上げれば、魚類では鱈および鰉・鮎などの川魚、肉類は鴨をことのほか御賞美遊ばされ、またカボチャ・スイカなどをお好みになり、杏の砂糖煮・道明寺なども愛でさせられました。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
掌侍 樹下範子
1860年、私は18歳・明治陛下御年9歳の時に御側に上りました。
万事の御世話は御所からの御付人 中山慶子一位局〈新宰相典侍〉が遊ばされました。
その他には室町清子清子様〈高松様〉梨木持子様〈御乳人〉私〈御小姓〉と判任の者四人が御勤め申し上げたのみで、何もかも至って御質素な御生活であられました。
朝は7時頃お目ざめになります。
御膳を召上った後、お身じまいを遊ばされ白粉までもおつけになって、高松様が御髪を稚児髷に御上げ申されました。
御召物は御模様のある御振袖、ちょうど姫宮様のような御つくりで、その御様子の御美しく御気高くましましたことは今なお眼前に拝するようでございます。
毎日の御日課は、お昼までは御局で中山様が御手習やらいろいろの御稽古の御相手、私は御墨をすったりかれこれとお手伝い致しました。
昼の御食事が住みますと、御召替になります。
緋綸子の御衣・白絹の御袴、鮮やかな御姿で御所に参内遊ばします。
私どもが若宮御殿から花の御殿までお見送り申し上げますと、そこからは御所よりのお迎え人と御一緒にお出でになります。
お稚児さんだけ御供して。
かくて午後の3時頃まで、御父君孝明天皇様の御側にいらせられました。
御所では毎日御父君から御歌の御題二つずつ頂戴されては御詠進遊ばされ、また有栖川宮の御師匠で御手習をなされ、正親町様がその間々の御指導をなさったように承っております。
御所から御下がり遊ばしても別段外へお出ましのようなこともなく、中山一位の局様を御相手に御読書をなされたり、御歌をお作りになったり、静かにお暮しでございました。
御夕飯の時には一位様・高松様・お稚児様が御給仕申し上げ、私や判任の者がお運び致しました。
夜分は私どもがお相手申してカルタを遊ばしたり、時には御題をいただいてつまらぬ腰折れを詠んで御覧に入れたりしてお慰め申し上げました。
御15歳の折り、明年は東宮様にお成り遊ばすとの御沙汰がありましたので、私たちまで非常に喜び楽しんでお待ちしておりましたところ、折柄天皇様には御不例に渡らせられました。
当時薩摩や桑名の兵隊は乾門・栄町門などにたむろして、長州の兵隊を御所の中に入れまいとする、長州の兵は押して入ろうとする、それはそれは騒ぎで、御縁側に御食事の手を清めになど参りますと、ビュッ!ビュッ!と空を切る弾の音が凄まじい波動と共に鼓膜を打ちます。
しかしながらさすが一天万乗の大君とならせ給う御方は御幼少から違ったもので、そうした騒乱の中にも泰然としていささかもお取り乱しの御模様などあらせず、かえって私たちなどがお恥かしゅう存じたことでございました。
ずいぶん御腕白に利かぬ気のお遊びも烈しゅうございましたが、その中にも下々の者はどこまでもお慈しみ下さって常にお優しい御言葉をいただきましたので、そのお可愛い御声が今も耳元に残って、思い出でてはいつも涙にかきくれております。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
女官長・典侍 高倉寿子〈新樹の局〉
私が明治皇后様の御側近くに上りましたのは、まだ明治皇后様が一条家においでの頃、1867年6月21日であったように記憶します。
明治皇后様の御兄上様から〈千枝〉という名を頂戴しておかしづき致しました。
すると一週間ほど経て、お目見えのために御参内遊ばすことになりました。
御供と申しては私一人、御所の筋向いの一条家から御板輿に召されて上がられました。
御所の御聞えもおめでたく、お帰りと同時に女御と御治定にあいなり、数ならぬ私まで上臈の管をおおせつけられました。
1869年かねて御審議中であった東京奠都が確定され、大帝は東京へ行幸遊ばされ、ついて明治皇后様もお引き移りになりました。
私どもに致しましても新しい都の様子は知らず、いよいよ懐かしい京都も今日限りかと思いました時には、なにかしら胸いっぱいになって惜しめども惜しめども京の都に対する名残は尽きませんでした。
明治皇后様は本当に明治陛下のよいお話し相手であらせられ、御食事の折りなどお親しそうにいろいろと御物語遊ばされました。
明治陛下は御身体のお弱くいらせられた明治皇后様の御身上を常にご案じになりまして、沼津・葉山等へ御転地になっておりまする折りなどにも何かと御見舞品を持たせて御使をお遣しになりました。
明治陛下は語学の中でもことにドイツ語がお巧みでいらせられました。
秋の夜長の御清閑の折りなど、御内儀で女官の者どもにお教え下さることもございました。
御教授賜ったと申せば、明治陛下は謡曲が非常に御上手で、私どももよく教えていただいたものです。
謡曲に次いでお好み遊ばしたのは琵琶歌で、なかなか御上手でいらせられました。
どこでお習いになったというわけでもなく、各所へ御臨幸の節 聞え上げたのをよく御記憶なされたのと、蓄音機によって御練習遊ばしたのでございます。
御記憶のお確かなことも実に驚くほどでありました。
「お前たちはどうしてそんなに忘れるのか」とよく御注意をいただきますので、しまいには私は一々書き留めておくように致しました。
例えば御調度類をガラス箱の中へお納めするのも、その納めどころでも平素と違っていると御機嫌がお悪いというくらいで、すべて御生活の御様子が平生お定めになったことをキチンキチンと行われるというふうに拝しました。
そのように物事を決まりよくすることがお好きでしたから、御掃除の行き届いたのをたいそうお好みになり、表御所からお帰りの節など御内儀をきれいに御掃除して取り片付けてありますと、
「よく掃除ができたな」と仰せられて特別に御褒美を下さいました。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
命婦 西西子〈菅の局〉
私は明治皇后〔昭憲皇太后〕がまだ一条家においでの頃、20歳で御側に上りました。
それから御入内と同時に私も御所に上り、50年の間宮中にお勤め致しました。
明治大帝の御高徳について私どもの第一に感じますることは、御規律正しくましましたことでございます。
朝 表への出御の御時刻はもとより、御起床の御時刻、御居間の窓をお開けすることさえ一分でも違うことはお嫌いであらせられました。
万事が御規律正しく、表からに入御になりましてもお寛ぎということはあらせられず、御洋服もなかなかお召替えにならず、いつもきちんとした御態度でいらせられました。
御違例はどなた様も仰せの通り、日露戦争の時の御苦労が玉体に障らせられたのがもとであろうと拝察致します。
明治陛下の御胸のうちは夜も昼も戦争のことのみ思いつめられ、夜中お目覚め遊ばす時でさえ戦争の御話ばかりでございました。
明治陛下は畏れ多いことながらお強い自慢に渡らせられ、今少し早く御手当申し上げたならとただいまになりますと残念でたまりません。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
