直球和館

2025年

2001/05

◆高松宮宣仁親王 123代大正天皇の三男 光宮宣仁親王
1905-1987 82歳没


■妻 徳川喜久子 徳川慶久公爵の娘/将軍徳川慶喜の孫
1911-2004 92歳没


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『高松宮日記』

1941年1月15日
このごろ大毎の吉屋信子の『花』を読み出したが、昨夜航海で見ず。
今朝やっときたら大朝と福岡日日でガッカリ。
一日抜けちゃった。

1月16日
人事局長中原義正少将が来ていた。
会ってみたらば、私に前期が済んだら代れということだった。
「戦争が始まるからというわけか」と聞いたら、
そうでなく「東京の近くにいたほうがよいとのことでだ」とのこと。
「誰が言うのか」と聞いたら、「言えない」と言っていたが、
「陛下がお漏らしになった」というようなことだった。
いつも腰かけ式にちょっとやっては代るので、心づらい限りだ。
砲術学校でお払い箱になれば、すぐ航空に口があるとは言うものの寂しい。
しかも艦に乗る機会はますますなくなる。
もう艦長しかない。
艦長では楽しく平気でやっていけない。
威張りもせねばならず、真面目に装わねばならず、つまらないだろう。
こころがいら立つのをどうにもならぬ。
珍しく夜興奮して寝られなかった。

1月27日
喜久子より久美子〔高松宮喜久子妃の妹徳川久美子〕の婚約につき相談あり、意見なしと返事す。
私は他人の結婚に語る自信なし。
自らにすら自信なき事なればなり。

2月25日
小型自動車ベビーフォード(1938年型)一つ買うように言う。
オースチン(1940年型)ありしも、現物見られぬし2万円でちょっと高くもあるから。
フォードの4千マイルを走った5,500円のにすることにした。

2月28日
喜久子の手紙に川奈の桜〔押し花〕入れてあった。
手紙の文句は相変わらずしつっこくベタベタした文章だが、花はどこのもスッキリと良いものだ。

3月30日
秩父様へ。
お太りで艶もよくおなりだったが、お姉様がちょっと起きて御覧とおっしゃっても、寒いからとておねんねのままだった。

7月14日
秩父宮に御無沙汰にて、もうだいぶよろしいようだしそろそろ来そうなものとの御気持らしいとのお姉様の電話あり。

7月18日
松平家より久美子縁談のこと〔松平康昌侯爵の子松平康愛&高松宮喜久子妃の妹徳川久美子〕正式に申込あり。
宮内大臣松平恒雄夫妻仲立ちにて心労す。

8月5日
久しぶりに宮城のニュース映画陪覧に上る。

8月6日
大正皇太后〔貞明皇后〕 防空の御避難所はじめ日光の予定なりしところ、大正皇太后〔貞明皇后〕お気にいらず先日御参内の時に昭和陛下と御話あり。
寒いのはイヤという思召もあり、例の調子にて大正皇太后〔貞明皇后〕おひねくれからか昭和陛下もお困りにて、防衛司令部の考えにては日光第一なるも、宮ノ下でもよく沼津でもまずよろしとのことにて、その後沼津ならよろしとのことになる。
何かあると語気の具合で変になり、昭和陛下また余計に御心配になる。

宮内省にて各宮の自動車二台分、代用燃料に改造の経費出すことになり、うちのはすでにプロパン2台あるので、フォードをアセチレン、オースチンを石炭・コーライト兼用に改めることにした。

8月21日
秩父宮へ。
少し御元気が出てきたようだった。
やっと5分くらい身体を起こしてごらんになった由。
まだ血沈早いとのこと、20ぐらいとか。

8月24日
原田熊雄男爵来る。
先日宮城に上った時に私がアメリカと戦争せねば皇太子様の御代が危ないという意味を御話したので、昭和陛下がすごく御心配にて翌日近衛公爵に御話あったとかで、近衛から原田に話あったとか。
あまり御心配になるようなことは言わぬがよいだろうとのことだった。
どうも全然思い当たる節もないが、10月が油の切れ目というくらいのせいぜい連絡会議の話題以外でないと思うのだが、何かお間違いだろうと答えておく。
後でよくよく考えたら、昭和陛下が艦隊を残しておかねば講話の時に威しがきかぬというようなことをおっしゃったので、先の世界大戦のドイツ艦隊みたいに置いておいても何もならぬこともあるとか、北樺太の油では不足ということを言ったのが関係あるやもしれぬと気づいた。

8月26日
宮城にニュース映画陪覧に、暑いから略服でとのことに背広で上がる。
三笠様がそんなら和服でよいかと伺ったら、洋服がよいとの御返事で、断然軍服で出ると申し上げた由。
三笠様、このごろ女も和服を着て参内するようにとの御主張。
一時はそんな気で張り切る年頃があるもの。
その意気、その意気と言いたいところなり。

9月1日
秩父様、心臓の薬あがったらたちまち脈が70とかに減ったので、この際御殿場に移ったらとのことで、数日中にお出かけの由。

9月14日
秩父宮 今朝御殿場にお移りの予定のところ、お出がけに下痢をなさったとてお止め。

9月18日
帝国ホテルの満州国大使館主催晩餐会に行く。
どうも今日の記念日は満州国人がその気になりきっていない。
なんとか早く満州国人が心から一致するように日本側の態度をすべきだ。

10月3日
二位局〔柳原愛子〕久しぶりに大宮御所に上るにつき、喜久子御召にて上がる。
12年以来の由。
四輪車に乗ったままにて拝謁。
うれし涙にて、大正皇太后〔貞明皇后〕にも感激の御様子なりしと。

永井武官の謹話は実に馬鹿にしたものである。
●時間厳守はけっこうなことであるが、説明するなら他に実例がありそうなものである。
時計を二つ用意されていることは決して自慢にならぬ。
時刻係の人ならばともかく、皇族がそんな神経過敏なことでは仕方がない。
実際私も旅行等には必ず二つ持って行く。
しかし人には見せたくないことなのである。
止めたいと思いつつも、自分の神経衰弱的性質でやめられぬのである。
細心ではなく、過ぎている。
少なくともこれは内緒でなくてはならぬ。
腕時計をしてこれをちょくちょく見たりするのでも慎むべきである。
●神社に必ず御拝礼されることは結構なことである。
●混み合う市電をお選びになって云々は困った宣伝である。
皇族がそうした乗り方をすること自体は決して不可ではなく、目立たずにすることは皇族地震の見聞修養になるのであるが、皇族と知れては面白くない場面もあるので、平民的とかなんとか賞賛さるべきではない。
御付武官として宮の内の人として、いっそう秘すべきことを書き立てるところに、軽率無識を戒めねばならぬのである。

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『賀陽宮邦寿王御付武官永井清雄少佐謹話』10月3日報知新聞

殿下の御日常生活の1~2を申し上げて御高徳を御偲申したいと思う。
殿下が時間を御厳守遊ばされることは非常なもので、常に二つの時計を用意されていた。
また崇神の念の御厚いことは頭の下がるほどで、どんな場合でも神社という神社の前では必ず御拝礼遊ばされる。
それから単独御外出の際には自動車は召させられず、混み合う市電をお選びになって、その平民的な御精神のほどを拝すことがしばしばであった。
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10月12日
お兄様、お床の上に上体起こしてお会いになる。
たいそうおよろしい御様子。
御話にも痰がからまず御楽に御話のようだった。
おこたで昼食。
木戸から借りた近衛メッセージ・国交調整基礎文書・アメリカ回答覚書・野村大使意見書など御覧に入れてまた持って帰る。

10月19日
大宮御所。
百合子様、母君と御召にて、一度会っておけとて初対面。
お揃い遊ばされともうやっているが、板につかぬところが取り柄なり。
大正皇太后〔貞明皇后〕、百合子さんの御仕度御覧、陳列を見る。
〔戦時下という時節柄〕あまりよい着物の帯もなし、御所車に花模様の赤い振袖くらいのもの。
麻の江戸模様は昔のままのイミテーションではあるが珍しかった。

11月7日
御殿場へ。
お兄様、起きていらしてお茶一緒にいただく。
まったく久しぶりなり。
夜も起きていらして一緒にお遊びす。
お姉様六畳の間にお逃げ出しになり、私たち炉の部屋に寝る。

11月8日
三笠宮お二人を招く。
宮内大臣・宗秩寮総裁、三年越しの苦心の御結婚だけに重荷おろしたとて機嫌よし。
高木子爵すっかりフラフラになる。
奥様は泣き顔にて見ていたが、しまいに落ち着いた。

11月9日
保科・徳川の〔保科正昭子爵の子保科光正&徳川家正公爵の娘徳川順子〕御披露にて会館に行く。
保科さんも大人だし、お嫁さんは身体大きいし、なんとなく華々しさのない御披露だったが、落ち着いた気分だった。

12月3日
入浴してすぐベッドにもぐりこんでいたら、宮城からお電話で来いとのこと、上がる。
7日大宮御所で三笠宮御婚儀晩餐お催しにつき、8日開戦の前日を知ってのお祝の会食は、後日歴史家の誹りもあるだろうから止めたほうがよいと思うがとのことで、私もどうかと思っていたので申し上げることにした。
予想計画状況をお話して自発的におやめになるようにすぐがよかろうとのことだった。

12月4日
大宮御所へ上がる。
8日0130くらいから始めることを申し上げしところ、「それでは御召の中にはそれを知っている者もあるべし、止めた方がよいようだ」との御模様で、「三笠宮のこともあまりスラスラ行ったから一つぐらいこじれてもかえってよかろう」等お話あり。
帰りがけ皇太后宮大夫大谷正男に言ったら、「それは困った、御召状も出ていて、かえってお止めになったら変だろう」と言っていた。
宮城へ上がったら拝謁連続だったので、「申し上げておきました」と侍従に頼んで帰る。
宮内大臣松平恒雄に会ったら、「そのことでお話していたところだが、おやめになるとかえって秘密上よくないかもしれぬと申し上げていたのだ」とのこと。
「それなら、事が現れねばよいかもしれぬ」と言っておく。
「ただ大戦争の立ち上がりというだけが考えねばならぬので、戦争中だからというわけではないと思う」と言った。

12月5日
松平宮相が会いたいとのことで電話で聞いたら、「昨日のこと事が現れねば予定通り、現れたらやめとのことに御聞届けを得た」とのことだった。

12月7日
大宮御所へ。
三笠宮御婚儀につき関係宮内官39人ほどを御召、晩餐。

12月8日
0130マレー上陸開始。
0330第一航空艦隊ハワイ奇襲成功。
0412シンゴラ上陸成功。
0430アメリカ海軍長官、日本に対し戦闘行為を開始せよ。
外国の放送、アメリカ海軍無電の傍受のみでなかなか戦闘概報来らず。
ことに台湾は朝霧ありて飛行機出発せず。
それが出発したかどうかわからず、ハラハラさせられた。
マレーは上陸開始とのみで、上陸後の模様わからず。
1930頃にはボツボツ機動部隊・台湾等の概報来り、パールハーバーの戦果大成功にて喜ぶ。
2200帰邸。
灯火管制、ひっそりしていて町の中真っ暗なり。
入浴、寝る。
一安心なり。
しかし前途なお遠き感深し。

戦況発表につき、陸軍では日本のタイ領進駐にイギリス兵攻撃され戦端を開くに始めんとする案に反対しすべて詔書の後にすることを主張し、今後そんなインチキ発表や武力行使をビクビク遠慮しつつやるような仕方をせぬように言った。
8日の朝まで陸軍ともめて、0600西太平洋で英米と交戦を始めたと大本営発表をして後は全部詔書の後と決まっていたのに、報導部の失策でその前に帝国海軍のハワイ奇襲のニュースをラジオで出して、陸軍を出し抜いたことになり不信なことになった。
陸軍ガンガン言う。
謝ったが、取り返せるものではない。

12月10日
ルーズベルトの親書はグルー大使を通じ、「日本は仏印より撤兵せよ。仏印進駐の目的を伺う」というようなものにて、政府間の話し合いの通り返事せしめられし由。
つまらぬことを言ってくるものだとおっしゃっていた。
7日の夜はこの親書があったので、首相官邸とか外務省とかゴタゴタしているのを、報道関係者はそのためと思い作戦の秘匿になった。
総長がイギリス戦艦二隻の撃沈を申し上げたら、陛下も「それはよかった」というようなことで、お喜びだったとのこと。
作戦室でシャンパン祝杯。
参謀本部二課の連中、竹田様〔竹田宮恒徳王〕も果物持って祝に来られた。

12月11日
今朝御殿場に電話したら、御付武官一戸公哉が隔日に伺うし、陸軍次官木村兵太郎とかも御面談を願っているとのこと。
今夜より情勢変化すれば灯火管制を行わずと言う。
通常管制くらいにしておけばよいのに。

12月17日
アメリカ大統領が「アメリカは48時間以内に重大なる処置をとる。日本はこれにより日本の採れる処置が過失なりしを知るべし」と言ったとて、何だろう。
ソ連が攻撃してくることか、参謀本部では極東軍に攻撃に出ることあるまじと言う。
潜水艦戦をもって機動部隊をやることか、空襲かと頭をひねる人あり。

12月29日
御殿場へ最近陸軍次官木村兵太郎・参謀次長田辺盛武お話に出たので、戦況等につきては御承知と思い大して触れなかった。
御希望ありしルーズベルトの親書、木戸内府より借りて持って行った。
少しお腹の具合悪しとのことなりしも、大したことではなかった。
なにしろ身体の抵抗力に自信がなくなっていらっしゃるようではあった。
大正皇太后〔貞明皇后〕沼津にて落ち着きのようなりしも、少しはおさびしいようでもあった。
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『高松宮日記』

1942年1月17日
御殿場へ行く。
秩父宮およろしき様子。
お腹の具合もよくなり、お顔の出来物ほとんど治っていらした。
最近近衛とか人にもちょいちょい会って、かえって気分転換によろしい様子とのこと。

1月18日
太郎坊スキー。
ゲレンデはすごく狭く、上の方まだ雪なくて駄目の由。
久しぶりの膝に力なき足慣らしにはこれでも結構。
雪はあるがデコボコで、1~2間しては転ぶのでとうとう脱いで歩いて下る。
昼食はお兄様も一緒におこたで食べる。

2月15日
赤坂離宮のお庭でスキーをやりに行く。

5月25日(満州滞在)
満州国皇帝さんから帰ったら申し上げてくれとのこと。
●日満両国は左右の手のとごくでしかも一心なり。
●建国神廟については全満州の崇敬の中心とすべく、率先これに奉仕する覚悟である。
●全力を挙げて大東亜戦争に協力するとともに、北方の護りに対しては満軍も日本軍と協同してその全きを期す。
●大東亜戦争勃発い際しては、その夜に御前会議を開き、まったく日満一体にてこれに当ることを話した。
●汪兆銘来満の節にはよく日本と携えて強力して行くことが唯一の道であることをよくよく話して、汪兆銘も同意見のことを答えた。
●時局は世界の禍福の分れる機であって、天皇陛下の御健康は特に重大であるから、いっそうその御安体をお祈りしておること。

7月11日
御殿場へ。
秩父宮、このごろ日中は杉林の中でお過ごしの由。
少しお痩せになったが、黒くなって具合よさそうになったが、まだ痰がからむ気味だった。

7月12日
秩父宮、林の中の組立バンガローに出ていらっしゃった。
外の時は看護婦白いのはおイヤとて、着物をきてくる。

7月15日
三笠宮妃殿下、今日初めてプールで泳ぎのお稽古。

7月18日
徳様〔竹田宮恒徳王〕より東宮様の御教育組織に関し、考究の要ありとのお話。

7月27日
理髪。
翼賛型の髪というのが新聞に出ていたが、床屋はそんなことはまだ何も聞いていない由。

7月29日
プール水換え、気持ちよし。

8月1日
プール1/3初めて井戸水にて補給す。
水温冷たくなり気持ち良いくらいなりと。

8月8日
泳ぎ、冷たいくらい気持ちよし。

8月23日
吹上のプールにて両陛下のお相手に泳ぐ。

8月25日
プール水換える。
ニュース映画陪覧、初めて御文庫にてあり。

8月30日
先日キスカ行のこと課長から次長の話してもらったら、危険だから今はいけないという話だったから、今日話してみたらやっぱり危ないからとの話。
危険率にしたら数字にならぬではないか。
前のラポール行の時の大臣の言う空虚な危険視と同じではないか。
大臣の言う今秩父宮もお休みだからなにしろ生きていろと言うなら、またそれでも理屈かもしれぬ。
まったく統率上、生ける屍なり。

9月5日
御殿場へ。
秩父様も日焼けしてお元気なり。
お咳40分、長い時は一時間も続くことある由なるも、これは気管がふくれていたのがしまってきたためにて良き経過なる由。

9月8日
吹上にてニュース映画陪覧。
ガダルカナル島戦況に大いに御心配にて、新しき情報ないかと御催促あり。

喜佐子〔高松宮喜久子妃の妹・榊原政春子爵の妻〕来邸、オバーサンと折り合い悪し趣。

9月9日
大宮御所より紅茶茶碗お回しいただく、
大倉陶園にこれに組の菓子皿できるか尋ねしところ、50枚同じ描き手にて約三カ月でやれる由。
頼むこととす。

9月14日
プール水換え。

9月18日
涼しくなり泳ぐのをやめる。
7月22日から55回泳いだ勘定になる。

12月4日
昭和皇后が横須賀海軍病院にいらっしゃった時、御用掛かなにかの子供が入院していた。
昭和皇后は御目をつけられて皇后宮大夫広幡忠隆に囁かれたが、御案内の病院長は何も言わなかった。
東京第一陸軍病院へいらっしゃった時は、院長がわざわざ内務大臣湯沢三千男の子供とか誰の子供とかことさらに指名して申し上げた。
ここに陸軍海軍の気風の違いが認められる。

12月28日
餅つき。

12月29日
大倉陶園より、紅茶碗にあつらえた菓子皿50枚出来。
少し花の色の違ったものあり。
今度の誕生日に果物皿をいただくつもり。
フィンガーボールは形よくないから皿のみ。

12月30日
平泉澄博士と面談。
悲観論派は近衛を中心とし、楽観論派は東条を中心とし、対立の傾向激しからんとす。
近衛と東条とを会わせることにより緩和せしめんため、私の所にて両者を一緒に呼んで聴いたらよいだろうとの話なり。
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『高松宮日記』

1943年1月1日
町では日本髪の娘、年末からちらほら、例年よりも多かった。
女の子、大きなリボンを髪につけたのが多かった。
他に飾るところがないからだろう。
着物でめかしたのは少なかった。
なんとかして飾ろうとするのは女の欠点と言う人あり。
そうばかりでもあるまい。
今年の程度は結構だ。
門松ほとんどなし。
松つけてあるのがおかしいようだった。
二重橋前の人手は今までにない多数だった。
行くところが無いせいもあろう。

1月16日
デソート使い始めてみる。
安物だけに乗り心地はスプリング固い。

1月17日
大宮御所。
デソート御覧に入れ、芝生を回ってお乗せする。

1月18日
デソートを毎日使っているが、1941年型で目立つ。
米が足らぬ着物が足らぬ、そして作戦は苦しくなる。
それをひしひしと感じながら戦利品歴然たる車に乗って歩くことは見た目の感じ甚だよろしからずと考えられ、人心の心に及ぼす影響は皇族が独りよがりで戦利品を乗り回す有り様は遠慮すべきであると思える。
それで新しい車に乗る楽しみは少しもない。
今ある7人乗を乗り延ばすつもりで、デソートの方を早く使い古すのが長期戦の対策かと、まあ消極的な反感は目をつぶってもらうつもりなり。

皇后宮大夫広幡忠隆より東宮様御学問所に関する研究経緯を聞く。
現在東宮様は算術なども一般より計算等に時間がおかかりになるが答は間違いなくなさるので知能の方は普通であるが、やはり御身体の方が考慮を要する点なり。
宮内大臣松平恒雄の意見にもあり、運動場を一般と一緒に御使いになり、その間に得るところ少なからずと考えその方針なり。

2月16日
吹上御所。
三笠宮より御旅程など詳しい御手紙が来たと珍しいようなお感じらしかった。
大いに現地事情を申し上げるべしと張り切る方なるべし。
東条・近衛を会食に呼んだこと、「どういうのか」と御尋ねだった。
政治に関することなら知らずにおれぬという御気持なるべし。
皇族はでしゃばるなという御気持もあるべし。

2月22日
昨年昭和皇后へ五宮〔秩父宮・高松宮・三笠宮・北白川宮・東久邇宮〕より御誕辰に上げる扇面型文庫あまり音沙汰ないので伺ったら、注文するのを忘れていたらしくこれからという話。
それで注文したらしいので御価を入江相政事務官に聞いたら、注文したがわからぬという話。
いよいよノンキなことなり。
高価らしく今年の分もそれに一緒にすることになる。

4月19日
連合艦隊司令長官山本五十六遭難の電報を見てぼんやりとなる。
一部長わざわざ残念なことなりと挨拶される。
総長、午前上奏す。
好んで連合艦隊司令長官が死地に至る時機ではなかったが、軽挙なりということではない。
喜ぶべきこととは考えられぬが、無駄なこととは言えぬ。
主将ことに山本大将の統率力から見て犬死にはならぬ。

5月3日
木阪義胤中佐、明日赴任す。
支那事変以来戦争に参加せぬのは、全海軍の中で木阪氏と私とただ二人なり。
これで本当の一人になったわけなり。
技術関係者はそれでよいが、作戦統率関係で戦争に行かぬとはでくの坊ということなり。
物も言えぬことなり。
極めて憂鬱なり。
出発の挨拶をされて思わず涙ぐむ。
この気持ちわかる人はまた木阪氏のみなるべし。

5月6日
ドイツ語の稽古。

5月8日
《皇族会議の件》
久邇宮徳彦王〔龍田徳彦伯爵となる〕については臣籍降下して伯爵ということには問題なきも、賜金100万円より少なくしては如何との考えもありしが、さてその時期になるとやはり100万円ということになれり。
私としては先に久邇宮家彦王〔宇治家彦伯爵となる〕の時にも問題ありしが、今回も100万円という額が多すぎて皇室財政上の困難ありと言うならばこれを減ずるに差し支えなきも、久邇宮多嘉王〔徳彦王&家彦王の父〕が降下されるべきものをされなかったのだからという考え方には不賛成にて、降下されるその方の直接に必要によるものとして考うべきなりと述べておけり。

《賀陽宮恒憲王の件》
名古屋の師団長に赴かれる時 陸軍関係では自分の知っている者を集めて張り切って行かれし趣なるところ、内大臣木戸幸一に「愛知県知事雪沢千代治ならびに愛知県官房長山田武雄は良くないから交代せしめよ」と注文されて困らせて行かれたが、官房長は原信次郎に代えたが、知事についてもその後も大蔵大臣賀屋興宣にも言われし由。
新内務大臣安藤紀三郎は直ちにはできぬ旨申し上げる由。
宮内省としては内務大臣の決心に対してなお皇族として言われることになれば間に入るべきなるも、いまだ関係すべきであるまいと考えを述べておく。

《東伏見邦英伯爵〔元久邇宮邦英王〕の件》
比叡山真言宗管長のことは元久邇宮属なりし飯田というもの京都にあり真言宗宗務に関係あるとかにて、その策動にて得度する要なくてとて東伏見伯爵に申し入れ、彼は昭和皇后の弟宮なりしとのことで宗会議等の関係を丸め得るとでも簡単に考えたるか。
東伏見伯爵も歴史研究にも便なりくらいにて、東伏見大妃〔養母東伏見宮周子妃〕・久邇大妃〔実母久邇宮俔子妃〕に話あり、別に反対もされなかったとのことにて新聞に出たわけにて、得度することに東伏見伯爵は大反対とのことなり。
本願寺の者は「昔は叡山と奈良から妻帯することについて盛んに攻撃されたるに、今度は真言宗の管長から妻帯することになるとは面白いこと」と言っている由。
〔東伏見邦英伯爵はすでに妻子持ち〕
文部省では管長は、
●徳のある者
●得度すること
などを条件と考えある由にて、宗務会議等にて改訂をしてもその点文部省で許可せざるべし。
ただ例の官僚的に申し出なければ、意志を表明せざる態度は不適当なことである。
星島は先に3年の執行猶予なりしも、相変わらず東伏見伯爵の身辺にあり。
他に人もなきらしく、今回のことには直接関係は無いようなり。

5月15日
照宮〔照宮成子内親王〕御婚約につき参内。
内謁見所にて両陛下・照宮御揃いにて御祝を御受あり。
御祝酒・サンドイッチ出る。

5月16日
秩父宮、だいぶおよろしき由なるも、御起きになるほどにはならず。
少し痰余計に出る様子。

5月22日
昨日連合艦隊司令長官山本五十六、戦死発表あり。
今朝の新聞に大々的に出る。
知ってることだからなんともないのだが、車中で見た新聞 置き捨てにしがたい気持ちにて鞄に入れた。
おそらく他の人だったらこのように心動くことはあるまい。
海軍として大損失と言えよう。
また世の人にとってもなんとなく惜しむ心を人から人へと伝えて、付け焼き刃ならぬ心の痛みを知ると知らぬとに隔てなき憂いとなるであろう。
亡き人の徳なり。

6月5日
連合艦隊司令長官国葬。
北白川の叔母様〔北白川宮房子妃〕よりお話あり、大臣官邸に場所を用意し、喜久子〔高松宮喜久子妃〕・百合君様〔三笠宮百合子妃〕・東伏見宮おいであり。
先の東郷平八郎の国葬の時もそうだった由。
北白川の叔母様そういうことお好きなり。
涙とまる時なかりし由。

6月16日
先年宮崎県でもらった弓を持ち出して、矢の良いのがないので、弓がけは魚籃坂の弓師にて作ったから、今度は矢というわけで、池田特務大尉が集会所の出入の弓屋に言いつけた。
買うことになる。
4本で25円とはちと高い話だ。
名入りでこれが良いのか悪いのか知らないが、売る方ではこれで値を上げたことになっているのだろう。

6月23日
秩父宮へ寄ってお姉様と話す。
お兄様はかばかしくないので、なんとなくお気になること多き御様子。

6月25日
照宮〔照宮成子内親王〕の御新居拝見に行く。

6月30日
音羽様〔音羽正彦侯爵〕の奥様〔大谷尊由の娘大谷益子〕御病気なりしとのことにて御見舞の件 秩父様と御相談せるも、音羽様は別に女あるらしく、奥様は今まで黙ってきたのだがそれが原因とのことにて、御見舞はもう少し調べてからとなる。

7月13日
近衛の件で東久邇宮稔彦王来談。
近衛から聞いてくれとのことなりとて、
(1)私が近衛をつれて陛下にお話を申し上げようとしているとのことなるも本当か。
(2)私が近衛に会うつもりか。
とのことなり。
(1)は別に心当たりなし。
近衛は自分から会いたいということを馬鹿に気がねしているとのことなり。

7月15日
ドイツ語の稽古。

秩父宮御病状につき遠藤博士の話を聞く。
左肺の鎖骨の上下にわたる部肺尖に空洞あるらしきも、肋膜が厚くなってきてポータブルのレントゲンではよく見えぬ。
昨年夏ごろから左の横隔膜はずっと上へ上がって左乳の辺まできて、心臓も左にずっと寄り、気管も左に寄って、右肺が広がっている。
これは気胸をやったのと同じ結果であって、肋膜の癒着のため気胸ができぬのだが、やったのと同じになっているのは良いわけなり。
病患は左肺の前葉で、後葉はそんなに侵されておらぬと思える。
右肺には最近は異状を認めず。
腹膜と共に警戒注意している。
腸にもなんらの発見しているものなし。
一般と比べて抵抗力が非常に弱いように見受けられる。
下痢はそんなにほどくないので案ずることはない。
治療としては開放療法を根本として推奨する。
そして鼻カタルとか風邪とかになって病状が後戻りするよりも、これで抵抗力をつけることが大切で、零下10度になってもよいという話なり。
それならば秩父宮のやり方は不徹底で、これを唯一と考えるならば効果を期待するに不十分なり。
それに関しても看護婦は日赤の結核療養所経験者でないため開放についても思い切ってやれぬのではないか。
また看護婦がやろうとしても侍女などがなんとなくやり難くする態度あるべきは、私の病気の時から推して察せられる。
病人にとって看護婦は極めて大切なる存在なれば、医者と気脈をよく通う者で思う通り病人を扱えなくてはならぬ。
それで病人も安心できるわけなりと語る。
一度療養所見学せしめること考えしも、遠慮にて実行せざりし由。
セファランチンにつきては効ナシとの例のみを挙げて、実用せんとする方に心傾かぬ様子なり。
「医者はどうも新しい療法や薬を排斥するばかりで、協力または採用せんとする努力せざる通弊あり」と言ってやる。
檜や椰子の油については実験したることなしと。
お灸はどうかと言えば、やっても差し支えはないが効くとは思わぬと言う。
あれやこれややるのは、かえってどれも効かぬと病人に療養の信念を失わしていけないとも思えると。
今度の土曜にレントゲンを撮って、それから相談して治療につきても考えるとのこと。
治療としてできることは、肋骨切除・空洞吸出なりと。
これは御殿場ではできぬ。
今すぐ動かすことは考えぬと。
遠藤博士も自分の治病の経験からやはり新しいことはやらぬと言う点も、物足らぬ感なり。

7月18日
プール、今日から使用。

7月22日
朝プールで泳ぐ。

平泉澄博士来邸。
戦局ますます困難となり、どうも東条首相では国民の心を満足して敗勢を挽回することに一致せしめることはできないであろう。
国民はいまだ勝っておるつもりでおる。
今から一生懸命に喜んで努力するように立て直さねばならぬ。
それには皇族が乗り出す時機はすでに来ているであろう。
悪化の情勢に陛下が正しい筋の通った人を側近に有せられることは必要である。
またかかる場合には平凡より癖あるも仕事をする人も必要なり云々と。
往年共産主義思想の風靡せる時は、学生も教授も暴動に際してはいずれに加わるべきか、運転手も宮城があって邪魔で回り道をせねばならぬと言い、天皇を敬うとかいう心なく、考えれば無くてもよいものがあるわけだと言うのが共通であった。
それが今日に至ったのはなんと言っても五一五事件で世人はハッとしたこと、満州事変等々によるのである。
もとよりその当事者は未熟の者でその罪は罪として刑せられて適当であるが、しからば今日まで何事もせず罪せられずにおる者が如何にして彼の思想の危機を打開することに努めたか。
何もしておらぬのである。
かくのごとき経緯に対しては十分に今日の時局と考え合せて、その筋道を明らかにしておらねばならぬ云々。
「最悪の例を取って言えば、無条件降伏となった時にも国民が一致して再興を誓い、臥薪嘗胆するつもりになればようであろう」と話したのに対して、今からも少しでもよいということを努力実現しなくてはならぬ。陸海相互に悪口を言い合うようではならぬと。
「皇族と言えば、私はどうも自信が持てぬ。秩父宮ならばであるが、目下東久邇宮稔彦王は近衛公爵とか他の人と常に接触しておられ、経験も理解もあられるからよいかもしれぬ」と語る。

7月25日
プール、水換えしたら溜まらなくて泳げず。
ムッソリーニ辞任、パドリオ任命を報ず。
畑、ジャガイモ収穫。
種芋5貫にて90貫余獲れた。

7月31日
戦局は困難は増大すべく、国際情勢また有利ならざるは速やかに改善せらるべき予想立たざる時、最悪の場合を考えその処置を案ずるは極めて必要なるなり。
すなわち私としてただちに迷う問題はやはり生か死かの分かれ道にたつことなり。
一つは都にありて陛下の側近にあることにして、一つは戦場に赴きて敵中に突撃することなり。
いずれも国体変革暴動に際し皇位を守るためなり。
敗戦による国民の怨みが天皇に直接向けらるるとせば、私が戦死することによって感情的に慰撫するとともに国民を発奮再起を誓わしむることを得べし。
先の大戦にドイツ崩壊にあたりカイゼルはただちに戦場に赴きて決死せば、ホーエンツォレルンの後嗣を立て得んとする進言の意味に合せんとするなり。
然れども現在の人材においては一抹の不安を国内の死後に残さざるを得ざるものあり。
しかして生きて側近にありて何の重責を負うべきやを思えば、また自らの識量の足らざるを憂うること切なり。
ここに生死の迷いに悩むを如何とせば、死を選ぶのみか。
秩父宮にして些かにても活動し得らるるとせば三年の命を一年につめても国家の危急に応ぜらるべきは明らかなれど、いまだこれをたのむべく体力の快復し給わざるを惜しむ。
三笠宮はあまりに幼稚なり。
数年後に委するに足るべきも、今すぐにものの役に立つとは思えず。
軍人たらんとしてすでに命を保つに専心して今日あり。
政治家たらんとしていまだ機運の熟せざるものあり。
もとより政治に関与するにはまず東久邇宮稔彦王を推さんとするも、他の皇族にして頼むに足る者なき観あり。
竹田宮恒徳王は一臂の力となるべし。
北白川宮永久王はすでになし。
世間、皇族の出でて時局の一環を担うべき機は来れりと言う。
皇族出づとあらば国民は自ら安んじて進むべき道につかんと。
我が国の特徴また存すと言うも、いたずらに甘く考うるは不可なるべし。
天皇親政あるべしと言う。
親政とは如何。
天皇一人にて何をなし給うや。
総理大臣と天皇との間に隔たるものありとの不安も、結局は国民の生活苦ないし戦争遂行の不安に依るべし。
皇族出たりとも親政を疑う心理を解決するとは限らざるべし。
要は総理大臣を信頼すべく国民を指導するにあるべし。
皇族の出づる意味もまたこれを覘うに他ならざるべし。
皇族自ら総理大臣たるにおいても同理なり。
要は官吏の奮発反省を得て一億一心の団結信頼により国運を啓かんとするにあり。
如何にしても敗勢を挽回し勝算を得んとの努力に邁進せんとするにあるべし。
かくては敗戦にも国民の決心動揺することなく、復仇再興の念を堅めしめんとするを得べしと言うも、なお直ちに発動して敗勢を転じて必勝の念に不動心を確固にせんと言うなるべし。
少しでもよければ皇族立つべきに疑いなきも、軽率にしてかえって親政の実を乱し、思想戦の遅れを取るがごときは慎むべきなり。
なんとなれば皇族の立つは主として精神作興にして、これをもって国民の物質生活を恵まんとするにあらざればなり。

8月1日
照宮〔照宮成子内親王〕より喜久子に電話にて、プールの御相手に来ぬかとのことで吹上に参る。
一時間泳ぐ。
昭和皇后も今年初めてお入りになる。

8月4日
朝、プールで泳ぐ。

8月11日
遠藤博士に秩父宮のレントゲン写真を見せてもらう。
左胸ほとんど白くなってわからぬ。
空洞あるらしいという程度。
絶対安静・大気療法で行くこと。
手術はやらぬ。

8月16日
泳がず。
ローマ、非武装都市宣言。

8月17日
東久邇宮稔彦王来邸。
近衛より「幣原喜重郎の話を聞いたらよい」との伝言を伝えらる。
電話でもよさそうなものなり。

8月27日
三笠宮別当厚東篤太郎より、百合君〔三笠宮百合子妃〕おめでた二カ月とのこと。

8月29日
ブルガリア国王ボリス3世崩ず。
よい王様だった。
枯れた盆栽を日本のだとて飾ってあったので、後から活きのよいのを送った。

8月31日
かぼちゃ収穫。

デンマーク国王クリスチャン10世軟禁せられ、デンマーク海軍艦艇60隻自沈せりと。
国王は海軍好きにて海軍を訓育建設されたのを考えれば、感深し。
デンマーク国王には好感深し、大事なきことを祈る。

9月5日
芝生を畑にする縄張りを見たり、稗の穂をつんだり、小豆つんだりする。
小豆二度つんだので、あとは刈るだけ。

9月9日
イタリア無条件降伏。
夜中の放送でイタリア無条件降伏せりと。
誰もがイタリア脱落は通念になっていたのに、あれよあれよと呆れるばかりなり。
失敗なり。
在ローマ武官光延東洋は8日朝、ナポリ南方に敵船団ありとの情報交換を発電している。
馬鹿にされた話なり。

9月22日
留守中に庭の畑、荒起し完了す。

9月26日
芝生を打ち起したりす。
手の皮薄く、長くやれぬ。

10月4日
かぼちゃの残り収穫。

10月13日
賢所で大前儀参列〔東久邇宮盛厚王&照宮成子内親王の婚儀〕
盛様〔東久邇宮盛厚王〕余裕しゃくしゃくとして現わる。
照宮〔照宮成子内親王〕美しく愛らしく見ゆ。
盛様御簾を出て縁の角にて振り返り、照宮の出てこられるのを見返した形、誠に優に優しい男ぶりなり。
照宮にこやかにて、さすがに朝は涙のあとも伺われたが、午後はあどけなく見ゆ。
盛様も無邪気、よき御夫婦、永く御幸福なれと祈る心地す。

10月23日
内原満蒙開拓青少年義勇軍訓練所生徒5名来り耕作、小麦まく。

10月24日
内原満蒙開拓青少年義勇軍訓練所生徒来邸、広芝の芋掘る。
558貫なり。
200貫貯蔵す。

11月2日
お姉様〔秩父宮勢津子妃〕より新服装〔宮中服〕につき御説明申し上ぐ。
喜久子、着て御覧に入れる。

11月7日
明治神宮錬成大会中央大会。
安南留学生の入場の時 仏印の札を持たせたところ、予行の時から安南と書けとていざこざありしも、大東亜省の意見とかにて仏印のまま無理に持たせたが、私の前に来たら札を返還するような形になって置いて行ってしまった。
その時はなにごとかと思ったが、以上の経緯あり。
なるほど、大東亜と言いつつ仏印か安南かのけものにしていたことなり。
大いに注意すべきことなり。

11月9日
久しぶりに肛門にイボが出る。
ボラギノールを入れる。

11月14日
満州建国大学、本年初めての卒業生を出す。
尾高亀蔵中将・安倍教授に聞く。
日・鮮人の一致せること実に目覚まし。
鮮人の和田教授の影響大なり。
満人はこれに次ぐ。
蒙古人は日本人的なり。
白系ロシア人は劣る。

11月17日
柿、収穫。

11月18日
サツマイモ・ジャガイモ収穫。

11月21日
カラスウリ至るところに赤くなっている。
収穫す。

11月22日
カイロ会議、ルーズベルト・チャーチル・蒋介石。
落花生収穫、9斗3升。

11月29日
宗秩寮総裁武者小路公共来談。
蜂須賀正氏侯爵、礼遇停止の件。

12月1日
テヘラン会議、ルーズベルト・チャーチル・スターリン。
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『高松宮日記』

1944年1月14日
《東伏見邦英伯爵の管長問題》
文部省ははじめから俗人に修行なき人には許さずと言うも、態度極めて消極的なり。
最近得度して僧籍に入るとの考えを持ち、そうすれば管長になれるとの見方をしておられる。
本年になりてより久邇宮朝融王〔東伏見邦英伯爵の兄〕に珍しく面会、その話をされし由。
朝融王は「どうせなっても失敗するであろうからやらせてみよう」との考えの由。
宮内省としてはとめたいが下手にとめだてすると、「東伏見宮の祭祀を継がぬ」と申し出られるのを恐れる。
先の場合にもそういう脅しを用いられた。
東伏見宮大妃〔東伏見宮周子妃〕にしてみれば最も重大なることにて、昨年これも珍しく東伏見宮が法隆寺を自ら案内されたのをひどく喜ばれて、宮内大臣松平恒雄・宗秩寮総裁を食事に召したというくらいのこともあり。
僧籍に入ることを望まれぬが、これは絶対ということでないので仕方なしとも考えられようが、祭祀のことになると大問題で大妃殿下のもっとも痛心されることになり、松平宮相もこの点を考えねばならぬ立場にあり。
管長就任に関しては叡山側もこれで世襲の管長を叡山に置けるという考え。
青蓮院〔天台宗門跡寺院〕ではそれで収入も増すであろうという考え。
上野〔天台宗寛永寺〕では京都久邇宮邸を住居とされよう、そしていずれは東京の移られて上野に来れようというなどの、それぞれの考えで賛成している。
黒幕たる星島・飯田はすでに運動金を消費しているとか。
管長になれば年10万円はもらえよう等、就任のためには100万円も用いられよう等の考えあり。
結局現在ではやはり文部省から速やかに、時局も考えかかる管長は許さぬ方針をそれぞれに示達するを適当とすべしとの所見を宗秩寮総裁に語る。

2月4日
音羽様〔音羽正彦侯爵1944年2月6日戦死公表〕大島島へ行かれ危ないからとて第六根拠地隊参謀に代えたところ、こっちが先に敵の上陸するところとなり変なことになる。
もちろん私は一人ぐらい本当の戦死〔皇族の戦死・音羽正彦は元朝香宮正彦王〕あった方が良いと思ってはいるが。

2月16日
東宮伝育官石川岩吉来談。
平泉澄博士の話にて、時局まことに心痛、いよいよ皇族内閣出現の要ありとの感深し等々。
それにつきその段取りを聞きしに、昭和陛下の思召によるといった考えなりと。
皇族が政治に関せずとて責任を逃れる要はなきも、いたずらに出てみたところで何ができるかとの考えかわりなし。

2月18日
軍令部。
海軍大臣に話す。
「私の保身の時にあらず、戦死するべき時ならずや」
いまだしからずと言う。
「海軍の最後的努力すべき時なり。大臣または総長交代して活を入れ直すべきでないか」
目途が無いのに辞するわけにゆかぬ、信念として悲観した顔・言葉は表さぬとて、なお最後的段階に立ち至り大臣の能力及ばざることに気づかぬようなり。

2月20日
私の銅像三つあるのを壊す。〔金属供出〕

2月21日
伏見宮熱海より御帰京、来邸。
昨日の手紙の件のお話、嶋田大将御信任ありて辞めさせるよう言えぬ、私から昭和陛下に申し上げるようにでもすればともかくとのこと。

2月26日
東久邇宮稔彦王より電話にて、朝香様〔朝香宮鳩彦王〕より音羽様〔戦死した音羽正彦侯爵・元朝香宮正彦王〕に菊花章を賜るわけにいかぬかとの話ありて宮内省に話しせるところ、宮内大臣も不賛成の由につき、朝香様にお話ありしに、私にもう一度話をしてみてもらえとのことなりと。
直ちに宗秩寮総裁武者小路公共に電話し、東様のお話を知らぬ態ににて相談せるも、宮内省に誰も菊花章に賛意を表する者なく、御降下の方として別の方法にて何かする工夫をするつもりとのこと。
もう一度私の意見ありしを宮内大臣に取り次ぐように言う。

2月27日
北白川の叔母様〔北白川宮房子妃〕より話あり。
音羽様のことにて、朝香様よりお話あり、なんとかならぬかとのこと。
私としても皇族が皇族として特別に受け得ることならともかく、一般の行賞をもじって無理をするようになるのは面白くないが、なんとか宮内省に申しましょうと約す。
公爵〔侯爵から公爵への格上げ〕も一案なるべしと言う。

2月28日
東宮様の御教育に関しては、かえって万世一系という国体に心易しとするためか、関心足らざるを感ず。
はるかに外国の国王・皇帝の後嗣の教育は直ちに皇室の存続の問題として本能的に考えられ、自他ともに熱心に厳格適切に行わるるにあらずや。
今時局の困難に直面し将来如何なる事態となるも、いよいよ天皇の御素質・英明にまつこと大なるを思えば、いまだ幼き東宮様の御身の上には実に容易ならぬ御苦労を願わざるを得ざるなり。
この意味でも速やかに成年の教育を受けしめ、一日も早く天皇として人格を備えらるるよう努めざるべからず。

3月1日
平泉澄博士。
いよいよ私の立つべき時機に立ち至れり。
ラバウルの全軍見殺し、空襲時の暴動化、今にして誠ある政治をもって戦力を全能発揮し、戦争目的を更めて宣戦詔書に基づきて明らかにし、戦争結着に持ってゆく必要あり云々。

3月3日
《東伏見邦英伯爵の管長問題》
その後文部省からインチキな得度では許さぬ旨、宗務当局者に強く話たるところ止めとなる。
東伏見伯爵も断念したとか。
それにつけても星島は磯子に常住し特別の配給として白米・玉子・肉等を警察から、それが受けなくなったので経済部から受けて、しかも代金も払わず、東伏見伯爵が月の半分は京都なのを一カ月分取って、なにかと言うと皇族出をふりまわし、量も皇族以上とか。
神奈川県知事近藤壌太郎も警察に出すなと言って止まったと思って知らずにいたり。
笑い話以上なりと。

3月4日
宮内大臣松平恒雄・宗秩寮総裁武者小路公共。
音羽様〔戦死した音羽正彦侯爵・元朝香宮正彦王〕に対し菊花章・公爵等の御沙汰願えぬかとの研究、いずれもできぬとのこと。
御沙汰御使も難しい。
結局何もできぬという話なり。
伏見博英伯爵〔戦死・元伏見宮博英王〕との釣り合いを言うも、伏見伯爵の金鵄章が特別の異例なるため、それは違うは当然と言うも、まず皇族出の者として特別でない方が感じがよいとのことを考えてもおるらしく、仕方なしとなる。

3月5日
喜久子2~3日胃の具合悪くあまり食べず。
ヒステリー気味なり。

3月11日
平泉澄博士が近衛公爵に、私が総長大臣兼任に対して大いに怒っているとの話をせる由。
私は怒っておらず、かえってそれもよいと思っている。

3月29日
叡山の問題が一段落して、残るは村雲日浄門跡〔仙石政敬子爵の実娘仙石温子/九条道実公爵の養女九条温子〕の話。
日浄尼の戦地への慰問文を見た兵隊(それもセックス的な乗ずべきものありと見てとると、所を書いておいて帰還する時の相手にしようとしていた)の選に入って、その兵隊の訪問を受け秘書に採用、今までの尼さんの執事を追い出してどこへでも連れて歩いている。
その兵隊はこれも同じ手で手に入れたのかすでに細君あり。
先の尼公〔村雲日栄〕の時から寺内の経済の乱れもあり後援会のいざこざもあり、寺の宝物・経済に手をつけられても困るし、こんな話もだいぶ京都で話題として賑わっているので、宗秩寮総裁武者小路公共が侍従武官の口を通して陸軍で再びその兵隊を召集さして南方に出すことになったが、船が出ないとかで依然として伏見の連隊におって休日にはちゃんと面会しているとか。
最近村雲日浄が上京し、大正皇太后〔貞明皇后〕と昭和皇后〔香淳皇后〕に御対面を願った。
大宮御所では知らないからすらすらと拝謁したが、皇后宮大夫広幡忠隆は知っていたので拝謁を止めていたので、両方がちぐはぐになってその訳を昭和皇后に申し上げなくてはならぬということになり、また広幡大夫足を痛めて休んでいるので武者小路総裁と電話でしきりにその話をしている由。

