直球和館

2025年

2001/04

◆124代 昭和天皇(迪宮裕仁親王)123代大正天皇の長男
1901-1989 87歳没


■妻  香淳皇后  久邇宮良子女王 久邇宮邦彦王の娘
1903-2000 97歳没


●継宮 明仁親王  125代平成天皇
●義宮 正仁親王  常陸宮

●照宮 成子内親王 東久邇盛厚王と結婚
●久宮 祐子内親王 早逝
●孝宮 和子内親王 鷹司平通と結婚
●順宮 厚子内親王 池田隆政と結婚
●清宮 貴子内親王 島津久永と結婚


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高松宮喜久子妃の妹 徳川久美子→松平久美子→井出久美子 徳川慶久公爵の娘

天皇陛下にも幾度かお目にかかる機会がありました。
高松宮殿下がご病気になられ、お見舞いにいらっしゃった時でした。
義兄高松宮邸の玄関は段差があるため心配になり、私が思わず天皇陛下の手をお取りしようとしたら、陛下が私の手をサッと振り払われたのです。
高松宮殿下は酸素ボンベの管をつけたまま大いに笑われて、
「振り払われてるよ」とおっしゃりながら大変愉快そうに喜ばれておられました。
恐れ多くも陛下の手を取ろうなんて誰も考えないことですからね。
普通のご兄弟のように、和やかにお話を交わされていたお姿が思い出されます。
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━━天皇陛下・秩父宮・高松宮の御三方は皇孫殿下でいらっしゃったわけですね?
高松宮妃◆そう。三笠宮は大正天皇の時にお生まれになったので、皇子殿下。上の御三方はいつも御一緒にくっついていらした。皇孫様でいらしたから、少しは気楽な御立場で御生活おできになったの。
秩父宮妃◆三笠宮殿下は特に天皇陛下の皇子として御誕生のため、自分達は皇孫だったんだからちょっと立場が違うとお思いになったようね。昔書いたものを拝見すると、お小さい頃のエピソードなどがいろいろおありになる。参内する方々や地方からなど御三方様におもちゃとかスポーツ用具とか土地の名産など献上があったようです。あるとき御三方様で三つの人形それぞれお選びになるわけね。陛下はやっぱりそのことから兄上様だから、いつも弟様達に「お先に」とおっしゃるんです。
高松宮妃◆なかなかできないことですわね。
秩父宮妃◆そういうようにお躾られになったんですね。御子様だし自分の欲しい物は欲しい。まず宮が真っ先に「ありがとう」とおっしゃってお取りになる。今度は秩父宮は本当に珍しく「お兄様お先に」とおっしゃったんですね。そしたら陛下がびっくり遊ばしたと同時に、やっぱりを欲しい物をすぐにお取りになった。秩父宮は結局欲しい物がなく、残った物をやむをえずにお取りになった。涙を流さんばかりで。
高松宮妃◆おかわいいわねえ。
秩父宮妃◆本当におかわいいの。
高松宮妃◆本当に仲の良い御兄弟でいらした。

秩父宮妃◆御三方が御一緒に青山の皇子御殿でお育ちになって、明治天皇が崩御あそばして昭和天皇が東宮にお成りになって、〈おあにい様〉だけが高輪の東宮御所にお移りになって特別な教育を受けることになったわけ。
高松宮妃◆つまり東宮御学問所ね。
秩父宮妃◆それで御三人様はお別れする時が来て。お別れのお悲しみは大変でした。秩父宮と高松宮は、その時冬だったもので「明日は雪になれ雪になれ、大雪になれ、大雨になれ」って祈ってらしたんですって。そしたら本当に大雪で東宮が高輪にお移りになるのが御延期になり、バンザイバンザイで皆さん大喜びだったと書いてありますよ。お無邪気でほんとにお仲よしね。
高松宮妃◆まったくお仲よしねえ。
秩父宮妃◆ところがそう長くは降ってないでしょう、その翌日は晴れていよいよお別れで、あとの御二方様も別々の御用邸にいらっしゃることになりました。
高松宮妃◆陛下は沼津、秩父宮は葉山、うちの宮様は小田原と、別々に違う所へ おいでになったとあります。本当にお気の毒でしたの。
秩父宮妃◆そして御学友というのが決められて付属邸で御一緒に勉強して、皇子御殿の係の人が宮様方の御友達の世話もするのね。10日間ぐらいその子供達は親にも会えないし、宮様も夜は別の御部屋にお泊りになる。同じ御用邸の中でも、宮様方は御別室。小さな御学友の中には家に帰りたがって、親の顔を見たくて泣く子もあったと思います。
高松宮妃◆親の方も会いに行くのはお許しがあるけれど、勝手に連れて帰るわけにはいかない。そういう風な御教育でした。

━━秩父宮・高松宮は昭和天皇のことは「お兄上様」とおっしゃるんですか?
高松宮妃◆陛下。
秩父宮妃◆昔は「お兄様」とおっしゃった時代もあるようです。
高松宮妃◆お小さい時は「お兄宮様」
秩父宮妃◆お手紙はそうね、「お兄宮様」
高松宮妃◆私はいま宮様の御伝記を作らせておりますけれど、お手紙を全部整理したの。
貞明皇后から宮様宛にいろいろお手紙をいただいていまして、それを拝見すると本当にお偉いお母さまだったということがよくわかるの。受け皿の宮様方もお偉かったと思いますけど、お母様としての貞明皇后も大した方でいらっしゃいましたね。

高松宮妃◆終戦日に伺いましたよね。
秩父宮妃◆当日ね。あの時はお風邪を召していられたので、いったいどういうことになるか不安でした。陛下の初めての御放送で、こんな悲しい、終戦と言っているけど敗戦ですから。本当に思いもかけない出来事で、しかも初めて御放送遊ばすから、御兄弟として心配していらっしゃるわけ。お耐えになれるどうか、それからみんながちゃんとわかるかどうか。そこへ高松宮が高松宮妃とご一緒に、お忙しいのにわざわざいらしてくださいました。お知らせのあった時は、よくぞと嬉しく感激いたしました。お兄様とご一緒に御放送を伺おうとお思いになったからでしょう。やっぱり御兄弟で一緒にお育ちになったお兄様がはたしてうまく放送おできになるかどうか、お兄様の気持ちもお辛かろうから、せめてご一緒に聞こうというお気持ちなのね。
高松宮妃◆陛下の放送を四人でご一緒に伺いました。
秩父宮妃◆四人で伺ったのね、涙ばかり。高松宮はすぐ御用で飛んでお帰りになった。私はお昼の代わりに何か差し上げなければといっても、あの時代ですからお米とか玉子とか鶏とか飼ったり作ったり全部自給自足していましたから、お粗末な食事でしたけどそれを召し上がっていただいてお立ちになった。

━━玉音放送をお聞きになってから、昭和天皇にお会いになったのはいつごろでしょうか?

秩父宮妃◆皇族方はみんなすぐそれから方々に陛下の御言葉をお伝えするためお出かけになったでしょ。高松宮が一番でいらしてね。大変だったと思う、軍の基地の数が多くて。
高松宮妃◆ええ、全国に飛んでいらして。厚木の航空隊ものすごかったんです。反乱の企てをやめさせようというので。あれで収まったのね。それでなかったら。
秩父宮妃◆昭和天皇がはっきりとおっしゃったにも関わらず、御放送は場所によっては聞こえないし伺えない。私どもは悲しかったけど、泣いてもいられないから手落ちにないよう緊張しました。
高松宮妃◆昭和天皇は戦争中ずいぶんお痩せになったわね。やっぱりいろいろと御苦労遊ばして、本当においたわしい。
秩父宮妃◆良子皇后の御功績は大きかったとつくづく思います。あのお苦しみにお耐えになったのは良子皇后がおそばにいらしたからこそであって、その御功績を忘れてはならないと思います。

高松宮妃◆仲のよい御夫婦で大変なのよね。
秩父宮妃◆悪いみたいね、大変って(笑)
高松宮妃◆すぐ「良宮」とおっしゃるの。ものすごく「良宮、良宮」って。みんな当てられっぱなし(笑)ところが昭和天皇は当てられるという言葉をご存知なかったの。
秩父宮妃◆そう何かにぶつけられると思ってらした(笑)
高松宮妃◆そういうことご存じなかったのよ。「当てられる」というのがおわからりにならないの。年中当てていらして、お仲がよろしかったわねえ。

高松宮妃◆吹上にプールを作りになった時、私伺って泳いだの。良子皇后のお相手をして。
秩父宮妃◆吹上のどこよ?
高松宮妃◆御所の向こうの方にできました。
秩父宮妃◆良子皇后はテニスでも何でもスポーツはお好きですね。
高松宮妃◆でも良子皇后は初めはお泳ぎになれなかったのよ。
秩父宮妃◆そうですってね。
高松宮妃◆それでお相手をさせていただいて。でも大変おにぎやかなの、キャーッと。私、おかしくて。
秩父宮妃◆お声がお高くてね、おきれいなお声でね。
高松宮妃◆いいお声ね。
秩父宮妃◆昭和天皇は戦後はゴルフはなさいませんね。
高松宮妃◆戦前には吹上にもコースがおありになって、よく遊ばされたんだけど。
秩父宮妃◆イギリスの皇太子がいらした時、ご案内遊ばしたもの。
高松宮妃◆新宿御苑にもコースがあった。
秩父宮妃◆うちの宮様は「ゴルフは五十歳以上なら良いが、若者は活発なものを」としきりにおっしゃった。
高松宮妃◆そうね、そうねお兄様は駄目でいらしたわね。
秩父宮妃◆昭和天皇は吹上に雪を積まれてスキー遊ばした。
高松宮妃◆私、その覚えある。

高松宮妃◆昭和26年貞明皇后がお亡くなりになった時に、お後のおかたづけをしなければならない。御殿場でずっと御静養されていた秩父宮は「高松宮に頼む」とおっしゃった。それで私たちは毎日のように大宮御所に毎日通っていきました。お形見分けですね。いろんな物をお並べしてありますでしょう。最初に昭和天皇に「お好きなものお取りになっていただきます」って申し上げたんです。そしたら昭和天皇は広いところへお並べしてあるのを一通りご覧になって、標本のビンがありますよね、お魚を入れたりするガラスの。陛下は「あれだけ欲しい」とおっしゃった。「あとのものは何もいらない」と。私はひっくり返るほどビックリしてしまいました。それで私は「ああ、さすがに昭和天皇というのは御欲がおありにならないな」としみじみ思いました。御自身の標本のためのビンがお要りになるから、そのビンが欲しい。それもただのビンよ。ズラッと並んでるいるんですよ、10ぐらいじゃなかったかしら。
秩父宮妃◆他にいろいろ御立派なものがあったのにね。
高松宮妃◆「あら、これは大変だ」と。何と言うのかしら、御形見的なものじゃないわよね、ビンは。仕方がないから昭和天皇はあきらめて、良子皇后の方にいいものを差し上げようと思って、「これはいかがでござます?」なんて一生懸命になってお勧め申し上げたの。
秩父宮妃◆本当に大変でしたわね。こちらは御殿場だったものでね、お手伝いできませんでした。
高松宮妃◆お姉様がいらっしゃればよろしかったんだけど、御看病でいらっしゃれなかった。
秩父宮妃◆本当に御質素なのね。また御興味をお寄せになるものも、人の目につかない興味も持たないような地味なものとかそういうもの。
高松宮妃◆御大喪の時も私ども近しい人が御棺の中に一品ずつ入れさせていただいたのですけど、順々に包んだものをいろいろ。お使いになられた鉛筆とか御眼鏡とか、いろいろお入れしたんですけど、御質素な物が多いだけによけい御人柄をお偲びし、なにか情けなくて涙が出てしまって。
秩父宮妃◆毎日御研究でお使いしていらしたものばっかりなのね。
高松宮妃◆余談だけれど、昭和天皇は御和服をお持ちにならないのよ。普通なら御風呂を召されたあと浴衣かなんか着てくつろがれますわね。ところが昭和天皇はすぐにちゃんとネクタイを遊ばす。和服と洋服、二重生活というかそういうことをなさらないという風なお考え。
秩父宮妃◆二重生活ではすべてが贅沢になるし、面倒な生活になるからでしょうね。
高松宮妃◆御風呂を召して、すぐネクタイとは驚きでしょう。
秩父宮妃◆御殿でもう誰にもお会いになる必要がないのにきちんと遊ばす。
高松宮妃◆御浴衣のお用ちにならない。御儀式の服は別よ。
秩父宮妃◆もちろん御装束はお召しですけど、相当の御改革だったらしいです。どうしても宮中の費用がかさむからでしょう。
高松宮妃◆本当に和服姿をお見かけしたことないわね。
秩父宮妃◆私もないわ、一ぺんも。

高松宮妃◆昭和天皇が生物学の勉強を遊ばしたということはストレス解消の目的もおありになったんじゃないかと。以前宮様から伺ったことがあったけど、それは私も知らなかったことですが。
秩父宮妃◆葉山の御用邸などで普通の人の知らないようなパッとしないような、海のものなんかをよくお飽きにならずに研究なさってましたね。それで今度伊豆に御用邸がおでき遊ばしても、またお地味なものばかりね。どこにでももっと珍しいご興味深くご研究になれるものがあるに違いないと思いますわね。でも昭和天皇はまだまだ目の前の海にだって調べ上がってないものがあるのだから、それを研究してというお気持ちでしょう。
高松宮妃◆動物とか植物のお話を申し上げると、わざわざお立ちになって図鑑をお持ちになってきて見せてくださいましたね。
秩父宮妃◆雑草なんて呼ぶものはないとおっしゃる。御殿場におります時に「いま何が咲いてる?」とおっしゃって、「そうでございますね、野菊くらいなものでございます」と申し上げたら、「野菊じゃわからない」とおっしゃって。びっくりしてしまって、それから発奮して教えていただきましたり勉強しましたり。それでなるほど野菊にもいろいろあると思いました。今度は少し春のを覚えて参りましたら、「いま何が咲いてる?」とお尋ねになりましたので、〈オキナグサ〉だとかなんとか申し上げたら大変お喜びで。私が得意になってお話し申し上げていたら、高松宮殿下が「そろそろその辺でやめないとボロが出るよ」っておっしゃったの。それでも知らん顔して得意になってお話ししていたのでそしたら、やっぱりボロが出かけてきたんです。それで「ボロが出ないうちにもうそこらで」と申し上げたら、昭和天皇がお笑いになって。おかげさまで楽しみが増えました。

高松宮妃◆御食事の後に和菓子が出るの。そうすると甘い物がお好きな昭和天皇は二つあると二つとも召し上がりたいんだけど、「良宮、もう一つ食べてもいいか?」と仰るから笑っちゃいました。
秩父宮妃◆チョコレートが大好きでいらっしゃった。特に板チョコがね。
高松宮妃◆陛下は元旦新年祝賀の儀で朝から総理大臣をはじめ大勢の人とお会いになる。お昼は私どもとも帰らずに昭和天皇と御所で御一緒に御食事をいただくの。時間の制限があるから一皿にお魚やらお肉やらが盛ってあって、それをおしゃべりしながらいただくんですが、お姉様と私はいつもチョコレートを持ってお伺いするの。
秩父宮妃◆内緒でね。以前召し上がりすぎて御具合が悪くなられたことがおありになって、それ以来あまり差し上げないらしいんです。でもお好きなのよね。だから自分たちが食べるような顔をして持って行ったチョコレートを御食事の場でいきなりお出しするんです。
高松宮妃◆お姉様が1箱、私が1箱。それを大膳の人がお持ちすると、まず秩父宮からのものを2つお取りになる。うちからのも2つお取りになる。そしてみんなに順々にお回ししていくの。で、全部済んだら、昭和天皇が「4つ食べたが、数が悪いからもう1つ」と。皆がドッと吹き出してね。それほどお好きなんです。
秩父宮妃◆本当はいけないのよね。こちらの全責任です。その他では鰻がお好きだった。
高松宮妃◆時々私たちお好きな物を差し上げるの。
秩父宮妃◆それから中華料理ね。
高松宮妃◆カレーライスもお好きでした。みなさんお好きね。今の平成陛下だってものすごくお好きじゃない。
秩父宮妃◆平成陛下は特別カレーライスがお好きですね。
高松宮妃◆私が差し上げたものに、新潟の栗飴というのがあるの。食後に一巻ずつ召し上がったんですって。
秩父宮妃◆それはお喜びになったでしょ。それから蜂の子だとか、変なものがお好きで。
高松宮妃◆そうね、変なのがお好きね。

━━秩父宮もおしるこがお好きだとか。
秩父宮妃◆ええ、そうです。
高松宮妃◆アンパンじゃない?
秩父宮妃◆アンパンも。甘党。
高松宮妃◆うちの宮様も甘党ですね。お酒はあまりお飲みにならないから。
秩父宮妃◆お酒はほとんど。昭和天皇も全然お飲みになりませんね。
高松宮妃◆外国の御客様の時は、シャンパンを少々をお舐めになる。
秩父宮妃◆ぜんぜん残念なぐらい、召し上がったらよろしいのになと思いました。
高松宮妃◆良子皇后の方はお好き。召し上がれます。

秩父宮妃◆私どもは(昭和天皇を)お見舞い申し上げるにしても、毎日上がるわけではないし。
高松宮妃◆お見舞いは1カ月に1回でしたね。最初の御発病の時みんなで飛んで伺ったのが9月20日。その次が9月24日、39度の御熱が出た時。またみんなで飛んで伺いました。その時「三笠宮殿下だけどうぞ」と。「妃殿下方は休所そでお待ちするように」って。
秩父宮妃◆心配しながらみんな飛んで伺ったのにね。
高松宮妃◆宮内庁は結局お血の繋がりを第一に考えていらしたのね。でも私たちもお目にかかれるようになって、それが大体1月に1ぺん。ひと月ごとだから陛下の御様子が御悪くおなりになるのがよくわかったの。三笠宮妃に「お子さんのご病気はいかがですか?」と仰せになって。御自分がそんな重病でいらっしゃるのに、桂宮のことをおっしゃるの。私、仰天して、つい涙が出そうになって。本当に感激しました。
秩父宮妃◆本当にまず相手方を御考えになりますね。
高松宮妃◆とにかく昭和天皇という方は温かい方で、私が病気になったりケガでもすると、いつも御気に遊ばして、お目にかかると「身体はどうか?」必ず御尋くださる。うっかりするとこちらが忘れているぐらいに治っていますのにねえ。
秩父宮妃◆今度の御病気のときあまり物を召し上がっておられないし、私どもから拝見しても御体力が消耗されておいでになるのがわかるの。でも御部屋に伺うとお子様お孫様などは当然ですが、私たちにもそれぞれ一人一人御覧になって、その人との会話を思い浮かべられるのね。いくら天性がそのようでいらしても、だんだん御弱りになってこられるとそういう御気遣が申し訳ない気がして、かえってお見舞いにならないのではないかとずいぶんご案じいたしました。御最後の頃はちょっとお辞儀させていただき、御部屋に入るだけで御目に留まらぬよう退出したこともありました。
高松宮妃◆陛下の御容態はひと月ごとに御変りになりましたね。私お見舞いの時、2度ほど陛下の御手をお握り申し上げたの。黄疸で大変を御黄色く御むくみになって。御掛布団の中から御手先が出ていらしたの。ちょうど私はその辺に御椅子をいただいていたの。それでさぞ御だるくいらっしゃいましょうって思わず御手を御もみしたのね、ついね。そしたら黙ってもませていらした。
秩父宮妃◆あのとき私も高松宮とご一緒に御手を取らせていただいて、ただただもう胸がいっぱいでした。
高松宮妃◆御耳が遠くおなりになって、御声も御小さくなったのね。大きい声で申し上げるとおわかりになるのね。非常に御衰えましたね。
秩父宮妃◆あれだけの長い間ほとんど何も召し上がり物を御口から御取りにならない。普通の人ならもっとお医者に、何か他の方法はないかとか薬を変えて欲しいとかそういうことも言いたくなると思いますが、一度としておっしゃらない。毎日最良の人たちに治療してもらっているという御気持ち。それがいわゆる帝王学なのでしょう。
秩父宮妃◆公平で、お優しくて、御記憶力がおよろしくて。そして、みんなのことをお思い遊ばす。
高松宮妃◆ありがたい陛下だったと思うわ。
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◆124代 昭和天皇(迪宮裕仁親王)123代大正天皇の長男
1901-1989 87歳没


■妻  香淳皇后  久邇宮良子女王 久邇宮邦彦王の娘
1903-2000 97歳没


●継宮 明仁親王  125代平成天皇
●義宮 正仁親王  常陸宮

●照宮 成子内親王 東久邇盛厚王と結婚
●久宮 祐子内親王 早逝
●孝宮 和子内親王 鷹司平通と結婚
●順宮 厚子内親王 池田隆政と結婚
●清宮 貴子内親王 島津久永と結婚


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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1987年3月30日
昭和天皇の御高齢化に伴う御公務見直し案について審議。
これから細部を個々に詰めていく要あり。
これから始まるという感じ。

1987年4月6日
御公務見直し案について、昭和天皇より御反論もあるらしい。

1987年4月7日
昭和天皇が「長生きするとロクなことはない」とお漏らしになった由。
侍従小林忍がとりなしたと。

1987年4月8日
式部副長山本学・式部官本多大介からタイ皇太子の来日に関し晩餐を願いたいと。
式部官長安倍勲から徳川侍従長に了解を得ている旨。
昭和天皇の御健康について誰が責任を持つというのか。
極めて不快感にて退庁帰宅。

1987年4月9日
徳川侍従長よりタイ皇太子晩餐について了承していない旨 確認を取り、式部副長中島宝城にその旨を伝える。

1987年4月15日
昭和天皇より「常陸宮が東京倶楽部を継承したら、紫煙に囲まれて肺ガンにならないか」との御心配。

1987年4月17日
東宮五殿下、御参内。
浩宮は御土産のブータンの民族衣装にて御参内。

1987年4月21日〔宮内記者との懇談会〕
浩宮の御相手について、昭和天皇は「血の濃くない方が望ましい」とお答えになる。

1987年4月29日〔天皇誕生日〕
宴会の儀の際、御気分が悪くなられ吐瀉された。
隣席の美智子妃・常陸宮妃の御介添で御退出になり、侍医伊東貞三の拝診をお受けになったが、特に問題となるデータもなし。
「吐いたら気分はさっぱりした」と仰せになり、浮揚御所にお帰りになった。
夜の御祝御膳もお取りやめになった。

1987年5月6日
昭和天皇より「良子皇后の御動作が軽くなったと思う、そうなればおつむのことを言わないと辻褄が合わないことはないか」と。

1987年6月22日〔須崎御用邸〕
大島行幸決定。
ヘリもOK。
スーパーピューマ〈はと〉にお乗り込み。
予備機〈ひばり〉に続いて離陸。
大島上空から火口を御覧、大島空港に着陸。
〔昭和天皇がヘリコプターに乗ったのはこれが初〕

1987年7月10日
昭和天皇、宮内庁病院で恒例の検診。
胸部レントゲン・CTスキャン。

1987年7月15日
那須御用邸行幸啓。
原宿での御降車でお座り込みになり手間取った由。
〔車で原宿駅に到着した良子皇后が「イヤ」と言って降車を拒んだため、隣席の昭和天皇が降車できなかった〕

1987年7月19日
御内庭からお帰りの際、御車寄のあたりにて急にお倒れかかりになり、侍従らお支えしてお運びする。
侍医拝診の結果、血圧・脈拍正常なり。
心電図異常なし。

1987年7月31日〔那須御用邸〕
胸のむかつきと嘔吐あり。

1987年8月2日〔那須御用邸〕
御気分すぐれず、お吐きになる。

1987年8月3日
嘔吐たびたびのことゆえ原因が憂慮される。

1987年8月23日〔那須御用邸〕
昼食後お吐きになる。
御昼寝後も再び嘔吐。
侍医伊東貞三によると胃幽門部の狭窄の疑いあり、胃カメラが必要とのこと。

1987年8月25日
良子皇后の皇室会議皇族議員互選の不在投票手続き。

1987年8月29日〔那須御用邸〕
夜、またお吐きになる。

1987年9月3日〔那須御用邸〕
膨満感あり、湿布と浣腸の御手当。

1987年9月4日〔那須御用邸〕
御不調、浣腸。

1987年9月5日〔那須御用邸〕
お腹張り、浣腸にてガス抜き処置。

1987年9月8日〔那須御用邸〕
昭和天皇、また胸のつかえ。
フウフウとお苦しそう。
御夕食もほとんど上がらず、ソーダ水をお飲みいただく。

1987年9月13日
宮内庁病院へ。
レントゲンの後、吹上御所にお帰り御床。
御昼食は召上らず点滴。
夜は流動食。

1987年9月14日
侍従長室にて高木侍医長・西野元侍医長から説明を受ける。
手術に踏み切る線。
ついに来るべきものが来たということたが、暗雲がたれこめ鬱々として楽しまず。
今後の諸問題のことが頭をよぎる。

1987年9月16日
御入院の段取り、今後の行事の取り扱いなどにつき協議。

1987年9月17日
取材の動き目立ち、報道対策について協議。
御病状の説明資料まとめる。

1987年9月18日
徳川侍従長・高木侍医長拝謁、御手術につき御了承を得る。

1987年9月19日
朝日のスクープのこと、予想通りで驚かず。
〔『天皇陛下、腸の御病気 手術の可能性』〕
各社より確認の取材殺到するも、否定も肯定もせず。

1987年9月22日〔手術〕
徳川侍従長と宮内庁病院へ。
昭和天皇、小林侍従・大橋侍医と共に宮内庁病院にお着き。
徳川侍従長とお迎え、御病室に。
ストレッチャーにて手術室にお入り。
御病室にお戻り。
覚醒良好。
意識もハッキリ応答あり、「相撲のテレビを観てよいか」との仰せありとか。
三笠宮、皇族代表としてお見舞に。

1987年9月23日〔宮内庁病院〕
良子皇后の絵を御病室に飾る。

1987年9月24日〔宮内庁病院〕
入院が長引くことで、侍従の中から当直制見直しの声。
こんな際でも楽をしたいのかと言いたい。

1987年9月25日〔宮内庁病院〕
毎日新聞にまた暴露記事。
〔『天皇陛下、今夏二回倒れられる 東京での早期検査見送り』〕
勝手にせよという心境。

1987年9月26日〔宮内庁病院〕
初めて白湯40ccを差し上げる。

1987年9月29日〔宮内庁病院〕
歩行練習開始。

1987年10月1日〔宮内庁病院〕
二カ所抜糸。

1987年10月2日〔宮内庁病院〕
レントゲン異常なく、合併症の所見なし。

1987年10月5日〔宮内庁病院〕
昭和天皇に、浩宮御代行のこと申し上げる。
〔明仁皇太子夫妻が訪米中だったため、浩宮が代行〕

1987年10月7日
御退院。
車椅子にて吹上御所へ。
階段ホールにて良子皇后お出迎え、お手をお握り。
エレベーターにて二階静養室ベッドへ、常陸宮夫妻御対面。

1987年10月9日
徳川侍従長より、昭和天皇が御居間にて良子皇后とババロアを召上りながらお話し、お手々をつないでエレベーターへという話題あり。
孝宮和子内親王・順宮厚子内親王・清宮貴子内親王御対面。

1987年10月13日
輸血200cc、始まる。

読売に輸血の記事。
〔『天皇陛下、貧血で輸血へ 今日にも700~800cc』〕
輸血記事対策について協議。

1987年10月19日
ヘモグロビン10.8に回復するも、なお二回輸血を継続。

1987年10月21日
輸血200cc、時間をかけて行う。

1987年10月23日
徳川侍従長から東宮様へ、沖縄での御言葉伝達。
〔皇太子が沖縄訪問の際、天皇の言葉を代読する予定になっていた〕

1987年10月24日
東宮様、沖縄着の報。
御言葉は出さないことになる。
東宮様にお任せになったことゆえ、コメントはお控えということか。

1987年10月27日
秩父宮妃・高松宮妃・三笠宮妃、御参内。

1987年11月4日
徳川侍従長から昭和天皇に、孝宮和子内親王の手術の結果につき言上。
〔孝宮和子内親王は乳ガンで手術を受ける。表向きの発表は乳腺疾患〕

1987年11月5日
45日ぶりに宮殿出御。

1987年11月16日
昭和天皇、ヘモグロビン1/10に落ちるも直ちに輸血の要はないとのこと。

1987年11月18日
新年用御写真の撮影の件 記事回避の申し入れをしたところ、日経にすでに出てるとのこと。
〔『天皇御一家 新年写真、11月22日に撮影』〕
すごく腹が立ち、退庁帰宅。
報道担当を返上しようかと考える。
フテ寝。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1987年1月31日
陛下の御容態。
当直の樋口英昭侍従から電話あり、
「今朝から昭和天皇が御気分悪くめまい吐き気を御訴え。お熱はないが血圧が高い」と。

1987年2月2日
今回のこと(天皇陛下の体調不良)なぜ起こったか不明だが、高松宮のこと(高松宮の体調不良)を御心痛のためと考えるしかないという意見が多い。
今回限りで終われば心配ないが、繰り返すようだと警戒を要すると。

1987年3月3日
良子皇后御写真。
お誕生日にあたっていつも発表される良子皇后御写真が、今年は高松宮の御薨去のこともあり撮影の機会もなく記者会に出せないので、ここ数日総務課を中心にゴタゴタが続いていた。
文書でその理由の開陳を求められ、その返事が出された。
高松宮のこともあり、御心身の御負担を考慮して御写真をいただけなかったからという趣旨。
しかしこれでは来年も同じような問題が起きるは必至。
必死もっと良子皇后の人権・プライバシー擁護の趣旨を明確に出しておいた方が、今後の紛糾の根源を断つことになろう。

1987年4月6日
土曜日の御研究を午前中だけにすることについて御意見あり。
「午前中は1時間ぐらいしか時間がないので、研究する暇が少なくなってしまうので、午後を切ることは賛成しかねる。もっとも職員の勤務の事を考えるならば仕方がないが」とのことであった。

1987年4月7日
御行事軽減について御意見。
「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことを見たり聞いたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸に遭い、戦争責任のことを言われる」など。
「戦争責任はごく一部の者が言うだけで、国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展を見れば、もう過去の歴史の一コマにすぎない。お気になさることはない。個人的にはいろいろお辛いこともおありでしょうが、国のため国民のために御立場上今の状態を少しでも長くお続けいただきたい」むね申し上げた。

1987年4月29日
今年の一般参賀は3回お出ましに減り、良子皇后はそのうち2回だけお出ましになる。
昭和天皇に御言葉をお願いした時と、お下がりを願った時と、なかなかそれをなさらず。
午後からの宴会で御言葉・乾杯など終わった後、御席で御食事をお戻しになったので、美智子妃・常陸宮妃が両脇をおかかえになり、お歩きで退場。
朝から胃のつかえがあった御様子。

1987年7月19日
昭和天皇御異状。
御車寄前植込横においでの時、急にお立ち上り、不審に思っていると、フラフラなさり始めたので、高木顕侍従長と田中直侍従が左右からお支えしたところ、その場にお崩れになった。
御車寄からエレベーターを使って御寝室にお運びした。
エレベーター内でお気がつき、「少し胸が苦しい」むねおっしゃった。
診断の結果、血圧・脈拍など異常は認められず。
約1時間後に心電図をお取りしたが、格別の異常はないとのこと。
御異状の原因に思い当るふしはなく、お疲れが多少あったものの、今までなら考えられないこと。
要するに脳貧血だったということであるが、その原因は結局よくわからないということで、お歳からお疲れやすく、お疲れになるとこういう現象が起きるのではないかということらしい。

1987年8月2日
昭和天皇御容態。
胸がむかつくような御気分になり、侍医が出たがはっきりせず、御夕食は軽く召し上がった。
一気にお吐きになり、そのため胃の御気分スッキリ。
テレビなど御覧になって、いつものように御格子(就寝)
31日夜10時頃にもむかつきをお訴えになったが、その時は腸が張っていたので温泉で温め治ったという。
それと今日と一連のものかどうかはっきりわからないという。
いずれにしてもこのところ昼間の眠気がひどいらしい。
先月19日のお倒れ以来どうもすっきりしない。

1987年8月24日
陛下の御容態。
昨日御昼寝直後ぐらいに少量、午後3時過ぎに大量にお戻しになったが、その後はサッパリなさったという。
前回8月2日の時と同様という。
原因は精神的・肉体的なストレスではないかと。
機能が衰えていることは言うまでもないが、ストレスにより胃液が急に大量に出てくると、腸の方に下がって行かなくなり、上に出てくるという。

1987年8月29日
午後8時からいつものようにテレビをご覧になったが、午後9時過ぎから吐き気お催しになった。
なかなかお出にならず、ようやく10時半頃お戻しになった。
その後は御気分も良くおなりになった御様子で、お眠りになったという。

1987年9月3日
昨日も夜中にお吐きになったという。
間隔がいよいよ詰まってきた感じ。

1987年9月13日
宮内庁病院工事を急ぎ中止して、宮内庁病院に御着。
昭和天皇はパジャマにガウン・スリッパ。

1987年9月19日
「天皇陛下、腸の御病気」今日の朝日の朝刊一面トップ記事。
他の新聞は報道せず。
昨夕の大相撲をお取り止めの発表をチャンスと今朝の行動となったもの。
昨夕発表の際 来週のことも一度にすればよいと侍従職では主張していたが、富田宮内庁長官などが首相などへの根回しが間に合わぬとか言って2段階の発表となったため、朝日に抜かれてしまった。
朝日の記事により各社一斉に動き出し、夕刊には各紙詳しく掲載された。
どうしてこんな細部までと驚かれる医学的所見まで記されている。

1987年9月21日
宮内庁発表。
8月下旬から時々お腹が張るなどの御異状。
御用邸から御帰京後 所用の検査の結果、腸の一部に通りの悪い箇所があり、できるだけ早くその通りを良くするため手術の必要ありと結論。
明日22日宮内庁病院に御入院手術の予定。
概略以上のような発表、報道されている実情上から見て、なんとも間が抜けている。

1987年9月22日
後入院・手術。
御病室で執刀医の東京大学付属病院長森岡恭彦と麻酔担当の沼田克雄教授の拝謁がある。
医師の消毒など時間がかかり、11時3分御病室を出て寝台車で手術室にお入り。
手術は午後2時37分終了との連絡あり。
手術前に報道されていた手術の時間は1時間半くらいとのことだったので、なかなか終わらない手術に記者は侍従職に10人ぐらいたむろしてイラ立っていた。
小生が1時半近く当直があけて帰ってきたところ、たちまちまだ終わりませんかと聞かれたが、こちらの方が聞きたいと言ってやった。
病院の侍従候所は御病室の棟とは別棟なので動きは全くわからない。

1987年9月29日
膵臓組織病理検査結果発表。
記者会見で侍医長から説明。
ガン組織認められず、「慢性膵炎」の病名。

1987年10月7日
御退院。
御病状はこれからも慎重な観察が必要。
吹上では職の看護婦6人と女官だけで当り、病院の看護婦の応援はないことになった。

1987年11月23日
新嘗祭。
昭和天皇は御欠席。
昭和29年に御風邪のためおいでにならなかった時以来のことという。
昭和天皇がお出にならないのに新嘗祭を催すことの意味はあるのか。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1988年1月29日
生物学御研究所の研究員が続けて病気になったことから、昭和天皇より「自然科学者の方が文科系より短命なのか。あるいは生物学研究所の態勢に問題があるのか」とのお尋ね。

1988年2月9日
昭和天皇より突然「摂政にした方が良いのでは」との仰せ。

1988年2月10日
昭和天皇より、やはり摂政問題の繰り返し。
「このようにダラダラした生活では」と。
「現在は冬ごもり。春来りなば どの程度おやりいただくか目下検討中につき、もう少しお待ちを」と。

1988年2月12日
侍医伊東貞三より、潜血反応ありとのこと。

1988年2月26日
須崎御用邸御滞在中のマスコミ対策を練る。

1988年3月16日
侍医大橋敏之より、孝宮和子内親王の再手術・御病状について聞く。
〔乳ガンが腸に転移〕

1988年4月13日
徳川侍従長退任により両陛下に拝謁。
「終戦の時と地方行幸の際、身命を賭して」との御言葉。

1988年4月21日
昭和天皇、徳川元侍従長の思い出をお話のとき涙ぐまれる御様子。

1988年4月28日
昭和天皇より、靖国神社の戦犯合祀への批判、国土庁長官奥野誠亮の中国に対する奥野発言への批判。

1988年5月11日
正田家に不幸があった場合の対応策について協議。
山本侍従長と正田家の問題など話し合い。

1988年5月13日
昭和天皇、御採寸。
終った頃から大あくびで、椅子をお勧めしたら崩れるように倒れかかり。
高木侍医長駆けつけ隣のベッドにお移しして拝診、失禁あり。

1988年5月14日
小林侍従から電話。
昭和天皇の御様子、今朝もよく召し上がった由。
御散歩もとの知らせに安堵する。

1988年5月19日
園遊会につき御説明。
「時間が短い」と御不満。

1988年5月20日
昭和天皇に6月以降の御用邸につき申し上げる。
「あまり増えないね」と御不満。

1988年5月23日
「予定表が二重に見える」との仰せ。

1988年5月30日
拝診の結果、左右眼球の調整力低下が原因。
プリズム入りの眼鏡発注。

1988年5月26日
毎日に載った重光葵日記のこと、御日誌にて事実確認。
〔『天皇陛下、駐屯軍撤退は不可 重光元外相日記に記述』〕

1988年5月28日
11時過ぎ電話で正田富美子夫人の死去の報入る。

1988年5月29日
昭和天皇に正田富美子夫人の死去について申し上げ、東宮様の方に見舞をするように仰せ。
「親類だから」と思ったより反応大。

1988年6月13日
高木侍医長より昭和天皇の検査結果を聞く。
血液検査・心電図・レントゲンは異常なし。
CT所見は膵頭部の腫張が多少大きくなった模様。

1988年6月16日
藤森新長官初の拝謁。
昭和天皇は「なかなかいい人だ」との御印象。

1988年6月28日
昭和天皇から「那須は今年はやめるのか」との仰せ。
「今週中に検討します」とお答え。

1988年6月30日
御体重48.9キロと2.5キロ減はショック。

1988年7月8日
「藤森長官は植物に関心がある。宮内大臣にもこういう人はいなかった」との仰せ。

1988年7月31日
御体重47.3キロ、1.3キロ減。

1988年8月13日
須崎御用邸よりヘリにて吹上御所へ。

1988年8月18日
ヘリにて須崎御用邸に還幸。

1988年9月12日
9月10日あたりから黄疸症状出ると。
山本侍従長と相談し、予定は変更せず行けるところまで行くことに。
沖縄御訪問は遠ざかる。

1988年9月18日
大相撲お出ましはお取りやめ。
発表文について協議。
先行きを考え、胆道系炎症の線を打ち出すことに。
意思統一をはかるため、侍従次長・侍従・侍医全員に発表文を連絡する。

1988年9月19日
21時50分ころ大量吐血、緊急輸血。

1988年9月20日
午前0時ころから、自宅に各社からの電話続々。
おかしいと思い高木侍医長に電話、吐血と聞く。
至急支度してタクシーで乾門へ、各社のフラッシュ浴びる。
NHKはずっとこのニュース。
午前2時過ぎから明仁皇太子夫妻御見舞。
朝からは秩父宮・高松宮・三笠宮・常陸宮夫妻・孝宮和子内親王・順宮厚子内親王夫妻・清宮貴子内親王夫妻・浩宮・紀宮清子内親王あいつぎ御見舞。

1988年9月21日
ゴミの廃棄方法につき協議。
昭和天皇は植物のお尋ねの催促、驚くべき御意欲。

1988年9月23日
昼前に若干の下血。
輸血400cc。
侍医会議。
出血対応を主とし、黄疸等を従とする治療方針継続。

1988年9月24日
昭和天皇、お話方はハッキリ、少しも変らない。
御顔色もそう黄色くない。
朝日のガン記事に抗議。
〔天皇の病気が膵臓ガンであり、現在の高熱はガン性腹膜炎の疑いと報じられた〕

1988年9月25日
大相撲御覧の御希望。
御容体ニュースが懸念されるも、その間はスイッチOFFという条件でご覧いただく。
終了の際「全勝だね」とポツリ。

1988年9月26日
山本侍従長はじめ全員集まり、崩御後当面する問題について説明し、心づもりをしてもらう。

1988年9月28日
高木侍医長に大正天皇崩御時の記録を見せ、御遺骸の御手当・御容体の発表など研究してもらう。

1988年9月29日
今日から白血球除去血液の輸血始める。
昭和天皇より名月のお尋ねあり。
9月25日だったとお答えすると、「今年は早かったんだね」と。

1988年9月30日
北白川女官長と御口湿しの綿棒・御湯殿の儀などにつき打ち合せ。

1988年10月1日
午後3時過ぎ400ccの大量下血で血圧100を割り、緊急輸血でひと騒ぎ。
輸血800ccに。
イギリスから一時帰国の秋篠宮が直行。

1988年10月6日
田中侍従にヒオウギアヤメの資料を読むように御指示あり。
〔ヒオウギアヤメは秋篠宮紀子妃のお印〕

1988年10月11日
ヘモグロビン5.6、高木侍医長の表情暗い。

1988年10月14日
侍医内田俊也から話を聞く。
「輸血量をもう少し増やさないと貧血状態の改善は期待できない」と。

1988年10月16日
お髭とお髪のお手入れを奉仕。
御様子はお変りない。

1988年10月18日
夜半かなりの下血があった由。
御寝室にうかがった御様子ではさほどお変りない。
常陸宮妃がお吹き込みになった童話をお聴きになる。

1988年10月20日
ヘモグロビン4.7とついに5を割り込み深刻な事態。

1988年10月21日
高円宮から京都国体閉会式の復命に参内したき旨、前例なきこととお断りするも感情害され、電話で文句言われる。
高円宮は山本侍従長にも電話で当たる。

輸血中発疹出て150ccで中止。

1988年10月22日
ヘモグロビン7.9と上昇。
常陸宮妃お吹き込みのイタリア昔話『疥癬にかかったバラリッキ』20分お聴き。

1988年10月23日〔十三夜〕
ベランダに十三夜のお供え。
鏡に月影を映し御覧いただく。
〔ベッドに横たわる天皇に卜部侍従が手鏡で月を見せた〕

1988年10月25日
午後3時過ぎ、吐血下血相当量あり。
血圧86まで落ち、緊急輸血600cc。

1988年10月26日
ヘモグロビンは8.3でそれほど低下せず。
カナダの大使館のカエデ、「来年は見られる」との御発言、心強し。

1988年10月27日
台車の模型を使って柩の運行練習。

1988年10月30日
かなりの下血。
血圧なかなか上昇せず、表から中間発表の要請あり。

1988年11月3日
常陸宮夫妻お見舞。
侍医加藤健三によると、「どうにかならないか、助けて」の頻発でお気の毒の由。
点滴の針も難しくなる。

1988年11月6日
侍医加藤健三から緊急連絡で全員二階へ。
苦しそうな御声で切ない。
血圧ダウン、数えられぬと。

1988年11月7日
イギリスから一時帰国の秋篠宮お見舞。

1988年11月8日
清宮貴子内親王より強硬申し入れありたる由。

1988年11月9日
東久邇文子さんから御面会の催促あるも、お断り。

1988年11月11日
半蔵門にて昨日から身分証提示請求あり。
理由を問う、上からの命とのみ。

1988年11月12日
東久邇家のお見舞につき東宮様から安楽侍従次長の御口添ありたる由。
一応明日5人一緒ということで伝える。

1988年11月15日
昨夜小林侍従御召で出たが、結局意味不明に終わった由。
多少意識の混濁が見られるか。

1988年11月16日
「イヤだよう」との愁訴の声聞こえる。

1988年11月29日
侍医内田俊也の話によると、血中アンモニアを減少させる薬剤使用の結果、今朝は反応がかなりはっきりしてこられた由。
とにかく摂政の話を消すためにも、意識混濁の表現は禁句なり。

1988年12月5日
午前7時前に小林侍従から電話、御様子が良くないと。
すぐ支度して御所へ。
御寝室を覗くと、酸素マスクを鼻に当てて懸命治療中。

1988年12月6日
ポケベル実験、OK。

1988年12月9日
公的行為の委任の基本となる御意思の確認のため、定例的なものについては包括承認をいただくことに。
御言葉についてもその要ありと認む。

1988年12月10日
夜半また相当量の出血あり、輸血600ccとのこと。
出血の間隔が狭まった感じで、侍医団に憂色漂う。

1988年12月11日
御寝室にて御様子を拝見。
ネフローゼ・両手のお動き〔羽ばたき振戦〕あり。
御顔色もやや黒ずむ。
御鼻には吸引用管。

1988年12月15日
御寝室にて御様子を拝見。
マスクをどけようと手で払うように。

1988年12月16日
新年祝賀の御言葉については国事行為で割り切り、代行御自身の御言葉とする侍従職の方針を伝える。

御寝室にて御様子を拝見。
やはり酸素マスクはお嫌い。

1988年12月17日
常陸宮夫妻お見舞。
常陸宮が「おもうさま」と呼びかけると、わずかに目をお開きか。

1988年12月26日
御寝室にて御様子を拝見。
御口の中で舌が動く傾向が見られる。

1988年12月29日
モーニングで歳末御祝詞。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1988年1月8日
講書始の儀。
明治2年に始められた儀で、天皇陛下御欠席なまま行われたのは初めてである。
本来天皇陛下へ進講するものであるから天皇陛下御欠席なら中止すべきものであろうが、新年の国民的な文化行事となっているからという変な理屈で開催に決まった。
儀の趣旨がゆがめられたというか、趣旨が変わったと言うべきか。
テレビで見ていると、天皇陛下の御席として机だけがポツンと置かれているのも奇妙に見える。
むしろ無い方がよいように感じられると田中直侍従が言っていた。
同感である。

1988年3月24日
香川県植樹祭、県側と打ち合せ。
昭和天皇の御臨席はないことがわかっているのに、県側にあたかも可能性があるがごとく思わせ、その線で全ての調査資料を用意されているのははなはだ遺憾なこと。
二重の負担を負わせることはない。
調査終了後20日ぐらいで公式に発表する段取りになっているのだから、調査の前に行幸の可否は今日にでも否と伝えてやるべきではないか。
4月になれば宮殿での御公務が少し増えるので、ますます可能性高いことを県側に思わせてしまう。
そのあげく否というのではあまりに気の毒。
今の段階で否と伝えないわけがわからない。
報道にはオフレコで伝えておいてもよいのではないか。

1988年5月13日
昭和天皇の御容態。
御洋服の御採寸が30分近くかかったためか終わった時 貧血状態におなりで、1時間ぐらいお休みの後御料車で吹上にお帰り。
昼食抜きで水分補給のため点滴。
すっかりお元気にお戻りでテレビで相撲御覧。
御夕食もお進みになり、8時からまた上奏書類御署名。
お元気。

1988年6月14日
昭和天皇の検査結果、今日記者発表あり。
格別の異常はなかったが体力の衰えは否定できない。
体重も減り続けている、足取りも弱まっていると。

1988年8月5日
那須に詰めている報道陣にたまには御姿を撮らせるとも必要というので、お出まし。

1988年9月11日
黄疸。
大橋敏之侍医の話によれば、管が圧迫されて通りが悪くなっているので、胆汁が体内に出てしまうためと。

1988年9月20日
御容態急変。
19日の夜10時頃吐血され、日赤に輸血を要請。
侍医長・内田俊也侍医・侍従長・侍従次長・女官長それに宮内庁長官・宮内庁次長など11時過ぎから20日午前2時頃にかけて吹上に集って宮内庁緊張。
吐血について侍医団は全く予想していなかったようで、その箇所・原因などまだ十分分析されていない様子である。

1988年10月30日
昨夜から今朝にかけてこれまでに例を見ない多量の下血があり、1,400ccの緊急輸血。
下血を「多量」と発表したのは今回が初めて。

1988年11月7日
秋篠宮、御帰国。
イギリス御就学中の秋篠宮は、昭和天皇の御容態が良くないというので、今夕日本に御到着になるという。
深夜0時半頃記者会見というのだから恐れ入る。
間に合わなくてもかまわないと思うのだが。

1988年11月14日
御容態、案外持ちこたえて新嘗祭までは大丈夫という予想も出ている。
御召。
言語不明瞭というより言葉になっていないので、侍医2人・看護婦3人と何をおっしゃっているのか聞き耳を立てたが全くわからない。
「明日また」と伺っても、それは御承知にならない。
今知りたいということらしい。
お疲れになるばかりというので、侍医が点滴に安定剤を入れ、お眠りになるようにした。

1988年12月1日
摂政問題。
現状のように傾眠状態が続き意識が明確でなくなってくると、一時的でも意思表示ができればよいが、さもないと国事行為の代行では済まなくなってくるおそれが出てくる。
常時意識がはっきりしない状態であるとなると代行制度はなじまず、摂政を立てざるをえなくなるのではないか。
幹部の間でも論議されている。

1988年12月18日
看護の刺激に対し「いやよ」とおっしゃったという。
本当かどうか。

1988年12月20日
昨日は〈おじゃじゃ〉(尿)ということもおっしゃったと。
「痛い」とか「イヤ」とかも。
侍医も驚いていると言うが、一時的なものかどうか。

1988年12月31日
9月の御発病以来、侍従長と侍従次長は日曜祭日もなく毎日吹上に勤務を続けている。
御容態の安定している時ぐらいどちらか交代で休めばよいと思うのだが、明仁皇太子夫妻が毎日吹上にお見舞においでのこともあるのか休まれない。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1989年1月5日
血圧低下し、輸血すでに600ccを越えるも上昇見られず。
また右腕に壊死が見られる。
高木侍医長は御状態はさらに一段と進んだとの見解。
来週がヤマか。

1989年1月7日
午前5時少し前、侍従井原好英から急変・瞳孔が開いたと。
すぐ起きて支度して出かける。
6時33分崩御訣別。
お口しめし奉仕、次にハサミとヒゲソリにて御整髪奉仕。
侍医・看護婦により御手当。
お召し物奉仕。
タンカにて御尊骸を御寝室から御居間にお移しする。
あまりに重いのに驚く。

1989年1月8日
清宮貴子内親王から開いているお口のこと。
侍医・内舎人らと秘かに実施、糸巻と冠緒にて一応成功。

1989年1月9日
御棺の中が冷え過ぎで、外側に汗をかく。
御内槽の本蓋を接着剤により閉じる。
御内槽をひと回り大きい御棺におおさめする。
次いで銅板の蓋をハンダづけ。
ドライアイスの除去を忘れたため中の空気が膨張し、みるみるうちに御棺の蓋が持ち上がり、やむを得ず銅板に孔をあけて空気を抜く処置を行った。

