◆高松宮宣仁親王 123代大正天皇の三男 光宮宣仁親王
1905-1987 82歳没
■妻 徳川喜久子 徳川慶久公爵の娘/将軍徳川慶喜の孫
1911-2004 92歳没
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』
1941年1月15日
このごろ大毎の吉屋信子の『花』を読み出したが、昨夜航海で見ず。
今朝やっときたら大朝と福岡日日でガッカリ。
一日抜けちゃった。
1月16日
人事局長中原義正少将が来ていた。
会ってみたらば、私に前期が済んだら代れということだった。
「戦争が始まるからというわけか」と聞いたら、
そうでなく「東京の近くにいたほうがよいとのことでだ」とのこと。
「誰が言うのか」と聞いたら、「言えない」と言っていたが、
「陛下がお漏らしになった」というようなことだった。
いつも腰かけ式にちょっとやっては代るので、心づらい限りだ。
砲術学校でお払い箱になれば、すぐ航空に口があるとは言うものの寂しい。
しかも艦に乗る機会はますますなくなる。
もう艦長しかない。
艦長では楽しく平気でやっていけない。
威張りもせねばならず、真面目に装わねばならず、つまらないだろう。
こころがいら立つのをどうにもならぬ。
珍しく夜興奮して寝られなかった。
1月27日
喜久子より久美子〔高松宮喜久子妃の妹徳川久美子〕の婚約につき相談あり、意見なしと返事す。
私は他人の結婚に語る自信なし。
自らにすら自信なき事なればなり。
2月25日
小型自動車ベビーフォード(1938年型)一つ買うように言う。
オースチン(1940年型)ありしも、現物見られぬし2万円でちょっと高くもあるから。
フォードの4千マイルを走った5,500円のにすることにした。
2月28日
喜久子の手紙に川奈の桜〔押し花〕入れてあった。
手紙の文句は相変わらずしつっこくベタベタした文章だが、花はどこのもスッキリと良いものだ。
3月30日
秩父様へ。
お太りで艶もよくおなりだったが、お姉様がちょっと起きて御覧とおっしゃっても、寒いからとておねんねのままだった。
7月14日
秩父宮に御無沙汰にて、もうだいぶよろしいようだしそろそろ来そうなものとの御気持らしいとのお姉様の電話あり。
7月18日
松平家より久美子縁談のこと〔松平康昌侯爵の子松平康愛&高松宮喜久子妃の妹徳川久美子〕正式に申込あり。
宮内大臣松平恒雄夫妻仲立ちにて心労す。
8月5日
久しぶりに宮城のニュース映画陪覧に上る。
8月6日
大正皇太后〔貞明皇后〕 防空の御避難所はじめ日光の予定なりしところ、大正皇太后〔貞明皇后〕お気にいらず先日御参内の時に昭和陛下と御話あり。
寒いのはイヤという思召もあり、例の調子にて大正皇太后〔貞明皇后〕おひねくれからか昭和陛下もお困りにて、防衛司令部の考えにては日光第一なるも、宮ノ下でもよく沼津でもまずよろしとのことにて、その後沼津ならよろしとのことになる。
何かあると語気の具合で変になり、昭和陛下また余計に御心配になる。
宮内省にて各宮の自動車二台分、代用燃料に改造の経費出すことになり、うちのはすでにプロパン2台あるので、フォードをアセチレン、オースチンを石炭・コーライト兼用に改めることにした。
8月21日
秩父宮へ。
少し御元気が出てきたようだった。
やっと5分くらい身体を起こしてごらんになった由。
まだ血沈早いとのこと、20ぐらいとか。
8月24日
原田熊雄男爵来る。
先日宮城に上った時に私がアメリカと戦争せねば皇太子様の御代が危ないという意味を御話したので、昭和陛下がすごく御心配にて翌日近衛公爵に御話あったとかで、近衛から原田に話あったとか。
あまり御心配になるようなことは言わぬがよいだろうとのことだった。
どうも全然思い当たる節もないが、10月が油の切れ目というくらいのせいぜい連絡会議の話題以外でないと思うのだが、何かお間違いだろうと答えておく。
後でよくよく考えたら、昭和陛下が艦隊を残しておかねば講話の時に威しがきかぬというようなことをおっしゃったので、先の世界大戦のドイツ艦隊みたいに置いておいても何もならぬこともあるとか、北樺太の油では不足ということを言ったのが関係あるやもしれぬと気づいた。
8月26日
宮城にニュース映画陪覧に、暑いから略服でとのことに背広で上がる。
三笠様がそんなら和服でよいかと伺ったら、洋服がよいとの御返事で、断然軍服で出ると申し上げた由。
三笠様、このごろ女も和服を着て参内するようにとの御主張。
一時はそんな気で張り切る年頃があるもの。
その意気、その意気と言いたいところなり。
9月1日
秩父様、心臓の薬あがったらたちまち脈が70とかに減ったので、この際御殿場に移ったらとのことで、数日中にお出かけの由。
9月14日
秩父宮 今朝御殿場にお移りの予定のところ、お出がけに下痢をなさったとてお止め。
9月18日
帝国ホテルの満州国大使館主催晩餐会に行く。
どうも今日の記念日は満州国人がその気になりきっていない。
なんとか早く満州国人が心から一致するように日本側の態度をすべきだ。
10月3日
二位局〔柳原愛子〕久しぶりに大宮御所に上るにつき、喜久子御召にて上がる。
12年以来の由。
四輪車に乗ったままにて拝謁。
うれし涙にて、大正皇太后〔貞明皇后〕にも感激の御様子なりしと。
永井武官の謹話は実に馬鹿にしたものである。
●時間厳守はけっこうなことであるが、説明するなら他に実例がありそうなものである。
時計を二つ用意されていることは決して自慢にならぬ。
時刻係の人ならばともかく、皇族がそんな神経過敏なことでは仕方がない。
実際私も旅行等には必ず二つ持って行く。
しかし人には見せたくないことなのである。
止めたいと思いつつも、自分の神経衰弱的性質でやめられぬのである。
細心ではなく、過ぎている。
少なくともこれは内緒でなくてはならぬ。
腕時計をしてこれをちょくちょく見たりするのでも慎むべきである。
●神社に必ず御拝礼されることは結構なことである。
●混み合う市電をお選びになって云々は困った宣伝である。
皇族がそうした乗り方をすること自体は決して不可ではなく、目立たずにすることは皇族地震の見聞修養になるのであるが、皇族と知れては面白くない場面もあるので、平民的とかなんとか賞賛さるべきではない。
御付武官として宮の内の人として、いっそう秘すべきことを書き立てるところに、軽率無識を戒めねばならぬのである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
『賀陽宮邦寿王御付武官永井清雄少佐謹話』10月3日報知新聞
殿下の御日常生活の1~2を申し上げて御高徳を御偲申したいと思う。
殿下が時間を御厳守遊ばされることは非常なもので、常に二つの時計を用意されていた。
また崇神の念の御厚いことは頭の下がるほどで、どんな場合でも神社という神社の前では必ず御拝礼遊ばされる。
それから単独御外出の際には自動車は召させられず、混み合う市電をお選びになって、その平民的な御精神のほどを拝すことがしばしばであった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
10月12日
お兄様、お床の上に上体起こしてお会いになる。
たいそうおよろしい御様子。
御話にも痰がからまず御楽に御話のようだった。
おこたで昼食。
木戸から借りた近衛メッセージ・国交調整基礎文書・アメリカ回答覚書・野村大使意見書など御覧に入れてまた持って帰る。
10月19日
大宮御所。
百合子様、母君と御召にて、一度会っておけとて初対面。
お揃い遊ばされともうやっているが、板につかぬところが取り柄なり。
大正皇太后〔貞明皇后〕、百合子さんの御仕度御覧、陳列を見る。
〔戦時下という時節柄〕あまりよい着物の帯もなし、御所車に花模様の赤い振袖くらいのもの。
麻の江戸模様は昔のままのイミテーションではあるが珍しかった。
11月7日
御殿場へ。
お兄様、起きていらしてお茶一緒にいただく。
まったく久しぶりなり。
夜も起きていらして一緒にお遊びす。
お姉様六畳の間にお逃げ出しになり、私たち炉の部屋に寝る。
11月8日
三笠宮お二人を招く。
宮内大臣・宗秩寮総裁、三年越しの苦心の御結婚だけに重荷おろしたとて機嫌よし。
高木子爵すっかりフラフラになる。
奥様は泣き顔にて見ていたが、しまいに落ち着いた。
11月9日
保科・徳川の〔保科正昭子爵の子保科光正&徳川家正公爵の娘徳川順子〕御披露にて会館に行く。
保科さんも大人だし、お嫁さんは身体大きいし、なんとなく華々しさのない御披露だったが、落ち着いた気分だった。
12月3日
入浴してすぐベッドにもぐりこんでいたら、宮城からお電話で来いとのこと、上がる。
7日大宮御所で三笠宮御婚儀晩餐お催しにつき、8日開戦の前日を知ってのお祝の会食は、後日歴史家の誹りもあるだろうから止めたほうがよいと思うがとのことで、私もどうかと思っていたので申し上げることにした。
予想計画状況をお話して自発的におやめになるようにすぐがよかろうとのことだった。
12月4日
大宮御所へ上がる。
8日0130くらいから始めることを申し上げしところ、「それでは御召の中にはそれを知っている者もあるべし、止めた方がよいようだ」との御模様で、「三笠宮のこともあまりスラスラ行ったから一つぐらいこじれてもかえってよかろう」等お話あり。
帰りがけ皇太后宮大夫大谷正男に言ったら、「それは困った、御召状も出ていて、かえってお止めになったら変だろう」と言っていた。
宮城へ上がったら拝謁連続だったので、「申し上げておきました」と侍従に頼んで帰る。
宮内大臣松平恒雄に会ったら、「そのことでお話していたところだが、おやめになるとかえって秘密上よくないかもしれぬと申し上げていたのだ」とのこと。
「それなら、事が現れねばよいかもしれぬ」と言っておく。
「ただ大戦争の立ち上がりというだけが考えねばならぬので、戦争中だからというわけではないと思う」と言った。
12月5日
松平宮相が会いたいとのことで電話で聞いたら、「昨日のこと事が現れねば予定通り、現れたらやめとのことに御聞届けを得た」とのことだった。
12月7日
大宮御所へ。
三笠宮御婚儀につき関係宮内官39人ほどを御召、晩餐。
12月8日
0130マレー上陸開始。
0330第一航空艦隊ハワイ奇襲成功。
0412シンゴラ上陸成功。
0430アメリカ海軍長官、日本に対し戦闘行為を開始せよ。
外国の放送、アメリカ海軍無電の傍受のみでなかなか戦闘概報来らず。
ことに台湾は朝霧ありて飛行機出発せず。
それが出発したかどうかわからず、ハラハラさせられた。
マレーは上陸開始とのみで、上陸後の模様わからず。
1930頃にはボツボツ機動部隊・台湾等の概報来り、パールハーバーの戦果大成功にて喜ぶ。
2200帰邸。
灯火管制、ひっそりしていて町の中真っ暗なり。
入浴、寝る。
一安心なり。
しかし前途なお遠き感深し。
戦況発表につき、陸軍では日本のタイ領進駐にイギリス兵攻撃され戦端を開くに始めんとする案に反対しすべて詔書の後にすることを主張し、今後そんなインチキ発表や武力行使をビクビク遠慮しつつやるような仕方をせぬように言った。
8日の朝まで陸軍ともめて、0600西太平洋で英米と交戦を始めたと大本営発表をして後は全部詔書の後と決まっていたのに、報導部の失策でその前に帝国海軍のハワイ奇襲のニュースをラジオで出して、陸軍を出し抜いたことになり不信なことになった。
陸軍ガンガン言う。
謝ったが、取り返せるものではない。
12月10日
ルーズベルトの親書はグルー大使を通じ、「日本は仏印より撤兵せよ。仏印進駐の目的を伺う」というようなものにて、政府間の話し合いの通り返事せしめられし由。
つまらぬことを言ってくるものだとおっしゃっていた。
7日の夜はこの親書があったので、首相官邸とか外務省とかゴタゴタしているのを、報道関係者はそのためと思い作戦の秘匿になった。
総長がイギリス戦艦二隻の撃沈を申し上げたら、陛下も「それはよかった」というようなことで、お喜びだったとのこと。
作戦室でシャンパン祝杯。
参謀本部二課の連中、竹田様〔竹田宮恒徳王〕も果物持って祝に来られた。
12月11日
今朝御殿場に電話したら、御付武官一戸公哉が隔日に伺うし、陸軍次官木村兵太郎とかも御面談を願っているとのこと。
今夜より情勢変化すれば灯火管制を行わずと言う。
通常管制くらいにしておけばよいのに。
12月17日
アメリカ大統領が「アメリカは48時間以内に重大なる処置をとる。日本はこれにより日本の採れる処置が過失なりしを知るべし」と言ったとて、何だろう。
ソ連が攻撃してくることか、参謀本部では極東軍に攻撃に出ることあるまじと言う。
潜水艦戦をもって機動部隊をやることか、空襲かと頭をひねる人あり。
12月29日
御殿場へ最近陸軍次官木村兵太郎・参謀次長田辺盛武お話に出たので、戦況等につきては御承知と思い大して触れなかった。
御希望ありしルーズベルトの親書、木戸内府より借りて持って行った。
少しお腹の具合悪しとのことなりしも、大したことではなかった。
なにしろ身体の抵抗力に自信がなくなっていらっしゃるようではあった。
大正皇太后〔貞明皇后〕沼津にて落ち着きのようなりしも、少しはおさびしいようでもあった。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』
1942年1月17日
御殿場へ行く。
秩父宮およろしき様子。
お腹の具合もよくなり、お顔の出来物ほとんど治っていらした。
最近近衛とか人にもちょいちょい会って、かえって気分転換によろしい様子とのこと。
1月18日
太郎坊スキー。
ゲレンデはすごく狭く、上の方まだ雪なくて駄目の由。
久しぶりの膝に力なき足慣らしにはこれでも結構。
雪はあるがデコボコで、1~2間しては転ぶのでとうとう脱いで歩いて下る。
昼食はお兄様も一緒におこたで食べる。
2月15日
赤坂離宮のお庭でスキーをやりに行く。
5月25日(満州滞在)
満州国皇帝さんから帰ったら申し上げてくれとのこと。
●日満両国は左右の手のとごくでしかも一心なり。
●建国神廟については全満州の崇敬の中心とすべく、率先これに奉仕する覚悟である。
●全力を挙げて大東亜戦争に協力するとともに、北方の護りに対しては満軍も日本軍と協同してその全きを期す。
●大東亜戦争勃発い際しては、その夜に御前会議を開き、まったく日満一体にてこれに当ることを話した。
●汪兆銘来満の節にはよく日本と携えて強力して行くことが唯一の道であることをよくよく話して、汪兆銘も同意見のことを答えた。
●時局は世界の禍福の分れる機であって、天皇陛下の御健康は特に重大であるから、いっそうその御安体をお祈りしておること。
7月11日
御殿場へ。
秩父宮、このごろ日中は杉林の中でお過ごしの由。
少しお痩せになったが、黒くなって具合よさそうになったが、まだ痰がからむ気味だった。
7月12日
秩父宮、林の中の組立バンガローに出ていらっしゃった。
外の時は看護婦白いのはおイヤとて、着物をきてくる。
7月15日
三笠宮妃殿下、今日初めてプールで泳ぎのお稽古。
7月18日
徳様〔竹田宮恒徳王〕より東宮様の御教育組織に関し、考究の要ありとのお話。
7月27日
理髪。
翼賛型の髪というのが新聞に出ていたが、床屋はそんなことはまだ何も聞いていない由。
7月29日
プール水換え、気持ちよし。
8月1日
プール1/3初めて井戸水にて補給す。
水温冷たくなり気持ち良いくらいなりと。
8月8日
泳ぎ、冷たいくらい気持ちよし。
8月23日
吹上のプールにて両陛下のお相手に泳ぐ。
8月25日
プール水換える。
ニュース映画陪覧、初めて御文庫にてあり。
8月30日
先日キスカ行のこと課長から次長の話してもらったら、危険だから今はいけないという話だったから、今日話してみたらやっぱり危ないからとの話。
危険率にしたら数字にならぬではないか。
前のラポール行の時の大臣の言う空虚な危険視と同じではないか。
大臣の言う今秩父宮もお休みだからなにしろ生きていろと言うなら、またそれでも理屈かもしれぬ。
まったく統率上、生ける屍なり。
9月5日
御殿場へ。
秩父様も日焼けしてお元気なり。
お咳40分、長い時は一時間も続くことある由なるも、これは気管がふくれていたのがしまってきたためにて良き経過なる由。
9月8日
吹上にてニュース映画陪覧。
ガダルカナル島戦況に大いに御心配にて、新しき情報ないかと御催促あり。
喜佐子〔高松宮喜久子妃の妹・榊原政春子爵の妻〕来邸、オバーサンと折り合い悪し趣。
9月9日
大宮御所より紅茶茶碗お回しいただく、
大倉陶園にこれに組の菓子皿できるか尋ねしところ、50枚同じ描き手にて約三カ月でやれる由。
頼むこととす。
9月14日
プール水換え。
9月18日
涼しくなり泳ぐのをやめる。
7月22日から55回泳いだ勘定になる。
12月4日
昭和皇后が横須賀海軍病院にいらっしゃった時、御用掛かなにかの子供が入院していた。
昭和皇后は御目をつけられて皇后宮大夫広幡忠隆に囁かれたが、御案内の病院長は何も言わなかった。
東京第一陸軍病院へいらっしゃった時は、院長がわざわざ内務大臣湯沢三千男の子供とか誰の子供とかことさらに指名して申し上げた。
ここに陸軍海軍の気風の違いが認められる。
12月28日
餅つき。
12月29日
大倉陶園より、紅茶碗にあつらえた菓子皿50枚出来。
少し花の色の違ったものあり。
今度の誕生日に果物皿をいただくつもり。
フィンガーボールは形よくないから皿のみ。
12月30日
平泉澄博士と面談。
悲観論派は近衛を中心とし、楽観論派は東条を中心とし、対立の傾向激しからんとす。
近衛と東条とを会わせることにより緩和せしめんため、私の所にて両者を一緒に呼んで聴いたらよいだろうとの話なり。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』
1943年1月1日
町では日本髪の娘、年末からちらほら、例年よりも多かった。
女の子、大きなリボンを髪につけたのが多かった。
他に飾るところがないからだろう。
着物でめかしたのは少なかった。
なんとかして飾ろうとするのは女の欠点と言う人あり。
そうばかりでもあるまい。
今年の程度は結構だ。
門松ほとんどなし。
松つけてあるのがおかしいようだった。
二重橋前の人手は今までにない多数だった。
行くところが無いせいもあろう。
1月16日
デソート使い始めてみる。
安物だけに乗り心地はスプリング固い。
1月17日
大宮御所。
デソート御覧に入れ、芝生を回ってお乗せする。
1月18日
デソートを毎日使っているが、1941年型で目立つ。
米が足らぬ着物が足らぬ、そして作戦は苦しくなる。
それをひしひしと感じながら戦利品歴然たる車に乗って歩くことは見た目の感じ甚だよろしからずと考えられ、人心の心に及ぼす影響は皇族が独りよがりで戦利品を乗り回す有り様は遠慮すべきであると思える。
それで新しい車に乗る楽しみは少しもない。
今ある7人乗を乗り延ばすつもりで、デソートの方を早く使い古すのが長期戦の対策かと、まあ消極的な反感は目をつぶってもらうつもりなり。
皇后宮大夫広幡忠隆より東宮様御学問所に関する研究経緯を聞く。
現在東宮様は算術なども一般より計算等に時間がおかかりになるが答は間違いなくなさるので知能の方は普通であるが、やはり御身体の方が考慮を要する点なり。
宮内大臣松平恒雄の意見にもあり、運動場を一般と一緒に御使いになり、その間に得るところ少なからずと考えその方針なり。
2月16日
吹上御所。
三笠宮より御旅程など詳しい御手紙が来たと珍しいようなお感じらしかった。
大いに現地事情を申し上げるべしと張り切る方なるべし。
東条・近衛を会食に呼んだこと、「どういうのか」と御尋ねだった。
政治に関することなら知らずにおれぬという御気持なるべし。
皇族はでしゃばるなという御気持もあるべし。
2月22日
昨年昭和皇后へ五宮〔秩父宮・高松宮・三笠宮・北白川宮・東久邇宮〕より御誕辰に上げる扇面型文庫あまり音沙汰ないので伺ったら、注文するのを忘れていたらしくこれからという話。
それで注文したらしいので御価を入江相政事務官に聞いたら、注文したがわからぬという話。
いよいよノンキなことなり。
高価らしく今年の分もそれに一緒にすることになる。
4月19日
連合艦隊司令長官山本五十六遭難の電報を見てぼんやりとなる。
一部長わざわざ残念なことなりと挨拶される。
総長、午前上奏す。
好んで連合艦隊司令長官が死地に至る時機ではなかったが、軽挙なりということではない。
喜ぶべきこととは考えられぬが、無駄なこととは言えぬ。
主将ことに山本大将の統率力から見て犬死にはならぬ。
5月3日
木阪義胤中佐、明日赴任す。
支那事変以来戦争に参加せぬのは、全海軍の中で木阪氏と私とただ二人なり。
これで本当の一人になったわけなり。
技術関係者はそれでよいが、作戦統率関係で戦争に行かぬとはでくの坊ということなり。
物も言えぬことなり。
極めて憂鬱なり。
出発の挨拶をされて思わず涙ぐむ。
この気持ちわかる人はまた木阪氏のみなるべし。
5月6日
ドイツ語の稽古。
5月8日
《皇族会議の件》
久邇宮徳彦王〔龍田徳彦伯爵となる〕については臣籍降下して伯爵ということには問題なきも、賜金100万円より少なくしては如何との考えもありしが、さてその時期になるとやはり100万円ということになれり。
私としては先に久邇宮家彦王〔宇治家彦伯爵となる〕の時にも問題ありしが、今回も100万円という額が多すぎて皇室財政上の困難ありと言うならばこれを減ずるに差し支えなきも、久邇宮多嘉王〔徳彦王&家彦王の父〕が降下されるべきものをされなかったのだからという考え方には不賛成にて、降下されるその方の直接に必要によるものとして考うべきなりと述べておけり。
《賀陽宮恒憲王の件》
名古屋の師団長に赴かれる時 陸軍関係では自分の知っている者を集めて張り切って行かれし趣なるところ、内大臣木戸幸一に「愛知県知事雪沢千代治ならびに愛知県官房長山田武雄は良くないから交代せしめよ」と注文されて困らせて行かれたが、官房長は原信次郎に代えたが、知事についてもその後も大蔵大臣賀屋興宣にも言われし由。
新内務大臣安藤紀三郎は直ちにはできぬ旨申し上げる由。
宮内省としては内務大臣の決心に対してなお皇族として言われることになれば間に入るべきなるも、いまだ関係すべきであるまいと考えを述べておく。
《東伏見邦英伯爵〔元久邇宮邦英王〕の件》
比叡山真言宗管長のことは元久邇宮属なりし飯田というもの京都にあり真言宗宗務に関係あるとかにて、その策動にて得度する要なくてとて東伏見伯爵に申し入れ、彼は昭和皇后の弟宮なりしとのことで宗会議等の関係を丸め得るとでも簡単に考えたるか。
東伏見伯爵も歴史研究にも便なりくらいにて、東伏見大妃〔養母東伏見宮周子妃〕・久邇大妃〔実母久邇宮俔子妃〕に話あり、別に反対もされなかったとのことにて新聞に出たわけにて、得度することに東伏見伯爵は大反対とのことなり。
本願寺の者は「昔は叡山と奈良から妻帯することについて盛んに攻撃されたるに、今度は真言宗の管長から妻帯することになるとは面白いこと」と言っている由。
〔東伏見邦英伯爵はすでに妻子持ち〕
文部省では管長は、
●徳のある者
●得度すること
などを条件と考えある由にて、宗務会議等にて改訂をしてもその点文部省で許可せざるべし。
ただ例の官僚的に申し出なければ、意志を表明せざる態度は不適当なことである。
星島は先に3年の執行猶予なりしも、相変わらず東伏見伯爵の身辺にあり。
他に人もなきらしく、今回のことには直接関係は無いようなり。
5月15日
照宮〔照宮成子内親王〕御婚約につき参内。
内謁見所にて両陛下・照宮御揃いにて御祝を御受あり。
御祝酒・サンドイッチ出る。
5月16日
秩父宮、だいぶおよろしき由なるも、御起きになるほどにはならず。
少し痰余計に出る様子。
5月22日
昨日連合艦隊司令長官山本五十六、戦死発表あり。
今朝の新聞に大々的に出る。
知ってることだからなんともないのだが、車中で見た新聞 置き捨てにしがたい気持ちにて鞄に入れた。
おそらく他の人だったらこのように心動くことはあるまい。
海軍として大損失と言えよう。
また世の人にとってもなんとなく惜しむ心を人から人へと伝えて、付け焼き刃ならぬ心の痛みを知ると知らぬとに隔てなき憂いとなるであろう。
亡き人の徳なり。
6月5日
連合艦隊司令長官国葬。
北白川の叔母様〔北白川宮房子妃〕よりお話あり、大臣官邸に場所を用意し、喜久子〔高松宮喜久子妃〕・百合君様〔三笠宮百合子妃〕・東伏見宮おいであり。
先の東郷平八郎の国葬の時もそうだった由。
北白川の叔母様そういうことお好きなり。
涙とまる時なかりし由。
6月16日
先年宮崎県でもらった弓を持ち出して、矢の良いのがないので、弓がけは魚籃坂の弓師にて作ったから、今度は矢というわけで、池田特務大尉が集会所の出入の弓屋に言いつけた。
買うことになる。
4本で25円とはちと高い話だ。
名入りでこれが良いのか悪いのか知らないが、売る方ではこれで値を上げたことになっているのだろう。
6月23日
秩父宮へ寄ってお姉様と話す。
お兄様はかばかしくないので、なんとなくお気になること多き御様子。
6月25日
照宮〔照宮成子内親王〕の御新居拝見に行く。
6月30日
音羽様〔音羽正彦侯爵〕の奥様〔大谷尊由の娘大谷益子〕御病気なりしとのことにて御見舞の件 秩父様と御相談せるも、音羽様は別に女あるらしく、奥様は今まで黙ってきたのだがそれが原因とのことにて、御見舞はもう少し調べてからとなる。
7月13日
近衛の件で東久邇宮稔彦王来談。
近衛から聞いてくれとのことなりとて、
(1)私が近衛をつれて陛下にお話を申し上げようとしているとのことなるも本当か。
(2)私が近衛に会うつもりか。
とのことなり。
(1)は別に心当たりなし。
近衛は自分から会いたいということを馬鹿に気がねしているとのことなり。
7月15日
ドイツ語の稽古。
秩父宮御病状につき遠藤博士の話を聞く。
左肺の鎖骨の上下にわたる部肺尖に空洞あるらしきも、肋膜が厚くなってきてポータブルのレントゲンではよく見えぬ。