4月3日
山本英輔大将・内山智照同伴。
(言霊学、四国剣山の件)

4月12日
大学校に行き、寺本武治少将に黙示録・言霊学・四国剣山のことを尋ね、やはり後援したり勉強する必要もなしと思う。

三笠宮来邸。
〔出産予定の第一子の〕お誕生の名として「甯」とする。
ただし「ヤス」「サダ」なれば、男なら「サダ」女なら「ヤス」として、大正皇太后〔貞明皇后〕〔サダコ〕お兄様〔ヤスヒト〕と同じにならぬようにするつもりと。
支那の字なり。
不賛成とも言えぬ。
よかろうと言う。

4月23日
音羽様〔戦死した音羽正彦侯爵・元朝香宮正彦王〕英霊の箱には写真一枚入りしのみなり。
朝香の叔父様〔朝香宮鳩彦王〕は何も入っておらぬだろうとは思いしも、やはりなんにも入っていなかったとてガッカリなさって見えた。
ガダルカナル島戦死者等にて何もなく、現地の慰霊祭の供物と思われるバナナの皮等を入れあるものあり。
地方新聞にてこれを家族の人が怒らぬようにとの記事ありしこともありしが、そのつもりで考えれば写真一枚はいっそうつまらなく思う人もあるべし。
英霊の箱にはあらためて臍緒・歯など収めた。
例の通り〈南無阿弥陀仏〉を書いて8枚収む。
叔父様はお題目より〈七生報国〉とかそういった文句がよいとて、その場で書く方はそれぞれそうした句になる。
進級したので少佐の襟章と金鵄章二つになった略綬とを収む。
別に小箱を埋められるというので、それに襦袢とか足袋とか杖の型など入れた。
叔父様は英米に斃されたのだから、シャツなど英米の物は入れてやりたくないとのお気持だった。
小さい箱だったが割に入って、ネクタイも入った。
伏見博英伯爵〔戦死した元伏見宮博英王〕の時は少し大きな箱で雑誌等も入れた由。
伏見伯爵の遺骨は音羽様が横須賀から首にかけて、その時「重かった。感慨無量なり」との話ありし由。
叔父様のお話なり。

4月24日
三笠宮沼津にて百合君産気づけりとて、夕刻沼津へ行く。
少し変なり。
わざわざ行くことはあるまいに。

5月3日
徳川義親侯爵。
帰朝してみて陸軍の人に会って、どうなるのだろうと投げているのを見ていよいよ寝て夢心地にて、皇族が総理大臣になるのではなく打開の道をつけるために積極的に働いてもらう時と考える。
重臣も手をあげている云々。

5月4日
三笠宮、〔第一子の〕命名の御礼にとて来邸。
ちと変なり。

5月17日
秩父宮、ひどくおだるく、息苦し、召し上れぬのでブドウ糖2注射・強心剤2注射。
流感の気味、肺炎菌を認む。

5月18日
秩父宮御容態。
遠藤繫清博士拝診、レントゲンを撮り自然気胸のための呼吸困難と判明、吐き気もそのためと認めらる。
原因わかり一安心の御様子。
お姉様一人で御心配にて、電話かけて私にお知らせになるだけでも気軽になれる御気持ちなり。

5月19日
木更津航空隊着。
さすがに暖かき地なり。
ここまで来ると女の子の顔丸く血色よく愛情ある顔 多くなる。
そのわりに大人の女の顔は平凡。

5月23日
秩父宮少しお楽になり、御食気も回復せり。
御熱上下あり、一時腎盂炎の疑いありしもそうでなしと。
肋膜炎はなにぶん自然気胸にて、汚れた空気が胸腔にたまったので化膿の心配はある由。
寺尾殿治博士泊まり込みなり。

5月27日
内原満蒙開拓青少年義勇軍訓練所生徒4名来邸、イモ植え付け準備。

5月28日
内原満蒙開拓青少年義勇軍訓練所生徒引き続き作業。

5月30日
内原満蒙開拓青少年義勇軍訓練所生徒、午後引き上ぐ。

6月22日
御所、御都合うかがい参る。
サイパンを失うことの重大に関して一言申し上ぐ。
あとつけたりにて「皇族を何にか御相談相手になさる御思召なきや」伺いしところ、
「政治には責任あったからできぬ」
「統率の方も責任あるべし、結局お頼りになる者なしとのことでしょうか」
「それは語弊あり」云々。
相変わらずにて落胆す。

6月24日
親睦会。
会食後談がサイパンのことになり、朝香様〔朝香宮鳩彦王〕は「奪回作戦を強行せねば、あと目算なし」、東様〔東久邇宮稔彦王〕は「成算なき奪回はやらぬ。あとなんとかなるかもしれぬ」
午後昭和陛下に「元帥会議は形式的なものである。準備期間もない。しかもそれは統帥系統のもので、戦争指導上もっと深く考えをめぐらす上で決定さるべき」旨 手紙を書き、「御苦心遊ばすべきと思う」と書いたが、とうとう差し出さずに止めてしまった。

6月25日
昨日の手紙、やはり差し上ぐ。

6月26日
御所、御二階にて昨日の手紙のこと。
「元帥会議上奏御決定のことなれば、ひっくり返すことなし」との御話あり。
「ひっくり返すにあらず、サイパン確保と言い実行せざるままに問題あり」云々から、
「しつこい」と言うことであった。

7月5日
秩父宮へ行き、作戦の見通しなく国内結束第一重大なること、陛下が依然形式的なること等、よさそうならお兄様に申し上げてほしいと言っておく。

7月7日
内大臣・宮内大臣・侍従長と会食。
昭和陛下の修養の御相手必要とすること、御健康には錬成の意味にて強制・克己の御運動が必要なること、組織の乱れた時の御覚悟として御注意を申し上ぐる要あること等話す。

7月8日
陛下の御性質上、組織が動いている時は邪なことがお嫌いなれば筋を通すという潔癖は長所でいらっしゃるが、組織が本当の作用をしなくなった時はどうにもならぬ短所となってしまう。
今後の難局にはその短所が大きく害をなすと心配されるので、そうした時の御心構えなり御処置につき今からお考えを正し準備する要あり。
すなわち精神上の師となる人をおつけすることが必要であるとの話をした。
昭和陛下は筋を踏み外すことがまったくお嫌いなため、内大臣は政治・武官長は軍事・宮内大臣は宮中関係・侍従長には側近のことというふうにまったくそれから少しでも出たことを申し上げれば御気色悪く、自らも決しておおせにならぬ。
侍従長も初めは何事にもついて申し上げるつもりだったが、これはできなくなった。
もちろん二二六事件等の例により侍従長と内大臣を撃たれたということは、大きな衝動としてますますその区別を立てることによりかかることなきようにとの御気持を強くしてしまった。
内大臣はまったくありがたい御気持とは思うが、あまりに極端であるとは感じあり。
先日伏見宮が海軍大臣を代える件につき申し上げられた時も、内大臣に「内閣の更迭は困る。御思召によるとなっては困る」とおおせられたが、伏見宮の御話にありしことなり。
したがって御修養の師たるべき者が得られても自然それが具体的な政治問題に触れたら、かえって御不興をもって一度でお近づけにならなくなるであろうとは皆の考えなり。
そうしたお考えが甚だ困るので、それを改めなくてはならぬ。
内閣の組織更迭はしばしば御経験あるも、それを各種の情況の下に分析的に御認めになることなく、一つの結果だけを経験として前例にされるところも政治性なき御性質なり。
なにしろ今日のごとき憲法〃〃とおっしゃっても、その運用が大切なる時に今のような有り様では、例え天皇として上お一人でも万世一系の一つの繋がりとして、それではあまりに個人的すぎると思う。

7月16日
侍従長。
このあいだ私が何を申し上げたか知らぬが、あとでだいぶ御興奮になっていた。
御性質もあり重大なことを申し上げた時お聞きになるよう、あまり小さなことで御耳をふさぐよう仕向けぬ方がよいだろう云々。

7月26日
山本英輔大将。
四国剣山の件、帝大の考古学の先生などの方から価値ありとなれば、やれと声を掛けよいがと言っておく。

7月29日
平泉澄博士の弟子島田東助少佐。
総参謀長を置き統帥を強化して、私にそれになれと言う。
皇族がなることまでは同意だが、私という点は同意できぬと言っておく。

8月5日
今夏初めてプール水換、泳いでみる。

8月9日
北白川の叔母様〔北白川宮房子妃〕来邸。
7月7日に御所に上って昭和陛下にこと時局重大な時 昭和陛下も本当に御自身でなさる思召大切というようなこと申し上げしに、昭和陛下は「どうにもならぬのだ」とて、例のような少し工作するとつまづくと言ったという御話ありしと。
情けないことだ。
どうして平時とこの危機との区別がおつけになれぬのか。

8月11日
喜久子、昭和皇后に例の新しき服装の件〔宮中服〕申し上ぐ。
昭和陛下宮内大臣に新服には反対だと御興奮なりしも、松平宮相これは思召とも伺えず、主旨に御賛成とのことで進めておった云々と申し上げ好転せしめた由。
昭和陛下の御興奮も困ったものなり。
困ったぐらいでこの重大時局をどうしたらよいか、ほとほと安き時もなき思いなり。
どうしたらよいのだろう。

8月20日
御殿場へ。
秩父様、幾分お痩せなるも気先甚だ良く進んでお話になる。

8月21日
喜久子と大宮御所へ。
できたての唐衣〔宮中服の一種〕御覧に入る。

10月6日
宮中婦人新装〔宮中服〕発表まで進んだので、お姉様と喜久子とで大臣・時間・式部次長武井守成・式部課長坊城俊良・皇太后宮御用掛山中貞子を呼んで慰労会食。

12月7日
0130~0240空襲警報。
初めてウチの防空壕に入る。

12月17日
今日も空襲なし。
こうなると少し変なり。
これも神経戦なり。
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『高松宮日記』

1945年1月20日
18日喜久子大宮御所に上りし節、時局なんとしてもよいと思えぬ、宮内省に人なく何もさせぬから歌に詠んで神様に願ってばかりおるが、どうかして予告などせず本当に働いている人々のところにスーッと行って一言でも言葉をかけたらと思う、今ならそれが効果あると考えるが先にはそれも意味ないことになるであろう、自分はこのごろ特に身体に気をつけて以前よりも早くも寝るし大切にしておる、どんなに人が死んでも最後まで生きて神様に祈る心である云々。
この趣、宮内大臣・次官・総裁に話すよう、明日それぞれを呼ぶことにしておいた。

1月26日
京都。
仁和寺の隣の近衛公爵の陽明文庫に行く。
東大田山教授説明。
前田侯爵未亡人〔前田菊子〕ミイ子〔前田美意子〕水谷川夫人〔水谷川正子〕三井弁蔵夫人〔三井栄子〕近衛母堂〔近衛貞子〕・近衛夫人〔近衛千代子〕

2月6日
久しぶりに内大臣と話した。
別にまとまったことなし。
昭和陛下に時局収拾の胸算おありのようかと尋ねたが、別にないらしかった。
昨日内匠頭岡本愛祐子が、外務大臣が拝謁の後で大いに喜んで日本は神風が吹くと言ったとか、満州事変のころの昭和陛下の御心痛と昨今の御様子とを比べて何か見通しがおありになるなからん等 言っていたので。

2月11日
細川護貞。
木戸が内大臣では駄目だということ等々。

大宮御所。
あまり御無沙汰していたので、先日喜久子が上がった時に少し御不満な御話だったとか。
三笠宮御二方も。

2月15日(青森県滞在)
風邪の気分良からず、スキーに出かける気にならず。

2月16日(青森県滞在)
午後スキー。

2月17日(青森県滞在)
午後スキーに行く。

2月21日(青森県滞在)
午後スキー。

2月22日(青森県滞在)
尻内付近で雪の原の街道にただ一人の通りがかりの壮年者が立ち止まって私の車に礼をしていく。
つれだった生徒ら随所に車に礼をする姿を見る。
感激の心にじむ。
この国民をスペインのアルフォンソ国王の自動車に等しく立ち止まって礼をしたスペイン国民が、まもなく革命の君臣たらしめたと同じに考えられぬ。
同じにしてはならぬ。

2月25日
宮城にて午餐お招きのところ、空襲予想にて今朝お断りす。
御召は三笠宮・東久邇宮稔彦王・賀陽宮恒憲王。
ちょっとめずらしい結構なことと思っていたのに惜しいことをした。

東京より電話。
宮城・大宮御所に始めて爆弾投下。
三陛下御安泰。
大正皇太后〔貞明皇后〕は少し耳におこたえたとのこと。
秩父宮の御庭に一弾落ちたとのこと。
神田方面大火災となる。

2月27日
御所で侍従長藤田尚徳が出て来たから、「たまには宮城に爆弾が落ちるのも、陛下が戦場の中にいらっしゃることになって結構なことだ」と語っておく。
あまりに側近が戦時体制にならぬのがよくない。

1945年3月1日
秩父宮、少将に御進級。
先年は御病中にてどうしても御進級おいやとのことなりしをもってどうかと伺ったが、今度はそれほどでもないようなので、三笠宮と合同にて御祝として千疋あげる。
別に少し花を添える。

3月9日
夜半よりB29の逐次焼夷弾攻撃。
おりから強風にて各所炎焔、明るく天にうつる。
伊達宗彰侯爵邸の大建物焼け、火の粉庭に振る。
北風にてウチの方にはあまりかからず。
君塚町よりの棕櫚の葉や枯れ枝に少し燃え移る。
0230空襲は終わるも、火災やまず。
0430また寝る。

3月10日
宮城に御機嫌伺いに行く。
板倉坂下から神谷町の両側焼け、慈恵会の前まで延焼。
司法省全焼。
宮内大臣松平恒雄も焼け出されたとのこと。
賀陽宮全焼、山階宮一部焼けた。
賀陽宮は宮内省第二期庁舎に御避難。
山階宮武彦王は山階芳麿侯爵邸へ一時避難。
東久邇宮官舎燃えたが無事。
照宮〔照宮成子内親王〕午後男子御出生。

3月16日
長官邸のベランダにて日向ぼっこ。
日光の温度を十二分に享楽す。
罰が当たりそうな気持だった。

3月21日
これならよかろうと、伊勢神宮に官吏、国民の一部の開戦以来の怠慢をお詫びして今後の祈願を遊ばす、三笠宮か私が御内示を受けて参籠参拝すること如何と手紙書く。

3月24日
御所よりの御返事。
前提条件には議論あるも本論には賛成だから、実行につき宮内大臣と協議せよとのことなり。
前提条件のいかなることに御不賛成か不明。

3月25日
御所へ。
伊勢の件もし私へ御命じになるならば、前提条件の御議論ある点をとくと承らなくては、私として行くのではないから神を偽ることとなり一大事と考えるので、その時は御召をいただきたくあらかじめお願いする旨、再び手紙で申し上ぐ。

宮内大臣・次官・総裁。
伊勢御祈願の件大臣に相談せよとのことにつき話す。
研究の上は直接陛下に申し上ぐるよう話す。

1945年4月1日
高松宮元老女小山トミ、少し頭がおかしく、嫁いじめ、他人から物を欲しがりおかしき由。

4月5日
宮城へ。
伊勢参拝の御告文いただく。
その節先日の手紙の前提条件の御議論につき伺いしところ、
「責任をとって辞めないと言うが、責任は感じている」とのこと。
「私の言うのは辞めることではなく、例えば官吏が高級飲食店閉鎖後も酒や肴を手に入れて飲んだりするのは責任を感じぬことである」と言えば、
「そんな小さなことはどうでもよい。要するに戦争がうまく行かぬ、国際関係がよく行かぬ、内政上にも面白くないことがあるという莫としたこと。そして今後戦局が良くなるようにと言うだけでよい」とのこと。
また例の通り同じことを繰り返しになり、
「神様にはそれでよいでしょうが、私には飲み込めぬ」と言えば、
「それ以上は考えが違えば、やめてもらうより仕方なし」とのこと。
「それでは私は御遠慮いたしましょうか」と言ったが、あまりこれを押してもつまらぬことで閉居するに至るよりないので、それではいっそうよくないと思いお受けした。

4月12日
参内。
伊勢に行った御慰労の意味もあり夕食に御招きいただく。
また余計なことを言うと思召と悪いから、言うのはまたのこととして極力黙っていた。
どうも困ったことなり。

4月14日
昨夜2300から警報で多数機が北上中というので、とうとうそれから京浜地区空襲となり0400まで起こされてしまった。
0430事務官より電話にて、三陛下御安泰 各宮無事なるも、宮城一部・大宮御所一部・山階宮全焼の由。
山階宮ほとんど着の身着のままの由、和服等一揃あげることにして三笠宮で打ち合す。
秩父宮で新しき御召ある由、それを出していただく。
三笠宮ではシャツ類 出せる由。

4月15日
昨夜の空襲にて、内大臣木戸幸一の私邸・農商大臣石黒忠篤・浅野長武侯爵・葛城茂麿伯爵・内匠頭岩波武信・保科正昭子爵など方々全焼。
明治神宮御本殿も焼けしも、御神体は御無事なりし由。
大宮御所も庭の芝に焼夷弾が百数十発落ちて大騒ぎなりし由。
2200より0130東京ついで横浜火災を望見。
木更津方面で十数機火を発し墜落するを認む。
東海道線・横須賀線不通となる。

4月16日
昨日の空襲にて東久邇宮邸全焼せり。
東久邇様〔東久邇宮稔彦王〕鳥居坂〔息子東久邇宮盛厚王邸〕に移るのはイヤだとて、お庭の防空壕にがんばってらっしゃる由。
叔母様〔東久邇宮聡子妃〕と照宮〔東久邇宮成子妃〕は昨日伊香保にいらした後のことなり。

4月19日
鶴見より大井あたりまで鉄道の両側あますなく焼野原となる。
明治製菓と隣の日本電気とは建物あるも中は焼けた様子なり。
その他はすべて鉄骨のみ。
それも曲がり焼けただれている。
蒲田駅もすっかり焼け落ちたり。

三笠宮。
閑院宮春仁王より元帥様〔閑院宮載仁親王〕万一の場合火葬にしたいとの話ありしとのこと。
私の考えとして火葬は好ましくない。
御葬儀までの間の空襲等の懸念は、小田原別邸でお祀りなさって自動車ですぐにお墓へ行けばよいではないかと話す。
御殿場にも伺うとのことなりき。

1945年5月1日
ヒトラー死亡。

5月2日
白金の密輸で蜂須賀正氏侯爵と高辻正長子爵が検挙された記事、新聞に出づ。
高辻がリュックサックにて持ち出すを満州安東で捕まった。
高辻のは御紋付の時計もあり、蜂須賀のは外国の貨幣にて外国のもので儲けようというのがまた悪いと司法側で言う由。
いかにもこの戦時中上層者が悪いことをすると言わぬばかりで、これはかえって赤化宣伝の手伝いのような考えなり。
外国貨幣で儲けるのはかえって良さそうなものを、いっそう良くないと言うのは個人主義的ならずや。

5月8日
ドイツ降伏調印、開戦5年8月6日なり。

麦が穂を出した。
一昨年も麦をまいて、これが獲れるまで無事か思った。
昨年も畑を見て、いつまで続けられるかと考えた。
今も庭の美しさ・草・木の育つを見て、いよいよ来年と言わず秋はどうなるかとやはり寂しさに堪えぬ。
道真の「東風吹かば」の歌がしみじみと想われる。

5月11日
宗秩寮総裁武者小路公共。
閑院宮載仁親王衰弱、万一のことにつき相談。
●国葬となるべきも、時間と取らぬため皇族の参列2人にすること。
●陛下特に御補導の恩を思召され御なりの思召なければ御なり無きを可とす。
●ならば、葬列は自動車にて豊島岡に行くこととなるも、道は宮城前を通りどこかで陛下が御見送りなさることはよろしからん。
●四日ぐらいしていったん東京本邸にお帰り、一夜置きて御葬儀とす。

5月17日
宮内大臣松平恒雄・白根次官・武者小路公共総裁・皇太后宮大夫大谷正男食事して、敵が関東に上陸して来た場合、陛下が御移になる場合の準備を計画する要ある旨話す。
やはり大本営のことは統帥部で主動するべきなれば、宮内省は主動的にはしないという意見なり。
そんなことでは人情がない。
まして今までことごとに手遅れを知っているのに、それでよいか。
まして軍人は自分が開戦主義者として戦争の責任を一身に引き受けようとせぬ。
ズルズルすべてを道づれとして行くと言うタチの人が主脳者である以上、それに任せて話のあるのを待っておれるかというようなこと、大正皇太后〔貞明皇后〕は敵の手の届く所におられても乱暴はされぬだろうかというようなこと、和平をやるにも少しでもまだ戦いは続けられるという形を持たねばならぬ、無条件降伏といってもその結果は一つではないはずだ、国の滅びようとする時に宮内省が傍観していられる問題と思うかというようなこと、賢所の御移のこと等々。

5月18日
昨日の話で興奮したのか疲れたのか、胸が晴々せぬ。
朝起きて御殿場に御無沙汰している申訳を自問自答してみたら、泣けてしまった。
お兄様が御病中にこんな事態になってしまって、御殿場へ出ようとその暇は作れぬことはないけれど、なんとお話してよいか、何か少しでも良い種があったらと思ってとうとう来れなかった。
私はもともと政治には触れる趣味もなく、昭和陛下がそれをお喜びにならぬのをよいことにしてきたら、お兄様の御病中に大戦争になり、政治にも口を出すべきなのになんの準備もなくとうとう何もできなく、昭和陛下に申し上げることもまずいのか御聴きになるよう申し上げ方もできず、外国とのことも私には何もできず。

5月20日
閑院様〔閑院宮載仁親王〕御薨去の旨通知あり。
春仁様〔子の閑院宮春仁王〕は小田原に行くのをあまりお好みでないようなので、私は一人で午後行ってこようと思ったが、三笠宮は陸軍でもありお世話にもなったかとも考え、行くなら代りに行くように尋ねさせたら行くとのことで私はやめた。

5月22日
新旧横鎮参謀長来訪。
旧参謀長横井忠雄パリの香水をくれるとて持ってきた。
お大切にとかなんとか当り前の挨拶をして帰ったけれど、それが妙にしんみりとこれでもう生きて会えぬというような響きを伝えた。
しかも私の方が大変だろうというふうに言っているのがひしひしと感じられた。
このごろ私の気持ちが安定せぬためかもしれぬが、ドイツにおった人〔横井少将は元駐独御付武官〕としてドイツの最後を聞いての感慨をこもらせておると思える。

5月24日
B29 250機、東京・横浜空襲。
鳥居坂の東久邇宮〔東久邇宮盛厚王邸〕も全焼。
保科正昭子爵、二度目の全焼。
北白川宮、洋館全焼。

首相秘書官松谷誠。
戦争終末問題。
外務大臣東郷茂徳熱心にして、最高戦争指導会議において下僚の議題とは別に首相・陸海両大臣・両総長にてすでに数回意見交換を進めあり。
なお戦争遂行を甘くみる部分あるも漸次進みつつあり。
海軍にては高木惣吉少将のみ関係す云々。
この話を聴いてだいぶ気持ちが良くなった。

5月26日
夜半風あり、B29東京焼夷弾攻撃。
火勢なかなか容易ならざる模様なり。
東京市内電話不通にて、ウチと話通ぜず。
両御所・秩父宮・三笠宮等全焼の旨聞く。
ただちに両御所へ御機嫌伺いに上る。
大正皇太后〔貞明皇后〕は御文庫にて食事中なるもちょっと拝謁す。
三笠宮焼け出され食事に来ていた。
三笠宮は夜は防空壕に帰って寝た。
閑院宮も焼けたので、明後日の国葬取り止め。

伊皿子より聖坂にかけて立花種勝子爵の側すっかり焼けた。
赤坂は九分九厘焼けた。
三笠宮でもどえらい煙であった由。
土蔵一つ残る。
大宮御所も手許の御文庫一つのみ残る。

5月27日
電灯・電話・水道・ガスまったく来らず。
都電もまったく不通。
これでは帝都の機能ほとんど断たる。

秩父宮、洋館丸焼けにて日本館のみ残る。
国葬取り止めになったので御殿場に行くつもりにしていたところへ、三笠宮急いで来て予定通りお姉様が品川にお着きになる由を報ず。
危うく行き違いになるところを止めた。
お姉様お立寄り。
昨日来東京の模様よく連絡取れず、秩父宮本邸の焼けたことも昨日遅くそうらしいとおわかりの由。
午後お菓子持って大宮御所焼け跡を見に行く。
大正皇太后〔貞明皇后〕御覧中に行く。

5月28日
大正皇太后〔貞明皇后〕と御所との御仲よくする絶好の機会なれば、昭和陛下から御見舞にいらっしゃるなり赤坂離宮にお住みなるようお勧め遊ばしたらよいとのことから、手紙を書いてそのこと申し上ぐ。

5月31日
御所より御返書あり。
両陛下の御成りまたは大正皇太后〔貞明皇后〕を御所に御招待御会食の件は、「宮内大臣等も相談した結果、当分のうちは実行不可能となり」
大正皇太后〔貞明皇后〕が赤坂離宮を御使用なるよう御信書にてでも御勧めいただいたらと申し上げし件は、「赤坂離宮についてはすでにその道を通して申し入れ済でありますが、お母宮様の大谷大夫に対する御信任関係がわからない」とのことで、
わざとその筋を通してと、私がややもすると時局柄筋を離れて云々することを例によってことさらに反対の意味を御示しなのかもしれず、御親子の情を温めようと思って申し上げたのに困ったことなり。
悲しい。
眼の裏がにじむ心地す。

●皇族としてその特色を発揮するように昭和陛下が御考えにならぬことは残念なり。
●昭和陛下はよく自分は皇室の家長だからとおっしゃるも、その家長たる処置をなさらず、御示しなさらぬから何にもならぬ。
●戦局緊迫して通信連絡も絶えがちとなるべき今日、皇族は如何にすべきことを昭和陛下が御望みなのか伺ってもわからず。
世間では各地に分散配置を取るべしと言う者もあり。
この非常時になってもまだ皇族は形式上の存在として、余計なことはせぬでもよいという御考えには困ったものなり。
皇族に対してすらこれである。
まして一般の国民に対してどうして信頼を御続けになることができようか。
国民の一方的信頼感に依存しているとより言えない。
これが我が神ながらの君民一体、主・師・親たる昭和陛下の御態度と言えようか。

6月2日
昭和陛下よりの御返事、御殿場に黙って御覧遊ばせとて送る。
考え方に開きの距離があるとおわかりになるかどうか。

三笠宮百合君、また〔妊娠〕二カ月とのこと。

6月9日
前宮内大臣松平恒雄。
〔長野県の〕大本営施設の話は聞いているが、いまだ極秘にて宮内省より見分しあらず。
陛下の時局に関する御判断、楽観に過ぎるを恐る。
御性質、大宮御所との関係等々。

6月14日
都ホテルの朝、日が山を越して登らぬ間の、大地から霧が立ち上って平安神宮の朱の大鳥居、山のふもとから谷ごちの遠近に濃淡の色を変えて次第に白く立つ景色がいつも好きな眺めなり。
そして蹴上の坂を荷車が行き一人二人と通り始めるのを見下ろしていると、静かな一日の始まりという感じがなんとなしに親しまれる。

6月17日
お姉様御上京。
今日は焼け残りの日本間にお泊りとて、夕食だけ食べにいらっしゃった。

7月7日
防空壕の壁、鉄筋組めたのでコンクリート流し込み始まる。

7月23日
三笠宮、大正皇太后〔貞明皇后〕軽井沢御移りの件につき来ていた。
また陸軍の軍務課長永井八津次が騒ぎ出してる由。
大臣を通すべきなりと話す。
御殿場でも陸軍の習性を御存知だけに、気をつけるようにとの御話あり。
大正皇太后〔貞明皇后〕の御思召など軽々しく陸軍のそうした人に漏らすべきにあらずということもあり。

7月25日
御殿場より御手紙来る。
東宮様〔平成天皇〕湯元御移りにつき、国歩きがたき御代を予想し、かつ冬の金精峠を考え、御鍛練をお勧めすること。
さっそく東宮伝育官石川岩吉に申しやる。

早く寝たら2200警報で、そのうちにドカンドカン。
川崎方面を攻撃しだしたので横穴に避退した。
このごろは誰も逃げぬし、湿気でカビだらけで行く気がしないらしい。
時々わざと使ってみる必要あり。

7月27日
三笠宮の望みで、朝香様〔朝香宮鳩彦王〕東久邇様〔東久邇宮稔彦王〕竹田様〔竹田宮恒徳王〕と会食。
三笠様は真面目な話をしようつもりだったらしいが、飲めや歌えになった。
後でしばらく話をしていた。

1945年8月2日
華族会館にて映画『風と共に去りぬ』をやる、観に行く。

8月6日
B29、広島来襲。
一機、落下傘爆弾投(新威力弾なり)

8月10日
0700三笠宮。
情勢を聞き、昨夜遅く陸軍省の人が日ソ経済提携を必要とする話をしにきたとだけ言って帰る。
1400三笠宮。
やはり情勢を聞き、皇族の集まることなきやなど東久邇宮稔彦王に伺ってみよと言う。

8月11日
夜中の警報に原子爆弾を持って来るとの予報ありしも来なかった。
明日御所に各皇族を御召の由。
昨夜御前会議決定、御親裁ありし旨、軍令部一部長告ぐ。
これが初耳だった。
1300皇族集り、外務大臣東郷茂徳から経過一般を聴く。
1600植田俊吉氏。
吉田茂憲兵隊に挙げられた話、これは陸軍のクーデターの一部なり、近衛一派と称してこれを全部挙げようとしたのを陸軍大臣阿南惟幾の決断でやめになった云々。

8月12日
吹上大本営防空壕にて皇族集合。
陛下より今回の御決心を御示しあり。
みな国体護持に御思召に添って努める旨 梨本宮よりお答えし、各自の意見をそれぞれ申し上ぐ。
夜三笠宮来り、阿南陸相の考え方 昭和陛下の御考と大いに異なるから、鈴木首相の意見を聞かんとのこと。

8月13日
三笠宮・鈴木首相来り、阿南陸相の考えにつき語る。
鈴木首相は最後は思召によってすべてをする点につきては阿南陸相を疑えずと。

午後三笠宮・竹田宮恒徳王来省。
昨夜の陛下の御言葉を記憶により記録、明日御殿場に届けることにす。

8月15日
御殿場へ。

8月16日
東久邇宮稔彦王に組閣の御命じあり。
竹田宮恒徳王・朝香宮鳩彦王・閑院宮春仁王に、現地軍に思召を伝うべき御命令あり。

8月17日
初めての詔書を自ら放送せらる。
二千六百年記念式典にすら許されざりしを、かかる場合に未曾有の録音放送をあえて遊ばさるるはなんとも感胸にしむ思いなり。
しかるに手はずは案じていた通り、承る人の心の準備がなかったため、多くの人はソ連参戦いよいよなれば御激励の放送を遊ばすものと考えていて、部隊では総員集合をして承ったが、語句の難解・聴取の不明瞭によるならん、終わっても御激励と思いありがたいことと感激して解散した。
ところが後の次ぐ放送で終戦の仰せであったとわかり、驚き悲憤し自失した思いであったという話もあった。
これが少なくなかったと思う。
せっかくの御思召が十分に達せられず、後の大臣訓示等も通信費消時のために遅れ、上級司令部の部下掌握が不徹底なりし点もあったと思える。
なにしろ陸軍海軍はもちろん他省は寝耳に水であり、なんら準備せざる事態に直面し手配は遅れ〃〃となりしは、どうも致し方ないことであった。
私としてもだいたいの進み方は予想していたが、それでも最後の数日のテンポにはまったく思索が追及できず、ために御裁断あってもハッキリせず、またこれまで思いつかなかった心配すべき件々が思い出されて、いまだにハッキリせぬ。
他の人々においてはなおさらであろう。

8月24日
満州国皇帝溥儀、ハバロフスクに伴われてありとの放送。

8月31日
《大東亜戦争によって得たるもの》
●植民地民族の解放
第一段作戦による東亜民族の解放は、戦局により日本のこれら民族に対して取れる処置は圧迫に終わりし観あり。
行政の不手際は反感を買いたるも、日本の精神は不正ならず。
結果として一度解放せられし諸民族は、例えばフィリピンにおいてアメリカ軍を救世主再来と考えたりといえども、再び過去のフィリピンにはなり得ず。
東洋以外の諸植民地も米英等をして旧来の植民地として維持し得ざらしめしは、ある程度の目的達成に他ならず。
●日本民族の世界的地歩の踏出
過去の日本は実際上は局地の日本に過ぎざりき。
支那事変以来、支那・ビルマ・東印と多くの地域に多くの軍人軍属としてその地を踏み、その人に接し初めて世界的見聞を広め得たりと言うべく、質的に進歩せり。
●戦局不利となれる諸原因すなわち日本の国内の正しからざりし姿を反省し、形式的忠君愛国を脱して真の日本人たる自覚と積極性をもって新発足す。
●上御一人の御稜威のみ唯一の国民の頼るべきところなるを知らしむ。
御親政といい滅私奉公といい、いずれも真の大君のため国のため、そこにのみ国民の生くべき道ありを体得しありし者少なかりしを自覚せり。

1945年9月2日
全国民がこの苦悩を引き受けることを忘れてはならぬ。
しかして堅固なる国民精神を持って征服された民族となってはならぬことを、改めて反省すべきなり。

9月3日
マッカーサーは天岩戸開きの手力男命のところを務めるものだという見方あり。
こうした考え方でいくと、大きく国体護持もできるかもしれぬ。
マッカーサーは確かに人物も大なりとの見方をする者多し。
アメリカの燃料で日本の自動車を走らせて不思議に思わぬならば、手力男命でも猿田彦でもよいわけなり。

9月8日
岡田長景は、オリンピック参加恥さらしだから出ぬがよいとのこと。
練習ができず記録が出ないなら、本当の恥さらしになるから止めるがよい。

9月9日
日曜復回せるも終戦関係はそれでは困るとて、再び日祭休み取り止めの提議をすることとなる。
各所で米兵がキャラメル等を投げたのを大人まで大騒ぎして拾っているとのこと、残念とも限りなし。

9月30日
秩父宮、戦争中御静養になり世間に触れずにおられて、かねてから戦争終了とともにお出ましになれることを祈っていたたらその通りになり、今回の御上京も人にもお会いになれるし、いざという時には摂政にもおなりになれると考えられ、これ以上のことなし。

10月22日
東宮様の御教育についても根本的に考えを改むる要あり。
すなわち外国人に対しても単に拝謁でなく、十分応待し得らるべき御教育を必要とす。
御留学もこの見地より考うべきなり。
アメリカかイギリスか、これは各々見方による。
長短あるべし。
アメリカとしてはイギリスはすでに世界的な国にあらずして、今後の問題はなんとしても米ソの問題しかもアメリカが関係を密にせざるべからざる国となるべし。
それには早く御留学になるを可とす。
同年輩のアメリカ人とお近づきになりあることは、将来の両国の提携に資すること極めて大なるべし。
アメリカ人の考え方を御理解ありて将来の日本の優れたるところを具現し給う上に、効果大なるべしとす。
イギリスとすれば王室を持って伝統ある国として他になきものなれば、その味わうべきものは深し、ただちに日本の皇室として例を求むるところ多く、将来親交を結ぶべき国として比すべきものなき国柄なりとなす。
御学問所についてもただちに考えを革めてかかるべき時なり。

10月24日
大正皇太后〔貞明皇后〕が御滞在になるので燃料食料をすべてその方に取られてしまうと、軽井沢住民が不平を漏らすと。
大正皇太后〔貞明皇后〕お出ましの時、相変わらず警官が「シー」「シー」と人を追い払ったりする由。

10月25日
宮内省より、皇族資産等報告提出の話あり。

10月29日
宮内省に行き参事官三浦義男に、皇族の宝石等の調べ、マッカーサー司令部報告の話せるところ、軽率にも宗秩寮より各宮に連絡電話にて通知あり。
各宮職員に知らしむべからざることとして、昨夜中までかかり親展にて伺うようにした問題をと憤る。

1945年11月2日
近衛文麿が責任逃れのような近衛内閣当時の話しぶりが新聞に出ると、昭和陛下が義憤をお感じになって、「本当のことを言ってしまえ」とおっしゃるとか。
(10のところを8言ってぼやかしてしまうこと)

11月15日
艦載行幸に沿道の百姓が耕作をやめて藁の上に座って拝したり、国民服の馬車引きが勲章をつけてお迎えしたり、老婆が戦死者ならん軍人の写真を胸にかけてお迎えした。
こうした光景を見て、国民の陛下に対する態度は安心なりという報告を閣議にしたとか。
それは戦争に対し反感が高いであろうと予想した考え、直訴もあろうと予期した人に相対的に感じたことであろう。
私には当然のことと思える。
今まで御警衛が田畑の人を強いて一列に並んで奉迎させたり、通行の人を遠くへ押しのかせたりしたのをやめたからの自然の趣で、変わらぬことと思う。
ただそれだから革命ナシとは言えぬ。
こうした堅実な人々は社会政治の変動は上滑りして行われるということなり。

11月20日
朝様〔朝香宮鳩彦王〕より、久邇宮邦昭王のアメリカ留学に対し、宮内省にて大臣・総裁が反対したとて、海軍省から経費の一部を準備する件進まぬからどうかとのお話あり。
私としては賛成のことなりと申し上ぐ。

11月22日
サツマイモ貯蔵の穴、手を突っ込んで盗まる。

11月23日
近くマッカーサー司令部より軍人恩給停止の指令出る由。
大問題なり。
内閣も危しくなるとの話なり。
大蔵省案では45歳以下の恩給は停止するとの考えなりしも、全部なり。
遺家族に及ぶことは重大なり。

1945年12月1日
今日より浪人。
何よりも寂しいことは、若い人・兵隊・理事生たちと会えなくなることなり。
知り合ったこれらの人々の前に辞めた人たちも、海軍にいるとどこへでも気軽く来て会って遊べてたのができなくなるのも寂しい。
ウチに来いと言えるようなウチでないのも寂しい。

12月3日
京都の町の女はほとんど着物になっている。
モンペなし。
しかし町が焼けていないからそんなに変な感じがしない。
そして女の顔が美しいと思った。
服も涼しいし、整った美しさだ。
それも女学生以下でなく、一人前の女においての話だ。
やはり焼かれた町と焼かれぬ町との心の表れでもあろう。
着物の問題ではない。
山紫水明の地、古い文化の伝えられた都、それが焼かれないでいることは尊い。
アメリカ軍にもこれを活かして教えたい。
高尚な日本人の生活文化を教える唯一の地だ。

12月12日
呉の町はさすがに朝早くから人通りあり。
焼けて進駐軍がいるが、まだまだ工廠町の気分があってうれしい。

12月13日
梨本宮へ、殿下お出ましのお見舞いに参る。
戦災後初めて行った。
二間のお家にお住み、静かな御生活にはよい。
手間取っている方の一棟を至急完成しようと、壁土がないので代りにコンクリートを塗っていた。
老人の両殿下にわけもわからぬ拘引で、お気の毒の至りなり。
どうにも皇室の尊厳をヒビを入らせて国民に知らせようというつもりとより思えぬことなり。
それにはまたあまりに御年召をひどいことだと思える。

12月18日
東宮様久しぶりにてお目にかかる。
素直にお育ちの様子なり。
皇子御用掛伊地知ミキが退いて男の伝育官が積極的に御世話するようになって、かえってしっかりなさった。
御主人様であるが、お友だちとお遊びの時はまったくお子様らしいとのことなり。
しかも穂積大夫の御指導は良く、東宮としての御教養に努めたものである。

徳川義親侯爵。
御退位に関するマッカーサー司令部若手の意見強くなりしとの情報。

宮内大臣。
中華通信社宗徳和の面会申込は、御退位説に関し私が摂政になるだろうから今のうちに見ておきたいとのことで、東宮様にもとのことなりしも、まあ私だけに。
しかし政治の問題には触れぬ約束しありと。

12月25日
東京薬専女学部本庄美都子・村田百合子が島田直枝を連れてきた。
島田は島津治子女官長問題の関係者、予言者、明治天皇の霊を受けると称す。

12月27日
板沢武雄教授より、アメリカ側歴史教育に対する態度、教科書修正の指令について聴く。
神代のこと、明治時代日清以降を全部削除す。
四十七士仇討も削るも、国内の相争う所には筆を加えず。
皇室の仁慈等にも触れず、そのままにしあり。
こうした修正をせねば、二年後歴史・地理・修身の授業停止を指令しあり。

12月30日
細川護貞、近衛最後手記写持参。
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『高松宮日記』

1946年1月1日
詔書発布。
まことに結構なるものだったが、「現御神」の三字は別の「神」というだけの字か何かにしたかった。
幣原首相が英文で書いた原稿をマッカーサーに見せてそれを和文に直したので、侍従職で一度訂正したがどうも原文と異なるとてそのままになりし由。
しかし原文は divine だからなんとかなりそうなものだった。

1月4日
鈴木貫太郎夫妻来て、爆撃調査団に答えて、「日本は責任内閣だから陛下はその決定には反対されぬし、また積極的に指導もされぬ。ただ自分が知っているのは二回、二二六事件で内閣が中絶している時に反乱軍の討伐を令せられた時と終戦の時は自ら指導されたと答えておいた」とのこと。

1月6日
マッカーサー司令部ヘンダーソン大佐の話とて、幣原内閣支持せず、前農林大臣千石興太郎(日本の刻下の問題は食糧なればこれに詳しい人が第一条件。彼が先内閣親任式ただちにマッカーサー司令部を訪問して食糧輸入を懇請せり、官吏でなく農村組合運動の指導者)他には徳川義親侯爵、賀川豊彦(政治力乏しと言える由)有馬頼寧(これを拘引せるは誤り、後で調べたら農村問題の先覚者だったと)などを候補者と考える旨語れる由。

1月16日
松平慶民、宮内大臣となる。
陛下が直接なれとおっしゃったとか。

1月18日
松平康昌、宗秩寮総裁になる。
昨日一日イヤだとて逃げていた由。

1月19日
各妃殿下集まって、服装問題等御相談。
昨年制定の宮中服にみなさま文句多く、もともと国際式典等で日本婦人が洋装で出ることが、宝石で競争すれば負け、容姿でも負け、ファッションでも負けで、支那やタイやみなそれぞれの国の服装で出て来るのに対しても負けとなり話にならぬから、日本の服装をという考えに発端するのだが、みなさまは戦時中の洋服縫製難やモンペに対する洋装、それも宮中的なけばけばしさは着られぬと言ったことからのみ考えるので熱意も出てこぬ。
昭和皇后に至ってはまったくただ洋装の情勢で考えていらっしゃる。

1月28日
秩父宮へ。
陛下の問題御相談しようと考えて出かけたが、三笠宮一緒にとて秩父様にお願いしてずっといたので、言い出せずにしまう。

1月29日
李鍵公の御気持は「公族などとは日韓合併の残り物なれば、自分はこの際それをやめて日本人になりたい。李垠王様はやはり地位をお持ちになりたいお考えのようにて、まったく考えが違うからお会いしない」と言うことなる由。
王公族を皇族にしてしまう案は終戦直後ありしも、マッカーサー司令部との関係で実現せず今日に及ぶ。

2月2日
東宮様、お成り。
初めてなり。
客間のライターがお珍しく、点けたり消したり何度も何度も。
南洋でもらった海亀の剥製大中小、お欲しそうだったので「差し上げましょう」と言ったら、二度も見にいらして「あれか、これか」とおっしゃる。
三つともというは少し欲ばりすぎるとお考えらしかったが、「みなお届けしましょう」と言うて片づく。
豚と緬羊はやはり触ってお楽しみ。

2月15日
ブリッジの練習。
世の中の移り変りを思う。
鹿鳴館式なり。

2月16日
ブリッジとダンスの稽古。

2月24日
本間雅晴中将判決に対し、あとはマッカーサー司令部に頼るよりなし。
本間は英語もわかるので山下奉文大将の時のように裁判中居眠りなどせず、証人の人格証言も多大の感銘を与えた。

2月27日
マッカーサー副官ボナー・フェラーズ来邸。
宮内省側近が陛下の御考えを実行するのに手間取ると見ゆ。
マッカーサー司令部と宮内省との直接連絡に、アメリカを知った若い人を置いて常に往復すること。
宮内省にアメリカ人の連絡者を置く。
陛下が現在唯一の指導適格者と認めるから、もっと積極的になさるがいい。
マッカーサーは陛下を認めてやっていくつもりでいる云々。

3月10日
宮ノ下別邸に米兵しきりに盗みに入るので、売買は別として富士屋ホテルにて使用した方が防止になり良からんと申し込み、先方もそうしようということとなる。

3月11日
宮ノ下別邸処分につき侍従職にて思召あらば代地と交換できると考え、別当より木下道雄に話せしむ。

3月16日
ブリッジの練習。

3月21日
ダンスの稽古。

3月23日
越ケ谷鴨猟。
アレン・コルフ氏、お酒のせいか堀に落ちて額をすりむく。

3月25日
ダンスの稽古。

3月27日
宮ノ下別邸を富士屋ホテルに譲る件につき富士屋ホテル社長山口堅吉来邸、60万円でとのこと。

3月31日
秩父様で夕食。
三笠様また来たいとのお申し込みで来た。
なにか除け者にされて話を聴き損なうという気がするらしく、別に用談もないのに。

4月1日
ダンスの稽古。

4月5日
英語・ダンスの稽古。

4月11日
英語・ダンスの稽古(タンゴ・パソドブレ)

