◆124代 昭和天皇 迪宮裕仁親王 123代大正天皇の長男
1901-1989 87歳没
■妻 香淳皇后 久邇宮良子女王 久邇宮邦彦王の娘
1903-2000 97歳没
●継宮 明仁親王 125代平成天皇
●義宮 正仁親王 常陸宮
●照宮 成子内親王 東久邇盛厚王と結婚
●久宮 祐子内親王 早逝
●孝宮 和子内親王 鷹司平通と結婚
●順宮 厚子内親王 池田隆政と結婚
●清宮 貴子内親王 島津久永と結婚
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昭和天皇の娘 厚子内親王→池田厚子
父陛下の第四皇女として生まれ、今ここにこうしております私自身について 思いをめぐらせてみますと、必ず一つの問いかけに行きあたりますように思えます。
「天皇陛下をお父上にもたれるというのはどのようなものですか?」
このようなご質問こそが、世の中の皆様方が私どもに向けられます一番のお問いかけではなかったでしょうか。
客観的に考えましたら、皇室に生まれますことはかなり特殊なことに違いありません。
けれどもそう申し上げますと皆様方なにか拍子抜けなさいますことが多いのですが、天皇陛下を父といたしましたことにつきましては、意識せずに育ったというのが私自身の本当のところでございました。
東宮様を含めて7人の兄妹は全員皇居の中の、焼けてしまって今はない御静養室で生まれました。
そして皇子御殿で幼年時代を過ごしました後、学習院初等科に入学してから結婚までの時期は、早くに亡くなりました姉東久邇成子・まるで父陛下の後を慕われるようにして亡くなってしまった姉鷹司和子・妹の島津貴子・それに私を加えました四人の姉妹は、呉竹寮と呼ばれます別棟で暮らしておりました。
呉竹寮では私たちはそれぞれ和室を使い、そこで勉強しておりました。
他に御遊戯室や食堂・寝室がありました。
御遊戯室は遊べるように板の間になっていて、ピンポン台や肋木がありました。
またピアノも置いてありました。
毎週土曜日に母陛下が、公務や御研究などがおありにならない時は父陛下も御一緒に呉竹寮においでくださいました。
母陛下は私たちのピアノのお稽古や勉強を見て下さいました。
裏山にアヒルを出し、子供たちみんなで追いかけたこともございます。
父陛下は側でそれをニコニコして御覧になっておられました。
また今は焼けた皇子御殿の縁側でウサギを抱いたこともございます。
鬼ごっこをして父陛下が鬼になられたことも。
竹藪でタケノコ掘りもいたしました。
日曜日昼間は子供たちみんなで、水曜日に姉妹が御夕食に皇居に伺いました。
これは結婚するまで続きました。
水曜日には御夕食を御一緒しながらいろいろ御話をいたしました。
父陛下は音楽は特に御好きでなかったようですが、それでも「今日はよっちゃんはピアノは何を弾いたのか?」と御聞きになりました事がございます。
「順宮」(よりのみや)が私の称号でしたので、両陛下は私を「よっちゃん」と御呼びになっておられました。
学校の御話もいたしました。
料理を習うようになってからは、それを持って行くと喜んで召し上がってくださいました。
那須の御用邸で御過しになられている時など、お外に御散歩に出られてゆっくりゆっくり植物の採集をなさって、それは楽しんで御歩きになっておられました。
御一緒に歩いて植物の名を色々伺いました。
父陛下の御影響なのか、私はカイコやいろいろな虫が大好きで、学生時代にはよく飼いました。
戦前には夏休みを葉山の付属邸で過ごしましたので、御採集に御出かけになる時はよく御誘いいただき、磯の岩場で御一緒にウミウシの採集をいたしました。
父陛下は泳ぐのが御上手でいらっしゃいまして、私にも「大丈夫だから泳いでごらんなさい」とおっしゃってずいぶん励ましてくださったのですが、私は怖がりでなかなかできませんでした。
少し離れた両陛下がお住まいの御用邸に御食事に伺いますと、必ず「今日は何メートル泳いだの?」御尋になります。
その励ましに一生懸命練習いたしました。
父陛下が大演習にいらした時には、必ず御土産をいただきました。
いらした先々の名産が多かったように思います。
今でも津軽塗の小ダンスを大切に使わせていただいております。
