直球和館

2025年

2001/03

◆123代 大正天皇/嘉仁親王 122代明治天皇の子
1879-1926 47歳没


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西園寺公望公爵 総理大臣

大正天皇が御年少の時の話だが、伊藤博文公爵の別荘に来られたことがあった。
網を打って御覧に入れた際、
「これはここの浜で獲れました」と魚を持って来て御披露申し上げたところ、
お随きして行った者の中にはこんな浜では獲れやしないと思っておかし気に振る舞った者があったが、
大正天皇は「主人がこれをここで獲れたと言うのだから、ここで獲れたでいいじゃないか」と言っておられた。
誠に聡明な方であった。
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権命婦 樹下定江〈松の局〉1927年

大正天皇様は申すも畏いことながら、御幼少より御健にましまさず、明治大帝はもとより御側の方々も一方ならず御心配申し上げ、朝夕神仏に御成長をお祈り奉ったほどでございました。
御大患御本復の御祝の際には明治大帝は御心から御満足そうに御酒を召し上り、畏くもお嬉し涙さえ拭われつつ、
「これでわしも安心した。あの人に万一のことがあったら国民に対しても相済まぬわけで本当にどうしようと思ったが、まあめでたいことじゃ」とお漏し遊ばすのを承り、まことに畏れ多く思ったことがございます。

その後 御成人とともにますます御健康にならせられ、ついに東宮妃をお迎え遊ばす佳き日が参りました。
その折りの明治陛下の御満足と申せば、いままでかつて拝し奉ったことのないほどでございました。
皇孫殿下すなわち昭和天皇の御降誕のお喜び、それも拝察するにあまりあります。
御安産のお知らせの後は一日も早く皇孫殿下の御顔を御覧遊ばしたい御様子にお見受け申しましたが、初の御参内は御産服と申して30日間は御遠慮になりますため、その日をどんなに御待ち受けあそばしたかわかりません。
まるまるとお太り遊ばされた皇孫様が賢所の御拝を済まされ御内儀で御対面遊ばされるその日の大内山は、本当に瑞気のたなびくを覚えました。
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近衛兵 伊波南哲

大正陛下はフロックコートに山高帽といういでたちで4~5人の侍従に支えられて御姿を見せ、間断なく頭を上下に振りながら始終ニコニコしておられた。
このたびの関東大震災の御衝撃で、いよいよ御病勢が御亢進遊ばされたと漏れ承る。
あの御不自由なおいたましい御姿を拝し奉って、大正陛下の股肱の臣としてのわれわれ軍人は、いかにして一天万乗の御宸襟を安んじ奉ればよいのか、断腸の思いがする。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

大正天皇は金口のエジプト煙草か葉巻を相当お喫いになった。
貞明皇后は細巻の金口煙草をお好みだった。

大正陛下は玉突がお好きで、女官なども御相手した。
明治陛下はことに乗馬がお好きであったが、大正陛下は馬はあまりおやりにならなかったのではないかと思う。
ふだん大正陛下がお乗りになっているのを、私はお見かけしたことがない。

明治天皇が崩御になって大正天皇が御位につかれたその直後、宮内省から私たち仕人に次のような訓示があった。
「大正陛下は誰にでも気安く話しかけられるから、仕人は決して大正陛下の御前に姿をお見せしてはならぬ」

私が最初に大正陛下の供奉をしたのは、明治陛下の御大葬が青山で行われた夜であった。
深夜に青山から半蔵門までを馬車でまっしぐらに駆けて行った時の光景がありありと瞼に浮かぶ。
真夜中であたりがシンと寝静まっている中を馬蹄の音がカッカッと強く鳴り響いた。
沿道には拝観の人影がかすかに見える。
馬車は全速力で飛んで行く。
危なくてしようがない。
私は馬車の上から人影に向かって 、「どけ!」「どけ!」と怒鳴ったのを今でも覚えている。
私はあの時 初めて大正陛下の御気性の一端に触れたのであった。
大正陛下は御乗物を早く駆らせて喜ばれるという無邪気なところがおありになった。
軍艦に乗られても「もっと速力を出せ」と命令されるので困ると海軍の将校から聞いたこともあったが、あの御大葬の夜は大正陛下御自身が主馬頭の藤波言忠に向かって、
「御所まで何分で帰り着くことができるか」と御下問になっているのをちらとお見受けしたのを覚えている。
その結果があの馬車の疾駆となったのであった。

御幼少の時、植木屋が桜の木を切っているのを大正陛下が熱心に御覧になっていた。
大正陛下は何本かの大きさの違った桜を指差され、御供の者に「それぞれ種類の違ったノコギリで何分で切ることができるか」とお尋ねになったので、御供の者はお答えができなくて弱った。
すると大正陛下は「これは何分、あれは何分」と一々御説明になったので、植木屋がきっているのを御自分で時間を計っておいでになったことがわかって謎が解けたことがあった。

また御幼少の頃 沼津で山中を御運動の際、大正陛下の御足があまりに早いので侍従がついて行くことができずに、とうとう大正陛下を見失ってしまった。
それからいくらお探ししても大正陛下が見つからず、ついに夜になってしまった。
供奉の者が青くなって大騒ぎをしたのはもちろんである。
するとひょっこり大正陛下が犬を一匹つれてお帰りになったので、ようやく一同胸をなでおろしたということがあった。

こうした御幼少の頃の話にもうかがわれるような御性質、ちょっと人を困らせてやろうといった王者の無邪気さや、それもどこか神経の鋭敏さの見えるやり方は大正陛下が御成人になられてからも随所にのぞかれたのであった。
ある時 御運動で養鶏所に行かれた。
係の者がお喜びになるようにと思って鶏小屋に卵を入れて置いたのであるが、大正陛下はそれを御覧になって「鶏というものは日付の書いてある卵を産むものなのか」と言われたので、係の者が恐縮したことがあった。
当時養鶏所で産まれた卵には一つ一つ何月何日の日付印が捺してあったのであるが、それをうっかり係の者が置いておいたのである。
また大正陛下は大勢の者が集まるところで御自分の御存知ない者がお目にとまると、必ずその人について御尋ねがあり、どこの者か・今何をしているか・親はいるのか・子供は何人あるのかというふうに詳細を極めたものであったので、御付の者がしばしがその人の所に何回も往復してお答えするという具合であった。
毎日の日課である御運動には必ずブランデーを持ってゆかれたもので、御自分でもよくお飲みになったが、侍従も御相手をさせられた。
そして侍従を酔わせてお楽しみになるというふうだったので侍従の方でも困ってしまって、しまいには大膳職の方であらかじめ麦茶をブランデーの瓶に詰めておいて侍従の方にはその麦茶を注ぐようにした。
それからは侍従がなかなか酔わない。
敏感な大正陛下もさすがにこれだけはおわかりにならなかったらしく、「お前はこのごろずいぶん強くなったな」などとおっしゃったそうである。

大正陛下が御不例になった年の夏には、私も大正陛下の供奉をして日光御用邸へ行っていた。
ある日大正陛下は御運動で日光山から御霊屋に回られて、その途中御脚に神経痛を御覚えになり、石段を御降りになることができず、侍従徳川義恕に背負われて降りてこられた。
その年の暮 葉山に行幸になったが、そこで御病状がさらに悪化し、激痛のため脳症を起こされて、翌年から健忘症におかかりになったのである。
大正陛下は御自分の御身体については神経質なほど気をお使いになっておられた。
大正陛下は御病気後、いっそう神経質になられた。
御運動の際に侍従がリンゴを差し上げると、そのリンゴが新鮮であるかどうか侍従にお尋ねになったので、侍従が新鮮であることを申し上ると、重ねて「誰が食べても当たらないか」と念を押されるので、当らない旨をお答えすると、初めて御安心の御様子で、しばらく一同を見回してからお気に入りの一人にそのリンゴをお与えになったという。
その時には神経痛もよほどお悪く、手の指を自由にお曲げになれないので、侍従が手のひらにリンゴをお乗せして、それから一本一本指を曲げて差し上げた。

このように大正陛下は陰ひなたある者や作為を極端に嫌悪されたが、後に大正陛下の御病気が進むにつれて、それがむき出しの嫌悪の感情になって表れたのであった。
大正陛下が御病気であるということから女官の中にはうかうかと陰ひなたの行動をする者もあったわけだが、大正陛下にはそういう行動が敏感におわかりになったらしく、そういう女官が御靴をおそろえした場合などは、大正陛下は決してその靴をお履きにならなかった。

崩御の前年になるとすっかり御脳にきてしまい、ひどい健忘症におかかりになったのである。
それでも運動をしなければ御身体に悪いと御考えになっていた御様子で、よく廊下を歩いておいでになるのを御見受けした。
廊下を御歩きになりながら、御自分の気をひきたて鼓舞するようによく軍歌を唱われた。
その軍歌は決まってあの「道は六百八十里」というのであるが、健忘症にかかっておられたから、「道は六百八十里、長門の」とまで唱われてもその後をどうしても御思い出しになれない。
それでまた「道は六百八十里、長門の」とお唱いになる。
それをしょっちゅう繰り返されながら、力づけるような御様子で大正陛下が廊下を歩いておいでになる。
その御姿を拝して、私はなんとも言えないおいたわしい感じを受けたものであった。
当時葉山の御用邸には九官鳥を飼ってあったが、その九官鳥がいつしか大正陛下の「道は六百八十里」を覚えこんでしまって、大正陛下が唱っておいでにならない時でも森閑と静まり返った御廊下で「道は六百八十里」とひとり唱うので、女官などはよく大正陛下とお間違えした。

当時御用掛をしていた稲田・三浦・平井・青山など当時における内科医の権威たちが拝診したのであったが、御容態は非常によろしい、万々歳であるという結果を得て大正皇后に言上したのであった。
各博士とも葉山を引き上げ、東京に帰ってしまったのである。
ところが翌日から御病状が急に変わって大騒ぎとなった。
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久世通章子爵の娘久世三千子→山川黙の妻山川三千子 明治天皇の女官〈桜木の局〉

大正陛下はただ一筋に御両親陛下を御尊敬になっておりましたので、
「私を生んだのは早蕨〔早蕨の局・柳原愛子〕か。おたた様から生まれた大清(おおぎよ)だと思っていたのに」と仰せられ、大変残念がっておいでになっとか承りました。
つまり臣下からお生まれになったのが、おイヤだったのです。

明治陛下は御体格も立派であったし、落ち着きはらって堂々とした御態度は、外国使節などからも尊敬されておいでになりました。
けれど外人との御交際はあまりお好みにはならないようで、
「秋の観菊会は、大演習の留守中に皇后さんだけで済ましてもらうよ」などと仰せになっておりました。
1911年の秋は福岡県下で大演習が行われましたが、そこからお帰りになったある日の御食事中、
「わしは京都で生まれたからあの静かさが好きだ。死んでからも京都に行くことに決めたよ。今日侍従長徳大寺実則を呼んでその話を始めたら、
『そんな話はまあまあ』などとなかなか聞かなかったけれど、
『人間どうせ誰でも一度は死ぬものだ。あの皇太子〔大正天皇〕では危ないから、何もかもわしが定めておくのだ』と無理矢理聞かせたが、大演習の帰りに汽車の窓から眺めたら御陵にちょうどいい場所が京都にあって、少し離れて小さめの山と二つ並んでいる。小さい方は皇后さんが入るのだよ」と御話になっているのを御配膳しながら承りました。
それが桃山両御陵でございます。
「今は何でも外国使節が出て来るが、東京の式だけは仕方がないとしても、それが済んだら後は日本人ばかり、ことにわしのことをよく考えてくれた人を主として京都で昔風の葬儀をするのだ。もし外人が送ると言っても、名古屋から帰ってもらうんだよ」などと細々の物語を遊ばしました。

侍従長米田虎雄についてはいろいろな思い出話がございます。
明治陛下が崩御になりましたとき御枕元においでになった皇太子様〔大正天皇〕が、お水をお上げになるのに勝手がお分り遊ばさないのか物怖じしたようにぐずぐずしておいでになりました。
御様子を拝見していた米田侍従は「殿下」と一言叫ぶと同時にすっくと立ち上がり、後ろから皇太子様の御手を持って明治陛下の御口に水を差し上げました。
各皇族・各大臣以下並み居る人々が皆ハッとしてこの様子を見ておりました。
また大正陛下は言上があまり長くなると御退屈で椅子からお立ち上りになるので、それを防ぐために米田侍従が後ろから御上着をしかと押さえておりました。
何をしても誠意から出る頑固さで誰からも好感を持たれ、本当に気概のある痛快な人でした。

11月23日は新嘗祭。
御輿を担ぐのは八瀬の童子といわれて、京都の八瀬村から召された体格のすぐれた仕人で、その人たちが奉仕することになっておりました。
同じ八瀬童子たちが新帝様〔大正天皇〕の御輿を担ぎましたので、
「明治陛下は御身体が大きくて重かったでしょうが、新帝様は軽くて楽でしょう」と聞きますと、
「明治陛下は重くてもちっともお動きにならないのでよかったが、新帝様はひょこひょこお動きになるので危なくって困ります」と答えたとやら聞きました。

大正陛下は議会に行幸の時、御手元にあった勅語の紙をくるくる巻いて会場をお眺めになったとやらは有名な話になってしまいましたが、姑〔元女官山川操〕と共に叔父山川健次郎男爵の宅に参りました節にも、実際に拝見した健次郎が姑と話し合っているのを聞きました。
しかもこんなことまで明治皇太后〔昭憲皇太后〕の御耳に入っておりましたのですから、明治陛下崩御後はなかなか御心配が絶えませんでしたろうと存じます。

御参内の時に明治皇后様の御機嫌伺にお通りになった東宮様〔大正天皇〕が、御自分の持っておいでになった火のついた葉巻を私の前にお出しになって、
「退出するまでお前が持っていてくれ」との仰せ。
やむを得ず「はい」とお受けいたしましたものの、並み居る人たちから冷たい視線を浴びせられて身のすくむ思い。
紫たなびく煙をうらめしく眺めておりました。
何でもないようなことでさえ、とかく男の人が相手となるとうるさい世界なのですが、それが皇太子様とあってみれば、知らん顔でそっぽを向いているわけにもいかず、何とかお答えも申し上げねばならぬ次第でございます。

〔明治天皇崩御後〕新帝様〔大正天皇〕は青山御所から毎日宮城に出御、新皇后様〔貞明皇后〕も始終おいでになるので、それまではあまり顔も知らなかった東宮女官たちとも度々出会い御話もするようになりましたが、何かと全体の風習が違うらしく、大正皇后のピアノに合わせてダンスなどしていられたとか聞く通り、みななよなよとしたいわゆる様子のいい方ばかり。
それに引きかえこちらは力仕事などもする実行型といった人が多く、ちょっとソリの合わないような感じを初めから受けました。
ある時 御廊下を歩いてまいりますと、新帝様にばったりお出合いいたしました。
頭を下げて御通過をお待ちしておりますと、お立ち止まりになった新帝様は、
「お前は絵が上手だってね」と仰せられる。
「いいえ、そんなことはございません」
「では、何か歌がうたえるだろう」
「まことにふつつか者で、何の心得もございません」
「自分の写真を持っていないか」
「一枚も持ち合わせておりません」
と、一歩一歩後ろに身を引く私、新帝様は一歩ずつ前に進んでおいでになる。
困ったことになったと振り返って見ると、ちょうど廊下の御杉戸の前でした。
すばやくこの戸を引き開けて身を入れると、深く頭を垂れました。
そのとき御供の侍従が来ましたので、そのまま御通過になりました。
まだ胸のドキドキしているのを感じながら席に帰ってまいりましたが、口うるさいこの世界のことですもの、度々こんなことに出合ってはどんな噂をされるかわかりません。
その頃から人員整理の噂が口々にのぼるようになりました。
整理されるぐらいなら自ら辞して生家に帰ろうかしら、しかし別に結婚するいい相手があるわけでもなし、また日夜おさびしそうな昭憲皇太后様の御様子を拝見しておりますと、たとえ何のお役に立たなくとも及ぶ限りはお慰め申し上げよう、だが新帝様の方へは絶対に行きたくないと思いました。
そのうちとうとう恐れていた時が参りました。
早蕨の局〔大正天皇の生母柳原愛子〕が、
「あなたも薄々は知っておられるでしょうが、いずれ人員整理がございますから、新帝様の方へ勤めれば一家一門の光栄はもとより、あなたの身にも箔がつくというものですから、そのように手続きを取ってあげましょう」と。
「それは誠にありがとうございますが、今しばらく考えさせていただきます。親たちにも相談いたしたいと存じますから」と答えました。
早蕨の局は「ああ、さようでございますか」とあまりいい顔はなさいませんでした。
実にこまりましたが、そう長く黙っているわけにも参りませんから、数日後意を決して早蕨の局に申しました。
「今まで通り昭憲皇太后様にお使いいただくなら奉職いたしたいと存じますが、こちら様に御不用ならば生家に帰らせていただきます」
「ああ、あなたはそうのようにお考えですか。では、何とでもおよろしいように」といかにも冷ややかな言葉、だいぶ立腹された様子でございました。
今まであんなに面倒を見てあげたのに、自分の顔をつぶしたと思っていられたのでしょう。
公私ともにいろいろと御世話になったのは十分感謝しているのですが、それとこれとは別の話で同一に考えられてはこちらもいささか迷惑でございます。
宮中でも有力なこの人をこんなに怒らせては後はどう出られるかわからないのですが、それもやむを得ないので、すべては成り行きに任せようと決心しました。

