◆123代 大正天皇/嘉仁親王 122代明治天皇の子
1879-1926 47歳没
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西園寺公望公爵 総理大臣
大正天皇が御年少の時の話だが、伊藤博文公爵の別荘に来られたことがあった。
網を打って御覧に入れた際、
「これはここの浜で獲れました」と魚を持って来て御披露申し上げたところ、
お随きして行った者の中にはこんな浜では獲れやしないと思っておかし気に振る舞った者があったが、
大正天皇は「主人がこれをここで獲れたと言うのだから、ここで獲れたでいいじゃないか」と言っておられた。
誠に聡明な方であった。
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権命婦 樹下定江〈松の局〉1927年
大正天皇様は申すも畏いことながら、御幼少より御健にましまさず、明治大帝はもとより御側の方々も一方ならず御心配申し上げ、朝夕神仏に御成長をお祈り奉ったほどでございました。
御大患御本復の御祝の際には明治大帝は御心から御満足そうに御酒を召し上り、畏くもお嬉し涙さえ拭われつつ、
「これでわしも安心した。あの人に万一のことがあったら国民に対しても相済まぬわけで本当にどうしようと思ったが、まあめでたいことじゃ」とお漏し遊ばすのを承り、まことに畏れ多く思ったことがございます。
その後 御成人とともにますます御健康にならせられ、ついに東宮妃をお迎え遊ばす佳き日が参りました。
その折りの明治陛下の御満足と申せば、いままでかつて拝し奉ったことのないほどでございました。
皇孫殿下すなわち昭和天皇の御降誕のお喜び、それも拝察するにあまりあります。
御安産のお知らせの後は一日も早く皇孫殿下の御顔を御覧遊ばしたい御様子にお見受け申しましたが、初の御参内は御産服と申して30日間は御遠慮になりますため、その日をどんなに御待ち受けあそばしたかわかりません。
まるまるとお太り遊ばされた皇孫様が賢所の御拝を済まされ御内儀で御対面遊ばされるその日の大内山は、本当に瑞気のたなびくを覚えました。
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近衛兵 伊波南哲
大正陛下はフロックコートに山高帽といういでたちで4~5人の侍従に支えられて御姿を見せ、間断なく頭を上下に振りながら始終ニコニコしておられた。
このたびの関東大震災の御衝撃で、いよいよ御病勢が御亢進遊ばされたと漏れ承る。
あの御不自由なおいたましい御姿を拝し奉って、大正陛下の股肱の臣としてのわれわれ軍人は、いかにして一天万乗の御宸襟を安んじ奉ればよいのか、断腸の思いがする。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人
大正天皇は金口のエジプト煙草か葉巻を相当お喫いになった。
貞明皇后は細巻の金口煙草をお好みだった。
大正陛下は玉突がお好きで、女官なども御相手した。
明治陛下はことに乗馬がお好きであったが、大正陛下は馬はあまりおやりにならなかったのではないかと思う。
ふだん大正陛下がお乗りになっているのを、私はお見かけしたことがない。
明治天皇が崩御になって大正天皇が御位につかれたその直後、宮内省から私たち仕人に次のような訓示があった。
「大正陛下は誰にでも気安く話しかけられるから、仕人は決して大正陛下の御前に姿をお見せしてはならぬ」
私が最初に大正陛下の供奉をしたのは、明治陛下の御大葬が青山で行われた夜であった。
深夜に青山から半蔵門までを馬車でまっしぐらに駆けて行った時の光景がありありと瞼に浮かぶ。
真夜中であたりがシンと寝静まっている中を馬蹄の音がカッカッと強く鳴り響いた。
沿道には拝観の人影がかすかに見える。
馬車は全速力で飛んで行く。
危なくてしようがない。
私は馬車の上から人影に向かって 、「どけ!」「どけ!」と怒鳴ったのを今でも覚えている。
私はあの時 初めて大正陛下の御気性の一端に触れたのであった。
大正陛下は御乗物を早く駆らせて喜ばれるという無邪気なところがおありになった。
軍艦に乗られても「もっと速力を出せ」と命令されるので困ると海軍の将校から聞いたこともあったが、あの御大葬の夜は大正陛下御自身が主馬頭の藤波言忠に向かって、
「御所まで何分で帰り着くことができるか」と御下問になっているのをちらとお見受けしたのを覚えている。
その結果があの馬車の疾駆となったのであった。
御幼少の時、植木屋が桜の木を切っているのを大正陛下が熱心に御覧になっていた。
大正陛下は何本かの大きさの違った桜を指差され、御供の者に「それぞれ種類の違ったノコギリで何分で切ることができるか」とお尋ねになったので、御供の者はお答えができなくて弱った。
すると大正陛下は「これは何分、あれは何分」と一々御説明になったので、植木屋がきっているのを御自分で時間を計っておいでになったことがわかって謎が解けたことがあった。
また御幼少の頃 沼津で山中を御運動の際、大正陛下の御足があまりに早いので侍従がついて行くことができずに、とうとう大正陛下を見失ってしまった。
それからいくらお探ししても大正陛下が見つからず、ついに夜になってしまった。
供奉の者が青くなって大騒ぎをしたのはもちろんである。
するとひょっこり大正陛下が犬を一匹つれてお帰りになったので、ようやく一同胸をなでおろしたということがあった。
こうした御幼少の頃の話にもうかがわれるような御性質、ちょっと人を困らせてやろうといった王者の無邪気さや、それもどこか神経の鋭敏さの見えるやり方は大正陛下が御成人になられてからも随所にのぞかれたのであった。
ある時 御運動で養鶏所に行かれた。
係の者がお喜びになるようにと思って鶏小屋に卵を入れて置いたのであるが、大正陛下はそれを御覧になって「鶏というものは日付の書いてある卵を産むものなのか」と言われたので、係の者が恐縮したことがあった。
当時養鶏所で産まれた卵には一つ一つ何月何日の日付印が捺してあったのであるが、それをうっかり係の者が置いておいたのである。
また大正陛下は大勢の者が集まるところで御自分の御存知ない者がお目にとまると、必ずその人について御尋ねがあり、どこの者か・今何をしているか・親はいるのか・子供は何人あるのかというふうに詳細を極めたものであったので、御付の者がしばしがその人の所に何回も往復してお答えするという具合であった。
毎日の日課である御運動には必ずブランデーを持ってゆかれたもので、御自分でもよくお飲みになったが、侍従も御相手をさせられた。
そして侍従を酔わせてお楽しみになるというふうだったので侍従の方でも困ってしまって、しまいには大膳職の方であらかじめ麦茶をブランデーの瓶に詰めておいて侍従の方にはその麦茶を注ぐようにした。
それからは侍従がなかなか酔わない。
敏感な大正陛下もさすがにこれだけはおわかりにならなかったらしく、「お前はこのごろずいぶん強くなったな」などとおっしゃったそうである。
大正陛下が御不例になった年の夏には、私も大正陛下の供奉をして日光御用邸へ行っていた。
ある日大正陛下は御運動で日光山から御霊屋に回られて、その途中御脚に神経痛を御覚えになり、石段を御降りになることができず、侍従徳川義恕に背負われて降りてこられた。
その年の暮 葉山に行幸になったが、そこで御病状がさらに悪化し、激痛のため脳症を起こされて、翌年から健忘症におかかりになったのである。
大正陛下は御自分の御身体については神経質なほど気をお使いになっておられた。
大正陛下は御病気後、いっそう神経質になられた。
御運動の際に侍従がリンゴを差し上げると、そのリンゴが新鮮であるかどうか侍従にお尋ねになったので、侍従が新鮮であることを申し上ると、重ねて「誰が食べても当たらないか」と念を押されるので、当らない旨をお答えすると、初めて御安心の御様子で、しばらく一同を見回してからお気に入りの一人にそのリンゴをお与えになったという。
その時には神経痛もよほどお悪く、手の指を自由にお曲げになれないので、侍従が手のひらにリンゴをお乗せして、それから一本一本指を曲げて差し上げた。
このように大正陛下は陰ひなたある者や作為を極端に嫌悪されたが、後に大正陛下の御病気が進むにつれて、それがむき出しの嫌悪の感情になって表れたのであった。
大正陛下が御病気であるということから女官の中にはうかうかと陰ひなたの行動をする者もあったわけだが、大正陛下にはそういう行動が敏感におわかりになったらしく、そういう女官が御靴をおそろえした場合などは、大正陛下は決してその靴をお履きにならなかった。
崩御の前年になるとすっかり御脳にきてしまい、ひどい健忘症におかかりになったのである。
それでも運動をしなければ御身体に悪いと御考えになっていた御様子で、よく廊下を歩いておいでになるのを御見受けした。
廊下を御歩きになりながら、御自分の気をひきたて鼓舞するようによく軍歌を唱われた。
その軍歌は決まってあの「道は六百八十里」というのであるが、健忘症にかかっておられたから、「道は六百八十里、長門の」とまで唱われてもその後をどうしても御思い出しになれない。
それでまた「道は六百八十里、長門の」とお唱いになる。
それをしょっちゅう繰り返されながら、力づけるような御様子で大正陛下が廊下を歩いておいでになる。
その御姿を拝して、私はなんとも言えないおいたわしい感じを受けたものであった。
当時葉山の御用邸には九官鳥を飼ってあったが、その九官鳥がいつしか大正陛下の「道は六百八十里」を覚えこんでしまって、大正陛下が唱っておいでにならない時でも森閑と静まり返った御廊下で「道は六百八十里」とひとり唱うので、女官などはよく大正陛下とお間違えした。
当時御用掛をしていた稲田・三浦・平井・青山など当時における内科医の権威たちが拝診したのであったが、御容態は非常によろしい、万々歳であるという結果を得て大正皇后に言上したのであった。
各博士とも葉山を引き上げ、東京に帰ってしまったのである。
ところが翌日から御病状が急に変わって大騒ぎとなった。
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久世通章子爵の娘久世三千子→山川黙の妻山川三千子 明治天皇の女官〈桜木の局〉
大正陛下はただ一筋に御両親陛下を御尊敬になっておりましたので、
「私を生んだのは早蕨〔早蕨の局・柳原愛子〕か。おたた様から生まれた大清(おおぎよ)だと思っていたのに」と仰せられ、大変残念がっておいでになっとか承りました。
つまり臣下からお生まれになったのが、おイヤだったのです。
明治陛下は御体格も立派であったし、落ち着きはらって堂々とした御態度は、外国使節などからも尊敬されておいでになりました。
けれど外人との御交際はあまりお好みにはならないようで、
「秋の観菊会は、大演習の留守中に皇后さんだけで済ましてもらうよ」などと仰せになっておりました。
1911年の秋は福岡県下で大演習が行われましたが、そこからお帰りになったある日の御食事中、
「わしは京都で生まれたからあの静かさが好きだ。死んでからも京都に行くことに決めたよ。今日侍従長徳大寺実則を呼んでその話を始めたら、