このように小さい頃から思い出はどれをとっても平穏そのもののようなばかりだったように思えるのですが、幼かった私などには到底知り得ないところで実は日本の国が大変な時代へと向かっていた時代だったのだと、これはずっと後になって知ったことです。
昭和11年二二六事件の当日、当時5歳の私はたまたま葉山の御用邸におりました。
雪がたくさん積もって、葉山の海の沖に軍艦が見えたのをはっきりと覚えています。
子供心になにかとても不思議な感じがして、何かあったのだろうかと漠然と思ったような記憶があります。
昭和16年太平洋戦争開戦のニュースを聞いたのは東京でした。
戦争中の疎開先は、東宮様・常陸宮様の御二方は日光へ、姉妹三人は塩原へというように別でございました。
塩原では御用邸から車で塩湧橋まで行き、そこから山道を20分ほど歩いて学校となっている旅館に通っておりました。
姉鷹司和子は体操や音楽を私たちと一緒に習う他、個人教授を受けておりました。
吹雪の時など御用邸から歩いて学校に通うのはなかなか大変で、吹雪の中を一生懸命歩いたものです
。
足が丈夫になったのもそのためだったのでしょう。
塩原に疎開しております間には、父陛下から時折 御手紙をいただいておりました。
こちらからもお出ししましたが、しっかり勉強していますと書いてお送りしたように記憶しております。
昭和20年8月15日終戦についての父陛下のラジオの御放送を聞いたのは疎開先の塩原でした。
9月になって父陛下とマッカーサー元帥が並んで写っておられます写真の載った新聞を見たの塩原でした。
長かった戦争のあと兄妹たちがそれぞれの疎開先から戻り、久しぶりに両陛下と御一緒に家族が揃ってテーブルクロスのかけられた長方形の食卓を囲んでおります写真が一葉私の手元にございます。
両陛下ともまだお若くていらっしゃいまして、おうれしそうに笑っていらっしゃるのが印象的な写真です。
父陛下は戦争で焼けた後は皇居の中の吹上御苑と呼ばれているところにある頑丈な防空建設に、昭和36年今吹上御所が新築されるまで住まっておられました。
終戦後だんだんと呉竹寮の中の空気も自由になってきて、学校からいただいた成績表を自分で持って行って父陛下にお見せしたりもしておりました。
その度にまたしっかり勉強なさいといつも励ましてくださいました。
ただ一度英語の成績が悪かった時、
「バイニング先生に習っているのにどうしてこんな成績を取ったのか?」とおっしゃった時は一言もありませんでした。
中等科の終り頃高等科の進路を決めるのに、学科の中では理科が好きだったので理科に進みましたが、父陛下は「女は家政科に行った方がよいよ」とおっしゃっておられました。
その事が忘れられなかったのでしょうか、短大では家庭生活科に入りたいと思いました。
私が学習院短大に進みます年にはまだ家庭生活科ができておりませんで、先生が「家庭生活科に行きたいのなら国文科からでないと転科できない」とおっしゃったので、1年のとき国文科に入り、2年のとき家庭生活科に転科いたしました。
家庭生活科では食品科学や栄養学などを勉強いたしました。
食物について一通り勉強したので、後々は少しはタメになったような気がいたします。
学習院短大の2年に進みました春、結婚の御話が持ち上がりました。
お相手は旧岡山藩主池田宣政様ご長男隆政様でした。
隆政様は私より5つ年上。
岡山市の西端、京山と呼ばれる小高い丘の中腹に牧場を経営する若き牧場長さんでした。
お背がお高くよく日に焼けていらして、「背広姿より作業姿がよく似合う」と何かの記事に書かれていたような記憶があります。
この縁談は何よりもまず父陛下の希望でした。
父陛下は「前から皇族または元皇族が一人か二人は地方に行った方が良いと思っていました」とおっしゃいました。
それは斎王になられた伊勢の倭姫の皇族の歴史があるからです。
婚約が整いましてからは、隆政さんは岡山の牧場から時々上京していらして呉竹寮をお訪ねくださり、楽しいひと時を過ごしました。
ところが御話が進められている一方で、貞明皇后がお亡くなりになるという不幸がございました。
貞明皇后は私にとりまして御祖母宮様で、大変可愛がっていただきました。
御話を御聞きになった二日後に亡くなられました。