弟の侍従久世章業が「ちょっと京都まで行きますが、何か御用はありませんか」と言いますので、
「何をしに行くの?お暇をいただいたのですか」
「いいえ、勅命のお使いです。先日お姉さんは大正陛下に写真は手元にございませんと御返事されたでしょう。だからそれを取りにいくのです。なるべく小さい時のにしましょうか」
「そうね。13歳以下のものがたくさんありますよ」と言って別れました。
大正陛下ははよく誰にでも写真をと仰せられて、御手元にはだいぶ女の写真もお持ちになりましたのです。
写真をお集めになるのは一種の癖とは思っておりましたが、何か晴れきらぬ心は自分ながらどうしようもありませんでした。
なぜそうまで御心におかけ下さるのか、どうもちょっと。

やがて宮城には新帝両陛下〔大正天皇夫妻〕が、昭憲皇太后様は青山御所にお移りになりました。
宮城にお移りになってからも、新帝様はよく青山御所へおいでになるのです。
すると必ず私を御召になりますので、はじめのうちは我人ともにあまり気にもかけなかったのですが、姿の見えない時までも必ず名指しで御召になって何かとお話かけになるので、いささか迷惑に思う時もございましたし、新帝両陛下おそろいでおいでの時などはちょっと困るような場合もあります。
そばにいる同僚たちから、
「ちょっと、大正皇后様〔貞明皇后〕のお御顔をご覧なさい」などとささやかれると、それでなくてさえ大正皇后様が、
「あの生意気な娘は、私は大嫌いだ」とおっしゃったとやら、聞かせてくれた人もございましたので、なんとも引っ込みがつかないのでございました。
昭憲皇太后様と御一緒の時でも、
新帝様は「今日は歌を教えてあげるから一緒に歌いなさい」などと調子はずれの大声でお歌いになったりするので、
昭憲皇太后様は「こちらではそのようなことを致せませんから、あれにはできませんでしょう」といつもお助け下さるのでございました。
こうしたことが度重なるにつれてただ御冗談ばかりとも思えず、人の噂もやかましく何とかしなければと考えるようになりました。
もしも新帝様が「こちらに寄こせ」などと御言葉にお出しになれば、鶴の一声でどんな理由があろうと絶対に動かせないあの時代の掟なのでございますから、皇太后宮大夫香川敬三も頭を悩まし、病気欠勤ということになりまして、
「新帝様おいでの時は出勤しないでよい」と申し渡されました。
香川大夫は「万一にも病気ということで差し支えが起こったら、私と侍医が証明するから」とまで言って下さいました。

大正陛下御大患と承って、婚家の母〔元女官山川操〕は取り急ぎ葉山御用邸に御見舞に参殿、いろいろと御様子を伺って参りました。
「この次に伺う時は一緒に出ましょうよ。大正陛下はお分りになるかどうかわかりませんが」と言っておりましたが、その時もまだ来ぬうちに崩御になって宮城にお帰りになりました。
常日頃 御内儀ではあまりなにごとも思召のようにならず、時には御不満の御様子などもあるとやら、うすうす承っておりましただけに、いとど御同情申し上げてはおりましたが、こんなにお若くて崩御になろうとは夢にも思っておりませんでした。
姑〔元女官山川操〕は大正皇后〔貞明皇后〕が妃殿下として御入内の節 宮城からの御使として九条公爵家までお迎えに上ったという特別な御間柄にもかかわらず、大正天皇崩御後宮城に出た姑は申の口の上までも上がらせられず下から遥拝させられたとか。
さすがの姑もいささか心良からず思った様子で帰って来ての話に、ああ私など御見舞にも上がらないでよかった、出て見たとて恥をかくぐらいのもの、遥拝ならどこからだって同じことです。
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梨木止女子→坂東長康の妻坂東登女子 明治天皇・大正天皇に仕えた女官〈椿の局〉

大正陛下は昔からの明治様の仰せになるような言葉で仰せになった。
昭和陛下はいくらか大正陛下にお似ましのようですね。
秩父宮様は下方にお成り遊ばしてるので、兵隊の中で揉まれてござるわね。
一般の人にふさわしいような、近いような御言葉ですわね。
今の東宮様〔平成天皇〕は余計もう、さばけておいでになる。
それにお付きしてる人がみんなそんな粗雑な言葉を使うので。

大正陛下は昭憲皇太后様のことを御大事に遊ばして、御自分さんのおみ足がお悪いのに、御自分さん後ろ向きに御階段の御下にお下がり遊ばして、御手々をお持ち遊ばして、
「お危のうございますよ、お危のうございますよ」と仰せになって、お労り遊ばすんですよ。
昭憲皇太后様は御涙をためて「恐れ入ります」と言わしゃって、ほんとにお美しいですね。

拝謁は朝の御膳がお済み遊ばしてからでなきゃ拝謁願わんことにしてますが、それでもお昼御膳の時なんかでも御覧物が上がるでしょう。
そうすると御膳途中でも出御になるんですの。
普通の人ならここへ持ってこいって言うようなもんですけどね。
ところが大正陛下はいちいち御学問所までお出ましになる。
途中ですっとお立ち遊ばして、13段も17段もある段を下りたり上がったり遊ばすわけ。
大正陛下は「国のことだからな、時間は言っておれんよ」って仰せになる。
だからお昼の御膳でも一時いっぺんで召し上がったことないですよ。
そいで私たちもむろん一度で御飯食べたことない。

大正陛下は普段は夜の12時まで御勉強ですよ。
御書をお読み遊ばしたりね。
そのあいだ大正皇后様は御歌を遊ばしたり、いろいろ御書をご覧遊ばしたりしておいでになる。
大変な御勉強家でした。
大正皇后様はおつむ〔頭〕がすごくおよろしいのに、大正陛下はまたもう一つお賢かったもんで、大正皇后様が追いつけんとおっしゃったくらい、大正陛下は天才的っていうんですかね。
あんまりおつむさんが良すぎて、御身体がお弱くあらしゃったんだと思いますよ。

お弱さんで幼さんの御時分からみんなが御心配申し上げたもんでそれがお嫌いで、お風邪さんでもね御鼻をおかみになるということはない、ハンカチで吸い込ませるようにしておいでになる。
お気が強くてね、「言うなよ、風邪って言うなよ」って仰せになる。
みんな存じ上げてござっても黙ってることにしました。
「内緒にしとけ。みんなに心配かけるから」っておっしゃって、お優しいことでした。

お好きさんはお馬、御乗馬でした。
新聞は端から端まで御覧遊ばすんですよ。
大正陛下の方は四紙ぐらい上がって、大正皇后様の方も四つぐらい上がるんですよ。
私たちは世間の話もあんまりわからんもんで、馬鹿みたいなこと言うとお笑いになる。
大正陛下も大正皇后様も私たちより下々のことよく御承知ですよ。

大正陛下はとってもお茶目さんでしたよ。
写真を撮るいうたら、おかしな百面相みたいなことしてお笑わしになるんですよ。
わたしくなんぞ写真を撮ろうとすると、大正陛下が向こうでこんな格好するんで、わたくしこんなして笑ってるとこ写ってる。
ひょうきんな御方さん。
まあよう、おいた遊ばしてね。
御散歩にはお犬さんがたくさん御供するの。
それでね、わざとね、御階段のとこの駒寄せを開きっぱなしに遊ばして追い込み遊ばすもんで、犬が御座所を走り回るんですよ。
たくさんの犬、女官が困るのがね、それが面白い。
わたくし達ワアワア騒ぐだけで、御座所を通り抜けることができんでしょう。

大正陛下は御菓子を女官に御下賜くださるのがお楽しみでした。
あんまり下さったりすると大正皇后様は御目々近目だもんで、こんな目して御覧遊ばされるから、
「大正陛下、もう結構でございます」って言って逃げて行くようにする。
大正陛下は逃げて行かんようにギューッと手を掴んでならしゃる。
わたしく始めはね、奥で大正陛下の権典侍をすることに決まってた。
大正皇后様が御反対で、御遠慮して命婦にしていただいたんです。

大正陛下は私の姿が見えたら「お皿持ってこい」と仰せになる。
お皿をお持ちすると手をガッとお掴みになって、御自分さんの側から逃げていかんように押さえてならしゃるんです。
そうすると大正皇后様はあの近目さんだもんで、こう変な御目々で御覧遊ばされるんですね。
一時はちょっと御機嫌が悪うて、ちょっとヒステリーみたいにおなり遊ばしたことあるんですよ。
それでわたくしは御給仕の時はなるべく陰へ陰へ行くようにしてるんですが、わたくしは、いるが忠義か、いないが忠義かと思ってずいぶん悩みました。

おクッションでも大正皇后様はちょっと御手々が荒くて、わたくしが上げれば大正陛下は黙って座ってらっしゃる。
そいで「節子、いいよ」って仰せになるんで、よけい御機嫌が悪うなる。
大正皇后様は少々御膳がお早いなと思ったと思った時は御機嫌が悪い。
「さ、行こ」と仰せになって玉突き所へおなりになるんですけどね。
大正陛下は玉突き所でもわたくしを召されて、追っかけてテーブルの周りをお回り遊ばされるんで、しまいにはシャッと下へ入って向こう側へ逃げる。
そうでないと頬をベチョベチョお舐めになるんが、気持ち悪うて気持ち悪うて。
それで大正皇后様は更年期障害があらしゃる時分、ちょっとお気違いさんみたいにおなりになったみたい。

東宮様〔昭和天皇〕摂政にお立ちになったのは関東大震災の後ですね。
御命が短うてもええから摂政せずに御代のままでっておっしゃる方と、それよりかゆっくりと長生きおさせした方がええとおっしゃる方と二派に分かれまして。
東宮様が摂政宮様におなり遊ばされてからは、あちらの侍従が馬鹿に権威をふるって。
こんなことなら御命短うても御代でならしゃっていただいたら良かった、御隠居さんみたいに押し込め奉って。
大正陛下は夜中でも御覧物が上がってるから着物を着替えると仰せになってね。
「ただいまは摂政宮様がお立ちであらしゃいますから御安心遊ばして」って申し上げると、
「ああ、そうだったな」っておっしゃってね。
御寝なさってても御政務がお気になった御様子でした。

大正陛下の御病気が悪くなったんは、日光御用邸に行く前年からですね。
大正陛下はそれからお持ち直しになって日光に行幸になり、またお悪くなって葉山御用邸に行幸になったんです。
大正皇后様は御反対でも何ともしようがありませんでした。
御自動車を召さすとき、「イヤ」と仰せになった。
自動車の中では兵児帯で御椅子にお結きしたんです。
そうしなきゃ、シャンと遊ばされん。
そんなにしてまでお連れ申さなならんのか、侍従さんもみんな反対。
「今度は最後の行幸だからそのつもりをしなさい」って大正皇后様も仰せになって、喪服のこととかみんな御注意でね、宮様の喪服もみんなちゃんと御用意して行ったですね。
途中でもしものことがあったらというので、お気に入りの黒田侍従が御陪乗で、注射器持ってらっしゃったですもんね。
私たちも注射差し上げられるようにちゃんとしました。
御側に御注射器を揃えて、消毒して御戸棚にみんな入れて用意してましたね。

葉山の御用邸は三笠宮様がおややさん〔赤ちゃん〕の時にできた御別邸ですもんで、御殿としたら狭い狭いところです。
酸素吸入だっていちいち東京まで取りに来んならんでしょうが。
そんな御不自由しなくたって、御所に御寝ならしゃったら、もっと御手当がちゃんとできたでしょう。

大正陛下は御舌が楽に動かない、御舌がもつれる。
とにかく気持ちが悪いから、舌をお噛み遊ばしましたよ。
こうやってクッってね、御舌を歯でお嚙みになって。
大正陛下が御異例さん〔御病気〕の時分も、ちょっと舌がもつれて仰せにくくなった時があったもんでね、こちらで御様子をうかがって先に申し上げると「アッ」〔そうだ〕と仰せになるんで、
ついやっぱり「椿を呼べ!」って仰せになるわけですね。
日光御用邸ではあんまりベルをお鳴らしになるので、みんな大正皇后様の所へ聞こえるでしょう。
「また椿を御召になる」というわけで、大正陛下の御用を済ませて戻ってきたら何だか御機嫌が悪い御声がして、女嬬が「いま行き遊ばすなよ」ってみんなでかばってくれて。
そのくせ大正皇后様の御用やれば御機嫌がおよろしいんですね。
あんなに恐ろしいことおっしゃっていたお御口で、本当に舐めるように優しい御言葉をくださるんです。
もう涙が出て、御側に出られなくなるんです。

大正皇后様は崩御になるまで御召もお解き遊ばす間もなしで、御側を離れずずっとおつき遊ばしてました。
最期に大正陛下の血行が悪くおなり遊ばして耳たぶが固くなりました時に、大正皇后様がお気づきになって、「御耳が少しお固めにおなり遊ばしてるで」って仰せになりました。
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『高松宮日記』

人の死に直面したのは、おもう様のおかくれになった時。
午後侍医頭や侍医がずっと並んで、御廊下の外に侍従や武官がずっと控えたことがあったが、その時はそれなりに解散した。
そしてその夜にまた並んだ時におかくれになった。
お水をあげてから、八代〔侍医八代豊雄〕がおつむを持ってあげた、御目の上にガーゼをかけた。
昭和陛下が手を御合せになって拝んでいらっしゃったのを、まことに不思議のように拝した。
あの宵のうちだったろうか、痙攣の御足を押えて、その時もおたた様はすぐに手を洗うようにおっしゃったので洗った。
風と雪がただごとならず、外の様子を見た。
その数日前だったか、おぐしがとても臭かったことがあった。
いや、おかくれの日だったかもしれぬ。
御枕上に行っておつむを押えるのがなかなか臭かった。
本当にすすいであげたかった。
一度下がって出た時にはもう何ともなかった。
その時も昭和陛下が押さえて下さっていた。
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■妻  貞明皇后 九条節子 九条道孝公爵の娘
1884-1951 66歳没


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岡部長章『回想記』昭和天皇の侍従

宮内官には伝染予防規定というものがありました。
制定されたのは大正皇太后〔貞明皇后〕がチフスになられたのが原因と入江侍従から聞かされました。
大膳の方から大宮御所へも人が詰めていて、大膳の係がいろいろ作っていたのです。
だからチフスになるのはおかしいというので侍医がいろいろが調べてみると、大正皇太后は五摂家の九条家のお生まれで早くから東京府下の農家に里子に出され、その時からお好きなものがあるのです。
それを女官が魚河岸で買ってきて、お側で作って差し上げるのがお楽しみで、この女官奉仕のことを「お清流し」と申したそうで、「お夕食はお清流しで…」という言い方をしていました。
そこから黴菌が入ったので、それをおやめになるように願いを、同時に伝染病予防規定ができたそうです。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

中年以降の大正皇太后〔貞明皇后〕は落ち着いた気品のある態度を持っておいでになったが、御運動の時など吹上御苑から本丸の方にまで歩いておいでになって、属官などは途中で疲れてしまいずっと遅れてから行き着くこともあったが、そういう時など「男子のくせに」と一本釘を打ってお笑いになった。
大正皇太后にはどこか勝ち気でさっぱりしたところがおありになったようにお見受けした。
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久世通章子爵の娘久世三千子→山川黙の妻山川三千子 明治天皇の女官〈桜木の局〉

貞明皇后は個性の強い方でございました。
また、秩父宮を特に愛しておいでになったのは事実です。

大正陛下を失われてからの貞明皇后は、まるで黒衣の人と言われてもよいような黒一色の生活をされ何がためとありましたが、その謎はやはり御自分の心だけが解かれるものでしょう。
「御賢明にわたらせられすぎて」と嘆いた人もあったとか。
亡き大正陛下を偲ばれる時があるなら、ふと浮かぶ懺悔の御心持がなかったとは申せませんでしょう。
天皇があられたらばこそ、皇后になれたのですから。
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*貞明皇后は自分と同じ誕生日の二男秩父宮を溺愛した。

*三男高松宮より10歳年下の四男生まれてからは末っ子三笠宮を溺愛した。


●迪宮裕仁親王 昭和天皇 久邇宮良子女王と結婚
●淳宮雍仁親王 秩父宮  会津藩主松平容保の孫/外務官僚松平恒雄の娘松平勢津子と結婚
●光宮宣仁親王 高松宮  将軍徳川慶喜の孫/公爵徳川慶久の娘徳川喜久子と結婚
●澄宮崇仁親王 三笠宮  子爵高木正得の娘高木百合子と結婚