『そんな話はまあまあ』などとなかなか聞かなかったけれど、
『人間どうせ誰でも一度は死ぬものだ。あの皇太子〔大正天皇〕では危ないから、何もかもわしが定めておくのだ』と無理矢理聞かせたが、大演習の帰りに汽車の窓から眺めたら御陵にちょうどいい場所が京都にあって、少し離れて小さめの山と二つ並んでいる。小さい方は皇后さんが入るのだよ」と御話になっているのを御配膳しながら承りました。
それが桃山両御陵でございます。
「今は何でも外国使節が出て来るが、東京の式だけは仕方がないとしても、それが済んだら後は日本人ばかり、ことにわしのことをよく考えてくれた人を主として京都で昔風の葬儀をするのだ。もし外人が送ると言っても、名古屋から帰ってもらうんだよ」などと細々の物語を遊ばしました。
侍従長米田虎雄についてはいろいろな思い出話がございます。
明治陛下が崩御になりましたとき御枕元においでになった皇太子様〔大正天皇〕が、お水をお上げになるのに勝手がお分り遊ばさないのか物怖じしたようにぐずぐずしておいでになりました。
御様子を拝見していた米田侍従は「殿下」と一言叫ぶと同時にすっくと立ち上がり、後ろから皇太子様の御手を持って明治陛下の御口に水を差し上げました。
各皇族・各大臣以下並み居る人々が皆ハッとしてこの様子を見ておりました。
また大正陛下は言上があまり長くなると御退屈で椅子からお立ち上りになるので、それを防ぐために米田侍従が後ろから御上着をしかと押さえておりました。
何をしても誠意から出る頑固さで誰からも好感を持たれ、本当に気概のある痛快な人でした。
11月23日は新嘗祭。
御輿を担ぐのは八瀬の童子といわれて、京都の八瀬村から召された体格のすぐれた仕人で、その人たちが奉仕することになっておりました。
同じ八瀬童子たちが新帝様〔大正天皇〕の御輿を担ぎましたので、
「明治陛下は御身体が大きくて重かったでしょうが、新帝様は軽くて楽でしょう」と聞きますと、
「明治陛下は重くてもちっともお動きにならないのでよかったが、新帝様はひょこひょこお動きになるので危なくって困ります」と答えたとやら聞きました。
大正陛下は議会に行幸の時、御手元にあった勅語の紙をくるくる巻いて会場をお眺めになったとやらは有名な話になってしまいましたが、姑〔元女官山川操〕と共に叔父山川健次郎男爵の宅に参りました節にも、実際に拝見した健次郎が姑と話し合っているのを聞きました。
しかもこんなことまで明治皇太后〔昭憲皇太后〕の御耳に入っておりましたのですから、明治陛下崩御後はなかなか御心配が絶えませんでしたろうと存じます。
御参内の時に明治皇后様の御機嫌伺にお通りになった東宮様〔大正天皇〕が、御自分の持っておいでになった火のついた葉巻を私の前にお出しになって、
「退出するまでお前が持っていてくれ」との仰せ。
やむを得ず「はい」とお受けいたしましたものの、並み居る人たちから冷たい視線を浴びせられて身のすくむ思い。
紫たなびく煙をうらめしく眺めておりました。
何でもないようなことでさえ、とかく男の人が相手となるとうるさい世界なのですが、それが皇太子様とあってみれば、知らん顔でそっぽを向いているわけにもいかず、何とかお答えも申し上げねばならぬ次第でございます。
〔明治天皇崩御後〕新帝様〔大正天皇〕は青山御所から毎日宮城に出御、新皇后様〔貞明皇后〕も始終おいでになるので、それまではあまり顔も知らなかった東宮女官たちとも度々出会い御話もするようになりましたが、何かと全体の風習が違うらしく、大正皇后のピアノに合わせてダンスなどしていられたとか聞く通り、みななよなよとしたいわゆる様子のいい方ばかり。
それに引きかえこちらは力仕事などもする実行型といった人が多く、ちょっとソリの合わないような感じを初めから受けました。
ある時 御廊下を歩いてまいりますと、新帝様にばったりお出合いいたしました。
頭を下げて御通過をお待ちしておりますと、お立ち止まりになった新帝様は、
「お前は絵が上手だってね」と仰せられる。
「いいえ、そんなことはございません」
「では、何か歌がうたえるだろう」
「まことにふつつか者で、何の心得もございません」
「自分の写真を持っていないか」
「一枚も持ち合わせておりません」
と、一歩一歩後ろに身を引く私、新帝様は一歩ずつ前に進んでおいでになる。
困ったことになったと振り返って見ると、ちょうど廊下の御杉戸の前でした。
すばやくこの戸を引き開けて身を入れると、深く頭を垂れました。
そのとき御供の侍従が来ましたので、そのまま御通過になりました。
まだ胸のドキドキしているのを感じながら席に帰ってまいりましたが、口うるさいこの世界のことですもの、度々こんなことに出合ってはどんな噂をされるかわかりません。
その頃から人員整理の噂が口々にのぼるようになりました。
整理されるぐらいなら自ら辞して生家に帰ろうかしら、しかし別に結婚するいい相手があるわけでもなし、また日夜おさびしそうな昭憲皇太后様の御様子を拝見しておりますと、たとえ何のお役に立たなくとも及ぶ限りはお慰め申し上げよう、だが新帝様の方へは絶対に行きたくないと思いました。
そのうちとうとう恐れていた時が参りました。
早蕨の局〔大正天皇の生母柳原愛子〕が、
「あなたも薄々は知っておられるでしょうが、いずれ人員整理がございますから、新帝様の方へ勤めれば一家一門の光栄はもとより、あなたの身にも箔がつくというものですから、そのように手続きを取ってあげましょう」と。
「それは誠にありがとうございますが、今しばらく考えさせていただきます。親たちにも相談いたしたいと存じますから」と答えました。
早蕨の局は「ああ、さようでございますか」とあまりいい顔はなさいませんでした。
実にこまりましたが、そう長く黙っているわけにも参りませんから、数日後意を決して早蕨の局に申しました。
「今まで通り昭憲皇太后様にお使いいただくなら奉職いたしたいと存じますが、こちら様に御不用ならば生家に帰らせていただきます」
「ああ、あなたはそうのようにお考えですか。では、何とでもおよろしいように」といかにも冷ややかな言葉、だいぶ立腹された様子でございました。
今まであんなに面倒を見てあげたのに、自分の顔をつぶしたと思っていられたのでしょう。
公私ともにいろいろと御世話になったのは十分感謝しているのですが、それとこれとは別の話で同一に考えられてはこちらもいささか迷惑でございます。
宮中でも有力なこの人をこんなに怒らせては後はどう出られるかわからないのですが、それもやむを得ないので、すべては成り行きに任せようと決心しました。
弟の侍従久世章業が「ちょっと京都まで行きますが、何か御用はありませんか」と言いますので、
「何をしに行くの?お暇をいただいたのですか」
「いいえ、勅命のお使いです。先日お姉さんは大正陛下に写真は手元にございませんと御返事されたでしょう。だからそれを取りにいくのです。なるべく小さい時のにしましょうか」
「そうね。13歳以下のものがたくさんありますよ」と言って別れました。
大正陛下ははよく誰にでも写真をと仰せられて、御手元にはだいぶ女の写真もお持ちになりましたのです。
写真をお集めになるのは一種の癖とは思っておりましたが、何か晴れきらぬ心は自分ながらどうしようもありませんでした。
なぜそうまで御心におかけ下さるのか、どうもちょっと。
やがて宮城には新帝両陛下〔大正天皇夫妻〕が、昭憲皇太后様は青山御所にお移りになりました。
宮城にお移りになってからも、新帝様はよく青山御所へおいでになるのです。
すると必ず私を御召になりますので、はじめのうちは我人ともにあまり気にもかけなかったのですが、姿の見えない時までも必ず名指しで御召になって何かとお話かけになるので、いささか迷惑に思う時もございましたし、新帝両陛下おそろいでおいでの時などはちょっと困るような場合もあります。
そばにいる同僚たちから、
「ちょっと、大正皇后様〔貞明皇后〕のお御顔をご覧なさい」などとささやかれると、それでなくてさえ大正皇后様が、
「あの生意気な娘は、私は大嫌いだ」とおっしゃったとやら、聞かせてくれた人もございましたので、なんとも引っ込みがつかないのでございました。
昭憲皇太后様と御一緒の時でも、
新帝様は「今日は歌を教えてあげるから一緒に歌いなさい」などと調子はずれの大声でお歌いになったりするので、
昭憲皇太后様は「こちらではそのようなことを致せませんから、あれにはできませんでしょう」といつもお助け下さるのでございました。
こうしたことが度重なるにつれてただ御冗談ばかりとも思えず、人の噂もやかましく何とかしなければと考えるようになりました。
もしも新帝様が「こちらに寄こせ」などと御言葉にお出しになれば、鶴の一声でどんな理由があろうと絶対に動かせないあの時代の掟なのでございますから、皇太后宮大夫香川敬三も頭を悩まし、病気欠勤ということになりまして、
「新帝様おいでの時は出勤しないでよい」と申し渡されました。
香川大夫は「万一にも病気ということで差し支えが起こったら、私と侍医が証明するから」とまで言って下さいました。
大正陛下御大患と承って、婚家の母〔元女官山川操〕は取り急ぎ葉山御用邸に御見舞に参殿、いろいろと御様子を伺って参りました。
「この次に伺う時は一緒に出ましょうよ。大正陛下はお分りになるかどうかわかりませんが」と言っておりましたが、その時もまだ来ぬうちに崩御になって宮城にお帰りになりました。
常日頃 御内儀ではあまりなにごとも思召のようにならず、時には御不満の御様子などもあるとやら、うすうす承っておりましただけに、いとど御同情申し上げてはおりましたが、こんなにお若くて崩御になろうとは夢にも思っておりませんでした。
姑〔元女官山川操〕は大正皇后〔貞明皇后〕が妃殿下として御入内の節 宮城からの御使として九条公爵家までお迎えに上ったという特別な御間柄にもかかわらず、大正天皇崩御後宮城に出た姑は申の口の上までも上がらせられず下から遥拝させられたとか。
さすがの姑もいささか心良からず思った様子で帰って来ての話に、ああ私など御見舞にも上がらないでよかった、出て見たとて恥をかくぐらいのもの、遥拝ならどこからだって同じことです。
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梨木止女子→坂東長康の妻坂東登女子 明治天皇・大正天皇に仕えた女官〈椿の局〉
大正陛下は昔からの明治様の仰せになるような言葉で仰せになった。
昭和陛下はいくらか大正陛下にお似ましのようですね。
秩父宮様は下方にお成り遊ばしてるので、兵隊の中で揉まれてござるわね。
一般の人にふさわしいような、近いような御言葉ですわね。
今の東宮様〔平成天皇〕は余計もう、さばけておいでになる。
それにお付きしてる人がみんなそんな粗雑な言葉を使うので。
大正陛下は昭憲皇太后様のことを御大事に遊ばして、御自分さんのおみ足がお悪いのに、御自分さん後ろ向きに御階段の御下にお下がり遊ばして、御手々をお持ち遊ばして、
「お危のうございますよ、お危のうございますよ」と仰せになって、お労り遊ばすんですよ。
昭憲皇太后様は御涙をためて「恐れ入ります」と言わしゃって、ほんとにお美しいですね。
拝謁は朝の御膳がお済み遊ばしてからでなきゃ拝謁願わんことにしてますが、それでもお昼御膳の時なんかでも御覧物が上がるでしょう。