後で女官から御喜びになっていたことを聞きました。
大変残念でございました
結婚式は宮中喪の明けた翌年10月10日と決まりました。
式は東京芝高輪の光輪閣で行われることになっておりました。
式の時の衣装は、古式の亀甲・地紋の小袿・臙脂の袴、これは母陛下の物を拝借いたしました。
髪はカツラのおすべらかし。
お雛様を思い浮かべていただくのが一番わかりやすいと思います。
このお着付の御指図は、母陛下が御自身でなさってくださいました。
結婚式の前から父陛下は御風邪を御引きになっていらっしゃいました。
結婚式の当日はだいぶ良くなっていらして御出席になれたのですが、父陛下は結婚式の後に大使の認証式を控えていらっしゃるので、御無理をなさらない方が良いとのことでした。
それを聞いて一時は悲しかったのですが、冷静になって考えてみれば本当にそうだと納得いたしました。
私は初めて父陛下は私の父親であると同時に、日本という御国の天皇陛下でいらっしゃるということをしみじみと感じました。
御文庫を出ます前に父陛下の部屋にご挨拶に伺いました
池田へ嫁ぎ一週間後に岡山へ奥に入りしました
それからはどちらの奥様方もなさいますのと変わらない家庭の中の仕事で終始いたしまして、平和で幸福なものでございました。
夫は大の動物好きで、動物好きが高じて始めた仕事でございました。
日曜日もない仕事ですが、私自身も動物は好きな方ですので、小鳥の世話を手伝ったり犬を飼ったりして楽しんでおりました、
母陛下からいただいたピアノを時折弾いてみることもありました。
昭和38年、岡山で平穏無事に暮らしておりました私の身に異変が起こりました。
食欲もないので夏負けかしらと思い、検診の日なので病院に行きました。
診察していただいたら熱も39度を越していることがわかり、岡山大学付属病院にそのまま入院いたしました。
熱があると知らなかったのですから、先生の方がびっくりしておられました。
敗血症であったことを退院の後知りました。
父陛下の第二皇女になります方が生まれて数ヶ月で敗血症で亡くなっておりましたので、父陛下にどうお話ししようかと思われたそうです。
娘の病名を遠く離れた東京で御聞きになられた両陛下は、さぞかし御胸を御痛くださったのでしょう、翌月には御召列車で岡山に御越しになり、私の病室を御見舞くださいました。
本当に嬉しゅうございました。
先生方をはじめ・婦長さん・お世話してくださっている方々・そして夫の隆政にも、
父陛下は「お世話になっています。今後ともよろしくお願いします」と丁寧に御挨拶なさって帰られたと、後から周囲の人たちから聞きました。
父陛下の深い愛情を身にしみて感じながら闘病生活を送りました。
8ヶ月の闘病生活を送ることになってしまいました。
皆さまのお力で治癒し、数カ月後の後遺症も乗り越え、退院後の静養に両陛下のいらっしゃる那須の御用邸で過ごし、久しぶりにおいしい朝食もいただき、散歩も御一緒しました。
お二人は私の全快を心から御喜びになっておられました。
御散歩の時には植物を見ながらゆっくりを歩きになりますので、合わせているとこちらの方が疲れてしまいます。
「先に行ってもいいよ」とおっしゃってくださるので、「お先に行かせていただきます」と申し上げお先に歩きお待ちしていました。
父陛下は私心のおありにならない方でした。
そういう御性格でいらっしゃいますので、御身回りにお仕えする侍従さん達に向かって御怒になったりされたことはなく、ユーモラスにおかわしになっていらした御様子です。
子供のころ食後すぐ相手をしてもらおうと侍従さんを呼びに行こうとすると、
「一服してからにしておやり」と必ずおっしゃいました。
思いやりがなければいけない、そして自分の楽しみよりも相手の気持ちを察してやれと教えていただいたように思います。
また父陛下は母陛下に対してもとても御優しくていらっしゃいまして、どこかを御一緒に御歩きになっている時も、必ず母陛下の方を御ふり返りになって御心をおかけになっておられました。
テレビなどでそうした御二人の御様子を拝見する度に、ああ、いい御夫婦でいらっしゃるのだなと微笑ましく思っておりました。
陛下は本当に母陛下を御大事にしておあげになっていらっしゃいました。
