直球和館

2025年

2001/03

◆123代 大正天皇(明宮嘉仁親王)122代明治天皇の子
1879-1926 47歳没


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西園寺公望公爵 総理大臣

大正天皇が御年少の時の話だが、伊藤博文公爵の別荘に来られたことがあった。
網を打って御覧に入れた際、
「これはここの浜で獲れました」と魚を持って来て御披露申し上げたところ、
お随きして行った者の中にはこんな浜では獲れやしないと思っておかし気に振る舞った者があったが、
大正天皇は「主人がこれをここで獲れたと言うのだから、ここで獲れたでいいじゃないか」と言っておられた。
誠に聡明な方であった。
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権命婦 樹下定江〈松の局〉1927年

大正天皇様は申すも畏いことながら、御幼少より御健にましまさず、明治大帝はもとより御側の方々も一方ならず御心配申し上げ、朝夕神仏に御成長をお祈り奉ったほどでございました。
御大患御本復の御祝の際には明治大帝は御心から御満足そうに御酒を召し上り、畏くもお嬉し涙さえ拭われつつ、
「これでわしも安心した。あの人に万一のことがあったら国民に対しても相済まぬわけで本当にどうしようと思ったが、まあめでたいことじゃ」とお漏し遊ばすのを承り、まことに畏れ多く思ったことがございます。

その後 御成人とともにますます御健康にならせられ、ついに東宮妃をお迎え遊ばす佳き日が参りました。
その折りの明治天皇の御満足と申せば、いままでかつて拝し奉ったことのないほどでございました。
皇孫殿下すなわち昭和天皇の御降誕のお喜び、それも拝察するにあまりあります。
御安産のお知らせの後は一日も早く皇孫殿下の御顔を御覧遊ばしたい御様子にお見受け申しましたが、初の御参内は御産服と申して30日間は御遠慮になりますため、その日をどんなに御待ち受けあそばしたかわかりません。
まるまるとお太り遊ばされた皇孫様が賢所の御拝を済まされ御内儀で御対面遊ばされるその日の大内山は、本当に瑞気のたなびくを覚えました。
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近衛兵 伊波南哲

大正天皇はフロックコートに山高帽といういでたちで4~5人の侍従に支えられて御姿を見せ、間断なく頭を上下に振りながら始終ニコニコしておられた。
このたびの関東大震災の御衝撃で、いよいよ御病勢が御亢進遊ばされたと漏れ承る。
あの御不自由なおいたましい御姿を拝し奉って、大正天皇の股肱の臣としてのわれわれ軍人は、いかにして一天万乗の御宸襟を安んじ奉ればよいのか、断腸の思いがする。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

大正天皇は金口のエジプト煙草か葉巻を相当お喫いになった。
節子皇后は細巻の金口煙草をお好みだった。

大正天皇は玉突がお好きで、女官なども御相手した。
明治天皇はことに乗馬がお好きであったが、大正天皇は馬はあまりおやりにならなかったのではないかと思う。
ふだん大正天皇がお乗りになっているのを、私はお見かけしたことがない。

明治天皇が崩御になって大正天皇が御位につかれたその直後、宮内省から私たち仕人に次のような訓示があった。
「大正天皇は誰にでも気安く話しかけられるから、仕人は決して大正天皇の御前に姿をお見せしてはならぬ」

私が最初に大正天皇の供奉をしたのは、明治天皇の御大葬が青山で行われた夜であった。
深夜に青山から半蔵門までを馬車でまっしぐらに駆けて行った時の光景がありありと瞼に浮かぶ。
真夜中であたりがシンと寝静まっている中を馬蹄の音がカッカッと強く鳴り響いた。
沿道には拝観の人影がかすかに見える。
馬車は全速力で飛んで行く。
危なくてしようがない。
私は馬車の上から人影に向かって 、「どけ!」「どけ!」と怒鳴ったのを今でも覚えている。
私はあの時 初めて大正天皇の御気性の一端に触れたのであった。
大正天皇は御乗物を早く駆らせて喜ばれるという無邪気なところがおありになった。
軍艦に乗られても「もっと速力を出せ」と命令されるので困ると海軍の将校から聞いたこともあったが、あの御大葬の夜は大正天皇御自身が主馬頭の藤波言忠に向かって、
「御所まで何分で帰り着くことができるか」と御下問になっているのをちらとお見受けしたのを覚えている。
その結果があの馬車の疾駆となったのであった。

御幼少の時、植木屋が桜の木を切っているのを大正天皇が熱心に御覧になっていた。
大正天皇は何本かの大きさの違った桜を指差され、御供の者に「それぞれ種類の違ったノコギリで何分で切ることができるか」とお尋ねになったので、御供の者はお答えができなくて弱った。
すると大正天皇は「これは何分、あれは何分」と一々御説明になったので、植木屋がきっているのを御自分で時間を計っておいでになったことがわかって謎が解けたことがあった。

また御幼少の頃 沼津で山中を御運動の際、大正天皇の御足があまりに早いので侍従がついて行くことができずに、とうとう大正天皇を見失ってしまった。
それからいくらお探ししても大正天皇が見つからず、ついに夜になってしまった。
供奉の者が青くなって大騒ぎをしたのはもちろんである。
するとひょっこり大正天皇が犬を一匹つれてお帰りになったので、ようやく一同胸をなでおろしたということがあった。

こうした御幼少の頃の話にもうかがわれるような御性質、ちょっと人を困らせてやろうといった王者の無邪気さや、それもどこか神経の鋭敏さの見えるやり方は大正天皇が御成人になられてからも随所にのぞかれたのであった。
ある時 御運動で養鶏所に行かれた。
係の者がお喜びになるようにと思って鶏小屋に卵を入れて置いたのであるが、大正天皇はそれを御覧になって「鶏というものは日付の書いてある卵を産むものなのか」と言われたので、係の者が恐縮したことがあった。
当時養鶏所で産まれた卵には一つ一つ何月何日の日付印が捺してあったのであるが、それをうっかり係の者が置いておいたのである。
また大正天皇は大勢の者が集まるところで御自分の御存知ない者がお目にとまると、必ずその人について御尋ねがあり、どこの者か・今何をしているか・親はいるのか・子供は何人あるのかというふうに詳細を極めたものであったので、御付の者がしばしがその人の所に何回も往復してお答えするという具合であった。
毎日の日課である御運動には必ずブランデーを持ってゆかれたもので、御自分でもよくお飲みになったが、侍従も御相手をさせられた。
そして侍従を酔わせてお楽しみになるというふうだったので侍従の方でも困ってしまって、しまいには大膳職の方であらかじめ麦茶をブランデーの瓶に詰めておいて侍従の方にはその麦茶を注ぐようにした。
それからは侍従がなかなか酔わない。
敏感な大正天皇もさすがにこれだけはおわかりにならなかったらしく、「お前はこのごろずいぶん強くなったな」などとおっしゃったそうである。

大正天皇が御不例になった年の夏には、私も大正天皇の供奉をして日光御用邸へ行っていた。
ある日大正天皇は御運動で日光山から御霊屋に回られて、その途中御脚に神経痛を御覚えになり、石段を御降りになることができず、侍従徳川義恕に背負われて降りてこられた。
その年の暮 葉山に行幸になったが、そこで御病状がさらに悪化し、激痛のため脳症を起こされて、翌年から健忘症におかかりになったのである。
大正天皇は御自分の御身体については神経質なほど気をお使いになっておられた。
大正天皇は御病気後、いっそう神経質になられた。
御運動の際に侍従がリンゴを差し上げると、そのリンゴが新鮮であるかどうか侍従にお尋ねになったので、侍従が新鮮であることを申し上ると、重ねて「誰が食べても当たらないか」と念を押されるので、当らない旨をお答えすると、初めて御安心の御様子で、しばらく一同を見回してからお気に入りの一人にそのリンゴをお与えになったという。
その時には神経痛もよほどお悪く、手の指を自由にお曲げになれないので、侍従が手のひらにリンゴをお乗せして、それから一本一本指を曲げて差し上げた。

このように大正天皇は陰ひなたある者や作為を極端に嫌悪されたが、後に大正天皇の御病気が進むにつれて、それがむき出しの嫌悪の感情になって表れたのであった。
大正天皇が御病気であるということから女官の中にはうかうかと陰ひなたの行動をする者もあったわけだが、大正天皇にはそういう行動が敏感におわかりになったらしく、そういう女官が御靴をおそろえした場合などは、大正天皇は決してその靴をお履きにならなかった。

崩御の前年になるとすっかり御脳にきてしまい、ひどい健忘症におかかりになったのである。
それでも運動をしなければ御身体に悪いと御考えになっていた御様子で、よく廊下を歩いておいでになるのを御見受けした。
廊下を御歩きになりながら、御自分の気をひきたて鼓舞するようによく軍歌を唱われた。
その軍歌は決まってあの「道は六百八十里」というのであるが、健忘症にかかっておられたから、「道は六百八十里、長門の」とまで唱われてもその後をどうしても御思い出しになれない。
それでまた「道は六百八十里、長門の」とお唱いになる。
それをしょっちゅう繰り返されながら、力づけるような御様子で大正天皇が廊下を歩いておいでになる。
その御姿を拝して、私はなんとも言えないおいたわしい感じを受けたものであった。
当時葉山の御用邸には九官鳥を飼ってあったが、その九官鳥がいつしか大正天皇の「道は六百八十里」を覚えこんでしまって、大正天皇が唱っておいでにならない時でも森閑と静まり返った御廊下で「道は六百八十里」とひとり唱うので、女官などはよく大正天皇とお間違えした。

当時御用掛をしていた稲田・三浦・平井・青山など当時における内科医の権威たちが拝診したのであったが、御容態は非常によろしい、万々歳であるという結果を得て節子皇后に言上したのであった。
各博士とも葉山を引き上げ、東京に帰ってしまったのである。
ところが翌日から御病状が急に変わって大騒ぎとなった。
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久世通章子爵の娘久世三千子→山川黙の妻山川三千子 明治天皇の女官〈桜木の局〉

大正天皇はただ一筋に明治両陛下を御尊敬になっておりましたので、
「私を生んだのは早蕨〔早蕨の局・柳原愛子〕か。おたた様から生まれた大清(おおぎよ)だと思っていたのに」と仰せられ、大変残念がっておいでになっとか承りました。
つまり臣下からお生まれになったのが、おイヤだったのです。

明治天皇は御体格も立派であったし、落ち着きはらって堂々とした御態度は、外国使節などからも尊敬されておいでになりました。
けれど外人との御交際はあまりお好みにはならないようで、
「秋の観菊会は、大演習の留守中に美子皇后だけで済ましてもらうよ」などと仰せになっておりました。
1911年の秋は福岡県下で大演習が行われましたが、そこからお帰りになったある日の御食事中、
「わしは京都で生まれたからあの静かさが好きだ。死んでからも京都に行くことに決めたよ。今日侍従長徳大寺実則を呼んでその話を始めたら、
『そんな話はまあまあ』などとなかなか聞かなかったけれど、
『人間どうせ誰でも一度は死ぬものだ。あの皇太子〔大正天皇〕では危ないから、何もかもわしが定めておくのだ』と無理矢理聞かせたが、大演習の帰りに汽車の窓から眺めたら御陵にちょうどいい場所が京都にあって、少し離れて小さめの山と二つ並んでいる。小さい方は美子皇后が入るのだよ」と御話になっているのを御配膳しながら承りました。
それが桃山両御陵でございます。
「今は何でも外国使節が出て来るが、東京の式だけは仕方がないとしても、それが済んだら後は日本人ばかり、ことにわしのことをよく考えてくれた人を主として京都で昔風の葬儀をするのだ。もし外人が送ると言っても、名古屋から帰ってもらうんだよ」などと細々の物語を遊ばしました。

侍従長米田虎雄についてはいろいろな思い出話がございます。
明治天皇が崩御になりましたとき御枕元においでになった皇太子様〔大正天皇〕が、お水をお上げになるのに勝手がお分り遊ばさないのか物怖じしたようにぐずぐずしておいでになりました。
御様子を拝見していた米田侍従は「殿下」と一言叫ぶと同時にすっくと立ち上がり、後ろから皇太子様の御手を持って明治天皇の御口に水を差し上げました。
各皇族・各大臣以下並み居る人々が皆ハッとしてこの様子を見ておりました。
また大正天皇は言上があまり長くなると御退屈で椅子からお立ち上りになるので、それを防ぐために米田侍従が後ろから御上着をしかと押さえておりました。
何をしても誠意から出る頑固さで誰からも好感を持たれ、本当に気概のある痛快な人でした。

11月23日は新嘗祭。
御輿を担ぐのは八瀬の童子といわれて、京都の八瀬村から召された体格のすぐれた仕人で、その人たちが奉仕することになっておりました。
同じ八瀬童子たちが大正天皇の御輿を担ぎましたので、
「明治天皇は御身体が大きくて重かったでしょうが、大正天皇は軽くて楽でしょう」と聞きますと、
「明治天皇は重くてもちっともお動きにならないのでよかったが、大正天皇はひょこひょこお動きになるので危なくって困ります」と答えたとやら聞きました。

大正天皇は議会に行幸の時、御手元にあった勅語の紙をくるくる巻いて会場をお眺めになったとやらは有名な話になってしまいましたが、姑〔元女官山川操〕と共に叔父山川健次郎男爵の宅に参りました節にも、実際に拝見した健次郎が姑と話し合っているのを聞きました。
しかもこんなことまで美子皇太后〔昭憲皇太后〕の御耳に入っておりましたのですから、明治天皇崩御後はなかなか御心配が絶えませんでしたろうと存じます。

御参内の時に美子皇后の御機嫌伺にお通りになった嘉仁皇太子〔大正天皇〕が、御自分の持っておいでになった火のついた葉巻を私の前にお出しになって、
「退出するまでお前が持っていてくれ」との仰せ。
やむを得ず「はい」とお受けいたしましたものの、並み居る人たちから冷たい視線を浴びせられて身のすくむ思い。
紫たなびく煙をうらめしく眺めておりました。
何でもないようなことでさえ、とかく男の人が相手となるとうるさい世界なのですが、それが皇太子様とあってみれば、知らん顔でそっぽを向いているわけにもいかず、何とかお答えも申し上げねばならぬ次第でございます。

〔明治天皇崩御後〕大正天皇は青山御所から毎日宮城に出御、節子皇后も始終おいでになるので、それまではあまり顔も知らなかった東宮女官たちとも度々出会い御話もするようになりましたが、何かと全体の風習が違うらしく、節子皇后のピアノに合わせてダンスなどしていられたとか聞く通り、みななよなよとしたいわゆる様子のいい方ばかり。
それに引きかえこちらは力仕事などもする実行型といった人が多く、ちょっとソリの合わないような感じを初めから受けました。
ある時 御廊下を歩いてまいりますと、大正天皇にばったりお出合いいたしました。
頭を下げて御通過をお待ちしておりますと、お立ち止まりになった大正天皇は、
「お前は絵が上手だってね」と仰せられる。
「いいえ、そんなことはございません」
「では、何か歌がうたえるだろう」
「まことにふつつか者で、何の心得もございません」
「自分の写真を持っていないか」
「一枚も持ち合わせておりません」
と、一歩一歩後ろに身を引く私、大正天皇は一歩ずつ前に進んでおいでになる。
困ったことになったと振り返って見ると、ちょうど廊下の御杉戸の前でした。
すばやくこの戸を引き開けて身を入れると、深く頭を垂れました。
そのとき御供の侍従が来ましたので、そのまま御通過になりました。
まだ胸のドキドキしているのを感じながら席に帰ってまいりましたが、口うるさいこの世界のことですもの、度々こんなことに出合ってはどんな噂をされるかわかりません。
その頃から人員整理の噂が口々にのぼるようになりました。
整理されるぐらいなら自ら辞して生家に帰ろうかしら、しかし別に結婚するいい相手があるわけでもなし、また日夜おさびしそうな美子皇太后の御様子を拝見しておりますと、たとえ何のお役に立たなくとも及ぶ限りはお慰め申し上げよう、だが大正天皇の方へは絶対に行きたくないと思いました。
そのうちとうとう恐れていた時が参りました。
早蕨の局〔大正天皇の生母柳原愛子〕が、
「あなたも薄々は知っておられるでしょうが、いずれ人員整理がございますから、大正天皇の方へ勤めれば一家一門の光栄はもとより、あなたの身にも箔がつくというものですから、そのように手続きを取ってあげましょう」と。
「それは誠にありがとうございますが、今しばらく考えさせていただきます。親たちにも相談いたしたいと存じますから」と答えました。
早蕨の局は「ああ、さようでございますか」とあまりいい顔はなさいませんでした。
実にこまりましたが、そう長く黙っているわけにも参りませんから、数日後意を決して早蕨の局に申しました。
「今まで通り美子皇太后にお使いいただくなら奉職いたしたいと存じますが、こちら様に御不用ならば生家に帰らせていただきます」
「ああ、あなたはそうのようにお考えですか。では、何とでもおよろしいように」といかにも冷ややかな言葉、だいぶ立腹された様子でございました。
今まであんなに面倒を見てあげたのに、自分の顔をつぶしたと思っていられたのでしょう。
公私ともにいろいろと御世話になったのは十分感謝しているのですが、それとこれとは別の話で同一に考えられてはこちらもいささか迷惑でございます。
宮中でも有力なこの人をこんなに怒らせては後はどう出られるかわからないのですが、それもやむを得ないので、すべては成り行きに任せようと決心しました。

弟の侍従久世章業が「ちょっと京都まで行きますが、何か御用はありませんか」と言いますので、
「何をしに行くの?お暇をいただいたのですか」
「いいえ、勅命のお使いです。先日お姉さんは大正天皇に写真は手元にございませんと御返事されたでしょう。だからそれを取りにいくのです。なるべく小さい時のにしましょうか」
「そうね。13歳以下のものがたくさんありますよ」と言って別れました。
大正天皇ははよく誰にでも写真をと仰せられて、御手元にはだいぶ女の写真もお持ちになりましたのです。
写真をお集めになるのは一種の癖とは思っておりましたが、何か晴れきらぬ心は自分ながらどうしようもありませんでした。
なぜそうまで御心におかけ下さるのか、どうもちょっと。

やがて宮城には大正両陛下が、美子皇太后は青山御所にお移りになりました。
宮城にお移りになってからも、大正天皇はよく青山御所へおいでになるのです。
すると必ず私を御召になりますので、はじめのうちは我人ともにあまり気にもかけなかったのですが、姿の見えない時までも必ず名指しで御召になって何かとお話かけになるので、いささか迷惑に思う時もございましたし、大正両陛下おそろいでおいでの時などはちょっと困るような場合もあります。
そばにいる同僚たちから、
「ちょっと、節子皇后のお御顔をご覧なさい」などとささやかれると、それでなくてさえ節子皇后が、
「あの生意気な娘は、私は大嫌いだ」とおっしゃったとやら、聞かせてくれた人もございましたので、なんとも引っ込みがつかないのでございました。
美子皇太后と御一緒の時でも、
大正天皇は「今日は歌を教えてあげるから一緒に歌いなさい」などと調子はずれの大声でお歌いになったりするので、
美子皇太后は「こちらではそのようなことを致せませんから、あれにはできませんでしょう」といつもお助け下さるのでございました。
こうしたことが度重なるにつれてただ御冗談ばかりとも思えず、人の噂もやかましく何とかしなければと考えるようになりました。
もしも大正天皇が「こちらに寄こせ」などと御言葉にお出しになれば、鶴の一声でどんな理由があろうと絶対に動かせないあの時代の掟なのでございますから、皇太后宮大夫香川敬三も頭を悩まし、病気欠勤ということになりまして、
「大正天皇おいでの時は出勤しないでよい」と申し渡されました。
香川大夫は「万一にも病気ということで差し支えが起こったら、私と侍医が証明するから」とまで言って下さいました。

大正天皇御大患と承って、婚家の母〔元女官山川操〕は取り急ぎ葉山御用邸に御見舞に参殿、いろいろと御様子を伺って参りました。
「この次に伺う時は一緒に出ましょうよ。大正天皇はお分りになるかどうかわかりませんが」と言っておりましたが、その時もまだ来ぬうちに崩御になって宮城にお帰りになりました。
常日頃 御内儀ではあまりなにごとも思召のようにならず、時には御不満の御様子などもあるとやら、うすうす承っておりましただけに、いとど御同情申し上げてはおりましたが、こんなにお若くて崩御になろうとは夢にも思っておりませんでした。
姑〔元女官山川操〕は節子皇后が妃殿下として御入内の節 宮城からの御使として九条公爵家までお迎えに上ったという特別な御間柄にもかかわらず、大正天皇崩御後宮城に出た姑は申の口の上までも上がらせられず下から遥拝させられたとか。
さすがの姑もいささか心良からず思った様子で帰って来ての話に、ああ私など御見舞にも上がらないでよかった、出て見たとて恥をかくぐらいのもの、遥拝ならどこからだって同じことです。
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明治天皇・大正天皇に仕えた女官〈椿の局〉梨木止女子→坂東長康の妻坂東登女子 

大正天皇は昔からの明治天皇の仰せになるような言葉で仰せになった。
昭和天皇はいくらか大正天皇にお似ましのようですね。
秩父宮は下方にお成り遊ばしてるので、兵隊の中で揉まれてござるわね。
一般の人にふさわしいような、近いような御言葉ですわね。
今の明仁皇太子〔平成天皇〕は余計もう、さばけておいでになる。
それにお付きしてる人がみんなそんな粗雑な言葉を使うので。

大正天皇は美子皇太后のことを御大事に遊ばして、御自分さんのおみ足がお悪いのに、御自分さん後ろ向きに御階段の御下にお下がり遊ばして、御手々をお持ち遊ばして、
「お危のうございますよ、お危のうございますよ」と仰せになって、お労り遊ばすんですよ。
美子皇太后は御涙をためて「恐れ入ります」と言わしゃって、ほんとにお美しいですね。

拝謁は朝の御膳がお済み遊ばしてからでなきゃ拝謁願わんことにしてますが、それでもお昼御膳の時なんかでも御覧物が上がるでしょう。
そうすると御膳途中でも出御になるんですの。
普通の人ならここへ持ってこいって言うようなもんですけどね。
ところが大正天皇はいちいち御学問所までお出ましになる。
途中ですっとお立ち遊ばして、13段も17段もある段を下りたり上がったり遊ばすわけ。
大正天皇は「国のことだからな、時間は言っておれんよ」って仰せになる。
だからお昼の御膳でも一時いっぺんで召し上がったことないですよ。
そいで私たちもむろん一度で御飯食べたことない。

大正天皇は普段は夜の12時まで御勉強ですよ。
御書をお読み遊ばしたりね。
そのあいだ節子皇后は御歌を遊ばしたり、いろいろ御書をご覧遊ばしたりしておいでになる。
大変な御勉強家でした。
節子皇后はおつむ〔頭〕がすごくおよろしいのに、大正天皇はまたもう一つお賢かったもんで、節子皇后が追いつけんとおっしゃったくらい、大正天皇は天才的っていうんですかね。
あんまりおつむさんが良すぎて、御身体がお弱くあらしゃったんだと思いますよ。

お弱さんで幼さんの御時分からみんなが御心配申し上げたもんでそれがお嫌いで、お風邪さんでもね御鼻をおかみになるということはない、ハンカチで吸い込ませるようにしておいでになる。
お気が強くてね、「言うなよ、風邪って言うなよ」って仰せになる。
みんな存じ上げてござっても黙ってることにしました。
「内緒にしとけ。みんなに心配かけるから」っておっしゃって、お優しいことでした。

お好きさんはお馬、御乗馬でした。
新聞は端から端まで御覧遊ばすんですよ。
大正天皇の方は四紙ぐらい上がって、節子皇后の方も四つぐらい上がるんですよ。
私たちは世間の話もあんまりわからんもんで、馬鹿みたいなこと言うとお笑いになる。
大正天皇も節子皇后も私たちより下々のことよく御承知ですよ。

大正天皇はとってもお茶目さんでしたよ。
写真を撮るいうたら、おかしな百面相みたいなことしてお笑わしになるんですよ。
わたしくなんぞ写真を撮ろうとすると、大正天皇が向こうでこんな格好するんで、わたくしこんなして笑ってるとこ写ってる。
ひょうきんな御方さん。
まあよう、おいた遊ばしてね。
御散歩にはお犬さんがたくさん御供するの。
それでね、わざとね、御階段のとこの駒寄せを開きっぱなしに遊ばして追い込み遊ばすもんで、犬が御座所を走り回るんですよ。
たくさんの犬、女官が困るのがね、それが面白い。
わたくし達ワアワア騒ぐだけで、御座所を通り抜けることができんでしょう。

大正天皇は御菓子を女官に御下賜くださるのがお楽しみでした。
あんまり下さったりすると節子皇后は御目々近目だもんで、こんな目して御覧遊ばされるから、
「大正天皇、もう結構でございます」って言って逃げて行くようにする。
大正天皇は逃げて行かんようにギューッと手を掴んでならしゃる。
わたしく始めはね、奥で大正天皇の権典侍をすることに決まってた。
節子皇后が御反対で、御遠慮して命婦にしていただいたんです。