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加藤鋭伍/京極高鋭 加藤照麿男爵の子・京極高頼子爵の娘京極典子の婿養子

1906年4月、当時学習院幼稚園の園児であった6歳の私は、父に連れられて赤坂の皇孫御殿に参上した。
当時皇孫殿下には吉松・原田・長田という三人の侍医が奉仕され、父の加藤照麿が主任侍医を務めていた。
私が皇孫方の御相手に決まった時かつて宮中に奉仕したこともある祖母や母はその光栄に感激したが、父は秘かに不安の念を抱いていたようであった。
私がいよいよ御殿に参上する前夜、父はしみじみと私に注意をした。
それは御二方〔昭和天皇と秩父宮〕の御相手をする時、決して遠慮をしてはならない。
玩具などは自由に使え。
宮様と相撲を取っても故意に負けるようなことをしてはならぬ。
子供は子供らしく遊べばよいが、言葉だけはくれぐれも注意をするように言われた。
私たちはお付きの方々から「御相手さん」と呼ばれ、御二方と御一緒にずいぶん勝手気ままな遊びをいたしました。
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『御側日誌』

1915年5月2日
高松宮は活動的よりも静止的お遊びを好ませ給うこと、動植物を御愛玩遊ばさること、かねての御趣味ながら、ことにカナリアの卵生まれてよりこれをお慰め遊ばさる。
文鳥 姿・色とも美しからざれば、
秩父宮は「あれは死ねばよい」「誰かにやろうか」などと仰せらるれど、高松宮はなお御愛情御保護遊ばさる。
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『高松宮宣仁親王』高松宮宣仁親王伝記刊行委員会

思いやりのある生真面目な「仁」の昭和天皇。
活発で決断力に富んだ「勇」の秩父宮。
素直で思慮周密な「知」の高松宮。
御側に仕えた人たちの書き残したものを見ると、少年時代の御兄弟の性格をこうとらえていたおうである。

大正皇后のところへ三宮〔昭和天皇・秩父宮・高松宮〕でよくお伺いするが、両兄宮は外で走り回っておられるのに、高松宮は室内で静かに遊ぶことが多かった。
大正皇后から「落ち着いた宮さん」としばしば言われたように、特に秩父宮と対比して「静」の御性格であった。

いつもニコニコと顔色をお変えにならない三笠宮に比べて、高松宮はどちらかと言えばワガママ。
おイヤな時はすぐ御気持が御顔に現れる。
高松宮は大変率直な言動をなさった。

1915年学習院中等科に進学された高松宮は初めてゴルフのクラブを手にされた。
このころ東宮〔昭和天皇〕はゴルフがお好きで、日曜日など三宮〔昭和天皇・秩父宮・高松宮〕でクラブを振っておられたものだ。
傅育官長三好愛吉もちょうと英国紳士の気風を御教育の参考にと考えていた矢先だったので、ゴルフを御推奨した。
ところがしばらく経つと秩父宮の、
「ゴルフは老人のやるスポーツで、我々青年のやるものではない」
「ゴルフは金のかかるスポーツで贅沢な遊びだ」といった言葉が一緒にコースを回っていた高円宮御付武官桑折英三郎の耳にたびたび入ってくるようになり、まもなく秩父宮はゴルフをやめてしまわれた。
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『秩父宮雍仁親王』秩父宮を偲ぶ会

明治天皇は皇孫方に対して、早くから乗馬と船に慣れるようにとの御希望があった。
それゆえ明治天皇から皇孫方への御下賜の玩具類は木馬や船が多かった。

1911年2月16日小笠原長生を招いた学習院長乃木希典は、
「東宮殿下が学習院の初等科を御卒業になりましたならば、御所内に特別に御学問所を設置し、そこで御修学を願う」と述べた。
東宮御学問所の総裁に東郷平八郎、幹事に小笠原長生を置き、乃木は相談役のようなつもりであったらしい。
1912年9月13日明治天皇の御大喪が決定すると、乃木から小笠原に会いたいとの電話があった。
9月8日小笠原が学習院へ行くと、乃木は学習院に関して種々懇談した。
特に皇子御三方〔昭和天皇・秩父宮・高松宮〕の御教育や将来について、熱心に詳細な意見を述べた。
小笠原が「では、お暇させていただきます」と立ち上がると、乃木は突然小笠原の手を堅く握った。
「しばらくはお目にかかれまい。くれぐれも御自愛を祈る」と囁くように言った。
小笠原は自宅に帰ってから封書を開封した。
帰り際に乃木から帰ってから読むようにと託されたものであった。
小笠原は「大正皇后はよほど秩父宮がお可愛いのだな」と、なにげなくつぶやいた。
小笠原かが妻子にふと漏らした片言から、次の三つの点が推察される。
第一に、乃木は御三方の御教育に関して後事を小笠原に託した。
第二に、小笠原はその内容から乃木の自刃を予知していた。
ただし、静子夫人までが自刃するとは思っていなかった。
最後に、貞明皇后が秩父宮を偏愛されることを心配して、この点を特に小笠原に依頼したことである。
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戦後の座談会

鈴木タカ 皇子養育掛
前田利男 皇子傅育官・秩父宮務官
石川岩吉 皇子傅育官・高松宮務官

鈴木◆秩父宮様はお子様の時から海軍が御希望でした。
高松宮様は舟にお乗りになるとすぐお酔いになるんです。
高松様はお馬が好きでいらっしゃいましたから、陸軍でということで。
前田◆やはり東宮様〔昭和天皇〕は陸軍海軍ということだから、その次は陸軍だと。
石川◆高松宮様は海軍がおイヤだったんだがな。
やはり陸主海従というのでね。
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石川岩吉 皇子傅育官・高松宮務官

その頃の学習院への御通学は、オープンの二頭立て馬車で往復された。
沿道には多くの市民の目があるのに、夏の暑い時など秩父宮様は平気で制服の袖をまくられたりされていた。
高松宮様は謹厳そのもので、決してそうしたことがなかったのに比して好対照だった。

乗馬の御稽古なども、正確な規則通りに習われる高松宮とは異なり、秩父宮様は御自分の流儀が相当入っていた。
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秩父宮雍仁親王

両親とは同じ囲いの中に住んでいたから、より世間なみに近いものがあった。
しかし住居は離れていて、両親にはそれぞれいろいろのご用や約束もあり、また稽古もされていたから、まあ、2週に3回ぐらいといったところだったろう。
その合間には父母の方から訪ねられもしたし、また庭などでお目にかかることもあった。
この頃の父上は非常にお元気で、ごく気軽に運動の途中などで突然立ち寄られることもよくあったから、母上よりもむしろ父上の方が多く僕らの家に来られたくらいだ。
父上も鬼ごっこなどに加わられることもあったが、その時は家が割れるようなにぎやかさだったという。
また寝る様子をわざわざ見に来られた時などは、僕らがうれしくて床に入ってもいつまでもしゃべっているので、とうとう眠りにつく前に帰られた。
食事が終わるとよく食堂の後ろのピアノのある室で合唱をした。
母上がピアノを弾かれ、侍従・武官・女官に父上も加わられて、軍歌が多かったように思うが唱歌もいろいろ歌われた。
なにしろ調子を無視して蛮声を張り上げるのだから、実にやかましいにぎやかなものだった。
しかしこんな雰囲気は親子水入らずではないが、思い出しても楽しいものである。

もっとも忘れられないことの一つに父上と将棋をさしたことがある。
父上からの挑戦に、図々しくも平手で応戦したのだ。
まずあまりに立派な盤と駒に度肝を抜かれ、お相手将棋ではない初めての他流真剣試合、勝ってが違って堅くなっている間に駒を片っぱしから取られ、残念さに涙が浮かんでくる始末。
いよいよあがってしまって、あっけなく一敗地にまみれた。
しかしこれが一生一度の親子でさした将棋であったと思えば、いつまでも忘れられない一番ではある。

父上は天皇の位につかれたために確かに寿命を縮められたと思う。
東宮御所時代には乗馬をなさっているのを見ても、御殿の中での御動作でも、子供の目にも溌剌として映っていた。
それが天皇になられて数年で別人のようになられたのだから。

あるとき兄上〔昭和天皇〕とこんなことを話し合ったのであった。
兄「質素が好き。だけど身分があるから困るね」
弟「そうなの、不自由なんですもの。花屋敷なんどへ行かれないんですもの」
兄「華族でもいけません」
弟「華族でなく士族がよろしいでしょう」
どうもわかったようなわからないような会話だが、数年前に一度行った花屋敷がよほど面白く忘れられなかったものらしい。

一つしか違わない兄上は、僕の時々爆発する乱暴には困らせられたに相違ない。
そのくせ僕は一歩家の外に出ると、兄上と一緒でない時は実に意気地がなかった。
いわゆる内弁慶だったのだろう。
あるひ兄弟三人で話し合っていた時、
高松さんが「耳は【のもじ】(糊)でくっついているのでしょう?」と言うので、
僕はさっそく「いいえ、血でついています」といかにも知ったかぶりで教えたつもりでいたところ、
兄上は「いいえ、耳は肉で顔についています」と。
知力の程度がこれだけ歴然としていては頭も上がらない。

一つぐらいは褒められた話もよいだろう。
宮内大臣土方伯爵がお土産として博多人形を3つ持ってきた。
加藤清正と楠木正成と柴田勝家が寝て秀吉に足をもませているところの3つだった。
誰が見ても子供が欲しそうなのは、はじめの二つだ。
兄上はいつものように弟二人に「どれが欲しいの?」と尋ねられたから、僕も高松さんも武将のどちらかを欲しいと答えた。
兄上も同じのが欲しいに決まっている。
デッドロックである。
兄上は考え込んでしまった。
兄上はいつも欲しいものも弟に譲っているのだから、たまには自分の欲しいのを先に取ってもよいだろうぐらいな気持ちで二つのうちの一つを取った。
次の番は僕だ。
進退窮まったとは、まさにこのような時をいうのだろう。
このたびは高松さんが気をもむ番になった。
この場合柴田勝家をあっさりと取るべきだとは百もわかっているのに、誰もが嫌な物を自分の物にするのがたまらなく悔しいのだ。
ウルトラ勝気というものだろうか。
僕は目に涙を浮かべて悲壮な声で「あげましょう」と言って柴田勝家を取った。
そして高松さんが「ありがとう」と言って残ったのを取った時には、ホッとして重荷がおりた感じだった。
後から考えれば実に笑うべきジェスチュアだった。
その翌日「あれだけ我慢ができれば結構だ」と褒められたのは、さすがにうれしかった。
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◆123代 大正天皇/嘉仁親王 122代明治天皇の子
1879-1926 47歳没


■妻  貞明皇后 九条節子 公爵九条道孝の娘
1884-1951 66歳没


*貞明皇后は自分と同じ誕生日の二男秩父宮を溺愛した。

*三男高松宮より10歳年下の四男生まれてからは末っ子三笠宮を溺愛した。


●迪宮裕仁親王 昭和天皇 久邇宮良子女王と結婚
●淳宮雍仁親王 秩父宮  会津藩主松平容保の孫/外務官僚松平恒雄の娘松平勢津子と結婚
●光宮宣仁親王 高松宮  将軍徳川慶喜の孫/徳川慶久公爵の娘徳川喜久子と結婚
●澄宮崇仁親王 三笠宮  高木正得子爵の娘高木百合子と結婚


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田島道治 日記 宮内庁長官

1949年9月28日
坊城皇太后宮大夫来訪。
宮様方の行動につき御不満の話、大正皇太后としっくりせぬようなこと、東久邇宮のこと一度参上のこと。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1949年3月11日
田島長官◆予算のため人員減少のこと。
昭和天皇◆大宮御所の中の融通のきかぬこと、大宮御所にはなるべく手をつけぬよう、そのぶん侍従職の方で不便をしのぶから。

1949年5月15日
田島長官◆内廷費予算のことでございますが、食膳費など大正皇太后の御思召のほどもあり、徐々に合理化することよろしく。
昭和天皇◆大正皇太后は一軒の独立した御家とのお考えにて少し行き届き過ぎのようで、私なども上がった際 食事も多く、多くいただかぬと御機嫌が悪い。
また多少宮城と御競争の風なるも悪い。

1949年9月22日
昭和天皇◆新聞に東久邇さん〔東久邇宮稔彦王〕のことが出たが。
田島長官◆訴訟上の準備は怠りなし。
稔彦王と小原龍海の関係、また一部には東久邇宮事務官本原耕三郎にも批難あり。

1949年9月28日
昭和天皇◆大正皇太后は「明治天皇は東久邇宮稔彦王に直接仰せにならず、侍従長徳大寺実則あるいは東久邇宮聡子妃に仰せと思う。さすれば何を仰せなるとも明治天皇の思召とは言えぬ」との御話なれども、私はそうは思わぬ。
例えば田島に私の意思を伝えて相手に伝えた場合も私の意思に他ならぬゆえ、徳大寺がお伝えしても明治天皇の思召には違いなく、また聡子妃に仰せになっても御夫婦のことゆえ思召は伝わると思うが、如何。
田島長官◆侍従長の場合は昭和陛下の仰せの通りでありますが、聡子妃に仰せの場合は多少違うと存じます。
下世話に持参金とかいう場合は夫の物とならぬ場合もございます。
それよりも今回の稔彦王の事件では、法律上の結果発生のため事務的に書面の上で運ばれるべき性質のことで、それなき以上は明治天皇の思召とは思えぬと存じます。
昭和天皇◆私は田島から聞いた借用願のことも申し上げておいた。
大正皇太后は小原龍海問題に先年は非常に悪口しておいでであったが、昨日はそれはお気の毒だとの御話で御同情的で理解に苦しむ点であるが、女性のためか感情に勝らるるためか、虫の居所でずいぶん正反対な矛盾なことを仰せになる御癖があるゆえ、このことは御腹に入れておいてくれ。

1949年9月30日
察するに皇后宮大夫坊城俊良の話と総合して、宮様のことを仰せになるのは27日の大正皇太后との御話の結果と拝察す。
坊城皇后宮大夫の「近来大正皇太后と宮城と御仲およろしくおなりになったのに」との語調ちょっと心配なり。

