直球和館

2025年

2001/05

◆高松宮宣仁親王(光宮宣仁親王)123代大正天皇の三男
1905-1987 82歳没


1925年 成年式 未成年男子皇族の正装
1000


1925年 成年式 成年男子皇族の正装
1001





■妻 徳川喜久子 将軍徳川慶喜の孫/徳川慶久公爵&有栖川宮実枝子女王の娘
1911-2004 92歳没

1006


1928年
19280001


1929年
19290001


母実枝子夫人と
1008


1929年
1929-2038(3)


1930年
1930


1009


1018


0007


1020


1021


1934年
19340001


1004


1936年
19360001


1955年 銀婚式
1024


1976年
19760266


1978年
19780401


19780403


19780404


1980年 金婚式
19800001


1014


1986年
19860132


1987年
19870042


1988年
19880108


1990年
1002

◆秩父宮雍仁親王(淳宮雍仁親王)123代大正天皇の二男
1902-1953 50歳没


■妻 松平勢津子 外務官僚松平恒雄の娘/会津藩主松平容保の孫
1909-1995 85歳没

*米フレンドスクール卒業


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秩父宮雍仁親王

僕は侍女に対しても時々ひどく暴れたらしい。
特に6歳の時は手に負えなかったとみえる。
記録を読んでいたら、次のようなことを約束させられている。
①食物以外のものを口に入れないこと。
②物を投げないこと。
③欄干に登らないこと。
④侍女に噛みつくことをやめること。

連日の夜昼、気を休める時もない看護は並大抵のものではない。
夜中 眠りから覚めるとあたりはしんと静まって、隣の室で寝ている勢津子の寝息も聞こえないし、廊下を隔てた看護婦の方も音もない。
突然痰がひっかかったのか、咳が出だした。
気がつけば飛んでくると思うと、布団を頭からすっぽりかぶって、できるだけ音の漏れないように咳をする。

1944年5月17日、いつもと変わりなく午前6時に目が覚めた。
そのとき右を下にして寝ていたので、仰向けになろうと寝返ったところ、左鎖骨の少し下で胸骨付近から肩甲骨にかけて神経痛的な痛みを意識した。
今までもこのような痛みは時々感じたことがあるので、あまり気にもとめなかった。
熱は36度2分、脈は80で平常と変りはない。
含嗽・洗面などを済ませ、約一時間の後 正常のように朝食をとったが、身体が異常に冷たく感じ、ことに脚が甚だしい。
別に悪寒はないのだが、布団を上の方に引っぱって体全体を暖めようとしたが、いっこうに効果がない。
食後さらに布団を一枚かけてしばらくしたらようやく身体が暖まってきて、それとともに熱が出て来た。
午前9時の体温は38度に昇り、脈は110以上を数えた。
この日はちょうど寺尾殿治博士の定期診察日に当っていたので、午前中まもなく東京から来訪した寺尾博士に診察してもらう。
熱は高いが、気分はそんなに悪くない。
午後2時頃から例のごとく午睡をしようとしたところ、呼吸が少しずつ苦しくなってきた。
こんな経験は初めてだ。
眠ったら良くなるだろうと眠ろうとするが、いっこうに眠れない。
20分・30分と経つにしたがって、楽になるどころか段々と苦しさが増してくる。
しかし耐えられないほどのものではない。
再び寺尾博士の診察を受けて、胸部の痛むところに塗薬してもらった。
この呼吸の苦しさは、2~3時間後にはだいぶ楽になった。
この日の体温は39度近くまで上がり、脈は130、また呼吸は息苦しかった時が40ぐらいであった。
この夜は大変だるくて、安眠ができなかった。

翌日5月18日は呼吸が苦しくなることはなかったが、吐き気があって食欲はほとんどなく、ブドウ糖の注射などしてもらう。
体温は前日より高く、午前中39度5分近く、午後は38度5分から9分の間であり、脈拍は終日130前後であった。
呼吸は割に多く30前後で、最高は40近い。
この日は遠藤清繁博士も来診。

5月19日午前中は、おおむね前日と同様の病状であった。
12時半ころ看護婦が心臓部を冷やす氷嚢の氷の入れ替えに数間行ったと思うころ、突如として強度の悪寒に襲われた。
看護婦はすぐ氷を入れて帰って来たが、僕の顔色のあまりの変化に驚いてしまって、その時ちょうど昼食のために別室へ行っていた勢津子に知らせに行き、勢津子はすぐに飛んできた。
あるだけの布団をかけてもらい、いくつかの湯たんぽを身の回りに入れてもらったが、震えは止まらない。
どうにもならないから身体を海老のように曲げていたが、なかば夢中であった。
いわゆる悪寒戦慄で、初めての体験だ。
この騒ぎの中 看護婦が休憩していた遠藤博士・寺尾博士が来て、カンフル注射を2本打った。
2本であったことは確かにわかっていたが、そのとき「痛い」と言ったことはまったく覚えがない。
悪寒戦慄がどのぐらい続いたかは覚えがない。
かなり長い時間のように思ったが、約30分だったと記録されている。
このあいだ勢津子と看護婦とでかわるがわる僕を呼んだそうだが、僕はぜんぜんこれを記憶していない。
身体が暖かくなってくるにしたがい震えは下火になって楽になったが、これと同時にまた呼吸が苦しくなりだした。
2日前の時はしばらくして収まったが、この日はだんだん苦しさが激しくなるばかりだ。
いよいよ本格的自然気胸が起こったのだ。
肺が破れ空気が胸腔に充満しだしたのだ。
寺尾博士は人工気胸の大家、さっそく空気を抜く準備にかかった。
脈拍は悪寒が起こって以来140以上を数えていた。
発熱と胸苦しさでなかば朦朧としてしまう。
「いま空気を取りますから、すぐお楽になります」とまでは寺尾博士の言うことがおぼろげながらわかったが、その後 気胸針を刺されたことなどは覚えがなく、空気が抜かれるにしたがって楽になり、意識は再びはっきりしてきた。
このとき取った空気は800ccであった。
140以上もの脈が長く続けば心臓も弱り、どんなことになったかもしれなかった。
死線を越えたというのは大袈裟な表現であるかもしれないが、それに近い体験であったことは確かだ。
左の肺はかなり前から空洞ができ、症状も悪い方へと進んでいたので、いつかは自然気胸が起こるかもしれないとは医者には想像されていたようだ。
いつかとはわからないにしても、5月17日に発熱し肺炎らしくもあり自然気胸の徴候もあったので、寺尾博士は5月17日以来、また遠藤博士は5月18日から泊まってくれていた。
そして人工気胸の道具も前日に届いたようなわけで、このように準備万端のできた時に起ったことは非常な幸運だったと言うほかはない。
この日の夕方には体温は36度を割り脈も90くらいとなったが、もちろんこれは一時的現象であった。

5月20日以上は、病状としてはまず落ち着き、熱は毎日36度から38度の間を上下し、脈は100前後であったが、数日後から気胸を起した方の胸に水がたまりだし、5月25日以降随時穿刺を行い、水を取りその後へ空気を入れて、この好機を利用して人工気胸を始めた。
これまでも気胸を試みてはとの意見もあったらしいが、レントゲンによると左肺は胸膜が肥厚して肺の細部が写らない有り様なので、おそらく癒着して気胸はできないだろうとの判断で試みなかった。
ところがこの空洞の破れとともに肺が具合よく圧縮されることとなった。

その頃の自覚症状としては、夜熟睡できないこと、頭がぼんやりしたこと、食欲のないことが特筆すべきものであった。
熱と体力の消耗とで昼夜ぶっ通しに眠りそうなものだが、夜は「眠られぬ夜」であり、昼は「醒めきらぬ昼」であった、昼夜を通しての半睡半醒、一日が長くて長くて持て余す日々であった。
新聞雑誌など読む気にもなれないし、読んでもらおうとも思わなかった。
そして夜になればただただ夜明けが待ち遠しい。
夜中になんべん時間を聞き、また自分で時間を見たかわからない。
そしてその度に針は一時間くらいしか動いていない。
そのうちにクロツグミなど小鳥がやっと鳴き出す。
普段ならもう少し静かにしていてくれればと思うこともしばしばあったが、今はこの小鳥の交響曲でまったく救われた気がする。
やがて欄間から明るさが入って来ると、待ちかねて雨戸を開けてもらい、朝の清い空気を胸いっぱいに呼吸する。
蘇生の思いとはこうんなことかとさえ思われた。
そうするとまたとろとろと一眠りできる。
こんな日が何日も何日も続いた。
頭はよほどどうかしていた。
今から考えるとあまりに馬鹿らしくて自分でも疑いたくなるが、食事をしていると時々これは自分のために口を動かしているのか、人のために食事をしているのかと、常識では説明不可能な迷いに囚われる。
こんな時はきっと瞬間的に眠って夢でも見ているのだろう。
また食べ物が食堂を下って行くとき、右の方へ行けばそれは自分の胃で、左の方へ行けば他人の胃だというようなことを真面目に考えた。
このような状態もしばらく続いた。

自然気胸の起こったことは、結果から見て天祐だったと言えるのではないかと思う。
1940年夏の発病以来一歩一歩悪くなっていたのだが、これを転機として一歩一歩良い方に向かい出したのだから。
しかし良くなりつつあるといえ安心の域に達したのは、数カ月ないし半年以上も後のことだったろう。
心配された膿胸にもならず、1943年の夏以来寝たきりだったのが、1944年の暮にはとにもかくにも床の上に起坐して食事ができるまでになったのだから、僕としてはこんな喜びはなかったわけだ。
喀痰の性質も次第に良くなりつつあったということは、病巣が治癒しつつあることを示した。
あの大戦の最中このような回復を遂げることのできたのも、両博士の万全の処置を第一に、勢津子をはじめ身近で看護に当ってくれた人々、離れていても絶えず心にかけて機会あるごとにいろいろ慰めてくださった肉親の方々、さらにはそれぞれの立場から直接間接に誠意を尽くされた人々のお陰と言うほかはない。
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秩父宮勢津子妃

侍女たちの手でマント・ド・クールから振袖に着替えさせられました。
そのおり足袋のこはぜを自分ではめようとしましたら、慌てて止められ「侍女がいたします」
老女からきっぱり言われ、ただもうビックリ。
お人形のように何もかも任せるということには朝から何回かの着替えでわかっておりましたが、足袋のこはぜまでとは。
そういうことまでできないのかと、とても悲しく暗澹たる思いがいたしました。

足袋のこはぜで承知しているはずですのに青山東御所へ初めて和服で庭つたいに伺いました夜、ついうっかりして自分の履物の向きを変えようとしましたら、「あ、およしあそばして」
手を払いのけんばかりの勢いで止められる始末。
自分でやれば履きやすいように置けるのにと思いました。
上半身のことと下半身のことではお役が違う、つまり担当する侍女が違うこともしって驚いたことでした。
お庭を散歩していて鳥の置物の向きを変えようとしましたら、「君様、私がいたします」と押しとどめられたぐらいです。

節子皇太后〔貞明皇后〕にもお喜びいただき、なるべくたびたび来るようにとの御言葉。
それも和服を着てくるようにとの仰せでした。
節子皇太后はお子様が親王様方ばかりでいらっしゃったため、私の和服や持ち物の色彩や立ち居がお心にもお目にも優しく楽しくお感じになりますようで、それは秩父宮様も同じでいらしたかもしれません。

節子皇太后はフランスのファッションにもお詳しくて、私などよそ行きのものは全部生地もデザインもお見立てで宮内省を通じてお届けいただきました。
お子様が親王様ばかりなので、お楽しみでもあったのかもしれません。

節子皇太后がお楽しそうだったといえば、私が上がった翌年の春から私の雛飾りをご覧になりたいとの仰せで、毎年行啓になりました。
飾った雛檀をとてもお喜びになりましたのも、親王様ばかりのお子様方にはなかった愛らしい行事としてお楽しかったのでございましょう。

当時秩父宮様は青山にあった陸軍大学までお付武官と毎日歩いてお通いになっておりました。
ご帰邸後は晩餐会とか宮中での行事がおありにならない限り、まずおやつにアンパンを召し上がるのでした。
甘い物は何でもお好きでしたが特にアンパンがお好きで、それも一個以上も召し上がりましたので、当然夕食に響いてまいります。
それをお分かりになっていらして召し上がる。それほどお好きだったのです。
私は娘時代からあまり甘い物を好みませんし、一度も手をつけませんでした。
今から思えばたまにはおつきあいすればよろしいのに、ぼんやりで気が回らなかったのです。

先日旧職員が参りましての昔語りのあれこれの中で大笑いいたしましたのは、秩父宮様と私の真夜中のローラースケートのことです。
「お寝み前のひとときよくローラースケートをあそばしました。お寝みになっておいでかと思う時間にお二方であそばす。私ども一階におりますと雷が鳴っているようで、初めは何ごとかと思いました」

私が上がりましてから陸大の夏休み中にハイキングに連れて行っていただきました。
秩父宮様としてはお好きな山の気分を私にも味あわせてやりたいお気持ちからで、それはよくわかっておりながらも私にとっては大変なハイキングでした。
日光からスタートして金精峠を越えて伊香保に一泊。
それから榛名山に登り途中自動車で軽井沢にでましたが、翌日は上林から発哺まで歩き、翌日は岩菅山に登るというまさに強行軍でございました。
妃殿下というものはこんなに歩かなければならないものかと本気で思ったりしたものです。
秩父宮様は女のご姉妹がおありになりませんので、手加減がおわかりにならなかったのです。

秩父宮様も高松宮様も大正天皇が皇太子殿下でいらした時にお生まれあそばしたので、明治天皇のお孫様ということで「皇孫殿下」と呼ばれておいでになっていたのに対して、三笠宮様は天皇様のお子様である「皇子様」としてお生まれになったわけです。
それで兄宮方はよく冗談で「こちらは生まれが違うから」とおからかいになったとか。

残された私がまず第一にしなければならないことは、ご遺言を実行することでした。
お手帳のご遺言は次の通りです。

『僕は50年の生涯をかえりみて、ただ感謝あるのみ。
特殊な地位に生まれたといふだけで限りない恵まれた一生を終えたいふ以外はない、平々凡々たる一人の人間だが。
ことに最後の10年はわが民族として国家として歴史上未曾有の難局と困苦の間にあったが、この間を静かに静養の生活を送れたことは、幾多の同病の人が筆舌に尽くし得ない欠乏の中にこの世を去って行ったのに比し、あまりにも恵まれすぎてゐたといふ外ない。
なにもわが民族のためになることもせず、ひいては世界人類のために役に立たなかったこの体の最後を少しでも意義あらしめるために、勢津子さえ反対ーーあえて我慢ができるならばと言ひたいところだがーーしないならば、解剖に附してもらいたい』

そのあと解剖の部位や立ち合いの先生方のお名前を挙げ、「結核の専門の人に限りたい」との但し書きもしてございました。
解剖について「勢津子さえ反対しないならば」とあるのを拝見した時は、泣くことを自分に許すまいと決心していた私も、そのお言葉に込められた秩父宮様のお気持ちに涙があふれるばかりでございました。
ご遺言には「火葬にすること」をお命じになっており、ご葬儀についても「墓地もないことだし、勢津子と二人だけのことだから、できるだけ簡素にすべてをしたい」とのお考えのもとに「もし許されるならば、いかなる宗教の形式にもならないものとしたい」とご希望が述べられておりました。
秩父宮様のお心をわが心とする私に反対などあるべきはずはございません。
ともに行こうと仰せられているならば、お供させていただきたいと思っておりました。
ご遺言にもとづいて昭和天皇のご同意を得ました上、ご遺体の解剖が行われました。

イギリスからはチャールズ皇太子ご夫妻が来日されたのですが、儀式の前日のご多忙の中をさっそくお二人で私をお訪ね下さったのです。
チャールズ皇太子はいきなり私に抱きつくようにしてキスをあそばし、「どうして儀式にご参列なさならいのですか。私がどんなにしてもお助けしますから、お出になられてはいかがですか」との愛情のこもった力強いお言葉に、激励と申しますか教えられたと言いますか、息子に叱られた母親の気持ちというのはこうもあろうかと思いました。
チャールズ皇太子は以前から私のことを「日本のお祖母様」とおっしゃられるのです。
チャールズ皇太子ご夫妻は4日間のご滞在中3度もお会いすることができて、最後にもう一度ご説教をいただきました。
「秩父宮妃はクイーンマザーのようにもっとワガママになさらなければいけません。御遠慮やお気づかいをやめて、ご自分の思うとおりになされば健康になられます」
日本ではできない、というより私にはできないと申しましたら、
「できないと言わずにやればいいんです」と日本のお祖母様は叱られながら、
心の中で「ありがとう、チャールズ」と申し上げたことでした。
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◆秩父宮雍仁親王(淳宮雍仁親王)123代大正天皇の二男
1902-1953 50歳没


■学習院初等科で選ばれた御学友は13名
放課後は二名一組が月水金組と火木土組になり一日交代で参殿した

小笠原長英
奥田成孝
近衛忠麿
佐竹義勝
三条実憲
千田貞栄
高辻正長
伊達定
千頭映臣
南部信英
丹羽氏郷
松浦治
毛利敬四郎

■学習院中等科で選ばれた御学友は11名

小笠原長英
奥田成孝
近衛忠麿
佐竹義勝
富永惣一
成田正彦
成瀬大児
芳賀信政
松浦治
毛利敬四郎
山根弘之

■学習院から陸軍幼年学校に連れて行かれた御学友3名

小笠原長英
芳賀信政
富永惣一

■陸軍幼年学校の御学友

長命健一
西村庚
松平定堯

■イギリス留学の随員 1925年05月24日~1927年01月17日

松平慶民   式部官
中村順一   侍医
岡崎清三郎  秩父宮付武官
前田利男   秩父宮事務官
渡辺八郎   秩父宮御用掛
武者小路公共 外務省


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小笠原長英 秩父宮の学習院時代の御学友

熱海御用邸は沼津と共に気候に恵まれ、冬でも遠足ができました。
東海道線を旧式な軽便鉄道で行きました。
ところがトロッコに屋根のついたような客車で、人が駆けるぐらいのノロノロ運転で、2~3時間かかったのではないかと思われる速度でした。
私はまるで外国へでも連れて行かれるような心細さに、ついシュンとした記憶がございます。
この時も秩父宮は景色を喜ばれながら、一人ではしゃいでおられましたよ。
私は秩父宮から「しっかりしろ」とずいぶんからかわれたものです。
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堀秀雄 高松宮の御学友

秩父宮は相撲がお強かった。
どうがんばっても負かされるばかり。
くやしかったが、歯が立たなかった。
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松浦治 秩父宮の御学友

雨の日に校庭に出られないと、秩父宮が「玉台の上で相撲を取ろう」とおっしゃる。
取ったとたん台の縁に脚を取られて床に叩きつけられた。
あんなに痛かったことはありません。
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閑院宮春仁王 戦後に閑院純仁と改名

秩父宮は「皇族は当然入校するのだから試験は無意味だ」と陸軍大学校の入学試験はお受けにならなかった。
私は秩父宮といささか見解を異にし、陸大学生として受験は全員が経験する一つの過程であるから、私といえども入校する以上は、形式的でもいいからこの過程を踏むべきであると考えた。
試験の結果はむろん落第点であったろうと思うが、入校した。
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三笠宮崇仁親王

実は秩父宮は海軍志望だった。
そして高松宮は陸軍を志望していたんです。
ところがそのころは陸軍の方が力関係が強かったせいもあって、最初の皇族は陸軍に次の皇族は海軍へということになったんです。
高松宮は実は船に弱かったんですよ。
おそらく海上勤務ではずいぶん苦労したと思います。
私の番になるとどっちでもいいと。
私はそのころ乗馬に熱中してましたので陸軍を選んだわけです。
ただ問題は幼年学校から入るか士官学校から入るかということでした。
幼年学校から入る人は中学1年か2年を終わって入る。
士官学校へ入る人は中学の4年か5年を終わって受ける。
秩父宮は幼年学校から入ったわけですが、貞明皇后はどうも秩父宮が幼年学校から入ったために一般的な常識とか教養を身につける時間が少なかったと思われたようです。
ですから私は学習院中等科4年を修了してから士官学校の予科に入りました。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

秩父宮が木馬から本物の馬に初めてお乗りになった時に、ついていた別当がお乗せしようとすると秩父宮が怒って足で別当を蹴飛ばされたということを聞いたが、後に成年になられた秩父宮の闊達な御気質はその当時すでに芽生えていたのである。

当時三殿下〔昭和天皇・秩父宮・高松宮〕は毎週土曜日におそろいで大正両陛下に拝謁のため御参内されていたが、三殿下が奥に行かれると供奉の者には酒がふるまわれた。
いつもなら酒を楽しむ秩父宮の伝育官たちが酒に手もつけない。
東宮職の人ばかりが酒を飲んでいる。
変に思って聞いたところ、禁酒令が出たので飲めないのだと言う。
秩父宮が子供であるのにお酒が好きであったので、それは良くないから成年になられるまで御付の者が酒を慎めば自然秩父宮もお慎みになるだろうということで禁酒令となったというのであった。

秩父宮の酒好きは成年になられてからも相変わらずで、宮中で皇族方の宴会がある時など他の皇族方がお帰りになっても、秩父宮一人いつまでも遅くまで飲んでおられて、女官の部屋まで行って騒いでおいでになったことを今でも思い出す。
当時警視庁では秩父宮のお帰りが遅いので、警備の関係もありいつもお帰りの時間を問い合せてきたものであるが、秩父宮はいつもこっそり裏伝いにお帰りになってしまわれた。