大正天皇は私の姿が見えたら「お皿持ってこい」と仰せになる。
お皿をお持ちすると手をガッとお掴みになって、御自分さんの側から逃げていかんように押さえてならしゃるんです。
そうすると節子皇后はあの近目さんだもんで、こう変な御目々で御覧遊ばされるんですね。
一時はちょっと御機嫌が悪うて、ちょっとヒステリーみたいにおなり遊ばしたことあるんですよ。
それでわたくしは御給仕の時はなるべく陰へ陰へ行くようにしてるんですが、わたくしは、いるが忠義か、いないが忠義かと思ってずいぶん悩みました。

おクッションでも節子皇后はちょっと御手々が荒くて、わたくしが上げれば大正天皇は黙って座ってらっしゃる。
そいで「節子、いいよ」って仰せになるんで、よけい御機嫌が悪うなる。
節子皇后は少々御膳がお早いなと思ったと思った時は御機嫌が悪い。
「さ、行こ」と仰せになって玉突き所へおなりになるんですけどね。
大正天皇は玉突き所でもわたくしを召されて、追っかけてテーブルの周りをお回り遊ばされるんで、しまいにはシャッと下へ入って向こう側へ逃げる。
そうでないと頬をベチョベチョお舐めになるんが、気持ち悪うて気持ち悪うて。
それで節子皇后は更年期障害があらしゃる時分、ちょっとお気違いさんみたいにおなりになったみたい。

裕仁皇太子〔昭和天皇〕摂政にお立ちになったのは関東大震災の後ですね。
御命が短うてもええから摂政せずに御代のままでっておっしゃる方と、それよりかゆっくりと長生きおさせした方がええとおっしゃる方と二派に分かれまして。
裕仁皇太子が摂政におなり遊ばされてからは、あちらの侍従が馬鹿に権威をふるって。
こんなことなら御命短うても御代でならしゃっていただいたら良かった、御隠居さんみたいに押し込め奉って。
大正天皇は夜中でも御覧物が上がってるから着物を着替えると仰せになってね。
「ただいまは摂政がお立ちであらしゃいますから御安心遊ばして」って申し上げると、
「ああ、そうだったな」っておっしゃってね。
御寝なさってても御政務がお気になった御様子でした。

大正天皇の御病気が悪くなったんは、日光御用邸に行く前年からですね。
大正天皇はそれからお持ち直しになって日光に行幸になり、またお悪くなって葉山御用邸に行幸になったんです。
節子皇后は御反対でも何ともしようがありませんでした。
御自動車を召さすとき、「イヤ」と仰せになった。
自動車の中では兵児帯で御椅子にお結きしたんです。
そうしなきゃ、シャンと遊ばされん。
そんなにしてまでお連れ申さなならんのか、侍従さんもみんな反対。
「今度は最後の行幸だからそのつもりをしなさい」って節子皇后も仰せになって、喪服のこととかみんな御注意でね、宮様の喪服もみんなちゃんと御用意して行ったですね。
途中でもしものことがあったらというので、お気に入りの黒田侍従が御陪乗で、注射器持ってらっしゃったですもんね。
私たちも注射差し上げられるようにちゃんとしました。
御側に御注射器を揃えて、消毒して御戸棚にみんな入れて用意してましたね。

葉山の御用邸は三笠宮がおややさん〔赤ちゃん〕の時にできた御別邸ですもんで、御殿としたら狭い狭いところです。
酸素吸入だっていちいち東京まで取りに来んならんでしょうが。
そんな御不自由しなくたって、御所に御寝ならしゃったら、もっと御手当がちゃんとできたでしょう。

大正天皇は御舌が楽に動かない、御舌がもつれる。
とにかく気持ちが悪いから、舌をお噛み遊ばしましたよ。
こうやってクッってね、御舌を歯でお嚙みになって。
大正天皇が御異例さん〔御病気〕の時分も、ちょっと舌がもつれて仰せにくくなった時があったもんでね、こちらで御様子をうかがって先に申し上げると「アッ」〔そうだ〕と仰せになるんで、
ついやっぱり「椿を呼べ!」って仰せになるわけですね。
日光御用邸ではあんまりベルをお鳴らしになるので、みんな節子皇后の所へ聞こえるでしょう。
「また椿を御召になる」というわけで、大正天皇の御用を済ませて戻ってきたら何だか御機嫌が悪い御声がして、女嬬が「いま行き遊ばすなよ」ってみんなでかばってくれて。
そのくせ節子皇后の御用やれば御機嫌がおよろしいんですね。
あんなに恐ろしいことおっしゃっていたお御口で、本当に舐めるように優しい御言葉をくださるんです。
もう涙が出て、御側に出られなくなるんです。

節子皇后は崩御になるまで御召もお解き遊ばす間もなしで、御側を離れずずっとおつき遊ばしてました。
最期に大正天皇の血行が悪くおなり遊ばして耳たぶが固くなりました時に、節子皇后がお気づきになって、「御耳が少しお固めにおなり遊ばしてるで」って仰せになりました。
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『高松宮日記』

人の死に直面したのは、おもう様のおかくれになった時。
午後侍医頭や侍医がずっと並んで、御廊下の外に侍従や武官がずっと控えたことがあったが、その時はそれなりに解散した。
そしてその夜にまた並んだ時におかくれになった。
お水をあげてから、八代〔侍医八代豊雄〕がおつむを持ってあげた、御目の上にガーゼをかけた。
昭和天皇が手を御合せになって拝んでいらっしゃったのを、まことに不思議のように拝した。
あの宵のうちだったろうか、痙攣の御足を押えて、その時もおたた様はすぐに手を洗うようにおっしゃったので洗った。
風と雪がただごとならず、外の様子を見た。
その数日前だったか、おぐしがとても臭かったことがあった。
いや、おかくれの日だったかもしれぬ。
御枕上に行っておつむを押えるのがなかなか臭かった。
本当にすすいであげたかった。
一度下がって出た時にはもう何ともなかった。
その時も昭和天皇が押さえて下さっていた。
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■妻  貞明皇后 九条節子 九条道孝公爵の娘
1884-1951 66歳没


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岡部長章『回想記』昭和天皇の侍従

宮内官には伝染予防規定というものがありました。
制定されたのは節子皇太后〔貞明皇后〕がチフスになられたのが原因と入江侍従から聞かされました。
大膳の方から大宮御所へも人が詰めていて、大膳の係がいろいろ作っていたのです。
だからチフスになるのはおかしいというので侍医がいろいろが調べてみると、節子皇太后は五摂家の九条家のお生まれで早くから東京府下の農家に里子に出され、その時からお好きなものがあるのです。
それを女官が魚河岸で買ってきて、お側で作って差し上げるのがお楽しみで、この女官奉仕のことを「お清流し」と申したそうで、「お夕食はお清流しで…」という言い方をしていました。
そこから黴菌が入ったので、それをおやめになるように願いを、同時に伝染病予防規定ができたそうです。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

中年以降の節子皇太后〔貞明皇后〕は落ち着いた気品のある態度を持っておいでになったが、御運動の時など吹上御苑から本丸の方にまで歩いておいでになって、属官などは途中で疲れてしまいずっと遅れてから行き着くこともあったが、そういう時など「男子のくせに」と一本釘を打ってお笑いになった。
節子皇太后にはどこか勝ち気でさっぱりしたところがおありになったようにお見受けした。
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久世通章子爵の娘久世三千子→山川黙の妻山川三千子 明治天皇の女官〈桜木の局〉

節子皇后は個性の強い方でございました。
また、秩父宮を特に愛しておいでになったのは事実です。

大正天皇を失われてからの節子皇后は、まるで黒衣の人と言われてもよいような黒一色の生活をされ何がためとありましたが、その謎はやはり御自分の心だけが解かれるものでしょう。
「御賢明にわたらせられすぎて」と嘆いた人もあったとか。
亡き大正天皇を偲ばれる時があるなら、ふと浮かぶ懺悔の御心持がなかったとは申せませんでしょう。
天皇があられたらばこそ、皇后になれたのですから。
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*貞明皇后は自分と同じ誕生日の二男秩父宮を溺愛した。

*三男高松宮より10歳年下の四男生まれてからは末っ子三笠宮を溺愛した。


●迪宮裕仁親王 昭和天皇 久邇宮良子女王と結婚
●淳宮雍仁親王 秩父宮  会津藩主松平容保の孫/外務官僚松平恒雄の娘松平勢津子と結婚
●光宮宣仁親王 高松宮  将軍徳川慶喜の孫/公爵徳川慶久の娘徳川喜久子と結婚
●澄宮崇仁親王 三笠宮  子爵高木正得の娘高木百合子と結婚


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加藤鋭伍/京極高鋭 加藤照麿男爵の子・京極高頼子爵の娘京極典子の婿養子

1906年4月、当時学習院幼稚園の園児であった6歳の私は、父に連れられて赤坂の皇孫御殿に参上した。
当時皇孫殿下には吉松・原田・長田という三人の侍医が奉仕され、父の加藤照麿が主任侍医を務めていた。
私が皇孫方の御相手に決まった時かつて宮中に奉仕したこともある祖母や母はその光栄に感激したが、父は秘かに不安の念を抱いていたようであった。
私がいよいよ御殿に参上する前夜、父はしみじみと私に注意をした。
それは御二方〔昭和天皇と秩父宮〕の御相手をする時、決して遠慮をしてはならない。
玩具などは自由に使え。
宮様と相撲を取っても故意に負けるようなことをしてはならぬ。
子供は子供らしく遊べばよいが、言葉だけはくれぐれも注意をするように言われた。
私たちはお付きの方々から「御相手さん」と呼ばれ、御二方と御一緒にずいぶん勝手気ままな遊びをいたしました。
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『御側日誌』

1915年5月2日
高松宮は活動的よりも静止的お遊びを好ませ給うこと、動植物を御愛玩遊ばさること、かねての御趣味ながら、ことにカナリアの卵生まれてよりこれをお慰め遊ばさる。
文鳥 姿・色とも美しからざれば、
秩父宮は「あれは死ねばよい」「誰かにやろうか」などと仰せらるれど、高松宮はなお御愛情御保護遊ばさる。
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『高松宮宣仁親王』高松宮宣仁親王伝記刊行委員会

思いやりのある生真面目な「仁」の昭和天皇。
活発で決断力に富んだ「勇」の秩父宮。
素直で思慮周密な「知」の高松宮。
御側に仕えた人たちの書き残したものを見ると、少年時代の御兄弟の性格をこうとらえていたようである。

節子皇后のところへ三宮〔昭和天皇・秩父宮・高松宮〕でよくお伺いするが、両兄宮は外で走り回っておられるのに、高松宮は室内で静かに遊ぶことが多かった。
節子皇后から「落ち着いた宮さん」としばしば言われたように、特に秩父宮と対比して「静」の御性格であった。

いつもニコニコと顔色をお変えにならない三笠宮に比べて、高松宮はどちらかと言えばワガママ。
おイヤな時はすぐ御気持が御顔に現れる。
高松宮は大変率直な言動をなさった。

1915年学習院中等科に進学された高松宮は初めてゴルフのクラブを手にされた。
このころ裕仁皇太子〔昭和天皇〕はゴルフがお好きで、日曜日など三宮〔昭和天皇・秩父宮・高松宮〕でクラブを振っておられたものだ。
伝育官長三好愛吉もちょうと英国紳士の気風を御教育の参考にと考えていた矢先だったので、ゴルフを御推奨した。
ところがしばらく経つと秩父宮の、
「ゴルフは老人のやるスポーツで、我々青年のやるものではない」
「ゴルフは金のかかるスポーツで贅沢な遊びだ」といった言葉が一緒にコースを回っていた高円宮御付武官桑折英三郎の耳にたびたび入ってくるようになり、まもなく秩父宮はゴルフをやめてしまわれた。
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『秩父宮雍仁親王』秩父宮を偲ぶ会

明治天皇は皇孫方に対して、早くから乗馬と船に慣れるようにとの御希望があった。
それゆえ明治天皇から皇孫方への御下賜の玩具類は木馬や船が多かった。

1911年2月16日小笠原長生を招いた学習院長乃木希典は、
「東宮殿下が学習院の初等科を御卒業になりましたならば、御所内に特別に御学問所を設置し、そこで御修学を願う」と述べた。
東宮御学問所の総裁に東郷平八郎、幹事に小笠原長生を置き、乃木は相談役のようなつもりであったらしい。
1912年9月13日明治天皇の御大喪が決定すると、乃木から小笠原に会いたいとの電話があった。
9月8日小笠原が学習院へ行くと、乃木は学習院に関して種々懇談した。
特に皇子御三方〔昭和天皇・秩父宮・高松宮〕の御教育や将来について、熱心に詳細な意見を述べた。
小笠原が「では、お暇させていただきます」と立ち上がると、乃木は突然小笠原の手を堅く握った。
「しばらくはお目にかかれまい。くれぐれも御自愛を祈る」と囁くように言った。
小笠原は自宅に帰ってから封書を開封した。
帰り際に乃木から帰ってから読むようにと託されたものであった。
小笠原は「節子皇后はよほど秩父宮がお可愛いのだな」と、なにげなくつぶやいた。
小笠原が妻子にふと漏らした片言から、次の三つの点が推察される。
第一に、乃木は御三方の御教育に関して後事を小笠原に託した。
第二に、小笠原はその内容から乃木の自刃を予知していた。
ただし、静子夫人までが自刃するとは思っていなかった。
最後に、節子皇后が秩父宮を偏愛されることを心配して、この点を特に小笠原に依頼したことである。
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戦後の座談会

鈴木タカ 皇子養育掛
前田利男 皇子伝育官・秩父宮務官
石川岩吉 皇子伝育官・高松宮務官

鈴木◆秩父宮はお子様の時から海軍が御希望でした。
高松宮は舟にお乗りになるとすぐお酔いになるんです。
高松宮はお馬が好きでいらっしゃいましたから、陸軍でということで。
前田◆やはり裕仁皇太子〔昭和天皇〕は陸軍海軍ということだから、その次は陸軍だと。
石川◆高松宮は海軍がおイヤだったんだがな。
やはり陸主海従というのでね。
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石川岩吉 皇子傅育官・高松宮務官

その頃の学習院への御通学は、オープンの二頭立て馬車で往復された。
沿道には多くの市民の目があるのに、夏の暑い時など秩父宮は平気で制服の袖をまくられたりされていた。
高松宮は謹厳そのもので、決してそうしたことがなかったのに比して好対照だった。

乗馬の御稽古なども、正確な規則通りに習われる高松宮とは異なり、秩父宮は御自分の流儀が相当入っていた。
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秩父宮雍仁親王

両親とは同じ囲いの中に住んでいたから、より世間なみに近いものがあった。
しかし住居は離れていて、両親にはそれぞれいろいろのご用や約束もあり、また稽古もされていたから、まあ、2週に3回ぐらいといったところだったろう。
その合間には父母の方から訪ねられもしたし、また庭などでお目にかかることもあった。
この頃の父上は非常にお元気で、ごく気軽に運動の途中などで突然立ち寄られることもよくあったから、母上よりもむしろ父上の方が多く僕らの家に来られたくらいだ。
父上も鬼ごっこなどに加わられることもあったが、その時は家が割れるようなにぎやかさだったという。
また寝る様子をわざわざ見に来られた時などは、僕らがうれしくて床に入ってもいつまでもしゃべっているので、とうとう眠りにつく前に帰られた。
食事が終わるとよく食堂の後ろのピアノのある室で合唱をした。
母上がピアノを弾かれ、侍従・武官・女官に父上も加わられて、軍歌が多かったように思うが唱歌もいろいろ歌われた。
なにしろ調子を無視して蛮声を張り上げるのだから、実にやかましいにぎやかなものだった。
しかしこんな雰囲気は親子水入らずではないが、思い出しても楽しいものである。

もっとも忘れられないことの一つに父上と将棋をさしたことがある。
父上からの挑戦に、図々しくも平手で応戦したのだ。
まずあまりに立派な盤と駒に度肝を抜かれ、お相手将棋ではない初めての他流真剣試合、勝ってが違って堅くなっている間に駒を片っぱしから取られ、残念さに涙が浮かんでくる始末。
いよいよあがってしまって、あっけなく一敗地にまみれた。
しかしこれが一生一度の親子でさした将棋であったと思えば、いつまでも忘れられない一番ではある。

父上は天皇の位につかれたために確かに寿命を縮められたと思う。
東宮御所時代には乗馬をなさっているのを見ても、御殿の中での御動作でも、子供の目にも溌剌として映っていた。
それが天皇になられて数年で別人のようになられたのだから。

あるとき兄上〔昭和天皇〕とこんなことを話し合ったのであった。
兄「質素が好き。だけど身分があるから困るね」
弟「そうなの、不自由なんですもの。花屋敷なんどへ行かれないんですもの」
兄「華族でもいけません」
弟「華族でなく士族がよろしいでしょう」
どうもわかったようなわからないような会話だが、数年前に一度行った花屋敷がよほど面白く忘れられなかったものらしい。

一つしか違わない兄上は、僕の時々爆発する乱暴には困らせられたに相違ない。
そのくせ僕は一歩家の外に出ると、兄上と一緒でない時は実に意気地がなかった。
いわゆる内弁慶だったのだろう。
あるひ兄弟三人で話し合っていた時、
高松宮が「耳は【のもじ】(糊)でくっついているのでしょう?」と言うので、
僕はさっそく「いいえ、血でついています」といかにも知ったかぶりで教えたつもりでいたところ、
兄上は「いいえ、耳は肉で顔についています」と。
知力の程度がこれだけ歴然としていては頭も上がらない。

一つぐらいは褒められた話もよいだろう。
宮内大臣土方伯爵がお土産として博多人形を3つ持ってきた。
加藤清正と楠木正成と柴田勝家が寝て秀吉に足をもませているところの3つだった。
誰が見ても子供が欲しそうなのは、はじめの二つだ。
兄上はいつものように弟二人に「どれが欲しいの?」と尋ねられたから、僕も高松宮も武将のどちらかを欲しいと答えた。
兄上も同じのが欲しいに決まっている。
デッドロックである。
兄上は考え込んでしまった。
兄上はいつも欲しいものも弟に譲っているのだから、たまには自分の欲しいのを先に取ってもよいだろうぐらいな気持ちで二つのうちの一つを取った。
次の番は僕だ。
進退窮まったとは、まさにこのような時をいうのだろう。
このたびは高松宮が気をもむ番になった。
この場合柴田勝家をあっさりと取るべきだとは百もわかっているのに、誰もが嫌な物を自分の物にするのがたまらなく悔しいのだ。
ウルトラ勝気というものだろうか。
僕は目に涙を浮かべて悲壮な声で「あげましょう」と言って柴田勝家を取った。
そして高松宮が「ありがとう」と言って残ったのを取った時には、ホッとして重荷がおりた感じだった。
後から考えれば実に笑うべきジェスチュアだった。
その翌日「あれだけ我慢ができれば結構だ」と褒められたのは、さすがにうれしかった。
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◆123代 大正天皇(明宮嘉仁親王)122代明治天皇の子
1879-1926 47歳没


■妻  貞明皇后 九条節子 公爵九条道孝の娘
1884-1951 66歳没


*貞明皇后は自分と同じ誕生日の二男秩父宮を溺愛した。

*三男高松宮より10歳年下の四男生まれてからは末っ子三笠宮を溺愛した。


●迪宮裕仁親王 昭和天皇 久邇宮良子女王と結婚
●淳宮雍仁親王 秩父宮  会津藩主松平容保の孫/外務官僚松平恒雄の娘松平勢津子と結婚
●光宮宣仁親王 高松宮  将軍徳川慶喜の孫/徳川慶久公爵の娘徳川喜久子と結婚
●澄宮崇仁親王 三笠宮  高木正得子爵の娘高木百合子と結婚


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田島道治 日記 宮内庁長官

1949年9月28日
坊城皇太后宮大夫来訪。
宮様方の行動につき御不満の話、節子皇太后としっくりせぬようなこと、東久邇宮のこと一度参上のこと。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1949年3月11日
田島長官◆予算のため人員減少のこと。
昭和天皇◆大宮御所の中の融通のきかぬこと、大宮御所にはなるべく手をつけぬよう、そのぶん侍従職の方で不便をしのぶから。

1949年5月15日
田島長官◆内廷費予算のことでございますが、食膳費など節子皇太后の御思召のほどもあり、徐々に合理化することよろしく。
昭和天皇◆節子皇太后は一軒の独立した御家とのお考えにて少し行き届き過ぎのようで、私なども上がった際 食事も多く、多くいただかぬと御機嫌が悪い。
また多少宮城と御競争の風なるも悪い。

1949年9月22日
昭和天皇◆新聞に東久邇宮稔彦王のことが出たが。
田島長官◆訴訟上の準備は怠りなし。
稔彦王と小原龍海の関係、また一部には東久邇宮事務官本原耕三郎にも批難あり。

1949年9月28日
昭和天皇◆節子皇太后は「明治天皇は東久邇宮稔彦王に直接仰せにならず、侍従長徳大寺実則あるいは東久邇宮聡子妃に仰せと思う。さすれば何を仰せなるとも明治天皇の思召とは言えぬ」との御話なれども、私はそうは思わぬ。
例えば田島に私の意思を伝えて相手に伝えた場合も私の意思に他ならぬゆえ、徳大寺がお伝えしても明治天皇の思召には違いなく、また聡子妃に仰せになっても御夫婦のことゆえ思召は伝わると思うが、如何。
田島長官◆侍従長の場合は昭和天皇の仰せの通りでありますが、聡子妃に仰せの場合は多少違うと存じます。
下世話に持参金とかいう場合は夫の物とならぬ場合もございます。
それよりも今回の稔彦王の事件では、法律上の結果発生のため事務的に書面の上で運ばれるべき性質のことで、それなき以上は明治天皇の思召とは思えぬと存じます。
昭和天皇◆私は田島から聞いた借用願のことも申し上げておいた。
節子皇太后は小原龍海問題に先年は非常に悪口しておいでであったが、昨日はそれはお気の毒だとの御話で御同情的で理解に苦しむ点であるが、女性のためか感情に勝らるるためか、虫の居所でずいぶん正反対な矛盾なことを仰せになる御癖があるゆえ、このことは御腹に入れておいてくれ。

1949年9月30日
察するに皇后宮大夫坊城俊良の話と総合して、宮様のことを仰せになるのは27日の節子皇太后との御話の結果と拝察す。
坊城皇后宮大夫の「近来節子皇太后と宮城と御仲およろしくおなりになったのに」との語調ちょっと心配なり。