昨年夏ごろから左の横隔膜はずっと上へ上がって左乳の辺まできて、心臓も左にずっと寄り、気管も左に寄って、右肺が広がっている。
これは気胸をやったのと同じ結果であって、肋膜の癒着のため気胸ができぬのだが、やったのと同じになっているのは良いわけなり。
病患は左肺の前葉で、後葉はそんなに侵されておらぬと思える。
右肺には最近は異状を認めず。
腹膜と共に警戒注意している。
腸にもなんらの発見しているものなし。
一般と比べて抵抗力が非常に弱いように見受けられる。
下痢はそんなにほどくないので案ずることはない。
治療としては開放療法を根本として推奨する。
そして鼻カタルとか風邪とかになって病状が後戻りするよりも、これで抵抗力をつけることが大切で、零下10度になってもよいという話なり。
それならば秩父宮のやり方は不徹底で、これを唯一と考えるならば効果を期待するに不十分なり。
それに関しても看護婦は日赤の結核療養所経験者でないため開放についても思い切ってやれぬのではないか。
また看護婦がやろうとしても侍女などがなんとなくやり難くする態度あるべきは、私の病気の時から推して察せられる。
病人にとって看護婦は極めて大切なる存在なれば、医者と気脈をよく通う者で思う通り病人を扱えなくてはならぬ。
それで病人も安心できるわけなりと語る。
一度療養所見学せしめること考えしも、遠慮にて実行せざりし由。
セファランチンにつきては効ナシとの例のみを挙げて、実用せんとする方に心傾かぬ様子なり。
「医者はどうも新しい療法や薬を排斥するばかりで、協力または採用せんとする努力せざる通弊あり」と言ってやる。
檜や椰子の油については実験したることなしと。
お灸はどうかと言えば、やっても差し支えはないが効くとは思わぬと言う。
あれやこれややるのは、かえってどれも効かぬと病人に療養の信念を失わしていけないとも思えると。
今度の土曜にレントゲンを撮って、それから相談して治療につきても考えるとのこと。
治療としてできることは、肋骨切除・空洞吸出なりと。
これは御殿場ではできぬ。
今すぐ動かすことは考えぬと。
遠藤博士も自分の治病の経験からやはり新しいことはやらぬと言う点も、物足らぬ感なり。
7月18日
プール、今日から使用。
7月22日
朝プールで泳ぐ。
平泉澄博士来邸。
戦局ますます困難となり、どうも東条首相では国民の心を満足して敗勢を挽回することに一致せしめることはできないであろう。
国民はいまだ勝っておるつもりでおる。
今から一生懸命に喜んで努力するように立て直さねばならぬ。
それには皇族が乗り出す時機はすでに来ているであろう。
悪化の情勢に陛下が正しい筋の通った人を側近に有せられることは必要である。
またかかる場合には平凡より癖あるも仕事をする人も必要なり云々と。
往年共産主義思想の風靡せる時は、学生も教授も暴動に際してはいずれに加わるべきか、運転手も宮城があって邪魔で回り道をせねばならぬと言い、天皇を敬うとかいう心なく、考えれば無くてもよいものがあるわけだと言うのが共通であった。
それが今日に至ったのはなんと言っても五一五事件で世人はハッとしたこと、満州事変等々によるのである。
もとよりその当事者は未熟の者でその罪は罪として刑せられて適当であるが、しからば今日まで何事もせず罪せられずにおる者が如何にして彼の思想の危機を打開することに努めたか。
何もしておらぬのである。
かくのごとき経緯に対しては十分に今日の時局と考え合せて、その筋道を明らかにしておらねばならぬ云々。
「最悪の例を取って言えば、無条件降伏となった時にも国民が一致して再興を誓い、臥薪嘗胆するつもりになればようであろう」と話したのに対して、今からも少しでもよいということを努力実現しなくてはならぬ。陸海相互に悪口を言い合うようではならぬと。
「皇族と言えば、私はどうも自信が持てぬ。秩父宮ならばであるが、目下東久邇宮稔彦王は近衛公爵とか他の人と常に接触しておられ、経験も理解もあられるからよいかもしれぬ」と語る。
7月25日
プール、水換えしたら溜まらなくて泳げず。
ムッソリーニ辞任、パドリオ任命を報ず。
畑、ジャガイモ収穫。
種芋5貫にて90貫余獲れた。
7月31日
戦局は困難は増大すべく、国際情勢また有利ならざるは速やかに改善せらるべき予想立たざる時、最悪の場合を考えその処置を案ずるは極めて必要なるなり。
すなわち私としてただちに迷う問題はやはり生か死かの分かれ道にたつことなり。
一つは都にありて陛下の側近にあることにして、一つは戦場に赴きて敵中に突撃することなり。
いずれも国体変革暴動に際し皇位を守るためなり。
敗戦による国民の怨みが天皇に直接向けらるるとせば、私が戦死することによって感情的に慰撫するとともに国民を発奮再起を誓わしむることを得べし。
先の大戦にドイツ崩壊にあたりカイゼルはただちに戦場に赴きて決死せば、ホーエンツォレルンの後嗣を立て得んとする進言の意味に合せんとするなり。
然れども現在の人材においては一抹の不安を国内の死後に残さざるを得ざるものあり。
しかして生きて側近にありて何の重責を負うべきやを思えば、また自らの識量の足らざるを憂うること切なり。
ここに生死の迷いに悩むを如何とせば、死を選ぶのみか。
秩父宮にして些かにても活動し得らるるとせば三年の命を一年につめても国家の危急に応ぜらるべきは明らかなれど、いまだこれをたのむべく体力の快復し給わざるを惜しむ。
三笠宮はあまりに幼稚なり。
数年後に委するに足るべきも、今すぐにものの役に立つとは思えず。
軍人たらんとしてすでに命を保つに専心して今日あり。
政治家たらんとしていまだ機運の熟せざるものあり。
もとより政治に関与するにはまず東久邇宮稔彦王を推さんとするも、他の皇族にして頼むに足る者なき観あり。
竹田宮恒徳王は一臂の力となるべし。
北白川宮永久王はすでになし。
世間、皇族の出でて時局の一環を担うべき機は来れりと言う。
皇族出づとあらば国民は自ら安んじて進むべき道につかんと。
我が国の特徴また存すと言うも、いたずらに甘く考うるは不可なるべし。
天皇親政あるべしと言う。
親政とは如何。
天皇一人にて何をなし給うや。
総理大臣と天皇との間に隔たるものありとの不安も、結局は国民の生活苦ないし戦争遂行の不安に依るべし。
皇族出たりとも親政を疑う心理を解決するとは限らざるべし。
要は総理大臣を信頼すべく国民を指導するにあるべし。
皇族の出づる意味もまたこれを覘うに他ならざるべし。
皇族自ら総理大臣たるにおいても同理なり。
要は官吏の奮発反省を得て一億一心の団結信頼により国運を啓かんとするにあり。
如何にしても敗勢を挽回し勝算を得んとの努力に邁進せんとするにあるべし。
かくては敗戦にも国民の決心動揺することなく、復仇再興の念を堅めしめんとするを得べしと言うも、なお直ちに発動して敗勢を転じて必勝の念に不動心を確固にせんと言うなるべし。
少しでもよければ皇族立つべきに疑いなきも、軽率にしてかえって親政の実を乱し、思想戦の遅れを取るがごときは慎むべきなり。
なんとなれば皇族の立つは主として精神作興にして、これをもって国民の物質生活を恵まんとするにあらざればなり。
8月1日
照宮〔照宮成子内親王〕より喜久子に電話にて、プールの御相手に来ぬかとのことで吹上に参る。
一時間泳ぐ。
昭和皇后も今年初めてお入りになる。
8月4日
朝、プールで泳ぐ。
8月11日
遠藤博士に秩父宮のレントゲン写真を見せてもらう。
左胸ほとんど白くなってわからぬ。
空洞あるらしいという程度。
絶対安静・大気療法で行くこと。
手術はやらぬ。
8月16日
泳がず。
ローマ、非武装都市宣言。
8月17日
東久邇宮稔彦王来邸。
近衛より「幣原喜重郎の話を聞いたらよい」との伝言を伝えらる。
電話でもよさそうなものなり。
8月27日
三笠宮別当厚東篤太郎より、百合君〔三笠宮百合子妃〕おめでた二カ月とのこと。
8月29日
ブルガリア国王ボリス3世崩ず。
よい王様だった。
枯れた盆栽を日本のだとて飾ってあったので、後から活きのよいのを送った。
8月31日
かぼちゃ収穫。
デンマーク国王クリスチャン10世軟禁せられ、デンマーク海軍艦艇60隻自沈せりと。
国王は海軍好きにて海軍を訓育建設されたのを考えれば、感深し。
デンマーク国王には好感深し、大事なきことを祈る。
9月5日
芝生を畑にする縄張りを見たり、稗の穂をつんだり、小豆つんだりする。
小豆二度つんだので、あとは刈るだけ。
9月9日
イタリア無条件降伏。
夜中の放送でイタリア無条件降伏せりと。
誰もがイタリア脱落は通念になっていたのに、あれよあれよと呆れるばかりなり。
失敗なり。
在ローマ武官光延東洋は8日朝、ナポリ南方に敵船団ありとの情報交換を発電している。
馬鹿にされた話なり。
9月22日
留守中に庭の畑、荒起し完了す。
9月26日
芝生を打ち起したりす。
手の皮薄く、長くやれぬ。
10月4日
かぼちゃの残り収穫。
10月13日
賢所で大前儀参列〔東久邇宮盛厚王&照宮成子内親王の婚儀〕
盛様〔東久邇宮盛厚王〕余裕しゃくしゃくとして現わる。
照宮〔照宮成子内親王〕美しく愛らしく見ゆ。
盛様御簾を出て縁の角にて振り返り、照宮の出てこられるのを見返した形、誠に優に優しい男ぶりなり。
照宮にこやかにて、さすがに朝は涙のあとも伺われたが、午後はあどけなく見ゆ。
盛様も無邪気、よき御夫婦、永く御幸福なれと祈る心地す。
10月23日
内原満蒙開拓青少年義勇軍訓練所生徒5名来り耕作、小麦まく。
10月24日
内原満蒙開拓青少年義勇軍訓練所生徒来邸、広芝の芋掘る。
558貫なり。
200貫貯蔵す。
11月2日
お姉様〔秩父宮勢津子妃〕より新服装〔宮中服〕につき御説明申し上ぐ。
喜久子、着て御覧に入れる。
11月7日
明治神宮錬成大会中央大会。
安南留学生の入場の時 仏印の札を持たせたところ、予行の時から安南と書けとていざこざありしも、大東亜省の意見とかにて仏印のまま無理に持たせたが、私の前に来たら札を返還するような形になって置いて行ってしまった。
その時はなにごとかと思ったが、以上の経緯あり。
なるほど、大東亜と言いつつ仏印か安南かのけものにしていたことなり。
大いに注意すべきことなり。
11月9日
久しぶりに肛門にイボが出る。
ボラギノールを入れる。
11月14日
満州建国大学、本年初めての卒業生を出す。
尾高亀蔵中将・安倍教授に聞く。
日・鮮人の一致せること実に目覚まし。
鮮人の和田教授の影響大なり。
満人はこれに次ぐ。
蒙古人は日本人的なり。
白系ロシア人は劣る。
11月17日
柿、収穫。
11月18日
サツマイモ・ジャガイモ収穫。
11月21日
カラスウリ至るところに赤くなっている。
収穫す。
11月22日
カイロ会議、ルーズベルト・チャーチル・蒋介石。
落花生収穫、9斗3升。
11月29日
宗秩寮総裁武者小路公共来談。
蜂須賀正氏侯爵、礼遇停止の件。
12月1日
テヘラン会議、ルーズベルト・チャーチル・スターリン。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』
1944年1月14日
《東伏見邦英伯爵の管長問題》
文部省ははじめから俗人に修行なき人には許さずと言うも、態度極めて消極的なり。
最近得度して僧籍に入るとの考えを持ち、そうすれば管長になれるとの見方をしておられる。
本年になりてより久邇宮朝融王〔東伏見邦英伯爵の兄〕に珍しく面会、その話をされし由。
朝融王は「どうせなっても失敗するであろうからやらせてみよう」との考えの由。
宮内省としてはとめたいが下手にとめだてすると、「東伏見宮の祭祀を継がぬ」と申し出られるのを恐れる。
先の場合にもそういう脅しを用いられた。
東伏見宮大妃〔東伏見宮周子妃〕にしてみれば最も重大なることにて、昨年これも珍しく東伏見宮が法隆寺を自ら案内されたのをひどく喜ばれて、宮内大臣松平恒雄・宗秩寮総裁を食事に召したというくらいのこともあり。
僧籍に入ることを望まれぬが、これは絶対ということでないので仕方なしとも考えられようが、祭祀のことになると大問題で大妃殿下のもっとも痛心されることになり、松平宮相もこの点を考えねばならぬ立場にあり。
管長就任に関しては叡山側もこれで世襲の管長を叡山に置けるという考え。
青蓮院〔天台宗門跡寺院〕ではそれで収入も増すであろうという考え。
上野〔天台宗寛永寺〕では京都久邇宮邸を住居とされよう、そしていずれは東京の移られて上野に来れようというなどの、それぞれの考えで賛成している。
黒幕たる星島・飯田はすでに運動金を消費しているとか。
管長になれば年10万円はもらえよう等、就任のためには100万円も用いられよう等の考えあり。
結局現在ではやはり文部省から速やかに、時局も考えかかる管長は許さぬ方針をそれぞれに示達するを適当とすべしとの所見を宗秩寮総裁に語る。
2月4日
音羽様〔音羽正彦侯爵1944年2月6日戦死公表〕大島島へ行かれ危ないからとて第六根拠地隊参謀に代えたところ、こっちが先に敵の上陸するところとなり変なことになる。
もちろん私は一人ぐらい本当の戦死〔皇族の戦死・音羽正彦は元朝香宮正彦王〕あった方が良いと思ってはいるが。
2月16日
東宮伝育官石川岩吉来談。
平泉澄博士の話にて、時局まことに心痛、いよいよ皇族内閣出現の要ありとの感深し等々。
それにつきその段取りを聞きしに、昭和陛下の思召によるといった考えなりと。
皇族が政治に関せずとて責任を逃れる要はなきも、いたずらに出てみたところで何ができるかとの考えかわりなし。
2月18日
軍令部。
海軍大臣に話す。
「私の保身の時にあらず、戦死するべき時ならずや」
いまだしからずと言う。
「海軍の最後的努力すべき時なり。大臣または総長交代して活を入れ直すべきでないか」
目途が無いのに辞するわけにゆかぬ、信念として悲観した顔・言葉は表さぬとて、なお最後的段階に立ち至り大臣の能力及ばざることに気づかぬようなり。
2月20日
私の銅像三つあるのを壊す。〔金属供出〕
2月21日
伏見宮熱海より御帰京、来邸。
昨日の手紙の件のお話、嶋田大将御信任ありて辞めさせるよう言えぬ、私から昭和陛下に申し上げるようにでもすればともかくとのこと。
2月26日
東久邇宮稔彦王より電話にて、朝香様〔朝香宮鳩彦王〕より音羽様〔戦死した音羽正彦侯爵・元朝香宮正彦王〕に菊花章を賜るわけにいかぬかとの話ありて宮内省に話しせるところ、宮内大臣も不賛成の由につき、朝香様にお話ありしに、私にもう一度話をしてみてもらえとのことなりと。
直ちに宗秩寮総裁武者小路公共に電話し、東様のお話を知らぬ態ににて相談せるも、宮内省に誰も菊花章に賛意を表する者なく、御降下の方として別の方法にて何かする工夫をするつもりとのこと。
もう一度私の意見ありしを宮内大臣に取り次ぐように言う。
2月27日
北白川の叔母様〔北白川宮房子妃〕より話あり。
音羽様のことにて、朝香様よりお話あり、なんとかならぬかとのこと。
私としても皇族が皇族として特別に受け得ることならともかく、一般の行賞をもじって無理をするようになるのは面白くないが、なんとか宮内省に申しましょうと約す。
公爵〔侯爵から公爵への格上げ〕も一案なるべしと言う。
2月28日
東宮様の御教育に関しては、かえって万世一系という国体に心易しとするためか、関心足らざるを感ず。
はるかに外国の国王・皇帝の後嗣の教育は直ちに皇室の存続の問題として本能的に考えられ、自他ともに熱心に厳格適切に行わるるにあらずや。
今時局の困難に直面し将来如何なる事態となるも、いよいよ天皇の御素質・英明にまつこと大なるを思えば、いまだ幼き東宮様の御身の上には実に容易ならぬ御苦労を願わざるを得ざるなり。
この意味でも速やかに成年の教育を受けしめ、一日も早く天皇として人格を備えらるるよう努めざるべからず。
3月1日
平泉澄博士。
いよいよ私の立つべき時機に立ち至れり。
ラバウルの全軍見殺し、空襲時の暴動化、今にして誠ある政治をもって戦力を全能発揮し、戦争目的を更めて宣戦詔書に基づきて明らかにし、戦争結着に持ってゆく必要あり云々。
3月3日
《東伏見邦英伯爵の管長問題》
その後文部省からインチキな得度では許さぬ旨、宗務当局者に強く話たるところ止めとなる。
東伏見伯爵も断念したとか。
それにつけても星島は磯子に常住し特別の配給として白米・玉子・肉等を警察から、それが受けなくなったので経済部から受けて、しかも代金も払わず、東伏見伯爵が月の半分は京都なのを一カ月分取って、なにかと言うと皇族出をふりまわし、量も皇族以上とか。
神奈川県知事近藤壌太郎も警察に出すなと言って止まったと思って知らずにいたり。
笑い話以上なりと。
3月4日
宮内大臣松平恒雄・宗秩寮総裁武者小路公共。
音羽様〔戦死した音羽正彦侯爵・元朝香宮正彦王〕に対し菊花章・公爵等の御沙汰願えぬかとの研究、いずれもできぬとのこと。
御沙汰御使も難しい。
結局何もできぬという話なり。
伏見博英伯爵〔戦死・元伏見宮博英王〕との釣り合いを言うも、伏見伯爵の金鵄章が特別の異例なるため、それは違うは当然と言うも、まず皇族出の者として特別でない方が感じがよいとのことを考えてもおるらしく、仕方なしとなる。
3月5日
喜久子2~3日胃の具合悪くあまり食べず。
ヒステリー気味なり。
3月11日
平泉澄博士が近衛公爵に、私が総長大臣兼任に対して大いに怒っているとの話をせる由。
私は怒っておらず、かえってそれもよいと思っている。
3月29日
叡山の問題が一段落して、残るは村雲日浄門跡〔仙石政敬子爵の実娘仙石温子/九条道実公爵の養女九条温子〕の話。
日浄尼の戦地への慰問文を見た兵隊(それもセックス的な乗ずべきものありと見てとると、所を書いておいて帰還する時の相手にしようとしていた)の選に入って、その兵隊の訪問を受け秘書に採用、今までの尼さんの執事を追い出してどこへでも連れて歩いている。
その兵隊はこれも同じ手で手に入れたのかすでに細君あり。
先の尼公〔村雲日栄〕の時から寺内の経済の乱れもあり後援会のいざこざもあり、寺の宝物・経済に手をつけられても困るし、こんな話もだいぶ京都で話題として賑わっているので、宗秩寮総裁武者小路公共が侍従武官の口を通して陸軍で再びその兵隊を召集さして南方に出すことになったが、船が出ないとかで依然として伏見の連隊におって休日にはちゃんと面会しているとか。
最近村雲日浄が上京し、大正皇太后〔貞明皇后〕と昭和皇后〔香淳皇后〕に御対面を願った。
大宮御所では知らないからすらすらと拝謁したが、皇后宮大夫広幡忠隆は知っていたので拝謁を止めていたので、両方がちぐはぐになってその訳を昭和皇后に申し上げなくてはならぬということになり、また広幡大夫足を痛めて休んでいるので武者小路総裁と電話でしきりにその話をしている由。
4月3日
山本英輔大将・内山智照同伴。
(言霊学、四国剣山の件)
4月12日
大学校に行き、寺本武治少将に黙示録・言霊学・四国剣山のことを尋ね、やはり後援したり勉強する必要もなしと思う。
三笠宮来邸。
〔出産予定の第一子の〕お誕生の名として「甯」とする。
ただし「ヤス」「サダ」なれば、男なら「サダ」女なら「ヤス」として、大正皇太后〔貞明皇后〕〔サダコ〕お兄様〔ヤスヒト〕と同じにならぬようにするつもりと。
支那の字なり。
不賛成とも言えぬ。
よかろうと言う。
4月23日
音羽様〔戦死した音羽正彦侯爵・元朝香宮正彦王〕英霊の箱には写真一枚入りしのみなり。
朝香の叔父様〔朝香宮鳩彦王〕は何も入っておらぬだろうとは思いしも、やはりなんにも入っていなかったとてガッカリなさって見えた。
ガダルカナル島戦死者等にて何もなく、現地の慰霊祭の供物と思われるバナナの皮等を入れあるものあり。
地方新聞にてこれを家族の人が怒らぬようにとの記事ありしこともありしが、そのつもりで考えれば写真一枚はいっそうつまらなく思う人もあるべし。
英霊の箱にはあらためて臍緒・歯など収めた。
例の通り〈南無阿弥陀仏〉を書いて8枚収む。
叔父様はお題目より〈七生報国〉とかそういった文句がよいとて、その場で書く方はそれぞれそうした句になる。
進級したので少佐の襟章と金鵄章二つになった略綬とを収む。
別に小箱を埋められるというので、それに襦袢とか足袋とか杖の型など入れた。
叔父様は英米に斃されたのだから、シャツなど英米の物は入れてやりたくないとのお気持だった。
小さい箱だったが割に入って、ネクタイも入った。
伏見博英伯爵〔戦死した元伏見宮博英王〕の時は少し大きな箱で雑誌等も入れた由。
伏見伯爵の遺骨は音羽様が横須賀から首にかけて、その時「重かった。感慨無量なり」との話ありし由。
叔父様のお話なり。
4月24日
三笠宮沼津にて百合君産気づけりとて、夕刻沼津へ行く。
少し変なり。
わざわざ行くことはあるまいに。
5月3日
徳川義親侯爵。
帰朝してみて陸軍の人に会って、どうなるのだろうと投げているのを見ていよいよ寝て夢心地にて、皇族が総理大臣になるのではなく打開の道をつけるために積極的に働いてもらう時と考える。
重臣も手をあげている云々。
5月4日
三笠宮、〔第一子の〕命名の御礼にとて来邸。
ちと変なり。
5月17日
秩父宮、ひどくおだるく、息苦し、召し上れぬのでブドウ糖2注射・強心剤2注射。
流感の気味、肺炎菌を認む。
5月18日
秩父宮御容態。
遠藤繫清博士拝診、レントゲンを撮り自然気胸のための呼吸困難と判明、吐き気もそのためと認めらる。
原因わかり一安心の御様子。
お姉様一人で御心配にて、電話かけて私にお知らせになるだけでも気軽になれる御気持ちなり。
5月19日
木更津航空隊着。
さすがに暖かき地なり。
ここまで来ると女の子の顔丸く血色よく愛情ある顔 多くなる。
そのわりに大人の女の顔は平凡。
5月23日
秩父宮少しお楽になり、御食気も回復せり。
御熱上下あり、一時腎盂炎の疑いありしもそうでなしと。
肋膜炎はなにぶん自然気胸にて、汚れた空気が胸腔にたまったので化膿の心配はある由。
寺尾殿治博士泊まり込みなり。
5月27日
内原満蒙開拓青少年義勇軍訓練所生徒4名来邸、イモ植え付け準備。
5月28日
内原満蒙開拓青少年義勇軍訓練所生徒引き続き作業。
5月30日
内原満蒙開拓青少年義勇軍訓練所生徒、午後引き上ぐ。
6月22日
御所、御都合うかがい参る。
サイパンを失うことの重大に関して一言申し上ぐ。
あとつけたりにて「皇族を何にか御相談相手になさる御思召なきや」伺いしところ、
「政治には責任あったからできぬ」
「統率の方も責任あるべし、結局お頼りになる者なしとのことでしょうか」
「それは語弊あり」云々。
相変わらずにて落胆す。
6月24日
親睦会。
会食後談がサイパンのことになり、朝香様〔朝香宮鳩彦王〕は「奪回作戦を強行せねば、あと目算なし」、東様〔東久邇宮稔彦王〕は「成算なき奪回はやらぬ。あとなんとかなるかもしれぬ」
午後昭和陛下に「元帥会議は形式的なものである。準備期間もない。しかもそれは統帥系統のもので、戦争指導上もっと深く考えをめぐらす上で決定さるべき」旨 手紙を書き、「御苦心遊ばすべきと思う」と書いたが、とうとう差し出さずに止めてしまった。
6月25日
昨日の手紙、やはり差し上ぐ。
6月26日
御所、御二階にて昨日の手紙のこと。
「元帥会議上奏御決定のことなれば、ひっくり返すことなし」との御話あり。
「ひっくり返すにあらず、サイパン確保と言い実行せざるままに問題あり」云々から、
「しつこい」と言うことであった。
7月5日
秩父宮へ行き、作戦の見通しなく国内結束第一重大なること、陛下が依然形式的なること等、よさそうならお兄様に申し上げてほしいと言っておく。
7月7日
内大臣・宮内大臣・侍従長と会食。
昭和陛下の修養の御相手必要とすること、御健康には錬成の意味にて強制・克己の御運動が必要なること、組織の乱れた時の御覚悟として御注意を申し上ぐる要あること等話す。
7月8日
陛下の御性質上、組織が動いている時は邪なことがお嫌いなれば筋を通すという潔癖は長所でいらっしゃるが、組織が本当の作用をしなくなった時はどうにもならぬ短所となってしまう。
今後の難局にはその短所が大きく害をなすと心配されるので、そうした時の御心構えなり御処置につき今からお考えを正し準備する要あり。
すなわち精神上の師となる人をおつけすることが必要であるとの話をした。
昭和陛下は筋を踏み外すことがまったくお嫌いなため、内大臣は政治・武官長は軍事・宮内大臣は宮中関係・侍従長には側近のことというふうにまったくそれから少しでも出たことを申し上げれば御気色悪く、自らも決しておおせにならぬ。
侍従長も初めは何事にもついて申し上げるつもりだったが、これはできなくなった。
もちろん二二六事件等の例により侍従長と内大臣を撃たれたということは、大きな衝動としてますますその区別を立てることによりかかることなきようにとの御気持を強くしてしまった。
内大臣はまったくありがたい御気持とは思うが、あまりに極端であるとは感じあり。
先日伏見宮が海軍大臣を代える件につき申し上げられた時も、内大臣に「内閣の更迭は困る。御思召によるとなっては困る」とおおせられたが、伏見宮の御話にありしことなり。
したがって御修養の師たるべき者が得られても自然それが具体的な政治問題に触れたら、かえって御不興をもって一度でお近づけにならなくなるであろうとは皆の考えなり。
そうしたお考えが甚だ困るので、それを改めなくてはならぬ。
内閣の組織更迭はしばしば御経験あるも、それを各種の情況の下に分析的に御認めになることなく、一つの結果だけを経験として前例にされるところも政治性なき御性質なり。
なにしろ今日のごとき憲法〃〃とおっしゃっても、その運用が大切なる時に今のような有り様では、例え天皇として上お一人でも万世一系の一つの繋がりとして、それではあまりに個人的すぎると思う。
7月16日
侍従長。
このあいだ私が何を申し上げたか知らぬが、あとでだいぶ御興奮になっていた。
御性質もあり重大なことを申し上げた時お聞きになるよう、あまり小さなことで御耳をふさぐよう仕向けぬ方がよいだろう云々。
7月26日
山本英輔大将。