当時宮内次官だった関屋貞三郎が御殿に御機嫌伺いに上った。
やがて秩父宮が大礼服をお召しになって出てこられた。
関屋はお節介で細かなことに気のつく口やかましい人であったが、見ると秩父宮の勲章の副章が反対についている。
そこで関屋は副章の位置が反対であると御注意を申し上げた。
ところが秩父宮は非常に腹立たし気に、
「いったいお前は何をしにここに来たのか!」と言われたので、
関屋が「御機嫌を伺いに参りました」とお答えすると、
秩父宮は「それなら用が済んだらすぐ帰ればよいではないか。なぜ自分に注意する必要があるのか。自分にはちゃんと伝育官長がついている。言いたいことがあるなら伝育官長に伝えればよいではないか!」とますます威丈高になられるので、関屋はほうほうの態で退き下がった。

当時宮家の御結婚には興信所を通して調査される慣わしがあったが、興信所の調査員が私の家に松平勢津子姫について調べに来た時、他にも6~7人候補者があるのでと知らせてくれた。
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岡部長章『回想記』昭和天皇の侍従

私の受けた印象では、昭和天皇の悩みの種は主として陸軍だったようです。
侍従武官長の宇佐美中将が御前に出ている時に、昭和天皇がちょっと激しい調子で御話になるのを耳にしてしまったことがありました。
二二六事件の時の武官長は本庄繁大将で私が3月20日に侍従になって三日間ほどで退官、宇佐美興屋中将が新たに就任したのです。
宇佐美さんが拝謁している時に、「壬申の乱のようなことになる」という意味の事を大声で申されたのが聞こえました。
秩父宮を担ごうとする陸軍の運動があったと仄聞していたので、それに関連することだなと思いました。
秩父宮が多少激しい御性質の方だということは私も心得ていました。
それをまた陸軍の青年将校が担ごうとするのです。
おそらく宇佐美武官長は昭和天皇に対して、秩父宮の意見もいろいろ聞いてほしいと言ったのではないでしょうか。
それで昭和天皇が壬申の乱というような例を持ち出されたのだと思います。
ところが宇佐美武官長は「はあ」とか言って、壬申の乱が何なのかわからない様子でした。

秩父宮のようなお直宮が昭和天皇に会われるのは奥の方になります。
当時秩父宮は陸軍の佐官でしたから、御兄弟として来られるだけで軍事上の奏上はできません。
陸軍では皇族を金枝玉葉の御身分などと言いますが、それも昭和天皇にとってはプライベートな関係だけになります。
朝香宮が陸軍内のことに触れ、叱られて退出されたこともあります。
階級は大将でも軍事参事官で、上奏する立場ではなかったのです。
昭和天皇はそうした公私の別を固くお守りになりました。
陸軍の過激な将校は、この点の認識が足りません。
勝手に思い入れをしていたのです。
高松宮に対しても細川護貞君が懸命にネジを巻いたようですが、高松宮はそれを受け入れず、秩父宮・高松宮とも、この点ははっきりと身を処せられました。
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陸軍大尉寺倉小四郎 秩父宮御付武官

菅波三郎や安藤輝三が秩父宮にお目にかかって種々言上しても、このような場合秩父宮は決して御自身の御意見を言われない。
これはいつの場合でもそうである。
それが当時の皇族方の置かれた立場だったのである。
このことが秩父宮が実に聞き上手な御方だと自然に言われるようになった原因の一つである。
しかし時にはこのことが相手に対して、言上した意見に秩父宮が同意くだされたと錯覚を起こさせる原因となったことも否定できない。
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梨木止女子→坂東長康の妻坂東登女子 明治天皇・大正天皇に仕えた女官〈椿の局〉

大正天皇は昔からの明治天皇の仰せになるような言葉で仰せになった。
昭和天皇はいくらか大正天皇にお似ましのようですね。
秩父宮は下方にお成り遊ばしてるので、兵隊の中で揉まれてござるわね。
一般の人にふさわしいような、近いような御言葉ですわね。
今の明仁皇太子〔平成天皇〕は余計もう、さばけておいでになる。
それにお付きしてる人がみんなそんな粗雑な言葉を使うので。

秩父宮は大西さんという人と幼年学校が一緒で、その人が一番だもんで、それに勝とうと思って一生懸命御勉強遊ばした時に、おつむ〔頭髪〕真っ白になりましたよ。
「秩父宮、どう遊ばしたんでやんすか、そのおつむさん」って言ったら、
「大西に勝とうと思って一生懸命やったのよ」とおっしゃって、神経衰弱っていうのですかね、おつむが真っ白い。
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奈良晃 陸軍大学校 戦術教官

秩父宮の御成績は、陸大初期には全体的に見て悪い方であった。
残念ながら陸軍の俊英たちとは比肩するべくもなかった。
教官の立場から秩父宮の御成績を見ると、第一学年当初は最下位に近く、中期には中位の下ぐらいで、末期はようやく中位であった。
第二学年中期になると、上位から1/3くらいの御成績で、末期になって上位から1/6くらいのところに上昇し、第三学年になると五指の中に入るような成績となられた。
陸大成績は戦術が群を抜く最重要科目で、学生の成績の序列は90パーセント以上が戦術の成績で決定するようになっていた。
もし秩父宮が一般学生であったならば、当然恩賜組であることは間違いのない事実である。

秩父宮は「戦術の研究は私の性分に合っているとみえ、面白いと思ってやっております」としみじみと漏らされた。
なるほど、戦術は究極のところどうしたら敵に勝てるかということのみを探求する学術であるから、秩父宮のようにひとしお御気性の強い御方には、その研究が気質にかない面白いと感じられるのも当然のことで、裏返せば秩父宮がいかに負けず嫌いであられたかの立証ともなろう。
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高橋柳太 主計大尉※当時は調査班

日本は武力闘争を満州事変で一応打ち切り、今後は少なくとも15年間は決して戦争をしてはならない。
その間に新しい時代に備えるため、日本の国力の画期的発展と拡充を期し、超近代的軍備への改編を行わなければならない。
そのためには当面、まず日華親和・対ソ防衛の完備・満州国の完成・航空機工業の拡充・科学および技術の創造および画期的進歩向上等に挙国全力を尽くすべきである。
好むと好まざるとにかかわらず、人類文明は一大飛躍を来たし、科学と文明の飛躍による昭和維新は必ず実現する。
という意味のことを、石原莞爾は秩父宮に強調された。
この思想に秩父宮は心から共鳴されていた。
それゆえ当時一般からは突飛もないこと、狂気じみたこと、誇大妄想的な考えとされていたこの構想を一つ一つ成功させたいものと、秩父宮を中心に課内一同情熱を傾けていた。
秩父宮が特に熱意を示されたのが、科学技術の発展と産業の拡充であった。
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『秩父宮雍仁親王』秩父宮を偲ぶ会

秩父宮は御食事にさほど好き嫌いはなかったが、どういうわけか牛乳だけは苦手であった。

ある日 東宮と秩父宮が鬼ごっこの遊びをされている時、御二方はつい廊下の障子をやぶってしまった。
侍女が「室内のお遊びにしては少し乱暴でございます。障子を破くなどなされてよろしいのでございますか」と御注意すると、
東宮は「いけないことだ」と恥ずかしそうにされたが、
秩父宮は侍女を睨みつけたかと思うと、「えいっ!」とさらに大きく障子を破ってしまった。

秩父宮は学習院初等科に入学されて間もなく、
「図画・手工・体操・唱歌は好きだが、あとは嫌いだ」と言われた。
秩父宮は本を読むことがお好きだったし、教えられた漢字は次々に覚えられていった。
特にお嫌いだったのが作文と算術だった。
しかし、中等部では数学とフランス語が秀抜な成績になった。

1909年両国に国技館が完成、秩父宮は初めて相撲を御覧になってすっかりお好きになった。
翌日秩父宮は学習院から帰られると、カバンを廊下に置かれたまま、御学友たちを集めて相撲を始められた。
時には侍女たちをつかまえてパッと足をかけると、侍女たちはストンと倒れる。
侍女たちの隙を見ては不意に足をかけたりするので、侍女たちはときおりこの被害を受けた。

秩父宮はいつの間にか青大将を捕まえて鳥籠に飼っておられた。
秩父宮は傅育官や侍女たちをつかまえては、「蛇は好きか?」と聞かれる。
好きだと言えば、「では面倒を見てやれ」ということになる。
嫌いだと言えば、蛇を籠から出して手にぶらさげてこられる。
皆はこれに大いに悩まされ、好きとも嫌いとも言えず黙って逃げてしまうのであった。

1913年は明治天皇の崩御で喪が明けず、新年の儀式は行われなかった。
この年の沼津の冬は寒く肌の弱い秩父宮は耳を凍傷に冒されたりしたので、もっぱら室内で遊んだり勉強されたりしていた。
元来秩父宮は御幼年時代から、寒中でも手袋のようなものを使用されない習慣であった。
その理由は不明であるが、時にはスキーなどの場合にも使用されなかった。

1916年正月、御祝御膳につかれた秩父宮は、例年祝酒として出される雉酒がないのに気づかれた。
これは侍医たちが協議の結果、御酒の害がなにか禍いするようなことがあってはと、本年から秩父宮には御酒をやめにしていただくことになっていた。
秩父宮は俄然お怒りになった。
「雉酒はめでたい儀式の時に祝酒として飲むものなのに、どうして出さんのか」
侍女たちは秩父宮のお怒りの御様子にビックリし、傅育官たちはその理由を説明したが、筋の通らないことをやった傅育官たちではおさまりがつかなくなった。
そのうち報告を受けて急遽参殿した丸尾傅育官長が、
「お怒りはごもっとものことでございますが、侍医が心配を致しておりますので、どうかこれで御辛抱をいただきたいと存じます。その代り私も今日から決して御酒をいただきません」と申し上げてお許しを願った。
秩父宮は丸尾傅育官長の酒好きをよく御存知であったので、
「未成年の間は仕方があるまい」とお許しになった。
たとえ宮中のしきたりがどうであろうと、自分を血の通った人間として納得のいく処置を取らない限り、お前たちが何と言ってもその通りにはならないぞ、自分は人形ではないのだ。
これが秩父宮の信念であり人生観であったと申し上げたらよかろう。
まさに皇族中の反逆児である。
別室では傅育官・御用掛・旧奉仕者たちとの間で次のような会話が続いた。
「雉酒の件ですがね、あれほど厳しいとは思いませんでした」
「このごろの秩父宮は我々の手に負えないようになってきましたな」
「お四つの頃からなかなかきかない御方だったよ」
「僕の時は反抗期だったから、困ったこともずいぶんありましたよ」
「裕仁皇太子とは御気性がまるで違いますからね」
「まるで織田信長ですな」

陸軍幼年学校教官嘉悦基猪は、同郷の友石原莞爾の訪問を受けた。
話は秩父宮の御教育方針に及び、石原から
「君は秩父宮の御教育に直接携わる者としてその責任は重い。しかし私は今のような学校当局の指導・教育には疑問を感ずる。秩父宮は一般生徒と同じように何でもできなければならないということは必要ではないと思う。秩父宮は皇族としての御任務があるのだから、将校のことはひと通り御承知になっているだけで良いと思う。秩父宮本来の御任務はそんな末葉的なものではないはずだ」と言われて、嘉悦は深く考えるところがあった。
後年秩父宮の御発病の第一の遠因は、この陸軍幼年学校時代にあるのではないかというのが一致した見解である。
ちなみに学習院から秩父宮と共に陸軍幼年学校に入学した御学友8名のうち、陸士を卒業したのはわずか2名であった。
その他は病気等の理由で脱落してしまったわけである。
陸軍幼年学校の教育が一般学校に比して厳しいものであったことは、当時世間でも定説となっていたのである。

秩父宮が入学された陸軍士官学校の第34期生は、陸軍幼年学校から300名・一般中学からの合格者180名の480名であった。
しかし、実際に卒業できたのは365名であった。

1922年7月21日 陸軍士官学校卒業式の一週間前、秩父宮は同じ区隊の宮本進の依頼で西田税らとの会合を御承諾された。
西田が駆けつけると、すでに宮本・福永憲・平野勣・潮の4人が秩父宮を中心に静かに語り合っていた。
西田は「青年アジア連盟」の由来、「猶存社」との提携、内外の政治情勢を言上し、最後に彼らが秘かに計画しつつあった「天剣党」の目的について御説明した。
西田は会談が終ると、福永が浄書した『日本改造法案大綱』と『支那革命外史』を秩父宮に献上した。

筧克彦は貞明皇后の御召を受けて沼津御用邸に参上し、前後8回にわたって秩父宮に御進講し、その御筆記が後年節子皇太后職蔵版『神ながらの道』となって、全国主要神社へ配布せられたのである。

1928年12月24日、秩父宮は陸軍大学校に御入学になった。
時の陸軍大学校長は荒木貞夫。
荒木は来たる陸軍定期異動では、参謀次長か師団長が約束されていることを聞かされていた。
ところが満州に転任していた石原莞爾が突然荒木校長を訪ね、歯に衣着せぬ露骨な口調で、
「秩父宮の御教育は日本のため重大な任務であるから、御卒業まで必ず校長の椅子に留まるように」と強く要請して帰った。
荒木は「秩父宮は皇族の筆頭として徳の御養成が第一で、他の生徒とは自ら同一ではない。したがって、第一学年度には一般学生との同一作業で、秩父宮への真の御教育は第二学年度より始めよう」としたのであったが、翌年1928年の人事異動で荒木は熊本の第六師団に転出となったため、荒木の計画はむなしく中断した。

陸大生は優秀な頭脳が要求されることはもちろんであるが、体力も健康に自信のある頑強な者でなければとても務まらない。
いかに頑健な体力を誇る青年将校でも、平均週に二回が徹夜では次第に睡眠不足となるのは明らかであった。
ゆえに陸大入学時の健康診断は綿密厳格を極めたものであった。
陸大では何かとヤセ我慢をして、冬は夏服・夏は冬服で通す反骨的な気風が芽生え、秩父宮まで同調された。
秩父宮の御健康を案じた宮内省から内密に陸大に申し入れがあった。
それは秩父宮の御勉強についてもう少し緩和できないものだろうかという申し入れがあったが、陸大側が拒否した。
そんなことをすれば秩父宮のお怒りが目に見えているからであった。
陸大における秩父宮の御勉強ぶりは凄まじかったの一言に尽きる。
講義の後 教官に質問することも秩父宮が最も多かったし、教官と長時間にわたって白熱の論争をされることもしばしばであった。
教官への質問、学生との論争はすべて御納得の行くまで追及されて、相手が困ることも見受けられ、教官が来るのを待っている間に学生たちとの戦術の論争に夢中のあまり、教官が入って来たのに気づかなかったこともあった。

秩父宮のお手回りの品々は万年筆・時計等すべて国産品であった。
秩父宮がつとめて国産品を愛用された話は枚挙にいとまないが、陸大生は地図に何かと色鉛筆で書き込むので、いわば必需品の筆頭である。
国産品の色鉛筆は枯れて色のつきが悪いので、陸大生の多くはドイツ製の色鉛筆を使用した。
しかし秩父宮はその色鉛筆すら輸入品であるとして使用されず、卒業するまで国産品を愛用されたのである。
しかし一つだけ例外があった。
それは煙草である。
愛煙家の秩父宮はエジプト煙草を好まれ、後にウエストミンスターになる。

秩父宮は御付武官を授業中の講堂に入れなかったが、現地戦術の随行まで許されないのには困った。
現地戦術の場合未知の山野を踏破するのであるから、どうしても危険が伴う。
本間にしてみれば職責上秩父宮に単身で行動され万一御怪我でもされたらと考えると、随行を許されないからといってそれで済むものではない。
そこで本間は秩父宮から何と言われても気づかれぬように後をついて行くのであるが、血気盛んな秩父宮は本間をまいて行方不明になるのが御上手であった。
したがって秩父宮と本間御付武官との間には大人の鬼ごっこが日常茶飯事のように展開されたのであった。
教官や学生たちは山中や雑木林に隠れてしまった秩父宮を見失って立往生している本間の悄然たる姿によく出会い、秘かに秩父宮の隠れた方向を教えながら疲れ切った本間御付武官の姿に同情したものであった。

秩父宮は校長・幹事の将官級には閣下、教官には教官殿、上級生には〈さん〉の敬称をつけられ、同期生のみ呼び捨てで、後輩は君で呼ばれた。
だが二名の御付武官に対してはまったく部下として扱われたので、生徒から見るとずいぶん奇異に見えたものだ。
御付武官は陸軍内においても優秀な人材が任命される。
生徒たちから見れば中隊長・区隊長よりも上官で、しかも大先輩の中佐と少佐である。
現地戦術のある日 同期生の菅井斌麿は、農家の縁側で一服されている秩父宮の軍服のズボンにほころびがあるのを発見した。
菅井は農家の人から針と糸を借りて来て、
「秩父宮殿下、うまくできませんが、ちょっと縫っておきましょう」と申し上げると、
秩父宮は「ありがとう。でも結構です。それをお借りしましょう」と言って菅井から針と糸を借りると、農家の庭の隅にいた本間御付武官のところへ行かれ、本間御付武官にほころびを縫わせた。
菅井は学生から見れば大先輩の本間中佐になにもズボンの繕いをさせなくともと思った。

秩父宮は陸大第二学年の1930年5月、満州戦史視察旅行に出発した。
視察団一行が水師営南方の高地へ到着すると、石原莞爾が熱弁をふるった。
その内容は学生に対する講話としては稀に見る格調の高いもので、満州見学旅行に来る女生徒たちが先人の苦闘に涙を流すような感傷的なものであってはならないとして、当時の日本の満蒙政策についての批判抱負を堂々と熱烈な口調で述べた。
この講話は学生に一大感銘を与えたが、石原参謀の目的は秩父宮にあったのだ。
満蒙通の石原参謀が年来の抱負を直宮の前で堂々と述べる機会は容易には得られなかった。
石原参謀にとっても一世一代の熱弁であったわけだ。
講話の最中秩父宮は、そうか、そうかという御表情で聴いておられた。
石原参謀の熱弁は、秩父宮の御胸中にどのような影響を与えたのであろうか。

秩父宮が陸軍大学校を卒業されて歩兵第三連隊に帰隊されたのは、1931年11月28日であった。
暮れも押し迫ったある日の夕刻、安藤輝三は強引に同志菅波三郎を伴い、兵舎の地下道を利用して第六中隊室の秩父宮を訪問した。
秩父宮が菅波に会われたのはこの時が初めてである。
菅波はロシア革命におけるロマノフ王朝没落の原因などを簡略に申し上げ、平素の勉強ぶりを披瀝した。
このあいだ安藤は、秩父宮の菅波に対する第一印象は決して悪くなかったことを感じ取ったようである。
翌年1932年3月勃発した上海事変で出征するまでの約2カ月の間に、菅波は安藤と共に三度秩父宮にお目にかかった。
1932年新春、菅波は西田税の家を訪問した。
西田は紫の袱紗に包んだ一通の奉書を菅波に渡して、秘かに秩父宮へ献上してくれるようにと依頼した。
これはいわゆる建白書の類で、菅波が一読すると君側の奸を除く必要を説いたもので、特に目新しい内容のものではなかった。
しかし西田はこれを菅波から秩父宮へ献上し、さらに秩父宮から昭和天皇に献上願いたいと言うのであった。
翌朝菅波は出勤すると安藤に西田からの依頼を話した。
じっと考え込んでいた安藤は「秩父宮ならば万一にも心配はない。秩父宮がどう処理されるかはわからないが、いったん秩父宮の御手に渡れば他に漏れるようなことは決してない。その点秩父宮は絶対に信用できる御方だ」と、ただちに秩父宮の御都合を伺い、菅波を伴って第六中隊長室を訪れた。
秩父宮は「よし、預かろう。だが処置は私に任せてもらう」と受領された。
秩父宮は「明日宮中に参内の予定になっているから」と言われ、また「西田はその後どうしておるのか。元気で過ごしておるか」と親しくお尋ねになった。
菅波三郎は「私は歩三で秩父宮にお目にかかった時、僭越にもいろいろなことを言上した。私は秩父宮に我々の考えていることをわかっていただきたかったのだ。直宮であられた秩父宮を利用しようとか何かお願いしようなどという気持ちは、はじめからまったく持たなかった。例外は西田から依頼された件だけである。我々は昭和天皇の大御心に添うことのできる革命がやりたかった。結局二二六事件で私の願望はついえ去ったが、我々の革新運動について秩父宮はある程度御存知であったことと思う。秩父宮は話せばわかる御方であった。おそらく安藤輝三も同じだったと思う」と語っている。
秩父宮の対人関係に差別感を持たれない御性格は最も人間的な面であるが、また同時に多くの誤解を招く原因になったことを、果たして秩父宮はお気づきであったろうか。