4月19日
福岡・長崎の麦貧弱なり。
都会近くの下肥の回るあたりだけ元気あり。
肥料の足らぬのは百姓に気の毒なり。

4月20日
鹿児島。
竹藪に筍が3~4尺に伸びてたくさん立っているのは、東京ならとっくに盗まれているものと思う。
夕食なんだか水っぽい酒だと言ったら、焼酎だそうだった。
ここでは日本酒はほとんどないらしい。

4月30日
侍従長交代の件につき大金次長を当て宮内省内で順送りするとの大臣の話から、東大総長南原繁にも高木八尺博士の件を大臣にも一度話すようにと言って南原が話したら、私が言ったのだとて怒っていたとの宗秩寮総裁松平康昌の話。
陛下に侍従長は宮内省外からお取りになるようにと言っている人ありとちょっと申し上げた。

アメリカ側は憲法はどんどん改正してやって行けばよい、今はこういうのでやれというつもりなり。
華族制度廃止は日本側の決心なりと。

5月2日
宮ノ下から宮ノ下別邸は富士屋ホテルに売らずに村に渡せとの陳情あり。
金が欲しくて売るのだから金さえあればなんでもよいわけだが、タダではやれぬ状況になっている。
ダンスの稽古。

御所。
以前はニュース映画を御覧になりそれを御一緒に観ていたが、爆撃がひどくなりニュース映画もあまり出なくなって止めにまっていた。
それ以来ちっとも両陛下とお話する機会が無くなったので、映画なくとも週に一度くらいはと言っていたがちっとも実現せず、やっと先週から始まった。

5月3日
大金次長 侍従長となり、加藤進 次官となり、木下道雄辞めて稲田周一 次長となる。
省内たらいまわし人事。
侍従長は外からと言っていたのに、やはりこんなことになり遺憾なり。

5月4日
自由党総裁鳩山一郎に対し追放を発表。
総理大臣ということになってかかる指令を出すのはけしからぬ。

5月7日
有馬大佐鹿児島から出てきて、私の視察からマッカーサー司令部からアメリカ側に叱言が来て「協力できぬ」と言ってきたとのこと。
やっかいな話なり。

東劇〔歌舞伎〕
戦災で衣装が焼けて、傾城・新造数人しか出られずと。

5月9日
ダンスの稽古。

5月12日
カナモジ会理事長松坂忠則の話を聴く。
カナモジ会としてはすぐに漢字を制限してやって行こうとする態度なり。
私としては漢字乱用時代の前に立ち戻って、日本語の復興をやるとともに再び漢字を用いないで済むようにやって行きたいと思う。
すなわち漢字をやめた穴うめを英語等でやらずに、日本語の本来の表現を活かして行きたい。
そのために国語学者を必要とすると考える。

5月15日
政府より、マッカーサー司令部から皇族の貴族院議席につき追放に対する政府の処置甚だ手ぬるし、これ以上テキパキやらぬならばマッカーサー司令部から直接指令す、そうなるとどうするてもひとからげにやることになる、グズグズしているならば政府の担当者を処罰するとのことで、政府側も慌てて早く片づけねばならぬことになり、皇族については questionnaire も出さぬ、議席にもつかぬでほっかむりをする第一案なりしも、「やはりやめてくれ」「questionnaireは出さぬ」ことに交渉するとの話あり。
宮内省とマッカーサー秘書官ローレンス・バンカーその他との連絡では、ソ連がうるさいので questionnaire は全部そろえておかぬとアメリカ側が困るとのこともあり、結局出すこととなるべし。
いずれにしても相変わらぬ政府のグズグズが、同じことでもまずくまずくなっていく。
私としては皇族が職業軍人でないという考えを持つ。
しかし実際追放令に該当する職にあったことはその通りに考えてもよいと思う。

5月16日
ダンスの稽古。

5月30日
ダンスの稽古。

5月31日
宮内大臣。
昨日私憲法草案の枢密院本会議にはその主権在民があまりはっきりしているので、私としては賛成しかねるから会議に出席せぬつもりでおりますと申し上げた。
その時は何もおっしゃらなかったのに、陛下がとても御心配になっているのにそんなことを申し上げるのはよくないとの話だった。
今まで御心配御心配といって申し上げないでやってきたことのを改めるべきではないか。
それに出席して賛成せぬのでは現情勢からよくもなし。
枢密院として修正するのは民主的でなし。
欠席するのが一番よいではないかと思うと語る。
大臣は「反対だ」と言うだけ申し上げて黙って欠席するがよいとの話なるも、私は終戦後思召で出席することになったと思うので、それはあまりおかしいと思った。

6月5日
宮内省。
寺崎にインターニュースに話したことから陛下のマッカーサー御訪問の時 対皇族指令につき御話なさらんとしたのをお止めの方がいい、先方の忠告ありしとのことで、昨日陛下が御憤慨だったので、その経緯を聴く。
特にことの点という指摘はなかった。
例の新聞に出たことが気になるというのであろう。

6月8日
憲法草案の枢密院本会議ありしも、黙って欠席す。
意見を述べるのも情勢上よからず、賛成する気になれず。

6月19日
本整理。
空襲中地下室に入れたらカビでめちゃくちゃになってしまった。
惜しいことをした。

6月20日
ダンスの稽古。

6月25日
ジャガイモ収穫、102貫。

6月29日
宮内省。
28日の宮内大臣とマッカーサー会談。
皇族に対する覚書につき、これは皇族の starvation の問題で陛下も御心配の由を話し、マッカーサーはsympathetic consideration を約せると。
松平、マッカーサーの話に、陛下が御子様や御兄弟につき特に御心配のようだと話したとのことなるも、これは私としては甚だ面白くないので、皇族全体につき御考えになってるのでなくてはならぬ。

7月2日
情報会、皇族の考えていることを両陛下に聴いていただく会。
陛下にはおっしゃらずに黙って聴いていただくこととして行う。
終って問答もあり。
陛下は皇族が知識でなく道徳的にさすがと言われるようにとのこと。
また私がもっと宮内省と信頼し合うようにと言ったら、侍従長の時 松平宮相が私に人事につき言うと約束したのに、私が南原に言ったことはけしからぬとの御話。
私は約束はせぬと、例のやりとりをした。
なにしろどっちもちっとも新しい時代に対する感覚のない御考えでは話にならず。

7月11日
御所、三笠宮二方と一緒に晩餐、蛍を拝見。
先晩吹上に蛍がいるとの話から、見たいと申し上げたので。

9月3日
松平邸、康愛葬儀参列。
一人っ子なれば康昌夫妻の悲しみひといりなり。
久美子の心中もまたいまさらなり。

9月19日
財産税いまだハッキリせぬが、光輪閣は持ち切れぬだろう。
宮内省から山林か土地かをもらって、それで収入を得ることができれば一法なり。

9月20日
宮内省にて親睦会。
両陛下お出まし。
皇室典範改正のその後の経緯につき聴く。
御退位の条項はやはり入らぬ。
陛下が終戦の時あれだけ御決意ありしに対しその道をつけるのは必要だと思うが、陛下だけの御経験と対米感情もよい方はないからというだけで考えぬのはよくない。

9月23日
宮内省。
大金侍従長にどうして稲田周一次長辞めたのかと尋ねたら、追放令のためで、やはり宮内省もいけないということになったらしい。

9月28日
納税について相談。
建築につきて評価意外に高く、光輪閣、600万~700万円。
本年春のマッカーサー司令部への報告の時は100万円以下としてきた。
とうてい光輪閣を持てぬとの判断なり。
翁島の洋館も手放すを可とすべしぐらいの話より進められず。

9月30日
元侍従次長稲田周一。
やはり追放令がやかましくなりそうだったのでとのこと。
誰か外の空気のわかった者が側近におらねばならぬと思う。

10月8日
親睦会、両陛下お出ましの例会。
今日はちょうど大正皇太后〔貞明皇后〕御上京、特に賑々しく結構なりき。
大正皇太后〔貞明皇后〕も大変お喜びなりき。
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『高松宮日記』

1947年1月1日
年末年始、町の感じは昨年より気分の出ぬ景色なり。
女の子はチラホラきれいな着物を着たり白粉をつけたりしていたけれども、羽子板も凧もインフレでは出回らぬ。
やっぱり暗い気持ちが流れているのだろう。

1月2日
北白川宮へ。
昨年暮れにお移りになったので初めて伺う。
小山栄三の間借り、借家のようなお使い方だが、古いとりとめのない家なり。

1月5日
新浜鴨猟。
アメリカ赤十字関係を招く。
帰りに公衆衛生福祉局ウィーバー大佐の車、田んぼに滑り落ちてケガはなかったがずぶ濡れになった由。
後で風邪をひいたとか。

3月10日
ヴァイニング夫人の英語のレッスン。

3月23日
伊勢神宮高倉篤麿来り、斎王に北白川宮房子妃を願うにつき近江神宮宮司平田貫一を小宮司に欲しいとの話あり。
現小宮司古川左京は地元の人との折り合いも悪く、新宮祭式につきてもややもすれば慣例にとらわれる等でこの際入れ替えたく、平田氏の他になし。
これには私は古川氏をよく知らぬも、もってのほかのことなり。
伊勢の大切はわかるも、面白くなしとて出す人を押しつける等はけしからぬことと答う。

3月24日
宮内省。
加藤次長に北白川宮大妃を伊勢斎王に願うことは宮内省の考えかと尋ねしに、先方よりそのお人柄に惚れこみてとのことで、宮内省では第二・第三の候補の方を考えると言いしもその要なし、三笠宮とも考えしがGHQが軍人なりしとて賛成せず、未婚の方でなくてはいけないか等とも聞くぐらいの話なりしと。
斎宮ではなく斎王としてであるから未婚でなくてもよい、しかも未亡人の方がよいと答えたる由なり。

4月1日
池田徳真、高山英華同伴。
東京帝大第二工学部教授なり。
実は久美子〔高松宮喜久子妃の妹・松平康愛の未亡人〕のお婿様にどうだという多恵ちゃん〔北白川宮多恵子女王・徳川圀禎の妻〕の考えなり。

4月2日
ダンス練習の件 宗秩寮総裁松平康昌に尋ねしところ、宮内省では練習したらダンスホールへ余計に行くようになりはせぬかとの相変わらぬ間違った心配あるも、宗秩寮総裁が責任を持つ、他人があまり入り込まぬなら差し支えなしとのこと。

7月4日
アサヒグラフに私の顔としての自画像と感想文が次々に出ている。
そこで私も私自身の顔を描いてみよう。

鏡を持ち出さずに描けること。
一番まずいのは額がというよりおでこのないことだ。
それは外見上は横から見たらまったく鼻の傾斜そのまま頭の上まで直線で描いたことになるし、内容から考えても類人猿の骨相であるから脳の優れた部分を包蔵していない証拠である。
これは人間として最も恥ずかしい表徴であらねばならない。
だから私としてはこれをカモフラージュするために手段として選んだのが、髪の毛を伸ばしてその陰にいかにも頭脳の部分が隠されているかを装うことである。
しかして髪の毛のハゲないでいることは、いまだ神に見放されていなことを示すと信ずる。
つぎにアゴがないために顔面は平面をなすことができずに、その下半分も鼻の頭を頂点とする直角となるごとき投影をしている。
かかるがゆえに横顔は致命的浅薄な幾何学的基礎の上にあることが知られる。

鏡を持って見る時に最近驚いたこと。
外人が支那人を掻く時に目のつり上がった頬骨の突っ張った顔を描くし、『Stars and Stripes』が出た始めににも日本人を描く漫画にはこの式の顔が多かったのを大いに認識の不足と思ったのだが、だんだん私の顔がこの支那人的描写に当てはまる存在であることを発見して、悲哀と自嘲とを禁じえないのであった。
もひとつそれに口の両端が長々と逆への字としていることも同じであった。

生理上のこと。
片眼で白紙を見比べて見ると、左の眼には青味がかかって見えるし、右眼は黄色がかって見える。
右の耳が左の耳より大きいように見える。
子供の時に金環をはめて直そうとしたが直らなかったから、今でも前歯が外に出て上下が合わない。
少なくとも五分以上の暑さがなければ嚙み切ることは不可能である。
しかしながら唇の外に出っ歯が出ないで、唇が常に歯を隠していられることは不幸中の幸いであるとともに、いまだに虫歯の無いことは後天的に資質の良い現実を示すものと言わねばならぬ。

8月24日
久美子、喜久子に話した様子は、やはり杉山〔レストラン〈レバンテ〉支配人杉山万吉〕に想いあり。

9月16日
宮内庁にて皇室会議議員互選あり。
私は昭和皇后・お兄様〔秩父宮〕・賀陽宮敏子妃・朝香叔父様〔朝香宮鳩彦王〕を書く。
当選はお姉様〔秩父宮勢津子妃〕私・喜久子・三笠宮。
お兄様もおよろしいとの宣伝どうも少し足らなかった。
昭和皇后とお兄様とが同点の次点の由。
昭和陛下が、昭和皇后が議員になると議長・総理大臣の下になり困るとおっしゃったとか。
このご時世にまだそんなお考えでは細かすぎる。

11月1日
原宿のホームで衛生展覧会列車の発進式があって行く。
お姉様くす玉の紐を引いてそれを合図にピーッと発車のはずが、紐は抜けたがくす玉開かず照れくさいことだった。
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『高松宮日記』

1951年5月23日〔5月17日貞明皇后死去〕
昭和陛下11時に大宮御所。
午後に来るとお茶とか出すから午前にしたとのこと。
こんな時にでもせめて皆様とお茶でも一緒にして御話なさればよいのに。

1951年6月5日
殯宮二十日祭。
殯宮伺候と称して有資格者なるもの御通夜に来てる。
私だったらこんな気づまりなことはまっぴらイヤだ。
生きている時もイヤだが、死んでもイヤだろう。
それよりやはり来てほしい人が一人でも時々来てくれれば沢山。

1951年6月6日
殯宮伺候の人はあらかじめ宮内庁で考えた人数の1/3かもしれぬ。
どうしてこんな違算をしたのか知らないが、休憩所も無駄だったろうし、それよりはじめ女官など入れないと言ったりして椅子が空いて、入れないなど変なことだ。
昭和陛下もいらっしゃらぬ。
前例がどうとか仰る由。
これもおかしい。

1951年6月14日
大宮御所で貞明皇后の御遺書が発見された。
この御遺書は1926年10月22日にお書きになったものであった。
当時大正天皇の御病気等で精神的にも不安と違和を身体に感じられたらしい。
神社等に参拝のこと
形見分けには秩父宮、三笠宮は新家だからそれを考えること
筧克彦博士の書物を秩父宮に預けること等

1951年6月16日
明日御日柄なので支那料理をお供えするついでに宮内庁長官邸で秩父宮・三笠宮と会食するので、ちょうど良いから東宮様〔平成天皇〕をお招きしようとしたら、「宮城・大宮御所・学習院以外にいらしゃったことが世間にわかるから」と東宮侍従戸田康英より喜久子に断りあり。
あきれたものだ。
知れて悪いどころか、貞明皇后様もどんなにお喜びになるかわからぬことだ。
御殿場にはなかなか御見舞にもいらっしゃれぬ東宮様に、秩父宮とお近づきの機会としてめったにないからと思ったのに。
人情や義理は御教育にないと考えている側近者にはまたしてもあきれる。
頭の固い宮内官はいつになったらわかるのだろう。
悲しいことだ。

1951年6月22日
大喪の儀。
鷹司の祭文、声小さく聞こえず。
帰途どしゃ降りになって、東宮様〔平成天皇〕の後駆の白バイ滑って転ぶ。
後ろについていた私の自動車危うく轢くところだった。
少し身体をぶつけたかもしれぬ。

1951年7月12日
貞明皇后の御通夜をしていて、私が死んでも私の御通夜に集る人々はこうした種類の人々になるだろう。
とても一人が二人の来てほしい人がおれるような空気にはなりそうもない。
やっぱり生きていてなくては話にならぬ。
御墓も豊島岡のような区域のは好ましくない。
多摩墓地は遠すぎる。
やはり青山墓地あたりなら思いついた人が気軽に花でもくれよう。
そういう所にしたい。
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高松宮 メモ 1962年

《寄る年波》
●手の甲の皮膚にシミが出る。
●物を飲み込む時に食道からはねてむせる。
●老眼になって視力が衰える。明るくないと見えにくい。
●頭髪がハゲ上がって毛が柔らかくなった。

《習性 アレルギー》
●大便所に行くと鼻水が出てクシャミをする
●就寝前に物を食べて胃中に消化せずあると口の中の歯茎粘膜に出来物ができる。
●大便の後 便を出し切らずにスキー・ゴルフなど力の入る動作をすると肛門が腫れ上がる。
●冷寒の空気を呼吸すると水鼻がどんどん出る。
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高松宮 メモ 1974年

幸福な人生を持ったとは思わない。
しかし苦難の人生に喘いだとも思わぬ。
苦心・苦労・病苦を知らぬ。
生活難・入学難・就職難・災難・食糧難・住宅難を知らぬ。
これがどうして幸福な人生と言えないのか。
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◆高松宮宣仁親王 123代大正天皇の三男 光宮宣仁親王
1905-1987 82歳没


■学習院幼稚園で選ばれた御学友 4名
火曜日・土曜日に出仕して日曜日は待機

黒田治雄
五島盛輝
相良頼知
吉川重武

■学習院初等科で選ばれた御学友 14名
月・水・金の午後に出仕

池田政鈞
岩倉具実
大浦兼次
岡部長建
黒田治雄
五島盛輝
五辻隆仲
西郷従純→古河従純
杉重夫
仙石久武
野村親共
水野忠泰
宮原旭
吉川重武

■学習院中等科1年生で選ばれた御学友 8名

岩倉具実
西郷従純→古河従純
仙石久武
戸田氏重
成瀬現 →弘世現
野村巍
水谷八郎
宮原旭

■学習院中等科2年生で選ばれた御学友 6名

岩倉具実
西郷従純→古河従純
仙石久武
成瀬現 →弘世現
野村巍
水谷八郎


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黒田治雄 学習院幼稚園の御学友・黒田善治男爵の子

初めて御殿に連れられていった時のことは今でも覚えている。
男の人はみんな黒い服(フロックコート)を着ており、女の人は私の知らない言葉を使っている。
普通なら母親が出て来て「よく来ましたね」とか言われて部屋に上るのだが、それらしい御人の姿も見えない。
大変な所へ来たものだと怯えを感じたものだ。
でも侍女の方たちが親切で、とまどいながらもすぐになじめる方々であった。
私たちは侍女の方たちを先生とお呼びした。

力士の大相撲が行われ、御両親〔大正天皇夫妻〕もおなりになった。
そして柳原二位局がお雛様のような御髪・御召物で御供なさってこられたのにはビックリした。
しかし何よりも私が大変なショックを受けたのは、宮様方が御両親と一緒にお暮ししていないということだった。
なぜかと母に何回も問いただしたことをハッキリ覚えている。

思い出しても、高松宮様が先頭に立って私どもが追いつけないような活動をなさったという記憶はない。
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三笠宮崇仁親王

実は秩父宮は海軍志望だった。
そして高松宮は陸軍を志望していたんです。
ところがそのころは陸軍の方が力関係が強かったせいもあって、最初の皇族は陸軍に次の皇族は海軍へということになったんです。
高松宮は実は船に弱かったんですよ。
おそらく海上勤務ではずいぶん苦労したと思います。
私の番になるとどっちでもいいと。
私はそのころ乗馬に熱中してましたので陸軍を選んだわけです。
ただ問題は幼年学校から入るか士官学校から入るかということでした。幼年学校から入る人は中学1年か2年を終わって入る。
士官学校へ入る人は中学の4年か5年を終わって受ける。
秩父宮は幼年学校から入ったわけですが、貞明皇后はどうも秩父宮が幼年学校から入ったために一般的な常識とか教養を身につける時間が少なかったと思われたようです。
ですから私は学習院中等科4年を修了してから士官学校の予科に入りました。
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吉野捷三 海軍中佐

高松宮は酒・煙草は嗜まれず、甘味が大好物。
夜食の汁粉とおはぎには目がなく、お代わりの健啖家ぶり。
昼食後の休憩時間は、いつも士官室のソファで将棋に熱中されていた。
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細谷宏 海軍少佐

士官室での休憩時には毎回のように高松宮の将棋の御相手を仰せつけられた。
私は「王より飛車を大事がる」程度の素人将棋であり、高松宮の将棋の御力も五分五分の程度でした。
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野村実 海軍大尉

1944年マリアナ沖海戦の決戦は6月19日となったが、〈大鳳〉〈翔鶴〉が沈み、航空攻撃が期待した
戦果を挙げていないことが判明した当日夜、作戦室で戦況を見られていた高松宮が鋭い声で、「嶋田総長は来ないね」と言われたのが印象に残っている。
そのころ高松宮と軍令部総長嶋田繫太郎の関係が険悪であることは、誰の目にも明らかであった。
戦況説明の会合の時 二人の視線が合ったはずなのに、お互いに挨拶もないように思えることが多かった。
嶋田総長は翌6月20日午後になって作戦室にやってきた。
午前中は戦況を上奏するためではなかったかと思う。
嶋田総長の失望の色は覆うべくもなかった。
作戦室のソファに腰を落し、身動き一つしない。
誰もが無言の作戦室のソファで、嶋田総長は立ち上がる気力も失ったようにいつまでもいつまでも座り続けていた。
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侍従 岡部長章 回想記

私の受けた印象では、昭和陛下の悩みの種は主として陸軍だったようです。
侍従武官長の宇佐美中将が御前に出ている時に、昭和陛下がちょっと激しい調子で御話になるのを耳にしてしまったことがありました。
二二六事件の時の武官長は本庄繁大将で私が3月20日に侍従になって三日間ほどで退官、宇佐美中将が新たに就任したのです。
宇佐美さんが拝謁している時に、「壬申の乱のようなことになる」という意味の事を大声で申されたのが聞こえました。
秩父宮を担ごうとする陸軍の運動があったと仄聞していたので、それに関連することだなと思いました。
秩父宮が多少激しい御性質の方だということは私も心得ていました。
それをまた陸軍の青年将校が担ごうとするのです。
おそらく宇佐美武官長は昭和陛下に対して、秩父宮の意見もいろいろ聞いてほしいと言ったのではないでしょうか。
それで昭和陛下が壬申の乱というような例を持ち出されたのだと思います。
ところが宇佐美武官長は「はあ」とか言って、壬申の乱が何なのかわからない様子でした。

秩父宮のようなお直宮が昭和陛下に会われるのは奥の方になります。
当時秩父宮は陸軍の佐官でしたから、御兄弟として来られるだけで軍事上の奏上はできません。
陸軍では皇族を金枝玉葉の御身分などと言いますが、それも昭和陛下にとってはプライベートな関係だけになります。
朝香宮が陸軍内のことに触れ、叱られて退出されたこともあります。
階級は大将でも軍事参事官で、上奏する立場ではなかったのです。
昭和陛下はそうした公私の別を固くお守りになりました。
陸軍の過激な将校は、この点の認識が足りません。
勝手に思い入れをしていたのです。
高松宮に対しても細川護貞君が懸命にネジを巻いたようですが、高松宮はそれを受け入れず、秩父宮・高松宮とも、この点ははっきりと身を処せられました。
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『高松宮宣仁親王』高松宮宣仁親王伝記刊行委員会

高松宮妃が高松宮が亡くなられた一年後に発刊された写真集を携えて寒中御機嫌伺に御参内、昭和天皇に差し上げた時、ページをめくられていた昭和陛下は熊のぬいぐるみの写真に目をとめられ、
「そう言えば高松さんは子供のころ熊が好きでね」と笑われた。

学習院初等科に御入学になった高松宮は、地理・歴史・算術がお好きなようだった。
図画・手工は幼稚園時代からあまりお好きでなく、唱歌はもっとも苦手であった。

いつもニコニコと顔色をお変えにならない三笠宮に比べて、高松宮はどちらかと言えばワガママ。
おイヤな時はすぐ御気持が御顔に現れる。
高松宮は大変率直な言動をなさった。

高松宮は兄陛下と同様、お酒はお飲みになれなかった。
ただ宴席でにぎやかに過ごされることはお好きだったようである。
煙草は昔、いたずら程度に軽く煙を出された。
趣味としてはスキー・ゴルフは別として、収集癖がおありだった。
切手・コイン・マッチのレッテルなどをお集めになっておられた。
封筒から切手をはがす作業も職員にはお手伝いさせなかった。
書斎で御一人、洗面器に水を入れて御自分ではがされた。
その御姿を拝見した職員は、高松宮の孤独をしみじみと感ずるのであった。

高松宮は御旅行先でよく御風呂にお入りになった。
野天風呂があれば、野天風呂の方をお使いになった。
また高松宮は麻雀がお好きだった。
御旅行先では午前2時、午前3時までどてら姿で興じられた。
しかしどんなに遅くなっても、翌朝は早くお目覚めになる。
麻雀を御一緒した関係者たちは、仲居さんから「宮様はもう起きておられますよ」と起こされるのが常だった。
「あの早起きにはまいった」と言う関係者もいる。

高松宮は神々や祖先をお祀りするのに大変御熱心であった。
もともと高松宮家は有栖川宮家の祭祀を継承されている。
有栖川宮幟仁親王が初代総裁となられた皇典講究所は国学院大学の母体である。
第二次世界大戦の敗戦と共に日本人の国家観・価値観は根底から崩れ、国家としての秩序も人間としての道徳も姿を変えた。
高松宮は国民精神の頽廃を憂慮され、日本の伝統的精神の護持・国体の護持に深い祈りを捧げられた。
明治神宮の戦災復興に非常に御尽力、また靖国神社をはじめ全国の神社の式年祭・例大祭には進んで参列された。
靖国神社の春秋の例大祭には高松宮妃とお揃いで参拝されるのが常であった。
敗戦後高松宮は心学に興味をお持ちになり、昭和20年代から石門心学の石川謙にたびたびお会いになっている。
高松宮は天理教の中山正善管長ともお付き合いされ、天理教についての知識を得られた。
1949年4月19日、奈良県天理市で開催された天理教全国体育大会にも御出席になった。
そのあと中山管長と一緒に奈良・京都をお回りになっている。
翌年も天理教全国体育大会に御出席になっているし、その後も中山管長との御親交は続いた。
中山管長宅にもよく泊まられている。
教義についてもいろいろと御理解されたことであろう。

高松宮は戦前の海軍時代に肺結核を患われたことがある。
戦後は1963年湿性肋膜炎に罹られたが、それ以外はこれといった御病気はなさっていない。
しろい御飯がお好きで、昔は柔らかすぎるとか固すぎるとかよく言われた。
秩父宮が小魚の骨や頭を召上らなかったのに、高松宮は頭から召し上がった。
果物は梨がお好きで、洋菓子より和菓子がお好き。
80歳を過ぎてもスキーをなさるほど御元気で、御健康状態は至極およろしいようにお見受けした。
湿性肋膜炎が治癒された1964年以降、レントゲン写真も撮っていらっしゃらなかった。
1986年青葉の頃から高松宮は御身体の不調を訴えられ始めた。
7月には5キロも体重が落ち、吐き気を催されるようになった。
不安をお感じになった高松宮妃が専門医による精密検査をお勧めになり、7月12日高松宮は国立がんセンターで検査を受けられた。
検査の結果、右肺上部に5センチ四方の陰影が発見された。
また胸部縦隔のリンパ節への転移とみられる個所も見つかり、肺ガンがかなり進んだ段階にあるのではないかといの診断がなされた。
7月14日国立がんセンターは高松宮に老人性結核であると申し上げた。
高松宮妃にはその直後極秘にお会いし、診断通りの事実を申し上げている。
昭和陛下には高松宮妃が御自身で正確に事実関係を申し上げ、御了承をいただいた。
7月21日高松宮は改めて日本赤十字社医療センターに検査入院された。
精密検査から右肺上葉の扁平上皮ガンと診断され、すでに手遅れの状態であった。
医師団は憂慮すべき深刻な事態に直面した。
高松宮はまもなく82歳になられる。
御入院による積極的な強い治療はなるべく避けて、高松宮邸での御静養を中心に無理のない対症療法で極力御寿命を延ばしていただこうという方針が立てられたのである。

7月・8月は比較的御元気でいらっしゃったが、9月になると肺ガン特有の症状である血痰があらわれた。
9月いっぱいは御自分の運転でおでましになっていたが、10月に入るとそれも御無理となった。
御咳は喀血を伴い、頻繁となった。
高松宮が薨去される前年の1986年秋、松山市で全国傷痍軍人大会が開催された。
高松宮の御病状はすでに悪化、衰弱しておられた。
日本傷痍軍人会は笹川良一が会長をしている。
高松宮は「義理があるからな」と一言、空路松山へ向かわれた。
機中、高松宮は苦しそうにじっと我慢しておられた。
お好きなカメラを取り出すことさえできなかった。
宿舎にお着きになったが、そそまま部屋へはお進みになれないほどのひどいお疲れであった。
高松宮は玄関脇で崩れるように休息を取られた。
その夜は喀血がひどく、高松宮妃が背中をおさすりしたが、咳き込みは止まらず幾度となく喀血された。
10月22日から28日まで、日本赤十字社医療センターに再入院をされ輸血を続けられた。
その後はまた高松宮邸で療養された。
医師団は看護婦をおつけするようにと申し上げたが、高松宮は御承知ならさず最後まで高松宮妃を頼りにされた。
11月に入ると血痰の量や回数が増え、貧血の症状が見られるようになった。
11月12日昭和陛下は高松宮邸においでになり、高松宮を見舞われた。
異例のことである。
10月に高松宮が再入院されると、昭和陛下は以前から予定されていた東京ディズニーランドへのお出ましを中止され、高松宮邸への御訪問となったのである。
12月に入ると高松宮の体力はさらに減退された。
高松宮邸での御療養と併行して、週一回日本赤十字社医療センターに通院された。
治療は栄養補給のための点滴・輸血が中心であった。

年末年始は小康状態で、御見舞客にもお会いになった。
ガンの増大により右肺の機能がかなり低下したため酸素不足となられ、1987年1月14日から小型酸素ボンベを使い酸素吸入を始められた。
血痰の量が増え排出が難しく、また輸血によっても貧血への対応がしにくくなってきた。
夜中に呼吸困難の発作が多くなり、全身衰弱の様相が強まった。
1月23日昭和陛下が再び御見舞においでになった。
昭和陛下と高松宮が会話を交わされたのはこれが最後であった。
1月27日また日本赤十字社医療センターに入院された。
御入院後も37~38度の熱が下がらず、激しく咳き込まれた。
2月1日多少御気分がよろしかったのか、高松宮は看護婦に「写真を撮ってあげよう」と声をおかけになり、カメラを向けられた。
しかし夜になるとついに肺炎を併発されて、御容体は危険な状態に陥った。
2月3日昭和陛下の御見舞が急に決定した。
病室に入られた昭和陛下はかがみ込むようにして御顔をお近づけになられたが、高松宮は昭和陛下の目を見つめておられた。
しかし意識がおありになったかどうかはわからなかった。
院長が「ただいま御臨終でございます」と高松宮妃にお伝えした。
高松宮妃は高松宮の胸に顔を伏せられてお泣きになった。
このあと高松宮妃は医師団・看護婦たちに「いろいろ御世話になりました」と頭を下げられた。
御見舞から皇居へお戻りになった昭和陛下は、午後2時高松宮薨去の報告をお受けになった。
昭和陛下は「あれから早かったね」と一言おっしゃった。
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■妻  徳川喜久子 徳川慶久公爵の娘/将軍徳川慶喜の孫
1911-2004 92歳没


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高松宮喜久子妃の親友 岩崎藤子 伊集院彦吉男爵の娘・磐城セメント岩崎清七の子岩崎道之輔の妻

高松宮妃◆藤子さんとはお父様からのお繋がりなのよ。藤子さんのお父様が伊集院彦吉とおっしゃってね。ちょうど私の父が第一次世界大戦の時に赤十字から派遣されて世界を回ったの。その時にイタリア大使でいらしてお世話になったの。
それでお友だちの中で一番仲がいいの。
岩崎◆私の母は大久保から来ているもので。
高松宮妃◆大久保利通のお孫さんなんですよ。
岩崎◆だから徳川幕府と明治維新で仲がよくないの。
高松宮妃◆そうなのよ。あんまり仲よくないのよ(笑)

御婚礼の数日後いまの迎賓館当時の赤坂離宮で御披露がございまして、同級生は全員お茶に呼ばれましたが、私は早めに迎賓館に来るようにとのお召しでしたので駆けつけますと、
妃殿下が「今日は大変よ。一日に二度も髪を結い直さなければならないし、忙しくて仕方ないわ」などと照れ隠しにさも面倒らしくおっしゃっているところに、
高松宮様がお出ましになりまして「喜久子は今日はマネキンだよ」と御冗談をおっしゃいまして、愉快そうにお笑いあそばしました。

ご新婚のために建築に取りかかりました新御殿がご成婚に間に合わず、やむを得ず魚籃坂のあたりに急ごしらえの借り御殿ができまして、そこに徳川家からお持ちになりましたお雛様をお飾りあそばしまして、宮家で初めてのお節句をするから私にも来るようにと妃殿下からお召しがございましたので、仰せのごとくに上がらせていただきましたら、なんと両殿下がお手をつないで奥から出ていらしたのにはもうビックリしまして、あら、まあって申し上げたことを思い出しますが、本当にお幸せそのもののようにお見受け申しました。

バッキンガム宮殿からの妃殿下のお手紙に
『お手紙たしかにありがとう。藤子さんのお手紙を見ようと思ったら、高松宮様が見せろとおっしゃったから、私は逃げ回ってベッドの周りで追いかけられて抱きしめられて取られちゃったのよ』って書いてあったの。

1年2カ月にわたる長い御洋行からお帰りになりました時、私たちは完成したばかりの新御殿でお出迎えしましたが、妃殿下は大変におきれいで、お帽子などもパリでお誂えになって本当に素敵でしたが、
私にだけはこっそり「ねえ、やっぱり痩せちゃったのよ」とおっしゃいまして、
「胴まわりなんてこんなに細くなっちゃって、帰ってきたらタンスにしまってある洋服なんてみんなブカブカなのよ」と苦笑いをなさいました。

私が片づきました岩崎の父清七は福沢諭吉翁の紹介でイエール大学などに留学して実学を学び、帰国後は磐城セメント・日清紡績・日本製粉・東京ガスなどの創業に関わりました。
私が嫁に参りました時にはガスの冷蔵庫がございまして、こんなものが世の中にあるのかと思いました。
藤岡の田舎を妃殿下がお気に召しまして、「これから行くわよ」とおっしゃいますので、
「東京から遠いし、田舎でございますから」と申しましても、
「平気よ」とご自分でお運転遊ばして、故障があった時の用心に必ず日産の課長さんが助手席に同乗していました。
それまでは正直申しまして義父が持っておりました醤油会社など意識もしておりませんでしたが、これが物のない非常時には助かりました。
醤油の原料は大豆でございますから、お豆腐屋さんに大豆油とメリケン粉を渡しますと、バーターでがんもどきをこしらえてくれました。
これを妃殿下に申し上げましたら、
「この非常時に珍しいし大正皇太后にお目にかけたいから、少し持ってきて」とおっしゃいますから、すぐに誂えて御殿へ上がりまして、
「こんな粗末な物を大正皇太后に献上しましても大丈夫でございますか?」と申しますと、
「あなたのように地方に疎開している人はわからないだろうけど、東京に住んでいると食べ物には苦労するのよ」との仰せでした。
醤油なども妃殿下はお喜びで、東京からお友達を3人くらいお車にお乗せになってよくおでましになり、
「醤油のおかげさまね」などとおっしゃいましたことを覚えております。
それからお沢庵、しかも妃殿下は古漬がお好きですで、田舎にはいくらでもございますが、それも大正皇太后にお目にかけたいから持ってきてという御催促で、当時は宮家でもそんなご事情でございました。
妃殿下は貞明皇后様に本当にお尽くしでございました。
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高松宮宣仁親王から姑徳川実枝子への手紙

1930年年6月22日
その後益々御元気の御様子で結構に存じます。
こちらもみな丈夫すぎるぐらい。
この模様なら1年無事に帰れそうですが、先のことはどうもわかりかねます。
それはさておき、さすが御育ての効ありて、インド洋上『日本女性のために万丈の気をはきて』〔当時の新聞報道〕寝つきは悪うございますが、朝はほっておけばいつまでも【たり】。
それで自動車に乗れば、景色も凸凹道もありません。
もっともスイスもフランスも道路はよろしすぎて、あまりドスンバタンとしません。
パリはやはりお買い物の都らしく、それが唯一のお楽しみのようですが、できれば日曜がたびたびあるとよいと考えます。
どの店も日曜日は閉まってしまいますから。
目下はロンドンから新しいおべべができてくるのをお待ちかねで、スイスの景色などちっとも目に止まらなかったのではないかと思います。
英語もフランス語もさらには進歩しないようですけれど、御用掛の部屋に電話をかけるのは流暢なもので。
ボアの森でお馬に乗りたいらしいのですが、とても実現には至りますまい。
なにしろ御安心くださいませ。
御機嫌よろしゅう。
パリにて 宣仁
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高松宮喜久子妃から母徳川実枝子への手紙

ドーバーより
はるかに御機嫌をお伺い申し上げます。
こちらにては高松宮様も何の御障りもなく、御供の者一同も丈夫に過ごしておりますからなにとぞ御安心あそばしていただきます。

夜は王宮の大晩餐会に国王に手を引かれて出席。
華やかな全て見たことのないにぎやかさのうちに、楽隊の奏でる音楽を聴きつつ、左にいらしゃる国王、右にいらっしゃるコンノート殿下とお話いたしました。
御食事がデザートになりましたとき国王の日英親善の御挨拶があり、高松宮様の御答礼がございました。
終始一貫その御態度が御立派であらせられましたのは、私どもの最もうれしかったことでございます。
食事中に一羽の鳩が高い天井の鴨居をあっちこっちへ飛んでおりました。
おめでたい印とか申しますね。
それからスコットランドの王様に献ずる笛の楽隊の音楽を聴きました。
やまかしいものでございますが面白うございます。
王様はかなり御丈夫で、お死にかけになったとは見えません。
王妃もいろいろ世話を焼いて下さいました。
宮殿はそれはそれは静かで良い場所でございますが、何となくキュークツでございます。
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高松宮喜久子妃から松平信子への手紙
1930年12月23日

<フィレンツェより洋装の相談>

だいたいこのぐらいでどうかと思いますが、もっとも最小限度が常に目標でごさいますから、そのおつもりで。
もし何かこうしたらとおっしゃって下さいますようなことがございましたら、また便利な物とか何かお気づきでございましたら、それを教えていただきとうございます。
もっともアメリカでは去年の残りを入れることにしておりますが、アメリカのことはそなた様の方がよくご存知でいらっしゃいますからお任せしたいと存じますから、どうぞよろしいように、わたしに似合いますように、使ってもおかしくないように作っていただきとう存じます。
だいたい4月から5月いっぱい6月にかけてまで必要と存じます。
あまり新しい物よりも少し落ち着いたさっぱりした物がよくはないかというのが私の意見でございます。
毛皮は流行もございましょうから、これは日本へ持って帰るためにお安くなっていたら買ったらどうかという他のご意見に従いまして記しておきました。
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高松宮喜久子妃

慶喜公のお母様がやはり有栖川宮織仁親王のお姫様です。イトヘンのお子さん。
5代目職仁親王・6代目織仁親王・8代目幟仁親王・9代目熾仁親王、似たような字でややこしくて難しいから、私たち代々のご先祖様をハバヘンだのミミヘンだのと言ってたの(笑)
私の母はハバヘンの次男、10代目威仁親王の娘です。

高松宮様との結婚は、私が二つの時から決まっていたらしいんです。
でも私が知ったのは10歳ぐらいになってから。
母と一緒に初めて御殿へ伺って高松宮様をお見上げしたのは昭和2年の春、私が16歳、高松宮様が海軍中尉の時でした。
大事なご対面だったのでしょうが、顔も上げられないほど恥ずかしくて、覚えているのは高松宮様のスリッパが歩くたびにキュッキュッと鳴る、その音がおかしかったことだけですね。

私たちの結婚は貞明皇后様がお決めになったような気がする。
秩父宮妃も会津の松平家からいらっしゃった方ですし、三笠宮妃の御実家の高木正得子爵は幕臣でしょう。
こっちは徳川慶喜の孫。
だから嫁が三人寄るとなんだかみんな賊軍の娘ばかり揃ってる形じゃない(笑)

母が有栖川宮家の出ですからいくらかはわかっているつもりでした。
でも上がりましたら、ぜーんぶ違いましたね。

パリで高松宮様が可愛い刺繡をした四角い前掛けを2枚買って下さった。
私がよく食べこぼして胸の辺りを汚すのを気になさったのである。
私は首の後ろのところで紐を結んで前掛けをたらいして、毎朝その格好で朝食をとった。
今思えば何とも滑稽な光景だったろう。

ヨーロッパ旅行を思い返してみると、少し長いドライブをするたび私は実によく眠ったものである。
自動車が走っている間じゅう、私は寝ていた。
お眠りにならないのは高松宮様だけで、町なかの人のたくさんいる所にでると、高松宮様がつついて起こして下さる。
寝ぼけまなこでニコニコ笑顔を振りまいて町を通り抜けたらまた眠りに落ちる。

スピード違反で白バイに捕まった時も、宮内庁からお小言をいただきました。
オッチョコチョイだからでしょう。
ゴルフ場へ一人で車を運転して出かけたんです。
まだ高速道路がない頃で、清瀬のあたりをいい気持ちで80キロぐらい出して飛ばしていたら、白バイがサイレンを鳴らして追いかけてきたの。
仕方なく止まって免許証を出しましたら、お巡りさん名前を見て驚いたらしく、敬礼して免許書返してくれたんです。
やれやれと思ってゴルフ場へ行ってゴルフしていい気分になって帰ってきたら、宮内庁から電話があって「警視庁より連絡がありましたが、スピードにはお気をつけ下さい」って(笑)

お忍びで方々へ行っても「みんなが御辞儀するから困ってしまう」と言ったら、
高松宮様は「異様な言葉と異様な格好をしているからだよ」ってよくからかわれました(笑)
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高松宮喜久子妃

『宮様御臨終の記』
私は昭和陛下の御意見を伺いたくて、一度皇居へ上がった。
高松宮様がガンでいりゃっしゃることは御存命中一切公表しないことに医師団とも申し合わせができていたが、お亡くなりになったら国民に真実を告げて御遺体は日本の医学の進歩のために解剖に附していただきたいというのがかねてからの私の希望であった。
これはしかし親王の御身体にメスを入れることなので、御兄弟方がうんとおっしゃって下さらないと私の一存では運びにくい。
それで皇居に上がって自分の考えを申し述べたのだが、黙って聞いていらした昭和陛下は力強い御声で「良かろう」と一言だけおっしゃった。
弟宮の御病気が肺ガンであることはすでにご承知であった。
秩父宮妃と三笠宮には、赤十字病院へお見舞いにいらして下さった時に同じことを申し上げた。
お二方とも御賛成で、三笠宮は「当然でしょう。そのことでお姉様が考えの古い一部の者から悪く言われるようなことがあってはお気の毒だから、我々みんながそうしたいと思っているんだと言ったっていい」とお励まし下さり、ようやく私の心もしっかり定まった。

日赤病院へ入院したり退院したりが二度繰り返されて、10月には輸血も行われるようになった。
家へ帰ってご療養中は看護婦を一人つけたいのだが、これも申し出ると「イヤだ」とご機嫌が悪く、結局私一人が常におそばにいてご介護申し上げるよりは道がなかった。
夜半介護疲れでうつらうつらし始めると、高松宮様はすぐにお気づきになって、
「そんな格好でいると風邪を引くよ」「もう寝なさい」と優しく御声をかけて下さる。

「手をつないで寝ようよ」と私の手をお求めになり、高松宮様と二人お手々つないで休んだこともたびたびあった。
暗いのがおイヤでフロアスタンドをつけたままお休みになるのだが、その際私がまぶしくないようにとの御配慮から、必ずスタンドに布をおかけになった。
「早く朝が来ないかなぁ」とおむずかりになったり、
「こんなに至れり尽くせりにしてもらってても治るのかな」と心細い言葉をおもらしになる晩もあった。

昭和陛下は都合3度、高松宮様の御見舞にお成りあそばしている。
2月3日、昭和陛下が「容態が思わしくないなら意識のあるうちに見舞いたい」と仰せ出された由で、突然ことが決まり赤十字病院へ急なお成りとなった。
昭和陛下が病室へお入りになってかがみ込むように御顔を高松宮様の御顔にお近づけになった時には、もはや意識がおありにならなかった。
昭和陛下もそれ以上どう遊ばしてよいかおわかりにならぬ御様子だし、私は困り果てて、
「お手でも取って差し上げていただけましたら」とお願い申し上げた。
昭和陛下が高松宮様のお手をお取りになった。これが御兄弟最後のお別れになってしまった。
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高松宮喜久子妃の妹 徳川久美子→松平久美子→井出久美子 徳川慶久公爵の娘

昭和陛下にも幾度かお目にかかる機会がありました。
高松宮様が御病気になられ、御見舞にいらっしゃった時でした。
義兄高松宮邸の玄関は段差があるため心配になり、私が思わず昭和陛下の手をお取りしようとしたら、昭和陛下が私の手をサッと振り払われたのです。
高松宮様は酸素ボンベの管をつけたまま大いに笑われて、
「振り払われてるよ」とおっしゃりながら大変愉快そうに喜ばれておられました。
恐れ多くも昭和陛下の手を取ろうなんて誰も考えないことですからね。
普通のご兄弟のように、和やかにお話を交わされていたお姿が思い出されます。
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高松宮喜久子妃

高松宮様が兵学校を御卒業になって有栖川宮の御殿にお移りになった。
その御殿にお見合いかなんかに私を連れて行ったわ。
私は顔もあげられないのよね。
私忘れないのですけどね、高松宮様のスリッパがキュッキュッ、キュッキュッ鳴って。
それだけが私おかしくてね。
もうそれこそ箸が転がってもおかしい年頃でしょ。
私おかしくてしようがないし、笑うわけにはいかないし。

━━御話あそばしたの?

