直球和館

2025年

2001/06

◆高円宮憲仁親王 三笠宮崇仁親王の三男
1954-2002 48歳没


■妻  鳥取久子 鳥取滋治郎の娘
1953年生

*英ケンブリッジ大学卒業


●高円宮承子女王 1986年生
●高円宮典子女王 1988年生
●高円宮絢子女王 1990年生




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高円宮久子妃 2003年

初めて宮様にお会いしたのは、東京青山のカナダ大使館でした。
カナダ大使夫妻のお嬢様が結婚されたので、お祝いのレセプションが開かれたのです。
その場で大使夫人から宮様を御紹介いただきました。
「いま父宮殿下のお手伝いをしております」と御挨拶しました。
〔久子妃は三笠宮崇仁親王の翻訳・通訳を務めた〕
レセプションが終わると、宮様から「このあと一杯飲んで帰るけれども、一緒にどうですか?」と仰ったのです。
「二次会」の後は宮様に送っていただくことになり、別れ際に「電話します」と仰ったので、私の名刺をお渡しいたしました。
社交辞令と思っておりましたが、一週間と経たずに御連絡をいただいたのです。
それからは頻繁に宮様とお会いするようになりました。
仕事をやりくりしては、バレエや音楽会い御一緒させていただきました。
毎日お電話もいただきました。

父宮殿下が宮様に「鳥取さんのことはどう思っている?」とお尋ねになると、
宮様は「いいんじゃない?もう候補に入ってますし」とお答えになったそうです。
私の方にはお仕事でお目にかかった時に、父宮殿下からそれとなく「高円宮をどう思うか?」とお尋ねがありました。
どのようにお答えすべきか戸惑った末に、「宮様らしい宮様でいらっしゃいますね」と申し上げました。
すると父宮殿下は「結婚を考えてもいいんじゃないか」というようなことを仰ったのです。
私はビックリして、「いいえ。私の家はとてもそのようなことを考えられるような家柄ではございません」と申し上げたところ、父宮殿下は「それはない」と仰ってくださいました。
父宮殿下は私が学会のお手伝いとしてお勤めする段階で、これまでの経歴だけでなく祖先の家系図に至るまでお調べになっていらしたようで、コピーを出して見せてくださいました。
宮様が「お見合いの話があるのだったら断るように」と仰ったのは、この次の日でした。
出会ってからわずか2週間。
本当に急展開で、宮様の御決断力には驚くばかりです。
私も素直に宮様の御言葉に従い、お見合いのお話はすべてお断りいたしました。

子供たちに言わせると「出会って1カ月でプロポーズだなんてありえない」らしいのですが、カナダ大使館でお会いしてから1カ月後にすっかり有名になってしまったプロポーズの御言葉をいただきました。
場所は東京赤坂のホテルでした。
「大垂髪が似合う顔でよかった」とか、ラブラドール犬が好きだと申し上げると、「うちの庭は広いから、ラブラドールを飼うのにちょうどいいね」とか、結婚を連想させるようなお話が出ていました。
でも私自身は正式に申し込みをいただいているわけでもなく、恐縮しながら「いつもそう仰っていただきますが、まだプロポーズをしていただいていませんし」と申し上げたのです。
そうしたら「ああ、そう言えばそうだっけ」と少し困った表情をされた後、「Will you marry me ?」と照れくさそうに仰ったのです。
私も英語で、「Yes」とお答えしました。
日本語で「結婚してくれますか?」と言われたら、「両親ともよく相談いたしましてから」といったフレーズがついたと思います。
驚いたのはプロポーズの後でした。
宮様は「じゃあ、御両親に伺わなくっちゃ」と仰って、私の自宅へ向かわれたのです。
時間は深夜12時頃。
母は私が帰宅するのを待っていましたが、父はすでに寝ており、母に叩き起こされたあげく、何が怒っているのか見当がつかないという面持ちで、着替えをして二階から滑るように降りてきました。
宮様は「たとえ皇族として生活できなくなる時が来たとしても、必ず何らかの形で生活できるよう、久子さんをきちんとお守りしますから」と仰ってくださいました。
父は「よろしくお願いいたします」とお答えして、二階に上がって行きました。
父はベッドに腰を下ろし、「もしかしたら大変なことを申し上げてしまったのかも」とつぶやいたそうです。
母も「ええ。大変なことを申し上げた気がします」と答えたそうです。
気を落ち着かせて降りてきた両親は、宮様と私のためにシャンパンを開けてくれました。

結婚前のお妃教育は4回通いました。
皇后陛下や皇太子妃殿下は何度もお受けになられるのですが、私の場合は4回でした。
そのうち2回は、宮様が「僕も知らないことがあるから」と仰って、一緒にいらっしゃいました。
私はほとんど外国で生活していたため、知らないことばかりでした。
宮様からは「わからないことがあったら、何でもお母様に聞けばいいから」と温かい御言葉をいただき、それからはすべて三笠宮百合子妃殿下に教えていただきました。
一日に何度もお電話したり、伺ったりいたしました。
結婚の日取りについては、宮様が母宮殿下とお話になって、「12月に結婚式を挙げれば、新年の行事から一年間を通して経験することができる」とお考えになってお決めくださいました。

結婚の儀では2時間かけて大垂髪を結い、さらに2時間かけて十二単を身に着けました。
私が着させていただいたものは、もともと貞明皇后が大正の御大礼のためにお作らせになったものです。
けれども父宮殿下がおみ腹にいらしたので、その十二単はお召しにはなりませんでした。
後に父宮殿下の御成婚の際には、戦時中であったため、母宮殿下は十二単を御遠慮されて、小袿をお召しになりました。
その十二単を私がお借りすることになりました。
記念撮影の時は、「久子は大垂髪がきっと似合う」と仰っていた宮様が、「言った通りでしょ」と御満悦でした。
御自分については、「面長なので束帯が似合う。それは成年式で確認済」などと仰っていました。
結婚の儀を終えた後に、宮様は「面白いでしょう」と仰いました。

この日昭和天皇から「高円宮」の宮号をちょうだい致しました。
宮様は「いい宮号をいただいて良かった」と、とてもお喜びでした。
「高円山と三笠山は二つ並んでいて、高円山の方が少し高いんだ」と。

母宮殿下が「高円宮は食べ物にうるさい上に小食なので、栄養には気をつけてやってほしい」と仰いましたが、私は耳を疑いました。
最初にお目にかかって以来、宮様はどちらかというとよく召し上がる印象があったからです。
宮様にお聞きすると、家庭の主婦の場合は毎回微妙に味が変わってしまいますが、宮家には専門の料理番がプロの腕をふるうので味にブレがないらしいのです。
一期一会という言葉がお好きだった宮様は料理に対しても同様で、「おいしい料理にめぐりあうと、もう二度と会えないないかもしれないと思って全部食べてしまう。久子は料理の本には絶対に載っていないようなものを作るからね」と仰って、たくさん召し上がってくださいました。
凝られることには凝られる宮様も、お料理だけは御自分でなさいませんでした。
もしなさっていたら、きっと私より上手においしくお作りになったことでしょう。
お蔭さまで宮様は周囲の方に、「久子は料理が上手、おいしい」などと仰ってくださいました。

宮様はおいしい物とおいしいお酒を召し上がることがお好きでした。
高くておいしいのは当り前ですが、安くてこの味というこだわりを持ったお店。
私はそのこだわりを味わうのが好きでした。
例えば「この店はつくねがとてもおいしい」と聞けばつくねだけを食べて、「このお店はお刺身がおいしい」と聞いたお店に行ってお刺身だけを注文するというように、食べ物屋さんのハジゴをやっていた時期がありました。
「このお店はお豆腐がおいしい」などと聞くと、お豆腐一丁のためだけにタクシーに乗って出向いたこともあります。
宮様からは「飲み屋のハシゴをする人は多いけど、食べ物のハシゴは珍しいね」と仰いました。
結婚の話が決まったとき私はは、「ああ、もうこういう庶民的な所にはこられないのかな」と残念な気持ちがありました。
宮様も「妻となる人とはこういう所では飲めないのかもしれない」とあきらめていらっしゃったそうです。
ところがお互いに、「こういう店に行っても(相手は)大丈夫なんだ」というのがわかりました。
それで、「食べ物の好みも合いそうで安心した」と仰いました。

宮様は本当に御決断の早い方なのです。
例えばお買い物。
とてもお買い物が早い。
よく「どうして迷うのかわからない」と仰っていました。
「どうしても欲しいのだったら買えばいいし、それほどでもないなら買わなければいい」と。
宮様からは本当にいろいろな物をいただきました。
私が冗談で「宮家に嫁いだら、婚約指輪はないし結婚指輪はないし、苗字もなくなってしまいました」と申し上げると、
宮様は「だから、あんなにたくさんいろんな物を買ってあげてるじゃない」とお笑いになりました。

宮様との最初の外国訪問は、結婚から2年半経った、メキシコ・カナダへの公式訪問でした。
私にとっては久しぶりの海外で、飛行機から雲を見て妙にはしゃいでしまいまして、宮様に笑われてしまいました。
私の人生でこんなに長い期間同じ国(日本)に留まったことは過去になかったものですから、ウキウキしてしまったのです。
宮様が外国訪問で時差の解消のためと称して、ディスコに行かれるようになったのも最初のメキシコでのことでした。
宮様はダンスもお上手でした。
ダンスパーティーでは必ず踊っていらっしゃいました。

御相談はいつも英語でいしておりました。
周囲の人たちにわからないようにお話ができますし、娘たちがいる時も子供たちに聞かせたくないようなことは英語で話していました。
もっとも娘たちもそのうち英語がわかるようになってきましたので、そうも行かなくなってきましたから、宮様は「二人で話せるもう一つの言葉を覚えなければいけないね」と仰いました。

宮様が、「新しい語学を勉強したい」と仰いました。
私は「フランス語はカタコトですが私が話せるので、二人ともカタコトのフランス語を話すよりも、カタコトでも結構ですからスペイン語をなさったらいかがですか」と申し上げました。
宮様も乗り気になられて、スペイン語の勉強をお始めになりました。

宮様は、「子供は大勢の方がいい。笑顔の絶えない家庭にしたい」と仰っていました。
私は三人の娘に恵まれました。
長女承子は眠ることを嫌う子供でした。
お料理を作ろうと思ってもなかなか離れられないような時は、宮様が「じゃあ、僕が抱いているよ」とよくあやしてくださいました。
たまに承子に「おかあまがいい」と言われて、「なぜだ」と憮然とされてしまうこともありましたけれど。
子供たちは私たちを、「おとうま」「おかあま」と呼びます。
大きくなってから子供たちは、「ウチだけよね、こんな呼び方してるの」と言ってましたが。
しつけについて特に心がけていらっしゃったことは、お手本となるような日本語をお使いになることでした。
子供たちは、「おとうまに叱られると本当に怖かった」と申しております。

宮様は音楽の才能がとてもおありでいらっしゃいましたが、秘かに御自慢の特技をお持ちでした。
それは他の人の歌声にハモリをおつけになることで、お友たちからも「ハモリの三笠」とお呼ばれになるほどでした。
宮様は音楽をお聴きになりながら、本をお読みになることも少なくありませんでした。
片方の耳にヘッドホンを当てて音楽をお聴きになりながら、もう片方の耳ではテレビのニュースをお聞きになり、さらにコンピューターに向かわれているのです。
宮様は「自分は学者になれる素養はあったかもしれないが、なりたいとは思わない」と仰っていましたが、資料の収集能力やその記録の仕方はまるで学者のような感じでした。

高円宮邸は宮様御自慢の家で、「建てて5年経っても10年経っても嫌いなところがない」と仰って、非常に満足されていました。
皇族は一度家を建てると、簡単に建て替えたり引っ越したりすることはできません。
一度建てたら一生住むことになります。
宮様は建設にあたって、「一生嫌だと思わない飽きない家にしたい」と仰って、驚くほど設計を勉強されました。
宮様は設計士や宮内庁と打ち合せを繰り返し、宮邸づくりに励まれました。
宮様が特にこだわられたのは、どこにいても音楽が聴こえるとう点でした。
例えば宮邸で夕食会を開いた際に、お客様がどこに移動しても音楽が耳にできるように、オーディオやスピーカーの配置にまで気を配られていました。

宮様は御自分の健康にはかなり自信をお持ちで、お熱を出されたとか体調を崩されたということはほとんどありませんでした。
御自分でも、「肩こりや腰痛を感じたことは一切ない」といつも仰っていました。
内臓にも自信がおありでしたので、二日酔いの頭痛なども御経験がなく、お薬をお飲みになったこともほどんどありませんでした。
結婚してからしばらくは救急箱もなく、子供が生まれて初めて救急箱を買ったほどです。
年に二回の人間ドックも、時間ができた時にすればいいという風でいらっしゃいました。
検査の結果どこかお悪いと言われたこともありませんでした。

宮様の御遺体をお乗せした車が宮邸に着いた後、宮様には寝室のベッドで休んでいただきました。
宮様はまるでお眠りになっていらっしゃるようでした。
宮様がお倒れになった時、「父親が亡くなった」ということをどのようにとらえるのか、母親としてまず心配いたしました。
お倒れになった後 子供たちは期末試験を迎え、否応なしに学校生活に再突入したことも、いま考えればよかったのかもしれません。
御棺が宮邸の二階にあった時も、夜中でも当り前に「じゃ、ここで勉強してる」とか言いながら、私の代りに御棺の前に座っていました。

宮様がお小さい頃は公務にお忙しい母宮殿下に代って、容子さまが細かなところまで御面倒を見てくださっていらしたそうで、大人になられてからもよく容子さまに御相談遊ばされ、その御助言をとても御信頼になっていらっしゃいました。

宮様はプライベートでお出ましになることに、「おしのび」という言葉を使うのを嫌われて、絶対にお使いになりませんでした。

徳仁皇太子は音楽がお好きなので、私どもの所にヨーヨー・マを招いて徳仁皇太子との演奏を企画したりしました。
徳仁皇太子がウチの子供たちに「この曲を一緒に弾きましょう」と仰って、パッヘルベルのカノンの楽譜をくださったこともございます。
御成婚なさってからは、徳仁皇太子と雅子妃そして高円宮様とウチの三人の娘による合奏も実現いたしました。
徳仁皇太子はバイオリン・雅子妃はフルート・高松宮様と絢子はチェロ・承子と典子はバイオリンを弾きました。
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◆高円宮憲仁親王 三笠宮崇仁親王の三男
1954-2002 48歳没


■妻  鳥取久子 鳥取滋治郎の娘
1953年生

*英ケンブリッジ大学卒業


●高円宮承子女王 1986年生
●高円宮典子女王 1988年生
●高円宮絢子女王 1990年生


*皇室では父母を「おもう様」「おたた様」と呼ぶが、高円宮家では「おとうま」「おかうま」と呼んでいた。




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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1987年4月27日
昭和天皇が高円宮のインタビューについて御危惧。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1988年10月21日〔昭和天皇闘病中〕
高円宮から京都国体閉会式の復命に参内したき旨、前例なきこととお断りするも感情害され、電話で文句言われる。
高円宮は山本侍従長にも電話で当たる。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1989年1月15日〔1月7日昭和天皇死去〕
高円宮がお供えのバナナおねだり。
御要望のモンキーバナナ5本お包みして高円宮にお渡しする。
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三笠宮寬仁親王 1976年

高円宮とは10歳違うんですよね。
この野郎、神経通ってんのかねと思っちゃうことが多い。
高円宮が友人を連れて家に来ますね。
そうすると彼らは座ったまま僕に御辞儀するんですよ。
僕は怒ってね、「目上の人には立って御辞儀をしろ」って言うんですよ。
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三笠宮寬仁親王 1977年