1949年10月6日
貞明皇后◆宮様方の御教育は生まれながらにして御主人として特殊の宮様教育をなし、学校に行けば普通的な教育を受け、陸軍に行きて別の空気に触れ、また陸軍皇族として一つの所で受けた教育が次ではまた変り、何が正しいのか、如何にすればよいのか、適従するところを知らぬということになりがちである。
それが今度のごとき大変革にあい、宮様方は如何にすればよいか到底わからぬ訳である。
それも家来臣下という者はすべて一貫せず口が違う。
甲の言うこと・乙の言うことみな違う、連絡がない、適従するところを知らず何を信じてよいかわからなくなる。
それゆえ誰に聞くか、アテになる者はないと思うようになるは宮様としては当然だ。
この大変革、よく頭の切り替えをああまでしてよくやっておいでと私は感心してる。
現に私なども、女官長・高等官・判任官と七つぐらい経るゆえ、その間にことが間違ってしまう。
できてしまってからゆえ、私は仕方がないと思ってる。
だいたい宮内大臣で決めて来て、思召如何と言われて、断ったところでどうなるものでもなし、承知する他ない。
決定前に聞いてくれれば、「気の毒だけど、ここはこうして」と一部分私の気持ちを入れてもらうこともできるが、従来のように決まってから持って来られるのでは仕方ない。
今のように大変革で民主主義ともなれば、宮様として頭の切り替えを十分になされて敬服してるぐらいで、三笠宮が新聞の人に尋ねられるのも、疑問が百出て脳裏にあるものを、それに正解を与える人に会って聞こうと常に頭で研究的にこの時世の変転に絶えず注意しておいでゆえ、今日は好機とお聞きになったことと思う。
また高松宮でもみな宮様は進歩的で、5~6年時勢より進んでおいでになる。
実に偉いもので、5~6年後になって宮様の言ってらっしゃった通りになるので、それ見たことかという訳で自信は相当お強い。
私も2~3年先を見ている。
(全然宮様方の悪い点はないようなる御話ぶりにて、非常に御同情的なり)
貞明皇后◆古い頭の人間が新しいことを批判するに対しては少しも権威を認められず、新しい人間が古い方がよいというのでなければ、宮様は絶対に受けられない。
宮様方は時勢の変化と共に、人より先にあらゆる物をとことん御覧になり、それになりきる訳では無論なく、その中から皇族として新しき在り方を発見し、昭和天皇および国家に報いたいという念慮であられ、平民的なものに徹底的にやられるのはその徹底が目的でなく、そこから皇族らしさの新しき在り方を得ようとしておいでになるのだ。
その点、大いに感服してる。
このごろ昭和天皇は非常な興奮状態で、「皇族の義務は行わず、皇族の権利ばかり主張する」ということで、良子皇后もおいでのところでどんどん仰せになるから、これは少し興奮が過ぎると思った。
昭和天皇は実に正直一方の方で、政治的なことは極端でなく中庸の中道を守られるなど、とても誰も真似のできぬ方であり、仰せになることも一々ごもっともに違いなく、宮様方の御行動に不行届きやいかぬ点もあると思うが、ああ興奮されるのはどういう訳かと。
高松宮のことなど、誰か悪しざまに告げるによるものと思うが、どうしたものか。
田島は高松宮に上ったとの話。
それはどうであったか。
それを聞きたいと思う。
このままでは両者の溝がだんだん離れるような心配で、田島の考えを聞いて私も少し言おうかと思う。
(昭和天皇にあまり御同情なき言い方をなされ、言葉の上では昭和天皇の長所のつもりながら、どことなく昭和天皇の御興奮を遺憾に思召す口調顕著にて、高松宮のあることないこと言う者があるのではないかとのお含み)
貞明皇后◆義務を忘れているという昭和天皇の御話は、高松宮がどういう義務を忘れておられるか、私にはわからぬ。
田島長官◆昭和天皇は左様に仰せなく、皇弟たる自覚を持ってもらいたいという仰せであります。
(秩父宮事件で高松宮から「不遜だ」と大喝された経緯、それは昭和天皇に申し上げたこと、常に陛下は陛下、殿下は殿下、兄様は兄様、弟様は弟様ゆえ、大らかなお気持ちで御包容ということを常に申し上げている旨を申し上ぐ)
貞明皇后◆とにかくあちらからもこちらからも行啓を願ってくるのは直宮様の御徳があるからで、悪い高松宮なら誰も来いとは言わぬはず。
田島長官◆いや、それは少し違います。
賀陽宮恒憲王の不評ありし話、直宮様だけは恒憲王のような不評はないようにと存じておりましたところ、ある知事は閉口しているとか、川開きの他の所へお出でとか、遊女屋へ誘う会社重役があるとかの噂で、必ずしも高松宮がそう不評ばかりではないにしても、一部では利用しながら陰口を言う点はあると思います。
貞明皇后◆それよりも、昭和天皇が興奮して御話の時、良子皇后は下を向いて黙っておいでになり何とも仰せなし。
話題を変えることなど少しもなさらない。
「昭和天皇、弟だから直々に御話なさい」と言えば喧嘩になるから、「節子皇太后から御話ください」との話もあるが、昭和天皇の興奮が過ぎる。
田島長官◆これは田島拝命以来の最難問でありまするが、少し考えますから、今一度節子皇太后に拝謁するまではどなたにも何も仰せない方よろしいと存じます。
貞明皇后◆秩父宮妃と話したことだが、月に一度ぐらい集まる会合をしてはとも言っているのだが。
田島長官◆それは結構で、御会食でも映画でもお会いになることがよいと思います。
先般御会食のとき高松宮が実に嬉しかったと仰せになったことがあるとの御話でございました。
貞明皇后◆東京大学総長南原繁が時々来るが、「もう三笠宮は大丈夫」だと言った。
その時「高松宮は?」と聞いてみたら、「高松宮は御出来上がりになってるから」と言った。
(「田島は昭和天皇のことのみに忠義な考えに過ぎると、場合により節子皇太后御心配の結果に加勢することになります」と遠回しに申し上ぐ)

1949年10月13日
(例えばとて『サンデー毎日』のことを申し上ぐ)
田島長官◆御進講も君徳お養いのために大切のことと考え、ある場合は三笠宮が御倍聴になりました。
高松宮にも申し上げましたが、お出でがありません。
貞明皇后◆昔は妃殿下方が御進講に御陪聴のことがあったが、今は少しも御沙汰がない。
田島長官◆映画の日取りを替えること、また御食事を共にせらるること等、百般気をつけまする。

1949年11月8日
昭和天皇◆昨日節子皇太后は幣原議会事件に関連して、共産党のことを「心の狭い人たち」と評されたが、私は広い狭いの問題ではなく、共産党にはそれ以上の主張があると思う。
共産党の出席するような議会になればよいという話から、「共産党はただ了見が狭いかために出席しない」という単純なお考えはどうかと思う。
田島長官◆節子皇太后は御意見のあることをお言いになりたい御傾向ゆえ、進歩的に考えらるることを仰せになることがお好きと存じます。
共産党の本質をお極めなく、一部的真理の新しいものに同情的であらるると思います。
昭和天皇◆今日のようなことを高松宮が仰せになるゆえ、一部で評判がお悪い。
田島長官◆ああいう場所でああいうことを仰せにならぬ方がよろしいと思います。

1949年12月9日
田島長官◆恋愛結婚とか見合結婚とかいうことは皇室については如何お考えでございますか。
昭和天皇◆恋愛はとてもで、三笠宮ぐらいがちょうどよいと思う。
私と高松宮は全然古い風で、秩父宮は少し違い、三笠宮ぐらいがいいと思う。
節子皇太后は三笠宮の言いなりで、細川の娘〔細川護立侯爵の娘細川泰子〕を広幡大夫は「御顔が」と言ったが、私は御顔より照宮成子内親王と同級で、叔母様になる人が照宮成子内親王と同級ではと思って私は反対し、百合子妃は私が推薦したのだ。
その時のことを思うと、いま三笠宮がいろいろ言われるのはどうかと思ってる。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1950年1月6日
昭和天皇◆三笠宮は御正直で、御口と御腹は一つでその点はおよろしいが、仰せにならぬでもよきことを仰せになり、それも御自分のことをいつでも省みて仰せになるが、多少歪められている場合もある。
例えば結婚の問題なども、私と高松宮は決まっていたようなもので、秩父宮は少し違うが、三笠宮はずっと御自由で御自分で御選択になり、節子皇太后は三笠宮の言いなりであったのに、御自分では外部の力によったように思って御話になり、ちょっとわからぬ点がある。
日光や葉山の御用邸の付属邸など、節子皇太后と三笠宮と御一緒にお住みのために作ったものだが、「親子兄弟一緒でなかった」という風に人に御話になるが、あの点はどうかと思う。

昭和天皇◆節子皇太后はいわゆる虫の居所で、同じことについて違った意見を仰せになることがある。
その点は困る。
田島長官◆大宮御所には手を触れぬ覚悟でありますが、夜遅きことはみな困りますようで、女官の病気続出で頃日もちょっと心配した次第でございます。
「奉仕してくれる者には報いたい」との御思召がありましたが、その御心を拡大していただけば、女官らに交替早床等仰せしかるべきと存じまするがその御沙汰はなく、先日女官数名感冒のこともありちょっと困ることあります。

1950年1月7日
〔孝宮和子内親王&鷹司平通、婚約〕
昭和天皇◆昨日節子皇太后にお目にかかったら、鷹司のことをさんざんに言われた。
「あんな力のない人」というような意味でひどく仰せになり、浅野の方がよいとの思召からではないかと思われるが、「田島らいろいろ考えてやってるようだからよろしいが」と仰せになった。
田島長官◆田島が拝謁の際は、「鷹司は大した働きのある人ではなく、しかし無難」との仰せがありました。
経済のことは宮内省の方で御新家庭の点など考慮云々申し上げし際、「経済のことは今後の世の中では非常に重要なことだ」との仰せを拝したのみ。
浅野をよろしいと御思召のための御不満かと存じますゆえ、御話を承りましても田島は少しも動揺いたしませぬ。
岳父となられる方の働きとか才能とかいうことは問題でなく、人柄さえよろしければ結構と存じます。
昭和天皇◆節子皇太后は時流におもねる御性質がおありと思う。
現に「上つ方というものは若干ウソを言わねばいかぬ」と仰せになったことがあり、その意味は軍国の時など軍人などには内心御満足でなくても適当御嘉納の御言葉あるようにとの意味のことであったが、今の時世になれば多少時流におもねるという点がよほどある。
節子皇太后は申し上げると逆効果のことがある。
この点高松宮と同じで、田島が御経費のことを申し上げたが、あの後はむしろ賜りなど立派になされるようで、女官伊達璋子から聞いたが、御重に御菓子だの御料理だのの賜りは御立派になったとのことだ。
田島長官◆田島などの拝謁の際も、賜りをお考えのうえ御日取をお決めになるとの噂を聞いたこともありますほどで、御隠居の女性様としてお楽しみの唯一かとも存じます。
昭和天皇◆実はそのために田島の言った女官が夜遅くなることもあるとのことだ。
田島長官◆昨年御陪食の節のボンボン入れも女官の作成との御話を承りました。
昭和天皇◆節子皇太后はだいたい鷹司のようなのはお嫌いで、秩父宮のような鋭い所のある人がお気に入る。
田島長官◆浅野さんのことも考えましたが、孝宮和子内親王の場合にはいろいろ考慮の上鷹司が第一と考えましたので、順宮厚子内親王も御年頃ゆえ、浅野を考えてもと思っております。
昭和天皇◆浅野の兄の方は東伏見がひどく批評して、大谷家に娘をやることを反対したということをきいておるゆえ、そういう場合にはその点によく注意して。
また朝香宮が照宮成子内親王の時に、「マタイトコでも近親すぎる」と言われたこともある。
田島長官◆東久邇宮の場合は二重のマタイトコにお当りになりますが、浅野の場合は節子皇太后の方の御関係のみでありますから、その点はさほどでないと存じます。

1950年2月27日
昭和天皇◆節子皇太后は鷹司信輔〔父〕より平通〔子〕の方がよいという印象を聞いたが、だいたい御話をする人の方が好きで、黙っている人の方をあまりお認めにならぬようだ。

1950年2月28日
昭和天皇◆昨日節子皇太后にお目にかかったら、鷹司夫人のことを非常によく仰せになってた。
あまり良く思っておいででなかったようだが。
田島長官◆拝謁の際に鷹司夫人の妹に当る人〔徳川繫子〕のことを申し上げましたら、お思い違い
の様子で、そういう訳かとの御話もありましたが。
昭和天皇◆そうか。
田島長官◆秩父宮妃が大宮御所にて御会食の時の御話でも、鷹司の人々に御満足の御様子とのことでございました。
昭和天皇◆節子皇太后は平通のことをよく言われるけれども、信輔との比較の御言葉はどうかと思う。
単に平通はよいと仰せになるのに、信輔に比べればと仰せになるのはどうも。
節子皇太后の御性質として、話し上手の人がお好きで話下手の者はお嫌いのようだ。

昭和天皇◆東宮ちゃんによく話して、夜遅く起きていない習慣に変えてもらうことが先決だ。
(明仁皇太子の宵っ張りに関連して節子皇太后の宵っ張り問題となり)
昭和天皇◆節子皇太后は良子に「明治天皇も宵っ張りであられたから」と言われたとのことだが、これはむしろ明治天皇の御欠点の方で、そう遊ばさしたればこそ御病気の尿毒症も出たと言いうるので、この理由を仰せは実におかしいと思う。
また「良子は風邪を引くが、私は引かぬのは夜ふかし」と言われたとか、これもおかしいと思う。
風邪は引かれぬかもしれぬが、御足が腫れてる。
田島長官◆夜ふかしはおやめの方がよろしいと存じます。
誰か申し上げれば。
昭和天皇◆三笠宮のことを一番おききになるから、三笠宮がいいと思う。
田島長官◆三笠宮でも如何かと存じます。
昭和天皇◆それなら御信用があるから三浦がいいよ。
田島長官◆三浦侍医に一度拝診してもらいまして、そのうえ申し上げるよう工夫いたしましょう。

1950年4月5日
田島長官◆節子皇太后の夜ふかし、ラジオプログラムをお聞きになるために起きておいでとのこと。

1950年4月25日
昭和天皇◆八田侍医に節子皇太后のことを聞いたら、内分泌の関係だと言う。
そのためホルモンの薬を差し上げたら、翌日から腫れがお引きになったと言う。
そして温泉がよいと言う。
行啓の経費等調査しておくよう。
田島長官◆先年山川侍医が温泉のよきことを申し上げましたところ、「よもぎ湯で結構」とのことでありました。
昭和天皇◆節子皇太后はその時の御気分による。
このごろも沼津でお転びになりかけの時、良子が御手をお取りして大変お怒りになったとかいうことだ。

1950年5月23日
昭和天皇◆昨日節子皇太后の御話の内に、昭憲皇太后が元来お弱くて明治天皇より早くお亡くなりになっては困ると言う明治天皇の御話で、長生のため非常に御留意になり、そのため明治天皇より少し後れて崩御になりよかったが、その方法として沼津へお出かけになったという御話があったくらいゆえ、いい塩梅だと思う。
その点三浦が御話すれば、夜の遅いことなどもよろしい結果が出るのではないかと思う。

1950年5月25日
田島長官◆久邇宮朝融王は近来巫女的な迷信にて方角のことなど非常に留意の旨。
昭和天皇◆大宮御所の山中という御用掛〔元侍従長珍田捨巳の娘山中サダ〕が日蓮で、節子皇太后も多少御関係ゆえ、その点ちょっと注意する。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1950年6月22日
昭和天皇◆田島は知らぬから宮中服のできた沿革を話しておこう。
それは第一に高松宮妃の主唱でできたので、秩父宮妃などと研究の結果できた。
私はむしろ反対だったが、結局出た。
理由は洋服は英米的だというのである。
同盟の独伊も洋服だからと反駁したが、軍人などは何か国粋的なものという声を上げてた。
これに妃殿下方がまず乗ぜられた。
第二に繊維不足という時勢の声に対し、一反の反物ででき、上衣は丸帯でできるということであって、まあ結局承知したが、後でわかったことには、上衣は丸帯ではできず新調ということになり、東久邇の叔母さん〔東久邇宮聡子妃〕など「洋服以上に面倒だ」と私にこぼされるようになり、宮内大臣松平恒雄に上衣をやめることをいくら話してもなかなかやらず、通牒でやっと出したが、「戦時中」とあったゆえ、これを「当分」と変えようとしたが、松平は遂にやらず宮内大臣が石渡荘太郎になってこれが実現した。
上衣のヤメやら何やらで節子皇太后は結局今までお着にならず、お作りにならない。
なお高松宮妃の御自分的な理由は、今までの洋服裁縫師がいなくなったことであるが、これは私的な理由で私はどうも賛成できなかった。
その高松宮妃が戦後批評が出るとすぐ洋服を自由になさるのはどうかと思う。
秩父宮妃の、相当の研究の結果ゆえ不評でも何とか改良してという立場の方が理解できる。
フランス大使か誰かが三笠宮妃に「この服はなってない。パリでお作りなさい」と言ったこともあると聞いている。
私は宮中服には本来賛成してない。
和服が良いと思うが、節子皇太后が不様という訳で不賛成で宮中服となり、しかも節子皇太后は宮中服は召さぬ訳だ。
田島長官◆和服について併用の意味で節子皇太后のお許しを得て、和服の方向に行き得るかよく研究いたします。
昭和天皇◆節子皇太后のモンペも戦争の防空から来てて、戦時色はある。

1950年7月24日
田島長官◆三笠宮御移転の御希望にて、赤坂御用地内に新築御希望の由。
昭和天皇◆何の理由で移転か。
田島長官◆お子様通学のため、および洋行の時の御用心ではないかと思います。

1950年7月30日
田島長官◆節子皇太后に拝謁、三笠宮の共産党云々のことは申し上げように注意しまして事実ありのまま申し上げ、次に三笠宮邸新築の問題はあらかじめ節子皇太后御承知と承りしところ、初耳のようにて、
「新築は相当金額ゆえ、ただいまの所でガソリンを用いて御通学の方がよい」との御話あり。
昭和天皇◆三笠宮はデモクラシーで自動車を御用いに議論あるべし。
田島長官◆宮内庁の内には、「赤坂御用地内に御邸新築ということと平素の三笠宮の御主張は一致せぬ」と申す者もあります。

1950年9月27日
田島長官◆大宮御所の便所が全部汲み取りとのことで、こんなことは誠に申し訳ないと存じ、改造のことに致してございます。
昭和天皇◆節子皇太后は水洗でない方がよろしいのではないか。
田島長官◆臣下まわりのことでございます。

1950年9月28日
昭和天皇◆節子皇太后が侍従次長鈴木一のことにお触れになったので、ありのままを申し上げた。
節子皇太后の人物の見方はどうも私にはわからぬが、鈴木はあの鈴木貫太郎の子だからよかろうとの御話であるが、良い親の子に立派な子の場合も確かにあるが、子供はそれほどでもないということはいくらもある。
それを貫太郎の息子だからとはおかしい御話だ。
田島長官◆それは女官らのいる所ではございませぬでしたか。
昭和天皇◆いや、節子皇太后と良子と三人だけの時であった。

1950年10月4日
田島長官◆節子皇太后御機嫌よく、
「先般内廷費は御無理を願いましたが、皆さま御節約いただき、お蔭で孝宮和子内親王御婚儀も済み、余裕も考えられるように思いますので、御入用のことは直接田島に仰せいただき何とかなるかと存じます」と申し上しところ、
「ようしてもらってるから別に」との御言葉がありましたほどでございました。
昭和天皇◆節子皇太后はいつでもそうだ。
虫の居所というので、良い時は良いのさ。

1950年10月9日
昭和天皇◆和装のことだがねー、節子皇太后御機嫌のおよろしい時に今一度伺ったらどうだろう。
田島長官◆御機嫌のおよろしい時に今一度申し上げますることは結構でございまするが、必ず御賛意を承ることができるかどうかは疑問のように存じます。
むしろ実行遊ばす旨の念のためのお知らせということかと存じますから、それは適当の時に田島が伺いまして申し上げましょう。
だいたい良子皇后が和装を召しますのは、ただ今は来年正月をお考えでございましょうか。
昭和天皇◆外人謁見の時と思ってる。
正月は洋服なり宮中服なりにしたらと思ってる。
田島長官◆節子皇太后は「正式宮中服にしてみたところで、国民世論というのも少しおかしいが、一般の宮中服に対する不満が変わるわけではなし」との仰せゆえ、節子皇太后の正式と仰せにお変えになっても、宮中服は宮中服で評判にかわりはありません。
(節子皇太后のお許し、せめて御黙認でもない限り御注文も遊ばさぬらしき御様子に拝せしゆえ)
田島長官◆染に時間もかかりますから御注文だけは遊ばしては如何。
(なお昭和天皇が正月にはお用い無き理由は)
昭和天皇◆正月は黒でやや地味にせねばならぬが、外人謁見のような時は色物でやや派手でもよいから。

田島長官◆近来節子皇太后精進御料理お好みの由にて、主厨長秋山徳蔵より修行のため京都へ出張云々の話がありました。
昭和天皇の御孝道にもなりますことゆえ、取り計うことに致しております。
昭和天皇◆医師がタンパク質と言ってるが。
田島長官◆湯葉などはタンパク質もあります。
昭和天皇◆よろしい。

1950年10月10日
昭和天皇◆昨日聞いた精進料理修行のことは結構だが、それに便乗して木藤などの料理を修行するようなことはあるまいか。
あれば困る。
(内親王方京都旅行の帰途木藤美味と節子皇太后に御話になりしを御承知にて、昭和天皇もお好きとのことで習わされてはとの御話。少々変な御心遣いと思うも)
田島長官◆そんなことはありませぬが、念のため注意いたします。

1950年11月29日
昭和天皇◆節子皇太后外套をお召しになるようになり、大宮御所の女官などずいぶん助かるということだ。
田島が大宮御所を水洗便所に改良したのも、女官は大変喜んでるとかいうことだ。

1950年12月18日
田島長官◆東久邇宮稔彦王もいろいろなことで宮内省のやり方を怨みひがんでいらしたらしいのが、昨夜はそんな御様子はありませんでした。
昭和天皇◆それは東久邇宮ばかりではない。
皇族さんは多少みなそうだ。
その一つの原因は節子皇太后が少し御厚遇が過ぎるからだと思う。
節子皇太后は少し程度の過ぎた場合には御同意もできぬし、また理に合わぬことを仰せの時には議論もせねばならぬ。

昭和天皇◆良子の和装の問題だがねー、呉服費も取ってくれたが、良子は節子皇太后のハッキリした御同意がないと恐ろしくて作れないらしい。
このことでは何でもなくても、他のことで復讐されるというような気持ちで心配して躊躇してる。
田島長官◆田島が何かの形でもっと明示的な御同意をいただけば結構ということでございますか。
昭和天皇◆そうだ。

昭和天皇◆田島が節子皇太后にタンパク質をおとりになるよう申し上げたと言ったが、タンパク質は植物でも大豆・豆腐でもとれる。
私は豆腐はあまり好かぬが。
しかし牛肉など獣肉はタンパク質の他にビタミンA、Bなどがあるが、植物性にはそれがない。
細密に言うと、タンパク質は大豆でとれるというふうには単に考えられぬ。
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宮内庁長官 田島道治 拝謁記

1951年5月18日〔貞明皇后死去〕
5月17日節子皇太后崩御。
吉田首相に会い、国葬当然ただし質素のむね言う。
国際か否か、占領治下にて国葬好まぬ、ただし昭和天皇の思召次第とも言う。
御文庫に行きこの間のこと伺う。
昭和天皇国葬御希望のこと承知す。

1951年5月20日
葬儀委員会のこと、陵の建設と予算のこと。
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『入江相政日記』侍従長

1951年5月17日〔貞明皇后死去〕
4時過ぎに保科女官長が三谷侍従長を呼び出し、三谷侍従長は昭和天皇にすぐ入御を願う。
何事かと思ったら、節子皇太后が狭心症の発作でお倒れになった由。
驚き入ったことである。
4時10分崩御とのこと。
誠に悲しいことである。

1951年5月18日
御通夜に出て節子皇太后に拝謁したら、泣けて泣けて仕様なかった。
節子皇太后は6畳の御部屋に白羽二重の御召、同じ御布団でお休みになっている。

1951年5月28日
皇族さんたちの会議の結果、節子皇太后の御歌集と追憶録のようなものの編纂ということが決まった由だが、三谷侍従長が「前者は問題ないとしても後者は出版ということに一線を画するべきである」と言われるから、保科女官長を通じてすでに良子皇后の御思召を伺ってあるが、その点を早く大宮御所へ通じた方がよくはないか。
良子皇后は「取り込んでいるから後でいい」とおっしゃったが、皇族さんの方が先口になると具合が悪いから、はやり良子皇后がイニシアティブをお取りになれるようにということになり、保科女官長に頼む。
御喪服のことが問題になった由。
なんと昭和天皇には照宮成子内親王にも宮中服を召させるということをお申し上げになってなかった由。
甚だしき手落ちと言わなければならない。

1951年6月2日
三谷侍従長の所へ行ってみると、稲田侍従次長・山田康彦侍従・田端氏も一緒で、大宮御所の小畑忠侍従も来て大いに何かやっている。
聞いてみると、昭和両陛下の思召の御膳を隔殿にお供えするか、御写真かという問題らしい。
三谷侍従長はしきりに隔殿一本にすることを説くが、
予は「その意見に別に不同意ではないが、そういうことをこちらから主張することが間違いで、大宮御所の女官さんの考えもあろうし、また妃殿下方の意見もあろうし」と言って帰す。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1951年2月5日
昭和天皇◆節子皇太后が前の式部長官武井守成のことをお褒めになるのはどういう理由からから私は知らぬが、宮中服を作る時に骨折ったことなどをお考えかもしれないが、宮中服は戦時型であり、また宮廷以外に用いられないことが民主的でないとの批評を買っていると思うのだが、節子皇太后はずいぶん宮中服のことを遊ばしたが、裳衣がダメだからという理由でなく、その前から一度もお召しにならないのでよくわからないのだ。
田島長官◆御服装の問題は難しゅうございますから、格別現状を変えず時には和服もお召しになり、
自然落ち着くところに落ち着きますことと存じますが、良子皇后が和服をお用いになりますことを田島より明らかに節子皇太后に申し上げまするのは好機でなければならぬと存じます。

1951年3月12日
田島長官◆明仁皇太子立太子の礼の一つの問題は、節子皇太后御臨席が否かのことであります。
従来国事の儀式は節子皇太后の出御は無いことになっておりますが、皇族は御出席になります以上節子皇太后だけ儀式に御参列なきも如何と存じまする。
昭和天皇◆それは席次の問題だ。
皇太后宮大夫入江為守と宮内省主馬頭西園寺八郎と大いに議論したことだ。
入江は皇后より上位だと言い、西園寺は憲法通りだと言うので譲らず困ったことだ。
それからは問題を起こさぬよう、いわば敬遠申すということだ。
田島長官◆孝宮和子内親王の結婚式の時に御順序は明らかになっておりますゆえ、お出まし願う方がよろしいように思います。
昭和天皇◆席次の点ちゃんとすれば、私は出御の方がよいと思う。