そんなのできるもんですか。母がみんなおしゃべりしたわよ。
お嫁に来たのが2月8日。
それで(世界一周のために)横浜を出たのが4月21日
その間に京都で御披露があるやら桃山御陵と橿原神宮とかね、泉山御陵と言ったかしら、みなそれに二度行ったのよ。
そして赤坂離宮で御披露があったの。
まるで朝昼晩ぶっ通しみたいな。
もうくたびれたわ。
それで2ヶ月後に外国ですものね。
そのために洋服の仮縫いがこれまた大変なの。
くたびれて三度卒倒したわよ。
でもとにかくなんとかなって。
だって船に乗っても毎晩イブニングでしょ、大変ですよ。

━━でも船に乗ったらホッとされたでしょう?

いいえ、しませんよ。だって知らないんですもの、旦那様という方を(笑)
だって今みたいに毎日毎日お会いしたなんていうのは本当に考えられないようなことよ、アハハハ。

私バッキンガムパレスで一貫目減ってしまったの。
高松宮様はね、イブニングを着ると手が細くてみっともないって。
「もっと食え、もっと食え」とおっしゃるの。
食べても太れなかった。
今は食べなくても太るのよ。

「手術はできないか?照射はできないか?何かできないか?」と矢継ぎ早にお尋ねしたら、すべてダメだと。
先生から「対症療法で行きましょう」と言われまして。
私は頭をガーンとやられた思いでした。
まさかそこまでとは思わなかった。
もっと早く診ておもらいになればよかったのにね。
いつも私がレントゲンを撮りに行く時に「ご一緒に行きましょう」って申し上げてたのよ。
でも頑として「いやだ」とおっしゃるから、仕様がないじゃない。
まあ、戦争でお亡くなりになったと思えば仕方ないけどね。
戦後にあれだけのことをおやりになって、亡くなった人たちのことやら遺族のことやらね。
考えてみると償いというのかしら、自分はいつ死んでもよいというお気持ちがおありになったと思う。

御兄弟がうんとおっしゃらなければ、私だけが一人で解剖に賛成したっていうのでは申し訳ないから。
それで昭和天皇様のところへ伺って、
「日本の医学のために解剖をさせていただきたいと思いますが、私が一人でそういうことをいたしますのはどうかと思いますので、いかがでございましょう」って伺ったの。
そしたら、「よかろう」とおっしゃった。
ひと言ですよ。
秩父宮妃と三笠宮が御見舞にいらしたので、このことを申し上げたら、
三笠宮が「それは当然でしょう。御姉様が悪く言われるようだったらお気の毒だから、我々がそういう風なことを言っていると言ってもいい」とおっしゃってくださった。
結局御三方ともイエス。

昭和陛下は御見舞に二度お出ましいただいたの。
高松宮様が「近所にどこかおいしい御菓子はないか?」とおっしゃったの。
それで考えて松島屋のお団子にしたの。
昭和陛下はおいしそうに召し上がって、お帰りになった。
三度目は赤十字病院にお見舞いにいらしてくださった。
高松宮様は大変お苦しみだったのですが、そのうちにおわかりにならなくなってしまったの。
そのおわかりにならない所に昭和陛下がいらしちゃった。
私本当に困ってしまって。
昭和陛下もどう遊ばしてよろしいかおわかりにならないでしょう。
とっさに「せめてお手でも取って差し上げていただけましたら」とお願い申し上げたの。
それで昭和陛下が高松宮様の手をお取りになってくださって、それが御兄弟の最期のお別れになってしまって本当に残念なことでした。
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高松宮妃◆2月に結婚したばかり。
出発までが大変だったの。
桃山御陵だとかお伊勢様だとか。
秩父宮妃◆あの時はお上がりになって早々だから。
折々、いちいち必ずお参りいたします。
高松宮妃◆そして14カ月でしょ。
今と違ってすべてお船。
のびてしまいますよね。

高松宮妃◆あの空襲は忘れられません。
うちは焼けなかったんだけど、御所だの大宮御所だの秩父宮邸だの、みんな焼けました。
お使いが自転車で来たのです。
私はびっくりして別当を連れてすぐ自転車で駆けつけたの。
そしたら六本木辺りの電線が垂れ下がって危なくてしょうがない。
でもそこを通って行ったら御所で。
御守衛の兵隊さんがただボーッと立っているの。
ザーッと向こうの木だけ見えて、御所はみんな灰になってしまっていた。
すぐ貞明皇后様の御座所の防空壕に伺って。

高松宮妃◆昭和陛下がいらっしゃれない所をところみんな回ろうという御気持があったのだと思うの。
秩父宮妃◆戦後の日本は戦前と違って県においでになっても、県でアレンジして固いところを御見学、県が選んだ所のみになりがち。
高松宮はそうじゃなくて、日本の立ち直りのために一生懸命やって見かけはまだ整わない企業などをかなり御視察になった。
高松宮妃◆若い時に高松宮様から伺ったことは、皇族というのは結局昭和陛下をお助けするという意味で、筬のように動かなきゃいけないとおっしゃった。
筬というのは機を織る時に行ったり来たりするでしょ。
糸があって、こっち行ってあっち行って筬のごとくということですよ。
年に一回昭和陛下とお二人でお話になる機会があったの。
高松宮様の御誕生日のお祝いのおいただきもののお礼にいらっしゃるわけ。
その時にいろんなことをおっしゃってるみたい。
秩父宮妃◆いつも御一方で。
高松宮妃◆御単身。
その時は誰もいないわけだから、いろいろお話をなさったらしい。

三笠宮妃◆高松宮様御還暦後でしたが、それまで歯医者に行ったことないっておっしゃるの。
いいお歯で。
高松宮妃◆それで二人でおどかしてね(笑)
三笠宮妃◆「これから歯医者に行くんだけど、歯医者って痛いかね?」ってお聞きになるから。
「とっても痛い」って言って御顔色をうかがったの。
高松宮妃◆二人でギャーギャーおどかした。
面白かったわね(笑)
三笠宮妃◆「ガリガリやられます」とかね。
そうすると本気になられて「そうか」と顔色が変わられた。
秩父宮妃◆でも結局はおいで遊ばしたの?
高円宮妃◆そう。
「あんなこと言われたけど痛くない」とブツブツ言ってらした(笑)
ちゃんと一本作っておもらいになったんですよ。
ところがお作りになったのはいいんですが、取ったりはめたりできるような御歯なのね。
一度はずしたらどうやって入れるのかおわかりにならない。
それで私がいちいちお教えするわけ。
そしたら「こうか、こうか」って、とうとう御自分で図をお書きになってね。
なんでもそういう御調子なんです。
きちんきちんと細かくていらっしゃるんだから。
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◆高松宮宣仁親王 123代大正天皇の三男 光宮宣仁親王
1905-1987 82歳没


■妻 徳川喜久子 徳川慶久公爵の娘/将軍徳川慶喜の孫
1911-2004 92歳没


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『高松宮日記』

※高松宮は江田島の海軍兵学校在学中

1921年2月12日
新聞に中村宮相〔宮内大臣中村雄次郎〕辞職云々と。
久邇宮良子女王に関すとか。

2月13日
新聞は某重大事件に賑わう。
予も知らざるも、良子女王との御破談か。

3月3日
東宮様、御渡欧御出発。
皇族方と共にシャンパンを挙ぐ。
感慨無量。

3月21日
華頂宮博忠王、鴨撃ちに行かるる由。
祭日にはちと休んでもよかりそうなもの。

4月22日
石川〔皇子伝育官石川岩吉〕は長男の神経衰弱面白からず、どうするか未定。

5月13日
今日の『国民新聞』に、お兄様〔秩父宮〕の妃に一条の娘さんがおなりになると出ていた。

5月21日
田村〔御付武官田村丕顕〕に「武官が尾けて歩くのはなぜか」と聞いたら、鈴木貫太郎校長がそう言って教室までも尾つけるのだそうな。
そこで予が涙を出して見せた。
要するに学校内ではどこへでも尾けて歩くのだそうだ。
私がどうしてそんなに一人で歩くと信用ができないのかしら。
まあ結局私は私で武官に関係なく行動することにするよりほかない。

6月1日
今月より武官、教室および短艇の中には来らざることにす。
しかし尾けては歩くらしい。
教室の隣室にはいるらしい。
馬鹿馬鹿しいことだ。
それでは少しも予の求むる自由は得られないのだよ。

6月9日
西村に「私なんていうものは病人みたいに世の中に何もせず食っているのだ。真に無意味だよ」という意味のことを聞かす。

6月14日
武官をまこうとするが、うまくまけぬ。
どうしても手先に使う人がいる。

6月22日
西村が「何かのついでに呉に行って買って参りましょう」と言うから、
「そう面倒ばかりかけては済まぬ」と言うがなかなか聞かぬから、
「や、いろいろ慣例もあるから」とて断る。
あまりいろいろもらって妙な結果になると困るから。
学習院で懲りてる。

6月28日
西村が私と話などするから、どうしても他の水兵が一緒にならぬと言ってきた。
どこに行ってもこれだから、私は一人孤独に泣かねばならぬのだ。
西村には気の毒だが、今私として絶交するのはちょっと困る。

6月30日
真に私の行く先々では必ず仲間はずれを作ったり、人に迷惑をさしたりするのだからイヤになってしまう。
学習院の時も、佐藤さんなどはその部であろう。
気の毒だと言って私としてどうも手がつけられないのだから、なおさら自分の心を痛めるばかりである。

7月2日
石川〔皇子伝育官石川岩吉〕に宅より手紙にて、長男が甚だ良くない、床の下に小刀など忍ばせているということで、一度帰ってくれと言うことなので帰京す。
どうも不幸は不幸を招く。

7月7日
石川から手紙で、長男は一時より少しは良いが面白くないと言ってきた。

7月8日
今日物理講堂から大講堂まで田村〔御付武官田村丕顕〕をまいてやった。
手際よく。

7月12日
石川から手紙で、少しづつ良いがはかばかしくないと言って寄こす。
学習院の野村三郎教授、出入りの左官に刺さる。

7月26日〔田母沢御用邸〕
大正陛下御散歩のとき侍従の補助を要せらるるごとく拝せり。
ますますおよろしからざるがごとし。

9月20日
西村さんに大正陛下の御不例のことを言った。
西村さんも心痛の色を顔に浮かべてくれた。
私は世界中で誰よりも西村さんを信頼していて、何一つ隠そうと思うことはない。
本当に私が頼りとし愛敬するのは西村さんだ。

9月21日
小林堯太郎が東宮様〔昭和天皇〕が御土産に下さる犬を見た。
ポインターの雄一と雌一が良く。
こないだ仔を産んだのはその雌より劣るそうな。
またセッター雄一つ非常に良く。
他のセッター、ポインターは芸は良くとも体は駄目なるとか。

10月4日
大正陛下御歩行にも補助を要せられ、御記憶力など減退にて、御良好とは拝し奉らずという御容態書発表になりたり。

10月11日
東宮様より御土産のうち、犬だけ正式にいただいた由。
ポインター雄雌二頭。
主猟課に預けて飼わす。

10月15日
東宮様よりヨーロッパの御土産として、油絵1・胸像1・望遠鏡1をいただきし由。

10月20日
西村さんは少しも私に会ってくれぬ。
もう私など可愛がってくれぬのかしら。

10月22日
西村と顔を合わせたが、どうしても以前ほどの親しさで顔を向けてくれない。
本当にどうしてあんなに私から離れて行ってしまうのだろう。
悲惨、悲惨。

10月24日
今日は西村さんが親切な顔で見てくれた。
いったい西村さんはどういう気かしら。
本当は私を可愛がってくれる気があるだろうに。

10月28日
西村さんはまた以前のような親しい顔で会ってくれる。
私の心は晴れ晴れしい気分になった。

11月18日
やっぱり西村さんは本当に私を愛してくれぬ。
同性愛ということを理解してくれないのかしら。

11月25日
前田〔皇子伝育官前田利男〕より、大臣より摂政を置かるることを話すようにとのことを聞く。

11月28日
今度の摂政についての詔書などの拝読ありて、ただちに学校の生徒・学生・高等官総員にて写真を撮る。
西村さん本当に私を何とも思ってくれないようになってしまったようだ。
私は常に孤独で生きなければならぬのだろうか。
さびしい、さびしい、さびしい。

12月1日
近ごろの新聞は東宮様の摂政御就任からして、三笠宮の御写真など種々なのが出る。
私はおかげで気楽だ。

12月4日
西村さんが親切そうな顔を向けてくれた。
本当に両方で遠慮と疑いっこしているようだ。
でも嬉しくって、嬉しくって。
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『高松宮日記』

1923年1月3日
朝、スケート。
昼食後、山階宮武彦王と賀陽宮恒憲王とテニス。

1月5日
スケーティング。
西園寺八郎・西園寺二郎・二荒芳徳・堂ノ脇光雄少将が一緒に滑った。

1月6日
朝、スケート。
二荒芳徳・西園寺公一・西園寺二郎と一緒に滑る。
越ケ谷鴨場へ。
午前1回、午後1回。
鷹を使ってみる。
網で雉を獲る。
鴨は100余羽。
お兄様〔秩父宮〕田口へスキーに御出発。

2月7日
夜、有栖川宮董子大妃御危篤の電報ありたり。
ことによっては帰らねばならぬかもしれぬ。
困ったことなり。

2月8日
晩、牧野伸顕宮内大臣より喪主仰せつけらるること、帰京の日は後報という電報が来る。
やれやれ。
たぶん紀元節後ならん。

2月9日
夜電報にて「帰京を要すれば18日の前」ということを報ず。
これによれば帰らずに済むかもしれないが、それでは変だ。
高松宮という称号は有栖川宮家の祭祀を継ぐためだ。
喪主という勅許を願っておきながら、ここにしまいまでいては変すぎる。

2月10日
私としては喪主になった以上、帰京するを至当と思う旨、山内伝育官より官長に尋ねしむ。
夜、皇后宮属淡近澄、御母宮様の御親書もて来島。
帰京するようにとの仰せと思いのほか、意外のことにも帰らないようにと言うことで、非常にヒステリックになって書いておありになるので、私にはよく事が了解できなかったが、困ったことになった。
宮内大臣は帰るようにとの意見なるも、御母宮様はことごとく反対なさるらし。
官長も困りおるならん。

2月12日
今朝大臣より有栖川宮の御辞退を理由として帰京せぬよう伝い来る。
義理の立たないことになって心苦しい。

2月20日
なんだか気分が引き立たぬ。
万物春めき、我が心も春めき悶まし。
異性に対して恋もなきに、またやはり同性愛か。
さりとて相手も見つからぬ。
同性愛は禁物だのに。
もうこりごりしているはずだのに。

3月1日
官長から東京での様子を聞く。
宮内大臣は強く帰京を言い張り、御内儀ではどうしてもお許しなきこと想像の如く。
御母宮様が非常にヒステリックにおなりになっていたことも予想通りだった。

3月2日
官長から続きを聞く。
こんどこちらへ来る時は、御内儀からは御伝言だけ、四十九日までに帰られたら良かろう、しかし夏まで帰らずとも悪くはないとのことなり。

4月3日
北白川宮御遭難の稍詳報来る。
北白川宮御自身御運転になり75マイルぐらいで走っておられて、他の自動車をかわし損なって並木にぶつかったらしい。
運転台の北白川宮と運転手は即死、客席の北白川宮妃と朝香宮とフランス人御用掛は重傷をして、北白川宮妃は御傷ことに重い由。
コスモス・ポーチュラカを蒔く。

4月10日
原村演習携行の事業服など、明日出発のために出す。
卓・椅子を持ちゆく馬鹿な武官さん。
それよりも武官さんの大きな洗面台を持ちゆかせるに至っては捧腹絶倒の値あり。
憐れむべき点あるを覚ゆ。
馬鹿もかかるほどなれば笑止の至り。

8月25日
朝、テニスをなす。
伏見宮博信王〔華頂宮博信王〕はやはり脳の具合とお腹の具合で休暇を延長さる。

8月27日
佃さんは「私は人から注目されているから、する事はそのつもりで注意するように」と言ってくれた。
私は学校中に佃さんの他には友を持たない。

8月29日
朝食前山田さんと散歩す。
山田さんも私が親しみを感ずる人だ。
佃さんとは趣きを異にした友達だ。
この他には兵学校に親友を持たない。
自習中、休みに佃さんに会えた。
まるで逢い引きでもするような気持ちで。
しかしいつも中休みに来てくれるとなると、相すまないような気もする。
佃さんは私に会わなくてもよいのだから。
私だけ我慢すればよいのだ。

9月2日〔関東大震災〕
東京方面に強震ありて、各所に火災等あり。
電信電話不通。
中央電信局火災で様子がわからない。
御見舞電報を出したが、日光へは着いたけれども東京へは行かない。
なにしろ大変な騒ぎには違いない。
夜になって来た報は想像以上のものだった。
呉から軍艦が急行する。
それで帰京をと言い出したが、校長の反対・武官の弱腰に出会してやめるより仕方がなかった。

9月3日
報道はますます惨害の大、悲惨の極を報ず。
心配で、心配でたまらぬ。
お兄様はまだ日光にいらっしゃるらしい。
なぜかは知らない。
イライラして学科はそっちのけ。
通信もよくできないので、断片的なことしかわからぬ。
それよりも無いよりはよいが、もっと知りたくて、知りたくて。

9月4日
今日も焦慮の一日なり。
皇族方にも薨去された方々が数人あることが知れた。
宮城の損害はそんなにないらしい。
御殿の方面も無事らしい。
戒厳令で何びとも入れぬ由。
状況がわかるにつれ、彼人は如何、誰人は如何にと心配だ。
帰りたい、帰りたい。
武官一人帰れと言ったが、なぜか帰らぬ。
私を帰さない意趣ばらしに帰すつもりだが、帰らない。
明日はなんでも帰すつもり。

9月5日
どうしても武官さんは帰らぬ。
理性のためか攻略のためか。

9月8日
官長から、両陛下・摂政宮様・秩父宮・三笠宮御無事、諸事回復しつつあり、御安心あれという電報が来た。
電報が来たのは良いが、文がそれではあっけない。
帰ってもよいと言うてきたかと思った。

9月9日
地震で帰りたい、どうしたいで神経がすっかり鋭くとんがってしまっていけない。
ブローム〔睡眠薬〕の必要がありそうだ。

9月10日
東宮様より御手紙くる。
名古屋のスタンプなれば飛行機で来たのだろう。
もう東京へ帰るのは当分あきらめた。

9月12日
17日の黄海海戦記念日に教官対生徒のテニス試合をするそうで、坂部少佐が私にも出るようにと言った。

9月14日
佃さんは私にもうそんなに情を動かしていないのかしら。
片思いは覚悟の上だが仕方がない。

9月15日
魚住が17日のテニスに出てくれと言うから、できないと断ったが、組を作ってしまった。
佃さんに会って断ってもらおうと思ったが、自習室に入って行くわけにもゆかず、明朝のことにす。
私が出ないなどと言ったら、坂部少佐はイヤな顔をするだろう。

9月16日
魚住に「テニスはイヤ」と言った。
集会所のコートで佃さんと前田と佐藤が来てやっていたから、そこへ行って断ってくれと頼んだら迷惑そうだった。
ちょっとラケットを振ったら航海科長が来たので逃げ帰る。
試合に出ないでテニスなんかしていたらいよいよ睨まれる。
会えば佃さんだって私を捨てはしないのだもの、なんとかしてくれるって。

9月17日
テニスの試合。
やはり佃さんは出た。
気の毒なことをした。
それにとんだ迷惑をかけてしまった。

9月18日
佃さんに会って、昨日ワガママをぶっ通して気の毒な、済まないことだったと詫びて気がせいせいした。
出なかったことを悔ゆるのではない。
人々の気分の幾分かに影を投げかけることを恐れるのだ。

9月19日
電報にて、御慶事〔昭和天皇の結婚〕は来年2月上旬か1月下旬に延ばされた。

9月23日
石川〔皇子伝育官石川岩吉〕から手紙で、麻布の土地の残っているうちの5千坪ぐらいをアメリカ赤十字社の救援隊に貸すことにしたと言ってくる。
おおいに望むところなり。
手紙のたびに節減のことを言ってくる。
各宮家などもなかなか細かく打ち合せをしているらしい。
こちらは関係ないことだけれども、それでも非常な謹みをもって処すべきだ。
宮内省は破産になってしまうから。

9月25日
「佃さんがちっとも遊んでくれないからぼんやりしている」と言ったりした。
「日曜には集会所に行くからテニスをしよう」とも話した。
「だけどテニスをすると坂部少佐は試合に出ろと言うから、もうテニスはしない」と言ったら、
「そんなことはないようにするから」と言ってくれた。
私は佃さんになら迷惑をかけてもよいような気がする。
変なことだ。

10月7日
伏見宮博信王〔華頂宮博信王〕はどうも神経の気味だ。
やはり御友達でも作って快活にお仕向けすることが肝要だ。
私も少し手伝うかと思ったが、よく考えてみるとそれは私の主義にもとった行為のようだ。
山階宮萩麿王も友達が良くない。

10月8日
官長の手紙に、私の都合のよい時に帰ったらよいだろうと言うて来た。
今頃になってかえるにはなんか事柄がなければならぬ。
また今さら帰る気もない。
冬休みで結構だ。

10月12日
2~3日中に〈長門〉が横須賀に帰るからそれで帰ったらよかろうという話なれば、私は今さらそんなに帰る必要はないと言ったが、東京で宮内大臣・皇后宮大夫のこともあり帰ることにした。
私はどうせ帰るなら試験の間にと思ったのだが、私の心事はまるでわかっていないから駄目だ。
長門で帰っても、学校へ行く時はどうなることか。
皇族ほど馬鹿げた職業はない。

10月16日
上陸して見学する。
復興、遅々たり。
惨状、心痛む。

10月19日
上野・本所・深川方面を視察す。
惨々々々。

10月21日
お兄様と馬に乗る。
外庭を駆け回る。

10月22日
赤坂離宮へ行く。
スミスモーターフライヤーを借用して、石垣にぶつけて前輪を曲げた。

10月29日
山内〔御付武官山内豊中〕帰る。
今ごろ帰るのだから呆れる。
桑折〔御付武官桑折英三郎〕もお坊ちゃんなり。
今度の中川〔高松宮家御用掛増山正興〕も華族なり。
困ったもの。
中川は次男だし華族臭の無いことを条件にしてあったのが、後で見せられた履歴には出仕までしていたとある。
これも呆れた。
四面楚歌の感あり。
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『高松宮日記』

※高松宮は海軍水雷学校在学中

1926年1月4日
甘露寺のお嬢さんが二人〔甘露寺績子・甘露寺寿子〕手伝いに来る。
これも候補者なり。
姉さんの方より妹の方がニコニコしていて愛嬌がある。
顔もおとなしい。
しまいに姉の方も悪くないと思った。
朝香宮がとても西洋臭くなったことなど話題に上る。

1月6日
鈴木貫太郎大将〔高松宮家顧問役〕に、武官を一人にすること、志摩〔御付武官志摩清英少佐〕をなんとかしてほしいことを話す。
山階宮萩麿王いらっしゃる。
萩麿王、堀井とは親しくなさるるよし結構なり。
堀井は満蒙に活躍したき望みあるらし。
探偵小説など好むとはさもあらん。
萩麿王も同じ探偵小説を好読さるるとは模倣の然らしむるためか。

1月7日
山階宮萩麿王、御日記を持ちて来られ読めとて置いてゆかる。
萩麿王の人に交わられ友と交われるに、セックスの上に原因がありはしないか。
そうだと、それに偏しすぎるのは面白からず思う。
私についても誤解が大ではないかとも考えられる。
なぜならば私の人格を礼賛して、私のために身をどうするとまで書いておありになるのは如何かと思う。
私もお力になろうが、それは same level においての事なり。

1月10日
2時参内。
大正陛下は寝台におやすみ。
今日はたいそうおよろしきとのこと。
4時過ぎ帰る。
満州の活動映画を観る。
同胞の血に彩られし地に、「平和の花を咲かすのが現在日本人の務めである」とのタイトル。
しみじみ思ったら奨励に行ってみたい気もして仕方ない。
大連市もなつかしい気がした。

1月12日
「純な心持ち」というものがあることに気づいた。
性欲の研究を始めようか。
そしたら私の心持ちも純なものになることができるかもしれない。
そして清い友達ができるかもしれない。
まだ羞恥心はあるのだから。
「純な気持ち」から恋愛に近い感情も起ることもありうるわけだ。
こえは山階宮萩麿王の御日記を見つめて苦しむ産物としては大きなものだった。
ホッと息をつく。
なにせ萩麿王には私を対象とせぬよう言ってやろう。
理屈も何も言うことは要らぬ。

1月14日
鈴木貫太郎大将、こないだの武官のことにて一人にすることは責任上できぬ由。
身の警衛の方面に対する顧慮より、一度に両方替えられぬ、しかし志摩は替えること。
鈴木大将に、皇族の身に持するに慎重なるべきこと、近ごろ世人の注目はよく見ておる、人民の敬礼はこれを容れるなどにて、純萃なる敬礼なるべきことを語る。

1月21日
関屋貞三郎次官より皇族会議ではなるたけ言わない方が良いだろう、年長の方が言う方がいいから。
別に言うつもりもなかったのだから差し支えないこと。
大谷〔宮内参事官大谷正男〕が来た時に形式ばっかりだねと言ったから、発言でもすると思ったかしら。
意見にしても、その場で説明するとそれっきりになっちまうようなものは言わない方がよいとのこと。
私には当り前のこと。
また朝香宮でも何か言えば面白いが。

1月22日
運転手がチャルマースで朝鮮の苦学生を一人気絶させた。
自動車は停まっていた時で、かなたから電車の前を横切って飛んできて自動車にぶつかってひっくり返ったのだそう。
面倒な事にならず。
こちらは落ち度なかりき。

1月23日
参内。
大正陛下ややおよろしき御様子にて、一昨日より解熱剤を差し上げざる由。

1月27日
皇族会議。
朝香宮、例によりて出問なさる。
だだし愚問なり。

1月29日
山階宮萩麿王に御日記を返す。
手紙添えず。
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『高松宮日記』

※高松宮は海軍水雷学校在学中

1927年1月14日
秩父宮「三連隊の人々に会えるのが楽しみだ」と仰せになったって新聞に出ていた。
真実だろう。
うらやましく思う。
私もこうした真面目な親しみを覚えたい気もする。
また三連隊の人々が同じ真面目なお親しみをもってお待ちしているのがうらやましい。
私には及びもつかぬ、真似もできぬところの一つだ。

1月16日
おたた様も秩父宮をお待ちかねなり。
お気の毒にてお会いするのがイヤになるとも仰せあり。
また言うこと多くて何から言ってよいやら言い様なしとも仰せらる。
平凡なる文句なるも、この場合御心を推し奉りて感万量なり。

1月19日
休憩室で賀陽宮〔賀陽宮恒憲王〕に拝島へいらしゃったお話を伺う。
21と18の運転手ぎりで同性愛に陥ってらっしゃるようだった。
山階宮大妃〔山階宮常子妃〕に好感を有せられず。
あまりよくないよう等々。

1月22日
お兄様ふたたびオックスフォードにいらっしゃるおつもりにてイギリスでも今でもそう考えているが、さて帰ると御母宮様の御心中を思うと再び出発する気が弛む、理性と感情との衝突が非常に苦しいと仰る。
お兄様なればこそ、そうした煩悶に悩まされになるのだ。
オックスフォードも2月からのタームは駄目だから、4月末からのタームだけにして御一年祭までには遅くとも帰る。
再び渡英なさることは現在各方面に具合悪いかもしれぬげ、もう一タームをなさることによって得られるものは将来御つくしになるために現在の不都合をつぐなってあまりありと御考えになる。
私としてもそれだけの御真面目な熱心を持ってらっしゃるなれば、むしろ再びなきこの機会にもう一タームをイギリスにお過ごしになるよう御賛成する。

1月26日
お兄様と宮城で御話して遅れた。
お兄様は明日一木喜徳郎宮内大臣に会ったら、おたた様が
「東久邇宮稔彦王が御帰朝後は御出発の時おもう様の御代だったし、天皇陛下も誅などに対して起立して敬意を表されるのだから、まず第一に殯宮に伺候なさってそれから赤坂離宮へいらっしゃるがよいだろう」とのこと。
大正陛下にお会いの時 御仰せになる御語を宮内大臣が作っているそうだが、その中に譴責的な文句があるはずだがこれは東久邇宮をいよいよ窮せしむる所以で、すでに十分良心に苦しんでいるのだからむしろ温情をもってしかも厳然たる容姿をもって御迎えになる、御語もなるべく少ない方がよいだろうとのことを言ってくれとのことなり。

1927年3月1日
宗秩寮総裁仙石政敬談として秩父宮御渡英中止の記事として出たのがとても不出来だったので、皇子御殿へ行ってみたらやっぱりお気に入っていなかった。

3月2日
温泉行き、例によって億劫になってやめ。
増山〔御用掛増山正興〕が風邪をこじらして肋膜がどうのこうのと言って休んでいるから御供がおりません。
武官さんなんか連れて行っては静養にならない。

3月6日
珍田〔侍従長珍田捨巳〕が来るので面会しに行く。
例の島津治子事件のこと。

3月8日
一木喜徳郎宮内大臣に会う。
例の女官長事件問題、宮内大臣いまだ意決せず。

3月17日
お兄様のところへアームストロング来れる由。
土曜日に見に行き、よかったら譲っていただく。

3月30日
去年陸軍に頼んで断った運転手を聞いたら、二名ともいつでも手放す由。
最上のが陸軍省、次のが自動車学校にいる由。
履歴書を頼む。
お兄様のところへ推薦するつもり。

3月31日
アームストロング・シドレー日本自動車に土よけを付けたり塗り替えたりに出したのができてきた。
明日から使う。

皇族は自己の目的に精進しえない。
結局は虻蜂取らずで終わるより仕方なし。
予をして性欲に対する顧慮なからしめば、すでに偉人たるべきのみ。

1927年4月1日
今日からアームストロング箱〔セダン〕を使う。

4月2日
日本商事に来ているブーマン来る。
メルセデスを見せる。
ちょっとハンドルを直しただけ、オールライト。

4月3日
アームストロングはスピードはかなり出るが、田舎道にはスプリングが柔らかすぎる。
帰りデコボコ道でグッと止めたら、ボディが歪んで前左と後右のドアが開きにくくなった。
ペーブメントの上だけで乗る車だね。

4月13日
水校〔海軍水雷学校〕卒業。
試験はずべる〔さぼる〕
それでも卒業。

4月14日
砲校〔海軍砲術学校〕入校式。

4月17日
とても良い天気なり。
ドライブに行きたい。
増山〔御用掛増山正興〕が出てこないので、御供難なり。
さりとて武官を連れて遊山に出かける気にはなれない。

4月19日
武田を呼んで慰君様〔有栖川宮慰子妃〕の御服飾の処置につき尋ぬ。
おたた様が慰君様へお頼みになりしと。
これを喜久子へ御遺贈になると慰君様が平常から言っておられた由と行き違いあるようなり。

1927年8月28日
すると言ってさせてもらえたことはこの一月なんにもない。
そんなに私は何をするにも能力がないのかしら。
〈比叡〉の中に棲んでいる油虫と大差なし。

1927年9月10日
今朝、内親王御出産。
ああ、イヤになっちまう。
男子はできぬかな。
また秩父宮の妃殿下面倒なりか。

9月27日
大正皇太后〔貞明皇后〕より秩父宮妃の候補としてお考えの者の話承りたれば、竹田宮へ行ってお話しておく。

1927年10月5日
秩父宮の御新邸は表町御殿だそうな。
なにも御殿名をつけなくてもよかりそうなもの。
私の方は御免蒙ります。

10月6日
敏子〔東条坊敏子〕が女官を辞めたと新聞に出ている。
とうとう快癒に手間取るというのかしら。
気の毒と言うより私が悲しい気がする。
運命は彼女を幸福づけなかった。
彼女の身辺にも恵まなかった。
二人の妹は如何に。
弟は如何に。
女官の中で私が好きだった敏子。
先には土御門〔土御門賀寿子〕が辞めた。
これは元気が良すぎたのだが、こうして私が好きだった人は一般的ではない。
それはそうだろう。
目のよるところへ玉だもの。
健全ならざる私には健全なる人が近づけられるはずがない。
今残っている慶子〔大原慶子〕果たして健全なるや。

10月31日
士官室の若い士官をくすぐったり、自分でだらりだらりと歩いたり、ふざけ散らしているだけだ。
それを面白いとは自分でも考えていない。
他にすることがないだけの話。
皇族たるの威も誇もあったものではない。
自分で自分の面を汚しているぐらいは知っている。
まったく常軌を逸している。
せっかく艦隊の艦に乗せてもらっても今度のように特別扱いの配置にされて、するなするなさせるなさせるなと言わぬばかりに仕向けられては、する気になれずまたできもしない。
ちっとも私の気持ちを汲んではくれない。
もともと気短な私にしてみれば腹も立つ。
今まで海軍軍人に憧れも希望もなかったけれどお、軍艦に乗れば分隊も持てるし、同じ年頃の人と愉快に話せるし、下情にも通ずるよすが、堅苦しい生活から逃れる慰めともなれば、艦の生活は私にとって東京なんかの生活よりよっぽどましだと思いしも、人にも言ったが今度初めてそうでなくなった。
そうした気持ちを自分でごまかすためにふざけ散らすより他ない。
泣き笑いだ。
弱い心の持ち主だけど仕方がない。
小人閑居して不善を思わざるべからずだ。

私は〈比叡〉の油虫
立派なお部屋に納まって
たらくふ食ったらちょろちょろと
ふざけ散らして毎日を
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『高松宮日記』

※高松宮は海軍砲術学校在学中

1928年1月5日
一木喜徳郎宮内大臣来談。
お兄様の妃殿下のことなり。
これでスラスラとゆくことだろう。

1月12日
宗秩寮総裁仙石政敬を呼んで、皇族の行為について世間の批判を受けたようなことはこれを回覧しろと言ってやった。

1月14日
大宮御所へ。
秩父宮妃のことで御満足のようだった。

1月20日
イギリス大使帰国につき、秩父宮邸にお招きになったので私も行く。
とても久しぶりの英語で、結局わけわからず。

1月21日
夜は秩父宮へ泊まる。
もうじきお嫁さんが来たらやめる。

1月22日
鴨猟。
大した獲物ではなかったが、一日を面白く暮らして竹田宮に乗せてもらって帰る。
メルセデス成績悪しからず。
クラッチがちょっとカタカタしたりするが、明日本当の試運転。

1月27日
メルセデスの修理完成して使う。
やっぱりとても乗り具合よし。

1928年2月4日
大宮御所へ。
なんだかこのごろ行く気がしなかったので御無沙汰していた。
勢津子様〔秩父宮勢津子妃〕のことも何となく気になったし、僕の方のそれもお急ぎのようだったし、赤坂離宮へちっともおいでにならないのも、私として大宮御所へ伺いかねたわけだった。

2月11日
秩父宮へ行って、東久邇宮・野口侍従・小山侍医などとスカッシュをする。

2月22日
日本自動車からエセックスを持ってきたので見たが、あまりよくないからハドソンにしようと思って見合す。

2月24日
〈八雲〉
とてもがぶる船だ。
湾内で酔っぱらったなんて、自分ながらイヤになっちまう。

2月27日
越ケ谷鴨場へ行く。
イギリス・ベルギー・スペイン・シャム・支那の連中なり。
とてもしゃべれないので困った。
でもどうにかこうにか暮らして帰る。
獲物はごく少なかった。

1928年3月3日
兵学校卒業式に出ぬとて武官さんをいじめてやる。
実際いじめてやらなくては、わけのわからぬことおびただしい。
ちっとも頭を働かさないのだからね。

1928年5月20日(遠洋航海中)
フィリピン人の怠惰なる、とうてい独立のことを考うるに至らず。
米作をなすに田に種子をまき散らすのみ。
雑草の丈、稲をしのぐ。
気候は二毛作に適するも、その最もよき時機に一回を収穫するのみ。
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『高松宮日記』

※高松宮は海軍砲術学校在学中

1929年1月4日
北白川宮へ。
ダンスなどやる。
上野正雄伯爵、酔っ払い手こずらす。

1月6日〔伊勢神宮〕
外宮参拝の時 山口の奴〔御付武官山口儀三朗〕がボヤボヤしてどんどんついてきてしまう。
神官に注意されてもなんだかわからぬらしく、ちょっとそれを気にしていたら玉串を反対に供えてしまった。
そして山口の奴はその失態を謝りもせぬ。
言語道断の奴だ。
もともと馬鹿ではあるが。

1月17日
スキーのためにのみ行くことを示すために、スキー靴・ニッカボッカで出かけた。
北海道が大袈裟のようだから。

1月19日
ヘルセット中尉のコーチで練習をやる。
とても前へ重心を置くことができないのでうまくゆかぬ。
今日の練習はお兄様の時のように人がたからず良かった。

1月21日
ヘルセットとスネルスルードがスキーを持ってくる。
お兄様に一本、僕に一本。
ノルウェー陸軍式である。

1月25日
3度に1度はステムクリスチャニアものになる。

1月27日
お兄様お風邪の由。
ノルウェー選手からのスキーをもってお見舞いす。
御勉強のお疲れならん。

2月3日
来年の外遊・結婚の経費、取り調べを始める。
それに新築と少し使いすぎるようでもあるから。
結婚はできるだけ節約してしたい。

2月10日
川崎近くで同行の自転車をよけようとして反行の自転車を跳ね飛ばし、ブリキ屋の小僧に打撲傷を負わす。
仰向けにひっくり返ったのでどうかと思ったが、三週間でよくなるだろうとのこと。
右足の筋肉に異状のある由。
大屋にやらしてる時だった。
宮内属亀井弘をすぐ見舞かたがた警察との連絡にやる。
メルセデスすっかりイヤになる。
死ぬようなことになったらと心配した。

2月11日
石川別当〔石川岩吉〕昨日の小僧を見舞い、親元へ30・雇い主50・本人に10、見舞金を渡す。
および治療費を負担す。
警察の話により。
事故は小僧に悪い点なくこちらの過失を免れざるも、別に責任を取るほどでもないことになった。

関屋貞三郎宮内次官に会う。
結婚・外遊のことにつき話す。
●結婚は相手の卒業後に具体化すること。挙式は内約をせば早きを可とす。
●外遊は一年ぐらい。来年。

2月16日
山口の奴〔御付武官山口儀三朗〕が7時前にノックしやがった。
あのお馬鹿さんにも困ったものだ。
二度もノックしやがった。
海軍大学校を13番で出た奴はあんなに頭のよいものかな。
すべての態度が気に入らぬ。
とても紳士の間に連れて行くのはきまりが悪い男だ。

2月18日
明日艦の人と日本光学工業見学のつもりのところ、武官さんがついてゆくとのこと。
急遽やめる。
馬鹿にしてる。
勝手にしろ。
面白くない。
軍港内ならついてゆかぬけれど、東京だしとさ。
不愉快だ、不愉快だ。
あいつらの面を見るのもイヤだ。
私の気持ちをわざと知らぬふりをするのか。
一を捨てて二を取ることをせぬ。
大なる結果を取らずに小なる目前に執着する。
そのような武官がなんで私の武官の価値があるか。
私のつら汚しだ。

2月23日
このごろ盛んに結婚のことが新聞に出る。
どうも大宮御所の中に漏らす人がおるらしい。
徳川頼貞の邸を借りることも、いつのまにか東京日日新聞が嗅ぎ出した。
断然借りるのをやめることにしよう。
増築で間に合す。

2月25日
大宮御所へ。
結婚につき御思召など伺う。
時期はやはり20歳の来年の方が良いらしいが、12月でならぬとはおっしゃらぬ。
まあ、2~3月か。
約束は4月帰京前にしたらとのこと。
五島来談。
五島盛輝子爵は幼稚園からの御学友で、一番私に親しみを持っている人。
いわば壮士肌だが、もっとしっかりしている。

2月26日
山口武官、肺炎やら胸膜炎やらわからぬが昨日入院。
高熱なるも病名決定せず。
鮫島〔御付武官鮫島具重〕曰く「療養さえた方がよいと思うからその手続をする」と。
「いけない。艦の職員ではないのだから、そのままにしておけばよいのだ」と教えてやる。
療養させるなら代りを作るべきだ。
お馬鹿さんには武官は二人なくてならぬという海軍大臣の言い分がわからぬらしい。
不戦条約の「人民の名において」が問題になっている。
本当にあれでは国体と容れぬ。
それを調印するとは駄目だな。

2月28日
風強く動揺するも、机上のセルロイドのキューピーが不安定となりしのみ。

3月2日
鮫島〔御付武官鮫島具重〕はどのぐらい俺に対して誠意で尽くそうとするのか。
いくら表面を作っても、こうした俺の言うことを聞かぬ、感情的に些の満足も与えぬ勤めぶりで何が務まろう。
能力なき者には二度でも三度でも実行すべく言うこともあるが、できることをしない奴に、誠の底を持たぬ奴になんとも言う気になれぬ。

3月16日
石川岩吉別当より徳川家の返事としては、
「特に申し上げよとのことなれば、11月は慶喜・1月は慶久命日なればそのことを」とのこと。
大宮御所にも伺い、期日のこと宮内大臣・徳川家に内報せる由。
すなわち「1930年2月初午過ぎの吉日」

3月18日
とてもよい天気なり
さりとてあの武官さんを連れて上陸する気にもなれず。

3月21日
宮島に着く。
二時間ばかり士官室の人たちと散歩す。
久しぶりにもみじ饅頭を食べる。
憲兵がついてきた。
いつのまにか嗅ぎ出して。
馬鹿な憲兵だ。
帰れと言ったが、とうとうしまいまで着いてきた。

3月26日
石川岩吉別当との話。
内約の件は御思召によりては、5日・8日・12日が日が良い日なれば、5日に宮内大臣に仰せいただき、8日徳川へ、12日にその返事を取りて内約・発表、その日に勅許を願う。

3月30日
北白川宮へ。
昭和皇后御参内になるから、おたた様〔貞明皇后〕との間が上出来のようにするなどお話して。

4月7日
出港用意にて甲板にでれば、写真屋三方より取り囲む。
癪にさわる。
パチパチやるので乾板を没収す。

4月11日
山口の〔御付武官山口儀三朗〕恩給年加算の都合にて引き入れのことにす。
その時また鮫島〔御付武官鮫島具重〕をとっちめてやる。

4月12日
石川岩吉別当より婚約勅許のむね来電。
三陛下に御礼電発す。
大正皇太后〔貞明皇后〕より御よろこびのむね電あり。

4月13日
今日当直だったが、副長が私の婚約につき御祝杯をするからとて当直の代りを寄こしたから、断然祝杯を止めさす。
無邪気な気分で杯をあげるのはよいけれど、当直を代えてに至っては馬鹿にするにもほどがある。

4月26日
品川にて写真屋数名取り囲むも、なるべく撮らせず。
ついに玄関まで追って来た。

4月29日
観兵式。
馬には乗らぬつもりだったが、お兄様が乗れ乗れとおっしゃるので少し乗ることとす。

5月1日
床屋に髪をつませて明日のためにめかす。

5月2日
東京駅にグロスター公を迎えに行く。
昭和陛下の御供をしてホームへ。
昭和陛下の御紹介にて握手。
手袋を取るのかと思って取ったら、彼はそのままだった。
8時より秩父宮邸でディナー。
グロスター公の英語は聞き取り難し。

5月3日
ガーター勲章贈献式。
荘厳に行わる。
グロスター公も重荷を下ろされた。
すべて誠に重々しく行われ、勅語も御上出来なり。
7時、宮中晩餐。
通訳なしにスピーチも両国語でそれぞれ。

5月4日
岡田啓介海軍大臣のグロスター公殿下招宴へ。
話せぬのに隣に座らされて困る。

5月8日
大宮御所へ。
落合大使未亡人〔落合謙太郎の妻落合タカコ〕に御用取扱交渉の件、申し上ぐ。
洋服などの準備に6~7万入用だそうな。
女の洋装はどこまでも不経済。
もっともそのために有栖川宮から徳川の方へ金が行っているんだそうだけれど。

5月9日
グロスター公お別れの午餐。
いつもお姉様〔秩父宮勢津子妃〕の両隣がグロスター公と僕。
おかしくなってしまう。

5月12日
金子子爵邸に晩食に行く。
細君〔金子武麿の妻豊子〕が虚栄家で、逗子ホテルで会った後も私のことをどうとか言っていたとか石川岩吉別当が心配していた。

6月2日
石川岩吉別当から結婚や外遊の準備の女の着物の調べを寄こす。
徳川家で60,449円、こちらでヨーロッパに入ってから買うのも加えて22,170円。
洋装だけ。
女とは買うものなり。
買われるものにあらずか。

6月28日
山口〔御付武官山口儀三朗〕が中山から来た手紙を誰かって先任伍長室へ聞いたり平野に聞いたりしていた。
馬鹿にするにもほどがある。
私のことを詮索だてしやがる。
いつになったら気に入るようにしようと言うのだ。
甲板だったが小声で怒りつける。
一日中極めて不愉快なりき。
武官さんとは私を不愉快ならしめるものだ。
そして馬鹿にするものだ。
ちぇっ、癪にさわる。

9月13日
温泉会社の話など聞く。
小塚山の南の分水嶺が別荘によさそう。
2千坪買うか。
坪10円ぐらいでよさそう。

9月16日
今日は大杉栄の死せる日か。
彼の随筆的なものは好きで読んだのだったのに。
いわゆる主義者の中で私にとって親しみを感じられた人だった。
著書の上で。
彼の主義はちっとも知ろうとしなかったけれど。

9月20日
小塚山鞍部の土地を見に行く。
あの辺では一番よさそうだから、宮内大臣がよしと言ったら2千坪、2万円ぐらい買っておこう。

9月25日
今日も外出せず、まとまって読書もせず。
どうも軽く寂しい不安を感ず。
友だちのいないのや、皇族として社会的無価値な生活や。

9月28日
秩父宮へ行き、お姉様〔秩父宮勢津子妃〕と御馬場の三笠宮の打毬を見に行く。
三笠宮なかなか上手なり。
大正皇太后〔貞明皇后〕の御供にて洗心亭にて御茶をいただき、御畠を拝見してお姉様と一緒に帰る。