末の弟高松宮は学習院在学中でスキー部の後輩なのだが、先輩である私をそれほどにも思っていないフシがある。
高松宮と私はほとんど10年の違いがあるが、10年というのは恐ろしいほどの違いである。
私の生まれた当時は経済的に最低な時で、今や経済成長諸々のことから我が家も恵まれてきた。
前者の部分で生まれた私と後者の部分で生まれた弟とは、これはもう発想が違う。
私はいまだにキャビアとかフォアグラなどをレストランでオーダーすることに躊躇するというイジケタ部分があるのだが、高松宮は私にとって恐ろしいようなものをスラスラと注文する。
車なども誰にも触らせずにしたものだが、高円宮などはゲタのつもりで乗っているような感じで、そこに愛着というものを感じることができない。

下の弟高円宮も成人はしたの。
でも末っ子のせいか、鷹揚にかまえちゃってね。
僕が開拓したいろんな家来衆のところに連れて行くわけだ。
僕はなるべく自分のことは人の手を借りないでやるわけね。
ところが高円宮ときたら、僕が尊敬している大先生たちが「殿下、殿下」と言って荷物を持とうとしたりすると、ホイと持たせたりする。
「バカヤロー!貴様、自分で持て!」と言ったことも何度かありますよ。
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三笠宮寛仁親王 2005年

故高円宮の葬儀の時 喪主である久子妃が宮中の賢所風に同格の人が参進している時、座ったままだったのを見ていて「格好が良くない」と思っていましたので、高松伯母様の葬儀の時は宮内官たちとの打ち合せで「勅使・喪主・代表皇族・旧皇族代表・親族総代の礼拝の後、皇族方・旧皇族方・親族方の順に参進し、三権の長・外交団長までは立って応対し、参列しているその他大勢の臣下の者どもの時は座ろう」と決めていたのですが、式部官も慌てたと見え礼拝の案内の順番を間違えて、御親族の前に三権の長以下を出したしまったため、私は座るタイミングを失い結局全員が終わるまで立って目礼を繰り返すハメになりました。
高等科で応援団長をやっていた経験が妙なところで役立ちました。
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成瀬史宣 学習院の同級生

中等科の時二人で泳ぎに行ったことがある。
三笠は泳ぎに行くというのに、何も持たずやってきた。
「どうしたの?」と聞いたら、「海水パンツはもう履いているから大丈夫だ」と言う。
ところが泳ぎ終わって着替えをして出てきた彼を見てビックリした。
ズボンがビッショリ濡れていたからだ。
替えのパンツを持って来ていないので、そのまま履いちゃったんですよ。
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石神雅子 学習院初等科の同級生。

初等科の時に殿下と机がお隣同士でした。
殿下は絶対に鉛筆を削ってこられなかった。
家で筆箱を開けることがないのか、毎日当然のように私の筆箱から鉛筆を取り出されていた。
嫌で嫌でたまらなかったが、ある日御一緒に試験勉強をした時、一度教科書をサッと読んで終わりという殿下の姿を拝見して以来、家で勉強しなくても頭に入ってしまわれるのだとわかり、鉛筆を削ってこない理由もその時になって納得できました。
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黒柳徹子

私が三笠宮寛仁親王邸に遊びに行った日、高円宮から呼び止められて、
「ねえ、ねえ、僕こんどこの人と結婚するの。いい人でしょう」と初めて久子様を紹介されました。
「披露宴には必ず来てね」と仰るので、「そんなに金屏風の前に立ちたいの?」と冷やかすと、
「うん、そう」と大きくうなずかれ、本当にうれしそうでいらっしゃった。
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高鳥まな 国際交流基金の同僚

国際交流基金に入社して半年ほど経ったある日、上司に呼ばれました。
「三笠宮憲仁親王がいらっしゃるので、いま使っている机から向かい側の机に替わるように」との指示でした。
当時のオフィスは机が一つの島のようになっており、私の席は一番端でした。
私の向かいの席の方が廊下からの出入口に近いので、万一悪漢が乱入してきた際には襲撃されやすい、殿下には少しでも出入口から遠い方へ座っていただこうということなのでした。

殿下の初日がスタートしましたが、みんな何とお呼びしようか悩んでいたら、殿下から「三笠と呼んでください」と仰いました。
外線電話の取り方・コピーの仕方・ホチキスのとめ方まで説明しましたが、殿下はすぐに下の名前をひっくり返した「なまちゃん」というあだ名を私につけられました。
私も殿下の御名前をひっくり返して、「りのちゃん」と呼ぶことになりました。
あるとき私が「りのちゃんのお席は特別扱いよ。万一の時は出入口から近い私が悪漢から我が身を挺するんだから」と申し上げると、
殿下は「2~3歩の違いなのに、何を考えたのかねえ!」と大笑いされました。
また「いらした時は片づけてピカピカ状態だったでしょう?」と申し上げると、
殿下は「一週間ともたなかったね。無理なのにわかってないよねえ」と鋭い御観察。
周囲も大爆笑となりました。
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小松諄悦 国際交流基金の上司

三笠宮憲仁親王は同僚たちとよく飲みに行かれたが、お酒が強く必ずハシゴになった。
二次会・三次会になって店が閉まる頃には、四次会に行こうと仰る。
四次会は三笠宮邸なのである。
結局宮邸に泊めていただくことになったが、翌朝バッタリと父宮殿下と顔を合せて、
「息子がお世話になっています」と挨拶されて恐縮した。
御結婚されてからも、「三笠です」が「高円です」に変わられただけだった。
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三枝成彰 音楽家

三笠宮憲仁親王は歌い出すと止まらないほどカラオケがお好きで、後の人が歌えなくなるほど玄人はだしだった。
レパートリーはロックから演歌まで幅広かったが、井上陽水の『少年時代』とサザンオールスターズの『TSUNAMI』の二曲が殿下の十八番だった。

お酒はウイスキー・焼酎・日本酒と何でもござれでお強かったが、何時間飲んでもトイレに立たれないのは驚いた。
皇族の方はそういう訓練をされているのかとさえ思ったほどだ。
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◆高円宮憲仁親王 三笠宮崇仁親王の三男
1954-2002 48歳没


■妻  鳥取久子 鳥取滋治郎の娘
1953年生

*英ケンブリッジ大学卒業


●高円宮承子女王 1986年生
●高円宮典子女王 1988年生
●高円宮絢子女王 1990年生




1984年
19840588


1984年
19840470


1984年
19840624

◆三笠宮寬仁親王 三笠宮崇仁親王の長男
1946-2012


■妻  麻生信子 麻生太賀吉の娘・兄は総理大臣麻生太郎
1955年生


*1980年11月07日 三笠宮寬仁親王&麻生信子と結婚
*1982年04月   三笠宮寬仁親王が「皇籍離脱発言」する。


●三笠宮彬子女王 1981年生
●三笠宮瑶子女王 1983年生


*皇室では父母を「おもう様」「おたた様」と呼ぶが、寬仁親王家では「おとうま」「おかうま」と呼んでいた。




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三笠宮寬仁親王 1971年

イギリスへの出発当日は秩父伯母様の御殿に両親と共に伺い、イギリスでの保証人を頼んでいるケズウィック御夫妻と、我が家ともケズウィック家とも親しい間柄である麻生和子さんと長女雪子〔相馬和胤の妻〕さんも相席でお茶をした。
羽田空港を午後10時30分離陸予定であったが、常陸宮御夫妻・秩父宮妃・高松宮御夫妻をはじめ、300人ほどの人々がお見送り下さった。
麻生太賀吉夫妻は「今度はイギリスでお目にかかりましょう」と言った。

ロンドンの語学学校の僕の担任は若々しい真面目そうな先生で、妹容子が気ちがいのように熱中していた海外ドラマ『ナポレオン・ソロ』のイリヤ・クリヤキンのような風貌であった。

僕のイギリス留学が内定したとき問題になったのは、イギリスでの僕の保証人となるべき人がいるかどうかということであった。
40年前故秩父宮が渡英されて勉学なされた時も、ドラモンド将軍とその一家が保証人として秩父宮の御生活を全面的に御援助なさった。
イギリスにおいては一人の良き友人を持つことが、交友関係をネズミ算的に増やす最善の策と言われており、一人でフラリと渡英したとしても面倒をみてくれる人がいないと、何年滞在しても相当な努力をしても、イギリスの本当の姿というものは理解できるものではない。
そこでイギリス通である麻生和子さんが骨を折ってくださって、ケズウィック家が最も好ましいのではないかということになったわけである。
麻生家の長女雪子さんもイギリスに留学した際もケズウィック家と生活したことがある。
ケズウィック家は夫のジョン・妻のクレア・一人娘のマギーの三人家族だった。
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三笠宮寬仁親王 1972年

僕は学校嫌いで勉強嫌いだった。
僕はきわめつけの弱虫であり、ガキ大将などではあるべくもなかった。
学習院初等科の先生方の中にはウチのオヤジを教えたという方々もおられたほどだから、扱いが丁重かつ昔風で、僕のための特別昇降口があり、特別室で土足からゴム靴に履き替え、授業終了後にはそこで我が家の自動車の迎えを待つということをしていたし、僕の呼び名も先生はじめ全員が「宮様」であった。
いつか僕の友人がなにげなく「トモちゃん」と呼びかけたら、先生がえらい勢いで怒っていたのを覚えている。
どういうわけだか僕には奇妙なクセがあった。
声を上げて教科書を読んだりすると、決まって泣き出してしまうという奇癖があった。
なぜかわからないから先生も困ったろうし、また僕自身も困り果てたものであった。
気ばかり小さくて周りを変に意識している弱虫が、急にみなの注目を浴びて何か声を出さねばならないとなると悲しくなり、涙が出てきてしまうのである。
中学生になっても「今日は絶対泣くまい!」と真剣に自分に言い聞かせて、学校の門をくぐったものである。
この時代を知らない友人連中にこの話をすると、現在の僕があまりにも自意識過剰組合会長的であり図々しいことを知っているがゆえに、「ふざけるな!」「信じられないよ!」というたぐいの返答を受ける。

中等科に入るとオフクロが意志薄弱な僕を考えた上か、「男らしいスポーツをやってみろ」と言った。
オフクロ自身は運動神経皆無の女なのだが、ラグビーかサッカーのような男らしい部に入れと言われた。
テニスとか卓球はあまりよくないというような雰囲気があった記憶があり、サッカー部に入った。
高等科の頃になると今まで教師から叱られたことのなかった男が、やおら怒られ始めた。
教師をからかったり、勉強をしなかったり、未成年のくせにタバコを喫ったのをみつかったりという、いわゆる極道者の徴候を呈し始めた。
ソフトボール部と応援団に入り、白い詰襟に大きな応援団バッジをつけ、いきがって校内をのし歩いていた。
教室の生徒の前で教科書を読まされると泣き出した男が、全校生徒の前で大声を張り上げて応援歌を歌うようになったのだから考えられないことである。
学習院大学ではスキー部に入部し、オックスフォード大学ではボート部に入部した。
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三笠宮寬仁親王 1976年

僕たちの場合、みなさんの結婚と違うところが二つあります。
一つは皇室会議を経なければ結婚できないと同時に、離婚したい時も皇室会議を経なければならないということ。
僕の場合環境が特殊ですから、僕の妻であると当時に妃殿下としての務めもありますから、両方兼ね備えてもらわなくてはならない。
着物もきちんと切れて、それでいてミニスカートをはかせればピッタリくるという女性ですね。
高松伯母様にも、「そんな人がいるわけないでしょ!」って言われたもの。
お前が仕込めばいいじゃないかってみんな言うけど、万が一磨いても光らなかった時に、僕は嫌になっちゃうだろうと思う。
だから妃殿下業っていうのは全部オフクロや伯母様方に任せちゃおうと思うんだ。

僕は我が家に初めてガールフレンドを連れて行った。
「あの方どこのお家の方なの」とかいろいろ詮索されるし、侍女たちなんか驚異のまなざしで見るしね。
「お漏らしの世話までした若宮さんが女の子連れて来た」って。
中等科ぐらいまではわりとオフクロも知ってる人の子供たちが多いわけですよ。
だけどだんだん外部の人が増えてきて、そうすると「ごきげんよう・恐れ入ります」で過ぎてきた人には奇異な感じなんでしょうね。
悪意は毛頭なかったでしょうが、「あれは誰だ」とか何回か言われた。
今は弟たちがガールフレンドを連れてきたって、オフクロもべつになんて顔もしない。

国際結婚も考えたことはあるけど、外国の女の子に皇族の世界を理解させようというのは大変なことだよ。
それに僕は男優先型の人間だから、外人の女の子でもなんでも、「コートは自分で着ろ!」っていう行き方でね。
このあいだ家に女の子を呼んだら、ちょうどオフクロもいた。
オフクロが居間のカーテンを引き始めたのよ。
だけどその女の子、ボケッと座ってるの。
それで僕は「お前、なにやってんだよ」と。
「よその家の母親が働いている時に、呼ばれてきたあんたがデケエ面して座ってるとはなにごとだ」と。
ぶったまげて飛び上がって、手伝ってたけどね。
人様の家でオフクロさんがそうしてたら、口先だけでも「手伝いましょうか」って言うだろ。
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三笠宮寛仁親王 1977年

運転は交通事故を起こしてからやめました。
大学2年の時プリンススカイラインGTBという当時の日本では一番速い車に乗っていたんですが、原宿の表参道のワイシャツ屋に寄った時、Uターンしようとしたらバックミラーの死角にオートバイがいてぶつかってしまった。
相手は食料品関係の人でしたが、大腿部骨折で大騒ぎだった。
最初免許を取った時のオフクロと、人身事故を起したら免許は返すという約束だったものだから、返してしまった。
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三笠宮寬仁親王 1977年

僕は大酒飲みであるためほとんど毎晩夜の巷に出没するが、護衛官はあまりのハシゴの多さに一日の報告書に書ききれないとか、午前2時3時の帰館など平気だから護衛官はヨレヨレである。
レストランやバーでオナゴと馬鹿話をしている人間を外で待っているなどということは、これほどくだらないことはなかろう。
僕はどこへ行っても一緒にやろうやということにしているので、彼らは同じテーブルに座って僕のオナゴと話などを交わすハメになる。
「どうだい、俺はモテるだろう。いろいろなのがいて」と得意になって言ったら、
護衛官は「はあ、殿下のガールフレンドはどれもこれも同じような女ですねえ」ときた。
僕の方は全部違ったタイプの女だと思っていたのだが、頭にくる男である。

僕は一人のオナゴとずっとつきあい、その人と終わったら次の人と始めるという点と線状的つきあいのできない質で、常にたくさんのオナゴが周りにおらねばダメな放射線状的つきあいをする。
これはもういつ誰と恋しているのかわからなくなる。
昨日までどんなに好きだと思っていても、今日もうこれは頭にきたと言う時は、途中であろうとひとことも口をきかなくなり、席をけたてて帰ってしまい、帰りの車の中でアドレス帳のその子の項を塗りつぶして忘れてしまうということが、今までに何度あったかしれない。
女の好みの話をすると、働いている人でないとイヤである。
要は学校を卒業したにもかかわらず、花嫁修業とやらのみをやっているたぐいのは全然おもしろくない。
働く女の子は世の中を知ってくれているという感じが強く、話をしていてもお互いがよく理解できる。
芸者衆などに至れば、これはもう尊敬したくなる人が多いですな。
あるとき宮内庁の宮務課に「俺は芸者と結婚してもいいか」と聞いたところ、「イヤーッ、ウーッ、ワッハッハ」と意味のわからない叫び声を発して答えてくれなかった。
今までに結婚を考えた人は5人いた。
そのうち4人までが年上だった。
容姿の件だが、自分が腹を突き出して太っているせいだろうが、スタイルは絶対細くないと困る訳だ。
手足は長くないとイヤだ。
オッパイに関しては粗パイがいい。
顔は常にファニーフェイスを愛好する。
可愛いなと思うタイプが好きである。
また恐ろしげな学歴のある人には拒否反応が怒る。
国立大学を優秀な成績で卒業し、外国の大学も日本人初めての成績でとかなんとかいう場合は、僕のように落第スレスレで生きてきた敗残者は全然ムリである。
女の子はそれほど長年勉強をしたら、僕の望む女の子らしさが欠落しているのではなかろうか。
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三笠宮寬仁親王 1980年