1951年3月13日
田島長官◆明仁皇太子の御成年式と立太子の礼ですが、24日25日は大正天皇の御日柄・27日は久邇宮邦彦王の御日柄で、一日で済めば結構でございまするが、あまり年末に押しつまりまする。
昭和天皇◆27日は1月27日でなければ私も良子もそれは構わぬ。
12月は大正天皇の祥月命日ではあるが、普通の月の場合は24日25日でも私も良子もあまり気にしない。
大正天皇は本当は24日に御大切になられたので、25日はいわば発表のような訳ゆえ、節子皇太后は24日大切と御話になるのだ。
大宮御所関連の時にはこの御日柄を考えればよいので、他の場合はよろしい。

1951年5月18日
〔1951年5月17日貞明皇后死去〕
田島長官◆昨夜御思召を拝し、国葬のことで政府と折衝いたしましたが、吉田首相は占領下のため国葬を望まぬようでございまして、国葬とは名乗らぬも節子皇太后大喪儀というような名称で行われまするならば、国葬ではありませぬがよろしいかと存じます。
昭和天皇◆国葬がいかぬならばやむを得ない。
田島長官◆従来御大喪は夜でありまするが、諸種の関係で今回は昼間に願いたいと存じます。
今回は馬車をお用い願いたいと存じます。
昭和天皇◆牛はないか。
田島長官◆経費の関係もありまして。

田島長官◆首相秘書官松井明が内閣官房長官岡崎勝男の使いで参りまして、
「少し御無理なお願いながら、政府は国葬をお願いし、昭和天皇の思召で国葬に及ばぬということに願えませぬか」という話でございましたので、
「それは事実と逆で昭和天皇に伺う気にもなれませぬ」と断りました。
何か他への心遣いがあるらしく存ぜられ、吉田首相の勤皇ぶりとは少し違い、事情がよくわかりませぬ。
昭和天皇◆節子皇太后の国葬を政府がするとの申出を私が及ばぬと言える筋合いのものではない。
それはおかしいが、自由党は自分が国葬を主張したということにしたいのだろうか。
田島長官◆とにかく吉田首相としては不可解の感があります。

田島長官◆陵名を石に刻して埋めるのでございます。
大正天皇の時は閑院宮載仁親王の筆でありまするが、今回は殿方様にお願い致しましょうか。
昭和天皇◆高松宮がよい。
秩父宮は御病気のため、毛筆の大字は御無理であるから。
それに高松宮が字も一番御上手だ。

1951年5月22日
田島長官◆夜分に拝謁願いまして恐縮でございますが、ちょっとおかしなことがございまして御耳に入れます。
今日吉田首相が「政府としてはこの際は密葬して平和克復後に国葬をと申し上げたが、御思召でそれがいかぬことになったと政府答弁する」と申しますので、
「そういう政府の意向は聞いたことはなく、いわんやそれに対して御思召を仰せになることはあり得ず、占領下にて国葬ができぬということゆえ昭和天皇もやむを得ずそれでよいとなり、その後岡崎官房長官の使いで松井秘書官から『政府が国葬を言って、昭和天皇が辞退なすったというような発表云々』という話があり、不可解な話で断固お断りした」ことまで申しましたら、
吉田首相は「私の了解違いでしたろう」と繰り返しておりました。
吉田首相は常に皇室を大事と考える人ゆえ、その人が今回は国葬にせぬ方がよいと考えるのは何か理由があると存じますが、判然いたしませぬ。
昭和天皇◆吉田は本心は国葬にしたくてできぬので、いろいろ苦しんでるだろう。

1951年5月23日
田島長官◆御追号の問題であります。
英照皇太后はお好きであった藤の花にちなんで藤の詩から出ておりますし、昭憲皇太后は御徳を頌することになっております。
大正と連絡ある意味の御追号か、節子皇太后の御人柄を讃える方の御追号か御思召をと存じまするが。
昭和天皇◆私は大正にちなんだ方が良いと思う。
なんとなれば、幼少の頃は何もわからぬが、昭和の代になってから、叔母様方の御話や何かからお察しすると、と言っても育ちが違うのでよくわからぬが、必ずしもしっくりお出でになったとも思えないから、御名前はいっそう大正と御連絡あるようにしとく方がよい。

田島長官◆吉田首相は演繹的で勘で決めたことを強く押す、理屈でいろいろ究めつくして帰納するということがございません。
昭和天皇◆芦田均はその点よろしい。
理論ぜめで少しぎこちないが行き届く。
研究した結果道理で押して、ちょっときつすぎる場合もあるが事態はちゃんと研究する。
吉田は勘で動く。
人間は難しいね。
吉田茂と芦田均の長所が一人だとよい。
東条英機と近衛文麿も一人にすればよい。
開戦前近衛が今少し勇気あれば。
田島長官◆結局は生命が惜しいのではございますまいか。
終戦後自殺するなら、平和論で凶刃に倒れた方がようございましたね。
昭和天皇◆そうねー。あの時、自殺しては。

1951年5月29日
昭和天皇◆御追号「明光皇后」は語呂悪し。
田島長官◆宇佐美次長・三谷侍従長だけに見せましたが、いずれも良いというのがなく、仏教の戒名や尼の名のように申しますが、慣れればその感はありませぬ。
昭和天皇◆「貞恵」は支那にあれば止めた方がよい。
「貞明」が良いではないか。
田島長官◆良子皇后の御意見もありましょうから、御相談の上。
昭和天皇◆田島の意見は。
田島長官◆「貞恵」はよろしいかと存じますが、重複おいやなれば「貞明」でございましょうか。

1951年6月1日
田島長官◆「貞恵」は支那の同一謚号の皇后を調べしところ、不慮の死の方なりし由。
昭和天皇◆その謚の中国皇后の生涯があまり良くなければ考えものだ。
やはり「貞明」か。

昭和天皇◆良子が「節子皇太后は御床へお連れしたのが悪かったとか女官が言っている」と言ってた。
田島長官◆節子皇太后は二度狭心症のストロークがあり、第二のがよほど強力かと想像されます。
今少し御殿場で御静養の方が良かったとのことはそうかもしれませぬが、いま責めることもできませぬ。
済みましたことゆえ、今後いろいろ注意いたします。

田島長官◆大喪儀につき田島が苦労いたしておりますのは写真と報道でございますが、御誄など葬場のマイクをお許し願いたく。
宮様および首相も異議なき様子。
昭和天皇◆よろしい。
田島長官◆国会開会式のごとき儀式に既にマイクのつく以上 式だといって避けられず、なにとぞ御練習を願います。

1951年6月5日
昭和天皇◆大正天皇と節子皇后とは御仲がそうおよろしくなかったようで、私は若くて何もその点のことは知らずにいたが、大正天皇お亡くなり後、叔母様方とくに竹田の叔母さん〔竹田宮昌子妃〕から聞いたことには、どうもあまり御仲がよくはおありでなかったようだ。
大正天皇が私をお呼びになって御一緒に散歩した時も節子皇后お出でなく、犬をお連れになって私が御供した。
御影にずっと御拝礼を遊ばしたのは、むしろ御反省の結果 御崩御後に御心持でお取戻しのためではないかと想像するので、思慕尊敬の念で生けるがごとくに仕えるという孝経などのようなものではないように思う。

1951年6月6日
昭和天皇◆節子皇太后が25年生けるがごとき貞節をなされたとして、今後宮城で御影とか節子皇太后の御写真とかに対して、節子皇太后のなされたことを今後やはり続けてやらなければならぬか。
田島長官◆節子皇太后の御影へのお仕え方は節子皇太后の御流儀での表現でありますが、本来は御誠意が本質実体でありますゆえ、必ずしも節子皇太后の御流儀を遊ばさねばならぬことはないと存じます。
昭和天皇◆そうか。それでよいか。

1951年6月8日
田島長官◆皇太后職の女性の数は、女官長以下女官7人・女嬬7人・雑仕3人・他に御用掛山中サダ〔元侍従長珍田捨巳の娘〕ありますが、大正御代変りの時には清水谷英子と高松千歳子で、あとは大正5年からと致しましても35年になりますので、15歳でお仕えしても50歳というわけで老人が多いようでございます。

1951年6月15日
昭和天皇◆節子皇太后の御遺書の事だがねー。
いろいろ御親筆のもの、御歌の他は全部焼却してほしいということで、残しては皇室の恥辱だとあるが、このお書き物をまとめるのは如何にすればよいか。
田島長官◆皇太后宮大夫・皇太后宮女官長の手で遺漏なきよう取りまとめ、良子皇后にでもご覧いただくの他ないと存じます。
昭和天皇◆節子皇太后は筧克彦の御進講「神ながらの道」をお聞きになったのだが、その筆記をどういう意味かわからぬが秩父宮にあげてくれとある。
これはその通りにするだけのことゆえ差し上げてもいいが、どうして秩父宮かということはわからない。
とにかく秩父宮は貞明皇后の一番お気に入りであった。
三笠宮も末のお子さんで〔溺愛され〕高松宮が御不平で、
戦争の時 支那の上海か何か危険な所へお出でになったのも、その御不平のためであったような話も聞いた。

1951年6月19日
田島長官◆皇太后宮侍医山川一郎に聞きましたが、大正天皇の崩御は1926年12月で、葉山への御転地はその年の8月頃かと存じますが、この転地に関して節子皇太后と侍医頭入沢達吉らの申上方と極端に相違し、侍医の意見の通り取運ばれて非常に面白くなく思召して御煩悶のようであったとのこと、前年8月にひきつけのようなことがありましたとのことで、既に摂政がおかれてのことでありますが、その時以来節子皇太后の御苦労は大いに増したようだとのことであります。
坊城皇后宮大夫の話によりますれば、昭和天皇の御言葉通り、やはり非常に御円満だったとは申し難いようで、ちょいちょいその間の御様子承知の人もあると申しておりました。
昭和天皇◆あの時分も節子皇太后は看護婦がお嫌いであったが、入沢の意見だったか良子の所で多少慣れたのを二人、良子が困るにもかかわらず回したが、これなども節子皇太后は御憤慨だったかもしれず。
田島長官◆実は新皇太后宮侍医勝沼清蔵も拝診後じき旧皇太后宮侍医山川一郎と諮りまして、衛生女嬬の必要を申しましたそうですが。
昭和天皇◆それは初めて聞く。
勝沼もそう言ったのか、そうか。

1951年6月21日
田島長官◆節子皇太后お好きのリンカーン一台を、内張りまで節子皇太后にお見立てを願いましてお買い願いましたものが、崩御後に着荷いたしました。
これを皇太子用とし、皇太子様用を内親王用と致します。
内親王様方も今のパッカードはあまりお好きでなき様であります。

田島長官◆〔貞明皇后の墓の〕お土かけのこと、高松宮御電話あり。
皇太子もとの御説あり。
「お小さい方も印象をはっきりするためになすったらよい」との御意見でしたが、
「順宮厚子内親王が遊ばせば、照宮成子内親王・孝宮和子内親王、またその御配偶者、さすれば東久邇宮稔彦王・東久邇宮聡子妃もとなりますが」と申し上げ、
高松宮は「内廷皇族で線を引ける」との仰せ。
昭和天皇◆それは私としては困る。
稔彦王の関係もどうなるかと思うゆえ、最初の昭和両陛下・直宮・妃殿下だけか、皇太子を入れただけにしてもらいたい。
皇太子を入れたために他に波及するなら、皇太子もやめてくれ。
田島長官◆高松宮に申し上げましょう。

1951年6月27日
昭和天皇◆秩父宮は節子皇太后の伝記のことをしきりに言っておられたから、
「天皇皇后の実録は編纂する義務のあるものと思うから、書陵部で然るべくやると思う。しかし今は特殊な人を雇うような大掛かりなことはできぬだろう」と言っておいた。

1951年7月9日
田島長官◆過日中山輔親侯爵が田島に九条家のためにこの際なんとかという話がありました。
この方は九条家の親類で、「京都方面におらるれば門地上かつがれてよからぬことがおきまするし、財政上の関係もあり陵墓監にでも」との話がありました。
九条家に対しては従来節子皇太后より年二度1万円か1万5千円か御下賜がありまして、その他昭和両陛下よりも2,500円程度ありまして、この中元には両方とも昭和両陛下より下賜のように致しました。
今後も従来通りする必要ありと考えております。
節子皇太后の御里ゆえ適当なことは考えねばなりませぬが、無限度とはまいりませぬ。
昭和天皇◆九条道秀のひととなりは?
田島長官◆掌典も無理のように聞きますし、人に乗ぜられるところあるようにて、かつて貴族院で人の草稿で演説する気になったりして、あまりキチンとした人ではないようであります。

1951年7月26日
田島長官◆九条家のことでありますが、皇太后宮大夫坊城に尋ねましたところ、御補助は5月11月の二回ありました由ですが、全部で2万円で、九条道秀氏はしまり屋で家計は心配することはないとのことであります。
中山氏が面倒は見ているようであります。
昭和天皇◆なぜ中山がそういうことを言ったろうねー。
田島長官◆よくはわかりませぬが、中山が自分の責任を幾分でも軽くしたいためでございませんでしょうか。

田島長官◆大宮御所の人の処置の問題は、個々の人々につき職場転換・他への就職依頼・内掌典を試みしも断りのこと・女官は結婚に多少希望あること、8月末までになんとかしたい方針。
昭和天皇◆女官女嬬などを皇居の方へ取ることは?
田島長官◆良子皇后が御希望の人ならばともかく、やり方も違いましょうし、御心配ない方がよいかと

田島長官◆『原田熊雄日誌』の5巻を見ますと、西園寺公望が節子皇太后のことについてちょっと変わったことを申しておりますし、昭和天皇が枢密顧問官本田熊太郎就任を留保遊ばしたことなどがあからさまに出ております。
昭和天皇◆まだ2巻ぐらいまでしか見てないが、『原田熊雄日誌』は私のことについては言い過ぎは絶対になく、むしろ内輪に言い足らぬ個所はある。
田島長官◆『原田熊雄日誌』にも小原の坊主〔小原龍海〕のことが入船観音ということで出ておりまして、昭和天皇の御寿命を42歳という迷信的なことを申しておりまして、警視庁に捕まりましたのを東久邇宮稔彦王が助けておいでのことが載っております。
昭和天皇◆どうして私が42歳で?
田島長官◆迷信的な流言と存じます。

1951年9月29日
昭和天皇◆大宮御所の女官が内掌典はイヤだと言い結婚ならいいという話は矛盾ではないかと思う。
今さら古参の内掌典に教わるということがたとえ上でも慣れぬこととて、人に従うというような意味でイヤだとすれば、結婚しても夫に従うもイヤという訳になるが、どうも矛盾だ。

1951年12月20日
昭和天皇◆東宮ちゃん〔平成天皇〕は帝位を継いでもまだまだだし、貞明皇后は皇后〔香淳皇后〕の方と連絡が悪く、と言うより明らかに不調和があったことは事実だ。
田島長官◆皇太后職というものがありますればそこの役人があり、競争でもありませんが、連絡を怠ったりして何か張り合うというようなことは絶無ではございません。
田島が驚きましたのは元宮内大臣牧野伸顕八十八のお祝いの御仕向が、大宮御所からいろいろ手厚く田島に示され、良子皇后よりは御仕向なかりしため何の連絡もなく。
昭和天皇◆貞明皇后でさえそうだから、私が譲位して東宮ちゃんが帝位についても何かと面倒なことが起きがちなことは想像できる。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1952年3月14日
田島長官◆明仁皇太子に関しては宵っぱりが悪い習慣で、これはお直し願いたいと存じます。
侍医勝沼精蔵も申しておりまして、節子皇太后の御遺伝かなどと申しておりました。
昭和天皇◆西洋流の夜会などはあまり早く寝る癖の人は困る。
(明仁皇太子のことは無意識に御弁解的なこととなる)

1952年4月11日
田島長官◆独立奉告の勅使御差遣の問題は調べておりますが、いろいろ複雑多岐で明治天皇以来一貫したものもありませず。
昭和天皇◆それは一貫しないのだよ。
承るところによれば明治天皇の御一代には、遂に法案ができても服忌中は御裁可がなくその時々お決めになったような訳で、言わばルーズであり、大正の御代になってその草案が急に法律になり難しくなった上、節子皇太后が非常に御厳格であったからますますやかましくなり、もっとも節子皇太后は終戦後は急にお楽になったが、側女官が皇居の者でも節子皇太后に何か言われはせぬかと喪のことはとても気にしていた。
いわんや大宮御所の女官は厳重だったと思う。
忌の点は掌典以上だったよ。
それで私が多少緩和して大正時代のが少し緩んだ訳で、一貫しないのだ」
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1953年2月25日
田島長官◆秩父宮・高松宮は皇孫でお生まれになり、三笠宮は皇子としてお生まれで、節子皇太后〔貞明皇后〕が末っ子は可愛いと言うのでお可愛がりになったというようなことも多少ございましょうか。
昭和天皇◆私などは〈おもう様〉〈おたた様〉と御一緒のことはあまりないが、日光や葉山の付属邸というものは三笠宮のためにできたという一例を見ても、田島の言ったようなことはあった。
三笠宮はワンパクで、籐椅子をお振り上げになったのを女官がお止めしたのを、子供は活発でなければと節子皇太后がお止めになったというような例もある。
陸軍少将田内三吉というのが養育掛としてずっとお付きしてた。
秩父宮や高松宮は恥ずかしいのかちっとも三笠宮と遊ばない。
私は遊んでやったことがある。

1953年12月3日
田島長官◆先だって名前をお忘れの絵描きは宅野田夫ではございませんか。
昭和天皇◆そうだ、宅野だ。
あれは右翼で相当な皇室利用的だ。
節子皇太后はそういう点はちょっと何かあるとずいぶんお許しになって利用されなすった。
田島長官◆御婦人のためか御隠居の御身分のためか、宮城とはずいぶん違ったようなことがありますように存じたことがありました。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1994年2月1日
昭和皇太后様万一の場合、あまり作為は加えず早めに斂棺を行う方が可と。
貞明皇后は御遺体に腐敗防止剤注入。
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◆123代 大正天皇(明宮嘉仁親王)122代明治天皇の子
1879-1926 47歳没


■妻  貞明皇后 九条節子 九条道孝公爵の娘
1884-1951 66歳没

*貞明皇后は自分と同じ誕生日の二男秩父宮を溺愛した。

*三男高松宮より10歳年下の四男が生まれてからは末っ子三笠宮を溺愛した。


●迪宮裕仁親王 昭和天皇 久邇宮良子女王と結婚
●淳宮雍仁親王 秩父宮  会津藩主松平容保の孫/外務官僚松平恒雄の娘松平勢津子と結婚
●光宮宣仁親王 高松宮  将軍徳川慶喜の孫/徳川慶久公爵の娘徳川喜久子と結婚
●澄宮崇仁親王 三笠宮  高木正得子爵の娘高木百合子と結婚


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佐々木高行『かざしの桜』明治天皇の娘昌子内親王と房子内親王の御養育係

1899年9月8日
※中山慶子の発言〔明治天皇の生母〕

九条家も範子さん〔貞明皇后の姉〕が未嫁の時はいろいろと運動し、嘉仁皇太子の御息所との望みありたる模様なれども、節子さんにてはとても叶わざるとて格別運動もせざると察せられ候。
望外の感ありしならん。
この度の義はすべて御表にての取り計いと存じられ候。
ただ丈夫と申すのみにても御繁生と申すことも受け合いはできず。
嘉仁皇太子にもまだお祝いを申し上げないように言われている。
しかし嘉仁皇太子が私に「橋本綱常から何か聞いていないか」としきりにお尋ねになるので困っている。
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『原敬日記』総理大臣

1920年8月10日
下田歌子来訪。
「大正天皇の妃御選択の際 伊藤博文公爵の内命を受け御教育せし諸令姫中、第一に皇族方よりと詮議せられたるも、伏見宮禎子女王は適当と言う者ありたるも侍医橋本綱常御診察の結果御健康不適当となり、やむを得ず旧御摂家の中よりと詮議せられたるにより、自分は九条家は孝明皇后〔英照皇太后〕の御実家でもあり、その姫すなわち節子皇后は御幼少より御教育致せしに、別段優れたる御長所なきもまたなんらの御欠点もなきにつき然るべきかと伊藤公爵に内話し、橋本綱常御診察致し健康申し分なしということにて当時の皇太子妃に御定理ありたる次第なれば、その後今日に至るまで畏れ多きことながら極めて御信用ありなにくれと言上しおり。
しかして皇太子妃より皇后となられたる当時は如何にも御心労の御様子にて、皇后となられてお喜びかと思えばさにあらず、美子皇后〔昭憲皇太后〕賢明の御声聞高きにいかにしてその跡を継ぐべきやと御憂い御深かりし御様子なりしが、その御性格一変とも申し上ぐべく今日は立派なる国母とならせられ、また最近は大正天皇の御病気にていかにも御心痛あり、不幸にして御下問等に対すべき有力なる老女官もなきにつき、ついに自分を御召にあいなる次第なり。
迷信と申すことは如何なる方にも免がれざることにて、ひとたび迷信に入らるればこれを去ること難しきものなれば、むしろ過なきを期するには飯野吉三郎のごとき諸事楽観にてしかも敬神の念厚き者は間違いなかるべしと考え、その直感したる神意と申すべきものを言上しおれり。
また節子皇后常に仰せには、『世上のこと当局者より聞けば別段のことなきようなれども、いろいろ他の者より言上することあり。その真相を判断するに苦しむ』との御仰せあり」とて、例の大隈重信系や官僚系が政界もしくは政府のことにつき云々することを暗示せり。
「かくのごとき次第なれば、不肖ながら国家のためと思いいろいろ言上しおる」と言い、今日は初対面なるが時々必要の場合には来訪を約し去れり。
下田はとかく評のある婦人なれども、教育も十分ある人なれば、その言うところは誠実にしてもっともの次第なり。
いずれにしても宮中に賢明なる老女官にてもあらば、一層国家のためなるべしと思わざるを得ず。
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『原田熊雄日誌』西園寺公望の秘書

元老西園寺公望は「節子皇太后を非常に偉い方のように思ってあんまり信じすぎて、というか賢い方と思いい過ぎておるというか、賢い方だろうがとにかくやはり婦人のことであるから、その点はよほど考えて接しないと、昭和天皇との間で憂慮するようなことが起りはせんか。自分は心配しておる」と言った。
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『高松宮日記』

1923年2月7日
夜、有栖川宮董子妃御危篤の電報ありたり。
ことによっては帰らねばならぬかもしれぬ。
困ったことなり。

1923年2月8日
晩、牧野伸顕宮内大臣より喪主仰せつけらるること、帰京の日は後報という電報が来る。
やれやれ。
たぶん紀元節後ならん。

1923年2月9日
夜電報にて「帰京を要すれば18日の前」ということを報ず。
これによれば帰らずに済むかもしれないが、それでは変だ。
高松宮という称号は有栖川宮家の祭祀を継ぐためだ。
喪主という勅許を願っておきながら、ここにしまいまでいては変すぎる。

1923年2月10日
私としては喪主になった以上、帰京するを至当と思う旨、山内伝育官より官長に尋ねしむ。
夜、皇后宮属淡近澄、節子皇后の御親書もて来島。
帰京するようにとの仰せと思いのほか、意外のことにも帰らないようにと言うことで、非常にヒステリックになって書いておありになるので、私にはよく事が了解できなかったが、困ったことになった。
宮内大臣は帰るようにとの意見なるも、節子皇后はことごとく反対なさるらし。
官長も困りおるならん。

1923年2月12日
今朝大臣より有栖川宮の御辞退を理由として帰京せぬよう伝い来る。
義理の立たないことになって心苦しい。

1923年3月1日
官長から東京での様子を聞く。
宮内大臣は強く帰京を言い張り、御内儀ではどうしてもお許しなきこと想像の如く。
節子皇后が非常にヒステリックにおなりになっていたことも予想通りだった。
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『高松宮日記』

1929年3月30日
北白川宮へ。
良子皇后御参内になるから、節子皇太后との間が上出来のようにするなどお話して。

1929年10月26日
大宮御所より三里塚の薯などいただく。
石川別当がその御様子を申し上げぬから、御催促だろうと心配す。
あまりに節子皇太后にビクビクしすぎる。

1929年12月9日
侍従長鈴木貫太郎来談。
大宮御所と宮城との折り合い、融和に努めるべきむね話す。
かかることは侍従長のなすべきことならざるがごときも、今としては侍従長の仕事拡大せる以上、また侍従長として努めざるべからざることなりとは難しきことなり。
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『高松宮日記』

1937年8月15日
節子皇太后より派兵将士に氷砂糖を賜る由。
良子皇后より負傷病兵に包帯等を賜る恒例に対し、氷砂糖はもっと広範囲になり釣り合い上いかがなものか。
いただく方では良子皇后と節子皇太后と区別はないわけであるが、内輪で見るとちょっとどうかなり。
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『高松宮日記』