四国剣山の件、帝大の考古学の先生などの方から価値ありとなれば、やれと声を掛けよいがと言っておく。
7月29日
平泉澄博士の弟子島田東助少佐。
総参謀長を置き統帥を強化して、私にそれになれと言う。
皇族がなることまでは同意だが、私という点は同意できぬと言っておく。
8月5日
今夏初めてプール水換、泳いでみる。
8月9日
北白川の叔母様〔北白川宮房子妃〕来邸。
7月7日に御所に上って昭和陛下にこと時局重大な時 昭和陛下も本当に御自身でなさる思召大切というようなこと申し上げしに、昭和陛下は「どうにもならぬのだ」とて、例のような少し工作するとつまづくと言ったという御話ありしと。
情けないことだ。
どうして平時とこの危機との区別がおつけになれぬのか。
8月11日
喜久子、昭和皇后に例の新しき服装の件〔宮中服〕申し上ぐ。
昭和陛下宮内大臣に新服には反対だと御興奮なりしも、松平宮相これは思召とも伺えず、主旨に御賛成とのことで進めておった云々と申し上げ好転せしめた由。
昭和陛下の御興奮も困ったものなり。
困ったぐらいでこの重大時局をどうしたらよいか、ほとほと安き時もなき思いなり。
どうしたらよいのだろう。
8月20日
御殿場へ。
秩父様、幾分お痩せなるも気先甚だ良く進んでお話になる。
8月21日
喜久子と大宮御所へ。
できたての唐衣〔宮中服の一種〕御覧に入る。
10月6日
宮中婦人新装〔宮中服〕発表まで進んだので、お姉様と喜久子とで大臣・時間・式部次長武井守成・式部課長坊城俊良・皇太后宮御用掛山中貞子を呼んで慰労会食。
12月7日
0130~0240空襲警報。
初めてウチの防空壕に入る。
12月17日
今日も空襲なし。
こうなると少し変なり。
これも神経戦なり。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』
1945年1月20日
18日喜久子大宮御所に上りし節、時局なんとしてもよいと思えぬ、宮内省に人なく何もさせぬから歌に詠んで神様に願ってばかりおるが、どうかして予告などせず本当に働いている人々のところにスーッと行って一言でも言葉をかけたらと思う、今ならそれが効果あると考えるが先にはそれも意味ないことになるであろう、自分はこのごろ特に身体に気をつけて以前よりも早くも寝るし大切にしておる、どんなに人が死んでも最後まで生きて神様に祈る心である云々。
この趣、宮内大臣・次官・総裁に話すよう、明日それぞれを呼ぶことにしておいた。
1月26日
京都。
仁和寺の隣の近衛公爵の陽明文庫に行く。
東大田山教授説明。
前田侯爵未亡人〔前田菊子〕ミイ子〔前田美意子〕水谷川夫人〔水谷川正子〕三井弁蔵夫人〔三井栄子〕近衛母堂〔近衛貞子〕・近衛夫人〔近衛千代子〕
2月6日
久しぶりに内大臣と話した。
別にまとまったことなし。
昭和陛下に時局収拾の胸算おありのようかと尋ねたが、別にないらしかった。
昨日内匠頭岡本愛祐子が、外務大臣が拝謁の後で大いに喜んで日本は神風が吹くと言ったとか、満州事変のころの昭和陛下の御心痛と昨今の御様子とを比べて何か見通しがおありになるなからん等 言っていたので。
2月11日
細川護貞。
木戸が内大臣では駄目だということ等々。
大宮御所。
あまり御無沙汰していたので、先日喜久子が上がった時に少し御不満な御話だったとか。
三笠宮御二方も。
2月15日(青森県滞在)
風邪の気分良からず、スキーに出かける気にならず。
2月16日(青森県滞在)
午後スキー。
2月17日(青森県滞在)
午後スキーに行く。
2月21日(青森県滞在)
午後スキー。
2月22日(青森県滞在)
尻内付近で雪の原の街道にただ一人の通りがかりの壮年者が立ち止まって私の車に礼をしていく。
つれだった生徒ら随所に車に礼をする姿を見る。
感激の心にじむ。
この国民をスペインのアルフォンソ国王の自動車に等しく立ち止まって礼をしたスペイン国民が、まもなく革命の君臣たらしめたと同じに考えられぬ。
同じにしてはならぬ。
2月25日
宮城にて午餐お招きのところ、空襲予想にて今朝お断りす。
御召は三笠宮・東久邇宮稔彦王・賀陽宮恒憲王。
ちょっとめずらしい結構なことと思っていたのに惜しいことをした。
東京より電話。
宮城・大宮御所に始めて爆弾投下。
三陛下御安泰。
大正皇太后〔貞明皇后〕は少し耳におこたえたとのこと。
秩父宮の御庭に一弾落ちたとのこと。
神田方面大火災となる。
2月27日
御所で侍従長藤田尚徳が出て来たから、「たまには宮城に爆弾が落ちるのも、陛下が戦場の中にいらっしゃることになって結構なことだ」と語っておく。
あまりに側近が戦時体制にならぬのがよくない。
1945年3月1日
秩父宮、少将に御進級。
先年は御病中にてどうしても御進級おいやとのことなりしをもってどうかと伺ったが、今度はそれほどでもないようなので、三笠宮と合同にて御祝として千疋あげる。
別に少し花を添える。
3月9日
夜半よりB29の逐次焼夷弾攻撃。
おりから強風にて各所炎焔、明るく天にうつる。
伊達宗彰侯爵邸の大建物焼け、火の粉庭に振る。
北風にてウチの方にはあまりかからず。
君塚町よりの棕櫚の葉や枯れ枝に少し燃え移る。
0230空襲は終わるも、火災やまず。
0430また寝る。
3月10日
宮城に御機嫌伺いに行く。
板倉坂下から神谷町の両側焼け、慈恵会の前まで延焼。
司法省全焼。
宮内大臣松平恒雄も焼け出されたとのこと。
賀陽宮全焼、山階宮一部焼けた。
賀陽宮は宮内省第二期庁舎に御避難。
山階宮武彦王は山階芳麿侯爵邸へ一時避難。
東久邇宮官舎燃えたが無事。
照宮〔照宮成子内親王〕午後男子御出生。
3月16日
長官邸のベランダにて日向ぼっこ。
日光の温度を十二分に享楽す。
罰が当たりそうな気持だった。
3月21日
これならよかろうと、伊勢神宮に官吏、国民の一部の開戦以来の怠慢をお詫びして今後の祈願を遊ばす、三笠宮か私が御内示を受けて参籠参拝すること如何と手紙書く。
3月24日
御所よりの御返事。
前提条件には議論あるも本論には賛成だから、実行につき宮内大臣と協議せよとのことなり。
前提条件のいかなることに御不賛成か不明。
3月25日
御所へ。
伊勢の件もし私へ御命じになるならば、前提条件の御議論ある点をとくと承らなくては、私として行くのではないから神を偽ることとなり一大事と考えるので、その時は御召をいただきたくあらかじめお願いする旨、再び手紙で申し上ぐ。
宮内大臣・次官・総裁。
伊勢御祈願の件大臣に相談せよとのことにつき話す。
研究の上は直接陛下に申し上ぐるよう話す。
1945年4月1日
高松宮元老女小山トミ、少し頭がおかしく、嫁いじめ、他人から物を欲しがりおかしき由。
4月5日
宮城へ。
伊勢参拝の御告文いただく。
その節先日の手紙の前提条件の御議論につき伺いしところ、
「責任をとって辞めないと言うが、責任は感じている」とのこと。
「私の言うのは辞めることではなく、例えば官吏が高級飲食店閉鎖後も酒や肴を手に入れて飲んだりするのは責任を感じぬことである」と言えば、
「そんな小さなことはどうでもよい。要するに戦争がうまく行かぬ、国際関係がよく行かぬ、内政上にも面白くないことがあるという莫としたこと。そして今後戦局が良くなるようにと言うだけでよい」とのこと。
また例の通り同じことを繰り返しになり、
「神様にはそれでよいでしょうが、私には飲み込めぬ」と言えば、
「それ以上は考えが違えば、やめてもらうより仕方なし」とのこと。
「それでは私は御遠慮いたしましょうか」と言ったが、あまりこれを押してもつまらぬことで閉居するに至るよりないので、それではいっそうよくないと思いお受けした。
4月12日
参内。
伊勢に行った御慰労の意味もあり夕食に御招きいただく。
また余計なことを言うと思召と悪いから、言うのはまたのこととして極力黙っていた。
どうも困ったことなり。
4月14日
昨夜2300から警報で多数機が北上中というので、とうとうそれから京浜地区空襲となり0400まで起こされてしまった。
0430事務官より電話にて、三陛下御安泰 各宮無事なるも、宮城一部・大宮御所一部・山階宮全焼の由。
山階宮ほとんど着の身着のままの由、和服等一揃あげることにして三笠宮で打ち合す。
秩父宮で新しき御召ある由、それを出していただく。
三笠宮ではシャツ類 出せる由。
4月15日
昨夜の空襲にて、内大臣木戸幸一の私邸・農商大臣石黒忠篤・浅野長武侯爵・葛城茂麿伯爵・内匠頭岩波武信・保科正昭子爵など方々全焼。
明治神宮御本殿も焼けしも、御神体は御無事なりし由。
大宮御所も庭の芝に焼夷弾が百数十発落ちて大騒ぎなりし由。
2200より0130東京ついで横浜火災を望見。
木更津方面で十数機火を発し墜落するを認む。
東海道線・横須賀線不通となる。
4月16日
昨日の空襲にて東久邇宮邸全焼せり。
東久邇様〔東久邇宮稔彦王〕鳥居坂〔息子東久邇宮盛厚王邸〕に移るのはイヤだとて、お庭の防空壕にがんばってらっしゃる由。
叔母様〔東久邇宮聡子妃〕と照宮〔東久邇宮成子妃〕は昨日伊香保にいらした後のことなり。
4月19日
鶴見より大井あたりまで鉄道の両側あますなく焼野原となる。
明治製菓と隣の日本電気とは建物あるも中は焼けた様子なり。
その他はすべて鉄骨のみ。
それも曲がり焼けただれている。
蒲田駅もすっかり焼け落ちたり。
三笠宮。
閑院宮春仁王より元帥様〔閑院宮載仁親王〕万一の場合火葬にしたいとの話ありしとのこと。
私の考えとして火葬は好ましくない。
御葬儀までの間の空襲等の懸念は、小田原別邸でお祀りなさって自動車ですぐにお墓へ行けばよいではないかと話す。
御殿場にも伺うとのことなりき。
1945年5月1日
ヒトラー死亡。
5月2日
白金の密輸で蜂須賀正氏侯爵と高辻正長子爵が検挙された記事、新聞に出づ。
高辻がリュックサックにて持ち出すを満州安東で捕まった。
高辻のは御紋付の時計もあり、蜂須賀のは外国の貨幣にて外国のもので儲けようというのがまた悪いと司法側で言う由。
いかにもこの戦時中上層者が悪いことをすると言わぬばかりで、これはかえって赤化宣伝の手伝いのような考えなり。
外国貨幣で儲けるのはかえって良さそうなものを、いっそう良くないと言うのは個人主義的ならずや。
5月8日
ドイツ降伏調印、開戦5年8月6日なり。
麦が穂を出した。
一昨年も麦をまいて、これが獲れるまで無事か思った。
昨年も畑を見て、いつまで続けられるかと考えた。
今も庭の美しさ・草・木の育つを見て、いよいよ来年と言わず秋はどうなるかとやはり寂しさに堪えぬ。
道真の「東風吹かば」の歌がしみじみと想われる。
5月11日
宗秩寮総裁武者小路公共。
閑院宮載仁親王衰弱、万一のことにつき相談。
●国葬となるべきも、時間と取らぬため皇族の参列2人にすること。
●陛下特に御補導の恩を思召され御なりの思召なければ御なり無きを可とす。
●ならば、葬列は自動車にて豊島岡に行くこととなるも、道は宮城前を通りどこかで陛下が御見送りなさることはよろしからん。
●四日ぐらいしていったん東京本邸にお帰り、一夜置きて御葬儀とす。
5月17日
宮内大臣松平恒雄・白根次官・武者小路公共総裁・皇太后宮大夫大谷正男食事して、敵が関東に上陸して来た場合、陛下が御移になる場合の準備を計画する要ある旨話す。
やはり大本営のことは統帥部で主動するべきなれば、宮内省は主動的にはしないという意見なり。
そんなことでは人情がない。
まして今までことごとに手遅れを知っているのに、それでよいか。
まして軍人は自分が開戦主義者として戦争の責任を一身に引き受けようとせぬ。
ズルズルすべてを道づれとして行くと言うタチの人が主脳者である以上、それに任せて話のあるのを待っておれるかというようなこと、大正皇太后〔貞明皇后〕は敵の手の届く所におられても乱暴はされぬだろうかというようなこと、和平をやるにも少しでもまだ戦いは続けられるという形を持たねばならぬ、無条件降伏といってもその結果は一つではないはずだ、国の滅びようとする時に宮内省が傍観していられる問題と思うかというようなこと、賢所の御移のこと等々。
5月18日
昨日の話で興奮したのか疲れたのか、胸が晴々せぬ。
朝起きて御殿場に御無沙汰している申訳を自問自答してみたら、泣けてしまった。
お兄様が御病中にこんな事態になってしまって、御殿場へ出ようとその暇は作れぬことはないけれど、なんとお話してよいか、何か少しでも良い種があったらと思ってとうとう来れなかった。
私はもともと政治には触れる趣味もなく、昭和陛下がそれをお喜びにならぬのをよいことにしてきたら、お兄様の御病中に大戦争になり、政治にも口を出すべきなのになんの準備もなくとうとう何もできなく、昭和陛下に申し上げることもまずいのか御聴きになるよう申し上げ方もできず、外国とのことも私には何もできず。
5月20日
閑院様〔閑院宮載仁親王〕御薨去の旨通知あり。
春仁様〔子の閑院宮春仁王〕は小田原に行くのをあまりお好みでないようなので、私は一人で午後行ってこようと思ったが、三笠宮は陸軍でもありお世話にもなったかとも考え、行くなら代りに行くように尋ねさせたら行くとのことで私はやめた。
5月22日
新旧横鎮参謀長来訪。
旧参謀長横井忠雄パリの香水をくれるとて持ってきた。
お大切にとかなんとか当り前の挨拶をして帰ったけれど、それが妙にしんみりとこれでもう生きて会えぬというような響きを伝えた。
しかも私の方が大変だろうというふうに言っているのがひしひしと感じられた。
このごろ私の気持ちが安定せぬためかもしれぬが、ドイツにおった人〔横井少将は元駐独御付武官〕としてドイツの最後を聞いての感慨をこもらせておると思える。
5月24日
B29 250機、東京・横浜空襲。
鳥居坂の東久邇宮〔東久邇宮盛厚王邸〕も全焼。
保科正昭子爵、二度目の全焼。
北白川宮、洋館全焼。
首相秘書官松谷誠。
戦争終末問題。
外務大臣東郷茂徳熱心にして、最高戦争指導会議において下僚の議題とは別に首相・陸海両大臣・両総長にてすでに数回意見交換を進めあり。
なお戦争遂行を甘くみる部分あるも漸次進みつつあり。
海軍にては高木惣吉少将のみ関係す云々。
この話を聴いてだいぶ気持ちが良くなった。
5月26日
夜半風あり、B29東京焼夷弾攻撃。
火勢なかなか容易ならざる模様なり。
東京市内電話不通にて、ウチと話通ぜず。
両御所・秩父宮・三笠宮等全焼の旨聞く。
ただちに両御所へ御機嫌伺いに上る。
大正皇太后〔貞明皇后〕は御文庫にて食事中なるもちょっと拝謁す。
三笠宮焼け出され食事に来ていた。
三笠宮は夜は防空壕に帰って寝た。
閑院宮も焼けたので、明後日の国葬取り止め。
伊皿子より聖坂にかけて立花種勝子爵の側すっかり焼けた。
赤坂は九分九厘焼けた。
三笠宮でもどえらい煙であった由。
土蔵一つ残る。
大宮御所も手許の御文庫一つのみ残る。
5月27日
電灯・電話・水道・ガスまったく来らず。
都電もまったく不通。
これでは帝都の機能ほとんど断たる。
秩父宮、洋館丸焼けにて日本館のみ残る。
国葬取り止めになったので御殿場に行くつもりにしていたところへ、三笠宮急いで来て予定通りお姉様が品川にお着きになる由を報ず。
危うく行き違いになるところを止めた。
お姉様お立寄り。
昨日来東京の模様よく連絡取れず、秩父宮本邸の焼けたことも昨日遅くそうらしいとおわかりの由。
午後お菓子持って大宮御所焼け跡を見に行く。
大正皇太后〔貞明皇后〕御覧中に行く。
5月28日
大正皇太后〔貞明皇后〕と御所との御仲よくする絶好の機会なれば、昭和陛下から御見舞にいらっしゃるなり赤坂離宮にお住みなるようお勧め遊ばしたらよいとのことから、手紙を書いてそのこと申し上ぐ。
5月31日
御所より御返書あり。
両陛下の御成りまたは大正皇太后〔貞明皇后〕を御所に御招待御会食の件は、「宮内大臣等も相談した結果、当分のうちは実行不可能となり」
大正皇太后〔貞明皇后〕が赤坂離宮を御使用なるよう御信書にてでも御勧めいただいたらと申し上げし件は、「赤坂離宮についてはすでにその道を通して申し入れ済でありますが、お母宮様の大谷大夫に対する御信任関係がわからない」とのことで、
わざとその筋を通してと、私がややもすると時局柄筋を離れて云々することを例によってことさらに反対の意味を御示しなのかもしれず、御親子の情を温めようと思って申し上げたのに困ったことなり。
悲しい。
眼の裏がにじむ心地す。
●皇族としてその特色を発揮するように昭和陛下が御考えにならぬことは残念なり。
●昭和陛下はよく自分は皇室の家長だからとおっしゃるも、その家長たる処置をなさらず、御示しなさらぬから何にもならぬ。
●戦局緊迫して通信連絡も絶えがちとなるべき今日、皇族は如何にすべきことを昭和陛下が御望みなのか伺ってもわからず。
世間では各地に分散配置を取るべしと言う者もあり。
この非常時になってもまだ皇族は形式上の存在として、余計なことはせぬでもよいという御考えには困ったものなり。
皇族に対してすらこれである。
まして一般の国民に対してどうして信頼を御続けになることができようか。
国民の一方的信頼感に依存しているとより言えない。
これが我が神ながらの君民一体、主・師・親たる昭和陛下の御態度と言えようか。
6月2日
昭和陛下よりの御返事、御殿場に黙って御覧遊ばせとて送る。
考え方に開きの距離があるとおわかりになるかどうか。
三笠宮百合君、また〔妊娠〕二カ月とのこと。
6月9日
前宮内大臣松平恒雄。
〔長野県の〕大本営施設の話は聞いているが、いまだ極秘にて宮内省より見分しあらず。
陛下の時局に関する御判断、楽観に過ぎるを恐る。
御性質、大宮御所との関係等々。
6月14日
都ホテルの朝、日が山を越して登らぬ間の、大地から霧が立ち上って平安神宮の朱の大鳥居、山のふもとから谷ごちの遠近に濃淡の色を変えて次第に白く立つ景色がいつも好きな眺めなり。
そして蹴上の坂を荷車が行き一人二人と通り始めるのを見下ろしていると、静かな一日の始まりという感じがなんとなしに親しまれる。
6月17日
お姉様御上京。
今日は焼け残りの日本間にお泊りとて、夕食だけ食べにいらっしゃった。
7月7日
防空壕の壁、鉄筋組めたのでコンクリート流し込み始まる。
7月23日
三笠宮、大正皇太后〔貞明皇后〕軽井沢御移りの件につき来ていた。
また陸軍の軍務課長永井八津次が騒ぎ出してる由。
大臣を通すべきなりと話す。
御殿場でも陸軍の習性を御存知だけに、気をつけるようにとの御話あり。
大正皇太后〔貞明皇后〕の御思召など軽々しく陸軍のそうした人に漏らすべきにあらずということもあり。
7月25日
御殿場より御手紙来る。
東宮様〔平成天皇〕湯元御移りにつき、国歩きがたき御代を予想し、かつ冬の金精峠を考え、御鍛練をお勧めすること。
さっそく東宮伝育官石川岩吉に申しやる。
早く寝たら2200警報で、そのうちにドカンドカン。
川崎方面を攻撃しだしたので横穴に避退した。
このごろは誰も逃げぬし、湿気でカビだらけで行く気がしないらしい。
時々わざと使ってみる必要あり。
7月27日
三笠宮の望みで、朝香様〔朝香宮鳩彦王〕東久邇様〔東久邇宮稔彦王〕竹田様〔竹田宮恒徳王〕と会食。
三笠様は真面目な話をしようつもりだったらしいが、飲めや歌えになった。
後でしばらく話をしていた。
1945年8月2日
華族会館にて映画『風と共に去りぬ』をやる、観に行く。
8月6日
B29、広島来襲。
一機、落下傘爆弾投(新威力弾なり)
8月10日
0700三笠宮。
情勢を聞き、昨夜遅く陸軍省の人が日ソ経済提携を必要とする話をしにきたとだけ言って帰る。
1400三笠宮。
やはり情勢を聞き、皇族の集まることなきやなど東久邇宮稔彦王に伺ってみよと言う。
8月11日
夜中の警報に原子爆弾を持って来るとの予報ありしも来なかった。
明日御所に各皇族を御召の由。
昨夜御前会議決定、御親裁ありし旨、軍令部一部長告ぐ。
これが初耳だった。
1300皇族集り、外務大臣東郷茂徳から経過一般を聴く。
1600植田俊吉氏。
吉田茂憲兵隊に挙げられた話、これは陸軍のクーデターの一部なり、近衛一派と称してこれを全部挙げようとしたのを陸軍大臣阿南惟幾の決断でやめになった云々。
8月12日
吹上大本営防空壕にて皇族集合。
陛下より今回の御決心を御示しあり。
みな国体護持に御思召に添って努める旨 梨本宮よりお答えし、各自の意見をそれぞれ申し上ぐ。
夜三笠宮来り、阿南陸相の考え方 昭和陛下の御考と大いに異なるから、鈴木首相の意見を聞かんとのこと。
8月13日
三笠宮・鈴木首相来り、阿南陸相の考えにつき語る。
鈴木首相は最後は思召によってすべてをする点につきては阿南陸相を疑えずと。
午後三笠宮・竹田宮恒徳王来省。
昨夜の陛下の御言葉を記憶により記録、明日御殿場に届けることにす。
8月15日
御殿場へ。
8月16日
東久邇宮稔彦王に組閣の御命じあり。
竹田宮恒徳王・朝香宮鳩彦王・閑院宮春仁王に、現地軍に思召を伝うべき御命令あり。
8月17日
初めての詔書を自ら放送せらる。
二千六百年記念式典にすら許されざりしを、かかる場合に未曾有の録音放送をあえて遊ばさるるはなんとも感胸にしむ思いなり。
しかるに手はずは案じていた通り、承る人の心の準備がなかったため、多くの人はソ連参戦いよいよなれば御激励の放送を遊ばすものと考えていて、部隊では総員集合をして承ったが、語句の難解・聴取の不明瞭によるならん、終わっても御激励と思いありがたいことと感激して解散した。
ところが後の次ぐ放送で終戦の仰せであったとわかり、驚き悲憤し自失した思いであったという話もあった。
これが少なくなかったと思う。
せっかくの御思召が十分に達せられず、後の大臣訓示等も通信費消時のために遅れ、上級司令部の部下掌握が不徹底なりし点もあったと思える。
なにしろ陸軍海軍はもちろん他省は寝耳に水であり、なんら準備せざる事態に直面し手配は遅れ〃〃となりしは、どうも致し方ないことであった。
私としてもだいたいの進み方は予想していたが、それでも最後の数日のテンポにはまったく思索が追及できず、ために御裁断あってもハッキリせず、またこれまで思いつかなかった心配すべき件々が思い出されて、いまだにハッキリせぬ。
他の人々においてはなおさらであろう。
8月24日
満州国皇帝溥儀、ハバロフスクに伴われてありとの放送。
8月31日
《大東亜戦争によって得たるもの》
●植民地民族の解放
第一段作戦による東亜民族の解放は、戦局により日本のこれら民族に対して取れる処置は圧迫に終わりし観あり。
行政の不手際は反感を買いたるも、日本の精神は不正ならず。
結果として一度解放せられし諸民族は、例えばフィリピンにおいてアメリカ軍を救世主再来と考えたりといえども、再び過去のフィリピンにはなり得ず。
東洋以外の諸植民地も米英等をして旧来の植民地として維持し得ざらしめしは、ある程度の目的達成に他ならず。
●日本民族の世界的地歩の踏出
過去の日本は実際上は局地の日本に過ぎざりき。
支那事変以来、支那・ビルマ・東印と多くの地域に多くの軍人軍属としてその地を踏み、その人に接し初めて世界的見聞を広め得たりと言うべく、質的に進歩せり。
●戦局不利となれる諸原因すなわち日本の国内の正しからざりし姿を反省し、形式的忠君愛国を脱して真の日本人たる自覚と積極性をもって新発足す。
●上御一人の御稜威のみ唯一の国民の頼るべきところなるを知らしむ。
御親政といい滅私奉公といい、いずれも真の大君のため国のため、そこにのみ国民の生くべき道ありを体得しありし者少なかりしを自覚せり。
1945年9月2日
全国民がこの苦悩を引き受けることを忘れてはならぬ。
しかして堅固なる国民精神を持って征服された民族となってはならぬことを、改めて反省すべきなり。
9月3日
マッカーサーは天岩戸開きの手力男命のところを務めるものだという見方あり。
こうした考え方でいくと、大きく国体護持もできるかもしれぬ。
マッカーサーは確かに人物も大なりとの見方をする者多し。
アメリカの燃料で日本の自動車を走らせて不思議に思わぬならば、手力男命でも猿田彦でもよいわけなり。
9月8日
岡田長景は、オリンピック参加恥さらしだから出ぬがよいとのこと。
練習ができず記録が出ないなら、本当の恥さらしになるから止めるがよい。
9月9日
日曜復回せるも終戦関係はそれでは困るとて、再び日祭休み取り止めの提議をすることとなる。
各所で米兵がキャラメル等を投げたのを大人まで大騒ぎして拾っているとのこと、残念とも限りなし。
9月30日
秩父宮、戦争中御静養になり世間に触れずにおられて、かねてから戦争終了とともにお出ましになれることを祈っていたたらその通りになり、今回の御上京も人にもお会いになれるし、いざという時には摂政にもおなりになれると考えられ、これ以上のことなし。
10月22日
東宮様の御教育についても根本的に考えを改むる要あり。
すなわち外国人に対しても単に拝謁でなく、十分応待し得らるべき御教育を必要とす。
御留学もこの見地より考うべきなり。
アメリカかイギリスか、これは各々見方による。
長短あるべし。
アメリカとしてはイギリスはすでに世界的な国にあらずして、今後の問題はなんとしても米ソの問題しかもアメリカが関係を密にせざるべからざる国となるべし。
それには早く御留学になるを可とす。
同年輩のアメリカ人とお近づきになりあることは、将来の両国の提携に資すること極めて大なるべし。
アメリカ人の考え方を御理解ありて将来の日本の優れたるところを具現し給う上に、効果大なるべしとす。
イギリスとすれば王室を持って伝統ある国として他になきものなれば、その味わうべきものは深し、ただちに日本の皇室として例を求むるところ多く、将来親交を結ぶべき国として比すべきものなき国柄なりとなす。
御学問所についてもただちに考えを革めてかかるべき時なり。
10月24日
大正皇太后〔貞明皇后〕が御滞在になるので燃料食料をすべてその方に取られてしまうと、軽井沢住民が不平を漏らすと。
大正皇太后〔貞明皇后〕お出ましの時、相変わらず警官が「シー」「シー」と人を追い払ったりする由。
10月25日
宮内省より、皇族資産等報告提出の話あり。
10月29日
宮内省に行き参事官三浦義男に、皇族の宝石等の調べ、マッカーサー司令部報告の話せるところ、軽率にも宗秩寮より各宮に連絡電話にて通知あり。