権命婦 平田三枝〈蔦の局〉
私が初めて御所に上りましたのは1879年の12月でございました。
雪の降る日などはお慰めにと、御庭でよく雪打を御覧に入れたことが記憶に残っております。
私たちが勇ましく戦う様子を明治皇后様と御一緒に御覧あそばされては、たいそう御満足に思召され、
「寒い所で働いたのじゃから、温かいものを馳走してやれ」と仰せられては、御吸物や鯛麺などをたくさんに頂戴致しました。
私たちが週に一度有栖川宮様・北白川宮様の御邸に舞踏の御稽古に参りましたごときも、外人との交際上の準備に資せしめられる叡慮に他ならぬことと拝察致します。
また毎週木曜日には宮城内に茶話会がございまして、各国公使・同夫人をはじめ大臣・外交官・同夫人をお召しになり、高倉様や室町様が御名代として参列せられ、私たちまでも席末に列することを許されました。
またこちらから公使館の招きに応じて参ったことも度々あります。
毎年お催しになる観桜・観菊の御会には諸外国の大公使を召されて御心からなるおもてなしを遊ばされました。
明治皇后様の御通訳は英語の巧みな北島以登子嬢が勤められました。
明治皇后様はいつか英語をお聞き慣れ遊ばされ、暑さ寒さの御挨拶など英語で仰せられるのをよく承りました。
1886年女官の服装が洋服に変わりました時分から、馬術のことは親しく御教えを賜りました。
今考えても私たちは木馬の上へ、明治陛下は下におわしまして、
「足先をこう踏むのじゃ」
「そんなことじゃ落っこちるぞ」
などといろいろ御教導下さったのは、なんとも畏れ多い次第でございます。
日露戦争は日清の役よりまたいっそうの御苦心が多かったことと拝察致します。
夜もろくろく御寝にならぬ晩が幾夜でございましたでしょう。
あの戦争から急に御年を召されたように思われます。
御病気もあの折りからのお始まりの御模様でございました。
あの戦争さえなかったら、あれだけの御体格あれだけの御元気の明治陛下でおはしますもの、かくまで御世を早くし給うことなど決してなかったろうと思います。
1912年7月19日、私は御食事をお運びしておりました。
やがて御食事を終わらせられて食堂から御座所へ赴かせらるるその御足取を拝しまして、私は畏れ多いことながらなんとなく不安な心持が致しました。
平素ちょっとしたおひろいにもしっかり御足を踏ませ給う明治陛下が、どうもこの2~3日御足取がはかばかしく拝せられません。
ことに今日の御様子はと思っているうちに、すでにおうつつとなられました。
明治陛下はそれはそれは蓄音機がお好きでいらせられました。
まして今日のラジオをお聞き遊ばしたらと思うと、それができないのが残念で堪りませぬ。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
権命婦 生源寺伊佐雄〈梢の局〉
私が御所へ上がりましたのは1879年で年は16歳、それから36年明治陛下の御側へお仕え申しました。
一日中政務にお携わりになり、ずいぶんとお疲れ遊ばさるるにも拘わらず、夜分は私たちのために、読書の道、歌の道をはじめとして、フランス語にいたるまでも御教授下されました。
ことに私たち女官どもに乗馬の術をさえ、親しくお教え下されました次第でございます。
どんなことにも御堪能にましまして、どのようなことでもご存じ遊ばさぬというようなことはおあり遊ばしませんでした。
まことに生きながらの神様であらせられたことを、つくづくと拝し奉りました。
「誰が何をした」「誰々の性質はどうである」というようなことは、ちょうど鏡にうつした姿のようにはっきりと御承知であらせられました。
ある時のこと、私たち七八名のものが浜御殿に土筆を摘みに参りました。
これもやはり御諚があったからなのでございます。
その折、「今日は競争じゃ、一番多く摘ってきたものには、褒美を取らせる」
明治陛下のこの忝い御仰せに、私たちは勇み立って、終日春光を浴びながら楽しく摘りつくしたことがございました。
「競争じゃ」との仰せがあると、摘ること、摘ること、中には命がけで、まるで根つきの泥のままのものをも構わずに摘りつくして、竹長持を一杯にして持ち戻ったものもございました。
あの時その泥つきの土筆を御高覧遊ばされて、明治陛下にはひとしおの御興があらせられましたことも、今も目に見えるようで、まことに有難い楽しい思い出の一つでございます。
御承知の通り私たち御所のうちに朝夕を生活いたすものは、外の空気や日光に浴する機会が思うようにはございませぬ。
それをお気遣いになり、「今日は競争じゃ」「たくさん摘ったものには、褒美をとらせる」
この御奨励の大御言葉がかかるのでございまして、これによって私たち女官どもにも戸外の運動に努めさせ給うたのでございます。
何という洪大無辺の有難い御思召ではございませんか。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
権掌侍 吉田鈺子〈撫子の局〉
私は1887年から御所に出まして、28年間お仕え申し上げました。
私はよく御沙汰をこうむりましては大工のするような御仕事を致しました。
博覧会などでお買い上げの材木を賜りまして、「これで何々を作れ」と申されます。
一番たくさん作って差し上げたのが御手拭掛けでございました。
明治陛下は御承知の通り御肥満にいらせられたためよく汗をおかき遊ばし、常に御手拭でお拭いになりましたが、自然たくさんの御手拭が御入用であったのでございます。
それとても慣れぬこととて釘づけに致しますと、じきにグラグラになって役立たなくなります。
「また手拭掛けが壊れたぞ」と仰せになってはお笑い遊ばす。
いつもいつも大きな御声でよくお笑い遊ばしました。
御心配の多い戦時中でも、どうしてあんなに大きな御声でと思われるほどにお笑い遊ばしました。
御心配は御心配ながら、しかしそれに屈託あそばされぬ海のような御宏量、山のような御大胆、それがこの御笑声となって発露遊ばすのでございましょう。
その御笑声を聞くごとに私どもまでなんとも言えぬ心強さを覚えまして、我が大君のおはします限り戦争は必ず勝つものと心の中に固く信ずるようになりました。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
権命婦 樹下定江〈松の局〉
1887年18歳の時 大奥に奉仕しましてから、28年間御奉公申し上げました。
誰やらが冗談のように「明治陛下は老人と子供ばかりがお好きだ」と申しました。
腰も二重になりお勤めがかなわなくなりますと初めてお暇が出ましたが、隠居してから後も何かとお労りになりした。
御老人の方々が参内せられますと、明治陛下はそれはそれは御満足のようでございました。
足元のおぼつかないのを私どもが御手を引いて御前にまかり出たものでございます。
すると明治陛下は「おお、よく参った」と仰せられてニコニコしてお迎えあそばされ、それからなにくれとなくお労りの御言葉を賜るやらおすべりなどを下さるやら。