学習院大学スキー部の副将として威張りかえっていた頃、どこかの動物園からトドが逃げ出して隅田川に入ってしまったことがある。
トドは人畜有害であり危険な動物であるから、自衛隊の狙撃班が出動してやっとトドメをさすことができた。
このニュースを読んだ部員が「自意識過剰でケンカっぱやく、何にでも反抗して救いようのない三笠は、人畜有害のあのトドと同じだ!」と言い出したのが僕のあだ名の由来である。
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三笠宮寬仁親王 1982年

アッコ(彬子)が生まれて11カ月が経ちました。
身体の弱いノンチ(信子)が苦労して産んだわりには、極めて丈夫に育っています。
新しい看護学というのは父親がやらねばならない役割が多く、散歩と風呂の二つを続けています。
風呂の方は恐ろしいので、僕は湯船の中でアッコの両脇の下を持ってヒザの上に座らせているだけ。
洗うのはノンチが外から手を差しのべて、頭からアンヨの先まで洗います。
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三笠宮寬仁親王 1983年

ここしばらくは国賓ブームとでもいいたくなるぐらい、いい加減くたびれています。
理由を述べますと、我が妃殿下の出産予定日。
しかも出産をやろうとしているのが、血圧の上限が90・悪い時には80しかないという人であり、不整脈も頻繁にあり、妊娠中は出産するまで食べた物を全部戻してしまうという、つわりが十月十日続くというノンチのことですから、夫である私めの神経錯乱の状態は想像つかれると思います。
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三笠宮寬仁親王 1985年

大きな変化はアッコが幼稚園に入園したことです。
つい10日ほど前にノッチが腰を痛めたので、僕が迎えに行ったことがありました。
幼稚園の出入口に迎えのお母さん方の大軍が待っている中に、たった一人 男がサングラスなどかけて怯えの表情を隠しつつポツネンと立っている図というのは恐ろしく滑稽なものでありました。
昔から人妻キラーの異名を取り、子連れとわかっていても平気で遊んだ男が、どういう心境の変化かと真剣に考えました。
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三笠宮寬仁親王 1987年

〈アッコ〉(彬子)は5歳で学習院幼稚園・〈ヨーヨー〉(瑤子)は3歳で松濤幼稚園。
長女は僕に似て神経質で世話焼きでメソ子タイプですが、次女は性格がおおらかで、僕は一生懸命にからかいますし、敵も堂々と言い返してきます。
ノッチから厳しくしつけられているせいか、僕が男言葉やスラングで話すとすぐ訂正をします。
「おとうまは男だからいいの」とか「こういう言い方もあるの」など、弁明にキューキューとします。
ノッチがバテレンさんですから、小さな時から食事の時は手を合わせて「いただきます」というクセをつけられてしまいました。
神道である僕はバテレンさんのように手を合わせたりせずに、ヒザに手を置き「いただきます」とコールするわけですが、ヨーヨー(ヨー助とも呼ぶ)は3日に1度ぐらいはかならず、
「おとうまは手を合わせていないんじゃないの?」と注文をつけてきます。
この間はアッコ(アックンとも呼ぶ)から、
「おとうまはね、お酒を少し飲み過ぎるからお体を壊すのよ。少しやめたらいいと思うのよ」と言われてしまいました。
ノッチが何度同じようなことを言ったところで、僕は決して言うことを聞かないのですが、5歳の娘に言われた時は心底ドキッとしたものです。
今もこの原稿を書いていたらおやすみのキスをしに入ってきて、目ざとく晩酌のお湯割りを見て、
「おとうまはこのごろイビキがすごいから、お酒をやめたらイビキもなくなるんじゃないの?」と言われました。
「おとうまは大丈夫だよ。心配しないでよ」と慌ててしどろもどろに返答しました。
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三笠宮寬仁親王 1993年

日本での学生時代は学習院はもとより社会的にもかなり異端視されていましたから、イギリスに行ってみて、「なんだ俺の考え方と全然変わらないじゃないか」と安心しました。
ヒゲは高校2年生で応援団に入った時に始めましたが、我が国ではずいぶんと不評でしてね。
イギリスに留学する際も宮内庁長官が父に手紙を寄こして、「ヒゲを落してから行ってくれ」とうるさく依頼してきました。
そんなに国威にもとるものなら仕方がないと剃って行きましたが、先方ではヒゲなんて気にする人間は一人もいませんでした。
そこでまた伸ばし始めたら、今度は日本大使館が「頼むから剃ってくれ」と言ってきました。
そのことを学友たちに話したらみんな驚いてね。
問題は本人に似合うかどうかだけです。
僕は応援団時代から詰襟を高くしたりサイドスリットを深くした制服を得意満面で着ていましたし、髪型もヒゲも目立っていましたから世間的にはずいぶん生意気だと思われていたと思いますが、イギリスに行って、服装であれ行動であれ、個人の自由に委ねられていることを確認できたのはうれしい限りでした。
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沢地久枝 1995年

福祉の会で三笠宮寛仁親王と隣り合った時、皇族を何と呼ぶのか、私には難しかった。
私ははじめに、「寛仁さん」と呼ぶことを断った。
彼の方は私に面と向かって、「沢地のババア」と呼んだ。
会のみなさんに言わせると、それはこの上ない信愛の表現ということだった。
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三笠宮寬仁親王 1995年

───殿下が皇族をやめたいとおっしゃったことがありましたね。
寛仁親王◆残念ながら、あれは難しい問題でした。
───結局、御意志は通らなかったんですね。
寛仁親王◆宮内庁の見解では法律上どうしようもないと言われましたので。
世間では誤解して改革派と思っているようですが、僕の生き方は猛烈に保守的です。
ただし、良いものは残すけれども改革すべきは改革しなければならないというのが本当の保守だと思います。
僕は長い時間をかけて良くないと思う部分はほどんど壊しましたから、すごく風通しがよくなった。
皮肉なことに、今は逆に行きすぎていると思います。
皇族がまるでタレントのような扱いになってしまった。

寛仁親王◆一番不愉快なのは、特別扱いされることです。
「殿下は大変スキーがご堪能で」とよく言われます。
「大変お上手であるが、プロほどではなかろう」というニュアンスがつきまとっています。
「殿下のスキーはプロ級です」と紹介されることもあります。
毎回「僕はそのプロを教えている人ですがね」と言いたくなりますね。
スキー場に行くと、地元のスキー連盟の会長とかが「御先導申し上げます」と待っているわけです。
「殿下はスキーがお上手だって噂だけれども、自分たち専門家とは違うだろうから、御案内は私たちが」ということです。
後からゆっくり滑っていって、コースがわかった途端、「じゃ、失礼します」とスピードを出して曲がると、みんな呆然として(笑)
以降は恥ずかしいのか、いなくなってしまいます。

寛仁親王◆君は離婚したそうだが、妻子の育て方が下手ですね。
君の努力が足らなかっただけです。
僕のカミさんは難しい議論が好きではありませんから、ゼロから仕込むことになる。
僕は運動部出身だから下級生をしごいて一人前にするという発想が常にありますから、カミさんにしても子供にしても同じ。
僕の手紙って必要以上に長いでしょう。
手紙も長いんですけど、電話も長いんです。
仲間はそういう僕のことを昔から「焦リングマシーン」と呼ぶわけです。
徹底的に語り合うことによってわからせないと無理です。

寛仁親王◆カミさんと結婚する時も、先方の両親や家族に「彼女は身体障害者でもあり心身障害者でもあるので、妃殿下としては務まらない」と反対されました。
しかし先方の両親に、「あなたたちみたいな福祉の素人が育てたから失敗したので、僕のような障害者福祉の玄人が育てたら治ります」とハッキリ言いました。
そしたらオヤジさんが、「そこまで考えてくださるなら」と言って最終的には認めてくれました。
─────ハンディキャップがおありでしたか?
寛仁親王◆心臓結滞の持病があって低血圧で、空気がよどんでいるようなところ、例えばディスコや地下鉄もダメで、地下鉄のホームで倒れて実家の運転手が迎えに行ったこともあるそうだし、ともかく体力がありません。
子供もドクターストップがあったりして大変でした。
僕の場合神道とカトリックの結婚ですから、その部分から大変だったんです。
子供が生まれたら幼時洗礼をするかしないかということから始まってる。
僕は幼時洗礼を認めないし、カトリックの神父様方がそれではダメだとおっしゃるんだったら、我々の結婚は成立しないというところから話は始まっているんだから。

寛仁親王◆僕はオープンだから、カミさんは僕のガールフレンドの名前とどういうつきあいをしているか全部知っています。
ところが最初の手術の時に、僕はICUで今までカミさんが聞いたことのない女の名前を連呼したらしんです。
しかし連呼したなんて言われたって、記憶にないわけだから。
でもカミさんはその名前を言わないんです。
言ってくれれは、ああそれはどこそこの女だって言えるんだけれども、言ってくれないからわからない。

寛仁親王◆二度目の入院時に大きな夫婦喧嘩があって、見舞禁止にしました。
普通の人なら我慢するのかもしれませんが、対人関係で失礼なことをするのは許せない男ですので、怒り心頭に発して大騒ぎになりました。
ウチのカミさんがいまだに「信じられない旦那と結婚してしまった」と何度も言うのは、結婚した日にカミさんに「何か起こったとき俺が一番目に守るべきは昭和天皇であり、二番目は高松伯父様だ。非常時には俺はお前のことは守れないから覚悟しておいてくれ」と言いました。
今でも彼女は「あの時はビックリした」と言います。

寛仁親王◆ウチのカミさんはよく金縛りになって、どうもかつての戦乱の跡に建っているホテルに行くとダメなんです。
朝起きると、「冗談じゃないわよ。この部屋はダメだわ」と言うわけです。
でも永田宮務官は神官の資格を持ってるんです。
即お祓い。
気持ちの悪いことはみんな彼に頼む。
ウチのカミさんはバテレンでしょう。
寝る前にきちんとお祈りをしています。
クリスチャンの人たちは死後は神に召されて天国に行ったと思っているから、とてもハッピーなことでしょうが、我々にとってはやはり死はハッピーとは言い難い。

寛仁親王◆最初に食道ガンとわかった時、日本中どこを探したら一番の名医が見つかるかということに血道を上げましたね。
僕はがんセンターの病院長に、「いま全国に142のプロのスキー学校があるけれども、全部の校長・主任・コーチまでは技術・性格まで僕の頭に入ってますよ。それがプロというものですよ」と言ったんです。
「ガンの専門医ならば日本中のどの病院のどの先生がベストかぐらい言ってほしい」と迫ったけれども、「そういうものではございません」とか口を濁すんです。
誰がナンバーワンか言ってくれなくて困り果てました。
結局以前お世話になったことのある高名な先生に伺ったら、「食道がんは大きな手術だから、一人の名医ではどうにもなりません。チーム医療ということを考えてくださらなくてはいけません」とおっしゃった。
もうこれ以上素人が考えたってしょうがないと、築地のがんセンターに行くことにしました。

寛仁親王◆最初の手術の後4年間、医者の言うことを完璧に守ったわけです。
酒を飲まない・煙草を喫わない・疲労しない・カロリー計算をきちんとする。
それにもかかわらず二度目~六度目とやられたわけですから。
一番怒ったのはやはり二度目でしたね。
「先生方の言う通りにしてきたのにそれはないでしょう。どういうことですか」と怒った。
これ以上神様の与えてくれた身体にメスを入れるものではないだろうと思いましたしね。
頭にきますよね。
そこで主治医の先生にレポートを出したわけです。
「僕は6回も手術を受けました。主治医団の言うことを完璧に聞いていたにもかかわらず、6回ということはいったいどういうことなのか」と。
50項目ぐらい箇条書きにして質問型で提出しました。
今後どうすべきかについて、それはそれは細かいことを書きました。
酒の項では、例えばビールを毎日一本ずつ飲むと半年後どうなるのか。
タバコの項では、一本喫うたびにどこが侵されるのか。
僕の質問に対する答えは、専門医といえども正確に出せないということがわかりました。
それで、「これ以上は好きなように人生を送らせてもらいます」と開き直った。

我々皇族はどういうわけだか誰も生命保険に入らないんです。
つまり子孫のために何かを残すという思想がない。
カミさんは仰天したわけです。
「トモさんが死んだ時、私たちはどうするのよ?」と言ったぐらいです。
不思議なのは健康保険制度や年金制度がないことと、国民でもないのに税を取られることですね。
────医療費は全部自己負担なんですか?
そうです。
宮内庁病院に入っていれば全部タダですが、宮内庁病院は術後の静養程度というレベルですから、実際には役に立ちません。
手術そのものは本来であれば宮内庁病院で完璧な手術室と最高の医師たちを呼んですべきところを、宮内庁が僕が築地なり柏市なりのがんセンターに行っていただいたという形にしてくれまして、入院中の手術と病室の経費だけは国が持つわけです。
退院後のことになると全部自費に戻ります。
カミさん宛・長女宛・次女宛・大親友の二人宛・財政顧問宛・宮務宛に遺書を書いて、7通をまとめて大きな封筒に入れて事務官に渡しました。
状況が変わりますから、手術の度に遺書は書き直しています。
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末舛恵一 執刀医の一人・国立がんセンター病院長 1999年

三笠宮寬仁親王は気取らない率直な方でいらっしゃいますから、普通の患者さんと違って面白いエピソードがいろいろありました。
ストレッチャーで手術室に行く時、殿下は「天井が汚いから直した方がいいですね」と仰いました。
「無味乾燥だから、患者の身になって少し天井は考えた方がいいですよ。手術室も同じ。病人を落ち着かせる配慮をしたらどうでしょう」という御言葉もございました。
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寛仁親王◆最初の術後ICUで呼吸困難を起してパニックになりました。
事前に可能性の中に呼吸困難を入れておいてくれれば覚悟もできたと思いますが、聞いていませんでしたから、てっきり手術が失敗したのだと思いました。
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手術後呼吸困難になられた時も、
「様々なことを事前に説明してくれたが、呼吸困難については何もありませんでしたね!」と厳しいお叱りを受けました。
しかし普通そういうことは起こらないものなのです。
肺そのものを切ったわけでもないし、血液ガスもきれいでしたから、御本人の感覚の問題ではないかと思うんですが。

術後は禁食が決まりで、水分もダメです。
殿下がどこまで正気だったかはわかりませんが、冷蔵庫の中にあったミカンにかぶりつかれた。
見回りの者が見つけて慌てて御注進に及んだわけですが、渡辺医師が宿直室からパンツに白衣ですっ飛んで行って口の中からミカンを取り出して大事には至らなかった。
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寛仁親王◆退院後はリハビリもペースを上げて行きました。
御用地の外周は3.5キロですから、2周走ると7キロ。
ウォーミングアップにはちょうどいい距離になります。
退院した1週間目ぐらいから外回りを1周走るようにしました。
義母麻生和子は動物福祉の理事長をやっていましたから、我が家の事務所には募金箱が置いてありました。
外を走る時は護衛官がつきますが、僕は黙って飛び出しますから、彼らがどこで追いつくかによって、空白部分の距離に対して罰金を取るわけです。
それが募金箱に入ります。
義母は亡くなるまで、「護衛官の血と汗と涙の結晶だわ!」といつも感動していました。
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殿下は御殿にお帰りになってから、御用地の周囲を走っておられたそうです。
信子妃が直々に私のところへおいでになって、「心配だ!」とお怒りになった。
信子妃の御心配はよくわかりますけれども、「よく話しておきます」とだけ申し上げていたところ、今度は信子妃の親戚筋にあたる橋本龍太郎氏から、「主治医団はもう少しちゃんとしろ」という伝言が来たほどです。
殿下の御静養に対する信子妃のお気持ちの入れよう、お気の使いようは並大抵のものではなかったですね。
いくら私どもが「御心配ありませんよ」と申し上げても、お心・お気持ちが納得しないわけですからどうにもならない。
本当に御納得いただくためには、よい結果をお示しするしかないわけです。
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寛仁親王◆因果関係が100%なら禁煙も考えますが、僕の現状喫っても出て喫わなくても出るわけで、明快でないことは僕の人生観に合いません。
また酒・タバコをやめることは僕にとってそれほど大変ではありません。
1991年最初のガンがわかった時に主治医団が、「酒もタバコもやめれば確実に30年今の活動を継続できます」という保証をしてくだされば違ったかもしれませんが、先生方も仰っておられるように医学はそこまで解明されていないと思います。
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お酒とタバコは、基本的に御本人の問題なんです。
悪いと知っていてもやめられないのは人間の弱さです。
殿下がお喫いになるお気持ちは、元スモーカーとしてよくわかります。
しかし信子妃のことをお考えになり、お子様方のこともお考えになった場合、なんとかして長生きするための悪い因子であるタバコをやめようとお思いになられたら、殿下の御人格はさらに光ると思うのですが。
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垣添忠生 執刀医の一人・国立がんセンター副院長 1999年

