直球和館

2025年

2001/04

◆124代 昭和天皇 迪宮裕仁親王  123代大正天皇の長男
1901-1989 87歳没


■妻  香淳皇后  久邇宮良子女王 久邇宮邦彦王の娘
1903-2000 97歳没


●継宮 明仁親王  125代平成天皇
●義宮 正仁親王  常陸宮

●照宮 成子内親王 東久邇盛厚王と結婚
●久宮 祐子内親王 早逝
●孝宮 和子内親王 鷹司平通と結婚
●順宮 厚子内親王 池田隆政と結婚
●清宮 貴子内親王 島津久永と結婚


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昭和天皇の娘 厚子内親王→池田厚子

父陛下の第四皇女として生まれ、今ここにこうしております私自身について 思いをめぐらせてみますと、必ず一つの問いかけに行きあたりますように思えます。
「天皇陛下をお父上にもたれるというのはどのようなものですか?」
このようなご質問こそが、世の中の皆様方が私どもに向けられます一番のお問いかけではなかったでしょうか。
客観的に考えましたら、皇室に生まれますことはかなり特殊なことに違いありません。
けれどもそう申し上げますと皆様方なにか拍子抜けなさいますことが多いのですが、天皇陛下を父といたしましたことにつきましては、意識せずに育ったというのが私自身の本当のところでございました。
東宮様を含めて7人の兄妹は全員皇居の中の、焼けてしまって今はない御静養室で生まれました。
そして皇子御殿で幼年時代を過ごしました後、学習院初等科に入学してから結婚までの時期は、早くに亡くなりました姉東久邇成子・まるで父陛下の後を慕われるようにして亡くなってしまった姉鷹司和子・妹の島津貴子・それに私を加えました四人の姉妹は、呉竹寮と呼ばれます別棟で暮らしておりました。
呉竹寮では私たちはそれぞれ和室を使い、そこで勉強しておりました。
他に御遊戯室や食堂・寝室がありました。
御遊戯室は遊べるように板の間になっていて、ピンポン台や肋木がありました。
またピアノも置いてありました。
毎週土曜日に母陛下が、公務や御研究などがおありにならない時は父陛下も御一緒に呉竹寮においでくださいました。
母陛下は私たちのピアノのお稽古や勉強を見て下さいました。
裏山にアヒルを出し、子供たちみんなで追いかけたこともございます。
父陛下は側でそれをニコニコして御覧になっておられました。
また今は焼けた皇子御殿の縁側でウサギを抱いたこともございます。
鬼ごっこをして父陛下が鬼になられたことも。
竹藪でタケノコ掘りもいたしました。

日曜日昼間は子供たちみんなで、水曜日に姉妹が御夕食に皇居に伺いました。
これは結婚するまで続きました。
水曜日には御夕食を御一緒しながらいろいろ御話をいたしました。
父陛下は音楽は特に御好きでなかったようですが、それでも「今日はよっちゃんはピアノは何を弾いたのか?」と御聞きになりました事がございます。
「順宮」(よりのみや)が私の称号でしたので、両陛下は私を「よっちゃん」と御呼びになっておられました。
学校の御話もいたしました。
料理を習うようになってからは、それを持って行くと喜んで召し上がってくださいました。

那須の御用邸で御過しになられている時など、お外に御散歩に出られてゆっくりゆっくり植物の採集をなさって、それは楽しんで御歩きになっておられました。
御一緒に歩いて植物の名を色々伺いました。
父陛下の御影響なのか、私はカイコやいろいろな虫が大好きで、学生時代にはよく飼いました。

戦前には夏休みを葉山の付属邸で過ごしましたので、御採集に御出かけになる時はよく御誘いいただき、磯の岩場で御一緒にウミウシの採集をいたしました。
父陛下は泳ぐのが御上手でいらっしゃいまして、私にも「大丈夫だから泳いでごらんなさい」とおっしゃってずいぶん励ましてくださったのですが、私は怖がりでなかなかできませんでした。
少し離れた両陛下がお住まいの御用邸に御食事に伺いますと、必ず「今日は何メートル泳いだの?」御尋になります。
その励ましに一生懸命練習いたしました。

父陛下が大演習にいらした時には、必ず御土産をいただきました。
いらした先々の名産が多かったように思います。
今でも津軽塗の小ダンスを大切に使わせていただいております。

このように小さい頃から思い出はどれをとっても平穏そのもののようなばかりだったように思えるのですが、幼かった私などには到底知り得ないところで実は日本の国が大変な時代へと向かっていた時代だったのだと、これはずっと後になって知ったことです。
昭和11年二二六事件の当日、当時5歳の私はたまたま葉山の御用邸におりました。
雪がたくさん積もって、葉山の海の沖に軍艦が見えたのをはっきりと覚えています。
子供心になにかとても不思議な感じがして、何かあったのだろうかと漠然と思ったような記憶があります。

昭和16年太平洋戦争開戦のニュースを聞いたのは東京でした。
戦争中の疎開先は、東宮様・常陸宮様の御二方は日光へ、姉妹三人は塩原へというように別でございました。
塩原では御用邸から車で塩湧橋まで行き、そこから山道を20分ほど歩いて学校となっている旅館に通っておりました。
姉鷹司和子は体操や音楽を私たちと一緒に習う他、個人教授を受けておりました。
吹雪の時など御用邸から歩いて学校に通うのはなかなか大変で、吹雪の中を一生懸命歩いたものです

足が丈夫になったのもそのためだったのでしょう。
塩原に疎開しております間には、父陛下から時折 御手紙をいただいておりました。
こちらからもお出ししましたが、しっかり勉強していますと書いてお送りしたように記憶しております。
昭和20年8月15日終戦についての父陛下のラジオの御放送を聞いたのは疎開先の塩原でした。
9月になって父陛下とマッカーサー元帥が並んで写っておられます写真の載った新聞を見たの塩原でした。

長かった戦争のあと兄妹たちがそれぞれの疎開先から戻り、久しぶりに両陛下と御一緒に家族が揃ってテーブルクロスのかけられた長方形の食卓を囲んでおります写真が一葉私の手元にございます。
両陛下ともまだお若くていらっしゃいまして、おうれしそうに笑っていらっしゃるのが印象的な写真です。
父陛下は戦争で焼けた後は皇居の中の吹上御苑と呼ばれているところにある頑丈な防空建設に、昭和36年今吹上御所が新築されるまで住まっておられました。
終戦後だんだんと呉竹寮の中の空気も自由になってきて、学校からいただいた成績表を自分で持って行って父陛下にお見せしたりもしておりました。
その度にまたしっかり勉強なさいといつも励ましてくださいました。
ただ一度英語の成績が悪かった時、
「バイニング先生に習っているのにどうしてこんな成績を取ったのか?」とおっしゃった時は一言もありませんでした。
中等科の終り頃高等科の進路を決めるのに、学科の中では理科が好きだったので理科に進みましたが、父陛下は「女は家政科に行った方がよいよ」とおっしゃっておられました。
その事が忘れられなかったのでしょうか、短大では家庭生活科に入りたいと思いました。
私が学習院短大に進みます年にはまだ家庭生活科ができておりませんで、先生が「家庭生活科に行きたいのなら国文科からでないと転科できない」とおっしゃったので、1年のとき国文科に入り、2年のとき家庭生活科に転科いたしました。
家庭生活科では食品科学や栄養学などを勉強いたしました。
食物について一通り勉強したので、後々は少しはタメになったような気がいたします。

学習院短大の2年に進みました春、結婚の御話が持ち上がりました。
お相手は旧岡山藩主池田宣政様ご長男隆政様でした。
隆政様は私より5つ年上。
岡山市の西端、京山と呼ばれる小高い丘の中腹に牧場を経営する若き牧場長さんでした。
お背がお高くよく日に焼けていらして、「背広姿より作業姿がよく似合う」と何かの記事に書かれていたような記憶があります。
この縁談は何よりもまず父陛下の希望でした。
父陛下は「前から皇族または元皇族が一人か二人は地方に行った方が良いと思っていました」とおっしゃいました。
それは斎王になられた伊勢の倭姫の皇族の歴史があるからです。
婚約が整いましてからは、隆政さんは岡山の牧場から時々上京していらして呉竹寮をお訪ねくださり、楽しいひと時を過ごしました。
ところが御話が進められている一方で、貞明皇后がお亡くなりになるという不幸がございました。
貞明皇后は私にとりまして御祖母宮様で、大変可愛がっていただきました。
御話を御聞きになった二日後に亡くなられました。
後で女官から御喜びになっていたことを聞きました。
大変残念でございました

結婚式は宮中喪の明けた翌年10月10日と決まりました。
式は東京芝高輪の光輪閣で行われることになっておりました。
式の時の衣装は、古式の亀甲・地紋の小袿・臙脂の袴、これは母陛下の物を拝借いたしました。
髪はカツラのおすべらかし。
お雛様を思い浮かべていただくのが一番わかりやすいと思います。
このお着付の御指図は、母陛下が御自身でなさってくださいました。
結婚式の前から父陛下は御風邪を御引きになっていらっしゃいました。
結婚式の当日はだいぶ良くなっていらして御出席になれたのですが、父陛下は結婚式の後に大使の認証式を控えていらっしゃるので、御無理をなさらない方が良いとのことでした。
それを聞いて一時は悲しかったのですが、冷静になって考えてみれば本当にそうだと納得いたしました。
私は初めて父陛下は私の父親であると同時に、日本という御国の天皇陛下でいらっしゃるということをしみじみと感じました。
御文庫を出ます前に父陛下の部屋にご挨拶に伺いました
池田へ嫁ぎ一週間後に岡山へ奥に入りしました
それからはどちらの奥様方もなさいますのと変わらない家庭の中の仕事で終始いたしまして、平和で幸福なものでございました。
夫は大の動物好きで、動物好きが高じて始めた仕事でございました。
日曜日もない仕事ですが、私自身も動物は好きな方ですので、小鳥の世話を手伝ったり犬を飼ったりして楽しんでおりました、
母陛下からいただいたピアノを時折弾いてみることもありました。

昭和38年、岡山で平穏無事に暮らしておりました私の身に異変が起こりました。
食欲もないので夏負けかしらと思い、検診の日なので病院に行きました。
診察していただいたら熱も39度を越していることがわかり、岡山大学付属病院にそのまま入院いたしました。
熱があると知らなかったのですから、先生の方がびっくりしておられました。
敗血症であったことを退院の後知りました。
父陛下の第二皇女になります方が生まれて数ヶ月で敗血症で亡くなっておりましたので、父陛下にどうお話ししようかと思われたそうです。
娘の病名を遠く離れた東京で御聞きになられた両陛下は、さぞかし御胸を御痛くださったのでしょう、翌月には御召列車で岡山に御越しになり、私の病室を御見舞くださいました。
本当に嬉しゅうございました。
先生方をはじめ・婦長さん・お世話してくださっている方々・そして夫の隆政にも、
父陛下は「お世話になっています。今後ともよろしくお願いします」と丁寧に御挨拶なさって帰られたと、後から周囲の人たちから聞きました。
父陛下の深い愛情を身にしみて感じながら闘病生活を送りました。
8ヶ月の闘病生活を送ることになってしまいました。
皆さまのお力で治癒し、数カ月後の後遺症も乗り越え、退院後の静養に両陛下のいらっしゃる那須の御用邸で過ごし、久しぶりにおいしい朝食もいただき、散歩も御一緒しました。
お二人は私の全快を心から御喜びになっておられました。
御散歩の時には植物を見ながらゆっくりを歩きになりますので、合わせているとこちらの方が疲れてしまいます。
「先に行ってもいいよ」とおっしゃってくださるので、「お先に行かせていただきます」と申し上げお先に歩きお待ちしていました。

父陛下は私心のおありにならない方でした。
そういう御性格でいらっしゃいますので、御身回りにお仕えする侍従さん達に向かって御怒になったりされたことはなく、ユーモラスにおかわしになっていらした御様子です。
子供のころ食後すぐ相手をしてもらおうと侍従さんを呼びに行こうとすると、
「一服してからにしておやり」と必ずおっしゃいました。
思いやりがなければいけない、そして自分の楽しみよりも相手の気持ちを察してやれと教えていただいたように思います。
また父陛下は母陛下に対してもとても御優しくていらっしゃいまして、どこかを御一緒に御歩きになっている時も、必ず母陛下の方を御ふり返りになって御心をおかけになっておられました。
テレビなどでそうした御二人の御様子を拝見する度に、ああ、いい御夫婦でいらっしゃるのだなと微笑ましく思っておりました。
陛下は本当に母陛下を御大事にしておあげになっていらっしゃいました。