1989年1月14日
山本侍従長が昭和天皇の側近奉仕の立場に徹し、喪儀関係については新帝の供奉はしないとの方針を示し波紋を呼ぶ。

1989年2月13日
副葬品の箱届く。
檜製で二層。
蓋が反り閉まらぬ。

1989年2月22日
副葬品の箱の蓋できあがり。
まだ少し反っている。
蓋をしてみる。
2ミリくらいの隙間。
また反ることもあるのでビスで止めることに。

1989年2月23日
蓋がまた反り、ネジ穴を増やす。

1989年3月15日
済生会病院の孝宮和子内親王の様子について伺う。
夏までは無理か。
水がたまった由。

1989年3月20日
権殿での皇族礼拝位置につき、三笠宮から物言いつく。
中島式部副長・前田掌典次長と協議の上、外陣前に修正する。

1989年5月26日
孝宮和子内親王逝去の報入る。
重田侍従次長より照宮成子内親王の時の例を聞いてくる。
御日誌で調べてファックスする。

1989年7月13日
『昭和天皇実録』作成協力要請あり。
14~15年かかると。

1989年8月28日
管理部長から秋篠宮の〔結婚後の〕御新居に関し、赤坂御用地内の故孝宮和子内親王邸のことを聞いてくる。

1989年9月26日
秋篠宮御結婚来年6月末、新居は旧孝宮和子内親王邸と発表する由。

1989年9月28日
星川手記が話題に。
〔前侍医長星川光正が宮内庁病院での昭和天皇の手術室に入るのを拒否された件を手記で発表〕

1989年10月6日
星川手記を読む。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1898年1月1日
夜半相当量の下血があり、400ccの輸血を行った。
9時前にはさらに輸血が行われたいた。
血圧は少しずつ上昇しているとか。
しかし回復は遅くなっている。

1月6日
このところ輸血の効果がなかなか出にくくなっている。
すべての機能が衰えてきているためという。
尿もほとんど出ない状態が続き、いよいよ今度こそはという時期に来ている。

1月7日
崩御、午前6時33分。
朝5時過ぎ当直の井原侍従から電話、御容態悪化したので待機していてほしいと。
さらに6時頃電話で来るようにと。
すぐ御寝室に、お別れの拝礼。
すでに侍医・看護婦の手で御身体の清拭など行われ、終わるところだった。
まもなくお召物をお着せすることが始まり、卜部侍従と小生が主となって、サルマタ・袖なり肌着・小袖・襪・帯をお着せする。
肌着は右手は袖を通したが左手は腕関節がすでに硬くなって曲がらないので、袖に通すことができず肌着の中に包んで前部ボタンをかけた。
小袖の袖も同様にせざるをえず、左手は袖を通さず袂は御体にかけたような具合になった。
小袖をくぐらせる時は御腰を持ち上げたり横にしたり、なかなか重い。
まだ温かみが残っていた。
拝決。
新両陛下がまず御遺体に拝決、あと順次皇族方が、終わりに側近が拝決して終わる。
剣璽赤坂へ。
承継の儀のあと剣璽は両陛下と吹上に戻り、剣璽の間に。

1月8日
御舟入。
ドライアイスなど侍医が入れる。

1月19日
いよいよ御霊柩が宮殿をお発ちになる。

1月23日
殯宮一般拝礼は昨日一日だけで16万3,400名の人が来たという。
好天で割合暖かかったせいもあるが、それにしても昭和天皇に対する国民の敬愛・哀惜の情の深いのを感ずる。

1月25日
葬儀殿の儀などの葱華輦の習礼ある。
こんなものかと分かったがあまり役に立たず。
所要時間を計り、担ぐ皇宮警察の警察官の習礼が主だった。

1月26日
御料用として購入したが候所で使っている寒暖温度計が無いので聞いたところ、内舎人が御料用だからと言って無断で引き上げた。
電話に出た内舎人にきつく注意した。
現に使っているのに何事か。
もっと常識を働かせて仕事をしてほしい。
それでよくこれまで御用が務まったものだとまで言って、これからもそのような心掛けでやってほしいと。

1989年2月23日
殯宮伺候。
夜の伺候者が集まらないので、駆り出しているらしい。

1989年2月24日
大喪の儀。
早朝から雨。
新宿御苑では風も強くなり、幌舎内も大変寒い。
轜車発引の儀。
卜部侍従はお守の御剣、中村侍従は御挿鞋、田中侍従は霊柩の左側に従い、小林侍従と井原侍従は御紼を引く。
葬場殿の儀。
交通規制のため車道までの奉送の市民でいっぱい。
昭和天皇側近の車列の位置・乗割は理解に苦しむ。
大いに不満
この車列の変則的な位置は陵所の儀が始める徒歩列の出発に影響した。
こんなことになったのは、そもそも側近奉仕者の扱いが真面目に考えられなかったためではないか。
外部から目立つ徒歩列の形さえ整えればよく、車列は誰がどこに乗っていてもかまわない。
轜車と両陛下の車さえ良位置にあればよいと考えたからではないか。
侍従次長がもっと全体に配慮して意見を言うべきではなかったか。
事務主管は赤坂との折衝などもあり、多忙すぎて手が回らないのだから。
風と雨が強く、洋傘をさす。
シルクハット・手袋が邪魔になる。
宮内庁が用意してくれたモーニング用外套が大いに役立つ。
大喪の儀。
この間に一般参加者の便所に行く。
ここは暖かい。
幌舎の席は我々の辺りまで床暖房してあるとのことだが全然効かず、前方からの風が冷たい。
使い捨てカイロを足首・腰・背中に各2個ずつ、それに半長靴の防寒靴を履いたので、背中までは暖かいが首から上が寒い。
マフラーをすべきであった。
席にひざ掛け毛布があり、下部はそれほど寒くない。
霊柩を轜車に移す。
そのとき側近奉仕者もそこに行くことになってが、行っても見ているだけなので、皇族休所の一隅に設けられた供奉員昼食所に行き、北白川女官長や久保女官などとサンドウィッチと紅茶を食べる。
轜車に乗る中村侍従も少し離れた所で同様。
他の側近は知らない。
予定では陵所の車が高速道路に入ったら昼食を取ることになっていた。
陵所の儀。
クレーン者を使って霊柩を静かに納め、御挿鞋を霊柩足側にお置きする。
御剣を納めた上、クレーンで御影石の蓋をする。
さらに鉄筋入りのコンクリートを打つ。
大林組。
それが終わればお砂かけが行われた。

1989年3月6日
良子皇太后〔香淳皇后〕御誕生日。
新聞は良子皇太后の御近況について当たり障りのないことを載せている。
しかし老人特有の病気の状況について、少しは伝えておいた方がよくはないか。
週刊誌ではすでにかなり露骨に書かれているのだから、まったく発表がないのも妙に白々しい。

1989年4月19日
良子皇太后は陽気が良くなったので2~3日前から御庭を御散策、久しぶりのこと。
今日は中村参事が休暇でいないので、たまたま吹上に整理のために行った小生が代わりに良子皇太后の御手を引いて御供。
ほとんどお立ち止りにならずにお歩き。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1990年11月8日
寺崎手記のこと話題になり、
〔当時の通訳寺崎英成が遺した『独白録』が発表される〕
昭和24年の御日誌をめくると頻繁に拝謁の記録あり。
いずれ『拝聴録』の方も問題となろう。

1990年12月18日
昭和21年の御日誌を取り寄せ、寺崎御用掛ら五者拝聴の記録を調べる。
〔当時の御用掛寺崎英成・宮内大臣松平慶民・宗秩寮総裁松平康昌・侍従次長木下道雄・内記部長稲田周一の五名〕
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1990年5月25日
良子皇太后御散策の御供。
仕人が車椅子を押し、20分くらいの間であった。
車椅子の御散策に御供したのは今回初めてのこと。
良子皇太后何も御話にならなかった。

1990年8月21日
元侍従長徳川義寛、侍従室に来られてしばらくお話。
靖国神社への首相参拝で毎年問題となる戦犯合祀で、東条英機などが取り上げられるが、最も問題となるのはむしろ松岡洋右・広田弘毅の文官が入っていることであり、特に松岡は日米開戦の張本人とも言うべきもので、日米交渉の最中ルーズベルト大統領の出した条件に陸軍も海軍も賛成したのに、松岡が自分が交渉に当たらなかった故をもって反対したために交渉がまとまらなかったという。
松岡は日独伊三国同盟をまとめて帰国の途中、ソ連に寄り日ソ不可侵条約を結んで、そのためドイツをひどく怒らせたとか、とにかく異常の人だった。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1991年9月24日
昭和22年の『御日誌』より御用掛寺崎英成の拝謁頻度をあたる。
まさに三日にあけずという感じ。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1993年9月10日
北白川皇太后宮女官長より、昭和天皇の大正末期の日記が出てきたから見て欲しいと。
保存すべきか否か。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1994年2月1日
良子皇太后万一の場合、あまり作為は加えず早めに斂棺を行う方が可と。
貞明皇后は御遺体に腐敗防止剤注入。

1994年2月7日
北白川皇太后宮女官長より、昭和天皇の大正時代の御日記預かる。
原本は処分の方向。

1994年12月13日
元侍従長徳川義寛に昭和天皇の大正13年の御日記について意見を伺う。
女官に対する御批判が強すぎるので、少し和らげるようにとのこと。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1994年12月31日
良子皇太后は今すぐどうということはない御様子。
いつまで御用掛を続けられるのか、小生の健康もそれほどの不安はない状態が続いている。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1996年5月9日
良子皇太后御写真、報道機関に発表。
先月お撮りした室内と御庭での御写真を発表した。
これまで行啓時のカーテン越しのものなど良いものがなかったので、この際広く国民に真の姿を見てもらった方がよいとの考えでなされた。
痛々しい御姿だから賛成しない考えもあったらしいが、あえて決断された。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

2000年1月19日
大正13年・14年の記録を見る。
照宮成子内親王〔第一子〕御懐妊のスクープも朝日、まだ発表の段階ではないと対応を練るところまでそっくり。

2000年2月29日
侍医団から延命治療にからみ相談あり。
苦痛を和らげると言う意味でチューブ等により呼吸サポートが限界で、手術を伴う栄養補給については反対というか、ここまで来ては天寿を全うされるのが基本であろう。

2000年3月12日
良子皇太后侍医会議において、原則として気道切開や胃瘻などの手術は行わず、酸素吸入など苦痛を除くための対症療法で対処するという結論とのこと。

2000年6月15日
良子皇太后、昨夜から呼吸不全の御症状とのこと。

2000年6月16日
午前8時過ぎ、危篤の記者発表。
お部屋にどなたもおいでにならない時に、側近一同御病床に伺う。
酸素吸入で呼吸も大きく、お腹も大きくふくらむ。
しかし呼吸は同じリズムで変化なし。
午後4時46分崩御。

2000年6月17日
拝訣の儀。

2000年6月18日
御舟入の儀。

2000年6月19日
斂棺の儀。

2000年6月22日
三笠宮信子妃から「目がくぼんでいる。大丈夫ですか」と。

2000年6月23日
鎌倉長官より良子皇太后の祭官長の使命を受け、大役に力不足ながら努力しますと。
〔祭官長は18人の祭官を束ねて儀式をつかさどる〕

2000年6月24日
北白川皇太后女官長に例の昭和天皇の大正時代の御日記を、お忘れ物として副葬品にお入れいただくようお預けする。

2000年6月27日
昨日に続き講習会。
衣冠束着用、浅沓を履いて歩行練習。
米山祭官貧血症状で倒れ、前途多難を思わせる。

2000年6月28日
習礼は外陣に入る時に冠が御簾にぶつかったのが失敗、後はまあまあ。

2000年6月29日
大祭。

2000年7月5日
二十日祭。

2000年7月10日
追号奉告の儀。

2000年7月15日
三十日祭。

2000年7月19日
小幡祭官副長から電話で「8月以降の予定をいただいたが、山陵のこともありとても続かない。夫人も通院中でその世話もあるし、今月いっぱいで辞めさせてほしい」とのこと。
不安はあったが、こんなに早く起こるとは。

2000年7月21日
元掌典次長前田利信に電話して、祭官副長就任方懇請し快諾される。
苅田式部官長の了解も得る。
これにて一件落着。

2000年7月22日
北白川皇太后宮女官長より、昭和天皇の大正時代の御日記、確かに副葬品に入れたと。

2000年7月24日
霊代奉安の儀。

2000年7月25日
四十日祭。
陵所の儀。

2000年7月26日
山陵の儀。

2000年8月4日
五十日祭。

2000年9月23日
百日祭。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

2001年7月31日
朝日の記者来訪、昭和天皇が靖国神社の御参拝をお取り止めになった経緯。
直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず。
1975年11月21日が最後、このとき戦没者墓苑にも行幸啓あり。

2001年8月15日
靖国合祀以来昭和天皇参拝取り止めの記事。
合祀を受け入れた松平永芳は大馬鹿。
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◆124代 昭和天皇(迪宮裕仁親王)123代大正天皇の長男
1901-1989 87歳没


■妻  香淳皇后  久邇宮良子女王 久邇宮邦彦王の娘
1903-2000 97歳没


●継宮 明仁親王  125代平成天皇
●義宮 正仁親王  常陸宮

●照宮 成子内親王 東久邇盛厚王と結婚
●久宮 祐子内親王 早逝
●孝宮 和子内親王 鷹司平通と結婚
●順宮 厚子内親王 池田隆政と結婚
●清宮 貴子内親王 島津久永と結婚


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『入江相政日記』侍従長

1969年2月22日
昭和天皇がちょっとフラフラ遊ばしたとのこと。
心臓らしいとのこと。

1969年2月24日
侍医長西野重孝・侍医冨家崇雄と話し、心臓だから御食事を加減しなければならないとのこと。
ところが厨司長秋山徳蔵は「ヤブ医者の言うことなんか聞くか」と言ったとのこと。
つまり良子皇后にお願いしなければなるまい。

1969年2月25日
良子皇后に御食事のこと申し上げる。
御同意で「洋食を減らそう」との仰せ。
二度ぐらいになるかもしれない。

1969年2月27日
昭和天皇から御召。
東久邇佳子未亡人の今後の身のふり方のこと。

1969年3月7日
東久邇宮家から照宮成子内親王の宝石が戻って来たので良子皇后に差し上げる。

1969年3月29日
良子皇后から孝宮和子内親王こと。

1969年4月9日
宇佐美長官に孝宮和子内親王のこと話す。

1969年4月12日
昨日参内の孝宮和子内親王どんな様子だったか伺う。

1969年5月8日
四条隆貞君〔東久邇文子の夫大村和敏の親類〕来訪、東久邇文子さんのこと。

1969年5月22日
昭和天皇から御召。
孝宮和子内親王のこと。

1969年6月6日
良子皇后、光輪閣に行啓。
北白川女官長初めての陪乗。
魔女〔女官今城誼子〕が陪乗しなくていい気持ちである。
みなも大喜び。

昭和天皇の御理髪中、良子皇后にも東久邇文子さんのこと申し上げる。

1969年6月7日
宇佐美長官とこのごろの孝宮和子内親王のこと、東久邇文子さんのことなど話し合う。
良子皇后と孝宮和子内親王のこと、東久邇文子さんのことかなり長く話し合う。

1969年6月25日
昭和天皇より、
孝宮和子内親王のこと「お華の先生というよりはみなで一緒に研究するという方がよくはないか」などいい御注意がある。
孝宮和子内親王の所へ行く。
今の御家をお貸しなること、赤坂へお移りのこと、みなスラスラとお許しを得ることができた。

1969年6月26日
昭和両陛下に昨日のこと御報告。
本当に御安心の御様子でお喜びいただいた。

1969年7月2日
宮内庁長官室で東久邇文子さんに会う。
どうしても別れるとのこと。
〔東久邇文子&大村和敏1969年8月9日離婚〕

1969年7月7日〔那須御用邸〕
宇佐美長官と二人で昭和両陛下に拝謁。
東久邇文子さんのこと申し上げる。
想像していたのとはまったく異なり、我々の申し上げることをすっかりお聞きいただいた。

1969年7月8日〔那須御用邸〕
昭和天皇が「文子に離婚すると他の兄妹の縁談などに非常に関係あることを考えたかと言ってやるように」と仰せられた。

1969年7月9日〔那須御用邸〕
このごろつくづき感じたのは、魔女が見違えるように勢いがなくなったこと、女官原田リツや女官久保喜美子がのびのびしてきたこと。

1969年7月14日〔那須御用邸〕
昭和天皇に賢所にクーラーをつける見通しがついたと申し上げ、お許しを得る。
良子皇后に申し上げたら、
「とんでもないこと。それぐらいのことにお堪えになれない御方ではない」などとおっしゃった由。
お気の毒さまだがお取り止めにする。

1969年7月17日〔那須御用邸〕
東久邇文子さんの離婚のこと申し上げる。
週刊誌に出るということはおイヤがりになっていた。

1969年8月6日〔那須御用邸〕
明仁皇太子〔平成天皇〕の浜名湖の御土産のカニ、いつもならどこかへプイということだったろうに、良子皇后さっそくお描きになった。
いい具合に前田青邨〔良子皇后の絵の師〕も激賞。

1969年9月23日
お帰りの車の中で、昭和天皇から東久邇信彦さんの御縁談についての仰せがあった。

1969年9月29日
宇佐美長官から、高松宮妃が入江には内緒でと言って明日宇佐美長官を御召の由を聞く。
昨日良子皇后にも御電話があったらしく、予のことを非常に怒っていらっしゃった由。
怒るということは東久邇信彦さんと御相手とを無理してでもひっつけようとしていらっしゃることは明瞭。
昭和天皇は御自身のお考え、すなわち御賛成ではないということを宇佐美長官からハッキリ言わせるようにとの仰せ。
宇佐美長官に伝えたら、明日ハッキリ申し上げようということになった。

1969年9月30日
宇佐美長官が高松宮妃へ行き、だいたいすっかり済んだ由。
しかし御相手が徳川家につき昭和天皇はお進みにならないということはとうとう申し上げたらしい。

1969年10月1日
昨日宇佐美長官から高松宮妃に申し上げたことについての揺り返しがあった由。
それは高松宮妃からではなく、文子さんというようなところ、信彦さんも少し怪しいとのこと。
昭和天皇は「信彦・文子には遺伝のこともハッキリ言え」との仰せ。
〔徳川喜久子と高松宮の結婚当時、有栖川宮家→徳川家側に精神病の遺伝があるとして宮内大臣一木喜徳郎が責任を取って辞任に追い込まれた事件があった。その遺伝のことか〕

1969年10月6日
昭和天皇より、昨日突然東久邇信彦さんが吹上に来られた由。
そしてなぜいけないかということでいろいろ申し上げた由。
それに対し昭和天皇も極力お申し入れになったが、まだまだ不十分だったので折りがあったら補ってくれとの仰せ。

1969年10月20日
良子皇后、高松宮妃が今日参内につき、信彦さんの縁談について今までの経過を聞かせろとのこと。
また、昭和天皇に生物学御研究所から少しお早く吹上にお帰りになれないかとの良子皇后のお望みをお伝えする。
何かあったらお帰りということになる。

1969年10月21日
昨日高松宮妃が良子皇后におっしゃったことについて宇佐美長官と相談。

1969年10月22日
東久邇信彦さんと一時間御話する。
週刊誌がもう知ってるとのこと。
すべて困ったことである。

1969年11月20日
長官室で会議。
この間に西野侍医長が良子皇后に〔新嘗祭の簡素化を〕申し上げてくれてるはず。
西野侍医長に聞くと、良子皇后は全然受けつけにならないとのこと。
魔女の脅しは相当のもの。

1969年11月21日
徳川侍従次長・侍従松平潔・侍医冨家崇雄と協議。
いずれにしても今年の新嘗祭はもう駄目、来年からのことにしようということにする。

1969年12月8日
西野侍医長・徳川侍従次長と良子皇后にいろいろ申し上げる時のことにつき相談。

1969年12月9日
宇佐美長官から、清宮貴子内親王のこと、桂宮のこと。
徳川侍従次長から、清宮貴子内親王のこと、東久邇さんのこと。
いい話は一つもなし。

1969年12月31日
2月22日稲田侍従長が倒れ、その翌日から侍従長と侍従次長とを兼ねることになり多忙を極める。
8月末には侍従次長に徳川義寛君も本決まりになった。
5月20日には北白川女官長〔徳川義寛の妹〕が拝命。
ベストメンバーである。
魔女は夢にも思ってなかった由。
本当に驚いたそうである。
夏の那須御用邸ではだいぶ勢いがないように見受けたし、そのような話でもあったが、冬になる頃にはまただいぶ勢いを盛り返したような気味がある。
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『入江相政日記』侍従長

1970年1月14日
徳川侍従次長から清宮貴子内親王とターナとの話を聞く。
今日孝宮和子内親王赤坂御用地へおいでになり、〔新居〕大変お気に入ったらしいということを申し上げ、御安心いただく。

1970年2月18日
昭和両陛下に拝謁、孝宮和子内親王御分家のことなどちょっと口を切ってみる。

1970年2月21日
御召、孝宮和子内親王のことである。
なんとか早く御心配を消して差し上げたい。

1970年2月24日
午前中、ちょっとエスカレーターの御練習。
もうほとんどお差し支えなくなった。

1970年2月25日
鷹司綏子夫人〔孝宮和子内親王の姑〕・清閑寺幸子夫人〔孝宮和子内親王の小姑〕来訪。
最近の事情をよく話し、もうしばらく待ってもらうように頼む。
諒解して帰られる。

1970年2月28日
徳川侍従次長と一緒に、沢辺女嬬から孝宮和子内親王のことをいろいろ聞く。
拝謁、孝宮和子内親王のことも申し上げ御安心いただく。

1970年3月3日
森岡君、孝宮和子内親王の御引越の終わった報告。

1970年4月7日
宇佐美長官と孝宮和子内親王のことなど相談。
先に養子のことを御話すれば御安心になって母上にも優しくなさりはしないかという件、宇佐美長官も同意。

1970年4月16日
赤坂御用地の孝宮和子内親王の家へ行く。
赤軍派のこと申し上げ、御車を御注文になるように申し上げ、続いて御養子のことすっかり御承知いただく。
安心した。
しかも大変な御機嫌だった。
昭和天皇もすっかり御安心でお喜びだった。
鷹司綏子夫人も喜んだ。

1970年4月28日
7月の万博の会議。
良子皇后は京都へお立寄り祇園祭ということを言われたが、宇佐美長官は反対、こんな時に見物にお寄りになるべきでないと説き沙汰やみになる。
この話、陰に魔女〔女官今城誼子〕がいるに違いないと予も徳川侍従次長も思うからである。

1970年5月14日
宇佐美長官から、梅渓さん推薦の1946年生まれの人、東久邇信彦さんにどうかという話。

1970年5月15日
良子皇后から東久邇信彦さんの配偶候補の写真などをお下げいただく。

1970年5月30日
良子皇后から御召。
何事かと思ったら、「旬祭はいつから年二度になったか。毎月の御拝が願わしい。なぜなら日本の国がいろいろおかしいので、はやりお祭りをしっかり遊ばさないといけない」とのこと。
貞明皇后から御外遊まで動員して洗いざらい申し上げる。
それでは仕方がないということになる。
くだらない。

1970年6月1日
宇佐美長官に良子皇后のことを報告。
よくやってくれたという意味だろう、宇佐美長官は深々と御辞儀した。
西野侍医長が心配する揺り返しはこない。
洗いざらい申し上げたからだろう。

1970年6月10日
先週末ごろから昭和天皇が御口をパクパク遊ばすのが気になっていた。
良子皇后に伺ったら、お疲れだろうとのこと。

鷹司綏子夫人に電話、孝宮和子内親王の御養子ということで結構と告げ、続いて孝宮和子内親王の所へ行き、快く御承知いただく。

1970年6月11日
宇佐美長官に昨日の鷹司さんの驚くべきこと報告。
これでは孝宮和子内親王がお気に入らないのも当り前ということになる。

1970年6月12日
女官名取ハナに電話。
この間からの鷹司さんのこと話し、今までのノロノロも必ずしも孝宮和子内親王だけが悪いのではないと言ったら、大いに諒解なさった。

1970年6月22日
宇佐美長官と鷹司さんのこと話し、御手許から2万円だけ上乗せして操作しようということになる。

1970年6月24日
鷹司信熙氏来訪。
このあいだ浅野さんから聞いていたようなことには一言も触れずに、
ただ「親子として血の通ったものにしてほしい」とのこと。
「それはいいが、暇がかかる」と言ったら、「それでいい」とのこと。
どういうことなのか。

1970年6月25日
鷹司綏子夫人に、昨日の鷹司信熙氏との会見の様子を話す。
つまり彼の息子を養子にしたかったのだろうということになる。
昭和両陛下に鷹司家のことすっかり御報告、御安心いただく。
鷹司綏子夫人に電話したら、鷹司信熙氏も多くは言わず、決まった以上は松平尚武氏を盛り立てると言った由。
やはり自分の子をという気があったものとみえる。

1970年7月1日
孝宮和子内親王・鷹司綏子夫人・清閑寺幸子夫人・松平尚武氏、養子縁組の署名捺印。
これですっかり整った。

1970年7月7日
午前、台湾の厳家淦副総統夫妻御引見る。
このころ御口のパクパクはずっと続いていた。
午後、ニュージーランド首相夫妻。
この時も御同様だった。

1970年7月20日〔那須御用邸〕
昭和天皇は非常に御機嫌なのだが、御口の御癖はまだお直りにならない。
でも今度の那須の間にいくらかはよくおなりになるのではないか。

1970年7月28日
清宮貴子内親王が東京プリンスホテルの店へお出になる件、先走った話と思う。
那須御用邸の徳川侍従次長に電話、弱っている。

1970年8月6日
どういうものか度々宇佐美長官に同じようなことをおっしゃる由。

1970年8月8日
エチオピア皇太子夫妻をめぐる明仁皇太子の三笠宮のこと。

1970年8月10日
吹上当直の冨家侍医から電話で、昭和天皇が今朝お厠でフラフラ遊ばしたとのこと。
良子皇后が冨家侍医に、東京新聞などに出た御退位云々〔昭和が明治を抜いて最長記録となったことで退位問題が再燃した〕のことを相当お気に遊ばしているとおっしゃった由。
御口のパクパクも根本はそこから来ているものと思われる。

1970年8月11日
エチオピア皇太子妃の席次のことはまだ続いているらしい。

1970年8月12日
この間からのエチオピア問題につき申し上げ、三笠宮の方ももうこの辺でお済まし願いたいむね申し上げ、それですっかり済む。

1970年9月1日
三笠宮百合子妃から、三笠宮寛仁親王が明仁皇太子夫妻と明方4時まで議論、続いて明仁皇太子夫妻は軽井沢で夜8時から12時半まで同じことについて談じ込まれた由。

1970年9月2日〔那須御用邸〕
昭和両陛下、たいへん御機嫌。
やはり魔女がいないからではあるまいか。

1970年10月5日
掌典長永積寅彦来訪。
魔女を内掌典に入れたらという提案、これは素晴らしいこと。

1970年10月10日
夕食後、徳川侍従次長・杉村侍医・冨家侍医と魔女のことについて話し合う。

1970年10月30日
孝宮和子内親王の千駄ケ谷の御家をお貸しになることについて申し上げ、御諒解を得る。

1970年12月31日
6月ころから昭和天皇の御口の御癖が始まった。
世間の人は不思議がった。
良子皇后が魔女にかかりきりだから、そのことの御心配のためかという説。
魔女にかかりきりになっていらっしゃるためによくお忘れになる、それについての御心配から来るものとする説があった。
良子皇后に伺ってみると、万博の書類をお示しになりながら「あれはこれよ。これのお疲れよ」とおっしゃった。
その時の御様子は特に後ろめたいような後ろぐらいような所はおありにならなかった。
しかしその御癖が過去にあったのは、照宮成子内親王のお悪かった時と順宮厚子内親王の御重態の時と、この二度しかないこと、公事の御心配というよりは御家庭内の御心配が原因と考えられること、それらより魔女の絡むこととしか思えなかった。
冲中博士が拝診の時に申し上げたが、効き目のあったのはその日一日だけのこと。
あとはまた元通りになった。
新嘗祭をおやめ願うこと、四方拝は御洋服で、それに続く歳旦祭は御代拝。
この三つだけ整えれば当分はお差し替えなし考えられたが、新嘗祭お取り止めの工作はこの二年来まず良子皇后に当ったためにいつも失敗に終わっていた。
今年は良子皇后は抜きにして、昭和天皇と御祭の今後について懇談申し上げようと考えていた。
そしたら、5月30日良子皇后が「なぜ6月1日の旬祭は御代拝か」とおっしゃる。
「二年ほど前に昭和天皇のお許しを得て年二回陽気のいい5月と10月だけ御親拝、あとは御代拝ということになっている」と申し上げたら、
「もっと御祭を大事に、度数を増やした方がいい」とおっしゃる。
「なぜそういうことをおっしゃるのか。誰がそういうことを申し上げるのか」と伺う。
「ただ私が考えるだけ」とのこと。
「それなら良子皇后がお考えをお変えになりさえすればよい、昭和天皇は御大事な御方、御祭も御大事だが、御祭のために御身体にお障りになったら大変」と申し上げる。
そうしたら驚いたことに、「それでは私がやろうか」とおっしゃる。
無茶苦茶とはこのこと。
こうまで魔女にやられていらっしゃるとは。
そこで貞明皇后のことを詳しく申し上げる。
「還暦を過ぎたら粗相があっては畏れ入るから、賢所なども御遠慮すべきもの」とおっしゃったこと。
魔女の奥の手の貞明皇后〔女官今城誼子は貞明皇后時代からの女官であった〕のことまで申し上げたので、とどめを刺したことになった。
新嘗祭の翌日11月24日に昭和天皇は何か批評はなかったかと仰せになったが、明仁皇太子もすっかり御安心で、ようこそやめて上げたとおっしゃったことを申し上げたらすっかり御安心だった。
不思議なことに11月24日から御口の御癖はすっかりやんでしまった。
やはり新嘗祭のお務めへの危懼の御気持が底におありになったのではないかと奥の人たちは言う。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1970年2月20日
昭和天皇、午前中エスカレーターの御練習遊ばされる。
全侍従奉仕。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長

1971年1月5日
良子皇后から新嘗祭の簡素化はいかんとまた来た。
小一時間かけてまた申し上げる。
東本願寺と吹原産業のことも申し上げる
〔香淳皇后の妹大谷智子の「お東騒動」の一つ〕

1971年1月26日
梅渓さんが東久邇信彦さんと■■令嬢との縁談を取り下げた件、小川宮務課長から聞き昭和天皇に申し上げる。

1971年1月27日
午後11時宇佐美長官から電話、葉山御用邸全焼とのこと。

1971年1月28日
昭和天皇お目覚めのあと井関侍従が葉山御用邸全焼のこと申し上げたら、少しお笑い顔で「焼けたか」とおっしゃり、「それでは二月の葉山はやめるから」とおっしゃった由。
なんとも言えない味である。

1971年2月1日
北白川女官長から、高松宮妃の東久邇文子さんに関することいろいろ聞く。
小川宮務課長・橋本君らに頼み、文子さんの気持ちを聞こうということになる。

1971年2月4日
宇佐美長官から、岡山の池田隆政さん〔順宮厚子内親王の夫〕の事業はいよいよ駄目とのこと。

1971年2月9日
小川宮務課長から、東久邇優子ちゃんの成績について報告。

1971年2月12日
小川宮務課長から、東久邇文子さんのこと。

外国の御供のことに触れ、「魔女〔女官今城誼子〕はどうもいけない。とにかくお連れになるが、今後段々お遠ざけにならないといけない」と申し上げたら、
昭和天皇も「その通りだ」と仰せになる。
御立派なもの。
前々からお困りになっていたものと思われる。

1971年2月19日
昭和天皇から魔女のこと、「良子は楽観しているようだが、まだ話さないか」との仰せ。
楽観と仰せになるのは、外国へ魔女を連れて行けると思ってらっしゃるという意味。
それにつきいろいろ申し上げ、また伺う。

1971年2月20日
昭和両陛下のヨーロッパ訪問予定、朝日にスクープされた。

1971年2月21日
読売・NHKなど、少しずつ後を追ってきた。

1971年2月22日
昭和天皇はまた魔女退治のことを仰せになった。
重ねての御協力をお願いしておく。

1971年2月27日
昨夜北白川女官長から徳川侍従次長に電話で、良子皇后が「御供は北白川女官長・フランス語通訳武者小路不二子・女官今城誼子・女官道木菊重・久保女嬬」とおっしゃった由。

1971年3月9日
徳川侍従次長から、良子皇后に「表は三人でやるような訳なので、女官は一人になる」と申し上げたら、
「そういうこともあるでしょうね」と仰せになった由。

1971年3月31日
良子皇后から御召。
魔女のことだった。

1971年4月1日
徳川侍従次長と二人で昭和天皇に拝謁、今日外国への御供のこと良子皇后に申し上げること申し上げる。
二人で良子皇后に申し上げる。
御機嫌悪く、「どうして今城はいけないか」と仰せになったが、
縷々申し上げたら、「そんなら仕方ない」とおっしゃった。
下がってきて宇佐美長官に報告。
午後、良子皇后の御機嫌がいいのに驚く。
北白川女官長も同意見。

1971年4月3日
昭和天皇に昨日良子皇后に申し上げたことをすっかり申し上げる。
「それなら良かった」との仰せ。
第一段階かもしれぬが、長い間のことが一応解決したかと思われる。

1971年4月5日
良子皇后から御召。
案の定「今城を連れて行く。もし行けなければ、私はヨーロッパはやめる」とのこと。
「今城が悪くないということは必ずわかる」とおっしゃるから、
「今城が悪いということはそのうち必ずおわかりになる」と申し上げる。
時間もないからまたいずれということにして下る。
くだらないことだ。
宇佐美長官にも瓜生次長にも言う。
「そんならヨーロッパはおやめに願おう」と申し上げることになる。

1971年4月7日
北白川女官長と徳川侍従次長と三人。
また盛んに揺り返しをやっている由。

1971年4月9日
昭和天皇が魔女のこと「そんなに言うことを聞かなければ、やめちまえ」とまで仰せになった。
徳川侍従次長にも昭和天皇の仰せを伝える。

1971年4月10日
良子皇后から御召。
良子皇后、やはり魔女をと仰せになる。
「今度の御旅行は昭和天皇なので良子皇后はその御供、おやめになりたいなら仕方がない。ただ理由としてはすっかりすっぱ抜く他ない。もういい加減におやめになったら」と申し上げる。

1971年4月11日
掌典長永積寅彦さん来訪。
魔女のその後のこと報告。

1971年4月13日
式部官長島重信・北白川女官長・徳川侍従次長と昭和両陛下に拝謁、ヨーロッパ御訪問のことにつき申し上げる。
下ってきたら良子皇后が「島」とお呼び止めになり、「女官を二人連れて行ってはいけないのか」とおっしゃった由。
もちろん魔女の巻き返し。
島官長は宇佐美長官から逐一聞いているので、「島はその方はやっておりません」とお断りした由。
なんとも沙汰の限り。

1971年4月16日〔中国地方行幸〕
女官道木菊重・女官久保喜美子と魔女のことを話しながら朝食を食べる。

1971年4月23日
高松宮妃が徳川侍従次長を呼ばれて、
「良子皇后から電話で『女官長を替えたいからいい人を見つけるように。このごろ奥のことが表につつぬけになっていけない』とおっしゃった」由。
魔女の最後の悪あがきというもの。
不愉快で不愉快で、昼のサンドイッチを楽しみにしていたのに、御通夜みたいな昼食。

1971年4月26日
〔ヴァイニング夫人12年ぶりに来日〕
徳川侍従次長から、良子皇后がヴァイニング夫人に御面会になった時の魔女のことを聞く。
末期の症状であるし、こういうことが起こったのは非常によかったと話し合う。
宇佐美長官から電話で、良子皇后が宇佐美長官を御召とのこと。
ヴァイニング事件のことを話しておく。
宇佐美長官がうんとやっつけた由。
ラスプーチンまで出したと言う。
「それじゃ、やっぱり駄目ね」とおっしゃった由。
いい気持ちになった。

1971年4月27日
昭和天皇にその後の魔女事件の経過につき御報告申し上げる。
徳川侍従次長と二人で早く魔女を去らしめることをやれとの仰せ。
この途中、良子皇后はなんとまた宇佐美長官を御召、「女官長を替えてくれ」とおっしゃった由。
あきれたもの。

1971年4月28日
宇佐美長官から、昨日の女官長を辞めさせろ事件について詳しく聞く。

1971年4月30日
良子皇后から宇佐美長官を御召。
宇佐美長官から聞くと、良子皇后は「徳川侍従次長と松平をやめろ。外国の御供さえしなければ置いておいてもよし」
「みんな今城に絡んだことのように思われます」と申し上げたら、ガックリとおなりの由。

1971年5月4日
宇佐美長官が昭和天皇に魔女のことみんな申し上げ、昭和天皇もお驚きだった由。
ヨーロッパの御供からは完全に外れたので、後はしばらくしてから罷免ということを申し上げる。

1971年5月6日
昭和天皇から御召。
また魔女のことだった。
御心配になっている。
申し訳ないことだ。

1971年5月7日
昭和天皇から御召。
良子皇后は、徳川侍従次長と一緒に出て申し上げた内容も、供奉員のことも、有島暁子が御用掛〔英語通訳〕になった意味も、その拝謁すべてを忘れてしまっているとの仰せ。
また、高松宮妃から魔女に殺生石の能の色紙を書かせて、魔女に貞明皇后20年についてやれということをまた仰せ。

1971年5月10日
元侍従次長甘露寺受長さん来訪。
魔女のこと言う。
ただし辞表は書かせられないとのこと。

1971年5月11日〔園遊会〕
宇佐美長官から、高松宮が「なぜもっと早くやらなかったか。もう今となっては遅いので、秋が済んでからにしては。孤立と思ってらっしゃるから、北白川女官長や入江侍従長が御味方でございますと言え」とのこと。
宇佐美長官が昭和天皇に高松宮のことを申し上げたら、全部駄目とおっしゃっていた。

1971年5月13日
徳川侍従次長と魔女のこと相談する。

1971年6月8日
元侍従長稲田周一さんの所へ行って、魔女採用のいきさつにつき聴取。

1971年6月9日
昭和天皇に、昨日稲田元侍従長から聞いた魔女の推薦者はやはり元侍従次長甘露寺受長だったことを申し上げる。

1971年6月10日
昭和両陛下に宇佐美長官と二人で御外遊の供奉員について申し上げる。
魔女はもちろん入っていないし、女官長・侍従次長・松平を罷免とまで仰せになったのが、そのまま入っているのを御覧になりながら、良子皇后は何とも仰せられず、のみならず大変御機嫌だった。

1971年6月16日
良子皇后に、徳川侍従次長と二人で魔女罷免のこと申し上げる。
何の御抵抗もなく、御承知になる。
宇佐美長官・永積掌典長・西野侍医長にも報告、みな大喜び。

1971年6月17日
良子皇后すっかり御機嫌。
昨夜からずっと御機嫌の由。
きっとさっぱり遊ばしたのだろう。
午前、徳川侍従次長から魔女に申し渡し、「もう5~6年勤めようと思っていた」など言った由。
午後、フランス語通訳武者小路不二子さんが「吹上に行ったら魔女がずっと押しかけて良子皇后にやり続けているから、先手を打って申し上げた方がよくないか」と言われた由だが、かえって悪いし、必要あるまいと断る。
そのあとも大変御機嫌の由。
事は済んだと思われる。

1971年6月20日
昭和両陛下、孝宮和子内親王の新宅へ行幸行啓。
鷹司綏子夫人・養子鷹司尚武お出迎え。

1971年6月25日
良子皇后に拝謁したが、なんとも日本一の御機嫌である。
すっかりサッパリ遊ばしたという感じ。

1971年6月29日
魔女に電話したら、辞表は明日持ってくるとのこと。

1971年6月30日
部屋に戻ったら魔女の辞表が出ていた。
宇佐美長官の所へ持って行く。
とにかく辞表も受けたのだからというので、永積掌典長・西野侍医長を誘って夕方一杯やろうということになる。

1971年7月1日
高松宮邸。
高松宮妃にお目にかかり、魔女のこと。
帰って、昭和天皇に高松宮妃のことなど御話する。
北白川女官長と魔女の辞める時期のことなど相談。

1971年7月2日
甘露寺さんに魔女のこと頼み込む。

1971年7月3日
昭和天皇から「昨日宇佐美長官が今城がもう休んだりするから7月いっぱいで辞めると言ったが、そんなことはいかん」との仰せ。
そうではなく、「今城と懇談の結果、7月いっぱい気持良く勤めて勇退したらと話し合ったためである」ことを申し上げて御納得いただく。

1971年7月6日
宇佐美長官に、魔女は那須にも御供しない由、良子皇后もそれを御承知の由、申し上げる。

1971年7月29日
魔女、退官につき昭和両陛下に拝謁、そのあと花の間で良子皇后に拝謁。
これですっかり済んだ。

1971年7月30日
吹上にもどこにも魔女がいないのでサッパリした気持ちである。
昨夜も北白川女官長から電話で、女官候所一同の喜びを伝えていらっしゃった。
表も奥も今度ほど喜んだことはない。

1971年11月5日
永積掌典長と新嘗祭の簡素化協議。

1971年11月9日
昭和天皇に新嘗祭の簡素化案を申し上げて御同意を得る。
次に良子皇后に申し上げたが、「もう少し長く願えないか」などおっしゃった由。
どうも新嘗祭となると魔女の影響がまだお残りになっている。

1971年11月23日〔新嘗祭〕
お帰りの御車の中で、昭和天皇は「これなら何ともないから、暁もやってもいい」との仰せ。
御満足でよかった。

1971年12月2日
小川宮務課長来訪。
東久邇文子さんを御本邸へということは非常に難しく駄目とのこと。
常盤松しか仕様のないことになってきたが、しばらくはいいとしてそれが駄目になった時のことを考えておくように言う。

1971年12月31日
今年も実に様々ことがあったが、大別すると魔女の追放と御外遊の二つになり、さらにもう一つ加えるとなると新嘗祭の簡素化ということになる。
御外遊のことは昨年からのこと。
これがだんだん進みまとまってくるにつれて、必ず魔女をお連れになるだろうと思われた。
御外遊のことは長官・官長・次長・予の四人しか知らない頃から、魔女がフランス語を習っているという噂を聞いた。
昭和天皇には申し上げるから進捗の様子を御承知になる。
するとそれを良子皇后に御話になるから、良子皇后はさっそく魔女におっしゃるということで、魔女は非常に早期にこれを承知することになる。
こういううちに御外遊公式発表の前に、朝日の岸田君に抜かれた。
良子皇后が北白川女官長に、「御供は北白川女官長・今城女官・道木女官・久保女嬬」とおっしゃった。
昭和天皇に度々このことについて思召を伺い申し上げて、結局これを機会に魔女のことを良子皇后によく申し上げようということになる。
随員の正式な発表を待たずに、側近の方は早く決めないと御準備がしにくいということで、一般と歯切り離すということで宇佐美長官らと話を整える。
それで徳川侍従次長と二人で昭和天皇に拝謁・御諒承を得て、引き続き良子皇后に拝謁、魔女を外すことにつき申し上げる。
この時はかなり御不興だったが、押し切る。
そのご予に対する揺り返しが二度、島官長に一度、宇佐美長官に一度。
ヴァイニング事件のあと二度の揺り返し、しかしそのまま押し切る。
そのご御供がいけないというのに置いておけないという理由で罷免のお許しを得る。
不思議なことだった。
そのご御機嫌もよく、ヨーロッパの御旅行もまったく御無事、大変な御成功だった。
魔女は退官、その後なにごともなく終わった。
つまり今年は魔女の追放と御外遊とこの二つの柱だけだった。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1971年4月26日
昭和両陛下、ポーランド外務大臣夫妻と御引見。
御平服なれど徹底せず、良子皇后も御承知なく御和服のまま。

良子皇后、女官今城誼子の件で宇佐美長官を御召。

1971年9月3日
昨夜アメリカからお帰りの順宮厚子内親王夫妻と御対面。

1971年9月28日〔ヨーロッパ訪問〕
昭和両陛下、コペンハーゲン御到着実況放送あり。
昭和天皇の御口のパクパクの御癖激し。
お疲れのためか、案ぜられる。

1971年12月31日〔大祓〕
潔斎・着替、馬車で吹上へ。
良子皇后のハーハーがお済になるまで、大広間で侍従松平潔としばらく待つ。
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『入江相政日記』侍従長

1972年1月12日
三笠宮妃と魔女〔元女官今城誼子〕のことなど、いろいろ御話し合う。

1972年1月18日
歓送迎会。
魔女は来ない。

1972年6月26日
魔女が電話をはずすことにつき抵抗。
はずせば9月には出ないとか言った由。
「断然はずせ」と言う。

1972年7月29日
孝宮和子内親王の所へ行く。
神宮祭主のこと御承知にならないばかりでなく、お泣きになったりしてなんともならない。
「そんなことしかできないと思われても」とかいうこと。
優越感と劣等感の共生である。
キリもないし、またを御約束して辞去。

1972年7月30日
昭和天皇に昨日の孝宮和子内親王のことを申し上げる。
「それだけ言っても駄目だったか」との仰せ。

1972年8月2日
孝宮和子内親王の所へ行く。
今日は大変御機嫌で、重ねて申し上げたら「おもう様のおっしゃるようにする」との仰せ。
すっかり安心した。

1972年8月8日〔那須御用邸〕
昭和天皇に孝宮和子内親王のこと申し上げる。
お労いの御言葉をいただいた。

1972年8月16日
昭和天皇に、島津禎久さん〔清宮貴子内親王の子〕の学校のことについて申し上げる。

1972年9月8日
宇佐美長官と徳川侍従次長と、魔女が来年3月末日まで官舎を出ないと言っていることなどにつき協議。

1972年10月17日
昭和天皇から「今城はもう出たか」との仰せ。

1972年12月31日
昭和天皇は御訪米を非常にお望みであるが、これは御自身の御体力が少しでもしっかりしていらっしゃる内にということと、良子皇后のことも大いに関係していると思われる。
良子皇后はヨーロッパ御訪問の頃からそろそろだったが、この頃はひどいことになっておしまいになったらしい。
北白川女官長などは、アメリカなんかとうてい駄目と言われる。
長年魔女に脅され続けていらっしゃったことから来るお気落ちとでもいうものか。
これが目下最大の悩みである。
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『入江相政日記』侍従長

1973年2月16日
昭和天皇がいろいろ仰せになり、御退位のこと・御譲位のことを仰せられるので、
「国民はまったく正反対のことを考えている」むね申し上げる。

1973年2月22日
駐英大使森治樹のロンドン着任から信任状捧呈までの報告を読んで申し上げたら大変なお喜びで、「摂政就任以来今日まで、こんなに詳しく知らせてくれたのは初めて」とおっしゃり、
「そのことを森に言い、今後も参考になるようなことがあったら知らせてくれるよう頼んでくれ」との仰せだった。

1973年6月14日
徳川侍従次長と良子皇后の御絵の御近作を整える。
なんとなくまとまりの悪さに、もしそれならばと慄然とする。

1973年8月27日〔那須御用邸〕
昭和天皇の御口パクパクの御癖が始まる。
平木女官・久保女官は「良子皇后の問題が元か」と言う。

1973年9月25日
昭和天皇御機嫌はいいが、御口パクパクの御癖は相当のものである。
これからいろいろ困ることが起ってくるだろう。

1973年9月27日
昭和天皇の御健康について西野侍医長と語り合う。
マッサージを初めて提案する。

1973年10月2日
昭和天皇御機嫌だが、御口パクパクの御癖はまだまだ。

1973年10月30日
「11月3日の明治節祭を御代拝に、献穀は参集所で」と申し上げたら、
昭和天皇は「そんなことをすると結局退位に繋がる」と仰せになるから、
「御退位などにならずに末永く御在位で、国民の期待にお応えいただきたい。そのために軽いものはおやめいただくということ」を申し上げ、お許しを得る。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1973年5月12日
昭和天皇の御口のパクパクの御癖、かなり激し。

1973年5月17日
貞明皇后例祭。
旧奉仕の方々に茶菓の接待、魔女〔元女官今城誼子〕は現れず。
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『入江相政日記』侍従長

1974年4月9日
北白川女官長から最近の良子皇后の御様子を聞く。
憂うべきものがあるらしい。

1974年8月19日
宇佐美長官が、島津久永さん〔清宮貴子内親王の夫〕の海外勤務、シドニーがよからんかとの件。

1974年8月21日〔那須御用邸〕
昭和両陛下ジープ。
常陸宮夫妻が御陪乗と言っていたが、断然退けて予と原田女官で陪乗。
昭和天皇はお眠りになるし、良子皇后は半ドアになさるし、そんなことを常陸宮夫妻にお願いするわけにはいかない。

1974年10月5日
孝宮和子内親王の所へ行って、神宮祭主のこと申し上げ、御快諾を得る。

1974年11月2日
羽田空港。
ベルギー国王ボードゥアン1世夫妻のお出迎え。
両国の皇后がお手を繋いで宮殿をお歩きになり大変良かった。

1974年11月26日
フォード大統領の来日は大の大の成功だった。
昭和天皇に、キッシンジャーがまったく変わったことなど申し上げる。

1974年11月29日
昭和天皇に、昨夜外務大臣木村俊夫から聞いたフォード大統領来日の好結果について申し上げる。
泣いてお喜びだった。
こんなのは初めてのこと。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1974年1月17日
昭和天皇が「昔の侍従は乱暴だったが、今の侍従の方が真面目にやるし良い」と仰せられた由。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1974年5月17日
高松宮(3月に完成した)迎賓館に見学においで。
「東宮様〔平成天皇〕、いまだ■■か?」〔小林は聞き取れなかった〕
昭和天皇から「高松宮は行かれたが、東宮様はどうか。高松宮はでしゃばりの気味があるから」とのことで、「東宮様はいまだ」の旨が判明したが、その言上は田中侍従に申し送り。
この件は昭和天皇が行幸の時から、明仁皇太子お断りなど、少々複雑のいきさつがあるらしい。

1974年11月19日
フォード大統領歓迎御挨拶、宮中晩餐会。
昭和天皇非常に張り切っておられるようにお見受けした。
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『入江相政日記』侍従長

1975年1月14日
昭和天皇の御容態、侍医杉村昌雄で要領を得ない所もあるが、とにかく御予定通りということになる。

1975年1月24日
小川宮務課長来訪。
東久邇文子さんの再婚の縁談の一つとして外務省の人の話。
この人が引き受けてくれればいいが。
文子さんがよくやって下さればいいが。

1975年2月17日
祈年祭の御親拝の御供。
内陣で二度バタンという大きな音がした。
掌典長永積寅彦に聞くと、内陣で前と右と二度お倒れになったとか。
「御袴がもつれたのかもしれない」とも言う。
それなら大したこともないが、今度は居拝に願おうということになる。

1975年3月25日
北白川女官長・久保女官から、2月の須崎御用邸から東京へお帰りの時、良子皇后が「暑い間 須崎で過ごして幸せだった。東京はまだ暑いだろうね」とおっしゃった由を聞く。