1931年9月に勃発した満州事変が拡大して11月に第二師団がチチハルを占領した直後、秘かに帰国した石原莞爾が秩父宮の御召を受け秩父宮御殿に参上したことがあった。
この時 秩父宮は陸大を卒業され、歩兵第三連隊第六中隊長に就任された直後であった。
秩父宮御殿の応接室において御付武官寺崎小四郎が侍立のうえ、秩父宮は石原を御引見になった。
秩父宮の御下問に対して石原は、満州事変勃発の原因についてはさすがに自分の計画によるものであるとは言上できなかったが、その他についてはおおむね真相に近い状況を言上した。
秩父宮が特に指摘されたのは、満州事変が国際連盟から日本の侵略行為と烙印を押されることを憂えられたのである。
しかし石原は満州事変は起こるべくして起こったものとして、自己の主張である東亜連盟論から、満州を世界の理想郷にしたいものと抱負を語った。
1931年秋に昭和天皇御統監の陸軍特別大演習が行われた。
この演習中に参謀総長金谷範三が満州事変に対して航空機の増派理由を上奏し昭和天皇の御裁可をいただいたのであるが、関東軍のチチハル進出もこの時点では東京で陸軍大臣南次郎の提案にもかかわらず、他の閣僚の反対にあった。
この報告を受けられていた昭和天皇は、参謀本部が委任命令権を利用してチチハル進出をするのではないかと侍従武官長奈良武次にただされたのである。
昭和天皇の御下問に委任命令権の危険性と重大性を痛感した奈良は、上奏当夜参謀本部に対して昭和天皇の御心配された点を打電しておいたにもかかわらず、出動は行われてしまった。
参謀本部は航空機の国外増派についてだけ昭和天皇の御允裁を求めて、チチハル進出は匪賊の頭目馬占山の攻撃に余儀なくされたものとして委任命令権のもとずいて出動してしまったのである。
もっとも東京では、南陸相がチチハル進出は馬占山の勢力を駆逐した後は必ず撤退するという条件付きで閣議の承認を取ることができたから、陸軍中央部では委任命令権の乱用にはならないとしたのである。
だが、昭和天皇の御意向を無視した結果になったことは否定できない。
秩父宮は御下問の最後に、以上の点を石原にただされた。
さすがの石原もこれには弱った。
チチハル進出は北満に権益を擁するソ連と不祥事件を勃発させる危険があった。
昭和天皇の御心配もこれであった。
事実関東軍はソ連軍が越境して攻撃をしかけてきた場合、これを叩く覚悟があったのである。
結局軍中央の方針に従い、石原はチチハル撤兵を誓って、この問題は秩父宮の御諒承をいただいた。
秩父宮が石原莞爾と長時間にわたって会談されたのはこの時が初めてである。
石原は持論である東亜連盟思想の中で、中国の国民政府の基礎が脆弱な間は日本が代って満州の治安維持・経済向上に努力し、満州の繫栄によって国民政府の提携を誘い、日中協力して東洋の安定をはかることが対ソ防衛に対する最大の決め手であることを強調した。
石原は秩父宮に対して、満州を領有するとか独立とは決して言わなかった。
この会談で特筆しておきたいことは、秩父宮が石原莞爾という人物の一面を高く評価されたこと、石原が秩父宮に対して秘かに抱いてきた期待を再認識したことであった。

参謀本部第二部ロシア班に勤務していた大越兼二のところへ、第一部作戦課に勤務されていた陸大同期の秩父宮が御姿をお見せになった。
「大越、多田のパンフレットを読んだか」とお尋ねになった。
これは当時陸軍省調査班にいた多田督知大将が書いたもので、
「古代日本の戦いはまつろわぬもの即ち祭り合わぬもの、理想を等しくせぬものを祭り合せるのを目的としていた」ということを取り上げて、これからの日本の戦いがいかにあらねばならぬかを論じたものであった。
もちろん内容を熟知していた大越は、
「しかし、内容が少し神がかりのように思いますが」と申し上げると、
「内容の表現はともかくとして、根本原理はあれでなくてはならないと思う」と、秩父宮は断固たる口調で言われた。
大越は「秩父宮は我々よりも常に二十歩も三十歩も前の方を歩いておられるのだ。新しいモラルの根本を打ち立て血で血を洗う混乱を克服してすべてを新しく立て直さなければならぬ変革の時代にあっては、氏族国家から古代王朝国家への改革期における天武天皇のごとき変革時代の民族のバックボーンが必要なのである」と理解した。
大越はその時から秩父宮をそのような時代の民族のバックボーンと仰ぎ続けてきたと語っている。
惜しむらくは、歩三・陸大を通して広く若い将校から景仰された秩父宮が、あれだけ彼らの手の届く近い存在にありながら、その実体を掴んでおられなかったことであり、二二六事件のような大規模な不祥事件が勃発することをまったく予期されていなかったことであろう。

1936年2月26日、第一師団管区の青年将校が1,483名の将兵を率いて蜂起し、四日間にわたる昭和維新工作を開始した。(二二六事件)
弘前第八師団にいた秩父宮は2月26日午前7時頃、東京の高松宮から電話で事件を知らされた。
しかし秩父宮はいつものように御出勤、午前8時40分に連隊に到着され、連隊馬場において日課である乗馬の練習をされていた。
午前8時50分 連隊長倉茂周蔵が馬場によって秩父宮に朝の御挨拶をすると、
秩父宮は「連隊長殿は東京の事件を御存知ですか」とお尋ねになった。
秩父宮の御表情が普段と少しもお変りがないので、倉茂連隊長は事件と言われても見当がつかなかった。
すると秩父宮は「実は今朝東京の弟のところから電話で知らせて来たのだが、第一師団の将兵が重臣を襲撃したらしい。詳細は不明だが、相当な兵力が出動した模様です」と伝えた。
驚いたのは倉茂連隊長である。
「秩父宮、ただちに御上京の必要はございませんか」と言上すると、
「東京の様子が心配ですが、私には大隊長としての任務がありますから上京はいたしません」と、秩父宮に動揺の色は見えない。
だが、倉茂連隊長はそうはいかない。

倉茂連隊長が約1キロ離れた師団司令部に到着したのは午前10時頃である。
ただちに下元師団長に面会すると、すでに旅団長飯野庄三郎・師団参謀長高木義人らが来ていた。
師団首脳も事件勃発の報を受けて沈痛な表情で協議していた。
倉茂連隊長が秩父宮御上京の件を進言すると、下元師団長は、
「このような事件が発生した以上、秩父宮に御上京願うより仕方があるまい」と重々しい口調で言った。
しかし倉茂連隊長が秩父宮の御意向を報告すると、「では、私から直接秩父宮にお願いする」と決意を示した。
倉茂連隊長は師団・旅団首脳部と協議して連隊に帰ったが、この日数回にわたって司令部・連隊間を往復している。

午後になって倉茂連隊長は師団司令部から連隊に帰ると、下元師団長が御上京を希望している旨を秩父宮にお伝えしたが、秩父宮ははやり大隊長の任務を理由にその意志のないことを漏らされている。
師団長が秩父宮御上京を希望しているという報が流れると、青森の第五連隊から秩父宮をお迎えに来るという流言が伝わり、連隊将兵は騒然となった。
「第五連隊から秩父宮をお守りしなければならない」という声が期せずして上がった。
秩父宮は定刻になって帰邸されたが、依然として平常のままであられた。
下元師団長と高木参謀長が秩父宮を訪問し、御上京を進言した。
下元師団長は陸軍省・宮内省と打ち合せの結果、二週間の休暇を申し上げて御上京をお勧めした。
下元師団長の秩父宮への進言は、言い換えれば師団長命令と同じである。
秩父宮が拒否される理由もない。
しかも師団長自らが陸軍省と宮内省の諒解を得ているとあらば、秩父宮も御上京しないわけにはいかない。
かくて秩父宮は御上京を決意された。
早くもこのことが歩兵第31連隊の将校に知れ渡った。
多くの流言が巷に乱れ飛んで、弘前市内は「歩兵第五連隊が秩父宮を擁して上京のため弘前に来る」という噂に騒然となった。
これでは第31連隊の将兵が黙っていない。
逆に「我々が秩父宮の御供をする」といきり立つのを、倉茂連隊長は断固としてこれを制した。
「秩父宮がいったん外へ出られた場合、その御身辺については国家の責任であるから連隊にはその責任なく、一つ間違えばかえって大きな疑惑を招くことにもなりかねない。連隊は平素のように勤務に励むことを要望する」

松本徹は2月27日に秩父宮が弘前から御上京した際、上野駅でお迎えした一人である。
松本は秩父宮邸に出入りのあった者で、妻の実家は被害者の一人である斉藤実の向かいであった。
秩父宮が真っ先に松本にお尋ねになったことは、国民は今度の事件をどう見ているかということであった。
松本は前夜山王ホテル付近において、叛乱将校の街頭演説を聞いた。
「このたび秩父宮が御上京になったので、いよいよ我々の指導者として戴くことになった。したがって、昭和維新の成功はすでに迫っている」と言うのに対し、黒山の大衆は熱烈な拍手を送っていた。
もちろん松本はこの演説の内容が新聞紙上に掲載されないことは承知していたが、国民大衆の面前で行われたことだけに、すでに巷の流言は秩父宮を二二六事件の黒幕的存在として乱れ飛んでいた。
菅波三郎によって高まった革新熱を、秩父宮が御存知ないはずない。
いずれはどこかの青年将校が何かことを起すであろうということは予想されていたに違いない。
秩父宮が歩三御在任時代に安藤に対してなぜ断固たる見解を示されなかったかという疑問と、彼らの運動を過小評価されていたきらいが見られることは否定できない。

1936年12月1日、秩父宮は再び参謀本部第一部に転補された。
今度の任務は新設された戦争指導課であった。
秩父宮の直属の上司は石原莞爾だった。
思えば石原はこの日の来るのをどれほど待ちわびていたことか。
石原にとって二十数年前から秘かに抱いていた秩父宮への期待と戦争指導課の新設は、石原の主張する東亜連盟思想実現への満州事変に次ぐ第二・第三の布石であった。
石原はその抱負構想を積極的に言上した。
秩父宮もまたこの石原の思想に共鳴するところが少なくなかったのである。
ただ運命な皮肉さは、秩父宮が四カ月後にイギリス国王ジョージ6世戴冠式に天皇御名代として渡欧され御留守中に日華事変が勃発して、不拡大派であった石原自身が拡大派に敗れて転出させられたのである。

1937年3月18日秩父宮夫妻は天皇御名代としてイギリス国王ジョージ6世戴冠式に御参列のため横浜港を出発された。
秩父宮はロンドンのホテルに滞在中、毎朝の運動に乗馬をされていた。
毎日御供を命ぜられていた辰巳武官が約束の10分前にホテルの前に行くと、いつものように乗馬学校校長が三頭の馬を連れて到着していた。
校長は「今日はひどい雨なので中止と思ったが、秩父宮から何の御沙汰もないので一応馬を連れて来ました」と報告した。
辰巳武官が部屋に行くと、すでに秩父宮は御乗馬の服装で待っておられた。
辰巳武官が「この雨にお召しになりますか」と口を滑らせた。
秩父宮はたちまち不快な御表情で、「せっかく馬が来ているのだから乗ろう」と言われた。
雨の中を颯爽とホテルの玄関から出てこられた秩父宮の御姿を見て、校長は意外な顔をした。
日頃はイギリスの紳士淑女たちが多数通るハイドパークの騎馬道も、この日は人影がなかった。
土砂降りの中をかつての陸大における乗馬練習そのままに、予定の時間を乗り続けた。
雨は下着を通り、長靴の中には雨水が溜まった。
辰巳武官はさすがに途中で中止するように申し上げたが、秩父宮は返事をされなかった。
一週間後秩父宮は風邪を召されて肺炎にかかられ、十日あまりも御病床につかれた。
そして予定されていた北欧への御旅行は一時中止となった。
辰巳武官は秘かに後悔したが、秩父宮の御性格から言っても予定を立てた以上、よほどのことがない限り予定変更はされない。
いわんや雨くらいでは、いかに辰巳武官が諫言申し上げても決行されたことであろう。

1937年5月12日ウエストミンスター寺院で、ジョージ6世の戴冠式が挙行された。
5月14日にはバッキンガム宮殿で大舞踏会が催された。
午後10時前から始まった絢爛豪華な舞踏会は深夜の2時頃まで続いた。
この会場で御多忙だったのは秩父宮妃であった。
英国王室・各貴族・政府高官・陸軍海軍将官から果ては各国代表からも踊りを望まれて、くつろがれる暇もなかった。
秩父宮は終始悠然と椅子にかけられて黙然と眺めておられたが、秩父宮はこういうことはあまりお好きではない。
御側にいた吉田茂大使がそっと申し上げても、とうとう一度も踊ろうとはされなかった。
やむを得ない場合のほか、御自分から進んでされるようなことはなかった。

戴冠式が終わってまもなく、御二方が御病気になった。
まず秩父宮が風邪を召され半月の御養生で快癒されると、今度は秩父宮妃が風邪を召された。
6月2日宮内省から研究のため出張を命ぜられてヨーロッパ各地を回っていた医学博士高橋信がベルリンに入ると、日本大使館で東京の百武侍従長から「秩父宮妃御病気ゆえただちにロンドンに急行せよ」という電報を受け取った。
高橋がただちにロンドンのホテルに伺候して秩父宮妃の御病状を拝診すると、すでに肺炎を起こされていた。
侍医中村順一・ロンドンの日本人医師加藤伝三郎が昼夜懸命の御看病を続けていた。
一カ月以上の関係者の献身的な努力の甲斐あって、秩父宮妃は7月10日頃には御快癒になった。
7月31日秩父宮御一行は、御二方のスイスでの御静養をかねてロンドンを御出発になった。
ところが7月7日には中国大陸の一角で思いもよらぬ大事件が勃発していた。
盧溝橋事件に始まる日華事変である。

8月4日オランダで、御二方が再びお揃いで発熱された。
約一週間で御二方は快方に向かわれたが、秩父宮は御病床でやはりヒトラーに会っておいた方がよいと考えておられたのである。
8月14日スイスのアルペンホテルに入られた。
スイスの御生活は静かであったが、世界は静かではなかった。
8月26日日本から二荒芳徳伯爵がベルンに到着した。
イギリスへの御帰途、ドイツにお立ち寄りになりヒトラーと会見、ニュルンベルクのナチス党大会に御出席されるよう、ドイツ側の希望を伝えてきたのである。
主席随員松平慶民はお迎えに来ていた外務省の天羽英二とこの問題について意見を交換した。
秩父宮のドイツ訪問に関しては、その国際的影響を検討しなければならない。
松平はイギリス直行を可としていたのであるが、秩父宮の断は会見を決定された。

第二次近衛内閣が成立する一カ月前に、不幸にも秩父宮は御病床に臥される身となられたのであった。
1940年11月11日宮城前で紀元二千六百年記念式典が挙行されたが、秩父宮に代って秩父宮妃が御参列になった。
参列者の中には秩父宮の御姿が見えぬのに不審を抱いた者もあった。
この頃からようやく秩父宮の御異例の噂が国民の間に秘かに囁かれるようになった。
1941年6月7日節子皇太后が御見舞されたのを機に、秩父宮家で御病状を発表することになった。

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御経過御順調にあらせられ、この冬もさしたる御障りもなく、最近は海岸をも散歩遊ばされます。
御体重も以前より2貫以上もお増し遊ばされ、19貫(71.25キロ)であります。
しかし軽度ながら慢性気管支炎の御病状でありますので、今後とも細心の御療養と御鍛練とをお願いして、御病状の根治なるまで引き続き御加養遊ばされるようお願いしております。
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ついに、胸部疾患とも肺結核とも発表されなかった。

秩父宮の御容体は至極順調で、関係者はホッと愁眉を開くようになった。
そこで遠藤清繁博士は本格的な御療養には葉山御用邸は適当でないと判断して、御転地の候補地を考えていた。
遠藤博士は恩師長与博士とも相談の結果、静岡県富士山麓の御殿場が最適であると関係者に進言した。
第一に冬寒くとも夏涼しく、標高もかなりあって比較的湿気が少ない。
第二に東京にあまり近くては訪問客をはじめ何かと御療養の妨害が多く、遠すぎては不便であるということであった。
世間一般の目から見れば冬寒い御殿場を御療養地とするには少なからず疑問・懸念を持つ向きもあったが、遠藤博士は冬期間でもでき得る限り解放主義的治療で御快癒の自信があったのである。
この御転地先については侍医医頭八田善之進も秩父宮侍医中村順一も同意見であった。
御転地先が御殿場と決定すると、宮内省は元大蔵大臣井上準之助の別荘を買い上げた。

1941年12月8日、早朝のラジオは高らかに軍艦マーチに送られて日米開戦を報じた。
御病床の秩父宮は真珠湾の大戦果を聞かれても、瞑目されたまましばらく誰とも話をされなかった。
このとき以来、秩父宮は政治・軍事に関して一切何も語ろうとはされなかった。

1941年9月、節子皇太后が沼津より行啓になった。
秩父宮は和服に袴をおつけになってお迎えした。
ある人物が節子皇太后に「秩父宮が御元気なれば、今度の戦争ではさぞ御活躍されたことでしょうに」と申し上げると、節子皇太后は、
「皇族の中に戦争にまったく関係のない者が一人ぐらいいてもよいでしょう」と仰せられた。

1943年春頃から秩父宮の御病状は悪化の一途をたどり始め、絶対安静の日々が続いた。
1944年1月2日、遠藤博士の推挙によって寺尾殿治博士が新たに侍医として奉仕することとなった。
寺尾博士は水・土の二日拝診することになり、水曜日は寺尾博士単独拝診、土曜日は寺尾博士・遠藤博士の共同拝診となった。
当時御療養中の秩父宮の日課は、午前中は読書、法律と文芸物を30分ずつ読まれ、午後は安静、よるはラジオを楽しまれるという日課であった。
1944年5月17日水曜日 寺尾博士の単独拝診の日であったので、寺尾博士が御殿場駅に着くと、秩父宮家から迎えの運転手から、「今日は秩父宮御不快の御様子です」と告げられた。
到着すると看護婦から、秩父宮は朝から38度の発熱であると聞かされた。
このころ御体温はほとんど平熱であったので、久しぶりの発熱である。
左乳部が少し痛むとのことでただちに検痰すると、肺炎菌と思われる双球菌が発見された。
当時は現在と違ってサルゾールの類以外にはこれといった薬物がなかったので、寺尾博士の心痛はひどかった。

1945年になると、戦況はすでに末期的症状を表してきた。
3月10日の東京大空襲では秩父宮妃の御実家である松平恒雄邸も炎上、5月24日には秩父宮御殿も日本家屋を残して焼失した。
8月11日三笠宮がお見えになり、御二方で種々懇談された。
この日秩父宮は焼失した秩父宮御殿から、肇国絵巻と軍刀を取り寄せられた。
8月15日は早朝より艦載機の波状攻撃が激しかった。
この日は水曜日であったので、寺尾博士の単独拝診日であった。
午前7時20分の東京発の列車に乗るべく東京駅へ行ったが、東海道線は不通であった。
寺尾博士はやむを得ず新宿駅から小田急に乗って、松田駅で乗り換える時ちょうど正午となった。
駅の放送が乗客一同に駅の広場に集合するように伝えたので、人々は何事かとひしめき合った。
やがてラジオから玉音放送が行われると、人々は一斉にどよめいた。
とうとう来るべきものが来てしまったかと、寺尾博士は悲痛な状況に涙した。
午後1時過ぎ重い足取りで御別邸に参上して御病室に伺うと、秩父宮の御態度はいつもと少しもお変りにならなかった。
寺尾博士が「本日の放送は誠に残念なことと存じます」と御挨拶すると、秩父宮は「ああ」と漏らされただけであった。

終戦前後の秩父宮の御容体は順調で、すでに御歩行も可能であった。
8月24日秩父宮は久しぶりに上京されることになった。
5年間の御殿場生活は、遠藤博士の慧眼通り、御静養地として誠に好結果を生んだのである。
秩父宮は秩父宮妃御同列にて、終戦後のまだ生々しい東海道を自動車で御上京になった。
秩父宮御殿に到着されたのは午後8時頃であった。

1948年9月診断の結果、腎臓に異常のあるのが発見された。
寺尾博士の推挙で、湯河原の開業医で結核泌尿器科の権威 折笠秀晴博士が拝診することになった。
拝診後折笠博士が腎臓の手術が必要であることを言上すると、秩父宮はただちに手術をするように希望された。
翌日秩父宮妃が御上京されて、三陛下〔貞明皇后・昭和天皇・香淳皇后〕および各方面の御諒解を得られた。
手術の場所もいろいろと協議の結果、このまま御殿場別邸で行うことに決定した。
9月19日、折笠博士は手術台に秩父宮をお迎えした。
手術上もっとも急処であった腎臓の血管の結びがきっぱりと結ばれて、一同手術の成功にホッと安堵の胸を撫でた。

秩父宮が鵠沼の御別邸に御移居になったのは1952年1月20日であった。
冬の御殿場はさすがに冷え、御看護の秩父宮妃が凍傷にかかられたことさえあったぐらいである。
遠藤博士は冬期間、どこか暖かい湘南地方への御転地をお勧めしていた。
そこで秩父宮妃が下見をして決定したのが鵠沼の御別邸である。
1952年11月10日、皇太子〔平成天皇〕の御成年式ならびに立太子の礼が挙行された。
この日秩父宮も皇居に参内されて、各皇族方と共に儀式に御参列になった。
行事その他を終えられた秩父宮は、11月16日鵠沼にお帰りになった。
しかし秩父宮の御容体は次第に衰弱の度を加えていたのである。
秩父宮の衰弱された御身体に、流行性肝炎が襲った。
再び手術をしなければならない。
折笠博士は遠藤博士と寺尾博士と慎重に協議の結果、二日後に手術を行うことを決定した。
しかし手術当日秩父宮を拝診すると、どうも御容体が思わしくない。
ついに折笠博士は手術を中止することに決断した。