父陛下が御病床につかれましてからは、鷹司の姉と島津の妹と女のきょうだい3人が電話で相談し、大勢で行ってパッと帰るとおさみしいだろうからと、一人ずつかわりばんこに御見舞することにいたしました。
今改めて指を折ってみますと、二十数回にもなりましょうか。
父陛下の方から御手をお出しになったり、私の方から御手をお握りしておりましたが、長い御闘病の間に少しずつ御弱りなっていかれるのが目に見え、帰る車の中で涙を流しました。
生きている方が悲しゅうございました。
朝目が覚めると、いつも祈るような気持ちでテレビをつけておらりました。

1989年1月7日の早朝、東京のホテルに待機しておりました私の所に御危篤の知らせがございました。
午前6時過ぎに吹上御所に入り御寝室に伺いますと、ひっそりとただただ御静かに御休になられているだけのように見えます父陛下のベッドの周りに、東宮様御夫妻(平成天皇皇后)をはじめ、浩宮・礼宮・紀宮・皇族の皆様方がお集まりになっていらっしゃいます。
私は父陛下の御ベッドの御足の方におりました。
午後6時33分、父陛下にとりまして最も身近でいらっしゃいます皆様方の見守られる中で、父陛下は息を御引取りになりました。
父陛下が吹上御所で御病床におつきになりましてから、ちょうど111日という日々が過ぎておりました。
本当によく頑張って下さいました。
その間に私たちの誰もがそれぞれの胸の内にそれぞれの覚悟を決めて、父陛下の御最期をお見守り申し上げることができたかと思います。
父陛下の御顔はとても静かで穏やかにまるで御眠りになっていらっしゃいますような、とてもいい御顔でございました。
どうぞどうぞ安らかに御休みなさってくださいませと、私もまたその時かねてよりの覚悟のうちに心の中で父陛下に最後の別れを申し上げ、深く深く頭を下げました。
御最期の瞬間までおさすり申し上げていた父陛下の御足は大変に温かでございました。
御手も御足も最後まで御柔く温かでいらっしゃいまして、最後の温もりはきっといつまでも忘れないことでございましょう。
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◆124代 昭和天皇 迪宮裕仁親王  123代大正天皇の長男
1901-1989 87歳没


■妻  香淳皇后  久邇宮良子女王 久邇宮邦彦王の娘
1903-2000 97歳没


●継宮 明仁親王  125代平成天皇
●義宮 正仁親王  常陸宮

●照宮 成子内親王 東久邇盛厚王と結婚
●久宮 祐子内親王 早逝
●孝宮 和子内親王 鷹司平通と結婚
●順宮 厚子内親王 池田隆政と結婚
●清宮 貴子内親王 島津久永と結婚


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昭和天皇の孫・成子内親王&東久邇宮盛厚王の子
長男 東久邇信彦
二男 東久邇秀彦→壬生基博

東久邇◆我々の場合、相手に対する呼び方によって聞いている人はどの程度の親しさかわかる。呼び方が違いますから。名前にちゃん付けにする人がいた一番親しい。
壬生◆「信ちゃん」
東久邇◆「信ちゃん」と呼ばれるのは、今の(平成)天皇皇后両陛下。それからうちの父の友人。亡くなられた陛下(昭和天皇)は信彦・秀彦とそのまま呼ばれることもありましたし、信ちゃん・秀ちゃんと呼ばれることもありました。
壬生◆私は壬生家に養子に行って、名前が「秀彦」から「基博」になったわけですが、陛下(昭和天皇)のところに最初にご挨拶に伺った時、陛下が「これからも秀ちゃんでいいか?」と(笑)今の陛下(平成天皇)は気を遣ってくださって、「壬生さん」なんて言われてますけどね。


東久邇◆お正月は1日に宮殿にご挨拶に上がることになっておりました。何段階かありましてね。二十歳を過ぎると1日、それ以下は3日。青年組と未成年組がありまして、学齢期に達すると未成年組に入れました。
壬生◆未成年組だけで御祝膳があります。御献立は御雑煮と蛤の吸い物、小串は紅鮭の照り焼き、〈あさあさ〉と言って大根の塩漬け、それに菱花びらです。
東久邇◆御雑煮は丸餅でおすましで、鴨の肉と里芋が入っていて、大変おいしんです。昔は何回でもおかわりができました。
壬生◆菱花びらは白いお餅の中に小豆餅があって、それにゴボウをはさんで半円形に折ってある。ゴボウは剣・小豆餅は勾玉・白いお餅が鏡、いわゆる三種の神器の形をとっているようです。
東久邇◆成年組になりますと雉子酒がつきます。雉子酒は雉子の切り身を杯に入れてお酒をいただきます。
壬生◆子供の頃は我が家では蛤のスープをわざわざ銀の徳利に入れて、「お真似で」と言ってお椀についでもらう。だんだんと年齢が上がってくると本物のお酒になって、飲ませてもらえるようになりました。


東久邇◆小さい頃は母と一緒に吹上御所に伺うと、御座所の机の上に漫画の本を置いて下さっていました。我々は遊びに飽きると漫画の本を読ませていただいていました。それで我々は陛下も漫画がお好きだと思っていました。
壬生◆我々が伺った時にどうせ飽きるだろうからという御配慮で漫画を用意していただいていたわけなのです。しかし我々は勝手に陛下も漫画がお好きだと思い込んでしまい、陛下の御誕生日に漫画をバースデープレゼントに差し上げたこともありました。あれは今から思うと大いなる誤解ではなかったかと(笑)今から思うとそういうことがずいぶんたくさんあったのではないかと恐縮しております。


壬生◆小さい頃 吹上の御所に呼んでいただいた時には、トランプやカルタをさせていただいたりしました。
東久邇◆皇后陛下は百人一首が大変お好きでした。
壬生◆陛下は百人一首はなさいませんでした。百人一首というのは色恋の歌が多いからだそうです。陛下がなさるのは〈お能カルタ〉したがって、陛下が御一緒にいただける時は〈お能カルタ〉皇后陛下が御一緒いただける時は百人一首をよくやりました。
壬生◆〈お能カルタ〉の時、陛下が必ず御取りになる札というのがあります。みんな暗黙の了解をしていたのだと思いますが、「皇帝」という札でした。


壬生◆陛下は将棋が強くすごく御強かったです。私と弟の直彦とで、陛下が飛車角落ちで差してくださっても勝てませんでした。
東久邇◆トランプもしました。
壬生◆トランプは51とかブリッジ。たくさん人がいるときセブンブリッジ。麻雀もしましたね。麻雀は本当にオーソドックスなルールです。
東久邇◆皇太子殿下(平成天皇)や常陸宮様も麻雀をされました。


壬生◆天皇陛下の孫であるということを私が本当に意識したのはいつの段階だったんだろうと考えてみますと、私の場合は母親が死んだ時だったんではないかと思います。母親が亡くなったのは私が小学校6年生の時でした。それまでは陛下は本当に身近に感じていまして、特別なことは全然感じていませんでした。母親が死んだ時、まず世の中の反響の大きさに驚かされました。テレビでも新聞でも連日連夜のように報道される。ついでに自分たちのことも書かれる。なるほど自分は陛下の孫という立場にいるのだなと認識したわけです。
東久邇◆それは私も同感です。小さい時には本当に一般の家庭のお祖父様・お祖母様と同じで子供思いで、孫を可愛いと思ってくださるという風にね。もっとも小さい時分でも、御座所の中でピョンピョン跳ねたりするわきまえないところはあったものの、一方でお祖父様だからといって首に抱きつくとかねおねだりするとか、そういうのはしてはならないことと我々も心得ていたつもりでした。
壬生◆陛下は我々にとってもちろん祖父であられて、と言ってただのお祖父様さまじゃなくて、やっぱり非常に尊敬に値する、かつすべてについて非常にお心を遣ってくださるそういう存在でした。


壬生◆陛下の第一皇女として育った母が、東久邇家に降嫁したのが16歳。学習院を卒業してすぐのことだと思います。その母が子供が4人生まれてもう1人がお腹にいる時に、通信教育で勉強をしていた記憶があります。上の二人の子供と一緒に一生懸命大学の資格を取るための一般教養を勉強しているのですから、今から思えば母は本当に勉強したかったんだろうと思いますね。
東久邇◆相当頑張り屋でしたね。
壬生◆それでなくてもうちの母親はずいぶん苦労したと思います。
東久邇◆今まで世間を知らない人が世間の荒波におっぽり出されているわけですからね。本当に一からね。お金もいじったことがないのに、お金の価値観とかそういうところから始めているわけですから、並大抵の苦労じゃなかったと思います。
壬生◆相当の落差だと想像します。時代が変わって、その中で兄妹5人、私みたいなわんぱくの限りを尽くしている人間を育てながら、なおかつ努力も。私が言うのも変ですけれど、今から思うと母は立派だったと思います。
東久邇◆臣籍降嫁とか敗戦とかあって、今までの立場と全然違うわけですからね。うちの父もそうだったのかもしれませんけれど、母親の方がギャップはもっと大きかったと思います。
壬生◆亡くなった時は35歳でした。私が小学校6年生の時。
東久邇◆ただうちの場合母親が降嫁したということもあって、いろいろなことにこだわらないで済んだというところはあります。「おもうさま」とか「おたたさま」とかいった皇室用語ではなくて、早くからうちはパパ・ママとなっておりました。学校も学習院ではなくて、僕が受けたのは青山と慶応、どっちも家に近いという理由です。うちの父の弟も慶応で、私も最終的には慶応。上の妹は東洋英和。ところが女子だけの学校はというので、下の妹を含め兄妹5人のうち4人までが慶應に行きました。その辺は全く自由選択でした。


壬生◆母が生きている頃は、陛下は毎年母の誕生日に我々の麻布の家に来られました。当時の皇太子様(平成天皇)をはじめとして、母親の御兄妹の皆様がお集りくださいましたね。
壬生◆毎年我々子供は挨拶が済むと裏の方に追いやられておりましたが。前日頃から母親は大変で、私どもも手伝わされたことを記憶しています。
東久邇◆豚御飯というメニューがありまして、中国風の豚の炊き込み御飯に椎茸でとった出汁のスープをかけて、それにいろんな具、椎茸とか玉子とかミカンの刻んだものとか、そういうのを加えて食べるのですが、それがよく出たのを覚えております。海老をパンで包んで串揚げにしたのもありました。うちの母親は割と中華料理も得意でした。
壬生◆娘の誕生日にそうやって内輪の集まりをしているような場合でも、陛下は御帰の時間を延ばされることを非常に気にされていらっしゃいました。普通であれば娘の家に行っているんだから皆で賑やかにやって急いで帰る必要なんてないでしょう。けれども陛下の場合はその間警護の警官がずっと立っているわけですから、あらかじめ時間も決まっています。延長となると5分とか10分とかの単位で陛下はずっと気にされていらして、30分なんてとても難しく、そういう細かいところまで配慮されていらした。
東久邇◆確かに陛下はそういうところを非常に配慮されていらっしゃいました。私は「いろんなところを御覧になったらいかがですか。デパートとか展覧会とか」と申し上げたことがあるのですが、陛下としてはいらっしゃりたいんだけれども、いらっしゃるには警官の人がまず配置される。そういう人たちが気の毒だから、あえてねと。
壬生◆ある意味で葛藤がおありだったのではないかと思います。
東久邇◆そういう風に周りの方に配慮されて、神経が細やかと言うか繊細であられた。陛下御自身は自由なことをなさろうと思っても、御立場を考えられなさらなかった。何かを見たいとか誰かに会いたいと思ってもスケジュールがみんな入っているわけですし、陛下御自身が公人である以上自由な行動が自然と制限された形となってしまいますし、他に及ぼす影響とかバランスを御考になられたと思います。自分が社会に出ていろんなストレスが溜まりますと、陛下はどういう風にしてストレスを解消されてたのかなと考える時があります。一つは御研究に没頭されたことではなかったかと。陛下にとっての御研究はその間は何も考えないで熱中できる時間だったのではないかと思いますね。