各宮職員に知らしむべからざることとして、昨夜中までかかり親展にて伺うようにした問題をと憤る。
1945年11月2日
近衛文麿が責任逃れのような近衛内閣当時の話しぶりが新聞に出ると、昭和陛下が義憤をお感じになって、「本当のことを言ってしまえ」とおっしゃるとか。
(10のところを8言ってぼやかしてしまうこと)
11月15日
艦載行幸に沿道の百姓が耕作をやめて藁の上に座って拝したり、国民服の馬車引きが勲章をつけてお迎えしたり、老婆が戦死者ならん軍人の写真を胸にかけてお迎えした。
こうした光景を見て、国民の陛下に対する態度は安心なりという報告を閣議にしたとか。
それは戦争に対し反感が高いであろうと予想した考え、直訴もあろうと予期した人に相対的に感じたことであろう。
私には当然のことと思える。
今まで御警衛が田畑の人を強いて一列に並んで奉迎させたり、通行の人を遠くへ押しのかせたりしたのをやめたからの自然の趣で、変わらぬことと思う。
ただそれだから革命ナシとは言えぬ。
こうした堅実な人々は社会政治の変動は上滑りして行われるということなり。
11月20日
朝様〔朝香宮鳩彦王〕より、久邇宮邦昭王のアメリカ留学に対し、宮内省にて大臣・総裁が反対したとて、海軍省から経費の一部を準備する件進まぬからどうかとのお話あり。
私としては賛成のことなりと申し上ぐ。
11月22日
サツマイモ貯蔵の穴、手を突っ込んで盗まる。
11月23日
近くマッカーサー司令部より軍人恩給停止の指令出る由。
大問題なり。
内閣も危しくなるとの話なり。
大蔵省案では45歳以下の恩給は停止するとの考えなりしも、全部なり。
遺家族に及ぶことは重大なり。
1945年12月1日
今日より浪人。
何よりも寂しいことは、若い人・兵隊・理事生たちと会えなくなることなり。
知り合ったこれらの人々の前に辞めた人たちも、海軍にいるとどこへでも気軽く来て会って遊べてたのができなくなるのも寂しい。
ウチに来いと言えるようなウチでないのも寂しい。
12月3日
京都の町の女はほとんど着物になっている。
モンペなし。
しかし町が焼けていないからそんなに変な感じがしない。
そして女の顔が美しいと思った。
服も涼しいし、整った美しさだ。
それも女学生以下でなく、一人前の女においての話だ。
やはり焼かれた町と焼かれぬ町との心の表れでもあろう。
着物の問題ではない。
山紫水明の地、古い文化の伝えられた都、それが焼かれないでいることは尊い。
アメリカ軍にもこれを活かして教えたい。
高尚な日本人の生活文化を教える唯一の地だ。
12月12日
呉の町はさすがに朝早くから人通りあり。
焼けて進駐軍がいるが、まだまだ工廠町の気分があってうれしい。
12月13日
梨本宮へ、殿下お出ましのお見舞いに参る。
戦災後初めて行った。
二間のお家にお住み、静かな御生活にはよい。
手間取っている方の一棟を至急完成しようと、壁土がないので代りにコンクリートを塗っていた。
老人の両殿下にわけもわからぬ拘引で、お気の毒の至りなり。
どうにも皇室の尊厳をヒビを入らせて国民に知らせようというつもりとより思えぬことなり。
それにはまたあまりに御年召をひどいことだと思える。
12月18日
東宮様久しぶりにてお目にかかる。
素直にお育ちの様子なり。
皇子御用掛伊地知ミキが退いて男の伝育官が積極的に御世話するようになって、かえってしっかりなさった。
御主人様であるが、お友だちとお遊びの時はまったくお子様らしいとのことなり。
しかも穂積大夫の御指導は良く、東宮としての御教養に努めたものである。
徳川義親侯爵。
御退位に関するマッカーサー司令部若手の意見強くなりしとの情報。
宮内大臣。
中華通信社宗徳和の面会申込は、御退位説に関し私が摂政になるだろうから今のうちに見ておきたいとのことで、東宮様にもとのことなりしも、まあ私だけに。
しかし政治の問題には触れぬ約束しありと。
12月25日
東京薬専女学部本庄美都子・村田百合子が島田直枝を連れてきた。
島田は島津治子女官長問題の関係者、予言者、明治天皇の霊を受けると称す。
12月27日
板沢武雄教授より、アメリカ側歴史教育に対する態度、教科書修正の指令について聴く。
神代のこと、明治時代日清以降を全部削除す。
四十七士仇討も削るも、国内の相争う所には筆を加えず。
皇室の仁慈等にも触れず、そのままにしあり。
こうした修正をせねば、二年後歴史・地理・修身の授業停止を指令しあり。
12月30日
細川護貞、近衛最後手記写持参。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』
1946年1月1日
詔書発布。
まことに結構なるものだったが、「現御神」の三字は別の「神」というだけの字か何かにしたかった。
幣原首相が英文で書いた原稿をマッカーサーに見せてそれを和文に直したので、侍従職で一度訂正したがどうも原文と異なるとてそのままになりし由。
しかし原文は divine だからなんとかなりそうなものだった。
1月4日
鈴木貫太郎夫妻来て、爆撃調査団に答えて、「日本は責任内閣だから陛下はその決定には反対されぬし、また積極的に指導もされぬ。ただ自分が知っているのは二回、二二六事件で内閣が中絶している時に反乱軍の討伐を令せられた時と終戦の時は自ら指導されたと答えておいた」とのこと。
1月6日
マッカーサー司令部ヘンダーソン大佐の話とて、幣原内閣支持せず、前農林大臣千石興太郎(日本の刻下の問題は食糧なればこれに詳しい人が第一条件。彼が先内閣親任式ただちにマッカーサー司令部を訪問して食糧輸入を懇請せり、官吏でなく農村組合運動の指導者)他には徳川義親侯爵、賀川豊彦(政治力乏しと言える由)有馬頼寧(これを拘引せるは誤り、後で調べたら農村問題の先覚者だったと)などを候補者と考える旨語れる由。
1月16日
松平慶民、宮内大臣となる。
陛下が直接なれとおっしゃったとか。
1月18日
松平康昌、宗秩寮総裁になる。
昨日一日イヤだとて逃げていた由。
1月19日
各妃殿下集まって、服装問題等御相談。
昨年制定の宮中服にみなさま文句多く、もともと国際式典等で日本婦人が洋装で出ることが、宝石で競争すれば負け、容姿でも負け、ファッションでも負けで、支那やタイやみなそれぞれの国の服装で出て来るのに対しても負けとなり話にならぬから、日本の服装をという考えに発端するのだが、みなさまは戦時中の洋服縫製難やモンペに対する洋装、それも宮中的なけばけばしさは着られぬと言ったことからのみ考えるので熱意も出てこぬ。
昭和皇后に至ってはまったくただ洋装の情勢で考えていらっしゃる。
1月28日
秩父宮へ。
陛下の問題御相談しようと考えて出かけたが、三笠宮一緒にとて秩父様にお願いしてずっといたので、言い出せずにしまう。
1月29日
李鍵公の御気持は「公族などとは日韓合併の残り物なれば、自分はこの際それをやめて日本人になりたい。李垠王様はやはり地位をお持ちになりたいお考えのようにて、まったく考えが違うからお会いしない」と言うことなる由。
王公族を皇族にしてしまう案は終戦直後ありしも、マッカーサー司令部との関係で実現せず今日に及ぶ。
2月2日
東宮様、お成り。
初めてなり。
客間のライターがお珍しく、点けたり消したり何度も何度も。
南洋でもらった海亀の剥製大中小、お欲しそうだったので「差し上げましょう」と言ったら、二度も見にいらして「あれか、これか」とおっしゃる。
三つともというは少し欲ばりすぎるとお考えらしかったが、「みなお届けしましょう」と言うて片づく。
豚と緬羊はやはり触ってお楽しみ。
2月15日
ブリッジの練習。
世の中の移り変りを思う。
鹿鳴館式なり。
2月16日
ブリッジとダンスの稽古。
2月24日
本間雅晴中将判決に対し、あとはマッカーサー司令部に頼るよりなし。
本間は英語もわかるので山下奉文大将の時のように裁判中居眠りなどせず、証人の人格証言も多大の感銘を与えた。
2月27日
マッカーサー副官ボナー・フェラーズ来邸。
宮内省側近が陛下の御考えを実行するのに手間取ると見ゆ。
マッカーサー司令部と宮内省との直接連絡に、アメリカを知った若い人を置いて常に往復すること。
宮内省にアメリカ人の連絡者を置く。
陛下が現在唯一の指導適格者と認めるから、もっと積極的になさるがいい。
マッカーサーは陛下を認めてやっていくつもりでいる云々。
3月10日
宮ノ下別邸に米兵しきりに盗みに入るので、売買は別として富士屋ホテルにて使用した方が防止になり良からんと申し込み、先方もそうしようということとなる。
3月11日
宮ノ下別邸処分につき侍従職にて思召あらば代地と交換できると考え、別当より木下道雄に話せしむ。
3月16日
ブリッジの練習。
3月21日
ダンスの稽古。
3月23日
越ケ谷鴨猟。
アレン・コルフ氏、お酒のせいか堀に落ちて額をすりむく。
3月25日
ダンスの稽古。
3月27日
宮ノ下別邸を富士屋ホテルに譲る件につき富士屋ホテル社長山口堅吉来邸、60万円でとのこと。
3月31日
秩父様で夕食。
三笠様また来たいとのお申し込みで来た。
なにか除け者にされて話を聴き損なうという気がするらしく、別に用談もないのに。
4月1日
ダンスの稽古。
4月5日
英語・ダンスの稽古。
4月11日
英語・ダンスの稽古(タンゴ・パソドブレ)
4月19日
福岡・長崎の麦貧弱なり。
都会近くの下肥の回るあたりだけ元気あり。
肥料の足らぬのは百姓に気の毒なり。
4月20日
鹿児島。
竹藪に筍が3~4尺に伸びてたくさん立っているのは、東京ならとっくに盗まれているものと思う。
夕食なんだか水っぽい酒だと言ったら、焼酎だそうだった。
ここでは日本酒はほとんどないらしい。
4月30日
侍従長交代の件につき大金次長を当て宮内省内で順送りするとの大臣の話から、東大総長南原繁にも高木八尺博士の件を大臣にも一度話すようにと言って南原が話したら、私が言ったのだとて怒っていたとの宗秩寮総裁松平康昌の話。
陛下に侍従長は宮内省外からお取りになるようにと言っている人ありとちょっと申し上げた。
アメリカ側は憲法はどんどん改正してやって行けばよい、今はこういうのでやれというつもりなり。
華族制度廃止は日本側の決心なりと。
5月2日
宮ノ下から宮ノ下別邸は富士屋ホテルに売らずに村に渡せとの陳情あり。
金が欲しくて売るのだから金さえあればなんでもよいわけだが、タダではやれぬ状況になっている。
ダンスの稽古。
御所。
以前はニュース映画を御覧になりそれを御一緒に観ていたが、爆撃がひどくなりニュース映画もあまり出なくなって止めにまっていた。
それ以来ちっとも両陛下とお話する機会が無くなったので、映画なくとも週に一度くらいはと言っていたがちっとも実現せず、やっと先週から始まった。
5月3日
大金次長 侍従長となり、加藤進 次官となり、木下道雄辞めて稲田周一 次長となる。
省内たらいまわし人事。
侍従長は外からと言っていたのに、やはりこんなことになり遺憾なり。
5月4日
自由党総裁鳩山一郎に対し追放を発表。
総理大臣ということになってかかる指令を出すのはけしからぬ。
5月7日
有馬大佐鹿児島から出てきて、私の視察からマッカーサー司令部からアメリカ側に叱言が来て「協力できぬ」と言ってきたとのこと。
やっかいな話なり。
東劇〔歌舞伎〕
戦災で衣装が焼けて、傾城・新造数人しか出られずと。
5月9日
ダンスの稽古。
5月12日
カナモジ会理事長松坂忠則の話を聴く。
カナモジ会としてはすぐに漢字を制限してやって行こうとする態度なり。
私としては漢字乱用時代の前に立ち戻って、日本語の復興をやるとともに再び漢字を用いないで済むようにやって行きたいと思う。
すなわち漢字をやめた穴うめを英語等でやらずに、日本語の本来の表現を活かして行きたい。
そのために国語学者を必要とすると考える。
5月15日
政府より、マッカーサー司令部から皇族の貴族院議席につき追放に対する政府の処置甚だ手ぬるし、これ以上テキパキやらぬならばマッカーサー司令部から直接指令す、そうなるとどうするてもひとからげにやることになる、グズグズしているならば政府の担当者を処罰するとのことで、政府側も慌てて早く片づけねばならぬことになり、皇族については questionnaire も出さぬ、議席にもつかぬでほっかむりをする第一案なりしも、「やはりやめてくれ」「questionnaireは出さぬ」ことに交渉するとの話あり。
宮内省とマッカーサー秘書官ローレンス・バンカーその他との連絡では、ソ連がうるさいので questionnaire は全部そろえておかぬとアメリカ側が困るとのこともあり、結局出すこととなるべし。
いずれにしても相変わらぬ政府のグズグズが、同じことでもまずくまずくなっていく。
私としては皇族が職業軍人でないという考えを持つ。
しかし実際追放令に該当する職にあったことはその通りに考えてもよいと思う。
5月16日
ダンスの稽古。
5月30日
ダンスの稽古。
5月31日
宮内大臣。
昨日私憲法草案の枢密院本会議にはその主権在民があまりはっきりしているので、私としては賛成しかねるから会議に出席せぬつもりでおりますと申し上げた。
その時は何もおっしゃらなかったのに、陛下がとても御心配になっているのにそんなことを申し上げるのはよくないとの話だった。
今まで御心配御心配といって申し上げないでやってきたことのを改めるべきではないか。
それに出席して賛成せぬのでは現情勢からよくもなし。
枢密院として修正するのは民主的でなし。
欠席するのが一番よいではないかと思うと語る。
大臣は「反対だ」と言うだけ申し上げて黙って欠席するがよいとの話なるも、私は終戦後思召で出席することになったと思うので、それはあまりおかしいと思った。
6月5日
宮内省。
寺崎にインターニュースに話したことから陛下のマッカーサー御訪問の時 対皇族指令につき御話なさらんとしたのをお止めの方がいい、先方の忠告ありしとのことで、昨日陛下が御憤慨だったので、その経緯を聴く。
特にことの点という指摘はなかった。
例の新聞に出たことが気になるというのであろう。
6月8日
憲法草案の枢密院本会議ありしも、黙って欠席す。
意見を述べるのも情勢上よからず、賛成する気になれず。
6月19日
本整理。
空襲中地下室に入れたらカビでめちゃくちゃになってしまった。
惜しいことをした。
6月20日
ダンスの稽古。
6月25日
ジャガイモ収穫、102貫。
6月29日
宮内省。
28日の宮内大臣とマッカーサー会談。
皇族に対する覚書につき、これは皇族の starvation の問題で陛下も御心配の由を話し、マッカーサーはsympathetic consideration を約せると。
松平、マッカーサーの話に、陛下が御子様や御兄弟につき特に御心配のようだと話したとのことなるも、これは私としては甚だ面白くないので、皇族全体につき御考えになってるのでなくてはならぬ。
7月2日
情報会、皇族の考えていることを両陛下に聴いていただく会。
陛下にはおっしゃらずに黙って聴いていただくこととして行う。
終って問答もあり。
陛下は皇族が知識でなく道徳的にさすがと言われるようにとのこと。
また私がもっと宮内省と信頼し合うようにと言ったら、侍従長の時 松平宮相が私に人事につき言うと約束したのに、私が南原に言ったことはけしからぬとの御話。
私は約束はせぬと、例のやりとりをした。
なにしろどっちもちっとも新しい時代に対する感覚のない御考えでは話にならず。
7月11日
御所、三笠宮二方と一緒に晩餐、蛍を拝見。
先晩吹上に蛍がいるとの話から、見たいと申し上げたので。
9月3日
松平邸、康愛葬儀参列。
一人っ子なれば康昌夫妻の悲しみひといりなり。
久美子の心中もまたいまさらなり。
9月19日
財産税いまだハッキリせぬが、光輪閣は持ち切れぬだろう。
宮内省から山林か土地かをもらって、それで収入を得ることができれば一法なり。
9月20日
宮内省にて親睦会。
両陛下お出まし。
皇室典範改正のその後の経緯につき聴く。
御退位の条項はやはり入らぬ。
陛下が終戦の時あれだけ御決意ありしに対しその道をつけるのは必要だと思うが、陛下だけの御経験と対米感情もよい方はないからというだけで考えぬのはよくない。
9月23日
宮内省。
大金侍従長にどうして稲田周一次長辞めたのかと尋ねたら、追放令のためで、やはり宮内省もいけないということになったらしい。
9月28日
納税について相談。
建築につきて評価意外に高く、光輪閣、600万~700万円。
本年春のマッカーサー司令部への報告の時は100万円以下としてきた。
とうてい光輪閣を持てぬとの判断なり。
翁島の洋館も手放すを可とすべしぐらいの話より進められず。
9月30日
元侍従次長稲田周一。
やはり追放令がやかましくなりそうだったのでとのこと。
誰か外の空気のわかった者が側近におらねばならぬと思う。
10月8日
親睦会、両陛下お出ましの例会。
今日はちょうど大正皇太后〔貞明皇后〕御上京、特に賑々しく結構なりき。
大正皇太后〔貞明皇后〕も大変お喜びなりき。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』
1947年1月1日
年末年始、町の感じは昨年より気分の出ぬ景色なり。
女の子はチラホラきれいな着物を着たり白粉をつけたりしていたけれども、羽子板も凧もインフレでは出回らぬ。
やっぱり暗い気持ちが流れているのだろう。
1月2日
北白川宮へ。
昨年暮れにお移りになったので初めて伺う。
小山栄三の間借り、借家のようなお使い方だが、古いとりとめのない家なり。
1月5日
新浜鴨猟。
アメリカ赤十字関係を招く。
帰りに公衆衛生福祉局ウィーバー大佐の車、田んぼに滑り落ちてケガはなかったがずぶ濡れになった由。
後で風邪をひいたとか。
3月10日
ヴァイニング夫人の英語のレッスン。
3月23日
伊勢神宮高倉篤麿来り、斎王に北白川宮房子妃を願うにつき近江神宮宮司平田貫一を小宮司に欲しいとの話あり。
現小宮司古川左京は地元の人との折り合いも悪く、新宮祭式につきてもややもすれば慣例にとらわれる等でこの際入れ替えたく、平田氏の他になし。
これには私は古川氏をよく知らぬも、もってのほかのことなり。
伊勢の大切はわかるも、面白くなしとて出す人を押しつける等はけしからぬことと答う。
3月24日
宮内省。
加藤次長に北白川宮大妃を伊勢斎王に願うことは宮内省の考えかと尋ねしに、先方よりそのお人柄に惚れこみてとのことで、宮内省では第二・第三の候補の方を考えると言いしもその要なし、三笠宮とも考えしがGHQが軍人なりしとて賛成せず、未婚の方でなくてはいけないか等とも聞くぐらいの話なりしと。
斎宮ではなく斎王としてであるから未婚でなくてもよい、しかも未亡人の方がよいと答えたる由なり。
4月1日
池田徳真、高山英華同伴。
東京帝大第二工学部教授なり。
実は久美子〔高松宮喜久子妃の妹・松平康愛の未亡人〕のお婿様にどうだという多恵ちゃん〔北白川宮多恵子女王・徳川圀禎の妻〕の考えなり。
4月2日
ダンス練習の件 宗秩寮総裁松平康昌に尋ねしところ、宮内省では練習したらダンスホールへ余計に行くようになりはせぬかとの相変わらぬ間違った心配あるも、宗秩寮総裁が責任を持つ、他人があまり入り込まぬなら差し支えなしとのこと。
7月4日
アサヒグラフに私の顔としての自画像と感想文が次々に出ている。
そこで私も私自身の顔を描いてみよう。
鏡を持ち出さずに描けること。
一番まずいのは額がというよりおでこのないことだ。
それは外見上は横から見たらまったく鼻の傾斜そのまま頭の上まで直線で描いたことになるし、内容から考えても類人猿の骨相であるから脳の優れた部分を包蔵していない証拠である。
これは人間として最も恥ずかしい表徴であらねばならない。
だから私としてはこれをカモフラージュするために手段として選んだのが、髪の毛を伸ばしてその陰にいかにも頭脳の部分が隠されているかを装うことである。
しかして髪の毛のハゲないでいることは、いまだ神に見放されていなことを示すと信ずる。
つぎにアゴがないために顔面は平面をなすことができずに、その下半分も鼻の頭を頂点とする直角となるごとき投影をしている。
かかるがゆえに横顔は致命的浅薄な幾何学的基礎の上にあることが知られる。
鏡を持って見る時に最近驚いたこと。
外人が支那人を掻く時に目のつり上がった頬骨の突っ張った顔を描くし、『Stars and Stripes』が出た始めににも日本人を描く漫画にはこの式の顔が多かったのを大いに認識の不足と思ったのだが、だんだん私の顔がこの支那人的描写に当てはまる存在であることを発見して、悲哀と自嘲とを禁じえないのであった。
もひとつそれに口の両端が長々と逆への字としていることも同じであった。
生理上のこと。
片眼で白紙を見比べて見ると、左の眼には青味がかかって見えるし、右眼は黄色がかって見える。
右の耳が左の耳より大きいように見える。
子供の時に金環をはめて直そうとしたが直らなかったから、今でも前歯が外に出て上下が合わない。
少なくとも五分以上の暑さがなければ嚙み切ることは不可能である。
しかしながら唇の外に出っ歯が出ないで、唇が常に歯を隠していられることは不幸中の幸いであるとともに、いまだに虫歯の無いことは後天的に資質の良い現実を示すものと言わねばならぬ。
8月24日
久美子、喜久子に話した様子は、やはり杉山〔レストラン〈レバンテ〉支配人杉山万吉〕に想いあり。
9月16日
宮内庁にて皇室会議議員互選あり。
私は昭和皇后・お兄様〔秩父宮〕・賀陽宮敏子妃・朝香叔父様〔朝香宮鳩彦王〕を書く。
当選はお姉様〔秩父宮勢津子妃〕私・喜久子・三笠宮。
お兄様もおよろしいとの宣伝どうも少し足らなかった。
昭和皇后とお兄様とが同点の次点の由。
昭和陛下が、昭和皇后が議員になると議長・総理大臣の下になり困るとおっしゃったとか。
このご時世にまだそんなお考えでは細かすぎる。
11月1日
原宿のホームで衛生展覧会列車の発進式があって行く。
お姉様くす玉の紐を引いてそれを合図にピーッと発車のはずが、紐は抜けたがくす玉開かず照れくさいことだった。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』
1951年5月23日〔5月17日貞明皇后死去〕
昭和陛下11時に大宮御所。
午後に来るとお茶とか出すから午前にしたとのこと。
こんな時にでもせめて皆様とお茶でも一緒にして御話なさればよいのに。
1951年6月5日
殯宮二十日祭。
殯宮伺候と称して有資格者なるもの御通夜に来てる。
私だったらこんな気づまりなことはまっぴらイヤだ。
生きている時もイヤだが、死んでもイヤだろう。
それよりやはり来てほしい人が一人でも時々来てくれれば沢山。
1951年6月6日
殯宮伺候の人はあらかじめ宮内庁で考えた人数の1/3かもしれぬ。
どうしてこんな違算をしたのか知らないが、休憩所も無駄だったろうし、それよりはじめ女官など入れないと言ったりして椅子が空いて、入れないなど変なことだ。
昭和陛下もいらっしゃらぬ。
前例がどうとか仰る由。
これもおかしい。
1951年6月14日
大宮御所で貞明皇后の御遺書が発見された。
この御遺書は1926年10月22日にお書きになったものであった。
当時大正天皇の御病気等で精神的にも不安と違和を身体に感じられたらしい。
神社等に参拝のこと
形見分けには秩父宮、三笠宮は新家だからそれを考えること
筧克彦博士の書物を秩父宮に預けること等
1951年6月16日
明日御日柄なので支那料理をお供えするついでに宮内庁長官邸で秩父宮・三笠宮と会食するので、ちょうど良いから東宮様〔平成天皇〕をお招きしようとしたら、「宮城・大宮御所・学習院以外にいらしゃったことが世間にわかるから」と東宮侍従戸田康英より喜久子に断りあり。
あきれたものだ。
知れて悪いどころか、貞明皇后様もどんなにお喜びになるかわからぬことだ。
御殿場にはなかなか御見舞にもいらっしゃれぬ東宮様に、秩父宮とお近づきの機会としてめったにないからと思ったのに。
人情や義理は御教育にないと考えている側近者にはまたしてもあきれる。
頭の固い宮内官はいつになったらわかるのだろう。
悲しいことだ。
1951年6月22日
大喪の儀。
鷹司の祭文、声小さく聞こえず。
帰途どしゃ降りになって、東宮様〔平成天皇〕の後駆の白バイ滑って転ぶ。
後ろについていた私の自動車危うく轢くところだった。
少し身体をぶつけたかもしれぬ。
1951年7月12日
貞明皇后の御通夜をしていて、私が死んでも私の御通夜に集る人々はこうした種類の人々になるだろう。
とても一人が二人の来てほしい人がおれるような空気にはなりそうもない。
やっぱり生きていてなくては話にならぬ。
御墓も豊島岡のような区域のは好ましくない。
多摩墓地は遠すぎる。
やはり青山墓地あたりなら思いついた人が気軽に花でもくれよう。
そういう所にしたい。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
高松宮 メモ 1962年
《寄る年波》
●手の甲の皮膚にシミが出る。
●物を飲み込む時に食道からはねてむせる。
●老眼になって視力が衰える。明るくないと見えにくい。
●頭髪がハゲ上がって毛が柔らかくなった。
《習性 アレルギー》
●大便所に行くと鼻水が出てクシャミをする
●就寝前に物を食べて胃中に消化せずあると口の中の歯茎粘膜に出来物ができる。
●大便の後 便を出し切らずにスキー・ゴルフなど力の入る動作をすると肛門が腫れ上がる。
●冷寒の空気を呼吸すると水鼻がどんどん出る。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
高松宮 メモ 1974年
幸福な人生を持ったとは思わない。
しかし苦難の人生に喘いだとも思わぬ。
苦心・苦労・病苦を知らぬ。
生活難・入学難・就職難・災難・食糧難・住宅難を知らぬ。
これがどうして幸福な人生と言えないのか。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