9月29日
田中義一大将急逝す。
時節柄気の毒にも思えるし、また生きているのも気の毒な気もするし。

10月26日
大宮御所より三里塚の薯などいただく。
石川別当がその後 様子を申し上げぬから、御催促だろうと心配す。
あまりに大宮御所をビクビクしすぎる。

11月2日
秩父宮へ行く。
御一緒に帝展へ。
日本画多すぎてうんざり。

12月8日
西郷〔同級生西郷従純〕を呼び一時間話す。
古河へ養子に行く由。
非常なる勉強なり。
頼もしきこと限りなし。

12月9日
侍従長鈴木貫太郎来談。
現在の武官の仕方は私の気に入らぬことばかりであり、また気に入るようにやらしていない。
●その任務は公の場合のみにして、私上のことに関してはつけたりする程度を出ず。
●型に填るのは最も禁物なり。
人の気持ちには一定の法則があるようで千変万化なることによる。
●要するに武官のやり方は私の気持ちにピタリピタリと合って行かねばならぬ。
●武官の不必要を認めない。
しかし私上のことには少しでも立ち入らせたくない。
もし私が自ら秘書として認めた人ならある程度私上の問題に携らせることも可であるが、武官は決してそうではない。
私の理想としては宮務事務の一部である金銭出納、地方官との折衝などもやらせたくはないのである。
平服を着せて供もさせたくないのである。
●武官は公式上の者であるが、みるからにカチカチぎこちなくではどうにもならぬ。
やはり場合〃〃に応じて「気をつけ」「休め」式にパキパキやるのは気持ち良い。
また実際上あまり礼儀正しくありすぎても、写りの悪い時もある。
ゆっくりやるのがよく見える時と、敏捷にやるのがよく写る時と、いろいろあることに注意を要す。
●対外的な武官の態度、例えば新聞記者との対応は注意を要す。
私としては時流に投ずる的な語は欲せず、世間の耳目に遠ざかる主義であること、しかも皇族の威厳を保ちかつ皇族が超人間でないことに注意せねばならぬ。

大宮御所と宮城との折り合い、融和に努めるべきむね話す。
かかることは侍従長のなすべきことならざるがごときも、今としては侍従長の仕事拡大せる以上、また侍従長として努めざるべからざることなりとは難しきことなり。

1929年別紙
皇族が軍籍に身を置くことを絶対のものとされていることを不可解にしか思えない。
第一皇族がなぜ必要なのか、どうも皇族は要らないもののようにしか思えない。
もっとも日本が万世一系の天皇の統べたまう国であるために、その嗣継のために皇太子が必要でありそのまた予備の人がほしいことも否定できぬことであるが、しかしそれは無数無限の予備を意味しない。
その数を学理的に計算した人はまだないであろう。
まあ一人ないし二人と考える。
してみると私が皇族の地位におらねばならぬ理由にしかならない。
私が皇族として無価値だと言えない。
けれども単にスペアとして生きておるのが皇族であると言えないと思う。
生きていてそして悪いことをせぬことがスペアとしての全生命であり全任務であるからそれで皇族の価値は存在する理由になるかもしれないけれども、また一方十分なる徳をそなえそして智識を持つことが予備者として必須条件であらねばならない。
そうすると皇族は単に内部的なもので能動的なものでないと言いうる。
またある意味で私もそれを肯定するものである。
しかし現在周囲の事情は皇族の修学に対して考えられていない。
少なくもその便宜が与えられていない。
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『高松宮日記』

1933年1月14日
喜久子、女中候補につき石川岩吉別当を絶対信用せずとか、〈ともえ〉のことを見るもイヤとか言いて、男の採用せる者はすべて駄目と言う。
叱りつける。

2月16日
女中〈ともえ〉いよいよ下がった由。
喜久子の文にそれを名残惜しくとでも書きあることを願っていたのに、やはりそうした気分は何にもないらしい。

2月21日
23日上陸、伊達家にて昼食のこととす。
19日に同邸内にて三井男爵夫人〔三井高弘の妻伊達照子〕が死去せりとのことなりしも、遠慮に及ばずとの判断なり。
かかる場合に寺岡〔御付武官寺岡謹平〕が情況を確かめること甚だ不得要領にて困る。
かかることも武官のやり方口のきき方によるなり。
そのための武官なるにあらずや。

2月23日
伊達邸へ。
給仕する若い女はその辺のお嬢さんなり。
着物の着方はやはり田舎らしきところあり。
田中とかいうお医者さんの娘は顔整いたり。
穂積というお嬢さんは穂積重遠博士の姪になるらし。
他に平田という年増は家の人にて、着物など一番落ち着きキリッとしていたり。
三井未亡人は昨日告別式あり、京都に葬るらし。
やはり今日は来ない方がよかったと思った。

2月25日
東京より仔犬の写真来る。
思ったほどにかわいくなし。
今度カルシウムを飲ますように言ってやる必要あり。

3月31日
佐世保へ。
久しぶりの入港なり。
左近司長官〔佐世保鎮守府司令長官左近司政三〕来艦。
4月3日に例年のごとく長官邸にて園遊会を催すから、来て見よとのこと。
「本年は非常時なればやめようかと思ったが、部外の人も毎年これを楽しんでいるなれば、いつもの手おどり等やめてガーデンパーティーをやる」とのこと。
手おどりぐらいやればいいのに。

4月25日
実枝子様〔有栖川宮実枝子女王・徳川慶久公爵の妻・高松宮喜久子妃の母〕逝去の報あり。
この1月にお会いしたのが一生の名残と誰が知っていたろうか。
徳川一家もあちこちに不幸不運の続出している時に、つきぬ心配やらなすべきことをまだまだ残していかれた。
かえらぬ繰り言ならが、せめて3~4年喜久子に子供を作ってお祖母様にしてから今日のことにしてあげたかった。
私にしてみればだだ実枝子様に対してではなく、おもう様に対しての私の務めであり、そのニュースを携えて威仁親王〔実枝子女王の父〕なり慰君様〔実枝子女王の母〕なりのもとへゆかれるのだったらあきらめもつくのだがつくづく思う。
後の慶光さん〔徳川慶光・喜久子妃の弟〕なりなんなりの面倒も見ねばなるまい。
とても人の命のはかなさが考えられる。

5月23日
立花様お二人〔立花種勝&北白川宮美年子女王夫妻〕をお招きして、御結婚後初めてお目にかかる。
美年様とても御謙遜にて御挨拶など丁重を極むとの噂なりしも、今までと大して変わったことなく愉快にお話す。

5月28日
慶光・二妹〔高松宮喜久子妃の兄妹〕を呼び夕食を共にす。
慶光さんも母を喪い急に大人びたし、アカの方に引っぱられかけるらしかったが、本人はそれを警戒していた。

6月6日
伏見宮邦芳王の御葬儀に参列。
幼年校まで修められて御病気になられたことを聞いて、ややお気の毒さを加えたり。

6月16日
今朝卦面が良くなかったので、一日つつしみの心去らず。
夕食に至りてやれやれ。
大凶を気にするはよくないが、つつしみて修養とするは可なり。

6月26日
小学校の四年ぐらいになると、何がなしに睾丸が意識されてくる。
年長の人が中学ぐらいで柔道を習って釣鐘の急所を伝える。
そして性欲の感じでなしに他人の睾丸をつくことに興味が湧く。
また巴投げが面白い技に考えられる。
その程度が3~4年間は続く。
自分で自分の股間に手をやる癖もついてくる。
そのうちに夜中就寝中に遺精をやる。
そしてサルマタなりフンドシなりの汚れが羞恥の心を呼び起こす。
しかしそれが生命の根本である精子とかいうことについては何らの知識もなく女の連想もない。
その間にはインキンになって痒くもなる。
また陰茎の硬直も起ってくる。
友達との間にも二通の種類ができてくる。
そして触感によっていっそうの満足が感じられるようになる。
あるいは懸想の友情になり同性愛高潮となる。
しかしそれが陰茎に手を触れ合うようになると、射精の興味にまで行かぬまでも他人の陰茎を摩擦しまた自分のそれを硬直そして他人の手により摩擦されることに快感を忘れることができなくなるのであろう。
一度そうして手淫を覚えるとそれはやめられぬ、相手を見出さねばおけない。
しかしてそうした相手を見出す第六感はかなり鋭敏になる。
そのころにはまた女を経験する年輩になる。
また女との性交には正統なる快感と執着が生じてこなければならぬ。
そこには花柳病が待っている。
しかし性交そのものと同時に、女との接触には大きな享楽があるのである。

7月10日
台南神社参拝隊出発。
先導の船がソロソロ走る。
桟橋もものものしく、今さらながら呆れる。
先駆・サイドカー2台・警察部長と憲兵中佐のオープン、がっかりなり。
町の生徒が並んでいるのはよいとして、30分前よりの交通止め、がっかり。
やっぱりここでも一定の所だけで並べ、自分の家の前でもいけぬと言うのだろう。
貸家札を貼りつけたいように戸を閉めた家が並んでいる、またがっかり。
牛車で路面を痛めると話ながら、牛車がいない。
田畑に耕す人も水牛もいない。
今日は人と牛はみな引っ込ましてあるのだ。
せっかく田舎の景色を見ようとして、ちっとも趣が添えられなかった。
並んでいる人は日本式によくお辞儀をした。

8月19日
パラオ島に上陸してみた。
コンレイ村に内地に3年ほどいた少年がいた。
村にいるとやはり生まれつきの怠け者になる傾きがあるので、長官は役所で使ったらと言っていた。
私は今度の南洋で気になりだしたことは、人間は食うことが最大の欲かどうか、人生の目的として食えれば満足しうるのが本能であるかどうかということであった。
少年は内地で十分文化的生活を味わい、また見聞きしているに違いない。
それが村に帰れば裸足で半裸で何らの慰問なきコンレイ村に安住することはどうしたことか。
南洋は食う物はほとんど労せずして得られる。
家は作らねばならないが、それとても簡単なものしか持たない。
その衣食住は極めて単調なのに、満足して向上心もないというのは、どうしても食えて着て住むことが心配なければその最小限度で人生は満足できるのであると言わねばならぬ。
それが他に知識なければそうも言えるのであるが、十分文化を知った者がこの単調な最低な生活によって向上心を再び捨てるというのは何事を語るであろうか。
本能としては華美を欲し驕奢を好むのではないか。
もっとも安逸を願い労苦を厭うことは乞食三日すればやめられぬのたとえで知れる。
すなわち条件は徒食にある。
そうに違いない。
臥薪嘗胆には耐えるが、懲役・奴隷の労働には耐えぬのでもある。
空論としては、衣食住が満足されるならば、それは必ずしもその上を欲し現在に不満を感ずるものでないのではあるまいか。
衣食足って礼節を知るというのはそれを語るのであるが、礼節が労苦を伴う時やはり行われぬものとなろう。
要は食って怠けることにある。
ここに奢侈を捨てることの容易であることが知れよう。
同時に人を働かせることの、また自己を労することの困難なることが悟れよう。

9月3日
宮ノ下御用邸を見分する。
考えたより地形の悪い敷地だ。
残そうという御殿も景色は見えず、場所が具合よくない。
水道があり温泉がかなり出るのが取り柄なり。

9月10日
武藤信義元帥が満州に客死して男爵になったことは彼の人の勲功からして然るべきことであるが、その人が世を去るに際して授爵のことはないのが内例になっているのは過去の実例によるのである。
まず今回は特別の扱いとして別に差し支えのあることでもなく、これがなくては物足らぬ状況でもあった。
武藤元帥には二人の女の子があって男子はなかった。
それで姉の方に縁談があったが、女子のばかりだから廃嫡にせねば他へは縁づけぬのだそうな。
ところがどうも廃嫡とは気持ちがよくないと考えていたところへ知恵を授けた人があったらしく、細君の親戚のまだ二つか三つの子を養子に入籍すれば、その子が相続者になるので廃嫡などせずに片づけるというわけで、そういうことに手続をした。
もちろんその子供はほんの一時の借り物で、姉さんがお嫁にゆけばその子供は離縁となって元へ戻る。
そういうつもりの細工であった。
そこへ今度の急変でその子供を戻す前に武藤元帥が亡くなられた、そして男爵になった。
さあそこで多分副官という人であろう、その借り物の子供に男爵を継がせたらというわけで、実は27日に亡くなられたのを28日にして、その間にその子供を離縁して元へ戻したわけだった。
これは実に機敏な処置だった。
ところが法律のいたずらは続く。
華族令では男子がなくては襲爵はできないことになっている。
養子がそのままいればよかったのだが、養子を出したために妹の方が相続者になって、それに入籍したのでは襲爵できぬわけである。
元帥の血統の女子によって男爵を継がせようとしたのができなくなった。
それでどうすればよいかとなるとその妹を元帥の遺言で廃嫡にすればよいのであるが、役場には妹が戸主となることを届けてしまうし、その辺の実情に暗いことなどあってどうにも取り返しがつかなくなった。
襲爵は三年間であるからまだその方は期限があるが、その養子を外に出したのが武藤元帥の意志でなかったという訴訟でも起こせば何とかなるのであるが、それでは私印の盗用になるというので陸軍省の恩給課長も頭を悩ませて、しようがないということになったそうである。
そのころ新聞に元帥の一代華族主義とかいう記事もあったりして、それでこの事件もおさまるらしい。

10月11日
ハドソンを見たりす。
右ハンドルに直すとオートマチッククラッチを脱すことになり、どうも買う気になれず。

11月12日
朝香の叔母様〔朝香宮允子妃〕柩前祭。
いつか来るべき御葬儀ながら、これほど悲しき心地はなし。
涙にじみ出づるも止め得ず。

11月25日
ビックがまた欲しくなったので、オースチンを持ってくるのをやめて、この幌を買えと言ってやる。
今度の市岡武官〔御付武官市岡寿〕はMGの短い、傾けたらひっくり返りやすいような人だ。
叩けばカンと言ったきり余韻の残らないような気がする。

12月23日
皇子御誕生の由。
7時少し過ぎに電話にて承知。
まことに私も重荷の下りたようなうれしさを、考えてみればおかしな話ながら、感じてやまず。

12月29日
参内。
新宮に見上げたり。
とても赤いお顔にて、お鼻大きく高く見受けたり。
シャンペンの杯をあげ、退出。
継宮とはちょっとおかしい気がしたが、よくよく明仁とつけてみると良いお名なり。
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『高松宮日記』

※高松宮は海軍大学校在学中

1月7日
新宮が御誕生になってみな大喜びだ。
しかしお兄様も御同感のようだが、はやり御教育方法が心配になる。
新宮の御養育御教導ほど重大な問題はあるまい。
すでに照宮成子内親王その他の方々の御養育で経験もある通り、早くその方策を決定し計画を立ててかからねば失敗するであろう。
そしてこれは一般論ではいけないので、現実に即し今日に適した特殊な方法でなくてはならぬ。
両陛下は共に極めて御やさしい。
おそらく本当に御叱りになることはあるまい。
しかも二方とも大して御強壮な身体でない場合、そこに生まれる御子は気丈な方でない方が普通であろう。
してその上に育て方が弱々しくされることによって、男さんについて果たしてどうであろうか。
照宮成子内親王ですら、魚屋とか何屋とか果てはお寺というような物についての概念を持っていられないで、国語読本等に関する興趣もおわきにならず困るような話である。
まして御成人後はいよいよ下情に遠ざかられる立場の方が、自由なるべき小学時代までをそんなことで甚だ困りものである。

3月1日
とうとう満州国が帝国になった。
しかしはれやれと息をつくどころではない。
少しはよくなったかしらと思えぬこともないが、新聞の記事によれば外国でも相当この新帝即位を書いているようだがどういうものか。
ますます関心を深らしめ自重すべきだろう。

5月18日
矢田氏の話。
参議は日本人3人・漢人4人・満人3人・蒙古人1人だそうだが、机のあるのは日本人3人のみで蒙古人はほとんど新京にはおらぬ。
参議の会の時だけ支那人が出て来るのだそうな。
それではならぬから、自動車も役所のを用いるように机も置いてやることにするそうな。
どうせ大綱は握っているので、せいぜい気持ちよくしてやるのが必要だ。
移民問題も雑居では駄目だというのでチャムス付近で広大な面積を一町一円で買う強制、それもはじめ武器の証明をやると言って武器を持って来させて取り上げ、地権も取り上げていつその一円をやるかもしれぬ有り様に、地方人が放棄して飯塚部隊の全滅、軍旗も失われたという噂もある。
とても静まる見越しなく、これには軍も失敗を自覚したらしい。
それで満鉄の300万円に満州の300万円を足すことにしたそうなが、その時の閣議にも臧式毅は無言で終始した。
死の沈黙と言われている。
移民問題も当分駄目と言われている。
臧式毅が一番反抗の底力があるらしい。
なにしろもっと支那人を楽しませなくては仕方なし。

5月31日
宮ノ下御用邸を改造した家へ泊まりに行く。
思ったより新しそうに見えてよろし。
温泉は透明で頼りないが量は十分なり。

6月1日
殿様〔細川護立侯爵〕が見送りに来ていてメロンの籠をくれた。
車が発してから見たらソラマメがつめてあったので、知らないでもらって残念なりと悔しがる。
〔高松宮夫妻は細川侯爵にソラマメというあだ名をつけていたので細川侯爵がいたずらをした〕

6月9日
東京での話で武藤山治氏の暗殺は、その場で刺客を殺した人があるのだそうだ。
刺客の頭の弾丸はピストルが異なる弾丸だそうだ。
その黒幕はまだ不明とか。
ほんとに世の中が面倒になる。

6月15日
南京で行方不明の南京総領事館書記生蔵本英明は支那の憲兵とか秘密結社にさらわれたとか言って強がっていたが、どうも気が変になってフラフラと出てしまったらしい。
逆に謝るべき事態らしい。
困ったことに違いなし。

1934年7月
佳木斯・満州里を観るのは駄目になったがハルビンは大丈夫と思ったのに、関東軍参謀長西尾寿造との話ではとても話にならぬ。
すなわち微行といっても関東軍としては同じことで、秩父宮の時と同様数カ月前から大警戒をやるとのこと。
これでは秩父宮の時 新京で、一日も早く御帰京を願うという日本人の投書と同じことだ。
警戒〃〃で交通も商売もできぬ、生活問題なりと言うわけ。
結局は私が海軍で、軍は駐満海軍部が邪魔なところだから、同じような気分が私にも働くらしい。
だからことさら面倒にするとも考えられる。
満州皇帝は秩父宮とお会いしてまた親しみを加えられたらしい。
日本行きにも賛成されたのだそうで、私にもある種の好奇心があるらしく、会うことが望ましいようにもうかがえる文面だった。
飛行機で行くと言えばそれも困ると言うし、結局軍は私をうるさがるのだろう。
別に軍をスパイするのでも、陸軍の満州を海軍の満州にするのでもないが。

8月24日
竹田の叔母様〔竹田宮昌子妃〕から話があるというので行ってみたら、毛利富士子様〔毛利高範子爵の娘〕を探ってこいということだった。

8月25日
朝、筑波様〔筑波藤麿侯爵・妻喜代子は毛利富士子の妹〕へ。
毛利富士子様が朝香の叔父様〔妻を亡くした朝香宮鳩彦王〕の妃殿下になり得るかどうか聞きに行く。
可能性はあるが、おとなしいようだ。
夕方、竹田様へ報告に行く。

9月18日(満州滞在)
大連に来てみれば関東州内はちっとも危険もないらしく、関東軍のやかましさも州内に対する認識不足らしい。
サイドカーも付けぬでよいし、交通止めも不要とのこと。
満鉄総裁林博太郎来る。
だいぶ関東軍に700万円とか取られるのだそうだが、名目がなくて背任罪になっては困るし工夫している由。
どうせもたれ合っているのだから、取られても仕方あるまい。
満州国人官吏はやはり日本人官吏と合わぬらしい。
腰もまだ落ち着いていないらしい。

9月30日(満州滞在)
民団の連合艦隊送迎会ありしも芸者が出るから行かんでよいとしておいたら、今朝になって職業婦人は一人も入れぬから来るかと言ってきたが、それでは私のために多勢の興を削ぐことだしやはり行かぬことにす。
海外で芸者やそうした婦人の立場は大切であって、それを蔑視することは面白くない。
私が行くとそこがうまく行かぬからやめたのだが、結果はかえってまずいことになった。
艦に帰ろうとしたら風波のため定期船が出ぬというので、グランドホテルに飛び込んで泊まることにしてやれやれと思っていたら、連合艦隊司令官長末次信正が「ホテルはいけない。総領事官邸に泊まれ」というわけで、領事館も面食らって支度して12時頃やっと落ち着けた。
どういうわけだかわからぬが、とても面倒をかけてしまった。

11月28日
外国で作ったブラックタイとドレスと虫が穴をあけてしまったので三越で作る。
大損害なり。

12月12日
夜、ドイツ大使永井松三夫妻を呼ぶ。
ヒトラーも6月頃何百人と殺してからは、ずっと穏当になったそうな。

12月16日
二荒〔二荒芳徳伯爵〕が来て話す。
ドイツにやっていた■■は先方でドイツ娘といい仲になって、帰って来てこちらの妻子と具合悪く二荒とも絶交の有り様とのこと。
惜しいものだが思想の方はよほど良いらしく、それだけは効ありしらし。
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『高松宮日記』

1935年1月1日
朝香様〔朝香宮鳩彦王〕したたかに御酒まわり、「私は独り者だ」とてさんざんお泣き出しになり、東さん〔東久邇宮稔彦王〕がまたつられてボロボロ泣き出す騒ぎ、やっとお帰しす。
なんでも宮城より秩父さん・三笠さんと連続で、とてもお酒が入ったらしかった。
こんなのも珍しいお正月なり。

1月3日
秩父宮をはじめ叔父様・叔母様・皆様をお招きして佐和様〔北白川宮佐和子女王〕のお別れの宴をする。
朝香様にまた泣かれてはと警戒しつつ、みなお酒を相当上がる。

1月8日
三笠宮、日光のスキーで足を腫らしたので座れぬ由。
岩にぶつけたのだと。

1月14日
明日、有栖川宮熾仁親王40年祭。
宮家を認めない今日、うちにある御霊殿の立場は中途半端なものである。
この際その点を宮内省の注意まで刺激しておく方がよいと別当も考えた。
皇族は姓を持たぬ、家を持たぬのが今の定めであって、皇族の御霊はすべて皇霊殿にあって各宮にあるものはその御分霊になる。
ところが皇族の年祭は皇霊殿でできるわけではない。
春秋皇霊祭があるのだがこれも昭和陛下が御まつりになるので、昭和陛下方の御霊に御拝になることと思われる。
そうすると皇族の御霊には御会釈になっているわけであろうし、各皇族はすべてについて拝しているわけである。
それきりである。
そして年祭は宮邸の霊殿で各宮が主祭する。
そして宮内大臣を経て奏上はするし、昭和陛下から御菓子等の御そなえがある。
御使いのあることもある。
建前として宮邸のお祭はかげの祭で、奏上もこれを御黙許になるというか、そうかなと思し召す程度のことと思える。
そうしても私祭である。
皇霊殿で行わるべきものがなくてはならぬ。
しかし今のままではできぬ。
皇族の御霊は皇霊殿にあるにしても、別殿にするかまた別殿でお祭できるようにするのがよいと思える。
そして公のお祭はそこで行い、宮邸のはやはり内々のものであるべきだと思える。
これは重複になるとするならば、宮のを本霊にして絶えた方のみを皇霊殿に置いて、宮のある間はその宮で主祭することに定められるべきと思う。

1935年12月10日
筧克彦博士と語る。
●帝大、それも東京帝大は教学の中心である。
ここに皇学〈神ながらの教〉を講座として置くことが最も良し。
学部なればなお良し。
●学生にして帝大はなんと言っても熱あり。
これに点火すれば期せずして全国の学に火をつけ学をおこすことができる。
●皇族がこの信仰の問題・精神的な問題について会議をすることが急務なり。
そしてそれを助ける者として神祇官が必要になる。
●現在の傾向は最も〈神ながらの教〉をおこすに適した機なり。
●信仰を欠くがゆえに大本教あり天理教あり。
口実はつけたりつけなかったり、要するに不敬になる。
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『高松宮日記』

※高松宮は海軍大学校在学中

1936年1月8日
近ごろ皇族が芸者に関係ある方あり、そうした芸者の出る宴会や待合に出入りされることが人の話になって困ったという話。
東久邇宮稔彦王が新橋の芸者と関係なさって胤を宿しているのがいて話題になっている。
その女将が相当な腕利きで、早くなんとかしなくては面倒になるだろうと心配している由。
また■■王も■■宮もそうした方で困ったもの、■■宮がどうかしらぬが深入りさせてはならぬと考える。
皇族のそうした行動はただちに昭和陛下の御徳に関することである。
皇族は道徳的存在として昭和陛下を取り囲んでいなくてはならぬ。
若い方が早くから堕落なさっては真に困るのである。
■■宮もああした書生的なところのある方であるから、芸者に子を産ませてその処置につき誤りなきようになさり得るか。
昔ならそれを方々に押しつけてしまえるであろうが、今はなかなかそうも行かぬ。
事務官にしてよくそこを片づけられるだろうか。
■■宮事務官も近く金銭上の不取締の理由でやめるそうだがどうなるか。
彼が今までそうしたことをアレンジしていたようだが、それがいなくなって結果は良くなるかかえって悪くなるか。
問題は若き皇族にいかにして自覚せしめ道徳的に精進せしめるかである。
なにか青年団とか少年団とかの運動に熱心ならしめることもよい方法である。
従来の軍人オンリー、さわりないようにとの指導方針では余力の始末に困って性的に堕落する。

1月17日
石川岩吉別当、風邪気にて休む。
石川別当を皇子御伝育の主任にしたいという宮内大臣湯浅倉平の希望を聞いたのは去年の10月28日で、その日に皇后宮大夫広幡忠隆が大正皇太后〔貞明皇后〕にも申し上げたのであった。
私はもとより石川の個人的な適任については異存もなく、あるいはもうこちらの別当を最後として楽に隠居できることを夢見てもいたが、皇太子様の伝育ともなればこれは重大であり、これを務めることはまたこの上なき奉仕だから、私としては今別当を替えられては真に困るのであって、吉島事務官がすでに数年になるが、まだ紙上の事務以上に発展し得ない素質であり、喜久子が石川別当がいなくては頼りなくなってことごとに困る現情であり、女中の方もまた思うような人がなくて困っている場合であり、実際困る程度の話ではないが皇太子様の御伝育にはなにものも差し置かねばならぬのであって、湯浅大臣にも「私としてはお断りする理由もないが、石川の私人としての健康なり家庭なりがこれを許すか否かである」と答えた。
湯浅大臣は案の定、家庭(子供の将来のこと)宮の事務(事務官のこと)喜久子(奥向きのこと)をもってお受けしがたきを申し述べた由であった。
しかし話はそれで終わったのではなく石川以外に人なしと言うので、私も「西義一大将をどうか」と言ったが、「軍人は偏っていていけない。昭和陛下の思召も軍人でない者ということであった」とあり、宮内省外からは「慣れていなくて困る。大宮御所との関係も石川なら」と言う訳で前宮内大臣一木喜徳郎が推したらしく、牧野伸顕当時の内大臣も賛して「もう他にない」、大正皇太后〔貞明皇后〕も「替りが問題で、後が困るだろう」という思召とのこと。
後任探しではかどらず、適当な人もなく、
●斉藤守圀
●西邑清
●山県武夫海軍中佐
●今村信次郎海軍中将
●大木彝雄
というわけであった。
西邑はとても大宮御所風になりきっているし、妻が良くないし、
山県は軍人式が抜けず細かい事にも気もつきかねよう、ただ外遊を共にした点は良いが、
今村は軍人でとても話になる人とも思えず、侍従武官であったが私も知ってるだけ不満多く、
大木はすぐ役立つが心配性で腎臓を取ったばかりで身体がどうかというので、
結局斉藤守圀よりなく、私はよく知らないが面識はあり、知事上りの人であるが東京市の助役もうまくやった人で、私としては国学とか学者の方との連絡が少しなさすぎる人であるが、これから必ずものになる人であると思えるから、石川もこの人が来れば良いというところまで話は進んできた。

私が成人して最も憾みとしたのは、宗教的教育を受けなかったことである。
一般家庭には神棚か仏壇があるであろう、鎮守の祭かなにかの祭礼があるであろう、仏寺の法会や法話をきくこともあろう、物心ついて神社に仏寺に宗教的環境に置き置かれるのであるが、冠婚葬祭つねに宗教に触れざるなしである。
皇族がこうした経験を味わうのは生まれて50日目の賢所に参るのに始まるのであるがそれっきりで、旅行した時に神社に参拝することはあっても例の宗教を故意に除いた参拝である。
そして成年になって初めて宗教的な宮中の祭典に出るのであるが、それがまた神事を人事のごとく扱う式の参拝で、そこに矛盾を感じても焦ってもなんともならないのである。
私は御所から離れて別居していたから、御奥での宗教的なる行事に触れる機会がなかった。
そして伝育に当った人々はそうした注意を少しも払っていたとは考えられぬ。
しかして成年になると常に急に賢所の御式にも出ることになる。
唯物的学校教育のみを受けた精神的には科学的な修身というよりも単なる形式的な道徳教育のみを受けた者にとって、藪から棒の出来事である。
宮中の私達の参列する神事は極めて形式的な単なる一時的な敬礼の瞬間にすぎない。
そして皇族たるものが神道に対する理解むしろ信仰は動作行為の根底にならなくてはならぬことを顧みる時、実に残念に思うのである。
今日の皇族が自覚のないことのみをするのも、その根本を忘れているからである。
すべて教育であって、氏のみでない人生に、将来の皇族・皇太子様も同じである。
この大切な点を忘れてはならぬ。
理屈ではない、自然の道である。

1月21日
今朝、イギリス皇帝〔ジョージ5世〕崩御の電報あり。
真に急なことなり。
皇太子〔エドワード8世〕が即位されるであろうが、皇后なきを如何にせん。

1月22日
帰ってから英語。
ミセス・ルイズが上海に行ったので、代わりにやはり女子学習院のミセス・パックマンに来てもらう。

2月1日
大宮御所へ上がる。
軍縮条約なくなりて如何になるべきかなど御案じにて御話あり、相沢三郎中佐もあれだけ固き信念を持つ者を惜しきことなど仰せあり。

2月12日
大谷次官大谷正男来邸。
別当の件、斉藤守圀は愛育会を去りかねる由にて断る。
そこでまた他を物色中にて、女子師範学校校長を辞めた吉岡郷甫を考慮中とのことなり。

2月14日
副島道正伯爵に会う。
相沢三郎中佐の事件のことに及び、真に心配なりとて荒木貞夫・真崎甚三郎・牧野諸氏と会って話している由。
荒木貞夫派対林銑十郎派の対立も実に心配なら、若い士官の今度の裁きに対する態度も心配、日本の財政も心配、陸軍参謀総長閑院宮にも申し上げるとのこと。
私はイギリス新帝戴冠式に秩父宮御派遣は如何と意見を聞く。
国際関係にて皇族が行きかえって彼国の取り扱いぶりが日本国に悪く反映する懸念を尋ねしも、無からんとのことなり。

2月22日
筧克彦博士の教学刷新委員会に出席する。
神祇府新設案の話を聞く。
その中に皇族が斎主となる組織あり、これにつき如何にと言うから、組織ができれば皇族も動くであろうと答う。

2月24日
有栖川宮幟仁親王五十年祭。
秩父宮家別当犬塚太郎が御代拝に来て玉串をあげて、脳溢血の軽いのでヒョロヒョロして、そのまま談話室に寝かしてしまい、後で二階の宿直室に移す。
当分動かさぬ方が良いとのこと。
不随の所はなし、意識も明瞭、口もきける。

2月26日〔二二六事件〕
朝7時頃宮内省事務官岩波武信より電話とのことにて、何事かと思えば聞けば驚くべきことにて、今朝5時頃 麻布三連隊の兵が将校指揮のもとに出動し、内大臣斉藤実・侍従長鈴木貫太郎に暴行し、斉藤内府は即死・鈴木侍従長は重傷とのこと。
大蔵大臣高橋是清や首相岡田啓介もやられたらしいが、警視庁や陸軍省が占拠されて連絡取れず不明とのこと。
宮内大臣湯浅倉平は参内し上奏した。
私も行こうかと言ったが、いま宮城の辺は通行止められとても入れぬとのことで、仕方なく学校へ行く。
出がけに弘前の秩父宮に右の概況をお電話しておいた。
昼休みに帰邸して状況を聞いたがまだ参内できぬとのことなりしも、海軍の方の取り調べでは海軍軍令部総長伏見宮も9時頃参内され朝香宮・東久邇宮も参内されたと言うので、時間もないので学校へ戻り三時に通常礼服に着替えて学校より参内、御機嫌を伺う。
御心配は申すまでもなきことながら、御元気にて安心せり。
事態は不明ながら小規模ならぬように知らされてきて、教育総監渡辺錠太郎もやられた、一連隊からも兵が出ていると、いろいろなデマや真相が発表・流布され、陸軍省は偕行社へ、参謀本部は憲兵隊に、警視庁はなんとか署へといったふうに事務を執る。
財界の誰かれが殺されたとも伝わる。
戒厳令はかえって彼らに好都合だというので戦時警備令で治安維持をやるという発令であったが、夜に入り枢密院会議ありて戒厳令を公布された。
私の所には昼から経理学校の兵が十数名来て警備する。
戒厳になって陸兵も数名来れば、巡査もいるというわけで大混雑なり。
かくて不安のうち暮れていった。
市中は極めて変わりなく、丸の内だけが宮城前には広場に人を入れずに雪の中に近衛兵が針金を張って守っている。
人々はむしろ見物のつもりでゾロゾロ歩いている。

高橋蔵相は三笠宮の仕人が凶行後すぐに行ったら兵がいて入れなかったが、宮家の者だと告げたら「今回のことは皇族には手を触れるなというのであるから差し支えない」とて中に入れたので、入って機銃で蜂の巣のように無残な姿を見てきたということであったが、発表は重傷とされた。
岡田首相は海軍省の者が行ったら、今度は「海軍には御迷惑をかけません」とて中に入れたので見て来たというのに即死と発表されて、私も死んだと思い込んでいた。
27日に御所で生きていると伺って夢のような気がした。

2月27日
一夜明けて岩波事務官に電話した。
宮中はお変りなしとのことに通学す。
昼休み帰邸して状況を聞く。
甲府・高崎・佐倉などの兵が来、第一師団とともに戒厳配備についている。
陸軍では反軍を「占拠部隊」と称して依然戒厳部隊の中に加えて給与もしている。
ただ「原隊へかえれ」と命令だか相談だかをしている。
らちあかず。
海軍ではすでに「反軍」と称して連合艦隊を第二艦隊は大阪に第一艦隊は東京湾に集合を命じて、昨日来横須賀より陸戦隊を四個大隊持ってきて芝浦や海軍省に配して待機警備して、陸軍やらずば海軍の手にてもやるという意気であった。
学校が終ってからまず大宮御所に御機嫌を伺い、それから参内す。
昨日は平河門から入ったが、今日は大手門から入る。
5時すぎ秩父宮、上野駅御着。
ただちに御参内。
昨日弘前より御電話にて「帰ろうかどうしようか」と言ってらっしゃったから宮内省の方に聞いたら、「お帰りになっても不都合は少しもないが、三連隊や西田悦少尉や安藤輝三大尉らとの関係でデマが飛ぶことは心配」ということであった。
それもお話したが、重臣の不在はそれにもましてお帰りが必要とも思ったが、御判断を願い、結局11時の汽車でお帰りのことになさった。
午前中朝香宮が学校に見えて、「今度の事件は重大であり皇族が黙っているべき時でない。秩父宮も夕方にはお帰りになるが、今は私が一番上だから各宮を集めて皇族の意見を昭和陛下に申し上げようではないか」とのお話なり。
「如何なることを申し上げるのですか」と言えば、「速やかに後継内閣を作って人心を安定せしめようという意見なり」と申し上げるのだとのこと。
「それは自然誰という問題になり、それを腹に持たないでどうかと思うから、集まれはかけられない」とお答えし、「秩父宮が5時頃には宮城にならせられるから、その時お集りになる方があればそこで如何」とお別れす。
朝香宮は東久邇宮・梨本宮と共にお待ちにて、結局「議決のようなものはやはり面白くない。昭和陛下の御承知のことを申し上げても仕様ない事だし、しかし皇族の意見をまとめておくのはよいから、明日集ろう」というわけで、秩父宮と私は奥で夕食を一緒にいただいた。
秩父宮はそれから大宮御所にならせらる。

2月28日
陸軍の方はなかなか片づかず。
しかし騒擾はあの場面では拡大せぬらしいので通学す。
昼秩父宮より御電話にて「皇族集合の件は伏見宮にお話せるところ、そういうことは早きほど良し」とて、2時半~3時に宮中に集れということになったので、直ちに帰り参内。
〈ぶどうの間〉にて伏見宮・久邇宮朝融王・秩父宮・朝香宮・東久邇宮・梨本宮・竹田宮・私の8人集る。
今度の事件に対する皇族としての所見の統一ということであったが、別にそうしたことも定まらず、席上伏見宮は私達二人して弟として昭和陛下をお助けしてくれとおっしゃって、御自分も感泣なさった。
そんなことは私も初めてであった。

2月29日
黎明より砲撃するとの話にて、5時に出かけようと起きたが、秩父宮より遅れて8時過ぎになるとのこと。
7時参内す。
砲撃は火災を慮り止めて、戦車を使って掃蕩する由。
それも8時半、9時と遅れた。
秩父宮・朝香宮・東久邇宮・竹田宮と共に振天府の所より配備など見る。
参謀本部の付近の様子を10時頃まで見る。
無事にあの辺り反軍消散す。
昼食をして3~4時頃まで待ち、大方処分のつきし報を得て大宮御所に伺い、5時帰る。
昨夜来、宮中近くの戦闘もあるかと心痛せしも銃声ほとんどなく終わる。
日本のありがたさなり。

参謀本部正門の所に機銃をすえて兵数名あり。
参謀本部の窓より将校が首を出して怒鳴る。
たぶん「退れ」と言うならんも聞こえず。
下士官ならん、これに「応ぜず」という対答をなす様子に見え、依然として門の所にあり。
乾門側の道路より装甲車数両進行し来り、陸軍省下の三叉路にて反乱軍の相当数の部隊に対し交渉する様子。
全部隊は対抗する態度なく、士官おらざる様子にて、やがて整列し宮城に面し敬礼し「君が代」のラッパを奏す。
これにはこちらで見ていて一種の感動あり。
今にも衝突ありやと思いし数日の後なれば、反乱軍とはいえ「君が代」に対し姿勢を正す気持ちになる。
やがて赤坂の方へ退散す。
日比谷の方面よりも戦車・装甲車、参謀本部門より一部は入り一部は議院の坂を登り行く。
すでに参謀本部前の兵はおらず、それまでに私服の人来り交渉しおりたり。
かくて銃声一つせずみ終わる。

3月1日
二二六事件陸軍大臣告示というもの
●蹶起の趣旨においては天聴に達せられたり
●諸子の行動は国体の真姿顕現にあるものと認む
●国体の真姿顕現の現況については恐懼に堪えず
●各軍事参事官一致して、右趣旨により邁進すること申し合せたり
●これ以外は、一に大御心に待つ。

3月2日
大宮御所より今度のことにつき度々参内などしてご苦労とて、二種交魚・果物いただく。

6月27日
堤正之少佐、今朝9時自宅で自殺したと聞く。
昨日も平常通り学校に来ていて、今日も午前自宅作業で午後学校に行くと言っていた由。
家族の人が昼食を聞きに二階の室へ行き発見せりと。
自殺はピストルで胸に四発ほど発射している。
即死なり。
簡単な遺書といってもその場で書いたもの。
「誰々に知らせ、(将来の修養に行き詰ったと思わせる)非常時に軍人としての責任にたえられぬ」と言った意味のことあり。
そう言えば最近言葉少なく、思い込むといっても一般の陰気な型とは違う程度であったとも思えた。
寺本少将の話によれば、4月だったか「自分はどうしても忠君愛国の感情が燃えてこない。どう努めても思うように出ない」とて相当意気込んで尋ねた由。
それに対して「例えば大楠公の事蹟を常に考えて、それに照らし合わせて自分の行為を考えよ」と教えた。
事後自宅に行ってみたら、観心寺の「非理方憲法権天」の軸が目立たぬ所にかけありし由。
それで祖父が非常な勤皇家にて、それに近からんとして科学的な教育による本人がどうしても気分が出ぬという煩悶ならんと。
修養ではあるまい。

このごろ満州上海の事変の行賞行い給うとて、勲二等以上の勲記には御みずから御名をしるし給うことの400に余り、日に日にそのために時多く費やし給うと承りて、この度の行賞も日露戦争になぞらえて下し給うと言うも、事いささか度を失せる感あるを如何せん。
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『高松宮日記』

※秩父宮夫妻、英ジョージ6世の戴冠式を含む欧米外遊中

1937年4月18日
今日は山内豊中別当を連れていく。
やはりなんとか軽率な感じである。
まだまだ信用するに足らぬという感じ。

4月20日
細川護貞の結婚披露あり華族会館へ行く。
お嫁さんは近衛公爵の次女温子。
はじめは半ば恋愛だったので婚約したのが、お嫁さん少しお転婆すぎるので仲たがいしかけたのを、またそのために大急ぎというわけか式をしてしまった。
まったく花嫁らしくない。
貞ちゃんがうまく続けられればよいがという感じなり。

4月23日
メルセデスベンツ320型、600円まけて寄こす由。
9月には来るべし。
ホイールベース130はアメリカ物は流線形にて室狭く6気筒少し。
今年はアメリカ物は6気筒は115~125インチ程度しかなし。
130インチも狭し。
メルセデス1万3千円はアメリカ物の二倍なり。

5月6日
大和田受信所へ行く。
秘密に行くつもりにて海軍省の自動車にてウチから警察に何も言わぬよう言い置きしに、行ってみたら警察が出たりしていた。
後に聞けば埼玉県で知って昨日ぐらいからいろいろ聞いてきたりした由なるが、午前に高輪警察よりウチに聞いたら知らないと答えたので、御付武官林彙邇に電話したら馬鹿にも午後行くことを答えし由。
武官が秘密価値の判断をなし得ざる、驚くべきなり。
ガッカリした。

5月7日
帝国ホテルにて東伏見伯爵と亀井伯爵令嬢の結婚披露宴あり。
東伏見宮大妃いたくお喜びなり。

5月12日
イギリス大使館にて午餐あり。
イギリス大使の昭和陛下への乾杯に対し、私がキングへの乾杯。
初めて英語でやる。
私の外遊前後は私の身辺はあまりに欧化的であった。
それで日本語主義を取ってバッキンガム宮殿でも無理押しに日本語でやった。
その後満州事変などありて、今度は国家主義というかそれを通り越した偏屈な自主的主義というものになってしまったから、逆にこうした席では外国語を用うるのも意味深であると思う。
豹変なり。

5月14日
筧克彦博士に面会す。
「現状打破」ということが流行語であるが、私はこれをどうしても素直に考えられぬので話し合ってみたが、要するに「弥栄」では現在を基準にしてこれを是認してかかるところがなくてはならぬという話で、簡単ながらそこに現状打破の新生命を見出すことができた。
「国のため君のためという真面目な心があればなんとあれども実行してみるがよい」と言うので、二二六事件を例にして「もし二二六事件の人々が完全に君のためと信じていたとすれば、そしてその結果悪かったとして処置されたとすれば、この一連の行為を是認せらるべきであるか」と言うと、
「そうではない。殺人は国法の禁ずるところであり、その方向が君のためと真面目に信じたとしても悪だ」と言う。
「二二六事件の発端ないし経過およびその後に顧み、そのことの良し悪しを考えるよりも、その良し悪しを将来に改善することによって意味がある」と言う。
抽象的にそうであるが、これは独断の軽挙を将来する危険性があるが、また既往をとがめずということは将来にも悪をとがめずとする傾向であるが、しかし沈滞的でない明るさを認めることは事実である。
要は真心である。
筧博士の説はやはり実際に直接的ではない。
間接に実際的である。
この意味で、博士の不断の学生との接触により間接の効果の大を望むべきである。

寺本少将がよく言う、左傾でも右傾でもそのデビエートしたものを唯々推進していくと、ぐるっと流転して反対に出ると。
これが弥栄のむすびの思想に合すると思う。
「現状を否定する」「現状を破壊する」ということを目的とした捨石精神主義は、本当の捨石にならずに字だけの意味に作用する。
すなわちその捨てられた石は、ある時は邪魔物でありけつまづくものになり、またある時は踏石となるかもしれぬ。
それは捨石ではなく、捨石は捨てしがごとくして、これなくしてはならぬ石であるべきである。
曲がった人もこれを否定してはならぬ。
その人の良きところを否定してはならぬ。
良きところは第三者にわかることもあり、わからぬ時もあるとすれが、唯々推進している時は自らその良きところとして残るであろう。
そこに実際問題として実害がないようにすることが必要になってくる。
これが難しい。
陸軍が無茶をやる。
これを完全に止めるべきか。
止められぬことを悔むべきではない。
日本には根本の大道が一貫する。
日本の歴史はその大道を離れて日本の国民のため以外に発展せぬことを信ずるならば、推進〃〃で行くことができる。
安心していられるであろう。
そうなれば陸軍の無茶もじっと推進すればよいことになる。
そこに個人主義的な虚栄や福利や小我が没却せられれば、その無茶を無茶として眺めつつこれを大道に引きつけることができるのであろう。
国民の生活の安楽と国防との重要比較は陸軍海軍の軍備に直接にかかる。
軍備〃〃と言うのにハラハラするうちに、また適当なる軍縮も招来せらるるであろう。
これを傍観することが現状を是認する弥栄であるか、他人をけしかけることが推進であるか。
やりとりの日本主義は自己の否定であるか。
正反常にありて中道に出ずべきであるか、中道に出でんとする時に病あるにあらずや。

5月22日
三笠宮おねだりにて竹田宮へ今晩お呼ばれとのことに、一緒に来いとのことに上る。
(活動映画とダンスのためなりと)
三笠宮も物心つきて、独りさびしさを覚え始めし有り様なり。
ことに騎兵の連中には誘惑も自然と多きもののようなり。
秩父宮も一般の皇族と自ら異なるものあると自覚せしむるを要すと御出発前に御注意ありし。