そうすると御膳途中でも出御になるんですの。
普通の人ならここへ持ってこいって言うようなもんですけどね。
ところが大正陛下はいちいち御学問所までお出ましになる。
途中ですっとお立ち遊ばして、13段も17段もある段を下りたり上がったり遊ばすわけ。
大正陛下は「国のことだからな、時間は言っておれんよ」って仰せになる。
だからお昼の御膳でも一時いっぺんで召し上がったことないですよ。
そいで私たちもむろん一度で御飯食べたことない。
大正陛下は普段は夜の12時まで御勉強ですよ。
御書をお読み遊ばしたりね。
そのあいだ大正皇后様は御歌を遊ばしたり、いろいろ御書をご覧遊ばしたりしておいでになる。
大変な御勉強家でした。
大正皇后様はおつむ〔頭〕がすごくおよろしいのに、大正陛下はまたもう一つお賢かったもんで、大正皇后様が追いつけんとおっしゃったくらい、大正陛下は天才的っていうんですかね。
あんまりおつむさんが良すぎて、御身体がお弱くあらしゃったんだと思いますよ。
お弱さんで幼さんの御時分からみんなが御心配申し上げたもんでそれがお嫌いで、お風邪さんでもね御鼻をおかみになるということはない、ハンカチで吸い込ませるようにしておいでになる。
お気が強くてね、「言うなよ、風邪って言うなよ」って仰せになる。
みんな存じ上げてござっても黙ってることにしました。
「内緒にしとけ。みんなに心配かけるから」っておっしゃって、お優しいことでした。
お好きさんはお馬、御乗馬でした。
新聞は端から端まで御覧遊ばすんですよ。
大正陛下の方は四紙ぐらい上がって、大正皇后様の方も四つぐらい上がるんですよ。
私たちは世間の話もあんまりわからんもんで、馬鹿みたいなこと言うとお笑いになる。
大正陛下も大正皇后様も私たちより下々のことよく御承知ですよ。
大正陛下はとってもお茶目さんでしたよ。
写真を撮るいうたら、おかしな百面相みたいなことしてお笑わしになるんですよ。
わたしくなんぞ写真を撮ろうとすると、大正陛下が向こうでこんな格好するんで、わたくしこんなして笑ってるとこ写ってる。
ひょうきんな御方さん。
まあよう、おいた遊ばしてね。
御散歩にはお犬さんがたくさん御供するの。
それでね、わざとね、御階段のとこの駒寄せを開きっぱなしに遊ばして追い込み遊ばすもんで、犬が御座所を走り回るんですよ。
たくさんの犬、女官が困るのがね、それが面白い。
わたくし達ワアワア騒ぐだけで、御座所を通り抜けることができんでしょう。
大正陛下は御菓子を女官に御下賜くださるのがお楽しみでした。
あんまり下さったりすると大正皇后様は御目々近目だもんで、こんな目して御覧遊ばされるから、
「大正陛下、もう結構でございます」って言って逃げて行くようにする。
大正陛下は逃げて行かんようにギューッと手を掴んでならしゃる。
わたしく始めはね、奥で大正陛下の権典侍をすることに決まってた。
大正皇后様が御反対で、御遠慮して命婦にしていただいたんです。
大正陛下は私の姿が見えたら「お皿持ってこい」と仰せになる。
お皿をお持ちすると手をガッとお掴みになって、御自分さんの側から逃げていかんように押さえてならしゃるんです。
そうすると大正皇后様はあの近目さんだもんで、こう変な御目々で御覧遊ばされるんですね。
一時はちょっと御機嫌が悪うて、ちょっとヒステリーみたいにおなり遊ばしたことあるんですよ。
それでわたくしは御給仕の時はなるべく陰へ陰へ行くようにしてるんですが、わたくしは、いるが忠義か、いないが忠義かと思ってずいぶん悩みました。
おクッションでも大正皇后様はちょっと御手々が荒くて、わたくしが上げれば大正陛下は黙って座ってらっしゃる。
そいで「節子、いいよ」って仰せになるんで、よけい御機嫌が悪うなる。
大正皇后様は少々御膳がお早いなと思ったと思った時は御機嫌が悪い。
「さ、行こ」と仰せになって玉突き所へおなりになるんですけどね。
大正陛下は玉突き所でもわたくしを召されて、追っかけてテーブルの周りをお回り遊ばされるんで、しまいにはシャッと下へ入って向こう側へ逃げる。
そうでないと頬をベチョベチョお舐めになるんが、気持ち悪うて気持ち悪うて。
それで大正皇后様は更年期障害があらしゃる時分、ちょっとお気違いさんみたいにおなりになったみたい。
東宮様〔昭和天皇〕摂政にお立ちになったのは関東大震災の後ですね。
御命が短うてもええから摂政せずに御代のままでっておっしゃる方と、それよりかゆっくりと長生きおさせした方がええとおっしゃる方と二派に分かれまして。
東宮様が摂政宮様におなり遊ばされてからは、あちらの侍従が馬鹿に権威をふるって。
こんなことなら御命短うても御代でならしゃっていただいたら良かった、御隠居さんみたいに押し込め奉って。
大正陛下は夜中でも御覧物が上がってるから着物を着替えると仰せになってね。
「ただいまは摂政宮様がお立ちであらしゃいますから御安心遊ばして」って申し上げると、
「ああ、そうだったな」っておっしゃってね。
御寝なさってても御政務がお気になった御様子でした。
大正陛下の御病気が悪くなったんは、日光御用邸に行く前年からですね。
大正陛下はそれからお持ち直しになって日光に行幸になり、またお悪くなって葉山御用邸に行幸になったんです。
大正皇后様は御反対でも何ともしようがありませんでした。
御自動車を召さすとき、「イヤ」と仰せになった。
自動車の中では兵児帯で御椅子にお結きしたんです。
そうしなきゃ、シャンと遊ばされん。
そんなにしてまでお連れ申さなならんのか、侍従さんもみんな反対。
「今度は最後の行幸だからそのつもりをしなさい」って大正皇后様も仰せになって、喪服のこととかみんな御注意でね、宮様の喪服もみんなちゃんと御用意して行ったですね。
途中でもしものことがあったらというので、お気に入りの黒田侍従が御陪乗で、注射器持ってらっしゃったですもんね。
私たちも注射差し上げられるようにちゃんとしました。
御側に御注射器を揃えて、消毒して御戸棚にみんな入れて用意してましたね。
葉山の御用邸は三笠宮様がおややさん〔赤ちゃん〕の時にできた御別邸ですもんで、御殿としたら狭い狭いところです。
酸素吸入だっていちいち東京まで取りに来んならんでしょうが。
そんな御不自由しなくたって、御所に御寝ならしゃったら、もっと御手当がちゃんとできたでしょう。
大正陛下は御舌が楽に動かない、御舌がもつれる。
とにかく気持ちが悪いから、舌をお噛み遊ばしましたよ。
こうやってクッってね、御舌を歯でお嚙みになって。
大正陛下が御異例さん〔御病気〕の時分も、ちょっと舌がもつれて仰せにくくなった時があったもんでね、こちらで御様子をうかがって先に申し上げると「アッ」〔そうだ〕と仰せになるんで、
ついやっぱり「椿を呼べ!」って仰せになるわけですね。
日光御用邸ではあんまりベルをお鳴らしになるので、みんな大正皇后様の所へ聞こえるでしょう。
「また椿を御召になる」というわけで、大正陛下の御用を済ませて戻ってきたら何だか御機嫌が悪い御声がして、女嬬が「いま行き遊ばすなよ」ってみんなでかばってくれて。
そのくせ大正皇后様の御用やれば御機嫌がおよろしいんですね。
あんなに恐ろしいことおっしゃっていたお御口で、本当に舐めるように優しい御言葉をくださるんです。
もう涙が出て、御側に出られなくなるんです。
大正皇后様は崩御になるまで御召もお解き遊ばす間もなしで、御側を離れずずっとおつき遊ばしてました。
最期に大正陛下の血行が悪くおなり遊ばして耳たぶが固くなりました時に、大正皇后様がお気づきになって、「御耳が少しお固めにおなり遊ばしてるで」って仰せになりました。
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『高松宮日記』
人の死に直面したのは、おもう様のおかくれになった時。
午後侍医頭や侍医がずっと並んで、御廊下の外に侍従や武官がずっと控えたことがあったが、その時はそれなりに解散した。
そしてその夜にまた並んだ時におかくれになった。
お水をあげてから、八代〔侍医八代豊雄〕がおつむを持ってあげた、御目の上にガーゼをかけた。
昭和陛下が手を御合せになって拝んでいらっしゃったのを、まことに不思議のように拝した。
あの宵のうちだったろうか、痙攣の御足を押えて、その時もおたた様はすぐに手を洗うようにおっしゃったので洗った。
風と雪がただごとならず、外の様子を見た。
その数日前だったか、おぐしがとても臭かったことがあった。
いや、おかくれの日だったかもしれぬ。
御枕上に行っておつむを押えるのがなかなか臭かった。
本当にすすいであげたかった。
一度下がって出た時にはもう何ともなかった。
その時も昭和陛下が押さえて下さっていた。
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■妻 貞明皇后 九条節子 九条道孝公爵の娘
1884-1951 66歳没
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岡部長章『回想記』昭和天皇の侍従
宮内官には伝染予防規定というものがありました。
制定されたのは大正皇太后〔貞明皇后〕がチフスになられたのが原因と入江侍従から聞かされました。
大膳の方から大宮御所へも人が詰めていて、大膳の係がいろいろ作っていたのです。
だからチフスになるのはおかしいというので侍医がいろいろが調べてみると、大正皇太后は五摂家の九条家のお生まれで早くから東京府下の農家に里子に出され、その時からお好きなものがあるのです。
それを女官が魚河岸で買ってきて、お側で作って差し上げるのがお楽しみで、この女官奉仕のことを「お清流し」と申したそうで、「お夕食はお清流しで…」という言い方をしていました。
そこから黴菌が入ったので、それをおやめになるように願いを、同時に伝染病予防規定ができたそうです。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人
中年以降の大正皇太后〔貞明皇后〕は落ち着いた気品のある態度を持っておいでになったが、御運動の時など吹上御苑から本丸の方にまで歩いておいでになって、属官などは途中で疲れてしまいずっと遅れてから行き着くこともあったが、そういう時など「男子のくせに」と一本釘を打ってお笑いになった。
大正皇太后にはどこか勝ち気でさっぱりしたところがおありになったようにお見受けした。
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久世通章子爵の娘久世三千子→山川黙の妻山川三千子 明治天皇の女官〈桜木の局〉
貞明皇后は個性の強い方でございました。
また、秩父宮を特に愛しておいでになったのは事実です。
大正陛下を失われてからの貞明皇后は、まるで黒衣の人と言われてもよいような黒一色の生活をされ何がためとありましたが、その謎はやはり御自分の心だけが解かれるものでしょう。
「御賢明にわたらせられすぎて」と嘆いた人もあったとか。
亡き大正陛下を偲ばれる時があるなら、ふと浮かぶ懺悔の御心持がなかったとは申せませんでしょう。
天皇があられたらばこそ、皇后になれたのですから。