1949年10月6日
貞明皇后◆宮様方の御教育は生まれながらにして御主人として特殊の宮様教育をなし、学校に行けば普通的な教育を受け、陸軍に行きて別の空気に触れ、また陸軍皇族として一つの所で受けた教育が次ではまた変り、何が正しいのか、如何にすればよいのか、適従するところを知らぬということになりがちである。
それが今度のごとき大変革にあい、宮様方は如何にすればよいか到底わからぬ訳である。
それも家来臣下という者はすべて一貫せず口が違う。
甲の言うこと・乙の言うことみな違う、連絡がない、適従するところを知らず何を信じてよいかわからなくなる。
それゆえ誰に聞くか、アテになる者はないと思うようになるは宮様としては当然だ。
この大変革、よく頭の切り替えをああまでしてよくやっておいでと私は感心してる。
現に私なども、女官長・高等官・判任官と七つぐらい経るゆえ、その間にことが間違ってしまう。
できてしまってからゆえ、私は仕方がないと思ってる。
だいたい宮内大臣で決めて来て、思召如何と言われて、断ったところでどうなるものでもなし、承知する他ない。
決定前に聞いてくれれば、「気の毒だけど、ここはこうして」と一部分私の気持ちを入れてもらうこともできるが、従来のように決まってから持って来られるのでは仕方ない。
今のように大変革で民主主義ともなれば、宮様として頭の切り替えを十分になされて敬服してるぐらいで、三笠さんが新聞の人に尋ねられるのも、疑問が百出て脳裏にあるものを、それに正解を与える人に会って聞こうと常に頭で研究的にこの時世の変転に絶えず注意しておいでゆえ、今日は好機とお聞きになったことと思う。
また高松さんでもみな宮様は進歩的で、5~6年時勢より進んでおいでになる。
実に偉いもので、5~6年後になって宮様の言ってらっしゃった通りになるので、それ見たことかという訳で自信は相当お強い。
私も2~3年先を見ている。
(全然宮様方の悪い点はないようなる御話ぶりにて、非常に御同情的なり)
貞明皇后◆古い頭の人間が新しいことを批判するに対しては少しも権威を認められず、新しい人間が古い方がよいというのでなければ、宮様は絶対に受けられない。
宮様方は時勢の変化と共に、人より先にあらゆる物をとことん御覧になり、それになりきる訳では無論なく、その中から皇族として新しき在り方を発見し、昭和陛下および国家に報いたいという念慮であられ、平民的なものに徹底的にやられるのはその徹底が目的でなく、そこから皇族らしさの新しき在り方を得ようとしておいでになるのだ。
その点、大いに感服してる。
このごろ昭和陛下は非常な興奮状態で、「皇族の義務は行わず、皇族の権利ばかり主張する」ということで、昭和皇后もおいでのところでどんどん仰せになるから、これは少し興奮が過ぎると思った。
昭和陛下は実に正直一方の方で、政治的なことは極端でなく中庸の中道を守られるなど、とても誰も真似のできぬ方であり、仰せになることも一々ごもっともに違いなく、宮様方の御行動に不行届きやいかぬ点もあると思うが、ああ興奮されるのはどういう訳かと。
高松さんのことなど、誰か悪しざまに告げるによるものと思うが、どうしたものか。
田島は高松さんに上ったとの話。
それはどうであったか。
それを聞きたいと思う。
このままでは両者の溝がだんだん離れるような心配で、田島の考えを聞いて私も少し言おうかと思う。
(昭和陛下にあまり御同情なき言い方をなされ、言葉の上では昭和陛下の長所のつもりながら、どことなく昭和陛下の御興奮を遺憾に思召す口調顕著にて、高松宮のあることないこと言う者があるのではないかとのお含み)
貞明皇后◆義務を忘れているという昭和陛下の御話は、高松さんがどういう義務を忘れておられるか、私にはわからぬ。
田島長官◆昭和陛下は左様に仰せなく、皇弟たる自覚を持ってもらいたいという仰せであります。
(秩父宮事件で高松宮から「不遜だ」と大喝された経緯、それは昭和陛下に申し上げたこと、常に陛下は陛下、殿下は殿下、兄様は兄様、弟様は弟様ゆえ、大らかなお気持ちで御包容ということを常に申し上げている旨を申し上ぐ)
貞明皇后◆とにかくあちらからもこちらからも行啓を願ってくるのは宮様の御徳があるからで、悪いい高松宮なら誰も来いとは言わぬはず。
田島長官◆いや、それは少し違います。
賀陽宮恒憲王の不評ありし話、直宮様だけは恒憲王のような不評はないようにと存じておりましたところ、ある知事は閉口しているとか、川開きの他の所へお出でとか、遊女屋へ誘う会社重役があるとかの噂で、必ずしも高松宮がそう不評ばかりではないにしても、一部では利用しながら陰口を言う点はあると思います。
貞明皇后◆それよりも、昭和陛下が興奮して御話の時、昭和皇后は下を向いて黙っておいでになり何とも仰せなし。
話題を変えることなど少しもなさらない。
「御上、弟だから直々に御話なさい」と言えば喧嘩になるから、「おたた様から御話ください」との話もあるが、昭和陛下の興奮が過ぎる。
田島長官◆これは田島拝命以来の最難問でありまするが、少し考えますから、今一度大正皇太后に拝謁するまではどなたにも何も仰せない方よろしいと存じます。
貞明皇后◆勢津君〔秩父宮勢津子妃〕と話したことだが、月に一度ぐらい集まる会合をしてはとも言っているのだが。
田島長官◆それは結構で、御会食でも映画でもお会いになることがよいと思います。
先般御会食のとき高松宮が実に嬉しかったと仰せになったことがあるとの御話でございました。
貞明皇后◆東京大学総長南原繁が時々来るが、「もう三笠宮は大丈夫」だと言った。
その時「高松さんは?」と聞いてみたら、「高松宮は御出来上がりになってるから」と言った。
(「田島は昭和陛下のことのみに忠義な考えに過ぎると、場合により大正皇太后御心配の結果に加勢することになります」と遠回しに申し上ぐ)

1949年10月13日
(例えばとて『サンデー毎日』のことを申し上ぐ)
田島長官◆御進講も君徳お養いのために大切のことと考え、ある場合は三笠宮が御倍聴になりました。
高松宮にも申し上げましたが、お出でがありません。
貞明皇后◆昔は妃殿下方が御進講に御陪聴のことがあったが、今は少しも御沙汰がない。
田島長官◆映画の日取りを替えること、また御食事を共にせらるること等、百般気をつけまする。

1949年11月8日
昭和天皇◆昨日大正皇太后は幣原議会事件に関連して、共産党のことを「心の狭い人たち」と評されたが、私は広い狭いの問題ではなく、共産党にはそれ以上の主張があると思う。
共産党の出席するような議会になればよいという話から、「共産党はただ了見が狭いかために出席しない」という単純なお考えはどうかと思う。
田島長官◆大正皇太后は御意見のあることをお言いになりたい御傾向ゆえ、進歩的に考えらるることを仰せになることがお好きと存じます。
共産党の本質をお極めなく、一部的真理の新しいものに同情的であらるると思います。
昭和天皇◆今日のようなことを高松さんが仰せになるゆえ、一部で評判がお悪い。
田島長官◆ああいう場所でああいうことを仰せにならぬ方がよろしいと思います。

1949年12月9日
田島長官◆恋愛結婚とか見合結婚とかいうことは皇室については如何お考えでございますか。
昭和天皇◆恋愛はとてもで、三笠宮ぐらいがちょうどよいと思う。
私と高松さんは全然古い風で、秩父さんは少し違い、三笠さんぐらいがいいと思う。
大正皇太后は三笠さんの言いなりで、細川の娘〔細川護立侯爵の娘細川泰子〕を広幡大夫は「御顔が」と言ったが、私は御顔より照ちゃん〔照宮成子内親王〕と同級で、叔母様になる人が照ちゃんと同級ではと思って私は反対し、百合子妃は私が推薦したのだ。
その時のことを思うと、いま三笠さんがいろいろ言われるのはどうかと思ってる。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1950年1月6日
昭和天皇◆三笠さんは御正直で、御口と御腹は一つでその点はおよろしいが、仰せにならぬでもよきことを仰せになり、それも御自分のことをいつでも省みて仰せになるが、多少歪められている場合もある。
例えば結婚の問題なども、私と高松宮は決まっていたようなもので、秩父さんは少し違うが、三笠さんはずっと御自由で御自分で御選択になり、大正皇太后は三笠さんの言いなりであったのに、御自分では外部の力によったように思って御話になり、ちょっとわからぬ点がある。
日光や葉山の御用邸の付属邸など、大正皇太后と三笠さんと御一緒にお住みのために作ったものだが、「親子兄弟一緒でなかった」という風に人に御話になるが、あの点はどうかと思う。

昭和天皇◆大正皇太后はいわゆる虫の居所で、同じことについて違った意見を仰せになることがある。
その点は困る。
田島長官◆大宮御所には手を触れぬ覚悟でありますが、夜遅きことはみな困りますようで、女官の病気続出で頃日もちょっと心配した次第でございます。
「奉仕してくれる者には報いたい」との御思召がありましたが、その御心を拡大していただけば、女官らに交替早床等仰せしかるべきと存じまするがその御沙汰はなく、先日女官数名感冒のこともありちょっと困ることあります。

1950年1月7日
〔孝宮和子内親王&鷹司平通、婚約〕
昭和天皇◆昨日大正皇太后にお目にかかったら、鷹司のことをさんざんに言われた。
「あんな力のない人」というような意味でひどく仰せになり、浅野の方がよいとの思召からではないかと思われるが、「田島らいろいろ考えてやってるようだからよろしいが」と仰せになった。
田島長官◆田島が拝謁の際は、「鷹司は大した働きのある人ではなく、しかし無難」との仰せがありました。
経済のことは宮内省の方で御新家庭の点など考慮云々申し上げし際、「経済のことは今後の世の中では非常に重要なことだ」との仰せを拝したのみ。
浅野をよろしいと御思召のための御不満かと存じますゆえ、御話を承りましても田島は少しも動揺いたしませぬ。
岳父となられる方の働きとか才能とかいうことは問題でなく、人柄さえよろしければ結構と存じます。
昭和天皇◆大正皇太后は時流におもねる御性質がおありと思う。
現に「上つ方というものは若干ウソを言わねばいかぬ」と仰せになったことがあり、その意味は軍国の時など軍人などには内心御満足でなくても適当御嘉納の御言葉あるようにとの意味のことであったが、今の時世になれば多少時流におもねるという点がよほどある。
大正皇太后は申し上げると逆効果のことがある。
この点高松さんと同じで、田島が御経費のことを申し上げたが、あの後はむしろ賜りなど立派になされるようで、女官伊達璋子から聞いたが、御重に御菓子だの御料理だのの賜りは御立派になったとのことだ。
田島長官◆田島などの拝謁の際も、賜りをお考えのうえ御日取をお決めになるとの噂を聞いたこともありますほどで、御隠居の女性様としてお楽しみの唯一かとも存じます。
昭和天皇◆実はそのために田島の言った女官が夜遅くなることもあるとのことだ。
田島長官◆昨年御陪食の節のボンボン入れも女官の作成との御話を承りました。
昭和天皇◆大正皇太后はだいたい鷹司のようなのはお嫌いで、秩父さんのような鋭い所のある人がお気に入る。
田島長官◆浅野さんのことも考えましたが、孝宮様の場合にはいろいろ考慮の上鷹司が第一と考えましたので、順宮厚子内親王も御年頃ゆえ、浅野を考えてもと思っております。
昭和天皇◆浅野の兄の方は東伏見がひどく批評して、大谷家に娘をやることを反対したということをきいておるゆえ、そういう場合にはその点によく注意して。
また朝香さんが照ちゃんの時に、「マタイトコでも近親すぎる」と言われたこともある。
田島長官◆東久邇さんの場合は二重のマタイトコにお当りになりますが、浅野の場合は大正皇太后の方の御関係のみでありますから、その点はさほどでないと存じます。

1950年2月27日
昭和天皇◆大正皇太后は鷹司信輔〔父〕より平通〔子〕の方がよいという印象を聞いたが、だいたい御話をする人の方が好きで、黙っている人の方をあまりお認めにならぬようだ。

1950年2月28日
昭和天皇◆昨日大正皇太后にお目にかかったら、鷹司夫人のことを非常によく仰せになってた。
あまり良く思っておいででなかったようだが。
田島長官◆拝謁の際に鷹司夫人の妹に当る人〔徳川繫子〕のことを申し上げましたら、お思い違い
の様子で、そういう訳かとの御話もありましたが。
昭和天皇◆そうか。
田島長官◆秩父宮妃が大宮御所にて御会食の時の御話でも、鷹司の人々に御満足の御様子とのことでございました。
昭和天皇◆大正皇太后は平通のことをよく言われるけれども、信輔との比較の御言葉はどうかと思う。
単に平通はよいと仰せになるのに、信輔に比べればと仰せになるのはどうも。
大正皇太后の御性質として、話し上手の人がお好きで話下手の者はお嫌いのようだ。

昭和天皇◆東宮ちゃんによく話して、夜遅く起きていない習慣に変えてもらうことが先決だ。
(東宮様の宵っ張りに関連して大正皇太后の宵っ張り問題となり)
昭和天皇◆大正皇太后は良宮に「明治天皇も宵っ張りであられたから」と言われたとのことだが、これはむしろ明治天皇の御欠点の方で、そう遊ばさしたればこそ御病気の尿毒症も出たと言いうるので、この理由を仰せは実におかしいと思う。
また「良宮は風邪を引くが、私は引かぬのは夜ふかし」と言われたとか、これもおかしいと思う。
風邪は引かれぬかもしれぬが、御足が腫れてる。
田島長官◆夜ふかしはおやめの方がよろしいと存じます。
誰か申し上げれば。
昭和天皇◆三笠さんのことを一番おききになるから、三笠さんがいいと思う。
田島長官◆三笠様でも如何かと存じます。
昭和天皇◆それなら御信用があるから三浦がいいよ。
田島長官◆三浦侍医に一度拝診してもらいまして、そのうえ申し上げるよう工夫いたしましょう。

1950年4月5日
田島長官◆大正皇太后の夜ふかし、ラジオプログラムをお聞きになるために起きておいでとのこと。

1950年4月25日
昭和天皇◆八田侍医に大正皇太后様のことを聞いたら、内分泌の関係だと言う。
そのためホルモンの薬を差し上げたら、翌日から腫れがお引きになったと言う。
そして温泉がよいと言う。
行啓の経費等調査したおくよう。
田島長官◆先年山川侍医が温泉のよきことを申し上げましたところ、「よもぎ湯で結構」とのことでありました。
昭和天皇◆大正皇太后はその時の御気分による。
このごろも沼津でお転びになりかけの時、良宮が御手をお取りして大変お怒りになったとかいうことだ。

1950年5月23日
昭和天皇◆昨日大正皇太后の御話の内に、昭憲皇太后が元来お弱くて明治天皇より早くお亡くなりになっては困ると言う明治天皇の御話で、長生のため非常に御留意になり、そのため明治天皇より少し後れて崩御になりよかったが、その方法として沼津へお出かけになったという御話があったくらいゆえ、いい塩梅だと思う。
その点三浦が御話すれば、夜の遅いことなどもよろしい結果が出るのではないかと思う。

1950年5月25日
田島長官◆久邇宮朝融王は近来巫女的な迷信にて方角のことなど非常に留意の旨。
昭和天皇◆大宮御所の山中という御用掛〔元侍従長珍田捨巳の娘山中サダ〕が日蓮で、大正皇太后も多少御関係ゆえ、その点ちょっと注意する。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1950年6月22日
昭和天皇◆田島は知らぬから宮中服のできた沿革を話しておこう。
それは第一に高松宮妃の主唱でできたので、秩父宮妃などと研究の結果できた。
私はむしろ反対だったが、結局出た。
理由は洋服は英米的だというのである。
同盟の独伊も洋服だからと反駁したが、軍人などは何か国粋的なものという声を上げてた。
これに妃殿下がまず乗ぜられた。
第二に繊維不足という時勢の声に対し、一反の反物ででき、上衣は丸帯でできるということであって、まあ結局承知したが、後でわかったことには、上衣は丸帯ではできず新調ということになり、東久邇の叔母さん〔東久邇宮聡子妃〕など「洋服以上に面倒だ」と私にこぼされるようになり、宮内大臣松平恒雄に上衣をやめることをいくら話してもなかなかやらず、通牒でやっと出したが、「戦時中」とあったゆえ、これを「当分」と変えようとしたが、松平は遂にやらず宮内大臣が石渡荘太郎になってこれが実現した。
上衣のヤメやら何やらでおたた様は結局今までお着にならず、お作りにならない。
なお高松宮妃の御自分的な理由は、今までの洋服裁縫師がいなくなったことであるが、これは私的な理由で私はどうも賛成できなかった。
その高松宮妃が戦後批評が出るとすぐ洋服を自由になさるのはどうかと思う。
秩父宮妃の、相当の研究の結果ゆえ不評でも何とか改良してという立場の方が理解できる。
フランス大使か誰かが三笠宮妃に「この服はなってない。パリでお作りなさい」と言ったこともあると聞いている。
私は宮中服には本来賛成してない。
和服が良いと思うが、大正皇太后が不様という訳で不賛成で宮中服となり、しかも大正皇太后は宮中服は召さぬ訳だ。
田島長官◆和服について併用の意味で大正皇太后のお許しを得て、和服の方向に行き得るかよく研究いたします。
昭和天皇◆大正皇太后のモンペも戦争の防空から来てて、戦時色はある。

1950年7月24日
田島長官◆三笠宮御移転の御希望にて、赤坂御用地内に新築御希望の由。
昭和天皇◆何の理由で移転か。
田島長官◆お子様通学のため、および洋行の時の御用心ではないかと思います。

1950年7月30日
田島長官◆大正皇太后に拝謁、三笠宮の共産党云々のことは申し上げように注意しまして事実ありのまま申し上げ、次に三笠宮邸新築の問題はあらかじめ大正皇太后御承知と承りしところ、初耳のようにて、
「新築は相当金額ゆえ、ただいまの所でガソリンを用いて御通学の方がよい」との御話あり。
昭和天皇◆三笠さんはデモクラシーで自動車を御用いに議論あるべし。
田島長官◆宮内庁の内には、「赤坂御用地内に御邸新築ということと平素の三笠宮の御主張は一致せぬ」と申す者もあります。

1950年9月27日
田島長官◆大宮御所の便所が全部汲み取りとのことで、こんなことは誠に申し訳ないと存じ、改造のことに致してございます。
昭和天皇◆大正皇太后は水洗でない方がよろしいのではないか。
田島長官◆臣下まわりのことでございます。

1950年9月28日
昭和天皇◆大正皇太后が侍従次長鈴木一のことにお触れになったので、ありのままを申し上げた。
大正皇太后の人物の見方はどうも私にはわからぬが、鈴木はあの鈴木貫太郎の子だからよかろうとの御話であるが、良い親の子に立派な子の場合も確かにあるが、子供はそれほどでもないということはいくらもある。
それを貫太郎の息子だからとはおかしい御話だ。
田島長官◆それは女官らのいる所ではございませぬでしたか。
昭和天皇◆いや、大正皇太后と良宮と三人だけの時であった。