5月27日
一年ぶりに平泉澄博士に会う。
二二六事件以来憲兵からかなりしつこく塾を尋ねられた由。
五一五事件の出所した4人のうち2人は落伍したが、吉原政巳・菅勤の2人は博士のもとにあり立派になっている由。
日曜ごとに憲兵隊に行って馬に乗っているとのこと。
憲兵なり同期なりがこの2人の人格を見て生活費を頒ち現役と同じくらいに心安く馬にも乗せているならば結構であるが、玉石を分たず五一五事件の偽英雄的感じからそうするならば矯正すべき空気である。
しかし平泉博士の手に2人でも救われているのは喜ばしいことである。
その他陸軍の大尉・中尉以下で100人ぐらいは話を聞いて心服している者ある由。
これが粛軍の礎となるならば本当の粛軍に至ると信ずる。
海軍にはごく2~3人であろう。
宇垣一成大将に対する陸軍の組閣ボイコットに対する近衛公爵はこれを不義として平泉博士に相談し、その草稿による意見を陸軍大臣寺内寿一に致し、爾後陸軍も全般的抗拒の態度を捨てしめたる趣、その近衛公爵の態度を褒めたり。
石原莞爾少将は満ち足りた人であるが、その策を実施するために八幡製鉄所の溶鉱炉を消火せしめた浅原健三を便利のためか盛んに用いる。
浅原は実に偉大な人であるが軍の内密などもずいぶん知らせるらしく、平泉博士もこの人からそうした話を聞く由。
ただこの人が果たして思想的にどうなのか平泉博士も疑念を持っている由。
板垣征四郎中将の方は考える余力ある人にて、大将の器ではある由。
満洲にできる大学の総長を平泉博士に頼みたる由なるが断りたりと。
その組織の計画に参与しているが、寄宿と併行したものにして日本の国体に合したものを作るつもりの由。
内地にてはとても理想のものにはならぬからとのこと。
そうした日本の大学が内地にできぬとはとても残念なことである。
二荒伯爵が「昭和陛下は民の心を心とせられるべく、国民が『宮城は贅沢なり。九尺二間の長屋に住ませらるべし』と言えば、そこに住まるべきが大御心なり」と言いたる由。
田尻昌次少将がそれを引用してその誤れるを知らず。
世の思想は混沌としている。
第二の永田事件を連想する者少なからず。
陸軍の若い人が真剣になるのも、第二の二二六事件に出合わせばどうするかという点である。
海軍にはそんな切実な気持ちはない。
ただどっちにつくもない一死奉公であろう。

6月21日
秩父宮妃9度近くの熱を出していらっしゃるので、電報にて御見舞す。
《電報に乗っても行けず 御大事に》宣仁・崇仁・喜久子
お返事あり。
《御見舞に うちはげまされ 9度近き  熱も7度に下がるうれしさ》

6月26日
閑院宮にて親睦会例会。
男の方も元帥に敬意を表してかだいぶいらっしゃった。
やはり元帥さんに対する感じは海軍と異なるし、陸軍の中心点としての存在は大きな方であろう。

7月10日
照宮成子内親王をお招きして夕食。
映画を御覧に入れた。
照宮成子内親王はまったく張り合いなきくらいお静かなり。

御供より先に帰れる本間雅晴少将に会う。
カナダの歓迎は素晴らしいものであっただけ、アメリカのそれが物足りなく本間には腹立たしかったようである。
クイーンメリー号はゴージャスなもので、お姉様お召物などお気の毒みたいなりし由。
お兄様もすてきにお務めになり、夜も一夜に三つぐらいのソワレにて2~3時になる有り様なりしとて、また各国の使節ともたびたび顔をお合せになるため親しくなられるし、イギリスの人ともすっかりお知り合いになり、今後外交官との付き合いはとても有利なことなるべし。
それやこれやドイツ在留日本人はイギリスよりただちにドイツへとお成りを望みたるらしきも、お兄様はイギリスでのせっかくの日英好転気勢を削ぐのを面白くなく思われてならん、スカンジナビアに先に行かれるおつもりなりしと。
戴冠式等にて日本婦人の国装があったらと痛感せる由。
東洋人はその国の服となりたる由にて、体格的に劣る日本人の引き立たぬを残念に考えたる様子なりき。

7月12日
参内拝謁。
秩父宮より「イギリスに来て日独協定がイギリスに対しただちに日英協定をもたらすものとの考えが誤りなり」し由の御手紙ありたる趣にて、
「あちらに行きて初めておわかりになりしもののようなり」との御話あり。
本間少将の話として、「英独関係が良くない、日独協定も日本が利用さるるのみにならぬよう注意すべしという話なり」し由申し上げしに、
「陸軍の人がそう考えることは良き傾向なり」と思召されたり。

8月15日
大正皇太后〔貞明皇后〕より派兵将士に氷砂糖を賜る由。
昭和皇后〔香淳皇后〕より負傷病兵に包帯等を賜る恒例に対し、氷砂糖はもっと広範囲になり釣り合い上いかがなものか。
いただく方では昭和皇后と大正皇太后と区別はないわけであるが、内輪で見るとちょっとどうかなり。

8月22日
北支または上海戦線を見に行くことに対し、宮内省側に不可とする理由ありや、別当に尋ねさす。

8月26日
町の中に万歳の声しきりなり。
子供らは自動車を見ては万歳を叫び、国旗は毎日のように軒に掲げらる。

8月28日
別当が宗秩寮総裁木戸幸一に北支か上海に行く件につき意向返事を促したるに、
「秩父宮も外国で御病気等のこともあり、高松宮が海外に出るのは昭和陛下の御心配を増すことで畏れ多いからこの際 留保してほしい」とのことなりき。
私が別当に「秩父宮の御留守のこともあり、どうか」と言いしを逆用したる感あり。
しかし御心配の点は私が行くことによりあるであろうが、赤子何万人を戦闘の死地におかれる以上は、かえって兄弟たる私をある程度危険に置かれることにより満足をお感じになるのではあるまいかとすら私は思うのである。
木戸総裁が困った面倒なこととしてあっさり考えすぎているのは困ったことと思う。

9月4日
参内。
北支または上海に戦闘視察に行く件、御心配ありや否やをお話せるところ、やはり傷を受けたりすることがお気になるらしく、それがため大正皇太后〔貞明皇后〕の御機嫌を悪くすることがお困りとお考えになる。
作戦を邪魔してもいけない、公務として行くならばよいが等の御話あり。
私の考えとは根底が違うと思った。
大正皇太后〔貞明皇后〕に対する御考えが御孝心というよりも、触らぬような御考えであると思う。

9月5日
昭和陛下より御手紙ありて、戦地行きの件につき御示あり。
●昭和陛下の御事故の時のこと
●公務で行くこと
●戦闘小休みの時機あるべし等の点、
ならびに別当・所属長官と話して今一度伺えということであった。
御返事差し上ぐ。
●昨日の伺いにてすでに御許可ありしとは考えず
●昭和陛下の御心配の有無、臣下にわからずと考え伺いしこと
●思いつきでなく相当の心構えによる等
どうもやはり皇族に関する認識が不十分でいらしゃり、政治的な考え・行政的な思召が主になって、軍という点にはかなり違うものある御理解なりと感ず。

9月9日
次長嶋田繁太郎に上海に行くことを話し、アレンジを頼む。

9月10日
上海行の件、御思召を伺うため参内。
絶対に行くなという思召でもないので話を進めることとす。
要点はやはり死傷の場合で、これが海軍の立場にまで影響すると困る。
この点研究すべく武官に命ず。

9月11日
宗秩寮総裁木戸幸一来り、今日侍従長百武三郎より話あり、よくわからぬので宮内大臣松平恒雄参内伺いたるところ、はやり「なんとか上海に行かせぬようにせよ。昨日は良いというように言ったが」というわけで、なんとか自発的にやめてほしいという次第なり。
あまりのことながら、理屈はともかくそうまでやめろとおっしゃるならば、私が伺えば「絶対にとめはせぬ。賛成はせぬ」というわけで、それで「話を進めてよろしゅうございますか」と言えば、「よろしい」とのことに、軍令部はすっかりその手はずになり進んでいたが、そんなにまでして行くのも畏れ入るので、根本に私の修養のためという腹があるので押して行くわけにもいかず、別当より副官にやめる旨を電話せしむ。
残念至極なり。
しかも私には黙許以上にお許しになり、宮内大臣にやめさせるとはあまりに私の立場を無視なされたこととこれが一番に煩悶の種なり。
次はすでに二度まで思召を伺ったこととて、それを次長に伝えて運んでもらったのを、まるで思召を嘘ついて私がお許しありと申したようにて、これは私事ながら面目の上に相当以上の痛手なり。
木戸総裁は秩父宮のお帰り後と言うが、その時はおそらくすでに海軍の戦線は無くなっているか、あっても苦戦ではあるまい。
そんな時に行くのではまるで危険が去ったから出てきたというので、士気の上にはなんのよきこともなく、お芝居じみたそうした行為は私には自発的にできぬものである。
木戸総裁の話では「秩父宮のお帰り後まで待って行け」ということになっている。
「秩父宮もまた戦線をお巡りになるとおっしゃるであろう」と言っていた。
こんなことなら話をしださぬかもっと話の仕方があったのだが、私としては昭和陛下がそんなおずるいというか踏みつけたなさり方をなさるとは夢想もしなかった。
皇族の軍籍に対し従来の疑問をいっそう再認せしめられたり。
ロボットとしての皇族は平常軍人のごとく装いて政治に関せず、軍人たらんとすれば万一の場合の政治家として待機を余儀なくせしめられ、しかもこれに対する素養を与えられずいたずらなる存在たる不満は、上海行き差し止めによりていよいよ深し。
もともと今年は秩父宮御留守なりとて艦隊に乗るのをやめて東京にいるのであるが、すでに1カ月にてお帰りとなり、時局はかかる条件に進みつつあり、東京にいるのは二二六事件式のことを恐れててればなるが、今一週ぐらいを留守にしてなんの不都合が具体的にあるか、その抽象的な不都合は私が上海に行くという上海の軍隊に何らかの奨励の効果を考えれば不都合など十二分に無視し得ると思うのである。
海軍にいてこの機会を逃したことだけで、私は今まで何のために嫌々ながら海軍に在籍しているのかという唯一の手がかりを失ったような悲しさを覚える。
ますます私の海軍にいることの有名無実さを感じられる。
海軍の統帥に関して、私の希望も、私が海軍の統帥者として自覚を得てのちにはじめて信念づけられる。
ただ少佐が中佐に進むことだけではない。
それは大元帥という別の組織機関のみのことである。
昭和陛下に御心配をかけぬというために、私としては大きな、ある意味では昭和陛下に対しても間接に大きな犠牲を与えるものとして上海行きをやめたのである。

9月13日
上海行きやめのことを次長に話す。
言いにくき限りなり。
理由はっきり言えず、私が言い出したから自発的にやめねばならぬと言っておく。
一部長も惜しいこととて同情してくれた。
やれやれ、がっかり。

松平宮相来談。
上海行の件について話あり。
海軍次官山本五十六が「将来大きな期待をかけねばならぬ高松宮だから、現に危険なる現地に行くを海軍も欲せず」との答えなりし由なれば、それが大なる誤りにて、政治家と異なる軍人がロボットでは司令官も務まらぬは関東軍に見るべく、戦場を知らぬ軍人が無価値なるは確信するところなり。
海軍にすらそんなことを言う人あれば、いっそう宮内大臣の認識を深めるを要すと話しておく。

9月18日
昨日の黄海海戦記念日に海軍機百機ばかりを東京の空に飛ばすはずなりしも、天候雨にて止む。
なんでもみんな支那に持って行っちまったので日本に無いという噂に対するデモンストレーションの由。
ところが飛ぶのは練習機がほとんど全部なのだからかえって底が見えるみたいなりと思うが、区別のつかぬ人もあるというのだろう。
宮城にニュース映画拝見に上る。
上海行の件につき「話の行き違いあって」との御言葉あり。
今さらお話にもならぬことなれば黙って伺っていたが、どうも松平宮相の伺い方が間違っていたとも思えたが、行けなくなって気の毒とは御思いでないようなり。

9月24日
前田侯爵より有栖川宮三年町邸にありし陰陽石を返却せるものを、再び取り返した形にて受け取り庭に置く。
これも子孫が絶える魔物なりという易もありしが、やはり子孫のできる何らかの工作としてのことなり。

9月25日
秩父宮の御手紙に、日独協調を説く説にもとから一致した考えを持たぬし、それについてもドイツを見ておいて自信ある説を言えるという考えでドイツに行くのだということもあったりで、日独関係に秩父宮の訪独がこれを主張した論者の期待と一致せぬものありしにあらずや。

9月26日
百武侍従長来談。
上海行をやめた件に関して私と昭和陛下との間に感情の阻隔を生せしとでも思えるがごとき話あり。
昭和陛下のお許しの思召なかりしと思いおる様子に見えたれば、私は「しからず。お許しは消極的にありしと考えおる」旨を言い置きたり。

伏見宮博義王〈島風〉にて浦東側よりの迫撃砲にて微傷を受けられる。
新聞等も軽傷として取り扱い、やたらな書き方ではなくうまく書いてあったと思う。
これで皇族も戦死傷者の中に数えられる帳面づらとなりよろし。
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『高松宮日記』

1940年5月1日
一時間ばかり卓球をする。
秩父宮職員と試合をすると言ったら、この頃みな稽古している。

5月12日
秩父宮へ行き、満州さん〔満州帝国皇帝溥儀〕がいらした時の喜久子の着物打ち合せお願いす。

5月19日
大宮御所へ。
秩父宮・三笠宮とそろって夕食いただく。
食後満州皇帝いらした時、大正皇太后〔貞明皇后〕がお茶をお上げになる予行とて、御茶室でお点前をなさりいただく。

1940年6月5日(満州滞在)
大連発〈あじあ〉に乗る。
昨年できたとかいうすごい展望車がついていた。
冷房装置をしていた。
奉天ヤマトホテル。
嫌いなホテルの代表的なタイプ。
まず支配人が沈痛な顔して先導するし、リフトはボーイ、部屋はブラックタイを来た薄ハゲのボーイ。
室内に変に家具の臭いがする。
バスの槽はきれいだった。
食事の給仕も女が二人いたが生気のない顔をしているし、ボーイもナイスでない。
家の古いのは仕方がないが、人まで古臭いのはガッカリなり。

1940年6月9日(満州滞在)
宿は日満軍人会館。
奉天ヤマトホテルはガッカリだったので、ここでヤレヤレとのびのびして泊まる。

1940年6月10日(満州滞在)
朝、溥傑さん来らる。

1940年6月13日(満州滞在)
宿は理事公館。
材木で儲けてお妾のためにこの家を建て、出来上がりかけて不景気となり、とうとう満鉄の手に入ったという豪華版の家だが、普段人が住まぬだけにガランとしてお化けが出そうなり。
よく掃除がしてあって気持ちは悪くないが、廊下の時計がボンと鳴るのも陰にこもるみたい。
二嬢あり。
これでどうにか気楽になれた。
二人とも東京の人。
可愛らしい型。
ロシア語と満州語の練習中。

1940年6月14日(満州滞在)
もともとノモンハンは伏見宮軍令部総長さんが陸軍に対して遠慮して行かぬがよいとお話なさったとて、桑折少将はプログラムにいれたくないと言うのを、私はお兄様にどうかしらと尋ねたら、構わぬとて有末次大佐にお尋ねになったので、関東軍の方はそれに対しても、入れぬと困るというので上空からということにして、海軍へ出す予定表には抜いておくことにしてある。
海軍で考えるほど陸軍では恥ずかしがる事でないようだし、私はずっと参謀本部と軍令部との情報交換で聞いているので別に大してなんとも思わぬのだが、世間の噂や何かを先に聞くといかにも陸軍が気の毒ともなるのである。
宿は領事館。
浴衣も丹前も白。
浴衣は木綿、丹前は紋羽二重みたいなもの。
夜具も然り。
吉良上野介そのままなり。
気持ち良からず。
給仕はタロンホテルの妹 売れ残り25歳、食事は将校集会所からという寄せ集め。
しかし白づくめの他はノンキで良かった。

6月15日(満州滞在)
宿は将校集会所。
将校集会所は委託経営で主人は特務機関の軍属なりしとかで、細君も大阪人であるが初めての宿屋商売とか。
つきっきりみたいな式の扱いでうれしからず。
貴賓室だろうからか、スマートでなかった。
秩父宮もお泊りになった室の由。

6月16日(満州滞在)
着替えようとしたら靴下2足あり。
履いたら、違うからこっちのを履けとて、それを記念として残せということだった。
「何をつまらぬことを」とドンドン履いてしまう。
そういうタチの女将だった。
横山勇師団長の管内にふさわしいような気もした。
軍人宿にふさわしくないというだけだ。

かくて師団長官邸に行き泊まる。
山下奉文中将は今晩立ち退いたわけ。
憲兵隊長の奥さんと満州電々の奥さんと世話に来ていた。
堅苦しい奥さんではなかったが、奥さん方の借り物の接待は100パーセント良くない。
山下中将、熊・狸・狼・狐・ノロ等庭にいて、好きなのを持ち帰れとのこと。
ノロと狸をもらうことにしたら熊もということになり、大連の〈日向〉に積むことになる。

6月17日(満州滞在)
弥栄駅着。
弥栄の御馳走を期待していたのに、チャムスのサンドイッチにてガッカリ。

6月20日(満州滞在)
宿は東満ホテル洋館中の日本座敷なり。
陸軍式というやつか。
しかしさっぱりしていて良かった。
女中が小笠原流だったが、慣れると変でなくなった。

6月24日
秩父宮御風邪気につき私が満州国皇帝御出迎のこと電報を受け取る。

6月26日
お迎えの列車にて横浜港へ。
すでに〈日向〉入港しあり。
艦載水雷艇で〈日向〉へ。
ここから公式で礼砲あり。
キャビンにて皇帝に、昭和陛下の御思召でお迎えに来たこと、東京駅にて御待ち受けのこと伝える。
しばらく皇帝とお話して、内火艇にて同乗、上陸す。
それより乗車、東京駅着。
今度は昭和陛下に御紹介する要もなく、ただ後からついて行っただけだから楽なり。
握手には手袋を取り挙手礼には手袋をはめるので、皇帝 手袋を取ったりはめたりだった。
赤坂離宮まで自動車に同乗して、直ちに帰る。
晩餐に出る。

6月27日
赤坂離宮にて満州国皇帝の皇族を招きての晩餐あり。

6月28日
米内首相官邸にて午餐あり。
これも秩父宮お休みなので私が行く。
毎日皇帝さんと顔を会わすと話の種もなくなる。
ただちに大宮御所へ行き、お姉様・喜久子集り、明日のお茶のお稽古あり。

6月29日
大宮御所へ。
モーニングコート、黒ソフトにて行く。
皇帝さん、軍服よりモーニングの方が座るのによかろうというわけ。
昼食は懐石料理にて、いつもの御食堂。
後にて大正皇太后〔貞明皇后〕、お茶室にてお点前。
赤坂離宮へ行き晩餐。
また顔ぶれはお姉様・三笠宮・喜久子というわけ。


●大連 ヤマトホテル
ロシア時代の建物だろう。
しかし汚くはなかった。
水飢饉で夜間絶水だそうだが、ホテルと病院は細々と出るのをポンプで汲み上げておく由。
夜も水は普通に出た。
浴槽の排水栓がシャワーの方にあって、隔があるから出て開けなくてはならぬ。
中年者だから垢ぬけないボーイだった。
●奉天 ヤマトホテル
大連よりももっと旧式な装飾だった。
支配人が半ハゲの沈痛な御辞儀する。
和食を食べると女給仕が来る。
洋食だとボーイ。
ここも中年の嫌いなタイプのボーイ長と男の子に毛が生えたくらいの丸刈りのボーイが、しかも服装がブラックタイの白の低い上衣で気に入らぬ。
室を閉めておくと家具の臭いがする。
しかし塵っぽくないだけが良かった。
着いた時に衛兵がいたが、「張学良の頃より治安が悪いみたい」と言ってやったら並ぶのを止めた。
●新京 日満軍人会館
ここが一番良かった。
支配人が丸い太った人だったが、出入に案内するだけ。
後は女中だけ。
この女中の具合がとても良くて、うるさがらず、やりっぱなさず、満点だった。
お大名旅行でここならもっといてもよいと思った。
長くなれば退屈するだろうが、他の宿ではそんな思いもしなかった。
●ハルビン 理事公館
ポーランド生まれのロシア材木商が二号のために建て、不景気になってから自分で住まっていたが、とうとう満鉄が買って、地下室には玉突きやプールもあるとか。
材木屋だけに木地が良い。
手入れも良いから住み心地は悪くないけど、なんとなくガランとしてそんな因縁だというからお化けが出そうでもあった。
東京から来ていたお嬢さん二人、この二人が明るさを出してヤレヤレだった。
食事はヤマトホテルから男と女の給仕が来る。
廊下の置時計がボンボンと陰気をそそるようだと思ったが、気にならずに寝てしまう。
●ハイラル 領事館
入浴したら、出した浴衣と丹前に驚いた。
白の紋羽二重の丹前に、白の木綿のガーゼの袷みたいな物。
絶対に変なり。
寝るとなったら、また白の紋羽二重まがいの布団なり。
吉良上野介もかくあらんとばかり、他人が見ぬからよいものの、この世のものとも思えず。
●孫呉 将校集会所
ここは委託経営で、主人はハルビンやハイラルで特務機関にいた軍属で、宿屋商売初めての人。
しかも大阪の人らしい頭の先から声を出す、「高貴の御方の扱いをわからぬ」という式の丁寧さ。
頑強だけれど敬遠的ではない。
こういう形もあるものだ。
敬遠的よりはマシな方だが、面白くないには違いない。
靴の紐を結ばねばならぬと思えば早く履いてもらおうとするし、記念に靴下を取っておこうとして代りのを履かせようとするけれども、黙ってするほど悪くも遠慮深くもない。
居心地は良くないが、観察の対象になるタイプなり。
建物はおそまつ。
便所もとっておきと見えて引き出し式で、とうとうウンコを出す気になれなかった。
●チャムス 山下奉文中将の官舎
山下師団長、平常は当番三人と副官と住んでる由。
よその細君たちが来て世話した。
別に気兼ねの要るようではなかったけれど紋付だったし、海軍の兵隊なり従兵の方がマシだと思う具合なり。
陸軍の当番はハッハッと不動姿勢を取られる恐れあり。
庭に動物園然と熊やノロや狐や狼の子供が箱に入れてあったのも私にくれるためで、そういうやり方は陸軍に一脈あるようだが悪い気はしない。
ただ獣などもらうのはうれしくないが、他のもてなしと総合しての心持が買われるわけだった。
●牡丹江 ヤマトホテル
駅前の新しい建物。
このごろのホテルらしい建物で、サッパリした室ではあった。
往来に面しているので、旅行中一番にぎやかだった。
しかし交通を見ているのは大好きだ。
ここも男のボーイ。
赤黒い顔の丈の高い人。
ボーイ長みたいな燕尾服の人は、すてきに丁寧みたいな御辞儀をする敬遠型。
支配人は髪をなでつけみたいに分けた人で、これは支配人らしい人だった。
食事にも絶対に女給仕は出てこなかったが、簡易ホテル住まいという感じも悪くはなかった。
ボーイがなんとかもっとよければ良いというくらい。
新しいから気持ちが良かった。
水道の水が濁って汚かった。
●琿春 東満ホテル
炭鉱関係のホテルで、町から離れた野中の一軒家的な存在。
これも新しく、今年一月開業とか。
部屋はみな日本間。
浴室が珍品だった。
タイルの浴槽にはげた所があるとか言って、その中に小判型の木の槽が入れ子に置いてあった。
それがまた浅くて寝風呂みたい。
これが七不思議の一つ。
もう一つはお茶を持ってきた女が何とも言えない、きちんとしたみたいな御作法でやる。
小笠原流式のノソノソネチネチではないが、ただではなかった。
「作法の先生かと思った」と言ってやる。
●羅津 ヤマトホテル
これも新しい、一年にならぬ。
やや装飾的な観光ホテル型。
ボーイがブラックタイの事務員かホテル学校出かといった若い人。
態度が西洋人式であり、それが一人でやる。
うるさくはないが、変な空虚な感なり。

要するにいろいろな宿だった。
女中のいる所がよいのは当り前。
ホテルがみな清潔だったのは良い。
かび臭いのはなかった。
奥さんの接待には三通りある。
(1)世間話のできる人
(2)恭しくて手のつけようのない人
(3)ただの奥さん
今度のは(3)のようなのだった。
宿屋の女将さんも同じようなことになるが、接待するのが仕事だからこちらは気楽だ。
ホテルのボーイも子供らしいのや若々しいのは良いけれど、中年・中老年ときてはイヤなもの。
こんどのはみなそれだった。
今度の旅行で無かったのは小学校の女先生の接待。
これも苦手の一つだ。

7月2日
満州国皇帝、東京御発につきお見送り。
東京駅で大正皇太后〔貞明皇后〕からの御伝言。
これを言っているので、予定時間ギリギリになる。

《大正皇太后〔貞明皇后〕御口上》
この度はせっかくおいで遊ばしていただきましたのに、なんのおもてなしも御心半ばで御つくし遊ばされませんでした。
御対面もたびたび遊ばされましたし、御話も遊ばされ御申入もお聞き遊ばされまして、御満足様に思召されました。
梅雨うちとは申しながら御天気の御都合およろしく、御参拝もおすらすらとお済まし遊ばされましたことは、陛下の御徳であらしゃりまする。
いよいよ今日は御立ちであらしゃりまするので、お名残惜しゅう思召されます。
御途中御機嫌よく御艦も御静かに御滞りなく、新京へ御着のお知らせを御待ち遊ばされまする。
よろしゅう。

7月14日
秩父宮へ立ち寄る。
色白くおなりになりしも、先頃よりはおやつれでない。
まだ新聞も御覧になりたがらぬ由。
みなで小説を読んであげているのだそうな。

7月20日
お兄様〔秩父宮〕8月には箱根あたりへ転地なさるとのこと。

8月1日
秩父宮、箱根小涌田谷の藤田公一男爵別邸へ。
先ごろ痰の中に血が出て、一年近くお咳の止まらぬ気管炎と考え合せ、肺病の一歩手前とかで大事なり。
当分御休養。
冬は御避寒の要ある由。
お兄様も今度は御自身だいぶ御心配のようなり。
でもお家の人には相変わらず、お口では強がりをおっしゃるらしい。

8月4日
大宮御所へ。
〔貞明皇后の弟九条良致男爵死亡に際して〕はじめ喪章はつけぬことにしていたところ、皇太后典侍竹屋津根子より「自分で気が済まぬからつけてきた」態にしてつけてきてほしいとのことで、喪章つけて行く。

8月7日
休暇を取ってみる。
ブラブラして暮らす。
夕方ちょっと海につかる。
喜久子が庭の東屋で見てるのが目ざわりで、すぐ上がってしまう。

8月8日
北白川永久王様より御手紙来る。
返事書く。

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高松宮殿下
7月30日 於張家口
永久拝

はるかに張家口より御機嫌を伺います。
その後まことに御無音に打ち過ぎまして、失礼申し上げました。
殿下には今回満州皇帝御訪日の際の御大任も終らせられ御栄転遊ばされました事、まことに遅れましたがお喜び申し上げます。
今夏は葉山より御通艦とのこと、私達だいぶ海が恋しくなりました。
当蒙疆も一世紀遅れた蒙古人相手にとかく進展しております。
気候は夏も室内は概して涼しく、北京より避暑に参る程度。
ただし紫外線は猛烈であります。
当地は支那軍外蒙軍および回教工作また蒙古政府蒙古軍指導などあり、また一種特別な面白味があります。
またいずれ蒙古事情でも申し上げます。
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8月10日
秩父宮のお姉様、内巻に結いにいらっしゃる。

8月11日
新聞を見ると、細川の温ちゃん〔細川護貞の妻近衛温子〕とうとう逝く。
結婚の御披露で初めて向き合って座ったようなものだったが、貞ちゃんのお嫁さんというのでよそよそしい感じをしなかった。
以来、会ったのは2~3度か。
それでこないだ細川邸へ行った時ももう寝ていて会えなかったのが寂しい気がしたのに、まったく幽明ところを異にすという気持ちがひしひしとする。
またあの顔が見られるのじゃないかと夢のようであり、見られないと思うと細川家ではわがままな奥さんであったかもしれぬが、他人には面白い懐かしい思い出しかない。

8月12日
秩父宮箱根にいらしてまたお咳が余計になったとかにて、いまだ外にお出にならず。
お床とって、こないだのように寒いとすぐおねんねだそうな。
しかしもう大した御異状はないようだ。
御本人がとても大事にしていらっしゃる。
だいぶおさみしそうだった。
ことにお姉様が御退屈らしかった。

8月20日
秩父宮、結核菌が出た由。

8月22日
秩父宮事務官前田利男より事務官吉島六一郎宛親展にて、お兄様の御容態申し来る。
ただ菌のことには触れず、御見舞は遠慮してくれとあり。
毎日御容態電話に通知あり。
看護婦二人つく。
絶対安静。
18日は大正皇太后〔貞明皇后〕より侍医八代豊雄が、19日はお兄様の御希望で侍医頭八田善之進が診てあげた由。

8月25日
お姉様に電話にていらっしゃいませんかと言わせたところ、お出あり。
菌が出たとはおっしゃらず菌みたいなもの、お痰にもちょっと色づく程度の血にて、もう平熱にて御安静なるも、私が出た方がよいらしいお兄様の御様子なりしも行かず。

8月30日
葉山へ。
夕食、喜佐子・久美子〔共に高松宮喜久子妃の妹〕呼んで三笠宮のお相手をさす。
女の子に接する機会あるを可とすべしと思いて。

9月5日
「北白川宮永久王、対空監視所にて飛行機事故のため、4日御負傷同日薨去あらせらる」云々と。
永様は飛行中にはあらず、地上にあらせられた模様。
永様はお立ちの時も、北白川の叔母様が御心配であった。
なにしろ能久親王は台湾で、成久王はフランスで、いずれも薨去になっているので、今度もとても御気にしていらっしゃった。
それが本当にこんなことになってなんともお気の毒であるばかりか、若い皇族の中で一番しっかりしてらっしゃると自他ともに許していた方であった。
御跡取はあるとはいうものの、そんなことはこの際なんの理由にも慰めにもならぬ。
美年様はじめいらっしゃるけれど、多恵様にしてみれば今秋の御婚約である。
お一人ではない御家庭ではあるが、御不幸なお家である。

北白川宮へ行く。
叔母様・祥君様にお目にかかったが、お疲れのようでもあり、もちろんお慰めの言葉もないので十数分で退出。

9月7日
永久王の御遺骸お帰りになったとラジオで言っていた。
大急ぎで昼食をして北白川宮へ行く。
まだお蓋をしていなくて、お顔が見られた。
やはり色はお悪いが、顔面に傷がなくてよかった。
少し口を開き気味なり。
ちょっと聞いたら右の足の先が飛んで行方知れずとのことなり。
頭のは皮がずっとめくれてしまったのだそうな。
叔母様より「看病の日数も無かったのでなるべく長く置きたい。正寝移柩の前にお別れをして蓋をしめてもよいか、18日に御葬儀してもよいか聞いてくれ」とのことで、野村事務官に聞いて13日頃まで大丈夫の予定と言うも、もし駄目なら正寝移柩の前でもお蓋をして、白帛で覆い縛ることを後にすればよいという解釈にして、また十日祭は内々でもできないことはないことなるも、かえって叔母様方のお疲れもあるから、それを機会に正寝にお移した方がよいとのことになり、ただし叔母様のお気持ちもあるので、正式のお通夜はお葬儀の方に寄せて四日間とするに、別当がやはり今度は希望者が多いからとて決まる。
それで正寝移柩を12日にして、12~13日は内々のお通夜として叔母様のお気持ちにも合するようにした。

9月8日
徳様〔竹田宮恒徳王〕と一緒に宮内次官白根松介と宗秩寮総裁武者小路公共に面会、砲車の問題を話す。
宮内省側としては霊車を砲車にしたくない。
その代り戦死を表現する手段として、儀仗兵に砲兵を加えて葬列に続ける案を出す。
《砲車がいけない理由》
●霊車は文面にはないがあの馬車として枢密院の説明になっている。
そして葬儀令制定以来何等の変更なくやってきている。
●皇族としての葬儀であって、これが最高の儀礼であるからそれによるべきで、皇族としては陸軍も海軍も妃殿下も変りあるべきでない。
●伏見宮博義王の場合にも従来通り願った等々。
これに対し徳様は問題は法の問題でなく叔母様の情の問題で、亡くなった永様が連隊と共に戦地に行きたいとの御希望の一つの表し方として砲車に乗せてやりたいとのお考えで、儀仗のことについては軍隊を動かすことであり、それはありがたいが願えることではないとのことを説かれた。
私としては霊車とあって一定の馬車とは法文にないから、そして砲車は軍に死んだ軍人に対する葬具としてすでに通念としているので突飛ではない。
いまこれを戦車に乗せるのは過早であるが、砲車なら葬儀令の制定前ではあるが、有栖川宮威仁親王の時にも砲車に乗せて兵が引いた。
儀仗隊と交換的に考えるのでなく、砲台になし得るか否かの問題である。
●注文を活かしてまず解釈で運用し、それでやれなくなった時に法文の改訂もするので、この場合なんら法文上の違例でなく、むしろ儀仗に砲兵が砲車を引っぱるのが変なぐらいである。
●戦死という特例として扱えば今後の前例ともならず、従来と変わって差し支えないので、なにも馬車が二千六百年の皇族の葬儀の定型でもないのである。
結局水掛け論みたいで、また研究することになる。
後で陸軍側委員の今村均中将に会ったら、陸軍次官阿南惟幾と宮内次官との話の時に、陸軍次官が「規則が変えられぬと言うが、宮内大臣はさきに『やむなければ火葬にして御遺骨を持ち帰ったらどうか』戦死者のすべてが骨として帰るのに、皇族だからとてそのままお帰りになるのは国民に対して影響如何であろうとさえ重大なる慣例の変更を提議されたではないか』と言ったら、宮内次官も困っていた」とのことだった。
陸軍としては儀仗隊に砲兵を加えることは前例として良いことだから、それでもよいとのことであった。

9月9日
北白川宮へ。
野口事務官に会って砲車の件聞いたら、だいたいその腹になり陸軍に予行をせよと言い、明日伺って決めるとのこと。
野口事務官としては従来の形を破るのに強く反対であるが、重点主義的に今度だけ特例を認めるので、そうしたら細かい点は陸軍に任せるつもりだと言っていた。
いざこざにならぬ様子なり。
御遺骸少し臭いがし出したが、12日までは大丈夫らしい。
ドライアイス一日二回替える時のみ、御顔をお見せすることにした。
お兄様〔秩父宮〕より御手紙来り、私の考えと大差なく、大袈裟になってはかえって贔屓の引き倒しになることに注意とのことであったので、徳様にその点言っておく。

9月10日
永様に大勲位いただく。
瑞宝副章買うかどうかと言ったら、賞勲局長が献上することになる。
金鵄章もおいただきになる。
これは伏見宮博義王の時と同じく、私としては疑問を持ち反対である。

9月11日
砲車の件、伺い済となる。
初めて聞いたのだが、伏見宮博義王の時 砲車は用いられぬと御尋ねがあり、できないと申し上げたので、その代りの意味で葬場から水兵に担がすことをおっしゃったのだそうな。
北白川宮で葛城様の敏様〔細川温子の義妹葛城敏子・葛城茂麿の妻・細川護立侯爵の娘〕に会う。
温ちゃんの最期は意識不明で安らかだったが、一カ月も前に遺言してにぎやかにしてくれとのことで、お通夜もにぎやかだったそうな。
雅ちゃん〔細川雅子・葛城敏子の実妹〕転地しているのだそうなと聞いたら、そんなことはないしノンキにして元気だとのことだった。
お兄様、遠藤繁清博士診察して、お軽いが大事にしなくてはならぬ、暑いより寒いのはよい、ただ湿気るのがいけないと言うので、当分箱根のままということになる。
侍医中村順一の曖昧なのよりハッキリして、お手当も決まり結構なり。

9月12日
北白川宮へ行く。
正寝移柩。
永様のお顔、とても白く塗ってしまった。

9月17日
北白川宮へ行く。
霊代安置の儀。
徳様から北白川の叔母様が、葬場からお墓への霊輿の側に竹田の叔母様の時のようにおなじみの将校を歩かせたいと言うのに対し、宮内省でそれは先回の時に事後研究会でこれは具合悪いので前例にせぬことに式部の方で決めて今回もお断りしているので、なんとかならぬかとのことだったが、その話の時は委員退出の後でどうにもならず。

9月18日
北白川宮へ行く。
昨夜のお棺の側に将校を供させる件、話すに同じような返答であり、すでに相談の暇もないので、列の後になら差し支えないとのことで、叔母様にそれで御納得いただき、霊車を指揮した築山博一中佐と同期生5名つくことにす。

9月22日
秩父さんへ。
上体起こしてお会いになる。
顔色よく肉つきもよく見受けた。
やはり痰が出る様子。
三笠さん初めてなので、お庭を散歩したりお茶食べたり。

10月15日
彰ちゃん〔東久邇宮彰常王〕の臣籍降下の皇族会議あり。
5分もかからず終わる。

10月25日
お兄様〔秩父宮〕二千六百年祝典御出席にならぬので、11日当日のみ私が代わりに務めることになったと御電話あり。

10月26日
秩父宮、6月以来御風邪の気味で8月に急性肺炎をなさり御静養中と発表さる。

10月27日
宗秩寮総裁来邸。
二千六百年式典、総裁なにも内容知らずに聞きにきている。
こっちも何をするか知らずに、ただ寿詞と万歳とを言うことのようなり。

10月29日
電車で葉山へ。
新宿御苑のトマトを秩父さんへあげる。
新宿御苑トマト、内緒でならいくつでもあげるとのことだった。
11月の奉祝詞「恐懼頓首、臣宣仁申す」式でとてもおかしくて、何とかならんかと言って帰る。
万歳を弥栄にして「天皇陛下皇后陛下、弥栄」としては如何か、奉祝文とともにお兄様の方で研究してくださるはず。

11月3日
二千六百年式典の奉祝文、字引ひいたりする。
どうも難しい字で気に入らぬが、代理だから仕方もない。
万歳も弥栄では困ることになる。
やはり万歳と言うことになる。
ただし天皇陛下皇后陛下の万歳ということになる。
お兄様〔秩父宮〕のお考えによる。
私も同意見なり。

11月4日
奉祝文、疑問の点あり。
立案者宮内省嘱託木下彪に来邸を求め説明を聞く。
どうも天皇陛下のことを讃える点多く、二千六百年奉祝のことが少ないようだと言うたが、奉祝会の意向によったということで、なにしろ飛び入りの代理だからまあ我慢することにした。
「恐懼」を直した程度。
お兄様に報告しておく。

11月5日
秩父さんへ行き、奉祝会 勅語あることになりたれば、奉祝文のことにつき伺う。
別にお心づきの点もなしとのことなり。

11月7日
式部官武井守成と二千六百年祝典事務局長歌田千勝来邸。
●万歳は天皇陛下のみとのことで、「私が間違えて言っちまえば、天皇陛下皇后陛下でよいわけか」と言ったら、まあもう一度研究することになる。
●万歳には私は手を上げないことにした。
一般には上げる習慣だから、上げないではバラバラになる懸念あり。
みなは上げればよい。
●宮崎県と鹿児島県と発祥地奪い合いのため、神代三陵を希望していたからそれは断る。
もしそれで高千穂峡に行く予定だがそれが釣り合い上困るような話だったから、「そんなことで知事さんが県民を指導できぬなら仕方がないから高千穂峡やめでもよい」と言っておく。
両方の御機嫌取りみたいにやってたらきりがない。
重大問題ならそれも仕方ない時もあるが。
●「橿原と宮崎の奉献式には出ずに奉告祭に出る」と言ったら、奉献式も会だけのものでなく全国民の奉献式だからと言って、それにむしろ重点あるようなことを言っていた。
「会すなわち全国民の総代だろう」と言ってやったが、結局まあ大したことではないから両方出ることにした。
ただ総裁宮様〔秩父宮〕と同じではいけないからなんとか、やり方を違うようと言うたが、それも実際問題としては区別あるようにできそうもない。
レコード録音機を借りてきて、奉祝文の読み方を録って自分で聞いてみる。
こうしないとどうもわからぬ。
初めてやってみたが、自分の声を再生して聞くと読み方の研究になる。

11月10日
宮城前祝典へ。
祝典は内閣でやるので、近衛が明日私のやるところをやって見せるみたいに同じことをやる。

11月11日
宮城前奉祝式へ。
奉祝詞の朗読と万歳、うちで録音を録ってもらう。
私のとグルー大使のと君が代斉唱と録れた。

11月14日
音羽様〔音羽正彦侯爵&大谷尊由の娘大谷益子〕の御披露。
大きな砲丸投げやるだけ左肩を上げた癖のある、許婚が長かっただけ慣れたお嫁さんだった。

11月18日
中宮寺着。
中宮寺の尼さん〔近衛尊覚〕だいぶ耳が遠くなったが、元気になっていた。
尊昭尼さん〔平松時冬の実娘・一条実孝の養女〕23歳になったそうで、夏中胃病で寝ていたそうな。

11月19日
円照寺着。
門跡山本糸子、山本静山と名を変えていた。
25歳になって大人になった。
橿原神宮の給仕には高女生徒が出てきてしていた。
相当なスローモー式お作法なり。

11月22日
ホテル着。
夜、細川侯爵一家ゾロゾロ見えたが、入浴していて帰ってもらう。

11月24日
紫明館着。
大正天皇がお泊りになった建物で、浴槽は湯を汲みこむ式、便所は引き出し式、その他はよろし。
料理屋だからサービスは慣れていて、堅くならずに済む。

11月26日
八紘台着。
青年団西部動員大会発足式あり。
動員青年と宮崎の学生の分列あり。
元気あって各地から集ったのにかかわらず歩調も合う。
目の前を行進するので、目がチラチラして目が回りそうになってので、時々空の雲を見てやっと大丈夫だった。
公会堂の体験発表会へ行く。
福岡のはジェスチャーたっぷりに軍役奉仕の感激を語り、聴衆に涙する者多し。
それにつけても私が青年のそうした感激性に感応する純真というか若さがないのがさびしく感じられる。
だから私は宮崎の農業者が、おじさんの田畑の耕作と自家の田畑の耕作とを両方やらねばならなくなった、そして両方やる決心をしたという話の方により深く聞いた。

12月15日
また下痢が始まる。
いささかヘトヘトの気味。
士官室で「トントントンカラリンと隣組」と蓄音機をやってるのを聴いたら、とたんにうれしくなっちゃった。

12月30日
腹の具合もすっかり良くなって、旧態勢の前菜・スープ・野菜・魚・肉と西洋料理をおいしく食べる。
こないだうちからのおかゆの栄養不足を取り返した感なり。
お兄様〔秩父宮〕にもビフテキを召し上がれと手紙に書いたくらいなり。
食堂の給仕は爺さんのボーイだがそんなに悪くないのと、不美人の人、熊本市の人でかためているだけに男も女も美人はいないが、まとまったなごやかさがある。
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◆高松宮宣仁親王 123代大正天皇の三男 光宮宣仁親王
1905-1987 82歳没


■妻 徳川喜久子 徳川慶久公爵の娘/将軍徳川慶喜の孫
1911-2004 92歳没


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前任の有栖川宮務官平山成信から後任の有栖川宮務官西紳六郎への手紙

1916年10月20日 必親展
過日拝顔の節お尋ね御座候 徳川喜久子様の件は、小生宮務官奉職中の1913年6月22日 当時の宮内大臣渡辺千秋 舞子御別邸に伺候し、故有栖川宮威仁親王〔高松宮喜久子妃の祖父〕の御病室で拝謁の上、第三皇子宣仁親王に高松宮の御称号を賜ることに内定なりたるむね言上せしに、深く聖旨の厚きに御感佩遊ばされ、その儀御決定の上はなるべく早く御発表なり候よう取り計いくるるよう渡辺宮相に御頼談ありたる後、他日徳川喜久子様御成長の上、高松宮妃に御選定の御都合にもなり候はば、誠に御満足遊ばさるむね御内話あり。
渡辺宮相も御希望の趣にはまったく御同感につき、時機を見て大正両陛下にも内奏仕るべきむねお答え申し上げ退席さられ表客室にて休息中、有栖川宮妃は威仁親王の思召により御滞在中の徳川喜久子様を親しく客室にお連れになり、渡辺宮相にお引き合せ遊ばされたる次第に御座候。
この段、参考まで申し上げ置き候。
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宮内大臣波多野直敬から有栖川宮務官西紳六郎への手紙

1917年3月27日
高松宮妃に関係する件、前宮内大臣渡辺千秋より別紙の通り中継を受け候。
1916年12月、大正皇后より本大臣へ同様の御沙汰あり候。
当時御内約済と言うまでには運びおらざるも、相当の時機においてお取り極めあらせらるべき御内意と伺い奉り候。
参考まで申し置き候なり。
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別紙
有栖川宮威仁親王御病気重くならせられ候際、宣仁親王に高松宮の御称号を賜い、かつ成長の後は徳川慶久公爵の娘喜久子を妃にならせられたき御内願を拝承し、帰京の上そのむね委細言上置き候こと、お引き継ぎ申し述べ候。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1923年8月9日
※宮内官僚小原駩吉の発言

秩父宮・高松宮に随従し岐阜県に御供したるが、なるほど秩父宮にはよほど大切なる場合なり。
御行動においても野卑なる事を特に為さる事もあるが、第一に御直しなさる必要あるは御言葉なり。
ほとんど巻舌にてべらんめえ調の御言葉が出る事あり。
これは若い士官等の風に感染なされたるものならん。
御性質は弱き者をいじめなさる傾あり。
これに反し高松宮は人に対する御思遣りも深く何事も研究心強く、秩父宮が無理になさざるとはよほど異なる所あり。
スカールを為さるを拝見したるに、秩父宮は教師の言も聞かずして無理をもって漕がんとなされ、高松宮は充分に会得したる後に漕がるる様の差あるを見たり。
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『木戸幸一日記』内大臣