1941年8月6日
節子皇太后防空の御避難所はじめ日光の予定なりしところ、節子皇太后お気にいらず先日御参内の時に昭和天皇と御話あり。
寒いのはイヤという思召もあり、例の調子にて節子皇太后おひねくれからか昭和天皇もお困りにて、防衛司令部の考えにては日光第一なるも、宮ノ下でもよく沼津でもまずよろしとのことにて、その後沼津ならよろしとのことになる。
何かあると語気の具合で変になり、昭和天皇また余計に御心配になる。
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◆123代 大正天皇(明宮嘉仁親王)122代明治天皇の子
1879-1926 47歳没


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『徳大寺実則日記』明治天皇の侍従長

1892年7月27日
1891年6月より1892年7月まで、嘉仁皇太子の御学業成績は、御読書・御馬術は著しく御進歩あそばされ、御記憶力も増され、ただし御読書御進歩の割には意味を解せらるること御乏しと。
算術は他に比較すれば御困難なり。
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佐々木高行『かざしの桜』明治天皇の娘昌子内親王と房子内親王の御養育係

1900年2月14日
※伊藤博文の発言

嘉仁皇太子とにかく御軽率の御天質にて、何事もしみじみ遊ばされ候御事なく、これには困る。

1900年2月15日
※伊藤博文の発言

嘉仁皇太子御病症あらせられ、かつ御天質なにぶん御軽忽にあらせられ候。

1900年3月10日
※伊藤博文の発言

嘉仁皇太子は明治天皇と大御反対なり。
これまで種々心配せるもなにぶん思うごとくできず致し方なし。
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『原敬日記』総理大臣※当時は内務大臣

1913年1月6日
先年 予が元老伊藤博文に「東宮様御外遊ありては如何」と話したるに、
「それは出来ざる事情あり」と言えり。
何事なるかはいまだに判然せず。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1917年3月20日
午後7時40分、御召あり。
尺八演奏を承る。
奥御座所鶏の御杉戸前御廊下にて、立ちながら千鳥の曲を吹奏す。
畏れ多くも大正天皇は両侍従を随えさせられ、立ちながらお聴きを忝うす。
また節子皇后は女官たちを随えさせられ、鶏の御杉戸裏にてお聴きに達したりと。
我が愛笛またなんたる光栄ぞ。
演奏終わって、大正天皇みずから御拍手の栄光に浴す。
「今夜の演奏なかなか面白ろかりし。この次にはもう少し長き曲を望むぞ」
とのありがたき御言葉あり。
退出時、節子皇后より御菓子一折御下賜を忝うす。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1917年4月3日
体温また37.7度に昇れり。
咳、極めて多し。
他の役所なら本日ぐらいは所労休暇を願うべきなれども、常に病気の二字を非常に怖れ給うに加え、上直日とていかんとも致し難く、常のごとく出勤。
ただし、人力車にて。
御運動扈従に出かける前、咳止め頓服第二回目を服用す。
お陰にてほとんど堪え得たるも、5~6度は堪えかねてお嫌いの咳声を天聴に達したるも恐懼の次第ながら、出る咳を出すまいと努むるほど苦しきものはなし。
かかる経験はあまり多くの人にはあるまじ。

1917年4月13日
出御、拝謁。
侍立中、咳の出ずるを我慢したるは近来の苦痛事なりき。
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『原敬日記』総理大臣※当時は政友会総裁

1917年4月
三浦梧楼子爵曰く、
元老山県有朋在京中大正天皇に拝謁せしに、「いつ辞表出すや」との御尋ねあり。
山県恐懼してただちに辞表を出せりと。
山県がしばしば老躯職に堪えざることを言上せしより起こりたる事ならんかとも拝察するも、その後寺内正毅拝察の際、「山県は人望なきにあらずや」との御諚ありて、寺内恐懼せりと。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1917年5月12日
午後に入り小雨。
馬術の御練習は馬場内において遊ばせらる。
例により扈従す。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1917年7月20日
午後の御運動は午後2時15分おり午後4時20分まで、吹上御苑および紅葉山等なり。
炎天2時間の扈従、申すも畏れ多きことながらなかなか容易にあらず。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1917年8月8日〔田母沢御用邸〕
午後2時30分より4時15分まで御苑内および帝国大学植物園内御運動に扈従す。
日光は涼しなど申しながら、この扈従だけは流汗淋漓、上衣のすべてビッショリとなれり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1918年7月2日
暑気酷烈のため、御日課の御乗馬御取り止めなる。
よって午後2時40分より3時50分まで御苑内御運動あり、扈従し奉る。
わずかに1時間に過ぎざる御供なれども、総身流汗淋漓たり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1918年11月12日
久しぶりにて拝謁す。
畏くも「久しく病気なりし由。全快せしか」とのありがたき御言葉を賜り、感泣措くところを知らず。
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『原敬日記』総理大臣

1919年2月15日
宮内次官石原健三より大正天皇御病気の御様子を聞き取りたるに、葉山へ御避寒後いまだ御入浴もなく御庭にも御出なき様の次第なるが、別にこれという御病症いもあらざれども、少々御熱などのある事もあり、御脳の方に何か御病気あるにあらずやということなりと、甚だ恐懼に堪えざる次第なり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1919年3月1日〔葉山御用邸〕
御警衛艦〈津軽〉乗員270名、海岸南苑下にて陸上運動施行のお許しありたり。
綱引き2回、旗送り競争1回、および軍歌3曲なり。
その間終始石堤上に出御あり。
運動を見そなわせられことのほか御満足に拝し奉るを得たるこそ、臣下の光栄例うるものなし。
運動員一同に清酒1樽下賜せらる。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1919年6月26日
※倉富&宮内次官石原健三の会話

石原◆大正天皇は元老山県有朋の上京をお好みなされず。
それぐらいなるゆえ山県に対する時は御行動も平常のごとく都合良く行かず。
倉富◆これは御病気なるゆえ、他より申し上げても都合良くなることは難しかるべし。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1919年7月4日
※宮内次官石原健三の発言

大正天皇の御健康問題なり。
侍従長正親町実正もやはり公家気質にて悠長なり。
葉山御避寒中に処置すべきはずなりしも、御避寒中には為しがたし。
御還幸後に為すべしと言い置きてそのままになりおれり。
元老山県有朋なども大概は知りおるも、宮内大臣波多野敬直ほどは知りおらず。
波多野宮相に対して種々の小言を言うも、畢竟無理なる事にて何とも致し方なき訳なり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1919年8月6日〔田母沢御用邸〕
午後2時半より御苑内および植物園内の御運動に扈従す。
夜御玉突きの御相手賜ること例のごとし。
大正天皇御気色はいつもに変り給わざるも、御体力はどこと言うにあらざれども、やや御減退あらせられたるにあらずやと拝察し奉る点なきにあらず。
時々御言葉の明瞭を欠くことあるがごときは、近来ようやくその度を御増進あらせられたるにはあらずやと拝し奉るも畏れ多き極みなり。

1919年8月26日〔田母沢御用邸〕
日光着。
ただちに大正天皇に拝謁を賜り、「子供の病気、少しはよろしき方か」とのありがたき御言葉を拝す。
恐懼感激の至りに堪えず。
謹んで両三日前より快方に向かいたるを言上す。

1919年8月27日〔田母沢御用邸〕
今秋挙行せらるべき特別大演習に際し、御召艦に充当せらるべき〈摂津〉準備に関する覚書を得たり。
大正天皇の御健康とかくに優れさせ給わざるため、軍艦としては不相応な設備までのなさざるべからざる憾なきは誠に遺憾に堪えざるところにして、この設備の程度をもって御召艦に対する相当の準備と考うべからざるは識者をまたずして明らかなり。
むしろ海軍国として雄飛せんとする我が国の御召艦としては、後日の範となすべからざるものと信ず。

1919年8月29日〔田母沢御用邸〕
小倉山へ御遊行あらせらる。
本日の御遊行は大正天皇の御機嫌あまり麗しからず。
最初よりいささか御疲労模様に拝し奉りしも恐懼の至りなり。
もっとも午前中は至極御気色麗しかりし由承わりしも、両皇子御出発後急に御疲労の出でさせ給えるやに拝し奉るとなん。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1919年9月4日〔田母沢御用邸〕
夜に入り御球戯に先立ち、尺八一曲の御所望あり。
雲井獅子一曲を奏す。
終って球戯御相手承る。
今晩は大正天皇の御機嫌、平日になく至極麗しく拝し奉れり。

1919年9月26日
御陪食の節 王座に臨御あらせ給いしも、多少御気色優れさせ給わざるものあり。
御咳これに伴い、御姿勢等思わしからざるを拝し奉れりとは畏き極みにこそ。
午後の御運動はわずかに宮殿内の御逍遥にとまり、室外の御運動を控えさせられ、夜間の御玉突も平日と異なりて単に出御遊ばせらるというに過ぎざりしと言う。
漏れ承わるに、特に御大儀の御模様を拝し奉ると。
しかも昨今階段の御昇降には両側より侍従お助け参らするにあらざれば叶わせられずとは、何たることぞ。
一日も早き御快癒を待ち奉ること切なり。
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『原敬日記』総理大臣

1919年9月27日
内大臣松方正義に「聖上近来の御健康につき憂慮すべき次第につき、とくと考慮を望む」と申し入れる。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1919年10月2日
午後の屋外御運動遊ばされず。
大正天皇どこというにはあらねども、御不自由にわたらせられるためなり。
夜の御球戯には久しぶりに自分をも召させらる。
しかしほとんど名のみの御球戯ありしのみ。

1919年10月7日
午後の屋外御運動は依然遊ばされず、宮殿内の御運動あらせられたるのみにつき扈従せず。
夜の御球戯に召させられ御相手承る。
本日は近頃になく天機麗し。

1919年10月24日〔海軍大演習〕
大正天皇御夕食時には例により軍歌の御所望あり。
乗員総員後甲板に集まり、軍楽隊の音頭により4曲を奏す。
御食事終わって相撲を天覧に供す。
御召艦〈摂津〉の力士は我が海軍中随一の尤物揃いにして、連合艦隊における呼び物の一つなればなり。

1919年10月28日
午後8時より御球戯に召さる。
今夜御機嫌ことのほか麗しく、明らかに大演習御統裁の首尾よく済ませられたるを御満足に思召されたることと拝察し奉るもうれしき極みなりき。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1919年11月1日
※倉富&宮内次官石原健三の会話

石原◆昨日の勅語の模様は拝したるならん。
昨日までは幾分の望みを属しおりたるも、到底議会開院式の事は望みがたし。
倉富◆御臨席ありて勅語なき訳には行かざるべし。
石原◆それはできず。開院式前より御避寒になるより他に方法なかるべし。
倉富◆さすれば新年式も止めになり、宴会場の狭き事も心配なくして済むべし。
石原◆その通り。

1919年11月21日
※宮内次官石原健三の発言

大正天皇の御脚の運びよろしからず。
介添を付けるは不体裁にて、観菊会の事は苦心しおりたるところ、幸いに雨天となりて幸せたり。
時によりては御飛びになる様の事もあり。
御容態一定せず。
やはり神経の作用なるべし。
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『原敬日記』総理大臣

1919年11月6日
予は大正天皇の御健康問題は国家の重大問題と思い常に憂慮しおり、山県有朋・松方正義・西園寺公望みなこの点についてはまことに憂慮しおれり。

1919年11月8日
御幼年のころ脳膜炎御悩みありたることゆえ、御年を召すに従って御健康に御障りあり、御朗読物には御支多く、すでにこの間の天長節にも簡単なる御勅語すら十分には参らず、臣下としてことに当局として、予は国家皇室のために真に憂慮しおれり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1919年12月22日
※宮内官僚小原駩吉の発言

〔議会開院式について〕今年は早々御避寒あるべしとの事を聞き好都合と思いたるところ、やはり大正天皇御自身に臨幸ある予定なる様に聞きおれり。
石原健三なども到底出来ざることと思いたるも、侍従等は必ず出来ると言うゆえまたその気になりたる様なり。
先日支那武官に謁を賜るとき初めは単に握手を賜うのみにて何の御詞もなき予定なりしが、式部長官は「外国人に対し一言の御挨拶なきは不作法なり。一言にてよろしきにつき何とか御詞あればそれ以上は通訳にてしかるべく取り成すべし」と言いたるも、到底難しいとの事ととなりおりしが、
元老山県有朋がこれを聞き「左様の事あるべきはずなし。ぜひ御詞あるべし」とのことにて御詞あることとなりたる由。
山県は大礼の時には自身に御練習に関係し、自身も勅語を読みて御練習を為し、ともかく大礼滞りなく済みたる事あるにつき、今日にてもその通り出来る事と思い、式部長官・侍従長列席の所にて、
「宮内大臣波多野敬直は自分の言う事を聞かず。自分は幾度か忠告もし助言も致したれども何事も実行せず。大礼の時かのごとく御出来なされたるものが今日出来ざるはずはなし。畢竟真実にその手段を尽くさざるためなり。聞くところにては、開院式前に御避寒遊ばさるるやの説ある由。言語道断なり」
式部長官は気の毒に思い、
「この事については波多野宮相も非常に苦心しおる。大礼の時と今日では御容態非常に異なり」とてこれを取り成し、
波多野宮相も「大礼の時は様なればよろしきも、今日はなかなかかの時の様に行かず」と言いたる由。

1919年12月24日
※倉富&宮内次官石原健三の会話

石原◆一度は年内御避寒の事に内定しおりたるも、侍従中の2~3人が勅語は御差支なき旨を申し出て、そのため御臨幸ある事となりおれり。
今後今一度御練習あるはずなり。
自分は甚だ不安心なるも、侍従の保証あるにつきその事になりたり。
倉富◆侍従が保証したりとて責任を避ける事を得ざるにあらざるや。
石原◆それはもちろん宮内大臣の責任なり。
倉富◆この事は実に重大なる問題にて、また至難なることなり。
当局者は充分に考慮せざるべからず。
石原◆何とも致し方なし。

1919年12月25日
※宮内次官石原健三の発言

明日の議会開院式には御臨幸あるはずなりしが、ついに御止めになりたり。
元老松方正義は熱心に御練習を勧めたるも、結局御止めになる事となれり。
元老山県有朋も参内して御模様を拝見し、結局御止めに同意する事となれり。
これまでは山県らは手続の不行届あり、手続さえ行届けば出来ざる事はなし、と考えおりたる模様なるも、実見して始めて得心せられたる模様なり。
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『原敬日記』総理大臣

1919年12月26日
第42議会開院式。
大正天皇御足痛にて御歩行御困難の次第、昨日宮中より発表ありて、本日臨御なきにより、予勅命を奉じて勅語を奉読したり。
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『原敬日記』総理大臣

1920年1月26日
閣議において、絶対秘密として大正天皇の御病症を内話し、一同痛心に耐えざる旨陳述したり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1920年3月3日〔葉山御用邸〕
夜の御玉突きの御相手承ること常のごとし。
この夜、尺九の一管を御前に演奏す。
節子皇后もまた女官を従えさせ給い、陰の御室に出で給う。
御聴きに達するを得たるは身に余る光栄なりき。
これにて我が有する三管は、畏れ多くもすべて大正両陛下の御聴きに達したることとなりしもありがたし。

1920年3月31日
在京武官一同へ大正天皇の御近状に関し、達せらるるところありたり。
また今日の諸新聞には宮内大臣謹話として、同じく「大正天皇近頃御健康優れさせ給わず。御避寒地葉山よりの還幸も今年は4月中旬となるべき」旨発表せらる。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1920年3月4日
※宮内次官石原健三の発言

イギリス皇太子来年3月頃来日する旨の回答ありたり。
差し向きシャム王が来るにつき苦心中なり。
御面会あればすぐに不結果を来す事は明らかなり。
元老山県有朋などはやむを得ずある程度までは御容態を話す模様なり。
只今三浦謹之助をして御容態書を作らしめおれり。
ある時期において発表するよりほか致し方なかるべし。
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『原敬日記』総理大臣

1920年3月28日
※陸軍大臣田中義一の発言

昨夜元老山県有朋を訪問し、宮内大臣波多野敬直近日来元老間を奔走しおるは大正天皇の御病症発表のためにて、しかして山県元老に持参せし三浦博士御診断書には「数年前より御不例」のように記しあり、穏当ならざるにより訂正を注意したりと内話をせり。

1920年3月30日
波多野宮相より大正天皇御病症につき三浦博士御診断書の書面には内々これを示し、同時に世間に公表の書面も内示したり。
「閣僚にもお示しなるべきところ、それにてはかえって世間の耳目を引くことになるにつき、予より内示せんことを求め、かつ本件は枢密顧問官にも枢密院議長より内示することに取り計うつもりなり。また拝謁等もなるべく閣下よりせられ他の閣員は毎度拝謁せざるようにありたし」と言うにつき、
予これを諒承し「内閣組閣当時元老松方正義より内談の次第もあるにつき、やむを得ざる場合のほか他閣員は拝謁を願わざることになしおれり。ただし陸海外の三相は職務上自ら言上せざるを得ざるはやむを得ぬ次第なり」と付言したる後、
「大正天皇の御病気はいかにも恐懼の次第なるが、それにしても御病症はまったく秘密のうちに置くことは国民に対し相済まざる次第なれば、時々公表を要すべし。さりながらその公表の場合には人心に影響すること多きにより、前もって内示なりたし」と請求し、波多野宮相これを諾せり。
閣議、予より大正天皇の御病症につき波多野宮相内談の次第を告げ、かつ三浦博士拝診書ならびに波多野宮相より世間に公表すべき文案を内示したり。
閣僚一同、如何にも恐懼に堪えざることを述べたり。
陸海外の三相は暫時拝謁につき、つとにその御様子を知り嘆息しおりたることなり。
なお閣僚には「上奏等はなるべく予より取り計うべし」との次第を告げおきたる。
大正天皇には時々親任または親補官の辞令御申渡の際にも御困難のことあり、その時は予側より御助言申し上げるようなこともあり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1920年4月9日
大正天皇は当分御摂養の必要上、御座所において政務を見そなわせらるるの他は一切公式の御執務あらせらざることにお願いすることに決したる旨 大正両陛下に奏請し、ついに御許容あらせられたり。
されば今後は内外人の拝謁等も表向きには大正天皇にはの出御なかるべく、必要やむを得ざる場合には節子皇后・裕仁皇太子代ってその御役を務めさせ給うこととなり。
したがって観桜観菊等の御会にも、大正天皇は臨御遊ばせられざることとなりたる次第なり。
御病気御自覚あらせられざる御模様拝し奉ることとて、ことのほかお痛わしきことと拝し奉るも恐懼に堪えざる次第なり。

1920年4月10日
午前2時頃より絶えず悪夢に襲われ、少しも安眠できず。
縁起にもあらざることながら、大正天皇御身の上について種々の杞憂百出し、かくならば如何にせん、またこの場合には如何に擁護し奉らんなど、決して事実出現あるまじきことどもまでも脳裡に浮かびては神経興奮し、容易に眠れず。

1920年4月12日
来る14日節子皇后には単独東京に還啓あらせらる旨仰せ出ださる。
来る17日の学習院卒業式に台臨、続いて観桜会、先日より待ちおるイギリス大使の勲章捧呈式に臨ませられ御陪食仰せつけらるるためなりと。
大正天皇にはもっぱら御摂養のため当分何らの御儀式にも臨ませ給わざることとなりたるをもって、節子皇后代ってかくも務め給う次第にして、御病気御自覚あらせられざる大正天皇は果たして如何に思召給うにや。
御心中拝察し奉るだに畏し。

1920年4月14日
今日午前、裕仁皇太子は外国使臣を宮中牡丹の間に御引見あり。
世人はたして何と感じ、大正天皇の御近状を拝察し奉るならんや。
側近に奉仕する者必ずこれを詳らかにするあらんとて、我らに反問する者なからんことを願うのみ。
今日はかくのごとく我が国における多くの新例を開きたる日なれば天機如何と案じ奉りしに、御球戯のおり拝し奉るところは平日といささかも変らせ給うことなく、今夜はむしろ御気色麗しき日なるを覚えたり。

1920年4月20日
新宿御苑観桜の御会あり。
後より聞く。
「節子皇后が最先頭に立たせられ臣僚百官を従えさせられ御通行謁を賜りしその御有様は、その御態度等は極めて厳粛荘厳にあらせ給いしも、心ある人々は何やら異様の感なきあたわざりし」とのことなり。
一刻も早く大正天皇の御平癒を祈り奉るのみ。
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『原敬日記』総理大臣

1920年4月10日
元老山県有朋を訪問。
原首相◆大正天皇御病気につき国書奉呈すべき3カ国の公使差し控えおる上にイギリス大使来任につき、これを延期せんことは同盟国として如何にも遺憾の次第なれば、外務大臣内田康哉とも相談し宮内省側とも話し合い、戦時中イタリア等にも前例ありたりというにつき、裕仁皇太子御代理にて国書を受領せられ大正天皇に伝呈せらるることに内定したる。
山県◆もっともの次第なり。
イギリスに対し延引するようにては、ことにあい済まず。

1920年4月13日
大正天皇に拝謁前、侍従長正親町実正の内談に「拝謁せらるる時、御病気のことは言上なきようにありたし」と言えり。

1920年4月14日
本日裕仁皇太子が大正天皇に代らせられイギリス大使はじめ3カ国の公使に謁見を賜い、国書を御受領ありたり。
この御式は我が国においては初めてのことなり。
内田外相の談に「裕仁皇太子の御態度ならびに御言葉など実に立派にて、宮内官一同と共に実に感嘆せり」と言えり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1920年6月20日〔沼津御用邸〕
午後大正天皇は御平服のまま、大山公爵別邸なる臥牛山に御遊幸あらせらる。
午後3時10分還御遊ばさる。

1920年6月25日〔沼津御用邸〕
地久節。
節子皇后は先般来御在京につき、当日沼津に供奉中の武官一同は奉祝の意を書面に認め、皇后宮大夫を経て奉呈せり。
大正天皇御昼餐時御食堂前御庭に供奉。
判任官以上全員を召させ給い、立食の餐を賜わせらる。
女官一同接待の役に任ず。
立食終わって三浦医員の手品を天覧に供し、供奉員の綱引き・競走・旗取りなどの運動を天覧に供し奉れり。
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『原敬日記』総理大臣

1920年6月18日
※原&元老山県有朋の会話

山県◆元老松方正義が「至急に面談したし」と言うにつき何事かと思い会見せしに、
「大正天皇御病気につき摂政を置かるることに決定を要す」と言うに、
自分は「それは重大のことなり。御病気には相違なきも、摂政を置かるることとなるには前もって節子皇后をはじめ皇族方のお考えも承らざるを得ず、また大隈重信のごときしばしば拝謁もなしおるにつき御病はさることにはあらずと言わんもしれず、かくては実に重大なる事件を惹起する恐れあり」とてこれを止めたり。
原首相◆松方元老がなぜに急遽この決定を促したりや。
山県◆松方の言うところにては、伊集院大使がベルギーより御病症をその公使に尋ね来り、またアメリカの新聞には御重態のように記載もありたりとて、その決定を促したるに原因す。
原首相◆ついに摂政を置かるる必要に至らんことと恐察するも、それまでには時々御様子を発表して国民に諒解せしむるの必要もあるべし。
もとより節子皇后はじめ皇族方の十分なる御考慮に待たざるべからず。
また御病気の御様態はなお数回公表の必要あるべし。
山県◆松方の軽挙は論外なれども、過日も松方辞職を言うに、
自分は「その職を辞したりとて先帝以来優渥なる勅諭を拝したるは我々責任を免るることあたわざるべし」と論破せり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1970年7月22日
午後、御苑内および吹上御苑の御運動に扈従し奉る。
近来の暑気厳しきためか、大正天皇やや御倦怠にわたらせられざるかと拝し奉る。
恐懼の至りに堪えず。
夜の御球戯には例により軍歌盛んなり。

1970年7月24日
本日宮内大臣より発表あり。
庶民が大正天皇の御健康を憂慮し奉り時々あられもなき御容態と拝察し奉る者さえあるに至らん現状となりたれば、かえって恐懼に堪えざる次第なるをもって特に宮内大臣より責任ある発表をなし奉れる次第なり。

1970年7月27日
大正両陛下田母沢御用邸への行幸啓の儀あり。
上野駅にて皇族各殿下妃殿下をはじめ首相以下数十の大官より奉送を受けさせられプラットホームに出でさせ給いし後は玉歩やや御困難の御模様にて、御乗車まで途中2度も立ち止まらせ給いしは何らかの御異状あらせ給いしにはあらざりしか。
後方近く扈従し奉る身には、ことさらおいたわしき御事と拝察し奉るも畏し。
日光の御静養なんとかして御相応あらせ給はんことを祈願し奉るのみ。