1975年5月13日
リビア大使の拝謁。
北白川女官長と一緒に良子皇后のことで気をもむこと例のごとく。

1975年5月24日〔滋賀巡幸〕
森林センターでお種まき。
このとき良子皇后はお笑い続け、お帰りの道お間違え。

1975年6月6日
徳川侍従次長・北白川女官長と、昭和天皇に良子皇后のこと申し上げた結果につきいろいろ打ち合せ。
昭和天皇から御召。
女官の苦心などをいろいろ申し上げ、お気持ちよくおわかりいただけた。

1975年8月18日
武道館で戦没者慰霊祭。
ハンドバッグをお持ちになった良子皇后がぶら下げておしまいになる。

1975年9月1日
良子皇后は線描きはおよろしいが、御絵はもう駄目とのこと。
去年よりだいぶお進みになったらしい。

1975年9月22日
秩父宮妃・高松宮妃・三笠宮妃が良子皇后の御様子に驚かれたことなど聞く。

1975年10月7日〔アメリカ訪問〕
良子皇后がダイヤの大きなブローチを持って出ておいでになったのでビックリ。
またどこかへ行っても大変とお預かりする。

1975年10月27日〔三重行幸〕
久居市役所、続いてボクシング。
この頃から昭和天皇お眠くなる。
28分間お起こしするので大騒ぎ。

1975年10月31日
良子皇后に今日の記者会見について、「アメリカの御印象は?」と伺ったら、「楽しかった」とおっしゃるように申し上げる。
宇佐美長官に話したら「それだけでは困る」と言うから、「それならやめるほかない」と言う。
いっぺんやめとなったので、女官候所では大喜びだった由。
エルサルバドルは気が気ではなかった。
〔この日、エルサルバドル大使に拝謁〕
徳川侍従次長がなんとかして、蓋を開けてみたらまさに天祐。
とにかく無事に済んだ。

1975年11月14日
春秋の間で受勲者の拝謁の時、ちょっと御言葉があった後、台の上で「どうしよう。粗相をした」とおっしゃる。
「大丈夫でございますから」と申し上げ、御言葉をお続けになる。
あとで「ちょっと御休憩になりますか」と伺ったら、「大丈夫」とおっしゃるので、そのまま豊明殿も願う。
薔薇の間で伺ったら、お小水のこと。
でも外に何もあらわれなくてよかった。

1975年11月19日
「3月と8月の御訪米の発表をアメリカの新聞がぜんぜん記事として取り上げなかったので、外務省も悲観的だった。それがああまで変わったのは、昭和天皇の御徳によるもの」と申し上げ、自信をおつけする。
御涙を流してお喜びだった。

1975年12月31日
年の始めからそろそろ御訪米のことが話に上るようになった。
訪米阻止という騒ぎ。
ウチに警察官が来り、ボディーガードがついたり。
蒲田に四千人が集まったとかいうことだったが、お帰りの時には一人のデモもなかった。
アメリカの前景気はあまりよくなかった。
いろいろ案ぜられたが、大変な御人気だった。
良子皇后もまあまあ無事にやってくださった。

エリザベス女王の御訪日もまた大騒ぎになった。
「我がイギリス」人種が多数現れた。
秩父宮妃・高松宮夫妻・三笠宮寛仁親王・麻生和子夫妻。
外務大臣宮沢喜一や儀典長内田宏を脅したりしてさんざんの醜態だった。
三木首相も驚いたことだろう。
昭和天皇がしっかりしてらっしゃるからいいようなものの、さもなければ大変面倒なことになるところだった。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1975年2月17日〔祈年祭〕
昭和天皇、賢所にてお倒れになったような大きな音二度。
とばりを少し繰りて伺うも御異常なき御様子にて安堵す。
やはり前にお倒れになり、手をおつき遊ばしたる由。
寒さの中 急にお立ち上りになりたるせいか。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1975年3月6日
良子皇后御誕生日。
御誕辰の御祝を①昭和天皇か②明仁皇太子か③常陸宮か、
明仁皇太子のネパールからの御帰国御祝を④)昭和天皇からおっしゃる順序について、
昭和天皇から「どうするか侍従長か侍従次長に意見を聞くように」とのことで、いずれも連絡取れず自分の考えを申し上げた。
昭和天皇は「①夫が妻の誕生日の祝いを言うのはおかしい。②は④によって帰国を祝ってもらう立場だからおかしい。③にでもしたら」とだいぶこだわっておられた。
しかし②について、良子皇后の御祝を申し上げることと自分の帰国を祝ってもらうこととは全く別だからかまわないことを強く申し上げ、明仁皇太子だけがお祝いを申し上げることになった。
①についてはあえて考えを申し上げなかったが、夫が妻の誕生日の祝いの言葉を言うのはそれほどおかしいことではあるまいと思った。

1975年5月13日
毎日新聞に伊達宗克著『天皇の外交』の広告が出ており、
昭和天皇が「戦争の償いとして戦後平和外交を推進しているかのごとく広告しているが、戦前も平和を念願しての外交だったのだからおかしい」と仰せあり。
「内容を調べてほしい」と言われた。

1975年8月12日
黒田実式部官が徳川侍従次長の手伝いに来て雑談。
戦後GHQとの交渉は黒田さん一人でやったと。
苦労も多かったが、その功績は上司が自らのもののように考え、認められなかった。
特に宮内庁次長林敬三のとき宮内庁予算の1/3減を翌年予算に計上するよう命令があり、それをマッカーサー秘書バンカー大佐に話して減ナシとした。
これを宮内庁次長林敬三は宮内庁長官田島道治に自ら交渉したかのごとく報告し、宮内庁長官田島道治は退官後これを知って驚いたという。
その他幹部がGHQに嘘を言って、それがばれて首切りを言われ、それをバンカー大佐に泣きついて止めてもらったことなど、なかなか秘話が多く面白い。

1975年8月20日
御服装について内舎人牧野名助からから聞く。
■お背広
●三揃いのチョッキは六つボタンで最下段は掛けない。
掛けないというより、チョッキの斜めに切れ分かれている所にボタンホールとボタンをつけてあるので掛からない。
戦前からオシャレな人がしていたことで、飾りとなっている。
戦前からのこと。
●上着の雨フタは戦前から昭和30年頃まではつけていなかった。
しかし30年頃以降お付けしているものの、ポケット内に入れて使うように少し小さく作ってある。
もともと雨フタは物を入れた時の用心や自動車などのドア取手に引っかからないためにつけてあるものだから、高貴な方の場合不要ともいえる。
そのためこれまでつけてなかったものと思われる。
●ズボンの裾の折り返しも、戦前から昭和30年頃までシングルであったものが、一般と同様にしようということでダブルにしたものである。
■お靴
●昭和天皇の靴は少し大きめに作られている。
紐を結んだまま脱着なさるので、きついように見える。
●賢所の用の靴はめったにお使いにならぬから、皮が固くなりがちで余計馴染まず、脱着がきついようになる。
●戦前から昭和34年頃まで、お背広の色にかかわらず茶色(しかも明るい茶色)であった。
世間が落ち着いてきてお背広に合った物ということで黒色になった。
もともと茶色がお好きであったので黒色に変える時もなかなか御承知なさらず、侍従長から御説明して御納得してもらった。
それでせめて皇居内では茶色になさっていただこうということで、宮殿御往復は茶色にしている。
茶色は一年二足ぐらい必要。
●かかとの取り替えなどせず、減ったものは御運動服の時になさることにし、ひどくなれば焼却。
●那須などで御調査にお使いになるお靴は、土踏まずの上の所に金属が入っている。

1975年9月11日
侍従長入江相政によると「通訳の外務官僚奥村勝蔵がマッカーサー元帥との御会見の内容を漏らしたのは、白洲次郎の圧力によるもので、奥村が悪いのではなく白洲が悪かったのだ。白洲駐米大使の案もアメリカのアグレマンが得られず駄目になった」と言う。

1975年9月29日
御訪米を明日に控え、伺いもの・御覧ものの文書多し。
明日羽田での御言葉御練習。
丁寧に4回もなさる。
〈来日〉を〈ライジツ〉とお読みになるので、〈ライニチ〉とお直しし、そこを特に念入りになさった。

1975年10月14日
昭和両陛下羽田着、御帰国。

1975年10月15日
昭和天皇は平常どおり10時過ぎ宮殿お出まし、驚いた。
御無理ではないか。
少しおやつれの御様子。
ハワイでお風邪で発熱なさったと伝えられたが、ほとんどよろしいという。
だいぶ日にお焼けになり、色黒くお見受けした。

1975年11月22日
昭和天皇の近況について入江侍従長の話。
御訪米・御帰国後の記者会見などに対する世評を大変お気になさっており、加えて御体調がお風邪・下痢なども重なり十分でないこともあり、御自信を失っておられるので、昭和天皇の素朴な御行動がアメリカの世論を驚異的に盛り上げたことなど具体的に申し上げ、自信を持って行動なさるべきことを申し上げたところ、涙をお流しになってお聞きになっていたと。
それで19日の御訪米随員らの御茶お出ましの時は非常にお元気であった。
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『入江相政日記』侍従長

1976年1月13日
昭和天皇から御召。
文春の皇族座談会『皇族団欒』の高松宮のこと。
本当につまらないことを申し上げになるから困る。

1976年1月20日
昭和天皇から御召。
また『皇族団欒』の高松宮のこと。

1976年2月4日〔須崎御用邸〕
富田次長から、昨夜昭和天皇と侍医杉村昌雄と日の出のことについて大論争の由。
お年のせいでブレーキが効かなくおなりになった。

1976年4月30日
「明日の旬祭、御代拝では」と申し上げたら、
「高松宮妃が『昨日の誕生日の後で疲れたのか』と言ってもいかんから」とおっしゃる。
「参列もないし、わかりません」と申し上げたら、
「いやいや、いろいろ情報網を持っているらしいから」とおっしゃる。

1976年7月1日
昭和天皇から「文春の皇族座談会『皇族団欒』のようなものを正しいものと思っていては困る」との仰せ。
三笠宮へ行き、三笠宮妃によく御話する。
あの座談会に批判的だったこと、高松宮一辺倒でないことなどがわかり、すぐ帰り昭和天皇に申し上げる。

1976年7月3日
秩父宮へ行き、秩父宮妃にこの間からのこと洗いざらい申し上げる。
すべて御同意、お喜びだった。

1976年7月5日
昭和天皇に秩父宮妃のことを申し上げる。
「入江、御苦労だった」と仰せくださる。

1976年7月8日
宇佐美長官に、秩父宮妃・三笠宮妃のこと報告する。

1976年7月12日
昭和天皇から、一昨日皇族方御参内の節、高松宮夫妻が大変協調的であったがどういうわけかという仰せ。
「やはりいくらか御反省になったのだろう」と申し上げ、
「それならいいが」との仰せだった。

1976年8月8日〔那須御用邸〕
昭和天皇に拝謁、少し緊張していらっしゃるよう。
徳川侍従次長に聞くと、昨夜お漏らしになったとのこと。
寒いからかもしれないとも言う。

1976年8月19日
昭和天皇から「この間の電話の美智子の教育方針がよかったと言ってもいいか」との件。
予は「もっとサラッとなら」という意見。
宇佐美長官も同感。

1976年9月11日
秩父宮妃御参内、高松宮・明仁皇太子などお集りの時にミグ25事件につきみなさんいいことだとお喜びとのことだったが、昭和天皇は「皇族さんは無責任だから」とおっしゃったとのことで、この無責任についてお掘り下げになった結果の御話。

1976年10月15日
10時半から昼前まで御進講。
今日は大変なおあくびの後とうとうおやすみになりかけたのでお起こしする。

1976年12月31日
1月10日文春の二月号に『皇族団欒』とかいうくだらない座談会の記事が載った。
秩父宮妃・高松宮夫妻・三笠宮寛仁親王という顔ぶれ。
司会は加瀬英明。
つまり高松宮が一人で【誇りかに】しゃべっておられるだけ。
すでに昨年の文春の二月号にも加瀬君が書いているが、高松宮から伺ったようなことが多く、それによれば御自分は根っからの平和論者であり、太平洋戦争をとめたのも自分であるという意味のことが書いてある。
昭和天皇にはこれが非常にお気に入らず、実に数えきれないほど御召があった。
このようなことがあったので、それでは思召されることを何でもおっしゃっていただいたら如何か、それによってさっぱり遊ばすならとお勧めし、それはそうすれば楽だと仰せになるので、すっかり伺うことにする。
これを動機として、拝聴録計9冊と結語とができあがった。
なお明年もお続けいただこうと思う。
赤坂方面〔平成天皇家〕の人気は依然冴えず困ったもの。
しかしこれはまったく手がつけられない。
その意味も含めて昭和天皇がますます御機嫌でいらっしゃるよう祈るほかない。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1976年2月26日
二二六事件の日につき、昭和天皇宮殿へのお出ましあらせられず。

1976年8月6日〔那須御用邸〕
原爆の日につき、お慎みのためお出ましなし。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1976年10月27日
午餐。
御着席の直後 三木首相が「良いお天気で」と申し上げると、
昭和天皇が「政治の方もこのようにうまく晴れるとよいね」とおっしゃり、一同大笑い。
三木首相も苦笑していた。
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『入江相政日記』侍従長

1977年1月14日
歌会始。
良子皇后が御自分の御歌の時にお立ちにならなかったのには弱った。
御製の時にもお立ちにならないのではないかと心配したら、お立ちになったのでまあまあ安心した。

1977年3月8日
宇佐美長官と、杉村昌雄は侍医長不適のことについて話し合い、まったく同意見。

1977年4月14日
生物学座談会。
始めの頃、御口パクパクの御癖があった。
お楽しみの進講なのに、どういうわけか。
良子皇后のことで何かおありになったか、三笠宮寛仁親王のことか。

1977年5月7日
西野侍医長より、良子皇后のは思惑よりお進みが遅いとのこと。

1977年7月6日
葉山御用邸再建についての会議。
侍従職としてはほとんど要らないものと主張しておく。

1977年7月17日〔那須御用邸〕
今朝良子皇后御腰の故障とのこと。
大変な騒ぎ。
良子皇后昭和天皇と御一緒では御小水がおできにならないとのことで、御食堂にお移り願うことにする。

1977年7月18日〔那須御用邸〕
良子皇后のレントゲン、腰椎が一つ老化して潰れているとのこと。

1977年7月19日〔那須御用邸〕
良子皇后急速に御混乱と聞かされショック。
昨夜、西野侍医長・原田女官会談の結果ということ。
西野侍医長によれば、原田女官のショックは少し間違いだったらしいとのこと。
まあ、よかった。

1977年7月23日〔那須御用邸〕
昭和天皇が「杉村侍医が興奮している。今まで聞いていたのとまったく違うことを言う」との仰せ。
西野侍医長・侍従山本岩雄・侍従卜部亮吾と何べんも電話。
北白川女官長・久保女官も来室、杉村侍医とも協議。
結局こちらでギブスベッドにお入れし、東京へはお帰り願わないということ。
まとまったところで昭和天皇に申し上げ、大変御安心。

1977年7月24日〔那須御用邸〕
また御召。
杉村侍医がつまらないことを申し上げた結果である。
彼の言うところによれば、何も大したことはないが、やはりいろいろ申し上げたらしい。
例えば「12月までお治りにならない」とか、
「即刻寝台車でお帰りになり、宮内庁病院に御入院遊ばすべきだ」とか、困ったもの。
昭和天皇によく申し上げ、御納得いただく。

1977年7月25日〔那須御用邸〕
杉村侍医に呼び止められ、今度はまったく話が違っていて、ギブスベッド一生懸命にやり、その間にコルセットを準備しておいてそれを差し上げ、8月下旬還幸の時にはなんとか電車で御一緒にお帰りになれるようにしたいとのこと。
それなら問題ない。
すぐ昭和天皇に申し上げ、大変御安心、お喜び、「杉村によろしく頼む、礼を言ってくれ」との仰せ。
さっそく話す。
女官候所で涙ぐんでいたとのこと。
よかった。

1977年7月26日〔那須御用邸〕
良子皇后「どうしてこんなところに入れるか」というので、ギブスベッドから出ておしまいになるとのこと。
意味を忘れておしまいになるから。

1977年7月27日〔皇居〕
昭和天皇、杉村侍医のこといろいろ仰せになる。
西野侍医長と杉村論。
東京還啓を奏請、12月いっぱい駄目と申し上げればすぐお許しを得、それによってヘゲモニーを握ろうとしたクーデターであると。
どうも太陽系以下の宇宙の人であろうということになる。
良子皇后の方は非常におよろしく、あまりお痛みにならないとのこと。
これで宇佐美長官の居直りが消えることになるといいが。

1977年8月2日〔那須御用邸〕
久々に良子皇后に拝謁。
お年を召した、御顎が太く二重になっている。
非常に悲観的にならざるを得ない。

1977年8月3日〔那須御用邸〕
昭和天皇から「西野以外の三人はみな悲観論ばかりでイヤになってしまう。責任逃れかもしれないが」との仰せ。
すべてお見通し。

1977年8月4日〔那須御用邸〕
昭和天皇から「杉村を侍医長にすることはできない」との仰せ。

1977年8月8日〔那須御用邸〕
今日からコルセットのトレーニング。

1977年8月17日〔那須御用邸〕
良子皇后、トレーニングをえらくお怒りになり、昭和天皇の御前で北白川女官長の背中をひどくどやしになったり、階段の上り下りを派手になさったり。
暗澹たる気持ち。

1977年8月21日〔那須御用邸〕
宿舎にいたら良子皇后から御電話。
「通用門に犬がこっちを見て立っている」
「およろしゅうございましたね」と申し上げたら、
「みなのお陰で」とのこと。

1977年8月27日
西野侍医長・北白川女官長と良子皇后のこれからのことにつき協議。

1977年8月30日
宇佐美長官・富田次長・式部官長湯川盛夫と良子皇后のこれからのことにつき協議。
富田次長・式部官長は全面賛成・同意。
宇佐美長官はいつものことながら、いちいち何か言ったが、つまりは他に仕方がないこと。

1977年9月5日
北白川女官長に「コルセットのことは発表するが、昭和天皇からの仰せもあり、皇族方が吹上へ御参内の前にギックリ腰のことについては申し上げた方がいいのではないか」と言ったが、何とかかんとか言って承知しない。
まだ夏中のこだわりである。
原田女官に言っておく。

1977年9月19日
良子皇后に、マレーシア首相とは御会見だけということをよく申し上げたのに、後で晩餐会の席割りを御覧になって、
「どうして私を出さないのか。腹も悪くないのに」と大変御機嫌が悪かった由。
御会見の時は何事もなかったが、諸事いよいよ限界を思わせられる。

1977年10月8日
秩父宮妃から御電話。
三笠宮寛仁親王が本を出し、例の対談『皇族団欒』も載せると。
絶対に不可と言う。

1977年10月9日
三笠宮寛仁親王から電話。
「秩父宮妃から伺ったが、承知なさった高松宮に取り止めると言ったら妙にお思いになるだろう」とのこと。
「そんなこと問題にならない。もしこれが出た時のと比べれば、皇室としての損害は比較にならない」と言ったら、
「やめます」とのこと。
まあよかった。

1977年10月11日
昭和天皇に三笠宮寛仁親王の一件を話す。
予の処置にまったく同意。

1977年10月18日〔那須御用邸〕
杉村侍医から良子皇后のレントゲンの報告。
これだけでハーフリタイアメントは当然である。

1977年11月5日
西野侍医長と杉村侍医のことなどいろいろ相談。
困ったことということはいよいよハッキリする。

1977年11月16日
昭和天皇に「杉村侍医に言い渡すことになった」と申し上げたら、
昭和天皇は「とにかく『嘘を言うのがいかん』と言え」と仰せになる。

1977年11月22日
杉村侍医に辞職を勧め、三月いっぱい退任のことも決める。

1977年11月24日
昭和天皇に杉村侍医のことすっかり申し上げる。
御満足で「いろいろ御苦労でした」とおっしゃる。

1977年11月28日
昭和天皇から「杉村侍医、宇佐美長官が辞めたあと居直りはしないか」とのこと。
楽観に過ぎるかは知らねど、「まずまず大丈夫だろう」とお答えする。

1977年12月31日
良子皇后のギックリ腰、お気の毒様ではあるが、このためハーフリタイアメントが非常に具合よく行われることになった。
宇佐美長官は6月と言い、9月と言い、12月と言い、たびたび辞任を声明しながら、西野侍医長の予言のごとく、とうとう年を越すことになった。
一月ということになっているが、この分では果たしてどうなるかわからない。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1977年2月26日
二二六事件のためお慎み。
御就寝前、「治安は何ともないかね」とのお尋ね。

1977年3月4日
常陸宮から献上のスッポンを昭和両陛下に御披露。
御料理用ということで、飼育をくいとめる。

1977年5月24日〔園遊会〕
水割一杯が効いて色に出にけりとなる。
昭和天皇はニッコリ、秩父宮妃は「夕焼のようね」三笠宮寛仁親王は「だいぶやったな」
昭和天皇橋の付近で急に御東所〔トイレ〕となり、田中侍従と藪の中へ。
お帰りの御車でも御失敗とか。

1977年7月17日〔那須御用邸〕
初めて良子皇后の御背中の異状を知る。
女官さんからの申出により、入江侍従長・侍医と協議の結果、良子皇后の寝室を御食堂にお移しすることに決め、昭和天皇のお許しを得て御動座。

1977年7月21日〔那須御用邸〕
那須御用邸の山本侍従に連絡。
良子皇后東京へお帰りかどうかは五分五分。
お残りの場合は侍従二交替で那須御用邸に残留の方針とか。

1977年7月23日〔那須御用邸〕
良子皇后お残りかどうかについて那須方面で議論わかれ、安楽侍従からまた逆転の可能性もありとの話。

1977年7月26日〔良子皇后のみ那須御用邸〕
那須御用邸から御帰京につき、昭和天皇のネクタイがないと大騒ぎ。
なんと御背中の方に回っており大笑い。

1977年7月27日〔良子皇后のみ那須御用邸〕
北白川女官長と看護婦受け入れにつき協議。
宮内庁病院総婦長佐藤ミヨ参内。
御清拭・御手当、さすがの手つき。

1977年7月28日〔良子皇后のみ那須御用邸〕
入江侍従長から電話、杉村侍医のヘゲモニー対策なり。

1977年7月29日〔良子皇后のみ那須御用邸〕
「一日も早く御快癒になるよう御辛抱でお静かに」と申し上げると、「静かにしているよ」との仰せ。

1977年8月8日〔良子皇后のみ那須御用邸〕
良子皇后コルセットに切り替えの由。

1977年8月9日〔良子皇后のみ那須御用邸〕
良子皇后の御容態および御動静につき記者発表。

1977年12月7日
国会行幸に供奉。
議場の階段にておよろけ、さらに「拝謁は二人しか覚えていないが」とお案じ。
おそらく目はおつぶりになっていらしたものの、お立ちになっていらしたと。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1977年1月14日
歌会始の儀。
良子皇后御自分の御歌の時、起立なさるべきところお座りのままだった。
自分から「始まる前には御自分の時と昭和天皇の時だけ起立」ということをおっしゃっていたのに、という入江侍従長の話。
しかし誰も奇異に感じた者はいないだろう。

1977年2月28日
今日良子皇后のお雛様が御居間和室に飾られたので、御夕食前に良子皇后にお願いして御食事中に拝見した。
良子皇后が「家でも飾りましたか?」との仰せで、
「男の子ですから、家内が持ってきた一対を飾った」むね申し上げた。
「そのうち女の子が生まれますよ」との仰せには参った。
「飾ると賑やかになっていいね」とおっしゃった。

1977年6月15日
昭和天皇が向きを変えられる時、御足がもつれ右半身を下にして御倒になった。
その際 右手を水底におつきになり、手のひらを少しをお切りになり、御手首上にかすり傷を負われた。

1977年7月19日
良子皇后は17日の朝ギックリ腰で御床で、御調査は昭和天皇お一方。
当分そういうことになろう。
女官さんは大変。

1977年7月24日
角田素文侍従によれば、入江侍従長と杉村昌雄侍医の意見が違い、それぞれ昭和天皇に申し上げたので、昭和天皇はどちらを信用したらよいのかと、夜11時と朝4時半に田中直侍従をお呼びになった。
そのため田中侍従は疲れて早く寝たと言う。
杉村侍医を説得するのが鍵だという我々の危惧が当たったわけで、入江侍従長も相当頭に来ているのではないか。

1977年7月30日
良子皇后のギックリ腰について、ギプス使用に関して。
「もし那須の方に直接お尋ねあった場合、どのように答えたものか入江侍従長に伺いたい。ギックリ腰の治療法としてギプスをつけていらっしゃることは一般に周知のことだから、この際隠すことはあるまい。むしろいずれ知れることでもあるし、御兄弟・御子様方にそれほどの隠しだてをすることはない。直接お世話している者としては嘘を言うわけにはいかない」という北白川祥子女官長の考えを伝えた。
入江侍従長は「看護婦をつけて十二分のお手当てをしており、御安静になさり徐々に御回復の旨お答えすることにし、ギプス使用のことは絶対に言わないこと。もし後日皆様方に知れて怒られても、その時は禁止されていたのでお話できなかったと言えばよい。その責任は侍従長がかぶる」とのことを北白川女官長にお伝えした。
北白川女官長は「来月5日常陸宮夫妻が那須においでで、御会食があるのだからわかってしまうのではないか。詳しいことは侍従長に聞いてほしいと答えることにする」と強いご不満の様子。
入江侍従長も昭和天皇の御意向があって秘しているよう言うのであろうが、つまらないことでかえって昭和天皇の御立場を悪くすることにもなりかねないから、入江侍従長は昭和天皇の御考を改めるよう説得すべきではないか。
また皆様方に秘しておくことはその筋から記者に流れて報道されることを恐れてのことだろうが、当然の治療法を施していることを報道されたところで何も困ることはないのではないか。

1977年8月1日
山本岩雄次長に氏に電話の際、ギプス使用発表について北白川祥子女官長・冨家崇雄侍医の不満を話したところ、西野重孝侍医長と山本侍従は発表しても良いと考えていたらしい。
「入江侍従長に話してみる」と言っていた。
午後山本侍従から電話があり「30日お祭りの際、宇佐美長官が秩父宮妃に看護婦派遣を話したところ、それは大変とあちこち聞き回った。昭和天皇がそれをお知りになり、『だから発表は慎重にするように』と仰せあり。侍従長の回答はその意を受けたもの」と言う。
「侍従長に聞いてください」との返事で結構ということだった。
ギプス使用発表しないことに、北白川女官長はじめ大変不満。
立場上隠せるものでないと。

1977年8月8日
良子皇后御順調の御様子であるが、昭和天皇は侍医が悪い予想・悲観的見通を強調することに極めて批判的である由。
入江侍従長などの意見は、「そういう悲観的な見通を申し上げることは、昭和天皇が色々と御心配になるから良くない」
北白川女官長など女官の意見は、「昭和天皇の御認識が甘いから率直な意見を申し上げるべきだ」
いずが良いかそれぞれ一理あろう。
昭和天皇もいささかを考えすぎではないか。

1977年8月23日
記者クラブとの御会見。
終戦後の天皇の人間宣言に関して、冒頭に五箇条の御誓文があることについて、我国の民主主義は戦後輸入されたものでなく、すでに明治大帝はそのような思召であったということを、マッカーサーも認め、これを入れるという天皇の考えに賛成したのだという。

1977年8月26日
入江侍従長・山本侍従の心配をよそに、昭和天皇は「あれぐらいはしゃべってもよいのではないか」と意気軒昂たるものがあるという。

1977年12月25日
大正天皇例祭。
御拝からお戻りになって、昭和天皇が「今日は大祭か小祭か?」とのお尋ねで、山本岩雄侍従が大祭のはずの旨お答えしたところ、「御告文がなかったが」との仰せ。
掌典長がお詫びに出た。
昭和天皇は「これから忘れないように」と仰せがあったという。
掌典職お粗末の極み。
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『入江相政日記』侍従長

1978年1月3日
いい気持ちで寝ていたら、侍医杉村昌雄から電話。
横に院長がいると思われる。
さんざんの蒸し返し。
西野侍医長に電話、また杉村侍医から電話。
そのまま寝る。

1978年1月4日
杉村侍医問題で会議。
上げ出しのように、辞める日に侍医長にする以外はないということになる。

1978年1月17日
オランダ大使の拝謁。
日本語を学び昭和天皇の仰せは半分はわかるというので、良子皇后のことゾッとする。

1978年1月26日
外務大臣園田直の進言によるサウジアラビア・クウェート御訪問の件、昭和天皇も良子皇后はとうてい海外は御無理と思召していらっしゃるに違いないということで宇佐美長官と意見の一致を見る。

1978年1月31日
良子皇后が「ノルウェー皇太子の時、どうして出てはいけないか」など仰せになったとか。

1978年2月10日
昨夜秩父宮妃が「今晩のなどは非公式だから良子皇后もお出になったらいいのに」などと申し上げられた由。
昭和天皇「困る」との仰せ。
小林侍従に「腰もいいようだから、二十日の外交団の午餐に出たらどうだろう」と仰せになったのと大いに矛盾する。

1978年2月17日
昭和天皇の御命で秩父宮へ。
秩父宮妃に良子皇后の御情態をかなり詳しく御話し、だからこれからやることの他にやり方はないことを御説明。
よくわかってくださる。

1978年2月18日
昭和天皇に秩父宮妃のことを申し上げたら大変御満足で、「本当に御苦労だった」とおっしゃっていただく。

1978年2月23日
三笠宮へ。
三笠宮妃に秩父宮妃に話したのと同じことを御話する。
よくわかってくださる。

1978年3月1日
宇佐美長官が杉村侍医のことで徳川侍従次長に叱られ、「殿様は怖い」と言った由。
世の中すべて面白い。

1978年4月11日
北白川女官長と話し合う。
良子皇后の外人などの関係の御引退の件。

1978年6月15日
黒木東宮侍従長に、元東宮侍従浜尾実などがよくしゃべる「お膝元での御教育は明仁皇太子〔平成天皇〕がお初めて」とのテレビの言説に対する昭和天皇の御不満を伝えておく。

1978年9月9日
昭和天皇、杉村侍医のこと「催促のようだけど」と仰せになる。

1978年9月12日
徳川侍従次長と二人で杉村侍医に面会。
「昭和天皇が辞めろとおっしゃれば別だが」と言うので、
「宇佐美前長官からこのことは昭和天皇にも申し上げてある」と話す。
これはいくらか効いたようで、「今年いっぱいで辞める」と言った。
昭和天皇と富田長官に報告、昭和天皇も富田長官も大変に安心の様子。

1978年9月21日
福田首相拝謁。
昭和天皇、この時ちょっとお寝になったらしい。

1978年9月25日
福田首相の上奏の間にお休みになったことについて昭和天皇がお気にしていらっしゃる。
「手紙でよく話しておきましたから御安心遊ばすよう」と申し上げておく。

1978年10月3日
昨日杉村侍医が昭和天皇に「良子皇后の御回復が予期に反している、機会でお伸ばししたり電気療法をしたりする必要がある」と申し上げた由。
昭和天皇は「今まで他の者から聞かされていたのとまるで違う」とお怒りになっている。
退下して、西野侍医長・徳川侍従次長に杉村侍医の独走のこと打ち合せ。

1978年10月4日
昭和天皇「昨日、西野侍医長から聞いて安心した」との仰せ。

1978年10月7日
昭和天皇から、良子皇后になぜ国賓・公賓などの食事に出ないのかということを徳川侍従次長と北白川女官長でよく申し上げては、忘れるが何べんとなくやってみてはとの仰せ。

1978年10月9日
昭和天皇が、良子皇后の実情をもう少し発表するわけにはいくまいかとおっしゃる。

1978年10月17日
昭和天皇から杉村侍医のこと。
「私ももう辞めてもらいたいと言っていると告げてもいい」とまで仰せ。

1978年10月23日
鄧小平夫妻と御会見。
良子皇后はもうどこにお座りになるべきかもおわかりにならない。

1978年10月25日
昭和天皇から、人に良子皇后の御容態を聞かれた時、どう答えるべきかの問題を相談しておいてくれとの仰せ。

1978年11月16日
昭和天皇から杉村侍医のこと、すっかり言ってもいいから何とかしてくれとの仰せ。

1978年11月18日
杉村問題、東宮侍医星川光正と交代させたらという案を話し合う。

1978年12月28日
打ち合せしておいた通りで簡単に決まる。
すべて何の御異議もなく、
ことに「元始祭はやめにしよう、するとなれば座る練習もしなければならないから」と仰せになったとかで、御体力の衰えを御自覚になったのではあるまいかといくらかイヤな気もするが、それが御本音だろうということになる。

1978年12月31日
杉村侍医問題はとうとう年内に片づかず。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1978年6月18日
昭和天皇、昨夜の植樹祭のビデオに関し御不満。
ビデオを拝見し問題部分を探求するも、全体として悪い感じはなし。
「御高齢でお疲れ」とか「明仁皇太子にお任せになっては」などが問題点か。

1978年9月22日
昭和天皇に上奏書類を願いたるところ、御眠気激しくしばしば中断。
御署名も最悪、衤(ころもへん)が礻(しめすへん)になり、つきっきり。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1978年1月17日
常陸宮夫妻御参内。
御食後〈お能カルタ〉
お能の曲名を漢字で書いたものが取り札、万葉仮名で書いたものが読み札。
昭和両陛下なかなかお上手。
漢字で読めないものもあり、昭和両陛下はお慣れになっている。
源平に分れ半分の50枚を取った。
時間が短く物足りなかった。

1978年7月10日
信任状捧呈式。
インド大使の来日経験についてあらかじめ聞いておくことを忘れ、昭和天皇からその点につき御尋。
慌てて入江侍従長に聞いたがわからず、式部長官に聞いたところ「よくわからぬが、あれに書いてないから多分ないだろう」とのことだった。
そのむね申し上げたが、昭和天皇がそのむね大使におっしゃったところ、「数年前に一週間ほど滞在したことがある」とのお答えで、話が違ってきた。
終わって昭和天皇にお詫びしたが、「ん」とおっしゃってお笑いになった。
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『入江相政日記』侍従長

1979年1月3日
元始祭。
富田長官から、御参内の皇族方、特に高松宮に今日の御祭の御親拝は御無理ということを言ってもらう。

1979年1月4日
昭和天皇の御仕事を大幅に委譲なさるべきだという読売の記事について、
昭和天皇は「私は一応楽になるにしても、美智子の負担が重すぎ参ってしまうことになる」と仰せになる。

1979年1月23日
昭和天皇から「侍医杉村昌雄がまだいるがどうしたのか」との仰せ。

1979年1月30日
徳川侍従次長・侍従山本岩雄で杉村侍医に言い渡した由。
そしたら、「午後一時に返答する」と言った由。
午後一時に山本侍従に「二日待ってくれ。信頼する人と相談するから」とのこと。
徳川侍従次長が「そうは待てない。構わず発令してしまう。明日の朝、電話で返事しろ」と言い渡した由。

1979年2月2日
山本侍従、杉村侍医とやり合った由。
宇佐美前長官・西野侍医長・入江侍従長が自分の罪をごまかすために杉村を人身御供にあげたと。
西野侍医長は病院で碁ばかり打ち、入江侍従長は方々で御馳走にばかりなっている。
いま名を挙げたら君たちが震え上がるような人に相談しているが、まだ返事が来ない。
辞表なしに配置替えができるはずがない。
山本さんは入江侍従長・徳川侍従次長と違いいい人かと思っていたら駄目とか。

西野侍医長も加わり、もし当直を強行したらどうするか、警察力を使ってでも阻止するかなど話題として最低。
しかし大いに笑う。
杉村侍医、驚いたことに自車で吹上に乗りつける。
すぐ庁舎に呼び、徳川侍従次長・山本侍従から話す。
結局、辞表を出すことを承知。

1979年2月3日
昨夜杉村侍医から山本侍従に電話。
宇佐美前長官・西野侍医長・入江侍従長の詫び状を出せとか、退官の条件を公文書で出せとか言った由。
昭和天皇に申し上げ、「みんな御苦労だった」との仰せ。
吹上の西野侍医長から電話。
良子皇后の御腰のレントゲン写真を吹上に届けて西野侍医長に説明すると言ったのを断ったとか。
馬鹿な話が続く。

1979年2月5日
杉村侍医を呼んで辞表を書かせることになる。
しかし杉村侍医は山本侍従の部屋に来てはいるが、どうしても辞表を書かないとのこと。
行くと、怒ってわけのわからぬことを言っている。
役所として示せる採集条件は、
●4月1日退官
●その日拝謁
●適当な時期に御相伴
●退職金2,700余万円
しかし明日正午に来て辞表を書くと言って聞かない。
到底信用できないと言って、あらかじめ書いてある辞表に署名捺印させる。
「三人に悪いことがありますよ」との捨て台詞で帰って行く。
徳川侍従次長、かつて録音盤を入れた金庫にこれをしまう。

1979年2月6日
昭和天皇に辞表のこと申し上げる。
すっかり御安心、「みんな御苦労だった」との仰せ。
今日の昼はこの話題をめぐって大笑い。

1979年4月2日
杉村侍医退官。
杉村侍医、よもやと思ったのに「今度のことは私の意志によって辞めたのではございません。特に非常に残念でございます」と申し上げた由。
昭和天皇は「『特に非常に』と言うところに力を入れていたよ」とおっしゃる。
「退官の時には誰でもいろいろの思いがあることはわかっているが、こんなことを言った人は初めてだ」との仰せ。
富田長官・西野侍医長・山本侍従に報告、みなあきれる。

1979年4月11日
御進講。
昭和天皇も御口パクパクの御癖もなく、ゆったりお聞きいただいている。
やはり杉村侍医問題が片づいたこともあろう。

1979年4月13日
昭和天皇から「杉村侍医の後任が決まらないのは、杉村の妨害によるものか」との仰せ。
「後任の後任が決まらないだけ」と申し上げ、御安心願う。

1979年4月18日
後任の侍医星川光正が良子皇后のレントゲン写真を見た結果、「だんだん良くなった」と言ったことにつき、昭和天皇は「杉村は残らんがために悪くなったと言ったんだろうか」との仰せ。
「みんなもまったく同様に思う」むね申し上げる。

1979年5月25日
スウェーデンのベルティル王子夫妻と会見。
北白川女官長と御供。
せっかく御言葉うまくおっしゃったのに、
お出になってすぐ「良かったか?」とおっしゃるので、「人がおります」と突っぱねる。
北白川女官長あとでころげて笑う。

1979年7月26日
昭和天皇から「杉村はまだいろいろやっているということだが、国会で問題になるようなことはないか」とのお尋ね。
「いまだに侍医杉村という名刺を持ち歩くということ以外は、当方に関係のないことであるから御心配はいらない」と申し上げる。

1979年12月31日
杉村侍医に退官してもらうについて大骨を折った年である。
彼にははじめから言ったように、
「こうなったらアッサリ辞めること。そうすればいつまでもこちらに来られるし」と言った。
彼はそれがわかりもしたろうが、院長にはまったくわからず、ことごとく逆に出てきた。
そのためみんな不快の念を抱き、結局彼の30年の勤め、その中には功績もあったかもしれないのが、まったくフイになってしまった。
昭和天皇の御口パクパクの御癖も良子皇后の御情態についての御軫念から来ているものと思ったのに、杉村の退官後まったく御癖はお出にならない。
長年の間よほど根深いものがおありになったものらしい。
とにかく4月以降はすっかりさっぱり遊ばし、御気分は極めてよろしい。
最近長年の間なかったことである。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1979年1月30日
侍医杉村昌雄に退職か配置替えかで最後通告が行われた模様。

昭和天皇シルクハットが合わないとの仰せ。
庁舎に戻りお手持の絹帽の寸法を測る。
ずいぶん違いがあることがわかる。

1979年2月2日
侍従山本岩雄から杉村侍医問題の経緯につき説明。
昼食時もその話題で持ち切り。
夕刻侍医西川一郎・侍医冨家崇雄、こちらへ退避。
杉村侍医吹上に出現との報。
庁舎に呼び返され説得の結果、辞表提出を飲み一応退庁し落着す。

1979年3月3日
西野侍医長から杉村〔侍医〕空襲につき電話。

1979年4月2日
杉村侍医退職、一件落着。

1979年4月7日
食堂に入江侍従長・徳川侍従次長・西野侍医長ら全員集合。
杉村問題の経緯につき反復、記録を取る。

1979年8月15日〔全国戦没者追悼式〕
式典にて、良子皇后取り残されるハプニングあり。
記者クラブもこの件 取り上げる。

1979年8月18日〔那須御用邸〕
東宮侍医星川正光、良子皇后を拝診。
御足の筋肉も全体的にもろくなっており無理はきかない、星川侍医から直接病状につき申し上げる。

1979年9月14日
昭和天皇より、三笠宮寛仁親王に関して、竹田宮や山階宮が若年の頃グレた話を御引用。

1979年10月23日
昭和天皇お帰りの際 御車寄で踏み外し、御膝に擦過傷。
ズボンも敗れる、大事なし。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1979年6月1日
御夕食前に良子皇后がキジらしき血の乾かない頸部の肉が露出した鳥の足をお持ちになって、御座所にお呼びになった。
「昭和天皇から何の鳥か調べるように」との仰せで、お預かりして候所に帰り、明日庭園に聞くように仕人に言って新聞紙に包んでもらった。
頭部も内臓部分もなく、頸部だけあるひどいものだった。

1979年6月24日
昭和天皇より「月曜の晩餐の前に生物学御研究所はノンキすぎるという批判はないか?また疲れるとか言われるがどんなものか?」との御尋あり。
前者については全くを気にする必要はないこと、後者については昭和天皇御自身の御気持のことで何とも申し上げられないと申し上げた。

1979年8月15日
全国戦没者追悼式。
昭和両陛下ひな壇中央にお進みになるべきところ、橋本厚相の先導でお進みになったのは昭和天皇お一人であった。
一同アレッと驚いたが定位置にお立ちになった昭和天皇は良子皇后がおいでにならないのでちょっと左側をお向きになった。
橋本厚相は先導御 下がってしまったが、後はテレビに入らなかった。
協議して昨年来の御足肉離れでびっこお引きになっていたのは衆目の一致するところだから、お痛みでためらっていらっしゃったということにした。

1979年8月29日
天皇天皇の記者会見、いろいろ質疑がある。
東宮時代のヨーロッパ御旅行の思い出・印象深いこと・ジョージ5世の立憲政治のあるべき姿の話はその後の指針となったこと・赤坂離宮新婚時代の思い出・浩宮の将来についての御考などを伺う。
また終戦直後の食糧難時代当時の松村農相の著書にあること、すなわち昭和天皇が皇室の御物を代償にGHQに食糧を求めたらどうかと提案なさったことの真偽を問うたことについて否定なさらなかった。自分のしたことだからと積極的に御話にはならなかった。
浩宮のことも将来立派に成人することを期待していると極めて簡単で、記者は不満らしかった。
記者との懇談会。
御会見の感想としては「昭和天皇に完全にしてやられた。簡単すぎたし、エピソードのみで、これといった盛り上がりがなかった」ということのようである。

1979年10月23日
昭和天皇宮殿からお帰りの際、宮殿御車寄外側の段を踏み外されて、2,3歩前に出て両手とヒザをおつきになり、右膝下のズボンが少し破れた。
すぐ御車をお呼びしようとお勧めしたが、何度も大丈夫とおっしゃり、結局お歩きになった。

1979年12月14日
側近一同御相伴。
一同で昭和両陛下に鰻を差し上げるということで催された。
入江侍従長が挨拶。
「今年の御行事も終わりに近づき、昭和両陛下には御機嫌麗しく恐悦至極。せめて鰻でも差し上げようと思ったが、それもおんぶで形をなさなくなってどうにも御挨拶のしようもない」と。
利根川の自然のものとか。
昭和天皇は鰻をすっかり召し上がった。
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『入江相政日記』侍従長

1980年1月11日
侍医星川光正、良子皇后の御腰拝診。
脊椎骨には御異常なく、骨盤の肉離れとのこと。
よかった。
昭和天皇は「星川は〔前の侍医〕杉村昌雄と違って非常にハッキリしていていい」との仰せ。

1980年1月30日
西野侍医長・侍従山本岩雄に、一昨日侍医冨家崇雄が昭和天皇に良子皇后の御腰のことにつき申し上げたが、あんまり本当のことを申し上げないようにと述べる。
山本説は、冨家侍医は昭和天皇に的の真ん中を射て申し上げるからいかんと言う。
その通り。
西野侍医長は、冨家侍医は軍医の息子として昭和天皇に大きな憧れを持っているので、しっかりしていただきたいという気持ちだと言う。
くだらぬことである。

1980年4月29日
昭和天皇の御誕辰。
来年は80歳におなりになる。
もっともっとやっていただかなくちゃ。
お側に出た時、私は29歳、昭和天皇は33歳。
さまざまなことがあった50年だった。

1980年6月4日
昭和天皇から、西川侍医のことを仰せ。
「あれはドギマギするから」

1980年8月15日
全国戦没者追悼式。
中央にお進みの時、徳川侍従次長が良子皇后の御介添に行き、昭和天皇に続いてお進みになるよう再三申し上げたが、なかなかお進みにならない。
やっとお立ちになったが、真ん中で止まっておしまいになった。
もうどうにもならない。

1980年12月31日
昭和天皇はすっかり御気分よくお過ごしで、国賓級の人々がみんな喜んでくれる。
社会党の石橋政嗣の母上が昭和天皇のことをいつも心にかけていると言うし、共産党の宮本も昭和天皇の御在位中は何もしないし、できないと言ったとか。
なんとかみんなでお守りして、いつまでもいつまでも御機嫌でおいでいただかなければならない。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1980年1月3日
元始祭。
御告文が三殿であるところ、掌典長が皇霊殿で差し上げるのを忘れたらしく、お帰りになるや否や
「掌典長、間違ったね」とおっしゃり、
しばらくして「高松宮、今日来ているだろうか?わかるとよくない」と。
「お見えになっていないのではないか、見えていたとしても御声は届かないと思います」とお答えした。

1980年1月10日
歌会始の儀。
昭和天皇は30分ぐらい経ってからお眠りになり始めたという。
入江侍従長の足踏みも効なく、御体が少し傾くくらいだったらしいが、幸いテレビには映らなかった。
朝、濃いお茶を召し上がらなかったという。

1980年2月19日
3宮様御参内、晩餐。
高円宮の金婚式の御祝のため、秩父宮・高松宮・三笠宮5方おいで。
大食堂からのお戻りの際 高松宮は良子皇后の御手をお持ちだったが、
高松宮が「昭和天皇がお焼きになるから」とおっしゃり、みなさま大笑い。
昭和天皇がなさったらということで、昭和天皇が良子皇后と御手をつないで御談話室にお戻り。
大変ほほえましい、珍しい情景だった。

1980年5月19日
夜、中国映画『桜』鑑賞。
ハッピーエンドではあるが、わかりにくい。
昭和両陛下には字幕は無理。

1980年5月27日
華国峰首相との御引見にあたり、昭和天皇は先方に日中戦争は遺憾であったとおっしゃりたいが、富田宮内庁長官・式部長官はいまさらということで反対の意向とか。
入江侍従長は結構という意見らしいが、富田長官などの反対は右翼の動きが気になるためという。
しかし国際的に重要な意味を持つことに、右翼が反対しているからやめたほうがよいというのではあまりに情けない。
構わず御考通り御発言なさったらいい。
大変良いことではないか。

1980年7月29日
映画『二百三高地』鑑賞。
肉弾相打つ凄まじさ。
昭和天皇には刺激強すぎて感心しない。

1980年8月15日
全国戦没者追悼式。
良子皇后は昭和天皇の2~3メートル斜後方でおとまりになってしまい、柱前の昭和天皇の横にいらっしゃらなかった。
最後までその場で黙祷。
御言葉終了までお立ち、昭和天皇の後から御席にお帰りになった。
記者には「良子皇后はお控えになっていたのだろう」と答えることにしたという。
今年から御言葉が口語調に改められた。
他の御言葉の調子と同様にするため、かねてから文語調に外部の批判があったものである。

1980年10月2日
御稲刈御練習。
親指上小指下が正しいのに昭和天皇の左手の握り方がいつも逆になっているので、外部からの投書があった。
従来から投書などで指摘されていたものであるが、今年から正しく願おうということになり、御練習いただいた。

1980年11月23日
新嘗祭の夕の儀がひどく遅れたことについて後で采女に聞いたところ、昭和天皇がお眠りになって進行ままならなかったという。
昭和天皇は御召替後10分足らずの間にお眠りになってしまい、お手水もなさらずお出まししそうになった。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1980年1月10日〔歌会始の儀〕
昭和天皇の御様子気になる。
御眠気で入江侍従長の〔目覚ましの〕足踏み始まる。

北白川女官長から良子皇后の御腰につき、レントゲンの遅れ・侍医の怠慢を詰め寄られる。

1980年2月1日
オランダのユリアナ女王の退位声明を御覧に入れる。
昭和天皇「妙な時に辞めるんだね」と仰せ。

1980年2月10日〔須崎御用邸〕
御居間の窓にアオバト衝突あり。
昭和天皇には内緒。

1980年6月13日
三笠宮寛仁親王、御婚約の御礼。
「外見だけでなく明治天皇の精神を見習う。テレビなどでウケのよい話などを慎む」の二点。

1980年8月15日〔戦没者追悼式〕
良子皇后、徳川侍従次長の御介添もむなしく、出遅れて途中でお立ち止まり。

1980年11月29日
杉村元侍医による週刊サンケイ連載拝診記は良子皇后腰痛のことに触れ、入江侍従長・徳川侍従次長攻撃の態。
差し止めもきかずとか。
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『入江相政日記』侍従長

1981年4月23日
昭和天皇が良子皇后の欠席〔腰痛を理由にした公務欠席〕について富田長官から説明した通りで異存ないが、新聞記者がそれでも承知しないのなら、みなぶちまけちまおうかと仰せになる。

1981年7月23日
昭和両陛下、豊島岡の照宮御墓所に御拝の御供。
良子皇后 御玉串を掌典にお下げにならず、御自身で奉奠。
記者連にはわからなかったろう。

1981年8月1日〔那須御用邸〕
〔この日 昭和天皇は発熱で休み〕
北白川女官長に「良子皇后の御運動は?」と勧めたら、大不機嫌。
「警察が知る」と。
警察なんかには言わない。
「昭和天皇の御看病を遊ばさなければならない方が御散歩では、女嬬や雑仕がどうかと言う」と。
そんなのみなわかってるじゃないか。
もともと昭和天皇と離せと言うから考えたんじゃないか。
喧嘩別れ。

1981年8月2日〔那須御用邸〕
今日は北白川女官長の方から折れて、良子皇后の御散歩を言ってくる。
侍従卜部亮吾と一緒に御供。

1981年8月15日〔戦没者追悼式〕
今年は良子皇后の行啓がないので気が楽である。
しかし思えば、去年までよく行啓に踏み切ったものだった。

1981年8月18日〔良子皇后のみ那須御用邸に残る〕
昭和天皇、大変御元気。
良子皇后をおかばいになる必要がなく、なんとなくさっぱりしていらっしゃるようとみんなの感想。