※1932年8月、3代宮内大臣田中光顕伯爵が9代宮内大臣一木喜徳郎に辞職を迫り、
一木宮相は1933年1月に辞職する。

1932年8月25日
田中光顕伯爵の行動の真相を知ることができた。
問題は高松宮と徳川喜久子姫の御成婚に関連するものであって、田中氏が宮内大臣当時、有栖川宮栽仁王に内親王を配せんとする議があったところ、
明治天皇は「有栖川宮の系統には狂人があるので、かくのごとき系統のところには内親王を婚嫁せしむることを得ず」と仰せられたることあり。
田中氏はこの点より見て高松宮に喜久子姫を配するはよろしからずと考え、かねて御内意の存したる時も宮内当局に注意したるが、御成婚御内定の際も一木宮相に考慮方を注意したるにもかかわらずこれを決行したるは実に不都合なるゆえその責任を問うというのであって、もし宮内大臣にして辞職せざるにおいては、この問題を暴露して争うと言うのである。

1933年4月25日
湯浅宮相が元宮相田中光顕伯爵と会見し、
田中氏より「高松宮の御子孫と皇室の御縁談なきよう取り計われたし」と申し入れ、
湯浅宮相が「深く念頭に入るる」ということにて、円満解決せしとのことなりき。

1937年10月12日
*10月1日伊勢神宮祭主を務めていた久邇宮多嘉王が死亡

賀陽宮家松浦別当来訪。
伊勢神宮祭主につき賀陽宮恒憲王より、「現在のところ軍籍を去って奉仕するの意思はなく、兼任なれば梨本宮もおいでのことなれば、この次ぐらいにはお勤めしてもよろし」との御意を漏らされたりとの話ありたり。

※東宮〔平成天皇〕伝育官石川岩吉の発言

伊勢神宮祭主につき、かねてより高松宮は御希望あり。
今回もその御気持はあり、多嘉王の御勤務ぶり等も御調べありたり。
高松宮は軍籍を退きてとの御考なるが、
「これは今日海軍において容易に御同意せざるべし」と申し上げたるに、高松宮もその点は御同様に思し召され、結局今回は別段御申出はなかりしなり。
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『入江相政日記』侍従長

1947年3月19日
高松宮へ行く。
加藤宮内庁次官・三井・犬丸・高尾と予。
赤十字が島津忠承社長・赤木朝治副社長・原泰一副社長。
日赤渉外部長池田徳馬君・松平信子夫人・葛西社会局長。
いろいろ仰せがあり昭和皇后を名誉総裁と仰いだ以上、宮内省も考えろ赤十字も考えろとのことだが、 例によって例のごとく、主旨は御自身の聡明さを一同に誇示しようというのに尽きている。
おそらく何の効果もなかったろう。
どうしてこうもお違いになるのか。

1947年9月24日
高松宮明日より群馬県の水害地へ御差遣につき御召になりいろいろ御注意になったところ、いちいち反抗遊ばした由。
実に済度しがたきものである。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1948年5月23日
高松宮と掛け違いの様子。

1948年6月24日
高松宮のこと昭和陛下の思召を伺う。

1948年7月3日
御回顧録を読む。
御回顧録を読了す。

1948年7月6日
高松宮問題。

1948年7月9日
退位問題をお確めす。

1948年7月16日
高松宮問題。

1948年7月21日
政府の特例上の要求ならば考えぬこともない様子なれども、高松様の行動上、今回はこれにて止めたいと思う。

1948年7月28日
高松宮、総裁問題御了承。
ただし今後多少御隠忍御不願、当方も担えず拝辞す。
牧野伸顕参内、退位然るべからずと奏上の旨。

1948年12月18日
昭和皇后御召、昭和陛下御心配のこと、高松宮があること言いしによる、女のことかと御心配ゆえだいたい申し上げ、昭和陛下にも申し上ぐと申す。

1948年12月20日
昭和陛下に拝謁、高松宮のこと言上。
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『入江相政日記』侍従長

1948年2月5日
侍従長大金益次郎の所へ行く。
高松宮を御招待。
宮内庁次長加藤進・侍従次長鈴木一・三井安弥・高尾亮一・徳川義寛という顔ぶり。
牛鍋で非常に愉快。
さすがの高松宮も全然皮肉をお飛ばしになる隙がない。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1949年3月6日
元東宮伝育官石川岩吉氏来室、秩父・高松の性格談。

1949年3月11日
高松宮喜久子妃来室、女のこと。

1949年3月15日
式部頭松平康昌に高松宮妃のこと、昨日の高松様 皇太子御外遊のこと言う。

1949年7月16日
秩父宮に委細申し上ぐ。
帰る時「また厄介かけるかもしれぬ」とワガママ口あり。
高松宮にお話す。
「昭和陛下の御話は承り置くも、新聞社に会わぬことはできぬ」との御話。
利用云々の御言葉もあり、不遜との御言葉ちょうだいす。

1949年7月18日
三笠宮御訪問。
高松宮のことに及び落涙す。

1949年9月28日
皇太后宮大夫坊城俊良来訪。
宮様方の行動につき御不満の話。
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『入江相政日記』侍従長

1949年2月8日
宮内庁次長林敬三から「御進講に高松宮もお誘いになっては如何」との件につき話がある。
反対しておく。
また三笠宮と宮内官との懇談会の話もある。

1949年3月14日
田島長官・林次長・鈴木侍従次長・三井・鈴木・山田といろいろ議論を重ねる。
今日はどういうのか高松宮の御発言も非常に多い。
高松宮はさすがに老熟したところもおありで、だいたい我々と同じ思想のようであるが、三笠宮とはついに平行線的なものであることがわかる。
今日は5時間も毒気にあてられたので参ってしまう。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1949年2月12日
田島長官◆これ要するに昭和陛下の御思召と多少の背馳覚悟にて、直宮様との融和のために力を尽くすこと。
昭和天皇◆高松さんなど進駐軍その他に他言されしことあり、案外信用できず。
皇弟の自覚なし。
田島長官◆直宮様と御一体は世上の変化上、ますます必要。
高松宮は「宮内庁は何の役にも立たぬ」との仰せを拝しながら、できるだけのことは致すつもりでおります。

1949年2月21日
昭和天皇◆皇族と親しくしたく思うが、どういうことをするのが親しくなるのか、日曜日の映画もそのためだがあまり来られぬ。
高松さんは特に食事が御趣味で、あまり出さぬ葡萄酒を出したら非常に喜ばれたが、食事に招くのがいいのか、いったいどうすればいいか。

1949年2月28日
昭和天皇◆新東宮大夫野村行一・新東宮参与小泉信三は正しい良い人で大変よいと思うが、新任の時に高松さん・三笠さんはいつも何かと仰せになることがあるので、その点注意せよ。

1949年3月8日
昭和天皇◆北白川の叔母さん〔北白川宮房子妃〕が高松宮・三笠宮の少し遊び過ぎらるることを言っておられた。
「大正皇太后〔貞明皇后〕も御承知なき様子ゆえ、昭和陛下から仰せになりては」との御話ありし。

1949年3月11日
昭和天皇◆皇位継承または摂政の立場にあることゆえ、万一にも起こるに備えて修養することが高松さん・三笠さんの本分で、他のことをいろいろなさることは本来必要でないことと思う。
然るに映画またはダンスホール等へ出られるほか、民間人の希望に副っていろいろの所に行かれるが、その民間人の悪口もずいぶんあるらしき様子。
これは本分に顧みていただきたく思う。
これは私の理想論かもしれないが。

1949年3月24日
田島長官◆三笠宮は観念論で、「歴史の発展上君主制はなくなり大統領制になりつつある以上、日本の新憲法も天皇制廃止の課程として宮内庁官吏は考えるか」という御話にて、純然たる観念論。
高松宮は「科学が発達しても宗教が盛んになると同じようで、人間の観念理屈だけで歴史は動かぬ」という議論で、高松宮も天皇制支持のように拝しました。
ただしお二人とも天皇陛下の戦争責任問題に関してはちょっと変な言い回しをなさいました。
昭和天皇◆戦争責任については三笠さんが昭和陛下に仰せありし旨。
その節、宣戦の詔書には朕が志ならんやと言ってるではないかと言った。
またパールハーバーは海軍作戦に過ぎぬ。
(この点、田島はいつも残念と思う)

1949年9月7日
昭和天皇◆進駐軍の趣旨には悪いが、先だっての秩父さんの新聞事件のことに関して、別当のようなものを新設して秘書的に置くということはどうだろうか。
田島長官◆仰せの通り進駐軍は宮家の人を宮内庁で負担することには大反対でありますが、それは別として高松宮の現状ではその制度ができても何もなりませぬ。
高松宮自ら御会見して、御面会者の選択を事務官吉島六一郎にもお許しにならぬ状況でありますから。
しかし仰せゆえ、研究しましょう。
昭和天皇◆もう、研究せんでもよい。

田島長官◆秩父宮の新聞事件に発する昭和陛下の命を高松宮にお伝えせし際、「不遜なことを言う」と叱られた。
昭和天皇◆先年高松さんが御名代の時、強く新聞記者のこと仰せにありし時は「行かぬ」との仰せありしゆえ、「それならばやめてもらう」と仰せにより、高松さん「行く」と仰せになりし由。
田島長官◆元高松宮別当石川岩吉に聞きし高松宮の御性質等より、何かにおもねらるる様にも思わるる旨。
昭和天皇◆東条英機・嶋田繫太郎は大反対で、しかし海軍砲術学校の時は主戦論、何か周囲の者に主観的に同意せられ表論的に意見を述べ先見を誇らるる傾向あり。
田島長官◆秩父宮は先日申し上げし際、「また厄介をかける」との雑談的御返事なりしも、厄介をかけたとの御挨拶と存じました。
また高松宮も新聞記者のために相当苦い御経験もあるらしく、御利口の方ゆえ今後新聞でお困りになることはありますまい。

1949年9月15日
〔昭和天皇の研究『相模湾産後鰓類図譜』が出版される〕
田島長官◆宮様方にも科学上の御知識はとにかく、贈呈しかるべきと存じます。
昭和天皇◆秩父さんに「研究所で採集のものを本にする」と話した時に、
秩父さんから「昭和陛下御自身の御名前をお出しになること云々」の御話があり、また本をあげればそれを蒸し返されるかもしれず、イヤなのだ。
田島長官◆それはやはり大きくお考えのうえ御贈呈しかるべきと思います。

1949年9月19日
昭和天皇◆三笠さんから本の御礼がすぐ来た。
三笠さんは近来よほどよくおなりになったように思う。
『改造』に寄稿は困るが、まあよくおなりと思う。
高松さんは遅く御礼が来た。
秩父さんはまだ何とも言ってこない。
東宮も御礼が遅かったが、これは年少で侍従の出したのに気づかれるのが遅くとも仕方ないが、宮様方は新聞も御覧で早く御礼あってしかるべきだ。

その後三谷侍従長曰く、「昭和陛下は今回の本につきては非常に particular である。例えば『田島は東宮御床上げのとき賜物に反対したが、今回は希望するのはどうか』との御話あり。三谷その区別を申し上げ御了解になりし由」

1949年9月30日
昭和天皇◆高松さんのことだがねー。
新憲法でいくら自由とか平等とか言っても差別はあるので、皇族として明治天皇・大正天皇の御血筋として私の皇弟としておいでの上は、普通の人より不自由は当然だと思うのだが。
田島長官◆ごもっとも、その通り。
昭和陛下は最も御不自由の御方。
昭和天皇◆高松さんは皇弟という御自覚の上に御行動をしていただくようにはできないものか。
私の行くことのできない時は私の心を体して、公式ではなく非公式でもなく、心持ちの上だけで私に代ってという気持ちで御行動して下さるという訳にはならぬものか。
田島長官◆高松宮に初めて拝謁の時、「宮内庁は皇族のことは考えぬ所」と仰せにて、とうてい高松宮の取り巻き連のように耳を傾けていただくことはできぬと思いますが、決して捨てずに努力いたします。
昭和天皇◆私もあからさまに言えば喧嘩になるが、賛成できぬ時は喧嘩にならぬよう賛成はせぬため、話がいつも難しくなる。
田島長官◆ある県知事などは高松宮御夫妻はごめんだと申しおる由。
陰口をたたくうちはよろしいが、いつかはもっと悪声が強くなると思います。
元高松宮家別当石川岩吉の言によりましても、何か勢力のある者に媚びてなさる傾向あるゆえ、popularity は気になさると思います。
昭和天皇◆海軍御勤務中に皇族として国民がお待ちしていると、裏道から抜けて鼻を明せる類のことをなさる。
田島長官◆高松さんが皇弟の自覚をお持ちになるような方法はありませぬから、皇族様との月一回の会をもっと充実してお近づき申すことと、両陛下との御食事をよく遊ばすことと思います。
昭和天皇◆高松さんは食事が一番よい。
(察するに皇后宮大夫坊城俊良の話と総合して、宮様のことを仰せになるのは27日の大正皇太后〔貞明皇后〕との御話の結果と拝察す。
坊城皇太后宮大夫の「近来大正皇太后〔貞明皇后〕と宮城と御仲およろしくおなりになったのに」との語調ちょっと心配なり)

1949年11月5日
田島長官◆昭和陛下より高松宮らとお近きような方法との御話もございましたが、高松宮は他の御約束が多く、ずいぶん先まで御予定済のこと多く、御出席を得ず残念に存じます。
やはり昭和陛下の方から大らかなお気持ちをもって高松宮を御夕飯にでもお招きになりましては如何でございましょうか。
ずいぶん各地へ旅行なさいますゆえ、旅先の状況等をお聞きになればよろしいかと存じます。

田島長官◆先だって大宮御所へ行幸啓の折り、高松宮も御会食のようで。
昭和天皇◆高松さんは御先約で2時頃帰られた。
田島長官◆昭和陛下が高松宮を〔候補日を〕4日も出してお招きのところ、すべて御先約済のことあり、ああいうとき多少御繰替願えればと思います。

1949年12月9日
田島長官◆恋愛結婚とか見合結婚とかいうことは皇室については如何お考えでございますか。
昭和天皇◆恋愛はとてもで、三笠宮ぐらいがちょうどよいと思う。
私と高松さんは全然古い風で、秩父さんは少し違い、三笠さんぐらいがいいと思う。
大正皇太后〔貞明皇后〕は三笠さんの言いなりで、細川の娘〔細川護立侯爵の娘細川泰子〕を広幡大夫は「御顔が」と言ったが、私は御顔より照ちゃん〔照宮成子内親王〕と同級で、叔母様になる人が照ちゃんと同級ではと思って私は反対し、百合子妃は私が推薦したのだ。
その時のことを思うと、いま三笠さんがいろいろ言われるのはどうかと思ってる。

1949年12月12日
昭和天皇◆皇室が里方の場合に嫁入先に干渉するとの批評は受けぬか心配。
ことに宮様方から批評出るように思う。
高松宮御夫妻はタンスの引出まで見るという風で、実は女官なども大困りであり、大宮御所の女官も困っている。
良宮もこれには閉口してる。


昭和天皇◆昨日高松さん御夫婦が晩餐にお出でになったが、
その折り良宮が高松さんに「大公使の所へもお出でになりますが、それは日を指定参りますか、数日の内 高松さんの選択にまつのか」と質問せしところ、
「3~4日を言ってくるから、その内から選ぶ」と言われたが、ちょっと腑に落ちないと思う。
皇居へは毎週月曜日と約束がしてあるのに、その一般的前約は顧みずして月曜日を御選択になる場合があるのはどういうものか。
もう一つおかしいと思ったのは、
良宮が「高松さん御夫妻がシベリアの将官連が厚遇されてる様子だが、あれは少し魂胆があるのではないか」というような話をして、私もその意見に賛成したら、
高松さんは「何も魂胆などない」と仰せになったが、高松さんはは人が右と言えば左と仰せになる。
田島長官◆それは高松宮の御癖と存じます。
昭和天皇◆日独同盟を謳歌し、開戦論を主張しながら、東条の開戦の時にはにわかに平和論をお出しになったこともあり、どうもそういう御癖がある。
田島長官◆初耳がお好き、御自身が第一にという御気持ちがお強いからでしょうか。
昭和天皇◆ヴァイニング夫人の場合も良宮より先に先生にしたいと言い、良宮が始めたら何の挨拶もなしにおやめになったことがあるが、どうもおかしい。

昭和天皇◆高松さんはスキーか何かでずーっとお出かけのようだが、本来は私と連絡して、私が行くと大袈裟になるような時に名代である如くない如くにして皇弟としてお出かけになると一番良いと思う。
田島長官◆宮様の御旅行は主催者側よりの旅費によりて御支弁の場合もあります御様子にも伺いまする。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1950年3月3日
吉田首相を訪問。
三笠宮洋行のこと、高松宮のことを懇談す。
吉田首相としては、三笠宮の件はGHQ副官ローレンス・バンカーの意見を聞くこと、高松宮の件は何か適職心掛けること。

1950年3月8日
高松宮スキー御負傷第一報、侍医御差遣等手配す。

1950年6月13日
小倉氏談。
高松宮、御旅行多し、花柳あること希望とのこと。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1950年1月2日
田島長官◆先日三笠宮から高松宮の御旅行のため民間に怨言あることの御話出ました際、高松宮が反抗的に御話になりしこと。
昭和天皇◆高松宮妃も御話あったが、高松さんは人が言えば余計にかぶせて仰せにはなるが、実行はなさらぬようだ。
また高松さんは上の者とか宮内庁から言えば非常に御反抗的だが、民間の者や投書にはなかなかお聞きになるとのことだ。

1950年1月6日
昭和天皇◆今朝の新聞に高松さんが東宮御洋行のことを話しておられるが。
高松さんは新聞社員などには実にうまく仰せになり、時期の問題だと仰せになった誠によろしい。
こういうことは秩父さんや三笠さんと違っておよろしい。
三笠さんは御正直で、御口と御腹は一つでその点はおよろしいが、仰せにならぬでもよきことを仰せになり、それも御自分のことをいつでも省みて仰せになるが、多少歪められている場合もある。
例えば結婚の問題なども、私と高松宮は決まっていたようなもので、秩父さんは少し違うが、三笠さんはずっと御自由で御自分で御選択になり、大正皇太后〔貞明皇后〕はいいなりであったのに、御自分では外部の力によったように思って御話になり、ちょっとわからぬ点がある。
日光や葉山の御用邸の付属邸など、大正皇太后〔貞明皇后〕と三笠さんと御一緒にお住みのために作ったものだが、「親子兄弟一緒でなかった」という風に人に御話になるが、あの点はどうかと思う。

1950年3月10日
〔高松宮、スキーで負傷〕
田島長官◆高松宮、御軽傷にて結構でございました。
昭和天皇◆私はこれが新聞などへも出て、多少御反省の機会になればよいと思っている。
国民の状態がこんな時、行楽的にお出かけが多すぎるように思うから。

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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1950年3月11日
田島長官◆高松宮は莫大な税金のようでございますが、秩父宮・三笠宮は大したことないと存じます。

1950年6月22日
昭和天皇◆田島は知らぬから宮中服のできた沿革を話しておこう。
それは第一に高松宮妃の主唱でできたので、秩父宮妃などと研究の結果できた。
私はむしろ反対だったが、結局出た。
理由は洋服は英米的だというのである。
同盟の独伊も洋服だからと反駁したが、軍人などは何か国粋的なものという声を上げてた。
これに妃殿下方がまず乗ぜられた。
第二に繊維不足という時勢の声に対し、一反の反物ででき、上衣は丸帯でできるということであって、まあ結局承知したが、後でわかったことには、上衣は丸帯ではできず新調ということになり、東久邇の叔母さん〔東久邇宮聡子妃〕など「洋服以上に面倒だ」と私にこぼされるようになり、宮内大臣松平恒雄に上衣をやめることをいくら話してもなかなかやらず、通牒でやっと出したが、「戦時中」とあったゆえ、これを「当分」と変えようとしたが、松平は遂にやらず宮内大臣が石渡荘太郎になってこれが実現した。
上衣のヤメやら何やらで大正皇太后〔貞明皇后〕は結局今までお着にならず、お作りにならない。
なお高松宮妃の御自分的な理由は、今までの洋服裁縫師がいなくなったことであるが、これは私的な理由で私はどうも賛成できなかった。
その高松宮妃が戦後批評が出るとすぐ洋服を自由になさるのはどうかと思う。
秩父宮妃の、相当の研究の結果ゆえ不評でも何とか改良してという立場の方が理解できる。
フランス大使か誰かが三笠宮妃に「この服はなってない。パリでお作りなさい」と言ったこともあると聞いている。
私は宮中服には本来賛成してない。
和服が良いと思うが、大正皇太后〔貞明皇后〕が不様という訳で不賛成で宮中服となり、しかも大正皇太后〔貞明皇后〕は宮中服は召さぬ訳だ。
田島長官◆和服について併用の意味で大正皇太后〔貞明皇后〕のお許しを得て、和服の方向に行き得るかよく研究いたします。
昭和天皇◆大正皇太后〔貞明皇后〕のモンペも戦争の防空から来てて、戦時色はある。

1950年7月5日
田島長官◆三笠宮のことに関連し、東宮様・常陸宮のこともなかなか考えさせられまする。
東宮様は特別にて民法に長子相続もなくなったにかかわらず、皇室だけは長子相続の建前で二男・三男は冷や飯で、この点よほど注意しなければならぬと存じます。
東宮様のことは東宮大夫穂積重遠の無責任では駄目ゆえ東宮参与小泉信三に替ってもらうという具体案ができてお許しを得て実行しましたが、常陸宮についてはなお研究中。
昭和天皇◆田島は戦争後になって宮様方が平民的自由と皇族の特権とを両方活発にやられるようになったと言ったが、戦前からずいぶん平民的な特権をやっておいでだった。
一つは別当などの人がついていたことと、今一つは検閲制で新聞に出なかったというだけだ。

1950年9月18日
田島長官◆東京新聞の三笠宮の御意見発表は、現地で同様の御発言がありましたか否か心配になり、現地に聞き質しましたが、現地ではそのことございませんでした。
昭和天皇◆高松宮妃のように発表前にお見せいただくといいのだがねー。
もっとも高松さんは高松妃のやり方に御反対だそうだが。

1950年10月17日
田島長官「高松宮■■事件、御承知なりや」お伺いせしところ、
昭和天皇「高松宮妃が良宮に話しておられるのを間接に聞いた」との御話にて、式部官長松平康昌より聞きし大要御話申し上ぐ。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1951年5月18日
〔1951年5月17日貞明皇后死去〕
田島長官◆陵名を石に刻して埋めるのでございます。
大正天皇の時は閑院宮載仁親王の筆でありまするが、今回は殿方様にお願い致しましょうか。
昭和天皇◆高松さんがよい。
秩父さんは御病気のため、毛筆の大字は御無理であるから。
それに高松さんが字も一番御上手だ。

1951年6月5日
昭和天皇◆昨日突然秩父宮妃と高松宮妃が来られて、高松宮妃は宮中服は失敗だったとの観念があるらしく、はっきりあれは間違いだったとの話はないが、秩父宮妃は別の態度で何か一新軌軸を出そうとしたもので、一朝一夕に廃すべきでなく、また戦時に関連したものでもないとのお考えが強く、とても強固だ。
それほど時局に影響ないならば、その時にも私は言ったのだが、
「戦争済んでから日本古来の伝統も考えてゆっくり新しいものを創造していいではないか」
それをあの際やったのは、何と言っても戦時色あるを免れぬと思う。
三笠さんなども「洋服は米英式だ」と言ってたような時代で、
私は「ドイツ式でないのか」と言ったことがある。
だからこの際 私の天皇服のように一時 人の目の見える所のみとして、世の批評を聞き、再検討・再出発すればよいので、そのつなぎに和装をやってみれば、またそれの批評も出よう。
秩父宮妃が宮中服成立の経緯につき、相当主張あることを物語りしゆえ、話が出るかもしれぬから参考に話す。
田島長官◆田島は大正皇太后〔貞明皇后〕に昭和皇后和装の明瞭な同意を得るつもりでありましたのが御崩御ですが、昭和陛下の御趣意にも合しまするゆえ、和装をお始め願えばよいと存じます。
昭和天皇◆秩父宮妃が宮中服に執着強く、改良してモノにしたい意思が強いが、何か古い伝統のあるものは廃するに忍びぬことがある。
田島長官◆それはそうでありますが、宮中服はそういうものではありませぬ。
昭和天皇◆そうだよ。

1951年6月15日
昭和天皇◆大正皇太后〔貞明皇后〕の御遺書の事だがねー。
大正皇太后〔貞明皇后〕は筧克彦の御進講「神ながらの道」をお聞きになったのだが、その筆記をどういう意味かわからぬが秩父さんにあげてくれとある。
これはその通りにするだけのことゆえ差し上げてもいいが、どうして秩父さんかということはわからない。
とにかく秩父さんは貞明皇后の一番お気に入りであった。
三笠さんも末のお子さんで〔溺愛され〕高松さんが御不平で、
戦争の時 支那の上海か何か危険な所へお出でになったのも、その御不平のためであったような話も聞いた。

1951年6月21日
田島長官◆〔貞明皇后の墓の〕お土かけのこと、高松宮御電話あり。
皇太子様もとの御説あり。
「お小さい方も印象をはっきりするためになすったらよい」との御意見でしたが、
「順宮厚子内親王が遊ばせば、照宮成子内親王・孝宮和子内親王、またその御配偶者、さすれば東久邇宮稔彦王・東久邇宮聡子妃もとなりますが」と申し上げ、
高松宮は「内廷皇族で線を引ける」との仰せ。
昭和天皇◆それは私としては困る。
稔彦王の関係もどうなるかと思うゆえ、最初の両陛下・直宮・妃殿下方だけか、皇太子を入れただけにしてもらいたい。
皇太子を入れたために他に波及するなら、皇太子もやめてくれ。
田島長官◆高松宮に申し上げましょう。

1951年7月26日
昭和天皇◆久邇宮朝融王はいつでもそうだよ。
そうして御実行にならぬから、初めから嘘をついてるということになるのだ。
その点同じ海軍でも高松さんと反対だ。
その場ではそうだと言わずなんだかだと言われるが、実際の行動は口で反対されたことをやられるのでもなく、むしろこちらの言ったことのような行動をなさる。
それは御利口だから。

1951年7月27日
昭和天皇◆大正皇太后〔貞明皇后〕の御遺物の処理のこと、秩父さん・三笠さんに御異存なければ高松さんに御一任して案を立てていただくのがいいと思うが、そう御話を運んでもらいたい。

1951年8月3日
田島長官◆高松様御遺物処理案作成の件は誠に快く御承諾。
しかもいわば皆で案を作る下働きをすることゆえ、昭和陛下の御裁可は当然、秩父宮・三笠宮の御同意も高松様より御話するとの、極めてなごやかなる仰せでありました。

1951年8月22日
田島長官◆高松宮に御遺物分配の件「百日祭までにおできでございますか」とお伺い致しましたが、「いや、とてもだ。来月」との仰せでありました。
昭和天皇◆高松さんはいつも三日坊主だ。

1951年9月4日
昭和天皇◆赤十字に関する高松さんの考え方やまた御遺品の分配のことなどで私の憤慨してることから考えて、高松さんという人は何でもちょっと自分が頼まれればその関係の所有権を自分が持っているように振る舞われる人だと思われる。
私が頼んだ大正皇太后〔貞明皇后〕の遺品分配のことでも、自分でどんどん女官などにやっておしまいになるし、私は非常に憤慨してる。
田島長官◆田島が昭和陛下の思召をお伝えしました時には、高松宮は「私が下働きの幹事役をするだけ」という御挨拶でありまして、その高松宮と昭和陛下の仰せとは矛盾で私も憤慨いたしまするが、さりとてこの点を昭和陛下が筋を通して高松宮に仰せになれば難しい事態になりまするゆえ、忍び難きをお忍びいただき負けるが勝ちということにお願いいたしたいと存じます。

1951年12月3日
田島長官◆高松宮は上手に物を仰せになりますが、三笠宮は純と申しますか仰せになりますので、昭和陛下も時々お困りになりますが、以前から見ればよほどお慎みのように存じます。
昭和天皇◆高松さんも田島の来ぬ前の頃は相当お話になった。

1951年12月13日
田島長官◆『原田熊雄日誌』第6巻に西園寺公望が綏靖天皇の事を引き、
「直宮様方は何もお考えにならぬが、勢というもので何か起こらぬとも限らぬ」という意味を二度申しておりますが。
昭和天皇◆西園寺は私にそういう事は言わぬし、原田に言ったかどうかも知らぬが、秩父さんは英米反対で日独同盟論を強く主張せられ、私はついに「そういう意見はもうあなたから聞かない。板垣陸相に言ってください」と言ったぐらい、第三連隊に関係が深く当時の陸軍の考えの通りであった。
参謀本部で閑院さん〔閑院宮載仁親王〕が、「秩父さんは食堂へもおいでにならぬ」というようなことを言っておられた。
高松さんは砲術学校の時にかなり主戦論をされて私とケンカし、高松宮妃も同席して困っておられたこともある。
そんな事が自然西園寺の耳に入り心配してたのかも知れぬ。

1951年12月17日
田島長官◆高松宮が宮内職員高尾亮一に、
「終戦の際 昭和陛下が万世の為に太平を開かんと仰せられたのに照応して、条約効力発生の時 何事か仰せになった方が良いと思われる」との御話があり、退位論など影をひそめていると確信するとの話がありました。
昭和天皇◆そうか、高松さんは今は退位論ではないのか。
高松さんは私に直接退位をおっしゃった。
そして「毎日のことでないから、御病身でも秩父さんが摂政にならればいい」と言われた。
口では秩父さんと言ってたが、腹では自分と思っていたのではないかしら。
東宮ちゃんが成年に達し、御自分が摂政になれないから退位論を改説されたのかしら。
秩父さんは終戦直後に内大臣木戸幸一や内大臣秘書官長松平康昌に、退位論ではない御説をはっきりお言いになった。
田島長官◆田島は一昨年や昨年は秩父宮のそうではない御意思の印象を受けております。
昭和天皇◆お変りになったか…。
田島長官◆いずれにしましても先だって来の文章ができますれば、世間発表前には御兄弟様に御内示になり御納得願った方が良いように思われます。
昭和天皇◆その方がよかろう。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1952年4月27日
秩父宮に御言葉の文申し上ぐ。
「固い・抽象的、まずよからん」とのこと。

1952年4月28日
高松宮に御言葉の文申し上ぐ。
「戦争のことは言わぬ方よし。今さら平和論を言うと言われる」とのこと。

三笠宮に御言葉の文申し上ぐ。
約50分熟考、御説あり。

1952年5月3日
式典は無事終了。
約一年苦労の御言葉もよし。

1952年6月26日
高松宮行状のこと。
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田島道治『拝謁記』拝謁記

1952年1月25日
田島長官◆元学習院院長山梨勝之進〔海軍大将〕に追放解除願を出すよう勧めておきましたが、山梨は慎重でありまして海軍大将小林躋造と相談して長老岡田啓介海軍大将を訪い同意を得、全海軍大将に手分けして話し一致の行動を取りましたそうでございます。
昭和天皇◆それなれば日本人の例の形式的で玉石混合で、海軍大将はみな良くなるのか。
それがいつも困る。
戦犯も内大臣木戸幸一を良くしようと思うと、また玉石混合で良くなる。
非常に困ることだ。
田島長官◆山梨の話では高松宮など皇族は追放ではありませんが制限は受けておられるので、形式的には追放ではなく実質的には制限あり困ったことであります。
昭和天皇◆高松さんは真珠湾の時の軍令部作戦関係の位置におられたから、あまり良くないことになるとかえってヤブヘビ的ゆえ何もせぬ方が良いと思う。

1952年2月11日
田島長官◆英ジョージ6世の葬儀は東京で大使館主催の弔祭式があるかと存じますが、ヴィクトリア女王の時は小松宮彰仁親王御夫妻、エドワード7世の時は皇太子御夫妻〔大正天皇夫妻〕ジョージ5世の時は高松宮御夫妻が御名代ということでおいでになっておりますが、今回は国際関係が正常でございませぬので御名代はどなたにお願い致しましょうか。
昭和天皇◆秩父さんは御病気で御無理ゆえ、高松さんにお頼みしてもらおう。
田島長官◆昭和皇后御名代も高松宮妃にお願い致しましてよろしゅうございますか。
昭和天皇◆御健康はどうかしら。
万一健康上の問題があれば秩父宮妃にお願いしてくれ。

田島長官◆まだ先のことでありますが、戴冠式が6カ月後なれば国交回復後と存じます。
その節もし駐英大使でなく御名代というような場合はいかがでございましょうか。
昭和天皇◆御親類の国は別として他の国の参列者の振り合いを見て、例えばフランスが大統領自ら行くという場合で政府も希望するようなら、私はむしろ名代が行った方が良いと思う。
その時もそれはやはり高松宮だ。
秩父さんは行かれないから、また三笠さんは歳もお若いから。

1952年2月16日
田島長官◆高松宮邸に出まして両陛下御名代の事をお願い致しましたところ、何か御機嫌が悪いことがありましたかいちいち何か仰せになり、
「私は秩父宮御病気ゆえ御名代を引き受けても良いが、昭和皇后御名代はお姉様〔秩父宮妃〕が本当だ」という御説を強く仰せになり、
「昭和陛下の御思召もそうだ」と申し上げましたところ、
「ヴィクトリア女王・エドワード7世・ジョージ5世など、みな秩父宮御夫妻お揃いの前例などを田島が申し上げぬから悪い」とか「秩父宮妃が御病気になればいい」とか「リッジウェイとの関係を田島が配意するのは馬鹿なことだ。日本が敗けた以上、下になるのが当り前だ」というような御話でありましたが、辞去後高松宮より御電話がありまして、
「藤沢〔秩父宮別邸〕との打ち合せの結果、めんどくさいから私のところでやれとの話ゆえ、それでよろしい」とのことで決まりましたのでございます。
昭和天皇◆高松さんは秩父宮妃のことをいろいろ言われたのだなー。
田島長官◆何だかいろいろ順調な御返事がありませんでした。
まずイギリス弔祭式について御国威を失墜することなしに済んだと存じます。

1952年2月18日
田島長官◆三笠宮が田島の部屋へおいでになりまして、
「戴冠式の御名代はどうなるか、私の外遊ということについて最も良い機会だが」との仰せでありました。
突然でありましてビックリしましたが、直接こんなに早く御話が出ようとは予期いたしませんでしたが、
「8月よりもっと早いかもしれませぬ。したがって正常国際関係が復活していないかもしれませぬし、またその際皇族がお出かけになることになるか大使的な人になるかも分かりませぬ」とハッキリせぬお答えを致しておきましたが、昭和陛下に直接お話があるかもしれませぬゆえ、ちょっとお耳に入れておきます。
田島長官◆高松さんは社交のことは御上手で、私なんかよりとても御上手だし、秩父さんが行かれれば一番良いがそれは駄目ゆえ、高松さんはこういう時には適当な御長所がおありだ。
この前高松さんが行かれたのはガーター勲章の御答礼で戴冠式とは違う。
戴冠式だからねー。

1952年2月25日
田島長官◆今日の新聞には戴冠式はやはり8月7日で、先方から招待状が来てみなければわかりませぬのだそうでございます。
昭和天皇◆イギリスは昔から親善だから、できれば今後も。

1952年2月29日
田島長官◆秩父宮からお手紙をいただきましたが、戴冠式に御名代の問題があれば東宮様がよろしいということであります。
田島はそれまで想像もいたしませんでしたが、御手紙を拝見してみればごもっともであり筋の通ったことで、具体的に考えてみるだけの要はあると思いました。
侍従長三谷隆信は消極的で、東宮職では若い連中はとにかく東宮参与小泉信三・東宮大夫野村行一の間では否定的に傾いております様でありますが、秩父宮に直接お伺いして両陛下に申し上ぐべきと存じまして藤沢〔秩父宮別邸〕へ上りました。
秩父宮は例の通り御自分の結論に反する事は枝葉的にお考えになりお論じになりますが、秩父宮の仰せは大筋はよく通っております。
「戴冠式御参列は難しいことでなくなんでもないことで、御役目というものがない。これは高松さんがガーター勲章の御答礼においでになったのとは全然違う。スターとして主役は何もない。ならびに大名的である」ということで、御自分様の御経験の順序を伺いました。
「前夜グロスター公の晩餐会から始まって、当日は式部官に誘導されて席にお着きになるだけ、国会での午餐・バッキンガムでの午餐も向こうの人は不慣れな方にはちゃんと気をつけてくれるから心配無用。私的にはクイーンがお呼びになる少数の宴会もあろうけれども、大してお困りになることはない。随従の者もある程度までお付き添いできる」
「軍艦は無し、飛行機も汽船も外国のものであり、右翼の者から問題にされる」ということも申しましたが、
「日本が一等国だった時のことを思っては駄目だ」との仰せでした。
秩父宮は非常な御熱意で、「話が進まなければ昭和陛下に直訴する」との御話でありました。
田島もこういう場所へ一度おいでになればその御経験は御自信をお付けになる機会でよろしいかとその点は結構と存じますが、田島・宮内庁次長宇佐美毅の積極に傾くこと三谷侍従長・小泉参与の消極に傾くこともあくまでも感じで、まだ意見と申すまでのものでもございません。
昭和天皇◆交通の問題を心配するのは右翼ばかりではない。
東宮ちゃんとしてはまたとない機会であるが、東宮ちゃんは身体が健康とは言えないし、行くとすれば香港・シンガポールの線はどうしても不可と思うゆえ、カナダかアメリカ経由ということになる。
そうするとイギリスに行く前に相当疲れてしまうと思う。
その上イギリスの儀式ということは主役でなくてもやはり疲れるから、その点どうかと思う。
秩父さんの議論は筋は通っている。
これは三笠さんをやめてもらうには非常に良いがねー。

昭和天皇◆東宮ちゃんの御名代の話ね、良宮と話したのだが「それはちと早い、若すぎる」と言ったのだ。
しかし私が「私がイギリスへ行った歳と比べると1年かそこらの差だよ」と言ったら、
「そうですか。そんならむしろ賛成です。行ったほうがいい」と言うのだ。
それでまたとない機会だし筋の通ったことだから、具体的な事とか客観情勢とか国民感情とかで行けなくなることもあるかもしれんが、それらの点が全て差し支えないならまあ望むという方の考えだから。
実は私は東宮ちゃんが長く留学というようなことはあまり好かぬので、そういう意味での留学とか洋行とかいうことはやめたいと思うぐらいだ。
アメリカが留学など言う時でも、これをやっておけばそれを断るにもいいしね。

1952年3月7日
田島長官◆戴冠式の件、新聞記者なども宮様は三宮様〔秩父宮・高松宮・三笠宮〕で、秩父宮は御病気として、他の二宮様ではあまり世の注目を引かぬらしく、ひそかに東宮様と思ってるのもあります。
昭和天皇◆どうしてそんななのかねー。
高松さんは社交は御上手だし、内地でもいろいろお出ましになるが、それがかえって困るということになるらしく、大正皇太后〔貞明皇后〕から直接伺ったが、埼玉県県会議長が直接大正皇太后〔貞明皇后〕へ「高松宮は困る」と言ってきたことがあるとの話で、大正皇太后〔貞明皇后〕は否定の御返事をなすったと聞いたが、そういうこともある。
田島長官◆実は首相吉田茂が初めから東宮様と思いましたのも、両宮様がイヤなためもあるかと思われます。
昭和天皇◆吉田はどうしてかねー。
秩父さんはいいようだが。
田島長官◆高松宮は御招待もお断りしますし、封書も拝見せんでお返しいたしますし、吉田首相は感情的にイヤらしゅうございます。

1952年4月8日
昭和天皇◆良宮が市外へ出るとなると一つ例ができると断るに困るようになり、悪い例だが高松さんみたように出てばかりおられ、高松宮妃はいつも御留守で御一緒のことが少なくなる。
これは良い例ではない。

1952年4月22日
〔1952年5月3日サンフランシスコ平和条約発効記念式典の御言葉〕
田島長官◆秩父宮が「高松さんがしきりに御言葉と言っておられるが、私はどうかと思う」とのことでありました。
秩父宮は高松宮とだいたい御意見が一致かと存じましたが。
昭和天皇◆いや、意見は違うんだよ。
高松さんは結局海軍の意見、秩父さんは陸軍の背後というわけで。

1952年4月28日
田島長官◆秩父宮は御言葉を御丁寧に3回熟読になりまして、
「少し堅いようだ。それから抽象的だ」とのお話がありましたが、
正月ぐらいに「何も仰せない方が良い」と仰せになってたことは、別に仰せになりませんでした。
「ああいうものはどうも少し堅くなるのも抽象的になるのもやむを得ない」と御退位のことについては何も御意見ありませんでした。
高松宮は一度ザッとお読みになり、「まあ、こんなものだろう」との仰せでありましたが、
「ブレントラストは誰か」と御質問があり、小泉信三・安部能成と申しました。
「もっと他に書き加えよというような意見はなかったか」との御質問ゆえ、
「原稿はずいぶん変わりましたが、比較的大きなことは戦争の事・終戦前の事に触れるか触れぬかで論がありましたが、この際それはやめた方が良いとなりました」と申し上げましたところ、
「それはやめた方が良い。戦争については昭和陛下は事実平和論者であられるけれども、詔書のことがあるから自分の意思に反した結果となったという仰せはやはりなさらない方が良い。《過去を顧み》という一句もあるし」との仰せで、高松宮も御退位について何の御疑問も御質問もありませなんだ。
昭和天皇◆そうか、高松さんはやはり御自分の御考より周囲の言うものに左右されるのだなー。
砲術学校の時は非常に主戦論で、東条の時は海軍の意を受けて非戦論、また終戦の時はもちろん早くというお考えだった。
御自分の意見というより周囲の意見に従われるのだなー。
田島長官◆先鞭をつけるとか意見をお急ぎになる所がおありではありませんでしょうか。
昭和天皇◆それもそうだが退位は、あの頃よく南原繁が上がってたからだ。
田島長官◆お二方とも御退位なきことに何の御異存もなき御様子に拝し、また御言葉も別に取り立てて仰せはありませなんだ。

1952年7月2日
田島長官◆高松宮の赤十字社の場合など総裁として相当仕事に関わりがあったような御話でありますが、これはおよろしくないかと思います。
昭和天皇◆皇族は責任を取ることができない。
例えその総裁を辞めても皇族は辞めるという訳にはいかぬ。
実際の仕事に当るということはやらないようにしなければならんと思う。

1952年7月4日
田島長官◆三笠宮が『赤旗』にインタビューで御話になりましたことが外国へ響いているということで、ロシアに関係ある世界的な会合に日本も出席すべきだというようなことと聞いております。
先だって福島の新聞の事件は申し上げましたが、〔三笠宮が福島県の警察予備隊誘致を批判した〕三笠宮は一部的に真理と思われますると全体的にどうかと思うこともドンドン言われまする。
昭和天皇◆地位を考えない、その影響がどうあるかということを少しも考えない、困る。
それは秩父さんも高松さんも、御地位ということ影響如何ということのお考えがどうかと思う。
田島長官◆高松宮は御言葉はなかなか御利口に仰せになりますが、御行動は必ずしもそうも参りませぬようで、平和になったという御気持が多少は関係あるかもしれません。
昭和天皇◆平和になった今日ますます世間の目が光るから慎重の要がある。

1952年9月10日
田島長官「外務省から連絡がありまして、いよいよエリザベス2世戴冠式に昭和陛下の御名代がおいでいただけるか、またそれはどなたかを御通知願うというような申し入れが、駐日イギリス大使デニングから外務大臣宛にありました由」とて、右文章を翻訳して申し上ぐ。
ミッションは3人以内とか一行も最小限度とか注意事項に、
昭和天皇「3人の制限が一行のことでなければそれでよろしい」
交通に関しては往路カナダ経由・帰路アメリカの御希望あり。
昭和天皇「フランスは共産党強きが如何」

1952年9月13日
田島長官◆東宮様御名代のことは極秘のことでありますが、秩父宮の御発言によって参りましたことゆえ、招請のあったことぐらい昭和陛下から秩父宮と御話になりますることは如何と存じました次第であります。
(昭和陛下、別に何とも仰せなし)

1952年9月19日
田島長官◆秩父宮につきましてカナダ映画の件は田島が早飲み込みいたしました結果、昭和陛下にも御心配おかけしまたいろいろ迷惑を及ぼしたようでありますが、お詫び申し上げます。
昭和天皇◆私は田島からカナダ映画の話を聞いて、侍従などがあまり見当たらぬという話を聞いたので、秩父さんあたりがまた「侍従の数を減ぜよ」などと言われはせぬかと思い、また服装がいろいろあって、秩父宮妃や高松宮妃などまた宮中服のようなものでも言い出されはせぬかというような気がして、私は秩父さんはお招きせん方がいいと決めた後であったので。
(これは侍従入江相政が「我々平民の社会では通用致しません」と御諫言申せし、
「御自分の御子様方と共に御兄弟もご一緒に御睦びなるべく」旨に辟易してか、こんな変な理由を仰せになり真に変と思う)

1952年9月22日
田島長官◆国体へおいでの時 できれば宮城・山形へもおいでになりたいむね拝承いたしておりましたが、例年と違いまして順宮厚子内親王御慶事・東宮様の成年式・立太子礼など特別の行事がありまして、侍従職の負担が重くなりまするので福島のみとしてお許しを得ましたが、
高松宮から「家来の都合で昭和陛下のおいでを左右するのはおかしい」との仰せで。
昭和天皇◆良宮など松島を知らないのだよ。
私は行ったが、外国人と話をする時には松島を知らぬではおかしい。

1952年12月8日
田島長官◆高松宮が翁島の御別荘を無償で福島県へ下附になる件でありますが、 有栖川宮威仁親王が御築造のとき地元民より意に反してお取りになっているような原因でもありますが、地元民にお返し願いたいという請願がありまして、表面高松宮は無償で県へ下附のため国会の協賛を要しておりますが、陰ではどういう風ですか有償であるとの話であります。