父陛下が御病床につかれましてからは、鷹司の姉と島津の妹と女のきょうだい3人が電話で相談し、大勢で行ってパッと帰るとおさみしいだろうからと、一人ずつかわりばんこに御見舞することにいたしました。
今改めて指を折ってみますと、二十数回にもなりましょうか。
父陛下の方から御手をお出しになったり、私の方から御手をお握りしておりましたが、長い御闘病の間に少しずつ御弱りなっていかれるのが目に見え、帰る車の中で涙を流しました。
生きている方が悲しゅうございました。
朝目が覚めると、いつも祈るような気持ちでテレビをつけておらりました。
1989年1月7日の早朝、東京のホテルに待機しておりました私の所に御危篤の知らせがございました。
午前6時過ぎに吹上御所に入り御寝室に伺いますと、ひっそりとただただ御静かに御休になられているだけのように見えます父陛下のベッドの周りに、東宮様御夫妻(平成天皇皇后)をはじめ、浩宮・礼宮・紀宮・皇族の皆様方がお集まりになっていらっしゃいます。
私は父陛下の御ベッドの御足の方におりました。
午後6時33分、父陛下にとりまして最も身近でいらっしゃいます皆様方の見守られる中で、父陛下は息を御引取りになりました。
父陛下が吹上御所で御病床におつきになりましてから、ちょうど111日という日々が過ぎておりました。
本当によく頑張って下さいました。
その間に私たちの誰もがそれぞれの胸の内にそれぞれの覚悟を決めて、父陛下の御最期をお見守り申し上げることができたかと思います。
父陛下の御顔はとても静かで穏やかにまるで御眠りになっていらっしゃいますような、とてもいい御顔でございました。
どうぞどうぞ安らかに御休みなさってくださいませと、私もまたその時かねてよりの覚悟のうちに心の中で父陛下に最後の別れを申し上げ、深く深く頭を下げました。
御最期の瞬間までおさすり申し上げていた父陛下の御足は大変に温かでございました。
御手も御足も最後まで御柔く温かでいらっしゃいまして、最後の温もりはきっといつまでも忘れないことでございましょう。
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1901-1989 87歳没
■妻 香淳皇后 久邇宮良子女王 久邇宮邦彦王の娘
1903-2000 97歳没
●継宮 明仁親王 125代平成天皇
●義宮 正仁親王 常陸宮
●照宮 成子内親王 東久邇盛厚王と結婚
●久宮 祐子内親王 早逝
●孝宮 和子内親王 鷹司平通と結婚
●順宮 厚子内親王 池田隆政と結婚
●清宮 貴子内親王 島津久永と結婚
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昭和天皇の娘 厚子内親王→池田厚子
父陛下の第四皇女として生まれ、今ここにこうしております私自身について 思いをめぐらせてみますと、必ず一つの問いかけに行きあたりますように思えます。
「天皇陛下をお父上にもたれるというのはどのようなものですか?」
このようなご質問こそが、世の中の皆様方が私どもに向けられます一番のお問いかけではなかったでしょうか。
客観的に考えましたら、皇室に生まれますことはかなり特殊なことに違いありません。
けれどもそう申し上げますと皆様方なにか拍子抜けなさいますことが多いのですが、天皇陛下を父といたしましたことにつきましては、意識せずに育ったというのが私自身の本当のところでございました。
東宮様を含めて7人の兄妹は全員皇居の中の、焼けてしまって今はない御静養室で生まれました。
そして皇子御殿で幼年時代を過ごしました後、学習院初等科に入学してから結婚までの時期は、早くに亡くなりました姉東久邇成子・まるで父陛下の後を慕われるようにして亡くなってしまった姉鷹司和子・妹の島津貴子・それに私を加えました四人の姉妹は、呉竹寮と呼ばれます別棟で暮らしておりました。
呉竹寮では私たちはそれぞれ和室を使い、そこで勉強しておりました。
他に御遊戯室や食堂・寝室がありました。
御遊戯室は遊べるように板の間になっていて、ピンポン台や肋木がありました。
またピアノも置いてありました。
毎週土曜日に母陛下が、公務や御研究などがおありにならない時は父陛下も御一緒に呉竹寮においでくださいました。