1970年7月31日〔田母沢御用邸〕
午前の御運動は遊ばせられざりしも、午後は久しぶりに1時間にわたり御苑内御運動遊ばせらる。
ただし沢侍従つねに御側に侍し奉れり。
とかく前日の御元気にはあらせ給わず。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1920年7月15日
※宮内次官石原健三の発言

大正天皇の御病状第2回の発表を為すの必要あり。
三浦謹之助が診断書を作りたるが御病症を恐怖症と書きおれり。
これにては誠に困る事なり。
初めは忘語症と言いおりたるが、恐怖症とせり。
これでは発表しがたし。
今少し不得要領の病名にいたしたし。

1920年7月21日
※倉富&宮内次官石原健三の会話

石原◆大正天皇の御病状書案中「御疲労の折には御態度弛緩し御発語に障害を生じ明晰を欠く事あり」というごとき言葉あり。
倉富◆御発語に障害を生ずと言えば脳の疾患ある様に思わる。
御発語云々は削る訳にはいかざるや。
石原◆この事がこの節の主眼につき、その他は既に第1回に発表せられたる所と異なることなし。
医者の説にては言語に関する神経と意識に関する神経とは別個の物なる由にて、御発語に障害ありても御意識には影響なしということを得る趣なり。
倉富◆それほど研究しあることならばよろしからん。
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『牧野伸顕日記』内大臣※当時は貴族院議員

1920年7月15日
大正天皇、上野御発。
本日は侍従左右に侍し御手を支えながらプラットホームを御歩行、玉車に向かわせらる。
近来一人御側にてワキもしくは御手を支えたるに、両人左右より御支え致すことは今日が初めてなり。

※侍従加藤泰通の発言
大正天皇は塩原御用邸のことを御記憶あらせられざるように拝す。
種々問題を設け御伺いを試みるに何ら御答えなく、御口気より拝察するにかねてしばしば御来遊ありたる事はまったく御念頭に登らざるがごとしとのことなり。
皇太子御時代にはほとんど毎年御滞在であり、自由に御運動御散歩あり、また御践祚後も一回御来遊ありたるにかかわらず以上の御有様なるは、はなはだ痛心の次第なり。
原恒太郎侍従も、お気に入りの土地なるにかかわらず前段の次第とは実に恐驚の至りと申しおる由。
御湯殿は御座所よりおよそ6尺以上も低地にして階段13を下り、御昇降困難なるが従前より何ら変更したる事なく、以前御滞在の時と同様なるにかかわらず、「これは違う」と仰せられたる由。
御進退不自由にならせられるため、従前より構造も違い、別の湯殿のように御思召たるかもしれず。

1920年7月22日
※元老松方正義の言葉

摂政決行の時機はなるべく早きを相当とするも、裕仁皇太子御帰朝後あまり急速に決行するは、いかにも感情上また孝道上においても穏当ならざる傾あるにつき、少し落ち着きたるところにて進行する方よろしかるべし。
10月末あるいは11月頃しかるべくか。要するに議会までに片付くことを目的とすること。
なお節子皇后へ言上することは、自分まず口開きすることに任ずべし。
それはかねて大正天皇の御状態につき御話ありたることあり。
それは1913年頃までは種々御為めを存じ上げ申し上げたるも、もはやなんら効果なきを覚知し爾後は断念せり。
誠に困ったことなり。
また皇子様方、父大正天皇の御前にならせられたる時、時々変なことあり。
皇子様方も不思議に御思召こともあるにつき、なるべく早く御前を御下りになるよう取り計らいおる次第なり。
皇族方へも自分より申し上ぐることに努むべし。要するにこの問題だけには尽力すべし。
その上はもはや来年は88歳になることゆえ、このことが決定したる暁には是非御免を蒙りたし。
この事だけはぜひ始末をつけなければ相済まざる分なり。

この老公の態度、決心いかにも立派なりし。
帝室に対する奉公の誠意に基づくこと無論なり。

1920年7月24日
※侍医頭入沢達吉博士の発言

大正天皇の皇太子時代にはたびたび拝謁し種々御用を承りたり。
しかるに7~8年を経過したる今日、今春以来御用拝診を命ぜられ、時々御伺いするに、どうも入沢を御記憶なきようなり。
数回拝伺のうえ「お前は見たことがあるようだ」と仰せられたる由なるも、はたして御記憶を御呼び出しなりたるか、あるいは侍従等より従前の事を申し上げたる結果なるか判然せず。
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『原敬日記』総理大臣

1920年7月20日
宮内大臣中村雄次郎、大正天皇御病症につき再び発表すべき案文につき相談。
予熟読、差し支えなき旨返答したり。

1920年7月24日
大正天皇御病気の御近況につき、中村宮相より相談ありし通り、本日宮内省から発表あいなりたり。
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『原敬日記』総理大臣

1920年8月4日
大正天皇に拝謁後節子皇后の御機嫌伺をなしたるに、常とは異なり何びとも侍立せず単独にて拝謁し、かつ椅子を賜りたり。
節子皇后より大正天皇の御病気につき「一般にはいかが感じおるや」との趣 御尋ねつき、
予は大体の形勢も奏上しおくこと適当と考え、
「大正天皇の御病気につき甚だ畏れ多く、人心に影響するところ実に憂慮に堪えざりしが、幸いに2回の御様子御発表あり人心の動揺を防止するに至れるやに思わるる」次第を申し上げたり。
「下々のことは新聞ぐらいにて見るの他なければ、独り心配しおる」との旨、お漏らしありたり。
恐懼の至りに堪えざるなり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1920年9月21日
午後の御運動平常のごとく扈従。
また夜の御球戯は名ばかりにて、軍歌のみ盛んなり。
御相手少々閉口。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1920年10月31日
午後8時半ころ「これより供せよ」との御沙汰により御内儀に扈従せしに、「御店」の御催しあり。
節子皇后は変装した女官を従えさせられ、大正天皇御接待あそばせらる二位局〔大正天皇の生母柳原愛子〕またこの座にあらせらる。
おしるこ・西洋菓子・お茶などの御饗応にあずかり、土産としておもちゃ・化粧品・お野菜などをちょうだいす。
お福引には金札との名題にて、御幣1本・反物1反ちょうだいす。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1920年11月17日
御運動の扈従、御球戯の御相手承ること常のごとし。
軍歌は風邪のため発声困難、恐懼に堪えざりき。
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『原敬日記』総理大臣

1920年12月24日
侍従長正親町実正より「近年大正天皇の御署名を要するもの非常に増加し、毎日日課として御署名あるもとうていお運びとならず、如何にも恐懼に堪えざる次第につき、なんとか心配ありたき」旨内談を得たり。
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『牧野伸顕日記』内大臣※当時は貴族院議員

1920年12月11日
大正天皇の御病気のこともだんだん国民に知らるるもののごとく、また事実においても離宮に行幸または伏見宮邸に行幸などあれば、御病気は御肉体にあらずして御脳にあられるぐらいは国民も悟ることと思う。
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『原敬日記』総理大臣

1921年1月15日
大正天皇に拝謁し奏上を終わりたるに、大正天皇は御手づから御机上にありたる紙巻煙草一握りを取りて賜りたるが、御病中にもかかわらずなおかくのごとき御習わしを行わせらるるは、如何にも君臣の御間柄につき御幼少より先輩ら御教育申し上げたる結果もあらんが、ただただ感泣の他なかりしなり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1921年4月16日
内山武官長より「御近況に対し各自の見るところを述ぶべし」とて、各自意見を徴せらる。
御容態につき第三回の御発表あるべきをもってなり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年4月19日
※宮内官僚関屋貞三郎の発言

大正天皇の御容態は葉山より御還幸後に発表せらるる例なる由につき、この節もこの際発表する事となさんと欲す。
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『原敬日記』総理大臣

1921年3月9日
宮内大臣牧野伸顕来訪。
「大正天皇御署名の数あまりに多く、何とか改正の必要を認め研究中なり」と言いたれば、
牧野も「宮中の御祭典その他いかにも多く、往古まったく宮中だけのことにて政事に御関係なき時代のことをそのまま踏襲の有り様につき、これも何とか改正を要すと思い宮内省でも取調中なり」と言えり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1921年5月10日
御内庭にて園遊会あり。
これは一昨日昭和皇太子御無事御着英の趣き昨日来電ありたるにより、その祝賀会なり。
大正両陛下出御、大いに御満悦の御態に拝し奉る。
模擬店は昭和皇太子御巡遊中の御寄港各地における名物を取り揃え、参列者一同に賜る。
香港→シュウマイ
シンガポール→バナナ
コロンボ→カレーライス
スエズ・ポートサイド→タバコ
マルタ→マカロニ
ジブラルタル→西洋酒
その他西洋菓子・果物など
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『牧野伸顕日記』内大臣※当時は宮内大臣

1921年5月9日
節子皇后に拝謁。

牧野宮相◆大正天皇の御負担いかにも多端に渉り、今後はなんとか省略の事を講じなければならぬ趣。
節子皇后◆日記などを見るに、京都時代はただいまよりよほど簡単であったと見ゆ。
明治になり復旧なされたるもの多し。
日記には祭事につき女官が代理したるもの少なからず、御代々の中にお弱き方も入らせられそれがため右のごとき取り計らいありたるものと考えらる。

1921年5月18日
沼津御用邸伺候。
元老山県有朋は久しぶりの拝謁にて、よほど御変りなりたりとの感想を洩らす。
英語云々の御言葉あり、年齢をお尋ねあり、元気であるなど、切れ切れの御言葉のみなりし由。
従前排せざる程の御変調なりと言われ、大正天皇御自分は御病気と御思召さざる由。
このことは今後の取り扱い上困難を感ずる点なるべし云々の意味を洩らさる。
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『原敬日記』総理大臣

1921年5月4日
宮内大臣牧野伸顕と会見。
「御親署の数非常に多数にてあまりに御日課多きにつき、御病中にもあれば御親筆を印刻して御捺印あいなることとしては如何。外に発表せざるものはこれにて可ならん」と過日平田東助に内談したる趣旨を内話して牧野の考慮を促したり。
また牧野は「摂政の議起らば如何なる手続によるものになるにや」と言うにつき、前例もなきことにつき篤と政府も宮内省も取調をなすこととなせり。

1921年5月20日
牧野宮相と内談。
「元老山県有朋は拝謁後大正天皇の御容態について痛嘆して物語れり。到底摂政を置かるるの他なし。元老間においても異議なし。目下宮内省にてその手続等取調中なり」と言う。
予もかねて内談通り「遺憾ながらその他なし」と話し合いたり。

1821年5月31日
山県有朋「英語云々の御言葉あり、年齢をお尋あり、元気であるなど切れ切れの御言葉のみなりし。従前拝せざるほどの御変調、よほど御変りなりたり。大正天皇御自分様は御病気と御思召ざる由。このことは今後の取り扱い上困難を感ずる点なるべし」
大正天皇御病気の御近況につき、山県とともに嘆息談をなし、裕仁皇太子御帰朝の上は速やかに摂政の御必要あるべきことを物語りたり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1921年6月22日
大正両陛下沼津御用邸より宮城に還御遊ばさる。
大正天皇は自動車・汽車・馬車に乗御・御下車の折り、よほど御難儀に拝し奉りたるは畏き極みなり。
もっとも御気色にはなんら御別条を拝し奉らず。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は枢密顧問官

1921年6月23日
※宮内大臣牧野伸顕伯爵の発言

大正天皇先年来脳の御悩あり。
御静養遊ばされおるが、御身体は御悪しき方にはあらざるも、御脳の方は御よろしき方とは申し上げ難く、昨日還御の時なども停車場にて急に固く御成り遊ばされそのため御帽のかぶり方も曲り、御脚の運び方も自由ならざる様の事なり。
先年来公式にはすべて出御遊ばされず。
外交官の御引目または御陪食でもある様の時はそのため御旅行の必要ある様の事にて誠に都合悪し。
この如き事にて長く弥縫する訳にはいかざるゆえ、裕仁皇太子の還啓でもありたる上は摂政の御詮議も必要ならんと思う。
これを実行するには如何なる手続を要するや取り調べおきたし。
ただいまの所この如き考えを抱きおる事わかりても困るにつき、誰に話す訳にもいかず。
君一人に依頼するゆえ、そのつもりにて調査いたしくれたし。
医師の診断書も必要なるべく、1週1回の拝診には拝診書を作りおり。
また侍従および侍従武官においても、異様の御動作ありたる時はこれを記しおるはずなり。
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『原敬日記』総理大臣

1921年6月6日
内閣の前途につき「予は裕仁皇太子御帰朝までは万難を排して責任上留まるべし。また畏れ多きことながら大正天皇の御容態とうてい御全快なし。ゆえに御帰朝後は摂政となられざるを得ざることはほとんど疑うの余地なし。かくのごとき決定に至るまでいかなることありとも、国家のため皇室のため政変を起こすことを得ず。しかして摂政となられたる時は時機を見て一同辞職して政局面を一新せらるることを奏上すべし」との趣旨を説示したり。

1921年6月7日
元老山県有朋を訪問。
大正天皇御病気につき裕仁皇太子御帰朝の上は摂政を置かるるの他なきことを互いに内話したるに、山県は「御帰朝後はなるべく速やかにその手続をなすの他なし」と言えり。

1921年6月21日
宮内次官関屋貞三郎来訪。
大正天皇御病気の御様子につき内話し、結局摂政問題は裕仁皇太子御帰朝後速やかに御決行の他なかるべしなど内話す。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1921年7月15日
大正天皇、塩原御用邸へ御避暑行幸あらせらる。
御服海軍式御通常礼服にして、いかにもお軽げに拝し奉るぞありがたし。
いかなる時機にも必ず陸軍式にならせられ給いしも、近来御健康優れさせ給わざるにより、陸軍式御佩剣は御歩行を妨げ参らすこと明らかなるをもって、この度は海軍服御着用を願い奉りたる次第にて、短剣はことに御邪魔にならざるの点において御意に叶ひたるべきを恐察し奉る次第なり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年7月15日
※宮内官僚関屋貞三郎の発言

大正天皇の御容態は漸次よろしからざる方に向かわせらるる様なり。
先日漢学者小牧昌業が論語の進講を為したる時、
「『四百余州を挙る』という軍歌を唱へよ」との事にて、小牧は論語を講ぜずしてこれを唱えたる趣なり。
大正天皇も先年は軍歌をお唱え遊ばされたるも、この節はわずかに1~2語ぐらいよりお唱えなさる事はできざる趣なり。
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『高松宮日記』

1921年7月26日〔塩沢御用邸〕
大正天皇は御散歩の時、侍従の補助を要せらるるごとく拝せり。
ますますおよろしからざるがごとし。
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『牧野伸顕日記』※当時は宮内大臣

1921年7月15日
大正天皇、上野御発。
侍従左右に侍し御手を支えながらプラットホームを御歩行、玉車に向かわせらる。
近来一人御側にて脇もしくは御手を支えたるに、両人左右よりお支え致すことは今日が初めてなり。

※侍従加藤泰通の発言
大正天皇は塩原のことを御記憶あらせられざるように拝す。
種々問題を設けお伺いを試みるに何らお答えなく御口気より拝察するに、かねてしばしば御来遊ありたる事はまったく御念頭に登らざるがごとしとのことなり。
皇太子時代にはほとんど毎年御滞在であり、自由に御運動御散歩あり、また御践祚後も一回御来遊ありたるにかかわらず以上の御有様なるは甚だ痛心の次第なり。
侍従原恒太郎も「お気に入りの土地なるにかかわらず前段の次第とは実に恐驚の至り」と申しおる由。
御湯殿は御座所よりおよそ6尺以上も低地にして、階段13を下り御昇降困難なるが、従前より何ら変更したる事なく、以前御滞在の時と同様なるにかかわらず、「これは違う」と仰せられたる由。
御進退不自由にならせられるため、従前より構造も違い、別の湯殿のように御思召たるかもしれず。

1921年7月22日
元老松方正義来談。
節子皇后へ言上することは、まず自分が口開きすることに任ずべし。
大正2年頃までは種々お為を申し上げたるも、もはや何の効果なしを覚知し爾後は断念せり。
誠に困ったことなり。
また皇子方大正天皇の御前にならせられたる時、時々変なことあり。
皇子方も不思議にお思召すこともあるにつき、なるべく早く御前をお下がりになるように取り計いおる次第なり。
左様にて節子皇后は十分政務御取扱いに不可能のことは御納得のことと信ずるにつき、その御話をきっかけに自分よりいよいよ摂政のやむを得ざることを言上に及ぶべし。
皇族方へも自分より申し上ぐることに努むべし。
要するにこの問題だけには尽力すべし。
その上はもはや来年には80歳になることゆえ、このことが決定したる暁にはぜひ御免を蒙りたし。
過日山県が「自分なども万事なるべく差し控え、当事者に任したし」と言いたるにつき、
「それもよかろうが、このことだけはぜひ始末をつけなれれば相済まざる分なり」と申し置きたり。

老侯の態度・決心いかにも立派なりし。
皇室に対する奉公の誠意に基づくこと無論なり。

1921年7月24日
※侍医頭入沢達吉博士の発言

大正天皇が皇太子時代にはたびたび拝謁し種々御用を承りたり。
しかるに7~8年を経過したる今日、今春1月以来御用拝診を命ぜられ時々御伺いするに、どうも入沢を御記憶なきようなり。
数回拝伺のうえ「お前は見たことがあるようだ」と仰せられたる由なるも、果たして御記憶をお呼び出しなりたるか、あるいは侍従らより従前の事を申し上げたる結果なるか判然せず。

1921年7月31日
侍従長正親町実正に、御容態および御動作につき日々侍従職の日誌を備え、これに記入することを重ねて精細に談示しおけり。
侍従は当番につき一定の期間に更迭するにつき、その時の当番中に就き主任を置き、その主任がその日の事を細大洩らさず記入し、しかして二週間くらいにこれを整理し、特に参考に資するに足るべき事実を摘書し、侍従職の責任ある日誌としてこれを調製すべきこと。
既往に遡りても、同様の物をできるだけ調製すること。
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『原敬日記』総理大臣

1921年7月1日
清浦奎吾来訪。
摂政問題につき予は大正天皇の御近況を詳細に内話し「かえすがえすも遺憾なるは日々御経過よろしからず、しかして御病気ということを御自覚なきはなんとも申しようなき次第なり」など物語りたり。

1921年7月6日
元老西園寺公望を訪問。
「山県は節子皇后に摂政問題を申し上ぐることは西園寺にしく者なしと言いたるが、このことは元老総出で言上の他なかるべし。これに先立っては皇族方の御協議あること必要なり」と言う。
「摂政問題は元老はじめ各方面に異議なきところなれども、実際を知らざる者は疑惑を起さずとも限らざるにつき、なるべく速やかに御決行然るべきこと」も物語りたり。

1921年7月7日
元老山県有朋を訪問。
山県「大正天皇の御病症を決定するは医師の進言を主とせざるべからず。それには侍医のみにては如何かと思う。各専門家の意見を徴するの必要もあらん」と言うにつき、
予は「その通りならん。しかしこのことは政事上よりも考慮せざるべからず、今日の御容態にては追々御親署も如何あらせらるるも知れず、ゆえに第一は医師の言なれどもこの辺よりも考慮を要する」と言いたるに、山県同意を表せり。

1921年7月21日
節子皇后日光に行啓あらせられ、また御幼年なる三笠宮も御同伴ありたるは御団欒の御有様を拝し、いずれも感泣に堪えざりき。
それについても大正天皇の御容態はかえすがえすも遺憾の至りなり。
大正天皇は明日塩原より日光に行幸のはずなり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1921年8月24日〔田母沢御用邸〕
午後の御運動に扈従す。
今年は植物園の御運動区域も大いに減じさせ給えり。
御運動時間およそ1時間、夜分の御球戯御相手は以前と変わりしこともなし。
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『牧野伸顕日記』※当時は宮内大臣

1921年8月4日
北白川宮成久王〔大正天皇の妹の夫〕に伺候。
大正天皇と節子皇后との御間柄につき御感想の談あり。
小生が近ごろの御傾向を申し上げたるに、「しからば自分の言うことは杞憂に過ぎず」と仰せらる。
さらに節子皇后の大使・公使等への御陪食等のこと御話あり。
小生が国際関係上やむを得ざる次第を述べたるに、御了解ありたるよう拝せり。
とにかく節子皇后が政務に御関係せるごとき誤解は避けたし云々の御心底なり。
政務の御代理は当然裕仁皇太子の御任務なりとの御意向に基づくものなり。
朝香宮鳩彦王〔同じく大正天皇の妹の夫〕が「牧野宮相が、摂政は裕仁皇太子これにお当りなる方しかるべし」と言いたりとの御話ある由につき、
小生が朝香宮へ伺候当時の顛末を申し上げ、「小生は単に大正天皇御近況を陳上して御静養につきお気づきあるならば伺いたしと申し上げたるに過ぎず、摂政のことには一言も及ばざりし。多分朝香宮の御連想をお漏らしなされたるものならん」と言いたるに、
北白川宮は「その通りなりしならん。朝香宮は平生何事にも率直に御発言なさる御性癖あり」と御話あり。
要するに内親王方は大正天皇の御容態については特に深く御心配遊ばされ、その結果とかく他の務め方につき物足らぬ御思召あるやに拝察す。

1921年8月9日
※大正天皇の侍従加藤泰通の発言

梨本宮夫妻が李垠王帯同にて御用邸伺候の折は、数日前より大正天皇は特に李垠王の参内をお待ちあり。
李垠王は御幼少の時代より御承知あり、かつ御自分朝鮮語を話すとのかねての御抱負もあり、ことに李垠王は8歳下なれば目下に御覧あり、勝手に待遇もできる等のことよりしきりにお待ちあり。
しかるにいよいよ三殿下御揃、御前に伺候ありたる時は何ら御言葉もなく、以前より御待構ありたるに顧み、近側の者不思議に感じたり。
よりて拝謁済たる後、李垠王のことに談及したるに、大正天皇はまったく李垠王をお忘れになり、梨本宮の若宮とお認めなりたるもののごとく、なお李垠王の参内をお待ちなりたる由。
加藤侍従は「先刻の若宮が李垠王なりし」と申し上げ退たる由なり。
李垠王とは従来時々お会いになり、特に年来のお親しみあり、当日お待ち受けなりたるにかかわらず、その時になりお見覚えなしとはよほどの御異状と拝するほかなし。

1921年8月19日
李垠王 詔書御礼のため日光に伺候、拝謁したるも何ら御言葉なかりし由。
前記通りかねて心安く御思召ありたるに関わらず、一言も御沙汰なかりしはやはりお思出しなきか、言葉の出ざりか、誠に痛ましき次第なり。
日々の御運動はなおさら区域は狭くなり、御徒歩の時間も縮まり、武官長内山小二郎の話に、多くは侍従が御手を取るとのことなり。

1921年8月23日
※侍従海江田幸吉の発言

先日の李垠王拝謁の時、大正天皇より何か解しがたき御言葉を御発しなりたる由。
たぶん朝鮮語のつもりにて御話ありたるものなるならんとの推測なり。
この節はよく「庭に人がいる」など仰せらるる由。
過日は「大きな男がいる」と仰せられたる由。
また「小さな男が見ゆ」と仰せられたる趣なり。
なにか御脳の働きにて後になり御記憶と実際と混同したるお感じありしにや。
明らかならず。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1921年9月21日
7月15日以来御避暑中なりし大正両陛下、田母沢御用邸より還幸啓あらせらる。
日光御出発の際 御料自動車に入らせらるるや、誤ってソファに御腰おろし損じ給い、陪乗の侍従次長御扶助申し上げたる由なり。

1921年9月22日
御運動に扈従す。
また夜の御球戯御相手従来通りなるも、とかくに御元気衰えさせ給えるを拝するは恐懼に堪えざる次第なり。

1921年9月28日
両三日前より大正天皇玉体の右に屈曲せらるること甚だし。
しかれども格別いずれに御故障あらせらるるというにもあらず。

1921年9月29日
大正天皇本日は多少御気分御爽快に拝せられ、玉体の御屈曲薄らがせ給う。
午後の御運動も数日前と比すればいささか御徐行遊ばせらるるも、格別の御異状を拝し奉るほどにはあらず。
夜分の御球戯御相手また常のごとし。
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『牧野伸顕日記』内大臣※当時は宮内大臣

1921年9月6日
訪欧供奉長珍田捨巳伯爵を訪問。
昭和皇太子御洋行中の事を巨細あり。
御性質中御落着の足らざること、御研究心の薄きことなどは御欠点なるが如し。

1921年9月25日
昭和皇太子に拝謁、御留守中の大正天皇の御容態を言上す。
医師診断書、侍従長・侍従武官等の報告書御内覧を願いたるに、すぐに御閲覧済にて翌朝御返却遊ばされる。
浜尾東宮大夫進退につき種々懇談したるも容易に肯んぜず。