三笠宮寬仁親王の下部食道ガンは手術さえすれば大丈夫という状況よりも、もうちょっと進んだ段階のものでした。
早期と中期の間ぐらいでしょうか。

殿下はなかなか毒舌家でいらっしゃいました。
私たちにもよく、「汚れた白衣を着て」とか「汚い靴を履いてるなあ」とか「毎日同じネクタイをして」などと仰いました。
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渡辺寛 執刀医の一人・食道外科医 1999年

もともと三笠宮寬仁親王の食道は、前癌病変といわれる非常に汚い状態の食道なんです。
ヘビースモーカーやヘビードリンカーの患者さんはたいていそうです。

最初の手術に際して殿下は、
「私は声が商売ですから、声帯の神経を痛めないで欲しい」と仰いました。
しかし取った細胞を顕微鏡で調べてみたら、リンパ節転移があったのです。
そのため脂肪も含めてリンパ節を取りました。
ガンを治すためにはある程度の犠牲を払う必要があり、仕方がなかったと思います。

殿下は術後なにも異常がないのに、「痛いんだからなんとかしろ」と仰る。
普段なにかあればお側の方がすぐ対応するのに慣れておられるから、なんでもすぐ解決できると思っておられる。
そのとき、「あ、この方は普通の人と違うな」と感じました。
しかしやたらと痛み止めを使うと回復が遅くなります。
だから心を鬼にして、殿下とはかなり言い合いもしました。
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寛仁親王◆ICUではものすごくノドが渇きました。
しかしながら水は厳禁で、唇を湿らせてくれる程度です。
病棟に戻ったらいくらでも好きなものが飲めるだろうと思っていました。
アイスティーが飲みたかったし、アイスクリームと冷たい果実が無性に食べたかった。
だから5日目に病棟に戻った時に「すぐに持ってこい!」と言ったら、横にいた内科医から「とんでもない!」と止められました。
それから大喧嘩が始まって、「手術は成功したんだから大丈夫だろう」と言い張ってね。
うがいだったら結構と仰るから、「三種類のうがいを作ってくれ」と頼みました。
氷水と冷たい紅茶とミルクコーヒーだったかな。
そしてうがいをするフリをして飲んでました。
がんセンターの執刀医が皇族の手術を失敗するわけがない、創傷から漏れるなどという失敗はありえないと信じていましたから。
ひどい話ですよ。
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手術前に「10日間は水が飲めません」と申し上げていたのですが、夜冷蔵庫まで歩かれてミカンを口にお入れになったというので、私が当直室から病室に飛び込みましたが、御本人はベッドの上でキョトンとしておられました。
縫合した箇所のほころびの重大さも心にお留になっていなかったと思います。
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寛仁親王◆内科医が飛んできて、「そういうことはやめてください」と言った。
しかし僕は「自分の身体の調子は自分がよくわかっていますから大丈夫です。もし倒れてもここは病院なんですから、なんとかなさればいいでしょう」と言いました。
運動選手というものは一週間も何もしないと、それまで鍛えてきた筋力・心肺持久力ともに元に戻ってしまいます。
したがって僕にしてみればこの手のトレーニングは当り前と思っていますが、先生方は免疫力の低下に繋がると必要以上に心配なさるわけです。
主治医団に運動部育ちがおられなかったのも悲劇でして、たびたび大変な口論になりました。
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リハビリが少し早すぎるということもありました。
ある日突然「私はもう階段の上り下りができますよ」と仰ったのには驚きました。
「ちょっと待って下さい。リハビリにも順序があります。もっと平らなところでやってからにしてください」と、お諫め申し上げました。
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寛仁親王◆当時も今も僕は特殊な能力を持つ人の存在を信じていますが、先生方がえらく気になさるので傷口への治療はやめましたが、朝夕一度ずつの治療中は痛みを忘れることができてオアシスでした。
この地球上には科学だけで応えることのできないさまざまな能力者がいますので、自分に良いと思うものはすべて取り入れないといけないと思います。
ちなみに僕は現在も西洋医学の3名を含め14名のさまざまな治療師を抱えています。
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殿下は日頃からいろいろな健康法を積極的に取り入れておられました。
その一つが、ある種のエネルギーを体に与え病気を治す方法です。
それでガンも治ると思い込まれておられた時期もあり、術後にもこのエネルギーが効くということで試みようとされたことには大変困りました。
なにしろ術後の感染症の発生は命取りになるからです。
殿下が要望された手術創に手をかざすという治療は、御不満ではあったでしょうが中止していただきました。
殿下は「俺は若いから年寄り扱いしないで欲しい」と何度も仰っておられましたが、細菌感染に年齢は関係ありませんから。
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海老原敏 執刀医の一人・頭頸外科医 1999年

三回目では「放射線治療でも治りますよ」と申し上げました。
しかし三笠宮寬仁親王は手術がいいと仰るので、手術を行いました。
四回目でも一生懸命放射線治療をお勧めしたのですが、殿下はやはり「放射線では嫌だ」と仰って手術となったわけです。
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山口建 執刀医の一人・内視鏡 1999年

三笠宮寬仁親王は、「最高権威の言う通りにしたけれどもまずい結果になった」とよく仰られた。
特に二回目三回目のガンが見つかった時は、
「タバコを喫うなと言うから喫わなかったのに、またガンができてしまったじゃないか。あなたたちの言うことは間違っていた」とおっしゃる。
「禁煙を守っていただいても、しばらくの間はガンの発生がありえます」ということを一生懸命申し上げるのですが、最後までおわかりいただけない部分がありました。
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寛仁親王◆先生方のムントテラピー(口頭説明)の未熟さも理由の一つです。
いま一つは、訓練で身体を作り上げてきた運動部育ちの人間の本能に基づく行動形態がおわかりいただけていないという部分があります。
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同じようなことは手術の後にも起こりました。
殿下は「自分はプロの運動選手なのだから」と、リハビリとしてかなり激しい運動をなさいました。
毎日御殿の周りをマラソンしておられるという話が聞こえてきました。
しかし誰も「おやめください」とは申し上げられない。
それで私が出かけて行き、「おやめください」「いや、やめない」と一時間ほど押し問答をしました。
医療というものに対する考え方のギャップは、たぶん今も続いていると思います。
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寛仁親王◆六度目の手術の時、術後6日目で抜糸、ずいぶん早いなと思いました。
翌朝ふと見たら、お腹のあたりがどす黒い紫色に変色している。
先生は驚くでもなく「ままあることです」と、麻酔を打っていとも簡単に縫い直しました。
「抜糸が早すぎたんじゃないの!」と嫌味を言ったんですが、「殿下、腹筋を使われることをなさいませんでしたか?」と聞かれました。
「まだ傷口が痛いのにとてもできませんよ」
「では何かトレーニングをなさっていますか?」
「ゆっくりしたスクワットで脚力をつけています」
「それだ!」って言われてね。
僕はスクワットは大腿筋や背筋のトレーニングだと思い込んでいたから、腹部には影響なかろうと考えていたわけです。
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信子妃の父上は食道ガンで亡くなられていますので、夫たる殿下が同じガンになられて大丈夫かなと心配しました。
ところが信子妃は非常にファイティングスピリットがおありになり、いつも自然に明るくふるまわれ、逆にこちらが励まされるほどでした。
お子様方への御配慮も見事でした。
新聞発表の当日 お子様方はお父様がガンだと知って悲し気に学校から帰ってこられたそうです。
ある日 信子妃はお見舞いの帰りに銀座のマクドナルドにお子様方をお連れになり、初めてハンバーガーを買ってお上げになったのです。
お子様方はそれまでマクドナルドにいらしたことがなかったそうで、大変喜ばれたと伺いました。
信子妃は殿下の病室にも毎日お見えになりました。
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寛仁親王◆最初の手術の後 帰邸してから、我が家で6回食が始まりました。
一度にたくさん食べられないので、一日6回に分けて食べます。
ただがんセンターは実に情けないことをやっていましてね。
6回食事を出すべきところを、通常通り3回分しか出さずに半分ずつ食べろと言うわけです。
6回食という以上、例えば朝オートミールが出てきたら、10時には果物が出てきて、昼には炒飯が出てくるというふうに考えていましたが、手抜きもいいところでした。
退院するにあたって、その6回食がカミさんの担当になったわけです。
ウチのカミさんは料理の達人ですので、結婚した当初毎日一生懸命料理を作っても、旦那がうまいともまずいとも言わないので面白くなかったそうです。
作り甲斐がないので、友人たちが来るのを楽しみにしていました。
僕の入院中に彼女はがんセンターの栄養士や消化器医や厨房の板さんなどからあらゆる情報を取って、どういうものを作って食べさせればいいのか研究していたようです。
退院した日から彼女の奮闘が始まりました。
「とにかく一週間やってみるわ」と言って、それから6回食を4週間・5回食を1カ月・4回食を4カ月と続けて、半年を経て3回食に戻るまで見事に違うメニューでやり通しました。
彼女はプロであるべきがんセンターの厨房よりすごいことを成したわけですから、以降専門家として認めようと思いました。
それまでも様々な出版社から料理の本を出したいという希望があっても許可しませんでしたが、初めてOKを出しました。
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殿下はもう何度も発ガンしておられます。
間違いなく酒・タバコに弱い体質なのです。
したがってさらなるガンの発生を防ぐためには、酒とタバコをおやめいただくことです。
お聞き届けいただけることを切望しております。
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三笠宮寬仁親王 2003年

「トルコ共和国巡りの旅」
昼食は洞窟レストランに行くことになっていました。
あと15分ぐらいで到着という時に、僕は宮務官に「服部レストランに到着すると伝えよ」と命じました。
服部浩敬護衛官は脚が短いので、僕はいつも「お前は胴のすぐ下に靴があるから胴靴だ」と言い続けていました。
「洞窟レストラン」と「胴靴レストラン」を引っかけたのですが、大爆笑であったとのことです。

当の服部護衛官は水だか生野菜だかわかりませんが腹痛に見舞われました。
服部護衛官の他に4名の男が不調を訴えました。
また香川県でも蒸アワビに当って29名が食中毒を起こし七転八倒したらしいのですが、暗殺と毒殺の危機を幾度も潜りぬけてきた皇族一家には、水・生野菜・蒸アワビ程度で変調を訴える人間など一人もいないのです。
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三笠宮寬仁親王 2004年

IT革命は結構ですが、各家庭の中にパソコン・モバイル等々が定着したことによって、ただでさえ国語力の衰えている日本人の脳味噌が年々低下しつつあるのは怖いことです。
新人類は個人主義・不干渉主義にどっぷり浸っていることと、母国語の理解力を咀嚼することなく生きているために、我々の世代とのコンタクトの方法がわかっていません。
ひるがえって僕の長女を例に取ると、幼児の頃からの読書好きと勉強大好き人間ですから、日本語が豊富な読書量と華族や友人たちとの多彩な会話量により立派に確立していますから、手紙を書く・エッセイを綴る・スピーチをする、どれも見事にこなします。
そういう能力を持つ人間がパソコンやモバイルを使用することは、自己の持つ能力の上に文明の利器が加わることで日常生活が格段に向上しますから、これは素晴らしいことと思います。
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三笠宮寬仁親王 2005年

12月2日が来ると父は満90歳を迎え、卒寿ということになります。
父は耳が少々聞こえなくなっているところを除けば元気いっぱいであるのは誠に御同慶の至りですが、恐ろしいことにその1カ月後には僕が還暦を迎えるわけで、90歳の父親と60歳の長男というのはなんともはや喜んでいいのか、双方長生きしすぎたと言うべきか判断に困ります。
僕は長男ですから、父が薨去しないと三笠宮は名乗れません。
友人知人のお葬式に兄弟三宮が供花する場合、木札は右から寛仁親王・桂宮・高円宮と墨痕鮮やかに書かれます。
知らない人は寛仁親王のみがいまだに部屋住みの身分と考え違いしているのではないかと不安になります。
父があれだけ健康ちゃんであるために、「下手をすると7度も手術を食らった重度障害のトモさんはついに三笠宮を名乗ることなく寛仁親王のままで終わるのではないか」というのが当宮家のブラックジョークとなっています。
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三笠宮寬仁親王 2006年

また手術をしたことは御存知かと思いますが、病院では看護婦さんの言葉遣いを必死に直し続けました。
「すぐ2本目のヤツを取ってきます」
「バヤカロー!ヤツとは何だ!」
「お食事のお時間です」
「アホンダラ!それは経口栄養剤であって食事と言えるか!」
「他の患者様が…」
「いつから患者が皇族になった!患者は患者さんで十分だ、間違えるな!」
「もう常食をお食べになっていいとのことです」
「ふざけるな!召し上がってだろうが!」
という風にです。
杏林大学病院の看護婦たちはずいぶんまともになったと思います。
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三笠宮寬仁親王 2006年

僕が結婚する時、桂宮がカミさんに「なぜあなたは兄貴と結婚するんだ」と聞いたそうです。
カミさんは「私は皇族と結婚するのではなく、トモさんという一人の男と結婚するのだから」と答えたそうですが、これだけとっても皇族を重荷であると考える人とそう考えない人がいる。

皇族に医療保険はありませんよ。
病気になった時は自腹を切るしかありません。
宮内庁病院は基本的には宮内庁職員のために作った共済病院のようなものです。
病院の中には皇族病棟もありますが、これは天皇両陛下を想定したものです。
また、ガンとか大きな病気の場合はどうしても国立がんセンターなどの大病院に行かざるを得ません。
最初にガンになった時は自分で払っていました。
それを知った宮内庁長官が「それは大変だろう」と、ガンに関してだけは宮内庁が負担してくれるようになりました。
僕は昨年不整脈を起こして慶応病院の循環器内科に通っていますし、娘たちも喘息があってこれも慶応の小児科がいいというのでそこに通わせました。
こういうのは全部現金ではらう。
例えば宮家には侍女がいますが、僕が歳費の中から雇っています。
年3千万円程度の歳費があっても、そういう人件費だけで歳費の半分は飛んでしまう。
幸い僕には講演料や印税などがありますから、娘たちにそれなりの生活を送らせることができますが、それがなければ本当にギリギリの生活でしょうね。
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三笠宮寬仁親王 2007年

3月頃から妙に入退院の回数が多くなり、みなさまに少なからず御心配をおかけしたと思います。
6月に入ってズルズルと酒浸りの日々になり、1カ月入院をして療養することになりました。
皇室医務主管に相談したら、「お酒のことなら久里浜アルコール症センターに日本一の専門医がいるので御紹介します」というので、話を聞くことにしました。
話し始めたとたん、「あっ、それはアルコール依存症でございます」と宣告されました。
僕にとっては今でもおかしな発表だと思っています。
61歳になって、なにをいまさらという気が強いのです。
どうせなら「寛仁親王殿下には成人の御みぎりから依存症になられ、今般その症状が悪化されましたので、療養とカウンセリングを受けていただきます」とでも発表した方が正確であったろうと思います。