お若い頃は雪の日は何よりのお慰みで私たちが雪打などして御覧に入れましたが、お年召されてからは御寒もひとしおお感じになりますので300人ぐらいの除雪の人がみえました。
明治陛下はこの様子を御覧遊ばされまして、「寒い折りに気の毒な。何か温かい物をやれ」と仰せになられます。
温かい御茶と御菓子が出ました後で、竹の皮包みのおにぎりと玉子焼きを出すというわけで、大膳寮は大忙しでございました。
その除雪の人々が御庭のあちこちでおいしそうに頂戴しているのを御覧遊ばされて、またたいそう御満足のようであらせられました。
「この天皇様にしてこの皇后様、よくお揃い遊ばしたものよ」と私たち御側に奉仕する者は常々申し合って感激したことでございます。
明治陛下が表の御用多くしてお昼の入御がお遅くなられます時などは、私どもがお昼の御膳を持ちましても、
明治皇后様は「明治陛下が御国のためにお勤め遊ばすのに、どうして私が」と仰せになって決してお許しなく、たとえ3時4時になりましても明治陛下の入御になるまではきちんと御正座遊ばされ、神々に御祈念なされつつお待ち遊ばされます。
そうして明治陛下入御の後、はじめて御一緒に御膳におつき遊ばすのが常でございました。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
権掌侍 薮嘉根子〈紅葉の局〉
私が御所に上りました当時、私の世話親の典侍室町清子様〈紅梅の局〉や掌侍樹下範子様などから、明治大帝の御幼少の時の御事などいろいろ御伺い致しましたからまずそれを謹述いたします。
明治陛下はお小さい時から非常に勝気にましまして、稚児を相手に戦事など遊ばす際にも自ら木大刀をもって勇ましくお斬り合い遊ばし、決してお負けになるようなことはなかったと承ります。
したがっておいたもなかなか烈しく、ずいぶん女官の方々を困らせたそうにございます。
女官の後ろから水鉄砲で水をかけて驚かせたり、御呉服所の人々が楽しみにておて大切に御縁側にかざっておいた万年青の葉をハサミでちょん切って坊主にしてしまったり、御廊下はいつもおいたで大騒ぎであったと申します。
あまりおいたが過ぎますと、女官の方々がお稚児の私の兄実休をつかまえては叱られました。
すると兄は「夜になっても鳥を入れてやらないぞ」なぞと言って、なかなか素直でなかったそうです。
孝明天皇様御寵愛の鳥、それは駝鳥に似た恐ろしい鳥であったそうですが、夜分になって御小屋に入れますにはどうしても女官の手に負えないものですから、いつもお稚児の手を借りていたとのこと。
兄はその弱点を持ち出しては女官の方々を脅し、明治陛下の御指図に任せていよいよ茶目ぶりを発揮したらしゅうございます。
御生母中山一位の局様はずいぶんお厳しいお育て方を遊ばしたように承りました。
悪いことはビシビシとお𠮟りなり、どうしてもお用いのない時には御文庫の中へ入れ申してまでもお窘めになったようでございます。
もっとも明治陛下一人だけをお入れ申すということはできませんから、いつも兄が御供しては御文庫入りをしたそうにございます。
当時のお勤めというのがなかなか楽でなかったようです。
兄などは冬でも足袋を履くことを許されず、シモヤケが痛んでたまらなくなると、ようやくそのひどい方の片足だけお許しがでたというほどの御厳重であったように承りました。
侍医の方から御転地をお勧め申し上げるようなことがありましても、
「ワシの身体は若い時から鍛えた身体じゃ。寒いから暑いからと言って東京を去るようでは、しまいには東京に暮らせなくなるじゃろう。御歴代におかせられては、転地など決してなさらなんだ」と仰せられて、かえってお叱りをこうむったと承っております。
我が国の美風はどこまでも御保存遊ばすように御努力なされた明治陛下は、また一面世界の大勢に順応なさることをも決してお忘れ遊ばしませんでした。
女官の服装のごときも国交上必要とお認めの上は断然洋装にお改めになり、束髪の結い方・洋食の食べ方・礼式なども宮内省御雇のドイツ人モール夫妻にみなの者が教えていただきました。
御内儀の食堂で明治陛下がテーブルの席までも御指定になって、洋食の食べ方の練習もございました。
始めのうちはいろいろの失敗もございましたが、お陰様でだんだんと礼式にも慣れ、外人と会食もできるまでになりました。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
権典侍 小倉文子〈緋桜の局〉
明治陛下はたいそう動物をお愛しになり、ことに御犬がお好きでございました。
伏見大宮が御渡欧の時、御注文遊ばされた犬が5匹ありました。
そのうち2匹は新宿御苑にお預けになり、一匹は有栖川宮へ御下賜になり、二匹だけ御手元おお留めになりました。
そのうち御内儀にいたのが〈六号〉と申し、表御座所にいましたのが〈花号〉と申しました。
明治陛下崩御あらせられて後は六号・花号は昭憲皇太后様の御手許で御寵愛をこうむりましたが、六号は明治陛下の崩御の翌年に没しました。
花号は昭憲皇太后様崩御あらせられて後、私が頂戴いたしました。
しかしそれも心臓病のためこの世を去り、今は写真となって面影を偲ぶばかりとなりました。
2匹ともたいそう利口な御犬でありました。
夜分9時頃になりますと御道具掛の女嬬へとお預けになりますが、その退出時刻などもよく存じておりまして、その時刻が参りますと明治陛下に御挨拶をして自分から部屋の方へスタスタと歩いて行きます。
翌朝女嬬に連れられて参りますと、いきなり明治陛下の御側に走って行き、嬉しそうに御膝の上に手をかけて、牛乳を召上っていらせられる明治陛下へおすそ分けをお願いします。
明治陛下は御遠慮ないふるまいをニコニコして御覧になりながら、別の御器にお分け与えになるのでした。
また夜分御夕食の折りには、御膝元にいていろいろ御馳走を頂戴致します。
御所の梅の実が熟される頃になりますと、大膳寮から梅の実を採って明治陛下に差し上げます。
明治陛下はそれを女官たちにお分け下さるばかりか女嬬たちにもお下げになるのですが、女嬬の人々は直接頂戴ができませんから、高倉さんや私たちが縁側から御庭へと梅の実を投げます。
するとあちらの木陰、こちらの築山に隠れている女嬬たちが、思い思いの装いで御庭に現れ出て、それを拾うのでございます。
その仮装が面白いとて明治陛下にも明治皇后にもお笑いあそばされましたが、明治陛下には下々と違い御自由にお遊びに出でますこともありませんので、時折こんな御催をして御徒然をお慰め申し上げたこともございます。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
秩父宮雍仁親王
僕は一度も祖父明治天皇の肉声をうかがったことがない。
年に3回すなわち春秋と誕生日とに参内するのが例であって、その時にはお目にかかるのだが、御前に行って御辞儀するとかすかに御唇の動くような気はしたが、ついぞ御声は聞かなかった。
偽らないところは、怖い恐ろしいといったものであった。
祖父明治陛下にお目にかかるということが、当時の僕らにはこの上ない大事件であった。