秩父宮の御病状は宿病たる胸の方は非常に良好で熱もなく、喀痰は無菌状態が続き、集菌法・蛍光顕微鏡・培養等いずれも陰性であった。
立太子の礼にも御上京が可能な程度にまで回復されていたが、鵠沼に御帰還後まもなく流行性肝炎に罹患された。
これは以前にはカタル性黄疸と称せられた病気で、今日では流行性肝炎または伝染性肝炎と言われる。
秩父宮が罹患された肝炎は黄疸は甚だ軽く、血清の検査によってわずかに胆汁色素の増加が認められた程度のものであったが、食欲は深く侵され嘔吐も伴った。
また以前から腎臓も悪かったので、尿毒症が併発したのではないかとの疑念も生じ、脈の性質が悪くなった。
すなわち、小さくかつ緊張が弱くなり、これが容易に回復しないので、主治医側は心配を始めたのであった。
尿毒症の有無を決定するため血液を採取して即日病院に持ち帰って分析した結果、尿毒症の心配はなく肝炎も快方に傾き胆色素は血液中よりすでに消失し、脈の性質が悪いのは心臓の力が弱って血液を十分に送り出すことができず、ことに心臓の右がひどく弱り肺が深く侵されて衰弱が甚しく、病後の悪い患者に往々にして見られる所見が現れた。
秩父宮の胸部疾患はだいたいにおいて臨床的治癒に近い状態であり、肺はすでに無気肺状態になっていた。
ただ左側の肋膜腔には滲出液が出て以前はその一部を排除したこともあったが、近頃はむしろその量は減少し心臓が左側へ引き寄せられる傾向があった。
しかし長期間滲出液貯溜の結果、肋膜は甚しく肥厚して心嚢と癒着し心臓の運動を妨げていたので、身体運動や長時間の談話の際に息切れを感ぜられていたのはこのためであった。
肝炎に罹患されるまでは、心臓はからに過労状態にありながらも日常生活に耐え得る機能を営み得たのであるが、食欲が減退し栄養が衰えるに及んで全身の衰弱につれ、その一部として心臓も衰弱して脈の性質が悪くなる。
そして心臓が弱るので胃にも肝臓にも鬱血が起こり、それがまた食欲不振の原因ともなる。
よって強心剤で心臓の力を強めるとともに、できるだけ栄養の回復をはからなければならない。
それにはなるべくお好みの食物を口から差し上げるのが最上の策であった。
秩父宮もこれをお聞きになって、それならば努めて食物を摂るようにしようとの御意向であり、また肝炎はすでに回復に向かい食欲もいくぶんかは出る徴向も見えてきたので、これは可能であると信じられたが、不幸にも御別邸に流行性感冒が侵入し宮家の方々はこれに罹患し、ついに秩父宮にも伝染してしまった。
熱は大したことにはならなかったが、止まっていた咳が多く出るようになり、せっかく召し上がった朝食を吐かれるようになり、口から差し上げることが再び困難となった。
個々の御病状はいずれも致命的なものではなかったが、相次いで波状攻撃的に立ち直る余裕を与えずに来たので、心臓が持ちこたえられなかったのである。

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折笠秀晴博士

私が満5年奉仕した間 御容体御治療に関してこちらから申し上げない限り、秩父宮からは一つとして何のお尋ねもなかった。
拝診が終ってからも、「今日はどうであろうか」というような御質問・御疑問の類は一度もなかった。
終始すべて任せたいという御態度であった。
何事も必ず医師の言を聞かれてからおやりになった。
結核の新薬は戦時中・戦後といろいろと出されていたが、それでも「あの薬を使ってみたらどうか」というようなことは絶対に仰せにならなかった。
それでいて新薬のことはよく御存知で、時には専門家の私たちが驚くようなこともあった。
また医師の方から言上しない限り、何事もいつまでも黙っておられた。
まして医師に内緒で薬を飲まれるとか、他の療法をされようと考えることもない。
このことは再三の大手術にもかかわらず、病状を混乱させずによく知ることができた最大の原因である。
私たちが病室でそっと雑談している時にも、秩父宮はよく瞑目して考えておられた。
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1953年1月2日、高松宮と三笠宮が新年の御挨拶をかねて鵠沼御別邸に御見舞に来られた。
1月3日、当時日赤血液銀行所長であった東陽一博士は、神奈川県藤沢の自宅で静かな正月を過ごしていた。
ところが秩父宮はの義弟に当る徳川義知が突然東博士を訪問した。
秩父宮が御重態で静脈注射をしなければならないが、各名医の方々の努力にもかかわらず静脈穿刺に成功しないので東博士に依頼に来たのだ。
東博士は10年以上も静脈注射を試みていないので自信がなかったが、そんなことを言っている余裕はないと、急遽迎えの自動車に同乗して鵠沼御別邸に参上した。
御病室に入ると、秩父宮は東博士に気づかれると、「やあ、しばらく」と懐かしそうに微笑された。
東博士は御挨拶もそこそこに秩父宮の腕を拝見したが、過去の数々の注射ですでに肘静脈からは注射ができない。
そこで「お御足に注射させていただきます」と申し上げると、秩父宮はかすかにうなずかれた。
東博士はなるべくよく切れる細手の注射器で足の甲に穿刺したところ、幸い一回で成功した。
じっと見守っておられた秩父宮妃がホッとした御表情をされたのが印象的であったという。
濃厚なブドウ糖を100ccほど注入して静脈注射の成功をお知らせすると、秩父宮は「ありがとう、東さん」と低い声で言われた。
御臨終は1月4日午前4時30分であった。

秩父宮が御療養生活に入られると、やがて国民の間で病名が結核であることが秘かに囁かれるようになった。
当時宮内省では正式に結核とは発表しなかったが、1941年大東亜戦争が勃発した頃にはすでに公然の秘密であった。
実はすでに早くから胸部疾患の徴候は発見されていたのである。

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下山琢磨 作戦課班長

老生が常に心配していたことは秩父宮が庶民と能力を競われる傾向を持っておられたということで、これがすべての点に無理の重なる根本原因になったのである。
その負けず嫌いの御気質に対して、陸軍幼年学校時代から火に油を注ぐ御指導を申し上げたのはなんとしても無茶であり、また参謀本部に御在職間 作戦計画等の繁雑な細務までお自らおさせしたごときは短見であり、間接の責任者である私は恐懼しているところである。
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1940年6月御病名がはっきりわかるまで、秩父宮はずいぶん御無理を重ねられてきた。
軍人としての軍隊生活と同時に、皇族としての二重の御生活に追われていた。
ときおり側近が「そんな御無理をされなくても」とお諫めしたことがあったぐらいである。
学習院から同時に陸軍幼年学校に進学した生徒のほとんどが、種々の理由で脱落しているのを見てもうなずけることであろう。

これらのことに拍車をかける結果になったのが、秩父宮の御性格である。

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宮内省 高橋信

*秩父宮がヨーロッパ外遊の際に肺炎になった時、急遽ベルリンから呼びつけられた医学博士

秩父宮は元来が御自身の御病気を割合に軽くお考えになり、当時の秩父宮の御病後の状況も良くなく、侍医中村順一もかなり困っていた。
それで私から「流行性感冒の性質上 後日再び罹患されやすいので、病後の御養生をくれぐれも無理なさらぬよう」申し上げておいた。
しかし再三の流感によって御旅行中幾多の行動の制限を余儀なくされた。
ここで注意すべきことは、秩父宮の御性格である。
平生元気な者は病気になっても少しくらいのことは無理を承知で押し通す。
なかなか医師や周囲の人の言を用いない傾向がある。
秩父宮もこの傾向の御方であった。
この御性格は御幼少の頃かららしく、かつて秩父宮侍医であった村地長孝が、
「裕仁皇太子〔昭和天皇〕は侍医の言うことをよく素直にお聞きになるが、我々の方の宮様〔秩父宮〕はなかなかそうではないので骨が折れる」と私に漏らしたことがあった。
秩父宮が世上定評のごとく、才気煥発・鋭気溌溂たる御方であったことは事実である。
御自身でも才能・健康については誰にも負けるものかというお考えがあった。
したがって御病気になっても、自然と無理が重なったことと思われる。
それにかかられた御病気が秩父宮にもっとも不向きな身体の安静、ことに呼吸器の安静に関係ある結核であったことだ。
秩父宮は社交的で、したがって訪問客も多く、普通の人と違って真の静養が困難であった。
言葉を変えて言えば、どんなに身体の調子が良くても世間との没交渉に入り、5年でも10年でも孤独無言の生活をするのが理想とされるような御病気にかかられたので、人一倍お気の毒であった。
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■妻 松平勢津子 外務官僚松平恒雄の娘/会津藩主松平容保の孫
1909-1995 85歳没

*米フレンドスクール卒業


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秩父宮勢津子妃の親友 白洲正子 樺山愛輔伯爵の娘・白洲次郎の妻

秩父宮妃と私は小学3年の時から同級生であった。
性格もあちらは生真面目な秀才で、こちらは名うてのお転婆ときているから、ほんとうならうまくいくはずはない。
それを結びつけたのが富士の裾野での生活というのだから、思えば不思議なこととしか言いようがない。
秩父宮妃の父上の松平恒雄氏と私の父樺山愛輔が昔から親しかったためで、秩父宮妃は毎年夏休みを私どもの別荘で過ごされるようになった。
お互いに正反対の性格であったのがかえっていい結果をもたらしたのだと思う。

富士山によって結ばれたご縁はその程度のことでは終わらなかった。
私が14歳でアメリカに留学すると、その半年後に松平大使がワシントンへ赴任され、秩父宮妃と私は再会する。
今度は私が休暇を大使館で過ごすようになり、楽しさがよみがえった。

それだけではない。
私がハイスクールを卒業して一足お先に日本へ帰って来ると、私の父が貞明皇后から内密の御依頼を受け、勢津子さんを秩父宮妃に迎える実質的なお仲人役を仰せつかった。
父は何度も辞退したようだが、許しては下さらなかった。
周知の通り会津の松平さんは容保の後裔で、明治維新の際には新政府と戦わざるを得なかった悲劇の大名である。
いわゆる戊辰の役では私の祖父たちは敵方で、鶴ヶ城を攻め落とした張本人であった。
中でも松平恒雄氏は会津魂の権化のような人物で、華族になることも快しとせず一生平民で押し通した殿様であった。
そのような人物が喜んでお姫様を妃殿下に差し出すはずはない。
私の父がお仲人役を遠慮したのも、松平さんの性格をよく承知していたからだろう。

案の定、その役目は失敗に終わった。
松平夫妻がお受けしなかっただけでなく、
勢津子さん自身も「そのような重任には堪えられない。どなたか適当な方を」と辞退されたのである。
父はいったん帰国して報告に及んだが、貞明皇后の勢津子さんに対する御執心は並々ならぬもので、
再度のワシントン行きを強要され、父もお引き受けせざるを得なかった。
その時はワシントンに3日滞在し、帰国した時の父は疲労困憊していた。
「セッちゃんの頑固さにはほとほと参ったよ。三日三晩くどいてやっとウンと言わせた」
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秩父宮妃◆うちの宮様は陸軍の幼年学校から士官学校に上がって、任官遊ばすと責任を持つ。だから自分達は育ちが特別だから意気地がないと見られないよう、例えば山を越えて行くんでも必要以上にお頑張りになるわけですね。
実際は御身体が伴わないのに、お頑張りがきく間はお頑張りになったもんだから、秩父宮はそれがオーバーになっておしまいになった。
少々の熱などは無視されるようになったことも確かです。
高松宮妃◆うちの宮様は皇族という御仕事と軍人の仕事と両立させていらして大変でいらしたと思うわ。
特に秩父宮が御病気でいらしたし、皇族としての御立場での御相談相手でもいらした。
秩父宮妃◆うちの宮様はそちら様を一番お頼りでいらした。
早くから御殿場で御安静に専一の御生活ですもの。
ちょうど悪い時に外国にいらしたものですから。
肺炎が流行っていたんです。
向こうで肺炎のとても重いのにおかかりになって、私がまたその後すぐそれをいただいてしまいました。
私も御一緒に葉山でせめて冬のひと月だけでも御静養いただきたいとお医者様から言われたんですけど、その頃はもう戦争戦争という状況だしそれどころではなかった。
一応お治りになってからもお咳はまだ出ておりました。
本当に泣きたくなるほどこっちの知識が足りないのと、今ここが大事だということを何も知らないから、秩父宮がよくお頑張りになられるから大したことないだろうと。
そういう無理をずっと続けていらっしゃったのが悔やまれます。
昭和両陛下ともわざわざ御殿場においでいただきましたし、貞明皇后もたびたびお越しいただきました。
高松宮は高松宮妃と何回もおいでいただきました。
高松宮妃◆終戦日に伺いましたよね。
秩父宮妃◆当日ね。
あの時はお風邪を召していられたので、いったいどういうことになるか不安でした。
昭和天皇の初めての御放送で、こんな悲しい、終戦と言っているけど敗戦ですから。
本当に思いもかけない出来事で、しかも初めて御放送遊ばすから、御兄弟として心配していらっしゃるわけ。
お耐えになれるどうか、それからみんながちゃんとわかるかどうか。
そこへ高松宮が高松妃と御一緒に、お忙しいのにわざわざいらしてくださいました。
お知らせのあった時は、よくぞと嬉しく感激いたしました。
お兄様とご一緒に御放送を伺おうとお思いになったからでしょう。
やっぱり御兄弟で一緒にお育ちになったお兄様がはたしてうまく放送おできになるかどうか、お兄様の気持ちもお辛かろうから、せめてご一緒に聞こうというお気持ちなのね。
高松宮妃◆昭和天皇の放送を四人で御一緒に伺いました。
秩父宮妃◆四人で伺ったのね、涙ばかり。
高松宮はすぐ御用で飛んでお帰りになった。
私はお昼の代わりに何か差し上げなければといっても、あの時代ですからお米とか玉子とか鶏とか飼ったり作ったり全部自給自足していましたから、お粗末な食事でしたけどそれを召し上がっていただいてお立ちになった。

高松宮妃◆お姉様のところへはよく遊びにうかがったわね。
秩父宮妃◆よくいらしていただいた。
ローラースケートもやったしね(笑)
高松宮妃◆そうなのよ。
屋根裏ってとこがあるの。
こちらの三階にね。
秩父宮妃◆三階の屋根裏の板の間でローラースケートの御稽古したんです。
高松宮妃◆ゴロゴロやるのよね。
お兄様がお留守の間に。
お兄様は軍務でしょ。

高松宮妃◆そう言えばお姉様と御一緒に那須にお泊まりに参りましたね。
秩父宮妃◆那須の御用邸には付属邸というのが別におありになって、そこはかなり遠いのね。
高松宮妃◆全然離れているのね。
その付属邸にお姉様と二人でお泊まりして、夜中じゅうおしゃべりしました。
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三笠宮寛仁親王 2008年

秩父伯父様は人の反対があってもお聞き入れにならない豪胆なタイプの方で、ヨーロッパの山登りやスキーなど何にでも挑戦なさったそうです。
秩父伯母様からも、「寛ちゃんは秩父宮様の生まれ変わりみたいだ」と可愛がっていただきました。
よく、「もし秩父宮様が御元気だったら、寛ちゃんと話が合っただろうに」と仰いました。
秩父伯母様は皇族の中で最も英語がお得意で、社交的で素敵な方でした。
日英協会の初代総裁は秩父伯父様、二代目総裁が秩父伯母様、私がいま三代目を継いでいます。
私は秩父伯父様に憧れてオックスフォードに留学したり、スキーやボートの選手になったぐらいですから、尻ぬぐいは甥っ子がやらねばと受けることにしました。
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◆秩父宮雍仁親王(淳宮雍仁親王)123代大正天皇の二男
1902-1953 50歳没


■妻 松平勢津子 外務官僚松平恒雄の娘/会津藩主松平容保の孫
1909-1995 85歳没

*米フレンドスクール卒業


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『東久邇日記』東久邇宮稔彦王

1945年8月29日
秩父宮は御病気が良くなり久しぶりに上京され、私に会いたいと言われているので秩父宮邸に行く。
秩父宮邸の西洋本館は焼失しているが、庭の奥に日本館が残っている。
ここでいろいろと時局の御話をした。
よほど良くなられて、大いに肥えられている。
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田島道治『日記』宮内庁長官

1949年3月6日
元東宮伝育官石川岩吉氏来室、秩父宮・高松宮の性格談。

1949年7月13日
GHQ副官ローレンス・バンカーと会見。
秩父宮のインタビューを昭和天皇に持って行けと言う。

1949年7月14日
秩父宮の意見は、Mutsu の Misrepresentation 大部分にて日本人の自覚反省要旨にて進駐軍の批評にあらずとのこと、少し争う。
ローレンス・バンカー訪問、ありのまま言う。
秩父宮は自分に I regret 的なことを言われたと言う。
misunderstand の原因をまきしことにつき、バンカー了承す、ただし釘を差さる。

1949年7月15日
昭和天皇に拝謁、昨日のこと委細言上す。
逆効果かも知れぬが三殿下〔秩父宮・高松宮・三笠宮〕にこの際念のため注意を申し上げるよう御命令あり。
なお、節子皇太后にも言上せよとのこと。

1949年7月16日
秩父宮に委細申し上ぐ。
帰る時「また厄介かけるかもしれぬ」とわがまま口あり。
高松宮に御話す。
「昭和天皇の御話は承り置くも、新聞社に会わぬことはできぬ」との御話。
利用云々の御言葉もあり、不遜との御言葉ちょうだいす。

1949年9月28日
皇太后宮大夫坊城俊良来訪。
宮様方の行動につき御不満の話、節子皇太后としっくりせぬようなこと。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1949年7月13日
昭和天皇◆秩父宮の陸奥イアン陽之助会見記のこと、陸奥は日本人なるに英語で話したとはどういう訳か。
とにかく御殿場に行き、聞け。
御病気でナーバスゆえ、強い言葉が出たということも考えられる。
私の希望としては、秩父宮が適当に軽い陳謝的なことを言われる方がよいと思う。

1949年7月15日
田島長官◆御殿場の回答を繰り返し、またGHQ副官ローレンス・バンカーとの話を繰り返したる上、まず無事に納まりましたが、バンカー副官を通してマッカーサーが釘を差しました故、今後万一にもこれと同様のことが起きたとすれば言い訳は一つも成り立たず、結果より責任を取らされることとなりますゆえ、そしてそれは宮様の責任としてでなく昭和天皇に御迷惑の及ぶこととなりますと思います。
昭和天皇◆宮様たちにはマッカーサーの言ったことは既に言ったことでもあるが、この際念のため改めて田島より私の希望を伝えてくれ。
節子皇太后にも。

1949年7月23日
昭和天皇◆昨日節子皇太后がお出でになったのは秩父宮のためだ。
田島からいろいろお聞きになって、新聞記者というもののことが少しお分かりになったようだ。
ただし「日本の新聞記者はそんなものかもしれぬが、外人は良いか」とのことなりしゆえ、
「そんなことはありませぬ。同じです」との御話をした。
例の「陸軍的な動機が良ければ結果は構わぬ」というお考えは困るということを申し上げ、
「むしろ結果のよいことは少し動機が悪くてもその方がよろしいぐらいだ」と申し上げた。

1949年9月7日
昭和天皇◆進駐軍の趣旨には悪いが、先だっての秩父宮の新聞事件のことに関して、別当のようなものを新設して秘書的に置くということはどうだろうか。
田島長官◆仰せの通り進駐軍は宮家の人を宮内庁で負担することには大反対でありますが、それは別として高松宮の現状ではその制度ができても何もなりませぬ。
高松宮自ら御会見して、御面会者の選択を事務官吉島六一郎にもお許しにならぬ状況でありますから。
しかし仰せゆえ、研究しましょう。
昭和天皇◆もう、研究せんでもよい。

田島長官◆秩父宮の新聞事件に発する昭和天皇の命を高松宮にお伝えせし際、「不遜なことを言う」と叱られた。
昭和天皇◆先年高松宮が御名代の時、強く新聞記者のこと仰せにありし時は「行かぬ」との仰せありしゆえ、「それならばやめてもらう」と仰せにより、高松宮「行く」と仰せになりし由。
田島長官◆元高松宮別当石川岩吉に聞きし高松宮の御性質等より、何かにおもねらるる様にも思わるる旨。
昭和天皇◆東条英機・嶋田繫太郎は大反対で、しかし海軍砲術学校の時は主戦論、何か周囲の者に主観的に同意せられ表論的に意見を述べ先見を誇らるる傾向あり。
田島長官◆秩父宮は先日申し上げし際、「また厄介をかける」との雑談的御返事なりしも、厄介をかけたとの御挨拶と存じました。
また高松宮も新聞記者のために相当苦い御経験もあるらしく、御利口の方ゆえ今後新聞でお困りになることはありますまい。
〔妻子を残してフランスに留学した稔彦王は、再三の帰国命令を無視して関東大震災で息子が死んでも7年間も帰国しなかった〕
昭和天皇◆東久邇稔彦王のフランス問題の時は、結局私から促してやっと帰られたが、この時 秩父宮は稔彦王に同意せられたことがある。

1949年9月15日
〔昭和天皇の研究『相模湾産後鰓類図譜』が出版される〕
田島長官◆宮様方にも科学上の御知識はとにかく、贈呈しかるべきと存じます。
昭和天皇◆秩父宮に「研究所で採集のものを本にする」と話した時に、
秩父宮から「昭和天皇御自身の御名前をお出しになること云々」の御話があり、また本をあげればそれを蒸し返されるかもしれず、イヤなのだ。
田島長官◆それはやはり大きくお考えのうえ御贈呈しかるべきと思います。

1949年9月19日
昭和天皇◆三笠宮から本の御礼がすぐ来た。
三笠宮は近来よほどよくおなりになったように思う。
『改造』に寄稿は困るが、まあよくおなりと思う。
高松宮は遅く御礼が来た。
秩父宮はまだ何とも言ってこない。
東宮も御礼が遅かったが、これは年少で侍従の出したのに気づかれるのが遅くとも仕方ないが、宮様方は新聞も御覧で早く御礼あってしかるべきだ。

その後三谷侍従長曰く、「昭和天皇は今回の本につきては非常に particular である。例えば『田島は東宮御床上げのとき賜物に反対したが、今回は希望するのはどうか』との御話あり。三谷その区別を申し上げ御了解になりし由」

昭和天皇◆『サンデー毎日』三笠宮が「自然科学に興味がない」と仰せになるとしても、
「こういう本〔『相模湾産後鰓類図譜』〕が出たことを喜ぶ」と一言あそこで言ってくれたらよさそうだと思う。
それなのに、「国民の方が私たちより近い」とか何とか言うのは嫌味のようで、共産党らが兄弟間がうまく行ってないというようなことを持ち込む余地を与えるようなことはまずい。
田島長官◆昭和天皇がお気に遊ばすほど一般読者は思いますまい。
それよりも三笠宮の新聞と自由の御発言の方がよくなかったかと存じます。
昭和天皇◆三笠宮は本の御礼の御挨拶は早かったが、御話は一向に出ず、三笠宮妃が美術的な御話のあとで「模様になる」とちょっとおっしゃるぐらいだ。
秩父宮は御礼は遅かったが、秩父宮妃の御話では外人にお見せになって御利用になさるようだ。
高松宮はしばらくお目にかからぬからわからぬ。
よくお出かけになるようだ。