1921年9月26日
元老山県有朋を訪問、摂政問題につき打ち合せ。
調書を手交し、御容体書発表のことを談示せり。

1921年9月28日
元老西園寺公望を訪問、摂政問題につき成り行きを話す。

閑院宮に伺候。
大正天皇の御容態につき委細御話申し上げ、発表文の御閲覧を願う。
御異存なし。

1921年9月29日
伏見宮貞愛親王に伺候、御容体を申し上ぐ。
粗々御承引あらせられたるも、19条の規程応用の点まで御明言なし。
できるだけ御理解なさるよう努めおきたるも、結局のところまで進まざりし。

1921年9月30日
東伏見宮に伺候、御容体発表のことを申し上ぐ。
摂政問題に及び特に御意向御明言なきも、結局はそのことに到達すべしとの御理解あるがごとし。
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『原敬日記』総理大臣

1921年9月3日
牧野宮相が「大正天皇御病気の様子3月以降のところ詳しく書面にて差し出すはずなり」とて内示せしものによれば、これまで申し上げたる以外、幻覚を感ぜらるることありとの一句あり。
時々何か幻を視らるることあらせらるる趣なり。
いずれそのうち世間にも発表する次第なるが、なにぶんにも痛嘆の他なし。

1921年9月7日
元老松方正義を訪問。
「摂政問題の遺憾ながらやむを得ざること、大正天皇目下の御人気によるもこの際異論あるべしとも思わざれば、まず元老諸公の議論を固め10月ともならば挙行しかるべし」と提案し、松方もこれに同意す。
また「これらのことに対してあえて異議を言う者ありとせば大隈重信ならん」と言いたるに、
松方は「大隈には自分往訪してその趣旨を告ぐべきつもりなり」と言えり。

1920年9月13日
牧野宮相を訪問。
「発表の場合にはこれまでのように御快方なれども御静養を要すと言うのみにては判断に苦しむべしと思わるるにより、御少幼のころ御脳を御病みありて十分ならざりしに、御践祚の後は御容態だんだんにおよろしからずとの趣旨を付する方可ならんかと思う。ただし発表の次第によりては御大患のようにも誤解せざるを保せざれば、そのことは注意を要す」と言うにつき、
「御大患と誤解せば今日まで当局は何をなしたるやと言われ、また御快方に向かわせらるると言えば摂政の必要を疑われ、とにかくその発表に異存なきも発表の次第には十分に注意ありたし」と言いたるに、
牧野宮相は「ことに内親王方は御兄弟の御間柄なれば如何に思召さるるやも計られざるにつき、去3月3日の裕仁皇太子御発程より御帰朝の間、侍従において日々御挙動記載したるもの・侍従武官長の記録したるものあるにつき、これを内親王方をはじめ皇族方の内覧に供し、その了解を得たき考えなり」と言うにつき、
予は「それは大切のことなり。皇族方において十分御諒解なくしては何事の生ぜんも知るべからず。甚だ遺憾のことながら大正天皇今日の御容態は時に良不良あれどもだいたいにおいて一向御了解なき御様子なれば、到底このままになし置くことを得ざるべし。また御静養と申すことも3年の久しきに及びたれば国民の心痛もあらん」と言いたるに、
牧野宮相も「その通りなり」と言えり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1921年10月4日
大正天皇御容態、第4回発表あり。
号外を付したる諸新聞あり。
特に読売新聞のごときは御容態を御重態と誤りたるをもって世上を騒がしたること甚だしく、ある株式のごときは暴落せるものさえ生ずるに至れり。
思うに本日の発表は前3回の発表いずれもいささか事実に遠く、いつもおよろしき方とのみ発表せられありしが、今回は新宮内大臣〔牧野伸顕〕の考えによりやや赤裸々に発表したるの結果、常に大正天皇の御健康を案じ奉る忠誠の臣民に驚愕を与えたること激甚なりしものなるべし。
この発表に付随して宮内大臣の詳細なる説明ありしならんには、今日のごとく世間を騒がすところなかりしなるべしと思惟せられたり。

1921年10月5日
大正天皇は覆奏を聞し召され、また親任に臨御あらせらる。
これらの儀式新聞に発表ありたるをもって、昨日世人を恐懼措くあたざしめたる御容態発表の件も、大いにその疑惧を解き得たるもののごとし。

1921年10月12日
大正天皇近来まれなる御元気に拝し奉るも嬉し。
御運動および御球戯ともに御活発なり。
天候の回復大いに影響し奉るものなるべし。

1921年10月18日
御運動の扈従、夜の御球戯御相手、常のごとし。
本日は平日に勝り、よほど御機嫌御麗し。
拝し奉るも嬉し。
まったく気候のせいなるべし。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は枢密顧問官

1921年10月5日
※倉富&枢密院顧問官清浦奎吾&枢密院顧問官曽我祐準の会話

清浦◆昨日宮内省より大正天皇の御容態を発表せしが用意足らず。
新聞が号外を発行したるため人心を驚かしたり。
自分は倶楽部におりたるが、そこにいる者は一同に驚きたり。
これがため株式の相場も狂いたる様の事なり。
自分らは内情を知りおるゆえ驚かざれども理由を説明する訳にもいかず。
ともかく午後に発表したる事がよろしからず。
倉富◆号外を出す事は午後に発表しても午前に発表しても同じ事なり。
清浦◆それは異なる事なし。
曽我◆自分らも驚きたり。
今朝の新聞には宮内次官の話の事も書きおりたり。
かのごとく書けば事情は分かれども、何事も書かず突然号外を出したるゆえ人を驚かしたるなり。

1921年10月5日
※宮内大臣牧野伸顕の発言

松方正義とともに御前に伺候し、摂政を置かるべきことを奏したるも、ついに御理解あらせられず。
まさに退かんとする時 松方を呼び止め給いたるも、御詞はまったく上奏に関係なきことなりしたり。
実に畏れ多きことなり。

1921年10月25日
※宮内官僚小原駩吉の発言

先日北白川宮邸にて晩餐ありたるが、北白川宮などはやはり節子皇后の大正天皇に対せらるる御態度に幾分の御不満あるようなり。
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『高松宮日記』

1921年10月4日
大正天皇御歩行にも補助を要せられ、御記憶力など減退にて、御良好とは拝し奉らずという御容態書発表になりたり。
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『牧野伸顕日記』※当時は宮内大臣

1921年10月2日
朝香宮に伺候。
御容体書発表のことを言上し、御異存なし。

伏見宮博恭王にも申し上ぐ、別に御異存なし。
竹田宮昌子妃同断。
北白川宮にも申し上げたるに、やむを得ずとの御沙汰あり。

1921年10月3日
節子皇后に拝謁。
御容体書発表の事を申上ぐ、御異存なし。
不治症に入らせらるること充分御覚悟の様おそれながら拝察す。

1921年10月11日
元老松方正義と会談す。
松方元老節子皇后に拝謁、問題につき委細言上、節子皇后も既に御覚悟の色じゅうぶん顕れ、御言葉中に「今まで新聞に奥のことが記載せられざるは幸せなり」と仰せられたる由。
大正天皇のことにつきいかに御焦慮遊ばされおるか伺うに足る。
ただし進行上につき御意見あり。
●補導を置くことは御不賛成なり。
それは権力が自然輔弼たる皇族に加わることを恐るるの意味において。
●青山御所は不可なり。
裕仁皇太子はかねて同所をお嫌いなり。
そのことはたびたびお漏らしなりたるをもって、同所を御住居と定むることは面白からず。
●大正天皇は内閣の伺いものをお楽しみに御思召すにつき、何とか取り扱い上 急にこの種の御仕事の無くならざる工夫はなきか。
要するにまったく御仕事の無くならざる便法はなきや。
特に心配してもらいたし。

以上だいたいの御思召を伺い得て大いに安心せり。

1921年10月19日
原首相より電話あり。
伏見宮博恭王へ伺候、問題につき委細言上、全然御同感にてなんら御異議なかりしとのことなり。

1921年10月22日
閑院宮へ伺候、御異存なし。

1921年10月24日
伏見宮貞愛親王に伺候。
親王方御会合を願い置く。

朝香宮・北白川宮へ順次参上。
朝香宮・北白川宮、十分の御賛成あり。
ただし朝香宮は「大正天皇御同意なき時はいかに成り行くや」とのお尋ねにつき、
「本件は皇族方の御発動にて決するものにして、大正天皇の御思召に依るものにあらず」と申し上ぐ。

1921年10月27日
梨本宮へ伺候。
十分御理解ありて御異存なし。

閑院宮に拝謁。
「すでに親王方の間には御意見も一致したるにつき、このうえ特に会合の必要なかるべし」とのことなり。

1921年10月28日
久邇宮邦彦王に伺候。
事件の詳細申し上げ、御異存なし。
「大正天皇御承諾なき気遣いなきや。また節子皇后の位地いかがなり行くべきや」のお尋ねあり。
「第一については、法律上は御承諾を願う必要なし。第二については、政治上には今までとなんらお変りならせられず」と陳上す。

1921年10月29日
東伏見宮へ伺候。
御異議なく、他親王方と同感のむね仰せらる。

賀陽宮へ伺候。
なんら別意あらせられざるのみならず、「自分は今少し早く実行ありたる方 よろしかりしならんと考う」云々。
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『原敬日記』総理大臣

1921年10月4日
宮内省より大正天皇御容態の発表ありたり。

1921年10月5日
牧野宮相と会見。
摂政問題につき牧野宮相はすでに皇族方9軒御訪問をなし御病気の御様子を申し上げ、この上は摂政を置かるるの他なしということも添えて言上せしが、いずれも御了解ありたり。
「ことに北白川宮富子妃は如何あらんと思い言上せしに、案外御了解ありて御異存あらせられず大いに安心せり」と言えり。

1921年10月13日
牧野宮相と会見。
「去10月11日元老松方正義が節子皇后に拝謁して、摂政を置かるることのやむを得ぬ次第を内奏したるに、節子皇后におかせられてもかねて御覚悟ありたるものと見え、御異論なく一安心なり」と言う。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1921年11月5日
内山武官長の命により、大正9年度分御状況を清書す。

1921年11月7日
武官府ほとんど一同にて御上京を清書す。
大正8年までの分・大正9年の分・大正10年の分。

本日の新聞記事に宮中重大事件は、今月の大演習終了後25日、皇族会議および枢密顧問官会議を開かれ決定すべしとあり。
はたして出所どこぞ。

1921年11月8日
昨日一同にて清書したる御状況書一括、内山武官長より牧野宮相に差し出したる模様なり。
午後御運動の扈従、気のせいにや、大正天皇御元気に乏しく拝せらるるも悲し。
御運動中例の玉体屈曲を拝し奉る。
夜分の御球戯には玉体の御傾斜も直り、御機嫌また日中に比しおよろしきよう拝せらる。

1921年11月22日
宮中においては重大事件着々進捗の様姿にて、なんとなく空気陰鬱を覚ゆるも悲し。
松方内府および牧野宮相打ち揃い拝謁して、いよいよ摂政を置かるるよう会議を開かしめらるべき旨言上せしも、十分の御理解あらせられしや否や知る由なかりしと。

1921年11月24日
伏見宮貞愛親王・閑院宮載仁親王、また松方元老・西園寺元老も参内、侍従長室において密談せらるるあり。
大正天皇は出御あるも御裁可書類のお取り扱い一つもこれなく、重大事件断行の時刻々と切迫し来れるを知るを得べし。

1921年11月25日
ああ、なんたる発表ぞ。
この発表無くば世上 大正天皇の御病患はたして那辺に存ぜらるるやを憶測する者あらんも、この憶測は放任して可なり。
今や統治の大権施行を裕仁皇太子に托し給い、もっぱら御静養あらせ給わんとする大正天皇に対し、何の必要ありてこの発表を敢えてしたるか。
予はここに至りて牧野宮相の人格を疑わざるを得ざるなり。
しかも今日の新聞のごときむやみに裕仁皇太子の御懿徳を賞揚し奉り、むしろ裕仁皇太子の御孝心を傷つけ奉りしもの多々あるべし。
牧野宮相は国民の諒解を求めんがため必要と思考せしものならんも、心ある者この発表を見て誰か慨嘆せざる者あらん。
むしろ言わざるの言うに勝るもの幾倍なるやを知らず。
ああ、世は澆季なるかな。

正親町侍従長は御前にまかり出でて、裕仁皇太子に捧ぐべきをもって御用の印籠御下げを願いたるに、さすがに大正天皇には快く御渡しなく、一度はこれを拒ませられたりと漏れ承る。
まことに恐懼の至りなり。
その後まもなく内山武官長が御前に出でたるに、「先ほど侍従長はここにありし印を持ち去れり」と仰せありし由なり。
何とも申しあぐるに言葉を知らず。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は枢密顧問官

1921年11月24日
午前宮内次官関屋貞三郎より「〔昭和皇太子を大正天皇の摂政とする事について〕皇族会議を開かるる時臣下の中より大正天皇の御平癒を祈り奉る旨、陳述する必要あるべき趣平沼騏一郎より申し出たるにつき、内大臣松方正義がこれを述ぶべしとの事なり。よりて松方の演述すべき案文を作りくれよ」と言う。
予、これを諾し、すぐにその案文を作りこれを関屋に交し、関屋より松方に交し、松方も異存なきゆえ、松方がその案文の通り演述する事の一項を加え、皇族会議の議事次第書を改作し、かつ松方の演述すべき案文を浄写して、これを松方に交さしむ。
午後9時ごろ宮内官僚酒巻芳男よりの電話にて、「伏見宮博恭王・久邇宮邦彦王・朝香宮鳩彦王ら異議を唱え、『松方が意見を述ぶるならば、会議の初めに述ぶるならばともかく、会議の終らんとする時述ぶれば松方の意見にて事件が決定する様のきらいあり。この如き事にては松方を皇族に準じて待遇するものなりとの説も出てたる趣にて、その旨を宮内大臣に伝うべし』と言われたる」由にて、予、実に意外の事なる旨を告ぐ。

1921年11月25日
牧野宮相は今朝松方正義を訪い、松方が意見を述ぶる事は皇族に反対あるにつき、これを止むる事を相談し、松方もこれを諾したる由なり。
牧野は「皇族の心理は常識にては判断し難し」と言えり。
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『牧野伸顕日記』内大臣※当時は宮内大臣

1921年11月21日
いよいよ伏見宮にて各皇族方の御会同あり。
特に記すべき御発言なきも、朝香宮は摂政を置くことには異存なきも、時機については疑問あり。
「内閣更迭につき御親裁ありたる時より僅々の日数を経たる今日、すぐに天皇の御不能力を発表することは、国民はこれを黙過すべきや、また聖上におかせられ皇族会議につき御不同意の時はいかがなりゆくや」との御質問なり。
「御質問はもっともなるも、今後ともいかな政治問題の突発を生ずるも計られず、親裁を要する事柄は日々絶えず起こるものならば、今日こそ摂政問題を決するに好時機と認むる時は、いずれの日に見るべきや予期することは不可能なり。熟慮のうえ今日を選びたるなり。また聖上御不同意云々については、法律上御許容を要するものにあらざるも、私宮内大臣はあくまで御了解を得るまで申し上ぐべし」と言上す。

1921年11月22日
松方内府同伴、聖上に拝謁。
松方内府より言上に及びたるに、聖上にはただただアーアーと切り目切り目に仰せられ、御点頭あそばされたり。
こと重大なるにつき、私宮内大臣は改めて念を押し奉伺したるに、やはりアーアーと御点頭せられたり。
臣子として実に堪えざることながら、恐れながら両人より言上の意味は御会得あそばされざりしよう我々両人共拝察し奉りたり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1921年12月6日
東宮御所を、高輪御殿より霞ケ関離宮に御移転遊ばせらる。

1921年12月8日
御球戯御相手は午後7時5分の御召に始まり、近頃は8時頃より時の至るのをのみお待ちかねの有り様なりしに、今日はそのことなく午後9時の定刻まで至って天機麗しく、御談笑遊ばされしもありがたきことどもなり。
度々の御言葉に「俺は別に身体が悪くないだろー」と仰せらるるは、今日の御境遇まことにおいたわしき極みなり。
もっとも御自身には格別御病症御自覚あらせられざるものならん。

1921年12月15日
賢所御神楽の儀あり。
大正天皇は終日白御和服を召させらる。
出御もなく、したがって御運動は宮殿内のみなり。
御静養一方とならせ給いし今日なれば御運動等平日通り行わせらるる方よろしからんとは宮内大官連の意見も一致しおるも、誰人かこれを肯ぜざる者ありとかにてついに終日御和装を願い奉るの有り様なり。
御静養専一を旨とするの意味、なお徹底せざるを憾とす。
平日通りの御格子にて御差し支えなきはずなるに、午後10時ようやく入御、実際の御格子は10時半にして、表向きはやはり御神楽終了までは御格子なきことの体裁なり。
姑息と言わずして何ぞや。
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『高松宮日記』

※高松宮は江田島の海軍兵学校在学中

1921年12月1日
近ごろの新聞は昭和皇太子の摂政御就任からして、三笠宮の御写真など種々なのが出る。
私はおかげで気楽だ。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1922年1月1日
大正天皇御不例の故をもって昭和皇太子摂政に任ぜられて、ここに初めての新年を迎う。
大正10年は我が帝国にとって吉凶交々至りし記念すべき年にして、昨日をもってその終わりを告ぐ。
新たに迎える大正11年、願わくば凶事なからんことを祈るものなり。

1922年1月8日〔葉山御用邸〕
御歩様は1ケ月以前に比し確実にして、平地は侍従の手に頼らせらふることなく、御縁先の階段御昇降時侍従の御扶助し奉るは以前同様ながら、各段御一足ずつ進ませらるる。
御気楽の御静養の結果にやあらん。
とにかく嬉しき限りなり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1922年2月2日〔葉山御用邸〕
今夜は御自発的しかも明瞭に「今朝のもの持ち参れ」とて尺八の御催促あり。
出して時々吹奏、天聴に達す。
平日に比し御言葉もやや明瞭にて、「汝は家でも合わすか」とのお尋ねあり。
これには侍従一同も一驚を呈したるほどなりけり。
この奉答にはいささか閉口つかまつりたり。
1922年3月20日〔葉山御用邸〕
午後の御運動扈従その他、常のごとし。
ただ今回は我が喫煙せざることをお忘れになりたるためか、御葉巻を賜る。
否むべきにもあらざれば、ありがたく頂戴す。
いすれは誰か煙草飲む人のいただくに任せん。

1922年3月24日〔葉山御用邸〕
南西風依然として強吹し、怒涛ものすごき程なり。
御馬場内にて守備隊遊戯の予行をなし、午後の御運動これを御覧に供え奉ることとせり。
ただ事前に行事を言上すればいつも朝から「まだか、まだか」の御下問出ること普通なるをもって、
今日は御運動始まりて後 言上することと相談整え、平日通り御茶屋前まで御先導し、ここに初めて「本日守備隊は遊戯を致すべきにつき、暫時御覧を願いたし」と申し上げしに、「しからばただちにその場に臨まん」と仰せられ、万事好都合に天覧を賜わりたり。
時間約10分間なんのお気兼ねもなく、たびたび御笑顔を拝し奉りしは大々的成功なりけり。

1922年3月31日〔葉山御用邸〕
大正天皇、本日より右へ御傾斜あり。
(約1週間)
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1922年4月27日〔葉山御用邸〕
大正天皇鹿島の岩崎俊弥別荘に御遊幸あり。
一昨日来玉体の屈曲ありしのみならず、なにぶん御気色およろしからず。
自動車の御乗降ことに御難儀なりし由にて、岩崎別荘にても甚だしく御活気あらせられず、ことのほか御疲労の態にて一同御心配申し上げたりと。
また還御のとき御車寄せにて自動車よりの御下車も侍従3名にて御扶助申し上げしと承るは、恐懼に堪えざる次第なり。
しかれども午後には御庭先の御運動を仰せ出され、平日のごとく相当御運動遊ばされたりと。

1922年4月28日〔葉山御用邸〕
30日ぶりの拝謁なるに、甚だしく御憔悴の竜顔を拝し奉り恐懼措くところを知らず。
玉体はいまだかつて拝したることなきほど左方に御屈曲あらせられ、御みずから御起立あらせらるるさえ御難儀のほどなり。
さりながら御言葉だけは前回供奉の時に比し格別の御変化ありとも思われず、お手づから葉巻一本を賜り、ただただ恐懼御前を退下せり。
午後より御運動あり。
侍従の手に頼らせらるるも格別のことなく、玉体は左に御屈曲のままにて御漫歩、御馬場に出でさせられ種々隊員の遊戯を天覧あらせ給い、大いに御満悦に拝し奉れるは涙の出るほどう嬉しき心地す。

1922年4月29日〔葉山御用邸〕
大正天皇前日とお変わりなきも、立石に御遊行の御沙汰あり。
自動車にて立石に成らせらる。
自動車の御昇降はおいたわしきほど御難儀に拝し奉るも畏し。
普通人ならばかかる健康状態にてはとうてい外出などの気分起るまじと深く感ぜられたり。

東京よりの申し越しなりとして、来る4日還幸啓を願うことに内定せるをもって、この議お伺いを願いたしとの趣きを耳にす。
現在は玉体にいささか御異状ありしも、従来の例により御傾斜はたいてい1週間以内にて御回復を見るをもって御差し支えなかるべく、侍従職にては容易に伺いを立てん模様あり。
これについては大いに意見あり。
今春以来玉体の傾斜あることすでに2回にして、第1回は2月26日より両三日間にわたり、極めて軽微にして御注意申し上げざれば気づかぬ程度なり。
また第2回は4月1日より約1週間継続、その度合いもやや御著しかりし。
しかるに今回のものは4月27日・28日のごときいまだ拝したることなき程度に甚しく、軽々しく1週間にて御回復と予想すべからずと直感せらるることなり。
万一当日にして多少なりともこの御容態の残らせらるるあらば、自動車・汽車の御乗降の御難儀は拝察するだに恐懼の次第にて、しかも従来お慣れ遊ばさざる場所に臨御あるごとににわかに御態度御硬直となり、時には御歩行中場所柄をも御介意なく玉歩を止めさせ給うころありたるを例とす。
ところで今日万民が大正天皇の御容態につき信じ奉ることろは如何。
もし還幸の沿道・停車場においてこの御憔悴の御容態を拝さしめらるるあらば、果たしてその感いかがあるべき。
宮内省に対する疑惑はたちまちにして向上し、その結果決して面白からざるべき現象を呈せんことを恐るるものなり。
ついてはぜひとも玉体の御屈曲のみにても御回復の時まで、還幸御遷延を極力願い奉るものなり。
しかも4日を選ばるる理由は、来る6日赤十字総会あるに当り、節子皇后の行啓あるべき御予定なるをもって、その前々日の4日を選ばれしものにはあらざるか。
もしこの想像にして事実に遠からずとすれば、既に今日御異状あらせ給う大正天皇に御無理を願うて御還幸を願うは大いに本末を誤れるものと言わざるを得ず。
大正天皇の御病中なるをもって、もしこの際行啓なしとするも、御坤徳になんの障りやあらせ給わん。
畏れながらこの根本義は自分一個としてはその意釈然たるを得ざるところある次第なり。
輔弼の臣僚いっそうその責任を感ぜずんばあるべからず。
今日帰京すべき杉行幸主務官を室に訪い、意見を開陳す。
杉君また立石御遊行の際御車寄せにおいて大正天皇を奉送迎し、みずから御現況を拝したるをもって、我が意見に賛意を表わせられ、必ず事実の正当に発表せんを期すと堅く約して午後帰京す。
徳川侍従長には退出せらるる前とくと意見を述べ、また内山武官長には詳細報告せり。
本夜は心静かならずして、容易に安眠できざりしもやむをえざる次第なりけり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1922年5月2日〔葉山御用邸〕
今日は侍従長・侍従次長出勤。
内山武官長も東京より日帰りにて参邸するあり。
なかなか賑やかなり。
協議たちまちまとまり、節子皇后のみ4日還啓と御治定御発表あり。
大正天皇にはなお当分葉山御静養を願い奉り、勅許ありたり。

1922年5月7日〔葉山御用邸〕
大正天皇は御散髪あらせられ、ついで御入浴あらせ給う。
御機嫌麗しと承る。
早朝までは還幸9日と決定せる模様なりしが、また何かぐらつき始め、侍医頭の決心容易に決定できず。
終日大官連鳩首凝議の有り様なり。
今夜の夕刊には9日還幸のことに宮内省の発表ありて、各方面の責任者大いに頭痛鉢巻の態なり。

1922年5月8日〔葉山御用邸〕
鎌倉より松方内府も参邸せられ、還幸に異議なき旨を述べられたる由なり。
とかく老人連は決まりきったことにても責任を重んぜらるためか避けられるためか、容易に事の決せぬには呆れざるを得ざりし。
還幸前日まで決定せざりしは、歯痒き感じ無きあたわず。
今夜明日の東京還幸をお喜びに御模様に拝し奉るを得たり。
葉山の御滞留142日一年のほとんど1/3を過ごされたることなれば、お喜びあらせらるるむ御無理ならざるべし。