1950年10月4日
田島長官◆大正皇太后御機嫌よく、
「先般内廷費は御無理を願いましたが、皆さま御節約いただき、お蔭で孝宮和子内親王御婚儀も済み、余裕も考えられるように思いますので、御入用のことは直接田島に仰せいただき何とかなるかと存じます」と申し上しところ、
「ようしてもらってるから別に」との御言葉がありましたほどでございました。
昭和天皇◆大正皇太后はいつでもそうだ。
虫の居所というので、良い時は良いのさ。

1950年10月9日
昭和天皇◆和装のことだがねー、大正皇太后御機嫌のおよろしい時に今一度伺ったらどうだろう。
田島長官◆御機嫌のおよろしい時に今一度申し上げますることは結構でございまするが、必ず御賛意を承ることができるかどうかは疑問のように存じます。
むしろ実行遊ばす旨の念のためのお知らせということかと存じますから、それは適当の時に田島が伺いまして申し上げましょう。
だいたい昭和皇后が和装を召しますのは、ただ今は来年正月をお考えでございましょうか。
昭和天皇◆外人謁見の時と思ってる。
正月は洋服なり宮中服なりにしたらと思ってる。
田島長官◆大正皇太后は「正式宮中服にしてみたところで、国民世論というのも少しおかしいが、一般の宮中服に対する不満が変わるわけではなし」との仰せゆえ、大正皇太后の正式と仰せにお変えになっても、宮中服は宮中服で評判にかわりはありません。
(大正皇太后のお許し、せめて御黙認でもない限り御注文も遊ばさぬらしき御様子に拝せしゆえ)
田島長官◆染に時間もかかりますから御注文だけは遊ばしては如何。
(なお昭和陛下が正月にはお用い無き理由は)
昭和天皇◆正月は黒でやや地味にせねばならぬが、外人謁見のような時は色物でやや派手でもよいから。

田島長官◆近来大正皇太后精進御料理お好みの由にて、主厨長秋山徳蔵より修行のため京都へ出張云々の話がありました。
昭和陛下の御孝道にもなりますことゆえ、取り計うことに致しております。
昭和天皇◆医師がタンパク質と言ってるが。
田島長官◆湯葉などはタンパク質もあります。
昭和天皇◆よろしい。

1950年10月10日
昭和天皇◆昨日聞いた精進料理修行のことは結構だが、それに便乗して木藤などの料理を修行するようなことはあるまいか。
あれば困る。
(内親王方京都旅行の帰途木藤美味と大正皇太后に御話になりしを御承知にて、昭和陛下もお好きとのことで習わされてはとの御話。少々変な御心遣いと思うも)
田島長官◆そんなことはありませぬが、念のため注意いたします。

1950年11月29日
昭和天皇◆大正皇太后外套をお召しになるようになり、大宮御所の女官などずいぶん助かるということだ。
田島が大宮御所を水洗便所に改良したのも、女官は大変喜んでるとかいうことだ。

1950年12月18日
田島長官◆東久邇宮稔彦王もいろいろなことで宮内省のやり方を怨みひがんでいらしたらしいのが、昨夜はそんな御様子はありませんでした。
昭和天皇◆それは東久邇さんばかりではない。
皇族さんは多少みなそうだ。
その一つの原因は大正皇太后が少し御厚遇が過ぎるからだと思う。
大正皇太后は少し程度の過ぎた場合には御同意もできぬし、また理に合わぬことを仰せの時には議論もせねばならぬ。

昭和天皇◆良宮の和装の問題だがねー、呉服費も取ってくれたが、良宮は大正皇太后のハッキリした御同意がないと恐ろしくて作れないらしい。
このことでは何でもなくても、他のことで復讐されるというような気持ちで心配して躊躇してる。
田島長官◆田島が何かの形でもっと明示的な御同意をいただけば結構ということでございますか。
昭和天皇◆そうだ。

昭和天皇◆田島が大正皇太后にタンパク質をおとりになるよう申し上げたと言ったが、タンパク質は植物でも大豆・豆腐でもとれる。
私は豆腐はあまり好かぬが。
しかし牛肉など獣肉はタンパク質の他にビタミンA、Bなどがあるが、植物性にはそれがない。
細密に言うと、タンパク質は大豆でとれるというふうには単に考えられぬ。
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宮内庁長官 田島道治 拝謁記

1951年5月18日
5月17日大正皇太后崩御。
吉田首相に会い、国葬当然ただし質素のむね言う。
国際か否か、占領治下にて国葬好まぬ、ただし昭和陛下の思召次第とも言う。
御文庫に行きこの間のこと伺う。
昭和陛下国葬御希望のこと承知す。

1951年5月20日
葬儀委員会のこと、陵の建設と予算のこと。
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『入江相政日記』侍従長

1951年5月17日〔貞明皇后死去〕
4時過ぎに保科女官長が三谷侍従長を呼び出し、三谷侍従長は昭和陛下にすぐ入御を願う。
何事かと思ったら、大正皇太后が狭心症の発作でお倒れになった由。
驚き入ったことである。
4時10分崩御とのこと。
誠に悲しいことである。

1951年5月18日
御通夜に出て大正皇太后に拝謁したら、泣けて泣けて仕様なかった。
大正皇太后は6畳の御部屋に白羽二重の御召、同じ御布団でお休みになっている。

1951年5月28日
皇族さんたちの会議の結果、大正皇太后の御歌集と追憶録のようなものの編纂ということが決まった由だが、三谷侍従長が「前者は問題ないとしても後者は出版ということに一線を画するべきである」と言われるから、保科女官長を通じてすでに昭和皇后の御思召を伺ってあるが、その点を早く大宮御所へ通じた方がよくはないか。
昭和皇后は「取り込んでいるから後でいい」とおっしゃったが、皇族さんの方が先口になると具合が悪いから、はやり昭和皇后がイニシアティブをお取りになれるようにということになり、保科女官長に頼む。
御喪服のことが問題になった由。
なんと昭和陛下には照宮成子内親王にも宮中服を召させるということをお申し上げになってなかった由。
甚だしき手落ちと言わなければならない。

1951年6月2日
三谷侍従長の所へ行ってみると、稲田侍従次長・山田康彦侍従・田端氏も一緒で、大宮御所の小畑忠侍従も来て大いに何かやっている。
聞いてみると、両陛下の思召の御膳を隔殿にお供えするか、御写真かという問題らしい。
三谷侍従長はしきりに隔殿一本にすることを説くが、
予は「その意見に別に不同意ではないが、そういうことをこちらから主張することが間違いで、大宮御所の女官さんの考えもあろうし、また妃殿下方の意見もあろうし」と言って帰す。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1951年2月5日
昭和天皇◆大正皇太后が前の式部長官武井守成のことをお褒めになるのはどういう理由からから私は知らぬが、宮中服を作る時に骨折ったことなどをお考えかもしれないが、宮中服は戦時型であり、また宮廷以外に用いられないことが民主的でないとの批評を買っていると思うのだが、大正皇太后はずいぶん宮中服のことを遊ばしたが、裳衣がダメだからという理由でなく、その前から一度もお召しにならないのでよくわからないのだ。
田島長官◆御服装の問題は難しゅうございますから、格別現状を変えず時には和服もお召しになり、
自然落ち着くところに落ち着きますことと存じますが、昭和皇后が和服をお用いになりますことを田島より明らかに大正皇太后に申し上げまするのは好機でなければならぬと存じます。

1951年3月12日
田島長官◆東宮様立太子の礼の一つの問題は、大正皇太后御臨席が否かのことであります。
従来国事の儀式は大正皇太后の出御は無いことになっておりますが、皇族は御出席になります以上大正皇太后だけ儀式に御参列なきも如何と存じまする。
昭和天皇◆それは席次の問題だ。
皇太后宮大夫入江為守と宮内省主馬頭西園寺八郎と大いに議論したことだ。
入江は皇后より上位だと言い、西園寺は憲法通りだと言うので譲らず困ったことだ。
それからは問題を起こさぬよう、いわば敬遠申すということだ。
田島長官◆孝宮和子内親王の結婚式の時に御順序は明らかになっておりますゆえ、お出まし願う方がよろしいように思います。
昭和天皇◆席次の点ちゃんとすれば、私は出御の方がよいと思う。

1951年3月13日
田島長官◆東宮様の御成年式と立太子の礼ですが、24日25日は大正天皇の御日柄・27日は久邇宮邦彦王の御日柄で、一日で済めば結構でございまするが、あまり年末に押しつまりまする。
昭和天皇◆27日は1月27日でなければ私も良宮もそれは構わぬ。
12月は大正天皇の祥月命日ではあるが、普通の月の場合は24日25日でも私も良宮もあまり気にしない。
大正陛下は本当は24日に御大切になられたので、25日はいわば発表のような訳ゆえ、大正皇太后は24日大切と御話になるのだ。
大宮御所関連の時にはこの御日柄を考えればよいので、他の場合はよろしい。

1951年5月18日
〔1951年5月17日貞明皇后死去〕
田島長官◆昨夜御思召を拝し、国葬のことで政府と折衝いたしましたが、吉田首相は占領下のため国葬を望まぬようでございまして、国葬とは名乗らぬも皇太后大喪儀というような名称で行われまするならば、国葬ではありませぬがよろしいかと存じます。
昭和天皇◆国葬がいかぬならばやむを得ない。
田島長官◆従来御大喪は夜でありまするが、諸種の関係で今回は昼間に願いたいと存じます。
今回は馬車をお用い願いたいと存じます。
昭和天皇◆牛はないか。
田島長官◆経費の関係もありまして。

田島長官◆首相秘書官松井明が内閣官房長官岡崎勝男の使いで参りまして、
「少し御無理なお願いながら、政府は国葬をお願いし、昭和陛下の思召で国葬に及ばぬということに願えませぬか」という話でございましたので、
「それは事実と逆で昭和陛下に伺う気にもなれませぬ」と断りました。
何か他への心遣いがあるらしく存ぜられ、吉田首相の勤皇ぶりとは少し違い、事情がよくわかりませぬ。
昭和天皇◆大正皇太后の国葬を政府がするとの申出を私が及ばぬと言える筋合いのものではない。
それはおかしいが、自由党は自分が国葬を主張したということにしたいのだろうか。
田島長官◆とにかく吉田首相としては不可解の感があります。

田島長官◆陵名を石に刻して埋めるのでございます。
大正天皇の時は閑院宮載仁親王の筆でありまするが、今回は殿方様にお願い致しましょうか。
昭和天皇◆高松さんがよい。
秩父さんは御病気のため、毛筆の大字は御無理であるから。
それに高松さんが字も一番御上手だ。

1951年5月22日
田島長官◆夜分に拝謁願いまして恐縮でございますが、ちょっとおかしなことがございまして御耳に入れます。
今日吉田首相が「政府としてはこの際は密葬して平和克復後に国葬をと申し上げたが、御思召でそれがいかぬことになったと政府答弁する」と申しますので、
「そういう政府の意向は聞いたことはなく、いわんやそれに対して御思召を仰せになることはあり得ず、占領下にて国葬ができぬということゆえ昭和陛下もやむを得ずそれでよいとなり、その後岡崎官房長官の使いで松井秘書官から『政府が国葬を言って、昭和陛下が辞退なすったというような発表云々』という話があり、不可解な話で断固お断りした」ことまで申しましたら、
吉田首相は「私の了解違いでしたろう」と繰り返しておりました。
吉田首相は常に皇室を大事と考える人ゆえ、その人が今回は国葬にせぬ方がよいと考えるのは何か理由があると存じますが、判然いたしませぬ。
昭和天皇◆吉田は本心は国葬にしたくてできぬので、いろいろ苦しんでるだろう。

1951年5月23日
田島長官◆御追号の問題であります。
英照皇太后はお好きであった藤の花にちなんで藤の詩から出ておりますし、昭憲皇太后は御徳を頌することになっております。
大正と連絡ある意味の御追号か、大正皇太后の御人柄を讃える方の御追号か御思召をと存じまするが。
昭和天皇◆私は大正にちなんだ方が良いと思う。
なんとなれば、幼少の頃は何もわからぬが、昭和の代になってから、叔母様方の御話や何かからお察しすると、と言っても育ちが違うのでよくわからぬが、必ずしもしっくりお出でになったとも思えないから、御名前はいっそう大正と御連絡あるようにしとく方がよい。

田島長官◆吉田首相は演繹的で勘で決めたことを強く押す、理屈でいろいろ究めつくして帰納するということがございません。
昭和天皇◆芦田均はその点よろしい。
理論ぜめで少しぎこちないが行き届く。
研究した結果道理で押して、ちょっときつすぎる場合もあるが事態はちゃんと研究する。
吉田は勘で動く。
人間は難しいね。
吉田茂と芦田均の長所が一人だとよい。
東条英機と近衛文麿も一人にすればよい。
開戦前近衛が今少し勇気あれば。
田島長官◆結局は生命が惜しいのではございますまいか。
終戦後自殺するなら、平和論で凶刃に倒れた方がようございましたね。
昭和天皇◆そうねー。あの時、自殺しては。

1951年5月29日
昭和天皇◆御追号「明光皇后」は語呂悪し。
田島長官◆宇佐美次長・三谷侍従長だけに見せましたが、いずれも良いというのがなく、仏教の戒名や尼の名のように申しますが、慣れればその感はありませぬ。
昭和天皇◆「貞恵」は支那にあれば止めた方がよい。
「貞明」が良いではないか。
田島長官◆昭和皇后の御意見もありましょうから、御相談の上。
昭和天皇◆田島の意見は。
田島長官◆「貞恵」はよろしいかと存じますが、重複おいやなれば「貞明」でございましょうか。

1951年6月1日
田島長官◆「貞恵」は支那の同一謚号の皇后を調べしところ、不慮の死の方なりし由。
昭和天皇◆その謚の中国皇后の生涯があまり良くなければ考えものだ。
やはり「貞明」か。

昭和天皇◆良宮が「おたた様は御床へお連れしたのが悪かったとか女官が言っている」と言ってた。
田島長官◆大正皇太后は二度狭心症のストロークがあり、第二のがよほど強力かと想像されます。
今少し御殿場で御静養の方が良かったとのことはそうかもしれませぬが、いま責めることもできませぬ。
済みましたことゆえ、今後いろいろ注意いたします。

田島長官◆大喪儀につき田島が苦労いたしておりますのは写真と報道でございますが、御誄など葬場のマイクをお許し願いたく。
宮様および首相も異議なき様子。
昭和天皇◆よろしい。
田島長官◆国会開会式のごとき儀式に既にマイクのつく以上 式だといって避けられず、なにとぞ御練習を願います。

1951年6月5日
昭和天皇◆おもう様とおたた様とは御仲がそうおよろしくなかったようで、私は若くて何もその点のことは知らずにいたが、おもう様お亡くなり後、叔母様方とくに竹田の叔母さん〔竹田宮昌子妃〕から聞いたことには、どうもあまり御仲がよくはおありでなかったようだ。
おもう様が私をお呼びになって御一緒に散歩した時もおたた様お出でなく、犬をお連れになって私が御供した。
御影にずっと御拝礼を遊ばしたのは、むしろ御反省の結果 御崩御後に御心持でお取戻しのためではないかと想像するので、思慕尊敬の念で生けるがごとくに仕えるという孝経などのようなものではないように思う。

1951年6月6日
昭和天皇◆大正皇太后が25年生けるがごとき貞節をなされたとして、今後宮城で御影とか大正皇太后の御写真とかに対して、大正皇太后のなされたことを今後やはり続けてやらなければならぬか。
田島長官◆大正皇太后の御影へのお仕え方は大正皇太后の御流儀での表現でありますが、本来は御誠意が本質実体でありますゆえ、必ずしも大正皇太后の御流儀を遊ばさねばならぬことはないと存じます。
昭和天皇◆そうか。それでよいか。

1951年6月8日
田島長官◆皇太后職の女性の数は、女官長以下女官7人・女嬬7人・雑仕3人・他に御用掛山中サダ〔元侍従長珍田捨巳の娘〕ありますが、大正御代変りの時には清水谷英子と高松千歳子で、あとは大正5年からと致しましても35年になりますので、15歳でお仕えしても50歳というわけで老人が多いようでございます。

1951年6月15日
昭和天皇◆大正皇太后の御遺書の事だがねー。
いろいろ御親筆のもの、御歌の他は全部焼却してほしいということで、残しては皇室の恥辱だとあるが、このお書き物をまとめるのは如何にすればよいか。
田島長官◆皇太后宮大夫・皇太后宮女官長の手で遺漏なきよう取りまとめ、昭和皇后にでもご覧いただくの他ないと存じます。
昭和天皇◆大正皇太后は筧克彦の御進講「神ながらの道」をお聞きになったのだが、その筆記をどういう意味かわからぬが秩父さんにあげてくれとある。
これはその通りにするだけのことゆえ差し上げてもいいが、どうして秩父さんかということはわからない。
とにかく秩父さんは貞明皇后の一番お気に入りであった。
三笠さんも末のお子さんで〔溺愛され〕高松さんが御不平で、
戦争の時 支那の上海か何か危険な所へお出でになったのも、その御不平のためであったような話も聞いた。