何しろ参内する日が決まるとまわりの人も何かと心配し、なんと御挨拶すべきかというようなことまでいちいち注意するのだから、孫が祖父の家に遊びに行くというふうななごやかさは微塵もなかったわけだ。
やがて侍従に導かれて明治天皇の御前に幾。
あまり明るくない室に大きな机を前にして、あの肋骨の黒い軍服で明治陛下は立っておられる。
カーキ色の軍服は観兵式などに行幸の時、赤坂の通りを馬車で通られる折に見上げるぐらいのものだ。
僕らは廊下から数歩御部屋の中に入って御辞儀をする。
そして予定の御挨拶を述べる。
正味一分ぐらいだろうが、もしも一言でも何かおっしゃったら、僕は泣き出したかもしれない。
明治陛下とは一度も食卓を囲んだことはない。
宮城で祖母上〔昭憲皇太后〕と会食するのは決まって大演習の御留守で、その時は母上も叔母上方も一緒であった。
祖母上に対しては少しも遠慮を感じなかった。
キセルは祖母上につきもので、いかなる所へでも喫煙セットがついていく。
祖母上は絶えずニコニコして、僕らの勝手放題に騒ぎまわる様子をキセルで煙をふかしながら見守っておられるのであった。
もう崩御だということを聞かされた。
内謁見所のところまで行くと、叔母上方が縁に椅子を出し、眼を泣きはらしておられた。
僕らが側に行くと、「おじじ様はとうとうお亡くなりになりました。おじじ様のような立派な方にならなくては」と言葉もとぎれとぎれに慰めかつ励ましてくださった。
熟睡中起こされて興奮していたのか、死という不思議なことに初めて直面してショックが大きかったのか、この場の光景は今でもまざまざと頭に刻まれているのに反し、その後のことは全然記憶がない。
御遺骸に御辞儀をしたことすら。
しかしその日家に帰って次のように侍女に語っている。
「おばば様が白い布を取ってくださったの。『お忘れにならないようによく御顔を覚えておいで遊ばせ』とおっしゃったのだけど、悲しくてよく拝見できなかったの」
こんなわけで一口に言えば、明治陛下には肉親的な思い出はほとんど何一つないと言ってよい。
後に明治天皇が怖かったと言うと、よく母上〔貞明皇后〕は「おじじ様は宮さん方のことを心にかけておいでにならないどころか、参内してお会いになるのを大変楽しみにしておいでになりました。奥(明治皇后様)からおいただきのオモチャなど、おじじ様の実に御心のこもったものも少なくなかったのです。おじじ様はなかなか細かく御気がつくので、たた(母)に対しても、折に触れて反物など御自分で柄までお選びになって下さいました」と話された。
どうもそのオモチャとあのいかめしい御顔の祖父上とか結びつかないのであった。
僕らをそれほど可愛いと思って下さるなら、なぜもっとその御気持を直接に表して下さらなかったものか。
もっと打ち解けておばば様が僕らにされたようなことを、一年に一度くらいはして下さってもと思わないわけにはいかぬ。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
●明宮 嘉仁親王 123代大正天皇
●常宮 昌子内親王 竹田宮恒久王妃
●周宮 房子内親王 北白川宮成久王妃
●富美 宮允子内親王 朝香宮鳩彦王妃
●泰宮 聡子内親王 東久邇宮稔彦王妃
当時4人の内親王と年齢が釣り合う皇族男子は年齢順に、
竹田宮恒久王・北白川宮成久王・有栖川宮栽仁王・朝香宮鳩彦王・東久邇宮稔彦王の5人であったが、有栖川宮栽仁王が早逝したので残りの四人と結婚となった。
1852-1912 59歳没
*身長167センチ
*西洋医学嫌いで、東洋医学の治療しか受けなかった。
*持病の糖尿病から尿毒症を発症し、心不全で死亡。
■妻 昭憲皇太后 一条忠香公爵の娘一条美子
1849-1914 64歳没
*お妃候補時代、明治天皇は昭憲皇太后を将棋に誘う。
その勝負ぶりに感銘したことが、皇后と決める決め手の一つとなった。
*明治天皇は昭憲皇太后を「天狗さん」と呼んでいた。
*昭憲皇太后はヘビースモーカーで、常にキセルを手放さずに喫っていた。
★女官長 典侍 高倉寿子〈新樹の局〉
1840-1930 90歳没
*昭憲皇太后の家庭教師で、輿入れの際に一条家からともについてきた女官。
本人は「お清の典侍」(天皇のお手がつかない女官)として、毎夜の明治天皇の夜伽の相手は高倉が決めていた。
明治天皇が身分の低い女官に手をつけて皇子を作らせないための措置であった。
★副女官長 お清の権典侍 姉小路良子〈藤袴の局〉
1857-1926
★側室 権典侍 柳原愛子〈早蕨の局〉公家柳原愛光の娘・大正天皇の生母・明治天皇がつけたあだ名は「ちゃぼ」
1859-1943 84歳没
*男子を産んだことで権典侍から典侍に出世〈二位の局〉となる
★側室 権典侍 園祥子〈小菊の局〉公家園基祥の娘 4人の内親王の生母
1867-1947 79歳没
★側室 権典侍 葉室光子〈梅の局〉 公家葉室長順の娘
1853-1873 20歳没
*明治天皇の子を1人産むが、母子ともに死亡
★側室 権典侍 千種任子〈花松の局〉公家千種有任の娘
1855-1944
*明治天皇の子を2人産むが、2人とも早逝
★側室 権典侍 橋本夏子〈小桜の局〉女官橋本麗子&公家東坊城夏長の娘
1856-1873 17歳没
*明治天皇の子を1人産むが、母子ともに死亡
★側室 権典侍 小倉文子〈緋桜の局〉
1861-1929
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
侍従 日野西資博
遠く御父君のもとを離れて御遊学の李垠王に対しての御心づくしは格別でおわした。
岩倉具定公爵を御教育主任に定めさせられ、絶えず種々の御注意を岩倉公爵に御沙汰あり、御父君に代って幼き李垠王を労らせ給う御懇情は、御側で拝する私どもも涙ぐましい感激に打たれた。
されば李垠王御参内の折りなどには、御自身いろいろの物をお選び遊ばされては御下賜があった。
李垠王におかれても大帝を御父君のごとく思召され、その間柄はまったく御親子のお親しさに拝し奉った。
土方久元伯爵が宮内大臣奉仕中のことである。
大帝は小石川の伯爵邸へ行幸遊ばされた。
その時 天覧に供された品々の中に、天狗の面の形をした御盃がたいそう御意に入って、
御供の私に「この盃は二つとない珍しい物だ、大切にして持ち帰れ」との御命。
鼻があるために下に置かれず、どうしても飲み干さねばならぬところが御意に入ったものと見える。
表御座所にお着きのさいにも、「よいか、二つとない盃じゃ、大切に持って参れよ」と重ねて御注意の御沙汰があった。
よくよく御意に召したらしい。
私は注意に注意を加えて御供して参った。
すると今一歩で御内儀に入ろうとする時、どうしたはずみかこの御大切な御盃をパタリと落してしまった。
御盃は二つに割れた。
御注意をいただいたばかりであるのに自分は何たる粗忽者かと恐縮を通り越して呆然と立ち尽くしてしまった。
その私の耳朶に響いたのは、「日野西心配するな。明日また土方に言って代りを探してもらおう」というお優しい玉音であった。
あまりのもったいなさに、熱い涙が滂沱として下ったのであった。