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*貞明皇后は自分と同じ誕生日の二男秩父宮を溺愛した。
*三男高松宮より10歳年下の四男生まれてからは末っ子三笠宮を溺愛した。
●迪宮裕仁親王 昭和天皇 久邇宮良子女王と結婚
●淳宮雍仁親王 秩父宮 会津藩主松平容保の孫/外務官僚松平恒雄の娘松平勢津子と結婚
●光宮宣仁親王 高松宮 将軍徳川慶喜の孫/公爵徳川慶久の娘徳川喜久子と結婚
●澄宮崇仁親王 三笠宮 子爵高木正得の娘高木百合子と結婚
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加藤鋭伍/京極高鋭 加藤照麿男爵の子・京極高頼子爵の娘京極典子の婿養子
1906年4月、当時学習院幼稚園の園児であった6歳の私は、父に連れられて赤坂の皇孫御殿に参上した。
当時皇孫殿下には吉松・原田・長田という三人の侍医が奉仕され、父の加藤照麿が主任侍医を務めていた。
私が皇孫方の御相手に決まった時かつて宮中に奉仕したこともある祖母や母はその光栄に感激したが、父は秘かに不安の念を抱いていたようであった。
私がいよいよ御殿に参上する前夜、父はしみじみと私に注意をした。
それは御二方〔昭和天皇と秩父宮〕の御相手をする時、決して遠慮をしてはならない。
玩具などは自由に使え。
宮様と相撲を取っても故意に負けるようなことをしてはならぬ。
子供は子供らしく遊べばよいが、言葉だけはくれぐれも注意をするように言われた。
私たちはお付きの方々から「御相手さん」と呼ばれ、御二方と御一緒にずいぶん勝手気ままな遊びをいたしました。
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『御側日誌』
1915年5月2日
高松宮は活動的よりも静止的お遊びを好ませ給うこと、動植物を御愛玩遊ばさること、かねての御趣味ながら、ことにカナリアの卵生まれてよりこれをお慰め遊ばさる。
文鳥 姿・色とも美しからざれば、
秩父宮は「あれは死ねばよい」「誰かにやろうか」などと仰せらるれど、高松宮はなお御愛情御保護遊ばさる。
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『高松宮宣仁親王』高松宮宣仁親王伝記刊行委員会
思いやりのある生真面目な「仁」の昭和天皇。
活発で決断力に富んだ「勇」の秩父宮。
素直で思慮周密な「知」の高松宮。
御側に仕えた人たちの書き残したものを見ると、少年時代の御兄弟の性格をこうとらえていたおうである。
大正皇后のところへ三宮〔昭和天皇・秩父宮・高松宮〕でよくお伺いするが、両兄宮は外で走り回っておられるのに、高松宮は室内で静かに遊ぶことが多かった。
大正皇后から「落ち着いた宮さん」としばしば言われたように、特に秩父宮と対比して「静」の御性格であった。
いつもニコニコと顔色をお変えにならない三笠宮に比べて、高松宮はどちらかと言えばワガママ。
おイヤな時はすぐ御気持が御顔に現れる。
高松宮は大変率直な言動をなさった。
1915年学習院中等科に進学された高松宮は初めてゴルフのクラブを手にされた。
このころ東宮〔昭和天皇〕はゴルフがお好きで、日曜日など三宮〔昭和天皇・秩父宮・高松宮〕でクラブを振っておられたものだ。
傅育官長三好愛吉もちょうと英国紳士の気風を御教育の参考にと考えていた矢先だったので、ゴルフを御推奨した。
ところがしばらく経つと秩父宮の、
「ゴルフは老人のやるスポーツで、我々青年のやるものではない」
「ゴルフは金のかかるスポーツで贅沢な遊びだ」といった言葉が一緒にコースを回っていた高円宮御付武官桑折英三郎の耳にたびたび入ってくるようになり、まもなく秩父宮はゴルフをやめてしまわれた。
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『秩父宮雍仁親王』秩父宮を偲ぶ会
明治天皇は皇孫方に対して、早くから乗馬と船に慣れるようにとの御希望があった。
それゆえ明治天皇から皇孫方への御下賜の玩具類は木馬や船が多かった。
1911年2月16日小笠原長生を招いた学習院長乃木希典は、
「東宮殿下が学習院の初等科を御卒業になりましたならば、御所内に特別に御学問所を設置し、そこで御修学を願う」と述べた。
東宮御学問所の総裁に東郷平八郎、幹事に小笠原長生を置き、乃木は相談役のようなつもりであったらしい。
1912年9月13日明治天皇の御大喪が決定すると、乃木から小笠原に会いたいとの電話があった。
9月8日小笠原が学習院へ行くと、乃木は学習院に関して種々懇談した。
特に皇子御三方〔昭和天皇・秩父宮・高松宮〕の御教育や将来について、熱心に詳細な意見を述べた。
小笠原が「では、お暇させていただきます」と立ち上がると、乃木は突然小笠原の手を堅く握った。
「しばらくはお目にかかれまい。くれぐれも御自愛を祈る」と囁くように言った。
小笠原は自宅に帰ってから封書を開封した。
帰り際に乃木から帰ってから読むようにと託されたものであった。
小笠原は「大正皇后はよほど秩父宮がお可愛いのだな」と、なにげなくつぶやいた。
小笠原かが妻子にふと漏らした片言から、次の三つの点が推察される。
第一に、乃木は御三方の御教育に関して後事を小笠原に託した。
第二に、小笠原はその内容から乃木の自刃を予知していた。
ただし、静子夫人までが自刃するとは思っていなかった。
最後に、貞明皇后が秩父宮を偏愛されることを心配して、この点を特に小笠原に依頼したことである。
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戦後の座談会
鈴木タカ 皇子養育掛
前田利男 皇子傅育官・秩父宮務官
石川岩吉 皇子傅育官・高松宮務官
鈴木◆秩父宮様はお子様の時から海軍が御希望でした。
高松宮様は舟にお乗りになるとすぐお酔いになるんです。
高松様はお馬が好きでいらっしゃいましたから、陸軍でということで。
前田◆やはり東宮様〔昭和天皇〕は陸軍海軍ということだから、その次は陸軍だと。
石川◆高松宮様は海軍がおイヤだったんだがな。
やはり陸主海従というのでね。
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石川岩吉 皇子傅育官・高松宮務官
その頃の学習院への御通学は、オープンの二頭立て馬車で往復された。
沿道には多くの市民の目があるのに、夏の暑い時など秩父宮様は平気で制服の袖をまくられたりされていた。
高松宮様は謹厳そのもので、決してそうしたことがなかったのに比して好対照だった。
乗馬の御稽古なども、正確な規則通りに習われる高松宮とは異なり、秩父宮様は御自分の流儀が相当入っていた。
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秩父宮雍仁親王
両親とは同じ囲いの中に住んでいたから、より世間なみに近いものがあった。
しかし住居は離れていて、両親にはそれぞれいろいろのご用や約束もあり、また稽古もされていたから、まあ、2週に3回ぐらいといったところだったろう。
その合間には父母の方から訪ねられもしたし、また庭などでお目にかかることもあった。
この頃の父上は非常にお元気で、ごく気軽に運動の途中などで突然立ち寄られることもよくあったから、母上よりもむしろ父上の方が多く僕らの家に来られたくらいだ。
父上も鬼ごっこなどに加わられることもあったが、その時は家が割れるようなにぎやかさだったという。
また寝る様子をわざわざ見に来られた時などは、僕らがうれしくて床に入ってもいつまでもしゃべっているので、とうとう眠りにつく前に帰られた。
食事が終わるとよく食堂の後ろのピアノのある室で合唱をした。
母上がピアノを弾かれ、侍従・武官・女官に父上も加わられて、軍歌が多かったように思うが唱歌もいろいろ歌われた。
なにしろ調子を無視して蛮声を張り上げるのだから、実にやかましいにぎやかなものだった。
しかしこんな雰囲気は親子水入らずではないが、思い出しても楽しいものである。
もっとも忘れられないことの一つに父上と将棋をさしたことがある。
父上からの挑戦に、図々しくも平手で応戦したのだ。
まずあまりに立派な盤と駒に度肝を抜かれ、お相手将棋ではない初めての他流真剣試合、勝ってが違って堅くなっている間に駒を片っぱしから取られ、残念さに涙が浮かんでくる始末。
いよいよあがってしまって、あっけなく一敗地にまみれた。
しかしこれが一生一度の親子でさした将棋であったと思えば、いつまでも忘れられない一番ではある。
父上は天皇の位につかれたために確かに寿命を縮められたと思う。
東宮御所時代には乗馬をなさっているのを見ても、御殿の中での御動作でも、子供の目にも溌剌として映っていた。
それが天皇になられて数年で別人のようになられたのだから。
あるとき兄上〔昭和天皇〕とこんなことを話し合ったのであった。
兄「質素が好き。だけど身分があるから困るね」
弟「そうなの、不自由なんですもの。花屋敷なんどへ行かれないんですもの」
兄「華族でもいけません」
弟「華族でなく士族がよろしいでしょう」
どうもわかったようなわからないような会話だが、数年前に一度行った花屋敷がよほど面白く忘れられなかったものらしい。
一つしか違わない兄上は、僕の時々爆発する乱暴には困らせられたに相違ない。
そのくせ僕は一歩家の外に出ると、兄上と一緒でない時は実に意気地がなかった。
いわゆる内弁慶だったのだろう。
あるひ兄弟三人で話し合っていた時、
高松さんが「耳は【のもじ】(糊)でくっついているのでしょう?」と言うので、
僕はさっそく「いいえ、血でついています」といかにも知ったかぶりで教えたつもりでいたところ、
兄上は「いいえ、耳は肉で顔についています」と。
知力の程度がこれだけ歴然としていては頭も上がらない。
一つぐらいは褒められた話もよいだろう。
宮内大臣土方伯爵がお土産として博多人形を3つ持ってきた。
加藤清正と楠木正成と柴田勝家が寝て秀吉に足をもませているところの3つだった。
誰が見ても子供が欲しそうなのは、はじめの二つだ。
兄上はいつものように弟二人に「どれが欲しいの?」と尋ねられたから、僕も高松さんも武将のどちらかを欲しいと答えた。
兄上も同じのが欲しいに決まっている。
デッドロックである。
兄上は考え込んでしまった。
兄上はいつも欲しいものも弟に譲っているのだから、たまには自分の欲しいのを先に取ってもよいだろうぐらいな気持ちで二つのうちの一つを取った。
次の番は僕だ。
進退窮まったとは、まさにこのような時をいうのだろう。
このたびは高松さんが気をもむ番になった。
この場合柴田勝家をあっさりと取るべきだとは百もわかっているのに、誰もが嫌な物を自分の物にするのがたまらなく悔しいのだ。
ウルトラ勝気というものだろうか。
僕は目に涙を浮かべて悲壮な声で「あげましょう」と言って柴田勝家を取った。
そして高松さんが「ありがとう」と言って残ったのを取った時には、ホッとして重荷がおりた感じだった。
後から考えれば実に笑うべきジェスチュアだった。
その翌日「あれだけ我慢ができれば結構だ」と褒められたのは、さすがにうれしかった。
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1879-1926 47歳没