1905-1987 82歳没
■妻 徳川喜久子 徳川慶久公爵の娘/将軍徳川慶喜の孫
1911-2004 92歳没
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』
1941年1月15日
このごろ大毎の吉屋信子の『花』を読み出したが、昨夜航海で見ず。
今朝やっときたら大朝と福岡日日でガッカリ。
一日抜けちゃった。
1月16日
人事局長中原義正少将が来ていた。
会ってみたらば、私に前期が済んだら代れということだった。
「戦争が始まるからというわけか」と聞いたら、
そうでなく「東京の近くにいたほうがよいとのことでだ」とのこと。
「誰が言うのか」と聞いたら、「言えない」と言っていたが、
「陛下がお漏らしになった」というようなことだった。
いつも腰かけ式にちょっとやっては代るので、心づらい限りだ。
砲術学校でお払い箱になれば、すぐ航空に口があるとは言うものの寂しい。
しかも艦に乗る機会はますますなくなる。
もう艦長しかない。
艦長では楽しく平気でやっていけない。
威張りもせねばならず、真面目に装わねばならず、つまらないだろう。
こころがいら立つのをどうにもならぬ。
珍しく夜興奮して寝られなかった。
1月27日
喜久子より久美子〔高松宮喜久子妃の妹徳川久美子〕の婚約につき相談あり、意見なしと返事す。
私は他人の結婚に語る自信なし。
自らにすら自信なき事なればなり。
2月25日
小型自動車ベビーフォード(1938年型)一つ買うように言う。
オースチン(1940年型)ありしも、現物見られぬし2万円でちょっと高くもあるから。
フォードの4千マイルを走った5,500円のにすることにした。
2月28日
喜久子の手紙に川奈の桜〔押し花〕入れてあった。
手紙の文句は相変わらずしつっこくベタベタした文章だが、花はどこのもスッキリと良いものだ。
3月30日
秩父様へ。
お太りで艶もよくおなりだったが、お姉様がちょっと起きて御覧とおっしゃっても、寒いからとておねんねのままだった。
7月14日
秩父宮に御無沙汰にて、もうだいぶよろしいようだしそろそろ来そうなものとの御気持らしいとのお姉様の電話あり。
7月18日
松平家より久美子縁談のこと〔松平康昌侯爵の子松平康愛&高松宮喜久子妃の妹徳川久美子〕正式に申込あり。
宮内大臣松平恒雄夫妻仲立ちにて心労す。
8月5日
久しぶりに宮城のニュース映画陪覧に上る。
8月6日
大正皇太后〔貞明皇后〕 防空の御避難所はじめ日光の予定なりしところ、大正皇太后〔貞明皇后〕お気にいらず先日御参内の時に昭和陛下と御話あり。
寒いのはイヤという思召もあり、例の調子にて大正皇太后〔貞明皇后〕おひねくれからか昭和陛下もお困りにて、防衛司令部の考えにては日光第一なるも、宮ノ下でもよく沼津でもまずよろしとのことにて、その後沼津ならよろしとのことになる。
何かあると語気の具合で変になり、昭和陛下また余計に御心配になる。
宮内省にて各宮の自動車二台分、代用燃料に改造の経費出すことになり、うちのはすでにプロパン2台あるので、フォードをアセチレン、オースチンを石炭・コーライト兼用に改めることにした。
8月21日
秩父宮へ。
少し御元気が出てきたようだった。
やっと5分くらい身体を起こしてごらんになった由。
まだ血沈早いとのこと、20ぐらいとか。
8月24日
原田熊雄男爵来る。
先日宮城に上った時に私がアメリカと戦争せねば皇太子様の御代が危ないという意味を御話したので、昭和陛下がすごく御心配にて翌日近衛公爵に御話あったとかで、近衛から原田に話あったとか。
あまり御心配になるようなことは言わぬがよいだろうとのことだった。
どうも全然思い当たる節もないが、10月が油の切れ目というくらいのせいぜい連絡会議の話題以外でないと思うのだが、何かお間違いだろうと答えておく。
後でよくよく考えたら、昭和陛下が艦隊を残しておかねば講話の時に威しがきかぬというようなことをおっしゃったので、先の世界大戦のドイツ艦隊みたいに置いておいても何もならぬこともあるとか、北樺太の油では不足ということを言ったのが関係あるやもしれぬと気づいた。
8月26日
宮城にニュース映画陪覧に、暑いから略服でとのことに背広で上がる。
三笠様がそんなら和服でよいかと伺ったら、洋服がよいとの御返事で、断然軍服で出ると申し上げた由。
三笠様、このごろ女も和服を着て参内するようにとの御主張。
一時はそんな気で張り切る年頃があるもの。
その意気、その意気と言いたいところなり。
9月1日
秩父様、心臓の薬あがったらたちまち脈が70とかに減ったので、この際御殿場に移ったらとのことで、数日中にお出かけの由。
9月14日
秩父宮 今朝御殿場にお移りの予定のところ、お出がけに下痢をなさったとてお止め。
9月18日
帝国ホテルの満州国大使館主催晩餐会に行く。
どうも今日の記念日は満州国人がその気になりきっていない。
なんとか早く満州国人が心から一致するように日本側の態度をすべきだ。
10月3日
二位局〔柳原愛子〕久しぶりに大宮御所に上るにつき、喜久子御召にて上がる。
12年以来の由。
四輪車に乗ったままにて拝謁。
うれし涙にて、大正皇太后〔貞明皇后〕にも感激の御様子なりしと。
永井武官の謹話は実に馬鹿にしたものである。
●時間厳守はけっこうなことであるが、説明するなら他に実例がありそうなものである。
時計を二つ用意されていることは決して自慢にならぬ。
時刻係の人ならばともかく、皇族がそんな神経過敏なことでは仕方がない。
実際私も旅行等には必ず二つ持って行く。
しかし人には見せたくないことなのである。
止めたいと思いつつも、自分の神経衰弱的性質でやめられぬのである。
細心ではなく、過ぎている。
少なくともこれは内緒でなくてはならぬ。
腕時計をしてこれをちょくちょく見たりするのでも慎むべきである。
●神社に必ず御拝礼されることは結構なことである。
●混み合う市電をお選びになって云々は困った宣伝である。
皇族がそうした乗り方をすること自体は決して不可ではなく、目立たずにすることは皇族地震の見聞修養になるのであるが、皇族と知れては面白くない場面もあるので、平民的とかなんとか賞賛さるべきではない。
御付武官として宮の内の人として、いっそう秘すべきことを書き立てるところに、軽率無識を戒めねばならぬのである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
『賀陽宮邦寿王御付武官永井清雄少佐謹話』10月3日報知新聞
殿下の御日常生活の1~2を申し上げて御高徳を御偲申したいと思う。
殿下が時間を御厳守遊ばされることは非常なもので、常に二つの時計を用意されていた。
また崇神の念の御厚いことは頭の下がるほどで、どんな場合でも神社という神社の前では必ず御拝礼遊ばされる。
それから単独御外出の際には自動車は召させられず、混み合う市電をお選びになって、その平民的な御精神のほどを拝すことがしばしばであった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
10月12日
お兄様、お床の上に上体起こしてお会いになる。
たいそうおよろしい御様子。
御話にも痰がからまず御楽に御話のようだった。
おこたで昼食。
木戸から借りた近衛メッセージ・国交調整基礎文書・アメリカ回答覚書・野村大使意見書など御覧に入れてまた持って帰る。
10月19日
大宮御所。
百合子様、母君と御召にて、一度会っておけとて初対面。
お揃い遊ばされともうやっているが、板につかぬところが取り柄なり。
大正皇太后〔貞明皇后〕、百合子さんの御仕度御覧、陳列を見る。
〔戦時下という時節柄〕あまりよい着物の帯もなし、御所車に花模様の赤い振袖くらいのもの。
麻の江戸模様は昔のままのイミテーションではあるが珍しかった。
11月7日
御殿場へ。
お兄様、起きていらしてお茶一緒にいただく。
まったく久しぶりなり。
夜も起きていらして一緒にお遊びす。
お姉様六畳の間にお逃げ出しになり、私たち炉の部屋に寝る。
11月8日
三笠宮お二人を招く。
宮内大臣・宗秩寮総裁、三年越しの苦心の御結婚だけに重荷おろしたとて機嫌よし。
高木子爵すっかりフラフラになる。
奥様は泣き顔にて見ていたが、しまいに落ち着いた。
11月9日
保科・徳川の〔保科正昭子爵の子保科光正&徳川家正公爵の娘徳川順子〕御披露にて会館に行く。
保科さんも大人だし、お嫁さんは身体大きいし、なんとなく華々しさのない御披露だったが、落ち着いた気分だった。
12月3日
入浴してすぐベッドにもぐりこんでいたら、宮城からお電話で来いとのこと、上がる。
7日大宮御所で三笠宮御婚儀晩餐お催しにつき、8日開戦の前日を知ってのお祝の会食は、後日歴史家の誹りもあるだろうから止めたほうがよいと思うがとのことで、私もどうかと思っていたので申し上げることにした。
予想計画状況をお話して自発的におやめになるようにすぐがよかろうとのことだった。
12月4日
大宮御所へ上がる。
8日0130くらいから始めることを申し上げしところ、「それでは御召の中にはそれを知っている者もあるべし、止めた方がよいようだ」との御模様で、「三笠宮のこともあまりスラスラ行ったから一つぐらいこじれてもかえってよかろう」等お話あり。
帰りがけ皇太后宮大夫大谷正男に言ったら、「それは困った、御召状も出ていて、かえってお止めになったら変だろう」と言っていた。
宮城へ上がったら拝謁連続だったので、「申し上げておきました」と侍従に頼んで帰る。
宮内大臣松平恒雄に会ったら、「そのことでお話していたところだが、おやめになるとかえって秘密上よくないかもしれぬと申し上げていたのだ」とのこと。
「それなら、事が現れねばよいかもしれぬ」と言っておく。
「ただ大戦争の立ち上がりというだけが考えねばならぬので、戦争中だからというわけではないと思う」と言った。
12月5日
松平宮相が会いたいとのことで電話で聞いたら、「昨日のこと事が現れねば予定通り、現れたらやめとのことに御聞届けを得た」とのことだった。
12月7日
大宮御所へ。
三笠宮御婚儀につき関係宮内官39人ほどを御召、晩餐。
12月8日
0130マレー上陸開始。
0330第一航空艦隊ハワイ奇襲成功。
0412シンゴラ上陸成功。
0430アメリカ海軍長官、日本に対し戦闘行為を開始せよ。
外国の放送、アメリカ海軍無電の傍受のみでなかなか戦闘概報来らず。
ことに台湾は朝霧ありて飛行機出発せず。
それが出発したかどうかわからず、ハラハラさせられた。
マレーは上陸開始とのみで、上陸後の模様わからず。
1930頃にはボツボツ機動部隊・台湾等の概報来り、パールハーバーの戦果大成功にて喜ぶ。
2200帰邸。
灯火管制、ひっそりしていて町の中真っ暗なり。
入浴、寝る。
一安心なり。
しかし前途なお遠き感深し。
戦況発表につき、陸軍では日本のタイ領進駐にイギリス兵攻撃され戦端を開くに始めんとする案に反対しすべて詔書の後にすることを主張し、今後そんなインチキ発表や武力行使をビクビク遠慮しつつやるような仕方をせぬように言った。
8日の朝まで陸軍ともめて、0600西太平洋で英米と交戦を始めたと大本営発表をして後は全部詔書の後と決まっていたのに、報導部の失策でその前に帝国海軍のハワイ奇襲のニュースをラジオで出して、陸軍を出し抜いたことになり不信なことになった。
陸軍ガンガン言う。
謝ったが、取り返せるものではない。
12月10日
ルーズベルトの親書はグルー大使を通じ、「日本は仏印より撤兵せよ。仏印進駐の目的を伺う」というようなものにて、政府間の話し合いの通り返事せしめられし由。
つまらぬことを言ってくるものだとおっしゃっていた。
7日の夜はこの親書があったので、首相官邸とか外務省とかゴタゴタしているのを、報道関係者はそのためと思い作戦の秘匿になった。
総長がイギリス戦艦二隻の撃沈を申し上げたら、陛下も「それはよかった」というようなことで、お喜びだったとのこと。
作戦室でシャンパン祝杯。
参謀本部二課の連中、竹田様〔竹田宮恒徳王〕も果物持って祝に来られた。
12月11日
今朝御殿場に電話したら、御付武官一戸公哉が隔日に伺うし、陸軍次官木村兵太郎とかも御面談を願っているとのこと。
今夜より情勢変化すれば灯火管制を行わずと言う。
通常管制くらいにしておけばよいのに。
12月17日
アメリカ大統領が「アメリカは48時間以内に重大なる処置をとる。日本はこれにより日本の採れる処置が過失なりしを知るべし」と言ったとて、何だろう。
ソ連が攻撃してくることか、参謀本部では極東軍に攻撃に出ることあるまじと言う。
潜水艦戦をもって機動部隊をやることか、空襲かと頭をひねる人あり。
12月29日
御殿場へ最近陸軍次官木村兵太郎・参謀次長田辺盛武お話に出たので、戦況等につきては御承知と思い大して触れなかった。
御希望ありしルーズベルトの親書、木戸内府より借りて持って行った。
少しお腹の具合悪しとのことなりしも、大したことではなかった。
なにしろ身体の抵抗力に自信がなくなっていらっしゃるようではあった。
大正皇太后〔貞明皇后〕沼津にて落ち着きのようなりしも、少しはおさびしいようでもあった。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』
1942年1月17日
御殿場へ行く。
秩父宮およろしき様子。
お腹の具合もよくなり、お顔の出来物ほとんど治っていらした。
最近近衛とか人にもちょいちょい会って、かえって気分転換によろしい様子とのこと。
1月18日
太郎坊スキー。
ゲレンデはすごく狭く、上の方まだ雪なくて駄目の由。
久しぶりの膝に力なき足慣らしにはこれでも結構。
雪はあるがデコボコで、1~2間しては転ぶのでとうとう脱いで歩いて下る。
昼食はお兄様も一緒におこたで食べる。
2月15日
赤坂離宮のお庭でスキーをやりに行く。
5月25日(満州滞在)
満州国皇帝さんから帰ったら申し上げてくれとのこと。
●日満両国は左右の手のとごくでしかも一心なり。
●建国神廟については全満州の崇敬の中心とすべく、率先これに奉仕する覚悟である。
●全力を挙げて大東亜戦争に協力するとともに、北方の護りに対しては満軍も日本軍と協同してその全きを期す。
●大東亜戦争勃発い際しては、その夜に御前会議を開き、まったく日満一体にてこれに当ることを話した。
●汪兆銘来満の節にはよく日本と携えて強力して行くことが唯一の道であることをよくよく話して、汪兆銘も同意見のことを答えた。
●時局は世界の禍福の分れる機であって、天皇陛下の御健康は特に重大であるから、いっそうその御安体をお祈りしておること。
7月11日
御殿場へ。
秩父宮、このごろ日中は杉林の中でお過ごしの由。
少しお痩せになったが、黒くなって具合よさそうになったが、まだ痰がからむ気味だった。
7月12日
秩父宮、林の中の組立バンガローに出ていらっしゃった。
外の時は看護婦白いのはおイヤとて、着物をきてくる。
7月15日
三笠宮妃殿下、今日初めてプールで泳ぎのお稽古。
7月18日
徳様〔竹田宮恒徳王〕より東宮様の御教育組織に関し、考究の要ありとのお話。
7月27日
理髪。
翼賛型の髪というのが新聞に出ていたが、床屋はそんなことはまだ何も聞いていない由。
7月29日
プール水換え、気持ちよし。
8月1日
プール1/3初めて井戸水にて補給す。
水温冷たくなり気持ち良いくらいなりと。
8月8日
泳ぎ、冷たいくらい気持ちよし。
8月23日
吹上のプールにて両陛下のお相手に泳ぐ。
8月25日
プール水換える。
ニュース映画陪覧、初めて御文庫にてあり。
8月30日
先日キスカ行のこと課長から次長の話してもらったら、危険だから今はいけないという話だったから、今日話してみたらやっぱり危ないからとの話。
危険率にしたら数字にならぬではないか。
前のラポール行の時の大臣の言う空虚な危険視と同じではないか。
大臣の言う今秩父宮もお休みだからなにしろ生きていろと言うなら、またそれでも理屈かもしれぬ。
まったく統率上、生ける屍なり。
9月5日
御殿場へ。
秩父様も日焼けしてお元気なり。
お咳40分、長い時は一時間も続くことある由なるも、これは気管がふくれていたのがしまってきたためにて良き経過なる由。
9月8日
吹上にてニュース映画陪覧。
ガダルカナル島戦況に大いに御心配にて、新しき情報ないかと御催促あり。
喜佐子〔高松宮喜久子妃の妹・榊原政春子爵の妻〕来邸、オバーサンと折り合い悪し趣。
9月9日
大宮御所より紅茶茶碗お回しいただく、
大倉陶園にこれに組の菓子皿できるか尋ねしところ、50枚同じ描き手にて約三カ月でやれる由。
頼むこととす。
9月14日
プール水換え。
9月18日
涼しくなり泳ぐのをやめる。
7月22日から55回泳いだ勘定になる。
12月4日
昭和皇后が横須賀海軍病院にいらっしゃった時、御用掛かなにかの子供が入院していた。
昭和皇后は御目をつけられて皇后宮大夫広幡忠隆に囁かれたが、御案内の病院長は何も言わなかった。
東京第一陸軍病院へいらっしゃった時は、院長がわざわざ内務大臣湯沢三千男の子供とか誰の子供とかことさらに指名して申し上げた。
ここに陸軍海軍の気風の違いが認められる。
12月28日
餅つき。
12月29日
大倉陶園より、紅茶碗にあつらえた菓子皿50枚出来。
少し花の色の違ったものあり。
今度の誕生日に果物皿をいただくつもり。
フィンガーボールは形よくないから皿のみ。
12月30日
平泉澄博士と面談。
悲観論派は近衛を中心とし、楽観論派は東条を中心とし、対立の傾向激しからんとす。
近衛と東条とを会わせることにより緩和せしめんため、私の所にて両者を一緒に呼んで聴いたらよいだろうとの話なり。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』
1943年1月1日
町では日本髪の娘、年末からちらほら、例年よりも多かった。
女の子、大きなリボンを髪につけたのが多かった。
他に飾るところがないからだろう。
着物でめかしたのは少なかった。
なんとかして飾ろうとするのは女の欠点と言う人あり。
そうばかりでもあるまい。
今年の程度は結構だ。
門松ほとんどなし。
松つけてあるのがおかしいようだった。
二重橋前の人手は今までにない多数だった。
行くところが無いせいもあろう。
1月16日
デソート使い始めてみる。
安物だけに乗り心地はスプリング固い。
1月17日
大宮御所。
デソート御覧に入れ、芝生を回ってお乗せする。
1月18日
デソートを毎日使っているが、1941年型で目立つ。
米が足らぬ着物が足らぬ、そして作戦は苦しくなる。
それをひしひしと感じながら戦利品歴然たる車に乗って歩くことは見た目の感じ甚だよろしからずと考えられ、人心の心に及ぼす影響は皇族が独りよがりで戦利品を乗り回す有り様は遠慮すべきであると思える。
それで新しい車に乗る楽しみは少しもない。
今ある7人乗を乗り延ばすつもりで、デソートの方を早く使い古すのが長期戦の対策かと、まあ消極的な反感は目をつぶってもらうつもりなり。
皇后宮大夫広幡忠隆より東宮様御学問所に関する研究経緯を聞く。
現在東宮様は算術なども一般より計算等に時間がおかかりになるが答は間違いなくなさるので知能の方は普通であるが、やはり御身体の方が考慮を要する点なり。
宮内大臣松平恒雄の意見にもあり、運動場を一般と一緒に御使いになり、その間に得るところ少なからずと考えその方針なり。
2月16日
吹上御所。
三笠宮より御旅程など詳しい御手紙が来たと珍しいようなお感じらしかった。
大いに現地事情を申し上げるべしと張り切る方なるべし。
東条・近衛を会食に呼んだこと、「どういうのか」と御尋ねだった。
政治に関することなら知らずにおれぬという御気持なるべし。
皇族はでしゃばるなという御気持もあるべし。
2月22日
昨年昭和皇后へ五宮〔秩父宮・高松宮・三笠宮・北白川宮・東久邇宮〕より御誕辰に上げる扇面型文庫あまり音沙汰ないので伺ったら、注文するのを忘れていたらしくこれからという話。
それで注文したらしいので御価を入江相政事務官に聞いたら、注文したがわからぬという話。
いよいよノンキなことなり。
高価らしく今年の分もそれに一緒にすることになる。
4月19日
連合艦隊司令長官山本五十六遭難の電報を見てぼんやりとなる。
一部長わざわざ残念なことなりと挨拶される。
総長、午前上奏す。
好んで連合艦隊司令長官が死地に至る時機ではなかったが、軽挙なりということではない。
喜ぶべきこととは考えられぬが、無駄なこととは言えぬ。
主将ことに山本大将の統率力から見て犬死にはならぬ。
5月3日
木阪義胤中佐、明日赴任す。
支那事変以来戦争に参加せぬのは、全海軍の中で木阪氏と私とただ二人なり。
これで本当の一人になったわけなり。
技術関係者はそれでよいが、作戦統率関係で戦争に行かぬとはでくの坊ということなり。
物も言えぬことなり。
極めて憂鬱なり。
出発の挨拶をされて思わず涙ぐむ。
この気持ちわかる人はまた木阪氏のみなるべし。
5月6日
ドイツ語の稽古。
5月8日
《皇族会議の件》
久邇宮徳彦王〔龍田徳彦伯爵となる〕については臣籍降下して伯爵ということには問題なきも、賜金100万円より少なくしては如何との考えもありしが、さてその時期になるとやはり100万円ということになれり。
私としては先に久邇宮家彦王〔宇治家彦伯爵となる〕の時にも問題ありしが、今回も100万円という額が多すぎて皇室財政上の困難ありと言うならばこれを減ずるに差し支えなきも、久邇宮多嘉王〔徳彦王&家彦王の父〕が降下されるべきものをされなかったのだからという考え方には不賛成にて、降下されるその方の直接に必要によるものとして考うべきなりと述べておけり。
《賀陽宮恒憲王の件》
名古屋の師団長に赴かれる時 陸軍関係では自分の知っている者を集めて張り切って行かれし趣なるところ、内大臣木戸幸一に「愛知県知事雪沢千代治ならびに愛知県官房長山田武雄は良くないから交代せしめよ」と注文されて困らせて行かれたが、官房長は原信次郎に代えたが、知事についてもその後も大蔵大臣賀屋興宣にも言われし由。
新内務大臣安藤紀三郎は直ちにはできぬ旨申し上げる由。
宮内省としては内務大臣の決心に対してなお皇族として言われることになれば間に入るべきなるも、いまだ関係すべきであるまいと考えを述べておく。
《東伏見邦英伯爵〔元久邇宮邦英王〕の件》
比叡山真言宗管長のことは元久邇宮属なりし飯田というもの京都にあり真言宗宗務に関係あるとかにて、その策動にて得度する要なくてとて東伏見伯爵に申し入れ、彼は昭和皇后の弟宮なりしとのことで宗会議等の関係を丸め得るとでも簡単に考えたるか。
東伏見伯爵も歴史研究にも便なりくらいにて、東伏見大妃〔養母東伏見宮周子妃〕・久邇大妃〔実母久邇宮俔子妃〕に話あり、別に反対もされなかったとのことにて新聞に出たわけにて、得度することに東伏見伯爵は大反対とのことなり。
本願寺の者は「昔は叡山と奈良から妻帯することについて盛んに攻撃されたるに、今度は真言宗の管長から妻帯することになるとは面白いこと」と言っている由。
〔東伏見邦英伯爵はすでに妻子持ち〕
文部省では管長は、
●徳のある者
●得度すること
などを条件と考えある由にて、宗務会議等にて改訂をしてもその点文部省で許可せざるべし。
ただ例の官僚的に申し出なければ、意志を表明せざる態度は不適当なことである。
星島は先に3年の執行猶予なりしも、相変わらず東伏見伯爵の身辺にあり。
他に人もなきらしく、今回のことには直接関係は無いようなり。
5月15日
照宮〔照宮成子内親王〕御婚約につき参内。
内謁見所にて両陛下・照宮御揃いにて御祝を御受あり。
御祝酒・サンドイッチ出る。
5月16日
秩父宮、だいぶおよろしき由なるも、御起きになるほどにはならず。
少し痰余計に出る様子。
5月22日
昨日連合艦隊司令長官山本五十六、戦死発表あり。
今朝の新聞に大々的に出る。
知ってることだからなんともないのだが、車中で見た新聞 置き捨てにしがたい気持ちにて鞄に入れた。
おそらく他の人だったらこのように心動くことはあるまい。
海軍として大損失と言えよう。
また世の人にとってもなんとなく惜しむ心を人から人へと伝えて、付け焼き刃ならぬ心の痛みを知ると知らぬとに隔てなき憂いとなるであろう。
亡き人の徳なり。
6月5日
連合艦隊司令長官国葬。
北白川の叔母様〔北白川宮房子妃〕よりお話あり、大臣官邸に場所を用意し、喜久子〔高松宮喜久子妃〕・百合君様〔三笠宮百合子妃〕・東伏見宮おいであり。
先の東郷平八郎の国葬の時もそうだった由。
北白川の叔母様そういうことお好きなり。
涙とまる時なかりし由。
6月16日
先年宮崎県でもらった弓を持ち出して、矢の良いのがないので、弓がけは魚籃坂の弓師にて作ったから、今度は矢というわけで、池田特務大尉が集会所の出入の弓屋に言いつけた。
買うことになる。
4本で25円とはちと高い話だ。
名入りでこれが良いのか悪いのか知らないが、売る方ではこれで値を上げたことになっているのだろう。
6月23日
秩父宮へ寄ってお姉様と話す。
お兄様はかばかしくないので、なんとなくお気になること多き御様子。
6月25日
照宮〔照宮成子内親王〕の御新居拝見に行く。
6月30日
音羽様〔音羽正彦侯爵〕の奥様〔大谷尊由の娘大谷益子〕御病気なりしとのことにて御見舞の件 秩父様と御相談せるも、音羽様は別に女あるらしく、奥様は今まで黙ってきたのだがそれが原因とのことにて、御見舞はもう少し調べてからとなる。
7月13日
近衛の件で東久邇宮稔彦王来談。
近衛から聞いてくれとのことなりとて、
(1)私が近衛をつれて陛下にお話を申し上げようとしているとのことなるも本当か。
(2)私が近衛に会うつもりか。
とのことなり。
(1)は別に心当たりなし。
近衛は自分から会いたいということを馬鹿に気がねしているとのことなり。
7月15日
ドイツ語の稽古。
秩父宮御病状につき遠藤博士の話を聞く。
左肺の鎖骨の上下にわたる部肺尖に空洞あるらしきも、肋膜が厚くなってきてポータブルのレントゲンではよく見えぬ。