1922年5月9日
東京駅御着、宮城に還御あらせらる。
東京駅には裕仁皇太子の御出迎あり。
節子皇后は宮城にてお待ち受けあらせ給う。
普通の考えにては駅頭まで節子皇后の奉迎せらるるこそ適当なるべき訳にて、節子皇后にもお考えあらせ給うは恐察し奉るにあまりあるにかかわらず、なおわざわざお控え遊ばせらる御心中は吾人にあらずして誰か知るべき。
落涙禁ずるあたわざるを如何せん。
大正天皇の御病気とは言いながら、まことにおいたわしき限りなりとす。

1922年5月14日
三浦博士・平井博士の臨時拝診あり。
御頸部に少しく御神経痛の御模様を拝するほか御異状あらせられずとのことなり。

1922年5月25日
このごろ大正天皇は右少しく後方に御傾斜あり。
御外見は御姿元気なるかのごときに拝せらるるも、右後ろへの御傾斜にて左御胸を張り出さるるためにして、御常態にはあらず。
また御歩行やや御緩慢にあらせらる。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1922年7月10日
一カ月余りを隔てての御供なりしが、なんとなく御元気少なく拝し奉るは暑気のためにもやあらんか。
近頃は御運動にて内苑門御出入時には、従来守所にありし番兵もその時刻だけは姿を隠すこととなれり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1922年8月2日〔田母沢御用邸〕
御気色麗しく、概して御在京の折に比すれば御元気に拝し奉る。
夜分の御球戯御相手常のごときも、今夜は軍歌ことのほかお弾みあらせられ、たびたび御同唱遊ばせらる。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1922年9月2日〔田母沢御用邸〕
午前の御運動にて三笠宮邸に扈従し、御沙汰により尺八吹奏す。
昭和皇太子も御在邸中にて、三笠宮御諸共自分のかたわらにお立ち遊ばされ吹奏を聞召さる。
昭和皇太子はいかなる御嗜味あるや承らざるも、三笠宮は音楽に大いなる御嗜味ある由。
高貴の御方にはなんなりかかる御嗜味あらせ給うことまことに結構なるべきを思えば、いっそうありがたみを感じたり。

1922年9月8日〔田母沢御用邸〕
例日同様附属邸へ成らせられ、御休憩中 蓄音機・尺八等聞し召さる。
本日玉体は多少左前に屈せさせ給い、御歩行中も黒田侍従に玉体をなかばもたせ給う。
落合侍従の語るところを聞くに、前日もこの御傾向あらせ給いし由なり。
天気のゆえにもあらんや。

1922年9月28日
裕仁皇太子、久邇宮良子女王と御結婚成約せらる。
すなわち、納采の儀を行わせらる。

1922年9月29日
裕仁皇太子御参内、昼 御内宴ありしも、平常の御内宴とはよほど変わり、御会食の御方少なく、大正天皇も御会食遊ばせられざりし由漏れ承る。
畏れ多きことにこそ。
もっとも大正天皇としてはこの御席に列し給わざりし方、もとより御気楽なりしなるべきは明らかなるところなりと恐察せらる。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1922年10月13日
午後御運動に扈従す。
今日はことのほか御機嫌麗しく、御歩行中多く侍従の扶助を要し給わず。
夜分の御球場におかせられるも、またなかなかに天機麗しくあらせ給う。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1922年11月17日
御運動扈従、夜球戯場の御相手常のごとくなるも、今夜は珍しく軍歌を唱い給わず、いささか御疲労を覚えさせらるるにはあらずやと拝し奉るも畏し。

1922年11月20日
大正天皇のため御内庭にて菊見の御内宴あり。
御前にて種々余興を催し、天覧に供し奉る。
侍医の謡曲・自分の尺八・女官連の豊年舞踏・子供らの幼稚園遊戯・その他仮装行列をなす。
ことのほか御満足にて、午後2時解散す。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1922年12月8日
秩父宮御成年により、御内庭にて奉祝のお催しを行わせらる。
節子皇后の御差図のもとに清水谷侍従委員長となり、盛大に挙行せらる。
大正両陛下・昭和皇太子・秩父宮・高松宮の御前において、側近奉仕者一同の祝詞言上・奉祝歌合唱・余興・模擬店などのお催しなり。
午後5時終了す。
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侍従武官長『奈良武次日記』陸軍大将

1922年12月7日
大正天皇に拝謁す、御機嫌よろし。
「煙草を用いるか」と御下問を賜りつつ、煙草を賜る。

1922年12月8日
大正天皇より煙草を賜る。
その時「■■を呼べ。■■を呼んでくれ」と仰せらる。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1923年1月28日〔葉山御用邸〕
1カ月前の供奉時に比し、御機嫌大いに麗しく、御歩様もよほど確実に渉らせらるるはまことにありがたき次第なり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1923年2月5日〔葉山御用邸〕
今日は伏見宮貞愛親王の宮中喪。
御内儀にては節子皇后御はじめ黒色御喪服をまとわせられ、御謹慎の有り様なり。
大正天皇も御運動をお控え遊ばさる。
大正天皇の御運動は普通一般の御運動にはましまさず、御保健上御薬用に優るものと信ぜらるるをもって、平日同様南苑または海浜の御運動行わせられたりとも、廃朝の御精神にいささかももとらせられることなからんと主張したるも、奥にてはやはり難しく御規程ありと見え、前記のごとくお控え遊ばせらる次第なり。

1923年2月18日〔葉山御用邸〕
本日は有栖川宮董子妃の御葬儀ありしをもって、夜の御玉突き時にも蓄音機御遠慮あり。
なんとなく陰鬱を覚ゆ。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1923年4月1日〔葉山御用邸〕
1カ月ぶりの拝謁なり。
大正天皇御気色およろしく拝し奉るも恐悦至極なり。
越後より持ち帰りの名産梨果を献上す。
大いに御満足にてありがたき次第なり。
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侍従武官長『奈良武次日記』陸軍大将

1923年5月11日
朝拝謁の際、台湾より持ち帰れる新高飴および龍昭肉を献上す。
大正天皇は「あっちの人…」と仰せられつつ、別に何も賜らず。
やや緊張の御模様なりし。

1923年5月12日
伏見宮博恭王拝謁の後に拝謁せしに、何も賜らず。
「お前の考えて、何か献上…」の御言葉あり。

1923年5月17日
朝拝謁の際、何も賜らず。
「あっちの人にお前の考えを言ってくれ」と仰せられ、発音明瞭なりし。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1923年6月18日
暑気かつ蒸熱のためか玉体左に御傾斜甚だしく、御言葉またいっそう御難儀に拝せらるるは恐懼に堪えざる次第なり。

1923年6月25日
玉体の左傾斜なかなか強度にあらせらる。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1923年8月9日〔田母沢御用邸〕
倉賀野武官より聞くところによれば、大正天皇は御脚部に大正のおむくみあり。
玉体また左方に御傾斜あらせらるるため、去4日以来御仮床を願いおる由なり。
なんとも恐懼の至りに堪えず。
暑気酷烈のためにもあられしか。
一日も早き御平癒を祈り奉るのみ。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1923年9月6日〔田母沢御用邸〕
久しぶりに拝謁す。
御機嫌麗しきも、御言葉少なし。
御和服を召させらる。

1923年9月28日〔田母沢御用邸〕
持参の粗菓を献上せしに、大いに御満足遊ばせらる。
御機嫌は麗しきも、なんとなく御疲労の御気色を拝するは恐懼至極なり。
夜飛行機より撮影の東京および横浜市街写真をお示しあり。
御言葉不自由ながら、種々お物語り遊ばせらる。
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『牧野伸顕日記』内大臣※当時は宮内大臣

1923年9月18日
大正天皇に拝謁、前回の時より御気色麗しく、御気分に御異状あらせらぬよう拝したり。
節子皇后に拝謁、委曲言上、御承諾を願いたるに、なんら御異見あらせられず御首肯遊ばされたり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1923年11月16日
昨日奈良武官長より自分更迭のむね大正天皇に言上し御許可を願いたるに、御領得ありし由なるをもって、今日の当番ぐらいあるいはいくぶんか御言葉その事に及ぶものなきや否やなど考えおりしも、ついに何事も仰せられず。
おそらくはなんら御了解なかりしなるべしと拝察せらる。
恐懼に堪えず。

1923年11月25日
現職服務最終の当直なり。
大正6年2月職を侍従武官に奉じて6年10カ月、我が海軍生活のほとんど1/4をここに経過したることとて、今日の当番はなんとなく残り惜しき心地す。
いよいよ午後9時御前を退下する時、それとなく永々奉仕せしめられたる御礼を言上したるも、はたして御了得ありしや否や。
拝察するを得ざるも恐懼至極なり。
ただただ聖寿の万歳を黙祷して退下す。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1923年12月1日
節子皇后に拝謁仰せつけらる。
「永い間よく勤めてくれたことは大いに満足に思います。御上のあのような御容態に長い間まことによく勤めてくれたのですから、御上も御残念に思召すことと思いますが、海軍の方の都合だそうですから仕方がありません。今後どこに勤めることになっても、十分身体に気をつけて達者でいるようになさい」
ただただ感激、措くところを知らず。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1924年10月28日
大正天皇に拝謁を賜り、お手づから御タバコを拝受す。
十分御記憶ありて、かつて側近に奉伺せし時と御同様の御冗談仰せらる。
御言葉御難渋の程度 御増進に拝し奉るは、かえすがえすも残念至極なり。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1925年10月28日
奈良武官長より大正天皇の御近状伝達あり。
「格別著しき御症状にはあらざるも、御記憶・御体力・御言語いずれの点より拝し奉るも、一般に御良好とは申し上げ難き御近況にあらせらる」旨拝聞す。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

大正の聖代わずか10有5年にして、大正天皇葉山の離宮に崩御あらせらる。
ここに裕仁皇太子登極、新天子の御位につかせ給う。
大正天皇は宝算48、宝寿万々歳を祈り奉りし甲斐なかりしこそ恐懼に堪えざる次第なり。
大正6年2月侍従武官として側近奉仕の光栄を負いて以来七星霜、職を離れ1年わずかに1~2回御用上京のたびごとに参内、天機を奉伺しては特拝謁を賜りしも、大正天皇この頃よりは漸く御健康優れさせ給わず、御記憶も大いに衰えさせ給えるよう拝するこそまことに恐懼に堪えざる次第なりき。

昨年大正14年12月17日御脳貧血にて御卒倒ありし以来は御病床にお親しみ遊ばされし由漏れ承りしが、大正15年7月御軽快にて葉山御用邸に御転地あらせらる。
しかれども御日常の御散歩さえ御廃止あらせられし趣にて、9月26日肺炎に罹らせられ、同日また御卒倒ありし由にて、以降は常に御熱高く御食欲御減退遊ばされ、日々御衰弱のみ加わせられければ、天下挙げて憂懼措くところを知らず。
万民ことごとく神仏の加護を祈らざる者なかりしも、大正天皇のお悩みは日に日に重く、11月10日頃には奈良侍従武官より我らにまで天機奉伺参邸の時機なるべきを通知し来れるも畏し。
大正天皇の御容態は一進一退なかなか快方に向わせられず、国民の憂慮は筆紙の尽すべきにもあらず。
いたる所の神社仏閣に参詣祈願をこむる者ひきもきらず。
二重橋前に黙祷を捧ぐる諸団体は、常に外国人をしてよく我が国体の君民一体なるを悟らしめたるもののごとし。
12月12日頃よりはいよいよ宮内省より毎日の御容態を天下に公表するに至り、国内まったく憂愁の色に鎖ざさるに至れり。
12月17日東京駅発列車にて葉山に参向、天機を奉伺す。
この日葉山御用邸の雑踏名状すべからず。
各室ほとんど身動きもならぬほどなり。
大正天皇の御容態御大切にあらせられ、もはや時間の問題ならんと侍医頭以下侍医全部詰め切りにて御看護申し上げおりし有様にて、憂愁の気漲る。

大正天皇はこの日を危く過させ給いしが、奇蹟的にもこれより小康を得させられ、国民も神明の加護といったん愁眉を開きし甲斐もなく、12月24日にまたまた御大切に陥らせられ、とうてい御回復の御見込あらせられずとの発表さえ出すに至れり。
ラジオは刻々宮内省より発表する御容態の放送を始めたるにより、10畳の座敷にラジオを引き込み、夫婦のみか子供たちもそばにありて、一語も聞き漏らさじとラジオに注意す。
午後3時 御体温39.3 御脈142 御呼吸52
御脈性軟弱にして御呼吸著しく浅表性に伺い奉る
午後04時 御体温39.1 御脈140   御呼吸50
午後05時 御体温39.7 御脈147   御呼吸58
御脈糸状にして御呼吸疾速に伺い奉る
午後06時 御体温39.7 御脈150   御呼吸60
午後07時 御体温40.0 御脈160   御呼吸60
午後08時 御体温40.2 御脈152   御呼吸58
午後09時 御体温40.3 御脈150以上 御呼吸66
御脈細数にして正確に算し奉り難し
午後10時 御体温40.7 御脈160以上 御呼吸76
午後11時 御体温40.7 御脈150以上 御呼吸72
午後12時 御体温40.8 御脈算し難し 御呼吸84
御気管喘鳴を伺い奉る
午前01時 御体温41.0 御脈算し難し 御呼吸52
12月25日午前1時25分、心臓マヒにて葉山御用邸にて崩御あらせらる。

12月25日葉山御用邸に伺候す。
節子皇太后のありがたき思召あり、旧側近者には大正天皇に拝訣の議お許しあり。
畏れ多くも崩御の御間に参入、大正天皇の御尊骸拝礼するを得たり。
ただただ恐懼の措くところを知らず。
御尊骸は御寝台の上に西枕に改めさせられ、御召物御寝具全部白羽二重にて、御枕高く龍顔にはいささかも御苦痛あらせられし御模様さえ拝し奉らず。
またさほどおやつれの御姿もなく、いと安らけく昇天ましませし御様を拝し奉り感慨無量、御前をも憚らず涙潸然として流れたること、まことに恐懼の極みなりき。
御寝台の御側には二位局〔大正天皇の生母柳原愛子〕悄然として御一人侍立せられ、御二の間には当番侍従4名端座し、女官長正親町典侍立せられしのみなり。

この日諸新聞はいたずらに報道の迅速を競い、紙上改元を麗々しく掲載して「光文」と記し、いかにも決定後発表ありしもののごとくなりしが、午後に至りようやく公式の発表を見るに至れば、元号昭和。
昭和は書経の堯典の中にある「百姓昭明協和万邦」にとり、世界平和・君臣一致を意味するものと言われている。
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作家永井荷風 日記

1926年12月14日
夜銀座に行くに、号外売りしきりに街上を走るを見る。
大正天皇崩御の近きを報ずるものなるべし。
頃日の新聞朝夕、大正天皇の病況を報道すること精細を極む。
日々飲食物の分量および排泄物の如何を記述して、毫も憚るところなし。
今の世において我が国天子の崩御を国民に知らしむるにあたって、飲食糞尿の如何を発表するの必要ありや。
車夫下女の輩 号外を購い来て喋々喃々天子の病状を口にするに至っては、冒涜の罪これより大なるはなし。

1926年12月26日
※歌舞音曲を停止するよう公布があり、国民全体が大正天皇の諒闇に入る

吾妻橋を渡り自動車を降りるに、雷門外の灯火湧くがごとく、行人絡繹たり。
上野広小路を過ぎ万世橋にて諸氏と別れ、1人銀座に至る。
歳暮雑踏の光景毫も諒闇の気味なし。
銀座通りの夜店もまた例年のごとし。
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『本庄繁日記』侍従武官長

1934年2月
※昭和天皇の発言

先帝のことを申すは如何なれども、皇太子時代は極めて快活に元気であらせられ、伯母様の所へも身軽に行啓あらせられしに、天皇即位後は万事御窮屈にあらせられ、元来御弱き御体質なりしため、ついに御病気とならせられたるに、まことに畏れ多きことなり。
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■妻  貞明皇后 九条節子 九条道孝公爵の娘
1884-1951 66歳没


*貞明皇后は自分と同じ誕生日の二男秩父宮を溺愛した。

*三男高松宮より10歳年下の四男が生まれてからは末っ子三笠宮を溺愛した。


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『徳富蘆花日記』

1917年12月29日〔大正天皇の女官烏丸花子退職〕
烏丸花子〈初花の局〉が宮中を出たと新聞にある。
お妾の一人なんめり。
お節さん〔節子皇后〕のイビリ出しだ。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

1913年頃、侍従長徳大寺実則の推薦で貞明皇后のお控えとして入ってきた美しい娘がいた。
彼女は先祖に大納言を持つ烏丸伯爵の娘で、代々権典侍の資格のある家柄であった。
小柄な娘であったが、その美しさは美人の多い女官の中でも、もちろん世間でもまれにみるほどであった。
丸顔で、眉が秀でていて、どこまでも冴えた二つの大きな美しい目を持っていた。
笑うとエクボが出た。
しかしそれほどの美人でいながら少しも剣がなかった。
彼女は権掌侍になり、初雪の局〔烏丸花子〕という源氏名をいただいた。

それから7年ほど経ったある日、私は私の家の主人筋にあたる岡山池田侯爵から不意に呼び出しを受けた。
「君からひとつ皇后宮大夫大森鍾一に伝えてもらいたいことがあるのでね、それで呼んだのだ。
『一人の女官が承知すれば無事に納まることだからよろしくお頼みする』と、ただそう言ってもらえばいいのだ。お願いしたよ」
それだけであった。
私はすぐ大森大夫の官邸に行って、池田侯爵の言葉を直々大森大夫に伝えた。
ところが大森大夫はいつになく狼狽した様子で𠮟りつけるように言った。
「この問題は君などが口を挟むことじゃない!引っ込んでいたまえ!」
私は呆然として引き下がるより仕方がなかった。
いろいろ考えてみたか、かいもく見当がつかない。
癪にも触るし、気も滅入る。
自宅に戻ると大森大夫から使いが来ていてすぐ来てくれと言う。
なにがなんだかわからないが、官邸に引き返して大森大夫の前に出ると、さっきとは打って変わって言葉である。
「先刻は失礼した。君の家は池田の家臣だったんだね。しかし烏丸権掌侍の問題にはちゃんとした証拠が挙がっているんだよ。これはどうしようもないのだ。一つこのことは絶対に秘密にして手を引いてもらえまいか」とさながら懇願する態度である。
私は手を引くも引かぬもない、ただ池田侯爵の言葉を伝えただけである。
もちろん私は承知した旨を述べて引き下がったが、烏丸権掌侍とは意外であった。
かえって秘密にされていた事件の内容に触れたことになってしまった。
翌朝早く不意に父が私を訪れてきた。
「烏丸さんの問題はよほど大事件らしい。お前ごとき身分では荷が重すぎる。早く手を引いた方がいい」
そう言って私が質問するのも恐れるかのように慌てて帰ってしまった。
池田侯爵の姉に当る人が烏丸権掌侍の兄のところに嫁に行っていたから、両家は親類であったのだ。

烏丸権掌侍は退官になった。
その後 縁続きの武者小路家に出入りしていた神官と結婚した。
おそらくその神官が灸点に詳しかったのであろう。
一時原宿で灸点をやって相当に流行っているということも聞いたが、近ごろ新聞に〈烏丸灸〉の広告が出ているのを見ると、やはり今も灸点師としてそれ相当の暮らしを立てているのだろう。
10年ぐらい前にある人から、
「縁談の世話をしようと思っているんだが、その娘さんは大正天皇の御落胤だという噂のある人でねえ」と言うので、
「それは烏丸さんの娘さんじゃないかね?」と言うと、
「そうなんだよ」と言うことであった。
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●迪宮裕仁親王 昭和天皇 久邇宮良子女王と結婚
●淳宮雍仁親王 秩父宮  会津藩主松平容保の孫/外務官僚松平恒雄の娘松平勢津子と結婚
●光宮宣仁親王 高松宮  将軍徳川慶喜の孫/徳川慶久公爵の娘徳川喜久子と結婚
●澄宮崇仁親王 三笠宮  高木正得子爵の娘高木百合子と結婚


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『ベルツの日記』

*昭和天皇・秩父宮・高松宮は川村純義伯爵邸で養育された

1901年9月16日
川村純義伯爵の所へ。
この70歳にもなろうという老提督が嘉仁皇太子の皇子をお預かりしている。
なんと奇妙な話であろう。
このような幼い皇子を両親から引き離して他人の手に託するという不自然で残酷な風習はもう廃止されるものと期待していた。
両親の宮〔嘉仁皇太子夫妻〕は毎月数回、わずかな時間だけ皇子にお会いになる。
自分が聞かされた理由なるものはすべて根拠がない。
例えば妃の側近には子供について何も知らない老嬢・女官しかいないからだと言うのだ。
それならなぜ既婚の婦人をお付きに置かないのだ。
また東京の勤め人の妻である乳母が来ているのだし、赤十字の老練な看護婦が2~3人詰め切っているうえ、侍医も毎日幼い皇子を見舞っているではないか。
まったくバカげている。
どうして他の多くの場合と同様に、ドイツやイギリスの王室に範をとらないのか。
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『ベルツの日記』

1905年3月31日
嘉仁皇太子から皇子たち〔昭和天皇・秩父宮・高松宮〕を見てほしいとのこと。
ただし病気のためではなく、皇子たちは芯から丈夫である。
嘉仁皇太子の皇子たちに対する父親としての満悦ぶりには胸をうたれる。
まず先日拝見したばかりの一番末の皇子〔高松宮〕を見舞う。
生後80日にしては立派な体格・見事な発育で、お母さん似だ。
上の二人の皇子は現在4歳と2歳半になるが、長男の皇子〔昭和天皇〕は穏やかな音声と静かな挙止とで非常に可愛らしく優しいところがある。
二男の皇子〔秩父宮〕はいっそうお母さん似で、すこぶる活発で元気だ。
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■迎賓館赤坂離宮 1909年竣工 地上二階・地下一階 延床面積1万5千平米 設計:片山東熊

大正天皇の東宮御所として造られたが、完成に10年もかかり、当初250万円の予算が510万円になった。
明治天皇には「贅沢だ」と言われ、大正天皇には「使い勝手が悪い」と言われ、昭和天皇には「人の住む所ではない」と言われ、迎賓館となった。

正面はネオ・バロック様式
1026


背面はルネサンス様式
1025


中央階段
1022(1)


『朝日の間』古典主義様式
60坪の部屋に大きな楕円形の天井画が特徴。
「朝日の間は第一客室にして、天井には大油絵を貼り、旭日の朝霞に神女が玉馬に鞭ち香車を駆るの図にして国運隆昌の意を表彰す」
1009


『彩鸞の間』アンピール様式
48坪の部屋に10枚の鏡が特徴。
「彩鸞の間は第二客室にして、天井は石膏の飾型にして上壁には金箔をもって金鸞を彩飾し、壁間10カ所には大型の鏡を装箔せり。暖炉は2カ所に設けられ、吊燭は3個にして大1個中2個を吊りたり」
1010


『花鳥の間』アンリ2世様式
公式晩餐会が催される。
天井画36枚と壁面30枚の七宝焼が特徴。
「花鳥の間はすなわち饗宴の間は多数の貴賓を御饗応あらせらるべき所にして、天井は格天井にして花鳥の油絵36枚を貼り込み、壁には七宝細工の額30枚を箔飾せり」
1012


『羽衣の間』古典主義様式
舞踏会場として使えるようにオーケストラボックスがある。
「羽衣の間は饗宴の際に音楽踏舞を催さるる所の広間なり」
1014


「東の間」ムーリッシュ様式
喫煙室。
1013



■熱海御用邸 静岡県熱海市 1889年設置 3,300坪
皇太子時代の大正天皇の避寒のために建てられた御用邸
三菱から献上された土地
9013



■沼津御用邸 静岡県沼津市 1893年設置 敷地3万1,737坪・建坪2,340坪
皇太子時代の大正天皇のために建てられた御用邸
川村純義伯爵の別荘を買い上げた
9011


9012


西付属邸車寄せ
9006



■葉山御用邸 神奈川県三浦郡葉山町
1894年英照皇太后の避寒のために三宮錫馬男爵家の土地と洋館を買い上げて造られたが、1896年皇太子時代の大正天皇のためにさらに隣接する和歌山徳川茂承別荘を買い上げ、敷地3万6千坪・建物2,500坪となる。
東京から近く、海軍の拠点でもある横須賀にも近いため、日本のヴェルサイユとして「小さな皇居」にするという目的があった。
1001



■日光田母沢御用邸 栃木県日光市 1899年設置 床面積2,500坪
皇太子時代の大正天皇ために建てられた御用邸
実業家小林年保の別荘を買い上げる
9000


9010


1004



■塩原御用邸 栃木県那須塩原市 1905年設置 1万5,500坪
皇太子時代の大正天皇のために建てられた御用邸
三島通庸子爵の別荘を買い上げる
9018



■即位の礼 1915年
0006


0007


0008


0002


0005



■大喪の礼 1927年 
19898033

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