最初の三日間は酒が抜けず、食欲もなく睡眠薬も効かず、いつものパターンを繰り返していましたが、以降は回復して点滴もなくなりピンピンしていました。
ごはんがまともに食べられるようになると、後は毎日のように医師たちの講義・カウンセリングでした。
僕はこれらの先生方の真摯な講義を真面目に聞いていましたが、70%は僕が知っていること・または体験したことでした。
例えば手の震え・寝汗・幻覚・幻聴・脱水・食欲不振・不整脈…等々、まだまだありますが、全部体験していましたから、先生の話をフンフンと聞いていました。
驚いたのは、末期になるとヘアートニックやアフタシェーブローションまで飲む人がいるそうです。
「そこまでやるか!」と感心すると同時に、「俺も一度は試してみるか!」とも思いました。

アルコール依存症というのは困った症状でして、目に見える体感できる療法がないのです。
つまり一度依存症になれば、一生依存症であるとも言えるようです。
若い先生が何度も「退院後はどうなさいますか?」と聞くので、
僕は「まずガンの手術のために体重を戻して免疫力を高めることですから、この場で酒は飲みませんなどと仮定の話にお答えすることはできません!」と言いました。
9回目の手術をひかえ、とても後10年~20年の寿命があるとは思えませんので、
「一生断酒する以外にありません」と若い先生に真面目に何度言われても、
「ちょっと待ってくださいよ。僕の将来の人生のあり方を今ここで約束することなどできるはずがないでしょう」と言っては、先生が唖然とする顔をにこやかに眺めていました。
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三笠宮寬仁親王 2007年

民主主義の原則の一つである平等は誠に高邁な理念ですが、男女平等とは機会の平等であって、結果の平等ではないという事実を、国民はわかっていないでしょう。
男と女がすべて同じであるということは有史以来一度もなく、将来もまたありえません。
「男は男らしく・女は女らしく・大人は大人らしく・子供は子供らしく」でなければ、社会は壊れます。

つくづく団塊の世代の1年前の昭和21年に誕生して良かったと思っています。
我々の時代は男の天下であったということです。
昭和22年以降の僕の下の世代は、圧倒的に女性が強いでしょう。
彬子と瑤子の初等科の総代は双方共に女性でしたし、スキーのジュニア合宿も仕切りはオナゴ達がしていました。
さすがだと思ったのは、僕に育てられた二人娘ですからきちんと勘所は押さえていて、御挨拶や謝辞のような晴れの舞台はバッチリとオノコ達に任せるということをやっているのです。

我が家では研究一途の父に代わり母が全権を握っていましたし優等生の姉がいましたから、僕や弟たちはいきがっていましたが主権は女が持っていましたし、クラスメイト家も我が家と五十歩百歩であったと思います。
結局はなんだかんだと言っても、オナゴ衆の手のひらの上で一生踊り続けているのがオトコ衆なのだと思います。
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三笠宮寛仁親王 2008年

僕は小さい時から顔の輪郭と眉毛のせいで、周囲の人々から「明治天皇にお似ましだ」と言われ続けて、口ヒゲと顎ヒゲを生やしてからは完全に定着しました。

僕の父は勉強ばかりで、僕たち5人の子供の世話は母に押しつけていました。
総理・大蔵・厚生・文部・運輸大臣等々、すべて母が司ったわけです。
僕自身も娘たちの総理・大蔵・場合によっては文部大臣も務めました。
初等科までは母親のテリトリーだと思いますが、中等科からは父親のテリトリーだと思います。
聖心女子学院附属幼稚園に入ったのですが、登校拒否児もいいところだったんです。
玄関でドタバタ寝ころがって「入りたくない」と騒いだり。
僕が登校拒否児になった最大の理由は、両親が向こう三軒両隣との付き合いなんてしませんから、子供というものはどういうものか知る機会を持たなかったからだと思います。
幼稚園に行っても友だちとどう付き合ってよいかわからなかった。
だから娘たちはまだ口のきけない時代から、自分の友だちに「ぜひお前の子供を連れて来てほしい」と頼みました。
それが大成功して、僕の娘たちは僕の友人はもとより、僕がつきあっているナイトクラブのマダムやホステスあるいは芸者衆たちとも仲が良いのがうれしいですね。
今では僕の知らないところで、娘たちが30も40も歳の違うオナゴ衆と一緒に食事をしたりしているんだから愉快ですよ。

お座敷はトータルで考えると、それほど高くないですよ。
料亭というのはほとんどオーナーお座敷ですから、出世払いといっていくらでも学生割引してくれた。
これが銀座のバーだったら請求書に斟酌してもらえない。
銀座のバーで飲むことに比べれば、はるかに安いと思います。
一番初めにお座敷で遊んだのは柳橋ですね。
スキー界の大先輩が連れて行ってくれました。
僕のような遊び人は放っておくとどこに行くかわからないので、ここで遊んでくれた方が安心だといって、大人たちがしかるべき所に連れて行ってくれたのでしょう。
柳橋の次は祇園でした。

虎屋17代目の黒川光博の弟と一緒でした。
彼とは学習院の同級生で、「祇園なるものに行こうじゃないか」という話になり、黒川家のフォルクスワーゲンに乗って東京から京都まで交代で運転しながら行ったんです。
車を出そうとしたら、「坊ちゃまと宮様が何かなさろうとしている」と黒川家の人々に悟られ、祇園に飲みに行こうとしていることがバレてしまし、彼の母上にまで伝わってしまったんです。
御母御上は僕たちよりも早く電車で京都に先回りなさって、京都にある虎屋本家の大きな玄関から入ろうとすると、御母上が衝立の前で仁王立ちになって、「若造で何も知らないのに祇園で遊ぼうとするなんて生意気なことを」とさんざん文句を言われたのですが、「私も一緒に行きます」と仰って祇園の有名な一力茶屋に連れて行ってくださったわけです。
それ以来、僕が行くのは一力茶屋。
最初に行ったお座敷がホームグラウンドになるんです。
昔祇園で遊んだのは老舗の旦那衆といった人たちですが、彼らが遊んでいる時番頭さんたちは先斗町で待っていたそうです。
先斗町は家来の遊ぶところだと教えられました。
最近困るのは僕が気が狂ったように遊んでいた頃の芸者衆はみなおばさんになってしまって、足を運ぶと若い子を紹介してくれるのですが、「娘より年下じゃないか」と思うと、これはもうどうにもならない。
若いと言っても僕の限界は35歳以上ですね。
そもそも僕は昔から年上の女性ばかりとつきあっていたこともありますが。
長崎には八重奴という80歳を超えた芸者さんがいます。
それこそ麻生太賀吉氏たちが遊んでいた時代の芸者で、もうお座敷に出なくなっていますが、太賀吉氏たちが大事にした芸者衆だから、僕たちもまた大事に面倒を見ていこうと思います。

イギリスでは駐車違反で出頭せず、逮捕されそうになった。
裁判所から召喚状が来たのに、気づかず出頭しなかった。
冬休みでしたから、僕はオーストリアの国立スキー学校に行ってた。
オーストリアの新聞に、「三笠宮寛仁親王、オックスフォードで逮捕される」と書かれた。
まだ逮捕されてないのに。
スキー学校の先輩が笑いながら、「トモさん、オックスフォードで逮捕されてるようだよ」と。
母はこの事件を詫びに良子皇后の所に謝りに飛んで行ったそうです。
この手のことがいろいろあって、「これ以上ヨーロッパにいると何をするかわからないから戻ってこい」ということになったんですよ。

*三笠宮家と麻生家は三笠宮寛仁親王が幼少の頃からつきあいがあった。
吉田茂首相の娘である麻生和子は外交の知識に明るかったため、三笠宮家のみならず各皇族妃の相談役であった。
また麻生和子の三男麻生泰も1年遅れてイギリスに留学して同じ家に下宿、三笠宮寛仁親王と麻生泰は大親友となる。

和子夫人は奥様を早くに亡くされた吉田茂がファーストレディ代わりにいつも連れておられただけあって頭の回転が速く、国際的な視野を持ち、人脈も経験も豊かでした。
昭和の女性のモダンさと江戸の女の粋さを併せ持った本当にステキな人でした。

札幌オリンピックの時にはまだ結婚する気はありませんでした。
ただオックスフォード大学在学中の22~23歳の頃から、太郎からは勧められていましたね。
太郎にはお金の使い方から始まって、何から何までいろいろなことを教えてもらいました。
彼は根回しが上手な男で、世情に通じていますし、表も裏もよく知っている。
太郎がロンドンに来た時に僕の部屋で一緒にウイスキーを飲みながら語らっているうちに、
「殿下の御結婚相手はウチの妹ぐらいしかいませんよね」という話になったんです。
その時はまだ彼女は中学生ですから。
軽井沢で一度会ったことはありましたが、対象とは思わなかった。
僕が高校生・彼女は小学生の時だった。
僕がからかったら、怒って僕の髪をつかんで離さなくてね。
ずいぶん気が強い子だなあというのが、カミさんの第一印象です。

イギリスにいる間も、札幌オリンピックの時も、この人となら結婚してもいいかなと思った女性がいたわけです。
でもいろいろな理由があって結婚までには至らなかった。
そうこうしているうちに、高松伯父様から「お前はどうして結婚しないんだ。あれだけ麻生の家と仲がいいんだから、麻生の家の独身の末娘と結婚してしまえ」との御言葉があった。
僕は高松伯父様に反対されたら何もできないと思っていましたから、最大の難関がOKしてくれたのだから、それではということでプロポーズしたんです。
27歳の時です。

でも、それからが長かった。
結婚を認めてもらうために御両親である麻生太賀吉御夫妻に会いに行ったんです。
そしたら、あっさり断られてしまった。
和子夫人に大反対されたのです。
「娘には心身に障害がございますから、妃殿下はとても務まりません」と言われました。
何度もお願いしたが、いつも同じ理由を口にされましたね。
「他の娘ならともかく、信子だけは差し上げられません」と。
心臓結滞の持病があって、下が40ぐらいで上が70くらいの低血圧。
結婚当初は帰ってきて緊張感が抜けると至るところで倒れていました。
ともかく体力がなく、子供を産むこともドクターストップがあったりして大変でした。

そのまま7年経っても進展しない。
カミさん個人というより、あの御両親の魅力が大きかった。
あのお二人の娘に間違いがあるはずないという気持ちが強かったんです。
なにしろお二人は皇族のことを誰よりも理解してくださっていたし、人間的にも尊敬してました。
義兄の相馬和胤氏〔信子妃の姉の夫〕が間に入ってくれて、交渉再開となりました。
僕は「障害があるならそれでかまいません。僕はずっと障害者福祉に携わってきた人間で、障害を持っている人を助けるのが天命だと思っています。ですからお嬢さんが障害をお持ちであったとしても、私なら面倒を見ることができる。どうか安心してください」と言いました。
太賀吉氏は「殿下がそこまで仰るなら結婚を認めましょう」と言ってくださった。

───殿下、妃殿下と御一緒の御写真を一枚いかがでしょうか。

あ、それはダメだな。
別居してんだよ。

チャールズ皇太子は真面目を絵に描いたような方です。
ケンブリッジのサマーコースで偶然1カ月彼のコレッジに泊まることになり、その後何度かお会いしましたがナイスガイでしたね。
名君になられるだろうと思いました。
ダイアナ妃とは結婚してからお目にかかりましたが、白馬の王子様が六頭立ての馬車で迎えに来てくれると思っているような人で、子供っぽいのですがチャーミングな方でした。
しかしダイアナ妃は子育てやファッションなどには気が回るけれど、ロイヤルファミリーとしてのふるまいといったことをあまり考慮されないという印象がありましたね。
お二人が来日された時 日英協会の総裁ということもあって、大相撲に御案内したのです。
チャールズ皇太子は僕に次々と質問されましたし、理事長にも何度も御下問がありました。
しかしダイアナ妃はあまり相撲には興味を示さずに、僕の妻と自分の子供の話ばっかりだったそうです。
イギリス人がダイアナ妃に期待したのは、彼女が初のイングランド出身の妃だということでした。
とても残念だけれども、はやりミスマッチだったのでしょう。
チャールズ皇太子は真面目で神経質だからこそ、自分の悩みを聞いてくれる人が必要だったんでしょう。
チャールズ皇太子がカミラ夫人のような、決して若いわけでも美しいわけでもない、けれども安心して何でも話せる知的で温かい大人の女性を必要とした理由が、僕にはよくわかる。

信子を美人だと思ったことはありませんよ。
高松伯母様は多くの人々から美人と言われました。
僕の母も美人というわけではないと思いますね、高松伯母様と比較したら。
ただ姉の甯子はみなから美人と言われました。
整った顔をしていると思います。
瑤子が生まれた時は、看護婦さんが「この方は美人になりますね。百合子妃にそっくりです」と言うので、言われてみれば整った顔をしていると思いましたけれど。
彬子は可愛いタイプで、瑤子は美人系かもしれませんね。
甯子は節子皇太后の御還暦の時に生まれたので、節子皇太后も大変お可愛がりになられた。
「私の生まれ変わりである」といまでおっしゃった。
それで母が還暦の時に瑤子が生まれているわけですからね。
だからみなそれぞれの生まれ変わりなんですよ。

ウチは皇族の中でも傍系だったから、自分の子供が男の子でなければという発想は全然なかったなあ。
自分の血を引いた男なんか要らないと思ってたのかもしれないねえ。
彬子が産まれたあと「お二人目は男の子を」と言われたが、僕は「男じゃなくていい」と繰り返した。
僕は友たちのたくさんいるステキな女の子になってほしいんだ。
ウチの娘たちに誰かいい人いないかなあ。

───ふさわしいのは元華族とか元皇族といった御家柄の方でしょう。

家柄なんて関係ないんだよ。
今の時代皇族の娘なんてもらってくれる男はなかなかいない。
家柄なんていっさい問わないから、いい男の人がいたら紹介してください。

彬子は本当に優秀なのですが、瑤子はにっちもさっちもいかない。
僕はあまり勉強しなくてもかまわないと言っていたので、普段は家庭教師の人たちに任せきりにしていたのですが、高等科の時に一緒に試験勉強したことがあります。
それで得意になって母に「この前 生まれて初めて瑤子の勉強を見てやったんだ」と言ったら、
「私は5人も見ましたよ」と一言いわれてしまいました。
彬子がオックスフォード大学で博士号を取った時は、父は「女性皇族がイギリスで博士号を取った!皇室の歴史始まって以来の快挙だ!」と大喜びでした。
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工藤美代子 ノンフィクション作家 2008年

三笠宮寛仁親王は「学習院で学んだ一番大切なことは、とにかく正直であれということだ」と仰った。
色紙を書いてくださいと頼まれると、「正直」と書くのだという。
三笠宮寛仁親王は正直であれという学習院のモットーを現在に至るまで忘れずに、しっかりと守っておられる。

1972年の札幌オリンピックの時に、三笠宮寛仁親王は事務局におられて、私はコンパニオンとして働いていた。
最初に三笠宮寛仁親王にインタビューに伺った時、まず札幌オリンピックの思い出話をしていただくつもりで、「実は私、当時札幌オリンピックでコンパニオンとして働いておりまして」と切り出すと、
殿下は私の方をじっとご覧になって「その顔で?」とお尋ねになった。
殿下が御不審に思われたのも無理はなく、オリンピックのコンパニオンは語学堪能な上に容姿端麗な女性が選ばれていたのである。
実際は私のように不細工で英語もろくに話せない娘も入っていたのだが、このように正直に御自分の疑問を口になさるところがいかにも三笠宮寛仁親王らしいとつくづくと納得したのだった。