壬生◆陛下は大変家族思いでいらっしゃいました。私が小学校5年生だった頃から母親は病気で入院しておりました。病名がガンだとわかり、治るのが難しい状況になりました。
東久邇◆本来なら外の病院で過ごすところ、両陛下がしょっちゅう御見舞にいらっしゃりたいという御気持がおありになったのでしょう。陛下の思召で母親は国立病院から宮内庁病院に移りました。当初からダメだというのはわかっていました。もちろん母には病状は知らせていなかったし、母もそれをわかっていなかったと思います。
壬生◆毎週土曜日に宮内庁病院に見舞いに行くことになっていました。土曜日は半ドンでしたから、学校が終わって昼頃に宮内庁病院に行きます。すると必ず陛下から御届いただいたサンドイッチがありました。私がお腹を空かせて母の所にやって来るというのは陛下はわかっていらっしゃったのだと思います。それで私は毎週母の病院でサンドイッチを食べて、迎えに来た父に連れられて帰るというパターンを繰り返しておりました。
東久邇◆もうだめだというのがわかっている娘を近くに移されて、両陛下は毎日のように食事を運ばれて、しょっちゅう御見舞にお見えいただきました。母の臨終のとき昭和皇后は最後まで手を握っていらっしゃって、昭和陛下も御側で看取られておられました。
壬生◆母が息を引き取った時、陛下が「どうもありがとう」ってポツリと言われたのがね、ずっと私の記憶の底にに焼き付いていて。大人になって考えると最後まで手を尽くされた完了された侍医さんや看護婦さんに対してそういう風に言われたということなんでしょうけれど、死んでいった母の病床に付き添っていた全員に対してそう言われたのかではないかと。実際にはわかりませんけれど、陛下のその御言葉が非常に印象に残っております。
東久邇◆私は母が亡くなってから陛下は急に白髪が目立たれたような気がしましたけれど、娘に先立たれるというのはどれほどの思いでいらしたのかとね。
壬生◆陛下は子供や孫に対して本当に愛情の深い方でしたね。岡山に降嫁された池田厚子さんが御病気をされた時は、陛下は毎日のように侍従から病状の報告を御受になられていらっしゃいました。たぶんうちの母親の時も、毎日こういう風に病状を報告させていらしたんだろうなと思いました。毎日必ずというところが陛下のらしさではないかと思います。


壬生◆陛下の御心遣で5月の節句だったら柏餅とかちまきとか、折々にいろんなものを御届けいただきました。クリスマスの時も大善が作ったターキーとか、いろいろな料理を頂戴しました。
東久邇◆それも母親が亡くなってからのことだと思います。
壬生◆子供たちにいいような映画が来た時は必ず呼んでいただいて、ディズニーの映画とか御所の中で試写会みたいにして観たことを覚えております。
東久邇◆陛下も御一緒で、侍従さんたちも含めて20人ぐらいで。映画会はたいてい夜でした。


東久邇◆我々はずいぶん早く母親を亡くして、それから父も亡くしましたから、両陛下には我々のことをいろいろと御心配いただきました。我々に何か起これば、どういう形でかそれか陛下の耳に入る。すると御心配なさって、「御心配のあまり御熱を出されましたよ」というようなことを、周りの方々から何度か聞かされました。
壬生◆陛下は我々兄妹を大変不憫に思われていたんだろうと思います。それまでは母と一緒に那須の御用邸に伺ったのは一度か二度ぐらいしかありませんでした。それが母親が亡くなったその年の夏から毎年那須の御用邸に御呼いただいて、1週間か2週間ぐらい御一緒に過ごさせていただきました。母親とお尋ねした頃は付属邸に泊まらせていただきましたが、あの時以降ずっと御本邸に泊めていただいておりました。
東久邇◆陛下と同じ棟ですね。
壬生◆朝食だけは両陛下お二人でなさって、あとは昼も夜もずっと御一緒で。私たちは朝早く起きて勉強宿題などをやって、そのあと御一緒に散策というように過ごしておりました。
東久邇◆昭和陛下は大変健脚でいらっしゃいましたね。御研究のためよく歩かれますが、途中で御疲れの御様子を御見せになったことは一度も記憶にありません。御若い時多くの山にお登りになったり、毎日お歩きになっていらっしゃいますから、それで御丈夫だったのだと思います。
壬生◆昭和陛下の記憶力の良いことは有名ですが、御一緒に御供していても、「去年はこの時期にはここに何々が咲いていた」というような話をされる。「今年はまだだね」とか。しかも何の目印もないような道に急に止まられて、そういうようなことをおっしゃる。


壬生◆那須で思い出すのは、陛下はあまりお風呂がお好きじゃなかった(笑)那須は御用邸の中に温泉が引いてあるんですが、昭和皇后は割とお好きだったんですけれど、昭和陛下はせっかくの温泉なのにあまりお好きでなかったようです。それから那須では夜になると展望台に上ってよく星を眺めました。昭和陛下が「この季節はだいたい何時頃にどこどこの方角に流れ星がよく見えるよ」というようなことも教えてくださった。那須は星がよく見えるところで、流れ星、あっ、また流れ星という感じのところですから、本当に降るようなたくさんの流れ星が観察できました。翌日陛下にそのことを申し上げると、「そう、よかったね」とニコニコされておられました。それから昭和陛下も昭和皇后も鳥の鳴き声に御詳しくていらして、鳥の鳴き声が聞こえると「ああ、あれはブッポウソウだね」とか、両陛下はそんな御話をなさって楽しまれていらした。


東久邇◆みなささま夏場は葉山に必ず来られてました。
壬生◆毎年夏は家族みんなで葉山に寄せていただいておりました。
東久邇◆一夏、7月の下旬から8月いっぱいは滞在いたしておりましたね。
壬生◆当時御用邸の方に天皇皇后両陛下がいらっしゃって、付属邸には皇太子様(平成天皇)常陸宮様・島津さん(貴子内親王)なんかも来られていました。東久邇家は一夏、付属邸の一部をお貸しいただいておりました。
東久邇◆そのあと御用邸の敷地内に移って、富士見亭は御用邸の外の船着場の近くにありました。戦前は陛下が御泳ぎになられる場所は禁泳区になっておりまして、富士見亭はそんな区域の中に建っておりました。両陛下がちょっと御涼みに行かれたり、また御船の乗り降りの際に御利用になったと聞いています。
壬生◆富士見亭は食堂・台所の他に和室が3部屋ありましたね。
東久邇◆我々は毎朝早く起きて学校の夏休みの宿題をして、それからピアノのお稽古などをしていました。毎日御用邸に伺って、御居間にあるピアノを拝借して練習させていただいておりました。ピアノは御用邸の中にしかありませんでしたの。後は泳いだり、御船をご一緒させていただいたりしておりました。たまに陛下から昼食や夕食に御招きいただくことがありました。「蛾が食べられるか」という話になったのを覚えております。陛下は「天ぷらにして食べられる」とおっしゃって、もちろん学者でいらっしゃるから食べても大丈夫だという確信のもとで主張されたと思いますが、陛下はそういうちょっと大胆な好奇心旺盛みたいなところも御持でした。
壬生◆葉山では毎日のようにピアノのレッスンなどで御用邸に伺っていましたが、よくお昼御飯に呼んでいただきました。呼んでいただく時はたいてい洋食でした。
東久邇◆たぶん若い者たちはそういうものが特に好きだろうと御考くださったのででしょう。
壬生◆そうですね。まずスープが出て、その後一皿とサラダ。お昼が多かったですからフルコースではないですが、大膳が作るのですからそれなりにきちんとした洋食でした。
東久邇◆我々は御飯にソースをかけて食べるのが好きでした(笑)
壬生◆デミグラスソース(笑)
東久邇◆デミグラスソースをピラフみたいな炒め御飯にかけて食べていました。
壬生◆炒め御飯と言っても油っぽくなくて、炊き込み御飯みたいにできておりました。子供でしたからメインの料理をそっちのけで食べていました。
東久邇◆陛下もそれがお好きでした。
壬生◆陛下も御飯に何かかけるのがお好きみたいでしたね。
東久邇◆もともとみなさま白い御飯よりは混ぜ御飯がお好きで、ピラフ風の混ぜ御飯や炒めた御飯がお好きのようでした。
東久邇◆葉山ではおかわりも自由で、黙っててもおかわりをくださった。御飯でもおかずでも食べ放題でした。
壬生◆自分で取る場合は「自分で食べられる分だけ取りなさい」と。うちの母親はそういうところはうるさかったですね。
東久邇◆そうね。「取ったものは全部食べなさい」と。
壬生◆それは御食事についてだけじゃなくてね、全体の御生活もでもそうでした。陛下はちょっとメモを書かれるのもまっさらの紙を使われるんじゃなくて、使い古しの紙の裏を半分ぐらいに切って使われていました。
東久邇◆それから、葉山でおいしかったのは冷紅茶です。
壬生◆要するにアイスティーなんですが、冷紅茶と呼んでいました。それからカルグルトというのがありました。飲むヨーグルトです。乳酸菌で作った飲み物なんです。
東久邇◆ヨーグルトをもう少し薄くした軽くしたものでしたね。カルピスにすごく似ているけれど、ヨーグルトの飲み物です。おやつでいただくのが好きだったのはフレンチトースト。
壬生◆それからバナナ。今でこそバナナはフルーツの中で安い方なのですが、昔は結構高価で貴重なフルーツでした。なにしろバナナについては、東久邇家のバナナ戦争というのがありまして。昔は兄妹5人いるところにバナナが一房届きますと、端と真ん中とで大きさが違いますからそれをどういう風に分けるかは大変な問題でした。うちは割合と民主的ですから、ジャンケンで決める場合が多かったですが。
東久邇◆我々が何を喜ぶか、そういうことを昭和陛下はよく御存知でいらっしゃいました。我々が何が好きだとか、そのへんをよく汲んでいただいていたようです。

壬生◆御本邸二階の御座所は、展望台式に四方の外の景色が眺められるように造られておりました。浜辺の方からは見えにくくなっておりましたが、こちらからは海の沖まで一望できました。江ノ島もちろん富士山も手に取るように見ることができました。風がよく入って涼しくて、入口の左側にピアノがあり、部屋の真ん中に丸い木の机の応接セットと昭和陛下の御座になる机と椅子が置いてありました。
東久邇◆そこから両陛下が船で出られるところをお見送りしたり、お帰りになるところを見ていて下にお迎えに行くとかしていました。御採集には昭和皇后は行かれないことの方が多かった。昭和陛下は船着場から小舟で沖合まで出られて、船に乗られて海洋生物の採集にいらしていました。甚平スタイルと言うのでしょうか、採集にいらっしゃる時の昭和陛下は脇の所を糸でつないだみたいな白い着物を御召になっていらした。だんだん開襟シャツと半ズボンと御帽子になられましたが。
壬生◆御用邸にはプールがあって、昭和陛下もそこで泳がれていました。昭和陛下はスポーツの中では水泳が一番お好きだったんじゃないですか。
東久邇◆昭和陛下は水泳は御達者です。日本泳法ですけど。うちの母親も日本泳法が得意でした。立ち泳ぎして、水の中で扇子に絵を描くとか。
壬生◆抜き手とか〈のし〉とか。私も母から教わりました。
壬生◆葉山にはいい思い出がたくさんあります。その御用邸が焼けてしまったことは大変残念に思っています。
東久邇◆放火でしたね。陛下の研究室も含めてすっかり焼けてしまいました。


壬生◆吹上の御所ができた時には、御所の前のお庭の芝生が本当にきれいだったの覚えています。ところが何年か経ったら草ぼうぼうになり、今ではそれがもう全部自然な武蔵野の姿に戻ってしまっております。陛下は人工的な手を加えられるのはお好きじゃなくて、その結果東京のど真ん中の皇居に武蔵野の自然が残されているのです。
東久邇◆雑草の一つ一つは愛されていらして。雑草じゃなく植物には一つ一つ名前がついているんだとね。
壬生◆鳥のためというので、皇居の中に相当の本数の実をつける木が植物を植えられていました。だからかなりたくさんの種類の鳥が皇居の中に住んでいると思います。
東久邇◆だけど一番の悩みとされていたのはカラス。カラスというのは肉食に近いですから小鳥の卵とかそういうのを食べてしまう。それをどうやって退治したらいいのかというのをだいぶ悩まれたようです。
壬生◆陛下は自然のままにという御意志が非常にお強かったですね。ところがそれぐらい人工的なものがお好きではない昭和陛下も、皇后陛下のためにバラ園だけはきれいに整備されていました。
東久邇◆昭和皇后は本当にバラがお好きでいらっしゃいますから。
壬生◆吹上御所の御座所の前は草ぼうぼうですが、一角だけはバラ園になっていて見違えるほどでした。
皇后陛下は一生懸命やられていまして、よく我々もお土産にバラをいただきました。
壬生◆お庭の食べられる野草の話になりまして、昭和陛下が「前の庭に生えているキバナノバラモンジンという野草は炒めて食べるとおいしいよ」と言われ、花になる前の蕾や芽を取って食べるのだと教えいただきました。「戦争の時分には、昭和皇后がお料理になってこういうものをよく食べた」とおっしゃっていらした。
そのお話をしていただいた時帰りに持っていくかということを昭和陛下が仰られて木花のバラモンジンをお土産にいただいて帰りました帰宅して早速食べましてほろ苦く美味しかったことを覚えております