1981年8月19日
富田長官に、昭和天皇も良子皇后もしばらくお分れの方がそれぞれ御都合よく、両方極めて御機嫌のむね言っておく。

1981年10月15日〔滋賀京都巡幸〕
京都に入ってから鴨川を渡り旧久邇邸を御覧に入れたが、肝心の良子皇后大した御感興なし。
でもこれで昭和天皇のお望みは通った。
東本願寺の夫妻〔良子皇后の妹夫妻〕返事もせず来もせずひどいもの。

1981年12月22日
昭和天皇に、内藤君からの四男大谷暢道を宗門の裁判にかけるという電話の件について申し上げる。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1981年7月31日〔那須御用邸〕
昭和天皇御発熱37.8度で緊急協議。
原因は御風邪ではなく腎盂炎によるものと判明。
昨年3月以来のこと。

1981年10月8日
侍医冨家崇雄に対して、定年法からみて退職勧奨。
わりあい穏やかな話し合い。

1981年11月28日〔葉山御用邸〕
ベランダから提灯行列にお応え。
続いて海上の満艦飾、さらに花火大会御覧。
昭和天皇「久しぶり」と大満悦。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1981年2月28日
良子皇后のお誕生日の御写真を試写室でみる。
約2分半、編集前のもの。
魚を描いたものを前にして、絵筆をお取りのもの。
絵には全くお触れにならず、絵筆に絵具をおつけになるだけで、大変不自然。
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『入江相政日記』侍従長

1982年1月27日
鷹司平通さん17回忌につき、久々で孝宮和子内親王の所。
お喜び、御機嫌だった。

1982年3月23日
昭和天皇より、「富田長官は皇室評論家4人について悪く言っていたが、それより元東宮侍従浜尾実の方がずっといけない」との仰せ。

1982年4月8日
昭和天皇から、御外遊のことにつき明仁皇太子との割り振りのことなどいろいろ仰せ。
大いに意欲がおありになる。

1982年4月28日
週刊新潮に元侍医杉村昌雄が〔那須御用邸で痛めた〕良子皇后の御腰は東京で御治療申し上げようと思ったのに、侍従長のメンツにかかわると止めたので、お治りにならなかったと書いてある。
こういうデタラメは全然こたえない。

1982年6月8日
高松宮が去年以来 御返事していなかったのを蒸し返してこられた。
御陪食の時の皇族の服装を背広ではなくモーニングにしたらとの件。
宮様方がモーニングになると昭和天皇御一方が御背広になってしまう、昭和天皇は御背広・モーニング、モーニング・御背広と御召替が大変だから、宮様方は御背広で昭和天皇を守ってあげていただきたいと申し上げた。
昭和天皇は「あの対応は非常によかった。あれでわからなけりゃもっと強く言え。宮様方は暇だから勝手を言う。もう少し実情を調べて言え」との仰せ。

1982年6月15日
進講。
のべつにおあくび、お眠そう。
昨夜また良子皇后が昭和天皇をお起こしになったか。

1982年6月24日
植さんに久邇宮家への賜金を渡す。

1982年7月19日
明け方、昭和天皇がお吐きになったとか。
星川侍医は、どうも御睡眠不足のためらしいと言う。
御厠所がおわかりにならない良子皇后が昭和天皇をお起こしになるためではないかと思われる。
御寝所を別にしたので、もう大丈夫。

1982年8月13日〔那須御用邸〕
昭和天皇、御熱7度6分、御脈100以上。
戦没者追悼式はおやめになる他なかった。
昭和天皇から「8月15日はどうなったか」との仰せ。
「明仁皇太子御名代、美智子妃はただ御供、したがってごゆっくり御養生を」と申し上げる。

1982年8月14日〔那須御用邸〕
昭和天皇ちょっと御機嫌悪く、
「私が外遊の時に東宮ちゃんがやった時のように、何も言葉は言わないんだろうな」との仰せ。
すぐ東京に連絡。
侍従卜部亮吾が富田長官そのことを言ったら、ギョッとした由。
卜部侍従曰く「そういうことがわかっているから侍従職ははじめから消極的だった」と言っていた。
そして御言葉も用意していたのに、願わないことにした由。
つまらないことである。

1982年8月15日〔那須御用邸〕
昭和天皇はどうも胆嚢炎ではないかとのこと。

1982年9月4日
西野侍医長から電話。
杉村侍医が文春にさんざん書いたと、宇佐美前長官・入江侍従長・徳川侍従次長・西野侍医長の四人組をやっつけたとか。
文春はそれに異議あらば機会を与えると。
冗談じゃないよ。
愍殺あるのみ。

1982年9月9日
広告によると杉村侍医の発言、週刊文春にも出てる。
『良子皇后の御腰を悪くした君側の奸は誰か』
月刊にも週刊にもとは、文春も落ちぶれたもの。

1982年10月7日
富田長官が記者に杉村侍医のことを言い、記者は何らかの形で書くと聞いていたのに、富田長官シュリンク。
さらに叙勲を取り計らって取り静めたらなどいう由。
沙汰の限りの弱気である。
愛想が尽きた。

1982年10月18日
万全の策を取ったにもかかわらず、良子皇后はすっかり変わっておしまいになった。

1982年11月1日
進講。
途中からお眠くなる。
テーブルの脚を蹴っ飛ばしたり咳をしたりしても駄目で、久しぶりでお起こしに行く。
あとはシャンとしていらっしゃった。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1982年2月13日
良子皇后の幻覚で御前に出る。

1982年3月5日
良子皇后の幻影発生。

1982年5月27日
元侍医杉村昌雄の本、間違い目立つ。

1982年6月21日
元侍医杉村昌雄のマスコミ活動につき協議。

1982年7月9日
入江侍従長・徳川侍従次長から先般の皇族会議の話を聞く。
主題は富田長官追い出しとか、麻生太郎や田中六助などが動いているとか、まさに昭和天皇の御気持を逆なでするような話。

1982年7月23日〔那須御用邸〕
三笠宮寛仁親王、鳥羽行中止とのこと。
昭和天皇、御安堵の御様子なり。

1982年8月13日〔那須御用邸〕
昭和天皇御発熱のため、戦没者追悼式は明仁皇太子の御名代。
富田長官から認証式も明仁皇太子代理で検討するよう意外な指示。

1982年8月14日〔那須御用邸〕
昭和天皇に認証式代行について申し上げたところ、反対はなさらないがお進みでない御様子。
さらに「御言葉はないだろうね」との念押し。
当然予想された事態。
国事行為への立ち入りは禁句なのに。

1982年8月15日
侍医星川光正によると胆嚢炎の疑いありとのこと、少し長引くやも。

1982年9月4日
文春の元侍医杉村昌雄の退職経緯記事につき無視すること。

1982年9月13日
食堂にて入江侍従長・徳川侍従次長・西野侍医長と杉村元侍医の問題につき事実確認整理をする。

1982年10月7日
杉村元侍医問題の発表について、表は消極的。

1982年11月12日
三笠宮寛仁親王、昭和天皇と10分足らずの御対面。
堅い表情でさっさとお帰り。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1982年5月9日
昭和天皇、三笠宮寬仁親王のこと(皇室離脱宣言)で御心痛の御様子で、今朝も靴下をお履きになりながらしばらく考え事でじっとなさっていたり、御食事中も御手をしばらく動かさなかったりなど、考え事が多いように見受けられたとのこと。

1982年7月18日
昭和天皇、御風邪のため御床。

1982年7月19日
昭和天皇、夜お吐きになったのも風邪のためとわかったのだが、昨日一日の御容態は悪化することもなく推移した。
昭和天皇は「良子が御東所(トイレ)がわからないと言って起こしたので、起きたところ吐き気がしたが、吐いたら治った」とのこと。
その間良子皇后は寝台に腕をついて横になり、ニコニコお笑いになっていた。

1982年8月16日
昭和天皇の御容態、胆嚢炎らしいと。マル秘。

1982年10月2日
島根国体行幸。
一同赤い羽根を衿につけることになり、昭和天皇にもお願いしたところ、
「宇佐美宮内庁長官の時はつけないことにしたのに、なぜ急につけることになったか」と仰せあり、ギャフン。
慌てて羽を取って出発した。
やはり思いつきのことはよくない。

1982年11月5日
良子皇后、ホールにさまよう。
内舎人・仕人から、良子皇后ホールにおいでになり、お持ちの写真について側衛に何か御尋になっていると知らせがあり、急いで出た。
御居間の方にお帰りいただき用向きを伺ったが、昭和天皇から裏に何か書くようにおっしゃられたらしいが要領を得ない。
侍従がお相手していることをおわかりでないらしい。
階段下ホールでお話していたところ、昭和天皇がおいでになったのでお引き取り願った。
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『入江相政日記』侍従長

1983年1月12日
講書始。
途中でお眠くなる。
薬を差し上げるのが30分遅かった。

1983年1月14日
歌御会始。
今日は9時半に薬を差し上げた。
ちょうどよかったと見えて大変しっかりしていらっしゃった。

1983年2月2日
良子皇后「自動車の前に子供が乗っている。危ないのに、よく落ちず乗っている」と仰せ。
こんなことは初めて。

1983年2月12日
富田長官来室。
昭和天皇が御祭を軽視遊ばしているようになっては大変につき、なんとか考えてくれとのこと。
かえすがえすも永田という思慮なき人のために大変な御迷惑をお受けになること、腹が立って仕方なし。
〔1982年12月掌典補永田忠興が学界に『宮中祭祀の一考察』を発表、宮中祭祀に重大な変更が行われているとして警鐘を鳴らす〕

1983年2月17日
御祭軽視という批判を避けるため、春季皇霊祭、神殿祭だけ最後に御親拝を願えまいかという件につき相談したが、みんな反対。
この間の良子皇后のエスカレーター事故のようなことが起きても知らないというみなの意見を述べる。

1983年3月29日〔須崎御用邸〕
記者とお会いになるのは寒いので御車寄でということになる。
なごやかでよかった。
ただ「良子皇后と御話遊ばすか」という伺いに対して、
「腰の方は落ち着いているが、全体の健康がよくないので」とおっしゃる。
暗におつむり〔頭〕のことをおっしゃったのだが、もっと〈おはして〉〔話して〕おしまいになって方がよかった。
後で「ああいうことを聞くから困る」とおっしゃっていた。

1983年5月6日
徳川侍従次長から週刊新潮の例の新興宗教と良子皇后の経過を聞く。
〔週刊新潮1983年5月5日号『皇后陛下を巻き込んだ新興宗教の錚々たる信者』
昭和40年代に香淳皇后は姪久邇正子の勧めで〈大真協会〉を信仰するようになったという記事〕

1983年6月3日
昭和天皇から、浩宮御留学につき、秩父宮の留学・三笠宮寛仁親王の留学がうまく行かなかったこと、久邇宮との複雑な因縁をなかなかわかってくれないとか、浩宮が帰るまでの二年間生きていられるかなど、クヨクヨしたことをクドクドとおおせになる。

1983年7月1日
富田長官より、今年新嘗祭を願えないかとの話。
また困ったことになった。

1983年8月14日
週刊新潮の人電話。
元侍医杉村昌雄の墓碑銘を書くにつき意見をということ。
「誠に気の毒だった」としか言えないと言ったが、先方は一人で入江さん方を君側の奸と言っているのに、入江さん方が黙っておられると彼らの言い分の通りになってしまうと言う。
なっても構わない。知る人ぞ知る。
ことに死んだ人のことをとやかく言いたくないと言い張って終わる。

1983年9月8日
昭和天皇、沼原の木道、すり足でお進み由。

1983年9月28日
三笠宮容子内親王の朝見。
良子皇后まるで変っておしまいになった。
記者が見ているので困る。

1983年12月13日
昭和天皇が中川融〔浩宮オックスフォード留学の主席随員・元国連大使〕に、
「秩父宮も三笠宮寛仁親王もオックスフォード留学は失敗だったが、浩宮の時はそんなことがないように」と仰せになったことにつき、
中川さんが「三笠宮寛仁親王のことは十分わかるが、秩父宮のはどういう御意味か」と言っていた由。
三笠宮寛仁親王は駐英大使平原毅に手紙を出して、浩宮がいろいろな人にお会いになるよう、それを大使館が妨げると言われたことも聞く。

1983年12月22日
植さんに久邇宮家への賜金渡す。

1983年12月28日
昭和天皇が「秩父宮のオックスフォードの教育は失敗だった」と仰せの件伺う。
つまり不十分だったのと、秩父宮の性質によるが、参謀総長閑院宮載仁親王をダラ幹と言い、当時の軍の勢いに乗ったことなど、との仰せだった。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1983年1月20日
黒木東宮侍従の急逝の由 知り驚く。
死に場所がトルコ風呂ということで週刊誌など取材の動き。

1983年4月26日
週刊新潮に良子皇后と新興宗教の記事。

1983年5月6日
〔御養蚕始の儀〕
良子皇后の御所作、ほとんどお迷い。

1983年6月6日
昭和天皇よりお御足の不安につき、御幼少時の上半身の揺れ、貞明皇后が御心配になり電気療法など拝聴する。

1983年6月23日
洋楽演奏会に久邇宮正子女王陪聴のこと。
大真協会〔久邇正子の信仰〕のこともあり、良子皇后との接触は避けねば。

1983年7月15日
パキスタンに関して梁井大使の御進講。
おあくび連発でヒヤヒヤ。

1983年8月16日
侍医大橋敏之から、昭和天皇のの痺れにつき見解。
マッサージの必要から、看護婦長伊藤敦子を派遣することに手配。

1983年8月17日
昭和天皇が三殿御拝について永田発言〔式部官永田忠興〕を御心配。

1983年9月22日
週刊文春にまた杉村元侍医記事
〔最後の拝謁で私は陛下に直訴した~死後発見された天皇元侍医杉村昌雄の憤怒の手記〕
都合の良いことだけよく書けたもの。

1983年9月28日
三笠宮容子内親王、朝見の儀。
案じられた通り、良子皇后の御所作すべて具合悪く冷や汗。

1983年9月29日
週刊文春の杉村元侍医の記事、事実と違う点をチェック。

1983年10月5日
昭和天皇より、杉村問題につき高田侍医と八田侍医頭の引用を御示唆。

1983年12月14日〔須崎御用邸〕
昭和天皇が御用でいらっしゃらないと良子皇后さまよい、久しぶりにピアノの音。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1983年1月3日
高松宮御誕生日につき、昭和両陛下と御談話室で御対面。
例年30分くらいのところ今年は大変長い。
昨夏以来ヘルペスで公式行事には御不参の美智子妃のこと、(皇室離脱宣言をした)三笠宮寛仁親王のことなどがあったからか。

1983年3月29日
国内記者御会釈。
御車寄内、お立ちのままオフレコで自由に。
「良子は腰が悪く健康状態が良くないので、あまり話もない」というようなこと御答になったことが後で記者の間で問題となり、総務課担当者がどういう趣旨だったのか侍従から説明してほしいと言ってきた。
入江侍従長・侍医長と相談の結果、
「良子皇后先ごろ宮殿でお転びになったあと御膝などかなりお痛みがあったので、そのことについて御心配になっての御会話が多く、その他の事についてはあまりないという趣旨である」ことを小生から記者団に説明し納得してもらった。

1983年5月30日
ネクタイお忘れ。
昭和天皇も「小林も気がつかなかった」と女官におっしゃっていたというが、全く気が抜けない。
気づかなかったとは我ながらおそまつ。

1983年7月25日
今暁3時前後、良子皇后をお東(トイレ)後 廊下でお迷いでなかなか寝室にお戻りにならなかったらしく、昭和天皇がお探しで女官をお起こしになり、「なぜ鍵をかけておかなかった」とお叱り。

1983年8月9日
昭和天皇、御夕食のとき御箸をよくお持ちになれず度々お落しになり、揃えるのに卓にトンとおつきになった。御飯もよくおこぼしになったと。
悪い前兆でなければ良いがということであろう。
お疲れのせいでもないらしいが心配だ。
御格子(就寝)前に侍医が伺ったところ、右親指が少し痺れるとのことで拝診したが、大したことはなさそう。

1983年8月11日
昭和天皇、上腕のあたりから感じがよくないらしい。
看護婦が来るのを心待になさっている御様子。
マッサージでもおさせになるおつもりか。
侍医が何も処置しないのはおかしい。
徳川侍従次長が侍医に何かしてあげるように頼んだので、やっと薬をお塗りした。
しかもすぐにではなく、御格子(就寝)の時に。
北白川女官長・女官らが交代で参邸したが、星川光正侍医のやり方に大いに不満。

1983年8月12日
昭和天皇は看護婦のマッサージをお望みらしいが、星川侍医はクセになるからなさらん方がいいと取り合わない。
クセになっても良くなるならよいではないか。

1983年8月22日
昭和天皇那須においでになってから、毎日午前と午後1回ずつ約15分ぐらい看護婦が右手のマッサージをしてあげている。
根因については侍医の中でも意見一つでないようだが、9日頃から時間も経っているのに進行する様子がないので、局部的なものだろうというのが伊東貞三侍医の意見。

1983年8月29日
昭和天皇の痺れほとんど良くおなりで、マッサージが効いたらしいと。
良子皇后の御足の腫れも大変良いとのこと、何より。

1983年9月5日
昭和天皇、散歩・御調査。
坂道のお進みが容易でなく、すぐ後ろでメモ取りと注意で緊張した。
最後の広い坂道で足を半分お踏みはずしたため、右側におよろけになった。
急ぎ支えたが間に合わず、後ろに尻をお着きになるように倒れ、小生の上に重ね餅。
何事もなくて幸いであった。

1983年9月28日
三笠宮容子内親王の朝見の儀。
良子皇后の御言葉なかなかお読みになれず尻切れ。
酒盃御口につけず御箸お立てならずうやむやなど散々の態であった様子で、記者連中注目の中でいよいよ老衰状態が知られてしまったという。
これから記者への対応どうするのか、もう誤魔化しきれないと思う。
かえって良いのかもしれない。
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『入江相政日記』侍従長

1984年10月19日
昭和天皇、朝から御風邪気。
女官久保喜美子が星川侍医長に話したが、「自分は外科だから夕方内科が来たら」など言ったので、
「そんなこと言わないで診察してくれ」と頼む。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1984年1月18日
御結婚60年の御感想案を作成。
昭和天皇から伺った、「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」という御感想にギョッとする。

1984年4月5日
御進講。
昭和天皇、薬の効き目なくお居眠り。
入江侍従長ゆすりにハラハラ。

1984年12月14日
東宮侍従曽我剛より、紀宮清子内親王が映画『風の谷のナウシカ』御所望とか。
東映の浜田氏に相談。

1984年12月15日
良子皇后、御署名なかなかお書きにならず時間かかる。
御眼鏡なく悪戦苦闘。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1984年1月10日
講書始の儀。
主要行事の前夜は十分お眠りいただくため、御寝室を別にし御格子(就寝)も約30分ほど遅らせ10時とすることになり、昨夜からそのようにすることになった。
また今日の儀の前に眠気覚ましのための薬を差し上げることになった。
その結果は上々で大変好結果となったので、明後日の歌会始の儀の時も同様にしていただく予定。

1984年4月20日
上奏物の御処理。
お昼寝なしで、お眠くて大変。
特に勲記の御署名危なかった。

1984年7月8日
東久邇10方御参内。
東久邇文子さんからお電話あり。
「今日はカメラを持たないようにとの話であるが、1年1回くらいの集まりであるから、昭和両陛下を囲んで記念撮影をしたい。こちらのカメラでなくても侍従職の物で写していただいてもよいし、こちらで写すならフィルムをそちらにお預けしてもよいから」と。
「ご相談いたしますが、こちらではカメラの用意がないので念のためそちらでご用意いただきたい」と申し上げた。
女官候所から北白川女官長にご相談したところ、昨年あまりにくだけすぎた昭和両陛下の御写真が撮られたので、当然外部の人に見られることになってよくないから、カメラはご遠慮願った。
卜部侍従も特に良子皇后の正常でないお顔つきのこともありまずいと同様の意見だったので、東久邇文子さんおいでの時に、「良子皇后の御写真はおぐしや御服装など御負担が大きいので、できるだけお断りしている。今日も全く御用意していないので御遠慮願ったらという女官長・事務主管の意見だから」と申し上げた。
「それは残念なこと」とおっしゃっていた。

1984年7月28日
那須御用邸。
良子皇后、次第に問題多くなっていると。

1984年9月20日
良子皇后、車椅子。
賢所御参拝のあと車椅子に試乗なさった。
だいたい具合良さそう。

1984年10月19日
昭和天皇御風邪。
朝から御咳あり御風邪らしいとのことだったが、女官は当直侍医星川光正侍医長に朝から拝診をお願いしたのに、御顔を見ればわかると言って取り合わないので、入江侍従長から星川侍医長に電話でなるべく早く拝診するようお願いし、北白川女官長からも食堂にいた星川侍医長に同様の要請をしたが、御昼寝のあと拝診するむね決めたからそのようにすると言って、御昼寝前の拝診を拒んでいた。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1985年1月2日
良子皇后御車からお降りになれず、ひと騒ぎ。
記者会から良子皇后のお手叩きで説明求められるも断る。

1985年1月4日
星川侍医長より良子皇后の御様子について聞く。
変形性関節症の再発。
御所での年末の転倒が引き金か。

1985年1月19日
東宮職員手島英臣から清宮貴子内親王の銀婚式につき内宴のこと。

1985年1月28日
昭和天皇より、右手先が痺れるとの仰せ。
星川侍医長に知らせる。

1985年2月2日
入江侍従長より、東久邇文子さんの御相手高木代々吉氏の調査報告書を預かり目を通す。

1985年4月15日
記者会での御言葉について昭和天皇より、
「長寿についてイヤなことにも出会うということは言わない方がよいか」と。
「御胸の中にしまっておいでいただきたい」とお答えする。

1985年5月24日
徳川侍従次長は東久邇文子さんの結婚式のため名古屋へ。

1985年5月25日
東久邇文子&高木代々吉夫妻、初参内。

1985年6月6日
昭和天皇より、高円宮からバレエを御覧にならないかと聞かれたことにつき苦手というのが本音なれどいかに対処すべきかと。

1985年6月8日
久邇邦晴氏の交通事故につき情報入る。

1985年10月5日
昭和天皇より、できればハレー彗星を見てみたいとのこと。

1985年12月2日
富田長官・山本次長に、前回1910年の昭和天皇のハレー彗星のスケッチを見せる。

1985年12月3日
『迪宮御日誌』にて、ハレー彗星御覧は1910年5月29日と5月30日の二回記載あり。
昭和天皇のスケッチは5月21日の御作なり。

1985年12月13日〔須崎御用邸〕
昭和天皇、屋上におでまし、ハレー彗星御覧。
危ぶまれたが大成功で、昭和天皇も御満足。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1985年1月《良子皇后の御容態》
暮の28日夜お転びになったためか、お車の乗り降り特にお降りの際になかなかお立ちにならない。
お立ちの御意思がないので御手を引いてもビクともなさらないし、かえってお嫌いになる。
1日の御車寄でのお降りの際はどうにもならず、北白川女官長に女官3人に卜部侍従もお手伝いしてようやく終わりになったが、その間10分余り。
昭和天皇は先にお降り願ったが、御車寄をお入りになったところでお止りで、良子皇后の御様子を御覧になってしまった。
お入りになるようお勧めしたがお動きにならず、北白川女官長が申し上げてやっとお入りいただいた。
伊東貞三侍医が拝診したが、特に異常はなかったらしいが、お転びの恐怖心がおありのため動くことが怖いのではないかと。

1985年1月8日
講書始の儀。
昭和天皇なかなか御立派。
薬の効。

1月29日
昭和天皇の右手痺れ。
昨日卜部侍従が賀状を御覧願っている時、右手先がしびれることをお聞きした。
前からという。時々あるらしい。

1月30日
北白川女官長、昭和天皇から「左首筋と右腕に電気が走るような感がする。また右指先が痺れる」と伺い、大橋敏之侍医に伝えた。
明後日当直だから御様子を伺いましょうということだった。

1985年2月3日
大橋敏之侍医が、「昭和天皇の右手の痺れは大したことなく、内科的なものとは関係ないだろう」と。

1985年7月13日
天皇天皇御長寿記録達成につき、側近一同から鰻弁当献上。
御相伴。
昭和天皇はお隣席の西野重孝元侍医に「これまで長生きできたのは西野のおかげだよ」とおっしゃった。
戦後の御巡幸・御訪欧米の際の側近の失敗談など、おくつろぎで御話になった。
細かいところまで覚えていらっしゃるのに驚いた。

1985年12月9日
島津久永夫妻(清宮貴子内親王夫妻)吹上大食堂で銀婚式祝宴御晩餐。
鷹司和子様はじめ全御兄妹お揃い。
良子皇后のお世話は美智子妃・常陸宮妃がお世話なさったが、良子皇后がなかなか御着席・お立ち上りなさらず、特にお帰りの際は美智子妃が良子皇后に御眼鏡をそのままかお置きなるかをお聞きになったが要領を得なかったので、小生がそのままでと申し上げてお帰りいただいた。
お世話するのはやはり慣れた女官でないと時間がかかってしまう。

12月16日
賢所御神楽。
御神楽終了のむね職当直から報告。
各宮家から御神楽終了のお祝いと昭和両陛下天機御機嫌伺候の電話が続々入る。
奥からの電話はいずれも宮廷言葉を交えてご丁寧な言い回しで閉口する。
「こんにちは、御神楽おするすると終わらせられ、おめでとうさんにござります。お寒さめっきり募りまして、昭和両陛下にはいよいよお健やかにいらせられますこととお伺い申し上げます。夜も更けてまいりましたが、昭和両陛下にはよしなに申し上げていただきますよう、ごきげんよう」
実際にはもっと長々と早口。
なめらかに、また語尾いささか曖昧に巧みに述べられる。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1986年1月2日〔一般参賀〕
突如良子皇后お手振り、昭和天皇はおやめで戸惑う。

1986年2月5日
昭和天皇より、高松宮の車椅子御提言につき、富田長官に話したことと徳川侍従長が不満そうに言って来たこととが食い違うので、富田長官に念を押すようにと。

1986年3月17日
東宮侍従八木貞二より、美智子妃御入院、子宮筋腫手術のこと。

1986年3月18日〔須崎御用邸〕
午前3時に起きて屋上へ、ハレー彗星見つける。
4時10分お起こし、はね起き、御洗面、お召替え、屋上へ。
60倍と200倍の天体望遠鏡でハレー彗星御覧。
4時33分入御、御寝室へ。
おねぎらいの言葉。

1986年4月15日
共同通信に終戦時昭和両陛下から明仁皇太子あての御手紙が公表される。
〔元東宮侍従村井長正が書き写していた4通の手紙〕

1986年4月16日
村井元東宮侍従あて警告文案を練る。

1986年4月17日
村井問題につき、徳川侍従長に富田長官の意向を伝えるも、態度不変。

1986年4月18日
階段にて村井元東宮侍従とバッタリ、汗顔の至りと。

1986年6月11日
徳川侍従長・安楽侍従次長と叙勲候補の件について、元女官今城誼子と元東宮侍従村井長正は除外のこと。

1986年7月3日
昭和天皇にディズニーランドについての御関心度につき伺う。
「行ってみたい」と本音。

1986年7月4日
侍従田中直より、三笠宮寛仁親王の御旅行届につき物言いありと。
侍医伊東貞三より、肝炎のこと聞く。
主治医から三笠宮寛仁親王の容体と見解など事情を聞いた上、昭和天皇に御了承得る。

1986年7月11日
宮務課長小松博より、三笠宮寛仁親王の退院予定のこと聞く。

1986年8月5日
元侍医杉村昌雄の夫人の出版情報。

1986年8月11日
杉村未亡人の出版につき抗議文。

1986年8月15日〔那須御用邸〕
北白川女官長と雑談。
かたわらで良子皇后大小の箱で無心なお遊び、悲し。

1986年9月3日
三笠宮寛仁親王、酒で入院の由。

1986年10月10日
星川侍医長から良子皇后のレントゲン結果につき、第四腰椎にヒビの疑い。
側面を撮らぬと判明せず、明日もう一度トライしてみるとのこと。

1986年10月16日
良子皇后の御腰痛の記者発表、各社記者押しかける。
ニュースは政府にも流れ、富田長官に照会あり、何のことだとカンカン。
昭和天皇にはお断りしたものの富田長官の耳に達していなかったとのこと。

1986年12月10日
高松宮万が一の時の対応分担など、御日誌により秩父宮の時の例を調べる。

1986年12月17日
山本次長より、また新潮に橋本明のレポートあり、元東宮侍従村井長正が情報提供していると。

1986年12月24日
高松宮に関し、秩父宮の例を基に具体的に打ち合せ。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1986年1月2日
一般参賀。
良子皇后はお手振りをなさらないことにしたので皇族方もなさらず、昭和天皇のみお手振り。
ただ6~7回目に良子皇后が突然お手振りをなさって、御供は驚かされたという。

1986年3月13日
昭和天皇が丸山手前の船頭小屋の高い所のイヌフグリを御覧になるべく上がったが、わずか数十センチメートルの坂を四つんばいでなさった。
ところが立ち上がれず、四つんばいで苦心なさる。
ちょっとお手を取って引き上げてあげれば済むものを、樋口英昭侍従は慣れないので見守るだけ。
小生は路上で女官長さんと話していたので、離れたところから見ているだけで手を出さず。
そのあとお下がりになるとき四つんばいで後ろ向きに足からお下がりになり始めたので、小生出て行き伊藤貞三侍医と両脇からお手を取ってお立ち願って支えて前向きに坂をお下がり願った。
夜女官候所で北白川女官長と久保女官がその時の状況を再現して大笑いと共に、侍従がもっとを手助けしなくてはと。

1986年4月15日
戦争末期終戦直後の明仁皇太子宛の昭和両陛下の御手紙各新聞に。
特に読売はトップに内容要旨を掲げた。
東宮侍従村井長正が伝育官当時写していたものを、昭和天皇の御立派なことを私するに忍びずと、共同通信の橋本明記者(平成天皇の御学友)を通じて発表したものという。
山本宮内庁次長は私信を公開するとはけしからんといい、徳川侍従長は昭和天皇に御許を得てからすべきなのに、昨日村井氏から電話があったが、すでに記者に発表してからでは遅いと呆れていた。
我々にしても側近としてあるまじきことと憤慨に堪えないところ。

1986年5月11日
仁徳天皇陵御参拝。
ついで全国植樹祭会場へ。
午後は大阪府立母子保健総合医療センターへ。
ホテルに御帰り、すぐテレビで5月場所御覧。
御感想は適当にとのことで、田中直侍従が苦心して作っていた。

1986年7月14日
アルゼンチン大統領来日につき、晩餐御言葉御練習の訂正。
当直の中村氏が奉仕したが、かなり細かいところまで訂正を申し上げたらしく、〈両国〉を〈リョウゴク〉ではなく〈リョウコク〉と厳しく申し上げたので御機嫌良くなく、どちらが正しいか文化庁に聞いて調べるむね申し上げたらしい。
前者も決して誤りではなく、むしろこれが広く読まれているのではないか。

1986年8月15日
全国戦没者追悼式。
昭和天皇モーニングコートの上着ボタンがかけられていないのが気になる。
きつくなってお言葉書の出し入れがしにくくなるからと拒否されたという。
最近お太りになって少し窮屈になっているという。

1986年10月17日
良子皇后御容態記者会見。
御腰・御膝がお痛みになるという説明を行った。
ところがこの記者会見の予告が通告されるや、天皇の御容態とかが報道されるとか、あらぬデマ。
北京から問い合せがあるとか大変混乱したらしい。
卜部亮吾主管も驚き、もう今後は書いたものを配るようにし、集めて説明することはしないと言っていた。

1986年11月10日
御在位60年祝賀提灯行列。
皇居前広場に数千の人が三々五々提灯を持って集まるので昭和天皇に御覧になってほしいとの要望があった。
昭和天皇も二重橋から車外で提灯をお振りになってお応えする案もつい最近まであったが、それではあまりに計画的に取られるからお手振りだけにすることに決まった。
昭和天皇がどんな御感想であったか記者から質問があった時どうするか、担当の審議官・安楽侍従次長寺・小生は御感想などを伺う必要はないとの意見だったが、富田宮内庁長官・山本宮内庁次長・総務課長は簡単でよいから何か欲しいとの意見で、富田宮内庁長官から徳川侍従長にそのように話して、結局当直の中村侍従が御感想を伺うことになった。
御車が到着少し前に、鉄橋欄干の電灯と伏見櫓に点灯、急に橋上が明るくなる。
橋上中央広場側歩道にお移りになり、欄干間際で広場の万歳万歳の声に2,3分お応えのお手振り。
万歳が終わると君が代の合唱始まり、その間2回の合唱が終わるまでずっと広場の方を御覧。

1986年12月10日
昭和天皇の視力。
当直の田中直侍従によれば、今日各国元首らにあてる年末年始のカード御署名の際、字が二重に見えて焦点が定まらないような状態であった。
なんとか10枚お書き願ったが、お帰りの御車の中で、生物学御研究所の顕微鏡もよく見えないとおっしゃったという。
伊東貞三侍医に伝え、別の御眼鏡を持ってきてもらったが変わりなかった。
伊東侍医が星川光正侍医長に報告したところ、明日自分が当直で出るまでほっておけばよいとのことだったという。
何たることだ。
すぐ来て診るなり、眼科の先生に連絡するなりすべきではないか。
生物学御研究所の清水達哉専門官に先週以前の御様子を聞いたところ、やはり最近顕微鏡がよくお見えにならないという。

1986年12月18日
『新潮45』によれば、天皇が終戦直後戦争の責任を痛感なさって御退位をお考えになったものの、司令部の容れるところとならなかったことはよく知られているところ。
しかしそれまでに時の田島宮内庁長官に命じ、戦争責任を内外に明らかにする詔書を起草せしめられたこと、その草案のことは田島長官のご遺族が保管していることなど元侍従村井長正が語り、共同通信の橋本明記者(平成天皇の御学友)により『新潮45』に掲載された。
先に昭和天皇の明仁皇太子への御手紙公開で物議を醸した村井氏の再度の暴露記事で、宮内庁も困惑。
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◆124代 昭和天皇(迪宮裕仁親王)123代大正天皇の長男
1901-1989 87歳没


■妻  香淳皇后  久邇宮良子女王 久邇宮邦彦王の娘
1903-2000 97歳没


※香淳皇后は子供たちを自分の兄妹の子供たちと結婚させたがったが、昭和天皇は遺伝学的見地からイトコとは結婚させなかった。

*香淳皇后の兄久邇宮朝融王は、子の久邇邦昭の妻として順宮厚子内親王・清宮貴子内親王に2回縁談を申し込む

*香淳皇后の妹大谷智子は、子の大谷光紹の妻として孝宮和子内親王・清宮貴子内親王に2回縁談を申し込む


●継宮 明仁親王  125代平成天皇
●義宮 正仁親王  常陸宮

●照宮 成子内親王 東久邇盛厚王と結婚
●久宮 祐子内親王 早逝
●孝宮 和子内親王 鷹司平通と結婚
●順宮 厚子内親王 池田隆政と結婚
●清宮 貴子内親王 島津久永と結婚


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田島道治 日記 宮内庁長官

1953年11月13日
池田のキリン舎出荷見舞状。
「動物園産業的ならず、猛獣でなかりしは小難、御一考」かと申し送る。

1953年12月17日
日銀副総裁に会う。
東久邇宮盛厚王は日銀より他へ紹介できず。
日銀はいつまでも給与すとのこと。
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『入江相政日記』侍従長

1953年1月5日
三谷侍従長から、田島長官の意見として、お舟入りには行幸行啓を願わない方針で、その代り稲田侍従次長をお使いにお出しになったらということを聞く。
稲田侍従次長の部屋で、侍従小畑忠もいる所で、そういう時のお使いは意味をなさないということから始まって、根本的になぜお舟入りに行幸になってはいけないのかということを言う。
三谷侍従長が昭和天皇の思召を伺ったら「ぜひ行きたい」と仰せになって、行幸になることになる。
あきれたものである。
帰宅して家族で花合わせ。

1953年1月6日
今日の御服装、モーニングか御背広かでもめた由。
これも田島長官のためにお舟入りが昨日遅くまで決まらなかったためである。
実際、イヤになってしまう。

1953年1月9日
式部の案によれば、昭和両陛下・明仁皇太子その他が御一緒におなりになるのが困るとのこと。
また常陸宮・清宮貴子内親王がごゆっくりおいでになるというようなことはスペースもなし具合が悪いとのことである。
そこで結局原案通りでお許しを得る。
その時にも「どうしてそんなに場所が無いのか。今度のことは田島などの形式にとらわれた考えのために事が窮屈になる。椅子はどんなのでもいい。無ければ立っていてもいい」と仰せられた。
式場から還御になったら、「話がまるで違う。場所はいくらでもある。三谷にも言っておいたが、官房の方に強く厳しく言っておくよう」という仰せだった。
三谷侍従長と稲田侍従次長にこの御沙汰を伝え、「今日の行幸は御通夜でないから10分でよいとか、御永訣に鵠沼に行幸になる必要は無いとか、そういう思召に沿わず人情にもとるような決定を軽々にしないよう田島長官に伝えてくれ」と話す。

1953年1月10日
今朝田島長官が昨日のことでお詫びに出たら、昭和天皇がまたいろいろ仰せられ、さらに小畑侍従に追加して御注意の御沙汰もあった由。
今度は相当効いたろうとのこと。

1953年1月13日
妻子から「なぜ昭和天皇が御葬儀にお出になるようにしない。宮内庁の馬鹿にはあきれる」とさんざんやられる。
これが国民の本当の声であろう。

1953年3月30日〔明仁皇太子外遊へ出発〕
昭和両陛下は横浜御出航の御様子をテレビで御覧になった由。

1953年6月14日
三笠宮妃から電話で「明日戴冠式のニュース映画を御覧ならば、秩父宮妃も御陪覧になりたい」
とのこと。
那須の保科女官長に電話で伺ってもらうように頼む。
那須からの電話で、「それはあまり勝手というもので、いつもお誘いするニュース映画には来ずに、こういう時だけ来るのはいかん」とおっしゃり、
あとからまた「呼んでもいいが、秩父宮家には3時、三笠宮家には4時に知らせろ」とおっしゃった由。
どういうものか困ったことである。

1953年6月22日
昭和天皇は田島長官を御召で、2時間以上も続く。
これは19日に田島長官が「お子様だけでなく、御兄弟や叔母様方ともっとお親しく遊ばしては」と申し上げたことについていろいろ仰せがあり、それを田島長官が熟慮の結果また申し上げたものである。
まだ全面的に釈然と遊ばしたわけではないらしいが、それでも申し上げたことは大変良かったと思う。

1953年6月23日
田島長官に呼ばれて、昨日までの顛末を逐一聞かしてもらう。
なかなかよく申し上げてくれた。
「あなたには前々からのいろいろないきさつもあるからお知らせしておく」とのことだった。

1953年10月27日〔四国巡幸〕
岡山の池田邸〔順宮厚子内親王の嫁ぎ先〕
大変な人出。
動物園のあたりを御供して歩きながら、田島長官から昨夜の谷口氏・伊原木氏との会談の結果を聞く。
池田宣政氏〔順宮厚子内親王の舅〕には弱っているらしいし、動物園をやめさせるということもなかなかできないらしい。
いずれも困ったことである。

1953年11月7日
御文庫御食堂の天井壁の落下を聞く。
驚いたことに7割の面積が落下。
惨憺たる状態。
調査の結果、ホールと化粧間を除きすべて危険ということがわかる。
結局来週より内廷庁舎にお移り願うよりほかなくなる。
実に困ったことである。

1953年11月13日
田島長官から「池田動物園のキリン小屋のボヤの御見舞の機会に、本来の姿に返れという忠告のような手紙を出そうと思うがどう思うか」ということで手紙を見せられる。
大賛成を表する。
三谷侍従長はこれを見て賛否を明らかにしなかった由。
驚いたことだ。
いったい何を考えているのであろう。

1953年11月24日
稲田侍従次長に呼ばれて、鷹司さん〔孝宮和子内親王の夫〕のこと・池田さん〔順宮厚子内親王の夫〕のことについて相談を受ける。
いずれも大したことではないが、困ったことばかりである。

1953年12月12日〔葉山御用邸〕
田島長官参邸、30分拝謁。
御機嫌が悪かったとのこと。
何を申し上げたものか。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は132万円

1953年1月8日
田島長官◆秩父宮薨去のため多少遅れて参りましたが、明仁皇太子御洋行の予算の点は1億1千万円を今年度予備費で認めてくれ、秩父宮御葬儀に関する700万円も今年度予備金で出すとのことであります。
御文庫の営繕2,500万円も昭和27年度予備費にしてくれとの話でありましたが、これはやめまして昭和28年度予備金にして欲しいとのことでありまして、植物の御移植等には帰ってよろしいかと存じ同意いたしました。
昭和天皇◆それは遅い方が良いが、どうして政府は堂々と予算に組まぬのだろう。
いつも予備費支出をするが。
田島長官◆ごもっともでありまして、大蔵省の意思がどういう点かわかりませぬが、正式予算で議論されますれば衆議院には社会党左派もおりまするし、参議院には共産党員もおりまするゆえ、皇室のために議論されるのを取らぬと考えておるのではないかと想像しておりまする。

1953年1月10日
田島長官◆昨日宮内庁分室〔秩父宮の葬儀〕へ行幸啓になりましたにつき、何か御不満な点がありましたむね伝聞いたしましたが。
昭和天皇◆三番町の式〔秩父宮の葬儀〕の場が狭い狭いと言ってたが、あれなら十分広いので私は驚いたのだよ。
田島長官◆狭いと申し上げましたのは、便殿を御しつらえするだけの余地のない意味で申し上げたと存じます。
昭和天皇◆それは儀式の時の話で、大宮御所でも御命日に参拝の場合は良子は廊下で待ってたこともある。
形式的でなくていい場合は今でもあるから、節子皇太后の時にも隔殿が狭くて御霊前にいたことはあるよ。
田島長官◆それは田島の心得が足りませなんだので、お詫びいたします。
側近の者に粗忽があった訳ではありませぬゆえ、お叱りなきようお願いいたします。

あれだけのスペースがあれば、常陸宮ら御一緒に御通夜的に遊ばしたかりし御希望に反せしため御話ありしか。

1953年1月14日
昭和天皇「服装の問題だがねー。どうもモーニングを着ることが多すぎるように思う。いろいろな場合を全てモーニングに決めてるように思う。ある場合はいいとかまたは背広とか、なんとか考える必要がある。一面フランスなど行われている昼間でも燕尾服を使うということも、信任状捧呈式の時など勲章は佩びる方がいいので、そういう時は燕尾服がいいかと思うし、進んで大礼服というようなものも考えられる」
田島長官「昭和天皇の御思召はモーニングを最上のものとしてモーニング着用を今より少なく遊ばす御趣意でありますか?それともモーニング以上のものを作ってモーニング着用を少なく遊ばす意味でありますか?」と伺いしも、確然と御方向をお決めになっておられる様子なし。

田島長官◆逆コース的な批判も考える必要ありまするのと経費の問題もありますので、モーニングに代る黒背広というようなことも考える必要あるかと存じますが。
昭和天皇◆大礼服となっても今の天皇服を少し工夫すればと思うが。
田島長官◆昭和天皇御一人ならば何でもありませぬが、宮内官がこれに準ずるとなりました場合に自費では不可能で、備品となりますると予算の点がいかがかと存じます。
燕尾服でも同様でありますが。
昭和天皇◆経費の点、宮内官の分も考えねばならぬ。
田島長官◆今日の東京新聞に宮中服の問題がちょっと出ておりましたが、良子皇后がお正月和装でおいでになり今後あらゆる式に和装と考え込んでいた人が、洋装の喪服の知識なしに申しておるのでありますが、これもは自分の知識なき独善論であります。

1953年2月17日
昭和天皇◆宮内庁員を公務員から外すということは良いと思うが、私がいかに政治から離れても、離れた範囲で関連があり、公務員でなくなったために政府がそういうことは一切連絡せぬようになっても困るから、閣僚の一人が連絡するとか連絡の委員会を作るとか連絡局を作るとかいうことは考えねばいかぬ。
田島長官◆公務員から外しても予算も一本の独立ということは、行政整理等のために終始波を受けぬ点はありまするが、公務員である政府の連絡員が実権を取りすぎるということも考えられ、なかなか一利一害でございます。
昨日も半蔵門を一度入りますと御文庫まで何の支えもありませぬ実状でありましたゆえ、南側に垣を作りまして、北側は忍び返しをつけまして、西側はお堀もあるまするゆえ茨線で一応完成しましたのを昨日見分いたしました節、庭園の係斉藤春彦に聞きましても園丁を45人くらい増員してほしいようなことを申しておりましたような次第で、政府の行政整理の度に連座しますのは真に困ることでございます。

1953年2月23日
田島長官◆先日昭和天皇からモーニングの範囲が広すぎる御話がありましたが、今回の明仁皇太子御出発は御旅装ゆえ背広と存じますが、お見送りの服装はどうかという問題であります。
吉田首相は昭和天皇の那須へ行幸の時すらモーニングでありますゆえ。
昭和天皇◆それは背広と決めて、首相がそれ以上のものを着て来ても黙認するさ。
去年の国体にどこかの市長が燕尾服を着てたようなものだ。

1953年2月24日
田島長官◆孝宮和子内親王の御会計状態でありますが、ただいま9,676万円という風に御財産が非常にお増えになっておりまして、1億に近いかと存じます。
赤字もありませぬ。大変結構であります。
昭和天皇◆それはいいねー。

1953年3月10日
田島長官◆この4月靖国神社の大祭でありますが、御親拝等に関する御思召はいかがでございましょう。
昭和天皇◆靖国神社は官幣社であり明治神宮は官幣大社である。
そのうえ祭神から言っても、私としては明治神宮を先にし、これと同等というよりはちょっと低いぐらいにしたい気がする。
田島長官◆今後明治神宮ならびに靖国神社は毎年起きまするゆえ、考え方を統一して御親拝または勅使等のことを戦前とはまた別の角度で再検討いたしたく、よく考えます。
明仁皇太子ハワイお着きになりますれば無名戦士のお墓へは必ずお参りと存じます。

1953年3月12日
田島長官◆内廷会計の昭和27年度補正予算と昭和28年度予算を昨日委員会にかけまして、満場一致で決定いたしました。
明仁皇太子の1千万円と御供に賜ります140万円の他 秩父宮への80万円でありますが、昨年の株の利益の税金170万円もありまして、それだけ補正をいたしまして内廷基金会計より繰入となりました。
今回の明仁皇太子のための1千万円の株処分の利益金に対しましては、税法改正のため税金はございませぬそうであります。
昭和28年度は伊勢御遷宮に要する臨時支出100万円もありまするのと、従来御積立いたしました良子皇后の御和装の特別会計を一般支出にいたしました等で、給与の引き上げもありまして150万円しか予備金を置くことができなくなりました。
良子皇后の毛皮の外套の御要求に対しまして金額を減じて50万円と計上いたしましたが、一国の良子皇后の御召物は場合によりますれば国威に感関しまする場合もありますので、予算の制限下で我慢して安い物を我慢していただきますことはよろしくないと存じますゆえ、そういう特殊の御事情の時は直接田島に仰せありまして、恥ずかしからぬ物をお調え願いたいと存じております。

1953年3月19日
田島長官◆「大谷智子御裏方〔良子皇后の妹〕の御訪問がありましたが、この秋にでも京都行啓あれば東本願寺へ願えるだろうかとのお尋ねゆえ、東といえば西また続いて佛光寺の関係もあり、良子皇后の御親類と申せばお西は節子皇太后の御親類、佛光寺も昭和天皇の叔母ということゆえ、やはり難しくなりましょうと申し上げておきました。

1953年3月26日
昭和天皇「北白川の叔母さん〔北白川宮房子妃〕の娘〔徳川多恵子〕が肺炎の方がどうも悪いらしいとのことを聞いたが、私は心配しているのは北白川の叔母さんは西式健康法か知らんが類似のことがお好きで、正当の医者にかかってるかどうかと思うことだ。竹田の叔母さん〔竹田宮昌子妃〕も全く西式健康法信奉者で、いよいよいけなくおなりになってから医者が拝診してももう手遅れであったことは確かだ」

田島長官◆やっと宮廷の御殿の総合的計画の案なるものができました。
昭和天皇から東宮御所はあまり皇居に遠からぬようにとのことを承りおりましたので、賀陽宮邸・大臣官邸・侍従長官邸の焼け跡はどうかと存じましたがあまり評判良くありませんので、結局大宮御所の焼け跡または現在の所が最適ではなかろうかとの結論であります。
昭和天皇◆それはよかろう。
田島長官◆木造はどうかと存じまするゆえやはり鉄筋コンクリートとなりました場合には、100年後のことも考えますれば結局大宮御所と東宮御所と交代になるかと存じます。
国民の再建の声もありまして、奥御殿跡に洋風の快適な奥御殿、これも100年の後にはお子様と御一緒に御住居願う場合の増築予定まで考えて立案し、パレスは焼けました御殿は日本風で良かったとのことでありますゆえ、構造とか換気とかは西洋構造をとるとしましても、造作はやはり日本風の千草の間の天井式のものと致さねばと存じます。

昭和天皇「皇室は分割とかいう議論もあったが、そういう議論は駄目になったのか!」と非常に御満足な語気て繰り返し仰せあり。

田島長官◆都会の中央には緑樹帯と申しますか、建物なき場所がありますことは必要という立派な議論も立ちまするかと存じますゆえ、皇居はだいたいこのままかと存じます。
昭和天皇◆三笠宮はパレスと住居は別の所にして通勤ということをしきりに言っておられたが、みなのようにどこにも散歩できぬ私には、吹上のような所を一つおいてくれれば実にいいのだ
田島長官◆ただいまの東宮仮御所は坪数は相当ありますけれども、故東伏見周子妃お一人のための御邸でちょっと不用の所もあり、東宮御所としては将来いかがかと存じまするが、続いて常陸宮の一家御創立の際の御殿は国により費用をもらいたいと存じ、皇族には公邸という制度に進みたいと存じまするが、これも青山御所の昭憲皇太后の大宮御所とか皇太子の御殿跡とか以外にはないのでありますが、一部は陸大跡の隣にアパートが建ちまして従来より悪くなりました点もありますが、まず差し当たっては東宮御所御造営後は常磐松に常陸宮においで願うことかと存じます。
常陸宮に皇族公邸の観念を国に認めてもらえば、秩父宮にも公邸・三笠宮にも公邸ということになります。
現に秩父宮妃が東京御住居となりますれば、元秩父宮邸焼け跡に御住居という問題も起きましょうと存じますすし、幸いに旧三笠宮邸跡も残っておりまして結局三笠宮邸も公邸を持つこととなります。
昭和天皇◆沼津御用邸は西邸だけ残してあとはどうかしたらどうだ。
田島長官◆実は葉山の付属邸なども問題と考えておりますし、沼津は全部おやめ願いましてどこかへ。
昭和天皇◆温かい温泉のある所と代えるといいよ
田島長官◆熱海のような繁華に過ぎますより僻遠でもかまいませぬので
昭和天皇◆伊豆白浜辺りがいいよ。那須は夏の温泉・海岸は葉山・そして冬は白浜辺り。
沼津の代りは暖かい土地で温泉のあることが条件で、海岸に近く採取できる所はなおいい。
田島長官◆また宮内庁病院・侍医の一元論の説、宿直医の大家にすぎること、宮内庁病院は宮内庁に特殊の立場さえ持てば一般病院としてよいこと。