三笠宮家寛仁親王は苦悩する夫であり立派な父親であったけれども、女性の目から見ると実に困った男でもあった。
とにかく「オナゴ」が大好きだった。
いつか妃殿下になれる日を夢見て待ち続け、青春を棒に振ってしまった有名・無名の女性を、この私でさえ何人か知っている。
信子妃との婚約が決まった時も一悶着あった。
ある女性が「自殺する」という書き置きを殿下に残して北海道に向かってしまったのだ。
びっくりした殿下は彼女の後を追おうとした。
殿下の周囲の方々は必死にこれを阻止した。
すでに婚約が成立しているというのにそんなことをしたら、いったいどんな騒ぎになるか。
結局関係者と親戚の二人が現地に向かい、女性をなだめて事なきを得た。

信子妃の御静養をきっかけに、お二人がその後もずっと別居生活を続けることになろうとは、一般の国民は夢にも思わなかったのではないか。
お二人そろっての御公務も途絶えた。
信子妃は何年も御公務から遠ざかっておられる。
その後三笠宮家寛仁親王はガンの手術で声を失い、発声器を使われながらお一人で公務を続けられた。
皇室に嫁いだ娘が病気などで不調が続いた場合、妃殿下の御実家はとりあえず娘をお引き取りになってきちんとした治療を受けさせる手段を、早いうちに検討すべきではないだろうか。
なにもすぐに離婚したらとか退位したらとか言うわけではない。
しかし娘を皇室に輿入れさせた御両親は、それですべてが終わり一族の名声が高まったという満足感に浸るよりも、皇室の長い歴史に思いをいたして娘や孫の将来のためにも適切な対応をしていただきたいと思うのである。
皇室に上げた娘が心身の病に苦しまれている時は、御実家の英断こそが待たれるのではないだろうか。
たしかに一度上げてしまえば家柄には大変な箔がつく。
それは平成の世も変わらない。
昨今の皇室の状況を見ていると、御実家さえ御決断くだされば、妃殿下御自身も救われるケースがあるように思えてならない。
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三笠宮寬仁親王 2010年

選択的夫婦別姓というのも妙な考え方だと思います。
男女同権から発想されたのかもしれませんが、ちょっと考えてみれば家族がバラバラになることに気づくはずです。
こういった状況はだれも受け入れたくないはずですし、ただでさえ核家族化などと言われている現在、日本国成立の一番基本にある家族という単位をぶち壊す所業にしかなりません。
今でも専門職の世界では独身時代の氏名や、離婚しても旧姓で登録している人は多いのですから、そのあたりで止めておくべきです。
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三笠宮寬仁親王

昭和天皇と僕個人との他人を交えない会談というのは生涯で2度あった。
これは僕が戦後の若い皇族として生きる上で、戦前・戦中・戦後の激動の時代を体験された先輩皇族の方々から限りなく当時の実情というものを伺っておきたいという気持ちがあったからだ。
折りにふれて秩父伯母様・高松伯父様・高松伯母様にお話を伺っていたわけだが、本家本元の昭和天皇とはそういう機会が皆無であったので、高松宮殿下にお願いをし、何とかなりませんかということになった。
高松伯父様はさっそく動いてくださり、吹上御所の応接間で昭和天皇と僕二人だけの会談が実現した。
特に興味をそそられて真剣に伺ったのは、二二六事件と終戦の二つの事柄に関してだった。
昭和天皇は御自身の長い摂政時代から天皇という御立場で一貫して立憲君主という立場を取ってきたという話に関連して、「2度だけ自らの意志によって動いたことがある」と仰せになった。
この両事件は本来昭和天皇を輔弼する責任を持つ重臣たちが、前者の場合にはまったく消息不明であったわけだし、後者の場合は御聖断を仰ぎたいむね言上したわけで、いずれも場合も昭和天皇御自身が御動きにならざるをえない状況に置かれたので、御自身の意志で動かれ発言されたということを淡々と僕に語られた。
その時点では、この件についてはマスコミ等を通じて昭和天皇の肉声としては正確には発表されていなかったので、僕はかなり興奮したのを覚えている。
この事を見ても、昭和天皇が立憲君主としての常通を絶対に踏みはずされないよう御自身を明確に律しておられたことが明白である。
巷にこの両事件の時の昭和天皇の御態度を評して、ではなぜその他の場合にも同様の態度を取られなかったのか、取られていれば違った方向に行ったのかもしれないという類の議論がある。
しかし昭和天皇の仰ることを素直に伺っている限り、両事件以外はすべて時の政府が決定をし、御裁可くださいと上奏したものばかりだから、昭和天皇御自身の御考が反対であったとしても、拒否権発動は立憲君主という御立場上不可能であるため、好むと好まざるとにかかわらず御裁可されざるをえなかったという事実にぶつかる。
したがってもしその時々の昭和天皇の御考をストレートに出しておられれば、立憲君主としての御立場は放棄なさらなければならず、国体は当然麻のように乱れ、その結果どうなったかは我々には想像もできない。
昭和天皇は純情なまでに我国の天皇の置かれている立場を認識され、それに真正直に当たろうと努力をされ続けた人生を全うされた方だと言えよう。
繰り返すが、両事件の時のみ国家の正規の機能がまったく働かず、昭和天皇の御自身の御意見以外解決の道がなかったという例外中の例外であったため、昭和天皇は御自身の御意見をおっしゃった。
そしてそのおかげで、今の我国の繁栄があるのは議論の余地がない。
このことは僕におっしゃった会談から数年後に、御自身の御口から記者会見の席で発言されたので、僕個人の機密として秘匿する必要がなくなってしまったわけである。

昭和天皇をただ一言で表せと言われれば、「偉大な方であった」としか申し上げようがないのが正直な感想である。
もう一つ僕がよく使用した言葉は「逆立ちしても勝てない方」
いずれにせよ我々がいかなる努力を払ってみても、昭和天皇のレベルに達することはできなかった。
驚嘆すべきは公平無私でいらしたということであろう。
たびたびマスコミに取り上げられた事柄に、大相撲の贔屓力士の件がある。
僕は昭和天皇に御贔屓の力士がいなかったなどとは絶対に信じられない。
国技館に行幸になった時の身ぶり手ぶりで、ある程度御贔屓力士と推測できる御動作があったとも聞く。
しかし、終生力士名を口にされることはなかった。
もし昭和天皇がお好きな力士名を口にされたら本人は光栄この上もないかもしれないが、他の大勢の力士たちの気持ちを推しはかられて、一国の象徴たる御立場上に口に出されず、全力士に均等に温かい声援を送られたのであろう。
通常の人間にはこういった類の発想と行動は全くできる筋合いのものではあるまい。
僕などもいろいろな団体を統括する立場にいるが、どうしても好き嫌いが出がちである。
僕自身口では実力を考えて適材適所に配置していると言うけれど、この発言と好き嫌いの感情は紙一重であり、ギリギリのタイトロープをしていると言った方が正しいかもしれない。
昭和天皇は特定の一部の人々からの意見をお取り上げになるということは皆無であり、国際政治の分野ならその分野のしかるべき立場を任されている人の意見を聴取され、他の分野であっても同じことを常に心がけておられたから偏るということがなかった。
身内についても同じことが言える。
全校族と全方位外交なさっていたといえる。
特定の皇族の言だけを信用されて、その他の皇族の話に耳を傾けないという御態度は一回もなかったと記憶している。

こういう風に書くと、昭和天皇は物語に出てくる聖人君子のように完全無欠の聖者のように聞こえるかもしれず、冷たいクールな面白くもなんともない人間像に結びつくかもしれない。
だが、まったくそうではなかったところが昭和天皇の昭和天皇たる所以であったと思う。
何を発言されていなくても対面している人にじかに伝わってくる昭和天皇の温かい御人柄が相手を常にリラックスさせる御人徳がおありになった。
常に自然体であられたということが、僕にはとてつもなく偉大なことと思える。
演技する・見栄をはる・意識するといったふうなことがゼロでいらっしゃったから、いかなる人々をも国内外を問わず自然に懐に入れておしまいになる駘蕩とした大きさをいつも感じていた。
園遊会では式部官長が主要な人々を簡単にご紹介する。
それを受けて昭和天皇は御言葉をおかけになるのだが、その個々人に的確な質問を毎度毎度なされる能力にはただ驚くのみである。
ある年の園遊会で僕の義母麻生和子が御招待を受けた。
昭和天皇が発せられた御言葉は「信子さんはよくやっているよ!」だった。
義母が何よりも大事にしている皇室、すなわち長い年月に渡って吉田茂の娘として、また麻生家の妻として皇室に良かれと念じ続けている人物が、よりにもよって末の娘信子を皇室に嫁がせる運命に遭遇してしまい、それまで外側から強力に各宮殿下方をサポートしていた人間が内側に入らざるをえなくなってしまった。
結婚に至るまで僕が7年間も反対のために待たされたのを見ても、義母にとっては心配中の心配事だったわけである。
そういう気持ちを持ち続けている人間に対して、昭和天皇はスパッと娘のがんばりを何の演技演出もなくサラリとおっしゃってくださった。
ただで〈臣茂〉の最愛の娘である上、土壌がある人だからたちまち感動の極致に至り、真っ当なお答えの言葉がとっさに出てこなくなり涙があふれたらしい。

僕が青少年育成指導者と青少年グループの代表者たちとの懇談を国内で2年間にわたって続けていた時に、何かの集まりで高松宮御殿に伺い、
宴半ばに高松伯父様から「そろそろ若い者たちが昭和天皇とお話をしろ」と御命令が下った。
席についてすぐ昭和天皇から「青少年育成の仕事はどうなっているか?」という御下問があったので、各地で体験した青少年問題の実情をつぶさにご説明した。
実に的を得た御下問が飛び出してくるので、お答えする方も嬉しくなってしまい、思うところを洗いざらい返答申し上げた。

昭和天皇の我々甥・姪への御接しのなさり方は、子供の頃の思い出としてはそれほど強く印象に残るものはない。
しかし、良子皇后の僕への接し方は見事なものであった。
特に印象深いのは小さな子供に時間の許す限りつき合ってくださるというところにあった。
良子皇后は実に子供の扱いが御上手であった。
御子様を何人も御育てになったから当然でしょうということも言えるが、実によく僕たちの話を聞いてくださる、いわゆる聞き上手でいらした。
僕が子供の頃いささか戸惑ったのは、年配の皇族・旧皇族様方がものすごいスピードで多くの方々とお話をなさることであった。
僕が何かを話しかけられ子供心に緊張し、なんとかまともな返答と考えているうちに、それじゃまたねという風に次に移られているというパターンで、当時はなんとセカセカした方々だろうと思っていた。
僕が大人になりイギリス留学をし社交術をマスターする時代が来ると同時に、また主役として決められた時間帯の中で多くの人々に次から次へと話をしていかなければならない場面に直面するようになって、なるほどこの方法を使わなければ全員と公平に話し合うことは不可能なのだと気づくことになる。
だが、良子皇后は子供の頃からじっくりと僕の話を聞いてくださったという記憶が強い。
これは大人になっても、御側に座るとゆったりと時間をかけてお話するという形でずっと続いた。
「学校は楽しいのか?」に始まって、「何を習っているのか?」「友達とはどんな遊びをするのか?」などなど、子供が答えやすいように次々に的確な質問を出してくださるので、僕の方は甘えておしゃべりが続くということが多かった。
大人も子供も変わりなくうれしいのは、誰かと話しているとき相手が真剣に聞いてくれることであろう。
子供の頃の良子皇后のしっかり聞いてくださるというのはうれしいことだった。

良子皇后の思い出にはもう一つ強い印象がある。
僕が留学する前にお別れの ご挨拶に伺った折、玄関でご挨拶を済ませ戻ろうとした。
それは御風邪を召されたか何かで御伏せりになっていることを事前に知っていたためだが、侍従に中に入るよううながされ、御寝所の方に来るようにとのことである。
大変なことになったわいと緊張して、おそるおそる御寝所に伺った。
両陛下をはじめ各皇族様方にお目にかかる時はその時の内容によって口上が違うし、母のようにプロでないから、我々は何度も母に口上を教えてもらい丸暗記して参上するのが常だから、状況が違ってしまったらいったい何を言っていいのか皆目わからなくなってしまうのである。
良子皇后は御床につかれてはいたが座っておられ、ニコニコと僕のしどろもどろの口上を御聞になった。
僕としては御伏せりの状態であるから早く退散すべきであろうとの考えが頭の中をいっぱいにふさいでいたのだが、良子皇后は悠揚迫らず穏やかに御話を御続になるので、結構長い間そこにいるハメになってしまった。
頃合を見計らって「御身体に触られますといけませんから」というようなことを僕が申し上げて退出しようとしたら、戦後初めての皇族の単独留学を心配してくださったのだろう、「十分に身体に気をつけて、皇族として国際的視野を広め立派に務めを果たしてきてほしい」とおっしゃった。
戦後初の皇族単独留学第一号モルモットであった僕は気負いもあったし、「仰せの御言葉通りがんばってまいります」と申し上げた。
当時の留学生の気持ちというのは昨今のようにパックツアーなど皆無の時であったから、少々オーバーに言えば水杯をしてという雰囲気があった。
戦後初めての試みであるから、本人も周囲の人々も受け入れてくれるイギリス側も、本当にどう転がっていくのか暗中模索の時代であり、僕の行為一つ一つが前例になるといった頃だから、当方の覚悟もかなりのものだった。
そんな雰囲気の中で良子皇后がくだされた安心感というのは大きなものであった。
昭和天皇が威厳を御持の上での御人柄からくる温かさを感じる方だとすると、良子皇后は常に昭和天皇を常に御立てになりながら、一歩下がって笑みを絶やさない、お優しい、まさに国母陛下とお呼びするにふさわしい大きな方である。

結婚のとき僕が一番何を気にし心配したかと言うと、式そのものでも御告文を読むことでも朝見の儀で両陛下にお礼の言葉と今後の抱負を述べることでもなく、ただひたすら束帯を着用することであった。
儀式前の潔斎を済ませたら不浄なことはできないし、非常事態が発生しても束帯を着てしまったら最後、お手洗いに行けない構造になっているからである。
妃が着る十二単ももちろんである。
僕は常日頃ヘビースモーカーのせいだと思うが、喉がいがらっぽいなってやたらと飲み物を多くとる。
したがってお手洗いに行く回数もそれなりに増えるのは当り前である。
必然的に仕事先であれどこであれ、まずお手洗いの場所確認が重要な仕事の一つになる。
こういう人間だから、結婚式の1ヶ月前からほぼ完璧と思える体調維持作戦を開始した。
浴びるほど飲んでいたアルコールはきっぱりやめて、1日おきにトレーニングをこなし、三度三度の食事をきっちり取って、眠る時間も十分にという風に普通の人には当り前のことでも、僕にとっては暴飲暴食による不摂生のうえ超多忙というのがノーマルライフだったから、想像を絶する豹変ぶりであった。
それもこれも束帯を着た時に体調が崩れることを心配したからに他ならない。
僕は生来胃腸が弱いところに持ってきて神経性の胃炎や下痢をすぐ起こす癖があるので、この時ばかりは一生に一度のことであるから一大決心をして摂生に努めた。
結果論からしてこの作戦は見事に功を奏し、6時間あまりの長丁場をお手洗いなしで済ますことができた。
後日僕が昭和天皇に何気なく「結婚式の束帯にはすっかり参りました。日頃水分を多量にとる癖がついておりますので、前日の昼から水分は一滴も口にいたしませんでしたし、1ヶ月前から体調整えるなど大変でございました」と申し上げ、「私などに比べると昭和天皇が御束帯を御召になる回数は年間を通じて大変な量でいらっしゃるから、さぞや御苦労の多いことでございましょう」と伺ったところ、
昭和天皇はいとも簡単に「私はふだん水分をあまりとらないから、そんなに苦労なことではないよ」とおっしゃった。
側近が昭和天皇が御小さい時に「必要以上に飲食はなさいませぬように」とお教えしたのか?
はたまたそれらの上に物心つかれた昭和天皇が、意識的に腹八分目ということを心がけておられ、飲み物についても同様なことを実践なさっておられるのか、僕にはよくわからない。
我が身と比べてしまうと、よくぞそこまで御自身の御身体をコントロールおできになりますねと申し上げたくなる。
僕が無分別な生活になりやすいのは、国民とじかに付き合っているため、そのペースに合せてきたからということも言えよう。
例えば酒の飲み方も僕の学生時代には無茶苦茶な先輩がたくさんいて、飲み方も自分の適量もわからない我々に無理やり飲ませて、気分が悪くなれば「吐いてこい!」で、戻って来れば「さあ、もう一丁!」ということが日常茶飯事であった。
我々もたまらんとは思いつつ、これが運動部のしごき方の一つと思っていたから、当然のこととして受け止めこれの繰り返しで今に至った。
途中から本物の酒豪になったのは言うまでもない。
二日酔いはザラになり、往々にして脱水症状で目が覚めるから、なんらかの水分を多量に体内に入れ、夜になればまた飲み始めることになるし、予定のない時は迎え酒ということにもなる。
結局のところ、度を越してしまうという当然の結果を迎える。
すべてが昭和天皇の逆を行っている感じである。
聖人と極道と言ってしまえばそれまでだが、極道風生き方をしていれば束帯の6時間はつらく、昭和天皇のように不摂生をなさらなければ、我々が思うほど苦痛を御感じにならないと言えるかもしれない。
昭和天皇のお育ちになった環境と御自分の御努力が、昭和天皇という方を作り上げたわけであろう。
昭和天皇の方から御覧になれ、「寛仁、何をそんなに深刻に考えておるのか?」というごく自然な御言葉が聞こえてきそうである。