昨年夏ごろから左の横隔膜はずっと上へ上がって左乳の辺まできて、心臓も左にずっと寄り、気管も左に寄って、右肺が広がっている。
これは気胸をやったのと同じ結果であって、肋膜の癒着のため気胸ができぬのだが、やったのと同じになっているのは良いわけなり。
病患は左肺の前葉で、後葉はそんなに侵されておらぬと思える。
右肺には最近は異状を認めず。
腹膜と共に警戒注意している。
腸にもなんらの発見しているものなし。
一般と比べて抵抗力が非常に弱いように見受けられる。
下痢はそんなにほどくないので案ずることはない。
治療としては開放療法を根本として推奨する。
そして鼻カタルとか風邪とかになって病状が後戻りするよりも、これで抵抗力をつけることが大切で、零下10度になってもよいという話なり。
それならば秩父宮のやり方は不徹底で、これを唯一と考えるならば効果を期待するに不十分なり。
それに関しても看護婦は日赤の結核療養所経験者でないため開放についても思い切ってやれぬのではないか。
また看護婦がやろうとしても侍女などがなんとなくやり難くする態度あるべきは、私の病気の時から推して察せられる。
病人にとって看護婦は極めて大切なる存在なれば、医者と気脈をよく通う者で思う通り病人を扱えなくてはならぬ。
それで病人も安心できるわけなりと語る。
一度療養所見学せしめること考えしも、遠慮にて実行せざりし由。
セファランチンにつきては効ナシとの例のみを挙げて、実用せんとする方に心傾かぬ様子なり。
「医者はどうも新しい療法や薬を排斥するばかりで、協力または採用せんとする努力せざる通弊あり」と言ってやる。
檜や椰子の油については実験したることなしと。
お灸はどうかと言えば、やっても差し支えはないが効くとは思わぬと言う。
あれやこれややるのは、かえってどれも効かぬと病人に療養の信念を失わしていけないとも思えると。
今度の土曜にレントゲンを撮って、それから相談して治療につきても考えるとのこと。
治療としてできることは、肋骨切除・空洞吸出なりと。
これは御殿場ではできぬ。
今すぐ動かすことは考えぬと。
遠藤博士も自分の治病の経験からやはり新しいことはやらぬと言う点も、物足らぬ感なり。
7月18日
プール、今日から使用。
7月22日
朝プールで泳ぐ。
平泉澄博士来邸。
戦局ますます困難となり、どうも東条首相では国民の心を満足して敗勢を挽回することに一致せしめることはできないであろう。
国民はいまだ勝っておるつもりでおる。
今から一生懸命に喜んで努力するように立て直さねばならぬ。
それには皇族が乗り出す時機はすでに来ているであろう。
悪化の情勢に陛下が正しい筋の通った人を側近に有せられることは必要である。
またかかる場合には平凡より癖あるも仕事をする人も必要なり云々と。
往年共産主義思想の風靡せる時は、学生も教授も暴動に際してはいずれに加わるべきか、運転手も宮城があって邪魔で回り道をせねばならぬと言い、天皇を敬うとかいう心なく、考えれば無くてもよいものがあるわけだと言うのが共通であった。
それが今日に至ったのはなんと言っても五一五事件で世人はハッとしたこと、満州事変等々によるのである。
もとよりその当事者は未熟の者でその罪は罪として刑せられて適当であるが、しからば今日まで何事もせず罪せられずにおる者が如何にして彼の思想の危機を打開することに努めたか。
何もしておらぬのである。
かくのごとき経緯に対しては十分に今日の時局と考え合せて、その筋道を明らかにしておらねばならぬ云々。
「最悪の例を取って言えば、無条件降伏となった時にも国民が一致して再興を誓い、臥薪嘗胆するつもりになればようであろう」と話したのに対して、今からも少しでもよいということを努力実現しなくてはならぬ。陸海相互に悪口を言い合うようではならぬと。
「皇族と言えば、私はどうも自信が持てぬ。秩父宮ならばであるが、目下東久邇宮稔彦王は近衛公爵とか他の人と常に接触しておられ、経験も理解もあられるからよいかもしれぬ」と語る。
7月25日
プール、水換えしたら溜まらなくて泳げず。
ムッソリーニ辞任、パドリオ任命を報ず。
畑、ジャガイモ収穫。
種芋5貫にて90貫余獲れた。
7月31日
戦局は困難は増大すべく、国際情勢また有利ならざるは速やかに改善せらるべき予想立たざる時、最悪の場合を考えその処置を案ずるは極めて必要なるなり。
すなわち私としてただちに迷う問題はやはり生か死かの分かれ道にたつことなり。
一つは都にありて陛下の側近にあることにして、一つは戦場に赴きて敵中に突撃することなり。
いずれも国体変革暴動に際し皇位を守るためなり。
敗戦による国民の怨みが天皇に直接向けらるるとせば、私が戦死することによって感情的に慰撫するとともに国民を発奮再起を誓わしむることを得べし。
先の大戦にドイツ崩壊にあたりカイゼルはただちに戦場に赴きて決死せば、ホーエンツォレルンの後嗣を立て得んとする進言の意味に合せんとするなり。
然れども現在の人材においては一抹の不安を国内の死後に残さざるを得ざるものあり。
しかして生きて側近にありて何の重責を負うべきやを思えば、また自らの識量の足らざるを憂うること切なり。
ここに生死の迷いに悩むを如何とせば、死を選ぶのみか。
秩父宮にして些かにても活動し得らるるとせば三年の命を一年につめても国家の危急に応ぜらるべきは明らかなれど、いまだこれをたのむべく体力の快復し給わざるを惜しむ。
三笠宮はあまりに幼稚なり。
数年後に委するに足るべきも、今すぐにものの役に立つとは思えず。
軍人たらんとしてすでに命を保つに専心して今日あり。
政治家たらんとしていまだ機運の熟せざるものあり。
もとより政治に関与するにはまず東久邇宮稔彦王を推さんとするも、他の皇族にして頼むに足る者なき観あり。
竹田宮恒徳王は一臂の力となるべし。
北白川宮永久王はすでになし。
世間、皇族の出でて時局の一環を担うべき機は来れりと言う。
皇族出づとあらば国民は自ら安んじて進むべき道につかんと。
我が国の特徴また存すと言うも、いたずらに甘く考うるは不可なるべし。
天皇親政あるべしと言う。
親政とは如何。
天皇一人にて何をなし給うや。
総理大臣と天皇との間に隔たるものありとの不安も、結局は国民の生活苦ないし戦争遂行の不安に依るべし。
皇族出たりとも親政を疑う心理を解決するとは限らざるべし。
要は総理大臣を信頼すべく国民を指導するにあるべし。
皇族の出づる意味もまたこれを覘うに他ならざるべし。
皇族自ら総理大臣たるにおいても同理なり。
要は官吏の奮発反省を得て一億一心の団結信頼により国運を啓かんとするにあり。
如何にしても敗勢を挽回し勝算を得んとの努力に邁進せんとするにあるべし。
かくては敗戦にも国民の決心動揺することなく、復仇再興の念を堅めしめんとするを得べしと言うも、なお直ちに発動して敗勢を転じて必勝の念に不動心を確固にせんと言うなるべし。
少しでもよければ皇族立つべきに疑いなきも、軽率にしてかえって親政の実を乱し、思想戦の遅れを取るがごときは慎むべきなり。
なんとなれば皇族の立つは主として精神作興にして、これをもって国民の物質生活を恵まんとするにあらざればなり。
8月1日
照宮〔照宮成子内親王〕より喜久子に電話にて、プールの御相手に来ぬかとのことで吹上に参る。
一時間泳ぐ。
昭和皇后も今年初めてお入りになる。
8月4日
朝、プールで泳ぐ。
8月11日
遠藤博士に秩父宮のレントゲン写真を見せてもらう。
左胸ほとんど白くなってわからぬ。
空洞あるらしいという程度。
絶対安静・大気療法で行くこと。
手術はやらぬ。
8月16日
泳がず。
ローマ、非武装都市宣言。
8月17日
東久邇宮稔彦王来邸。
近衛より「幣原喜重郎の話を聞いたらよい」との伝言を伝えらる。
電話でもよさそうなものなり。
8月27日
三笠宮別当厚東篤太郎より、百合君〔三笠宮百合子妃〕おめでた二カ月とのこと。
8月29日
ブルガリア国王ボリス3世崩ず。
よい王様だった。
枯れた盆栽を日本のだとて飾ってあったので、後から活きのよいのを送った。
8月31日
かぼちゃ収穫。
デンマーク国王クリスチャン10世軟禁せられ、デンマーク海軍艦艇60隻自沈せりと。
国王は海軍好きにて海軍を訓育建設されたのを考えれば、感深し。
デンマーク国王には好感深し、大事なきことを祈る。
9月5日
芝生を畑にする縄張りを見たり、稗の穂をつんだり、小豆つんだりする。
小豆二度つんだので、あとは刈るだけ。
9月9日
イタリア無条件降伏。
夜中の放送でイタリア無条件降伏せりと。
誰もがイタリア脱落は通念になっていたのに、あれよあれよと呆れるばかりなり。
失敗なり。
在ローマ武官光延東洋は8日朝、ナポリ南方に敵船団ありとの情報交換を発電している。
馬鹿にされた話なり。
9月22日
留守中に庭の畑、荒起し完了す。
9月26日
芝生を打ち起したりす。
手の皮薄く、長くやれぬ。
10月4日
かぼちゃの残り収穫。
10月13日
賢所で大前儀参列〔東久邇宮盛厚王&照宮成子内親王の婚儀〕
盛様〔東久邇宮盛厚王〕余裕しゃくしゃくとして現わる。
照宮〔照宮成子内親王〕美しく愛らしく見ゆ。
盛様御簾を出て縁の角にて振り返り、照宮の出てこられるのを見返した形、誠に優に優しい男ぶりなり。
照宮にこやかにて、さすがに朝は涙のあとも伺われたが、午後はあどけなく見ゆ。
盛様も無邪気、よき御夫婦、永く御幸福なれと祈る心地す。
10月23日
内原満蒙開拓青少年義勇軍訓練所生徒5名来り耕作、小麦まく。
10月24日
内原満蒙開拓青少年義勇軍訓練所生徒来邸、広芝の芋掘る。
558貫なり。
200貫貯蔵す。
11月2日
お姉様〔秩父宮勢津子妃〕より新服装〔宮中服〕につき御説明申し上ぐ。
喜久子、着て御覧に入れる。
11月7日
明治神宮錬成大会中央大会。
安南留学生の入場の時 仏印の札を持たせたところ、予行の時から安南と書けとていざこざありしも、大東亜省の意見とかにて仏印のまま無理に持たせたが、私の前に来たら札を返還するような形になって置いて行ってしまった。
その時はなにごとかと思ったが、以上の経緯あり。
なるほど、大東亜と言いつつ仏印か安南かのけものにしていたことなり。
大いに注意すべきことなり。
11月9日
久しぶりに肛門にイボが出る。
ボラギノールを入れる。
11月14日
満州建国大学、本年初めての卒業生を出す。
尾高亀蔵中将・安倍教授に聞く。
日・鮮人の一致せること実に目覚まし。
鮮人の和田教授の影響大なり。
満人はこれに次ぐ。
蒙古人は日本人的なり。
白系ロシア人は劣る。
11月17日
柿、収穫。
11月18日
サツマイモ・ジャガイモ収穫。
11月21日
カラスウリ至るところに赤くなっている。
収穫す。
11月22日
カイロ会議、ルーズベルト・チャーチル・蒋介石。
落花生収穫、9斗3升。
11月29日
宗秩寮総裁武者小路公共来談。
蜂須賀正氏侯爵、礼遇停止の件。
12月1日
テヘラン会議、ルーズベルト・チャーチル・スターリン。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』
1944年1月14日
《東伏見邦英伯爵の管長問題》
文部省ははじめから俗人に修行なき人には許さずと言うも、態度極めて消極的なり。
最近得度して僧籍に入るとの考えを持ち、そうすれば管長になれるとの見方をしておられる。
本年になりてより久邇宮朝融王〔東伏見邦英伯爵の兄〕に珍しく面会、その話をされし由。
朝融王は「どうせなっても失敗するであろうからやらせてみよう」との考えの由。
宮内省としてはとめたいが下手にとめだてすると、「東伏見宮の祭祀を継がぬ」と申し出られるのを恐れる。
先の場合にもそういう脅しを用いられた。
東伏見宮大妃〔東伏見宮周子妃〕にしてみれば最も重大なることにて、昨年これも珍しく東伏見宮が法隆寺を自ら案内されたのをひどく喜ばれて、宮内大臣松平恒雄・宗秩寮総裁を食事に召したというくらいのこともあり。
僧籍に入ることを望まれぬが、これは絶対ということでないので仕方なしとも考えられようが、祭祀のことになると大問題で大妃殿下のもっとも痛心されることになり、松平宮相もこの点を考えねばならぬ立場にあり。
管長就任に関しては叡山側もこれで世襲の管長を叡山に置けるという考え。
青蓮院〔天台宗門跡寺院〕ではそれで収入も増すであろうという考え。
上野〔天台宗寛永寺〕では京都久邇宮邸を住居とされよう、そしていずれは東京の移られて上野に来れようというなどの、それぞれの考えで賛成している。
黒幕たる星島・飯田はすでに運動金を消費しているとか。
管長になれば年10万円はもらえよう等、就任のためには100万円も用いられよう等の考えあり。
結局現在ではやはり文部省から速やかに、時局も考えかかる管長は許さぬ方針をそれぞれに示達するを適当とすべしとの所見を宗秩寮総裁に語る。
2月4日
音羽様〔音羽正彦侯爵1944年2月6日戦死公表〕大島島へ行かれ危ないからとて第六根拠地隊参謀に代えたところ、こっちが先に敵の上陸するところとなり変なことになる。
もちろん私は一人ぐらい本当の戦死〔皇族の戦死・音羽正彦は元朝香宮正彦王〕あった方が良いと思ってはいるが。
2月16日
東宮伝育官石川岩吉来談。
平泉澄博士の話にて、時局まことに心痛、いよいよ皇族内閣出現の要ありとの感深し等々。
それにつきその段取りを聞きしに、昭和陛下の思召によるといった考えなりと。
皇族が政治に関せずとて責任を逃れる要はなきも、いたずらに出てみたところで何ができるかとの考えかわりなし。
2月18日
軍令部。
海軍大臣に話す。
「私の保身の時にあらず、戦死するべき時ならずや」
いまだしからずと言う。
「海軍の最後的努力すべき時なり。大臣または総長交代して活を入れ直すべきでないか」
目途が無いのに辞するわけにゆかぬ、信念として悲観した顔・言葉は表さぬとて、なお最後的段階に立ち至り大臣の能力及ばざることに気づかぬようなり。
2月20日
私の銅像三つあるのを壊す。〔金属供出〕
2月21日
伏見宮熱海より御帰京、来邸。
昨日の手紙の件のお話、嶋田大将御信任ありて辞めさせるよう言えぬ、私から昭和陛下に申し上げるようにでもすればともかくとのこと。
2月26日
東久邇宮稔彦王より電話にて、朝香様〔朝香宮鳩彦王〕より音羽様〔戦死した音羽正彦侯爵・元朝香宮正彦王〕に菊花章を賜るわけにいかぬかとの話ありて宮内省に話しせるところ、宮内大臣も不賛成の由につき、朝香様にお話ありしに、私にもう一度話をしてみてもらえとのことなりと。
直ちに宗秩寮総裁武者小路公共に電話し、東様のお話を知らぬ態ににて相談せるも、宮内省に誰も菊花章に賛意を表する者なく、御降下の方として別の方法にて何かする工夫をするつもりとのこと。
もう一度私の意見ありしを宮内大臣に取り次ぐように言う。
2月27日
北白川の叔母様〔北白川宮房子妃〕より話あり。
音羽様のことにて、朝香様よりお話あり、なんとかならぬかとのこと。
私としても皇族が皇族として特別に受け得ることならともかく、一般の行賞をもじって無理をするようになるのは面白くないが、なんとか宮内省に申しましょうと約す。
公爵〔侯爵から公爵への格上げ〕も一案なるべしと言う。
2月28日
東宮様の御教育に関しては、かえって万世一系という国体に心易しとするためか、関心足らざるを感ず。
はるかに外国の国王・皇帝の後嗣の教育は直ちに皇室の存続の問題として本能的に考えられ、自他ともに熱心に厳格適切に行わるるにあらずや。
今時局の困難に直面し将来如何なる事態となるも、いよいよ天皇の御素質・英明にまつこと大なるを思えば、いまだ幼き東宮様の御身の上には実に容易ならぬ御苦労を願わざるを得ざるなり。
この意味でも速やかに成年の教育を受けしめ、一日も早く天皇として人格を備えらるるよう努めざるべからず。
3月1日
平泉澄博士。
いよいよ私の立つべき時機に立ち至れり。
ラバウルの全軍見殺し、空襲時の暴動化、今にして誠ある政治をもって戦力を全能発揮し、戦争目的を更めて宣戦詔書に基づきて明らかにし、戦争結着に持ってゆく必要あり云々。
3月3日
《東伏見邦英伯爵の管長問題》
その後文部省からインチキな得度では許さぬ旨、宗務当局者に強く話たるところ止めとなる。
東伏見伯爵も断念したとか。
それにつけても星島は磯子に常住し特別の配給として白米・玉子・肉等を警察から、それが受けなくなったので経済部から受けて、しかも代金も払わず、東伏見伯爵が月の半分は京都なのを一カ月分取って、なにかと言うと皇族出をふりまわし、量も皇族以上とか。
神奈川県知事近藤壌太郎も警察に出すなと言って止まったと思って知らずにいたり。
笑い話以上なりと。
3月4日
宮内大臣松平恒雄・宗秩寮総裁武者小路公共。
音羽様〔戦死した音羽正彦侯爵・元朝香宮正彦王〕に対し菊花章・公爵等の御沙汰願えぬかとの研究、いずれもできぬとのこと。
御沙汰御使も難しい。
結局何もできぬという話なり。
伏見博英伯爵〔戦死・元伏見宮博英王〕との釣り合いを言うも、伏見伯爵の金鵄章が特別の異例なるため、それは違うは当然と言うも、まず皇族出の者として特別でない方が感じがよいとのことを考えてもおるらしく、仕方なしとなる。
3月5日
喜久子2~3日胃の具合悪くあまり食べず。
ヒステリー気味なり。
3月11日
平泉澄博士が近衛公爵に、私が総長大臣兼任に対して大いに怒っているとの話をせる由。
私は怒っておらず、かえってそれもよいと思っている。
3月29日
叡山の問題が一段落して、残るは村雲日浄門跡〔仙石政敬子爵の実娘仙石温子/九条道実公爵の養女九条温子〕の話。
日浄尼の戦地への慰問文を見た兵隊(それもセックス的な乗ずべきものありと見てとると、所を書いておいて帰還する時の相手にしようとしていた)の選に入って、その兵隊の訪問を受け秘書に採用、今までの尼さんの執事を追い出してどこへでも連れて歩いている。
その兵隊はこれも同じ手で手に入れたのかすでに細君あり。
先の尼公〔村雲日栄〕の時から寺内の経済の乱れもあり後援会のいざこざもあり、寺の宝物・経済に手をつけられても困るし、こんな話もだいぶ京都で話題として賑わっているので、宗秩寮総裁武者小路公共が侍従武官の口を通して陸軍で再びその兵隊を召集さして南方に出すことになったが、船が出ないとかで依然として伏見の連隊におって休日にはちゃんと面会しているとか。
最近村雲日浄が上京し、大正皇太后〔貞明皇后〕と昭和皇后〔香淳皇后〕に御対面を願った。
大宮御所では知らないからすらすらと拝謁したが、皇后宮大夫広幡忠隆は知っていたので拝謁を止めていたので、両方がちぐはぐになってその訳を昭和皇后に申し上げなくてはならぬということになり、また広幡大夫足を痛めて休んでいるので武者小路総裁と電話でしきりにその話をしている由。
4月3日
山本英輔大将・内山智照同伴。
(言霊学、四国剣山の件)
4月12日
大学校に行き、寺本武治少将に黙示録・言霊学・四国剣山のことを尋ね、やはり後援したり勉強する必要もなしと思う。
三笠宮来邸。
〔出産予定の第一子の〕お誕生の名として「甯」とする。
ただし「ヤス」「サダ」なれば、男なら「サダ」女なら「ヤス」として、大正皇太后〔貞明皇后〕〔サダコ〕お兄様〔ヤスヒト〕と同じにならぬようにするつもりと。
支那の字なり。
不賛成とも言えぬ。
よかろうと言う。
4月23日
音羽様〔戦死した音羽正彦侯爵・元朝香宮正彦王〕英霊の箱には写真一枚入りしのみなり。
朝香の叔父様〔朝香宮鳩彦王〕は何も入っておらぬだろうとは思いしも、やはりなんにも入っていなかったとてガッカリなさって見えた。
ガダルカナル島戦死者等にて何もなく、現地の慰霊祭の供物と思われるバナナの皮等を入れあるものあり。
地方新聞にてこれを家族の人が怒らぬようにとの記事ありしこともありしが、そのつもりで考えれば写真一枚はいっそうつまらなく思う人もあるべし。
英霊の箱にはあらためて臍緒・歯など収めた。
例の通り〈南無阿弥陀仏〉を書いて8枚収む。
叔父様はお題目より〈七生報国〉とかそういった文句がよいとて、その場で書く方はそれぞれそうした句になる。
進級したので少佐の襟章と金鵄章二つになった略綬とを収む。
別に小箱を埋められるというので、それに襦袢とか足袋とか杖の型など入れた。
叔父様は英米に斃されたのだから、シャツなど英米の物は入れてやりたくないとのお気持だった。
小さい箱だったが割に入って、ネクタイも入った。
伏見博英伯爵〔戦死した元伏見宮博英王〕の時は少し大きな箱で雑誌等も入れた由。
伏見伯爵の遺骨は音羽様が横須賀から首にかけて、その時「重かった。感慨無量なり」との話ありし由。
叔父様のお話なり。
4月24日
三笠宮沼津にて百合君産気づけりとて、夕刻沼津へ行く。
少し変なり。
わざわざ行くことはあるまいに。
5月3日
徳川義親侯爵。
帰朝してみて陸軍の人に会って、どうなるのだろうと投げているのを見ていよいよ寝て夢心地にて、皇族が総理大臣になるのではなく打開の道をつけるために積極的に働いてもらう時と考える。
重臣も手をあげている云々。
5月4日
三笠宮、〔第一子の〕命名の御礼にとて来邸。
ちと変なり。
5月17日
秩父宮、ひどくおだるく、息苦し、召し上れぬのでブドウ糖2注射・強心剤2注射。
流感の気味、肺炎菌を認む。
5月18日
秩父宮御容態。
遠藤繫清博士拝診、レントゲンを撮り自然気胸のための呼吸困難と判明、吐き気もそのためと認めらる。
原因わかり一安心の御様子。
お姉様一人で御心配にて、電話かけて私にお知らせになるだけでも気軽になれる御気持ちなり。
5月19日
木更津航空隊着。
さすがに暖かき地なり。
ここまで来ると女の子の顔丸く血色よく愛情ある顔 多くなる。
そのわりに大人の女の顔は平凡。
5月23日
秩父宮少しお楽になり、御食気も回復せり。
御熱上下あり、一時腎盂炎の疑いありしもそうでなしと。
肋膜炎はなにぶん自然気胸にて、汚れた空気が胸腔にたまったので化膿の心配はある由。
寺尾殿治博士泊まり込みなり。
5月27日
内原満蒙開拓青少年義勇軍訓練所生徒4名来邸、イモ植え付け準備。
5月28日
内原満蒙開拓青少年義勇軍訓練所生徒引き続き作業。
5月30日
内原満蒙開拓青少年義勇軍訓練所生徒、午後引き上ぐ。
6月22日
御所、御都合うかがい参る。
サイパンを失うことの重大に関して一言申し上ぐ。
あとつけたりにて「皇族を何にか御相談相手になさる御思召なきや」伺いしところ、
「政治には責任あったからできぬ」
「統率の方も責任あるべし、結局お頼りになる者なしとのことでしょうか」
「それは語弊あり」云々。
相変わらずにて落胆す。
6月24日
親睦会。
会食後談がサイパンのことになり、朝香様〔朝香宮鳩彦王〕は「奪回作戦を強行せねば、あと目算なし」、東様〔東久邇宮稔彦王〕は「成算なき奪回はやらぬ。あとなんとかなるかもしれぬ」
午後昭和陛下に「元帥会議は形式的なものである。準備期間もない。しかもそれは統帥系統のもので、戦争指導上もっと深く考えをめぐらす上で決定さるべき」旨 手紙を書き、「御苦心遊ばすべきと思う」と書いたが、とうとう差し出さずに止めてしまった。
6月25日
昨日の手紙、やはり差し上ぐ。
6月26日
御所、御二階にて昨日の手紙のこと。
「元帥会議上奏御決定のことなれば、ひっくり返すことなし」との御話あり。
「ひっくり返すにあらず、サイパン確保と言い実行せざるままに問題あり」云々から、
「しつこい」と言うことであった。
7月5日
秩父宮へ行き、作戦の見通しなく国内結束第一重大なること、陛下が依然形式的なること等、よさそうならお兄様に申し上げてほしいと言っておく。
7月7日
内大臣・宮内大臣・侍従長と会食。
昭和陛下の修養の御相手必要とすること、御健康には錬成の意味にて強制・克己の御運動が必要なること、組織の乱れた時の御覚悟として御注意を申し上ぐる要あること等話す。
7月8日
陛下の御性質上、組織が動いている時は邪なことがお嫌いなれば筋を通すという潔癖は長所でいらっしゃるが、組織が本当の作用をしなくなった時はどうにもならぬ短所となってしまう。
今後の難局にはその短所が大きく害をなすと心配されるので、そうした時の御心構えなり御処置につき今からお考えを正し準備する要あり。
すなわち精神上の師となる人をおつけすることが必要であるとの話をした。
昭和陛下は筋を踏み外すことがまったくお嫌いなため、内大臣は政治・武官長は軍事・宮内大臣は宮中関係・侍従長には側近のことというふうにまったくそれから少しでも出たことを申し上げれば御気色悪く、自らも決しておおせにならぬ。
侍従長も初めは何事にもついて申し上げるつもりだったが、これはできなくなった。
もちろん二二六事件等の例により侍従長と内大臣を撃たれたということは、大きな衝動としてますますその区別を立てることによりかかることなきようにとの御気持を強くしてしまった。
内大臣はまったくありがたい御気持とは思うが、あまりに極端であるとは感じあり。
先日伏見宮が海軍大臣を代える件につき申し上げられた時も、内大臣に「内閣の更迭は困る。御思召によるとなっては困る」とおおせられたが、伏見宮の御話にありしことなり。
したがって御修養の師たるべき者が得られても自然それが具体的な政治問題に触れたら、かえって御不興をもって一度でお近づけにならなくなるであろうとは皆の考えなり。
そうしたお考えが甚だ困るので、それを改めなくてはならぬ。
内閣の組織更迭はしばしば御経験あるも、それを各種の情況の下に分析的に御認めになることなく、一つの結果だけを経験として前例にされるところも政治性なき御性質なり。
なにしろ今日のごとき憲法〃〃とおっしゃっても、その運用が大切なる時に今のような有り様では、例え天皇として上お一人でも万世一系の一つの繋がりとして、それではあまりに個人的すぎると思う。
7月16日
侍従長。
このあいだ私が何を申し上げたか知らぬが、あとでだいぶ御興奮になっていた。
御性質もあり重大なことを申し上げた時お聞きになるよう、あまり小さなことで御耳をふさぐよう仕向けぬ方がよいだろう云々。
7月26日
山本英輔大将。
四国剣山の件、帝大の考古学の先生などの方から価値ありとなれば、やれと声を掛けよいがと言っておく。