1951年6月19日
田島長官◆皇太后宮侍医山川一郎に聞きましたが、大正天皇の崩御は1926年12月で、葉山への御転地はその年の8月頃かと存じますが、この転地に関して大正皇太后と侍医頭入沢達吉らの申上方と極端に相違し、侍医の意見の通り取運ばれて非常に面白くなく思召して御煩悶のようであったとのこと、前年8月にひきつけのようなことがありましたとのことで、既に摂政がおかれてのことでありますが、その時以来大正皇太后の御苦労は大いに増したようだとのことであります。
坊城皇后宮大夫の話によりますれば、昭和陛下の御言葉通り、やはり非常に御円満だったとは申し難いようで、ちょいちょいその間の御様子承知の人もあると申しておりました。
昭和天皇◆あの時分も大正皇太后は看護婦がお嫌いであったが、入沢の意見だったか良宮の所で多少慣れたのを二人、良宮が困るにもかかわらず回したが、これなども大正皇太后は御憤慨だったかもしれず。
田島長官◆実は新皇太后宮侍医勝沼清蔵も拝診後じき旧皇太后宮侍医山川一郎と諮りまして、衛生女嬬の必要を申しましたそうですが。
昭和天皇◆それは初めて聞く。
勝沼もそう言ったのか、そうか。

1951年6月21日
田島長官◆大正皇太后お好きのリンカーン一台を、内張りまで大正皇太后にお見立てを願いましてお買い願いましたものが、崩御後に着荷いたしました。
これを皇太子様用とし、皇太子様用を内親王様用と致します。
内親王様方も今のパッカードはあまりお好きでなき様であります。

田島長官◆〔貞明皇后の墓の〕お土かけのこと、高松宮御電話あり。
皇太子様もとの御説あり。
「お小さい方も印象をはっきりするためになすったらよい」との御意見でしたが、
「順宮厚子内親王が遊ばせば、照宮成子内親王・孝宮和子内親王、またその御配偶者、さすれば東久邇宮稔彦王・東久邇宮聡子妃もとなりますが」と申し上げ、
高松宮は「内廷皇族で線を引ける」との仰せ。
昭和天皇◆それは私としては困る。
稔彦王の関係もどうなるかと思うゆえ、最初の両陛下・直宮・妃殿下だけか、皇太子を入れただけにしてもらいたい。
皇太子を入れたために他に波及するなら、皇太子もやめてくれ。
田島長官◆高松宮に申し上げましょう。

1951年6月27日
昭和天皇◆秩父さんは大正皇太后の伝記のことをしきりに言っておられたから、
「天皇皇后の実録は編纂する義務のあるものと思うから、書陵部で然るべくやると思う。しかし今は特殊な人を雇うような大掛かりなことはできぬだろう」と言っておいた。

1951年7月9日
田島長官◆過日中山輔親侯爵が田島に九条家のためにこの際なんとかという話がありました。
この方は九条家の親類で、「京都方面におらるれば門地上かつがれてよからぬことがおきまするし、財政上の関係もあり陵墓監にでも」との話がありました。
九条家に対しては従来大正皇太后より年二度1万円か1万5千円か御下賜がありまして、その他両陛下よりも2,500円程度ありまして、この中元には両方とも両陛下より下賜のように致しました。
今後も従来通りする必要ありと考えております。
大正皇太后の御里ゆえ適当なことは考えねばなりませぬが、無限度とはまいりませぬ。
昭和天皇◆九条道秀のひととなりは?
田島長官◆掌典も無理のように聞きますし、人に乗ぜられるところあるようにて、かつて貴族院で人の草稿で演説する気になったりして、あまりキチンとした人ではないようであります。

1951年7月26日
田島長官◆九条家のことでありますが、皇太后宮大夫坊城に尋ねましたところ、御補助は5月11月の二回ありました由ですが、全部で2万円で、九条道秀氏はしまり屋で家計は心配することはないとのことであります。
中山氏が面倒は見ているようであります。
昭和天皇◆なぜ中山がそういうことを言ったろうねー。
田島長官◆よくはわかりませぬが、中山が自分の責任を幾分でも軽くしたいためでございませんでしょうか。

田島長官◆大宮御所の人の処置の問題は、個々の人々につき職場転換・他への就職依頼・内掌典を試みしも断りのこと・女官は結婚に多少希望あること、8月末までになんとかしたい方針。
昭和天皇◆女官女嬬などを皇居の方へ取ることは?
田島長官◆昭和皇后が御希望の人ならばともかく、やり方も違いましょうし、御心配ない方がよいかと

田島長官◆『原田熊雄日誌』の5巻を見ますと、西園寺公望が大正皇太后のことについてちょっと変わったことを申しておりますし、昭和陛下が枢密顧問官本田熊太郎就任を留保遊ばしたことなどがあからさまに出ております。
昭和天皇◆まだ2巻ぐらいまでしか見てないが、『原田熊雄日誌』は私のことについては言い過ぎは絶対になく、むしろ内輪に言い足らぬ個所はある。
田島長官◆『原田熊雄日誌』にも小原の坊主〔小原龍海〕のことが入船観音ということで出ておりまして、昭和陛下の御寿命を42歳という迷信的なことを申しておりまして、警視庁に捕まりましたのを東久邇宮稔彦王が助けておいでのことが載っております。
昭和天皇◆どうして私が42歳で?
田島長官◆迷信的な流言と存じます。

1951年9月29日
昭和天皇◆大宮御所の女官が内掌典はイヤだと言い結婚ならいいという話は矛盾ではないかと思う。
今さら古参の内掌典に教わるということがたとえ上でも慣れぬこととて、人に従うというような意味でイヤだとすれば、結婚しても夫に従うもイヤという訳になるが、どうも矛盾だ。

1951年12月20日
昭和天皇◆東宮ちゃん〔平成天皇〕は帝位を継いでもまだまだだし、貞明皇后は皇后〔香淳皇后〕の方と連絡が悪く、と言うより明らかに不調和があったことは事実だ。
田島長官◆皇太后職というものがありますればそこの役人があり、競争でもありませんが、連絡を怠ったりして何か張り合うというようなことは絶無ではございません。
田島が驚きましたのは元宮内大臣牧野伸顕八十八のお祝いの御仕向が、大宮御所からいろいろ手厚く田島に示され、昭和皇后よりは御仕向なかりしため何の連絡もなく。
昭和天皇◆貞明皇后でさえそうだから、私が譲位して東宮ちゃんが帝位についても何かと面倒なことが起きがちなことは想像できる。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1952年3月14日
田島長官◆東宮様に関しては宵っぱりが悪い習慣で、これはお直し願いたいと存じます。
侍医勝沼精蔵も申しておりまして、大正皇太后の御遺伝かなどと申しておりました。
昭和天皇◆西洋流の夜会などはあまり早く寝る癖の人は困る。
(東宮様のことは無意識に御弁解的なこととなる)

1952年4月11日
田島長官◆独立奉告の勅使御差遣の問題は調べておりますが、いろいろ複雑多岐で明治天皇以来一貫したものもありませず。
昭和天皇◆それは一貫しないのだよ。
承るところによれば明治天皇の御一代には、遂に法案ができても服忌中は御裁可がなくその時々お決めになったような訳で、言わばルーズであり、大正の御代になってその草案が急に法律になり難しくなった上、大正皇太后が非常に御厳格であったからますますやかましくなり、もっとも大正皇太后は終戦後は急にお楽になったが、側女官が皇居の者でも大正皇太后に何か言われはせぬかと喪のことはとても気にしていた。
いわんや大宮御所の女官は厳重だったと思う。
忌の点は掌典以上だったよ。
それで私が多少緩和して大正時代のが少し緩んだ訳で、一貫しないのだ」
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1953年2月25日
田島長官◆秩父宮・高松宮は皇孫でお生まれになり、三笠宮は皇子としてお生まれで、大正皇太后〔貞明皇后〕が末っ子は可愛いと言うのでお可愛がりになったというようなことも多少ございましょうか。
昭和天皇◆私などは〈おもう様〉〈おたた様〉と御一緒のことはあまりないが、日光や葉山の付属邸というものは三笠宮のためにできたという一例を見ても、田島の言ったようなことはあった。
三笠さんはワンパクで、籐椅子をお振り上げになったのを女官がお止めしたのを、子供は活発でなければと大正皇太后がお止めになったというような例もある。
陸軍少将田内三吉というのが養育掛としてずっとお付きしてた。
秩父さんや高松さんは恥ずかしいのかちっとも三笠さんと遊ばない。
私は遊んでやったことがある。

1953年12月3日
田島長官◆先だって名前をお忘れの絵描きは宅野田夫ではございませんか。
昭和天皇◆そうだ、宅野だ。
あれは右翼で相当な皇室利用的だ。
大正皇太后はそういう点はちょっと何かあるとずいぶんお許しになって利用されなすった。
田島長官◆御婦人のためか御隠居の御身分のためか、宮城とはずいぶん違ったようなことがありますように存じたことがありました。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1994年2月1日
昭和皇太后様万一の場合、あまり作為は加えず早めに斂棺を行う方が可と。
貞明皇后は御遺体に腐敗防止剤注入。
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◆123代 大正天皇/嘉仁親王 122代明治天皇の子
1879-1926 47歳没


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『徳大寺実則日記』明治天皇の侍従長

1892年7月27日
1891年6月より1892年7月まで、嘉仁皇太子の御学業成績は、御読書・御馬術は著しく御進歩あそばされ、御記憶力も増され、ただし御読書御進歩の割には意味を解せらるること御乏しと。
算術は他に比較すれば御困難なり。
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佐々木高行『かざしの桜』明治天皇の娘昌子内親王と房子内親王の御養育係

1900年2月14日
※伊藤博文の発言

東宮様〔大正天皇〕とにかく御軽率の御天質にて、何事もしみじみ遊ばされ候御事なく、これには困る。

1900年2月15日
※伊藤博文の発言

東宮様〔大正天皇〕御病症あらせられ、かつ御天質なにぶん御軽忽にあらせられ候。

1900年3月10日
※伊藤博文の発言

東宮様〔大正天皇〕は明治陛下と大御反対なり。
これまで種々心配せるもなにぶん思うごとくできず致し方なし。
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『原敬日記』総理大臣

1917年4月
子爵三浦梧楼曰く、
山県有朋在京中 大正陛下に拝謁せしに、「いつ辞表出すや」との御尋ねあり。
山県恐懼してただちに辞表を出せりと。
山県がしばしば老躯職に堪えざることを言上せしより起こりたる事ならんかとも拝察するも、その後寺内正毅拝察の際、
「山県は人望なきにあらずや」との御諚ありて、寺内恐懼せりと。
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『原敬日記』総理大臣

1919年2月
宮内次官石原健三より大正陛下御病気の御様子を聞き取りたるに、葉山へ御避寒後いまだ御入浴もなく御庭にも御出なき様の次第なるが、別にこれという御病症いもあらざれども、少々御熱などのある事もあり、御脳の方に何か御病気あるにあらずやということなりと、甚だ恐懼に堪えざる次第なり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1919年6月26日
※倉富&宮内次官石原健三の会話

石原◆大正陛下は山県公爵の上京を御好みなされず。
それぐらいなるゆえ山県に対する時は御行動も平常のごとく都合良く行かず。
倉富◆これは御病気なるゆえ、他より申し上げても都合良くなることは難しかるべし。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1919年7月4日
※宮内次官石原健三の発言

大正陛下の御健康問題なり。
侍従長もやはり公家気質にて悠長なり。
葉山御避寒中に処置すべきはずなりしも、御避寒中には為しがたし。
御還幸後に為すべしと言い置きてそのままになりおれり。
山県有朋なども大概は知りおるも、宮内大臣波多野敬直ほどは知りおらず。
宮内大臣に対して種々の小言を言うも、畢竟無理なる事にて何とも致し方なき訳なり。
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『四竈孝輔日記』侍従武官

1919年8月6日
大正陛下御気色はいつも変り給わざるも、御体力はやや御減退あらせられたるにはあらずやと拝察し奉る点なきにあらず。
ときどき御言葉の明瞭を欠くことがあるがごときは、近来ようやくその度を御増進あらせられたるにはあらずやと拝し奉るも畏れ多き極みなり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1919年11月1日
※倉富&宮内次官石原健三の会話

石原◆昨日の勅語の模様は拝したるならん。昨日までは幾分の望みを属しおりたるも、到底議会開院式の事は望みがたし。
倉富◆御臨席ありて勅語なき訳には行かざるべし。
石原◆それはできず。開院式前より御避寒になるより他に方法なかるべし。
倉富◆さすれば新年式も止めになり、宴会場の狭き事も心配なくして済むべし。
石原◆その通り。
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『原敬日記』総理大臣

1919年11月6日
予は大正陛下の御健康問題は国家の重大問題と思い常に憂慮しおり、山県有朋・松方正義・西園寺公望みなこの点についてはまことに憂慮しおれり。
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『原敬日記』総理大臣

1919年11月8日
御幼年のころ脳膜炎御悩みありたることゆえ、御年を召すに従って御健康に御障りあり、御朗読物には御支多く、すでにこの間の天長節にも簡単なる御勅語すら十分には参らず、臣下としてことに当局として、予は国家皇室のために真に憂慮しおれり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1919年11月21日
※宮内次官石原健三の発言

大正陛下の御脚の運びよろしからず。
介添を付けるは不体裁にて、観菊会の事は苦心しおりたるところ、幸いに雨天となりて幸せたり。
時によりては御飛びになる様の事もあり。
御容態一定せず。
やはり神経の作用なるべし。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1919年12月22日
※宮内官僚小原駩吉の発言

〔議会開院式について〕今年は早々御避寒あるべしとの事を聞き好都合と思いたるところ、やはり大正陛下御自身に臨幸ある予定なる様に聞きおれり。
石原健三なども到底出来ざることと思いたるも、侍従等は必ず出来ると言うゆえまたその気になりたる様なり。
先日支那武官に謁を賜るとき初めは単に握手を賜うのみにて何の御詞もなき予定なりしが、式部長官は「外国人に対し一言の御挨拶なきは不作法なり。一言にてよろしきにつき何とか御詞あればそれ以上は通訳にてしかるべく取り成すべし」と言いたるも、到底難しいとの事ととなりおりしが、
山県有朋がこれを聞き「左様の事あるべきはずなし。ぜひ御詞あるべし」とのことにて御詞あることとなりたる由。
山県は大礼の時には自身に御練習に関係し、自身も勅語を読みて御練習を為し、ともかく大礼滞りなく済みたる事あるにつき、今日にてもその通り出来る事と思い、式部長官・侍従長列席の所にて、
「宮内大臣は自分の言う事を聞かず。自分は幾度か忠告もし助言も致したれども何事も実行せず。大礼の時かのごとく御出来なされたるものが今日出来ざるはずはなし。畢竟真実にその手段を尽くさざるためなり。聞くところにては、開院式前に御避寒遊ばさるるやの説ある由。言語道断なり」
式部長官は気の毒に思い、
「この事については宮内大臣波多野敬直も非常に苦心しおる。大礼の時と今日では御容態非常に異なり」とてこれを取り成し、
宮内大臣も「大礼の時は様なればよろしきも、今日はなかなかかの時の様に行かず」と言いたる由。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1919年12月24日
※倉富&宮内次官石原健三の会話

石原◆一度は年内御避寒の事に内定しおりたるも、侍従中の2,3人が勅語は御差支なき旨を申し出て、そのため御臨幸ある事となりおれり。今後今一度御練習あるはずなり。自分は甚だ不安心なるも、侍従の保証あるにつきその事になりたり。
倉富◆侍従が保証したりとて責任を避ける事を得ざるにあらざるや。
石原◆それはもちろん宮内大臣の責任なり。
倉富◆この事は実に重大なる問題にて、また至難なることなり。当局者は充分に考慮せざるべからず。
石原◆何とも致し方なし。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1919年12月25日
※宮内次官石原健三の発言

明日の議会開院式には御臨幸あるはずなりしが、ついに御止めになりたり。
松方正義は熱心に御練習を勧めたるも、結局御止めになる事となれり。
山県有朋も参内して御模様を拝見し、結局御止めに同意する事となれり。
これまでは山県らは手続の不行届あり、手続さえ行届けば出来ざる事はなし、と考えおりたる模様なるも、実見して始めて得心せられたる模様なり。
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『原敬日記』総理大臣

1919年12月26日
第42議会開院式。
大正陛下御足痛にて御歩行御困難の次第、昨日宮中より発表ありて、本日臨御なきにより、予勅命を奉じて勅語を奉読したり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1920年3月4日
※宮内次官石原健三の発言

イギリス皇太子来年3月頃来日する旨の回答ありたり。
差し向きシャム王が来るにつき苦心中なり。
御面会あればすぐに不結果を来す事は明らかなり。
山県有朋などはやむを得ずある程度までは御容態を話す模様なり。
只今三浦謹之助をして御容態書を作らしめおれり。
ある時期において発表するより他致し方なかるべし。
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『原敬日記』総理大臣