マスコミ報道の皇族の公私の別については、様々な意見がある。
公人なのだからプライバシーはないという人もいるし、個人であっても公私の別は区別されるべきだという人もいる。
僕は後者の頑固な信奉者である。
なぜならば僕の日常生活にはほとんどプライバシーが無きに等しいからである。
僕の家庭内のことはプライベートに属することであり、それを公にする必要性は少しもなく、僕の父親像とか妻の母親像はそれらを知っている身近な人々の伝聞でごく自然にもれて知られていく程度で結構である。
両陛下は我国の歴史的伝統の上に厳然としてある象徴としての御立場で行動されるわけだから、マスコミはその正しい部分を正確に報道してもらいたいし、国民の側も必要以上に興味本位にならないで自然体で見守ってほしいと思う。
御生前の昭和天皇に「昭和天皇のお好きな時にふらりとデパートに買い物に行かれるというようなことがおできになれば、とても素晴らしいことと思いますが」と申し上げたことがある。
昭和天皇は「考えたことがあるが、いまの状勢では私がそれをやればデパートの人々が大騒ぎになり、護衛の皆もそれなりに動かなければならない・何よりそのとき買い物に来ていた多くの人々が規制されたりして大きな迷惑を多方面にかけることになるだろうから、私はやらない」という御趣旨を伺ったことがある。
大正天皇が御元気な頃は、ワインをぶら下げて御近しい宮邸においでになったとか、御用邸御滞在中は自転車に乗って一人か二人の側衛官を遠くに従えて散策されたという話を聞いていたので、この手のリラックスムードが我国にもあればいいなと感じたわけである。
しかしこの雰囲気が醸し出されるには、国民サイドの最大級の協力がなければ実現するまい。
高松宮殿下が御生前 口を酸っぱくして言っておられたことに、皇室はいにしえの昔から国民に守られてきたという御言葉がある。
我国の政体には色々な種類のものがあったが、どれ一つとして天子様を根絶やしにしようとした人はなかったわけである
ここに我国の天皇制と国民の間にある、他国の王室とはどうしても比較できない伝統的つながりを見ることができる。
高松伯父様は「京都御所を見てごらん。どこからも侵入できるし防護の策など施していないのに、長い年月決して何者にも犯されずにいるではないか」ともおっしゃっていた。
平成元年の大喪の礼がかくも盛大にかつ厳粛に執り行われ、世界史上空前の164カ国28国際機関からの国賓や代表の参列も得て、国の行事として挙行されたことは、昭和天皇の御遺徳の大きさを如実に物語るものであった。
そして表に見えなかった部分での警察をはじめとする無数の関係者の崩御から当日に至るまでの昼夜を分かたぬ苦労の数々や、過剰警備と感じた人もたくさんいたとは思うが水も漏らさの完璧なまでの準備対策に国民のほとんどの人々が、先帝崩御の悲しみを胸に秘めつつ一致協力して御大喪の成功に真に寄与してくれた。
この事実を思い返す時、偉大なる昭和天皇とその昭和天皇を心からお慕いした国民が、最後のお見送りの時まで万遺漏なきようお守り申し上げた姿こそが、我国の伝統に培われた天皇と国民の強い絆を無言のうちに見事なまでに表現したものであり、高松宮殿下の御言葉にピッタリと合致する我国独特の素晴らしさであったとつくづく思う。

平成の御代になり、今まで以上にマスコミから新しい皇室像は何かとか、開かれた皇室はどうあるべきかというような質問を受ける。
根本的な部分での皇室は2600年以上の伝統に則って存在してきたわけだから変化することはない。
一般的な考えとして、終戦までの神格化された天皇が戦後象徴として人間天皇になられたとか、昭和御世から平成の御代に変わったのだから何かが変化するのではないかという素朴な気持ちがあるのは理解できないわけではない。
だが本質的なものは皇室においては太古の昔から何も変わっていないと言えよう。
昭和天皇が御生前あるときの記者会見で「戦前も戦後も変わったと思わない」という意味の発言をされたが、皇室の本来の存在姿勢や今後のあるべき姿勢という風なことはまさに昭和天皇の仰ったとおりであり、変える必要性もないし変わってもいなかったと言える。
近代皇室像のあり方は昭和天皇神が身をもって御示しになった原則が厳然として存在するので、そのことが変化するとは思えない。
昭和天皇は神道という宗教という枠ではとらわれない神の道の祭主として神事を大事にされてきたこと。
常に世界の平和を心の底から願っておられた人生であったこと。
国民の真の福祉をいつも念頭に置かれて活動されたこと。
全人生において公平無私を貫かれたこと。
数え上げればきりがないが、ここに取り出したいくつかはその中でも重要な部分であると思う。
したがって、御世代りがあったといってこれらのものが変化するとは思えない。
昭和天皇には御公務というものがある。
この御公務の中には国事行為や宮中儀式や皇室外交や地方御巡幸などいろんな種類があり、昭和天皇の場合プライベートな部分の生物学御研究などを含めてほどよく国民の前にそれらが示されてきたので、国民はその時々の昭和天皇の御姿を拝し、昭和天皇のなさっている活動をかなり的確に把握できていたと思う。
国民にじかに触れる場として園遊会や宮中晩餐や記者会見もあったから、昭和天皇の御考や御人柄に触れるチャンスはいくつもあった。
そして皇室は天皇陛下を頂点としたピラミッド型の組織であるから、直系の内廷皇族のなさる分野、斜辺を形成する内廷外皇族の分野とうまく分割ができており、皆様方がオーバーラップする部分と専門フィールド互いに持ち合ってうまく作動してきたと言えよう。
いま昭和天皇という偉大なる巨星を失い高松宮という皇室の屋台骨を支えておられた大番頭とを失って、正直なところ皆様方もいささか途方に暮れておられると思う。
これから新両陛下を、皇太子をはじめとする始めする全皇族がお助けして、平成の御世の正しい舵取りに立ち向かわなければならない正念場であると思う。
ちまたには明治天皇や終戦までの昭和天皇は強大な力を持ちになっていたという風な言い方があるが、平成両陛下ともに周りに重臣たちがおり、その時々の政府の決定を好むと好まざるとにかかわらず御裁可されていたという事実だけで、それをも覆すような権力は一握りも御持ちになっていなかった。
我国の世界にもまれな万世一系の天皇制というものは、立憲君主制とか象徴天皇という言葉が出現していないいにしえの時代から今に至るまで、自然な形での立憲君主制であり象徴天皇であられた。
我国の歴史には院政と呼ばれたものもあり、公家政治もあり、武家政治・軍人政治・政党政治などなど各種の政体があったが、どの政体の時にも天皇おられ、誰も天皇の象徴としての御立場を覆そうとはしなかった。
また逆に言えば、権力を御持ちになったように見える天皇もいらっしゃったが、実際は時のナンバー2である最高責任者が国を動かしていたから、類稀なるバランスがとれた国体というものが存続した。
ここのところが他国の王室と本質的に違うところであろう。
天皇制を振り子と同一視するのは畏れ多いが、僕は振り子の中心が天皇であると思う。
振り子の玉の方は右に行ったり左に行ったり真ん中にいたりするし、ある時は360度回ってしまう時もある。
しかしどの時もその中心は変わらないわけだから、振り子そのものが吹き飛んでどこかに行ってしまうということがない。
我国の天皇制とその時々の国民とのあり方をビデオで見直すということが不可能であるので断言はできないが、いにしえの昔から我国民は権力と権威を上手に分離し各々の担当者を自然に決めてきたために、戦争をはじめとする大事件は無数にあるわけだが、我々は未だかつて分裂も分断も植民地化もなく極めて健全に機能してきたのだと思う。
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◆三笠宮寬仁親王 三笠宮崇仁親王の長男
1946-2012


■妻  麻生信子 麻生太賀吉の娘・兄は総理大臣麻生太郎
1955年生


*1980年11月07日 三笠宮寬仁親王&麻生信子と結婚
*1982年04月   三笠宮寬仁親王が「皇籍離脱発言」する。


●三笠宮彬子女王 1981年生
●三笠宮瑶子女王 1983年生




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『入江相政日記』侍従長

1966年9月15日
三笠宮寛仁親王が青山で交通事故の由。

1966年9月16日
三笠宮寛仁親王の事故はUターン禁止区域ではなかったとのこと。
よかった。
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『入江相政日記』侍従長

1967年7月3日
宇佐美長官から、三笠宮の親王様方の交通事故について聞く。
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『入江相政日記』侍従長

1970年8月8日
エチオピア皇太子夫妻をめぐる明仁皇太子の三笠宮のこと。

1970年8月11日
エチオピア皇太子妃の席次のことはまだ続いているらしい。

1970年8月12日
この間からのエチオピア問題につき申し上げ、三笠宮の方ももうこの辺でお済まし願いたいむね申し上げ、それですっかり済む。

1970年9月1日
三笠宮百合子妃から、三笠宮寛仁親王が明仁皇太子夫妻と明方4時まで議論、続いて明仁皇太子夫妻は軽井沢で夜8時から12時半まで同じことについて談じ込まれた由。
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『入江相政日記』侍従長

1974年12月11日
宇佐美長官から三笠宮寛仁親王についてのこと。
同憂に堪えない。

1974年12月25日
昭和天皇から、「今日宇佐美長官が三笠宮寛仁親王について三笠宮へ上がるにつき、江崎玲於奈がスウェーデンの皇族が『日本の皇族はいばっている』と言ったということをよく説くように」との仰せ。
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『入江相政日記』侍従長

1975年6月11日
昭和天皇から御召。
昨夜の三笠宮寛仁親王をめぐってのこと。

1975年12月10日
昭和天皇が宇佐美長官から三笠宮寛仁親王のこといろいろお聞きで御心配。

1975年12月11日
宇佐美長官と昨日の三笠宮寛仁親王のことについて協議。

1975年12月31日
エリザベス女王の御訪日もまた大騒ぎになった。
「我がイギリス」人種が多数現れた。
秩父宮勢津子妃・高松宮夫妻・三笠宮寛仁親王・麻生和子夫妻。
外務大臣宮沢喜一や儀典長内田宏を脅したりしてさんざんの醜態だった。
三木首相も驚いたことだろう。
昭和天皇がしっかりしてらっしゃるからいいようなものの、さもなければ大変面倒なことになるところだった。
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『入江相政日記』侍従長

1977年4月4日
三笠宮邸へ。
三笠宮百合子妃と、昭和天皇と高松宮との御間柄についてお話し合う。

1977年10月8日
秩父宮勢津子妃から御電話。
三笠宮寛仁親王が本を出し、例の対談『皇族団欒』も載せると。
絶対に不可と言う。

1977年10月9日
三笠宮寛仁親王から電話。
「伯母さん〔秩父宮妃〕から伺ったが、承知なさった高松宮に取り止めると言ったら妙にお思いになるだろう」とのこと。
「そんなこと問題にならない。もしこれが出た時のと比べれば、皇室としての損害は比較にならない」と言ったら、
「やめます」とのこと。
まあよかった。

1977年10月11日
昭和天皇に三笠宮寛仁親王の一件を話す。
予の処置にまったく同意。
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『入江相政日記』侍従長

1979年5月30日
小川宮務課長来室。
三笠宮寛仁親王が札幌から電話で、「帰京後宮内庁病院に入るから準備しろ」と言ったとのこと。
「それは診察を受けてからにすべき」ことを言い、
西野侍医長に、「これ以上評判を落としてはいけないから引き受けるな」と言う。

1979年6月5日
三笠宮百合子妃から三笠宮寛仁親王のこと。
真相を聞かせろとのこと。
侍従職に反対があるとはどういうことという話。
宮内庁病院・皇宮警察の甚だしい不評を告げる。
結局それを【しゃくい】上げておやめ願ったと言う。

1979年9月24日
明日三笠宮崇仁親王御参内につき、昭和天皇は「ナポレオンはあんなに素晴らしかったのが、なぜセントヘレナに流されそこで死ななければならなかったのか、それを例にして三笠宮寛仁親王のことを言ってはどうか」との仰せ。

1979年9月26日
昭和天皇に「三笠宮いかがでございましたか」と伺う。
「三笠宮百合子妃は良子皇后と話していたので聞えなかったかもしれないが、三笠宮には言っておいた」との仰せ。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1979年9月14日
昭和天皇より、三笠宮寛仁親王に関して、竹田宮や山階宮が若年の頃グレた話を御引用。
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『入江相政日記』侍従長

1980年5月21日
三笠宮寛仁親王、納采につき御参内。
少し感じがよくなった。
落ち着かれたか。

1980年6月9日
賜金700万円持って三笠宮邸へ。
〔三笠宮寛仁親王の結婚祝〕
三笠宮百合子妃に渡す。
大変喜んでいらっしゃった。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1980年6月13日
三笠宮寛仁親王が御婚約の御礼。
昭和天皇から三笠宮寛仁親王に、「外見だけでなく明治天皇の精神を見習う。テレビなどでウケのよい話などを慎む」の二点。
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『入江相政日記』侍従長

1981年12月13日
文春の三笠宮寛仁親王の放言について新潮より電話。

1981年12月21日
昭和天皇が三笠宮寛仁親王のこといろいろおっしゃっていた。
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『入江相政日記』侍従長

1982年3月4日
昭和天皇が三笠宮寛仁親王IOC委員就任につき強い不信任感をお持ちで、「富田長官によく言ってくれ」との仰せ。

1982年3月5日
富田長官から、三笠宮寛仁親王のIOC問題は消えた由。
昭和天皇も御安心だったそうで、よかった。

1982年4月24日
午前7時前に富田長官から電話。
三笠宮寛仁親王が「皇籍を離脱して宮廷行事から解放されて、身障者関係のことに専念したい」と言い出したとのこと。
手がつけられない。

1982年4月25日
テレビでは三笠宮寛仁親王に同情的なことを言っている。
そんなに皇族というものに重圧がありイヤなら、さっさとおん出てもらいたい。

1982年4月26日
岸田君・大竹君来室。
いずれも三笠宮寛仁親王のこと。
あきれている。

1982年5月13日
三笠宮寛仁親王のこと未解決。
秩父宮・高松宮から三笠宮寛仁親王にサンドイッチと〈お料〉を進ぜられが、〈お料〉は返したとか。
どういう気か。

1982年6月18日
昭和天皇から三笠宮寛仁親王に、「イランは国王一族の乱れが国を亡ぼしたこと、戦後GHQは華族制度を一代に限って認めると言ったのを日本の方から全廃を主張したこと、そういうことをよく考えて行動するよう言ってくれ」との仰せ。