7月29日
平泉澄博士の弟子島田東助少佐。
総参謀長を置き統帥を強化して、私にそれになれと言う。
皇族がなることまでは同意だが、私という点は同意できぬと言っておく。
8月5日
今夏初めてプール水換、泳いでみる。
8月9日
北白川の叔母様〔北白川宮房子妃〕来邸。
7月7日に御所に上って昭和陛下にこと時局重大な時 昭和陛下も本当に御自身でなさる思召大切というようなこと申し上げしに、昭和陛下は「どうにもならぬのだ」とて、例のような少し工作するとつまづくと言ったという御話ありしと。
情けないことだ。
どうして平時とこの危機との区別がおつけになれぬのか。
8月11日
喜久子、昭和皇后に例の新しき服装の件〔宮中服〕申し上ぐ。
昭和陛下宮内大臣に新服には反対だと御興奮なりしも、松平宮相これは思召とも伺えず、主旨に御賛成とのことで進めておった云々と申し上げ好転せしめた由。
昭和陛下の御興奮も困ったものなり。
困ったぐらいでこの重大時局をどうしたらよいか、ほとほと安き時もなき思いなり。
どうしたらよいのだろう。
8月20日
御殿場へ。
秩父様、幾分お痩せなるも気先甚だ良く進んでお話になる。
8月21日
喜久子と大宮御所へ。
できたての唐衣〔宮中服の一種〕御覧に入る。
10月6日
宮中婦人新装〔宮中服〕発表まで進んだので、お姉様と喜久子とで大臣・時間・式部次長武井守成・式部課長坊城俊良・皇太后宮御用掛山中貞子を呼んで慰労会食。
12月7日
0130~0240空襲警報。
初めてウチの防空壕に入る。
12月17日
今日も空襲なし。
こうなると少し変なり。
これも神経戦なり。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』
1945年1月20日
18日喜久子大宮御所に上りし節、時局なんとしてもよいと思えぬ、宮内省に人なく何もさせぬから歌に詠んで神様に願ってばかりおるが、どうかして予告などせず本当に働いている人々のところにスーッと行って一言でも言葉をかけたらと思う、今ならそれが効果あると考えるが先にはそれも意味ないことになるであろう、自分はこのごろ特に身体に気をつけて以前よりも早くも寝るし大切にしておる、どんなに人が死んでも最後まで生きて神様に祈る心である云々。
この趣、宮内大臣・次官・総裁に話すよう、明日それぞれを呼ぶことにしておいた。
1月26日
京都。
仁和寺の隣の近衛公爵の陽明文庫に行く。
東大田山教授説明。
前田侯爵未亡人〔前田菊子〕ミイ子〔前田美意子〕水谷川夫人〔水谷川正子〕三井弁蔵夫人〔三井栄子〕近衛母堂〔近衛貞子〕・近衛夫人〔近衛千代子〕
2月6日
久しぶりに内大臣と話した。
別にまとまったことなし。
昭和陛下に時局収拾の胸算おありのようかと尋ねたが、別にないらしかった。
昨日内匠頭岡本愛祐子が、外務大臣が拝謁の後で大いに喜んで日本は神風が吹くと言ったとか、満州事変のころの昭和陛下の御心痛と昨今の御様子とを比べて何か見通しがおありになるなからん等 言っていたので。
2月11日
細川護貞。
木戸が内大臣では駄目だということ等々。
大宮御所。
あまり御無沙汰していたので、先日喜久子が上がった時に少し御不満な御話だったとか。
三笠宮御二方も。
2月15日(青森県滞在)
風邪の気分良からず、スキーに出かける気にならず。
2月16日(青森県滞在)
午後スキー。
2月17日(青森県滞在)
午後スキーに行く。
2月21日(青森県滞在)
午後スキー。
2月22日(青森県滞在)
尻内付近で雪の原の街道にただ一人の通りがかりの壮年者が立ち止まって私の車に礼をしていく。
つれだった生徒ら随所に車に礼をする姿を見る。
感激の心にじむ。
この国民をスペインのアルフォンソ国王の自動車に等しく立ち止まって礼をしたスペイン国民が、まもなく革命の君臣たらしめたと同じに考えられぬ。
同じにしてはならぬ。
2月25日
宮城にて午餐お招きのところ、空襲予想にて今朝お断りす。
御召は三笠宮・東久邇宮稔彦王・賀陽宮恒憲王。
ちょっとめずらしい結構なことと思っていたのに惜しいことをした。
東京より電話。
宮城・大宮御所に始めて爆弾投下。
三陛下御安泰。
大正皇太后〔貞明皇后〕は少し耳におこたえたとのこと。
秩父宮の御庭に一弾落ちたとのこと。
神田方面大火災となる。
2月27日
御所で侍従長藤田尚徳が出て来たから、「たまには宮城に爆弾が落ちるのも、陛下が戦場の中にいらっしゃることになって結構なことだ」と語っておく。
あまりに側近が戦時体制にならぬのがよくない。
1945年3月1日
秩父宮、少将に御進級。
先年は御病中にてどうしても御進級おいやとのことなりしをもってどうかと伺ったが、今度はそれほどでもないようなので、三笠宮と合同にて御祝として千疋あげる。
別に少し花を添える。
3月9日
夜半よりB29の逐次焼夷弾攻撃。
おりから強風にて各所炎焔、明るく天にうつる。
伊達宗彰侯爵邸の大建物焼け、火の粉庭に振る。
北風にてウチの方にはあまりかからず。
君塚町よりの棕櫚の葉や枯れ枝に少し燃え移る。
0230空襲は終わるも、火災やまず。
0430また寝る。
3月10日
宮城に御機嫌伺いに行く。
板倉坂下から神谷町の両側焼け、慈恵会の前まで延焼。
司法省全焼。
宮内大臣松平恒雄も焼け出されたとのこと。
賀陽宮全焼、山階宮一部焼けた。
賀陽宮は宮内省第二期庁舎に御避難。
山階宮武彦王は山階芳麿侯爵邸へ一時避難。
東久邇宮官舎燃えたが無事。
照宮〔照宮成子内親王〕午後男子御出生。
3月16日
長官邸のベランダにて日向ぼっこ。
日光の温度を十二分に享楽す。
罰が当たりそうな気持だった。
3月21日
これならよかろうと、伊勢神宮に官吏、国民の一部の開戦以来の怠慢をお詫びして今後の祈願を遊ばす、三笠宮か私が御内示を受けて参籠参拝すること如何と手紙書く。
3月24日
御所よりの御返事。
前提条件には議論あるも本論には賛成だから、実行につき宮内大臣と協議せよとのことなり。
前提条件のいかなることに御不賛成か不明。
3月25日
御所へ。
伊勢の件もし私へ御命じになるならば、前提条件の御議論ある点をとくと承らなくては、私として行くのではないから神を偽ることとなり一大事と考えるので、その時は御召をいただきたくあらかじめお願いする旨、再び手紙で申し上ぐ。
宮内大臣・次官・総裁。
伊勢御祈願の件大臣に相談せよとのことにつき話す。
研究の上は直接陛下に申し上ぐるよう話す。
1945年4月1日
高松宮元老女小山トミ、少し頭がおかしく、嫁いじめ、他人から物を欲しがりおかしき由。
4月5日
宮城へ。
伊勢参拝の御告文いただく。
その節先日の手紙の前提条件の御議論につき伺いしところ、
「責任をとって辞めないと言うが、責任は感じている」とのこと。
「私の言うのは辞めることではなく、例えば官吏が高級飲食店閉鎖後も酒や肴を手に入れて飲んだりするのは責任を感じぬことである」と言えば、
「そんな小さなことはどうでもよい。要するに戦争がうまく行かぬ、国際関係がよく行かぬ、内政上にも面白くないことがあるという莫としたこと。そして今後戦局が良くなるようにと言うだけでよい」とのこと。
また例の通り同じことを繰り返しになり、
「神様にはそれでよいでしょうが、私には飲み込めぬ」と言えば、
「それ以上は考えが違えば、やめてもらうより仕方なし」とのこと。
「それでは私は御遠慮いたしましょうか」と言ったが、あまりこれを押してもつまらぬことで閉居するに至るよりないので、それではいっそうよくないと思いお受けした。
4月12日
参内。
伊勢に行った御慰労の意味もあり夕食に御招きいただく。
また余計なことを言うと思召と悪いから、言うのはまたのこととして極力黙っていた。
どうも困ったことなり。
4月14日
昨夜2300から警報で多数機が北上中というので、とうとうそれから京浜地区空襲となり0400まで起こされてしまった。
0430事務官より電話にて、三陛下御安泰 各宮無事なるも、宮城一部・大宮御所一部・山階宮全焼の由。
山階宮ほとんど着の身着のままの由、和服等一揃あげることにして三笠宮で打ち合す。
秩父宮で新しき御召ある由、それを出していただく。
三笠宮ではシャツ類 出せる由。
4月15日
昨夜の空襲にて、内大臣木戸幸一の私邸・農商大臣石黒忠篤・浅野長武侯爵・葛城茂麿伯爵・内匠頭岩波武信・保科正昭子爵など方々全焼。
明治神宮御本殿も焼けしも、御神体は御無事なりし由。
大宮御所も庭の芝に焼夷弾が百数十発落ちて大騒ぎなりし由。
2200より0130東京ついで横浜火災を望見。
木更津方面で十数機火を発し墜落するを認む。
東海道線・横須賀線不通となる。
4月16日
昨日の空襲にて東久邇宮邸全焼せり。
東久邇様〔東久邇宮稔彦王〕鳥居坂〔息子東久邇宮盛厚王邸〕に移るのはイヤだとて、お庭の防空壕にがんばってらっしゃる由。
叔母様〔東久邇宮聡子妃〕と照宮〔東久邇宮成子妃〕は昨日伊香保にいらした後のことなり。
4月19日
鶴見より大井あたりまで鉄道の両側あますなく焼野原となる。
明治製菓と隣の日本電気とは建物あるも中は焼けた様子なり。
その他はすべて鉄骨のみ。
それも曲がり焼けただれている。
蒲田駅もすっかり焼け落ちたり。
三笠宮。
閑院宮春仁王より元帥様〔閑院宮載仁親王〕万一の場合火葬にしたいとの話ありしとのこと。
私の考えとして火葬は好ましくない。
御葬儀までの間の空襲等の懸念は、小田原別邸でお祀りなさって自動車ですぐにお墓へ行けばよいではないかと話す。
御殿場にも伺うとのことなりき。
1945年5月1日
ヒトラー死亡。
5月2日
白金の密輸で蜂須賀正氏侯爵と高辻正長子爵が検挙された記事、新聞に出づ。
高辻がリュックサックにて持ち出すを満州安東で捕まった。
高辻のは御紋付の時計もあり、蜂須賀のは外国の貨幣にて外国のもので儲けようというのがまた悪いと司法側で言う由。
いかにもこの戦時中上層者が悪いことをすると言わぬばかりで、これはかえって赤化宣伝の手伝いのような考えなり。
外国貨幣で儲けるのはかえって良さそうなものを、いっそう良くないと言うのは個人主義的ならずや。
5月8日
ドイツ降伏調印、開戦5年8月6日なり。
麦が穂を出した。
一昨年も麦をまいて、これが獲れるまで無事か思った。
昨年も畑を見て、いつまで続けられるかと考えた。
今も庭の美しさ・草・木の育つを見て、いよいよ来年と言わず秋はどうなるかとやはり寂しさに堪えぬ。
道真の「東風吹かば」の歌がしみじみと想われる。
5月11日
宗秩寮総裁武者小路公共。
閑院宮載仁親王衰弱、万一のことにつき相談。
●国葬となるべきも、時間と取らぬため皇族の参列2人にすること。
●陛下特に御補導の恩を思召され御なりの思召なければ御なり無きを可とす。
●ならば、葬列は自動車にて豊島岡に行くこととなるも、道は宮城前を通りどこかで陛下が御見送りなさることはよろしからん。
●四日ぐらいしていったん東京本邸にお帰り、一夜置きて御葬儀とす。
5月17日
宮内大臣松平恒雄・白根次官・武者小路公共総裁・皇太后宮大夫大谷正男食事して、敵が関東に上陸して来た場合、陛下が御移になる場合の準備を計画する要ある旨話す。
やはり大本営のことは統帥部で主動するべきなれば、宮内省は主動的にはしないという意見なり。
そんなことでは人情がない。
まして今までことごとに手遅れを知っているのに、それでよいか。
まして軍人は自分が開戦主義者として戦争の責任を一身に引き受けようとせぬ。
ズルズルすべてを道づれとして行くと言うタチの人が主脳者である以上、それに任せて話のあるのを待っておれるかというようなこと、大正皇太后〔貞明皇后〕は敵の手の届く所におられても乱暴はされぬだろうかというようなこと、和平をやるにも少しでもまだ戦いは続けられるという形を持たねばならぬ、無条件降伏といってもその結果は一つではないはずだ、国の滅びようとする時に宮内省が傍観していられる問題と思うかというようなこと、賢所の御移のこと等々。
5月18日
昨日の話で興奮したのか疲れたのか、胸が晴々せぬ。
朝起きて御殿場に御無沙汰している申訳を自問自答してみたら、泣けてしまった。
お兄様が御病中にこんな事態になってしまって、御殿場へ出ようとその暇は作れぬことはないけれど、なんとお話してよいか、何か少しでも良い種があったらと思ってとうとう来れなかった。
私はもともと政治には触れる趣味もなく、昭和陛下がそれをお喜びにならぬのをよいことにしてきたら、お兄様の御病中に大戦争になり、政治にも口を出すべきなのになんの準備もなくとうとう何もできなく、昭和陛下に申し上げることもまずいのか御聴きになるよう申し上げ方もできず、外国とのことも私には何もできず。
5月20日
閑院様〔閑院宮載仁親王〕御薨去の旨通知あり。
春仁様〔子の閑院宮春仁王〕は小田原に行くのをあまりお好みでないようなので、私は一人で午後行ってこようと思ったが、三笠宮は陸軍でもありお世話にもなったかとも考え、行くなら代りに行くように尋ねさせたら行くとのことで私はやめた。
5月22日
新旧横鎮参謀長来訪。
旧参謀長横井忠雄パリの香水をくれるとて持ってきた。
お大切にとかなんとか当り前の挨拶をして帰ったけれど、それが妙にしんみりとこれでもう生きて会えぬというような響きを伝えた。
しかも私の方が大変だろうというふうに言っているのがひしひしと感じられた。
このごろ私の気持ちが安定せぬためかもしれぬが、ドイツにおった人〔横井少将は元駐独御付武官〕としてドイツの最後を聞いての感慨をこもらせておると思える。
5月24日
B29 250機、東京・横浜空襲。
鳥居坂の東久邇宮〔東久邇宮盛厚王邸〕も全焼。
保科正昭子爵、二度目の全焼。
北白川宮、洋館全焼。
首相秘書官松谷誠。
戦争終末問題。
外務大臣東郷茂徳熱心にして、最高戦争指導会議において下僚の議題とは別に首相・陸海両大臣・両総長にてすでに数回意見交換を進めあり。
なお戦争遂行を甘くみる部分あるも漸次進みつつあり。
海軍にては高木惣吉少将のみ関係す云々。
この話を聴いてだいぶ気持ちが良くなった。
5月26日
夜半風あり、B29東京焼夷弾攻撃。
火勢なかなか容易ならざる模様なり。
東京市内電話不通にて、ウチと話通ぜず。
両御所・秩父宮・三笠宮等全焼の旨聞く。
ただちに両御所へ御機嫌伺いに上る。
大正皇太后〔貞明皇后〕は御文庫にて食事中なるもちょっと拝謁す。
三笠宮焼け出され食事に来ていた。
三笠宮は夜は防空壕に帰って寝た。
閑院宮も焼けたので、明後日の国葬取り止め。
伊皿子より聖坂にかけて立花種勝子爵の側すっかり焼けた。
赤坂は九分九厘焼けた。
三笠宮でもどえらい煙であった由。
土蔵一つ残る。
大宮御所も手許の御文庫一つのみ残る。
5月27日
電灯・電話・水道・ガスまったく来らず。
都電もまったく不通。
これでは帝都の機能ほとんど断たる。
秩父宮、洋館丸焼けにて日本館のみ残る。
国葬取り止めになったので御殿場に行くつもりにしていたところへ、三笠宮急いで来て予定通りお姉様が品川にお着きになる由を報ず。
危うく行き違いになるところを止めた。
お姉様お立寄り。
昨日来東京の模様よく連絡取れず、秩父宮本邸の焼けたことも昨日遅くそうらしいとおわかりの由。
午後お菓子持って大宮御所焼け跡を見に行く。
大正皇太后〔貞明皇后〕御覧中に行く。
5月28日
大正皇太后〔貞明皇后〕と御所との御仲よくする絶好の機会なれば、昭和陛下から御見舞にいらっしゃるなり赤坂離宮にお住みなるようお勧め遊ばしたらよいとのことから、手紙を書いてそのこと申し上ぐ。
5月31日
御所より御返書あり。
両陛下の御成りまたは大正皇太后〔貞明皇后〕を御所に御招待御会食の件は、「宮内大臣等も相談した結果、当分のうちは実行不可能となり」
大正皇太后〔貞明皇后〕が赤坂離宮を御使用なるよう御信書にてでも御勧めいただいたらと申し上げし件は、「赤坂離宮についてはすでにその道を通して申し入れ済でありますが、お母宮様の大谷大夫に対する御信任関係がわからない」とのことで、
わざとその筋を通してと、私がややもすると時局柄筋を離れて云々することを例によってことさらに反対の意味を御示しなのかもしれず、御親子の情を温めようと思って申し上げたのに困ったことなり。
悲しい。
眼の裏がにじむ心地す。
●皇族としてその特色を発揮するように昭和陛下が御考えにならぬことは残念なり。
●昭和陛下はよく自分は皇室の家長だからとおっしゃるも、その家長たる処置をなさらず、御示しなさらぬから何にもならぬ。
●戦局緊迫して通信連絡も絶えがちとなるべき今日、皇族は如何にすべきことを昭和陛下が御望みなのか伺ってもわからず。
世間では各地に分散配置を取るべしと言う者もあり。
この非常時になってもまだ皇族は形式上の存在として、余計なことはせぬでもよいという御考えには困ったものなり。
皇族に対してすらこれである。
まして一般の国民に対してどうして信頼を御続けになることができようか。
国民の一方的信頼感に依存しているとより言えない。
これが我が神ながらの君民一体、主・師・親たる昭和陛下の御態度と言えようか。
6月2日
昭和陛下よりの御返事、御殿場に黙って御覧遊ばせとて送る。
考え方に開きの距離があるとおわかりになるかどうか。
三笠宮百合君、また〔妊娠〕二カ月とのこと。
6月9日
前宮内大臣松平恒雄。
〔長野県の〕大本営施設の話は聞いているが、いまだ極秘にて宮内省より見分しあらず。
陛下の時局に関する御判断、楽観に過ぎるを恐る。
御性質、大宮御所との関係等々。
6月14日
都ホテルの朝、日が山を越して登らぬ間の、大地から霧が立ち上って平安神宮の朱の大鳥居、山のふもとから谷ごちの遠近に濃淡の色を変えて次第に白く立つ景色がいつも好きな眺めなり。
そして蹴上の坂を荷車が行き一人二人と通り始めるのを見下ろしていると、静かな一日の始まりという感じがなんとなしに親しまれる。
6月17日
お姉様御上京。
今日は焼け残りの日本間にお泊りとて、夕食だけ食べにいらっしゃった。
7月7日
防空壕の壁、鉄筋組めたのでコンクリート流し込み始まる。
7月23日
三笠宮、大正皇太后〔貞明皇后〕軽井沢御移りの件につき来ていた。
また陸軍の軍務課長永井八津次が騒ぎ出してる由。
大臣を通すべきなりと話す。
御殿場でも陸軍の習性を御存知だけに、気をつけるようにとの御話あり。
大正皇太后〔貞明皇后〕の御思召など軽々しく陸軍のそうした人に漏らすべきにあらずということもあり。
7月25日
御殿場より御手紙来る。
東宮様〔平成天皇〕湯元御移りにつき、国歩きがたき御代を予想し、かつ冬の金精峠を考え、御鍛練をお勧めすること。
さっそく東宮伝育官石川岩吉に申しやる。
早く寝たら2200警報で、そのうちにドカンドカン。
川崎方面を攻撃しだしたので横穴に避退した。
このごろは誰も逃げぬし、湿気でカビだらけで行く気がしないらしい。
時々わざと使ってみる必要あり。
7月27日
三笠宮の望みで、朝香様〔朝香宮鳩彦王〕東久邇様〔東久邇宮稔彦王〕竹田様〔竹田宮恒徳王〕と会食。
三笠様は真面目な話をしようつもりだったらしいが、飲めや歌えになった。
後でしばらく話をしていた。
1945年8月2日
華族会館にて映画『風と共に去りぬ』をやる、観に行く。
8月6日
B29、広島来襲。
一機、落下傘爆弾投(新威力弾なり)
8月10日
0700三笠宮。
情勢を聞き、昨夜遅く陸軍省の人が日ソ経済提携を必要とする話をしにきたとだけ言って帰る。
1400三笠宮。
やはり情勢を聞き、皇族の集まることなきやなど東久邇宮稔彦王に伺ってみよと言う。
8月11日
夜中の警報に原子爆弾を持って来るとの予報ありしも来なかった。
明日御所に各皇族を御召の由。
昨夜御前会議決定、御親裁ありし旨、軍令部一部長告ぐ。
これが初耳だった。
1300皇族集り、外務大臣東郷茂徳から経過一般を聴く。
1600植田俊吉氏。
吉田茂憲兵隊に挙げられた話、これは陸軍のクーデターの一部なり、近衛一派と称してこれを全部挙げようとしたのを陸軍大臣阿南惟幾の決断でやめになった云々。
8月12日
吹上大本営防空壕にて皇族集合。
陛下より今回の御決心を御示しあり。
みな国体護持に御思召に添って努める旨 梨本宮よりお答えし、各自の意見をそれぞれ申し上ぐ。
夜三笠宮来り、阿南陸相の考え方 昭和陛下の御考と大いに異なるから、鈴木首相の意見を聞かんとのこと。
8月13日
三笠宮・鈴木首相来り、阿南陸相の考えにつき語る。
鈴木首相は最後は思召によってすべてをする点につきては阿南陸相を疑えずと。
午後三笠宮・竹田宮恒徳王来省。
昨夜の陛下の御言葉を記憶により記録、明日御殿場に届けることにす。
8月15日
御殿場へ。
8月16日
東久邇宮稔彦王に組閣の御命じあり。
竹田宮恒徳王・朝香宮鳩彦王・閑院宮春仁王に、現地軍に思召を伝うべき御命令あり。
8月17日
初めての詔書を自ら放送せらる。
二千六百年記念式典にすら許されざりしを、かかる場合に未曾有の録音放送をあえて遊ばさるるはなんとも感胸にしむ思いなり。
しかるに手はずは案じていた通り、承る人の心の準備がなかったため、多くの人はソ連参戦いよいよなれば御激励の放送を遊ばすものと考えていて、部隊では総員集合をして承ったが、語句の難解・聴取の不明瞭によるならん、終わっても御激励と思いありがたいことと感激して解散した。
ところが後の次ぐ放送で終戦の仰せであったとわかり、驚き悲憤し自失した思いであったという話もあった。
これが少なくなかったと思う。
せっかくの御思召が十分に達せられず、後の大臣訓示等も通信費消時のために遅れ、上級司令部の部下掌握が不徹底なりし点もあったと思える。
なにしろ陸軍海軍はもちろん他省は寝耳に水であり、なんら準備せざる事態に直面し手配は遅れ〃〃となりしは、どうも致し方ないことであった。
私としてもだいたいの進み方は予想していたが、それでも最後の数日のテンポにはまったく思索が追及できず、ために御裁断あってもハッキリせず、またこれまで思いつかなかった心配すべき件々が思い出されて、いまだにハッキリせぬ。
他の人々においてはなおさらであろう。
8月24日
満州国皇帝溥儀、ハバロフスクに伴われてありとの放送。
8月31日
《大東亜戦争によって得たるもの》
●植民地民族の解放
第一段作戦による東亜民族の解放は、戦局により日本のこれら民族に対して取れる処置は圧迫に終わりし観あり。
行政の不手際は反感を買いたるも、日本の精神は不正ならず。
結果として一度解放せられし諸民族は、例えばフィリピンにおいてアメリカ軍を救世主再来と考えたりといえども、再び過去のフィリピンにはなり得ず。
東洋以外の諸植民地も米英等をして旧来の植民地として維持し得ざらしめしは、ある程度の目的達成に他ならず。
●日本民族の世界的地歩の踏出
過去の日本は実際上は局地の日本に過ぎざりき。
支那事変以来、支那・ビルマ・東印と多くの地域に多くの軍人軍属としてその地を踏み、その人に接し初めて世界的見聞を広め得たりと言うべく、質的に進歩せり。
●戦局不利となれる諸原因すなわち日本の国内の正しからざりし姿を反省し、形式的忠君愛国を脱して真の日本人たる自覚と積極性をもって新発足す。
●上御一人の御稜威のみ唯一の国民の頼るべきところなるを知らしむ。
御親政といい滅私奉公といい、いずれも真の大君のため国のため、そこにのみ国民の生くべき道ありを体得しありし者少なかりしを自覚せり。
1945年9月2日
全国民がこの苦悩を引き受けることを忘れてはならぬ。
しかして堅固なる国民精神を持って征服された民族となってはならぬことを、改めて反省すべきなり。
9月3日
マッカーサーは天岩戸開きの手力男命のところを務めるものだという見方あり。
こうした考え方でいくと、大きく国体護持もできるかもしれぬ。
マッカーサーは確かに人物も大なりとの見方をする者多し。
アメリカの燃料で日本の自動車を走らせて不思議に思わぬならば、手力男命でも猿田彦でもよいわけなり。
9月8日
岡田長景は、オリンピック参加恥さらしだから出ぬがよいとのこと。
練習ができず記録が出ないなら、本当の恥さらしになるから止めるがよい。
9月9日
日曜復回せるも終戦関係はそれでは困るとて、再び日祭休み取り止めの提議をすることとなる。
各所で米兵がキャラメル等を投げたのを大人まで大騒ぎして拾っているとのこと、残念とも限りなし。
9月30日
秩父宮、戦争中御静養になり世間に触れずにおられて、かねてから戦争終了とともにお出ましになれることを祈っていたたらその通りになり、今回の御上京も人にもお会いになれるし、いざという時には摂政にもおなりになれると考えられ、これ以上のことなし。
10月22日
東宮様の御教育についても根本的に考えを改むる要あり。
すなわち外国人に対しても単に拝謁でなく、十分応待し得らるべき御教育を必要とす。
御留学もこの見地より考うべきなり。
アメリカかイギリスか、これは各々見方による。
長短あるべし。
アメリカとしてはイギリスはすでに世界的な国にあらずして、今後の問題はなんとしても米ソの問題しかもアメリカが関係を密にせざるべからざる国となるべし。
それには早く御留学になるを可とす。
同年輩のアメリカ人とお近づきになりあることは、将来の両国の提携に資すること極めて大なるべし。
アメリカ人の考え方を御理解ありて将来の日本の優れたるところを具現し給う上に、効果大なるべしとす。
イギリスとすれば王室を持って伝統ある国として他になきものなれば、その味わうべきものは深し、ただちに日本の皇室として例を求むるところ多く、将来親交を結ぶべき国として比すべきものなき国柄なりとなす。
御学問所についてもただちに考えを革めてかかるべき時なり。
10月24日
大正皇太后〔貞明皇后〕が御滞在になるので燃料食料をすべてその方に取られてしまうと、軽井沢住民が不平を漏らすと。
大正皇太后〔貞明皇后〕お出ましの時、相変わらず警官が「シー」「シー」と人を追い払ったりする由。
10月25日
宮内省より、皇族資産等報告提出の話あり。
10月29日
宮内省に行き参事官三浦義男に、皇族の宝石等の調べ、マッカーサー司令部報告の話せるところ、軽率にも宗秩寮より各宮に連絡電話にて通知あり。