1952年12月9日
田島長官◆三笠宮が『青年よ、銃をとるなかれ』という一文をお書きになりまして雑誌にお載せになりましためか、ウィーンで開かれる共産系の会合の案内が来まして、その返事を書くよう式部にお話があり、官長がお返事なき方が良いむね申し上げ、どうしてもお出しになるとしてもお断りというだけで良いと思うとのことで、日本文で変なお返事でもお出しになれば良くないと存じます。
御地位をお考え願いませんと。
昭和天皇◆困るね、それは。高松さんもだ。
田島長官◆高松宮は改進党の代議士に招かれて栃木県においでになりましたのが、だいぶ問題のようであります。
昭和天皇◆改進党なれば。
田島長官◆保守党ではありますが、その代議士の人物がどうも感心しませぬので、政治的に御利用になられたことで反対党の代議士連がブーブー申しておりまして。

1952年12月18日
田島長官◆東宮様御誕辰拝賀のことでありますが、新嘗祭の時 東宮様が殿上で御拝になります時、宮様〔高松宮か三笠宮〕から「前例はあるのか」とのお尋ねがありまして、「あります」と申し上げましたが、その御質問の裏には宮様方はモーニングで拝礼かと思っておいでであったかと想像されますから、「本来は宮様方も御装束をおつけ願うのであります」と申し上げましたが、「それはイヤだ」との仰せもありました。
それから御神楽の時 東宮様御拝の時に臣下は起立いたしますが、もちろん宮様方はおかけのままであります。
これは親王として御同等とのお考えもあるかと存じまするゆえ、御誕辰拝賀となりますると宮様方の御誕辰にも東宮様が賀にお出かけになるべきかという問題もあり、真に難しくデリケートでありますため、御思召を拝したいと存じまして。
昭和天皇◆それはなかなかデリケートだが、皇太子の身位は未来の天皇で、私には叔父甥でも公には一段高いのだから行かぬでもよいと思う。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1953年1月3日
秩父宮、実は2:30頃御危篤、新聞等公表は4時半薨去。

1953年1月5日
御解剖行われ、2時過ぎ帰宅。

1953年1月10日
次長・侍従長より昨日両陛下 御葬儀に関し御不満のこと聞く。

1953年1月16日
高松宮御来室、秩父宮家財政のこと。
臨時費の他、月額補助従来の2/3になる程度御希望。

1953年1月20日
高松宮拝謁、秩父宮御会計御補助の件、長官にいろいろありがとう。
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田島道治『拝謁記』拝謁記

※当時の総理大臣の年給は132万

1953年1月15日
田島長官◆秩父宮家が親王薨去になりますれば、140万円の年分は停止になりますると1/3にお減りになりますので、御日常御不足かと存じます。
また経常費合理化のため人減らしがあると存じますが、解雇につき退職金が御入用かと存じます。
鵠沼の御邸も相続税が相当あるかと存じます。
御不足分を御本家の内廷費で御支弁いただくより仕方ないと存じます。
昭和天皇◆それは当然内廷費で支弁するようにしてよろしい。
あまりケチでなく。
田島長官◆昨日高松宮妃がおいでになりまして、
「秩父宮家の御会計はどうだろう。高松宮家とて富裕ではないが少しぐらいのことはできるから」というようなお話でありましたから、
「必ず昭和陛下がお許しになると存じますから御心配なく」と申して置きました次第でございます。
医療費の点は解剖の御礼もあり昨年までの分は済んでおりまするが、これはやはり別に賜ることに願いたいと存じます。
昭和天皇◆実行方法はどうするのか。
田島長官◆医療費は全額決定次第御手許上げいたし、従来通りお自ら秩父宮妃にお渡し遊ばされ、その節昭和陛下から秩父宮妃に対し親しく御言葉で「宮家経済のことは長官に話してあるから」と仰せになれば結構かと存じます。
なお一つ内廷費支出のお許しをいただきたいことは、700万円の御葬儀費用を政府は厚意をもってくれましたが、宮内庁職員の徹夜など超過勤務手当に使用は厳禁と釘を差されておりいますが、さりとてなしというわけには参りませぬゆえ、内廷費から20~30万円支弁させていただきたいと存じます。
昭和天皇◆よろしい。

1953年1月16日
田島長官◆昨日豊島岡墓所で秩父宮妃にお目にかかりまして、
「いずれ昭和陛下より御話はありましょうが、皇室で御輔助の御気持でありますから、どうぞ田島に御相談いただきとうございます」と申し上げまして非常に御感激の御様子でありました。
ところが今朝高松宮がおいでになりまして、
「後家さんにおなりになって女さんお一人ゆえ金は要らぬという考えでは困る。田島の先入観がそれでは困る。宮家としても半分以上は妃殿下のための衣食の費用だ。秩父宮妃は特別な御地位と御経歴で国のためにお働き願うという立場で、御費用は御入用と考えてもらわんと困る。皇族の数は少ないし、特殊な立場で国際的にお願いするために費用は要る」との仰せで、今日は別に反対論を申しませなんだ。
高松宮と近い式部官長松平康昌に話しましたが、「それはちょっと行き過ぎですね」とも申しておりました。
昭和天皇◆それは今後は高松宮御夫妻で遊ばして、その輔助に秩父宮妃がおいでになればいい。
今まで秩父さんがやってられた程度のことは必要かも知らんが、それ以上は要らぬことと思う。
田島長官◆高松宮は金額の問題を仰せ出しになり、
「1/3になって月額58,000円ではどうも仕方がない。2/3くらいになるように御輔助になるといい」という風な御意見に拝しました。

1953年1月19日
田島長官◆秩父宮の医療費は44万2千円程度でありますが、他にも御医療費はありましょうし、50万円としていつもの通り御手許上げと致しまするゆえ、明日昭和皇后が鵠沼へおいででございますれば、昭和皇后より秩父宮妃に進ぜられますれば至極結構のことと存じます。

1953年1月20日
田島長官◆秩父宮家の毎月の内廷御輔助の金額を定め願うことが先決となりまするゆえ、宮内庁次長・侍従長・侍従次長・式部長官ら要職の者の個別的意見は期せずして年額70万円と申しまして、つまり法律上秩父宮御在世時の1/3にしかなりませんのを、内廷の御輔助で2/3に願うということであります。
昭和天皇◆よろしい。
田島長官◆高松宮に秩父宮家の件 申し上げましたところ、非常に御満悦の御様子に拝しました。
田島拝命以来初めて「御苦労だった」との御言葉をいただきました。
昭和天皇◆そうか。

1953年2月25日
田島長官◆イギリス戴冠式への御希望を申出ありましたが、秩父宮の御発議で東宮様となりましたゆえ、三笠宮としては御失望かと存じます。
それゆえ政府に頼み何かの名義で御洋行の機を作ることは、三笠宮のためにも皇室にも日本国にもよろしいかと存じます。
昭和天皇◆高松宮妃もそんなことを言っておられて、洋行は第一の方法と思うが随員が大切だ。
田島長官◆式部官長松平康昌は外交官僚日高信六郎が良いとのことであります。
三谷侍従長も日高は良いと申し、三谷は東宮様随員首席にも一度日高と申したことがあります。
昭和天皇◆日高は立派ないい人物だと思う。
ただし三笠さんに対して影響を及ぼす力があるかどうか、その点が駄目なら人物が良くても駄目だ。
三笠さんがその意見に動かされるようなあまり年齢の違わぬいい人はないものか。
田島長官◆秩父宮・高松宮は皇孫でお生まれになり、三笠宮は皇子としてお生まれで、大正皇太后〔貞明皇后〕〔貞明皇后〕が末っ子は可愛いと言うのでお可愛がりになったというようなことも多少ございましょうか。
昭和天皇◆私などは〈おもう様〉〈おたた様〉と御一緒のことはあまりないが、日光や葉山の付属邸というものは三笠宮のためにできたという一例を見ても、田島の言ったようなことはあった。
三笠さんはワンパクで、籐椅子をお振り上げになったのを女官がお止めしたのを、子供は活発でなければと大正皇太后〔貞明皇后〕がお止めになったというような例もある。
陸軍少将田内三吉というのが養育掛としてずっとお付きしてた。
秩父さんや高松さんは恥ずかしいのかちっとも三笠さんと遊ばない。
私は遊んでやったことがある。

1953年3月26日
田島長官◆高松宮妃が三笠宮御洋行に関して御話になりましたと見えまして、
三笠宮は「高松宮妃は私の子供のことなど少しも考えておられぬ」とのお話がありましたとかで、「自分は外国旅行より留学したい」との仰せでありましたそうです。
昭和天皇◆それは高松宮妃から聞いた。
高松宮妃を通して三笠さんの考えというのも聞いた。
我々はお父様お母様とは言わないで〈おもう様〉〈おたた様〉と言うのだが、三笠さんはこれを改めて普通のお父様お母様として御実行になっているそうだが、それはそれでいいとしてその裏付けになっているものに何かあれば面白くないと思う。
高松宮妃のお話に「子供を連れて行かなければ百合君さん〔三笠宮百合子妃〕が神経衰弱になってしまう」とのことだが、私は神経衰弱になるのは三笠さんではないかと思う。
なぜならお父様お母様のような皇族として従来なかったことを始められているのが、御留守中に壊されるのを御心配になるからだ。
皇族たる権利と庶民たる権利を二重に享有せんとする思想である。
権利ある者はそのための義務があるはずだ。
二重の権利はいかぬ。

1953年4月20日
昭和天皇◆皇族は今皇族としての特権は十分ある上に、昔と違って庶民と同じような生活をもなし得るという両方の得な立場にあるということが、元は同じ皇族であった元皇族から見れば、いかにも両方とも持って得をしているという風にに考え、羨ましく思うという心理があるのではあるまいか。
田島長官◆確かにさようなことはあり得ると存じます。
皇族としてのいろいろな特権は元皇族と大きな違いであります上に、平民的な御行動の御自由も十分お持ちであります。
高松宮など地方へお出ましの時は固い御歓迎の席のみでなく日本流宴会などもお好みとの評判もありまするゆえ、そういうお感じはごもっともとも感じられます。

1953年4月22日
田島長官◆昔は側近という観念は侍従職関係に限られましたが、今日では宮内庁の役人は全部側近のつもりで勤務いたしております考え方に変化しつつありますゆえ、昭和陛下が夜のモーニングはと仰せもあり。
昭和天皇◆私がモーニングは晩餐におかしいと言ったのは、外部の首相や何かを呼ぶ時のことを言ったので、内輪の内宴的にはモーニングでもいいと思う。
高松さんなんか、昔のやり方は内廷皇族や側近のために御不平を言われた。

1953年6月20日
昭和天皇◆昨日田島の言ったことだがねー。
私には田島の言ったことは、私が子供の方に重きを置いて高松さんなどのことを次にするというような意味に感じを受けて実は驚いたのだがねー。
田島ががそんな感じを持ってるかと思って。
私はむろん皇族さん方を重んじて子供の方のことはもちろんその次に考えているので、主義としては私は田島の述べたのと同じことを考えているのだが、こと重大だと思ったから良宮にも話して今日話すわけだが、ニュース映画〔視聴会〕のことは元皇后宮大夫広幡忠隆の頃に平素はお目にかかることもしずらいから、なるべく御話する機会のあるようにとの高松さんの方の希望で、それではニュースにおいでなさいということになって始まったもので、先方の希望を入れて始めたことなのに、近頃は少しもおいでではない。
それから宮さん方は御機嫌伺いなどということはちっともないけれども、内親王の方は御機嫌伺いというので向こうからやって来る。
それゆえ食事を出すことがあるというに過ぎない。
こちらから食事に呼んだことはない。
それから叔母様方〔照宮成子内親王の嫁ぎ先〕は去年の立太子礼の時にも菊栄会親睦会に呼べたけれども、鷹司〔孝宮和子内親王の嫁ぎ先〕・池田〔順宮厚子内親王の嫁ぎ先〕はどこにも入らなかったから(これは明らかに昭和陛下の御記憶違い)今度呼んだだけのことだ。
今言った通りで昨日田島の言った通り、私は子供より皇族さんを重んじてやっているのを、田島がああいうことを言って驚いた。
(とのお繰り返しゆえ、これは昭和陛下の御意思に反しても変な理論を仰せになっておいでのことを御諫言申さねば昭和陛下の変な御理屈を是認することになるが、笑っておいでではあるが拝命以来の御語勢ゆえ)
田島長官◆さようでございましたか。
田島が昨日申し上げましたことで昭和陛下を驚かせましたことは、誠に恐れ入りましたことと存じます。
この事柄で田島が何か申し上げまするには、覚悟を新たにいたしまする必要もありまするゆえ、今日は退かせていただきまして、覚悟のできました上で改めたただいまの仰せに対し申し上げることにお許しを得たいと存じます。
昭和天皇◆うん、そう。
私はちゃんと田島の考え方と同じであるゆえ、今日ニュース等のやり方をその考えでやってるが、実際のやり方がどうもというので再検討するという意味なら、それは分かるので話は別だ。

1953年6月22日
田島長官◆田島が宮内庁長官を拝命いたしましたのは芦田内閣からでありましたが、突然の話で驚き断りましたが、「5月3日の憲法記念日までに決まらねばGHQの方から先方へ猟官運動をしている者を押しつけてくるかもしれぬ」と芦田首相が申しましたのが気になりまして、GHQに猟官するような奴よりは田島の方がまだマシだと存じ、ついに拝命するに至りました次第で、芦田首相に侍従長は田島の推選する者に同意してほしいという条件を出しました。
侍従長三谷隆信はおとなしい人で誰にでも評判はよろしいが、何一つしないので学習院ではやや持て余しておりましたが、人物は誠実で頭が良くて大人しくて、侍従長はむしろ消極的な方がよろしいぐらいで、かつて御通訳をいたしたこともありますので三谷に承諾してもらいましたが、侍従長としては誠に適当と存じます。
申さば田島は追放の多い最中に代用食のようなことで拝命いたしました次第で、その時分はまだ東京裁判以前でありまして、今日とはずいぶん違っておりまして、昭和陛下御退位の問題もやかましく、昭和陛下から「元宮内大臣牧野伸顕にはよく打ち明けて大切なことは相談する方がよろしい」とのお示しもありましたので、大事と思いますることは考え抜きました結果を牧野のところへ参り相談いたしました。
爾来表の方のいろいろな問題にも当たりましたが、この問題は昨年5月3日の昭和陛下の御言葉によりまして終止符を打ちました。
奥のことも5年間いろいろな人からいろいろなことを耳にいたしましたし、表のことに関する奥のこともありますので、自然奥のことにも頭を使うは当然でありました。
例えば三笠宮の思想・行動の上にどうかと思われる節があり、三笠宮にも少し御態度を変えていただきたいなどということを申して参りましたけれども、一面田島は宮内庁のことに全責任ある身として考えてみますれば、三笠宮がどうしてそういう風におなりになるのか、おなりになるには宮内庁長官として職務の不十分なところがないのかと反省してみますると、やはりないとは申されませぬ。
しばしば御洋行の御希望を承りました時、「在外邦人の金などでは駄目でございます。お兄様はみなさま御洋行ゆえ、堂々皇族としておいでになれますような機会を考えます」と申して参っておりましたところ、今回のイギリス女王戴冠式には東宮様がおいでになりますことになり、三笠宮としては御不満にお思いにもなりませんが、自分はいつ行けるかとお思いになりますことは当然であり、また昭和陛下は終戦と同時にひどくお変りになりましたが、宮家の変化に比べますれば日常の御生活ことに経済の面では格段お違いにならぬとも申されまするに反し、特に三笠宮はお子様も大勢さんおありで、今後いかになり行くかと先をお考えになれば、進歩的な思想についてのお考えになりますのも多少は理由のあることと反省して考える必要があり、さすれば宮内庁長官として三笠宮の思想・行動をただ困るというだけでなく、その原因になることに対策を立てぬが職責上悪いということになりまするので、具体案としてとにかく一度御洋行願うことがよろしい、またできる限り経済上お楽になりますよう取り計らいますことが必要と存じまして、昨年来政府側に対しても予算等を頼んでおります次第であります。
田島は一長官でありまするが、昭和陛下と遊ばされましては、皇族の一員である三笠宮に対して望ましいかぬ思想・行動おありの時には、それはどういうわけか、どうしてかとお考え頂き、単に困るというだけではなく、なんとかお考えいただくことが必要ではないかと存じまする。
高松宮にしてもいろいろのことがあり、最近霜害が最もひどかった川越地方へ視察においでの節、宿屋以外の料理屋にお泊まりになるというので地方新聞にちょっと出まして、埼玉県知事が心配して宮内庁次長のところまで参りましたようなことがあります。
軍人でおいでの方が毎日お勤めになる軍職がなくなり、ありがたかっておいでを願うとなれば、時間がおありゆえお出かけになります。いくら共産党の世の中になりましても、皇位継承権をお持ちの三笠宮が如何とも遊ばされることはできぬは明白で、皇室の首長たる昭和陛下に大きな御立場から大らかになっていただくことが必要かと存じます。
昭和天皇◆その点は分かったが、高松宮妃もヴァイニング夫人の時に良宮に先んじて英語を習い、またじきに辞めてしまうとか、秩父さんが私にゴルフを勧め、それではとやりだすと御自分は飽きてやめておしまいになる。
秩父宮妃も高松宮妃と一緒に宮中服をお作りになるに熱心でいて、評判が悪くなると一緒になって悪口を言い、そして御自分は和服を着るというように、飽きやすくて人より先じたがったりなさるから、どうもそういう点が…。
田島長官◆田島の立場としては申し上げるのもつらいことでありまするが、そういうことはすべて宮様の方がお悪いとは存じます。
宮様方の方がお悪いと断言せざるを得ぬとしましても、昭和陛下が宮様方と同列に立って向こう様がこうだからこうだと仰せになりますことは、昭和陛下の御立場としてはいかがかと存じます。
田島は仏教の家ですが、キリスト教の方では羊飼いは普通についてくる羊の群れよりも迷える羊の方を余計に心配するということであります。
この羊飼いのようなお気持ちで、弟様方をも親心で子のように思いになればと存ずるのでございます。
(昭和天皇「うんうん」と強く御応えになり、「具体的にどういう方法にしたらばよいか」との仰せあり)
田島長官◆毎週のニュースはおやめになり、月2回ぐらい御懇談の御食事でも共にせらましたらばと存じますが、よく侍従次長稲田周一と練りまして申し上げます。

1953年6月24日
昭和天皇◆田島の話もあったので、昨夜は御馳走をしたのだが、スッポンもあったので。
田島長官◆スッポンのスープでありますか。
昭和天皇◆いや、スッポンの料理だよ。
高松さんは非常にお喜びだったが、高松さんと御懇親するのは食事以外よりないよ。
御料理の話の中で三笠さんもいろいろな物をお食べになってるようで、牛の頭の料理はおいしいとかなんとか言ってられたが、私は三笠さんは矛盾もはなはだしいと思うのだがねー。
平素いろいろ進歩的な意見を言われるが、ああいう贅沢な料理の御話もなさる。
それにちょっと心配なのは、御口が軽いから昨夜のような御馳走の話を外でされやせぬか。
皇室は御質素などと言っているが、この間は御馳走が出たなどと言われると誠に困ったものだが。
三笠さんは困るよ。
この前 田島に「7千万円もかけて仮宮殿を作るは贅沢だ」など言ってきたなら、牛の頭とか贅沢な料理などは知らぬはずだ。
矛盾だよ、三笠さんは。
田島長官◆三笠宮は7千万円の時も相当仰せありましたが、御説明しますればまあおわかりになりますし、昨年の5月3日の御言葉中の《米国をはじめ》を削れとのことでもなかなかやかましく《英米をはじめ》の訂正にまでお折れになりましたが、反米的でかなりきつく申され、田島へ御手紙、また官邸へもおいでになりなどいたしましたが、昭和陛下がお決めと申しました後は何とも仰せありませんでしたから、お若いためにちょっと進歩的な思いつきのおありの時は仰せになりますが、おわかりになればそれでだいたい静かにおなりのようでありますが、どうも矛盾よりも進歩的なものに余計お気が向くらしく、先だってもアメリカ国務省に太平洋問題調査会の人間が巣食うことの調査拒否を調査報告をお話ししてもらいました時も、普通はずいぶん恐るべきことだと感ずべきなのに、そういうことはまあありがちのようなお考えで、根底に何かちょっとどうも。
昭和天皇◆どうも高松さんも三笠さんとは昨夜もあまりお話なさらぬ。
秩父さんがお亡くなりになって、高松さんは秩父宮妃にいろいろ尽くしておいでになるようだが、どうも三笠さんとは合わぬようだ。
田島長官◆秩父宮は同じ陸軍でもあり、三笠宮も御殿場までお出かけになり、むしろ高松宮への御話は秩父宮を通されたというようなことも聞いておりますが、どうも三笠宮様のことは何とか致さなければなりませんが、秩父宮なき今日どうしてもお二方だけゆえ、だんだんにお歳も召してやっていただく他ないと存じております。
田島と致しましてはとにかく経済面その他でできるだけ三笠宮のお気持ちのいいことをすることは必要だと思っております。
昭和天皇◆まあ私としては田島の言った注意で努めてやるから、具体的なやり方は田島の方でよく考えてくれ。
(申さば諫言的な申し上げのこと御容認の御言葉と拝し恐懼す。また感激す)

1953年6月29日
昭和天皇◆皇族さんの名代のことだが、さっき田島が高松さんに聞いても侍従御差遣で結構と仰せになるが、だいたいおイヤなのだ。窮屈で今までどなたもおイヤであるのだ。
田島の言った主意で皇族さんにも一体となって懇意的にするのであるが、食事をしたりニュースだけではつまらぬとなれば、楽しみということのみになり、それが漏れて皇室が楽しみのようなことばかりやっているように間違われるのも困る。
災害の見舞いの御名代となれば公然でよくわかって、皇族もいろいろしておいでということもわかると思うが。

1953年6月30日
田島長官◆三笠宮としては別にアカの方に同情してるという立場でないおつもりかもしれませぬので、例えば職員の30円弁当かなにかお取りの時に、宮内職員高尾亮一が「皇族さんとしてそれはおかしゅうございます。大膳へ頼みどうとも致します」と申し上げまして、「いいよ」との御話でありましたそうで、三笠宮はすべて簡便が良いというお気持ちの御行動で、この点 高松宮はこういう軽いことは少しもありませぬ。
昭和天皇◆高松さんはそういう点はいい。
田島長官◆実は災害地に侍従御差遣のことを高松宮に申し上げましたゆえ、三笠宮にも申し上げねば悪いと存じまして昨日申し上げましたが、その時 下の侍従の部屋で侍従連と御一緒で一つの机で原稿書きをしておいででありました。
戯談的に「いつ侍従を拝命になりましたか」と申し上げたようなわけでございます。
昭和天皇◆それは陸軍の風で、兵隊と同じことをするという流儀なのだ。

1953年8月1日
田島長官◆三笠宮のことでありますが、警視庁で御心配申し上げてることを御本人様に申し上げぬわけには参りませぬので申し上げましたところ、特に御関心の様子もなかったように承りました。
間接に伝言でありまするゆえ、何と仰せになったかはわかりませぬ。
御洋行には外国語は御必要ゆえ、外国語の御勉強をお勧めして、しかるべき思想の良い外人と言語の御勉強としてお付き合いになればよろしいのではないかと考えております。
昭和天皇◆田島への返事に「またいい機会があれば1~2年の内でも行きたい」とあるが、いい機会とはどんなことか。
田島長官◆高松宮も三笠宮のことを非常に御心配で、先日も上がりました節「例えば明年のブラジルの400年祭に高松宮のおいでをお願いしてるとのようなことはどうか」と仰せになっておりましたが。
昭和天皇◆それならば高松さんが三笠さんにそういう風に言えばいいね。
田島長官◆高松宮が先方へ三笠宮をとお話をお付けになりましても、三笠宮がイヤと仰せになりますれば何ともなりませぬ。
昭和天皇◆それもそうだ。
田島長官◆これは田島の拝察でありますが、三笠宮はちょっとした御洋行をお一人で遊ばしたといたしますれば、政府が三笠宮妃と御一緒に諸国御漫遊というようなことに二度とは金を出してくれまい、小さいので済ませられてしまってはつまらぬとのお考えがおありかと思います。
昭和天皇◆私はこの前秩父宮妃ともお話ししたのだが、本当に三笠宮妃が御同行できぬのか、お子様のことを口実にしておいでなのか、実情がわからぬ。
三笠宮妃が三笠宮のお考えをどういう風に考えておられるか。
もし私情で子供と離れたくないとしても、三笠宮のおために洋行が良いとなればこの際私情を捨てるお考えになるべきとも思うし。

田島長官◆那須へ秩父宮妃をお誘いになりまして、秩父宮妃は非常にお喜びで、どうか高松宮・三笠宮も那須へ仰せいただきたいと存じまする。
昭和天皇◆妃殿下方ならともかく、宮さんは来られてもどうも。
田島長官◆お受けになるならぬは宮様方の御自由として、三笠宮などもしこんなことでまたおひがみのようなことは困りまする。
高松宮も三笠宮御洋行のこと御希望が4~5年先とのこと申し上げに出ました際も、「御自分でできることはある程度のことをしても行かれると良い。また外国語の御勉強の方法もいいだろう」と仰せになりました。

1953年9月11日
田島長官◆前回申し上げましたように秩父宮の相続税の金額は29万円だそうでありまするが、新しい相続法ではお子様のありませぬ節は御兄弟にも相続権がありまするので、昭和陛下・高松宮・三笠宮になりまするが、もちろん御取得の御意思はなく秩父宮妃に全部でありますので、宇佐美次長より高松宮・三笠宮の御了承を受けましてございます。
軍人恩給の問題で、皇族のうち高松宮は恩給をお受けになり得られまするし、三笠宮は一時金だそうでありまするが、皇族としては恩給の積金は遊ばしておりませんし、皇族費は国家の支給でありまするゆえ、御遠慮の方しかるべきと考えまして、そのことを宇佐美次長より申し上げ、両宮とも御了承であります。
先日は三笠宮・秩父宮妃をお招き遊ばしまして、みな非常にありがたくお喜びのように拝しました。

1953年12月3日
田島長官◆三笠宮のことでちょっとよろしい朗報でございますが、高松宮の御話で高松宮はブラジルにおいでになりませんが「三笠宮にいかが」との仰せで、三笠宮は「南米へは皇族は誰も行ってないから行ってもよい」と仰せられました由で、三笠宮は往復とも船でおいでになりたく、また北米等には寄らぬとの話でありましたそうでございます。
船はどういうわけか存じませんが、北米へお寄りにならぬのはそれで御外遊が済んだとなってはとの御懸念かとも邪推いたされますが、宇佐美次長が「南米へ直接のものは少なく、自然北米にお立ち寄りとなりましょう」と申しました由であります。
昭和天皇◆皇族さんはみな御自分は独特というようなお考えがあるので、高松さんも誰も南米においでがないからと行ってみようとの御気もあるのだよ。
それができて欧米御周りということになれば一番いいねー。
田島長官◆御本人様御希望も承りましたことゆえ、外務省と話を進めてみますように申します。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1966年6月13日
木戸幸一との対話。
高松宮現状評判(素人の噂、お金のこと)などたっぷり話す。
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『入江相政日記』侍従長

1972年2月20日
昭和陛下が、高松宮妃が宮内官僚高尾亮一のお勧めによって断りもなしに〔新御用邸〕須崎御用邸を見にいらっしゃったことに怒っておいでになる。
秩父宮妃がいつか拝見したいとお申し出になったことはお喜びになっていたが、今日のお集りの時に秩父宮妃・三笠宮妃もお申し出になっては困るとおっしゃっているので、御参内になった時にそれぞれ申し上げる。
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『入江相政日記』侍従長

1973年12月11日
朝日新聞の衣奈君より電話。
高松宮妃からの御召で行ったら、日赤・朝日の共催である昭和皇后の展覧会の上りを、常磐会と藤楓協会に寄付するのとのことで、秩父宮妃も御同意とか。
あきれてしまう。

1973年12月25日
宇佐美長官・徳川侍従次長と高松宮妃のこと。
また昭和皇后の展覧会の上がりを常磐会と藤楓協会にと言われた由。

1973年12月26日
また高松宮妃が北白川女官長に、昭和皇后の展覧会の上がりを常磐会と藤楓協会にとおっしゃった由。

1973年12月28日
高松宮へ行く。
この間からの蒸し返し。
それでその不可なる所以を御話する。
よくわかったとのこと。

1973年12月29日
昭和陛下に高松宮妃のこと申し上げ、御安心いただく。
しかし同時に朝日の人などにおっしゃったことについては、あきれていらっしゃった。
宇佐美長官にも報告、喜んでいただく。
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『入江相政日記』侍従長

1974年7月6日
高松宮妃より御召。
「このあいだの謡はどうなった」とのこと。
つまり駄目、「そういうことは商売人にお任せ願いたし」と言う。
「特に進講の要なし」という。
これは相当に効いた。
帰って、宇佐美長官・徳川侍従次長・北白川女官長に報告しておく。

1974年12月20日
高松宮へ。
高松宮御夫妻から、天皇家五十年展についてのこと。
「昭和陛下の人間形成という意味からフランス革命史など御出品になっては」とのこと。
昭和陛下に伺ったら、「沖縄の貝はあまりにも平凡、高松宮が出すことは自由、ただ自分としては出すのはイヤ、フランス革命史については秘かにやるべきで誇示するようなことは好みに合わず」とのこと。
さすがに素晴らしい。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1974年5月17日
高松宮、(3月に完成した)迎賓館に見学においで。
「東宮様(平成天皇)、いまだ■■か?」〔小林は聞き取れなかった〕
昭和陛下から「高松宮は行かれたが、東宮様はどうか。高松さんはでしゃばりの気味があるから」とのことで、「東宮様はいまだ」の旨が判明したが、その言上は田中侍従に申し送り。
この件は昭和陛下が行幸の時から、東宮様お断りなど、少々複雑のいきさつがあるらしい。
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『入江相政日記』侍従長

1975年2月26日
文春の加瀬英明『高松宮かく語りき』を読んで寝る。
高松宮を良い役にしただけのつまらぬもの。

1975年3月3日
昭和陛下に、この間からの高松宮妃・美智子妃などのことについて申し上げる。
御納得いただいた。

1975年4月23日
宇佐美長官来室。
日本の皇族にあきれ返る。
〔5月7日~5月12日のエリザベス女王来日について〕

1975年4月26日
秩父宮妃から駐英大使大野勝己さんにも電話があった由。
八方に手を回して、なんたること。
大臣を押しのけてエジンバラ公に同乗する決意を、「さすがは高松宮様」と讃えられたとか。
この間からのこと、まったく話にならない。

1975年5月1日
宇佐美長官・徳川侍従次長・北白川女官長・式部官長島重信と話し合い。
秩父宮妃・高松宮妃が美智子妃・常陸宮妃に、
「和服ではダンスができないから、昭和皇后にお願いして洋服にしろ」と強く言われた由。
お嫁さんたちとしてはそんなことはできないということで、美智子妃・常陸宮妃は和服、他は御勝手にということにしようということになる。

1975年5月3日
晩餐の時のダンスの関係で、美智子妃・常陸宮妃はローブデコルテ、昭和皇后は和服の関係上、御一方では具合が悪いので秩父宮妃・高松宮妃も和服ということで両陛下のお許しを得ようということになる。

1975年5月18日
北白川女官長から、秩父宮妃から揺り返しがあった由。
宇佐美長官からも同じこと聞く。

1975年12月31日
エリザベス女王の御訪日もまた大騒ぎになった。
「我がイギリス」人種が多数現れた。
秩父宮妃・高松宮御夫妻・三笠宮寛仁親王・麻生和子夫妻。
外務大臣宮沢喜一や儀典長内田宏を脅したりしてさんざんの醜態だった。
三木首相も驚いたことだろう。
昭和陛下がしっかりしてらっしゃるからいいようなものの、さもなければ大変面倒なことになるところだった。
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『入江相政日記』侍従長

1976年1月13日
昭和陛下から御召。
文春の皇族座談会『皇族団欒』の高松宮のこと。
本当につまらないことを申し上げになるから困る。

1976年1月20日
昭和陛下から御召。
また『皇族団欒』の高松宮のこと。

1976年4月30日
「明日の旬祭、御代拝では」と申し上げたら、
「高松宮妃が『昨日の誕生日の後で疲れたのか』と言ってもいかんから」とおっしゃる。
「参列もないし、わかりません」と申し上げたら、
「いやいや、いろいろ情報網を持っているらしいから」とおっしゃる。

1976年7月1日
昭和陛下から「文春の皇族座談会『皇族団欒』のようなものを正しいものと思っていては困る」との仰せ。
三笠宮へ行き、三笠宮妃によく御話する。
あの座談会に批判的だったこと、高松宮一辺倒でないことなどがわかり、すぐ帰り昭和陛下に申し上げる。

1976年7月3日
秩父宮へ行き、秩父宮妃にこの間からのこと洗いざらい申し上げる。
すべて御同意、お喜びだった。

1976年7月5日
昭和陛下に秩父宮妃のことを申し上げる。
「入江、御苦労だった」と仰せくださる。

1976年7月8日
宇佐美長官に、秩父宮妃・三笠宮妃のこと報告する。

1976年7月12日
昭和陛下から、一昨日皇族方御参内の節、高松宮御夫妻が大変協調的であったがどういうわけかという仰せ。
「やはりいくらか御反省になったのだろう」と申し上げ、
「それならいいが」との仰せだった。

1976年8月14日
高松宮へ。
高松宮と昭和皇后のこと、美智子妃のこと、東久邇文子さんの再婚の縁談のこと。

1976年9月11日
秩父宮妃御参内、高松宮・東宮様などお集りの時にミグ25事件につきみなさんいいことだとお喜びとのことだったが、昭和陛下は「皇族さんは無責任だから」とおっしゃったとのことで、この無責任についてお掘り下げになった結果の御話。

1976年12月31日
1月10日文春の二月号に『皇族団欒』とかいうくだらない座談会の記事が載った。
秩父宮妃・高松宮御夫妻・三笠宮寛仁親王という顔ぶれ。
司会は加瀬英明。
つまり高松宮が一人で【誇りかに】しゃべっておられるだけ。
すでに昨年の文春の二月号にも加瀬君が書いているが、高松宮から伺ったようなことが多く、それによれば御自分は根っからの平和論者であり、太平洋戦争をとめたのも自分であるという意味のことが書いてある。
昭和陛下にはこれが非常にお気に入らず、実に数えきれないほど御召があった。
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『入江相政日記』侍従長

1977年3月8日
北白川女官長来室。
秩父宮妃が「高松宮はおさびしいのだ」とおっしゃったことを確かめるのは、秩父宮へどっちが行くかにつき相談。

1977年10月8日
秩父宮妃から御電話。
三笠宮寛仁親王が本を出し、例の対談『皇族団欒』も載せると。
絶対に不可と言う。

1977年10月9日
三笠宮寛仁親王から電話。
「伯母さん〔秩父宮妃〕から伺ったが、承知なさった高松宮に取り止めると言ったら妙にお思いになるだろう」とのこと。
「そんなこと問題にならない。もしこれが出た時のと比べれば、皇室としての損害は比較にならない」と言ったら、
「やめます」とのこと。
まあよかった。

1977年10月11日
昭和陛下に三笠宮寛仁親王の一件を話す。
予の処置にまったく同意。

1977年12月29日
歳末の拝賀。
御退出の皇族方にも自然会う。
高松宮、めずらしく大いに笑顔。
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『入江相政日記』侍従長

1978年1月4日
昭和陛下から、昨日高松宮が非常に御態度が良かったとのこと。
「一時の気まぐれでなければ」と仰せになる。

1978年9月21日
高松宮が富田長官と予に、
「式部官長はそろそろ外務省大使〔から採るの〕をやめて、昔からの儀式に通じている者にすべきである。侍従松平潔がいるじゃないか。本人は言いにくいだろうから、私が本人に言ってやった」とのこと。
まったく問題にならぬ。
富田長官も予も不愉快な気持ち。
富田長官に、高松宮対策につき吉川さんに事情を話し協力を頼もうと言う。

1978年9月22日
北白川女官長に、高松宮の松平問題を話しておく。

1978年9月25日
元式部副長吉川重国を訪ね、松平問題について逐一話す。
高松宮が「吉川が外務省大使の時代ではない」と言ったというのは嘘とわかる。
松平侍従のこと委細話す、あきれておられた。
「前々から変だ変だと思っていた」とのこと。
「でもよく聞かせてくださった」と言って大変喜んでおられた。
すぐ富田長官に報告、喜んでくださる。

1978年10月30日
メキシコ大統領夫妻をお迎え、御会見。
この前後の松平侍従、見るに見かねる。
メキシコ大統領夫人の身体に手をかけて向きを変えたりした由。
北白川女官長大憤慨。

1978年10月31日
富田長官、松平問題驚いていた。

1978年12月31日
松平問題はとうとう年内に片づかず。
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『入江相政日記』侍従長

1979年4月12日
式部官長湯川盛夫と侍従松平潔のことについて話し合う。
昨日もセネガルについて申し上げるのは、
「君は接伴員なのだから、式部副長和智一夫にした方がいい」とまで言った由。
予は1975年のエリザベス女王訪日の時も湯川官長が申し上げない細かいことなど言って、夜に吹上に押し込み一時間半も両陛下に申し上げたことなどすっかり話す。
驚いておられた。
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『入江相政日記』侍従長

1980年6月14日
富田長官から、高松宮が掌典長東園基文の落度(常陸宮の成年式の時の御裾の扱いが良くなかった)と侍従松平潔におっしゃったの件。

1980年6月17日
掌典長東園基文の所へ行き、高松宮の侍従松平潔の件をよく話す。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1980年1月3日
元始祭。
御告文が三殿であるところ、掌典長が皇霊殿で差し上げるのを忘れたらしく、お帰りになるや否や
「掌典長、間違ったね」とおっしゃり、
しばらくして「高松さん、今日来ているだろうか?わかるとよくない」と。
「お見えになっていないのではないか、見えていたとしても御声は届かないと思います」とお答えした。

1980年2月19日
3宮様御参内、晩餐。
高円宮の金婚式の御祝のため、秩父宮・高松宮・三笠宮五方おいで。
大食堂からのお戻りの際 高松宮は昭和皇后の御手をお持ちだったが、
高松宮が「昭和陛下がお焼きになるから」とおっしゃり、みなさま大笑い。
昭和陛下がなさったらということで、昭和陛下が昭和皇后と御手をつないで御談話室にお戻り。
大変ほほえましい、珍しい情景だった。
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『入江相政日記』侍従長

1981年4月29日
高松宮から「〔随筆をたくさん書いて〕昭和陛下を種に儲けるね」と言われる。
予は「第一印税はそんなに入らない。第二にそれはみんな昭和陛下に返ってくる」と言っておく。
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『入江相政日記』侍従長

1982年6月8日
高松宮が去年以来 御返事していなかったのを蒸し返してこられた。
御陪食の時の皇族の服装を背広ではなくモーニングにしたらとの件。
宮様方がモーニングになると昭和陛下御一方が御背広になってしまう、昭和陛下は御背広・モーニング、モーニング・御背広と御召替が大変だから、宮様方は御背広で昭和陛下を守ってあげていただきたいと申し上げた。
昭和陛下は「あの対応は非常によかった。あれでわからなけりゃもっと強く言え。宮様方は暇だから勝手を言う。もう少し実情を調べて言え」との仰せ。

1982年6月19日
高松宮へ。
高松宮から、三笠宮寛仁親王にも困ったとのこと〔皇室離脱発言〕彼は気が弱いとのこと。
噂に聞いていた三笠宮寛仁親王が宮内庁はいけないというのとは、ちょっと調子が違う。
戻って富田長官に言っておく。

1982年7月8日
官房副長官翁久次郎来訪。
このあいだの皇族会議では、宮内庁長官富田朝彦罷免論を論じ、高松宮から宮沢官房長官に電話。
放っておいたら麻生太郎・田中六助でまた来た由。
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『入江相政日記』侍従長

1983年1月4日
昨日の高松宮のこと伺う。
昭和陛下から高松宮に相当いろいろおっしゃった。
例の文芸春秋のことすべて仰せになった由。
高松宮も浩宮様〔令和の天皇〕の御留学につける人のこと、元イギリス大使加藤匡夫なくて元国連大使中川融でもいいとおっしゃった由。
これについて富田長官・宮務課長ら、さらに徳川侍従次長や侍医卜部とも相談してくれとの仰せ。

1983年1月5日
高松宮から電話。
3日のことにつき御話あり。
いつまでも御気に遊ばしていてもいけないから、何とでもするとのこと。
いい塩梅だった。
思っていたより具合よく行きそうになってきた。

1983年1月20日
高松宮へ。
高松宮御機嫌。
すっかり申し上げ、全部済む。

1983年1月24日
昭和陛下に高松宮のこと申し上げる。
大変御満足で、お褒めいただく。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1983年1月3日
高松宮御誕生日につき、両陛下と御談話室で御対面。
例年30分くらいのところ今年は大変長い。
昨夏以来ヘルペスで公式行事には御不参の美智子妃のこと、(皇室離脱宣言をした)三笠宮寛仁親王のことなどがあったからか。
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『入江相政日記』侍従長

1984年1月4日
昭和陛下より、「昨日の高松宮大変静か。今までで一番よかった」とお喜びだった。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1987年2月3日
高松宮薨去。
肺ガンのためと発表された。
秩父宮が薨去の際は鵠沼御別邸に行幸啓になったが、今日は午前中にお別れしたばかりでもあり、高松宮邸には行幸にならない。
明日行幸啓の予定という。

1987年2月4日
御服喪の期間。
両陛下はじめ東宮御一家各殿下は30日。
他の皇族方についても同様で、高円宮家の承子女王に至るまで一律30日。
高松宮妃は90日。
全ての皇族を一律にしていることは不可解。
昭和陛下も疑問をお持ちで、やはり親等に応じて異なるべきもの。
高松宮邸へ行幸啓。
宮内庁長官・主務官・侍従長・侍従次長・侍従・女官長・女官と本式のお供。
これが適当か否か。
秩父宮の時の例によるというが、あの時は鵠沼への行幸啓だった。
もっとひっそりとはいかぬものか。

1987年2月5日
高松宮の薨去で何となく慌ただしい。
新聞記者の出入りも多い。
NHKはFMの音楽番組を組み替えたので抗議の電話が殺到しているとか。
日本テレビでは天下関係特別番組を長時間流したので、TBSは10日御葬儀の日に同様にするとか、エスカレートしてきているらしい。
国葬ではあるまいし、弔意の表明ないし報道も適度にしないとかえって国民の反発を買うことになり、皇室制度にとってマイナスになるのではないか。

1987年2月10日
御葬儀次第の混乱と失敗。
お席など雑然としてまったく図面通りではく、拝礼の位置も予定とは異なる所にせざるを得ない。
皇后宮使の次第も混乱がひどかったという。
勅使が朝寝の間から出ないのに先導され途中待たされ、間では御榊を入れる台が祭壇前に置いてなく、拝礼が一時中断されたなどひどいもの。
昨夜も酷い扱いだったという。
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■本邸 港区高輪 ※現在仙洞仮御所になる

正面
0001(1)


背面
0001(2)


0003


0004



■葉山別邸


■箱根宮ノ下別邸 
1895年允子内親王と聡子内親王の避暑のために建てられた御用邸が高松宮に譲られる。


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◆高松宮宣仁親王 123代大正天皇の三男 光宮宣仁親王
1905-1987 82歳没


■妻 徳川喜久子 徳川慶久公爵の娘/将軍徳川慶喜の孫
1911-2004 92歳没


◆1905年01月03日 誕生 49センチ・820匁(3,075グラム)
◆1909年04月14日 学習院幼稚園入学
◆1910年04月11日 学習院初等科入学
◆1917年04月09日 学習院中等科入学
◆1920年05月08日 学習院中等科3年修了後、海軍兵学校予科入学(予科は皇族だけの特別措置)
◆1921年08月24日 海軍兵学校本科に進学
◆1924年07月24日 海軍兵学校本科卒業
◆1925年01月13日 成年式
◆1926年12月01日 海軍水雷学校普通科入学
◆1927年04月13日 海軍水雷学校普通科卒業
◆1927年04月14日 海軍砲術学校普通科入学
◆1927年07月27日 海軍砲術学校普通科卒業
◆1930年02月04日 結婚
◆1930年04月21日 ヨーロッパ外遊に出発
◆1931年06月11日 ヨーロッパから帰国
◆1931年12月01日 海軍砲術学校高等科入学
◆1932年11月29日 海軍砲術学校高等科卒業
◆1934年11月10日 海軍大学校入学
◆1936年11月26日 海軍大学校卒業
◆1986年10月22日 肺結核で入院
◆1987年02月03日 死去
◆2004年12月18日 高松宮妃死去


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『高松宮日記』

1933年9月3日
宮ノ下御用邸を見分する。
考えたより地形の悪い敷地だ。
残そうという御殿も景色は見えず、場所が具合よくない。
水道があり温泉がかなり出るのが取り柄なり。

1934年5月31日
宮ノ下御用邸を改造した家へ泊まりに行く。
思ったより新しそうに見えてよろし。
温泉は透明で頼りないが量は十分なり。
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★外遊 1930年4月21日~1931年6月11日

■全行程の随員

山県武夫 式部官
石川岩吉 高松宮務官
水野恭介 御付武官
黒田実  宮内職員
落合タカ 高松宮御用掛
山本タケ 高松宮侍女

■イギリスでの随員

安保清種 海軍大将
堀義貴  大使館員
渋谷忠治 宮内職員

■スペインでの随員

坂本恒雄 高松宮御用掛
荒井金太 大使館員



1930年4月 出国
1025


1930年4月 アメリカ
1031


1930年6月 パリ
1022


1930年6月 イギリス
1038


1930年6月 イギリス
1033


1930年7月
1010


1930年
ベルギー
左から
ベルギー国王アルベール1世
高松宮喜久子妃
エリザベート王妃
高松宮
王太子レオポルド3世
2001


1930年
イタリア
王太子ウンベルト2世と高松宮夫妻
2016


1930年10月 パリ
1015


1931年6月 ハワイ
1028


1931年6月 帰国
1027

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