田島長官◆天長節について思し召しを伺いたいと存じます。
昭和天皇◆モーニングを夜の会に着るということはいかん。
田島長官◆モーニングと申せばおかしいようございますが、通常服と申しますればフロックコートまたはモーニングでありますゆえ、通常服でよろしいと申せばよろしいかとも存じますが。
昭和天皇◆モーニングは洋服だろう。
そうすれば西洋のやり方とはあまり違う方はどうかねー。
田島長官◆日本の習慣として男子はモーニング・婦人は紋付和装が一般との仰せもありました意味で、一般には夜の結婚宴でもモーニングで行われておりまするが。
昭和天皇◆それは私服ならまた別だ。
田島長官◆それらは結局天長節が24時間の1日に限られまするために起こることでありますゆえ、別に天長節祝日ができますれば別でありまするが、さりとていただいま大礼の饗宴第一日というような式もできませぬゆえ無理を生じます。

1953年3月31日
田島長官◆昨日明仁皇太子御機嫌良く御出発遊ばされましておめでとう存じます。
昭和天皇◆テレビで見た。
とても明瞭で私はあれほどまでに進歩しているとは思っていなかった。
しかし東宮ちゃんばかりでなく、大使連中や吉田の顔なども見えてる方がもっと興味があるのだが。

昭和天皇◆葉山と沼津をやめて東宮ちゃんも希望してるから軽井沢とどこか南伊豆の温泉と採集のできる所と言ったが、軽井沢はやめて葉山の本邸は残し、沼津の代わりに南伊豆の温泉のある所と代える案がいい。

田島長官「案と言うよりも構想と申すべきもので、数年または十数年を要するものもあると存じます」と申し上しところ、
すぐにも御用邸の改善ができるとの御予想でありしか案外の御心持ちらしく、
昭和天皇「十数年もかかることなら飛行機で行くということも考えねばならぬ」

田島長官◆那須のごときも近所の共産党が何か言ってるという事でありますが。
昭和天皇◆どういう事を言うのか。広すぎると言うのか。
田島長官◆どういう事を主張しているか判然といたしませぬが、広すぎるという事かも知れませぬ。

昭和天皇◆田島は東宮御所を子供さんと一緒と言っておったが、果たしてその同居説は行われるか。
東宮ちゃんの時 西園寺公望なども強硬に言ってああなったことで、ヴァイニング夫人から聞かれた時には家が狭いからと言ったほどで、私の本心はもちろん同居を希望するのだが、元侍従次長鈴木一でも元侍従次長木下道雄でも元帝室林野局長官岡本愛祐でも強い西園寺主義の信奉者で、ヴァイニング夫人の時でも今更従来の主義を変更遊ばしては困りますと言うのだから、容易にできるとは思えない。
三笠宮のお子さんが果たしてどういう風におなりかは、注目すべきことだと思う。
私たちのように別居で養育教育されたものに比して、旧皇族では御同居でお育てになった方々の方に問題が多いということも考えてみなければならぬ。
これはやはりお甘やかしになるためではないかと思う。

1953年4月2日
田島長官◆昭和天皇の生物学御研究所は月・木・土でございますか。
昭和天皇◆木・土で月は都合の悪い時の補欠みたようなものだ。
そんなことないが、昔はこれをずいぶん攻撃したものだ。
攻撃する者があるないに関わらず、公のことを第一にする考えであるから、あまりこれにかかわらぬように。

田島長官◆天長節のことでありまするが、昭和天皇が夜の会にモーニングはおかしいと仰せになりましたが、式部官長松平康昌も同じ趣意を強く主張いたしまして、宮廷は燕尾服でなければおかしいと思うとのことで、モーニングなら日本の羽織袴の方がいいと申すほどでありました。

1953年4月10日
昭和天皇◆同居問題だがねー。
あれはみな一致して反対で、侍従長鈴木貫太郎も元侍従次長広幡忠隆も女官がいるからダメだと言うので。
田島長官◆西園寺公望も反対と承りましたが、直接昭和天皇に申し上げましたでしょうか。
昭和天皇◆いや、宮内大臣湯浅倉や広幡を経ての話で間接だ。
間接だが西園寺もその説で決まった。
女官はそんなことはない、御同居で結構だという考えのようだった。
私はむろん賛成で、成年に達するくらいまでは同居で教育する、結婚すればもちろん別居するという考えであったが、みな反対でそうなった。
日本では奉仕の観念とか教育の関連とがどうしても矛盾する面があるためダメということだった。

これは初めて伺う言葉だが、心中簡明で要を得た反対論の真髄と思った。
どうも昭和天皇は同居希望は仰せになりつつも、一面別居の方教育上よろしくにあらずやとの強い疑問を心中に潜在的に御抱持になるものか、この際表れ来るものかと拝察せらる。

昭和天皇◆もし手元で教育ということになると、学校へ対しての父兄は皇太子妃または皇太子が直接学校に当るのか。
将来は天皇・皇后が当たるのか。
田島長官◆それは同居別居とは関係ありませぬので、関係の者が学校へ出ますれば結構と存じます。
昭和天皇◆直接手元で養育すれば父母として子供のことを最もよく知ってるゆえ、学校に対して行くというこが起きてくるのではないか。
田島長官◆そういうことはないと存じますが。
昭和天皇◆家庭教師は置くのだろうなー。
三笠宮がいいモデルだ。
御自分の御意見でああやって教育をしておられるが、三笠宮妃の健康が悪い。
あれは皇族の立場としての仕事の他に、普通の家の母としての仕事を多くやりすぎられるためではないかしら。
三笠宮は私達より長くを節子皇太后のそばにおられたゆえ、高松宮なんかよりワガママなところがあるように思う。
私は節子皇太后とは時々意見が違い、親孝行せぬというようはことにもあるかと思うが、同居が長ければもっと意見が一致するのかもしれぬが、時代の空気にもよるし、内閣官房長官緒方竹虎のような人でも天皇に父母ナシ的な考えといつか聞いていたようなわけで、元来私も希望したことゆえ、子供も同居すれば増築可能という建築方針はいいと思うが、物には一利一害でこの問題も難しい。

1953年4月17日
昭和天皇◆皇族の親族が公の席へ出ることだがねー。
憲法のアメリカ案には一代華族というものがあったのを吉田内閣の時に取ってしまったんだ。
吉田は子というものに愛情がないのかね。
栄典法の時にも国民感情が許せばというようなことを言ってたから、憲法を削った時のいきさつからかもしれない。
大勲位というようなものを認めれば、公の場合も解決するのではないかと思う。
田島長官◆東久邇宮盛厚王は勲一等で大勲位でないということもありましたし、内親王方はいいといたしましても、その夫に当る人まで勲章という訳には参りますまいと思います。
昭和天皇◆いや、それは資格者の夫とすればよい、資格者の夫人の反対の場合ということ。

いろいろ繰り返し御話ありしも、要は元皇族全部ではなく、孝宮和子内親王・順宮厚子内親王・良子皇后の御近親ということに重点あるらしく、
昭和天皇「一親等だけに限るか」
田島長官「一親等なれば久邇宮朝融王は外れて久邇宮俔子妃のみとなります。叔母様となりすれば北白川宮房子妃等と増えますし、東久邇宮聡子妃となれば東久邇宮稔彦王ともなりまするし、なかなか難しき」旨を申し上ぐ。

田島長官◆御文庫の改造の間 葉山および那須にお出ましを願うということも少し長きに過ぎまするので、盛夏の頃は那須、その前は葉山、中間に御在京の時も相当ありますれば。
昭和天皇◆いや、私は盛夏の頃よりも6月の上旬に那須へ行きたいのだ。
いつも6月10日過ぎに行くが、藤の花もある、つつじも下の方で咲く頃一度行きたいのだ。
いつも八幡の方しか花がない。
もっとも共産党のこととかいうのもあるし。
田島長官◆共産党の問題は御用邸を焼き討ちするというような部分もありましたが。
昭和天皇◆焼き打ちはかなわんねー。
良子は葉山はとても暑いと言うので、良子の健康の問題は考えれば、盛夏の候はやはり那須がいい。
田島長官◆盛夏か6月上旬日かとなりました場合には?
昭和天皇◆それなら6月は来年にしてもいいから盛夏にしてくれ。
桜もひと月遅れだから5月ゆえ一度見たいと思う。
昭和天皇◆今年は5月はダメでございます。

1953年4月20日
昭和天皇◆天皇の親族の問題は保守的な内閣の時に話すがいいか社会党的な方がいいかということだが、吉田は昨年立太子の礼の時はっきり公式に元皇族を打ち切ると言ったし、緒方も節子皇太后の喪儀の時に私が葬列に加わることに不賛成だったので、天皇に父母なしという風に考えるかもしれぬが、社会党の和田博雄〔元農林大臣〕など元侍従次長鈴木一と意見反対で、子供は手元で育てた方がいいという意見だったから、天皇といえども肉親の情は一般人と同じ気持ちの意見かと思われるゆえ、社会党の方が話がわかるのではないか。
田島長官◆人情論のわかりますことはどちらも変わりありませんが、社会党の立場としては皇室または皇室関係のことに特権または優遇のことは致し得ぬと存じまする。
昭和天皇◆皇族は今皇族としての特権は十分ある上に、昔と違って庶民と同じような生活をもなし得るという両方の得な立場にあるということが、元は同じ皇族であった元皇族から見れば、いかにも両方とも持って得をしているという風にに考え、羨ましく思うという心理があるのではあるまいか。
田島長官◆確かにさようなことはあり得ると存じます。
皇族としてのいろいろな特権は元皇族と大きな違いであります上に、平民的な御行動の御自由も十分お持ちであります。
高松宮など地方へお出ましの時は固い御歓迎の席のみでなく日本流宴会などもお好みとの評判もありまするゆえ、そういうお感じはごもっともとも感じられます。
昭和天皇◆一代華族は別として、栄転の一部として公爵・侯爵というものをやるということは考えられぬか。
田島長官◆華族制度の復興とかいうことになりまして、なかなか難しいことではないかと存じますが、勲章はやはり功労ということになり、そこで位階でありますが、これは田島も従来の位階を残すは反対であり、栄典制度審議会の人も全部反対でありましたそうですが、吉田首相一人位階を主張いたしましたそうですが、位階を勲労に関係なく身分上の栄誉として昔の一品とか二品とかいう意味に考えられぬかとも思いますが。華族も大大名のためには旧藩士の子弟でも封建的に一生懸命主家のことを考えてくれる人もありますが、皇族は明治以降では事務官が付せられましても単に役人であり主従関係がなく、この点は大名より悪いのであります。
昔も宮家に仕えた者があったと思いまするが大名ほどの力なく、封建的に宮様のためというものの旧藩主のごときはないかと存じまするが、皇室でもこの点はやや同じで、一般国民が象徴として仰ぐという点は全く別のもので、一般の尊敬は他に例なきことでありますが、これは漠然たる感情だけのもので、具体的に皇室の御為に尽くしたいという制度になりますると宮家とは違わぬことではないかと存じまする。
憲法改正前は皇室のために国家同様の忠誠心を持ったと存じますが、新憲法の世の中となりましては、国家と皇室とは同一の人が重んずるという立場ではなくなり、宮内庁の役人は国の役人となり、吉田首相は人事は昭和天皇の御思召を伺ってやるという内規的なことを申し上げてはありますが法律ではありませんので、首相があえて独断で任命をして昭和天皇の御思召に従わぬ場合がありましても違法とは申されませぬ。
それゆえ田島は制度の上から申せば本当に皇室のためにはかって忠実に致すという人はどうして得られまするかわかりませぬと気づきます次第で、宮内庁に長年勤務して皇室のために尽すを天職とする人が特にあるとも思えませぬ。
多年勤務の人は下級の人にはかなり多くありますが、幹部の人はみな他の役所より転じました者で、皇室の百年にわたる大本とか人事の重要なるものとかを皇室の本位に真剣に考える人の制度というものはない仕組みで、将来のため心配な心持ちがいたします。
昭和天皇◆元外務大臣佐藤尚武などは?
田島長官◆これも参議院議長で政治に関係ありまするし、皇室とは御縁故もあり真に皇室のことを思ってくれてる人で相談相手になる資格もある人と存じまするが、また役所から取りたいと存じましてもなかなか良い人も来てくれませぬ現状でありまして、また来ぬには来ぬ原因もありまする。
昭和天皇◆内大臣と言ってはおかしいが、宮内庁長官の他に政治との連絡として閣僚の一人がなって、国でも皇室の大事には与るということは私はいいと思うのだがねー。
内閣で宮内庁のことを反映させる連絡する閣僚が一人あるのがいいと思うが。
宮内庁にいい人が来ないと言うが、昔の御料局のような大きな収入は望まぬが、収入のある財産と国庫からの予算とを受けて、定員の俸給も自由な別個なものとなればよほどいいかと思う。
公務員でなくしてしまってやっていけば、独立しても余裕も多少あるようになれば非常に良いと思う。

1953年4月22日
昭和天皇「来年の天長節のことだけれども、元は内廷皇族、照宮成子内親王なんかも未成年でも出たが、側近・侍従・侍医・侍従武官・次長までと一緒に食事をしたから、菊栄親睦会をどの範囲にするかしらんが、親族をこういう風にして晩食に呼べばいいではないか」
親族の範囲を元皇族の範囲より近い方々に限りたき御意思のごとく拝せられしゆえ、
田島長官「この方法でありますれば、菊栄親睦会として御召になりまする範囲の方は減らしてはどうかと存じます。例えば賀陽宮恒憲王は御親類関係は比較的お薄いとは申せ、別扱いはいかがかと存じます。昔は側近という観念は侍従職関係に限られましたが、今日では宮内庁の役人は全部側近のつもりで勤務いたしております考え方に変化しつつありますゆえ、この度には側近は不必要で、いつもの菊栄親睦会の通りでよろしいかと存じます。昭和天皇が夜のモーニングはと仰せもあり」と申し上しところ、
「私がモーニングは晩餐におかしいと言ったのは、外部の首相や何かを呼ぶ時のことを言ったので、内輪の内宴的にはモーニングでもいいと思う。高松宮なんか、昔のやり方は内廷皇族や側近のために御不平を言われた」

1953年4月30日
昭和天皇「来年までには栄典法ができるだろうか。栄典法では勲一等というものが出てくるが、これをどうするか考えぬといかんと思う」
田島長官「今回は大勲位とか勲一等とかいうことは廃します」
昭和天皇「それでは一本か」
田島長官「いえ、イギリスなどでナイトとかコマンダーとかいう勲章の名称の変化で等級はありますが、等級を言わず勲章の名前で旭日大綬章とか中綬章とか申すので、その佩用者ということになると存じます」
昭和天皇「結局勲一等に当るものができるわけであり、古い勲章を認めるとすれば、現在の勲一等の内にはあまりそれに値せぬ者もいるけれども、制度として栄典を決めた以上 宮廷でも待遇せねばならぬと思うが」
元皇族の失地回復のごとき観念にて天長節お招きその他をお考えになり、その根底には久邇宮朝融王が良子皇后に不平を仰せになり、また照宮成子内親王も何か仰せにて、なんとか逆コースのことはせねばならぬような御思想傾向にて御話が出ると拝す。
昭和天皇「栄典で勲章が回復して勲一等は何とかなるとすると、公侯爵はどうするか。ずいぶん寂しがってるらしいが、拝謁とかなんとか考えねばならんねー」
田島長官「毎度申し上げますように、少なき御近親の皇族の他はすべて平民ということは無理で、若干の貴族はなければ変とは思いまするが、新憲法とともに貴族が無くなりまりました以上、旧皇族とか旧華族とかを表向きに認めることは無理ではないかと思いますから、逆コース等の世上の論もありまするし、ちょっとすぐどうと言うということはできぬのかと存じます。菊花章が認められ旧大勲位も同等となりますれば、元皇族が公式に国事にもおいでになりうることになりますが、問題の解決にはなりませぬ。盛厚王は桐花章でありますし、鷹司・池田両氏は勲はありませんから、御親族問題の解決は十分考慮する必要があります」

1953年5月11日
昭和天皇◆小泉との話に明仁皇太子妃候補の歳のことも言ってたが、「これは結婚の時期にもよる」ということを言っておいた。
それから「宮内庁長官も婚約御結婚までの間は短いがいいと言っていて、私も短いが良いと思う」と言っておいたが、同時に矛盾であるが皇太子妃となってから皇太子妃のことを修行すればいいという理屈かもしれぬが、それはちょっといかぬゆえ、その準備のためには少し期間が必要だ。
それから婚約中交際するか否かの問題だが、「私の時代はなかった」と言った。
しかしこれはあった方が良いと思う。
田島長官◆それは無論のことでありまして、内親王方でも明治時代と違い、孝宮和子内親王・順宮厚子内親王は御交際になりました。
昭和天皇◆いや、照宮成子内親王の時と順宮厚子内親王の時と違うのだもの。

1953年5月12日
昭和天皇◆ニューカッスルの問題はなきも、朝鮮人が危ないというので上陸に困ったこともある。期間は6ヶ月でだいたい同じだが、船も軍艦で往復の期間の方が滞在期間より長いので、今度のように往復期間が短縮されれば、同じ期間でも東宮ちゃんはずいぶんいろいろのところへ行ける」

昭和天皇◆東宮ちゃんの結婚話だがねー、婚約と結婚と期間が離れるのはいかんと思うが、同時に皇太子妃となり将来の皇后となればそのための用意というものはどうしても特別にしなければならないが、これも試験勉強みたようなものだが必要だ。
その他にやはり普通の家庭の妻のようなことも必要だから、その点なかなか難しい。
田島長官◆平民の我々でもちょっとした結婚ならば調度品の調整等に半年かそこらはかかりまするゆえ、皇太子妃ということになればそういう物的準備が6ヶ月以内というようなことは考えられませぬ。
1年くらいはかかるかと存じまする。
そのうえ範囲は場合により従来のような皇族とか公卿・大大名の公爵・侯爵とかいう者に限りませねば、新たに皇太子妃に上るということになりますれば、余計特別の御教育が要りまするし、なかなか皇太子妃候補の問題は容易ではありませぬ。
それよりも私どもで候補者数名または十数名を選定いたしまするのが大変でございまして、門地・人物その他の要件がいろいろありまして、どうか良い方をと念じておりまする。
ご結婚は内廷のことかもしれませぬが、皇太子の御身分上内廷だけとも申されませぬかもしれませぬゆえ、賢所大前の儀とは参りませぬが、それらの点も研究せねばなりませぬゆえ、孝宮和子内親王・順宮厚子内親王の御結婚も大切ではありますが、皇室に血統の入りますることゆえ一層重要でありますので大変のことと存じております。
また御母にならせられまする良子皇后の思召はいかがかと存じ、女官長保科武子を経て伺いましたが、特別の御話はなく「優しい人がいい」というような御話がありましたが、昭和天皇の思召はいかがでございましょうか。
昭和天皇◆皇后となる資格を備えなければならず、外国との交際もあり東宮ちゃんは外国語ができるから外国語もできなければいけないし、また普通の家庭の妻としても要素がいるからなかなか難しい。
あまりおとなしくても困る。
物も言わぬような人は気持ちがわからぬし。

1953年5月18日
田島長官◆吉田の逆コースと言われますのは、昨日なども交通規制に違反で平気で飛ばしまするし、つまらぬことには気を用いませぬから。
昭和天皇◆だからワンマンだと言われるのだよ。
田島長官◆ワンマンも結構ですが、つまらぬことでワンマンはつまらぬと思います。
宮内庁の責任者としましては、内廷費および皇族費の増額の問題・三笠宮の御洋行の問題・常陸宮御成年の問題等、政府と篤と協議すべき問題を持っておりますので、皇族費の問題は現に秩父宮妃で迫られておりまするし、三笠宮はどうもいろいろな面から考えましてできるだけ早く御洋行を願った方がよろしいと存じます。
御兄弟中お一人だけ御洋行のないこと、今回は明仁皇太子がお出かけになりましたことなどで、御心持ちの上からもおよろしくない点がありましょうし、また思想その他御行動の上にも多少改めていただきたいためにも、この際どうしても御洋行が一番よろしいとの結論は動きませんので、昨年メーデーの容疑者の貰い下げを遊ばすなどは御軽挙と存じまするし、今年のメーデーに秘書高尾良一がちょっと伺いましても、「外出はするが行き先は言えぬ」とのことであったとかで。
昭和天皇◆三笠宮は万一の時には皇位継承の権件がある方だという御自覚が足らんと思う。洋行は良いと思う。
田島長官◆ただそれにはお付きの人が良い人が見出されねば案が良くても実行できませんので、明仁皇太子の随員首席も苦労いたしましたが、三笠宮の随員も非常に人選が難しいと存じます。
昭和天皇◆東宮ちゃんの場合は何も輔導は要らんが、三笠宮の場合はそうでないから人選は難しい。

少し明仁皇太子偏愛と言うか公平なる御意見とは拝承せざるも要点は三笠宮につき、

田島長官◆明仁皇太子は御教導するだけでありますが、三笠宮には御言動についてお止めしたりお諫めしたりする必要がありますので非常に難しいと存じて、今申した人と今一人従僕でもありませんがそういう風の人と二人は入用かと存じます。
侍従長と式部官長とに相談致しまして、両者のとの意見まず一致したのは元上海総領事日高信六郎でございます。
田島は一度も会ったことのない人でわかりませんでしたので、先日小泉の送別会の節一所に食事をいたしましたが誠によろしい人のように存じました。
昭和天皇も御通訳もいたしましたことゆえ御承知かと存じますがいかがでございましょうか。
昭和天皇◆いい人だよ。
通訳もしたが、大使の時に私もよく話を聞いたが、いいと思う。
田島長官◆小泉参与もいい人だと思うとの話でありましたが、果たして三笠宮に強く御意見を申し上げるというような強さがありまするか如何と存じております。
昭和天皇◆いや、それは南支の大使をしてて、あの軍の力の強いところであれだけやってたから相当やれると思う。
あるいは東宮大夫に適任かもしれぬね。
田島長官◆常陸宮の御成年も2年半の後で一家御創立の問題もありまするが、高松宮・三笠宮とも御直宮は軍人としてお立ちになる制度下で今のようにおなりになりましたのですが、常陸宮の場合は果たしてどういう御職務をなさいますかも問題であり、大学御進級の科もお決め願いませんければならず、ほぼこの方がよろしいかと一応結論を得て、学校での教育責任者であります学習院院長安倍能成の意見を聞く必要もありますので、それらを総合いたしまして昭和天皇のお許しを得たいと存じておりまするわけではありますが、この問題とても政府の了承に関係を持ちませんするし、いずれに致しましても安定政権が望ましく、目下新聞は孝宮和子内親王・順宮厚子内親王の御結婚をスクープできなかったので残念がり、皇太子妃は何とかしてスクープすると申しておりますそうでありますが、これは内親王方と違い皇室会議の議を経なければなりませず、どうしても政局の判定は望ましいのであります。

1953年5月20日
昭和天皇◆明仁皇太子妃候補の問題が『婦人クラブ』という雑誌に写真入りで出てるよ。
田島長官◆何人ぐらい出ておりますか。
昭和天皇◆さー、はっきりは知らんが10人ぐらいは出てる。
久邇宮〔久邇宮通子女王と久邇宮英子女王姉妹〕なんかも出てるが、あれは大谷のこの前の関係〔良子皇后の妹東本願寺大谷智子が孝宮和子内親王・順宮厚子内親王を子大谷光紹の妻に望んだが皇室側から断った〕もあり到底ダメな話だ。
こちらの調査の参考になるぐらいではあるが、ああいうものは困る。
田島長官◆各新聞スクープに大熱心で困りますが、さりとてどうすることもできませぬ。
むしろ今度他の婦人雑誌も出ましてかえって興味が薄くなりますかもしれませぬが、宮内庁次長の話では新聞の連中は大変な意気込みとのことであります。

1953年5月25日
昭和天皇◆東京新聞だったかに御文庫の増築という記事が出てたが、修善程度のものだ。
民意もあって政府もよろしいと言ったのだが、ああいう記事が出る。
田島長官◆あれは昭和天皇に累は少しも及んでおりませぬ。
宮内庁が悪く言われているだけのことで、宮内官は悪く言われるのが商売みたようなもので、新聞のああいう一面に偏した事実を十分研究しないで決めてしまって利口ぶった口の利き方をする放言的な評論はいちいち相手になれませぬので、放置し無視するより他ありませぬ。

1953年6月7日
「東宮御教育掛小泉信三〔皇太子外遊随員〕が着英後の手紙が着きまして、一部読ませていただきます」とて大部分読み上ぐ。
あまり御興味深く御聴取のように拝せざりしも、後刻良子皇后の御思召にて女官長より大要聞きたしとのことで、ついに書面を御手元に差し出せしところを見れば、多少御興味ありしか。

「内廷関係の不動産・御府等のことも総ざらえする必要があり、動産・御物・昭和天皇の御私有品も目録と実物とその所在等総ざらえの必要がありますので、実は真っ赤な贋物の狩野派の屏風一双・無落款のもの一双等は処分したいとの申し出でありますが、これは方法を注意すべきで、偽物となっておってもパッと処分すれば宮廷もタケノコ生活かというような無用の誤解なきよう、また偽物はでも御物には違いないのでこれを悪用する恐れなきよう、この2点を注意してご処分のむね申してました」
「よろしい」
「不動産としますれば吹上の覆馬場のごときもただいま使用はなく、修繕を要する点はありますが」
「私としてはあれはむしろ取り払ってもらいたい。植物の場所がそれだけ増えるから。あれは大正天皇のためで今は使わぬし、東宮ちゃんは主馬寮の方の覆馬場があるからあれは要らぬ」

1953年6月17日
田島長官◆暫時二期庁舎に御住居を願いますので、お風呂も少し遠くございますがご不便は?
昭和天皇◆風呂はあまり入らぬからどうでもいいが、贅沢を言えばあろうが、差し当たり別に。

田島長官「戴冠式の天然色の活動写真はいかがでございましたか」と申し上しところ、さほどの御感興でもなき御様子。
田島長官「明瞭でございましたか」
昭和天皇「明瞭は明瞭だが、果たしてあの色が実物通りかどうかは、実物を見ぬから分からぬ」
田島長官「秩父宮妃はテレビを3回もご覧になりましたそうで、儀式的な一部の他は全部見えて1時間40分とかかかりますと承りましたが」
昭和天皇「それはテレビと言っても写したのだから結局映画だろう」
さほど御覧になりたき御様子にも拝せず。
田島長官「明仁皇太子のイギリスの御行事が無事お済みになりまして誠に100点と存じまする。オックスフォードの風邪も戴冠式の前にお軽く済みましたうえ御警戒のお役に立ち、また御歓迎ばかりでなくニューカッスルのような程度のものもありましたことは、〔地元イギリス人捕虜団体の抗議により皇太子のニューカッスル訪問が中止になる〕かえっておよろしかったと存じております」
昭和天皇「よかった。しかし読売か何かに書いてあったが、皇太子は順番が下で秩父宮の時は一番だったということを単に言っているが、皇太子でも秩父宮でも個人としてでなく国の反映であるのだから、日本の国力がそれだけ下がったということに感慨無量でなければならぬのに、読売はそこへ来ていないがどういうものか」

1953年6月18日
心中直系皇族だけ重んぜられることはどうかとの念あるゆえ、
田島長官「今夜東久邇宮聡子妃お上りでありますが、最近御病気を遊ばしましたことゆえ、何かお見舞い遊ばすならば結構と存じます」
昭和天皇「時期が大切」

1953年6月19日
昭和天皇◆叔母様方〔北白川宮房子妃と東久邇宮聡子妃〕に何かあげたらということは良子とも相談したが、それがはあげたほうがよかろうとのことだから、盆に照宮成子内親王・孝宮和子内親王・順宮厚子内親王と久邇俔子妃〔良子皇后の母〕に差し上げるように1万円だか言ってるが、あれより多いのはどうかと思う。
二親等だからね。
田島長官◆昨日申し上げましたのはそういう定期的なことでなく、御病気でおありになりましたことからの考えでございますが。
昭和天皇◆それは貴重な薬を差し上げたから、それだけお金が要らなかったわけだから、御病気のために費用といえばダブる。
田島長官◆田島はお薬を差し上げられましたことを一向に存じませず申し上げましたが、そういうことでございますれば、この際をおやめで結構と存じます。
田島は平素考えておりますることは、皇室では我々平民とは違って叔父叔母とか御兄弟とかは比較的お遠いようでありますが、平民社会のように、直系皇族のみでなく傍系にも親しく遊ばしていただく方がよろしいのではないかと思っております。
臣籍降下の14皇族の多くは親等から申せば非常に遠く、昭和天皇の御兄弟はお二人だけ〔高松宮と三笠宮〕叔母様もお二人だけという今日ゆえ、もっと親しく願ってよろしいのではないかと存じております。
昨晩のように東久邇宮聡子妃は内親王の姑さんという御関係で、鷹司〔孝宮和子内親王の嫁ぎ先〕・池田〔順宮厚子内親王の嫁ぎ先〕と御一緒に召されますが、北白川宮房子妃はそういう御関係でないのでそういう機会がありませんでしたのを、先だって何かの御関係で御陪食になり、非常にありがたく御思召でおいでと承りました。
さようなわけで田島は、直系のみでなく数少ない傍系の方も機会あればなるべくお親しく願う方よろしいのではないかとの考えから昨日申し上げました。

1953年6月20日
「昨日田島の言ったことだがねー。私には田島の言ったことは、私が子供の方に重きを置いて高松宮などのことを次にするというような意味に感じを受けて実は驚いたのだがねー。田島ががそんな感じを持ってるかと思って。私はむろん皇族さん方を重んじて子供の方のことはもちろんその次に考えているので、主義としては私は田島の述べたのと同じことを考えているのだが、こと重大だと思ったから良子にも話して今日話すわけだが、ニュース映画〔視聴会〕のことは元皇后宮大夫広幡忠隆の頃に平素はお目にかかることもしずらいから、なるべく御話する機会のあるようにとの高松宮の方の希望で、それではニュースにおいでなさいということになって始まったもので、先方の希望を入れて始めたことなのに、近頃は少しもおいでではない。それから宮さん方はご機嫌伺いなどということはちっともないけれども、内親王の方はご機嫌伺いというので向こうからやって来る。それゆえ食事を出すことがあるというに過ぎない。こちらから食事に呼んだことはない。それから叔母様方は去年の立太子礼の時にも菊栄会親睦会に呼べたけれども、鷹司・池田はどこにも入らなかったから(これは明らかに昭和天皇の御記憶違い)今度呼んだだけのことだ。今言った通りで昨日田島の言った通り、私は子供より皇族さんを重んじてやっているのを、田島がああいうことを言って驚いた」とのお繰り返しゆえ、これは昭和天皇の御意思に反しても変な理論を仰せになっておいでのことを御諫言申さねば昭和天皇の変な御理屈を是認することになるが、笑っておいでではあるが拝命以来の御語勢ゆえ、
「さようでございましたか。田島が昨日申し上げましたことで昭和天皇を驚かせましたことは、誠に恐れ入りましたことと存じます。この事柄で田島が何か申し上げまするには、覚悟を新たにいたしまする必要もありまするゆえ、今日は退かせていただきまして、覚悟のできました上で改めたただいまの仰せに対し申し上げることにお許しを得たいと存じます」と申し上ぐ。
「うん、そう。私はちゃんと田島の考え方と同じであるゆえ、今日ニュース等のやり方をその考えでやってるが、実際のやり方がどうもというので再検討するという意味なら、それは分かるので話は別だ」との仰せ。

1953年6月22日
「田島が宮内庁長官を拝命いたしましたのは芦田内閣からでありましたが、突然の話で驚き断りましたが、『5月3日の憲法記念日までに決まらねば、GHQの方から先方へ猟官運動をしている者を押しつけてくるかもしれぬ』と芦田が申しましたのが気になりまして、GHQに猟官するような奴よりは田島の方がまだマシだと存じ、ついに拝命するに至りました次第で、芦田に侍従長は田島の推選する者に同意してほしいという条件を出しました。侍従長三谷隆信はおとなしい人で誰にでも評判はよろしいが、何一つしないので学習院ではやや持て余しておりましたが、人物は誠実で頭が良くて大人しくて、侍従長はむしろ消極的な方がよろしいぐらいで、かつて御通訳をいたしたこともありますので三谷に承諾してもらいましたが、侍従長としては誠に適当と存じます。申さば田島は追放の多い最中に代用食のようなことで拝命いたしました次第で、その時分はまだ東京裁判以前でありまして、今日とはずいぶん違っておりまして、昭和天皇御退位の問題もやかましく、昭和天皇から『元内大臣牧野伸顕にはよく打ち明けて大切なことは相談する方がよろしい』との御示しもありましたので、大事と思いますることは考え抜きました結果を牧野のところへ参り相談いたしました。爾来表の方のいろいろな問題にも当たりましたが、この問題は昨年5月3日の昭和天皇の御言葉によりまして終止符を打ちました。奥のことも5年間いろいろな人からいろいろなことを耳にいたしましたし、表のことに関する奥のこともありますので、自然奥のことにも頭を使うは当然でありました。例えば三笠宮の思想・行動の上にどうかと思われる節があり、三笠宮にも少し御態度を変えていただきたいなどということを申して参りましたけれども、一面田島は宮内庁のことに全責任ある身として考えてみますれば、三笠宮がどうしてそういう風におなりになるのか、おなりになるには宮内庁長官として職務の不十分なところがないのかと反省してみますると、やはりないとは申されませぬ。しばしば御洋行の御希望を承りました時、『在外邦人の金などではダメでございます。お兄様はみなさま御洋行ゆえ、堂々皇族としておいでになれますような機会を考えます』と申して参っておりましたところ、今回のイギリス女王戴冠式には明仁皇太子がおいでになりますことになり、三笠宮としては御不満にお思いにもなりませんが、自分はいつ行けるかとお思いになりますことは当然であり、また昭和天皇は終戦と同時にひどくお変りになりましたが、宮家の変化に比べますれば日常の御生活ことに経済の面では格段お違いにならぬとも申されまするに反し、特に三笠宮はお子様も大勢さんおありで、今後いかになり行くかと先をお考えになれば、進歩的な思想についてのお考えになりますのも多少は理由のあることと反省して考える必要があり、さすれば宮内庁長官として三笠宮の思想・行動をただ困るというだけでなく、その原因になることに対策を立てぬが職責上悪いということになりまするので、具体案としてとにかく一度御洋行願うことがよろしい、またできる限り経済上お楽になりますよう取り計らいますことが必要と存じまして、昨年来政府側に対しても予算等を頼んでおります次第であります。田島は一長官でありまするが、昭和天皇と遊ばされましては、皇族の一員である三笠宮に対して望ましいかぬ思想・行動おありの時には、それはどういうわけか、どうしてかとお考え頂き、単に困るというだけではなく、なんとかお考えいただくことが必要ではないかと存じまする。高松宮にしてもいろいろのことがあり、最近霜害が最もひどかった川越地方へ視察においでの節、宿屋以外の料理屋にお泊まりになるというので地方新聞にちょっと出まして、埼玉県知事が心配して宮内庁次長のところまで参りましたようなことがあります。軍人でおいでの方が毎日お勤めになる軍職がなくなり、ありがたかっておいでを願うとなれば、時間がおありゆえお出かけになります。いくら共産党の世の中になりましても、皇位継承権をお持ちの三笠宮が如何とも遊ばされることはできぬは明白で、皇室の首長たる昭和天皇に大きな御立場から大らかになっていただくことが必要かと存じます」
「その点は分かったが、高松宮妃もヴァイニング夫人の時に良子に先んじて英語を習い、またじきに辞めてしまうとか、秩父宮が私にゴルフを勧め、それではとやりだすと御自分は飽きてやめておしまいになる。秩父宮妃も高松宮妃と一緒に宮中服をお作りになるに熱心でいて、評判が悪くなると一緒になって悪口を言い、そしてご自分は和服を着るというように、飽きやすくて人より先じたがったりなさるから、どうもそういう点が…」
「田島の立場としては申し上げるのもつらいことでありまするが、そういうことはすべて宮様の方がお悪いとは存じます。宮様方の方がお悪いと断言せざるを得ぬとしましても、昭和天皇が宮様方と同列に立って、向こう様がこうだからこうだと仰せになりますことは、昭和天皇のお立場としてはいかがかと存じます。田島は仏教の家ですが、キリスト教の方では羊飼いは普通についてくる羊の群れよりも迷える羊の方を余計に心配するということであります。この羊飼いのようなお気持ちで、弟様方をも親心で子のように思いになればと存ずるのでございます」と申し上しところ、
「うんうん」と強く御応えになり、
「この間 田島が叔母様にお見舞いを差し上げたらと言った時に、田島に言うのもどうかと思ってちょっとごまかしたのだが、実は私はご病気の時にお見舞いのお金をあげるのはイヤなのだ。北白川の叔母さん〔北白川宮房子妃〕は西式健康法の信者で、徳川の多恵子〔房子妃の娘北白川宮多恵子女王・徳川圀禎に嫁ぐが34歳で病死〕のことでちょっと言ったが、まだひどいのは竹田の叔母さん〔竹田宮昌子妃〕は肺炎であったのを西式一方で、西洋流の医者が拝診した時はもうダメだった。ラジオで御容態を言った時も西式のことは言わずうまくいったが、実はそうなんだ。それだから北白川さんの叔母さんのご病気にお見舞いのお金を出せば、私はそういう非科学的なことを奨励した結果になる。少し言い過ぎだが、殺人幇助罪ということにもなる」との御話。
少し理屈が偏して何ともお返事できず。
「叔母様の問題はただいま御病気というわけでもございませんので、また適当に考えをいたしまするとしまして、どうか昭和天皇は首長として大らかに多少の間違いも包容して羊飼いのような気持ちで願いたいと存ずるのであります」と申し上ぐ。
「具体的にどういう方法にしたらばよいか」との仰せあり、
「毎週のニュースはおやめになり、月2回ぐらい御懇談の御食事でも共にせらましたらばと存じますが、よく侍従次長と練りまして申し上げます」とて退下す。

1953年7月1日
田島長官◆皇室経済法および同施行法改正法律案が両院を通過いたしまして、今日官報号外で公布されました。
昭和天皇◆昨日署名したよ。
田島長官◆昭和天皇も内廷費を3,800万円に増加する時 せんでもよろしいとの仰せで、右の次第で今後はちょっと増額は差し控える方が賢明ではないかと考えております。
したがって三笠宮の御洋行も内閣では昭和29年度の費用に計上しますことは結構と申しましても、考える必要があるのではないかと思っております。
政府は明仁皇太子の御洋行1億1千万円も秩父宮御喪儀費もみな予備費支出でありましたが、予算に入るとなれば議会で議論の対象となりますゆえ、よほど慎重に致さねばと存じております。
昭和天皇◆私は三笠宮はイギリスよりアメリカの方がいいと思う。
イギリスはああいう空気もあるし。
田島長官◆アトリー前首相の方でも保健大臣ベヴァンのような左がかりの人もおりますゆえ、イギリスでない方がよろしいかもしれませぬ。
昭和天皇◆三笠宮は東宮ちゃんと違い、洋行に大きな意味はないから。
田島長官◆それはやはり見聞を広められ、また国外から日本ご覧になるということはございましょうが。

1953年7月10日
田島長官◆内廷の基本金1,500万円は幸いに株式となっておりました分が騰貴いたしましたため、明仁皇太子に1千万円をお持ち願いましても1,500万円以上はありまする勘定で結構な結果ではありますが、株式への投資は慎重に致しませねばこれと反対の場合も生じ得まする理屈でありますゆえ、先日昭和天皇に内廷費の増額のことを申し上げました節、それは要らぬとの仰せで、皇族費は確かに赤字が出ますゆえ、増額案を出します際同時に内廷費も増しませねば、てにをはが合いませぬと申し上げました通りゆえ、ミンクの外套の問題も良子皇后の御料として恥かしからぬ物でなければ、安くてもかえって無駄に帰しまするゆえ、今日国産の最上30何万円とかでお決めになりました由。
若干基金勘定に繰り入れたいと存じておりますので、この運用には適当な顧問が要ると申し上げました通りでありまして、宮内庁長官限りで委託しまする資格程度のものがよろしゅうございましょうか。
それとも昔の牧野伸顕・一木喜徳郎というような皇室経済顧問というような今少し大げさなものがよろしゅうございましょうか。
昭和天皇◆それはねー、西園寺公望や牧野伸顕などは名前だけで、こういう社会に信用ある人が顧問をしているということを示すためで、実際には役に立たぬのだが、この際の必要は経済事情に詳な人の方が私はいいと思う。
田島長官◆実は田島が考慮いたしております者は、吉田内閣経済最高顧問加藤武男と申します元三菱の元締めをいたしておりました者でございます。
経済上の知識経験は十分の他 人柄が誠によろしく、三菱でも業務上のことはもちろんその他に家族上のことも一切やっておりました者で、吉田首相も加藤の人物を重んじておりますと存じます。
昭和天皇◆そうねー、田島も長官を辞めるかもしれぬ。
私は田島が長くやってくれることを望むが、そういう時に宮内庁長官限りの委託では一緒に辞めるということになるのもどうかと思う。
田島長官◆田島もいつ辞めさせていただくことになりますかもわかりませぬのでございますからついでに申し上げたいと存じますが、宮内大臣の当時は前歴の者全部の同意で後任を定めたとのことを承りおりまするが、田島拝命の時の牧野伸顕・松平恒雄・石渡荘太郎・松平慶民、四人とも相次いで没しまして、旧慣によりますすれば田島退任の場合の後任については田島一人意見を申し上げることになりまするし、新憲法は時の首相より昭和天皇に内奏いたしまして昭和天皇の思召を伺うことになっておりまする以上、人事は長官として考えを申し上げることになっておりますが、一人ではいかがかと存じまするし、現任長官を更迭させる要がある場合に現任長官にははかることのできぬ場合も考えられまするゆえ、これは真に昭和天皇の顧問として長官以外の人が顧問としてあることが必要かと存じます。
具体的にただいま田島は東宮参与小泉信三を考えております。
安倍能成〔東宮参与・学習院長〕は実にいい人間でありますが、いずれから見ても欠点の少ない人でなければならず、また公平でなければなりませんので、小泉がよろしいかと存じております。
昭和天皇◆安倍はちょっと理想に走るからねー。

1953年8月10日
昭和天皇◆今朝良子のところへ久邇宮朝融王が来て、清宮貴子内親王を久邇邦昭さん〔久邇宮朝融王の子〕のところへもらいたいという話があったということだ。
私は結論から言えば断って良いと思うのだが、その断りの理由を何とするか。
大谷の場合との関係もあるから、どう言って断ったものかねー。
田島長官◆お答えは良子皇后と御兄妹の御関係でなるべく角立ちませぬ申し条の方がよろしいと存じまするゆえ、申し上げ方につきては少し考えさせていただきたいと存じます。
明日にでも申し上げたいと存じます。
しかし清宮貴子内親王でございましたらばまだ先のことでございますが、お待ちになりますのでございましょうか。
昭和天皇◆それは待つとのお話だ。
田島長官◆朝融王はあまりお子様のことをお考えになったことはありませぬ。
御自分のことのみお考えでありまして、今回の御話も邦明さんのおためとのお考えではありましょうが、どうも清宮貴子内親王と御結婚になれば、将来皇室との密接な関係で全て御便利というお考えからではないかと邪推いたされまする。
朝融王がかつてお子様方の御話の出ました時に、秩父宮・高松宮に後継者がないから養子という制度が皇族は駄目ならば事実上の養子にしてもらうと良いと仰せになりましたことなどを合わせ考えてみますれば、どうもまた皇室と御縁ができればいろいろ御便利があるとの考えから出たのではないかと邪推いたされます。
久邇家相談役山梨勝之進〔元学習院長・海軍大将〕は宮家からお頼みになり、経済的な面は〔元日本興行銀行総裁〕河上弘一・〔大協石油社長〕高橋真男でありまするが、邦明さんの御就職・御結婚についてはずいぶん奔走いたしておりましたが、今回のことはそういうところへは御相談はないことかと思われまするが。
〔賀陽宮邦寿王と孝宮和子内親王との縁談破談〕
田島拝命前に賀陽宮邦寿王と孝宮和子内親の時には宗秩寮総裁松平康昌が出まして、先方様はお急ぎであり孝宮和子内親はお急ぎでないという風な申し方を致したと伺いますが。
昭和天皇◆今度は先方は急がぬと言うのだから、その理由は駄目だ。

1953年8月11日
田島長官◆昨日お話は侍従次長稲田周一ともよく相談いたしましたが、やはり御イトコさんのような近親の方はなるべく避ける方針ゆえ、この話は見合せのことというように、後に残りませぬ言い方が一番よろしいと存じまする。
こういうことはいい場合は別でありますが、お断りの場合は早いお返事の方がよろしいと存じますゆえ、明後日那須へお出かけ前すなわち明日中にお返事あるほうがよろしいと存じます。
稲田に御使を仰せつけられるのがよろしいかと存じます。
稲田ならば意味ははっきりと、そして柔らかに申すことと存じます。
昭和天皇◆そうか。
それは早い方が良いが、朝融王はなんだか宮内官を忌避しておられるようだし、だから昨日も直接良子の所へ言ってこられたのだが、良子が明日にでも呼んで良子から話したらどうか。
田島長官◆良子皇后の御兄弟の場合、はっきり仰せになりましても、それでも再考というようなことになり、良子皇后が「ええ」とでも仰せになりますれば後に残るように存じまするし、久邇宮の方で忌避なさいましても、侍従次長が御使に出ますは当然でありまして、田島は稲田をお通しいただいて御返事の方がおよろしきと存じます。
昭和天皇◆久邇宮への御返事は、法律では許してあるが、優生学上および医学上からはイトコの結婚は避けた方がいいということゆえ、これは見合せしてもらいたい旨で言え。
ことに邦昭さんは御長子であるから良い後継者を一層必要であるからということを言え。
先方がそれでも何か言ったら、大谷も同様の理由でやめたのだと言え。
ただしこれはなるべく言わんで済めばその方良し。
稲田個人の用件のごとくして電話で今日都合を聞け。
先方へ行ったら昭和両陛下の御使として上のごとく言え。

昭和天皇◆ニクソン副大統領の来ることは宮内省としてもよく考えておいてくれ。この前バークレー副大統領も来たが。
田島長官◆あの時は平和克復以前でありましたので君主国の皇太子同様の扱いということで、御陪食もあり二重橋から入れましたが、今回は平和後でありますゆえ、前例もよく調べまして。
昭和天皇◆皇太子とすれば東宮ちゃんが答礼に行くということも考えられる。
(またしても明仁皇太子を完成とお考えの前提で、御帰朝後国事に引っ張り出しになりたき御様子見ゆ。
これは今後の明仁皇太子根本方針に関するゆえ、仰せに異論あるも小出しに反対申し上げず、小泉とも相談・方針確立の上はっきり申し上ぐる心組にて、「まだ時間もありまするゆえ」と申し上ぐ)

1953年8月27日
田島長官◆11月5日予定の園遊会の服装の問題ですが、宮内庁内にもモーニング説と背広説と二派ありますが、本則としてはモーニングで違式でも看過するということでいかがかと考えておりますが。
昭和天皇◆私はモーニングがどうも広すぎると思う。
あれ以上の服装を作るか、モーニングが最高の服かで違ってくると思う。
田島長官◆プロトコルのやかましいローマ法王庁は黒チョッキの燕尾服らしゅうございますが。
昭和天皇◆日本の宮内省の燕尾服のチョッキも黒だよ。
私が西洋に行った時に白チョッキを見てきて、それから白にしたのだ。
しかし園遊会などは広い範囲の人だから、服装のために来れぬというようなことは困る。
田島の考えをより一歩進めて、モーニングまたは上等の背広ということにしてはどうか。

1953年10月7日
田島長官◆明仁皇太子羽田までお迎えのことに関しまして私どもの申し上げ方が不備でございましたために、昭和天皇に御心配をおかけ申し上げました結果となり誠に恐れ入りますが、全員おいで願うことは都合が悪いので御希望の方々を少数と存じておりましたのでございますが。
昭和天皇◆私は皇族代表は常陸宮だと聞いていたので、高松宮妃などが行くということを聞いて驚いたのだよ。
田島から常陸宮が代表と聞いていたから。
田島長官◆田島も手続がございまするのでそれも調べましたが、飛行機が遅れた場合にどうするかとの御下問に対して菊会親睦会をお延し願う他ないと申し上げましたのみで。
昭和天皇◆田島から聞いた。
常陸宮とは言わなかったかしらぬが、常陸宮になるだろうと言った。
(記録を見た上でのことなれど、田島から聞いたと強く仰せゆえ)
田島長官◆それでは田島の思い違いでございましたかもしれませぬ。そのために御心を煩わしまして申し訳ございませんでした。
昭和天皇◆私は自分で行きたいのだがいろいろの都合で行けぬのだが、一親等が行かず二親等が行くなどということはおかしい。皇族代表が常陸宮だからそうかと思ってたのに、高松宮妃や秩父宮妃が行くと聞いて驚いたのだよ。
(羽田までお出かけがさほど重大な親等問題ではなしと思うも)
田島長官◆それでは昭和天皇の御思召を伺いまして考えたいと存じまするが。
昭和天皇◆常陸宮は行く。それから照宮成子内親王なんか六人は菊栄親睦会の枠外でみな行く。それから皇族さんも行かれるということだ。
田島長官◆それでは清宮貴子内親王は学校の御都合でなくてもこれはよろしゅうございますか。
昭和天皇◆それは都合で行けぬのだからよろしい。
田島長官◆大勢さんですと明仁皇太子の御行列前に皇居へ御出発願う手順がうまくいくかどうかを心配することから起っておりますが、照宮成子内親王ら御六人おいでならば菊栄親睦会の御方でありまするから他にはなくともよろしゅうございますか。
昭和天皇◆いや、竹田宮恒徳王は最近西洋で東宮ちゃんと会っているのだから、私は竹田宮夫婦が行かれるがいいと思う。六人は菊栄親睦会の枠の外だ。
田島長官◆竹田宮も御希望がないとのことでありますが、昭和天皇は御六人の他に誰方があったほうがよろしいとの御思召でございましょうか。
昭和天皇◆私は竹田宮がいいと思うが、あるいは長老で賀陽宮恒憲王ということかもしれぬ。どちらにしても誰かが行かれた方がいいと思う。
田島長官◆それではこれは昭和天皇の御思召と先方様へ申し上げましてもよろしゅうございますか。
昭和天皇◆よろしい。