母陛下は私たちのピアノのお稽古や勉強を見て下さいました。
裏山にアヒルを出し、子供たちみんなで追いかけたこともございます。
父陛下は側でそれをニコニコして御覧になっておられました。
また今は焼けた皇子御殿の縁側でウサギを抱いたこともございます。
鬼ごっこをして父陛下が鬼になられたことも。
竹藪でタケノコ掘りもいたしました。
日曜日昼間は子供たちみんなで、水曜日に姉妹が御夕食に皇居に伺いました。
これは結婚するまで続きました。
水曜日には御夕食を御一緒しながらいろいろ御話をいたしました。
父陛下は音楽は特に御好きでなかったようですが、それでも「今日はよっちゃんはピアノは何を弾いたのか?」と御聞きになりました事がございます。
「順宮」(よりのみや)が私の称号でしたので、両陛下は私を「よっちゃん」と御呼びになっておられました。
学校の御話もいたしました。
料理を習うようになってからは、それを持って行くと喜んで召し上がってくださいました。
那須の御用邸で御過しになられている時など、お外に御散歩に出られてゆっくりゆっくり植物の採集をなさって、それは楽しんで御歩きになっておられました。
御一緒に歩いて植物の名を色々伺いました。
父陛下の御影響なのか、私はカイコやいろいろな虫が大好きで、学生時代にはよく飼いました。
戦前には夏休みを葉山の付属邸で過ごしましたので、御採集に御出かけになる時はよく御誘いいただき、磯の岩場で御一緒にウミウシの採集をいたしました。
父陛下は泳ぐのが御上手でいらっしゃいまして、私にも「大丈夫だから泳いでごらんなさい」とおっしゃってずいぶん励ましてくださったのですが、私は怖がりでなかなかできませんでした。
少し離れた両陛下がお住まいの御用邸に御食事に伺いますと、必ず「今日は何メートル泳いだの?」御尋になります。
その励ましに一生懸命練習いたしました。
父陛下が大演習にいらした時には、必ず御土産をいただきました。
いらした先々の名産が多かったように思います。
今でも津軽塗の小ダンスを大切に使わせていただいております。
このように小さい頃から思い出はどれをとっても平穏そのもののようなばかりだったように思えるのですが、幼かった私などには到底知り得ないところで実は日本の国が大変な時代へと向かっていた時代だったのだと、これはずっと後になって知ったことです。
昭和11年二二六事件の当日、当時5歳の私はたまたま葉山の御用邸におりました。
雪がたくさん積もって、葉山の海の沖に軍艦が見えたのをはっきりと覚えています。
子供心になにかとても不思議な感じがして、何かあったのだろうかと漠然と思ったような記憶があります。
昭和16年太平洋戦争開戦のニュースを聞いたのは東京でした。
戦争中の疎開先は、東宮様・常陸宮様の御二方は日光へ、姉妹三人は塩原へというように別でございました。
塩原では御用邸から車で塩湧橋まで行き、そこから山道を20分ほど歩いて学校となっている旅館に通っておりました。
姉鷹司和子は体操や音楽を私たちと一緒に習う他、個人教授を受けておりました。
吹雪の時など御用邸から歩いて学校に通うのはなかなか大変で、吹雪の中を一生懸命歩いたものです
。
足が丈夫になったのもそのためだったのでしょう。
塩原に疎開しております間には、父陛下から時折 御手紙をいただいておりました。
こちらからもお出ししましたが、しっかり勉強していますと書いてお送りしたように記憶しております。
昭和20年8月15日終戦についての父陛下のラジオの御放送を聞いたのは疎開先の塩原でした。
9月になって父陛下とマッカーサー元帥が並んで写っておられます写真の載った新聞を見たの塩原でした。
長かった戦争のあと兄妹たちがそれぞれの疎開先から戻り、久しぶりに両陛下と御一緒に家族が揃ってテーブルクロスのかけられた長方形の食卓を囲んでおります写真が一葉私の手元にございます。
両陛下ともまだお若くていらっしゃいまして、おうれしそうに笑っていらっしゃるのが印象的な写真です。
父陛下は戦争で焼けた後は皇居の中の吹上御苑と呼ばれているところにある頑丈な防空建設に、昭和36年今吹上御所が新築されるまで住まっておられました。
終戦後だんだんと呉竹寮の中の空気も自由になってきて、学校からいただいた成績表を自分で持って行って父陛下にお見せしたりもしておりました。