1920年3月30日
大正陛下の御病気はいかにも恐懼の次第なるが、それにしても御病症はまったく秘密のうちに置くことは国民に対し相済まざる次第なれば、時々公表を要すべし。
さりながらその公表の場合には人心に影響すること多きにより、前もって内示相なりたしと請求し、宮内大臣中村雄次郎これを諾せり。
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『原敬日記』総理大臣

1920年6月
ついに摂政を置かるる必要に至らんことと恐察すするも、それまでには時々御様子を発表して国民に諒解せしむるの必要もあるべし。
もとより大正皇后おはじめ皇族方の十分なる御考慮に待たざるべからずとてその趣旨を繰り返し、御病気の御様態はなお数回公表の必要あるべし。
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『牧野伸顕日記』内大臣

1920年7月15日
〔大正天皇〕午前8時5分上野御発。
本日は侍従左右に侍し御手を支えながらプラットホームを御歩行、玉車に向かわせらる。
近来一人御側にてワキもしくは御手を支えたるに、両人左右より御支え致すことは今日が初めてなり。

※侍従加藤泰通の発言
大正陛下は塩原のことを御記憶あらせられざるように拝す。
種々問題を設け御伺いを試みるに何ら御答えなく、御口気より拝察するにかねてしばしば御来遊ありたる事はまったく御念頭に登らざるがごとしとのことなり。
皇太子様御時代にはほとんど毎年御滞在であり、自由に御運動御散歩あり、また御践祚後も一回御来遊ありたるにかかわらず以上の御有様なるは、はなはだ痛心の次第なり。
原恒太郎侍従も、御お気に入りの土地なるにかかわらず前段の次第とは実に恐驚の至りと申しおる由。
御湯殿は御座所よりおよそ6尺以上も低地にして、階段13を下り、御昇降困難なるが、従前より何ら変更したる事なく、以前御滞在の時と同様なるにかかわらず、「これは違う」と仰せられたる由。
御進退不自由にならせられるため、従前より構造も違い、別の湯殿のように御思召たるかもしれず。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1920年7月15日
※宮内次官石原健三の発言

大正陛下の御病状第2回の発表を為すの必要あり。
三浦謹之助が診断書を作りたるが御病症を恐怖症と書きおれり。
これにては誠に困る事なり。
初めは忘語症と言いおりたるが、恐怖症とせり。
これでは発表しがたし。
今少し不得要領の病名にいたしたし。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1920年7月21日
※倉富&宮内次官石原健三の会話

石原◆大正天皇の御病状書案中「御疲労の折には御態度弛緩し御発語に障害を生じ明晰を欠く事あり」というごとき言葉あり。
倉富◆御発語に障害を生ずと言えば脳の疾患ある様に思わる。御発語云々は削る訳にはいかざるや。
石原◆この事がこの節の主眼につき、その他は既に第1回に発表せられたる所と異なることなし。医者の説にては言語に関する神経と意識に関する神経とは別個の物なる由にて、御発語に障害ありても御意識には影響なしということを得る趣なり。
倉富◆それほど研究しあることならばよろしからん。
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『牧野伸顕日記』内大臣

1920年7月22日
※内大臣松方正義の言葉

摂政決行の時機はなるべく早きを相当とするも、東宮様御帰朝後あまり急速に決行するは、いかにも感情上また孝道上においても穏当ならざる傾あるにつき、少し落ち着きたるところにて進行する方よろしかるべし。
10月末あるいは11月頃しかるべくか。要するに議会までに片付くことを目的とすること。
なお大正皇后へ言上することは、自分まず口開きすることに任ずべし。
それはかねて大正陛下の御状態につき御話ありたることあり。
それは1913年頃までは種々御為めを存じ上げ申し上げたるも、もはやなんら効果なきを覚知し爾後は断念せり。
誠に困ったことなり。
また皇子様方、父大正陛下の御前にならせられたる時、時々変なことあり。
皇子様方も不思議に御思召こともあるにつき、なるべく早く御前を御下りになるよう取り計らいおる次第なり。
皇族方へも自分より申し上ぐることに努むべし。要するにこの問題だけには尽力すべし。
その上はもはや来年は88歳になることゆえ、このことが決定したる暁には是非御免を蒙りたし。
この事だけはぜひ始末をつけなければ相済まざる分なり。

この老公の態度、決心いかにも立派なりし。
帝室に対する奉公の誠意に基づくこと無論なり。
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『牧野伸顕日記』内大臣

1920年7月24日
※侍医頭入沢達吉博士の発言

大正陛下の皇太子時代にはたびたび拝謁し種々御用を承りたり。
しかるに7~8年を経過したる今日、今春以来御用拝診を命ぜられ、時々御伺いするに、どうも入沢を御記憶なきようなり。
数回拝伺のうえ「お前は見たことがあるようだ」と仰せられたる由なるも、はたして御記憶を御呼び出しなりたるか、あるいは侍従等より従前の事を申し上げたる結果なるか判然せず。
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『原敬日記』総理大臣

1920年7月24日
大正天皇の病状について、宮内省から発表あり。
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『牧野伸顕日記』内大臣

1920年12月11日
大正陛下の御病気のこともだんだん国民に知らるるもののごとく、また事実においても離宮に行幸または伏見宮邸に行幸などあれば、御病気は御肉体にあらずして御脳にあられるぐらいは国民も悟ることと思う。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年4月19日
※宮内官僚関屋貞三郎の発言

大正天皇の御容態は葉山より御還幸後に発表せらるる例なる由につき、この節もこの際発表する事となさんと欲す。
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『牧野伸顕日記』内大臣

1921年5月18日
午前8時半、沼津御用邸伺候。
山県有朋は久しぶりの拝謁にて、よほど御変りなりたりとの感想を洩らす。
英語云々の御言葉あり、年齢をお尋ねあり、元気であるなど、切れ切れの御言葉のみなりし由。
従前排せざる程の御変調なりと言われ、大正陛下御自分は御病気と御思召さざる由。
このことは今後の取り扱い上困難を感ずる点なるべし云々の意味を洩らさる。
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『原敬日記』総理大臣

1921年5月31日
山県有朋訪問。
大正陛下御病気の御近況につき山県とともに嘆息談をなし、摂政宮様御帰朝の上は速やかに摂政の御必要あるべきことを物語たり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年6月23日
※宮内大臣牧野伸顕の発言

大正天皇先年来脳の御悩あり。
御静養遊ばされおるが、御身体は御悪しき方にはあらざるも、御脳の方は御よろしき方とは申し上げ難く、昨日還御の時なども停車場にて急に固く御成り遊ばされそのため御帽のかぶり方も曲り、御脚の運び方も自由ならざる様の事なり。
先年来公式にはすべて出御遊ばされず。
外交官の御引目または御陪食でもある様の時はそのため御旅行の必要ある様の事にて誠に都合悪し。
この如き事にて長く弥縫する訳にはいかざるゆえ、皇太子の還啓でもありたる上は摂政の御詮議も必要ならんと思う。
これを実行するには如何なる手続を要するや取り調べおきたし。
ただいまの所この如き考えを抱きおる事わかりても困るにつき、誰に話す訳にもいかず。
君一人に依頼するゆえ、そのつもりにて調査いたしくれたし。
医師の診断書も必要なるべく、1週1回の拝診には拝診書を作りおり。
また侍従および侍従武官においても、異様の御動作ありたる時はこれを記しおるはずなり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年7月15日

※宮内官僚関屋貞三郎の発言
大正天皇の御容態は漸次よろしからざる方に向かわせらるる様なり。
先日漢学者小牧昌業が論語の進講を為したる時、
「『四百余州を挙る』という軍歌を唱へよ」との事にて、小牧は論語を講ぜずしてこれを唱えたる趣なり。
大正陛下も先年は軍歌を御唱え遊ばされたるも、この節はわずかに1~2語ぐらいより御唱えなさる事はできざる趣なり。
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『高松宮日記』

1921年7月26日(田母沢御用邸)
大正陛下は御散歩の時、侍従の補助を要せらるるごとく拝せり。
ますますおよろしからざるがごとし。
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『牧野伸顕日記』内大臣

1921年8月9日
※侍従加藤泰通の発言

梨本宮御夫妻・李垠王帯同にて御用邸伺候の折は、数日前より大正陛下は特に李垠王の参内をお待ちあり。
李垠王は御幼少の時代より御承知あり、かつ御自分朝鮮語を話すとのかねての御抱負もあり、ことに李垠王は8歳下なれば目下に御覧あり、勝手に待遇もできる等のことよりしきりにお待ちあり。
しかるにいよいよ御三方御揃、御前に伺候ありたる時は何ら御言葉もなく、以前より御待構ありたるに顧み、近側の者不思議に感じたり。
よりて拝謁済たる後、李垠王のことにわざと談及したるに、大正陛下はまったく李垠王をお忘れになり、梨本宮の若宮とお認めなりたるもののごとく、なお李垠王の参内をお待ちなりたる由。
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『牧野伸顕日記』内大臣

1921年8月19日
この日 李垠王詔書御礼のため日光伺候、拝謁したるも何ら御言葉なかりし由。
前記通りかねて心安く御思召ありたるに関わらず、一言も御沙汰なかりしはやはり御思出しなきか、言葉の出ざりか、誠に痛ましき次第なり。
日々の御運動はなおさら区域は狭くなり、御徒歩の時間も縮まり、内山小二郎武官長の話に、多くは侍従が御手を取るとのことなり。
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『牧野伸顕日記』内大臣

1921年8月23日
※侍従海江田幸吉の発言

李垠王拝謁の時、大正陛下より何か解しがたき御言葉を御発しなりたる由。
多分朝鮮語のつもりにて御話ありたるものなるならんとの推測なり。
この節はよく庭に人がいるなど仰せらるる由。
過日は大きな男がいると仰せられたる由。
また小さな男が見ゆと仰せられたる趣なり。
なにか御脳の働きにて後になり御記憶と実際と混同したる御感じありしにや。明らかならず。
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『原敬日記』総理大臣

1921年9月7日
松方正義に摂政問題の遺憾ながらやむを得ざること、東宮様〔昭和天皇〕の目下の御人気によるもこの際異論あるべしとも思わざれば、まず元老諸公の議論を固め、10月ともならば挙行しかるべしと提案し、松方もこれに同意す。
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『原敬日記』総理大臣

1921年9月13日
宮内大臣牧野伸顕は「発表の場合にはこれまでのように御快方なれども御静養を要すと言うのみにては判断に苦しむべしと思わるるにより、御少幼のころ御脳を御病みありて十分ならざりしに、御践祚の後は政務を親裁せられ御容態だんだんにおよろしからずとの趣旨を付する方可ならんかと思う」と言う。
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『四竈孝輔日記』侍従武官

今回は新宮内大臣の考えによりやや赤裸々に御容態を公表したる結果、常に大正陛下の御健康を案じ奉る忠誠の臣民に驚愕を与えたること激甚なりしものなるべし。
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『高松宮日記』

1921年10月4日
大正陛下御歩行にも補助を要せられ、御記憶力など減退にて、御良好とは拝し奉らずという御容態書発表になりたり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年10月5日
※倉富&枢密院顧問官清浦奎吾&枢密院顧問官曽我祐準の会話

清浦◆昨日宮内省より大正天皇の御容態を発表せしが用意足らず。新聞が号外を発行したるため人心を驚かしたり。自分は倶楽部におりたるが、そこにいる者は一同に驚きたり。これがため株式の相場も狂いたる様の事なり。自分らは内情を知りおるゆえ驚かざれども理由を説明する訳にもいかず。ともかく午後に発表したる事がよろしからず。
倉富◆号外を出す事は午後に発表しても午前に発表しても同じ事なり。
清浦◆それは異なる事なし。
曽我◆自分らも驚きたり。今朝の新聞には宮内次官の話の事も書きおりたり。かのごとく書けば事情は分かれども、何事も書かず突然号外を出したるゆえ人を驚かしたるなり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年10月5日
※宮内大臣牧野伸顕の発言

松方正義とともに御前に伺候し、摂政を置かるべきことを奏したるも、ついに御理解あらせられず。
まさに退かんとする時 松方を呼び止め給いたるも、御詞はまったく上奏に関係なきことなりしたり。
実に畏れ多きことなり。
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『牧野伸顕日記』内大臣

1921年11月22日
大正陛下に拝謁。
内大臣より言上に及びたるに、大正陛下にはただただアーアーと切り目切り目に仰せられ、御点頭あそばされたり。
宮内大臣は改めて念を押し奉伺したるに、やはりアーアーと御点頭せられたり。
臣子として実に堪えざることながら、恐れながら両人より言上の意味は御会得あそばされざりしよう我々両人共拝察し奉りたり。
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『四竈孝輔日記』侍従武官

1921年11月25日
ああ、なんたる発表ぞ。
この発表無くば世上 大正陛下の御病患はたして那辺に存ぜらるるやを憶測する者あらんも、この憶測は放任して可なり。
今や統治の大権施行を摂政宮様に托し給い、もっぱら御静養あらせ給わんとする大正陛下に対し、何の必要ありてこの発表を敢えてしたるか。
予はここに至りて牧野宮内大臣の人格を疑わざるを得ざるなり。
しかも今日の新聞のごときむやみに摂政宮様の御懿徳を賞揚し奉り、むしろ摂政宮様の御孝心を傷つけ奉りしもの多々あるべし。

侍従長正親町実正は御前にまかり出でて、摂政宮様に捧ぐべきをもって、御用の印籠御下げを願いたるに、さすがに大正陛下には快くお渡しなく、一度はこれを拒ませられたりと漏れ承る。
まことに恐懼の至りなり。
侍従武官長内山小二郎が御前に出でたるに、「先ほど侍従長がここにありし印を持ち去れり」と仰せありし由なり。
何とも申しあぐるに言葉を知らず。
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『四竈孝輔日記』侍従武官

1921年12月8日
大正陛下が「俺は別に身体が悪くないだろー」と何度も仰せられ、今日の御境遇まことにおいたわしき極みなり。
もっとも御自身には格別御病症御自覚あらせられざるものならん。
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『奈良武次日記』侍従武官長

1923年5月11日
朝拝謁の際、台湾より持ち帰れる新高飴および龍昭肉を献上す。
大正陛下は「あっちの人…」と仰せられつつ、別に何も賜らず。
やや緊張の御模様なりし。
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『奈良武次日記』侍従武官長

1923年5月12日
伏見宮博恭王拝謁の後に拝謁せしに、何も賜らず。
「お前の考えて、何か陛下に献上…」の御言葉あり。
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『奈良武次日記』侍従武官長

1923年5月17日
朝拝謁の際、何も賜らず。
「あっちの人にお前の考えを言ってくれ」と仰せられ、発音明瞭なりし。
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『四竈孝輔日記』侍従武官

1923年11月16日
昨日武官長より自分更迭のむね大正陛下に言上し御許可を願いたるに、例のごとく御領得ありし由なるをもって、今日の当番ぐらいあるいはいくぶんか御言葉その事に及ぶものなきや否やなど考えおりしも、ついに何事も仰せられず。
おそらくはなんら御了解なかりしなるべしと拝察せらる。
恐懼に堪えず。
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作家永井荷風 日記

1926年12月14日
夜銀座に行くに、号外売りしきりに街上を走るを見る。
大正陛下崩御の近きを報ずるものなるべし。
頃日の新聞朝夕、大正陛下の病況を報道すること精細を極む。
日々飲食物の分量および排泄物の如何を記述して、毫も憚るところなし。
今の世において我が国天子の崩御を国民に知らしむるにあたって、飲食糞尿の如何を発表するの必要ありや。
車夫下女の輩 号外を購い来て喋々喃々天子の病状を口にするに至っては、冒涜の罪これより大なるはなし。
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作家永井荷風 日記

1926年12月26日
※歌舞音曲を停止するよう公布があり、国民全体が大正天皇の諒闇に入る

吾妻橋を渡り自動車を降りるに、雷門外の灯火湧くがごとく、行人絡繹たり。
上野広小路を過ぎ万世橋にて諸氏と別れ、1人銀座に至る。
歳暮雑踏の光景毫も諒闇の気味なし。
銀座通りの夜店もまた例年のごとし。
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『本庄繁日記』侍従武官長

1934年2月
※昭和天皇の発言

先帝のことを申すは如何なれども、皇太子時代は極めて快活に元気であらせられ、伯母様の所へも身軽に行啓あらせられしに、天皇即位後は万事御窮屈にあらせられ、元来御弱き御体質なりしため、ついに御病気とならせられたるに、まことに畏れ多きことなり。
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■妻  貞明皇后 九条節子 九条道孝公爵の娘
1884-1951 66歳没


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佐々木高行『かざしの桜』明治天皇の娘昌子内親王と房子内親王の御養育係