1953年10月15日
田島長官◆今回岡山へお立ち寄りにつきまして是非ともお願い致したいと存じますることは、例の池田隆政氏〔順宮厚子内親王の夫〕の動物園のことでございます。
田島は迂闊にもそういうもののできましたことは一向存じませず、それが地方の問題となりましたことを聞きまして、そんなものができたかと承知しましたような次第でありますが、これはいろいろ絡んで他の複雑な関係もあるようでありますが、常識上池田氏の仕事としては牛羊の牧畜は望ましい仕事の部分と存ぜられまするし、たとえ小鳥でも商品として扱われることは、鶏の卵を扱い雛を扱われると同じで結構でありまするが、カバとか虎とかいうものを動物園として経営されることはいかがかと存じられまするので、侍従職の者は全員、侍従次長も徳川義寛侍従も入江相政侍従も、また表の方の総務課長でも一致した意見でありまするゆえ、今回岡山で池田家を御訪問になりますれば同一構内で御覧になりませぬわけには参りませぬが、これをお褒めにならぬよう、少なくも御奨励になったという感じのありませぬように願いたいと存じます。
昭和天皇◆それは良子ともよく話してだが、やめてしまえというような意味を言うことも。
田島長官◆良子皇后には侍従次長・女官長が申し上げることになっておりまして、昭和天皇からやめよと仰せいただきますこおとは強すぎますが、少なくも御奨励ではないということだけは是非お願いいたしたいと存じます。
昭和天皇◆あまり進まぬようにすればいいのか」
田島長官◆池田氏の方から昭和天皇にあの事業についてご意見を伺われるような場合には、好ましくないむね仰せいただきたく存じます。
昭和天皇◆まあ、そういうつもりでいよう。

昭和天皇「チャーチルが三国外相会議はできぬと承知して主張しているようだが、アトリーもそれを承知で賛成しているようだ。イギリスはああいう風に方向のいいことは実際の結果が具現せんでもいいことはいいと言うようだが、日本では何か現実に具現したものがないとすぐ空であったということに不満を持つ傾向がある。例えば外務大臣岡崎勝男にしろ今直ちに東南アジアとの関係が具体的に実を結ばねば非難されることとなる。それが10年先か5年先のために捨石になるというようなことは【考えないがち】だ。皇太子の外遊は非常に好評だが、皇太子の外遊の結果というようなものは10年、20年の後に出るものであるにもかかわらず、世間は早速に何か具体的な事実の動きがないと承知せぬ国民性ゆえ、その善悪は別として宮内庁としても皇太子の好評なことに相応して何らかの施策を考えぬでもいいのか」
田島長官「明仁皇太子の今回の御外遊は第一は御名代としての御使命でありますが、自然の結果として外交上に役に立ったということよりはなんとなしに国際間の親善の結果が生まれたということでありまして、日本も敗戦後の国の地位が低下し、大使などもその国の政府・王室との接近など明仁皇太子御外遊を機として行われましたというような関係は自然な結果としてあり、大公使館はありがたく思っているかと存じます。明仁皇太子の御好評が宮内庁として何か手を打たなければ不評に変するというようなことはちょっと考えられまぬが」
これは明仁皇太子御好評につれ皇室を重からしめたいとの、失地回復的お考えへのビトレーかと拝察、危険に存ず。

1953年11月4日
田島長官◆明仁皇太子の御外遊の費用はまだ未済でありますが、概算1/3は余りましたと存じます。
内廷費で1千万円をお持ち願いましたのは万一国費で不足の場合を考えましたが、その方は4千万円近く余りましたゆえその必要なく、国費で支弁されぬ性質の明仁皇太子のお買物およびお土産品等は500万円でありますから、内廷費も500万円は返るわけでございます。
国費の4千万円は余りとして大蔵省にきれいに返すつもりであります。
昭和天皇◆余りはきれいさっぱり返すがよろしい。
そうしておけば常陸宮の洋行の時にもまたいいわねー。

田島長官◆東久邇宮稔彦王は御全快はないことでありますが、前回の盲腸などの時の経費とか今回の順天堂病院とか医者の礼とか調べましても聞く人によって違いまして、元宮家の会計などちょっとわかりかねます。
昭和天皇◆盛厚王自身から聞いたが、稔彦王の分は盛厚王が管理してると言っておいでだった。
田島長官◆いえ、市兵衛町の地面〔稔彦王所有の土地〕が売れました際に盛厚王がその代金を管理されたということは伺いましたが、万事盛厚王が会計御管理とは存じられませぬ。
昭和天皇◆私は盛厚王自身から聞いたのだが
田島長官◆承りますれば稔彦王と東久邇宮聡子妃も別の会計と伺いまするし、その辺なかなか難しいようで。
昭和天皇◆照宮成子内親王の話では稔彦王と聡子妃とは一つ所に寝もなさらず、その点聡子妃の方もどうかと思うが、先の女は切れたのにまた最近新たに女ができたと照宮成子内親王は言ってた。
照宮成子内親王は私は聡子妃に申し上げるが、盛厚王はできんなどと言ってた。
どうもお二人の間もなかなか難しいようだ。

1953年11月6日
田島長官◆御宸襟をお悩まして申し訳ございませんが、今日は田島進退のことにつきましてお願いを申し上げたいと存じまする。
吉田首相と打ち合せ手順が違いまして、正式に吉田首相から田島の進退内奏ありませぬ内に申し上げるようなことになりまして誠に恐れ入ります。
いつか一度申し上げましたとも存じまするが、芦田内閣となりまして芦田から田島へ宮内庁長官の話がありましたが、宮中のことなど皆目存じませんので拝辞いたしましたが、5月3日の憲法1年の日までにできなければ進駐軍の側から指名してくると聞きまして、進駐軍を頼って猟官みたようなことをする人間は断じてロクな者ではないので、そんな者が出るならば田島の方がマシだからついにお受けすることになりました次第でございます。
極東裁判前で昭和天皇の証人問題等も多少あります時代で、退位問題などもまだまだいろいろ論ぜられており、いろいろの人の骨折でことなく済み、一段落の時 吉田首相に辞任を申し出ましたが相手にされませんでした。
支那では七十致仕という言葉がございます。
田島は明年七十歳でございまして、記憶力の減退ははなはだしく、御前で人名等思い出せず誠に失礼のこともありますのでございますが、判断力につきましても自信がなくなりまして、やはり七十致仕と申すことには実際上経験からの格言かとも存じます。
元々鈍い人間が判断力さえ失っては到底この重責にいることはできぬと決意をいたしました。
吉田首相は田島の申し出を了承してくれまして、明仁皇太子御帰朝後取り運ぶということにまで運びましたのでございます。
御退位の問題も昨年5月3日の御言葉で段落がつきまして、昨秋は立太子の礼・今年明仁皇太子が御外遊からお帰りになりますれば、御暇を願うと決めておりましたのでございます。
田島は昭和天皇に嘘は申し上げられませんので、ありのままに申し上げますが、明仁皇太子御帰朝後は田島の身体上の調子は良くなりましたのでございます。
明仁皇太子のご旅行中のこと、飛行機のご旅行離発着時に故障の多いとのことで、羽田にお着きになりましても陸地にお下りになりますまでは心配でございましたが、御帰朝後身体の具合がつとに良くなりましたことを考えますれば、どうもこのことが気がかりであったせいかと存じまする。
精神的にも肉体的にも衰弱いたしまして重き責任を担うことができぬと存ずる次第でございまする。

一言も仰せなく、なんだか申し訳なくちょっと悪いことでもしているような後ろめたき気持ちす。

田島長官◆宮内府が宮内庁になりまする時 吉田が上奏しました文章の中に「宮内府職員の人事につきましては、昭和天皇の思召および宮内府長官の意見に基づきこれを決定することが適当でありまして、運用上十分その実を上げることができると存じております」とありまして、昭和天皇の思召に基づき長官を通じてということになっておりまするが、これは反面法規上では思召にかかわらずすることができるということにもなるのでありますゆえ、政府側で長官を辞めさせましょうとか、あるいは宮内庁とか昭和天皇の思召とかで長官を更迭いたします要のありまする時にご相談相手になります者が必要かと存じます。
侍従長は本来側近奉仕でありましてかかることには不適でありまして、昔の内大臣のような者で政治に関係なきような者があることが望ましいと存じます。
このことはかつて加藤武夫を内廷財本の参与にお願い致しました節ただいまのような構想を申し上げ、それには東宮参与小泉信三〔皇太子外遊の随員〕が唯一の適格者であること、安部能成〔東宮職参与・学習院院長〕もよろしいがちょっと容易に平和などを申し常識上困る点のあることなどを申し上げましたが、その意味で小泉はたくさんが認めている人格でありまして、小泉につきましては吉田首相は絶対賛成でありまして、受けてくれれば結構だが受けますかということでありました。
帰朝後数回小泉と話し合いまして、ようやく思召があれば畏れ多いがお受けするという返事を聞きましてございますゆえ、この点は何卒お許しを得たいと存じます。
昭和天皇◆小泉はよろしい。
田島長官◆5年有余側近に奉仕いたしまして何事も申し上げつけてまいりましたゆえに、この際 後任のことをもに付け加えさせていただきまするが、政府側に政府で考えつきそうな人で適任らしく見えて到底ダメな人を注意的に申しました。
名前を挙げまして恐れ入りますが、高橋誠一郎これは学者でもありますし文部大臣の経験もありますし、何でも受ける人でありますが、こんなつまらぬ人間はありませぬゆえ、こんな人は考えぬよう申し入れました。
次に渋沢敬三でありますが、民俗学とか魚の種類とか学殖も趣味も広く、日銀総裁・大蔵大臣の経験もあり渋沢栄一の孫でもあり、ちょっと批難のないようでありますが、大勢に押される性質でありまして、固き所信を死守するという点がありません。
元大蔵大臣池田成彬氏も彼に嘱目しましてああいう地位へ推輓もいたしましたが、池田氏も晩年実績を見まして「どうも見当ちがったか」と申しておりました。
現に吉田から元日銀総裁新木栄吉の前にアメリカ大使として勧誘されたこともありまするが、大事な時に毅然とできぬ人は宮内庁長官としては困ると存じます。
昭和天皇◆いろいろ学問的なこともあっていい人だがねー、そういう風では困る。
田島長官◆適当な人として考えますれば、ずっと前には副首相緒方竹虎その後には元農商大臣に狙いをつけたこともありましたが、二人とも申し分ないと思いますが政治に入ってしまいました。
政治に関係ある者は絶対に避くべきだと存じます。
また例え吉田首相のごとき人が政治に関係なく勤王で皇室中心であり臣茂などと申しましても、ああいう大人物一方では宮内庁長官は務まりませぬ。
経世済民の志はなければダメでありますが、ご家庭の仕事がありまして小人物的な要素が必要でありまする。
外部から考えますれば、新木栄吉は信頼するに足ると存じまして緒方に話しました。
アメリカ大使の重職にありまするから難しいかとも考えましたが、グルー元大使夫人があまりよく言わぬとか白洲次郎が悪口を言っているとか言うので政府としても転職口があればよろしいのではないかと存じ、人物は手固く操守が堅く常識があり信頼に足ると存じましたが、これは吉田首相は不賛成と申してまいりました。
理由はわかりませんが。
昭和天皇◆あれは脳溢血だからダメだ。
田島長官◆日高信六郎は田島は個人的によく存じませぬが、三笠宮御洋行の際の御供として適任者はないかと申しました節、侍従長と式部長官と符節を合するごとく日高を推しました。
その後いろいろな方面に聞きました節にいずれも信頼すべき報告に接しましたゆえ申し入れましたが、吉田首相からの返事に「宮内庁長官はいかん。東宮大夫ならば良い」というようなことでありました。
宮内庁内の候補者と申しますれば三谷隆信と松平康昌と宇佐美毅の三人でございますが、宇佐美が一番よろしいとの結論でございます。
同僚に批評がましいこと申し上げまするはいかがと存じまするが、公器のためには私は許されませんぬので申し上げますが、三谷隆信は侍従長としては類のないほど適任でございまするが、宮内庁内長官としてはしくじるのではないかと存じます。
文官試験は一番の秀才であり人物も温厚で頭も良くそれらの点は申し分ありませんが、三谷が明仁皇太子の首席随員となります時も田島はいろいろ苦心いたしました。
野村吉三郎海軍大将が外務大臣をしてた時に条約局長でもあったらしいのですが、次官になる人ではないというようなことを申しました。
田島は三谷の兄三谷隆正とは親しい友達で三谷も古くより承知しておりまするが、三谷は学習院女子部となり先生の間には至極好評でありましたそうですが、いかにも積極性がないとのことでありまして、学習院次長不破武夫の死後次長になりましてからは、人物のいいだけでは次長の役目は不十分で、安部能成〔東宮職参与・学習院院長〕も少し困っていたのではないかと存じます。
松平康昌は内大臣秘書官長にしましても式部官長にしましても、組閣の時に走り回るとか平素情報を集めるとか式を行うとか西洋人との交際とかこの方面では誠に忠実でありますが、決まりきって毎日起る役所事務のさばきということはいかがかと思います。
華族出身として異数の人と思いますが華族さんには違いありませんので、毎日の地味な事務を処理しさばくことはいかがかと思われますし、現職は適任と存じます。
結局宇佐美毅が一番適任と存じまするのは、前宮内次官林敬三が政府に懇望されて警察予備隊へ参ります時に後任の推薦を依頼しました時、極力宇佐美を推しまして、なんだかボヤボヤしているようであるがいつの間にか仕事がきれいにちゃんとでき上がっているとの評でありましたが、田島が3年有余一緒に仕事しましてもその評の通りだと存じました。
田島は宇佐美の同年輩の者がみな知事ぐらいにはなっているのになっておらぬはどうしてかと調べましたところ、その頃の内務大臣〔複数で特定不可〕の気に入らなかったためと聞きまして、あの内務大臣の気に入らぬのならかえって良い人物の証拠だと思いました。
田島はその内務大臣を承知いたしておりますが、つまらぬ人と存じます。
万事一緒に仕事をいたしました上で信頼できる仕事ぶりでありまして、年の若い点が多少ご懸念かと存じますが、人物としては申し分なく常識も操守も信頼できることと存じます。
外国人との交際が不得手かと存じまするが、大学は一度英文学を志したほどで慣れればできると存じます。
それに一木喜徳郎とか湯浅倉平とか内務省出身の宮内大臣はあまりその方のことは致さず、式部官長に頼んであったとか聞きますゆえこの点も多く心配はないと存じます。
田島が今日申し上げまするは如何かと存じまするが、吉田は手続を打ち合せましても今回のようなことになりまするので、一部は遅れ一部は先走ったことになりましたが、お許しを得たいと存じます。
昭和天皇◆皇太子の結婚のこともあり、私は宮内庁長官が辞めることは不本意である。
しかしいま聞いた事情を聞けばやむをえぬことと思う。
田島長官◆田島は今回お暇をいただきましたら、外部からできるだけの御奉公は致したいと思っております。
昭和天皇の仰せもありましたが、元宮内次官関屋貞三郎のように宮内庁を利用しすぎるようなことは絶対にいたしませんし、表立った時の他は参上もいたしませんが。
昭和天皇◆関屋はねー。

1953年11月25日
田島長官◆東久邇宮盛厚王にお会いいたしましたらば、稔彦王の御退院のことを承りました。
入院費は病院へ1800〔単位不明〕その他の費用も要りますゆえ、なかなかかかりますると存じまする。
金額の点は今少し相談の上申し上げまするが、これは稔彦王へお直きにお上げ願いましたならばと存じております。
秩父宮の手術料の時のように、御手許上げといたしまして賜りましたらばよろしいかと存じます。盛厚王のお話の節「責任が自分の方へ全部かかってくる」というお話がありましたゆえ、照宮成子内親王もおいででありましたが、「それは結構ではありませんか、親孝行ができまして結構と存じます、たくさん御孝行願います」と申し上げました。
またああいうお育ちでは「日本銀行5年の生活であるが、この上してても」というようなお話で、もう少し大所高所よりというような意味で外務省云々とのお話がありましたが、それは「やはり外務省の事務ならば同じでありますゆえ、世界の大勢にお通じの意味ならば、あそこで出します宣伝用の印刷物がありますから、あれをおもらいになれば」と申し上げまして、それは「そうして欲しい」とのことでありました。
また「日本銀行もそういうお考えならばサラリーマンはお辞めになりまして、一流会社は無理でありますが基礎のある二流ぐらいの会社の重役になられて、一週に一度とか一カ月に一度とか勤務される所へ出られたらばとも思います」と申し上げ、「照宮成子内親王ともよろしく御相談の上」と申し上げておきました。
その結果のお話があればどこかへ頼もうかと存じております。
昭和天皇◆こちらからそうそう生活のことに出すということはできぬから、サラリーマンを辞めて月給が無くなっては困る。
田島長官◆毎日お勤めになりませぬでも、重役として同じぐらいの収入はある所へと存じております。
昭和天皇◆あ、そうか。
田島長官◆東久邇家相談役新木栄吉〔元日銀総裁〕が不賛成で田島も同意見でありますビニールの何とかいうお仕事は、当時新木らの心配も杞憂でどうにかうまくいっているらしいお話でありました。
ただ田島の所の敷居が高くてちょっと行きかねているのは、他のある仕事に去年投資なすったのがすっかりダメになったとのお話でありまいした。
どれぐらいの程度のことか分かりませんが、御失敗のようでありました。

1953年11月30日
昭和天皇◆東久邇宮盛厚王が損をしたという話はどれぐらいか。
経済上に響くようでは困るだろうが。
田島長官◆日本銀行のサラリーマンを辞めて同額くらいとれる重役におなりになるご希望かどうか、照宮成子内親王とよくご相談のうえ御腹が決まりましたら田島のところへおいでくださいまし、どこかへお話しいたしてみましょうと申し上げてありますから、おいでになりました節に金額を伺ってみようと存じております。
昭和天皇◆重役ということになれば、洋行くらいはできるようになるか。
田島長官◆それは難しいと存じます。
長年ご貯蓄になりましてもちょっと難しいかと存じます。
しかし会社によっては業務上お出かけできるような所があるかもしれません。
昭和天皇◆もしその去年の損というのが大きかったら何とかしてやらなければ。
田島長官◆田島はそういうことはいけませんと存じます。
人の尻拭いということを申しますが、何か下手なことをなさって昭和両陛下の方でお尻拭いをしていただけるとなりましては、盛厚王のおためにになりません。
どうしても愈窮された場合は別でありますが、ああいう若い方が依頼心をお持ちになるようなことはいけませんと存じます。

1953年12月3日
田島長官◆東久邇宮盛厚王の先だっての額は意外に大きゅうございました。
人造石油事業に500万円を投ぜられ、インチキでありまして150万円は回収されたそうですが、あとの350万円は焦げつきのようであります。
先だってのお話に敷居が高くて田島の所へ行きにくいとのことで、まあ100万円くらいかと思っていましたが500万円で驚きました。
日銀のサラリーマンを辞めて他の会社の重役ということも右から左というわけにはまいりませんので、日銀では3万円もらっておいででうち1万円は特別なものでありますが、3万円の月給を5分利で換算しますれば720万円の財産を持っていることでありますことも申し上げました。
例の内職の方は案外よろしく、2~3人の人を使って夏分は6万円・冬分は1万円とかの収入で、これは成績よろしいのでありますが、今までは税金に一切出してないので不安があるのみならず、1~2年後まで果たしてこの通りかは危ぶんでおられる口ぶりでありました。
東久邇家相談役新木栄吉〔元日銀総裁〕が反対しましたのは内親王たりし方の御内々の仕事として似つかわしくないことでありますが、入るを計って出ずるを制するという御精神がないから起きますことで、出るだけのものはやむを得ないとして、その額だけの収入を図りたいお気持ちがありますゆえ、今回のような間違いが起きるのであります。
「新木をお出しになりますから」〔経済顧問新木を解任したこと〕と申しましたところ、
「先方が出た」とのお話で、
「結局新木が出るような盛厚王の行動があったためだ」と申しましたところ、
「新木は固すぎて話しにくい」というようなお話。
少し話しにくいような人の意見を聞かれることが必要で、ちょいちょいご機嫌伺いに出るような人で心安くお感じになるような人は相談相手にはならぬ人が多く、そういう人でしっかりした人はあるかもしれませんが無理でございます。
大名の家にはまだまだいい人があります。
昭和天皇◆そうだ。
従来事務官として宮家についた者は属官上がりのような大した人でないのがついてたしするから、いい人は従来の関係ではないだろう。
入るを計って出るを制するという根本のお考えがないからいけないのだ。
田島長官◆盛厚王は他に犬に共同で50万円ばかり投資のことも聞きましたが。
昭和天皇◆御経済の方は御困りになるのではないだろうか
田島長官◆これは盛厚王のお考えのおよろしくないために起きましたことで、昭和天皇が照宮成子内親王らの御話で御慈愛の御手をおのべになりますことは、かえって盛厚王のおためになりませぬゆえ、この度の御失敗は御自分である程度までお受けにならなければダメだと存じます。

1953年12月7日
昭和天皇◆盛厚王のことは?
田島長官◆重役の口とてそうそうすぐとも参りませぬが、日銀では考えてくれてると存じます。
重役も結構でありますが、日銀でないとかえってまた悪い結果がないとも申されませんし、毎日のお仕事があった方が良いとも存じます。
何にせよ適当なご相談相手のありますことが望ましいのでございますが。
昭和天皇◆御信任になる適当の人があるといいねー。
皇太子の進学のことなんかどうなる?
田島長官◆先日小泉・東宮大夫・宮内庁次長・侍従長とも相談いたしまして、いずれも大体の方向は一致いたしておりますが、今年いっぱいには何とかせねばならぬと申しておりましたような次第で、今年いっぱいにお決めを願うことになりますと存じます。

田島との最後の話だからと仰せもあり、
昭和天皇「今後憲法改正の重要問題につきまして昭和天皇の思召を伺いますることもありましょうがと存じますが、再軍備の九条以外、天皇の行わせられます国事その他いろいろなあの憲法の行き過ぎ是正のような場合にはよほど御慎重なことが必要かと存じます。吉田流に勇敢に運びますることは全て皇室のおためよかれかしとの至情より出ますことに相違ありませんが、それが過ぎますれば振り子の原則であおりを食いまして結局困る結果になりますゆえ、従来といえども吉田が皇室のためを思ってくれることをもあるいは反対して参りましたこともあり、意見の必ず一致せぬこともありました。宮中は政府と連絡を取らねばなりませぬが、政府より独立した超然たる存在でなければならぬと存じますので、例えば吉田は明仁皇太子の御小遣いまでも国費で支弁すればよいとの意見でありますが、内廷基金勘定の株式を売却して1千万円作りましたことなどには反対意見のようでありますと聞きますが、内廷費・宮廷費の区別を終始扱っております身としては当然すぎるぐらいで、吉田一人何も知らずに忠義的に考えましても、かえって皇室に累が及ばんとも限りませんのであります。それでございますから憲法改正などにつきましては、やはり党派を超越した一貫した立場でないと、長い目で見て皇室のためによろしくないかと田島は存じております」
昭和天皇「政府とは連絡は緊密なこと必要であるが、政府とか政党とりとかよりは独立したものたることは必要だ。経費の点なども無駄遣いをする意味ではないから、昔のように自由にできる皇室費で一本だといいと思う。いまさら林野を返してもらってその収入などということは考えられぬが」

1953年12月15日
昭和天皇◆盛厚王のことはどうか?
田島長官◆先日も日銀のサラリーマン生活をお辞めになり、どこかの重役のを形になることを申し上げましたが、時間の間隙ができることは間違いの元となりますゆえこれもいかがかと存じますが、とにかく日銀へはこの希望を申し入れまして、できれば重役になられる会社の社長が盛厚王に同情を持ち、会社の社長と重役という関係以上に社長が盛厚王の御輔導顧問になるというような人柄の所はないものかと思ったのでありまするので、このことも合せて日銀には申し入れまして、相当の礼を払われないでいいような顧問はダメでありますが、同時に信頼される人でなければやはり実は上がりませぬから、こういうようなちょうどいい会社社長を見つけることはなかなか至難で急には参りませんが、そういう所が見つかりますまでは日銀の方の関係を断つことは絶対にありませぬゆえ、とにかく3万円程度の収入は日銀に確保されておるようなものでありますが、先だっての人造石油の投資失敗の500万円は全財産と申してもよろしく、それの後始末は一応〔西武鉄道〕堤康次郎の紹介で弁護士でやっておいでとのことで、ただいま宮内庁で何か進んで手を打たなければ大変になるということはありません。
しかしこの500万円の焦げつきは大影響がありまして、日銀の収入以外は例のビニールの内職でありまするが、これもいつまで続くかわからずと盛厚王自身も言っておられ、また続けば税務関係の心配もありますので、この際この500万円に懲りられて今後十分お慎みになるよう申し上げました通り、今回は2度目で十分お困りになってご自分の失敗の結果で詰まられてしまうまでは皇室では何も遊ばすべきでなく、どうにもなりませぬ事態が起きました時に何とか手を考える他なく、500万円の焦げつきの後始末がどうなるのかを静観する他ほかないと存じます。
新長官にはこの事情は詳細話してありまするし、宇佐美は何事もよくできまするが財界関係のことだけは田島の方が馴染みが多いかと存じますので、近日田島が宇佐美を日銀当局に紹介しまして田島同様に連絡の取れるようにいたしたいと存じております。

昭和天皇◆岡山の池田の問題だがねー。
田島道治◆先日キリン小屋火事の時 火事見舞いのお手紙を出しまして、「もしこれが猛獣小屋の火事で順宮厚子内親王ら池田家の人はもちろん近所の人でも被害があれば容易ならぬことになります。産業動物園と伺っておりましたが、拝見しましたらば産業らしいところは少なく浅草の興行物のような感じで、これは御一考を要します」と申しましたところ、返事はキリン小屋で小火事だ心配ないというだけで、将来御一考えに対しては一行半句も書いてありませんでした。
順宮厚子内親王のお里として宮内庁の役人がかれこれ申さば内政干渉だなどと言われますゆえこれ以上は何も申されませぬが、あの動物園に ついて批難せぬ者は絶無と申してもよろしく、先日山陽新聞社社長谷口久吉に聞きましても非常に批難をいたしております。
岡山市長横山昊太も旧池田藩士で岡田在住のしっかりした人が一人欲しいとしきりに申しておりました。
岡山県知事三木行治は動物園攻撃には弁護に立つようなこともしてくれますが、本心はやはり池田家があれをされることには反対らしく、まあ一番同情ある反対で一番公平な立場を取っているのではないかと存じられ、知事らはあの有様では経済上の実体 誰が金を出しているのか、日々の観覧者で現金が入りますが、果たしてどういう計算かわかりませんので、使用人には給料の支払遅延があるとも申します。
いずれにしましてもはっきりさせるために株式会社にして、隆政氏をその社長にして、その月給の形でただいまの個人経営の利益のある所を得られるようにでも仕組むのではないかと思っております。
あるいは市営に移りますかでありますが、とにかく天子様の婿殿が遊ばす品位のある仕事でありませんことは確信をいたします。
牛・羊・鶏等本当の牧畜業でお損をなすっても恥ずかしいことではなく、こんな興行物のようなことで儲かりましてもあまりいい話ではありませんぬ。
先日北海道の土地のことをご進講申し上げました町村敬貴なども動物園のようなことをなさるなら羊や牛や鶏のことなら拝見して何か御来庁になることを申し上げてもと思ったがやめたと申しておりましたような次第で、動物園については誰一人賛成するものはないようでございます。
隆政さんは活動的で少し焦りすぎる点はありますが、まあ若いからと致しまして、宣政氏〔隆政の父池田宣政〕は実につまらぬ人間のようで、当時式部官長松平康昌や侍従入江相政などの話に聞きました以上につまらぬ人間で、これは構うことは要りませんが、これが隆政さんの方の邪魔にならぬようせねばならぬと思います。
池田家の顧問でありました陸軍大将宇垣一成も宣政氏の態度に憤って辞めましたらしく、元内閣秘書官長杉田大三郎は池田家の学資で修学した人でありますが、これも今は池田家の相談人を辞しておりますような訳で、東京と岡山とではいかんともしがたく、ただ警戒しつつ静観するより他はないと存じます。

昭和天皇◆孝宮の方は?
田島長官◆鷹司平通さん〔孝宮和子内親王の夫〕はサラリーマンで別に事業を成すでなく、元専売公社総裁入間野武雄がついておりますが、経費の点は相当収支が合わぬためか『二十の扉』〔テレビのクイズ番組〕などに少し出すぎるようでありますが、これらは支出を償う収入を図るためかと思いますが、ただ消費経済面のことゆえ問題は小さく、先日良子皇后から女官長を経て孝宮和子内親王のハンドバッグ等があまり同じ品でお金はどうにかならぬかとのお話がありまして、盆暮2万5千円の賜りを10万円に御増額になればと申し上げ、そういうことにお決めになりましたと存じます。
もっとも孝宮和子内親王だけということはよろしくありませんので、三内親王みな一様に10万円に願い、御保管は女官長の手許としてご必要のお品ご入用の時のお金といたしますればということになっておりますゆえ、鷹司の所は一番平穏無事かと存じます。
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『入江相政日記』侍従長

1954年1月12日
女官名取ハナから電話で孝宮和子内親王&鷹司平通夫妻のアメリカ行を心配しているとのこと。

1954年1月13日
三谷侍従長の所へ行き、鷹司夫妻のアメリカ行を止めることについて報告する。

1954年12月24日
昭和両陛下に御歌はもう少しお練り願いたきことを申し上げる。
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『入江相政日記』侍従長

1955年9月13日
東本願寺の大谷智子さんが大谷光紹に清宮貴子内親王をいただきたいと申し出た由。
もちろんお断りであるが、この前の縁談〔大谷光紹&孝宮和子内親王〕からこういうことは出てこないはずだということになり、稲田侍従次長が元侍従次長鈴木一さんの所へ聞きに行くことになる。
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『入江相政日記』侍従長

1957年5月29日
NHKへ行き美容体操の竹腰さんに会って、良子皇后の御指導に来てくれと頼む。

1957年6月4日
良子皇后は竹腰さんの美容体操。
大変御身体が柔らかくお若いと言って驚いて喜んでいる。
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『入江相政日記』侍従長

1958年3月4日
良子皇后この4~5日、なんだか御機嫌が悪い。
何が原因かわからないが困ったことである。

1958年4月2日
稲田侍従次長の所で、皇太子妃の問題、清宮貴子内親王の御縁談のことなどゆっくり語り合う。

1958年6月14日
「衛生女嬬という制度を辞めよう」というような仰せでビックリする。

1958年6月19日
夕方保科女官長来られ、良子皇后のこと長くいろいろ話し合う。
いずれもみな困ったことばかりである。

1958年6月30日
稲田侍従次長から良子皇后への御答のことで相談があり大変いいと思ったが、その結果を聞くと意外に根強いので一同驚く。
稲田侍従次長・保科女官長・侍従小畑忠と相談したが、どんなにしても体裁を取り繕うことはできない。
困ったことである。

1958年7月31日
侍従永積寅彦がが宇佐美長官に、
「昭和天皇にあまり細かいことを申し上げるな。これは前宮内庁長官田島道治以来の弊風である」とたしなめた由。
愉快なことだった。

1958年8月1日〔那須御用邸〕
侍従山田康彦と明仁皇太子の御縁談の推移について話す。

1958年10月1日
稲田侍従次長・保科女官長・小畑侍従と衛生女嬬制度廃止について協議する。

1958年10月3日
稲田侍従次長が昭和天皇に申し上げたらえらく反対遊ばした由。
そのことをまた良子皇后に申し上げるように勧めた。

1958年10月8日
侍医西野重孝さんの所へ行き、稲田侍従次長から言い渡される前によく言っておいた方がよくはないかというようなことについて話し合う。
その後、もう言い渡したとのこと。
大したことなく終わったが、やはり事の真相は蔽うべくもないようである。

1958年10月11日
良子皇后が秩父宮妃と高松宮妃を呼んで、明仁皇太子の御縁談について「平民からとはけしからん」というようなことをお訴えになった由。
この夏 御殿場でも秩父宮妃・高松宮妃・松平信子夫人という顔ぶれで前宮内庁長官田島道治さんに同じ趣旨のことを言われた由。
しかしそれにしてもそんなことをただじっと見つめているだけとは、情けない知恵のない話である。

1958年10月16日
新聞記者桐山君来訪。
皇太子妃のことについていろいろ話がある。

1958年11月14日
会議。
と言っても、稲田侍従次長より皇太子妃についての報告。

1958年11月15日
昨日宇佐美長官が昭和両陛下に申し上げたら、良子皇后が非常に御機嫌が悪かったという。

1958年11月20日
東宮侍従黒木従達から電話。
正田富美子夫人が服装のことにつき心配しているとのこと。
保科女官長から電話なさるように整えて出勤。

1958年11月24日
高松宮妃の所へ行く。
いろいろのことを聞かされる。
帰って良子皇后にいろいろ申し上げようというのだが、〈おぐしすまし〉(洗髪)とかで申し上げられない。
後でホールで申し上げる。
よくお聞き下さる。

1958年11月25日
稲田侍従次長に昨日のこと報告する。
黒木東宮侍従と宮内職員田端恒信と五反田の正田家へ行く。
質素な家だし、みんな立派な良い方である。
美智子さん綺麗で、そして立派である。
帰りに東宮職へ行き、鈴木東宮大夫・黒木東宮侍従と打ち合せ。

1958年11月26日
明日の御言葉ぶりについて申し上げる。
それで通ったから、明日は良子皇后も一応やってくださることは間違いない。

1958年11月27日〔皇太子(平成天皇)&正田美智子の婚約発表〕
テレビカーが4台、自動車は無数、空にはヘリコプター。
10時からの皇室会議は全員一致可決。
そのことを宇佐美長官から昭和天皇に奏上。
良子皇后には申し上げないと言うので、驚いて稲田侍従次長に御文庫へ行ってもらう。
1時20分正田さんの三人来。
明仁皇太子・昭和両陛下に御辞儀の後、正田さんの三人参進、御礼のあと椅子。
茶菓御話、そのあと明仁皇太子と御茶、記者会見。
この時の美智子さんの立派さは忘れられない。
送り出してから、予の記者会見。
6時に帰宅。
テレビで何度となくその模様を観る。

1958年11月29日
週刊朝日の原稿を書き出す。
良子皇后に美智子さんの御印象を何と書いたらよいか伺う。
まとまった仰せもないので、昭和天皇が宇佐美長官に仰せになったのと同じでよろしいか伺い、お許しを得る。

1958年12月8日
御婚儀の委員になる。
東宮参与小泉信三さんの招宴。
小泉夫妻・正田富美子夫人・保科女官長・女官河合ヤヨイ・女性御用掛高木多都雄・戸田東宮侍従長・黒木東宮侍従・松平信子夫人。
酒をおいしく飲み、御馳走もたくさん食べる。
保科女官長と同車して帰って来て、まもなく寝る。

1958年12月9日
美智子さんの教育に呉竹寮を使うことを、昨日昭和天皇はいいとおっしゃったのに、良子皇后はいけないとおっしゃった由。
まだモヤモヤがあるらしい。

1958年12月11日
人権擁護の関係、12月16日に美智子さんも交えて御文庫でお催しになったらと保科女官長を通じて申し出たが、「早すぎる」とのことで駄目。
何が早すぎるのか全然わからない。
無意味な不愉快な底流を感じる。

1958年12月22日
三浦義一氏〔室町将軍〕に会う。
今度の御婚儀反対を叫び、柳原白蓮・松平信子夫人が中心となって愛国団体を動かしたりした由。
しかしだいたい取り静めたとのこと。
美智子さんが来られ、旧奉仕者に引き合わせる役を予が務める。

1958年12月25日
読売新聞記者小野昇君、正田富美子夫人の手記をもらって諒解を求めに宇佐美長官の所へ行ってさんざん怒られたと言って、憂さ晴らしにウチへ来る。
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『入江相政日記』侍従長

1959年1月14日〔納采の儀〕
11時に正田さんの三人。
昭和両陛下に三人が拝賀の後、良子皇后御一方の所へ美智子さん一人出て御伝来の指輪をいただかれる。
結構なことだった。

1959年1月19日
会議、東宮職の人員のことについてやる。
宇佐美長官が「女官と女嬬と一人ずつはこちらのを」と言うのを、「断然不可、新規のを」と言う。
「近衛さんはいかん」などと言うのを、大いに「いい」と言ってやる。
みんな予の説に賛同の者が多くて愉快だった。

1959年3月6日〔良子皇后誕生日〕
2時前正田さんの三人参内、御世話する。

1959年3月7日
今朝もまた妻が、正田さんが威張っているということから、予が正田さんを贔屓にしすぎると言って怒り出す。
つまらないことである。

1959年3月11日
週刊朝日に執筆するについて、昭和天皇に今度の御縁談をどうお考えになるかを伺う。
いろいろ聞かせていただく。
そのまま書けないようなこともあるので、これから整えなければならない。

1959年3月12日
良子皇后が今度の御慶事の馬車六頭、御大礼の時の御自身のも四頭だった、憤慨だとかおっしゃったとのこと。
何事だと言って憤慨する。
稲田侍従次長は大騒ぎしている。

侍従山田康彦と二人で御文庫へ行き相撲中継を楽しむ。
相撲が済んでから、美智子さんのことについて非常に御期待になっていることをいろいろ仰せになる。

1959年3月14日
御婚儀の時の馬の数は六頭でいいと仰せになった由。
よかった。

1959年3月19日〔清宮貴子内親王の婚約内定〕
朝早くNHK記者大岡護一君に起こされる。
清宮貴子内親王のことである。
朝日記者伊藤牧夫君からも電話がかかる。
新聞記者や何かに囲まれて島津さんの奥さんの参内が非常に遅れる。
11時前にやっと見えて発表も済む。

1959年4月8日
東宮職から「4月27日に明仁皇太子夫妻が正田家へいらっしゃることについて良子皇后にお許しを得てくれ」とのこと。
良子皇后に申し上げてみたら全然お聞きになっていないらしい。
しかし昭和両陛下とも御機嫌は悪くなく、当然のことだと言ってらっしゃった。
後で東宮侍従黒木従達が「御機嫌は悪くなかったか」と何べんも聞くところによると、宇佐美長官が非常にそのようなことを言ったらしい。
これから先これでは困ると言っていた。

1959年4月10日〔結婚の儀〕
美智子さんが正田邸をお出になる頃からずっとテレビを観る。
午前8時に出勤。
結婚の儀は次長室のテレビで観る。
なかなか御立派である。
美智子さんも御長袴、御無事で結構だった。

1959年4月13日
稲田侍従次長の所で岡山のことをいろいろ話す。
池田さんの方〔順宮厚子内親王の夫池田隆政〕の問題だということになる。
侍従徳川義寛に話すと、必ずしもそうでもないらしい。

1959年4月26日
御散策。
観瀑亭のあたりから元覆馬場のあたりまで、良子皇后と美智子妃が御手をお繋ぎになっていらっしゃるのを見上げた。

1959年6月18日
昨日稲田侍従次長が衛生女嬬の代りに病院の看護婦ということを申し上げたら、良子皇后えらく御機嫌が悪かったとのこと。
くだらないことだ。
電話で侍医村山浩一と侍医西野重孝に「既定方針を変えないように」と言ったら、
「もとよりそのつもりだ」とのこと。
一方女官河合ヤヨイはまったく衰えて、もう駄目だから下がると言っていた由。
その方はまったく良かった。

1959年7月8日
美智子妃のことにつきいろいろ論議する。
一日も早く産科医小林隆を御召になることが先決と主張する。
〔令和の天皇を妊娠〕

1959年9月10日
東宮職から電話で「宇佐美長官が明日拝謁する時、美智子妃の今後の御行動につき、リクリエーションのためのお出ましはなるべく遊ばすようにおっしゃっていただきたい」との鈴木東宮大夫の要請により、御文庫で良子皇后に拝謁申し上げる。
たぶんそうやって下さると思う。

1959年12月8日
東宮職から頼まれた明仁皇太子や美智子妃の御行動と正田さんについてのこと、いろいろ整える。

1959年12月17日
美智子妃御参内のことにつき良子皇后に申し上げる。
どういうわけか御機嫌が悪い。
意味はよくわかってるが。

1959年12月31日
明仁皇太子の御結婚はすべて素晴らしかった。
一つのブームになったと言っていい。
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『入江相政』侍従長

1960年3月10日
今日は清宮貴子内親王の御結婚だが、予は別に何の関係もない。

1960年9月7日
清宮貴子内親王の「ある日幸せに」というのが元になって、美智子妃と不和であるというような記事がUPにでたことについて相談する。

1960年12月15日
照宮成子内親王、今日手術。
やっぱりあんまりいいものではなかった由。
困ったことである。
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『入江相政日記』侍従長

1961年1月8日
今場所から昭和天皇も〔相撲の〕トトカルチョにお入りになる。

1961年2月28日〔トトカルチョの会〕
昭和両陛下、表拝謁の間へお出まし。
侍従・女官・侍医の全員。
予の開会の辞、侍従重田保夫の規則の説明、侍従松平潔の成績発表。
順に読み上げ、あと重い御茶。
大変お喜びいただいたのでうれしかった。

1961年5月10日
高松宮妃から、照宮成子内親王に電気をおかけするということ〔ガンの電気治療〕につき電話。

1961年5月11日
電気のことで大変ゴタゴタしているらしく、秩父宮妃・高松宮妃がずっと来ていらっしゃるらしい。

1961年5月14日
病院に御見舞。
そのとき電気の掛川という人の無茶苦茶ぶりを聞く。

1961年5月17日
秩父宮妃・高松宮妃おいでになり、いろいろおっしゃる。
しかし電気のために御熱が9度1分もお出になったことでもあるし、非常に控えめにはおなりになった。

1961年5月19日
昨日 侍医長村山浩一・侍医杉村昌雄が「電気治療おやめ願いたし」と申し上げたら、良子皇后激怒なさったとのこと。
また始まるらしい。
やり方が稚拙を極めたと思う。

1961年7月11日
昨日照宮成子内親王は非常にお悪かった由。
一時は緊張したが、今朝は小康を得ていらっしゃるとのこと。

1961年7月22日
重田侍従の電話で起こされる。
照宮成子内親王の御容態がおかしいとのこと。
すぐ出勤、昭和両陛下で病院へのお出ましに御供する。
昨夜10時から出血がお止まりにならず、ぶっ続けの輸血。
しかしあらゆる所から出血し始めたので、ただ輸血をしてそれを押し流しているようなことになっているとのこと。
夕方にはお難しいというようなことだったが、よくお保ちになる。
宇佐美長官・東宮職の人たちその他すべて集まり、御親族の御看護もお手厚いことである。

1961年7月23日
夕方から御脈はほとんど聞こえなくなったが、とうとうお亡くなりになってしまった。
病院の全員が御柩をお持ちしたのは感激的だった。

1961年8月11日
宇佐美長官に呼ばれる。
最近の奥のおかしな空気、明仁皇太子と美智子妃に対すること、秩父宮妃・高松宮妃のこと、常陸宮のこと、まったく弱ることばかり。
くだらなさに腹が立つが、そんなことを話し合う。

1961年8月16日
稲田侍従次長と話す。
那須で美智子妃が昭和両陛下にこの間からのことをいろいろ率直にお申し上げになったとのこと。
昭和天皇は「よくわかった」と仰せになったが、良子皇后は終始一言もお発しにならなかったとのこと。
帰りに理髪。

1961年10月4日
高松宮妃から電話。
美智子妃のことなどあらゆること、いつもの通り。
「このままでは皇室は亡びるだけだ」と言ってあげる。
夜、高松宮から電話。
「今朝は長時間失礼した」と。

1961年10月16日
御前で打ち合せ。
いろいろな問題がいっぺんに決まってしまう。
あんなお喜びの昭和天皇を見上げたことがないほどである。
みんなもそう言っている。

1961年10月21日
宇佐美長官に呼ばれる。
昨日秩父宮妃から、予が高松宮妃にやったことについて御話があったということで、その時の事情を話しておく。
喜んでもらう。
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侍医 杉村昌雄

※照宮成子内親王は大腸狭窄で開腹手術をうけたが、絶望的な病状だった。
そこに皇族推薦の電気施療師が登場する。

良子皇后は「あの病気、もう絶対治らんと言ったではないか。ところがあの施療師は少しは治ると言う。溺れる者は藁をもつかむと言うが、それがわからないのか」と言われた。
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『入江相政日記』侍従長

1962年2月17日
〔『那須の植物』への昭和天皇自身の序文〕
差し上げた校正のことで十なんべんの御召。
聞きしに勝るものである。
御前から帰ってきてまだ椅子に着かないうちに御召。
さらに言えば部屋に入る前からベルが聞こえていることもあった。

1962年4月15日
良子皇后から御召で拝謁。
昨日大谷智子さん〔良子皇后の妹〕が来られたので巻き返しかと思っていたが、果たしてそうだった。
やはり駄目と申し上げる。
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『入江相政日記』侍従長

1963年3月22日
稲田侍従次長から、宇佐美長官が美智子妃が予の書くものについて恨んでいらっしゃるから、当分内廷のことについては書かない方が無難と言った由。
あきれたことである。
美智子妃は宮内庁病院に入院、すぐ手術とのこと。
〔流産〕

1963年3月23日
美智子妃が言われたことを繰り返し考えるが、真に不愉快である。
仮にそう言われたとしても、そのことが当の本人の耳に届くというようなことは昔の側近にはあり得ないことである。

1963年3月24日
明け方から雨の音。
また美智子妃のことが不愉快に思い出される。
ゆうべも侍従徳川義寛が東宮職のガタガタぶりについて大いに語っていたとのこと。

1963年3月28日
山田東宮侍従長が来ていろいろ話してくれる。
この間からの話がだいぶ違ったのは情勢が違ったのか。

1963年3月29日
宇佐美次長と鈴木東宮大夫といろいろ聞くとこの間からのともまた違い、
「昭和両陛下には入江さんのような人があるからいい。昭和天皇も『それは入江に書かせればよい』とおっしゃったとのこと。皇室がこんなに冷たいものとは思わなかった」とのこと。
鈴木東宮大夫と一緒に東宮御所へ行き、明仁皇太子夫妻の御前に出る。
よく御話くださる。
御気持もよくわかった。
少しの錯乱もなく驚くばかりだが、その緻密なところが禍をなしていると思われる。

1963年10月27日
風呂から出たところで、次長からテレビのニュースを見てくれとのこと。
清宮貴子内親王の誘拐未遂事件、身代金5千万円とか。
しかしなにごともなくてよかった。
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『入江相政日記』侍従長

1964年4月8日
〔照宮成子内親王と死別した東久邇盛厚が再婚を考える〕
東久邇盛厚さんから、なんとか良子皇后に東久邇文子〔東久邇盛厚の娘〕の気持ちが和らぐようにおっしゃっていただけまいかとのこと。
なかなか難しい所以を説いて帰って来る。
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『入江相政日記』

1965年4月21日
明仁皇太子夫妻御参内。
美智子妃よりお直に御懐妊〔秋篠宮〕のことをお申し入れ。

1965年4月23日〔園遊会〕
昨夜美智子妃御出血。
昭和天皇は「各皇族にはありのままを申し入れるように」と仰せになった由。

1965年5月1日
池田隆政さん〔順宮厚子内親王の夫〕の会社が具合が悪く、5月いっぱいは保つだろうが8千万円の赤字はなんともならないとのこと。

1965年5月28日
宇佐美長官と岡山の池田隆政さんの経営潰滅のこと。

1965年8月14日
孝宮和子内親王夫妻、帰朝。

1965年10月11日
美智子妃、本日御着帯につき御参内。

1965年11月27日
昨日昭和天皇から宇佐美長官に美智子妃の御退院の頃のことについてすべてお許しがあったということだったが、話がうますぎると思ったが、やはり昭和天皇は永積侍従次長から良子皇后に申し上げるようにと仰せられた由。

1965年12月2日
〔秋篠宮誕生〕
病院に御見舞においでになったらどうかということでいろいろやる。
結局昭和天皇はおいでにならないことになり、良子皇后御一方ということになる。
でも良子皇后だけでもおいでになることになって良かった。
良子皇后が御見舞になった時、美智子妃が起きてお迎えになったということにつき、無理してやしないかというのでお怒りの由。

1965年12月11日
美智子妃御退院をめぐって、東宮侍従重田保夫さんがカチンとやられた由。
こっちにも同じようなことがあったと言うし、ますます困ったことである。
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『入江相政日記』侍従長

1966年1月3日
昨日一昨日と魔女〔女官今城誼子〕から電話。
「大晦日に誰が剣璽の間に入った、なぜ無断で入った」とえらい剣幕でやられたということだった。
一戦を交えるつもりのところ、何の音沙汰もないのはどうしたものか。

1966年1月10日
永積侍従次長が魔女のこと申し上げた。
そしたら魔女が侍従田中直に怒ってきた。
良子皇后がおっしゃったためだろう。
剣璽のことも申し上げられた由。

1966年1月28日
稲田侍従長から電話で鷹司平通さん〔孝宮和子内親王の夫〕が千駄ケ谷の奥村マンションで前田美智子というバーのマダムと死んでいたという報。
すぐ千駄ケ谷へ駆けつけ、新聞の人と多少話したりする。
突然のことで何とも言えない。

1966年2月2日
妻に鷹司平通さんの週刊誌のことなどを読んで聞かせているうちに寝てしまう。

1966年2月4日
保科女官長から聞かされたところによると、魔女が行くのは〈真の道〉という宗教団体の由。

1966年3月16日
鷹司平通さんの四十九日につき鷹司家へ行き、鷹司綏子夫人〔孝宮和子内親王の姑〕と玄関で話しただけで帰ってくる。
それでもいくらか参考になった。

1966年3月24日
千駄ケ谷の鷹司家へ行く。
孝宮和子内親王御一方でお片づけものをしていらっしゃった。
「お片づけも結構だけれど、時には吹上にも御参内になるように」とお勧めしてくる。

1966年3月29日
鷹司家へ行く。
孝宮和子内親王、何も御話にならない。
鷹司綏子夫人も一緒。

1966年4月5日
昭和天皇に孝宮和子内親王のこといろいろ申し上げる。

1966年4月21日
良子皇后、御熱7度8分。
御歯が元らしいが、魔女の一言で侍医にお見せにならない由。

1966年6月1日
三笠宮家に行き、三笠宮妃に紀元節問題で御協力をお願いする。
話題は魔女のことにも及び、遅くなってしまう。

1966年6月7日
稲田侍従長・永積侍従次長と鷹司綏子夫人からいろいろお困りのことを聞く。

1966年6月14日
宇佐美長官に鷹司家のことを報告する。

1966年6月17日
女官名取ハナとことんまで話す。
熱心に聞いてくださる。

1966年7月20日
鷹司綏子夫人に電話、相続税のことで話す。

1966年7月22日
千駄ケ谷の孝宮和子内親王。
大変御機嫌もよく、相続税のこともよくわかってくださった。

1966年8月16日〔那須御用邸〕
中塚女嬬が「東久邇家のお子さんの洗濯が大変だから雑仕を一人増員してくれ」と言う。
「そんなに困るなら、雇い上げた洗濯婆さんにやらせろ」と言う。
そしたら今度は理由不明のもとに、「今日中に雑仕一人呼んでくれ」などと言い出したが、断る。
〔照宮成子内親王の死後、その5人の子供たちは御用邸などによく招かれた〕