東久邇◆例えば政治的な話題にしても、昭和陛下にお話をするのにタブーということはありませんでした。だけど逆に言うと、我々の方であまり話題にしませんでした。その他の話題では「お相撲はどなたがお好きですか?」とか言うことも、あまり伺いませんでした。
壬生◆私は一度伺ったんですけれど、そこは笑われて「ハハハ…」と(笑)残念ながら贔屓の力士の名前はついに知らずじまいでした。
東久邇◆そんなわけで我々の方でも陛下が御答に困られるようなことはお尋ねしないようにしておりました。昭和陛下からの御質問はだいたい我々の仕事がどうかとか家族はどうかとか身体は大丈夫かとかいったことが主でした。しかし5人並べば一人一人に全員質問される。一人に集中することはなくて必ず全員に質問される。平等に公平に。例えば私が長男だから特に御質問が多いということはありませんでした。夫婦で伺っても、一人一人全員に御話がありました。
壬生◆とにかく昭和陛下は非常に公平無私であられた。しかも不自然さを全然感じさせないところが素晴らしいですね。
東久邇◆義務からでなく自然に身についていらして、そうしたことの一切が昭和陛下にとってはごく当然のことなんでしょう。我々にとっては非常に大変なことですけれど。赤坂御苑で園遊会を催される時に、招待客に一言一言挨拶され御声を御掛になります。
壬生◆昭和陛下は記憶力が人一倍おありだからでしょうが。


東久邇◆昭和陛下からは国内外に行幸された折々にお土産をいただいたり、我々の誕生日などにも気を御遣いただいておりました。私はロンドンに赴任していた時に、昭和陛下から御手紙を何回かいただきました。
壬生◆私もロンドンに赴任していた時、御手紙をいただきました。
東久邇◆昭和陛下が御手紙を書かれるのは珍しいことだと聞かされたことがありました。私は筆不精なものだから、常に返事を書くわけではなかったのですが。
壬生◆私も昭和陛下の貴重な御手紙は今でも大切に保存しております。

東久邇◆昭和陛下のお笑いになった声というのは、本当に心から楽しそうにお笑いになりますね。
壬生◆弟の雅彦が車の免許を取ったばかりで郊外の畑の畦道を走っていて、対向車とすれ違って脱輪してしまいゴロゴロと畑に落っこちたという話を申し上げたんです。その時はずいぶん笑われていましたね。しばらく笑いが止まらないぐらい笑われていました。
東久邇◆それは我々だっておかしい(笑)
壬生◆昭和陛下がお苦しそうに笑われて、それを見て我々も大笑いしました。そういえば陛下から叱られたという昭和ことは一度もありませんね。
東久邇◆陛下はお叱りにならない方でしたね。昭和皇后には叱られたことはあります。小さい時だけれど、庭に出て遊んで靴をパパッと散らかして入ろうとしましたら、「揃えなさい」と言われました。けれどそれぐらいしか記憶していません。


壬生◆昭和陛下が御病気になられてから最初にお見舞に伺ったのは9月の末になってからでした。昭和陛下が倒れられたとき私は出張していまして、知らせを最初に聞いたのは通信社からなんです。グアムで現地会社の総会をやっていた直後に電話がかかってきて、「何をやっているんですか。いま日本は大変ですよ」と言われて心配になりすぐに宮内庁に電話したところ、そんなにシリアスな状態ではないからというので一安心いたしました。その後もファックスでどんどん情報が入ってきたんですけれど、マスコミ報道を今にもという感じでしたが、宮内庁ではそうでもないということでした。日本に帰ってすぐにはお目にかかれなくて、しばらくしてから兄妹二班に分かれてお目にかかることになりました。
東久邇◆一度に行くとお疲れになるんじゃないかということでね。
壬生◆兄妹全員が一緒に伺ったりしたら、返って非常に深刻な事態なのだということを気にされるんじゃないかということもあったのかもしれません。妹の優子はまだロンドンから帰ってきていない時だったので、兄と姉の文子と私と3人で伺いました。
東久邇◆下血されて10日ぐらい経ってからのことですね。
壬生◆初めてお見舞に伺った時、陛下が大変お元気で、私にはホテルの仕事はどうだというようなことを聞かれ、姉文子には名古屋の生活には慣れたかというようなことをいろいろ聞かれました。おやつれになっていらっしゃるんじゃないかと思っていたら、そうじゃなくてお元気で。
東久邇◆実際にお目にかかってみると、陛下はベッドに横になられたままでしたが、ご心配申し上げていた少しも変わらない御様子で、我々の方がどういうお言葉を陛下に申し上げたらいいのかかえって苦心いたしました。
壬生◆皇居の紅葉のことを非常に御心にかけていらた。
東久邇◆あの時期ちょうど都内でも紅葉がきれいに色づいてきた時でしたので、そのことを申し上げたら、「御所ではもっときれいだよ」とおっしゃいました。「梓の紅葉がきれいだよ」と。
壬生◆陛下は御所の中の植物が、何が、いつ、どこで、どのように色づくかを熟知されていらっしゃるのです。


東久邇◆1月7日の早朝は宮内省から最初に家に電話がありました。我々の方も電話があったら、家から他の兄妹に連絡して駆けつけることになっていました。
壬生◆最初は待機という連絡でした。
東久邇◆そしたらもう1回電話がかかってきました。我々が駆けつけたのは6時ちょっと過ぎぐらいでした。待機の電話がかかった時「10分から15分ほどしておいでください」と言われまして、バラバラに各々馳せ参じたわけですが、家が兄妹の中では一番早く着きました。何かあったときは半蔵門から入りなさいと言われていまして、私はそこからは入ることは滅多にないんですけれど、自分で運転して行きました。兄妹そろったところで御病室に入り、お別れのご挨拶をいたしました。
壬生◆最期は皇太子両殿下(平成天皇夫妻)をはじめ、皇族・子供・孫に見守られて眠られているようでした。
東久邇◆翌日御船入の儀式がありました。いわゆる納棺の儀式で、私が棺にお納めしたのはルーペでした。
壬生◆私は本でした。お納めする品物はみんな白い絹の布に包んであって、緊張していましてよく覚えておりません。
東久邇◆包んであって何の品物か見えませんから、中は何なのか書いてありました。
壬生◆最初書いてあると思わなくて、とにかく感じとしては辞書かそういう感じの本でしたね。
東久邇◆私の場合は、お側の方が「これはどうですか?」と勧めてくださったような気がします。
壬生◆納棺の時に陛下の遺品をお入れしたのは、皇太子様(平成天皇)はじめ本当に近親者だけでした。宮様方と子供と孫でした・
東久邇◆人数分の品物が用意されていまして、棺に納められた品物はどれも身の回りで常に使われていたものでした。それをまた向こうの世界でお使いくださいということですから、別に高価なものではないんです。その他には紙人形がありました。何か悪いことがあればその人形が全部肩代ってくれる身代わりになる人形があって、それを一緒に入れました。それは約束事ですから、ヘソの緒とかもいられていました。
壬生◆爪とか髪の毛も入れられていたと思います。
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◆124代 昭和天皇 迪宮裕仁親王  123代大正天皇の長男
1901-1989 87歳没


■妻  香淳皇后  久邇宮良子女王 久邇宮邦彦王の娘
1903-2000 97歳没


●継宮 明仁親王  125代平成天皇
●義宮 正仁親王  常陸宮

●照宮 成子内親王 東久邇盛厚王と結婚
●久宮 祐子内親王 早逝
●孝宮 和子内親王 鷹司平通と結婚
●順宮 厚子内親王 池田隆政と結婚
●清宮 貴子内親王 島津久永と結婚

◆124代 昭和天皇 迪宮裕仁親王  123代大正天皇の長男
1901-1989 87歳没


■妻  香淳皇后  久邇宮良子女王 久邇宮邦彦王の娘
1903-2000 97歳没


●継宮 明仁親王  125代平成天皇
●義宮 正仁親王  常陸宮

●照宮 成子内親王 東久邇盛厚王と結婚
●久宮 祐子内親王 早逝
●孝宮 和子内親王 鷹司平通と結婚
●順宮 厚子内親王 池田隆政と結婚
●清宮 貴子内親王 島津久永と結婚


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侍従 岡部長章 回想記

学習院を卒業すると東京大学に入りました。
専門は東洋史です。
私が卒業する年、上野の博物館が研究員を募集するという話を聞きました。
上野の博物館は当時はまだ宮内省所属の帝室博物館でした。
帝室博物館に3年ほどいましたら、今度は本省に来いという命令です。
本省といえば宮内省です。
宮内省に赴くと、侍従になれということでした。
大正時代までは、侍従というのはみな爵位のある人でなければということでした。
ところがそれではなかなか人が得られなくなって、昭和の時代には次男や三男にも範囲を広げたのです。
大名華族か公家華族の子弟で、学習院を出て官立の大学を出ていればいいということになってから、私も侍従として入ることになったそうです。

3月20日に登庁すると、まず天皇様の拝謁がありました。
侍従の身分は奏任官なのですが、お側で仕えるのだからというので、文官中最高の親任官なみの扱いとなるのです。
学習院卒業式には天皇様の行幸があるので御顔を拝したことがありましたが、近くで拝したのはこの時が初めてでした。
昭和陛下から「いろいろ御苦労をかけるであろう」という御言葉をいただきました。
新しい侍従は必ずその御言葉をいただくのです。
私は頭を下げて戻ってきました。
こちらから言葉を言ってはいけないのです。

拝謁者はすべて侍従候所を通ります。
関門のようなものです。
出入口が二つあり、行きも帰りも部屋の中を通り抜けて行くようになっています。
侍従は誰々が何時から何時まで拝謁したというメモを残しておきます。
それを当直の侍従が毎夜まとめて日誌につけます。
これを正式には「常侍官日誌」と言います。
拝謁はいろいろな組織の最高責任者です。
だから外務省の局長クラスが拝謁するというようなことはありません。
外務大臣のお供で来たとしても、控室で待っているのです。
重光外相に同行してミズーリ号に行った課長が、その後著作の中で重光外相と一緒に拝謁して何か申し上げたかのように書いているのですが、そういうことはありえません。
「宮中にも自由に出入りしていた」とあるのは、重光外相の使いとして内大臣室に出入りしたという意味なのでしょう。
政治筋の拝謁者は大臣に限ります。
課長の拝謁という例はないのです。

御常御殿は二階建で、上が御政務室と御書斎、内大臣の拝謁はここで行われます。
総理大臣など外の人の拝謁は、御政務室の下の御学問所で行われます。
総理大臣だった近衛さんなども五摂家ではあっても外の人ですから、拝謁の時はまず参殿者休所に来ます。
侍従が昭和陛下のもとに行って、「近衛の拝謁にお出まし願います」と申し上げます。
このとき昭和陛下の御服装に注意するのが実は大切なのです。
支那事変が長引いて陸軍の方針についての御悩が多くなると、昭和陛下はお考え込みになる場合が多くなりました。
片方の御靴には拍車が光っていて陸軍装であるのに、他方は海軍式の物を御用いなるということがあり、侍従が御注意しすぐに御替になったなど、御悩の御心中が拝察されるのでした。

昭和陛下の拝謁の間は御学問所という明治陛下以来の名称で、ここは唐紙4枚が全部取り外してあり、6曲の金屏風が置かれ、玉座が二の間からは直接見えないようにしてあります。
玉座の背後はネズミ色の大理石のマントルピースで、冬の特に寒い夜などには前もって事務官が電熱のスイッチを入れておきます。