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西園寺公望公爵 総理大臣
大正天皇が御年少の時の話だが、伊藤博文公爵の別荘に来られたことがあった。
網を打って御覧に入れた際、
「これはここの浜で獲れました」と魚を持って来て御披露申し上げたところ、
お随きして行った者の中にはこんな浜では獲れやしないと思っておかし気に振る舞った者があったが、
大正天皇は「主人がこれをここで獲れたと言うのだから、ここで獲れたでいいじゃないか」と言っておられた。
誠に聡明な方であった。
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権命婦 樹下定江〈松の局〉1927年
大正天皇様は申すも畏いことながら、御幼少より御健にましまさず、明治大帝はもとより御側の方々も一方ならず御心配申し上げ、朝夕神仏に御成長をお祈り奉ったほどでございました。
御大患御本復の御祝の際には明治大帝は御心から御満足そうに御酒を召し上り、畏くもお嬉し涙さえ拭われつつ、
「これでわしも安心した。あの人に万一のことがあったら国民に対しても相済まぬわけで本当にどうしようと思ったが、まあめでたいことじゃ」とお漏し遊ばすのを承り、まことに畏れ多く思ったことがございます。
その後 御成人とともにますます御健康にならせられ、ついに東宮妃をお迎え遊ばす佳き日が参りました。
その折りの明治陛下の御満足と申せば、いままでかつて拝し奉ったことのないほどでございました。
皇孫殿下すなわち昭和天皇の御降誕のお喜び、それも拝察するにあまりあります。
御安産のお知らせの後は一日も早く皇孫殿下の御顔を御覧遊ばしたい御様子にお見受け申しましたが、初の御参内は御産服と申して30日間は御遠慮になりますため、その日をどんなに御待ち受けあそばしたかわかりません。
まるまるとお太り遊ばされた皇孫様が賢所の御拝を済まされ御内儀で御対面遊ばされるその日の大内山は、本当に瑞気のたなびくを覚えました。
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近衛兵 伊波南哲
大正陛下はフロックコートに山高帽といういでたちで4~5人の侍従に支えられて御姿を見せ、間断なく頭を上下に振りながら始終ニコニコしておられた。
このたびの関東大震災の御衝撃で、いよいよ御病勢が御亢進遊ばされたと漏れ承る。
あの御不自由なおいたましい御姿を拝し奉って、大正陛下の股肱の臣としてのわれわれ軍人は、いかにして一天万乗の御宸襟を安んじ奉ればよいのか、断腸の思いがする。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人
大正天皇は金口のエジプト煙草か葉巻を相当お喫いになった。
貞明皇后は細巻の金口煙草をお好みだった。
大正陛下は玉突がお好きで、女官なども御相手した。
明治陛下はことに乗馬がお好きであったが、大正陛下は馬はあまりおやりにならなかったのではないかと思う。
ふだん大正陛下がお乗りになっているのを、私はお見かけしたことがない。
明治天皇が崩御になって大正天皇が御位につかれたその直後、宮内省から私たち仕人に次のような訓示があった。
「大正陛下は誰にでも気安く話しかけられるから、仕人は決して大正陛下の御前に姿をお見せしてはならぬ」
私が最初に大正陛下の供奉をしたのは、明治陛下の御大葬が青山で行われた夜であった。
深夜に青山から半蔵門までを馬車でまっしぐらに駆けて行った時の光景がありありと瞼に浮かぶ。
真夜中であたりがシンと寝静まっている中を馬蹄の音がカッカッと強く鳴り響いた。
沿道には拝観の人影がかすかに見える。
馬車は全速力で飛んで行く。
危なくてしようがない。
私は馬車の上から人影に向かって 、「どけ!」「どけ!」と怒鳴ったのを今でも覚えている。
私はあの時 初めて大正陛下の御気性の一端に触れたのであった。
大正陛下は御乗物を早く駆らせて喜ばれるという無邪気なところがおありになった。
軍艦に乗られても「もっと速力を出せ」と命令されるので困ると海軍の将校から聞いたこともあったが、あの御大葬の夜は大正陛下御自身が主馬頭の藤波言忠に向かって、
「御所まで何分で帰り着くことができるか」と御下問になっているのをちらとお見受けしたのを覚えている。
その結果があの馬車の疾駆となったのであった。
御幼少の時、植木屋が桜の木を切っているのを大正陛下が熱心に御覧になっていた。
大正陛下は何本かの大きさの違った桜を指差され、御供の者に「それぞれ種類の違ったノコギリで何分で切ることができるか」とお尋ねになったので、御供の者はお答えができなくて弱った。
すると大正陛下は「これは何分、あれは何分」と一々御説明になったので、植木屋がきっているのを御自分で時間を計っておいでになったことがわかって謎が解けたことがあった。
また御幼少の頃 沼津で山中を御運動の際、大正陛下の御足があまりに早いので侍従がついて行くことができずに、とうとう大正陛下を見失ってしまった。
それからいくらお探ししても大正陛下が見つからず、ついに夜になってしまった。
供奉の者が青くなって大騒ぎをしたのはもちろんである。
するとひょっこり大正陛下が犬を一匹つれてお帰りになったので、ようやく一同胸をなでおろしたということがあった。
こうした御幼少の頃の話にもうかがわれるような御性質、ちょっと人を困らせてやろうといった王者の無邪気さや、それもどこか神経の鋭敏さの見えるやり方は大正陛下が御成人になられてからも随所にのぞかれたのであった。
ある時 御運動で養鶏所に行かれた。
係の者がお喜びになるようにと思って鶏小屋に卵を入れて置いたのであるが、大正陛下はそれを御覧になって「鶏というものは日付の書いてある卵を産むものなのか」と言われたので、係の者が恐縮したことがあった。
当時養鶏所で産まれた卵には一つ一つ何月何日の日付印が捺してあったのであるが、それをうっかり係の者が置いておいたのである。
また大正陛下は大勢の者が集まるところで御自分の御存知ない者がお目にとまると、必ずその人について御尋ねがあり、どこの者か・今何をしているか・親はいるのか・子供は何人あるのかというふうに詳細を極めたものであったので、御付の者がしばしがその人の所に何回も往復してお答えするという具合であった。
毎日の日課である御運動には必ずブランデーを持ってゆかれたもので、御自分でもよくお飲みになったが、侍従も御相手をさせられた。
そして侍従を酔わせてお楽しみになるというふうだったので侍従の方でも困ってしまって、しまいには大膳職の方であらかじめ麦茶をブランデーの瓶に詰めておいて侍従の方にはその麦茶を注ぐようにした。
それからは侍従がなかなか酔わない。
敏感な大正陛下もさすがにこれだけはおわかりにならなかったらしく、「お前はこのごろずいぶん強くなったな」などとおっしゃったそうである。
大正陛下が御不例になった年の夏には、私も大正陛下の供奉をして日光御用邸へ行っていた。
ある日大正陛下は御運動で日光山から御霊屋に回られて、その途中御脚に神経痛を御覚えになり、石段を御降りになることができず、侍従徳川義恕に背負われて降りてこられた。
その年の暮 葉山に行幸になったが、そこで御病状がさらに悪化し、激痛のため脳症を起こされて、翌年から健忘症におかかりになったのである。
大正陛下は御自分の御身体については神経質なほど気をお使いになっておられた。
大正陛下は御病気後、いっそう神経質になられた。
御運動の際に侍従がリンゴを差し上げると、そのリンゴが新鮮であるかどうか侍従にお尋ねになったので、侍従が新鮮であることを申し上ると、重ねて「誰が食べても当たらないか」と念を押されるので、当らない旨をお答えすると、初めて御安心の御様子で、しばらく一同を見回してからお気に入りの一人にそのリンゴをお与えになったという。
その時には神経痛もよほどお悪く、手の指を自由にお曲げになれないので、侍従が手のひらにリンゴをお乗せして、それから一本一本指を曲げて差し上げた。
このように大正陛下は陰ひなたある者や作為を極端に嫌悪されたが、後に大正陛下の御病気が進むにつれて、それがむき出しの嫌悪の感情になって表れたのであった。
大正陛下が御病気であるということから女官の中にはうかうかと陰ひなたの行動をする者もあったわけだが、大正陛下にはそういう行動が敏感におわかりになったらしく、そういう女官が御靴をおそろえした場合などは、大正陛下は決してその靴をお履きにならなかった。
崩御の前年になるとすっかり御脳にきてしまい、ひどい健忘症におかかりになったのである。
それでも運動をしなければ御身体に悪いと御考えになっていた御様子で、よく廊下を歩いておいでになるのを御見受けした。
廊下を御歩きになりながら、御自分の気をひきたて鼓舞するようによく軍歌を唱われた。
その軍歌は決まってあの「道は六百八十里」というのであるが、健忘症にかかっておられたから、「道は六百八十里、長門の」とまで唱われてもその後をどうしても御思い出しになれない。
それでまた「道は六百八十里、長門の」とお唱いになる。
それをしょっちゅう繰り返されながら、力づけるような御様子で大正陛下が廊下を歩いておいでになる。
その御姿を拝して、私はなんとも言えないおいたわしい感じを受けたものであった。
当時葉山の御用邸には九官鳥を飼ってあったが、その九官鳥がいつしか大正陛下の「道は六百八十里」を覚えこんでしまって、大正陛下が唱っておいでにならない時でも森閑と静まり返った御廊下で「道は六百八十里」とひとり唱うので、女官などはよく大正陛下とお間違えした。
当時御用掛をしていた稲田・三浦・平井・青山など当時における内科医の権威たちが拝診したのであったが、御容態は非常によろしい、万々歳であるという結果を得て大正皇后に言上したのであった。
各博士とも葉山を引き上げ、東京に帰ってしまったのである。
ところが翌日から御病状が急に変わって大騒ぎとなった。
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久世通章子爵の娘久世三千子→山川黙の妻山川三千子 明治天皇の女官〈桜木の局〉
大正陛下はただ一筋に御両親陛下を御尊敬になっておりましたので、
「私を生んだのは早蕨〔早蕨の局・柳原愛子〕か。おたた様から生まれた大清(おおぎよ)だと思っていたのに」と仰せられ、大変残念がっておいでになっとか承りました。
つまり臣下からお生まれになったのが、おイヤだったのです。
明治陛下は御体格も立派であったし、落ち着きはらって堂々とした御態度は、外国使節などからも尊敬されておいでになりました。
けれど外人との御交際はあまりお好みにはならないようで、
「秋の観菊会は、大演習の留守中に皇后さんだけで済ましてもらうよ」などと仰せになっておりました。
1911年の秋は福岡県下で大演習が行われましたが、そこからお帰りになったある日の御食事中、
「わしは京都で生まれたからあの静かさが好きだ。死んでからも京都に行くことに決めたよ。今日侍従長徳大寺実則を呼んでその話を始めたら、
『そんな話はまあまあ』などとなかなか聞かなかったけれど、