1966年9月26日
昭和天皇が御熱がおありとのこと。
侍医冨家崇雄に聞く。
先年の那須の時のアレらしいとのこと。

1966年9月27日
〔マルコス大統領来日〕
昭和天皇は明日羽田に行くとおっしゃっておききにならない由。
結局おいでということになる。

1966年10月16日
常陸宮夫妻と御散策。
このあいだ明治会の時に皆様おすすめでお集めのお金どう遊ばすかにつき、昨日永積侍従次長からいろいろ申し上げたるところ、良子皇后はお取り上げにならず、それを打ち切って今日常陸宮に御相談とのこと。

1966年11月15日
長官・侍従長・侍従次長らと会議。
後任の女官長のこと、魔女の件。

1966年11月21日
永積侍従次長から聞くと、女官長を免ずるという書付に桃苑の御印を捺してくださった由。
今日はちょうど魔女が休みで、魔女とは関係ないということを示そうとなさったかということ。

1966年12月16日
鷹司綏子夫人と面談。
その後の孝宮和子内親王のことなど。
やはり伺ってみるといろいろ新しいこともある。
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田島道治 日記 元宮内庁長官

1966年1月29日
朝刊ビックリ。
鷹司平通事故死。

1966年2月10日
昭和天皇に孝宮和子内親王御降嫁決定当時の責任者として恐懼のむね言上す。
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『入江相政日記』侍従長

1967年1月30日
宇佐美長官の話によると、高松宮妃が良子皇后に「後任の女官長は松平信子が最適なこと、魔女の神がかりは有名で英文の投書も来ていること、高松宮もそんなのは女官長には不適と仰せになった」ということを申し上げになった由。
矢はいよいよ弦を離れた。

1967年2月14日
稲田侍従長の部屋で宇佐美長官から高松宮妃が魔女をお招びになった時のことについて聞かされる。
要するに、なんのかんのとみんな良子皇后の御沙汰ということにして言い逃れしただけのこと。

1967年2月23日
東久邇盛厚さんに会う。
文子さんの御縁談。

1967年2月24日
良子皇后に拝謁。
東久邇盛厚さんのことについて御報告し、機会があれば御対面願いたいと申し上げる。
あまりおすすみでもなかったが、とにかく承知してくださる。

宇佐美長官・稲田侍従長・永積侍従次長と魔女のことについて会議。
高松宮妃の御報告にもとづくもの。
イヤなことばかりでみな憂鬱である。

1967年3月20日
鷹司綏子夫人〔孝宮和子内親王の姑〕
その後の孝宮和子内親王の御様子について細々と話される。

1967年6月13日
東久邇盛厚さん〔後妻との間に〕二番目のお子さんがお生まれの由。
これで計七人、なかなか大変なことである。

1967年9月28日
小山直彦さんに電話で東久邇盛厚さんのことを頼んだが、どうもやはり具合よくは行かないらいしい。
宇佐美長官も来て、また東久邇盛厚さんのことなどいろいろ話し合う。

1967年10月2日
宇佐美長官・稲田侍従長・永積侍従次長と、鷹司家のこと東久邇家のこといずれ相談しようということになる。

1967年10月11日
宇佐美長官・稲田侍従長・永積次長と孝宮和子内親王のこと、東久邇家のお孫さん方の学校のことなど会議。

1967年10月16日
良子皇后に、孝宮和子内親王のこと、東久邇家のことなど申し上げる。

1967年10月18日
小川君から東久邇家優子ちゃんの成績について聞く。
稲田侍従長・永積侍従次長に東久邇優子ちゃんのこと報告。

1967年11月6日
四条隆貞君、東久邇文子さんの御縁談、大村和敏君〔四条隆貞の親類〕は如何と言う。

1967年11月11日
柿の木坂の東久邇家へ行く。
東久邇夫妻に会う。
真彦さん・優子さんの成績のこと、文子さんの御縁談のことなど。

1967年11月13日
東宮御所。
美智子妃に拝謁、二時間以上。
「良子皇后はいったいどうお考えか。平民出身として以外に自分に何かお気に入らないことがあるか」などお尋ね。
それぞれお答えして辞去。

1967年11月14日
宇佐美長官と稲田侍従長と永積侍従次長に昨日のことを報告する。

1967年11月17日
良子皇后に拝謁。
東久邇文子さんの御縁談につき申し上げる。

1967年11月27日
昭和両陛下から昨日の東久邇文子さんの御様子を伺う。

1967年12月7日
東久邇盛厚さんから御電話で、文子さんの御縁談正式にお決まりになったとのこと。
まあこれでよかった。
昭和両陛下に文子さんのこと申し上げる。
大変なお喜びだった。
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『入江相政日記』侍従長

1968年1月5日
東久邇盛厚さんはやはり肺ガンの由。
それもだいぶ進んだとのこと。
やはり駄目だった。

1968年1月8日
進講のとき一時間ほどでお手洗いにおいでになりたくおなりの由なので、コーヒーはおやめに願い別に御薬を上げるということになる。

1968年1月27日
冲中重雄博士が昭和天皇の御健康全般について申し上げる前に、予から良子皇后に申し上げてくれとのこと。
永積侍従次長が来て「迷信はいけないということを申し上げよう」と言っておられたが、なんとかそれをとめてくれとのこと。

1968年1月29日
良子皇后に拝謁。
昭和天皇のお疲れの御様子を一時間ほど申し上げる。
肝心の所には触れられないが、第一回としてはまあまあだろう。

1968年1月31日
午後二時から三時、進講。
今日は御薬を上げたのだが、途中ちょっとお眠りになる。
お起こししたらその後はずっとよろしかったが効かなかったのだろうか。

1968年2月12日〔葉山御用邸〕
2月25日の映画には浩宮御一方とのこと。
どうして美智子妃がおいでにならないかよくわからない。
東宮侍従浜尾実さんに聞いてみてもわからない。
昭和天皇も御不審だった。

1968年3月19日
永積侍従次長から葉山の魔女〔女官今城誼子〕のことを聞く。

1968年3月27日
西野侍医長・侍従徳川義寛君来て、魔女のこといろいろ語り合う。
永積侍従次長は今日も魔女を呼びつけて「塩谷信男〔宗教団体〈真の道〉幹部〕とはどういう関係か」を問い質した由。
なかなか尻尾をつかませない。
「後はよろしく」と指し切り将棋を任されても困ると言って笑う。
〔侍従次長、永積寅彦から入江に交替のため〕

1968年5月24日
良子皇后、清宮貴子内親王のことを御心配いろいろお尋ね。

1968年6月25日
孝宮和子内親王・鷹司綏子夫人〔孝宮和子内親王の姑〕と懇談する。
吹上に行き、孝宮和子内親王・清宮貴子内親王のこと申し上げる。

1968年6月26日
秩父宮妃と二時間ほど御話。
女官長後任のこと、孝宮和子内親王のことなど。

1968年7月1日
昭和両陛下に孝宮和子内親王のこと、東久邇家のこと申し上げる。

1968年7月17日
小川別当から東久邇盛厚さんが今朝宮内庁病院へ入りたいと言われた由。

1968年7月18日
小川別当からまだ病室のことで不満がおありのことなど聞かされる。

1968年8月22日〔那須御用邸〕
〔鷹司家に強盗が入り孝宮和子内親王がケガをする〕
孝宮和子内親王のこと申し上げる。
御風呂場で御入浴中を良子皇后御陪席のもとでの拝謁。

1968年9月13日
東久邇優子さんが浅草の友だちの家に寄寓しておられるとのこと。
今日東久邇久子さんが昭和両陛下にお申し上げになったとのこと。
これは大変なことである。

1968年9月16日
昭和天皇が東久邇優子さんのことで宇佐美長官にいろいろ仰せになった由。
この間から度々のことなのだが、ひどくやられ、もう辞めるとか、佐藤首相に言ってとかいうことになったらしい。

1968年9月26日
良子皇后「東宮女官長後任に松村淑子の件、考えたがどうも都合が悪いと思う」との仰せ。
やはりキリスト教だからだろう。

1968年9月27日
宇佐美長官・稲田侍従長に松村淑子は駄目ということを伝える。
東久邇家を常盤松の官舎に引き取ることについて打ち合せ。

1968年10月3日
東久邇家は常盤松の官舎にすっかり落ち着き、東久邇信彦さんもお泊りになり、今後ここに泊まってもいいかとおっしゃった由。

1968年10月9日
孝宮和子内親王の所へ行く。
ニコニコしていらっしゃり御機嫌である。

1968年10月16日
良子皇后に拝謁、東宮女官長松村淑子につきお許しを得る。
また揺り返しがあるかもしれないけれど、一応これで済んだ。
宇佐美長官も稲田侍従長も喜んでくれた。

1968年11月13日
明日の新宮殿落成式に魔女が御供ということだが、式部官長原田健からの電話で「女官長代理をお連れ願いたい」と申し入れてもらう。

1968年11月15日
四条隆貞君〔東久邇文子の夫大村和敏の親類〕から東久邇文子さん夫妻不和のことを聞く。

1968年11月18日
大村さん夫妻〔両親〕と和敏さん〔息子〕とがみえる。
文子さんの話いろいろ聞く。
大村さんのこと良子皇后に申し上げておく。

1968年11月19日
沢辺君来訪。
孝宮和子内親王の御近況について聞く。

1968年11月20日
東久邇久子さんは高松宮夫妻に言われて、離婚は思いとどまられたとのこと。
東久邇優子さんが今度のお手伝いの人をいじめる由。
困ったことである。
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◆124代 昭和天皇(迪宮裕仁親王)123代大正天皇の長男
1901-1989 87歳没


■妻  香淳皇后  久邇宮良子女王 久邇宮邦彦王の娘
1903-2000 97歳没


※香淳皇后は子供たちを自分の兄妹の子供たちと結婚させたがったが、昭和天皇は遺伝学的見地からイトコとは結婚させなかった。

*香淳皇后の兄久邇宮朝融王は、子の久邇邦昭の妻として順宮厚子内親王・清宮貴子内親王に2回縁談を申し込む

*香淳皇后の妹大谷智子は、子の大谷光紹の妻として孝宮和子内親王・清宮貴子内親王に2回縁談を申し込む


●継宮 明仁親王  125代平成天皇
●義宮 正仁親王  常陸宮

●照宮 成子内親王 東久邇盛厚王と結婚
●久宮 祐子内親王 早逝
●孝宮 和子内親王 鷹司平通と結婚
●順宮 厚子内親王 池田隆政と結婚
●清宮 貴子内親王 島津久永と結婚


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田島道治 日記 宮内庁長官

1949年12月12日
東久邇宮盛厚王来訪。
六本木地価のこと、投資失敗のこと、株式のこと。
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『入江相政日記』侍従長

1949年11月29日
田島長官・林次長・三谷侍従長・鈴木侍従次長・名取女官・予で、東本願寺問題〔孝宮和子内親王&大谷光紹の縁談〕を論議する。

1949年12月5日
田島長官・林宮次長・三谷侍従長・八田・塚原・名取女官・予で、孝宮和子内親王御結婚問題を論議する。
要するに血族結婚は不可ということになり、さらにその他の点から言っても不可ということになる。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1949年2月7日
昭和天皇◆大正天皇御脳および良子色盲のことなどは嘘ではない。
色盲の点はメンデルの分離の法則があるゆえそのむね答弁すればよく、実際明仁皇太子・常陸宮も初等科入学以来ずいぶん注意しているが何事もない。
田島長官◆万一色盲におなりでも、電車の旗ふりを遊ばす訳でなし、そんなことは議会の問題にならぬと思いますし、なっても何でもありません。

1949年3月10日
田島長官◆大礼服にはモーニング、モーニングにはモーニング、すなわちモーニングのところは一段下がって背広でよしではないと思う。
ただし黒または紺の背広でちょっと略式は如何かとも思う。
昭和天皇◆高松宮妃 婦人宮中服に熱心なる賛成、陛下はあまり賛成でなかりしこと、上衣のありしこと、節子皇太后〔貞明皇后〕の御意見ありしこと、洋装が良いが手袋等如何と思うこと、自分の一案はモーニングに白衿紋付、徳川以来の一応完成風俗ゆえ良し、背広には洋装、大礼服には袿袴ということなるが、節子皇太后〔貞明皇后〕反対の様なり。

1949年4月13日
〔孝宮和子内親王は一年の予定で呉竹寮を出て元侍従長百武三郎宅で平民生活修行をしていた〕
昭和天皇◆孝宮和子内親王が呉竹寮に帰るらしい。
田島長官◆昨年元侍従長百武三郎に御依頼になりました方針に何か変化がありましたのでしょうか。
昭和天皇◆いや、別に方針が変わったわけではないが、照宮成子内親王が嫁に行く前は良かったが、その後は孝宮和子内親王と順宮厚子内親王の間がどうもうまくいかぬ。
照宮成子内親王がいた頃だが、孝宮和子内親王は感情的に走り順宮厚子内親王の着物をズタズタに裂いたこともある。
ちょっと感情的な癖がある。
百武の所でも茶碗を打ちつけるようなことがあり、呉竹寮から帰る時にじき戻るからということで百武のところへ行ったから、近く呉竹寮に戻るはずだ。
また結婚もいい話があればそれを避けることはないが、自然早くないかとも思う。
田島長官◆感情的ということも一般にはワガママとも申せぬこともないかもしれず、御降嫁後は舅姑にお仕えになる上からもワガママをお出しにならぬよう修徳の必要もあるやに存ぜられ、すぐに百武家をお出でになることにお決めは如何かとも存ぜられ、皇子付女官名取ハナ・侍従入江相政らともよく聞き、最善のことを考えたいと存じます。
昭和天皇◆ワガママは抑えなければいかぬが、どうしても納得できぬことを無理押ししても、必ずしも結果はよくないことも考えねばならぬと思う。
(あの子は困りものというような意味は少しも仰せなし。これは少々難問と思う)

1949年4月20日
田島長官◆孝宮和子内親王のことただちに百武家をお出になることは如何と申し上げしこと、一年という期限で御話になっておれば適当に御退居遊ばさるる結構と存じます。

1949年9月15日
〔昭和天皇の研究『相模湾産後鰓類図譜』が出版される〕
田島長官◆宮様方にも科学上の御知識はとにかく、贈呈しかるべきと存じます。
昭和天皇◆秩父宮に「研究所で採集のものを本にする」と話した時に、
秩父宮から「昭和天皇御自身の御名前をお出しになること云々」の御話があり、
また本をあげればそれを蒸し返されるかもしれず、イヤなのだ。
田島長官◆それはやはり大きくお考えのうえ御贈呈しかるべきと思います。

1949年9月19日
昭和天皇◆三笠宮から本の御礼がすぐ来た。
三笠宮は近来よほどよくおなりになったように思う。
『改造』に寄稿は困るが、まあよくおなりと思う。
高松宮は遅く御礼が来た。
秩父宮はまだ何とも言ってこない。
明仁皇太子も御礼が遅かったが、これは年少で侍従の出したのに気づかれるのが遅くとも仕方ないが、宮様方は新聞も御覧で早く御礼あってしかるべきだ。

その後三谷侍従長曰く、「陛下は今回の本につきては非常に particular である。例えば『田島は明仁皇太子御床上げのとき賜物に反対したが、今回は希望するのはどうか』との御話あり。三谷その区別を申し上げ御了解になりし由」

1949年9月30日
田島長官◆賀陽宮恒憲王の名古屋訪問は不評判。
昭和天皇◆高松宮は賀陽宮のことをずいぶん私に悪く仰せになったことがある。
また元皇后宮大夫広幡忠隆が賀陽邦寿〔賀陽宮恒憲王の子〕が良いとの話にて、孝宮和子内親王の相手に決まりかけたが、【すぐ来ん】とのことと酒を飲むとのことで、すぐには差し上げられぬとのことで先方から辞退するようにした。
田島長官◆長男賀陽邦寿のことは京都大学でもあまり評判良くないように伺います。
評判よいのは東京大学の次男賀陽治憲の方と思います。

察するに皇后宮大夫坊城俊良の話と総合して、宮様のことを仰せになるのは27日の節子皇太后〔貞明皇后〕との御話の結果と拝察す。
坊城皇后宮大夫の「近来節子皇太后〔貞明皇后〕と宮城と御仲およろしくおなりになったのに」との語調ちょっと心配なり。

1949年11月11日
昭和天皇◆どうしても赤坂離宮に住むということになるなら、私は好んでいない、やむを得ず住むということを国民に判然とわからせて欲しい。
事実赤坂離宮は贅沢だし、暖房の石炭はずいぶんかかるし、夏は西日で暑くて仕方ない。
そんなイヤな所へ行って、国民には贅沢してるという感を与えることは困る。
田島長官◆赤坂離宮お好みなきことは伺いましたし、赤坂離宮は外国使臣拝謁等の時にお使い願うことは考えておりますが、御住居は別に結構と存じます。
昭和天皇◆意味はよくわかったが、賢所もあり花蔭亭のような所もあり、宮城をやめるとすればなかなか問題が多い。
田島長官◆一部には健康上あまり良からずとのことを聞きました。
御文庫の湿度問題あり、来年度の宿題ゆえ総合的に考えます。
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読売新聞 1949年11月23日

※後にこの縁談は天皇家側から断る。

『孝宮様の御内約順調に進む 選ばれた東本願寺の大谷光紹氏』
「孝宮和子内親王の御配偶については鈴木侍従次長を中心に選考が進められていたが、東本願寺法主大谷光暢氏の長男大谷光紹氏との間に御内約が順調に進んでいる旨、光暢氏により初めて明らかにされた」
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1949年11月30日
昭和天皇◆新聞を見て驚いて、そんなに進んだのかと思った。
田島長官◆他の新聞は書きませず、読売新聞記者が大きく扱ったと存じますが、新聞ほど進んだ訳ではありません。
昭和天皇◆私の義叔母らが西本願寺や仏光寺に行ってるが、信徒に対する関係上なかなか話す機会も多いらしいが。
(経済的な点はよろしいが、御不安むしろ御心配の御様子に拝す)

1949年12月8日
田島長官◆孝宮和子内親王御縁談につき、大谷光紹氏の人柄学業家柄御続合など至極良縁と存じ今日まで内話を続け来りましたところ、名取女官などより孝宮和子内親王側のことをよくよく聞けば、孝宮和子内親王の御性格上御負担重く、この際この話はこのままのことにお決め願いたく。
昭和天皇◆今後はより慎重にしてほしい。
田島長官◆今後は孝宮和子内親王本位にての方針。
ただ今 残れる鷹司平通・浅野長愛をよく研究の上。
昭和天皇◆慎重とは矛盾するが順宮厚子内親王のこともあるゆえ急いで。
(やはり一般とは異なり御親子の御仲は下々のごとくでなく、〔孝宮和子内親王の欠点について〕やはりさほどとは思われぬ御様子なり)

1949年12月9日
田島長官◆孝宮和子内親王ことは従来名取女官らより承り、昭和天皇からも感情的との御話を承知いたしましたゆえ、大谷家のような所の方適当と存じましたところ、いよいよとなり孝宮和子内親王の本当の側近側より孝宮和子内親王の御性質・御不十分の点など程度の差あり、かしずかれる御身分はよいと思いしところ、かえってそれが御性質が目立ち御負担重り、地位が地位だけに到底難しきことと存じました次第でございます。
したがって今後の候補者については、先方は孝宮和子内親王のことを理解し承知の上で孝宮和子内親王の御幸福のためにかばうという人柄人格の誠実の人なれば働き・頭脳の点は構わぬことといたしまするが、ただ今のところ、陛下は鷹司平通・浅野長愛いずれ御希望か。
昭和天皇◆その点が完全なれば鷹司の方がよいと思う。
田島長官◆浅野はとにかく理学士でありまするが、鷹司の方は大阪理工科大学出身でありまするが、好んであんな学校へは入りませぬゆえ、東大または京大へ入学不能であったかと考えますが。
昭和天皇◆大学を出てもいいと言えぬ人物もあるし、大学を出ぬもいい人物もある。
要は学校ではない。
(田島の申し上げんとせし点は、大阪理工科大学等に入る程度にては人物も如何との懸念の点なるも、この際は申し上げず)
昭和天皇◆節子皇太后〔貞明皇后〕は二候補者を申し上げし後、私たちにはしきりに浅野がよいと仰せになる。
お続きがあるからかもしれぬが、しかし良子は弟君の東伏見邦英が浅野のことをひどく言われたのを聞いているので、女のこととて感情上浅野のことには気が進まぬかもしれぬ。
もちろん東伏見は文学者で変な所もあり、先方は理学士であり相互に了解し得ぬような点もあろうから、東伏見の評の当否は分らぬが、当否は置いて良子としてはちょっと考えるのではないかと思う。

節子皇太后〔貞明皇后〕はかつて「大谷については一言も御話がない」との御話にて、陛下のお気持ち鷹司が人柄が申し分なくば才能は劣ってもこれを第一に考えるとのお考えは明白となれり。
「皇室も昔と違って経済上補助はできず、掌典というような才能を必要とせぬ職を授け、間接的に経済上の補助をする他ない」と申し上ぐ。

(孝宮和子内親王の御欠点につき十分御理解なきように拝し、そのことを言葉に注意しながら申し上げしところ)
昭和天皇◆犬養毅内閣の外務大臣芳沢謙吉の家へ行った時のことなども。
(との仰せにて、高松宮妃に伺いしことも御承知らしく)
昭和天皇◆私たちでもそうだが、大勢の人が注目してると思うことが非常にイヤに感ずるのだ。
田島長官◆恋愛結婚とか見合結婚とかいうことは皇室については如何お考えでございますか。
昭和天皇◆恋愛はとてもで、三笠宮ぐらいがちょうどよいと思う。
私と高松宮は全然古い風で、秩父宮は少し違い、三笠宮ぐらいがいいと思う。
節子皇太后〔貞明皇后〕は三笠宮の言いなりで、細川の娘〔細川護立侯爵の娘細川泰子〕を広幡大夫は「御顔が」と言ったが、私は御顔より照宮成子内親王と同級で、叔母様になる人が照宮成子内親王と同級ではと思って私は反対し、百合君は私が推薦したのだ。
その時のことを思うと、いま三笠宮がいろいろ言われるのはどうかと思ってる。

1949年12月12日
昭和天皇◆戯談に私は良子に孝宮和子内親王を修道院へと言ったところ、良子は反対で神宮祭主なら賛成だと言った。
東久邇宮盛厚王は照宮成子内親王と同意、「大谷の話こそ良し、御進行希望」との話あり。
田島長官◆それらの点は現に研究済のことゆえ、先日申し上げたる通りに願いたき旨。
昭和天皇◆名取女官の話にては、誰か付けるとの話なるが、皇室が里方の場合に嫁入先に干渉するとの批評は受けぬか心配。
ことに宮様方から批評出るように思う。
高松宮夫妻はタンスの引出まで見るという風で、実は女官なども大困りであり、大宮御所の女官も困っている。
良子もこれには閉口してる。
東京でなければこの批判から免れるゆえ、大谷がいい御趣旨。
順宮厚子内親王は怜悧にて照宮成子内親王と同じゆえ上下に挟まれるが、順宮厚子内親王の配偶者との関係の考慮も必要。
良子は失望した。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1950年1月16日
鷹司夫人来訪ありて、孝宮和子内親王の遅れの程度質問あり。

1950年6月18日
宮様方の鷹司評など。

1950年7月29日
東久邇盛厚氏来訪、真面目直説法にて反省要望す。

1950年8月5日
秩父宮妃より聞くところによれば、照宮成子内親王パーティにて御不慣れの由、companion 必要。

1950年9月25日
侍従入江相政来話。
鷹司新家庭ねじまき必要のこと。

1950年12月21日
入江侍従。
明仁皇太子スキー、東久邇夫妻御同行やめていただくこと。
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『入江相政日記』侍従長

1950年1月19日
今度の話〔孝宮和子内親王&鷹司平通の縁談〕が駄目になったらどうしようと思う。
他になんら成算もなし、またこれが駄目になるようなことでは今後にも望みがない。
孝宮和子内親王の御様子を見上げていると、なんとかうまく成り立ってくれればいいとつくづくそれのみが思われる。

1950年1月20日
田島長官と鈴木侍従次長と三谷侍従長の部屋でお会いする。
固唾を飲んで聞くと「〔鷹司家は〕お受けする」ということなので、本当に天にも昇る心地がする。
名取ハナ女官に「お受けする」を伝えたら、名取女官は折れるようにして胸をなでおろされた。
本当に良かった。
肩の凝りも全部おりたというもの。

1950年1月22日
名取女官と話す。
昨日孝宮和子内親王に申し上げた由。
非常にお喜びになったとのこと、いよいよ良かった。

1950年1月26日
新聞社では相当知っているらしく、いつやられるかわからない情勢になってきた。
2時半に新聞発表。

1950年1月27日
今朝からたくさんの人が恐悦に見える。
しかし孝宮和子内親王は終始非常に御機嫌である。

1950年2月14日
田島長官・式部官長松平康昌・稲田周一・高尾亮一・牧野誠一という顔ぶれ。
逐条的に話を進めて行ったが、なかなか暇がかかる。
御式のこと、その参列者などなかなか決まらない。
御住居のことも難しい。
どうもやはり一般的に御実状に疎い連中と話をしているような気がして仕方がない。
お仲人などについても同様である。

1950年2月17日
田島長官から昨夕拝謁、詳細に申し上げたことにつき報告がある。
どうもあまり細かいことを申し上げ過ぎるように思う。
鈴木侍従次長から良子皇后にでも申し上げればよいようなことが多い。
しかし昭和陛下のなるべく民間風に、そして先方の意向に従うようにというありがたい思召がわかったのは何よりであった。

1950年3月2日
保科女官長から電話で、良子皇后が孝宮和子内親王にやはり一度は御島田・御振袖をお着せになりたいとのこと。
その不可なる所以をお答えしたが、はやりこれは根本的によく申し上げねばならぬと思う。

1950年3月3日
名取女官から聞くところによると、今日良子皇后から孝宮和子内親王に御振袖のことを仰せになった由。
どうしてこういうことになるのかわからない。
御女性として親御さんとして当然のこととも言えるが、孝宮和子内親王がお好みでないものを世間の悪評を犯してまで断行する必要がどこにあるのであろう。

1950年4月15日
長官の所へ行き、孝宮和子内親王と鷹司平通さんがバレエ映画『赤い靴』を御覧になることの可否について聞く。
前に高松宮がお誘いになってのをお断りになった以上具合が悪かろうということになったが、驚いたのは田島長官は「良家の子女は婚前にそういう所へは行かないものだ」とのこと。
遺憾に堪えない。

1950年4月20日
稲田周一さんが「御新宅の敷地は千駄ケ谷の式部官長の旧宅にしようということになった」という話をされる。
新生活の上で簡素いってんばりの裏付があれば、それでよかろうと思うと答える。
田島長官・林次長・鈴木侍従次長も結局承知された由。

1950年5月8日
皇室経済会議。
御降嫁下賜金480万円が決まった。

1950年5月11日
女官小倉満子からの電話で起こされる。
閑院宮載仁親王の五年祭と孝宮和子内親王の御婚儀の御日取との関係についての仰せで、できることならこちらを変えるようにとの仰せである。
田島長官・林次長・三谷侍従長・鈴木侍従次長と協議する。
みなの意見をまとめると、「いまさらお変え願っては困る」とのこと。

1950年5月14日
孝宮和子内親王、袿袴を召して実になんともいえず御立派である。
御祝酒をいただいて帰る。

1950年5月20日
孝宮和子内親王、二重橋からお出になる。
雨の中、両側ともやっと御車が通れるだけの間を空けて一杯の人波である。
みな大変な喜び。
孝宮和子内親王の御態度も極めて御立派であった。

1950年5月23日
娘からクラス会での順宮厚子内親王の御様子について聞かされ、学習院大学教授岩田九郎も非常に心配しているとのこと。
名取女官に話さねばならないが、いろいろ続いては困ってしまう。

1950年6月3日
呉竹寮に行き、名取女官と話す。
明夜、順宮厚子内親王は照宮成子内親王のお誘いで帝劇へいらっしゃる由。
なんとかこういうことから解放して差し上げることはできないものか。

1950年6月29日
名取女官が進退についていろいろ考えられるところを語られたが、思いとどまってもらうように話する。

1950年7月6日
今夜田島長官と三谷侍従長が常陸宮に御相伴に出るそうであるが、常陸宮の御伝育方針をめぐっていろいろな行き違いがあるにのに結局どういう所に落ち着くであろうかと山田侍従も心配している。
毎々のことであるが、実に不思議なことであると思う。
御前へ出たら、また孝宮和子内親王の御服装についていろいろ御話がある。
段々伺えば、女子と小人とは養い難しの感を深める。
実に困った事態であると思う。

1950年9月16日
侍従会議。
今回は特に保科女官長にも出席してもらう。
夏前から良子皇后の御服装について田島長官に仰せのあったこと、田島長官一人でやっておられることであり、我々は大宮御所との関係を案じたが、三谷侍従長が侍従会議でその問題を取り上げるのはやめようと言われたのでそのままになっていたことが、果たしてすっかりこんがらがってしまったらしい。
こうなった今日でも三谷侍従長はまだ取り上げようとしない。
まったく不思議なことである。

1950年9月27日
鈴木侍従次長から「今度辞めることになった」と聞かされて、非常にびっくりする。
要するにこれは最近の大失政であると思う。
そのことばかりが考えられる。
永積侍従・山田侍従と鈴木次長の罷免の問題について論じ合う。
宮内職員三井安弥さん・宮内職員鈴木菊男さんと鈴木次長の問題について語り合う。
鈴木次長は最大の危機だと言っていた。
どうも次長問題が気になって妙な夢を見る。
夢の中に元侍従長大金益次郎さんが現れる。
はやり一番相談したいと思っているからだろう。

1950年9月29日
鈴木次長が長く拝謁する。
最後のお別れのつもりであろう。
御服装のことと対皇族のことを申し上げた由。
驚いたことには宮中服の批難は法務総裁殖田俊吉から申し入れがあったことに端を発していることが昭和陛下の仰せによってわかった。
こういうことをなぜにそのまま申し上げてしまうものか。
田島長官限りで理由を言って断ってしまえばいいものと思う。
どうも不思議なことである。
御文庫へ行く。
鈴木次長の申し上げたことに関連していろいろ仰せがある。
要するに鈴木次長の罷免のことにつき、やはり平然たり得ないものがおありになるのであろう。
両陛下と常陸宮のブリッジの御相手をする。

1950年10月1日
三谷侍従長に呼ばれる。
予に事務主管を、徳川侍従に呉竹寮をとの話である。
すでに昭和陛下のお許しも得て、明日発令とのこと。
今さら駄々をこねても仕様がないので、「早く適当な人を入れるよう、そしてその人が慣れるまでは務めましょう」と言う。
徳川さんも困っている。
名取女官も非常にガッカリして「せめて顧問のようにして残ってくれないか」などと言っておられた。
過分のことである。

1950年10月3日
集まって鈴木次長に挨拶をする。
鈴木次長は泣きながら、去るに及んだ事情を述べられ、すべてを捨てて奉公を励むように話された。

1950年12月12日
今度はまた久邇宮朝融王の方の御話〔順宮厚子内親王&久邇邦昭〕があった由。
要するに近親結婚の非なる所以をよく良子皇后に申し上げてないらしい。
困ったものである。

1950年12月15日
順宮厚子内親王の結婚問題を協議する。
驚いたことに、三谷侍従長や稲田侍従次長の頭からまだ京都の方の問題〔東本願寺大谷光紹〕が消えていないのみか、さらに京都に決める他ないだろうという意見であることはあきれたことである。

1950年12月16日
順宮厚子内親王の御結婚問題について会議。
田島長官と宇佐美次長も一緒。
この問題については田島長官は三谷侍従長や稲田侍従次長よりも頼みになり、意見も正しい。
どうも人間というものは一長一短である。

1950年12月21日
東久邇宮熱盛王夫妻が明仁皇太子と一緒にスキーにいらっしゃろうということだが、高松宮や三笠宮のおやめ願った関係上、これもおやめ願いたいと昭和陛下に申し上げ、つづいて良子皇后にも申し上げ、いずれもお許しを得る。
東宮侍従黒木従達にそのむね話すと喜んでいた。

1950年12月25日
元侍従長大金益次郎さんがみえる。
鈴木前次長をめぐっての問題をいろいろ話、大金さんの意見も半分くらい聞いたのであるが、なにしろ人が何人も入って来てゆっくり話もできない。

1950年12月31日
今年は秋に鈴木一さんが侍従次長を辞めることになった。
このことには一通りの理由があるにしても、運び方なり何なりに後年に悔をやはり残すことになったのは遺憾であった。
稲田周一さんが侍従次長になった。
そして予も事務主管になった。
呉竹寮にも1944年春以来6年半関係したが、どうも長くなりすぎたとは思いながらやはり御用の都合もあり、順宮厚子内親王の御慶事の頃までかと思っていたのが、そいういう事情から急に徳川さんと代ることになった。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は72万円

1950年1月2日
田島長官◆孝宮和子内親王の御縁談、慎重かつ迅速との御思召にて、協議の結果鷹司平通がよろしかろうとの結論に達しました。
人物性向学歴健康続合および令妹鷹司庸子孝宮和子内親王と同窓等の旨。
昭和天皇◆イトコの鷹司の娘も多分同級だよ。
(鷹司靖子、例の生学のこと おかしき娘の姉)

昭和天皇◆鷹司は身体はちょっとひ弱いように見えるが。
田島長官◆その点も次長の方で調べました。

1949年1月6日
田島長官◆昨日鷹司信輔氏〔鷹司平通の父〕を訪ね、
「御令息は既に御結婚はお決まりになりましたか?」
「いえ、まだです」
「実は孝宮和子内親王も御年頃にて御降嫁の御話でございますが、正式に御話あればお受けになりますか御内意を伺いに出ました次第でございます」
「それは誠に光栄の至りで」
「私どもは御良縁と考えられまするので、御良考を願いたいと存じます」
「ただ戦災後、家が手狭で」
「そのことは承知いたしおりまするゆえ、御新家庭の御家の問題は私どもで考慮することができると思います」
「本人の意思をよく聞きまして」
「御令嬢なり御令姪が学習院にて御同窓ゆえ孝宮和子内親王のことはいろいろ御承知と存じますが、
孝宮和子内親王は率直に申し少し御発達の遅れておられることもないではござりませぬが、それらの点はよく御理解をいただきませねば終始のことゆえ、十分御姉妹方にお聞き願いたく」
「御健康は?」
「それはおよろしいと存じますが、元侍医頭八田善之進にお聞きくださればよくわかると存じます」
あと別に質問もこれなく、
「御返事はなるべく早くお願いねがいたく、さりとて拝辞の御返事を早くよりは、お受けの御返事をやや遅くても希望します」と申し、辞去いたしました。

昭和天皇◆鷹司が田島の所に来るということだが、その際に孝宮和子内親王のちょっと強い性質のことなどざっくばらんに話してもらいたい。
こういう思い込む気質な代りに、いったん理解がゆけばまた真っ直ぐにそれを信奉してやるという長所もあるから、その他すべて遅いということもあるが、それも飲み込めばきちりとやるから。
田島長官◆御性質など隠し立てしては長い将来のためよくありませぬゆえ、ありのままに長所短所を申すつもりでございます。
昭和天皇◆見合結婚というではなく、多少交際するということも時節柄結構だが。
田島長官◆田島などの友人中、恋愛結婚で後であまり円満でないのもありますから。
昭和天皇◆それはそうだ。
見合結婚で単なる他人の決めたではなく、見合結婚だけれども一応お互いに理解してもらうのが結構と思う。

1950年1月7日
昭和天皇◆昨日おたた様にお目にかかったら、鷹司のことをさんざんに言われた。
「あんな力のない人」というような意味でひどく仰せになり、浅野の方がよいとの思召からではないかと思われるが、「田島らいろいろ考えてやってるようだからよろしいが」と仰せになった。
田島長官◆田島が拝謁の際は、「鷹司は大した働きのある人ではなく、しかし無難」との仰せがありました。
経済のことは宮内省の方で御新家庭の点など考慮云々申し上げし際、「経済のことは今後の世の中では非常に重要なことだ」との仰せを拝したのみ。
浅野をよろしいと御思召のための御不満かと存じますゆえ、御話を承りましても田島は少しも動揺いたしませぬ。
岳父となられる方の働きとか才能とかいうことは問題でなく、人柄さえよろしければ結構と存じます。
昭和天皇◆おたた様は時流におもねる御性質がおありと思う。
現に「上つ方というものは若干ウソを言わねばいかぬ」と仰せになったことがあり、その意味は軍国の時など軍人などには内心御満足でなくても適当御嘉納の御言葉あるようにとの意味のことであったが、今の時世になれば多少時流におもねるという点がよほどある。
おたた様は申し上げると逆効果のことがある。
この点高松宮と同じで、田島が御経費のことを申し上げたが、あの後はむしろ賜りなど立派になされるようで、女官伊達璋子から聞いたが、御重に御菓子だの御料理だのの賜りは御立派になったとのことだ。
田島長官◆田島などの拝謁の際も、賜りをお考えのうえ御日取をお決めになるとの噂を聞いたこともありますほどで、御隠居の女性様としてお楽しみの唯一かとも存じます。
昭和天皇◆実はそのために田島の言った女官が夜遅くなることもあるとのことだ。
田島長官◆昨年御陪食の節のボンボン入れも女官の作成との御話を承りました。
昭和天皇◆おたた様はだいたい鷹司のようなのはお嫌いで、秩父宮のような鋭い所のある人がお気に入る。
田島長官◆浅野さんのことも考えましたが、孝宮和子内親王の場合にはいろいろ考慮の上鷹司が第一と考えましたので、順宮厚子内親王も御年頃ゆえ、浅野を考えてもと思っております。
昭和天皇◆浅野の兄の方は東伏見がひどく批評して、大谷家に娘をやることを反対したということを聞いておるゆえ、そういう場合にはその点によく注意して。
また朝香宮が照宮成子内親王の時に、「マタイトコでも近親すぎる」と言われたこともある。
田島長官◆東久邇宮の場合は二重のマタイトコにお当りになりますが、浅野の場合は節子皇太后〔貞明皇后〕の方の御関係のみでありますから、その点はさほどでないと存じます。

1950年1月30日
田島長官◆鷹司綏子夫人は良い人の印象。
昭和天皇◆田島はそう見るか、節子皇太后〔貞明皇后〕より少し噂を聞いているが。
田島長官◆鷹司信輔も夫人もそうとう緩慢の人らしく、孝宮和子内親王の岳父母としておよろしいと存じました。
昭和天皇◆孝宮和子内親王は「早く」と言われるとダメなんだ。
ゆっくりしないといけない。

1950年2月7日
田島長官◆従来はその例なきも、御式には両陛下の御列席しかるべしとの意見も相当有力でありまして。
昭和天皇◆私はむしろ親として積極的に式に列した方がよいと思う。
イギリスの王室などを見ても御列席のようだ。

1950年2月16日
田島長官◆孝宮和子内親王の御服装の点でございますが、鷹司信輔夫妻の時 大礼服と袿袴なりし由にて、燕尾服またはモーニングと袿袴の希望を申し述べておりました。
昭和天皇◆良子からカツラは今までずいぶんやったがうまくゆかぬと聞いている。
もしカツラがうまくいくとしたら、袿袴の方がよいと思う。

田島長官◆媒酌人の問題でございますが、鷹司は五摂家という点に重きがあるらしく察せられ、田島が「九条家は?」と申せしところ、「夫人なし」とのことにて一条実孝の名前も出ておりますが。
昭和天皇◆一条は右だろう。
田島長官◆右でございます上もともと海軍軍人でありこれはいけませぬと存じまするし、打ち合せの会合でも問題になりませんでした。
二条弼基の名も出て。
昭和天皇◆夫人〔多嘉王の娘恭仁子〕は良子と親類であるし、年が少し若いのが欠点だが私は異議ない。
お里帰りはどうなる?
田島長官◆照宮成子内親王の時にはお里帰りという儀がありませなんだゆえ特に考えませなんだゆえ、なお研究いたします。

拝察するに「すでに照宮成子内親王の時とはいろいろ変えてやってる点があるのだから、時代のあれで変えてやったらいい」という御趣旨に拝せられる。
鷹司家の希望の存することはだいたいお容れになる御思召に拝察せらる。

1950年2月21日
田島長官◆袿袴の場合のおすべらかし。
あの髪はおすべらかしでなく〈大童〉と言うのだ。
前の所が少し重いようだ。
分け方など少し違うが、ちょっと見ればおすべらかしと変わらぬ。
照宮成子内親王は〈五つ衣〉であったが、三笠宮の時は〈袿〉であった。
先方が袿と言うなら袿がよかろう。
田島長官◆お金の件は人手を借らず田島が先方に持参のつもりでございます。
ただいまのところでは、納采の儀前に20万円ぐらい・御婚儀近づきまして30万円ぐらいかと存じます。
昭和天皇◆よろしい。
しかし贈与税など問題おきぬように。

1950年2月24日
田島長官◆20万円は鷹司に手交しましたが、御心配のごとき贈与税の点も遺漏なく致します。
昭和天皇◆孝宮和子内親王は非常に喜んでいるらしく、私たちにもよく話をするようになったし、平通を良い人だと二度も言ったそうだ。
田島長官◆御婚約を機会に御心配申し上げましたような点もずいぶんお変りになるのではないかと存じます。
しかし鷹司平通氏が呉竹寮に頻々上がる様子でございますが、これは適当がよろしいかと存じます。

1950年2月27日
昭和天皇◆鷹司信輔も田島と同じようにあまりしばしばと言ったらしいが、鷹司の妹たちが両親の頭が古いと言って攻撃したらしい。
田島長官◆年代の差でございましょう。
昭和天皇◆照宮成子内親王も孝宮和子内親王の同級生の話などはとても理解できぬこともあると言ってた。
田島長官◆照宮成子内親王と孝宮和子内親王は御年のみならず、戦前戦後で一般のものの考え方が変わりましたから。
昭和天皇◆おたた様は鷹司信輔〔父〕より平通〔子〕の方がよいという印象を聞いたが、だいたい御話をする人の方が好きで、黙っている人の方をあまりお認めにならぬようだ。

1950年2月28日
昭和天皇◆昨日おたた様にお目にかかったら、鷹司夫人のことを非常によく仰せになってた。
あまり良く思っておいででなかったようだが。
田島長官◆拝謁の際に鷹司夫人の妹に当る人〔徳川繫子〕のことを申し上げましたら、お思い違い
の様子で、そういう訳かとの御話もありましたが。
昭和天皇◆そうか。
田島長官◆秩父宮妃が大宮御所にて御会食の時の御話でも、鷹司の人々に御満足の御様子とのことでございました。
昭和天皇◆おたた様は平通のことをよく言われるけれども、信輔との比較の御言葉はどうかと思う。
単に平通はよいと仰せになるのに、信輔に比べればと仰せになるのはどうも。
おたた様の御性質として、話し上手の人がお好きで話下手の者はお嫌いのようだ。

1950年5月22日
田島長官◆孝宮和子内親王の御婚儀も滞りなく行われ、人気も大変よろしいし、三陛下が御親臨で庶民の神前結婚式と大差ないということが、皇室と国民の間の親近感を与えたように存じます。

田島長官◆先のことでございますが、順宮厚子内親王は短大を御卒業まで御結婚遊ばしませぬでしょうか。
昭和天皇◆順宮厚子内親王は今は結婚なんて少しも考えていないようだが、良縁があれば学校を卒業せねばならぬことはないと思う。
具体論は人格が一番で、それから優生学上困るという点のないことが必要であるが、華族制度のなくなった今日理論的にはおかしいと言えるかもしれぬが、やはり家柄とうことは考えねばならぬ。
ただし財産は構わない。
今度のように補助すればできるから。
田島長官◆家柄の点は皇族・公爵侯爵に限るというような狭い華族でございましょうか。
昭和天皇◆筋の通った卑しからぬ家柄なれば、必ずしも拘泥しない。
田島長官◆元皇族・公爵侯爵を物色して、なければ漸次家柄の格を下げて、人格のよき人を選ぶようにすればよろしゅうございますか。
昭和天皇◆そうだ。

1950年5月23日
昭和天皇◆昨日おたた様の御話の内に、昭憲皇太后が元来お弱くて明治天皇より早くお亡くなりになっては困ると言う明治天皇の御話で、長生のため非常に御留意になり、そのため明治天皇より少し後れて崩御になりよかったが、その方法として沼津へお出かけになったという御話があったくらいゆえ、いい塩梅だと思う。
その点三浦が御話すれば、夜の遅いことなどもよろしい結果が出るのではないかと思う。

1950年5月30日
昭和天皇◆私はこの宮城に必ずしも固執しないが、世人と異なりどこへでも行けるでなし、せめて家の中で自由に散歩できる所が欲しい。
賢所もあるし難しい。
また赤坂離宮は住みにくい。
それから葉山でもちょっと困る。
田島長官◆それは心得ておりまする。

1950年6月17日
昭和天皇◆「大谷は良子の妹だから」とて、あの時の御不満あるらしく承る。

1950年6月26日
田島長官◆三笠宮が吉田首相を訪問されて余計なことを言われたとのことでして。
昭和天皇◆大学で何か意見を聞かれるのか。
田島長官◆大学で友達となられた人に相当赤いような人がいて、その説に御同情的なのかと拝察いたします。

1950年6月27日
田島長官◆三笠宮の共産党に対する御意見は厚生次官にも御話になりました由で、御話を伺った秘書課長は東久邇宮稔彦王追放のことがよほどこたえているように拝したと申しておりました。

1950年7月4日
昭和天皇◆三笠宮ああいうことを食事中に言われては困る。
単にエチケットとして真に当を得ない。
社交的食事ともなれば政治問題など論ずることはない。
三笠宮がそれだけのエチケットもわきまえぬは困ったことだ。
田島長官◆今日陪席して三笠宮困ったことを仰せになると思いおりましたが、真に恐縮千万に存じます。
なんとか田島より御注意申し上げます。

1950年7月5日
昭和天皇◆孝宮和子内親王は何も言わぬから少しもわからぬ。
わからぬから人に考えが伝わるので、面倒なことや行き違いが起きた。

1950年7月12日
田島長官◆侍医より良子皇后の御肥満につき申し出て、侍従職ではゴルフを申し出ておりますが、世間へ伝われば今回は宮城内にリンクができたと伝わり、世間に与えるかと案ぜられるのであります。
昭和天皇◆侍従職の矛盾に驚く。
孝宮和子内親王の結婚の時あんなに振袖を主張した侍従職が、ゴルフの評判立つことを平気で主張するのは解しかねる。
散歩すれば十分で、どっちかと言えば私はゴルフは不賛成だ。

田島長官◆侍従次長鈴木一更迭問題ですが、侍従次長の職と監理部長とか書陵部長とかは感じは如何でございましょう。
昭和天皇◆部長は侍従次長より明らかに左遷の感がある。
田島長官◆鈴木の地位を移そうと決心しましたのでございますが。
昭和天皇◆鈴木は一度主殿頭をせしことあり。
侍従は事務官として優秀でも侍従としてダメという人もあり、要件の相違があるからよく注意してくれ。
私は諫言することはいいが、私に議論を吹っかけてくるような侍従は困る。
良子は女官長と高木は信用してるが、東貞子・雪井良子・小倉満子などには少し困ってるようだ。
田島長官◆雪井は一番駄目と思う。
昭和天皇◆雪井は外部には口は堅いが、内部では口が軽く人づきはあまりよくない。

1950年9月11日
昭和天皇◆ヴァイニング夫人はいつ帰国するのか。
田島長官◆10月か11月と存じます。
昭和天皇◆内地の旅行でも希望すればそうした方がよいと思うが。
田島長官◆せっかくの御思召は良子皇后から直接仰せいただく方が当人にも好感情と存じます。
昭和天皇◆高木が渡米中で通訳かいないゆえ、良子がそれだけのこと言えるかしら。

昭和天皇◆侍従職の連絡がまずくて三笠宮にアラを見られはせぬかと思い、侍従職の威厳にも関し困ったことが起きた。
(今回の三笠宮御差遣は公務ゆえ、陛下より内廷庁舎にてと仰せありしを、鈴木侍従次長は個人的に御文庫でと言った)
昭和天皇◆内廷庁舎と決めたことゆえ御文庫は何の準備もなく、三笠宮の椅子がなくて三笠宮が持って来るなど不体裁のことであり、アラ探しをしがちな三笠宮ゆえ困ったことと思った。
田島長官◆連絡不十分は私としてもお詫びをせねばなりませぬ。
今後はそんなことのないように致します。
昭和天皇◆あれは鈴木の直らぬ性質から出て来るのか、注意をすれば良くなるのか。
田島長官◆長田幹彦小説、木下依頼事件のごときもその欠点ゆえ、鈴木侍従次長の性質によるものかと存じまする。
昭和天皇◆孝宮和子内親王の衣装の問題もなんら申出なく、良子が聞いて初めて言うという訳であった。
そういう風ならば、気の毒でも替ってもらわねばと思う。

この問題侍従職のことなれど、三谷侍従長には何の御話もなし。
侍従長は侍従職の責任者ではない、陛下の秘書官長とのみ思召し、侍従職の事務には無答責とお考えらし。

1950年9月25日
昭和天皇◆良子とも話したが、侍従次長後任 稲田周一ならば大変よろしいとのことである。
入江相政は困ると良子が言ってた。
それは良子が数カ月苦心して孝宮和子内親王に振袖を着せると言ってたのを、時節柄振袖はいかぬという名取女官の議論に同調して、振袖でも贅沢の物あり倹約の物あり、留袖とて倹約とは限らぬと思うのに、強く振袖を否定したのは鈴木もそうだが入江もそうだ。
それに良子の服装問題にも主張が一貫せず、私は非常に納得しかねている。
ヴァイニング夫人が良いと言ったって西洋人全部の感覚がそうだとは限らぬに、一方どう感じてもこれがいいと言ったり、どうも変だ。
それで良子はその時の怨みが残ってる感情的な話で、まあそう思うに無理もないと思う。
田島長官◆入江は次長には考えておりませぬが、事務主管にどうかと存じておりましたが、それも徳川義寛の方がよろしいかと存じております。
昭和天皇◆私は徳川も8月15日の時の態度から見てよいと思うが、永積が注意周到でよく気をつけるから、永積がよいかと思ったが。

孝宮和子内親王御婚礼時の御着物の問題にて、名取女官・入江侍従・それを統括して責任者たりし鈴木侍従次長は、よほど良子皇后の御感情を害しおるらしき御話をいろいろ拝聴す。