侍従は、朝は普通の役所と同じで8時30分までに出勤します。
そして夕方5時になると退出する。
通勤には背広を着ていますが、登庁するとモーニングに着替えて侍従の詰所に行きます。
この詰所は正式には「常侍官候所」といいます。
しかし「侍従詰所」とも呼ばれていました。
仕事の間はずっとモーニングを着ています。それが通常服。
フロックコートが通常礼服・燕尾服が小礼服・金モールのいかめしいのが大礼服です。
その他に行幸の際の御供の時に着用する供奉服があります。
黒色の詰め衿で、長剣を帯びます。
カフスと襟には黒の絹糸で菊の唐草が刺繍してある渋いものです。
勅任官・親任官は胸部にも刺繍が施されています。
小出侍従の説明では「これは飾りの剣ではない。身をもってお守りするのだから、研げば切れるのだ」とのことでした。

侍従詰所は檜造りの12畳ぐらいの広さで、中央に楕円形の大きなテーブルがあり、その周りに長い椅子一脚と数脚の椅子が配してありました。
窓の所に私たち侍従が事務を執るグリーンのラシャが貼られた机が二つあり、その端に電話機が一つ。
これは省内にならどこへでも掛かり、外へでも通じる電話機です。
それから一段高い三脚のような高い台の上に、御座所からの電話機が置いてありました。
昭和陛下の方には電話機が一つあって、何か用事があるとお掛けになります。
これは一方通行で、もちろんこちらからは掛けられないようになっています。
この電話が鳴ると「はい、岡部でございます」とお答えすることになっています。
この電話の他に御召のベルというのがあります。
これもこちらからは押せないベルです。
このベルが鳴ると、誰かが御前に出るわけです。
ベルの方は壁にでも付いていたのでしょう、どこかでチンと鳴るんです。
昭和陛下の執務室のベルは侍従詰所へ内大臣へ宮内大臣へとそれぞれ繋がっていて、用事のある部署のベルを御押になります。
電話は簡潔な御用件の場合に御使になります。

昭和陛下は毎朝9時頃に執務室にお出ましになります。
お杉戸が両陛下の御居住の部分と昭和陛下が毎日の御政務をなさる御政務部分との境なのです。
そのお杉戸を御自分でお開けになります。
侍従はそれを〈お出まし〉と申したものです。
お昼の御食事に奥へ御引上になり、午後1時にはまた出ておいでになります。

日曜日以外は毎夕6時過ぎに上奏物と呼ばれる書類が内閣から届きます。
その書類に見たという意味で〈可〉という字が彫ってある象牙の印を昭和陛下が御自分で御捺印なさるのです。
そのお世話も泊まりの侍従の仕事です。
書類の量はだんだん多くなって、大東亜戦争の最中ともなると積み上げて1メートル近くにもなるという状態でした。

御執務の御机は木の縁取りがあって革張りの大型のものです。
やはり革張りの椅子に座られます。
椅子の背には金箔押しの菊の御紋がついていました。
内閣からの書類は上奏箱に入ってきます。
上奏の合鍵は御政務室の皮の小箱に納めてあります。
さらに上層箱には大中小の3種があり、大の深さは20センチほど、小は4センチほどでした。
深箱が2つともなるとそれは大変です。
内閣書記官が鍵を掛けて寄越します。
皮の小箱から合鍵を取り出して書類を取り出します。
昭和陛下が御覧になりやすいように書類を一つずつ差し出しますと、自ら判を押されます。
侍従は「御裁可」を願うと申し、武官は「御允裁」と呼び分けていました。
終わったものはまた一つずつ箱に戻して内閣に下げます。
御署名が必要なのは詔勅関係の書類です。
これは輔弼によるのですから、首相以下閣僚が先に署名します。
本文との間は広く空けてあり、そこへ昭和陛下に御署名を願い、内大臣府で純金の御璽または国璽を捺印することになっていました。
他には勲記にも御署名をなさいます。
御署名の御墨は書に通じていた内大臣秘書官工藤壮平氏の進言で特別に作られたもの、筆は平安堂の細筆でした。
侍従が墨をすり、用意ができましたと申し上げますと、昭和陛下は墨をたっぷりつけてゆっくりと御書きになりました。

だんだん戦争がひどくなるにつれ御用務が多くなり、御夕食が8時近くになることも度々でした。
大臣たちは閣議が終わって家に帰り、風呂にでも入って特別配給のビールでも飲んでいるというような時間に、昭和陛下は内閣からの書類を御覧になり、御裁可の象牙印を御自分で捺印なさるのです。
重要案件ですと、閣議の書類も熟読なさいます。
大臣の方が早く解放されるので、これは何とも変な話だとつくづく残念に思うのが常でした。

昭和陛下は午後10時30分頃に御眠みになります。
そうすると昭和陛下が御眠になったという連絡が内舎人から入ります。
天皇の洋服のチリを払ったりする御側勤めの役を内舎人というのですが、どういう決まりか女官候所から直接に侍従候所には来ずに、内舎人の所に電話が行き、それから私たちのいる侍従候所に「御格子(就寝)になりました」と伝えてくるのです。
この連絡が来ると私たちも眠りにつくことができます。
モーニングを脱いで侍従武官と一緒に風呂に入ってから睡眠に入ります。
朝はもちろん昭和陛下より早く起きていなければいけません。
昭和陛下が何時頃に起きられるかは知りませんが、だいたい午前9時頃には御座所にお出ましで、その前に朝の御食事もされますから午前7時前後に起きられるのでしょう。
私たちは午前6時には起きて身支度を整え食事をとります。
食堂があって、朝食は日本食でした。
夕食と朝食は官給で、泊まりの者だけに出されます。
昼食は自己負担です。
私は初めこのことを知らず、卑しくも侍従なら三度の食事は官給で出るのだと思っていたんです。
最初に給料もらったとき勘定書を見ると食事代が引かれていたので、侍従候所で大笑いになったことがありました。
広幡大夫は巨躯に似ぬ細い声で、「それでも入りを計ってやってるから感心だ」と言われ、また笑いのタネになりました。

毎週土曜日には決まって夕食会が開かれました。
御相伴と言います。
泊まりの侍従二人と侍医が一人それに陸軍か海軍の武官が一人、天皇皇后両陛下と同じテーブルでいただくのです。
その他に女官が二人出ます。
御食堂の入口でお待ちしていると両陛下がお出ましになり、中央の長方形のテーブルに着かれ一同も席を賜ります。
大正陛下の頃は両陛下は洋卓にお着きで一同は座っていただいたと、古参の筧侍医にお聞きしました。
膝行のとき靴下が脱げそうで、退出時にはズボンがたくし上がってスネが出そうになる。
慣れないうちは心配だったそうです。
料理はいつもフランス料理で、オードブル・スープ・魚・肉といったコース料理でした。
食事の時にはワインも出ます。
しかし昭和陛下はお酒は全然飲まれません。
お話が弾むと2時間にもわたります。
話術は入江侍従が特に長じていましたし、私もそれに和するようになりました。
食事の時に昭和陛下の方から話されることはあまりありませんでした。
特に私と入江さんの時には二人ともおしゃべりでしたから、こちらからお話することが多かった。
人によっては御相伴に出る前に話題を考えておくという人もいましたが、私はいちいち考えたことはありません。
昭和陛下が御話される時にもその内容は御政務には関係ないことで触りのない愉快な話題が多く、昭和陛下の御言葉を誰かが取り間違ったとか何かをひっくり返したとかいうような面白い失敗談が出ます。
そうした失敗をめいめいが昭和皇后の御耳に入れるといったことになるのです。
昭和陛下は大いに御笑になりますが、あまり深入りなさいません。
落ち度を自責させては気の毒との細やかな御配慮が感じられるのです。
それに私たちについてのプライベートなことも立ち入って御聞にはなりません。
昭和陛下の自然な御人柄に誰もが打たれる場合が多いのです。

このお食事会に酒の好きな村山浩侍医が酔って出たことがありました。
昭和13年、清宮貴子内親王がお生まれの時です。
お七夜で命名のおめでたい日というわけで、側近者に一樽下されました。
それで昼間から飲んでいたのです。
当直の村山侍医が酔っ払ってしまっているので、御相伴には代りに新米の稲田侍医が出るということになっていたのです。
ところが薬手が大イビキをかいている村山侍医を起こしてしまったのです。
起こされた村山侍医は一大事とばかり風呂に入って務めに出てきた。
代りの稲田侍医はただ待っていただけという気の毒なことになりました。
けれどもまだ酔いが抜けないものだから、廊下から危なげな足音が聞こえたのです。
困ったなという思いで顔を見合わすと、茶目っ気のある海軍武官山積大佐が「大丈夫、大丈夫」と100パーセント引き受けるように言ってくれました。
さすがに海の男らしい自信です。
私もしょうがない、なるようになれと思い、とにかく村山侍医を昭和陛下からできるだけ離そうと決心しました。
申し合せたわけではないのに山積武官と私とで素早く左右の席を占め、村山侍医は中央の盛花を隔てて昭和陛下の御席の真向いに着かなければならないようにしました。
間髪を入れぬ妙義でした。
食事の間も村山侍医はなんとか一生懸命話に加わろうと努力するのですが、頭がボーッとしている。
私たちは素早く話題を転換して村山侍医が口を出せないようにして、ようやく無事に済むだろうと思ったのです。
ところが最後の方になってだいぶ酒も覚めてきたのでしょう、ちょっと話の歯車が合ってしまった。
「大工の右手が大きい」とかそんな話題だったと記憶していますが、村山侍医が自分の前にある花の横から顔をのぞかせながら、「要不要の原則ということがございましたな」と突然昭和陛下に賛成を強要したのです。
それで大笑いになり、昭和陛下も御笑になりまして、大変愉快に無事に終わりました。
昭和陛下も以前その侍医が酔っている姿を御覧になったことがあったのです。
昭和8年に東宮様がお生まれの時、やはりよって侍従部屋でイビキをかいて寝てしまったのを御覧になって、「これは病気ではないか?」と仰せられたそうです。
徳大寺侍従が「酔っておりますので、酔いが覚めれば何でもございません」とご説明したそうです。
だから「ああ、また酔っているな」と御感じになったのに違いありません。
このことは侍従候所でも、山積・岡部の虎退治と呼ばれるようになりました。

昭和陛下はニュース映画はもとより、劇映画なども御覧になります。
ニュース映画は必ず毎週一回、劇映画も時々御食事後に御覧に入れるのです。
警視庁の検閲課に行くと、しかるべきものを2本用意しています。
それを見てどちらか1本を借りてきます。
警視庁で出す映画は検閲済のもので、検閲前のものは絶対に見せません。
しかし警視庁の担当の人間が「これがいい、あれがいい」と私たちの選定に口を出すことはありませんでした。
映写技師も属官で、警視庁に行って技術をマスターしてきた人たちが数人います。
映画を御覧の時には侍従・侍医・女官など当直の者も拝見しますが、御直宮様(御兄弟)を御招きするようにとの仰せもありました。
秩父宮様は病気で御殿場で静養中でしたが、高松宮様と三笠宮様はよくお見えになりました。
両陛下が一番前で、その隣に殿下方が、そして後ろに私達が座ります。
昭和陛下が一番御好なのはディズニーの漫画。
きちんと姿勢を正して御覧になり、あまり大声で御笑にはならないけれど、時々御声は聞こえました。

昭和12年の支那事変を機に、年を追って陸軍中心の非常時意識が強まり、吹上御苑に設けられた9ホールのコースで御運動をなさると敵国のスポーツと陰口が流されました。
それでゴルフを廃止させざるをえなくなり、週2回の御運動は御乗馬だけになりました。
また葉山でブリッジをなさっているのを麻雀だと即断して、暴戻なる支那の遊戯はけしからぬということにもなりました。
麻雀と見違えたあげく、麻雀で賭けておいでだというデマも流されました。
次第にブリッジも親しまれなくなりました。
代って将棋を楽しまれました。
折り畳み式の軽便な将棋盤を侍従の鞄に入れて、葉山や日光へ持ち込んだ時期もありました。
侍従と侍医の対決を観戦されることもありましたし、昭和陛下御自身が「ひとつ、やろう」と仰せになることもありました。
私は乱視があるため角筋を間違えて駒を動かし、「あっと、それは」と大きな声を出されたこともありました。
昭和陛下の御将棋はなかなかの腕前でした。
あるとき私が「昭和陛下はどなたにお習いでございますか?」と伺うと、
「それは大正陛下だよ」と懐かしげな口振りでおっしゃられました。