1949年12月5日
昭和天皇◆いつか秩父宮が共産党を論ずればソ連に亘ることゆえ遠慮して意見は言わぬが、民主主義については議論されたようで甚だ変だ。
どうも秩父宮は、日独同盟を謳歌されたり、何も遠慮せんでもいいものを遠慮せられる。
田島長官◆共産党に関しては秩父宮も高松宮も皇室皇族を否定するものゆえあまり好感はお持ちないと存じますが、三笠宮はお若い方ゆえ多少理解をお持ちになりがちの点もあるかと思う程度であります。

1949年12月9日
田島長官◆恋愛結婚とか見合結婚とかいうことは皇室については如何お考えでございますか。
昭和天皇◆恋愛はとてもで、三笠宮ぐらいがちょうどよいと思う。
私と高松宮は全然古い風で、秩父宮は少し違い、三笠宮ぐらいがいいと思う。
節子皇太后は三笠宮の言いなりで、細川の娘〔細川護立侯爵の娘細川泰子〕を広幡大夫は「御顔が」と言ったが、私は御顔より照宮成子内親王と同級で、叔母様になる人が照宮成子内親王と同級ではと思って私は反対し、百合子妃は私が推薦したのだ。
その時のことを思うと、いま三笠宮がいろいろ言われるのはどうかと思ってる。

1950年1月2日
田島長官◆今朝の秩父宮の御放送はお聴きになりましたか。
昭和天皇◆まずよかったが、「皇太子はスキーに行けるが、私の頃はできなくてうらやましい」というような御言葉はどうかと思った。
第一その頃はスキーはなし、また天皇で言えば明治天皇はよほど御自由で、次に大正天皇、それから私だ。
私も皇孫の頃は相当自由であり、皇太子としては大正天皇、それから私、今は東宮が一番自由がないぐらいで、これは時世である。
田島長官◆それぐらいのことはまずまず結構で大したことではございませぬ。

1950年1月6日
昭和天皇◆今朝の新聞に高松宮が東宮御洋行のことを話しておられるが。
高松宮は新聞社員などには実にうまく仰せになり、時期の問題だと仰せになった誠によろしい。
こういうことは秩父宮や三笠宮と違っておよろしい。
三笠宮は御正直で、御口と御腹は一つでその点はおよろしいが、仰せにならぬでもよきことを仰せになり、それも御自分のことをいつでも省みて仰せになるが、多少歪められている場合もある。
例えば結婚の問題なども、私と高松宮は決まっていたようなもので、秩父宮は少し違うが、三笠宮はずっと御自由で御自分で御選択になり、節子皇太后はいいなりであったのに、御自分では外部の力によったように思って御話になり、ちょっとわからぬ点がある。
日光や葉山の御用邸の付属邸など、節子皇太后と三笠宮と御一緒にお住みのために作ったものだが、「親子兄弟一緒でなかった」という風に人に御話になるが、あの点はどうかと思う。

1950年6月22日
昭和天皇◆田島は知らぬから宮中服のできた沿革を話しておこう。
それは第一に高松宮妃の主唱でできたので、秩父宮妃などと研究の結果できた。
私はむしろ反対だったが、結局出た。
理由は洋服は英米的だというのである。
同盟の独伊も洋服だからと反駁したが、軍人などは何か国粋的なものという声を上げてた。
これに妃殿下方がまず乗ぜられた。
第二に繊維不足という時勢の声に対し、一反の反物ででき、上衣は丸帯でできるということであって、まあ結局承知したが、後でわかったことには、上衣は丸帯ではできず新調ということになり、東久邇の叔母さん〔東久邇宮聡子妃〕など「洋服以上に面倒だ」と私にこぼされるようになり、宮内大臣松平恒雄に上衣をやめることをいくら話してもなかなかやらず、通牒でやっと出したが、「戦時中」とあったゆえ、これを「当分」と変えようとしたが、松平は遂にやらず宮内大臣が石渡荘太郎になってこれが実現した。
上衣のヤメやら何やらで節子皇太后は結局今までお着にならず、お作りにならない。
なお高松宮妃の御自分的な理由は、今までの洋服裁縫師がいなくなったことであるが、これは私的な理由で私はどうも賛成できなかった。
その高松宮妃が戦後批評が出るとすぐ洋服を自由になさるのはどうかと思う。
秩父宮妃の、相当の研究の結果ゆえ不評でも何とか改良してという立場の方が理解できる。
フランス大使か誰かが三笠宮妃に「この服はなってない。パリでお作りなさい」と言ったこともあると聞いている。
私は宮中服には本来賛成してない。
和服が良いと思うが、節子皇太后が不様という訳で不賛成で宮中服となり、しかも節子皇太后は宮中服は召さぬ訳だ。
田島長官◆和服について併用の意味で節子皇太后のお許しを得て、和服の方向に行き得るかよく研究いたします。
昭和天皇◆節子皇太后のモンペも戦争の防空から来てて、戦時色はある。

1950年7月5日
田島長官◆三笠宮のことに関連し、明仁皇太子・常陸宮のこともなかなか考えさせられまする。
明仁皇太子は特別にて民法に長子相続もなくなったにかかわらず、皇室だけは長子相続の建前で二男・三男は冷や飯で、この点よほど注意しなければならぬと存じます。
明仁皇太子のことは東宮大夫穂積重遠の無責任では駄目ゆえ東宮参与小泉信三に替ってもらうという具体案ができてお許しを得て実行しましたが、常陸宮についてはなお研究中。
昭和天皇◆田島は戦争後になって宮様方が平民的自由と皇族の特権とを両方活発にやられるようになったと言ったが、戦前からずいぶん平民的な特権をやっておいでだった。
一つは別当などの人がついていたことと、今一つは検閲制で新聞に出なかったというだけだ。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1950年8月7日
秩父宮妃 節子皇太后に御対面の節、服装の御話ありし由。
「和装は裾が風にひるがえることが悪い」云々。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1950年12月18日
田島長官◆秩父宮人件費二人分、宮内省特別の御要求をお断りしましたが、御病気のために御殿場の御住居となり、東京事務所と二カ所になりまするために経費増加のやむを得ぬことゆえ、東京の方を縮小の方法か、あるいはまた御療養費として御下賜かの方法も考える必要ありと存じております。
昭和天皇◆御病気ゆえ、よく考えてあげよ。

1950年12月21日
昭和天皇◆秩父宮が二人の人件費を持ってくれと言い出された動機が何かあるか。
田島長官◆だいたい御病気のため経済面には御無理があり、最近40年も勤務の者が不始末を致し、すでに解雇になりましたが、慰労金を差し引いて大した御損害ではありませぬ由ですが、こんなことが動機かと思いまするが他にはちょっと思い当りませぬ。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1951年2月5日
昭和天皇◆節子皇太后が前の式部長官武井守成のことをお褒めになるのはどういう理由からから私は知らぬが、宮中服を作る時に骨折ったことなどをお考えかもしれないが、宮中服は戦時型であり、また宮廷以外に用いられないことが民主的でないとの批評を買っていると思うのだが、節子皇太后はずいぶん宮中服のことを遊ばしたが、裳衣が駄目だからという理由でなく、その前から一度もお召しにならないのでよくわからないのだ。
田島長官◆御服装の問題は難しゅうございますから、格別現状を変えず時には和服もお召しになり、
自然落ち着くところに落ち着きますことと存じますが、良子皇后が和服をお用いになりますことを田島より明らかに節子皇太后に申し上げまするのは好機でなければならぬと存じます。

1951年2月20日
昭和天皇◆昨日主治医からも聞いたが秩父宮は軽い容体ではないらしい。
腸結核とは言えぬまでも、腸にも少し結核が来てるようにも聞いた。
万全慎重の御療養をしていただきたいと思う。
またお金の費用もかさむだろからよく考えてくれ。

1951年5月29日
昭和天皇◆昨日の三笠宮の話は服装のことであって、宮中服のことなど一般的な私の考え方を話し、また照宮成子内親王の今度の宮中服のことはむしろ良子に聞くことで何だか物の軽重がおかしい。
良子より女官長に言ってもいいような問題だ。
すぐ良子に聞いたら照宮成子内親王も宮中服に決まった。

1951年6月5日
昭和天皇◆昨日突然秩父宮妃と高松宮妃が来られて、高松宮妃は宮中服は失敗だったとの観念があるらしく、はっきりあれは間違いだったとの話はないが、秩父宮妃は別の態度で何か一新軌軸を出そうとしたもので、一朝一夕に廃すべきでなく、また戦時に関連したものでもないとのお考えが強く、とても強固だ。
それほど時局に影響ないならば、その時にも私は言ったのだが、
「戦争済んでから日本古来の伝統も考えてゆっくり新しいものを創造していいではないか」
それをあの際やったのは、何と言っても戦時色あるを免れぬと思う。
三笠宮なども「洋服は米英式だ」と言ってたような時代で、
私は「ドイツ式でないのか」と言ったことがある。
だからこの際 私の天皇服のように一時 人の目の見える所のみとして、世の批評を聞き、再検討・再出発すればよいので、そのつなぎに和装をやってみれば、またそれの批評も出よう。
秩父宮妃が宮中服成立の経緯につき、相当主張あることを物語りしゆえ、話が出るかもしれぬから参考に話す。
田島長官◆田島は節子皇太后〔貞明皇后〕に良子皇后〔香淳皇后〕和装の明瞭な同意を得るつもりでありましたのが御崩御ですが、昭和天皇の御趣意にも合しまするゆえ、和装をお始め願えばよいと存じます。
昭和天皇◆秩父宮妃が宮中服に執着強く、改良してモノにしたい意思が強いが、何か古い伝統のあるものは廃するに忍びぬことがある。
田島長官◆それはそうでありますが、宮中服はそういうものではありませぬ。
昭和天皇◆そうだよ。

1951年6月15日
昭和天皇◆節子皇太后の御遺書の事だがねー。
節子皇太后は筧克彦の御進講「神ながらの道」をお聞きになったのだが、その筆記をどういう意味かわからぬが秩父宮にあげてくれとある。
これはその通りにするだけのことゆえ差し上げてもいいが、どうして秩父宮かということはわからない。
とにかく秩父宮は貞明皇后の一番お気に入りであった。
三笠宮も末のお子さんで〔溺愛され〕高松宮が御不平で、
戦争の時 支那の上海か何か危険な所へお出でになったのも、その御不平のためであったような話も聞いた。

1951年6月27日
昭和天皇◆秩父宮は節子皇太后の伝記のことをしきりに言っておられたから、
「天皇皇后の実録は編纂する義務のあるものと思うから、書陵部で然るべくやると思う。しかし今は特殊な人を雇うような大掛かりなことはできぬだろう」と言っておいた。

1951年7月13日
昭和天皇◆吉田と話して講和後のことを言ったら、
「締結後、御言葉をいただきたい。あまり有頂天にならぬような意味で」と言っていた。
「宮内庁長官とよく相談してくれ」と言っておいたから。

昭和天皇◆菊栄親睦会で朝香宮鳩彦王と東久邇宮稔彦王がしきりに私にゴルフをやれとの御話。
「私は採集などをやってこれも運動ですから、まあやりません」と言った。
どうも今ゴルフというのは一部の人には何か贅沢のような感じを与えてよくないと思う。
稔彦王に那須御用邸のリンクのことを聞かれたから、「草ぼうぼう」だと言ったら、
「みなの行くリンクの方に出かけたら」という話であった。
葉山であまり人目に立つというに、そんな御話だった。
だいたい皇族さんの発言はあまり考えないことが少なくない。
宮中服でも熱心にやり出して、不評の時は自分らはさっそくやめて、矢面に当るのは我々だ。
こんな馬鹿らしいことはない。
ゴルフが第二の宮中服みたようになるのは私は御免だ。

1951年10月4日
田島長官◆吉田首相、宮中服はあまり好かぬらしく。
昭和天皇◆あれは誰も好かぬ。
秩父宮妃ぐらいだろう。


1951年12月13日
田島長官◆『原田熊雄日誌』第6巻に西園寺公望が綏靖天皇の事を引き、「直宮様方は何もお考えにならぬが、勢というもので何か起こらぬとも限らぬ」という意味を二度申しておりますが。
昭和天皇◆西園寺は私にそういう事は言わぬし、原田に言ったかどうかも知らぬが、秩父宮は英米反対で日独同盟論を強く主張せられ、私はついに「そういう意見はもうあなたから聞かない。板垣陸相に言ってください」と言ったぐらい、第三連隊に関係が深く当時の陸軍の考えの通りであった。
参謀本部で閑院宮載仁親王が、「秩父宮は食堂へもおいでにならぬ」というようなことを言っておられた。
高松宮は砲術学校の時にかなり主戦論をされて私とケンカし、高松宮妃も同席して困っておられたこともある。
そんな事が自然西園寺の耳に入り心配してたのかも知れぬ。

1951年12月17日
田島長官◆高松宮が宮内職員高尾亮一に、
「終戦の際昭和天皇が万世の為に太平を開かんと仰せられたのに照応して、条約効力発生の時 何事か仰せになった方が良いと思われる」との御話があり、退位論など影をひそめていると確信するとの話がありました。
昭和天皇◆そうか、高松宮は今は退位論ではないのか。
高松宮は私に直接退位をおっしゃった。
そして「毎日のことでないから、御病身でも秩父宮が摂政にならればいい」と言われた。
口では秩父宮と言ってたが、腹では自分と思っていたのではないかしら。
東宮ちゃんが成年に達し、御自分が摂政になれないから退位論を改説されたのかしら。
秩父宮は終戦直後に内大臣木戸幸一や内大臣秘書官長松平康昌に、退位論ではない御説をはっきりお言いになった。
田島長官◆田島は一昨年や昨年は秩父宮のそうではない御意思の印象を受けております。
昭和天皇◆お変りになったか…。
田島長官◆いずれにしましても先だって来の文章ができますれば、世間発表前には御兄弟様に御内示になり御納得願った方が良いように思われます。
昭和天皇◆その方がよかろう。

1951年12月20日
昭和天皇◆秩父宮が退位論らしいという話だが、松平慶民〔宮内大臣〕時代は明らかに退位に反対しておられたが、どういうわけか。
当時の反対は誰か摂政にならなければならぬので反対で、今日は摂政の問題が無くなったゆえ退位論になられたのかしら。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1952年2月20日
秩父宮より御手紙。

1952年4月20日
秩父宮「御言葉は難しい。この際やめて正月御放意という例よくはなきや」とのこと。

1952年4月27日
秩父宮に御言葉の文申し上ぐ。
「固い・抽象的、まずよからん」とのこと。

1952年4月28日
高松宮に御言葉の文申し上ぐ。
「戦争のことは言わぬ方よし。今さら平和論を言うと言われる」とのこと。

三笠宮に御言葉の文申し上ぐ。
約50分熟考、御説あり。

1952年4月29日
三笠宮、御言葉について意見書御持参。

1952年5月3日
式典は無事終了。
約一年苦労の御言葉もよし。

1952年10月12日
秩父宮「大勲位論、東久邇宮盛厚王に勲一等等云々の論は不愉快」との仰せ。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官 

1952年2月11日
田島長官◆英ジョージ6世の葬儀は東京で大使館主催の弔祭式があるかと存じますが、ヴィクトリア女王の時は小松宮彰仁親王夫妻、エドワード7世の時は嘉仁皇太子夫妻〔大正天皇夫妻〕ジョージ5世の時は高松宮夫妻が御名代ということでおいでになっておりますが、今回は国際関係が正常でございませぬので御名代はどなたにお願い致しましょうか。
昭和天皇◆秩父宮は御病気で御無理ゆえ、高松宮にお頼みしてもらおう。
田島長官◆良子皇后御名代も高松宮妃にお願い致しましてよろしゅうございますか。
昭和天皇◆御健康はどうかしら。
万一健康上の問題があれば秩父宮妃にお願いしてくれ。

田島長官◆まだ先のことでありますが、戴冠式が6カ月後なれば国交回復後と存じます。
その節もし駐英大使でなく御名代というような場合はいかがでございましょうか。
昭和天皇◆御親類の国は別として他の国の参列者の振り合いを見て、例えばフランスが大統領自ら行くという場合で政府も希望するようなら、私はむしろ名代が行った方が良いと思う。
その時もそれはやはり高松宮だ。
秩父宮は行かれないから、また三笠宮は歳もお若いから。

田島長官◆御静養のためおいでになりましたことゆえ、秩父宮お上りになりましても行幸啓の必要はないと存じます。
昭和天皇◆いや、私はまず上るということは断るつもりだ。
秩父宮の来られる日は暖かい日だろう。
つまり私も海に出たい日だから、その代りこちらから出かけて行くと言いたいのだ。
出かけて行くなら私は寒い日でも構わぬからねー。

1952年2月16日
田島長官◆高松宮邸に出まして昭和両陛下御名代の事をお願い致しましたところ、何か御機嫌が悪いことがありましたかいちいち何か仰せになり、
「私は秩父宮御病気ゆえ御名代を引き受けても良いが、良子皇后御名代は秩父宮妃が本当だ」という御説を強く仰せになり、
「昭和天皇の御思召もそうだ」と申し上げましたところ、
「ヴィクトリア女王・エドワード7世・ジョージ5世など、みな秩父宮夫妻お揃いの前例などを田島が申し上げぬから悪い」とか「秩父宮妃が御病気になればいい」とか「リッジウェイとの関係を田島が配意するのは馬鹿なことだ。日本が敗けた以上、下になるのが当り前だ」というようなお話でありましたが、辞去後高松宮より御電話がありまして、
「藤沢〔秩父宮別邸〕との打ち合せの結果、めんどくさいから私のところでやれとの話ゆえ、それでよろしい」とのことで決まりましたのでございます。
昭和天皇◆高松宮は秩父宮妃のことをいろいろ言われたのだなー。
田島長官◆何だかいろいろ順調な御返事がありませんでした。
まずイギリス弔祭式について御国威を失墜することなしに済んだと存じます。

1952年2月18日
田島長官◆三笠宮が田島の部屋へおいでになりまして、
「戴冠式の御名代はどうなるか、私の外遊ということについて最も良い機会だが」との仰せでありました。
突然でありましてビックリしましたが、直接こんなに早くお話が出ようとは予期いたしませんでしたが、
「8月よりもっと早いかもしれませぬ。したがって正常国際関係が復活していないかもしれませぬし、またその際皇族がお出かけになることになるか大使的な人になるかも分かりませぬ」とハッキリせぬお答えを致しておきましたが、昭和天皇に直接御話があるかもしれませぬゆえ、ちょっとお耳に入れておきます。
昭和天皇◆高松宮は社交のことは御上手で、私なんかよりとても御上手だし、秩父宮が行かれれば一番良いがそれは駄目ゆえ、高松宮はこういう時には適当な御長所がおありだ。
この前高松宮が行かれたのはガーター勲章の御答礼で戴冠式とは違う。
戴冠式だからねー。

1952年2月25日
田島長官◆今日の新聞には戴冠式はやはり8月7日で、先方から招待状が来てみなければわかりませぬのだそうでございます。
昭和天皇◆イギリスは昔から親善だから、できれば今後も。

1952年2月29日
田島長官◆秩父宮から御手紙をいただきましたが、戴冠式に御名代の問題があれば明仁皇太子がよろしいということであります。
田島はそれまで想像もいたしませんでしたが、御手紙を拝見してみればごもっともであり筋の通ったことで、具体的に考えてみるだけの要はあると思いました。
侍従長三谷隆信は消極的で、東宮職では若い連中はとにかく東宮参与小泉信三・東宮大夫野村行一の間では否定的に傾いております様でありますが、秩父宮に直接お伺いして昭和両陛下に申し上ぐべきと存じまして藤沢〔秩父宮別邸〕へ上りました。
秩父宮は例の通り御自分の結論に反する事は枝葉的にお考えになりお論じになりますが、秩父宮の仰せは大筋はよく通っております。
「戴冠式御参列は難しいことでなくなんでもないことで、御役目というものがない。これは高松宮がガーター勲章の御答礼においでになったのとは全然違う。スターとして主役は何もない。ならびに大名的である」ということで、御自分様の御経験の順序を伺いました。
「前夜グロスター公の晩餐会から始まって、当日は式部官に誘導されて席にお着きになるだけ、国会での午餐・バッキンガムでの午餐も向こうの人は不慣れな方にはちゃんと気をつけてくれるから心配無用。私的にはクイーンがお呼びになる少数の宴会もあろうけれども、大してお困りになることはない。随従の者もある程度までお付き添いできる」
「軍艦は無し、飛行機も汽船も外国のものであり、右翼の者から問題にされる」ということも申しましたが、
「日本が一等国だった時のことを思っては駄目だ」との仰せでした。
随行者の人選の問題は松平康昌らの名前なども申し上げましたが、
「松平は十分いいとは言えぬが、最近イギリスなどへ行ったということで及第点とも言えぬこともない。イギリスに在勤・在住・留学等の然るべき人がきっとあるだろう」との仰せでありました。
「なかなかありません」と田島が申し訳しても、
「小泉さんというような人も知らなんだが、明仁皇太子にああいう人ができたように探せばあるよ」との話でありました。
重光葵も足が悪くなければとの御話もありましたが、これはイギリスでは好評でもとにかく戦犯の点もあり問題になりませんし、徳川家正など良い点たくさんありますが、グロスター公接伴として当時問題になりました由で問題になりません。
秩父宮は非常な御熱意で、「話が進まなければ昭和天皇に直訴する」とのお話でありました。
田島もこういう場所へ一度おいでになればその御経験は御自信をお付けになる機会でよろしいかとその点は結構と存じますが、田島・宮内庁次長宇佐美毅の積極に傾くこと三谷侍従長・小泉参与の消極に傾くこともあくまでも感じで、まだ意見と申すまでのものでもございません。
昭和天皇◆交通の問題を心配するのは右翼ばかりではない。
東宮ちゃんとしてはまたとない機会であるが、東宮ちゃんは身体が健康とは言えないし、行くとすれば香港・シンガポールの線はどうしても不可と思うゆえ、カナダかアメリカ経由ということになる。
そうするとイギリスに行く前に相当疲れてしまうと思う。
その上イギリスの儀式ということは主役でなくてもやはり疲れるから、その点どうかと思う。
秩父宮の議論は筋は通っている。
これは三笠宮をやめてもらうには非常に良いがねー。