明くる日土方宮相を召されて、「昨夜せっかくもらった天狗の盃を帰りにちょっと粗相して傷つけてしまった。まことに惜しいことをした。何か変わった面白い物があったらくれないか」とあたかも御自身の御粗相のように御話遊ばされ、私のことなど御一言も仰せられなかったと承り、私はまたさらに御仁慈の深きに感泣した。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
学習院院長 一戸兵衛
日露戦争後我々武官に対し豊明殿のおいて昼の御陪食を賜ったことがあったが、その時が最も御側近くで龍顔を拝しまた玉音にも接した時であった。
正面には明治陛下、その御左右には皇族方、それから大山巌元帥・山県有朋元帥、明治陛下とお向き合いの席には宮内大臣というような席次であった。
たまたま明治の初年、最初の西国御巡幸のみぎりに御話を遊ばされた。
西郷隆盛が供奉長であったこと、どういう間違いからかその時お乗りになった軍艦龍宮が浅瀬に乗り上げてしまったことなどを御話になり、30余年前の御事を偲び給うがのごとく、
「あの時は西郷が怒ってのう」と供奉長西郷隆盛が艦長その他の過失を憤ったことを御話になった。
西郷はその時 恐懼措く所を知らず、一方いたく艦長その他の失態を憤り、刀を抜いて館内にあったスイカを斬り、ようやく胸の怒りを鎮めたということである。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
掌典 慈光寺仲敏
私は1882年12月、9歳の折りお稚児の資格をもってお勤め致してから30年明治天皇の御側近くに奉仕致しました。
明治陛下のお若い頃は実にお盛んのもので、少しぐらいの雨や雪などはお構いなく、午後には必ず御乗馬の御練習を遊ばすという御元気です。
山岡鉄舟などを御相手に、御学問所の御苑で相撲を遊ばしたとの御話もなるほどと思われました。
明治陛下は武器、ことに鉄砲・刀剣類をお好み深くあらせられ、御鉄砲掛は米田侍従・御刀剣掛は日野西侍従が承り、週二回ずつ御手入をされました。
御刀剣類は古刀・新刀それぞれお好み遊ばしました。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
侍従 石山基陽
1894年日清戦争の当時、出仕として9歳でお召し出しを蒙ってから20年にわたって御仕え申し上げる光栄を荷ったのであります。
御熱心に御勉強あそばされたのは御馬術で、明治皇后も明治陛下の御沙汰で御馬に召されたように漏れ承っています。
女官の乗馬はなかなか盛んであって上手の方が多くあったほどで、侍従・内舎人・侍従の属官・大膳職の者などは吹上の御馬場において運動乗をして練習致しました。
御手許には馬の名はもちろん産地性質まで記入した馬名簿を差し上げてありますが、明治陛下はそれらによらせられずとも産地から毛色までことごとく御記憶遊ばされて、初心の者にはおとなしい馬というように一々適当に御割当を賜りました。
明治陛下の御在世中 宮中にある者は、馬に乗れぬ者なく、歌の詠めぬ者なしといってよいくらいで、実に文武ともに御奨励のありがたき大御心が拝せられました。
薩摩琵琶はことのほか御意に召されて、お喜びあそばされました。
謡曲もお好み遊ばされ、時折り女官の方々をしてお歌わせになってお楽しみ遊ばされました。
明治陛下は犬をたいそう御寵愛遊ばされました。
日清戦争中 丁汝昌が愛育していた犬が献上されましたが、名前を〈順〉と賜って非常に御寵愛遊ばされ、明治陛下には常に御膝元に御撫育遊ばされました。
御刀剣類も非常にお好み遊ばされ、御座所・御内儀とも御床の間はほとんど御刀剣類で一杯であったぐらいでした。
週二回御剣掛の者が御蔵に入ってお手入れしていました。
お召上り物の御嗜好を申し上げれば、魚類では鱈および鰉・鮎などの川魚、肉類は鴨をことのほか御賞美遊ばされ、またカボチャ・スイカなどをお好みになり、杏の砂糖煮・道明寺なども愛でさせられました。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
掌侍 樹下範子
1860年、私は18歳・明治陛下御年9歳の時に御側に上りました。
万事の御世話は御所からの御付人 中山慶子一位局〈新宰相典侍〉が遊ばされました。
その他には室町清子清子様〈高松様〉梨木持子様〈御乳人〉私〈御小姓〉と判任の者四人が御勤め申し上げたのみで、何もかも至って御質素な御生活であられました。
朝は7時頃お目ざめになります。
御膳を召上った後、お身じまいを遊ばされ白粉までもおつけになって、高松様が御髪を稚児髷に御上げ申されました。
御召物は御模様のある御振袖、ちょうど姫宮様のような御つくりで、その御様子の御美しく御気高くましましたことは今なお眼前に拝するようでございます。
毎日の御日課は、お昼までは御局で中山様が御手習やらいろいろの御稽古の御相手、私は御墨をすったりかれこれとお手伝い致しました。
昼の御食事が住みますと、御召替になります。
緋綸子の御衣・白絹の御袴、鮮やかな御姿で御所に参内遊ばします。
私どもが若宮御殿から花の御殿までお見送り申し上げますと、そこからは御所よりのお迎え人と御一緒にお出でになります。
お稚児さんだけ御供して。
かくて午後の3時頃まで、御父君孝明天皇様の御側にいらせられました。
御所では毎日御父君から御歌の御題二つずつ頂戴されては御詠進遊ばされ、また有栖川宮の御師匠で御手習をなされ、正親町様がその間々の御指導をなさったように承っております。
御所から御下がり遊ばしても別段外へお出ましのようなこともなく、中山一位の局様を御相手に御読書をなされたり、御歌をお作りになったり、静かにお暮しでございました。
御夕飯の時には一位様・高松様・お稚児様が御給仕申し上げ、私や判任の者がお運び致しました。
夜分は私どもがお相手申してカルタを遊ばしたり、時には御題をいただいてつまらぬ腰折れを詠んで御覧に入れたりしてお慰め申し上げました。
御15歳の折り、明年は東宮様にお成り遊ばすとの御沙汰がありましたので、私たちまで非常に喜び楽しんでお待ちしておりましたところ、折柄天皇様には御不例に渡らせられました。
当時薩摩や桑名の兵隊は乾門・栄町門などにたむろして、長州の兵隊を御所の中に入れまいとする、長州の兵は押して入ろうとする、それはそれは騒ぎで、御縁側に御食事の手を清めになど参りますと、ビュッ!ビュッ!と空を切る弾の音が凄まじい波動と共に鼓膜を打ちます。
しかしながらさすが一天万乗の大君とならせ給う御方は御幼少から違ったもので、そうした騒乱の中にも泰然としていささかもお取り乱しの御模様などあらせず、かえって私たちなどがお恥かしゅう存じたことでございました。
ずいぶん御腕白に利かぬ気のお遊びも烈しゅうございましたが、その中にも下々の者はどこまでもお慈しみ下さって常にお優しい御言葉をいただきましたので、そのお可愛い御声が今も耳元に残って、思い出でてはいつも涙にかきくれております。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
女官長・典侍 高倉寿子〈新樹の局〉