昭和陛下はよく皇居内を散歩なさいました。
泊まりの者が必ず一人御供をします。
本丸の方には行かれずに、吹上御苑周辺が中心でした。
9ホールあるゴルフ場でしたが、支那事変が厳しくなると自然庭園にして武蔵野の植物を育てることを御望になり、その観察に行かれるのです。
門前の小僧で私も少しは植物について知ることができましたが、生物学御研究所の真田技官・加藤技官は植物の開花期まで心得ていて、今どこでちょうど何の花が咲いておりますというようなご案内をしていました。

当時の宮殿の大きな御本棚のどこには誰の本があるとすべて御記憶されていました。
葉山に滞在されている折など、葉山の侍従から在京の侍従に
「何段目、向かって右方にある『■■』の第三巻を届けるように」との連絡があると、それを宮内省の連絡便で送るのです。
整然と配列してある本の背の色まで思い浮かべて、「あれを見なければならない」と御考になり、お伝えになるに違いありません。

アメリカのグルー大使が外交官を代表して祝辞を述べたのは皇紀二千六百年の行事の時です。
グルー大使はもちろん英語で祝辞を読んだのですが、昭和陛下はお分かりになったかどうか。
というのも昭和陛下はフランス語は御読になるのですが、英語は御習いにならなかった。
あるとき、侍従が「岡部君、御召だ」と言うのです。
御名指しとはいったい何の御用だろうと思いながら御前に出ますと、
誠に気の毒に思召の御様子で「岡部、これをね」と本を開いておいでです。
「これは中国に行っていた及川(及川古志郎)が上海から帰ってきた時に持ってきてくれたんだよ。私は英語が分からないから、ここからここまで訳してほしいのだ」と遠慮がちに仰せられました。
このような翻訳は本来なら生物学御研究所の服部宏太郎御用掛の筋なのですが、服部御用掛は土曜のみ出勤で御研究の御相手をするので不在のことが多いわけです。
昭和陛下は早く内容を御知りになりたいが、わざわざ老博士を呼ぶことを御遠慮になるのです。
侍従に生物学の原書を読ませるのは筋ではなく、この時も気の毒の御様子を示されました。
侍従の本来の職務の筋以外なので、御遠慮がちに申されたのです。
その微笑を含んで英語は苦手と仰せられる御人柄には大変驚き感動を覚えました。
私は「ちょっとお借りして調べます」と申しますと、「いいよ」とすぐ御渡になります。
私は学術書を訳すなんてできるだろうかと思ったのですが、侍従候所の辞書で訳し始めると案外簡単でした。
学術用語についてはわからないものもあったので、
昭和陛下には「こういう意味に解せますが、それでよろしゅうございますか」とお伺いすると、
「それでいいよ」「よくわかるよ」などと御答くださいました。
柔軟で細心な御態度が何よりもうれしく、文字通りありがたく稀な御人柄な事が実にひしひしと迫ってくると申したら、旧時であれば不敬だと評されるに違いありません。

及川さんは海軍武官でなかなか賢くて、昭和陛下のお土産として生物学の本などを持ってきました。
ところが陸軍の場合は戦利品の匂いがチラホラします。
そうすると昭和陛下の御機嫌が悪くなるのです。
支那方面軍司令部の東久邇宮昭和陛下の御帰任の時に、船に2台分の品が運ばれました。
船というのは畳一畳の荷台のことで、いろいろな物を乗せ前後を二人で運んで、それらを申し口に並べてあるのです。
「これは考古学上の名称は〈彩色土器〉と申します。黒いエナメルでこのように番号が書いてありますので、これはどこかの博物館の展示品に違いなく、おそらく上海の自然科学研究所の列品だと思われます」と申し上げました。
昭和陛下は大変御不満そうな御顔で「貴重なものか?」と念を御押になります。
「帝室博物館でも見たことがございませんし、私も実物を手に取るのはこれが初めてでございます」とお答えしました。
すると即座に「それでは帝室博物館にやって保存するように」と仰せられ、上野の博物館に運ぶことになりました。
終戦直後に広幡太夫が御召で御前に出たら、「あれをさっそく外務省に回して向こうへ返すように」と御命じになりました。
あれというのはこの展示品のことだったのです。
広幡太夫は「すっかり忘れていた。御記憶のいいのには恐れ入ったよ」と感心していました。

私が侍従として勤め始めた年の3月頃には二二六事件の騒ぎも一応カタがついていたためでしょうか、昭和陛下はとても朗らかな御様子でした。
昭和陛下が非常に朗らかな調子の御声で侍従候所に出ていらして、私はビックリしました。
まさか昭和陛下が候所に出て来られるとは思ってもいませんでした。
大元帥の軍服を着た御姿でノックもなしにいきなりスッと入って来られるのです。
考えてみれば御自分の御住いの中なのですから、どこへ行かれるのも御自由なのです。
侍従候所に来られるのは昭和陛下にとっては一時の息抜きなのです。
特に明日は宮中の御祭だという日の夕方にはよく出てこられました。
昭和皇后は賢所御参になるために髪型を洋式からおすべらかしになさいます。
女官が奉仕してびんづけ油で固めるのですが、それには大変時間がかかるのです。
だから御夕食の時間が遅れてしまう。
昭和陛下の御政務が終わってもまだ昭和皇后の御支度ができていないと、御夕食までの30分ほど私たちのところへ出て来られるわけです。
昭和陛下が入ってこられると私たち侍従は立ち上がります。
タバコを吸っている者は消さなければいけません。
昭和陛下はタバコを吸われませんから。
私はそれを知らずに吸っていて、徳大寺侍従に「御前では、それは」と言われて慌てて消したことがありました。
部屋に入られると昭和陛下は私たちと話をされることもありますが、まずテーブルの上に置いてある新聞を必ず御覧になりました。
あまり細かいところは御読にならず、見出しと数行読まれるぐらいでした。
それも三面記事などではなく、ほとんどが第一面の政治記事でした。
昭和陛下にとっては総理大臣や外務大臣・内務大臣などの奏上が正統なものなのですから、参考程度に新聞を御覧になるのでしょう。
新聞は数種類置いてありましたが、朝日を一番よく御覧になりました。
新聞を読まれても感想などは御口になさいません。
私達もお聞きしませんでした。
侍従候所では昭和陛下は政治の生々しい話などは一切されませんでした。
私たちと話される内容は採集された生物のことが多く、それにちょっとした日常の失敗談のようなことなどで、冗談などはあまり言われませんでした。

昭和15年ともなると支那事変の状況がひどいことになってきます。
拝謁も多くなりますし、毎夕御覧になる書類も山のようになってきました。
御散歩の回数は減りました。
映画は御夕食後に御覧になるのでこれは変わりませんでした。
それからまことに困ったことは、御政務室でのお独り言が多くなってきたことです。
私が赴任した時は二二六事件の直後で一応ことは落着していたので、その1年間はお独り言をお聞きしたことはあまりありませんでした。
それが翌年昭和12年7月盧溝橋事件の後になると、急に多くなってきたと思います。
御政務室に通じるドアは開きっ放しになっているために、階段を上っているうちにお独り言の御声が聞こえてきました。
ある時期からお歩きになりながらお独り言を言っておいでのことが目立つようになりました。
大きい御声で「どうも、あれは」とか言われるものだから、侍従だけでなく武官も伺っているはずです。

いろいろなことで内閣の動きが激しくなりましたし、高等官の人事にもそれが現れてくる。
だから昭和陛下の御裁可を仰ぐ件案も多くなるわけです。
結局毎夕書類が山のように積まれてしまうという状況でした。
大東亜戦争の期間、昭和陛下のお独り言を耳にすることがありました。
真珠湾の直後には「まったく天佑だ」と言われていたのを伺ったことがあります。
味方をも欺くような作戦の秘密が漏れずに成功したのですから、確かに驚くべき次第です。
困った場合ではないお独り言は、その時だけでした。
後は「どうも、これは」というようなお声がほとんどでした。
御政務の量も増えました。

私の受けた印象では、昭和陛下の悩みの種は主として陸軍だったようです。
侍従武官長の宇佐美中将が御前に出ている時に、昭和陛下がちょっと激しい調子で御話になるのを耳にしてしまったことがありました。
二二六事件の時の武官長は本庄繁大将で私が3月20日に侍従になって三日間ほどで退官、宇佐美中将が新たに就任したのです。
宇佐美さんが拝謁している時に、「壬申の乱のようなことになる」という意味の事を大声で申されたのが聞こえました。
秩父宮様を担ごうとする陸軍の運動があったと仄聞していたので、それに関連することだなと思いました。
秩父宮様が多少激しい御性質の方だということは私も心得ていました。
それをまた陸軍の青年将校が担ごうとするのです。
おそらく宇佐美武官長は昭和陛下に対して、秩父宮様の意見もいろいろ聞いてほしいと言ったのではないでしょうか。
それで昭和陛下が壬申の乱というような例を持ち出されたのだと思います。
ところが宇佐美武官長は「はあ」とか言って、壬申の乱が何なのかわからない様子でした。

秩父宮のようなお直宮が昭和陛下に会われるのは奥の方になります。
当時秩父宮は陸軍の佐官でしたから、御兄弟として来られるだけで軍事上の奏上はできません。
陸軍では皇族を金枝玉葉の御身分などと言いますが、それも昭和陛下にとってはプライベートな関係だけになります。
朝香宮殿下が陸軍内のことに触れ、叱られて退出されたこともあります。
階級は大将でも軍事参事官で、上奏する立場ではなかったのです。
昭和陛下はそうした公私の別を固くお守りになりました。
陸軍の過激な将校は、この点の認識が足りません。
勝手に思い入れをしていたのです。
高松宮に対しても細川護貞君が懸命にネジを巻いたようですが、高松宮はそれを受け入れず、秩父宮・高松宮両殿下とも、この点ははっきりと身を処せられました。

昭和17年の終わりのガダルカナル島を撤退したあたりから、昭和陛下は統帥部の御説明に対し何か不合理な点をお気づきになったらしいのです。
それよりも以前から、満州事変さらに支那事変以来の陸軍のあり方に御不満だったことはよく知られていました。
しかし昭和陛下が陸軍に対してどう対応しておられたかは、私たち侍従には詳細はわかりませんでした。
戦況についての細かい報告は侍従武官が申し上げていたのです。
侍従武官は陸軍の方は参謀本部の参議官ですし、海軍の方は軍令部員なのですから、詳しい戦況は知っていたはずです。
もう少し重要な戦況については侍従武官長が、さらにもっと重要な事項は両総長が出てきて申し上げることになっていました。
ただ一つ例外的にドイツ軍の東進が止まった時、スモレンスクあたりは湿地でドイツ軍の戦車が行動できないので長引くと口にしたのを、侍従一同は聞いています。
それも最後にはドイツが勝つという前提での陸軍武官の説明でした。
海軍武官の遠藤大佐が、「三国同盟の前後に陸軍の武官としてベルリンに駐在していた大島武官が、のちにドイツ大使となりドイツ人に大変好かれているのだ」と苦々しく当直の時に漏らしたことがありました。
要するに陸軍からの報告というのは希望的観測で、嘘が多かったように思えてなりませんでした。
大本営政府連絡会議では立派なことを言っていて、現実にどうすればいいのかの方針を立てられるような会議ではなかったと言われます。
そうなるとなるべく都合のいいことに力を入れて昭和陛下に報告する傾向が強まりながら、現実には負けているのですから、昭和陛下も悩まれたことでしょう。
しかもそれを相談するような人がいなかったのです。
内大臣には戦のことは相談できないし、侍従武官長をはじめ陸海両武官はみんな統帥部からタガをはめられていたわけですから。