各宮職員に知らしむべからざることとして、昨夜中までかかり親展にて伺うようにした問題をと憤る。
1945年11月2日
近衛文麿が責任逃れのような近衛内閣当時の話しぶりが新聞に出ると、昭和陛下が義憤をお感じになって、「本当のことを言ってしまえ」とおっしゃるとか。
(10のところを8言ってぼやかしてしまうこと)
11月15日
艦載行幸に沿道の百姓が耕作をやめて藁の上に座って拝したり、国民服の馬車引きが勲章をつけてお迎えしたり、老婆が戦死者ならん軍人の写真を胸にかけてお迎えした。
こうした光景を見て、国民の陛下に対する態度は安心なりという報告を閣議にしたとか。
それは戦争に対し反感が高いであろうと予想した考え、直訴もあろうと予期した人に相対的に感じたことであろう。
私には当然のことと思える。
今まで御警衛が田畑の人を強いて一列に並んで奉迎させたり、通行の人を遠くへ押しのかせたりしたのをやめたからの自然の趣で、変わらぬことと思う。
ただそれだから革命ナシとは言えぬ。
こうした堅実な人々は社会政治の変動は上滑りして行われるということなり。
11月20日
朝様〔朝香宮鳩彦王〕より、久邇宮邦昭王のアメリカ留学に対し、宮内省にて大臣・総裁が反対したとて、海軍省から経費の一部を準備する件進まぬからどうかとのお話あり。
私としては賛成のことなりと申し上ぐ。
11月22日
サツマイモ貯蔵の穴、手を突っ込んで盗まる。
11月23日
近くマッカーサー司令部より軍人恩給停止の指令出る由。
大問題なり。
内閣も危しくなるとの話なり。
大蔵省案では45歳以下の恩給は停止するとの考えなりしも、全部なり。
遺家族に及ぶことは重大なり。
1945年12月1日
今日より浪人。
何よりも寂しいことは、若い人・兵隊・理事生たちと会えなくなることなり。
知り合ったこれらの人々の前に辞めた人たちも、海軍にいるとどこへでも気軽く来て会って遊べてたのができなくなるのも寂しい。
ウチに来いと言えるようなウチでないのも寂しい。
12月3日
京都の町の女はほとんど着物になっている。
モンペなし。
しかし町が焼けていないからそんなに変な感じがしない。
そして女の顔が美しいと思った。
服も涼しいし、整った美しさだ。
それも女学生以下でなく、一人前の女においての話だ。
やはり焼かれた町と焼かれぬ町との心の表れでもあろう。
着物の問題ではない。
山紫水明の地、古い文化の伝えられた都、それが焼かれないでいることは尊い。
アメリカ軍にもこれを活かして教えたい。
高尚な日本人の生活文化を教える唯一の地だ。
12月12日
呉の町はさすがに朝早くから人通りあり。
焼けて進駐軍がいるが、まだまだ工廠町の気分があってうれしい。
12月13日
梨本宮へ、殿下お出ましのお見舞いに参る。
戦災後初めて行った。
二間のお家にお住み、静かな御生活にはよい。
手間取っている方の一棟を至急完成しようと、壁土がないので代りにコンクリートを塗っていた。
老人の両殿下にわけもわからぬ拘引で、お気の毒の至りなり。
どうにも皇室の尊厳をヒビを入らせて国民に知らせようというつもりとより思えぬことなり。
それにはまたあまりに御年召をひどいことだと思える。
12月18日
東宮様久しぶりにてお目にかかる。
素直にお育ちの様子なり。
皇子御用掛伊地知ミキが退いて男の伝育官が積極的に御世話するようになって、かえってしっかりなさった。
御主人様であるが、お友だちとお遊びの時はまったくお子様らしいとのことなり。
しかも穂積大夫の御指導は良く、東宮としての御教養に努めたものである。
徳川義親侯爵。
御退位に関するマッカーサー司令部若手の意見強くなりしとの情報。
宮内大臣。
中華通信社宗徳和の面会申込は、御退位説に関し私が摂政になるだろうから今のうちに見ておきたいとのことで、東宮様にもとのことなりしも、まあ私だけに。
しかし政治の問題には触れぬ約束しありと。
12月25日
東京薬専女学部本庄美都子・村田百合子が島田直枝を連れてきた。
島田は島津治子女官長問題の関係者、予言者、明治天皇の霊を受けると称す。
12月27日
板沢武雄教授より、アメリカ側歴史教育に対する態度、教科書修正の指令について聴く。
神代のこと、明治時代日清以降を全部削除す。
四十七士仇討も削るも、国内の相争う所には筆を加えず。
皇室の仁慈等にも触れず、そのままにしあり。
こうした修正をせねば、二年後歴史・地理・修身の授業停止を指令しあり。
12月30日
細川護貞、近衛最後手記写持参。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』
1946年1月1日
詔書発布。
まことに結構なるものだったが、「現御神」の三字は別の「神」というだけの字か何かにしたかった。
幣原首相が英文で書いた原稿をマッカーサーに見せてそれを和文に直したので、侍従職で一度訂正したがどうも原文と異なるとてそのままになりし由。
しかし原文は divine だからなんとかなりそうなものだった。
1月4日
鈴木貫太郎夫妻来て、爆撃調査団に答えて、「日本は責任内閣だから陛下はその決定には反対されぬし、また積極的に指導もされぬ。ただ自分が知っているのは二回、二二六事件で内閣が中絶している時に反乱軍の討伐を令せられた時と終戦の時は自ら指導されたと答えておいた」とのこと。
1月6日
マッカーサー司令部ヘンダーソン大佐の話とて、幣原内閣支持せず、前農林大臣千石興太郎(日本の刻下の問題は食糧なればこれに詳しい人が第一条件。彼が先内閣親任式ただちにマッカーサー司令部を訪問して食糧輸入を懇請せり、官吏でなく農村組合運動の指導者)他には徳川義親侯爵、賀川豊彦(政治力乏しと言える由)有馬頼寧(これを拘引せるは誤り、後で調べたら農村問題の先覚者だったと)などを候補者と考える旨語れる由。
1月16日
松平慶民、宮内大臣となる。
陛下が直接なれとおっしゃったとか。
1月18日
松平康昌、宗秩寮総裁になる。
昨日一日イヤだとて逃げていた由。
1月19日
各妃殿下集まって、服装問題等御相談。
昨年制定の宮中服にみなさま文句多く、もともと国際式典等で日本婦人が洋装で出ることが、宝石で競争すれば負け、容姿でも負け、ファッションでも負けで、支那やタイやみなそれぞれの国の服装で出て来るのに対しても負けとなり話にならぬから、日本の服装をという考えに発端するのだが、みなさまは戦時中の洋服縫製難やモンペに対する洋装、それも宮中的なけばけばしさは着られぬと言ったことからのみ考えるので熱意も出てこぬ。
昭和皇后に至ってはまったくただ洋装の情勢で考えていらっしゃる。
1月28日
秩父宮へ。
陛下の問題御相談しようと考えて出かけたが、三笠宮一緒にとて秩父様にお願いしてずっといたので、言い出せずにしまう。
1月29日
李鍵公の御気持は「公族などとは日韓合併の残り物なれば、自分はこの際それをやめて日本人になりたい。李垠王様はやはり地位をお持ちになりたいお考えのようにて、まったく考えが違うからお会いしない」と言うことなる由。
王公族を皇族にしてしまう案は終戦直後ありしも、マッカーサー司令部との関係で実現せず今日に及ぶ。
2月2日
東宮様、お成り。
初めてなり。
客間のライターがお珍しく、点けたり消したり何度も何度も。
南洋でもらった海亀の剥製大中小、お欲しそうだったので「差し上げましょう」と言ったら、二度も見にいらして「あれか、これか」とおっしゃる。
三つともというは少し欲ばりすぎるとお考えらしかったが、「みなお届けしましょう」と言うて片づく。
豚と緬羊はやはり触ってお楽しみ。
2月15日
ブリッジの練習。
世の中の移り変りを思う。
鹿鳴館式なり。
2月16日
ブリッジとダンスの稽古。
2月24日
本間雅晴中将判決に対し、あとはマッカーサー司令部に頼るよりなし。
本間は英語もわかるので山下奉文大将の時のように裁判中居眠りなどせず、証人の人格証言も多大の感銘を与えた。
2月27日
マッカーサー副官ボナー・フェラーズ来邸。
宮内省側近が陛下の御考えを実行するのに手間取ると見ゆ。
マッカーサー司令部と宮内省との直接連絡に、アメリカを知った若い人を置いて常に往復すること。
宮内省にアメリカ人の連絡者を置く。
陛下が現在唯一の指導適格者と認めるから、もっと積極的になさるがいい。
マッカーサーは陛下を認めてやっていくつもりでいる云々。
3月10日
宮ノ下別邸に米兵しきりに盗みに入るので、売買は別として富士屋ホテルにて使用した方が防止になり良からんと申し込み、先方もそうしようということとなる。
3月11日
宮ノ下別邸処分につき侍従職にて思召あらば代地と交換できると考え、別当より木下道雄に話せしむ。
3月16日
ブリッジの練習。
3月21日
ダンスの稽古。
3月23日
越ケ谷鴨猟。
アレン・コルフ氏、お酒のせいか堀に落ちて額をすりむく。
3月25日
ダンスの稽古。
3月27日
宮ノ下別邸を富士屋ホテルに譲る件につき富士屋ホテル社長山口堅吉来邸、60万円でとのこと。
3月31日
秩父様で夕食。
三笠様また来たいとのお申し込みで来た。
なにか除け者にされて話を聴き損なうという気がするらしく、別に用談もないのに。
4月1日
ダンスの稽古。
4月5日
英語・ダンスの稽古。
4月11日
英語・ダンスの稽古(タンゴ・パソドブレ)
4月19日
福岡・長崎の麦貧弱なり。
都会近くの下肥の回るあたりだけ元気あり。
肥料の足らぬのは百姓に気の毒なり。
4月20日
鹿児島。
竹藪に筍が3~4尺に伸びてたくさん立っているのは、東京ならとっくに盗まれているものと思う。
夕食なんだか水っぽい酒だと言ったら、焼酎だそうだった。
ここでは日本酒はほとんどないらしい。
4月30日
侍従長交代の件につき大金次長を当て宮内省内で順送りするとの大臣の話から、東大総長南原繁にも高木八尺博士の件を大臣にも一度話すようにと言って南原が話したら、私が言ったのだとて怒っていたとの宗秩寮総裁松平康昌の話。
陛下に侍従長は宮内省外からお取りになるようにと言っている人ありとちょっと申し上げた。
アメリカ側は憲法はどんどん改正してやって行けばよい、今はこういうのでやれというつもりなり。
華族制度廃止は日本側の決心なりと。
5月2日
宮ノ下から宮ノ下別邸は富士屋ホテルに売らずに村に渡せとの陳情あり。
金が欲しくて売るのだから金さえあればなんでもよいわけだが、タダではやれぬ状況になっている。
ダンスの稽古。
御所。
以前はニュース映画を御覧になりそれを御一緒に観ていたが、爆撃がひどくなりニュース映画もあまり出なくなって止めにまっていた。
それ以来ちっとも両陛下とお話する機会が無くなったので、映画なくとも週に一度くらいはと言っていたがちっとも実現せず、やっと先週から始まった。
5月3日
大金次長 侍従長となり、加藤進 次官となり、木下道雄辞めて稲田周一 次長となる。
省内たらいまわし人事。
侍従長は外からと言っていたのに、やはりこんなことになり遺憾なり。
5月4日
自由党総裁鳩山一郎に対し追放を発表。
総理大臣ということになってかかる指令を出すのはけしからぬ。
5月7日
有馬大佐鹿児島から出てきて、私の視察からマッカーサー司令部からアメリカ側に叱言が来て「協力できぬ」と言ってきたとのこと。
やっかいな話なり。
東劇〔歌舞伎〕
戦災で衣装が焼けて、傾城・新造数人しか出られずと。
5月9日
ダンスの稽古。
5月12日
カナモジ会理事長松坂忠則の話を聴く。
カナモジ会としてはすぐに漢字を制限してやって行こうとする態度なり。
私としては漢字乱用時代の前に立ち戻って、日本語の復興をやるとともに再び漢字を用いないで済むようにやって行きたいと思う。
すなわち漢字をやめた穴うめを英語等でやらずに、日本語の本来の表現を活かして行きたい。
そのために国語学者を必要とすると考える。
5月15日
政府より、マッカーサー司令部から皇族の貴族院議席につき追放に対する政府の処置甚だ手ぬるし、これ以上テキパキやらぬならばマッカーサー司令部から直接指令す、そうなるとどうするてもひとからげにやることになる、グズグズしているならば政府の担当者を処罰するとのことで、政府側も慌てて早く片づけねばならぬことになり、皇族については questionnaire も出さぬ、議席にもつかぬでほっかむりをする第一案なりしも、「やはりやめてくれ」「questionnaireは出さぬ」ことに交渉するとの話あり。
宮内省とマッカーサー秘書官ローレンス・バンカーその他との連絡では、ソ連がうるさいので questionnaire は全部そろえておかぬとアメリカ側が困るとのこともあり、結局出すこととなるべし。
いずれにしても相変わらぬ政府のグズグズが、同じことでもまずくまずくなっていく。
私としては皇族が職業軍人でないという考えを持つ。
しかし実際追放令に該当する職にあったことはその通りに考えてもよいと思う。
5月16日
ダンスの稽古。
5月30日
ダンスの稽古。
5月31日
宮内大臣。
昨日私憲法草案の枢密院本会議にはその主権在民があまりはっきりしているので、私としては賛成しかねるから会議に出席せぬつもりでおりますと申し上げた。
その時は何もおっしゃらなかったのに、陛下がとても御心配になっているのにそんなことを申し上げるのはよくないとの話だった。
今まで御心配御心配といって申し上げないでやってきたことのを改めるべきではないか。
それに出席して賛成せぬのでは現情勢からよくもなし。
枢密院として修正するのは民主的でなし。
欠席するのが一番よいではないかと思うと語る。
大臣は「反対だ」と言うだけ申し上げて黙って欠席するがよいとの話なるも、私は終戦後思召で出席することになったと思うので、それはあまりおかしいと思った。
6月5日
宮内省。
寺崎にインターニュースに話したことから陛下のマッカーサー御訪問の時 対皇族指令につき御話なさらんとしたのをお止めの方がいい、先方の忠告ありしとのことで、昨日陛下が御憤慨だったので、その経緯を聴く。
特にことの点という指摘はなかった。
例の新聞に出たことが気になるというのであろう。
6月8日
憲法草案の枢密院本会議ありしも、黙って欠席す。
意見を述べるのも情勢上よからず、賛成する気になれず。
6月19日
本整理。
空襲中地下室に入れたらカビでめちゃくちゃになってしまった。
惜しいことをした。
6月20日
ダンスの稽古。
6月25日
ジャガイモ収穫、102貫。
6月29日
宮内省。
28日の宮内大臣とマッカーサー会談。
皇族に対する覚書につき、これは皇族の starvation の問題で陛下も御心配の由を話し、マッカーサーはsympathetic consideration を約せると。
松平、マッカーサーの話に、陛下が御子様や御兄弟につき特に御心配のようだと話したとのことなるも、これは私としては甚だ面白くないので、皇族全体につき御考えになってるのでなくてはならぬ。
7月2日
情報会、皇族の考えていることを両陛下に聴いていただく会。
陛下にはおっしゃらずに黙って聴いていただくこととして行う。
終って問答もあり。
陛下は皇族が知識でなく道徳的にさすがと言われるようにとのこと。
また私がもっと宮内省と信頼し合うようにと言ったら、侍従長の時 松平宮相が私に人事につき言うと約束したのに、私が南原に言ったことはけしからぬとの御話。
私は約束はせぬと、例のやりとりをした。
なにしろどっちもちっとも新しい時代に対する感覚のない御考えでは話にならず。
7月11日
御所、三笠宮二方と一緒に晩餐、蛍を拝見。
先晩吹上に蛍がいるとの話から、見たいと申し上げたので。
9月3日
松平邸、康愛葬儀参列。
一人っ子なれば康昌夫妻の悲しみひといりなり。
久美子の心中もまたいまさらなり。
9月19日
財産税いまだハッキリせぬが、光輪閣は持ち切れぬだろう。
宮内省から山林か土地かをもらって、それで収入を得ることができれば一法なり。
9月20日
宮内省にて親睦会。
両陛下お出まし。
皇室典範改正のその後の経緯につき聴く。
御退位の条項はやはり入らぬ。
陛下が終戦の時あれだけ御決意ありしに対しその道をつけるのは必要だと思うが、陛下だけの御経験と対米感情もよい方はないからというだけで考えぬのはよくない。
9月23日
宮内省。
大金侍従長にどうして稲田周一次長辞めたのかと尋ねたら、追放令のためで、やはり宮内省もいけないということになったらしい。
9月28日
納税について相談。
建築につきて評価意外に高く、光輪閣、600万~700万円。
本年春のマッカーサー司令部への報告の時は100万円以下としてきた。
とうてい光輪閣を持てぬとの判断なり。
翁島の洋館も手放すを可とすべしぐらいの話より進められず。
9月30日
元侍従次長稲田周一。
やはり追放令がやかましくなりそうだったのでとのこと。
誰か外の空気のわかった者が側近におらねばならぬと思う。
10月8日
親睦会、両陛下お出ましの例会。
今日はちょうど大正皇太后〔貞明皇后〕御上京、特に賑々しく結構なりき。
大正皇太后〔貞明皇后〕も大変お喜びなりき。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』
1947年1月1日
年末年始、町の感じは昨年より気分の出ぬ景色なり。
女の子はチラホラきれいな着物を着たり白粉をつけたりしていたけれども、羽子板も凧もインフレでは出回らぬ。
やっぱり暗い気持ちが流れているのだろう。
1月2日
北白川宮へ。
昨年暮れにお移りになったので初めて伺う。
小山栄三の間借り、借家のようなお使い方だが、古いとりとめのない家なり。
1月5日
新浜鴨猟。
アメリカ赤十字関係を招く。
帰りに公衆衛生福祉局ウィーバー大佐の車、田んぼに滑り落ちてケガはなかったがずぶ濡れになった由。
後で風邪をひいたとか。
3月10日
ヴァイニング夫人の英語のレッスン。
3月23日
伊勢神宮高倉篤麿来り、斎王に北白川宮房子妃を願うにつき近江神宮宮司平田貫一を小宮司に欲しいとの話あり。
現小宮司古川左京は地元の人との折り合いも悪く、新宮祭式につきてもややもすれば慣例にとらわれる等でこの際入れ替えたく、平田氏の他になし。
これには私は古川氏をよく知らぬも、もってのほかのことなり。
伊勢の大切はわかるも、面白くなしとて出す人を押しつける等はけしからぬことと答う。
3月24日
宮内省。
加藤次長に北白川宮大妃を伊勢斎王に願うことは宮内省の考えかと尋ねしに、先方よりそのお人柄に惚れこみてとのことで、宮内省では第二・第三の候補の方を考えると言いしもその要なし、三笠宮とも考えしがGHQが軍人なりしとて賛成せず、未婚の方でなくてはいけないか等とも聞くぐらいの話なりしと。
斎宮ではなく斎王としてであるから未婚でなくてもよい、しかも未亡人の方がよいと答えたる由なり。
4月1日
池田徳真、高山英華同伴。
東京帝大第二工学部教授なり。
実は久美子〔高松宮喜久子妃の妹・松平康愛の未亡人〕のお婿様にどうだという多恵ちゃん〔北白川宮多恵子女王・徳川圀禎の妻〕の考えなり。
4月2日
ダンス練習の件 宗秩寮総裁松平康昌に尋ねしところ、宮内省では練習したらダンスホールへ余計に行くようになりはせぬかとの相変わらぬ間違った心配あるも、宗秩寮総裁が責任を持つ、他人があまり入り込まぬなら差し支えなしとのこと。
7月4日
アサヒグラフに私の顔としての自画像と感想文が次々に出ている。
そこで私も私自身の顔を描いてみよう。
鏡を持ち出さずに描けること。
一番まずいのは額がというよりおでこのないことだ。
それは外見上は横から見たらまったく鼻の傾斜そのまま頭の上まで直線で描いたことになるし、内容から考えても類人猿の骨相であるから脳の優れた部分を包蔵していない証拠である。
これは人間として最も恥ずかしい表徴であらねばならない。
だから私としてはこれをカモフラージュするために手段として選んだのが、髪の毛を伸ばしてその陰にいかにも頭脳の部分が隠されているかを装うことである。
しかして髪の毛のハゲないでいることは、いまだ神に見放されていなことを示すと信ずる。
つぎにアゴがないために顔面は平面をなすことができずに、その下半分も鼻の頭を頂点とする直角となるごとき投影をしている。
かかるがゆえに横顔は致命的浅薄な幾何学的基礎の上にあることが知られる。
鏡を持って見る時に最近驚いたこと。
外人が支那人を掻く時に目のつり上がった頬骨の突っ張った顔を描くし、『Stars and Stripes』が出た始めににも日本人を描く漫画にはこの式の顔が多かったのを大いに認識の不足と思ったのだが、だんだん私の顔がこの支那人的描写に当てはまる存在であることを発見して、悲哀と自嘲とを禁じえないのであった。
もひとつそれに口の両端が長々と逆への字としていることも同じであった。
生理上のこと。
片眼で白紙を見比べて見ると、左の眼には青味がかかって見えるし、右眼は黄色がかって見える。
右の耳が左の耳より大きいように見える。
子供の時に金環をはめて直そうとしたが直らなかったから、今でも前歯が外に出て上下が合わない。
少なくとも五分以上の暑さがなければ嚙み切ることは不可能である。
しかしながら唇の外に出っ歯が出ないで、唇が常に歯を隠していられることは不幸中の幸いであるとともに、いまだに虫歯の無いことは後天的に資質の良い現実を示すものと言わねばならぬ。
8月24日
久美子、喜久子に話した様子は、やはり杉山〔レストラン〈レバンテ〉支配人杉山万吉〕に想いあり。
9月16日
宮内庁にて皇室会議議員互選あり。
私は昭和皇后・お兄様〔秩父宮〕・賀陽宮敏子妃・朝香叔父様〔朝香宮鳩彦王〕を書く。
当選はお姉様〔秩父宮勢津子妃〕私・喜久子・三笠宮。
お兄様もおよろしいとの宣伝どうも少し足らなかった。
昭和皇后とお兄様とが同点の次点の由。
昭和陛下が、昭和皇后が議員になると議長・総理大臣の下になり困るとおっしゃったとか。
このご時世にまだそんなお考えでは細かすぎる。
11月1日
原宿のホームで衛生展覧会列車の発進式があって行く。
お姉様くす玉の紐を引いてそれを合図にピーッと発車のはずが、紐は抜けたがくす玉開かず照れくさいことだった。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』
1951年5月23日〔5月17日貞明皇后死去〕
昭和陛下11時に大宮御所。
午後に来るとお茶とか出すから午前にしたとのこと。
こんな時にでもせめて皆様とお茶でも一緒にして御話なさればよいのに。
1951年6月5日
殯宮二十日祭。
殯宮伺候と称して有資格者なるもの御通夜に来てる。
私だったらこんな気づまりなことはまっぴらイヤだ。
生きている時もイヤだが、死んでもイヤだろう。
それよりやはり来てほしい人が一人でも時々来てくれれば沢山。
1951年6月6日
殯宮伺候の人はあらかじめ宮内庁で考えた人数の1/3かもしれぬ。
どうしてこんな違算をしたのか知らないが、休憩所も無駄だったろうし、それよりはじめ女官など入れないと言ったりして椅子が空いて、入れないなど変なことだ。
昭和陛下もいらっしゃらぬ。
前例がどうとか仰る由。
これもおかしい。
1951年6月14日
大宮御所で貞明皇后の御遺書が発見された。
この御遺書は1926年10月22日にお書きになったものであった。
当時大正天皇の御病気等で精神的にも不安と違和を身体に感じられたらしい。
神社等に参拝のこと
形見分けには秩父宮、三笠宮は新家だからそれを考えること
筧克彦博士の書物を秩父宮に預けること等
1951年6月16日
明日御日柄なので支那料理をお供えするついでに宮内庁長官邸で秩父宮・三笠宮と会食するので、ちょうど良いから東宮様〔平成天皇〕をお招きしようとしたら、「宮城・大宮御所・学習院以外にいらしゃったことが世間にわかるから」と東宮侍従戸田康英より喜久子に断りあり。
あきれたものだ。
知れて悪いどころか、貞明皇后様もどんなにお喜びになるかわからぬことだ。
御殿場にはなかなか御見舞にもいらっしゃれぬ東宮様に、秩父宮とお近づきの機会としてめったにないからと思ったのに。
人情や義理は御教育にないと考えている側近者にはまたしてもあきれる。
頭の固い宮内官はいつになったらわかるのだろう。
悲しいことだ。
1951年6月22日
大喪の儀。
鷹司の祭文、声小さく聞こえず。
帰途どしゃ降りになって、東宮様〔平成天皇〕の後駆の白バイ滑って転ぶ。
後ろについていた私の自動車危うく轢くところだった。
少し身体をぶつけたかもしれぬ。
1951年7月12日
貞明皇后の御通夜をしていて、私が死んでも私の御通夜に集る人々はこうした種類の人々になるだろう。
とても一人が二人の来てほしい人がおれるような空気にはなりそうもない。
やっぱり生きていてなくては話にならぬ。
御墓も豊島岡のような区域のは好ましくない。
多摩墓地は遠すぎる。
やはり青山墓地あたりなら思いついた人が気軽に花でもくれよう。
そういう所にしたい。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
高松宮 メモ 1962年
《寄る年波》
●手の甲の皮膚にシミが出る。
●物を飲み込む時に食道からはねてむせる。
●老眼になって視力が衰える。明るくないと見えにくい。
●頭髪がハゲ上がって毛が柔らかくなった。
《習性 アレルギー》
●大便所に行くと鼻水が出てクシャミをする
●就寝前に物を食べて胃中に消化せずあると口の中の歯茎粘膜に出来物ができる。
●大便の後 便を出し切らずにスキー・ゴルフなど力の入る動作をすると肛門が腫れ上がる。
●冷寒の空気を呼吸すると水鼻がどんどん出る。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
高松宮 メモ 1974年
幸福な人生を持ったとは思わない。
しかし苦難の人生に喘いだとも思わぬ。
苦心・苦労・病苦を知らぬ。
生活難・入学難・就職難・災難・食糧難・住宅難を知らぬ。
これがどうして幸福な人生と言えないのか。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::