私が明治皇后様の御側近くに上りましたのは、まだ明治皇后様が一条家においでの頃、1867年6月21日であったように記憶します。
明治皇后様の御兄上様から〈千枝〉という名を頂戴しておかしづき致しました。
すると一週間ほど経て、お目見えのために御参内遊ばすことになりました。
御供と申しては私一人、御所の筋向いの一条家から御板輿に召されて上がられました。
御所の御聞えもおめでたく、お帰りと同時に女御と御治定にあいなり、数ならぬ私まで上臈の管をおおせつけられました。
1869年かねて御審議中であった東京奠都が確定され、大帝は東京へ行幸遊ばされ、ついて明治皇后様もお引き移りになりました。
私どもに致しましても新しい都の様子は知らず、いよいよ懐かしい京都も今日限りかと思いました時には、なにかしら胸いっぱいになって惜しめども惜しめども京の都に対する名残は尽きませんでした。
明治皇后様は本当に明治陛下のよいお話し相手であらせられ、御食事の折りなどお親しそうにいろいろと御物語遊ばされました。
明治陛下は御身体のお弱くいらせられた明治皇后様の御身上を常にご案じになりまして、沼津・葉山等へ御転地になっておりまする折りなどにも何かと御見舞品を持たせて御使をお遣しになりました。
明治陛下は語学の中でもことにドイツ語がお巧みでいらせられました。
秋の夜長の御清閑の折りなど、御内儀で女官の者どもにお教え下さることもございました。
御教授賜ったと申せば、明治陛下は謡曲が非常に御上手で、私どももよく教えていただいたものです。
謡曲に次いでお好み遊ばしたのは琵琶歌で、なかなか御上手でいらせられました。
どこでお習いになったというわけでもなく、各所へ御臨幸の節 聞え上げたのをよく御記憶なされたのと、蓄音機によって御練習遊ばしたのでございます。
御記憶のお確かなことも実に驚くほどでありました。
「お前たちはどうしてそんなに忘れるのか」とよく御注意をいただきますので、しまいには私は一々書き留めておくように致しました。
例えば御調度類をガラス箱の中へお納めするのも、その納めどころでも平素と違っていると御機嫌がお悪いというくらいで、すべて御生活の御様子が平生お定めになったことをキチンキチンと行われるというふうに拝しました。
そのように物事を決まりよくすることがお好きでしたから、御掃除の行き届いたのをたいそうお好みになり、表御所からお帰りの節など御内儀をきれいに御掃除して取り片付けてありますと、
「よく掃除ができたな」と仰せられて特別に御褒美を下さいました。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
命婦 西西子〈菅の局〉
私は明治皇后〔昭憲皇太后〕がまだ一条家においでの頃、20歳で御側に上りました。
それから御入内と同時に私も御所に上り、50年の間宮中にお勤め致しました。
明治大帝の御高徳について私どもの第一に感じますることは、御規律正しくましましたことでございます。
朝 表への出御の御時刻はもとより、御起床の御時刻、御居間の窓をお開けすることさえ一分でも違うことはお嫌いであらせられました。
万事が御規律正しく、表からに入御になりましてもお寛ぎということはあらせられず、御洋服もなかなかお召替えにならず、いつもきちんとした御態度でいらせられました。
御違例はどなた様も仰せの通り、日露戦争の時の御苦労が玉体に障らせられたのがもとであろうと拝察致します。
明治陛下の御胸のうちは夜も昼も戦争のことのみ思いつめられ、夜中お目覚め遊ばす時でさえ戦争の御話ばかりでございました。
明治陛下は畏れ多いことながらお強い自慢に渡らせられ、今少し早く御手当申し上げたならとただいまになりますと残念でたまりません。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
権命婦 平田三枝〈蔦の局〉
私が初めて御所に上りましたのは1879年の12月でございました。
雪の降る日などはお慰めにと、御庭でよく雪打を御覧に入れたことが記憶に残っております。
私たちが勇ましく戦う様子を明治皇后様と御一緒に御覧あそばされては、たいそう御満足に思召され、
「寒い所で働いたのじゃから、温かいものを馳走してやれ」と仰せられては、御吸物や鯛麺などをたくさんに頂戴致しました。
私たちが週に一度有栖川宮様・北白川宮様の御邸に舞踏の御稽古に参りましたごときも、外人との交際上の準備に資せしめられる叡慮に他ならぬことと拝察致します。
また毎週木曜日には宮城内に茶話会がございまして、各国公使・同夫人をはじめ大臣・外交官・同夫人をお召しになり、高倉様や室町様が御名代として参列せられ、私たちまでも席末に列することを許されました。
またこちらから公使館の招きに応じて参ったことも度々あります。
毎年お催しになる観桜・観菊の御会には諸外国の大公使を召されて御心からなるおもてなしを遊ばされました。
明治皇后様の御通訳は英語の巧みな北島以登子嬢が勤められました。
明治皇后様はいつか英語をお聞き慣れ遊ばされ、暑さ寒さの御挨拶など英語で仰せられるのをよく承りました。
1886年女官の服装が洋服に変わりました時分から、馬術のことは親しく御教えを賜りました。
今考えても私たちは木馬の上へ、明治陛下は下におわしまして、
「足先をこう踏むのじゃ」
「そんなことじゃ落っこちるぞ」
などといろいろ御教導下さったのは、なんとも畏れ多い次第でございます。
日露戦争は日清の役よりまたいっそうの御苦心が多かったことと拝察致します。
夜もろくろく御寝にならぬ晩が幾夜でございましたでしょう。
あの戦争から急に御年を召されたように思われます。
御病気もあの折りからのお始まりの御模様でございました。
あの戦争さえなかったら、あれだけの御体格あれだけの御元気の明治陛下でおはしますもの、かくまで御世を早くし給うことなど決してなかったろうと思います。
1912年7月19日、私は御食事をお運びしておりました。
やがて御食事を終わらせられて食堂から御座所へ赴かせらるるその御足取を拝しまして、私は畏れ多いことながらなんとなく不安な心持が致しました。
平素ちょっとしたおひろいにもしっかり御足を踏ませ給う明治陛下が、どうもこの2~3日御足取がはかばかしく拝せられません。
ことに今日の御様子はと思っているうちに、すでにおうつつとなられました。
明治陛下はそれはそれは蓄音機がお好きでいらせられました。
まして今日のラジオをお聞き遊ばしたらと思うと、それができないのが残念で堪りませぬ。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
権命婦 生源寺伊佐雄〈梢の局〉
私が御所へ上がりましたのは1879年で年は16歳、それから36年明治陛下の御側へお仕え申しました。
一日中政務にお携わりになり、ずいぶんとお疲れ遊ばさるるにも拘わらず、夜分は私たちのために、読書の道、歌の道をはじめとして、フランス語にいたるまでも御教授下されました。
ことに私たち女官どもに乗馬の術をさえ、親しくお教え下されました次第でございます。