私たちは戦況については新聞で知るだけで、昭和陛下も戦況について侍従に話されるということはありません。
もちろんこちらから伺う筋でもありません。
ただ戦況が悪くなると陸軍と海軍はもともと考え方が違うので、海軍の武官が侍従候所にやって来て鬱憤ばらしに話をしていくことが多くなり、それで戦況はだいたいわかるるようになりました。
侍従長は鈴木貫太郎さんの後は百武三郎さん・藤田尚徳さんとやはり海軍出身者です。
皆さん立派な方でした。
侍従武官長は本庄繁大将の後が宇佐美興屋中将・畑俊六将そ・蓮沼蕃大将と、いずれも陸軍からというのが慣例でした。
海軍大将が侍従長になっているので、武官長は釣り合いの上から陸軍大将で、海軍の主席武官は中将・陸軍の首席武官は少将ということになっていました。
海軍武官はよく私達のいる侍従候所にやって来ました。
平田東助伯爵の次男平田昇氏は武官として武官府に詰めていました。
上海事件かなにかの時にアメリカが参戦しそうになったというので、
侍従候所に来て「アメリカがもう少しで立つところにまでなったんだぞ!陸軍の野郎があんまり馬鹿をしやがるからしょうがねえ」と鬱憤を漏らしていったことがあります。
平田武官が転出し、海軍の中村中将が着任しました。
この人も侍従候所に来てミッドウェーの敗戦の模様を、
「我々の想定ではラバウルめがけてくると思っていた。山本五十六長官はもちろんラバウルに備えをしておった。ところがむこうはまっすぐに引っかけてきやがった」などと話したり、
「陸軍の奴がああやるから、海軍にとってはとんでもない迷惑だ」などとよく不満を漏らしていました。

陸軍のと海軍の違いということでは特に印象深い思い出があります。
私が侍従を拝命した夏に北海道の大演習に行ったことがありました。
帰りは御召艦の比叡に乗ってきたのです。
横須賀に着くと海軍がラッパを吹いている。
『君が代』を吹いていたのですが、驚いたことには実に軽い調子で吹いているのです。
豆腐屋のラッパのように楽に吹いている。
学習院というのは乃木大将の下士官のラッパ手が門番をしていて、ラッパを吹いて始業時間を合図します。
ネイビーブルーの服に金ボタンと海軍のような服装ですが、吹くラッパは陸軍式なのです。
陸軍式のラッパは顔を赤くして吹き、音もピリピリした感じです。
陸軍のラッパが真っ赤な顔して吹く理由は、明治初年にラッパを作った時にフランスの陸軍式を採用することになったのですが、1センチほど間違って作ってしまった。
1センチぐらいどうでもええじゃないかと上層の閣下たちが言ったとかで、鳴らしにくいわけです。
どこまで本当の話かは別として、いかにもありそうなことです。
昭和になって特に満州事変後の軍国主義が強くなると、「陸軍は言い出したら聞かないから」ということが陰口となったことがつくづくと思い出されます。
幕末から明治時代の志士たちの勇敢な気風が頑迷に変質したと言えそうで、何か笑えぬのことのような感じがします。
横須賀で初めて私が耳にした海軍の軽妙なラッパの音が、陸軍とはこんなにも違うかと驚いたことは、昭和史を顧みる場合常に蘇ってくる響きなのです。

昭和に入って宮中では色々なことが縮小されるようになりました。
大正時代にはお正月の外国使臣の拝賀の時などは、明治宮殿の赤い絨毯に香水をふりかけたのでした。客が到着する直前、アルコールランプで温めて香水の蒸気を吹き付ける器具が用いられていたそうです。
明治初期条約改正を切望し鹿鳴館で夜会が行われたことも思い合されます。
昭和になってからはそんなこともなくなりましたが、明治宮殿の方へ行くとカビ臭い匂いがしていました。

昭和期には正殿で正月の外国使臣の拝賀が行われていました。
この拝賀には来日した時期が一番古い大使が先に拝賀し、外国使臣の代表で言葉を述べます。
アメリカのグルー大使は長い間代表だった人で、皇紀二千六百年の式典にも英語で堂々と奉祝文を述べました。
イギリスのクレイギー大使が着任した信任状捧呈式の時は、明治宮殿の正面の御車寄から長い廊下を大使が夫人同伴で進んできます。
随行する駐在武官のピゴット少将はイギリスの近衛連隊の赤い上着に黒ズボンで、熊の皮の黒い帽子を抱えていました。
大使以下みな夫人同伴ですから、まさに渓谷を雲がゆっくりと押し寄せるかのような威厳がありました。
グルー大使はその長身をフロックコートに身を包んで、一人で代表を務めました。
米英の特色がこの二つによく現れていると私は痛感したものです。
またイタリアの特使としてスカマッカ伯爵が来朝。
スカマッカ伯爵はアウリッチ大使の長身に比べ肥満型でした。
随員もみな金モールの大礼服でしたが、夫人同伴ではなかったように記憶しています。
謁見が終るとスカマッカ伯爵は一歩下がって、右手を高く上げる〈ア ノイ〉(ローマ式敬礼)の礼を派手に捧げて退きました。
実に派手な礼で、ラテン系らしいと思いました。
先方が美々しい大礼服なので昭和陛下も、陸軍大元帥の大礼服、一同もまた大礼服でした。

昭和19年になると戦争の状況もかなり悪化し、生活も厳しくなっていきました。
4月13日には宮城外堀を食糧増産のために貸し出され、東京都の学童たちが耕作したと新聞記事にはありますが、私は詳しく覚えていません。
宮城前では4年前に紀元二千六百年記念の儀式があった場所は、一転して天長節の観兵式の場になったと記憶します。
アメリカ軍の空襲のおそれがあるというので、代々木練兵場ではなしに二重橋前で行われたのです。
最後にはそこが高射砲の陣地になったのですが、そこにはカボチャなども植えてありました。

昭和19年の7月頃から昭和陛下は明治宮殿から吹上御所に移られました。
6月にサイパンが陥ちてアメリカが飛行機を設営し、日本本土も爆撃圏内に入ったからです。
吹上御所に移られて以降、特に戦争の末期には御苦労なさっていたようです。
召し上り物もそれなりに落とせとの御考え大膳職に伝えられました。
半つき米で一汁一菜、パンの色も黒っぽいといった具合でした。
私たちの方はもっとひどく、かなり早くから食糧事情は悪くなっていました。
まだ昭和陛下が明治宮殿におられた頃でも、泊まりの朝に椀を取ると天井が映る重湯のような味噌汁に黒い物が入っている。
ヒジキかと思って食べてみるとゴワゴワします。
正月飾りに使うホンダワラを刻んだものだったのです。
それにタクワンと身欠ニシンが二切れ。
ニシンの保存と扱いが悪いので脂肪が酸化したようになっていて、食べると渋い味がして腹を壊してしまうのです。
藤田尚徳侍従長は「そのニシンを餌に御堀でエビが捕れるので、それを食べた方が良い」と教えてくれました。
手ぬぐいで作った四つ子網で堀をすくうと、淡水に住む手の長いエビが捕れるのです。
本丸の図書寮の下 竹橋の辺りに外からは見えない御堀があるので、そこが最適だということでした。
捕れたエビを麹町の官舎に持って帰って煮てもらったこともあります。
今麹町にあるプリンスホテルが当時は朝鮮の李王垠さんの御殿で、その前が万平ホテル、御殿の隣が宮内省の官舎で、戦争がひどくなった頃にはそこの大金総務局長の官舎に合宿していました。
総務局長の官舎と言っても実は庶務局長当時のままで、食糧不足の折から引越しに人手を使うのは気の毒ということで、総務局の官舎へは移られなかったのです。
次の庶務課長の小倉庫次氏は家から局長の官舎へ入れば良いというところに、大金益次郎氏の人格がよく出ています。
何でもないことのようですが、人柄の高下というのはこうした点に表れるのです。

私が侍従になった時の顔ぶれは、侍従長は鈴木貫太郎大将でしたが二二六事件で襲撃を受け療養中でした。
そして侍従次長が甘露寺受長伯爵。
明治期から侍従として宮廷に入り、昭和天皇がまだ摂政で御学問所におられた時代から侍従だった人です。
次が牧野貞亮子爵、その次に黒田長敬子爵。
大正天皇の侍従だった方で、極めておっとりとして親切なお人柄でした。
侍従職庶務課長大金益次郎さんは私の初当直の日にこの黒田侍従を配し、種々ご指導を受けるよう配慮してくれました。
大金さんのこの配慮も忘れることができないものです。
以上3人が大先輩で、それに徳大寺実厚公爵。
この方は騎兵出身で、明治時代の侍従長徳大寺実則公爵の孫だから否応なく軍人にされたということのようでした。
それから昭和天皇の御学友だった永積寅彦氏、やはり御学友だった久松定孝氏。
その次に任官したのが小出英経氏、その小出氏の推薦で入江相政氏。
入江氏の任官は私の2年ほど前です。
それに私が入って9人になりました。
しかし侍従の定員は12人でしたから、まだ3人足りなかったのです。
私の後に任官したのが入江氏と同クラスだった岡村康彦氏、私と同クラスだった東園基文子爵、その次に徳川義寛男爵が入ったと思います。
しかし岡村氏と東園氏は東宮伝育官兼任でしたから、まだ手が足りないということで村井長正男爵が加わりました。
昭和10年代の側近者は以上のメンバーで、侍従の中では甘露寺伯爵が長老格で大久保彦左衛門のような存在でした。
甘露寺さんは侍従次長になって当直なしの任務だったのですが、「当直が必要なようならいつでも引き受けるよ」と言ってくださるような人でした。
侍従の仕事について私に説明をしてくれたのは、主として黒田氏・小出氏・入江氏でした。
入江氏に言わせると侍従というのは御手先代わりだとのことで、中国では帝の落し物を拾うから侍従うのことを「拾遺」と呼ぶのだとも聞きました。
だから侍従というのはそういうお世話をするものだ、というのが入江氏の説でした。
小出氏は昭和陛下を自分の身をもってお庇いするのが侍従の仕事だと説明されました。
黒田氏は口数少なく、実意を示される方でした。

小出氏は24貫(90キロ)もある巨体で、それにちなむ珍談もあります。
昭和11年の北海道大演習行幸の際は、宮内書記官木下道雄・庶務課長大金益次郎・大膳寮の秋山司厨長それに小出侍従の4名が出張しました。
札幌の旅館で小出氏が入浴しようとすると、秋山氏が湯船に浸かって首だけ出ていた。
巨漢を自覚している小出氏は「入るよ」と警告したのですが、秋山氏は平然としているのです。
そこで小出氏が勢いよく一気に湯舟に沈むと、湯が滝のようにあふれ出した。
秋山氏は増えた湯をガブガブ飲んでしまい、立ち上がって「ひどいものだ!」と一驚したそうです。

宮内大臣は昭和陛下の御日常生活面とは直接関係は持ちません。
だから毎日お目にかかることもなく、たまにを御召があるか宮内大臣から申し上げることがあると、侍従候所に来て「拝謁を願いたい」と告げます。
それで侍従が昭和陛下の御前に出て御許を得ると、はじめて御座所へと登っていきます。
宮内大臣は宮内庁と林野庁を監督している役職の役所の長官です。

昭和陛下の御身近にいるのは、政治向きの者としては内大臣・軍事向きは武官・日常の御生活面は侍従ということになっています。
昭和陛下の御日常のスケジュールは、全て侍従職の庶務課長が立てることになっていました。
庶務課長というのは宮内省の書記官がなるのです。
高等文官試験を通った人で、内務官僚の中から適当な人を宮内官にする。
これが宮内書記官です。
侍従職の庶務課長を何年か勤めると、本省に帰って部局長になります。
庶務課長は侍従候所ではなく、事務官室に席があります。
別の大きな事務室の中は庶務課の席と経理課の席と内庭課の席とに分かれていて、侍従職・皇后宮職の係がいます。
これらは属官と総称され、身分は判任官です。
内庭課長は皇后宮宮事務官で、内庭課には御運動係などが属します。
今日の御運動がゴルフだということになると、御運動係の人が用意をし、ホールに旗を立てたりするのです。
スケジュールを立てると言っても庶務課長が作り出すのではなく、拝謁者の予定を調整することが中心です。
昭和陛下はどんなことがあってもこの庶務課長の立案を御変えになることはありません。

普通の侍従の仕事というのは昭和陛下の日常のお世話をすることだけですが、別の役職を兼官するようになると仕事の内容も広がってきます。
私は侍従になって1年目に式部官を、2年目に皇后宮事務官を兼官することになりました。
侍従の中で、事務官になる人もならない人もいます。
宮内省の中で昇進の速さは3ランクぐらいに分かれていて、一番早いのが法律官僚で、その次が侍従です。
式部官は仕事は派手で目立つ割に、昇進は一番遅いのです。
侍従も皇后宮事務官を兼ねると昇進は早くなり、法律官僚に次ぐようになります。
勤務は3日に1度泊まりがありました。
朝8時に出て翌日の朝交代が来るまでです。
侍従職だけの者はそれで帰ってもいいのですが、皇后宮事務官を兼任すると夕方までいなければなりません。
しかも皇后宮事務官には非番がないのです。
だから当直明けの日も夕方までいて、その翌日も朝ちゃんと出勤する。
ですから仕事は大変にきつくなります。
これまでにはやらなかったいろいろな雑事もさばくことになります。
当直割を作るのは一番末席の事務官の仕事でした。
いざ作ろうとすると、その日は都合が悪いとかなんとかぐずぐず言うのが華族の特権と思っているのです。
これが事務官としては一番嫌なことでした。