『人間どうせ誰でも一度は死ぬものだ。あの皇太子〔大正天皇〕では危ないから、何もかもわしが定めておくのだ』と無理矢理聞かせたが、大演習の帰りに汽車の窓から眺めたら御陵にちょうどいい場所が京都にあって、少し離れて小さめの山と二つ並んでいる。小さい方は皇后さんが入るのだよ」と御話になっているのを御配膳しながら承りました。
それが桃山両御陵でございます。
「今は何でも外国使節が出て来るが、東京の式だけは仕方がないとしても、それが済んだら後は日本人ばかり、ことにわしのことをよく考えてくれた人を主として京都で昔風の葬儀をするのだ。もし外人が送ると言っても、名古屋から帰ってもらうんだよ」などと細々の物語を遊ばしました。
侍従長米田虎雄についてはいろいろな思い出話がございます。
明治陛下が崩御になりましたとき御枕元においでになった皇太子様〔大正天皇〕が、お水をお上げになるのに勝手がお分り遊ばさないのか物怖じしたようにぐずぐずしておいでになりました。
御様子を拝見していた米田侍従は「殿下」と一言叫ぶと同時にすっくと立ち上がり、後ろから皇太子様の御手を持って明治陛下の御口に水を差し上げました。
各皇族・各大臣以下並み居る人々が皆ハッとしてこの様子を見ておりました。
また大正陛下は言上があまり長くなると御退屈で椅子からお立ち上りになるので、それを防ぐために米田侍従が後ろから御上着をしかと押さえておりました。
何をしても誠意から出る頑固さで誰からも好感を持たれ、本当に気概のある痛快な人でした。
11月23日は新嘗祭。
御輿を担ぐのは八瀬の童子といわれて、京都の八瀬村から召された体格のすぐれた仕人で、その人たちが奉仕することになっておりました。
同じ八瀬童子たちが新帝様〔大正天皇〕の御輿を担ぎましたので、
「明治陛下は御身体が大きくて重かったでしょうが、新帝様は軽くて楽でしょう」と聞きますと、
「明治陛下は重くてもちっともお動きにならないのでよかったが、新帝様はひょこひょこお動きになるので危なくって困ります」と答えたとやら聞きました。
大正陛下は議会に行幸の時、御手元にあった勅語の紙をくるくる巻いて会場をお眺めになったとやらは有名な話になってしまいましたが、姑〔元女官山川操〕と共に叔父山川健次郎男爵の宅に参りました節にも、実際に拝見した健次郎が姑と話し合っているのを聞きました。
しかもこんなことまで明治皇太后〔昭憲皇太后〕の御耳に入っておりましたのですから、明治陛下崩御後はなかなか御心配が絶えませんでしたろうと存じます。
御参内の時に明治皇后様の御機嫌伺にお通りになった東宮様〔大正天皇〕が、御自分の持っておいでになった火のついた葉巻を私の前にお出しになって、
「退出するまでお前が持っていてくれ」との仰せ。
やむを得ず「はい」とお受けいたしましたものの、並み居る人たちから冷たい視線を浴びせられて身のすくむ思い。
紫たなびく煙をうらめしく眺めておりました。
何でもないようなことでさえ、とかく男の人が相手となるとうるさい世界なのですが、それが皇太子様とあってみれば、知らん顔でそっぽを向いているわけにもいかず、何とかお答えも申し上げねばならぬ次第でございます。
〔明治天皇崩御後〕新帝様〔大正天皇〕は青山御所から毎日宮城に出御、新皇后様〔貞明皇后〕も始終おいでになるので、それまではあまり顔も知らなかった東宮女官たちとも度々出会い御話もするようになりましたが、何かと全体の風習が違うらしく、大正皇后のピアノに合わせてダンスなどしていられたとか聞く通り、みななよなよとしたいわゆる様子のいい方ばかり。
それに引きかえこちらは力仕事などもする実行型といった人が多く、ちょっとソリの合わないような感じを初めから受けました。
ある時 御廊下を歩いてまいりますと、新帝様にばったりお出合いいたしました。
頭を下げて御通過をお待ちしておりますと、お立ち止まりになった新帝様は、
「お前は絵が上手だってね」と仰せられる。
「いいえ、そんなことはございません」
「では、何か歌がうたえるだろう」
「まことにふつつか者で、何の心得もございません」
「自分の写真を持っていないか」
「一枚も持ち合わせておりません」
と、一歩一歩後ろに身を引く私、新帝様は一歩ずつ前に進んでおいでになる。
困ったことになったと振り返って見ると、ちょうど廊下の御杉戸の前でした。
すばやくこの戸を引き開けて身を入れると、深く頭を垂れました。
そのとき御供の侍従が来ましたので、そのまま御通過になりました。
まだ胸のドキドキしているのを感じながら席に帰ってまいりましたが、口うるさいこの世界のことですもの、度々こんなことに出合ってはどんな噂をされるかわかりません。
その頃から人員整理の噂が口々にのぼるようになりました。
整理されるぐらいなら自ら辞して生家に帰ろうかしら、しかし別に結婚するいい相手があるわけでもなし、また日夜おさびしそうな昭憲皇太后様の御様子を拝見しておりますと、たとえ何のお役に立たなくとも及ぶ限りはお慰め申し上げよう、だが新帝様の方へは絶対に行きたくないと思いました。
そのうちとうとう恐れていた時が参りました。
早蕨の局〔大正天皇の生母柳原愛子〕が、
「あなたも薄々は知っておられるでしょうが、いずれ人員整理がございますから、新帝様の方へ勤めれば一家一門の光栄はもとより、あなたの身にも箔がつくというものですから、そのように手続きを取ってあげましょう」と。
「それは誠にありがとうございますが、今しばらく考えさせていただきます。親たちにも相談いたしたいと存じますから」と答えました。
早蕨の局は「ああ、さようでございますか」とあまりいい顔はなさいませんでした。
実にこまりましたが、そう長く黙っているわけにも参りませんから、数日後意を決して早蕨の局に申しました。
「今まで通り昭憲皇太后様にお使いいただくなら奉職いたしたいと存じますが、こちら様に御不用ならば生家に帰らせていただきます」
「ああ、あなたはそうのようにお考えですか。では、何とでもおよろしいように」といかにも冷ややかな言葉、だいぶ立腹された様子でございました。
今まであんなに面倒を見てあげたのに、自分の顔をつぶしたと思っていられたのでしょう。
公私ともにいろいろと御世話になったのは十分感謝しているのですが、それとこれとは別の話で同一に考えられてはこちらもいささか迷惑でございます。
宮中でも有力なこの人をこんなに怒らせては後はどう出られるかわからないのですが、それもやむを得ないので、すべては成り行きに任せようと決心しました。
弟の侍従久世章業が「ちょっと京都まで行きますが、何か御用はありませんか」と言いますので、
「何をしに行くの?お暇をいただいたのですか」
「いいえ、勅命のお使いです。先日お姉さんは大正陛下に写真は手元にございませんと御返事されたでしょう。だからそれを取りにいくのです。なるべく小さい時のにしましょうか」
「そうね。13歳以下のものがたくさんありますよ」と言って別れました。
大正陛下ははよく誰にでも写真をと仰せられて、御手元にはだいぶ女の写真もお持ちになりましたのです。
写真をお集めになるのは一種の癖とは思っておりましたが、何か晴れきらぬ心は自分ながらどうしようもありませんでした。
なぜそうまで御心におかけ下さるのか、どうもちょっと。
やがて宮城には新帝両陛下〔大正天皇夫妻〕が、昭憲皇太后様は青山御所にお移りになりました。
宮城にお移りになってからも、新帝様はよく青山御所へおいでになるのです。
すると必ず私を御召になりますので、はじめのうちは我人ともにあまり気にもかけなかったのですが、姿の見えない時までも必ず名指しで御召になって何かとお話かけになるので、いささか迷惑に思う時もございましたし、新帝両陛下おそろいでおいでの時などはちょっと困るような場合もあります。
そばにいる同僚たちから、
「ちょっと、大正皇后様〔貞明皇后〕のお御顔をご覧なさい」などとささやかれると、それでなくてさえ大正皇后様が、
「あの生意気な娘は、私は大嫌いだ」とおっしゃったとやら、聞かせてくれた人もございましたので、なんとも引っ込みがつかないのでございました。
昭憲皇太后様と御一緒の時でも、
新帝様は「今日は歌を教えてあげるから一緒に歌いなさい」などと調子はずれの大声でお歌いになったりするので、
昭憲皇太后様は「こちらではそのようなことを致せませんから、あれにはできませんでしょう」といつもお助け下さるのでございました。
こうしたことが度重なるにつれてただ御冗談ばかりとも思えず、人の噂もやかましく何とかしなければと考えるようになりました。
もしも新帝様が「こちらに寄こせ」などと御言葉にお出しになれば、鶴の一声でどんな理由があろうと絶対に動かせないあの時代の掟なのでございますから、皇太后宮大夫香川敬三も頭を悩まし、病気欠勤ということになりまして、
「新帝様おいでの時は出勤しないでよい」と申し渡されました。
香川大夫は「万一にも病気ということで差し支えが起こったら、私と侍医が証明するから」とまで言って下さいました。
大正陛下御大患と承って、婚家の母〔元女官山川操〕は取り急ぎ葉山御用邸に御見舞に参殿、いろいろと御様子を伺って参りました。
「この次に伺う時は一緒に出ましょうよ。大正陛下はお分りになるかどうかわかりませんが」と言っておりましたが、その時もまだ来ぬうちに崩御になって宮城にお帰りになりました。
常日頃 御内儀ではあまりなにごとも思召のようにならず、時には御不満の御様子などもあるとやら、うすうす承っておりましただけに、いとど御同情申し上げてはおりましたが、こんなにお若くて崩御になろうとは夢にも思っておりませんでした。
姑〔元女官山川操〕は大正皇后〔貞明皇后〕が妃殿下として御入内の節 宮城からの御使として九条公爵家までお迎えに上ったという特別な御間柄にもかかわらず、大正天皇崩御後宮城に出た姑は申の口の上までも上がらせられず下から遥拝させられたとか。
さすがの姑もいささか心良からず思った様子で帰って来ての話に、ああ私など御見舞にも上がらないでよかった、出て見たとて恥をかくぐらいのもの、遥拝ならどこからだって同じことです。
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梨木止女子→坂東長康の妻坂東登女子 明治天皇・大正天皇に仕えた女官〈椿の局〉
大正陛下は昔からの明治様の仰せになるような言葉で仰せになった。
昭和陛下はいくらか大正陛下にお似ましのようですね。
秩父宮様は下方にお成り遊ばしてるので、兵隊の中で揉まれてござるわね。
一般の人にふさわしいような、近いような御言葉ですわね。
今の東宮様〔平成天皇〕は余計もう、さばけておいでになる。
それにお付きしてる人がみんなそんな粗雑な言葉を使うので。
大正陛下は昭憲皇太后様のことを御大事に遊ばして、御自分さんのおみ足がお悪いのに、御自分さん後ろ向きに御階段の御下にお下がり遊ばして、御手々をお持ち遊ばして、
「お危のうございますよ、お危のうございますよ」と仰せになって、お労り遊ばすんですよ。
昭憲皇太后様は御涙をためて「恐れ入ります」と言わしゃって、ほんとにお美しいですね。
拝謁は朝の御膳がお済み遊ばしてからでなきゃ拝謁願わんことにしてますが、それでもお昼御膳の時なんかでも御覧物が上がるでしょう。