どんなことにも御堪能にましまして、どのようなことでもご存じ遊ばさぬというようなことはおあり遊ばしませんでした。
まことに生きながらの神様であらせられたことを、つくづくと拝し奉りました。
「誰が何をした」「誰々の性質はどうである」というようなことは、ちょうど鏡にうつした姿のようにはっきりと御承知であらせられました。
ある時のこと、私たち七八名のものが浜御殿に土筆を摘みに参りました。
これもやはり御諚があったからなのでございます。
その折、「今日は競争じゃ、一番多く摘ってきたものには、褒美を取らせる」
明治陛下のこの忝い御仰せに、私たちは勇み立って、終日春光を浴びながら楽しく摘りつくしたことがございました。
「競争じゃ」との仰せがあると、摘ること、摘ること、中には命がけで、まるで根つきの泥のままのものをも構わずに摘りつくして、竹長持を一杯にして持ち戻ったものもございました。
あの時その泥つきの土筆を御高覧遊ばされて、明治陛下にはひとしおの御興があらせられましたことも、今も目に見えるようで、まことに有難い楽しい思い出の一つでございます。
御承知の通り私たち御所のうちに朝夕を生活いたすものは、外の空気や日光に浴する機会が思うようにはございませぬ。
それをお気遣いになり、「今日は競争じゃ」「たくさん摘ったものには、褒美をとらせる」
この御奨励の大御言葉がかかるのでございまして、これによって私たち女官どもにも戸外の運動に努めさせ給うたのでございます。
何という洪大無辺の有難い御思召ではございませんか。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
権掌侍 吉田鈺子〈撫子の局〉
私は1887年から御所に出まして、28年間お仕え申し上げました。
私はよく御沙汰をこうむりましては大工のするような御仕事を致しました。
博覧会などでお買い上げの材木を賜りまして、「これで何々を作れ」と申されます。
一番たくさん作って差し上げたのが御手拭掛けでございました。
明治陛下は御承知の通り御肥満にいらせられたためよく汗をおかき遊ばし、常に御手拭でお拭いになりましたが、自然たくさんの御手拭が御入用であったのでございます。
それとても慣れぬこととて釘づけに致しますと、じきにグラグラになって役立たなくなります。
「また手拭掛けが壊れたぞ」と仰せになってはお笑い遊ばす。
いつもいつも大きな御声でよくお笑い遊ばしました。
御心配の多い戦時中でも、どうしてあんなに大きな御声でと思われるほどにお笑い遊ばしました。
御心配は御心配ながら、しかしそれに屈託あそばされぬ海のような御宏量、山のような御大胆、それがこの御笑声となって発露遊ばすのでございましょう。
その御笑声を聞くごとに私どもまでなんとも言えぬ心強さを覚えまして、我が大君のおはします限り戦争は必ず勝つものと心の中に固く信ずるようになりました。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
権命婦 樹下定江〈松の局〉
1887年18歳の時 大奥に奉仕しましてから、28年間御奉公申し上げました。
誰やらが冗談のように「明治陛下は老人と子供ばかりがお好きだ」と申しました。
腰も二重になりお勤めがかなわなくなりますと初めてお暇が出ましたが、隠居してから後も何かとお労りになりした。
御老人の方々が参内せられますと、明治陛下はそれはそれは御満足のようでございました。
足元のおぼつかないのを私どもが御手を引いて御前にまかり出たものでございます。
すると明治陛下は「おお、よく参った」と仰せられてニコニコしてお迎えあそばされ、それからなにくれとなくお労りの御言葉を賜るやらおすべりなどを下さるやら。
お若い頃は雪の日は何よりのお慰みで私たちが雪打などして御覧に入れましたが、お年召されてからは御寒もひとしおお感じになりますので300人ぐらいの除雪の人がみえました。
明治陛下はこの様子を御覧遊ばされまして、「寒い折りに気の毒な。何か温かい物をやれ」と仰せになられます。
温かい御茶と御菓子が出ました後で、竹の皮包みのおにぎりと玉子焼きを出すというわけで、大膳寮は大忙しでございました。
その除雪の人々が御庭のあちこちでおいしそうに頂戴しているのを御覧遊ばされて、またたいそう御満足のようであらせられました。
「この天皇様にしてこの皇后様、よくお揃い遊ばしたものよ」と私たち御側に奉仕する者は常々申し合って感激したことでございます。
明治陛下が表の御用多くしてお昼の入御がお遅くなられます時などは、私どもがお昼の御膳を持ちましても、
明治皇后様は「明治陛下が御国のためにお勤め遊ばすのに、どうして私が」と仰せになって決してお許しなく、たとえ3時4時になりましても明治陛下の入御になるまではきちんと御正座遊ばされ、神々に御祈念なされつつお待ち遊ばされます。
そうして明治陛下入御の後、はじめて御一緒に御膳におつき遊ばすのが常でございました。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
権掌侍 薮嘉根子〈紅葉の局〉
私が御所に上りました当時、私の世話親の典侍室町清子様〈紅梅の局〉や掌侍樹下範子様などから、明治大帝の御幼少の時の御事などいろいろ御伺い致しましたからまずそれを謹述いたします。
明治陛下はお小さい時から非常に勝気にましまして、稚児を相手に戦事など遊ばす際にも自ら木大刀をもって勇ましくお斬り合い遊ばし、決してお負けになるようなことはなかったと承ります。
したがっておいたもなかなか烈しく、ずいぶん女官の方々を困らせたそうにございます。
女官の後ろから水鉄砲で水をかけて驚かせたり、御呉服所の人々が楽しみにておて大切に御縁側にかざっておいた万年青の葉をハサミでちょん切って坊主にしてしまったり、御廊下はいつもおいたで大騒ぎであったと申します。
あまりおいたが過ぎますと、女官の方々がお稚児の私の兄実休をつかまえては叱られました。
すると兄は「夜になっても鳥を入れてやらないぞ」なぞと言って、なかなか素直でなかったそうです。
孝明天皇様御寵愛の鳥、それは駝鳥に似た恐ろしい鳥であったそうですが、夜分になって御小屋に入れますにはどうしても女官の手に負えないものですから、いつもお稚児の手を借りていたとのこと。
兄はその弱点を持ち出しては女官の方々を脅し、明治陛下の御指図に任せていよいよ茶目ぶりを発揮したらしゅうございます。
御生母中山一位の局様はずいぶんお厳しいお育て方を遊ばしたように承りました。
悪いことはビシビシとお𠮟りなり、どうしてもお用いのない時には御文庫の中へ入れ申してまでもお窘めになったようでございます。
もっとも明治陛下一人だけをお入れ申すということはできませんから、いつも兄が御供しては御文庫入りをしたそうにございます。
当時のお勤めというのがなかなか楽でなかったようです。
兄などは冬でも足袋を履くことを許されず、シモヤケが痛んでたまらなくなると、ようやくそのひどい方の片足だけお許しがでたというほどの御厳重であったように承りました。
侍医の方から御転地をお勧め申し上げるようなことがありましても、