1950年9月26日
昭和天皇◆入江のことだが、良子としては姉妹関係もあろうが東本願寺をいいと思い、名取がクリスチャンゆえ事を構えて東本願寺の話を壊したのではないかとの疑いを持ち、その点は鈴木でなく名取に対して大いに憤慨の様子なるも、辞めさせても後がなきため辞めることはないが、どうも良子は不満のようで感情的な所がなかなか抜けない。
したがって入江も同類と思ってるようだ。
(いつもと違い良子皇后の御感想をお述べゆえ、非常に御声を低くして御話になる)
田島長官◆良子皇后に誤解があれば解きたいと存じます。
女官長との話し合いも致しましょう。

1950年9月27日
昭和天皇◆女官長と話し合うちうことはやってもらいたいと思う。
鈴木に「優生学上、福井その他に聞いてくれ」と言ったら、福井一人に聞いて「イトコの良い例もあり悪い例もある」ということを言って来ただけであったが、鈴木はかように少し荒っぽいところがある。
これから明仁皇太子の配偶・また順宮厚子内親王の時にもやられても困る。
もっと慎重でないと。
また良子は孝宮和子内親王の縁談のことで、名取は教師の仕事以外のことまで口を出し過ぎると言っている。

1950年9月28日
昭和天皇◆おたた様が鈴木のことにお触れになったので、ありのままを申し上げた。
おたた様の人物の見方はどうも私にはわからぬが、鈴木はあの鈴木貫太郎の子だからよかろうとの御話であるが、良い親の子に立派な子の場合も確かにあるが、子供はそれほどでもないということはいくらもある。
それを貫太郎の息子だからとはおかしい御話だ。
田島長官◆それは女官らのいる所ではございませぬでしたか。
昭和天皇◆いや、節子皇太后と良子と三人だけの時であった。

1950年9月30日
田島長官◆事務主管の後はやはり入江がよろしいように存じます。
昭和天皇◆良子も是非いかぬと言ったものでもなしそれでもいいが、しかし入江は服装のことはどうも少し変であって、孝宮和子内親王の結婚の時振袖のことについて名取と組んでどうも腑に落ちぬことがあり、宮中服についてもちょっと変な考えを持っているようだから、事務主管になってもよいが、服装の考えは修正してもらわんと困る。
入江は服装の問題、主として宮中服に関し、ヴァイニング夫人は賛成と言いながら内地ではそう広く言わず、マッカーサー夫人に聞いたところ、「外へは言わぬが賛成」とのことで、実際評判の左右にはならぬにもかかわらず、孝宮和子内親王が宮中服反対のことなどわかりそうなものを、漫然「ヴァイニング夫人などもよろしいと申しますから」とて宮中服をいいと言うのはどうもおかしい。
田島長官◆入江は国文の研究者でもあり女子服装のことが分らぬ訳はなく、今後は式部官長も侍従長も参画し、女官長もまた場合によりては田島も参加するようにして、御不満のないように致します。

1950年10月9日
昭和天皇◆和装のことだがねー、おたた様御機嫌のおよろしい時に今一度伺ったらどうだろう。
田島長官◆御機嫌のおよろしい時に今一度申し上げますることは結構でございまするが、必ず御賛意を承ることができるかどうかは疑問のように存じます。
むしろ実行遊ばす旨の念のためのお知らせということかと存じますから、それは適当の時に田島が伺いまして申し上げましょう。
だいたい良子皇后が和装を召しますのは、ただ今は来年正月をお考えでございましょうか。
昭和天皇◆外人謁見の時と思ってる。
正月は洋服なり宮中服なりにしたらと思ってる。
田島長官◆節子皇太后〔貞明皇后〕は「正式宮中服にしてみたところで、国民世論というのも少しおかしいが、一般の宮中服に対する不満が変わるわけではなし」との仰せゆえ、節子皇太后〔貞明皇后〕の正式と仰せにお変えになっても、宮中服は宮中服で評判にかわりはありません。

節子皇太后〔貞明皇后〕のお許し、せめて御黙認でもない限り御注文も遊ばさぬらしき御様子に拝せしゆえ、
田島長官「染に時間もかかりますから御注文だけは遊ばしては如何」
なお陛下が正月にはお用い無き理由は、
昭和天皇「正月は黒でやや地味にせねばならぬが、外人謁見のような時は色物でやや派手でもよいから」

次長鈴木一退官に際し、「陛下の服装問題にかれこれ仰せになることを御諌言的に申し上げしこと、高松宮らをよく御抱擁願いたしとの申し出のこと、ゴルフの問題のこと、順宮厚子内親王は浅野長愛へ御降嫁よろしかるべし」とのこと申し上げし由承る。

昭和天皇◆鈴木は辞めてよかった。
田島長官◆線が太いので場所によっては大いに使えると思いますが、侍従次長のような気を配る点は不適。

1950年10月10日
昭和天皇「昨日聞いた浅野長愛の話だが、なぜ女子学習院へ転任したろうか。順宮厚子内親王との結婚に何らかの関連ありや。あれば縁談できぬ時は変なものだ。順宮厚子内親王が女子学習院に通学中に転任して来たのは」という御話、焦点どうもハッキリせず。
田島長官「順宮厚子内親王と浅野長愛の転任は没交渉と存じます」と申し上ぐ。
「そうか」と深くおうなずきなれど、この御話の焦点ちょっとわからず。
昭和天皇「順宮厚子内親王の意思は今結婚にないが、大谷光紹への口実が〔良子皇后の妹東本願寺大谷智子が孝宮和子内親王・順宮厚子内親王を子大谷光紹の妻に望んだが皇室側から断った〕留学三年ということゆえ、帰朝前に結婚する方が賢明だ」との仰せにて、浅野長勲の曾孫にて、長勲の息子という人もどんな人か調べる要あり。

1950年11月7日
田島長官◆順宮厚子内親王の御縁談、新陣容で間違いなく慎重に見てやってまいりますつもりでおります。
昭和天皇◆大谷光紹への口上から、大谷の帰国せぬ内というのは頬かぶりではあるが。

1950年12月1日
昭和天皇「久邇邦昭〔久邇宮朝融王の子〕に順宮厚子内親王をもらいたいと良子に話があった」という御話を初めて仰せになり拝承す。

1950年12月18日
昭和天皇◆良子の和装の問題だがねー、呉服費も取ってくれたが、良子は節子皇太后〔貞明皇后〕のハッキリした御同意がないと恐ろしくて作れないらしい。
このことでは何でもなくても、他のことで復讐されるというような気持ちで心配して躊躇してる。
田島長官◆田島が何かの形でもっと明示的な御同意をいただけば結構ということでございますか。
昭和天皇◆そうだ。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1951年9月3日
鷹司和子さん流産のこと。
東久邇氏自動車事故のこと。

1951年10月3日
岡山に順宮厚子内親王のこと、侍従次長稲田周一困却の話聞く。
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『入江相政日記』侍従長

1951年1月8日
田島長官・宇佐美次長・三谷侍従長・侍従徳川義寛と、順宮厚子内親王の御結婚問題につき協議。
池田・両徳川・松平・鍋島が候補者に残り、結局池田隆政ということで少し進めてみようということになる。

1951年5月12日
稲田侍従次長が岡山〔池田隆政〕から帰ってこられる。
大変順調であった由。
しかも申し分ない立派な人であった由。
けっこうだった。

1951年6月15日
今度の日曜に三宮の六方お集りで、明仁皇太子をお招きになろうということになった由。
拝謁、お断りになることにお許しを得る。

1951年6月16日
東宮侍従戸田康英君は高松宮へ行き、高松宮妃にお断りしたが、非常に不満気に何かおっしゃった由。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は96万円

1951年2月5日
昭和天皇◆節子皇太后〔貞明皇后〕が前の式部長官武井守成のことをお褒めになるのはどういう理由からから私は知らぬが、宮中服を作る時に骨折ったことなどをお考えかもしれないが、宮中服は戦時型であり、また宮廷以外に用いられないことが民主的でないとの批評を買っていると思うのだが、節子皇太后〔貞明皇后〕はずいぶん宮中服のことを遊ばしたが、裳衣がダメだからという理由でなく、その前から一度もお召しにならないのでよくわからないのだ。
田島長官◆御服装の問題は難しゅうございますから、格別現状を変えず時には和服もお召しになり、
自然落ち着くところに落ち着きますことと存じますが、良子皇后が和服をお用いになりますことを田島より明らかに節子皇太后〔貞明皇后〕に申し上げまするのは好機でなければならぬと存じます。

1951年3月2日
田島長官◆順宮厚子内親王の御縁談は公爵・侯爵から順次ずいぶん繰りましたが、ちょうどおよろしいというは少なく、御年齢等のことを加味して約10人ほどに縮め、久松伯爵の子〔久松定成〕とか徳川達孝の孫とか徳川宗家とか鍋島一家とかずいぶん調べましたが、結果として岡山の池田隆政が一番よろしいかと存じましたが、これとて難点はありまする他、鍋島も一人ありまするが、中間御報告的にだいたいのことを申し上げ、御指図によりよろしい者を本格的に調べるということに進むのがよろしいかと存じます。
昭和天皇◆よろしい。

1951年3月9日
順宮厚子内親王の御縁談は結局三名になりたりとて、池田隆政のことを式部官長松平康昌の関係より調べ得たることより申し上ぐ。
鍋島・徳川は三人の内の一人なりしというだけにて、興信所調書には触れず。

昭和天皇◆順宮厚子内親王が下情に通ぜぬため、東京を離れて何か事が起きた場合に、遠隔ゆえ事前に防ぐことができず、手遅れになるようなことはないかしら。
それらの点をプラスマイナスして利害はいずれか。
侍従次長稲田周一◆旧藩主で昔の関係地で生産に従事するということは大変よろしいと存じます。
マイナスの御心配の点よりプラスが大きいと思います。

浅野問題〔浅野長愛との縁談〕には御気持はとにかく、事務的には終止符を打ちたりと思うに、とにかく良子皇后御気持の情報を待つこととす。

1951年4月18日
昭和天皇◆順宮厚子内親王は照宮成子内親王と同じ方で、孝宮和子内親王とは違う。
田島長官◆池田の方はただ今のところ何の障害も起らず一応無難であります。
名門であり、御仕事も実業で。
昭和天皇◆その実業も土地についたいい意味の実業だし。
田島長官◆職業軍人なき今日、将来常陸宮の御仕事としても結構かと内々考えておりまするような
ことでございます。
昭和天皇◆地方というのがちょっと欠点だが。
田島長官◆御上京できぬということもございませんし。
昭和天皇◆まあ、今までのところは非常に良いから、これが円滑に進むといいがなー。

1951年4月21日
昭和天皇◆照宮成子内親王の所へ松本というのが出入りしている。
ラスプーチンのような穏田行者〔飯野吉三郎〕のような、科学的に言えば動物電気のよく出る人で、予言をしたり共産党の情報を持ち、共産党嫌いで皇室崇拝の人がいるそうだが、悪い人でもないが穏田的な奴ゆえ照宮成子内親王などの所へも来るようだ。
田島長官◆類似のことが久邇宮朝融王の場合にもあり。
坊さんか尼さんかの信者に三谷侍従長の妻の兄長尾新輔とか伽藍とかいうのがいると聞きましたが、宮様方がこういう人たちに騙されるのは一番困ります。

1951年6月21日
田島長官◆節子皇太后〔貞明皇后〕お好きのリンカーン一台を、内張りまで節子皇太后〔貞明皇后〕にお見立てを願いましてお買い願いましたものが、崩御後に着荷いたしました。
これを皇太子様用とし、皇太子様用を内親王様用と致します。
内親王様方も今のパッカードはあまりお好きでなき様であります。

1951年7月3日
田島長官◆順宮厚子内親王の池田は最初式部官長松平康昌へ申したることに端を発して進行しましたため、先方は田島にも侍従次長稲田周一にも何か一枚隔てた感じが常々ありますから、話し合いにも松平にすべてかかってくるようでありますから、今回は松平に媒人仰せつけられまするよう。
昭和天皇◆私もよく人物を知っているし、申し分ないことだ。
田島長官◆五摂家の鷹司平通〔孝宮和子内親王の夫〕に二条弼基〔媒人〕大大名の池田に松平、門地の点もちょうどよろしゅうございます。

1951年7月12日
田島長官◆順宮厚子内親王の御縁談ほどなんの障害も起らなかったのは珍しく、池田の親類の細川護立侯爵など何か説が出そうかと存じておりましたが、別に何もなきのみか昨日珍しく挨拶を述べ、喜んだ様子に見受けられました。

1951年8月22日
田島長官◆順宮厚子内親王、先日の三人参内の時など大変結構のように存じますが。
昭和天皇◆「やあ、順ちゃんは素敵だ」などと言うて我々の時代とは時代が違う。
一つにはパンより飯という順宮厚子内親王の嗜好に、隆政も同じというのでとても喜んでる。
とにかく違うが、大変いいようだ。

1951年9月10日
東久邇宮盛厚王の自動車事故のだいたいを申し上げる。

1951年10月5日
田島長官◆東久邇宮盛厚王の交通事故は至極円満に片づきましたとのことでありました。
警察の好意と存じております。

1951年12月31日
田島長官◆宮内庁の3階を改造しまする経費7千万円はだいたい認めましたが、大蔵大臣池田勇人の特命らしくあります。
主務者の方で他を若干切りすぎた点もありますが、それを必要なものは復活要求を致しまして、不可欠のものはだいぶ良くなりました。
内廷費は節子皇太后〔貞明皇后〕崩御にかかわらず3千万円、皇族費は親王73万円をベースアップで一挙140万円とすることも通りました。
皇室経済会議の様子などの反映もあると存じます。
先日の自動車の過失のことは、子供がうつむき加減で出てきまして先方過失でありまするが、坂道でありまするため速度の制限があり、その点多少過失視せられるかと存じますが、被害者も別に難しい事を申さず6万円の慰労金で片付きましてございます。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1952年1月18日
照宮成子内親王自動車事故のこと。

1952年3月12日
侍従入江相政に東久邇盛厚王および照宮成子内親王のこと話す。

1952年3月22日
久邇宮朝融王・東久邇盛厚王行状のこと、陛下御心配のこと。

1952年7月20日
緒方竹虎に東久邇宮盛厚王のこと話す。
当分握りつぶしてくれとのこと。

1952年10月12日
秩父宮「大勲位論、東久邇宮盛厚王に勲一等等云々の論は不愉快」との仰せ。
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『入江相政日記』侍従長

1952年5月1日
呉竹寮に行き、女官名取ハナと鷹司平通さんの自動車購入問題につき協議。

1952年7月10日
鷹司平通さんに会って聞いたら、はやり自動車を買ったとのこと。

1952年8月23日
呉竹寮に寄る、飯村三雄君と雑談。
飯島君の考えでは、順宮厚子内親王の御様子はやはりどこかに故障がおありになるのではないかということ。
長年御側で見上げている人の意見ゆえ、重んずべきもののように思われる。

1952年9月16日
田島長官の独断でエリザベス女王のカナダ訪問の16ミリトーキーのお催しに、秩父宮夫妻お参りのようにお勧めしたことからいろいろ紛糾して夕方までかかる。
全然御都合も伺わずにそんなことを申し上げるのはどうも困ったことである。

1952年9月17日
田島長官の所へ行き、例のカナダニュース映画問題について打ち合せをする。
このまま秩父宮に御対面になっては具合が悪いと思い、彼岸花のことを話題にして御気分を直す。
秩父宮夫妻に御対面。
昼過ぎに御文庫へお帰りの時にはすっかり御気分もおよろしそうだった由。

1952年9月19日
今度の問題につき田島長官と懇談。
こちらからは今後も一生懸命やるけれども、それにはやはり長官・侍従長等から納諫ということについてよく申し上げてもらい、それによってオーソライズされる必要があるということを説く。
田島長官は退位問題に関する経緯など詳しく話される。
非常に参考になる。

1952年10月7日
順宮厚子内親王、三殿御拝。
袿袴がよくお似合いになり御立派である。

1952年10月8日
昭和陛下御熱がお出になり、西野侍医の話のよるとパラチフスとか赤痢とかいう類のものだと思うとのこと。
この細菌がどこから入ったかということが問題だとのこと。
紅茶のコップに一杯酒をいただいていい気持ちで帰る。

1952年10月9日
正午の御熱は5度9分。
しかるに田島長官は明日〔順宮厚子内親王の結婚式〕おやめ願い、後の重要なことにお備え願おうという考えの由。
そして三谷侍従長などもいつものようにこれに雷同しているというので、その不可なる所以を三谷侍従長・稲田侍従次長に説いたがどうしても聞かない。
侍従たちはみな残念がった。

1952年10月10日〔順宮厚子内親王の結婚式〕
良子皇后の御供をして式場に行く。
昭和陛下は今日は大変およろしいのに、田島長官と三谷侍従長、もっとも三谷侍従長はまったく自分の意思のない人で、こんなことだから日本もすっかり軍部に押しまくられたわけだが、つまり田島長官のスターリンのごとき強引さで行幸をおやめになってしまった訳だ。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は132万円

1952年1月3日
田島長官◆御成年になられました明仁皇太子へ菊栄親睦会に御出席のお誘いがありましたそうですが、あまり結構な会合でもないようでございます。
賀陽宮邦寿王・久邇宮邦昭が相当酒を飲まれたとの噂、式部官長松平康昌も『我々の会の方ではない事がある』との話で、お酒を召し上がる元妃殿下もあり、鷹司平通〔孝宮和子内親王の夫〕あたりも感心せぬ光景もありますとか、順宮厚子内親王もお酌をなすったとか、戦後急に自由奔放におなりかと存じます。
昭和天皇◆いや、臣籍降下の前からで、秩父宮・東久邇宮稔彦王・朝香宮鳩彦王など、必ずしも若い人たちばかりではないよ。

1952年1月11日
田島長官◆宮殿再建問題は肝心の御住居になりまする方の御意思と別個に計画設計いたしますることは無意味でありますので、陛下の御思召を拝しますること必要でありまする。
昭和天皇◆①宮殿は首都の中央やはり現在の所が良いのではないか。
②御警衛の問題が簡単になるなれば、住居は郊外に離れた方が良い。
③御警衛が難しければ、やはり吹上が良い
④外賓接待等外部との接触場所と住居は近くても構わぬが、截然区別はしてほしい。
⑤東宮御所は青山御所内が良いかもしれん。
⑥宮殿は西洋風よりも、焼けた宮殿のように日本的な物の方が良い」
田島長官◆赤坂離宮を外賓の旅館に。
昭和天皇◆手入れをしなければダメだ。
手入れをすればそれはできる。
田島長官◆宮殿は赤坂離宮のようなバッキンガムやベルサイユの真似をしても本物にはかないませんから。
昭和天皇◆バッキンガムは金の食器等には驚いたが、家そのものは驚かない。
ベルサイユも古い。

1952年2月5日
田島長官◆緒方竹虎が忙しくなり〔元日本専売公社総裁〕入間野武雄を東久邇家に頼むことになりその顔合わせを致しましたが、その席で緒方が「東久邇家経済顧問新木栄吉〔元日本銀行総裁〕と東久邇宮盛厚王とのことを東久邇宮稔彦王に申し上げよ」と申しましたゆえ、盛厚王について忌憚なきことを申し上げましたところ、稔彦王が「私が何か言おうか」とのことでありましたが、今日はそれには及びませぬむね申し上げました。
稔彦王は訴訟をなさったりなすったので宮内庁内にもあまり同情者なく、高輪邸の縁故払下には不同意のような人もありますが、高輪の換地として病院の適地とか常陸宮御殿の候補地とか良き交換となりますことにしても差し支えないので、それから先は大蔵省との話し合いの問題で宮内庁直接に無関係かと存じます。
元皇族中お家の無い方は御一方だけゆえ御安定の方が願わしいと存じております。

1952年2月20日
昭和天皇◆東久邇宮盛厚王がミシンで何か作ると50~60万円も儲かるというのでやっておいでだが、うまく行くといいが。
田島長官◆盛厚王は久邇宮朝融王と違って積極的で自信がありすぎて困ります。
日銀へ入ってすぐ経済問題を論じて日銀で問題になったり、ヌートリアを飼ってみたり、どうも慎重が。
昭和天皇◆あれが陸軍の教育だよ。
勝つか負けるかで独断専行、直ちに処置とか臨機の行動とか言うので、これは陸軍のやり方だよ。

1952年2月26日
田島長官◆勲章につきましては御成年式前に明仁皇太子が大勲位におなりになりますが、まだ問題でありますが。
昭和天皇◆先だって吉田は位階と勲章は研究中だと言ってた。
明仁皇太子が大勲位となると、内親王の宝冠章も問題になる。
田島長官◆さようなりますと、順宮厚子内親王はおもらいになり、孝宮和子内親王は既に御降嫁でナシでは困ります。


田島長官◆陛下の所得税の申告と同時に富裕税もありまして、内廷基金の収入200万円に対し両税で100万円取られますが、新画などは御由緒品とも申せず御私有物件で富裕物の対象となりまするが、これは何とかならぬかとも考えますが、天皇が私人としては国民と同一立場ということを破るのは策を得たものではありませぬために致し方ありませんが。
昭和天皇◆イギリスは?
田島長官◆イギリスはややこしいようでありますが、税金のかかるものは確かにあります。
皇室経済法改正案は両院とも通過済で今年度は3千万円の内廷日となりますが、これは臨時の動きには増額を依頼せぬ建前でありますから、600~700万は予備積立の方針で参る他ありませんが、順宮厚子内親王の御婚儀の費用は用意できております。
臣籍降下の御金は今回の法律改正で700万円まで国庫に請求し得るのでありますが、一昨年の孝宮和子内親王は485万円でありましたけれども、この2年間に田島などの月給も2度上がっておりますることゆえよろしいかと存じますが。
昭和天皇◆よかろう。
岡山に行くゆえ、何かと孝宮とは違う点もあるし、通貨価格の変化に伴うことなれば実質は変わらぬゆえ。
田島長官◆今回ビュイックを2台常陸宮・内親王方に買うことにいたしましたが、将来は御料車等はイギリスのロールスロイスかダイムラーで揃えたいと存じております。
ベンツは装甲車でありますがまだまだ使えますゆえ、漸次年度を追って完成したいつもり。

1952年3月5日
田島長官◆吉田首相に吉田に日本の勲章は如何になるかと聞きましたところ、「独立回復とともに昔のままの勲章を復活する。ただし憲法制定も平和条約締結も一切論功の対象としない。その後の事でする」と申しておりました。
したがって明仁皇太子の大勲位の問題は解決かと存じます。
御成年式の時までには叙勲になりますのではないかと存じます。
内親王宝冠章のことを申し「孝宮和子内親王は既に御降嫁済ゆえちょっと困る」むね申しましたところ、吉田は御降嫁後も内親王の御身位あるのが本当とか申しておりました。
「イギリス流であって日本の皇室典範違反だ」と申しておきました。

1952年3月12日
田島長官「〔元日本銀行総裁〕新木栄吉が参りまして、『東久邇家経済顧問のお役はとうてい務まらぬゆえ御免被りたい』とのことで事情を聞きましたがもっともであり、田島としてもこれ以上引き止められませぬゆえとて、新木の反対を押し切り御議論の上お用いなく、島田とかからミシンをば10万円お買いになり内職をおやりになるということで、陛下のいつかお話のありました問題でございます。
宮様内親王様としてはこの種の仕事をなさらぬの方が良いと存じますが、そのうえ御利益にならぬ懸念があります。
この仕事は特に良くないと存じます。
御成功を祈りますが、この御仕事で御成功になりましてもあまり褒めた事とは存じません。
田島としては顧問推薦せしも結局ダメとなりました以上、式部官長松平康昌に御相談になりましたこともありますので、今回も必ず松平へおいでかとお察しいたします」
照宮成子内親王も盛厚王同様のお考えのこと、日銀でも盛厚王の評判あまりよろしくなきことも申し上ぐ。

1952年3月14日
田島長官◆東久邇宮盛厚王に上りまして、新木の辞職やむを得ぬこと・田島は荒木と同説のこと、入るを斗って出るを制すること・臣籍降下金の国民の血税たる意味のことなどを申し上げ、比較的素直にお聞きになりましたが、洋服新調費などどうしても儲けたいこと・犬を飼って失敗したこと〔犬への投資〕・東久邇宮母堂の眷顧の人の奉仕あり損なきこと・3人お雇いのことなどお話あり、3人も雇えば税金も出ることなど申し上げました。
昭和天皇◆儲けたい儲けたいという考えがどうかと思う。
照宮成子内親王も田島の話を聞いてたか。
田島長官◆照宮成子内親王はおいでになりませんでした。
昭和天皇◆照宮成子内親王もいれば良かった。
とにかく営業みたようになるは悪い。
田島長官◆皇族方は社会と没交渉ゆえ、一知半解の御利口で日銀のことなどいろいろ批評されても、ご身分に敬意を表して相槌を打つのを賛同感心とお取りになれば、よほど馬鹿ということになる。
どうも盛厚王は御利口のおつもりでございますが。

1952年3月19日
田島長官「盛厚王が照宮成子内親王御同道で新木をお訪ね下さいまして、新木が改めて繰り返して申しましたところ、とても静かにお聞きになってお帰りになりましたとのことでありました」
昭和天皇「趣味ですることなれば実は儲けることでもいいという立場で、趣味でなく儲けたいというような事はどうも」と、従来照宮成子内親王をお利口とのみ御言いになっていた陛下としては、多少御観察をお変えになり御懸念の御様子に拝す。

1952年3月26日
田島長官◆御用掛高木多都雄〔女性〕が訪ねて参りまして良子皇后の御服装の話がありましたゆえ、従来陛下の和装の御話・宮中服の御話などもしておきました。
高木は宮中服はあまり悪くない意見らしくございますが、従来の経緯を詳細話しておきました。
すなわち現状では宮中服を規則の上でお止めとも申さず、和装も洋装もご自由という事を申しておきました。
和装は100万円を御用意いたしましたが、洋装は一つ80万円もかかるというようなことで、これは御新調の用意はございませぬ。
高木はなかなか意見がありまして、京都御所を宮殿再建に移築するとかいうようなことを申しましたような次第でいろいろ申しておりましたが、海軍大将山本英輔の喜寿に際してという本に、山本が戦時中 高木によって良子皇后に申し上げそして陛下にと考えたことが書いてありましたゆえ、今は陛下も政治に御関係なき世で、ああいうことはないようにと高木に申しておきました。
昭和天皇◆山本はとてもダメで、自分が首相になろうというので話にならない。
田島長官◆ああいう神がかりのおかしな人ですが、大将になるまではあんなではありませんでしたでございましょうか。
昭和天皇◆大将になるぐらいの人ではあったらしいが、それもかろうじて大将という程度の者であったようだ。

1952年3月27日
昭和天皇◆田島は御用掛高木多都雄は考えが足らんというように言ってたが、実は良子は高木と女官長保科武子は信用してる。
それから若いけれども女官道木菊重もいいようだが、女官雪井良子と女官小倉満子はどうもいかんと言う。
私は小倉はさほどには思わぬが、雪井はおしゃべりでどうかと思うが。
いかんと言って辞めた場合に世間に出ていろんなことをおしゃべりするという事も困るから、出すとは言わんが。
田島長官◆高木のことでございますが、考えが足らぬというのではなく、高木は女官ではなく御通訳と御召物の御用掛で、仕事の系統上の責任はなく批評家のような立場で物を言い、若い時から相当進歩した考えの人らしく、そのうえ三井という金持ちの娘〔財閥三井高景の娘〕でありまするゆえ、大宮御所を東京宮殿に移築の意見などもしますような勇敢な所があると存じまするだけで、それならばこそ山本大将の取次などの点はちょっと釘を刺しましたが、そういう点以外は意見もあり見識もありむしろ結構と存じております。
他の女官のことは就任4年近くなりますので耳に入ることなどを総合しまして、雪井はどうも面白くないと存じます。
また小倉もやはり甘く、あまり良くないかと存じますが、陛下から拝命直後以来松平定信は大奥に手をつけて失敗したという仰せを伺っておりますので、容易には手は下しませぬつもりでございます。
将来の女官は相当学識あり、できれば語学もできるというような、ただし宮廷の空気に合うような人が望ましいので、更迭も機運の回った時を待たねばならぬと存じております。

1952年5月4日
田島長官◆例の不心得者の事件は親の身元も確かで勤務ぶりもよろしく、無口でありましたそうですが誰もそんな事とは気づきませなんだそうですが、昨日煙突に登りましたことは共産党と連絡ある者といたしますれば真に変なことかと存じます。
水や卵を持って上がりました他に、風呂敷包みにラジオを持参しましたりしたいろいろな記録を持っておりました様子でありますが、共産党のためにそういうことを続けて宮中のことを探りまする方が普通と考えられまするのに、煙突へ登りますれば捕まえられることは必定であり、捕まえられました時に持ち物を警察に取られてしまいますることはどういうつもりなのかわかりません。
ただ今のところこの者一人かあるいは共犯の者がおりまするかが重要事で、専らその点を調べております。

田島長官◆〔煙突事件の責任を取って辞めねばならぬ場合〕
宮内庁長官後任の件、元東宮大夫穂積重遠が外形的適格の条件を具備しておりますが、肝心の所がダメなのと同様、親類関係でありますが元大蔵大臣渋沢敬三など常識あり視野も広く適格者と見られますが、穂積同様宮内庁長官として的確のように見えて不適格と思うむね吉田首相に申して参りました。
池田成彬も渋沢を相当人物と思い国のために広い所へ出し人物に仕立てようと、第一銀行から日本銀行へと世話したと存じますが、日本銀行総裁の末頃にはやはり少しメガネと違うと申しておりましたようでございます。
目先も早く2~3歩先を見るような利口ではありますが、正しいことをしっかり意思強くという点はいかがかと存じます。
むしろ現在よりちょっと先を見て機会をつかむ人のようで、新官僚と組んで致しました跡を顧みましても、信を措く人柄とはちょっと思えません。
昭和天皇◆陸軍大臣の阿部信行がそうだ。
陸軍には稀な常識円満な人だが、意思が弱い。
田島長官◆海軍大臣の米内光政は実に立派な人でしたが、消極的で弱いという点も少しはあったように思われます。
昭和天皇◆米内は結論を口少なにちょっと言うだけで、それも理論を言わずに結論だけ言うから、ちょっとみなにわからぬという節があった。
田島長官◆実は吉田首相が「アメリカ大使に渋沢がよいではないかという話もあるのですが、いけませんかなー」と申しましたゆえそのことを申しましたところ、
「実は私も幣原内閣の同僚で少し知ってますが、あまり好きではない。外務省の予算を削減するというので大いに争い少し高飛車に出たところ、すぐ全額外務省の通りにしたことがある」との話をしました。
主張すべき事ならどこまでも主張するという所がないように思いまする。
吉田首相は渋沢栄一の孫ということでアメリカにおいては信用になるという点も考慮しているようでありました。
いずれにしましてもアメリカ大使の定まらぬことは不手際であり、吉田首相も「いい人はないかしら」と聞きますゆえ、
「第一条件は」と聞きましたらば、
経済上の問題が多いようでその道の人で本省の訓令を仰がず処理できる人というようなことを申しておりましたが、外国勤務は交際費等が要りますので尻込みする人があると聞きましたので、
「それは首相の機密費の内からでも賄うことにして」と申しましたら、
「それはしますが、なかなか」というような話で、
「元貿易庁長官向井忠晴などよろしいではないか」と申しましたところ、
「人はよく知ってていいに違いないが、健康が許さん」と申しておりました。
元外務大臣有田八郎などはよろしいと存じますが、吉田首相は「三国同盟の人だから」と申しておりましたが、防共協定の責任者で今日防共ということは悪いことでないと存じますが。
昭和天皇◆有田は立派の人で意思も強い人だが、理屈だおれするという点で内大臣木戸幸一とはどうも良くなかった。
木戸は外務大臣重光葵とはいいので、重光を通じて有田と連絡していたようだった。
田島長官◆木戸と申しますれば、今日初めて家族以外の者との面会が許されまして、数日前第1回に式部官長松平康昌が木戸夫人と共に面接いたしましたそうでございますが、刑務所の次長室とかで面会しました由。

1952年8月27日
昭和天皇◆吉田が私の住居を昭和28年度に計上したいと言ってたから、終戦後衣食住いずれも不足したところ食から衣とだんだん安定してきたが住はまだ安定しない。
それなのに私の住居を作るということはどうかと思うし、これは田島によく考えてもらいたい。
田島長官◆既に申し上げました通り、御文庫の湿気の問題で東宮侍医佐藤久の弟 建築衛生学者佐藤鑑が専門の調査が近く終わりまする由で、その結果不衛生ということになりますれば何とかお願いをしなければならぬと思っておりまするが、吉田首相がそういうことを申し上げまするのは〔元議員〕松本学などの宮殿再建論者と政治的に何か必要があるのかもしれません。
昭和天皇◆私もそういう何か政治上吉田が言い出したのと思うが、私には何とも言わなかったゆえよく考えてくれ。
松本らは満足するかもしれぬが、戦争犠牲者恩給問題とか巣鴨戦犯問題とかもあって、それを聞いて不満を感じる人もそれ以上かと思う。

1952年9月8日
田島長官◆御住居の問題でありますが、建築衛生学博士佐藤鑑調査の結果は、温度は比較的一定でよろしいようでございますが、湿度が相当高いためによろしくないそうで、やはり田島といたしましては御健康上の理由でなんらかの改造または増築等を考えさせていただかねばなりませぬと存じます。
昭和天皇◆政府には衛生の見地からと申したところで、世間一般にには天皇の住居が増築改築されるということゆえ、人は経過などわからず外見の事柄から批評するものゆえ、よほど注意を要する。
戦後7年で復興なったと考える人があると共に、自分の境遇が必ずしも順調でない人は不平不満を持つは人情であり、具体的に案を聞かねば何とも言えぬが、吹上で平面的に拡張されることは困る。

植物移植のためと拝察するも、非常に強硬な御意見なり。
田島長官「第一は地下の設備をすること、第二は屋上木造増築、第三は元奥御殿跡に横に平面的にということになります」
昭和天皇「第四に元奥御殿跡に新築ということも考えられる」
吹上に建築が増えることは非常におイヤの御様子に拝す。

1952年9月13日
田島長官◆皇室経済会議は全員出席で、順宮厚子内親王の一時金700万円は満場一致で決定いたしました。
また1,500万円の基本財産の額は終戦直後の勘定と計算でありまして、今日としてはインフレの結果75,000円の戦前の値しかなく、それも7方分であることの不合理も申しておきました。
大蔵大臣池田勇人もメキシコの大統領邸の立派なことを申し、宮殿建築のことを申しておりました。
宮内庁の仕事はいずれからも必ず批難されますが、昨年の節子皇太后〔貞明皇后〕御大喪につきましても、御粗末という説と御贅沢という説とありましたが、中間適当のことゆえ両方の批難もさほど強烈でありませんでした。

1952年9月15日
昭和天皇「東宮ちゃんが旧法によって大勲位をもらうならば、順宮厚子内親王も宝冠章をもらうといいと思う。しかしそうなれば孝宮和子内親王もなければ困る。照宮成子内親王ももらってるのだから」
田島長官「そのことは一度吉田首相とも話し合ったことがありまするが、孝宮和子内親王は遡ってということになりましていかがかと存じまする。また清宮貴子内親王の時は新栄典法によりまして宝冠章はなくなりなするが」
それはその時とのような御旨に拝す。

昭和天皇◆御文庫は建坪は相当広いのだが部屋が少なくていかぬため自然建て増しとなるが、上へ建て増す案がいけなければ、平面的に建て増しとなると、地面をあまり取らぬために二階建てとしたらばどうか。
それでも具合悪しければ、常陸宮御殿の前の所へ作ってはどうか。
私はむしろこれが良いかと思う。
田島長官◆奥御殿跡に新築となりますれば将来の宮殿計画との関連を一串して考えまする必要もありまするし、那須の御用邸程度の物を調度まで入れて坪いくらかざっと調べてもらいましたが、33万5千円と申しておりました。
これは木造でも鉄筋でもあまり差はないとのことでございました。

1952年9月16日
昭和天皇「御文庫改造をやめて旧奥御殿跡に建てた場合、御文庫を研究所にするとか言ってたが、標本など湿気が多かったらダメだ」
拝察するに吹上の地面の狭くなるのを大いに忌まれるあまり、従来の経緯に構わず心中旧奥御殿跡を御希望になっておられるらしく、その結果仮想的にちょっと触れた御研究所の移転をかく重く仰せになる。
そもそも先憂後楽の御素志を形の上で判断せられること困ると仰せの陛下とすれば、少しく一貫せざるやに拝せらる。
吹上園内に平面的拡張をイヤがられる結果、ちょっと行き過ぎてかく御発言かと思う。

1952年9月22日
田島長官◆国体へおいでの時 できれば宮城・山形へもおいでになりたいむね拝承いたしておりましたが、例年と違いまして順宮厚子内親王御慶事・明仁皇太子の成年式・立太子礼など特別の行事がありまして、侍従職の負担が重くなりまするので福島のみとしてお許しを得ましたが、高松宮から「家来の都合で天皇のおいでを左右するのはおかしい」との仰せで。
昭和天皇◆良子など松島を知らないのだよ。
私は行ったが、外国人と話をする時には松島を知らぬではおかしい。

1952年9月23日
昭和天皇「侍従連直の話を良子とも話したのだが、良子は『連直は女官が始終やってる。男でそんなことできないことはない』と言ってた」
田島長官「宮内庁はよその役所と違い、役所と御家庭の両面ありますので難しいのであります。連宿の場合、侍従にしても女官にしても食事の問題など気の毒だと存じます。戦前は給食であったやに聞きまするが、ただいまは自弁でありまして困るようであります。侍従長とも相談し何とか改良いたしたいと存じますが、一般職員の方では組合のようなものもあり、不公平という声も起りましょうし、なかなか難しゅうございます」
昭和天皇「それは政府や人事院がもっと宮内庁の実際を知ってくれればいいのだよ。侍従だって多いと言うが実際見れば多くはない。今度のような時は困ってしまう。女官でも連直は考えものということも、大宮御所〔貞明皇后の宮邸〕のように住み込むような組織は井の中の蛙大海を知らずという言葉通りになる弊害があるし、住み込む制度でなければまた連直等の問題が起きるし、一利一害難しいものだ」
全体として良子皇后の女官に対する平素の御気持と同じような空気の御話にて、御徳とは感ぜず時を見て申し上げる要ありと思う。

1952年09月30日
昭和天皇「皇室会議は元のような純粋な親族会議にするといいと思うがねー。皇族の数も少なくなったし、選挙というもおかしいし、ことに良子などみな子供で同じことだし。昔は私が議長で皇族は全部、それに枢密院議長と大審院長が入るので、あの方が良かったよ。良子の言うことももっともだ」
良子皇后の御意見の内容はわからぬも、良子皇后としては御子様は選挙できず、三殿下〔秩父宮・高松宮・三笠宮〕を入れる他ないというような意味に拝す。
田島長官「ただいまとしては皇太子妃の決定が大問題でありまするが」
昭和天皇「皇室令の制定だねー。それに臣籍降下」
田島長官「順宮厚子内親王の場合臣籍降下は当然でありまして、ただお金の問題だけ経済会議にかかります」
昭和天皇「昔は皇族全部。もっとも女はいなかったが、今は女も入れねばならぬが入れても少ない。枢密院議長はなくなったから衆参両院議長も入れなければならぬかもしれぬが、親族会議のようにしたい」

1952年10月16日
昭和天皇◆順宮厚子内親王の結婚式に比べると、今度の皇太子の式典〔立太子の礼〕の方はなんだか温かみがないようだねー。
田島長官◆国事となりますると御血縁の方も御出席願えぬというような点多少変でありまするが、国事という建て前は取った方がよろしいと存じましてそうなりました以上、今日の場合やむを得ませぬと存じます。

1952年11月4日
田島長官◆立太子の礼もだんだん近づきまして、鷹司信輔夫妻〔孝宮和子内親王の舅姑〕・池田宣政夫妻〔順宮厚子内親王の舅姑〕のことを承りましたが、これは御召になりますのか、あるいは何か賜物でよろしいのでございましょうか。
昭和天皇◆私は東宮ちゃんの兄弟みな揃うという日に、その二夫婦も入れたらいいではないかと思ってる。
田島長官◆今の御話でありますと、孝宮和子内親王・順宮厚子内親王の夫の両親は揃ってるのに、照宮成子内親王東久邇成子の東久邇宮稔彦王&東久邇宮聡子妃はなぜお招きないかということになりはいたしますまいか。
昭和天皇◆それは菊栄親睦会に招いてあるからと言えば、照宮成子内親王はわかると思う。

昭和天皇◆皇室会議の選挙の問題だがねー。
あれは私は選挙による皇族をやめるより、もっと皇族はその会議には一人も出ず、宮内庁長官が説明役として一人で出る。
その他に民間にあるような親類会議というものを作って、それには親類に当たれば臣下も入れる。
その議をもって長官が説明役ながら会議へ出るというのはどうか。
ふたたてにして。

1952年11月5日
昭和天皇◆私は牡蠣が好きで、常陸宮も好きで、先年二人は大いに食べて〔食中毒〕やったことがあるが、そのとき牡蠣を食べなかった良子も少しやられた。
牡蠣に付着しがちなものは他にも付着しがちゆえ。

1952年11月27日
昭和天皇◆昨夜常陸宮から聞いたのだが、友達連中と話し合ってるとアイゼンハワー大統領を恨んでる声があるとのことだ。
ちょうどあの年頃の人が朝鮮へ駆り出されて血を流さなければならぬというわけで恨んでるという話を聞いて、そんなことあるものかと言ってはおいたが、大統領李承晩の挑日的傾向や北朝鮮が万が一にでも統一でもあるということがあれば、日本の国防というものを本当に考えてどういうことが起きぬとも限らぬ。
若い者に本当に祖国防衛というような気持ちが全然なく、ただぼんやり戦争に行くようになることを何でも嫌というようなことはどういうものかと思う。
西洋にはキリスト教的な思想というものがあって、神のために正義のためにというような社会上の目安があるが、今日の日本は国民に共同の信念というものがない。
忠君愛国というものを利用して行き過ぎをやったのが日本の過去の失敗だが、忠君愛国そのものの適当の範囲ならばそれは悪いことではない。
行き過ぎが悪いのだ。
平和とか民主とか自由とかいう美名で祖国の防衛も忘れ、放縦を自由と思い民主主義と言って得手勝手を言う今日の有様は、私は実にどうかと思う。
美名に隠れて本質がなく、弊害が名前のみの実なき行き過ぎと言うか何と言うか、真に心配に堪えぬ。
田島長官◆行き過ぎにならぬ程度に教育勅語のようなものがある方がよろしいとのことで、元文部大臣天野貞祐なども考えました次第ですが、上からの天降りはいかんと言うので攻撃されてやめましたが。
昭和天皇◆私は弊害ない程度で教育勅語のようなものはあったほうがいいと思う。

1952年12月8日
田島長官◆内廷費の御倹約の問題も時勢の変化につれましてさほど心配な見通しはなくなりましたので、必要な物のためには適当に御支出結構と存じ、良子皇后の御和装のための費用に関連して、もし女官連も備品として必要な程度は整える覚悟で侍従職と話しております。
一時の共産党の勢いではどういう予算になるかとも思いましたが、衆議院では共産党員ゼロとなり、立太子礼に不参の参議院共産党議員が記念の御盃は頂戴したいと申し出ておりますし、雅楽に岩間正男ら参議院共産党議員二人来まして、皇室でなくてはこういう文化を保存されないと申しました由。
世の中一般の情勢が終戦直後とは漸次変化して参っております。
昭和天皇◆その共産党の態度は果たして真実であろうか。
何かためにするところあってそんな風に出てるのではないか。
田島長官◆それは共産党はなかなか周到でありますからなんらかためにするところあるかもしれませぬが、素直に取ってよろしいかとも存じております。
少なくも共産党がこんな態度なれば他の政党等が騒ぐようなことには確かに影響がよろしいので、傾向としてはやはりいいと申していいかと存じます。

田島長官◆1,500万円の内廷固定資産もインフレ前の通貨で計算しましたものゆえ、今日では非常に実質的少額となり、これを大切に保持するという考え方は議会および世論の空気の変化上つまらぬことでありまして、むしろ適当に独立後の象徴として必要な物に消費しまして、どうしても足らねば要求する方が良いかと考えるに至りました。
昭和天皇◆それもそうだが一方には戦災者が社会的にうまくいっていないし、犠牲者の困窮あることも念頭を去ってはいかぬ。
田島長官◆新聞記者と年末の会合をいたしましたが、連中の空気もだいぶ違っておりまして、実に終戦後とは隔世の感と申しておりました。
テレビなども日本に600台もあるとのことでありますゆえ、皇室に1台あっても少しも贅沢ではないくらいに考えております。

1952年12月18日
田島長官◆明仁皇太子御誕辰拝賀のことでありますが、新嘗祭の時明仁皇太子が殿上で御拝になります時、宮様〔高松宮か三笠宮〕から「前例はあるのか」との御尋ねがありまして、「あります」と申し上げましたが、その御質問の裏には宮様方はモーニングで拝礼かと思っておいでであったかと想像されますから、「本来は宮様方も御装束をおつけ願うのであります」と申し上げましたが、「それは嫌だ」との仰せもありました。
それから御神楽の時明仁皇太子御拝の時に臣下は起立いたしますが、もちろん宮様方はおかけのままであります。
これは親王として御同等とのお考えもあるかと存じまするゆえ、御誕辰拝賀となりますると宮様方の御誕辰にも明仁皇太子が賀にお出かけになるべきかという問題もあり、真に難しくデリケートでありますため、御思召を拝したいと存じまして。
昭和天皇◆それはなかなかデリケートだが、皇太子の身位は未来の天皇で、私には叔父甥でも公には一段高いのだから行かぬでもよいと思う。

田島長官◆明仁皇太子御渡欧の予算を政府に提出しまするのは会計の規定がなかなか難しく、昔と違って内廷もお貧乏でございまして1,500万円の基礎勘定も2内親王様の持分はお分けになり、節子皇太后〔貞明皇后〕の分は税金の残りは癩病へ御寄付になり減少いたしましたが、幸い投資の株の値上がりのために株の一部を売りますれば1千万円ぐらいできて、残りは最初の基金以上あるかと存じますゆえ、内廷基金から1千万円の御支出をお許し願いたいと存じます。
明仁皇太子のお土産だけでも1万ドルぐらいは御入用かと存じますがこれで360万円、あと670万円は旅費の不足額補充の覚悟がいるかと存じます。
昭和天皇◆株を売るのを何を売るか知らぬが、その売られた株の会社が迷惑することはないか。
田島長官◆その点は絶対にございませぬ。
内廷会計というような名前を出しての所有の形式ではありませぬので、株式投資の金銭信託の形で信託会社が株式を持っておりますゆえ、その点の御心配は絶対にありませぬ。

田島長官◆御住居改造のことでございますが、昭和28年度予算に付け替えてもらいますためには27日が査定とか申しておりまして急ぎますので、方針だけお決めを願いたいと存じます。
御文庫の改造案は4案ありまして、A案は御文庫屋上に御座所など両陛下の御住居を造る案でありますが、立案当時970万円でありましたが今は3,200万円となっております。
みなと相談の結果あまり賛成者がありません。
次にB案C案は陛下があまりお好みになりませぬと存じますが、御座所のお隣の物置の所から。
昭和天皇◆いや、あれは物置ではないよ。
呉竹寮からいざと言ってきた時、また常陸宮御殿のことも考えてそのための部屋であったが、今は物置になったのだ。
田島長官◆その辺の所から廊下で出まして御座所・御寝室等160坪を建てる案でありまして、B案は鉄筋で5,800万円、C案は木造防火建築で1,000万円安く4,800万円の予算であります。
我々としても一番よろしいと感じましたのはD案で、湿度温度の欠点除去の地下の機械的設備をいたしますることと、ここに侍従候所その正反対のところに女官候所を作りまして、ただいまの侍従候所女官候所は物置としてホールを少しきれいに致しますればよろしいのではないかと存じます。
女嬬らは昔はお近くにはいなかったとも存じますので、ただいまの洗濯所の方と御文庫との中間は植物等もあまりありませぬ所ゆえ、あそこへそういう平屋建てを増築いたしまして、御文庫内に余裕をつくりたいと存じます。
当直の侍従女官の寝室も別になっておりませぬ実状ゆえ、この寝室を作りまして候所を少しきれいにして、葉山や那須のように陛下もおいでになり得ると存じます。
陛下からお話がありました常陸宮御殿の前に新規に考えてみる案も作成いたしましたが、あの土地へ新規に作ります以上3億円4億円となりまして、将来表宮殿のできました時にも一応これでよろしいという奥宮殿となりますゆえ、これはただいま時期でないようにも存じ上げます。
昭和天皇◆戦争犠牲者のこともありまだまだ困った人の多い世の中にそんなものを作っては皇室に対する国民の感じというものが非常に悪くなる。
D案でよろしい、D案が一番よろしい。

1952年12月19日
昭和天皇◆今度増築する場所は植物の方にはあまり関係ない所に相違ないが、工事をするために吹上の地面を使用するに違いない。
それはなるべく少なく使用するように考えてもらいたい。
若干はどうしても入用で、そのため植物の移植ということになると思う。
それは時期もあり移植の場所の関係もあるから、事前に私に知らせて欲しい。

1952年12月24日
田島長官◆昭和26年度内廷会計検査の結果を申し上げます。
昭和26年度は節子皇太后〔貞明皇后〕の崩御という思わざることがありまして、必要なものが生じましたり不要なものが出ましたり、結局国庫よりの2,900万円の内廷費の他30万円の利子収入を予算しておりましたが、これが10万円多くなりまして、歳入2,940万円に対し歳出は2,580万円で済みましたゆえ360万円の超過となりましたが、性質上次年度へ繰越または次年度歳入繰入のもの・順宮厚子内親王の御婚儀関係費・明仁皇太子の立太子の礼の費用等170万円ありまするため、純粋の余りは190万円でありましてこれは内廷基金へ繰り入ることになりました。
次に内廷基金でありますが、終戦後御8方分として1,500万円の基金でありましたが、本年3月31日現在時価と致しますれば株券で1,085万円・社債1,500万円・他に現金200万円で2,700万円となっております。
この内には常陸宮御一家創立のための積立等も入っておりますが、ただいまは株価の騰貴がありますので1千万円明仁皇太子御洋行のため支出いたしましても1,500万円には関係ございませんので、この前申し上げましたように売却により1千万円得たいと存じております。

田島長官◆御文庫改造の2,500万円の経費を昭和28年度予算として計上してもらうよう大蔵省と話し合い中でありますが、政府のどういう都合か存じませんが、大蔵省事務当局としてはむしろ昭和27年度予備費でやってくれとの話でありまするが。
昭和天皇◆植物の移植はその頃の方がいいものもあるから、6月頃起工する方が良いとも必ずしも言えぬが、芽を出してない植物等やはりこの期間は難しい。
3月には良子の誕辰その他で在京の要があり、東宮ちゃんの壮行会とかそんなものもあり出発だから、ちょっと難しい。
女嬬の部屋を建てる所は植物はまずないが、今度工事をする仕事場はどれぐらいの坪数が要るか。
その範囲はなるべく小さくして欲しいし、植物の点は早く準備が要る。
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