そうすると御膳途中でも出御になるんですの。
普通の人ならここへ持ってこいって言うようなもんですけどね。
ところが大正陛下はいちいち御学問所までお出ましになる。
途中ですっとお立ち遊ばして、13段も17段もある段を下りたり上がったり遊ばすわけ。
大正陛下は「国のことだからな、時間は言っておれんよ」って仰せになる。
だからお昼の御膳でも一時いっぺんで召し上がったことないですよ。
そいで私たちもむろん一度で御飯食べたことない。
大正陛下は普段は夜の12時まで御勉強ですよ。
御書をお読み遊ばしたりね。
そのあいだ大正皇后様は御歌を遊ばしたり、いろいろ御書をご覧遊ばしたりしておいでになる。
大変な御勉強家でした。
大正皇后様はおつむ〔頭〕がすごくおよろしいのに、大正陛下はまたもう一つお賢かったもんで、大正皇后様が追いつけんとおっしゃったくらい、大正陛下は天才的っていうんですかね。
あんまりおつむさんが良すぎて、御身体がお弱くあらしゃったんだと思いますよ。
お弱さんで幼さんの御時分からみんなが御心配申し上げたもんでそれがお嫌いで、お風邪さんでもね御鼻をおかみになるということはない、ハンカチで吸い込ませるようにしておいでになる。
お気が強くてね、「言うなよ、風邪って言うなよ」って仰せになる。
みんな存じ上げてござっても黙ってることにしました。
「内緒にしとけ。みんなに心配かけるから」っておっしゃって、お優しいことでした。
お好きさんはお馬、御乗馬でした。
新聞は端から端まで御覧遊ばすんですよ。
大正陛下の方は四紙ぐらい上がって、大正皇后様の方も四つぐらい上がるんですよ。
私たちは世間の話もあんまりわからんもんで、馬鹿みたいなこと言うとお笑いになる。
大正陛下も大正皇后様も私たちより下々のことよく御承知ですよ。
大正陛下はとってもお茶目さんでしたよ。
写真を撮るいうたら、おかしな百面相みたいなことしてお笑わしになるんですよ。
わたしくなんぞ写真を撮ろうとすると、大正陛下が向こうでこんな格好するんで、わたくしこんなして笑ってるとこ写ってる。
ひょうきんな御方さん。
まあよう、おいた遊ばしてね。
御散歩にはお犬さんがたくさん御供するの。
それでね、わざとね、御階段のとこの駒寄せを開きっぱなしに遊ばして追い込み遊ばすもんで、犬が御座所を走り回るんですよ。
たくさんの犬、女官が困るのがね、それが面白い。
わたくし達ワアワア騒ぐだけで、御座所を通り抜けることができんでしょう。
大正陛下は御菓子を女官に御下賜くださるのがお楽しみでした。
あんまり下さったりすると大正皇后様は御目々近目だもんで、こんな目して御覧遊ばされるから、
「大正陛下、もう結構でございます」って言って逃げて行くようにする。
大正陛下は逃げて行かんようにギューッと手を掴んでならしゃる。
わたしく始めはね、奥で大正陛下の権典侍をすることに決まってた。
大正皇后様が御反対で、御遠慮して命婦にしていただいたんです。
大正陛下は私の姿が見えたら「お皿持ってこい」と仰せになる。
お皿をお持ちすると手をガッとお掴みになって、御自分さんの側から逃げていかんように押さえてならしゃるんです。
そうすると大正皇后様はあの近目さんだもんで、こう変な御目々で御覧遊ばされるんですね。
一時はちょっと御機嫌が悪うて、ちょっとヒステリーみたいにおなり遊ばしたことあるんですよ。
それでわたくしは御給仕の時はなるべく陰へ陰へ行くようにしてるんですが、わたくしは、いるが忠義か、いないが忠義かと思ってずいぶん悩みました。
おクッションでも大正皇后様はちょっと御手々が荒くて、わたくしが上げれば大正陛下は黙って座ってらっしゃる。
そいで「節子、いいよ」って仰せになるんで、よけい御機嫌が悪うなる。
大正皇后様は少々御膳がお早いなと思ったと思った時は御機嫌が悪い。
「さ、行こ」と仰せになって玉突き所へおなりになるんですけどね。
大正陛下は玉突き所でもわたくしを召されて、追っかけてテーブルの周りをお回り遊ばされるんで、しまいにはシャッと下へ入って向こう側へ逃げる。
そうでないと頬をベチョベチョお舐めになるんが、気持ち悪うて気持ち悪うて。
それで大正皇后様は更年期障害があらしゃる時分、ちょっとお気違いさんみたいにおなりになったみたい。
東宮様〔昭和天皇〕摂政にお立ちになったのは関東大震災の後ですね。
御命が短うてもええから摂政せずに御代のままでっておっしゃる方と、それよりかゆっくりと長生きおさせした方がええとおっしゃる方と二派に分かれまして。
東宮様が摂政宮様におなり遊ばされてからは、あちらの侍従が馬鹿に権威をふるって。
こんなことなら御命短うても御代でならしゃっていただいたら良かった、御隠居さんみたいに押し込め奉って。
大正陛下は夜中でも御覧物が上がってるから着物を着替えると仰せになってね。
「ただいまは摂政宮様がお立ちであらしゃいますから御安心遊ばして」って申し上げると、
「ああ、そうだったな」っておっしゃってね。
御寝なさってても御政務がお気になった御様子でした。
大正陛下の御病気が悪くなったんは、日光御用邸に行く前年からですね。
大正陛下はそれからお持ち直しになって日光に行幸になり、またお悪くなって葉山御用邸に行幸になったんです。
大正皇后様は御反対でも何ともしようがありませんでした。
御自動車を召さすとき、「イヤ」と仰せになった。
自動車の中では兵児帯で御椅子にお結きしたんです。
そうしなきゃ、シャンと遊ばされん。
そんなにしてまでお連れ申さなならんのか、侍従さんもみんな反対。
「今度は最後の行幸だからそのつもりをしなさい」って大正皇后様も仰せになって、喪服のこととかみんな御注意でね、宮様の喪服もみんなちゃんと御用意して行ったですね。
途中でもしものことがあったらというので、お気に入りの黒田侍従が御陪乗で、注射器持ってらっしゃったですもんね。
私たちも注射差し上げられるようにちゃんとしました。
御側に御注射器を揃えて、消毒して御戸棚にみんな入れて用意してましたね。
葉山の御用邸は三笠宮様がおややさん〔赤ちゃん〕の時にできた御別邸ですもんで、御殿としたら狭い狭いところです。
酸素吸入だっていちいち東京まで取りに来んならんでしょうが。
そんな御不自由しなくたって、御所に御寝ならしゃったら、もっと御手当がちゃんとできたでしょう。
大正陛下は御舌が楽に動かない、御舌がもつれる。
とにかく気持ちが悪いから、舌をお噛み遊ばしましたよ。
こうやってクッってね、御舌を歯でお嚙みになって。
大正陛下が御異例さん〔御病気〕の時分も、ちょっと舌がもつれて仰せにくくなった時があったもんでね、こちらで御様子をうかがって先に申し上げると「アッ」〔そうだ〕と仰せになるんで、
ついやっぱり「椿を呼べ!」って仰せになるわけですね。
日光御用邸ではあんまりベルをお鳴らしになるので、みんな大正皇后様の所へ聞こえるでしょう。
「また椿を御召になる」というわけで、大正陛下の御用を済ませて戻ってきたら何だか御機嫌が悪い御声がして、女嬬が「いま行き遊ばすなよ」ってみんなでかばってくれて。
そのくせ大正皇后様の御用やれば御機嫌がおよろしいんですね。
あんなに恐ろしいことおっしゃっていたお御口で、本当に舐めるように優しい御言葉をくださるんです。
もう涙が出て、御側に出られなくなるんです。
大正皇后様は崩御になるまで御召もお解き遊ばす間もなしで、御側を離れずずっとおつき遊ばしてました。
最期に大正陛下の血行が悪くおなり遊ばして耳たぶが固くなりました時に、大正皇后様がお気づきになって、「御耳が少しお固めにおなり遊ばしてるで」って仰せになりました。
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『高松宮日記』
人の死に直面したのは、おもう様のおかくれになった時。
午後侍医頭や侍医がずっと並んで、御廊下の外に侍従や武官がずっと控えたことがあったが、その時はそれなりに解散した。
そしてその夜にまた並んだ時におかくれになった。
お水をあげてから、八代〔侍医八代豊雄〕がおつむを持ってあげた、御目の上にガーゼをかけた。
昭和陛下が手を御合せになって拝んでいらっしゃったのを、まことに不思議のように拝した。
あの宵のうちだったろうか、痙攣の御足を押えて、その時もおたた様はすぐに手を洗うようにおっしゃったので洗った。
風と雪がただごとならず、外の様子を見た。
その数日前だったか、おぐしがとても臭かったことがあった。
いや、おかくれの日だったかもしれぬ。
御枕上に行っておつむを押えるのがなかなか臭かった。
本当にすすいであげたかった。
一度下がって出た時にはもう何ともなかった。
その時も昭和陛下が押さえて下さっていた。
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■妻 貞明皇后 九条節子 九条道孝公爵の娘
1884-1951 66歳没
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岡部長章『回想記』昭和天皇の侍従
宮内官には伝染予防規定というものがありました。
制定されたのは大正皇太后〔貞明皇后〕がチフスになられたのが原因と入江侍従から聞かされました。
大膳の方から大宮御所へも人が詰めていて、大膳の係がいろいろ作っていたのです。
だからチフスになるのはおかしいというので侍医がいろいろが調べてみると、大正皇太后は五摂家の九条家のお生まれで早くから東京府下の農家に里子に出され、その時からお好きなものがあるのです。
それを女官が魚河岸で買ってきて、お側で作って差し上げるのがお楽しみで、この女官奉仕のことを「お清流し」と申したそうで、「お夕食はお清流しで…」という言い方をしていました。
そこから黴菌が入ったので、それをおやめになるように願いを、同時に伝染病予防規定ができたそうです。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人
中年以降の大正皇太后〔貞明皇后〕は落ち着いた気品のある態度を持っておいでになったが、御運動の時など吹上御苑から本丸の方にまで歩いておいでになって、属官などは途中で疲れてしまいずっと遅れてから行き着くこともあったが、そういう時など「男子のくせに」と一本釘を打ってお笑いになった。
大正皇太后にはどこか勝ち気でさっぱりしたところがおありになったようにお見受けした。
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久世通章子爵の娘久世三千子→山川黙の妻山川三千子 明治天皇の女官〈桜木の局〉
貞明皇后は個性の強い方でございました。
また、秩父宮を特に愛しておいでになったのは事実です。
大正陛下を失われてからの貞明皇后は、まるで黒衣の人と言われてもよいような黒一色の生活をされ何がためとありましたが、その謎はやはり御自分の心だけが解かれるものでしょう。
「御賢明にわたらせられすぎて」と嘆いた人もあったとか。
亡き大正陛下を偲ばれる時があるなら、ふと浮かぶ懺悔の御心持がなかったとは申せませんでしょう。
天皇があられたらばこそ、皇后になれたのですから。
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*貞明皇后は自分と同じ誕生日の二男秩父宮を溺愛した。