1899年9月8日
※中山慶子の発言〔明治天皇の生母〕

九条家も範子さん〔貞明皇后の姉〕が未嫁の時はいろいろと運動し、東宮様〔大正天皇〕の御息所との望みありたる模様なれども、節子さんにてはとても叶わざるとて格別運動もせざると察せられ候。
望外の感ありしならん。
この度の義はすべて御表にての取り計いと存じられ候。
ただ丈夫と申すのみにても御繁生と申すことも受け合いはできず。
東宮様にもまだお祝いを申し上げないように言われている。
しかし東宮様が私に「橋本綱常から何か聞いていないか」としきりにお尋ねになるので困っている。
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『原敬日記』総理大臣

1920年8月10日
下田歌子来訪。
「大正皇后御選択の際 伊藤博文公爵の内命を受け御教育せし諸令姫中、第一に皇族方よりと詮議せられたるも、伏見宮令姫〔伏見宮禎子女王〕は適当と言う者ありたるも侍医橋本綱常御診察の結果御健康不適当となり、やむを得ず旧御摂家の中よりと詮議せられたるにより、自分は九条家は孝明皇后〔英照皇太后〕の御実家でもあり、その姫すなわち大正皇后は御幼少より御教育致せしに、別段優れたる御長所なきもまたなんらの御欠点もなきにつき然るべきかと伊藤公爵に内話し、橋本綱常御診察致し健康申し分なしということにて当時の東宮妃に御定理ありたる次第なれば、その後今日に至るまで畏れ多きことながら極めて御信用ありなにくれと言上しおり。
しかして東宮妃より皇后となられたる当時は如何にも御心労の御様子にて、皇后となられてお喜びかと思えばさにあらず、明治皇后〔昭憲皇太后〕賢明の御声聞高きにいかにしてその跡を継ぐべきやと御憂い御深かりし御様子なりしが、その御性格一変とも申し上ぐべく今日は立派なる国母とならせられ、また最近は大正陛下の御病気にていかにも御心痛あり、不幸にして御下問等に対すべき有力なる老女官もなきにつき、ついに自分を御召にあいなる次第なり。
迷信と申すことは如何なる方にも免がれざることにて、ひとたび迷信に入らるればこれを去ること難しきものなれば、むしろ過なきを期するには飯野吉三郎のごとき諸事楽観にてしかも敬神の念厚き者は間違いなかるべしと考え、その直感したる神意と申すべきものを言上しおれり。
また大正皇后常に仰せには、『世上のこと当局者より聞けば別段のことなきようなれども、いろいろ他の者より言上することあり。その真相を判断するに苦しむ』との御仰せあり」とて、例の大隈重信系や官僚系が政界もしくは政府のことにつき云々することを暗示せり。
「かくのごとき次第なれば、不肖ながら国家のためと思いいろいろ言上しおる」と言い、今日は初対面なるが時々必要の場合には来訪を約し去れり。
下田はとかく評のある婦人なれども、教育も十分ある人なれば、その言うところは誠実にしてもっともの次第なり。
いずれにしても宮中に賢明なる老女官にてもあらば、一層国家のためなるべしと思わざるを得ず。
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『原田熊雄日誌』西園寺公望の秘書

元老西園寺公望は「大正皇太后を非常に偉い方のように思ってあんまり信じすぎて、というか賢い方と思いい過ぎておるというか、賢い方だろうがとにかくやはり婦人のことであるから、その点はよほど考えて接しないと、昭和陛下との間で憂慮するようなことが起りはせんか。自分は心配しておる」と言った。
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『徳富蘆花日記』

1917年12月29日〔大正天皇の女官烏丸花子退職〕
烏丸花子〈初花の局〉が宮中を出たと新聞にある。
お妾の一人なんめり。
お節さん〔貞明皇后〕のイビリ出しだ。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

1913年頃、侍従長徳大寺実則の推薦で貞明皇后のお控えとして入ってきた美しい娘がいた。
彼女は先祖に大納言を持つ烏丸伯爵の娘で、代々権典侍の資格のある家柄であった。
小柄な娘であったが、その美しさは美人の多い女官の中でも、もちろん世間でもまれにみるほどであった。
丸顔で、眉が秀でていて、どこまでも冴えた二つの大きな美しい目を持っていた。
笑うとエクボが出た。
しかしそれほどの美人でいながら少しも剣がなかった。
彼女は権掌侍になり、初雪の局〔烏丸花子〕という源氏名をいただいた。

それから7年ほど経ったある日、私は私の家の主人筋にあたる岡山池田侯爵から不意に呼び出しを受けた。
「君からひとつ皇后宮大夫大森鍾一に伝えてもらいたいことがあるのでね、それで呼んだのだ。
『一人の女官が承知すれば無事に納まることだからよろしくお頼みする』と、ただそう言ってもらえばいいのだ。お願いしたよ」
それだけであった。
私はすぐ大森大夫の官邸に行って、池田侯爵の言葉を直々大森大夫に伝えた。
ところが大森大夫はいつになく狼狽した様子で𠮟りつけるように言った。
「この問題は君などが口を挟むことじゃない!引っ込んでいたまえ!」
私は呆然として引き下がるより仕方がなかった。
いろいろ考えてみたか、かいもく見当がつかない。
癪にも触るし、気も滅入る。
自宅に戻ると大森大夫から使いが来ていてすぐ来てくれと言う。
なにがなんだかわからないが、官邸に引き返して大森大夫の前に出ると、さっきとは打って変わって言葉である。
「先刻は失礼した。君の家は池田の家臣だったんだね。しかし烏丸権掌侍の問題にはちゃんとした証拠が挙がっているんだよ。これはどうしようもないのだ。一つこのことは絶対に秘密にして手を引いてもらえまいか」とさながら懇願する態度である。
私は手を引くも引かぬもない、ただ池田侯爵の言葉を伝えただけである。
もちろん私は承知した旨を述べて引き下がったが、烏丸権掌侍とは意外であった。
かえって秘密にされていた事件の内容に触れたことになってしまった。
翌朝早く不意に父が私を訪れてきた。
「烏丸さんの問題はよほど大事件らしい。お前ごとき身分では荷が重すぎる。早く手を引いた方がいい」
そう言って私が質問するのも恐れるかのように慌てて帰ってしまった。
池田侯爵の姉に当る人が烏丸権掌侍の兄のところに嫁に行っていたから、両家は親類であったのだ。

烏丸権掌侍は退官になった。
その後 縁続きの武者小路家に出入りしていた神官と結婚した。
おそらくその神官が灸点に詳しかったのであろう。
一時原宿で灸点をやって相当に流行っているということも聞いたが、近ごろ新聞に〈烏丸灸〉の広告が出ているのを見ると、やはり今も灸点師としてそれ相当の暮らしを立てているのだろう。
10年ぐらい前にある人から、
「縁談の世話をしようと思っているんだが、その娘さんは大正天皇の御落胤だという噂のある人でねえ」と言うので、
「それは烏丸さんの娘さんじゃないかね?」と言うと、
「そうなんだよ」と言うことであった。
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『高松宮日記』

1923年2月7日
夜、有栖川宮董子大妃御危篤の電報ありたり。
ことによっては帰らねばならぬかもしれぬ。
困ったことなり。

1923年2月8日
晩、牧野伸顕宮内大臣より喪主仰せつけらるること、帰京の日は後報という電報が来る。
やれやれ。
たぶん紀元節後ならん。

1923年2月9日
夜電報にて「帰京を要すれば18日の前」ということを報ず。
これによれば帰らずに済むかもしれないが、それでは変だ。
高松宮という称号は有栖川宮家の祭祀を継ぐためだ。
喪主という勅許を願っておきながら、ここにしまいまでいては変すぎる。

1923年2月10日
私としては喪主になった以上、帰京するを至当と思う旨、山内伝育官より官長に尋ねしむ。
夜、皇后宮属淡近澄、御母宮様の御親書もて来島。
帰京するようにとの仰せと思いのほか、意外のことにも帰らないようにと言うことで、非常にヒステリックになって書いておありになるので、私にはよく事が了解できなかったが、困ったことになった。
宮内大臣は帰るようにとの意見なるも、御母宮様はことごとく反対なさるらし。
官長も困りおるならん。

1923年2月12日
今朝大臣より有栖川宮の御辞退を理由として帰京せぬよう伝い来る。
義理の立たないことになって心苦しい。

1923年3月1日
官長から東京での様子を聞く。
宮内大臣は強く帰京を言い張り、御内儀ではどうしてもお許しなきこと想像の如く。
御母宮様〔貞明皇后〕が非常にヒステリックにおなりになっていたことも予想通りだった。
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『高松宮日記』

1929年3月30日
北白川宮様へ。
昭和皇后御参内になるから、おたた様〔貞明皇后〕との間が上出来のようにするなどお話して。

1929年10月26日
大宮御所より三里塚の薯などいただく。
石川別当がその御様子を申し上げぬから、御催促だろうと心配す。
あまりに大正皇太后〔貞明皇后〕にビクビクしすぎる。

1929年12月9日
侍従長鈴木貫太郎来談。
大宮御所と宮城との折り合い、融和に努めるべきむね話す。
かかることは侍従長のなすべきことならざるがごときも、今としては侍従長の仕事拡大せる以上、また侍従長として努めざるべからざることなりとは難しきことなり。
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『高松宮日記』

1937年8月15日
大正皇太后より派兵将士に氷砂糖を賜る由。
昭和皇后より負傷病兵に包帯等を賜る恒例に対し、氷砂糖はもっと広範囲になり釣り合い上いかがなものか。
いただく方では昭和皇后と大正皇太后と区別はないわけであるが、内輪で見るとちょっとどうかなり。
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『高松宮日記』

1941年8月6日
大正皇太后防空の御避難所はじめ日光の予定なりしところ、大正皇太后お気にいらず先日御参内の時に昭和陛下と御話あり。
寒いのはイヤという思召もあり、例の調子にて大正皇太后おひねくれからか昭和陛下もお困りにて、防衛司令部の考えにては日光第一なるも、宮ノ下でもよく沼津でもまずよろしとのことにて、その後沼津ならよろしとのことになる。
何かあると語気の具合で変になり、昭和陛下また余計に御心配になる。
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*貞明皇后は自分と同じ誕生日の二男秩父宮を溺愛した。

*三男高松宮より10歳年下の四男生まれてからは末っ子三笠宮を溺愛した。


●迪宮裕仁親王 昭和天皇 久邇宮良子女王と結婚
●淳宮雍仁親王 秩父宮  会津藩主松平容保の孫/外務官僚松平恒雄の娘松平勢津子と結婚
●光宮宣仁親王 高松宮  将軍徳川慶喜の孫/徳川慶久公爵の娘徳川喜久子と結婚
●澄宮崇仁親王 三笠宮  高木正得子爵の娘高木百合子と結婚


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『ベルツの日記』

*昭和天皇・秩父宮・高松宮は川村純義伯爵邸で養育された

1901年9月16日
川村純義伯爵の所へ。
この70歳にもなろうという老提督が東宮〔大正天皇〕の皇子をお預かりしている。
なんと奇妙な話であろう。
このような幼い皇子を両親から引き離して他人の手に託するという不自然で残酷な風習はもう廃止されるものと期待していた。
両親の宮〔大正天皇夫妻〕は毎月数回、わずかな時間だけ皇子にお会いになる。
自分が聞かされた理由なるものはすべて根拠がない。
例えば妃の側近には子供について何も知らない老嬢・女官しかいないからだと言うのだ。
それならなぜ既婚の婦人をお付きに置かないのだ。
また東京の勤め人の妻である乳母が来ているのだし、赤十字の老練な看護婦が2~3人詰め切っているうえ、侍医も毎日幼い皇子を見舞っているではないか。
まったくバカげている。
どうして他の多くの場合と同様に、ドイツやイギリスの王室に範をとらないのか。
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『ベルツの日記』

1905年3月31日
東宮〔大正天皇〕から皇子たち〔昭和天皇・秩父宮・高松宮〕を見てほしいとのこと。
ただし病気のためではなく、皇子たちは芯から丈夫である。
東宮の皇子たちに対する父親としての満悦ぶりには胸をうたれる。
まず先日拝見したばかりの一番末の皇子〔高松宮〕を見舞う。
生後80日にしては立派な体格・見事な発育で、お母さん似だ。
上の二人の皇子は現在4歳と2歳半になるが、長男の皇子〔昭和天皇〕は穏やかな音声と静かな挙止とで非常に可愛らしく優しいところがある。
二男の皇子〔秩父宮〕はいっそうお母さん似で、すこぶる活発で元気だ。
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■迎賓館赤坂離宮 1909年竣工 地上二階・地下一階 延床面積1万5千平米 設計:片山東熊

大正天皇の東宮御所として造られたが、完成に10年もかかり、当初250万円の予算が510万円になった。
明治天皇には「贅沢だ」と言われ、大正天皇には「使い勝手が悪い」と言われ、昭和天皇には「人の住む所ではない」と言われ、迎賓館となった。

正面はネオ・バロック様式
1026


背面はルネサンス様式
1025


中央階段
1022(1)


『朝日の間』古典主義様式
60坪の部屋に大きな楕円形の天井画が特徴。
「朝日の間は第一客室にして、天井には大油絵を貼り、旭日の朝霞に神女が玉馬に鞭ち香車を駆るの図にして国運隆昌の意を表彰す」
1009


『彩鸞の間』アンピール様式
48坪の部屋に10枚の鏡が特徴。
「彩鸞の間は第二客室にして、天井は石膏の飾型にして上壁には金箔をもって金鸞を彩飾し、壁間10カ所には大型の鏡を装箔せり。暖炉は2カ所に設けられ、吊燭は3個にして大1個中2個を吊りたり」
1010


『花鳥の間』アンリ2世様式
公式晩餐会が催される。
天井画36枚と壁面30枚の七宝焼が特徴。
「花鳥の間はすなわち饗宴の間は多数の貴賓を御饗応あらせらるべき所にして、天井は格天井にして花鳥の油絵36枚を貼り込み、壁には七宝細工の額30枚を箔飾せり」
1012


『羽衣の間』古典主義様式
舞踏会場として使えるようにオーケストラボックスがある。
「羽衣の間は饗宴の際に音楽踏舞を催さるる所の広間なり」
1014


「東の間」ムーリッシュ様式
喫煙室。
1013



■熱海御用邸 静岡県熱海市 1889年設置 3,300坪
皇太子時代の大正天皇の避寒のために建てられた御用邸
三菱から献上された土地
9013



■沼津御用邸 静岡県沼津市 1893年設置 敷地3万1,737坪・建坪2,340坪
皇太子時代の大正天皇のために建てられた御用邸
川村純義伯爵の別荘を買い上げた
9011


9012


西付属邸車寄せ
9006



■葉山御用邸 神奈川県三浦郡葉山町
1894年英照皇太后の避寒のために三宮錫馬男爵家の土地と洋館を買い上げて造られたが、1896年皇太子時代の大正天皇のためにさらに隣接する和歌山徳川茂承別荘を買い上げ、敷地3万6千坪・建物2,500坪となる。
東京から近く、海軍の拠点でもある横須賀にも近いため、日本のヴェルサイユとして「小さな皇居」にするという目的があった。
1001



■日光田母沢御用邸 栃木県日光市 1899年設置 床面積2,500坪
皇太子時代の大正天皇ために建てられた御用邸
実業家小林年保の別荘を買い上げる
9000


9010


1004



■塩原御用邸 栃木県那須塩原市 1905年設置 1万5,500坪
皇太子時代の大正天皇のために建てられた御用邸
三島通庸子爵の別荘を買い上げる
9018



■即位の礼 1915年
0006


0007


0008


0002


0005



■大喪の礼 1927年 
19898033

◆123代 大正天皇/嘉仁親王 122代明治天皇の子
1879-1926 47歳没


1900年
0105


1912年 撮影:丸木利陽
0106


1912年 撮影:丸木利陽
0107


1915年
0108


0008



0005


1919年
19190001


左から 男性・山県有朋・大正天皇・桂太郎・男性
19270102





■妻 貞明皇后 九条道孝公爵の娘九条節子 
1884-1951 66歳没


1900年
0202


0203


0213


0201


0214


1916年
0215


1931年
19310001



*貞明皇后は自分と同じ誕生日の二男秩父宮を溺愛した。

*三男高松宮より10歳年下の四男生まれてからは末っ子三笠宮を溺愛した。


●迪宮裕仁親王 昭和天皇
●淳宮雍仁親王 秩父宮
●光宮宣仁親王 高松宮
●澄宮崇仁親王 三笠宮


貞明皇后と昭和天皇
0007


1921年 四兄弟 左から 昭和天皇・三笠宮・高松宮・秩父宮
19210001


1921年 左から 高松宮・貞明皇后・秩父宮・昭和天皇
1013


1925年 左から 昭和天皇・貞明皇后・秩父宮・高松宮
1014


1947年 黒いドレス:貞明皇后 白いドレス:香淳皇后 馬車に昭和天皇
19470001

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