昭和天皇◆東宮ちゃんの御名代の話ね、良子と話したのだが「それはちと早い、若すぎる」と言ったのだ。
しかし私が「私がイギリスへ行った歳と比べると1年かそこらの差だよ」と言ったら、
「そうですか。そんならむしろ賛成です。行ったほうがいい」と言うのだ。
それでまたとない機会だし筋の通ったことだから、具体的な事とか客観情勢とか国民感情とかで行けなくなることもあるかもしれんが、それらの点が全て差し支えないならまあ望むという方の考えだから。
実は私は東宮ちゃんが長く留学というようなことはあまり好かぬので、そういう意味での留学とか洋行とかいうことはやめたいと思うぐらいだ。
アメリカが留学など言う時でも、これをやっておけばそれを断るにもいいしね。

1952年3月3日
田島長官◆先日秩父宮にお目にかかりました時、
「明仁皇太子の御服装はさしあたりは普通の服装以外のものは考えません」と申し上げましたら、
「ロンドンの仕立屋では燕尾服でも3回仮縫いをするから3週間ないし1カ月かかる」という御話がありました。
昭和天皇◆秩父宮が戴冠式に行かれたのはまだ日本のいい時で、私が行った時も日英同盟のある頃とは違うとしても、やはりよかった。
今度東宮ちゃんが行っても、その時のような待遇は受けられぬかもしれぬ。
どうもイーデンは労働党の外務大臣より日本に好意を持っていないようだし。
秩父宮の考えも御自分の行かれた時の考えでおられる点が多い。

1952年3月7日
田島長官◆戴冠式の件、新聞記者なども宮様は三殿下〔秩父宮・高松宮・三笠宮〕で、秩父宮は御病気として、他の二殿下ではあまり世の注目を引かぬらしく、ひそかに明仁皇太子と思ってるのもあります」
昭和天皇◆どうしてそんななのかねー。
高松宮は社交は御上手だし、内地でもいろいろお出ましになるが、それがかえって困るということになるらしく、節子皇太后から直接伺ったが、埼玉県県会議長が直接節子皇太后へ「高松宮は困る」と言ってきたことがあるとの話で、節子皇太后は否定の御返事をなすったと聞いたが、そういうこともある。
田島長官◆実は首相吉田茂が初めから明仁皇太子と思いましたのも、二殿下がイヤなためもあるかと思われます。
昭和天皇◆吉田はどうしてかねー。
秩父宮はいいようだが。
田島長官◆高松宮は御招待もお断りしますし、封書も拝見せんでお返しいたしますし、吉田首相は感情的にイヤらしゅうございます。

1952年4月22日
〔1952年5月3日サンフランシスコ平和条約発効記念式典の御言葉〕
田島長官◆秩父宮が「高松宮がしきりに御言葉と言っておられるが、私はどうかと思う」とのことでありました。
秩父宮は高松宮とだいたい御意見が一致かと存じましたが。
昭和天皇◆いや、意見は違うんだよ。
高松宮は結局海軍の意見、秩父宮は陸軍の背後というわけで。

1952年4月28日
田島長官◆秩父宮は御言葉を御丁寧に3回熟読になりまして、
「少し堅いようだ。それから抽象的だ」との御話がありましたが、
正月ぐらいに「何も仰せない方が良い」と仰せになってたことは、別に仰せになりませんでした。
「ああいうものはどうも少し堅くなるのも抽象的になるのもやむを得ない」と御退位のことについては何も御意見ありませんでした。
高松宮は一度ザッとお読みになり、「まあ、こんなものだろう」との仰せでありましたが、
「ブレントラストは誰か」と御質問があり、小泉信三・安部能成と申しました。
「もっと他に書き加えよというような意見はなかったか」との御質問ゆえ、
「原稿はずいぶん変わりましたが、比較的大きなことは戦争の事・終戦前の事に触れるか触れぬかで論がありましたが、この際それはやめた方が良いとなりました」と申し上げましたところ、
「それはやめた方が良い。戦争については昭和天皇は事実平和論者であられるけれども、詔書のことがあるから自分の意思に反した結果となったという仰せはやはりなさらない方が良い。《過去を顧み》という一句もあるし」との仰せで、高松宮も御退位について何の御疑問も御質問もありませなんだ。
昭和天皇◆そうか、高松宮はやはり御自分の御考より周囲の言うものに左右されるのだなー。
砲術学校の時は非常に主戦論で、東条の時は海軍の意を受けて非戦論、また終戦の時はもちろん早くというお考えだった。
御自分の意見というより周囲の意見に従われるのだなー。
田島長官◆先鞭をつけるとか意見をお急ぎになる所がおありではありませんでしょうか。
昭和天皇◆それもそうだが退位は、あの頃よく南原繁が上がってたからだ。
田島長官◆お二方とも御退位なきことに何の御異存もなき御様子に拝し、また御言葉も別に取り立てて仰せはありませなんだ。

1952年7月4日
田島長官◆三笠宮が『赤旗』にインタビューで御話になりましたことが外国へ響いているということで、ロシアに関係ある世界的な会合に日本も出席すべきだというようなことと聞いております。
先だって福島の新聞の事件は申し上げましたが、〔三笠宮が福島県の警察予備隊誘致を批判した〕三笠宮は一部的に真理と思われますると全体的にどうかと思うこともドンドン言われまする。
昭和天皇◆地位を考えない、その影響がどうあるかということを少しも考えない、困る。
それは秩父宮も高松宮も、御地位ということ影響如何ということのお考えがどうかと思う。
田島長官◆高松宮は御言葉はなかなか御利口に仰せになりますが、御行動は必ずしもそうも参りませぬようで、平和になったという御気持が多少は関係あるかもしれません。
昭和天皇◆平和になった今日ますます世間の目が光るから慎重の要がある。

1952年9月13日
田島長官◆明仁皇太子御名代のことは極秘のことでありますが、秩父宮の御発言によって参りましたことゆえ、招請のあったことぐらい昭和天皇から秩父宮と御話になりますることは如何と存じました次第であります。
(昭和天皇、別に何とも仰せなし)

1952年9月19日
田島長官◆秩父宮につきましてカナダ映画の件は田島が早飲み込みいたしました結果、昭和天皇にも御心配おかけしまたいろいろ迷惑を及ぼしたようでありますが、お詫び申し上げます。
昭和天皇◆私は田島からカナダ映画の話を聞いて、侍従などがあまり見当たらぬという話を聞いたので、秩父宮あたりがまた「侍従の数を減ぜよ」などと言われはせぬかと思い、また服装がいろいろあって、秩父宮妃や高松宮妃などまた宮中服のようなものでも言い出されはせぬかというような気がして、私は秩父宮はお招きせん方がいいと決めた後であったので。
(これは侍従入江相政が「我々平民の社会では通用致しません」と御諫言申せし、
「御自分の御子様方と共に御兄弟もご一緒に御睦びなるべく」旨に辟易してか、こんな変な理由を仰せになり真に変と思う)

1952年12月2日
昭和天皇◆秩父宮はどうか。
炎症を起こしてるという話だが、やはり腎臓の方か。
田島長官◆一度手術遊ばしました副睾丸のように伺っておりますが、御発熱はそのためか、そのためにお飲みの薬の副作用かはわかりませぬそうですが、一時は39度以上でもだんだんお下がりで、今日秩父宮妃はフランス大使館の晩餐に御上京で御泊りのようでありますから御順調かと存じます。
昭和天皇◆西本願寺大谷光明〔貞明皇后の義弟〕は腎臓を手術して一つだが、結核はあれでとまってゴルフもやるしピンピンしているようだ。

1952年12月7日
田島長官◆秩父宮妃の御電話では、秩父宮の御発熱は御服薬の反応ではなく、やはり手術なさいました副睾丸だそうで、それだけか他にありますかわかりませんが炎症がありますので、折笠晴秀・児玉周一・遠藤繁清・寺尾殿治の4人が拝診相談の結果、やはり手術願ったほうがよろしいということになりましたそうで、今までの手術は御殿場でありましたが、藤沢はお狭く二階の御書斎の所で遊ばすらしくございます。

1952年12月8日
昭和天皇◆秩父宮の病気、あのバイキンはなかなか勢力あるものに違いないが、結局体力が強ければ出れないと思う。
フットボールやカナダの午餐やお出かけが多いのではないかしら。
田島長官◆御昼寝をお取りになったり、医戒は十分にお守りのようでありますが、だいぶ御回復になりまして医者もよろしいと申しますためか、近来お出かけは多いのでありますが、それだけお感じがよろしいようでございますが。
昭和天皇◆秩父宮は室内でお楽しみのことがないからいかん。
田島長官◆最近はテレビをお買いになりましてお楽しみのようで。
昭和天皇◆あれは献上じゃないか。
秩父宮妃の話では献上のようだよ。

1952年12月10日
田島長官◆秩父宮の手術は延期ということになりました。
全て準備は整いましていつでもよろしいというところで、お吐き気のあることと御脈の多いことのために執刀の折笠博士手術をする勇気なく、内科の医師とも相談して御延期願うということになり、手術が延びて期を失したような取り返しのつかぬことなきことを折笠に確かめました。
先に副睾丸をお取りになり今回また他の副睾丸が悪くなりまして、開いた上あるいは睾丸まで取らねばならぬかもしれませんが、別に他に触りないとのことでありました。
停電ストのため便宜に一時的に電灯をつけてくれました由で、電産ストはずいぶん一般人に迷惑を及ぼします。
昭和天皇◆労働者もこういう一般に迷惑のかかることをなぜやるか。
新聞などももっと労働者の態度を攻めないか。
政府も一般に迷惑のかからぬよう処置を取らぬか。

1952年12月16日
田島長官◆秩父宮御手術の件は共同拝診の結果延期となりまして、引き続き御食欲がおありにならず脈も多いようでございますが、それが新薬の副作用かどうかを見てることかと存じます。
昭和天皇◆副作用ならばいいが、脈が多いとなれば心臓が。
田島長官◆大したことはない御様子で、今日も秩父宮妃がイギリス大使館の晩餐会に御出席で今晩は東京にお泊まりになります。

1952年12月24日
田島長官◆秩父宮の手術のことでありますが、お取り止めとのことであります。局部が手術せずとも快癒の方向ゆえでありまするか、急がぬ手術の性格ゆえお取り止めになりましたか、御手術をお急ぎにならなくても手遅れということは決してないとのことでありますゆえ、その点は心配ないと存じます。
昭和天皇◆それはいいが、御中止の理由によっては安心ならぬ。
どっちの理由かねー。
田島長官◆御手術はおやめになりましたが、医療的な御失費は多くあったと存じます。
手術の際はいつも思召で賜金がありましたが、今回は手術はありませんでしたが遊ばした方がおよろしいかと存じます。
昭和天皇◆それはやはり差し上げた方がいいだろう。
その金額等の事はそちらで考えてくれ。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1953年1月3日
秩父宮、実は2:30頃御危篤、新聞等公表は4時半薨去。

1953年1月5日
御解剖行われ、2時過ぎ帰宅。

1953年1月10日
次長・侍従長より昨日昭和両陛下、御葬儀に関し御不満のこと聞く。

1953年1月16日
高松宮御来室、秩父宮家財政のこと。
臨時費の他、月額補助従来の2/3になる程度御希望。

1953年1月20日
高松宮拝謁、秩父宮御会計御補助の件、長官にいろいろありがとう。

1953年7月25日
「三笠宮については秩父宮も困ったものであったが、御歳召せばよくなるとのこと、東宮妃のこと」
「〔東宮妃には〕秩父宮妃のような方を」と言いしところ、
「あんな人は例外的存在でなかなかない」とのこと。
田島の辞職は時期は別として容認のこと、後任宇佐美も了承のこと。
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『入江相政日記』侍従長

1953年1月3日
秩父宮がお悪いのでご案じ申し上げる。
7時過ぎの連絡で、もう御脈がふれず、御呼吸は27とのこと。
行幸啓になるべきではということになったが、行幸によってショックをお受けになってはというのでお取り止め。
床に入ったが、方々から電話がかかってくる。

1953年1月4日
秩父宮薨去の電話があった。
こんなことならやはり昨夜行幸になればよかった。
鵠沼の秩父宮邸に御供。
秩父宮妃が秩父宮がいますが如く、
「入江が参りましたよ。いろいろ御世話におなり遊ばして」と涙声で申し上げになっていらっしゃる。

1953年1月5日
三谷侍従長から、田島長官の意見として、お舟入りには行幸行啓を願わない方針で、その代り稲田侍従次長をお使いにお出しになったらということを聞く。
稲田侍従次長の部屋で、侍従小畑忠もいる所で、そういう時のお使いは意味をなさないということから始まって、根本的になぜお舟入りに行幸になってはいけないのかということを言う。
三谷侍従長が昭和天皇の思召を伺ったら「ぜひ行きたい」と仰せになって、行幸になることになる。
あきれたものである。

1953年1月6日
今日の御服装、モーニングか御背広かでもめた由。
これも田島長官のためにお舟入りが昨日遅くまで決まらなかったためである。
実際、イヤになってしまう。

1953年1月9日
式部の案によれば、昭和両陛下・明仁皇太子その他が御一緒におなりになるのが困るとのこと。
また常陸宮・清宮貴子内親王がごゆっくりおいでになるというようなことはスペースもなし具合が悪いとのことである。
そこで結局原案通りでお許しを得る。
その時にも「どうしてそんなに場所が無いのか。今度のことは田島などの形式にとらわれた考えのために事が窮屈になる。椅子はどんなのでもいい。無ければ立っていてもいい」と仰せられた。
式場から還御になったら、「話がまるで違う。場所はいくらでもある。三谷にも言っておいたが、官房の方に強く厳しく言っておくよう」という仰せだった。
三谷侍従長と稲田侍従次長にこの御沙汰を伝え、「今日の行幸は御通夜でないから10分でよいとか、御永訣に鵠沼に行幸になる必要は無いとか、そういう思召に沿わず人情にもとるような決定を軽々にしないよう田島長官に伝えてくれ」と話す。

1953年1月10日
今朝田島長官が昨日のことでお詫びに出たら、昭和天皇がまたいろいろ仰せられ、さらに小畑侍従に追加して御注意の御沙汰もあった由。
今度は相当効いたろうとのこと。

1953年1月13日
妻子から「なぜ昭和天皇が御葬儀にお出になるようにしない。宮内庁の馬鹿にはあきれる」とさんざんやられる。
これが国民の本当の声であろう。

1953年6月14日
三笠宮妃から電話で、
「明日戴冠式のニュース映画を御覧ならば、秩父宮妃も御陪覧になりたい」とのこと。
那須の保科女官長に電話で伺ってもらうように頼む。
那須からの電話で、
「それはあまり勝手というもので、いつもお誘いするニュース映画には来ずに、こういう時だけ来るのはいかん」とおっしゃり、
あとからまた「呼んでもいいが、秩父宮家には3時、三笠宮家には4時に知らせろ」とおっしゃった由。
どういうものか困ったことである。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官 

※当時の総理大臣の年給は132万円

1953年1月4日
秩父宮薨去の御悔み言上。
田島長官◆御喪儀次第は失効いたしました皇室喪儀令を参考としてお決め願っておりますが、その喪儀令の中に直系卑属なき場合の喪主は勅定すとありまして男女の別は買いてありませぬ。
道理でおかしいことはございませぬゆえ、秩父宮妃を喪主に御勅定願いたいと存じます。
昭和天皇◆よろしい。
田島長官◆節子皇太后の時のように国事と致しますことはできませぬゆえ、秩父宮家御喪儀と致しまして費用を要しまするので、内々大蔵当局とは話し合いをいたしております。
喪儀令によりましても御直拝はございませんし、庶民の間でも最近までは目上の者は目下の者の葬儀には参りませぬ習慣もありまするゆえ、昭和両陛下は御代拝しかるべきかと存じます。
昭和天皇◆秩父宮医療費がかかっているだろうから、この間のだけでは足るまいから、その点よく研究してくれ。

田島長官◆右御不幸に関連いたしまして明仁皇太子の御洋行のことでありまするが、予定通り行われて結構と存じます。
(それは無論との御様子にて)
昭和天皇◆3月は東宮ちゃんの壮行会や何やらあると思うし、3月は東宮ちゃんのために忙しい。

1953年1月8日
田島長官◆秩父宮の御本葬以外に宮内庁分室御弔問は御思召もありまするので9日・11日2回お願いいたしまするが、喪主の秩父宮妃の他には高松宮らだけで、それでお許しを得たく存じます。
なお御斂葬後 豊島岡墓所へもなるべく近き機会に御参拝願いましたならば、御兄弟の御情愛の点からも結構かと存じます。
昭和天皇◆それ以上のことは節子皇太后の場合とのこともあるから、それぐらいでよろしい。
田島長官◆秩父宮の解剖のことがどういう筋からか朝日新聞に出ましたために、〔秩父宮は自分の解剖を遺言していた〕今日は各新聞ともなかなか躍起のようでありまするが、内容は新聞でなく解剖関係の学者が学会へ発表すべきものと存じまするが。
昭和天皇◆新聞はいかん。
学会のことでこのあいだ医学博士加藤元一が新聞へ発表して論争になったことがあるし、これはどこまでも学会のことだ。
田島長官◆厚生大臣山形勝見が参りまして「ありがたい思召である」と申してまいりましたゆえ、「御遺志により解剖が行われた。しかし御遺志により発表はされぬ方針」と申しておきました。
なお御遺言中落語のことは、〔秩父宮は自分の葬儀に落語をしてほしいと遺言していた〕ちょうど落語家が鵠沼に御弔問に上がりました節、人を遠ざけ御遺骸に対して2分ばかりお話をいたしまして済みました由で、御遺志も通り非常識との議論を招くこともなく済みまして結構と存じます。
なお御墓所に関して銅像のようなこともお書きになってありましたが、お墓の建設は管理部で設計図を差し出しまして御異存もないように拝しておりますゆえその通りでおよろしく、別に御銅像のようなものを境内にお建てになるのではないかと存じております。
祭祀料は20万円説もありますが、30万円でお願いしたいと存じます。

田島長官◆秩父宮薨去のため多少遅れて参りましたが、明仁皇太子御洋行の予算の点は1億1千万円を今年度予備費で認めてくれ、秩父宮御葬儀に関する700万円も今年度予備金で出すとのことであります。御文庫の営繕2,500万円も昭和27年度予備費にしてくれとの話でありましたが、これはやめまして昭和28年度予備金にして欲しいとのことでありまして、植物の御移植等には帰ってよろしいかと存じ同意いたしました。
昭和天皇◆それは遅い方が良いが、どうして政府は堂々と予算に組まぬのだろう。
いつも予備費支出をするが。
田島長官◆ごもっともでありまして、大蔵省の意思がどういう点かわかりませぬが、正式予算で議論されますれば衆議院には社会党左派もおりまするし、参議院には共産党員もおりまするゆえ、皇室のために議論されるのを取らぬと考えておるのではないかと想像しておりまする。

1953年1月10日
田島長官◆昨日〔秩父宮の葬儀〕行幸啓になりましたにつき、何か御不満な点がありましたむね伝聞いたしましたが。
昭和天皇◆狭い狭いと言ってたが、あれなら十分広いので私は驚いたのだよ。
田島長官◆狭いと申し上げましたのは、便殿を御しつらえするだけの余地のない意味で申し上げたと存じます。
昭和天皇◆それは儀式の時の話で、大宮御所でも御命日に参拝の場合は良子は廊下で待ってたこともある。
形式的でなくていい場合は今でもあるから、節子皇太后の時にも隔殿が狭くて御霊前にいたことはあるよ。
田島長官◆それは田島の心得が足りませなんだので、お詫びいたします。
側近の者に粗忽があった訳ではありませぬゆえ、お叱りなきようお願いいたします。
(あれだけのスペースがあれば、常陸宮ら御一緒に御通夜的に遊ばしたかりし御希望に反せしため御話ありしか)

1953年1月14日
田島長官◆それから東京新聞には解剖のことについて、秩父宮もやはり皇室の習慣や迷信の血統で、解剖はされても結果は秘密にされるというような批難的なことを書き、昭和天皇の科学的態度と秩父宮妃の近代人の感覚でぜひ一般に発表を望むというような記事がありましたが。
昭和天皇◆新聞雑誌に出すことは私は絶対反対だねー。
いつかの加藤博士の論争がやはり感情的になり良くない例を示してる。
どこまでも学会に発表すべきだ。新聞雑誌に発表して意見の必ず一致しない人もあろうから。
どこまでも学問の問題として学会に報告すれば足りるよ。

1953年1月15日
田島長官◆秩父宮家が親王薨去になりますれば、140万円の年分は停止になりますると1/3にお減りになりますので、御日常御不足かと存じます。
また経常費合理化のため人減らしがあると存じますが、解雇につき退職金が御入用かと存じます。
鵠沼の御邸も相続税が相当あるかと存じます。
御不足分を御本家の内廷費で御支弁いただくより仕方ないと存じます。
昭和天皇◆それは当然内廷費で支弁するようにしてよろしい。
あまりケチでなく。
田島長官◆昨日高松宮妃がおいでになりまして、「秩父宮家の御会計はどうだろう。高松宮家とて富裕ではないが少しぐらいのことはできるから」というような御話でありましたから、「必ず昭和天皇がお許しになると存じますから御心配なく」と申して置きました次第でございます。
医療費の点は解剖の御礼もあり昨年までの分は済んでおりまするが、これはやはり別に賜ることに願いたいと存じます。
昭和天皇◆実行方法はどうするのか。
田島長官◆医療費は全額決定次第御手許上げいたし、従来通りお自ら秩父宮妃にお渡し遊ばされ、その節昭和天皇から秩父宮妃に対し親しく御言葉で「宮家経済のことは長官に話してあるから」と仰せになれば結構かと存じます。
なお一つ内廷費支出のお許しをいただきたいことは、700万円の御葬儀費用を政府は厚意をもってくれましたが、宮内庁職員の徹夜など超過勤務手当に使用は厳禁と釘を差されておりいますが、さりとてなしというわけには参りませぬゆえ、内廷費から20~,30万円支弁させていただきたいと存じます。
昭和天皇◆よろしい。