その度にまたしっかり勉強なさいといつも励ましてくださいました。
ただ一度英語の成績が悪かった時、
「バイニング先生に習っているのにどうしてこんな成績を取ったのか?」とおっしゃった時は一言もありませんでした。
中等科の終り頃高等科の進路を決めるのに、学科の中では理科が好きだったので理科に進みましたが、父陛下は「女は家政科に行った方がよいよ」とおっしゃっておられました。
その事が忘れられなかったのでしょうか、短大では家庭生活科に入りたいと思いました。
私が学習院短大に進みます年にはまだ家庭生活科ができておりませんで、先生が「家庭生活科に行きたいのなら国文科からでないと転科できない」とおっしゃったので、1年のとき国文科に入り、2年のとき家庭生活科に転科いたしました。
家庭生活科では食品科学や栄養学などを勉強いたしました。
食物について一通り勉強したので、後々は少しはタメになったような気がいたします。
学習院短大の2年に進みました春、結婚の御話が持ち上がりました。
お相手は旧岡山藩主池田宣政様ご長男隆政様でした。
隆政様は私より5つ年上。
岡山市の西端、京山と呼ばれる小高い丘の中腹に牧場を経営する若き牧場長さんでした。
お背がお高くよく日に焼けていらして、「背広姿より作業姿がよく似合う」と何かの記事に書かれていたような記憶があります。
この縁談は何よりもまず父陛下の希望でした。
父陛下は「前から皇族または元皇族が一人か二人は地方に行った方が良いと思っていました」とおっしゃいました。
それは斎王になられた伊勢の倭姫の皇族の歴史があるからです。
婚約が整いましてからは、隆政さんは岡山の牧場から時々上京していらして呉竹寮をお訪ねくださり、楽しいひと時を過ごしました。
ところが御話が進められている一方で、貞明皇后がお亡くなりになるという不幸がございました。
貞明皇后は私にとりまして御祖母宮様で、大変可愛がっていただきました。
御話を御聞きになった二日後に亡くなられました。
後で女官から御喜びになっていたことを聞きました。
大変残念でございました
結婚式は宮中喪の明けた翌年10月10日と決まりました。
式は東京芝高輪の光輪閣で行われることになっておりました。
式の時の衣装は、古式の亀甲・地紋の小袿・臙脂の袴、これは母陛下の物を拝借いたしました。
髪はカツラのおすべらかし。
お雛様を思い浮かべていただくのが一番わかりやすいと思います。
このお着付の御指図は、母陛下が御自身でなさってくださいました。
結婚式の前から父陛下は御風邪を御引きになっていらっしゃいました。
結婚式の当日はだいぶ良くなっていらして御出席になれたのですが、父陛下は結婚式の後に大使の認証式を控えていらっしゃるので、御無理をなさらない方が良いとのことでした。
それを聞いて一時は悲しかったのですが、冷静になって考えてみれば本当にそうだと納得いたしました。
私は初めて父陛下は私の父親であると同時に、日本という御国の天皇陛下でいらっしゃるということをしみじみと感じました。
御文庫を出ます前に父陛下の部屋にご挨拶に伺いました
池田へ嫁ぎ一週間後に岡山へ奥に入りしました
それからはどちらの奥様方もなさいますのと変わらない家庭の中の仕事で終始いたしまして、平和で幸福なものでございました。
夫は大の動物好きで、動物好きが高じて始めた仕事でございました。
日曜日もない仕事ですが、私自身も動物は好きな方ですので、小鳥の世話を手伝ったり犬を飼ったりして楽しんでおりました、
母陛下からいただいたピアノを時折弾いてみることもありました。
昭和38年、岡山で平穏無事に暮らしておりました私の身に異変が起こりました。
食欲もないので夏負けかしらと思い、検診の日なので病院に行きました。
診察していただいたら熱も39度を越していることがわかり、岡山大学付属病院にそのまま入院いたしました。
熱があると知らなかったのですから、先生の方がびっくりしておられました。
敗血症であったことを退院の後知りました。
父陛下の第二皇女になります方が生まれて数ヶ月で敗血症で亡くなっておりましたので、父陛下にどうお話ししようかと思われたそうです。