*三男高松宮より10歳年下の四男生まれてからは末っ子三笠宮を溺愛した。
●迪宮裕仁親王 昭和天皇 久邇宮良子女王と結婚
●淳宮雍仁親王 秩父宮 会津藩主松平容保の孫/外務官僚松平恒雄の娘松平勢津子と結婚
●光宮宣仁親王 高松宮 将軍徳川慶喜の孫/公爵徳川慶久の娘徳川喜久子と結婚
●澄宮崇仁親王 三笠宮 子爵高木正得の娘高木百合子と結婚
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加藤鋭伍/京極高鋭 加藤照麿男爵の子・京極高頼子爵の娘京極典子の婿養子
1906年4月、当時学習院幼稚園の園児であった6歳の私は、父に連れられて赤坂の皇孫御殿に参上した。
当時皇孫殿下には吉松・原田・長田という三人の侍医が奉仕され、父の加藤照麿が主任侍医を務めていた。
私が皇孫方の御相手に決まった時かつて宮中に奉仕したこともある祖母や母はその光栄に感激したが、父は秘かに不安の念を抱いていたようであった。
私がいよいよ御殿に参上する前夜、父はしみじみと私に注意をした。
それは御二方〔昭和天皇と秩父宮〕の御相手をする時、決して遠慮をしてはならない。
玩具などは自由に使え。
宮様と相撲を取っても故意に負けるようなことをしてはならぬ。
子供は子供らしく遊べばよいが、言葉だけはくれぐれも注意をするように言われた。
私たちはお付きの方々から「御相手さん」と呼ばれ、御二方と御一緒にずいぶん勝手気ままな遊びをいたしました。
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『御側日誌』
1915年5月2日
高松宮は活動的よりも静止的お遊びを好ませ給うこと、動植物を御愛玩遊ばさること、かねての御趣味ながら、ことにカナリアの卵生まれてよりこれをお慰め遊ばさる。
文鳥 姿・色とも美しからざれば、
秩父宮は「あれは死ねばよい」「誰かにやろうか」などと仰せらるれど、高松宮はなお御愛情御保護遊ばさる。
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『高松宮宣仁親王』高松宮宣仁親王伝記刊行委員会
思いやりのある生真面目な「仁」の昭和天皇。
活発で決断力に富んだ「勇」の秩父宮。
素直で思慮周密な「知」の高松宮。
御側に仕えた人たちの書き残したものを見ると、少年時代の御兄弟の性格をこうとらえていたおうである。
大正皇后のところへ三宮〔昭和天皇・秩父宮・高松宮〕でよくお伺いするが、両兄宮は外で走り回っておられるのに、高松宮は室内で静かに遊ぶことが多かった。
大正皇后から「落ち着いた宮さん」としばしば言われたように、特に秩父宮と対比して「静」の御性格であった。
いつもニコニコと顔色をお変えにならない三笠宮に比べて、高松宮はどちらかと言えばワガママ。
おイヤな時はすぐ御気持が御顔に現れる。
高松宮は大変率直な言動をなさった。
1915年学習院中等科に進学された高松宮は初めてゴルフのクラブを手にされた。
このころ東宮〔昭和天皇〕はゴルフがお好きで、日曜日など三宮〔昭和天皇・秩父宮・高松宮〕でクラブを振っておられたものだ。
傅育官長三好愛吉もちょうと英国紳士の気風を御教育の参考にと考えていた矢先だったので、ゴルフを御推奨した。
ところがしばらく経つと秩父宮の、
「ゴルフは老人のやるスポーツで、我々青年のやるものではない」
「ゴルフは金のかかるスポーツで贅沢な遊びだ」といった言葉が一緒にコースを回っていた高円宮御付武官桑折英三郎の耳にたびたび入ってくるようになり、まもなく秩父宮はゴルフをやめてしまわれた。
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『秩父宮雍仁親王』秩父宮を偲ぶ会
明治天皇は皇孫方に対して、早くから乗馬と船に慣れるようにとの御希望があった。
それゆえ明治天皇から皇孫方への御下賜の玩具類は木馬や船が多かった。
1911年2月16日小笠原長生を招いた学習院長乃木希典は、
「東宮殿下が学習院の初等科を御卒業になりましたならば、御所内に特別に御学問所を設置し、そこで御修学を願う」と述べた。
東宮御学問所の総裁に東郷平八郎、幹事に小笠原長生を置き、乃木は相談役のようなつもりであったらしい。
1912年9月13日明治天皇の御大喪が決定すると、乃木から小笠原に会いたいとの電話があった。
9月8日小笠原が学習院へ行くと、乃木は学習院に関して種々懇談した。
特に皇子御三方〔昭和天皇・秩父宮・高松宮〕の御教育や将来について、熱心に詳細な意見を述べた。
小笠原が「では、お暇させていただきます」と立ち上がると、乃木は突然小笠原の手を堅く握った。
「しばらくはお目にかかれまい。くれぐれも御自愛を祈る」と囁くように言った。
小笠原は自宅に帰ってから封書を開封した。
帰り際に乃木から帰ってから読むようにと託されたものであった。
小笠原は「大正皇后はよほど秩父宮がお可愛いのだな」と、なにげなくつぶやいた。
小笠原かが妻子にふと漏らした片言から、次の三つの点が推察される。
第一に、乃木は御三方の御教育に関して後事を小笠原に託した。
第二に、小笠原はその内容から乃木の自刃を予知していた。
ただし、静子夫人までが自刃するとは思っていなかった。
最後に、貞明皇后が秩父宮を偏愛されることを心配して、この点を特に小笠原に依頼したことである。
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戦後の座談会
鈴木タカ 皇子養育掛
前田利男 皇子傅育官・秩父宮務官
石川岩吉 皇子傅育官・高松宮務官
鈴木◆秩父宮様はお子様の時から海軍が御希望でした。
高松宮様は舟にお乗りになるとすぐお酔いになるんです。
高松様はお馬が好きでいらっしゃいましたから、陸軍でということで。
前田◆やはり東宮様〔昭和天皇〕は陸軍海軍ということだから、その次は陸軍だと。
石川◆高松宮様は海軍がおイヤだったんだがな。
やはり陸主海従というのでね。
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石川岩吉 皇子傅育官・高松宮務官
その頃の学習院への御通学は、オープンの二頭立て馬車で往復された。
沿道には多くの市民の目があるのに、夏の暑い時など秩父宮様は平気で制服の袖をまくられたりされていた。
高松宮様は謹厳そのもので、決してそうしたことがなかったのに比して好対照だった。
乗馬の御稽古なども、正確な規則通りに習われる高松宮とは異なり、秩父宮様は御自分の流儀が相当入っていた。
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秩父宮雍仁親王
両親とは同じ囲いの中に住んでいたから、より世間なみに近いものがあった。
しかし住居は離れていて、両親にはそれぞれいろいろのご用や約束もあり、また稽古もされていたから、まあ、2週に3回ぐらいといったところだったろう。
その合間には父母の方から訪ねられもしたし、また庭などでお目にかかることもあった。
この頃の父上は非常にお元気で、ごく気軽に運動の途中などで突然立ち寄られることもよくあったから、母上よりもむしろ父上の方が多く僕らの家に来られたくらいだ。
父上も鬼ごっこなどに加わられることもあったが、その時は家が割れるようなにぎやかさだったという。
また寝る様子をわざわざ見に来られた時などは、僕らがうれしくて床に入ってもいつまでもしゃべっているので、とうとう眠りにつく前に帰られた。
食事が終わるとよく食堂の後ろのピアノのある室で合唱をした。
母上がピアノを弾かれ、侍従・武官・女官に父上も加わられて、軍歌が多かったように思うが唱歌もいろいろ歌われた。
なにしろ調子を無視して蛮声を張り上げるのだから、実にやかましいにぎやかなものだった。
しかしこんな雰囲気は親子水入らずではないが、思い出しても楽しいものである。
もっとも忘れられないことの一つに父上と将棋をさしたことがある。
父上からの挑戦に、図々しくも平手で応戦したのだ。
まずあまりに立派な盤と駒に度肝を抜かれ、お相手将棋ではない初めての他流真剣試合、勝ってが違って堅くなっている間に駒を片っぱしから取られ、残念さに涙が浮かんでくる始末。
いよいよあがってしまって、あっけなく一敗地にまみれた。
しかしこれが一生一度の親子でさした将棋であったと思えば、いつまでも忘れられない一番ではある。
父上は天皇の位につかれたために確かに寿命を縮められたと思う。
東宮御所時代には乗馬をなさっているのを見ても、御殿の中での御動作でも、子供の目にも溌剌として映っていた。
それが天皇になられて数年で別人のようになられたのだから。
あるとき兄上〔昭和天皇〕とこんなことを話し合ったのであった。
兄「質素が好き。だけど身分があるから困るね」
弟「そうなの、不自由なんですもの。花屋敷なんどへ行かれないんですもの」
兄「華族でもいけません」
弟「華族でなく士族がよろしいでしょう」
どうもわかったようなわからないような会話だが、数年前に一度行った花屋敷がよほど面白く忘れられなかったものらしい。
一つしか違わない兄上は、僕の時々爆発する乱暴には困らせられたに相違ない。
そのくせ僕は一歩家の外に出ると、兄上と一緒でない時は実に意気地がなかった。
いわゆる内弁慶だったのだろう。
あるひ兄弟三人で話し合っていた時、
高松さんが「耳は【のもじ】(糊)でくっついているのでしょう?」と言うので、
僕はさっそく「いいえ、血でついています」といかにも知ったかぶりで教えたつもりでいたところ、
兄上は「いいえ、耳は肉で顔についています」と。
知力の程度がこれだけ歴然としていては頭も上がらない。
一つぐらいは褒められた話もよいだろう。
宮内大臣土方伯爵がお土産として博多人形を3つ持ってきた。
加藤清正と楠木正成と柴田勝家が寝て秀吉に足をもませているところの3つだった。
誰が見ても子供が欲しそうなのは、はじめの二つだ。
兄上はいつものように弟二人に「どれが欲しいの?」と尋ねられたから、僕も高松さんも武将のどちらかを欲しいと答えた。
兄上も同じのが欲しいに決まっている。
デッドロックである。
兄上は考え込んでしまった。
兄上はいつも欲しいものも弟に譲っているのだから、たまには自分の欲しいのを先に取ってもよいだろうぐらいな気持ちで二つのうちの一つを取った。
次の番は僕だ。
進退窮まったとは、まさにこのような時をいうのだろう。
このたびは高松さんが気をもむ番になった。
この場合柴田勝家をあっさりと取るべきだとは百もわかっているのに、誰もが嫌な物を自分の物にするのがたまらなく悔しいのだ。
ウルトラ勝気というものだろうか。
僕は目に涙を浮かべて悲壮な声で「あげましょう」と言って柴田勝家を取った。
そして高松さんが「ありがとう」と言って残ったのを取った時には、ホッとして重荷がおりた感じだった。
後から考えれば実に笑うべきジェスチュアだった。
その翌日「あれだけ我慢ができれば結構だ」と褒められたのは、さすがにうれしかった。
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