1953年1月16日
田島長官◆昨日豊島岡墓所で秩父宮妃にお目にかかりまして、
「いずれ昭和天皇より御話はありましょうが、皇室で御輔助の御気持でありますから、どうぞ田島に御相談いただきとうございます」と申し上げまして非常に御感激の御様子でありました。
ところが今朝高松宮がおいでになりまして、
「後家さんにおなりになって女さんお一人ゆえ金は要らぬという考えでは困る。田島の先入観がそれでは困る。宮家としても半分以上は妃殿下のための衣食の費用だ。秩父宮妃は特別な御地位と御経歴で国のためにお働き願うという立場で、御費用は御入用と考えてもらわんと困る。皇族の数は少ないし、特殊な立場で国際的にお願いするために費用は要る」との仰せで、今日は別に反対論を申しませなんだ。
高松宮と近い式部官長松平康昌に話しましたが、「それはちょっと行き過ぎですね」とも申しておりました。
昭和天皇◆それは今後は高松宮夫妻で遊ばして、その輔助に秩父宮妃がおいでになればいい。
今まで秩父宮がやってられた程度のことは必要かも知らんが、それ以上は要らぬことと思う。
田島長官◆高松宮は金額の問題を仰せ出しになり、
「1/3になって月額58,000円ではどうも仕方がない。2/3くらいになるように御輔助になるといい」という風な御意見に拝しました。

1953年1月19日
田島長官◆秩父宮の医療費は44万2千円程度でありますが、他にも御医療費はありましょうし、50万円としていつもの通り御手許上げと致しまするゆえ、明日良子皇后が鵠沼へおいででございますれば、良子皇后より秩父宮妃に進ぜられますれば至極結構のことと存じます。

1953年1月20日
田島長官◆秩父宮家の毎月の内廷御輔助の金額を定め願うことが先決となりまするゆえ、宮内庁次長・侍従長・侍従次長・式部長官ら要職の者の個別的意見は期せずして年額70万円と申しまして、つまり法律上秩父宮御在世時の1/3にしかなりませんのを、内廷の御輔助で2/3に願うということであります。
昭和天皇◆よろしい。
田島長官◆高松宮に秩父宮家の件 申し上げましたところ、非常に御満悦の御様子に拝しました。
田島拝命以来初めて「御苦労だった」との御言葉をいただきました。
昭和天皇◆そうか。

1953年1月21日
昭和天皇◆昨日良子が秩父宮の所へ行った時、秩父宮妃が財政のことは秩父宮が全部おやりで今までは少しも触れなかったというお話があったそうだ。
田島長官◆秩父宮妃が従来秩父宮家の財政にお触れになっていなかったということは何の障りもございません。
高松宮には元大蔵大臣渋沢敬三が、三笠宮には元日本専売公社総裁入間野武雄が経済顧問でありますが、田島拝命の当初秩父宮に「もし御用があれば田島が致しても結構でございます」と申し上げました節、秩父宮は「自分の所は人を煩わすほどの財産はない」との仰せでありましたし、それから見ましても財政のことは全部秩父宮の〈おつむり〉(頭)でせられて家職は使い歩きをしていたに過ぎませぬので、秩父宮妃はそう仰せになったのだと存じます。

1953年2月25日
田島長官◆イギリス戴冠式への御希望を申出ありましたが、秩父宮の御発議で明仁皇太子となりましたゆえ、三笠宮としては御失望かと存じます。
それゆえ政府に頼み何かの名義で御洋行の機を作ることは、三笠宮のためにも皇室にも日本国にもよろしいかと存じます。
昭和天皇◆高松宮妃もそんなことを言っておられて、洋行は第一の方法と思うが随員が大切だ。
田島長官◆式部官長松平康昌は外交官僚日高信六郎が良いとのことであります。
三谷侍従長も日高は良いと申し、三谷は明仁皇太子随員首席にも一度日高と申したことがあります。
昭和天皇◆日高は立派ないい人物だと思う。
ただし三笠宮に対して影響を及ぼす力があるかどうか、その点が駄目なら人物が良くても駄目だ。
三笠宮がその意見に動かされるようなあまり年齢の違わぬいい人はないものか。
田島長官◆秩父宮・高松宮は皇孫でお生まれになり、三笠宮は皇子としてお生まれで、節子皇太后〔貞明皇后〕が末っ子は可愛いと言うのでお可愛がりになったというようなことも多少ございましょうか。
昭和天皇◆私などは〈おもう様〉〈おたた様〉とご一緒のことはあまりないが、日光や葉山の付属邸というものは三笠宮のためにできたという一例を見ても、田島の言ったようなことはあった。
三笠宮はワンパクで、籐椅子をお振り上げになったのを女官がお止めしたのを、子供は活発でなければと節子皇太后がお止めになったというような例もある。
陸軍少将田内三吉というのが養育掛としてずっとお付きしてた。
秩父宮や高松宮は恥ずかしいのかちっとも三笠宮と遊ばない。
私は遊んでやったことがある。

1953年6月2日
田島長官◆かねて秩父宮お亡くなりと共に申し上げました秩父宮妃の歳費増額の問題でありますが、あれを親王方と同額にしますることと、皇族費の基本額140万円を190万円にベースアップいたしますことでございます。
内廷費は3,000万円を3,800万円ということであります。
昭和天皇◆内廷費はいいよ。
田島長官◆それはやはり御一所に増額お許しいただきませぬとやはり困ることになりますから。
昭和天皇◆そうか。
田島長官◆実は皇族費の方は従来70万でありましたのを一挙10割増しの140万としまして、首相の俸給等と比しましてこの際合理的なベースアップは必要で、数字上の根拠の上に190万円というものが出ましたし、また3,800万円も細かく合理的に考えました結果でありますからお許しを得たいと存じます。

1953年6月20日
昭和天皇◆昨日田島の言ったことだがねー。
私には田島の言ったことは、私が子供の方に重きを置いて高松宮などのことを次にするというような意味に感じを受けて実は驚いたのだがねー。
田島ががそんな感じを持ってるかと思って。
私はむろん皇族さん方を重んじて子供の方のことはもちろんその次に考えているので、主義としては私は田島の述べたのと同じことを考えているのだが、こと重大だと思ったから良子にも話して今日話すわけだが、ニュース映画〔視聴会〕のことは元皇后宮大夫広幡忠隆の頃に平素はお目にかかることもしずらいから、なるべく御話する機会のあるようにとの高松宮の方の希望で、それではニュースにおいでなさいということになって始まったもので、先方の希望を入れて始めたことなのに、近頃は少しもおいでではない。
それから宮さん方は御機嫌伺いなどということはちっともないけれども、内親王の方は御機嫌伺いというので向こうからやって来る。
それゆえ食事を出すことがあるというに過ぎない。
こちらから食事に呼んだことはない。
それから叔母様方〔照宮成子内親王の嫁ぎ先〕は去年の立太子礼の時にも菊栄会親睦会に呼べたけれども、鷹司〔孝宮和子内親王の嫁ぎ先〕・池田〔順宮厚子内親王の嫁ぎ先〕はどこにも入らなかったから(これは明らかに昭和天皇の御記憶違い)今度呼んだだけのことだ。
今言った通りで昨日田島の言った通り、私は子供より皇族さんを重んじてやっているのを、田島がああいうことを言って驚いた。
(とのお繰り返しゆえ、これは昭和天皇の御意思に反しても変な理論を仰せになっておいでのことを御諫言申さねば昭和天皇の変な御理屈を是認することになるが、笑っておいでではあるが拝命以来の御語勢ゆえ)
田島長官◆さようでございましたか。
田島が昨日申し上げましたことで昭和天皇を驚かせましたことは、誠に恐れ入りましたことと存じます。
この事柄で田島が何か申し上げまするには、覚悟を新たにいたしまする必要もありまするゆえ、今日は退かせていただきまして、覚悟のできました上で改めたただいまの仰せに対し申し上げることにお許しを得たいと存じます。
昭和天皇◆うん、そう。
私はちゃんと田島の考え方と同じであるゆえ、今日ニュース等のやり方をその考えでやってるが、実際のやり方がどうもというので再検討するという意味なら、それは分かるので話は別だ。

1953年6月22日
田島長官◆田島が宮内庁長官を拝命いたしましたのは芦田内閣からでありましたが、突然の話で驚き断りましたが、「5月3日の憲法記念日までに決まらねばGHQの方から先方へ猟官運動をしている者を押しつけてくるかもしれぬ」と芦田首相が申しましたのが気になりまして、GHQに猟官するような奴よりは田島の方がまだマシだと存じ、ついに拝命するに至りました次第で、芦田首相に侍従長は田島の推選する者に同意してほしいという条件を出しました。
侍従長三谷隆信はおとなしい人で誰にでも評判はよろしいが、何一つしないので学習院ではやや持て余しておりましたが、人物は誠実で頭が良くて大人しくて、侍従長はむしろ消極的な方がよろしいぐらいで、かつて御通訳をいたしたこともありますので三谷に承諾してもらいましたが、侍従長としては誠に適当と存じます。
申さば田島は追放の多い最中に代用食のようなことで拝命いたしました次第で、その時分はまだ東京裁判以前でありまして、今日とはずいぶん違っておりまして、昭和天皇御退位の問題もやかましく、昭和天皇から「元宮内大臣牧野伸顕にはよく打ち明けて大切なことは相談する方がよろしい」とのお示しもありましたので、大事と思いますることは考え抜きました結果を牧野のところへ参り相談いたしました。
爾来表の方のいろいろな問題にも当たりましたが、この問題は昨年5月3日の昭和天皇の御言葉によりまして終止符を打ちました。
奥のことも5年間いろいろな人からいろいろなことを耳にいたしましたし、表のことに関する奥のこともありますので、自然奥のことにも頭を使うは当然でありました。
例えば三笠宮の思想・行動の上にどうかと思われる節があり、三笠宮にも少し御態度を変えていただきたいなどということを申して参りましたけれども、一面田島は宮内庁のことに全責任ある身として考えてみますれば、三笠宮がどうしてそういう風におなりになるのか、おなりになるには宮内庁長官として職務の不十分なところがないのかと反省してみますると、やはりないとは申されませぬ。
しばしば御洋行の御希望を承りました時、「在外邦人の金などでは駄目でございます。お兄様はみなさま御洋行ゆえ、堂々皇族としておいでになれますような機会を考えます」と申して参っておりましたところ、今回のイギリス女王戴冠式には明仁皇太子がおいでになりますことになり、三笠宮としては御不満にお思いにもなりませんが、自分はいつ行けるかとお思いになりますことは当然であり、また昭和天皇は終戦と同時にひどくお変りになりましたが、宮家の変化に比べますれば日常の御生活ことに経済の面では格段お違いにならぬとも申されまするに反し、特に三笠宮はお子様も大勢さんおありで、今後いかになり行くかと先をお考えになれば、進歩的な思想についてのお考えになりますのも多少は理由のあることと反省して考える必要があり、さすれば宮内庁長官として三笠宮の思想・行動をただ困るというだけでなく、その原因になることに対策を立てぬが職責上悪いということになりまするので、具体案としてとにかく一度御洋行願うことがよろしい、またできる限り経済上お楽になりますよう取り計らいますことが必要と存じまして、昨年来政府側に対しても予算等を頼んでおります次第であります。
田島は一長官でありまするが、昭和天皇と遊ばされましては、皇族の一員である三笠宮に対して望ましいかぬ思想・行動おありの時には、それはどういうわけか、どうしてかとお考え頂き、単に困るというだけではなく、なんとかお考えいただくことが必要ではないかと存じまする。
高松宮にしてもいろいろのことがあり、最近霜害が最もひどかった川越地方へ視察においでの節、宿屋以外の料理屋にお泊まりになるというので地方新聞にちょっと出まして、埼玉県知事が心配して宮内庁次長のところまで参りましたようなことがあります。
軍人でおいでの方が毎日お勤めになる軍職がなくなり、ありがたかっておいでを願うとなれば、時間がおありゆえお出かけになります。いくら共産党の世の中になりましても、皇位継承権をお持ちの三笠宮が如何とも遊ばされることはできぬは明白で、皇室の首長たる昭和天皇に大きな御立場から大らかになっていただくことが必要かと存じます。
昭和天皇◆その点は分かったが、高松宮妃もヴァイニング夫人の時に良子に先んじて英語を習い、またじきに辞めてしまうとか、秩父宮が私にゴルフを勧め、それではとやりだすと御自分は飽きてやめておしまいになる。
秩父宮妃も高松宮妃と一緒に宮中服をお作りになるに熱心でいて、評判が悪くなると一緒になって悪口を言い、そして御自分は和服を着るというように、飽きやすくて人より先じたがったりなさるから、どうもそういう点が…。
田島長官◆田島の立場としては申し上げるのもつらいことでありまするが、そういうことはすべて宮様の方がお悪いとは存じます。
宮様方の方がお悪いと断言せざるを得ぬとしましても、昭和天皇が宮様方と同列に立って向こう様がこうだからこうだと仰せになりますことは、昭和天皇の御立場としてはいかがかと存じます。
田島は仏教の家ですが、キリスト教の方では羊飼いは普通についてくる羊の群れよりも迷える羊の方を余計に心配するということであります。
この羊飼いのようなお気持ちで、弟様方をも親心で子のように思いになればと存ずるのでございます。
(昭和天皇「うんうん」と強く御応えになり、「具体的にどういう方法にしたらばよいか」との仰せあり)
田島長官◆毎週のニュースはおやめになり、月2回ぐらい御懇談の御食事でも共にせらましたらばと存じますが、よく侍従次長稲田周一と練りまして申し上げます。

1953年6月24日
昭和天皇◆田島の話もあったので、昨夜は御馳走をしたのだが、スッポンもあったので。
田島長官◆スッポンのスープでありますか。
昭和天皇◆いや、スッポンの料理だよ。
高松宮は非常にお喜びだったが、高松宮と御懇親するのは食事以外よりないよ。
御料理の話の中で三笠宮もいろいろな物をお食べになってるようで、牛の頭の料理はおいしいとかなんとか言ってられたが、私は三笠宮は矛盾もはなはだしいと思うのだがねー。
平素いろいろ進歩的な意見を言われるが、ああいう贅沢な料理の御話もなさる。
それにちょっと心配なのは、御口が軽いから昨夜のような御馳走の話を外でされやせぬか。
皇室は御質素などと言っているが、この間は御馳走が出たなどと言われると誠に困ったものだが。
三笠宮は困るよ。
この前 田島に「7千万円もかけて仮宮殿を作るは贅沢だ」など言ってきたなら、牛の頭とか贅沢な料理などは知らぬはずだ。
矛盾だよ、三笠宮は。
田島長官◆三笠宮は7千万円の時も相当仰せありましたが、御説明しますればまあおわかりになりますし、昨年の5月3日の御言葉中の《米国をはじめ》を削れとのことでもなかなかやかましく《英米をはじめ》の訂正にまでお折れになりましたが、反米的でかなりきつく申され、田島へ御手紙、また官邸へもおいでになりなどいたしましたが、昭和天皇がお決めと申しました後は何とも仰せありませんでしたから、お若いためにちょっと進歩的な思いつきのおありの時は仰せになりますが、おわかりになればそれでだいたい静かにおなりのようでありますが、どうも矛盾よりも進歩的なものに余計お気が向くらしく、先だってもアメリカ国務省に太平洋問題調査会の人間が巣食うことの調査拒否を調査報告をお話ししてもらいました時も、普通はずいぶん恐るべきことだと感ずべきなのに、そういうことはまあありがちのようなお考えで、根底に何かちょっとどうも。
昭和天皇◆どうも高松宮も三笠宮とは昨夜もあまりお話なさらぬ。
秩父宮がお亡くなりになって、高松宮は秩父宮妃にいろいろ尽くしておいでになるようだが、どうも三笠宮とは合わぬようだ。
田島長官◆秩父宮は同じ陸軍でもあり、三笠宮も御殿場までお出かけになり、むしろ高松宮への御話は秩父宮を通されたというようなことも聞いておりますが、どうも三笠宮のことは何とか致さなければなりませんが、秩父宮なき今日どうしてもお二方だけゆえ、だんだんにお歳も召してやっていただく他ないと存じております。
田島と致しましてはとにかく経済面その他でできるだけ三笠宮のお気持ちのいいことをすることは必要だと思っております。
昭和天皇◆まあ私としては田島の言った注意で努めてやるから、具体的なやり方は田島の方でよく考えてくれせ。
(申さば諫言的な申し上げのこと御容認の御言葉と拝し恐懼す。また感激す)

1953年6月29日
田島長官◆秩父宮家の車はヒルマンと申します小さい車で、秩父宮御在世当時より買い替えの御希望ありましたが実現せず、その後 本当にボロになりまして今回買い替えになりますることに決まりましたが、秩父宮家の御都合ではちょっと御不足のようなでありますので、50万円だけ無利子で若干期間お貸しくださいますことのお許しを得たいと存じます。
昨年鵠沼の御邸買い上げの節100万円の御立替を願いましたことがありましたが、その節も無利子でありましたがじきに御返金になりました。
今回はそのうち長からず御返上できると存ぜられますゆえ、お許しを得たいと存じます。
昭和天皇◆よろしい。そのくらいあげてもいいね。
田島長官◆それは他様とのバランスの問題もありますので、無利子でお貸し願えば結構で、下されることはよろしくないと存じます。
昭和天皇◆そうか。
田島長官◆昭和天皇の御手許もそうお金持ちでありませぬゆえ、それは困ります。

1953年8月1日
田島長官◆那須へ秩父宮妃をお誘いになりまして、秩父宮妃は非常にお喜びで、どうか高松宮・三笠宮も那須へ仰せいただきたいと存じまする。
昭和天皇◆妃殿下方ならともかく、宮さんは来られてもどうも。
田島長官◆お受けになるならぬは宮様方の御自由として、三笠宮などもしこんなことでまたおひがみのようなことは困りまする。
高松宮も三笠宮御洋行のこと御希望が4~5年先とのこと申し上げに出ました際も、「御自分でできることはある程度のことをしても行かれると良い。また外国語の御勉強の方法もいいだろう」と仰せになりました。

1953年8月27日
田島長官◆秩父宮家相続税は法律改正の結果軽減され、諸種の控除もあり、結局税額50万円程度らしくございます。
かねてお許しを得ております通り、内廷からこれだけのお金を賜りますことお願いいたします。
昭和天皇◆よろしい。

1953年9月11日
田島長官◆前回申し上げましたように秩父宮の相続税の金額は29万円だそうでありまするが、新しい相続法では御子様のありませぬ節は御兄弟にも相続権がありまするので、昭和天皇・高松宮・三笠宮になりまするが、もちろん御取得の御意思はなく秩父宮妃に全部でありますので、宇佐美次長より高松宮・三笠宮の御了承を受けましてございます。
軍人恩給の問題で、皇族のうち高松宮は恩給をお受けになり得られまするし、三笠宮は一時金だそうでありまするが、皇族としては恩給の積金は遊ばしておりませんし、皇族費は国家の支給でありまするゆえ、御遠慮の方しかるべきと考えまして、そのことを宇佐美次長より申し上げ、両宮とも御了承であります。
先日は三笠宮・秩父宮妃をお招き遊ばしまして、みな非常にありがたくお喜びのように拝しました。

1953年12月1日
田島長官◆今朝秩父宮妃から承りましたが、金曜日の会合の後で〔第一回三笠宮洋行相談会〕三笠宮妃から秩父宮妃に御電話がありまして、会合の結果具体的に予算等の困難なこと、留学等の意味などよほどお考えになった御様子だとお話を伺いました。この際あまり時を経たず、ある程度の具体的な方針決定を見たいと存じております。

1953年12月3日
田島長官◆皇族さん方はだいたい今まで人頼みで何の御心配もありませんでしたがこういう時世になりまして、御存知ない割に入ることを欲せらるるため、ひっかかられるのは当然であります。
大体宮家の方々は御自分が御承知ない会計のことを御自分でおやりになりますからこういうことになります。
秩父宮は自分の所は財産もないし相談するまでもないという仰せでありましたが、全部御自分で切り盛り遊ばしてたらしく、その後有利に回る御相談がありました時も田島に大丈夫かとお尋ねあり、少額である程度以上はよろしいと申し上げたことはありましたが、一つも焦げつきなどはできず、この間相続税の時に初めて拝見しまして、つまらぬ株が少々ありましたが、これも少ないのでただいま東芝社長石坂泰三の手で整理いたしておりますが、かような次第で秩父宮妃は会計のことは何も御存知なく、従ってただいまは石坂・田島らでご相談を承っておりまするため少しも危なげもありません。
昭和天皇◆秩父宮は強い方で、御自分でお決めになるとずいぶん激しく言われたのだが。
田島長官◆それは田島も他の問題でずいぶんひどく仰せになりましたこともありますが、一応は筋の通ったことでありますから、かような面からの見方もありますと申し上げれば、そうかと仰せになることもありました。
現に明仁皇太子の御洋行の時でも御熱心に仰せになり、三笠宮御希望も御承知の上で今回は明仁皇太子だときつく御主張で、田島への御手紙にも理路整然と御主張になりました。
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『入江相政日記』侍従長

1970年9月4日〔那須御用邸〕
昭和天皇より御召。
秩父宮妃に、昭和天皇の偏頗なく遊ばすという立場をよく御説明してくれとの仰せ。
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『入江相政日記』侍従長