娘の病名を遠く離れた東京で御聞きになられた両陛下は、さぞかし御胸を御痛くださったのでしょう、翌月には御召列車で岡山に御越しになり、私の病室を御見舞くださいました。
本当に嬉しゅうございました。
先生方をはじめ・婦長さん・お世話してくださっている方々・そして夫の隆政にも、
父陛下は「お世話になっています。今後ともよろしくお願いします」と丁寧に御挨拶なさって帰られたと、後から周囲の人たちから聞きました。
父陛下の深い愛情を身にしみて感じながら闘病生活を送りました。
8ヶ月の闘病生活を送ることになってしまいました。
皆さまのお力で治癒し、数カ月後の後遺症も乗り越え、退院後の静養に両陛下のいらっしゃる那須の御用邸で過ごし、久しぶりにおいしい朝食もいただき、散歩も御一緒しました。
お二人は私の全快を心から御喜びになっておられました。
御散歩の時には植物を見ながらゆっくりを歩きになりますので、合わせているとこちらの方が疲れてしまいます。
「先に行ってもいいよ」とおっしゃってくださるので、「お先に行かせていただきます」と申し上げお先に歩きお待ちしていました。
父陛下は私心のおありにならない方でした。
そういう御性格でいらっしゃいますので、御身回りにお仕えする侍従さん達に向かって御怒になったりされたことはなく、ユーモラスにおかわしになっていらした御様子です。
子供のころ食後すぐ相手をしてもらおうと侍従さんを呼びに行こうとすると、
「一服してからにしておやり」と必ずおっしゃいました。
思いやりがなければいけない、そして自分の楽しみよりも相手の気持ちを察してやれと教えていただいたように思います。
また父陛下は母陛下に対してもとても御優しくていらっしゃいまして、どこかを御一緒に御歩きになっている時も、必ず母陛下の方を御ふり返りになって御心をおかけになっておられました。
テレビなどでそうした御二人の御様子を拝見する度に、ああ、いい御夫婦でいらっしゃるのだなと微笑ましく思っておりました。
陛下は本当に母陛下を御大事にしておあげになっていらっしゃいました。
父陛下が御病床につかれましてからは、鷹司の姉と島津の妹と女のきょうだい3人が電話で相談し、大勢で行ってパッと帰るとおさみしいだろうからと、一人ずつかわりばんこに御見舞することにいたしました。
今改めて指を折ってみますと、二十数回にもなりましょうか。
父陛下の方から御手をお出しになったり、私の方から御手をお握りしておりましたが、長い御闘病の間に少しずつ御弱りなっていかれるのが目に見え、帰る車の中で涙を流しました。
生きている方が悲しゅうございました。
朝目が覚めると、いつも祈るような気持ちでテレビをつけておらりました。
1989年1月7日の早朝、東京のホテルに待機しておりました私の所に御危篤の知らせがございました。
午前6時過ぎに吹上御所に入り御寝室に伺いますと、ひっそりとただただ御静かに御休になられているだけのように見えます父陛下のベッドの周りに、東宮様御夫妻(平成天皇皇后)をはじめ、浩宮・礼宮・紀宮・皇族の皆様方がお集まりになっていらっしゃいます。
私は父陛下の御ベッドの御足の方におりました。
午後6時33分、父陛下にとりまして最も身近でいらっしゃいます皆様方の見守られる中で、父陛下は息を御引取りになりました。
父陛下が吹上御所で御病床におつきになりましてから、ちょうど111日という日々が過ぎておりました。
本当によく頑張って下さいました。
その間に私たちの誰もがそれぞれの胸の内にそれぞれの覚悟を決めて、父陛下の御最期をお見守り申し上げることができたかと思います。
父陛下の御顔はとても静かで穏やかにまるで御眠りになっていらっしゃいますような、とてもいい御顔でございました。
どうぞどうぞ安らかに御休みなさってくださいませと、私もまたその時かねてよりの覚悟のうちに心の中で父陛下に最後の別れを申し上げ、深く深く頭を下げました。
御最期の瞬間までおさすり申し上げていた父陛下の御足は大変に温かでございました。
御手も御足も最後まで御柔く温かでいらっしゃいまして、最後の温もりはきっといつまでも忘れないことでございましょう。
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