皇后宮事務官を兼ねると、外部から来る拝謁者の世話をすることも仕事になってきます。
宮内省の中の人が昭和陛下に拝謁するのはいつもおられる御常御殿の2階の御政務室に直接行ってお目にかかるのですが、首相や国務大臣・参謀総長など外部からの人の拝謁は御学問所で行われます。
ただし私は文官の諸大臣の世話をするだけで、陸軍海軍両大臣とか参謀総長など軍人の世話は侍従武官の担当でした。

宮内官には伝染予防規定というものがありました。
一番潜伏期の長いのがおたふく風邪だったと思います。
子供がおたふく風邪になると父親である侍従は朝出勤すると侍医寮にある消毒風呂に入ります。
毎朝3ヶ月ぐらい入らなければいけないのです。
潜伏期の短いものだと2~3日というように病気の種類によって規定されています。

葉山などに御静養に行かれる時には、侍従が御供をします。
天皇陛下が宮城外に出かけられる時の鹵簿には順序があります。
大正時代までは馬車でしたが、昭和に入ってからは自動車が使われるようになりました。
まず警視庁の白色の単車が先行し、次に総監のオープンカーが続きます。
天皇陛下と皇后陛下で一台ずつ同型同色のメルセデスベンツにお乗りになります。
天皇の御車の後ろにサイドカーに乗る御警衛内舎人の士長、次に侍従2人と侍従武官1人の乗った車が続き、昭和皇后の御車は侍従車の次になります。
その後を女官の乗った車、そして最後に宮内大臣と内大臣の乗った車が続きます。
なお御車の両側には近衛師団の将校の乗るサイドカーが2台ずつ4台つきます。
なぜ両陛下が一つの御車に御乗りにならないのかというと、天皇陛下が一泊以上宮城から出られる時には必ず剣と璽という神器が出御になる規定なのです。
天皇陛下の両側にはこの2品を安置する小さな棚があって、その前に侍従長が進行方向に背を向けて乗り込みます。
そのため昭和皇后が御一緒だと困ることになるのです。
神器は天皇と離し難いのです。
それから侍従も必ず2人行きます。
万一災害が起こったりして非常御動座の場合には、1人が剣と璽を持ち、1人が両陛下を御先導するために、どうしても最小限2人が泊まらなければいけないわけです。
剣と璽は普段は奥宮殿の剣璽の間に奉安してあります。
葉山に御出ましということになると、侍従・侍従長・武官・武官長は表宮殿と奥の境の杉戸の前でお待ちします。
宮城に残る侍従2人が剣璽の間に入り、まず剣の方を、次いで璽を奉持します。
剣の方が位が上なのです。
御杉戸の内側には両陛下が御立になり、剣璽さんがお通りになるの慎んで御待ちになります。
杉戸のところで葉山に御供をする侍従2人に神器を渡します。
御先導の侍従に御剣が続き、次が天皇様、すぐ御後が神璽奉持の侍従です。
侍従長・武官長が左右に並び、その後ろに武官が1人、次が皇后様、そして皇后宮大夫・女官長・女官、さらにその後を内大臣・宮内大臣という順番になります。
先導の侍従と剣・璽を持つ侍従は詰め衿の供奉服を着ています。
普段供奉服には剣を下げるのですが、剣と璽を持つ侍従は邪魔になるので鍵は下げません。
先導する侍従だけが剣を下げます。
二重橋の内側の御車寄まで行くと先導の侍従の役割は終わるので、列を離れます。
御車寄の階段をまず剣の侍従が降りて、御料車の横に立ちます。
すぐ後から昭和陛下が降りられます。
侍従の口伝に「御車寄の段上で御止りになるから気をつけろ」というのがあります。
御車寄の階段の上で昭和陛下がちょっと止まられるのです。
後ろの神璽奉持の侍従がそのまま歩いて行くとぶつかってしまう。
後ろから当ててしまった例があるそうです。
階段を降りると昭和陛下はそのまま御乗車になり、侍従長が続いて乗り込みます。
そうすると剣の侍従が侍従長に剣を渡す。
侍従長はそれを車の中の定位置に置きます。
璽も同じようにして車の中に置かれます。
これで完了で、ドアが閉まる。
御供の侍従は急いで次の車に乗り込む。
こうして東京駅に着くとまた急いで車から出て、今度は反対に侍従長は璽を先に侍従に渡し、次に剣となります。
葉山の駅と御用邸でも同じことです。
御用邸の奥に安置してやっとホッとできるわけです。
最初の頃は緊張しましたが、度重なると慣れました。
また海軍の視察の場合には、横須賀の埠頭からランチで御召艦比叡に御乗船になることがあります。
この場合ランチは小波で上下するので、艦の舷側のタラップに移る場合は奉持ではなく抱えることが許され、デッキにたどり着いてからそこで正しく奉持することになっていました。

昭和陛下が崩御された後、私が侍従を辞めた頃の侍従長であった木下道雄氏の『側近日誌』が平成元年の春に公開されました。
木下氏は日誌の中で昭和陛下は「朕は」とおっしゃったように書いているなど、格式ばった表現が目立っていました。
木下氏は財務省出身の文官であり、かつて岡本愛祐氏と共に昭和天皇の摂政当時の東宮侍従でもありました。
その岡本氏の書いた回想録を読んでも「朕」という言い方は出てきません。
それなのに木下氏はどうして「朕」という書き方をしたのでしょうか、どうも腑に落ちません。
昭和20年夏に木下氏が侍従次長兼皇后宮大夫をしていた頃も、その話しぶりに少々エキセントリックな感じを受けました。
神がかりでもあるように思いました。
『側近日誌』では、侍従長に就任の前日に突然辞表を出したことになっています。
いかにも無念という感じで書かれています。
しかし平成元年夏に心安い旧側近者に質してみたら、次のようなことがわかりました。
GHQのある軍人が木下氏のもとに缶詰を届けてくれました。
木下氏はそれを持って坂下門から入ろうとしました。
昭和陛下も食事は貧しい時でした、少しでもお役に立てようと考えたのだそうです。
この話が大膳司厨長の秋山徳蔵氏の耳に入りました。
昭和陛下の御食事を担当している秋山氏は激怒しました。
昭和陛下が口にされるものは全て秋山氏が管理することになっていたのです。
それに秋山氏はなかなか気丈な職人肌の人物でした。
秋山氏と木下氏の間が険悪になったといいます。
ドイツ語を学び東京大学法科を出て文官試験をパスし内務官僚から宮内省に入り東宮侍従になって大正時代の宮中を改革したと自負する自信家と、腕一本で生きて日本第一のフランス料理の大家となった人物が衝突して、その結果頭脳の自信家が負けたというのです。
私は木下氏の『側近日誌』を読みながら、もう一つ本当のことが書かれていないのではないかと思いました。

昭和陛下の御心中を思うと、おろいろおありになったと思います。
しかしその御心中は私たちには明かされませんでした。
御退位の御気持があったことも最近になって発表されているようですが、昭和陛下の御性格を考えれば確かにありうることで、東久邇宮首相がその点をこっそりと記者に漏らされました。

1945年10月の末か11月初めの泊まりの夕方から体の具合が悪くなりました。
侍医寮で診てもらうと、「これは大変なことになった。肋膜炎だから安静にしていないといけない」と言うので、しばらく勤めを休むことになりました。
年が明けて3月に入り、突然三井庶務課長が私の家に訪ねて来られました。
さも言いにくそうに侍従の辞表を書いてはどうかと言われます。
その言葉の裏には当然策謀があることが察せられました。
占領による人員の大縮小がGHQから宮内省にも命じられたのです。
私は当然定員削減の対象になったのです。
私に対する扱いがこのようになったというのには、確かに宮中の定員が多かったのも事実でした。
イギリスの宮廷に比べて宮家の数が非常に多いし、宮内官の人数も多すぎるというのがGHQの見方だったのです。
偽らぬ気持ちとしては不満でした。
しかし異議をとなえても水掛け論で、三井氏を困らせるばかりです。
というのは当時の侍従職の監督者は能吏の聞こえの高い人物で、すこぶる自身の強い果断をもって鳴る木下道雄氏だったからです。
とにかく私は三井氏の勧めを受け、その場で辞表を書きました。
しかし当時は米が配給制になっていたりで、都内に転入することが難しい状況でしたし、長男が小学校に入る年齢でもあったので、私の病気が治って東京に焼け跡を見つけて引越すまで発令は待ってもらうようにお願いしました。

辞表を出した翌年昭和22年の3月に病気が落ち着いてから改めて昭和陛下に御挨拶に伺いました。
宮城に赴いて、庶務課などは通さずそのまま侍従候所に行って御前に出たのです。
私が元気になったことに驚かれたようで、「ああ、もういいのか?」という御言葉でした。
昭和陛下が腰掛けるようにと仰せられるので、円卓の向かい側に腰掛けさせていただきました。
「長々御苦労であった」との御言葉をいただき、私の方からは何も申し上げずに御辞儀をして下がりました。
吹上の御文庫に行って昭和皇后に御目にかかるように、との扱いは受けませんでした。
昭和陛下に御挨拶してしばらくしてから三井氏にお会いする機会がありました。
三井氏は私の家に行く時に、
「岡田さんはなかなか頑強に反対するだろうと思い、大変な役目を仰せつかったと思いました」と述懐していました。
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◆124代 昭和天皇 迪宮裕仁親王  123代大正天皇の長男
1901-1989 87歳没


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作家長与善郎 医者長与専斎の子

何度かプライベートに宮中に召され、天皇を囲み親しく寛いだ座談会に列した。
僕がざっくばらんに
「陛下はずいぶんいろんな重臣や軍人の思い出をたくさん持っていらっしゃるでしょうが、その中で一番篤く御信任なすったのは誰ですか」とお尋ねすると、陛下は言下に「山梨勝之進」と答えられた。
元海軍大将で退職後数年間学習院院長を務めた人で、とにかく微塵の政治的野心もない誠実一徹の人だったらしい。
陛下は御自分の性質からこういう本当に真面目で地味な質の人がお好きで、共鳴を感じられるのかと思ったことであった。
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梨木止女子→坂東長康の妻坂東登女子 明治天皇・大正天皇に仕えた女官〈椿の局〉

大正陛下は昔からの明治陛下の仰せになるような言葉で仰せになった。
昭和陛下はいくらか大正陛下にお似ましのようですね。
秩父宮様は下方にお成り遊ばしてるので、兵隊の中で揉まれてござるわね。
一般の人にふさわしいような、近いような御言葉ですわね。
今の東宮様〔平成天皇〕は余計もう、さばけておいでになる。
それにお付きしてる人がみんなそんな粗雑な言葉を使うので。
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■妻  香淳皇后  久邇宮良子女王 久邇宮邦彦王の娘
1903-2000 97歳没


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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

良子皇后が宮様方と御一緒に御団欒の時、照宮成子内親王がどこかに行かれて見えなくなられた。
それで良子皇后が女官に探してくるように仰せになった。
女官はすぐに探し出したのであるが、そのとき良子皇后が「照坊はそこにいたの!」と言われたので、女官たちは驚いてしまった。
世間一般に使っているような言葉が皇后陛下の御口から出たので、こういうことはありうべからざることだと思っていた女官たちには非常な驚きであったのだ。

こういう風に良子皇后は格式張らない平民的な明朗な御方である。
それがまた一部の古くからの宮中にお仕えしていた者たちには、従来の皇后陛下と比較してみて、そのあまりにも大きな違いにとかくいろいろのことを言うようになるのである。
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●継宮 明仁親王  125代平成天皇
●義宮 正仁親王  常陸宮

●照宮 成子内親王 東久邇盛厚王と結婚
●久宮 祐子内親王 早逝
●孝宮 和子内親王 鷹司平通と結婚
●順宮 厚子内親王 池田隆政と結婚
●清宮 貴子内親王 島津久永と結婚

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