1972年3月22日
秩父宮妃から電話。
須崎御用邸のことについていろいろ御話がある。
つまり御三方お揃いの都合の良い日はないとのこと。

1972年3月23日
昭和天皇に、秩父宮妃・三笠宮妃からの須崎御用邸のこと申し上げる。
「両宮別々でいいから」と仰せになる。
その方が穏やかでもある。

1972年11月13日
赤坂御用地内の秩父宮新邸、立派におできになった。
秩父宮妃お直に御案内くださる。
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『入江相政日記』侍従長

1973年12月11日
朝日新聞の衣奈君より電話。
高松宮妃からの御召で行ったら、日赤・朝日の共催である良子皇后の展覧会の上りを、常磐会と藤楓協会に寄付するのとのことで、秩父宮妃も御同意とか。
あきれてしまう。

1973年12月25日
宇佐美長官・徳川侍従次長と高松宮妃のこと。
また良子皇后の展覧会の上がりを常磐会と藤楓協会にと言われた由。

1973年12月26日
また高松宮妃が北白川女官長に、良子皇后の展覧会の上がりを常磐会と藤楓協会にとおっしゃった由。

1973年12月28日
高松宮へ行く。
この間からの蒸し返し。
それでその不可なる所以を御話する。
よくわかったとのこと。

1973年12月29日
昭和天皇に高松宮妃のこと申し上げ、御安心いただく。
しかし同時に朝日の人などにおっしゃったことについては、あきれていらっしゃった。
宇佐美長官にも報告、喜んでいただく。
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『入江相政日記』侍従長

1975年4月23日
宇佐美長官来室。
日本の皇族にあきれ返る。
〔5月7日~5月12日のエリザベス女王来日について〕

1975年4月26日
秩父宮妃から駐英大使大野勝己さんにも電話があった由。
八方に手を回して、なんたること。
大臣を押しのけてエジンバラ公に同乗する決意を、「さすがは高松宮様」と讃えられたとか。
この間からのこと、まったく話にならない。

1975年5月1日
宇佐美長官・徳川侍従次長・北白川女官長・式部官長島重信と話し合い。
秩父宮妃・高松宮妃が美智子妃・常陸宮妃に、
「和服ではダンスができないから、良子皇后にお願いして洋服にしろ」と強く言われた由。
お嫁さんたちとしてはそんなことはできないということで、美智子妃・常陸宮妃は和服、他は御勝手にということにしようということになる。

1975年5月3日
晩餐の時のダンスの関係で、美智子妃・常陸宮妃はローブデコルテ、良子皇后は和服の関係上、御一方では具合が悪いので秩父宮妃・高松宮妃も和服ということで昭和両陛下のお許しを得ようということになる。

1975年5月18日
北白川女官長から、秩父宮妃から揺り返しがあった由。
宇佐美長官からも同じこと聞く。

1975年12月31日
エリザベス女王の御訪日もまた大騒ぎになった。
「我がイギリス」人種が多数現れた。
秩父宮妃・高松宮夫妻・三笠宮寛仁親王・麻生和子夫妻。
外務大臣宮沢喜一や儀典長内田宏を脅したりしてさんざんの醜態だった。
三木首相も驚いたことだろう。
昭和天皇がしっかりしてらっしゃるからいいようなものの、さもなければ大変面倒なことになるところだった。
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『入江相政日記』侍従長

1976年1月13日
昭和天皇から御召。
文春の皇族座談会『皇族団欒』の高松宮のこと。
本当につまらないことを申し上げになるから困る。

1976年1月20日
昭和天皇から御召。
また『皇族団欒』の高松宮のこと。

1976年7月1日
昭和天皇から「文春の皇族座談会『皇族団欒』のようなものを正しいものと思っていては困る」との仰せ。
三笠宮へ行き、三笠宮妃によく御話する。
あの座談会に批判的だったこと、高松宮一辺倒でないことなどがわかり、すぐ帰り昭和天皇に申し上げる。

1976年7月3日
秩父宮へ行き、秩父宮妃にこの間からのこと洗いざらい申し上げる。
すべて御同意、お喜びだった。

1976年7月5日
昭和天皇に秩父宮妃のことを申し上げる。
「入江、御苦労だった」と仰せくださる。

1976年7月8日
宇佐美長官に、秩父宮妃・三笠宮妃のこと報告する。

1976年7月12日
昭和天皇から、一昨日皇族方御参内の節、高松宮夫妻が大変協調的であったがどういうわけかという仰せ。
「やはりいくらか御反省になったのだろう」と申し上げ、
「それならいいが」との仰せだった。

1976年9月11日
秩父宮妃御参内、高松宮・明仁皇太子などお集りの時にミグ25事件につきみなさんいいことだとお喜びとのことだったが、昭和天皇は「皇族さんは無責任だから」とおっしゃったとのことで、この無責任についてお掘り下げになった結果の御話。

1976年12月31日
1月10日文春の二月号に『皇族団欒』とかいうくだらない座談会の記事が載った。
秩父宮妃・高松宮夫妻・三笠宮寛仁親王という顔ぶれ。
司会は加瀬英明。
つまり高松宮が一人で【誇りかに】しゃべっておられるだけ。
すでに昨年の文春の二月号にも加瀬君が書いているが、高松宮から伺ったようなことが多く、それによれば御自分は根っからの平和論者であり、太平洋戦争をとめたのも自分であるという意味のことが書いてある。
昭和天皇にはこれが非常にお気に入らず、実に数えきれないほど御召があった。
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『入江相政日記』侍従長

1977年4月9日
秩父宮へ。
『皇族団欒』をめぐってのことにつき、しみじみ申し上げる。

1977年4月11日
昭和天皇に秩父宮へ行った時のこと詳しく御報告、御満足であった。

1977年10月8日
秩父宮妃から御電話。
三笠宮寛仁親王が本を出し、例の対談『皇族団欒』も載せると。
絶対に不可と言う。

1977年10月9日
三笠宮寛仁親王から電話。
「秩父宮妃から伺ったが、承知なさった高松宮に取り止めると言ったら妙にお思いになるだろう」とのこと。
「そんなこと問題にならない。もしこれが出た時のと比べれば、皇室としての損害は比較にならない」と言ったら、
「やめます」とのこと。
まあよかった。

1977年10月11日
昭和天皇に三笠宮寛仁親王の一件を話す。
予の処置にまったく同意。
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『入江相政日記』侍従長

1982年12月17日
このあいだの三笠宮での皇族の集まりについて聞く。
つまらないこと。
浩宮〔令和の天皇〕の御留学などについてのこと。
秩父宮妃まで加担したとか。
驚き入ったこと。
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『入江相政日記』侍従長

1983年6月3日
昭和天皇から、浩宮御留学につき、秩父宮の留学・三笠宮寛仁親王の留学がうまく行かなかったこと、久邇宮との複雑な因縁をなかなかわかってくれないとか、浩宮が帰るまでの二年間生きていられるかなど、クヨクヨしたことをクドクドとおおせになる。

1983年12月13日
昭和天皇が中川融〔浩宮オックスフォード留学の主席随員・元国連大使〕に、
「秩父宮も三笠宮寛仁親王もオックスフォード留学は失敗だったが、浩宮の時はそんなことがないように」と仰せになったことにつき、
中川さんが「三笠宮寛仁親王のことは十分わかるが、秩父宮のはどういう御意味か」と言っていた由。
三笠宮寛仁親王は駐英大使平原毅に手紙を出して、浩宮がいろいろな人にお会いになるよう、それを大使館が妨げると言われたことも聞く。

1983年12月28日
昭和天皇が「秩父宮のオックスフォードの教育は失敗だった」と仰せの件伺う。
つまり不十分だったのと、秩父宮の性質によるが、参謀総長閑院宮載仁親王をダラ幹と言い、当時の軍の勢いに乗ったことなど、との仰せだった。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1995年4月8日
良子皇太后〔香淳皇后〕侍医大橋敏之より、秩父宮妃の御健康状態について聞く。
だいぶ老化が進んでいらっしゃる様子。

1995年5月14日
秩父宮妃の御容体のこと、リンパ腺腫はできれば伏せて心不全で通したい。

1995年8月6日
皇太后宮侍医大橋敏之によれば、秩父宮妃来週いっぱいぐらいか。
その場合の対応についていろいろ話し合う。

1995年8月25日
5時40分、秩父宮妃危篤の発表。
テニス合宿は断る。
せっかく準備したので、テニス荷物の代りにモーニングを持ってバス。
11時28分、秩父宮妃御逝去の報。
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◆秩父宮雍仁親王(淳宮雍仁親王)123代大正天皇の二男
1902-1953 50歳没

*イギリスに留学


■妻 松平勢津子 外務官僚松平恒雄の娘/会津藩主松平容保の孫
1909-1995 85歳没

*米フレンドスクール卒業


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宮内官僚関屋貞三郎から久邇宮邦彦王への手紙

1920年9月5日
秩父宮御好配の件は後日言上致しますが、その後 別に大した進展も見ず、節子皇后〔貞明皇后〕の思召は、皇室に限らず広く華族伯爵級にてもよろしかろうとの事に承り、範囲広くされますことも選択の自由も大きくなるとのことが論旨と思われます。
ことに御洋行の問題が起こり、御年齢もむしろ若い方が良いと存じあげます。
然るに今日具体的になってまいりましたものは致し方なく、のち皇族中より御選定せられずと決定したのではありませず、ただし範囲を広く伯爵級までに及ぼさんことが論旨より窺い知ることができます。
また御年齢などのことを考慮いたします時には、伏見宮女王〔伏見宮敦子女王・伏見宮知子女王〕殿下については思召しなきものと拝察するのが適当と信じております。
まちがっても双子であるという点で節子皇后がどのように考えておられるかは、いまだ拝察する機会を得ておりません。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年6月3日
※倉富&皇子傅育官長松浦寅三郎&宮内官僚仙石政敬子爵の会話

松浦◆秩父宮も来年は御成年につき立派なる輔導者をつけて徳量を成就せらしめられたし。
いかがしたらばよろしからん。
仙石◆御成年後は裕仁皇太子との区別を明らかにする事を自覚せらるる事が必要なるべし。
倉富◆この事は極めて大切なり。
これまでがあまり御待遇が広大すぎる様に思わるるゆえ御気には入らざるも充分に抑える必要ありと思う。
節子皇后は特に秩父宮をお愛し遊ばさるる様なり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1922年2月22日
秩父宮はずいぶんワガママを仰せられる趣にて、その原因も先日松平慶民子爵より話を聞きたる事あるが、初の傅育官丸尾錦作が厳格を主としたるため秩父宮はいじけなされたり。
次の傅育官長三好愛吉はこれに懲りて放任したるため、秩父宮は放縦になられたり。
しかして三好はこれを矯むるに及ばずして死去し、現傅育官長松浦寅三郎はこれを矯むるだけの力なしとの事。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1923年1月10日
※宮内官僚西園寺八郎公爵の発言

秩父宮に随いてスキーを為すため旅行し、初めて殿下の性行を見聞したるが殿下はよほど難物なり。
何事も一通りできるが、御高慢にて人を侮らるる風あり。
殿下の行動には野卑なる事も少ならず。
その原因を探りたるに年少の少尉などと一緒に御暮しなさるゆえ、自然にその感化ある様なり。
殿下は才気あるも、充分に研究なさるる熱心はなし。
これも殿下の短所なり。

1923年8月9日
※宮内官僚小原駩吉男爵の発言

秩父宮・高松宮に随従し岐阜県に御供したるが、なるほど秩父宮にはよほど大切なる場合なり。
御行動においても野卑なる事を特に為さる事もあるが、第一に御直しなさる必要あるは御言葉なり。
ほとんど巻舌にてべらんめえ調の御言葉が出る事あり。
これは若い士官等の風に感染なされたるものならん。
御性質は弱き者をいじめなさる傾あり。
これに反し高松宮は人に対する御思遣りも深く何事も研究心強く、秩父宮が無理になさざるとはよほど異なる所あり。
スカールを為さるを拝見したるに、秩父宮は教師の言も聞かずして無理をもって漕がんとなされ、高松宮は充分に会得したる後に漕がるる様の差あるを見たり。

1923年3月26日
※倉富&有馬頼寧伯爵の会話

頼寧◆長女静子は自分より言うはおかしき事ながら、学習院にては評判よろしく「この如き人こそ皇族の妃なるべき人ならん」との噂ある趣なり。もし秩父宮の妃となる事を得れば幸の事なり。ともかく君に談しおく方よろしからん。
倉富◆先般話ありたる久邇宮邦久王および山階芳麿侯爵との結婚話は、双方とも健康充分ならざる様なるにつき止めた方がよろしかりし。
頼寧◆只今の話が成立すれば結構なり。妻貞子〔元皇族〕の関係もある事につき、望まれざる事にはあらざるならんと思わるる。

1923年3月31日
※倉富&皇后宮大夫大森鍾一の会話

倉富◆頼寧の夫人は北白川宮家より出でたる人なるが、娘に女子学習院高等科に入りおる者あり。もし秩父宮の妃と為る事を得る様の機会あらば幸なり。明日は女子学習院の卒業式にて君は節子皇后に供奉して学習院に行くべきにつきこれを見てくれよ。
大森◆実は写真でも見たしとの談は無きにあらず。しかしそれは有馬家の娘のみにあらず。5~6人の写真を見たしと言うことになれり。しかし只今より乗り気になりては困る。

1923年5月5日
※倉富&相談役仁田原重行子爵の会話

仁田原◆静子を入江為守の子為常に配しては如何。
倉富◆静子の事については、予は秘密に聞きおる事あり。他に嫁せしたき希望あり。その方は漠然たる希望にて少しも見込立ちおらず。しかしその希望ある以上は入江の方に約束する事は出来ざるならん。
仁田原◆いずこなりや。
倉富◆〈のぎへん〉なり。〔秩父宮という意味〕

1923年8月26日
※有馬頼寧伯爵の発言

先頃節子皇后より弟安藤信昭に対し静子・澄子の写真を望む旨の御話あり、安藤より姉妹の写真を差し上ぐ。
安藤の推察にては静子よりも澄子の方が思召ある様なりとの事なるが、年齢の関係ならん。
澄子の写真は額に髪がかぶりおり充分に顔容が分からずとの御話にて更に1枚を出せり。
その時「決定もせざる事に写真を幾枚も取りては気の毒なり」との御話ありたる趣なり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1924年2月26日
※宮内官僚渡辺直達の発言

有馬澄子を池田宣政にもらいたき事は、頼寧に問いたるところ「澄子は既に他に婚約ある」旨をもって断りたる趣なり。

1924年3月2日
頼寧は澄子を秩父宮の妃に為さんと欲しおると同時に、妹がその通りになれば姉静子も権衡上相当の所に嫁さしむる必要ありとて、久邇宮朝融王の婚約が破棄せらるるならば、その跡に静子を嫁せしめたき事を望みおる。
朝融王の婚約解除問題は非常に困難なる事となりおるゆえ、たとえ解除と為りてもその跡に嫁せしむる事は面白からざるならんと思う。

1924年4月10日
※倉富&有馬頼寧伯爵の会話

倉富◆朝融王の婚約解除問題は大変に面倒となり容易に解決すべき模様にあらず。婚約解除を待ち、その方の婚約を図らんとする事は面白からざるべしと思う。
頼寧◆この事については自分も迷いおれり。要するに妹の方が決せざるゆえ姉の方もその権衡に迷いおる次第なり。

1924年9月5日
※倉富&宗秩寮総裁徳川頼倫侯爵の会話

倉富◆秩父宮の結婚の事は如何なりおるや。
徳川◆自分はやはり皇族の方がよろしからんとの考えにて閑院宮華子女王を持ち出したり。こちらは容姿もよろしく智徳ともに備わりおる様なり。宮内大臣も至極よろしからんとて調査すべき事を命じたり。また伏見宮の敦子女王・知子女王の事も申し出しある由なるが、こちらは双子という事が難しかるべしと思う。先日賀陽宮好子妃に京都あたりにて双子の事に関する感想如何を問いみたるに、「17~18歳頃までは他より注意するも、それ以上になれば格別噂せず」と言われおりたり。

1924年11月5日
※皇后宮大夫大森鍾一の発言

近日伝聞したる所にては、有馬家にては他より結婚の申込ありたるもこれを拒絶したりとの事なり。
万一先年聞きたる様の事をアテにして、他の申込を拒絶する事ありては当て違いとなるべし。
内議にては決して左様の運びになりおらず。
これは有馬家の事のみにあらず。
他にも2~3の噂ありたる所はありたるも、いずれも取り留まりたる事にあらず。
万一左様の事をアテにしておりては気の毒なるゆえ、一応注意す。

1924年12月1日
※倉富&有馬貞子夫人の会話

貞子◆頼寧は只今の所にては静子は朝融王の妃と為す事を考えおる様なり。
また頼寧は「今後皇室を守るべき者は自分らだけになるにつき、なるべく皇室に接近する手段を取りたし。
ついては澄子は秩父宮の妃と為す事を望む」と言いおれり。
静子はもはや二十歳なるにつき、あまり延ばす事も出来ず。
倉富◆朝融王の事は種々の推測あり。
朝融王は今すぐに結婚せらるる訳にはいかざるべく、また朝融王はその性質飽きやすき方の様なる説もあり。
方々予はこちらは止めらるる方よろしかるべき旨を談したる事あり。
秩父宮は来年5月頃より御洋行の事は内定しおる模様なり。
節子皇后はその前に内定だけはなされたき思召ならんと思わるるが、如何なるべきや。
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『高松宮日記』

1921年5月13日
今日の『国民新聞』に、秩父宮の妃に一条の娘さんがおなりになると出ていた。

1926年1月4日
甘露寺のお嬢さんが二人〔甘露寺績子・甘露寺寿子〕手伝いに来る。
これも候補者なり。
〔秩父宮のお妃候補〕
姉さんの方より妹の方がニコニコしていて愛嬌がある。
顔もおとなしい。
しまいに姉の方も悪くないと思った。

1927年3月1日
宗秩寮総裁仙石政敬談として秩父宮御渡英中止の記事として出たのがとても不出来だったので、皇子御殿へ行ってみたらやっぱりお気に入っていなかった。

1927年9月10日
今朝、内親王御出産。
ああ、嫌になっちまう。
男子はできぬかな。
また秩父宮の妃殿下面倒なりか。
〔秩父宮のお妃選びが難しくなるということ〕

1927年9月27日
節子皇太后〔貞明皇后〕より秩父宮妃の候補としてお考えの者の話承りたれば、竹田宮へ行ってお話しておく。

1927年10月5日
秩父宮の御新邸は表町御殿だそうな。
なにも御殿名をつけなくてもよかりそうなもの。
私の方は御免蒙ります。

1928年1月5日
一木喜徳郎宮内大臣来談。
秩父宮の妃殿下のことなり。
これでスラスラとゆくことだろう。

1928年1月14日
大宮御所へ。
秩父宮妃のことで御満足のようだった。

1928年1月21日
夜は秩父宮へ泊まる。
もうじきお嫁さんが来たらやめる。
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『岡部長景日記』文部大臣※当時は内大臣秘書官長

1929年4月18日
原田熊雄君の招待で住友別邸に赴いた。
秩父宮・東久邇宮をお招き申し上げる。
秩父宮は日本服を召されておくつろぎ遊ばされ、日本間にて錦水の料理、御給仕は近衛文麿・細川護立夫人・高木喜寛夫人・原田熊雄夫人。
そのうち鳥の蒸煮が出た。
秩父宮が「骨がうまい」と言い出され、東久邇宮以下一同不安を感じつつ噛むとなるほどまずくない。
これは不思議と誰も彼も平らげ、秩父宮大得意。
次に出て来たのがあまごのフライ。
秩父宮は骨を平らげられる勇者にかかわらず頭がお嫌いの由にて、あまごの頭までをいちいち取って上がられるのを、ここぞとばかりに東久邇宮が「これは頭から食べられる」とおっしゃる。
両宮の間に大激論、一座大笑いとなる。
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『本庄繁日記』昭和天皇の侍従武官長

満州事変発生の1931年の末より1932年の春期にわたる頃のこと。
当時は満州事変勃発に伴い、国内の空気自然殺気を帯び、十月事件の発生を見るなど、特に軍部青年将校の意気熱調を呈し来れる折柄、ある日 秩父宮参内、昭和天皇に御対談遊ばされ、しきりに昭和天皇の御親政の必要を説かれ、要すれば憲法の停止もやむを得ずと激せられ、昭和天皇との間に相当激論あらせられし趣なるが、その後にて昭和天皇は侍従長に『祖宗の威徳を傷つくるがごときことは自分の到底同意し得ざるところ、親政と言うも自分は憲法の命ずるところにより現に大綱を把持して大政を総攬せり。これ以上何をなすべき。また憲法の停止のごときは明治大帝の創制せられたるところのものを破壊するものにして、断じて不可なりと信ず』と漏らされたりと。
誠に恐懼の次第なり。
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『木戸幸一日記』

1932年6月21日
※木戸・近衛文麿・原田熊雄・宮内大臣一木喜徳郎が会談

秩父宮の最近の時局に対する御考が、ややもすれば軍国的になれる点につき意見を交換す。

1933年3月8日
秩父宮御参内になり、種々昭和天皇とお話あり。
後で昭和天皇は「従来秩父宮は政治についても軍部の見るがごとき軍本位のかたよれる御考が多かりしが、昨今はだいぶ変わられて御眼界も広くなられし」との御感想をお漏し相なりたり。
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二二六事件の叛乱将校 中橋基明の獄中遺書

《判決の不正を絶叫す》
秩父宮殿下 歩三におられりし当時、国家改造法案をよく御研究になり、改造に関してはよく理解さられ、このたび蹶起せる坂井直に対しては、御殿において「蹶起の際は一中隊を引率して迎えに来い」と仰せられしなり。
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朝日新聞 1937年9月14日

『きのう秩父宮殿下 ヒトラー総統と御会見 ニュルンベルク城で』
「秩父宮殿下には、ヒトラー総統・ヘス無任所大臣・ゲーリング航空大臣・党団代表およそ30名に堅き御握手の後、城内の大広間でヒトラー総統以下30数名の日独両国の外交官と午餐を共に遊ばされた」
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