「ワシの身体は若い時から鍛えた身体じゃ。寒いから暑いからと言って東京を去るようでは、しまいには東京に暮らせなくなるじゃろう。御歴代におかせられては、転地など決してなさらなんだ」と仰せられて、かえってお叱りをこうむったと承っております。
我が国の美風はどこまでも御保存遊ばすように御努力なされた明治陛下は、また一面世界の大勢に順応なさることをも決してお忘れ遊ばしませんでした。
女官の服装のごときも国交上必要とお認めの上は断然洋装にお改めになり、束髪の結い方・洋食の食べ方・礼式なども宮内省御雇のドイツ人モール夫妻にみなの者が教えていただきました。
御内儀の食堂で明治陛下がテーブルの席までも御指定になって、洋食の食べ方の練習もございました。
始めのうちはいろいろの失敗もございましたが、お陰様でだんだんと礼式にも慣れ、外人と会食もできるまでになりました。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
権典侍 小倉文子〈緋桜の局〉
明治陛下はたいそう動物をお愛しになり、ことに御犬がお好きでございました。
伏見大宮が御渡欧の時、御注文遊ばされた犬が5匹ありました。
そのうち2匹は新宿御苑にお預けになり、一匹は有栖川宮へ御下賜になり、二匹だけ御手元おお留めになりました。
そのうち御内儀にいたのが〈六号〉と申し、表御座所にいましたのが〈花号〉と申しました。
明治陛下崩御あらせられて後は六号・花号は昭憲皇太后様の御手許で御寵愛をこうむりましたが、六号は明治陛下の崩御の翌年に没しました。
花号は昭憲皇太后様崩御あらせられて後、私が頂戴いたしました。
しかしそれも心臓病のためこの世を去り、今は写真となって面影を偲ぶばかりとなりました。
2匹ともたいそう利口な御犬でありました。
夜分9時頃になりますと御道具掛の女嬬へとお預けになりますが、その退出時刻などもよく存じておりまして、その時刻が参りますと明治陛下に御挨拶をして自分から部屋の方へスタスタと歩いて行きます。
翌朝女嬬に連れられて参りますと、いきなり明治陛下の御側に走って行き、嬉しそうに御膝の上に手をかけて、牛乳を召上っていらせられる明治陛下へおすそ分けをお願いします。
明治陛下は御遠慮ないふるまいをニコニコして御覧になりながら、別の御器にお分け与えになるのでした。
また夜分御夕食の折りには、御膝元にいていろいろ御馳走を頂戴致します。
御所の梅の実が熟される頃になりますと、大膳寮から梅の実を採って明治陛下に差し上げます。
明治陛下はそれを女官たちにお分け下さるばかりか女嬬たちにもお下げになるのですが、女嬬の人々は直接頂戴ができませんから、高倉さんや私たちが縁側から御庭へと梅の実を投げます。
するとあちらの木陰、こちらの築山に隠れている女嬬たちが、思い思いの装いで御庭に現れ出て、それを拾うのでございます。
その仮装が面白いとて明治陛下にも明治皇后にもお笑いあそばされましたが、明治陛下には下々と違い御自由にお遊びに出でますこともありませんので、時折こんな御催をして御徒然をお慰め申し上げたこともございます。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
秩父宮雍仁親王
僕は一度も祖父明治天皇の肉声をうかがったことがない。
年に3回すなわち春秋と誕生日とに参内するのが例であって、その時にはお目にかかるのだが、御前に行って御辞儀するとかすかに御唇の動くような気はしたが、ついぞ御声は聞かなかった。
偽らないところは、怖い恐ろしいといったものであった。
祖父明治陛下にお目にかかるということが、当時の僕らにはこの上ない大事件であった。
何しろ参内する日が決まるとまわりの人も何かと心配し、なんと御挨拶すべきかというようなことまでいちいち注意するのだから、孫が祖父の家に遊びに行くというふうななごやかさは微塵もなかったわけだ。
やがて侍従に導かれて明治天皇の御前に幾。
あまり明るくない室に大きな机を前にして、あの肋骨の黒い軍服で明治陛下は立っておられる。
カーキ色の軍服は観兵式などに行幸の時、赤坂の通りを馬車で通られる折に見上げるぐらいのものだ。
僕らは廊下から数歩御部屋の中に入って御辞儀をする。
そして予定の御挨拶を述べる。
正味一分ぐらいだろうが、もしも一言でも何かおっしゃったら、僕は泣き出したかもしれない。
明治陛下とは一度も食卓を囲んだことはない。
宮城で祖母上〔昭憲皇太后〕と会食するのは決まって大演習の御留守で、その時は母上も叔母上方も一緒であった。
祖母上に対しては少しも遠慮を感じなかった。
キセルは祖母上につきもので、いかなる所へでも喫煙セットがついていく。
祖母上は絶えずニコニコして、僕らの勝手放題に騒ぎまわる様子をキセルで煙をふかしながら見守っておられるのであった。
もう崩御だということを聞かされた。
内謁見所のところまで行くと、叔母上方が縁に椅子を出し、眼を泣きはらしておられた。
僕らが側に行くと、「おじじ様はとうとうお亡くなりになりました。おじじ様のような立派な方にならなくては」と言葉もとぎれとぎれに慰めかつ励ましてくださった。
熟睡中起こされて興奮していたのか、死という不思議なことに初めて直面してショックが大きかったのか、この場の光景は今でもまざまざと頭に刻まれているのに反し、その後のことは全然記憶がない。
御遺骸に御辞儀をしたことすら。
しかしその日家に帰って次のように侍女に語っている。
「おばば様が白い布を取ってくださったの。『お忘れにならないようによく御顔を覚えておいで遊ばせ』とおっしゃったのだけど、悲しくてよく拝見できなかったの」
こんなわけで一口に言えば、明治陛下には肉親的な思い出はほとんど何一つないと言ってよい。
後に明治天皇が怖かったと言うと、よく母上〔貞明皇后〕は「おじじ様は宮さん方のことを心にかけておいでにならないどころか、参内してお会いになるのを大変楽しみにしておいでになりました。奥(明治皇后様)からおいただきのオモチャなど、おじじ様の実に御心のこもったものも少なくなかったのです。おじじ様はなかなか細かく御気がつくので、たた(母)に対しても、折に触れて反物など御自分で柄までお選びになって下さいました」と話された。
どうもそのオモチャとあのいかめしい御顔の祖父上とか結びつかないのであった。
僕らをそれほど可愛いと思って下さるなら、なぜもっとその御気持を直接に表して下さらなかったものか。
もっと打ち解けておばば様が僕らにされたようなことを、一年に一度くらいはして下さってもと思わないわけにはいかぬ。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
●明宮 嘉仁親王 123代大正天皇
●常宮 昌子内親王 竹田宮恒久王妃
●周宮 房子内親王 北白川宮成久王妃
●富美 宮允子内親王 朝香宮鳩彦王妃
●泰宮 聡子内親王 東久邇宮稔彦王妃
当時4人の内親王と年齢が釣り合う皇族男子は年齢順に、
竹田宮恒久王・北白川宮成久王・有栖川宮栽仁王・朝香宮鳩彦王・東久邇宮稔彦王の5人であったが、有栖川宮栽仁王が早逝したので残りの四人と結婚となった。