1982年6月19日
高松宮邸へ。
高松宮から「三笠宮寛仁親王にも困った」とのこと、「彼は気が弱い」とのこと。
噂に聞いていた三笠宮寛仁親王が宮内庁はいけないというのとは、ちょっと調子が違う。
戻って富田長官に言っておく。

1982年6月22日
昭和天皇が三笠宮寛仁親王のことをイラン・エチオピア・ロマノフ王朝の例を挙げて御心配になっていた。
本当に困った人である。

1982年6月28日
昭和天皇が三笠宮寛仁親王のことばかりいろいろ仰せになる。
こんなに御心配をかけて本当にくだらない。

1982年8月7日
昭和天皇が「三笠宮寛仁親王は何も音沙汰なし、桂宮はだいぶ落ち着いてきたこと」など仰せになる。

1982年11月1日
明日のエジンバラ公の午餐に三笠宮寛仁親王が出ることにつき、
昭和天皇から「午餐列席前に挨拶に来い。来ないなら午餐には出るなと私が言ったと言っていいから」との仰せ。
小川宮務課長が三笠宮寛仁親王に伝えた結果、「それなら出ない」とのこと。
あきれたもの。

1982年11月12日
三笠宮寛仁親王御参内。
「ごきげんよう」と言ったが、まったく応対なし。
昭和天皇も「まだ普通でない」とおっしゃる。

1982年12月29日
皇族拝賀。
三笠宮寛仁親王は来ず、三笠宮信子妃のみ。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1982年7月9日
入江侍従長・徳川侍従次長から先般の皇族会議の話を聞く。
主題は富田長官追い出しとか、麻生太郎〔三笠宮信子妃の兄〕や田中六助などが動いているとか、まさに昭和天皇の御気持を逆なでするような話。

1982年7月23日〔那須御用邸〕
三笠宮寛仁親王の鳥羽行中止とのこと。
昭和天皇は御安堵の御様子なり。

1982年11月12日
三笠宮寛仁親王が昭和天皇と10分足らずの御対面。
堅い表情でさっさとお帰り。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1982年5月9日
昭和天皇は三笠宮寬仁親王のこと(皇室離脱宣言)で御心痛の御様子で、今朝も靴下をお履きになりながらしばらく考え事でじっとなさっていたり、御食事中も御手をしばらく動かさなかったりなど、考え事が多いように見受けられたとのこと。

1982年11月1日
明日のエジンバラ公午餐に三笠宮寬仁親王が見えることについて、
昭和天皇が「病気(寬仁親王の病気&皇室離脱宣言)の後一度も会っていないのに、午餐の場で急に会うのはよくない。事前に会うようにするとか考えるように」とのことで、入江侍従長は富田宮内庁長官と相談してなんとかするということだったが、結局御不参ということになるという。

1982年11月2日
エジンバラ公午餐。
三笠宮寬仁親王は結局、「それなら出席しない」ということになった。
今後の行事のこともあり、いつまでも未解決では済まされまい。
富田宮内庁長官などもっと早くあらかじめ解決しておくべきものであったろう。
寬仁親王の方ではもう解決しているとお考えになっているらしいが、三分の理はあろう。
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『入江相政日記』侍従長

1983年6月3日
昭和天皇から、徳仁皇太子御留学につき、秩父宮の留学・三笠宮寛仁親王の留学がうまく行かなかったこと、久邇宮との複雑な因縁をなかなかわかってくれないとか、徳仁皇太子が帰るまでの二年間生きていられるかなど、クヨクヨしたことをクドクドとおおせになる。

1983年12月13日
昭和天皇が中川融〔徳仁皇太子オックスフォード留学の主席随員・元国連大使〕に、
「秩父宮も三笠宮寛仁親王もオックスフォード留学は失敗だったが、徳仁皇太子の時はそんなことがないように」と仰せになったことにつき、
中川さんが「三笠宮寛仁親王のことは十分わかるが、秩父宮のはどういう御意味か」と言っていた由。
三笠宮寛仁親王は駐英大使平原毅に手紙を出して、徳仁皇太子がいろいろな人にお会いになるよう、それを大使館が妨げると言われたことも聞く。

1983年12月28日
昭和天皇が「秩父宮のオックスフォードの教育は失敗だった」と仰せの件伺う。
つまり不十分だったのと、秩父宮の性質によるが、参謀総長閑院宮載仁親王をダラ幹と言い、当時の軍の勢いに乗ったことなど、との仰せだった。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1983年1月3日
高松宮御誕生日につき、昭和両陛下と御談話室で御対面。
例年30分くらいのところ今年は大変長い。
昨夏以来ヘルペスで公式行事には御不参の美智子妃のこと、(皇室離脱宣言をした)三笠宮寛仁親王のことなどがあったからか。

1983年2月1日
昭和天皇より「三笠宮寛仁親王はイギリスのことについては自分が一番よく知っていると思い上がっている。一昨日吹上に見えた時に『徳仁皇太子のオックスフォード御留学について誰が決めたのか』と言っていた。富田宮内庁長官と入江侍従長に伝えておくように」と。

1983年2月2日
昭和天皇より「三笠宮寛仁親王は徳仁皇太子の留学の新聞記事を読んで話していたが、あれは正式に閣議了解で決まったものではないと思うが、寛仁親王は新聞を信用しすぎる。富田宮内庁長官と入江侍従長にさらに追加して伝えておくように」と。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1984年5月9日
三笠宮寛仁親王・桂宮、特に最近は桂宮の行状が定まらず、先日のカタール晩餐に出席するとしながら欠席になったり、昭和天皇も大変気になさっている。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1985年2月19日
昭和天皇より、三笠宮寛仁親王の将来についてのお考え承る。

1985年4月15日
宮務課長小松博より、桂宮NHK退職の件。
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『入江相政日記』侍従長

1985年9月13日
連翠の間、皇族方だけ。
三笠宮寛仁親王は御辞儀してもぜんぜん応えず、依然喧嘩腰。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1986年7月4日
侍従田中直より、三笠宮寛仁親王の御旅行届につき物言いありと。
侍医伊東貞三より、肝炎のこと聞く。
主治医から三笠宮寛仁親王の容体と見解など事情を聞いた上、昭和天皇に御了承得る。

1986年7月11日
宮務課長小松博より、三笠宮寛仁親王の退院予定のこと聞く。

1986年9月3日
三笠宮寛仁親王、酒で入院の由。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1987年5月20日
宮務課長小松博から、三笠宮寛仁親王が3月~4月入院の件。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1992年10月20日
美智子皇后、御誕生日。
三笠宮寛仁親王より樋口侍従に、
「皇族の祝賀の際、平成両陛下というのはいかがなものか。美智子皇后お一人が良いのでは?」とのお尋ねがあり、それについての我々の意見を聞きたいとのことでいろいろ話した。
我々の意見では御一人が良いと思うが、何事もできるだけお揃いでというのが平成流だから、いずれにしても宮内職員手塚英臣にお尋ねのあったことを伝え、その意見・説明をお答えするのがよいと話した。
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三笠宮寬仁親王 2005年9月30日

世間では「女帝問題」がかまびすしいので、私の意見を「トモさんの独り言」として聞いていただきます。
論点は2つです。
1つは2665年間世界に類を見ない我が国固有の歴史と伝統を、平成の御代でいとも簡単に変更して良いのかどうかです。
万世一系125代の天子様の皇統が貴重な理由は、神話の時代の初代神武天皇から連綿として一度の例外もなく男系で今上陛下まで続いてきているという厳然たる事実です。
生物学的に言うと、神武天皇のY遺伝子が継続して現在の皇室全員に繋がっているということでもあります。
古代より国民が万世一系の天子様の存在を大切にしてきてくれた伝統があるがゆえに、現在でも大多数の人々が天子様を明快な形で敬ってくださっているのだと思います。

歴史上8名10代の女帝がおられましたが、全員在世中は独身または未亡人でいらして、配偶者を求めておられませんでしたので、男系が守られ女系には至っていないわけです。
2つ目は現在このままでは確かに男子はいなくなりますが、皇室典範改正をして歴史上現実にあったいくつかの方法をまず取り上げてみることだとおもいます。
順不同で、
①臣籍降下された元皇族の皇籍復帰。
②現在の女性皇族に男系元皇族から養子に取ることができるおうに定め、その方に皇位継承権を与える。
(差し当たり、内廷皇族と直宮のみに留める)
③元皇族に廃絶になった宮家(例:秩父宮・高松宮)の祭祀を継承していただき、再興する。
(将来の常陸宮家・三笠宮家もこの範疇に入る)
以上のような様々な方法を駆使してみることが先決だと思います。
④として昔のように側室を置くという手もあります。
私は大賛成ですが、国内外ともに今の世相からは少々難しいかと思います。
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三笠宮寬仁親王 日本会議機関紙『日本の息吹』2006年1月19日

「皇室典範問題は歴史の一大事である~女系天皇導入を憂慮する私の真意~」

もしもこの平成の御世で歴史を変える覚悟を日本国民が持つならば、慎重の上にも慎重なる審議のうえ行っていただきたい。
失礼な言い方ですが、郵政民営化や財政改革などといった政治問題をはるかに超えた重要な問題だと思っています。
現在は「今は遠慮なくみなさんの前でも発言するべし」と思っていますが、ひとたび法案が国会にかかってしまえば、皇族は政治的発言を封じられてしまっているわけですから、もう私は何も話せません。

これは絶対にありえないと私は思いますが、いろいろな人に聞くと「これは平成天皇の御意思である」と言っている人がいるそうですね。
私は平成天皇と直接お話はしていませんが、平成天皇の御立場で「ああせよ、こうせよ」とおっしゃるわけがない。
平成天皇がおっしゃるとすれば、このまま行けば先細ってしまうわけですから、平成の御代のうちに皇室典範をきんとしておいてほしいということを宮内庁長官などに発言されたであるろうことは想像に難くないと思います。
ただし、具体的に女系だとか長子優先だとかおっしゃるわけがないということは、声を大にして言っておきたいですね。
平成天皇はそういう細かな点を指示なさるような御性格ではないということを、私はよくわかっていますから、まったく心配していません。

本当は私が発言するより皇族の長老である父〔三笠宮崇仁親王〕に口火を切ってもらいたかったわけです。母〔三笠宮百合子妃〕の話では、父は宮内庁次長を呼んであまりにも拙速な動きについてクレームをつけているということでした。
「それは結構なことだ。もっとドンドンやってほしい」と思いました。
オフクロに「女帝・女系になったら大変なことになることわかってるの?」と聞いたら、
「もちろん大変なことだ」と言っていました。
その後父が「いいことを言ってくれたね」と言って、『八人の女帝』という単行本を持ってきて「読んでおいてほしい」と持ってきました。
それから父は『文芸春秋』に工藤美代子さんがお書きになった論文を、「私の意見はこれと同じである」と言って、私の娘の分までコピーして持ってきてくれました。
ですから、三笠宮一族は同じ考えであると言えると思います。

やはり万世一系125代・2666年なぜ続いてきたのかは、時には和気清麻呂のような人が出たりして、神武天皇の御血筋が男系によって保たれてきた。
今も我が国では家を継ぐのは男子が普通だと思いますが、皇室は日本人の宗家のようなものと考えれば、男系男子にこだわったのも頷けます。
余談ですが、瑶子が剣道三段で学生連盟の代表として独仏に遠征することが決まって、出発の日に父は「神武以来の画期的なことだ」と言いました。
このように神武天皇の末裔であるということが、意識の中に常にあるのです。

竹田恒泰君のお父さん竹田恒和さんは私より1歳年下で、子供の頃から親しくしています。
恒泰君はよく勉強しています。
継体天皇・後花園天皇・光格天皇という方々が10親等遠いところから婿にお入りになってことを正確に教えてくれたのも彼でした。
私がこのごろよくいろいろなところで発言していることは、我々皇族というのは究極的には存在していることに価値がある。
それは「血のスペア」だからだということです。
突き詰めて考えれば、皇統を絶やさないための血のスペアとして存在している。
そういった意味では、彼が「元皇族はみな覚悟をしておいた方がいい」ということを書いたことは、彼の真剣な発想なんだと思います。
実際その御立場にいらっしゃる元皇族側からメディア・国民に向かって発言することは、御立場上とてもやりにくいでしょう。
どの方が当事者になるのかわからないわけですから。

皇族と国民との関係は、皇族にとってはすべて受動態なんですね。
それは太古の昔から、国民がこれをしてほしいと言った時に初めて出て行くということです。
今は皇族の数が少なくなってきているのに比して、国民の要望はどんどん大きくなっている。
ですから私たちは平成天皇や徳仁皇太子をお支えする役目を担っているのです。
そういう意味では仕事が多くなってしまうことは事実ですね。
靖国神社の宮司松平永芳さんは、私のとても大切なブレーンでした。
彼は一昔前の皇室というものをよく知っておられた。
当時は宮内省の役人の中に歴代の殿様など錚々たる人物がたくさんいて、麗しい君臣の関係がありました。
古き良き時代の宮様方と家来たちの協力の仕方というものについて、私は松平さんからさかんに吸収するのに努めていました。
靖国神社がどうあるべきかというようなことも含めて、彼とは本当によく話し合ったものです。
松平春嶽の孫だけのことはありましたね。

かつて8人10代いらした女帝というものがどういう存在であったとか、臣籍降下なさっていた宇多天皇がお戻りになって即位されたとか、継体天皇・後花園天皇・光格天皇とう三天皇様がとても遠い傍系から婿となって入られたという歴史的先例を、国民一人一人が把握しているとはとても思えません。
女帝と女系の違いもわかってないような方々が多い。
「国民の70パーセントが女帝に賛成している」というような世論調査の結果は、まだ正しい情報が行き渡っていないからではないでしょうか。
そういう意味でこの記事はできるだけ広く読まれてほしいし、日本会議のメンバーのみなさん方が真剣に考えてくださって、本当の世論を形成していただきたい。
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三笠宮寛仁親王 2008年

昭和の御代は御大将の座に昭和天皇がどっしり座っておられ大番頭が高松宮で、高松伯父様を補佐する方々が秩父宮妃・高松宮妃・ウチの両親。
平成天皇御夫妻に、将来の大番頭は常陸宮御夫妻と充実しきった陣容でした。
皇孫も御健康でいらしたし、我々若衆がどんな悪さをしても皇室はビクともしないという感じでしたから、私は心配なしに思い切った行動ができました。
平成の御代は誰が言い出したのかわかりませんが、「開かれた皇室」などというありえないラベルを貼られてしまって、メディアを通したパフォーマンスが目に余ります。
したがって私は思い切った行動でなしに、メディアに出ることなく自分の仕事を地道に継続するというふうに舵を切りました。

許せないのは「ミッチーブーム」以来、皇族妃をタレント扱いして週刊誌のグラビア等で女優やモデルの写真と並立に載せることが常識になったことですね。
現在は平成天皇御一家や秋篠宮家をタレントのごとく扱う記事やニュースが頻繁に出てきて芸能人のごとしです。
開かれた皇室というのは日本語としてもおかしいし、我が国の皇室にはなじまない言葉ですね。
いまこそ思い切って閉じてみたらどうでしょう。
そして皇室サイドとマスメディアを含む国民サイド双方が、お出ましの機会をどうすべきか検討すべきですよ。

昭和天皇までは東宮御学問所がありましたが、平成天皇は普通に学習院で学ばれたはずです。
徳仁皇太子はまったく私と同じ教育をお受けになっています。
みな「帝王学」などと大騒ぎしますが、特別な学問として存在はしていませんよ。
私はいわゆる本物の「帝王学」というのは、昭和天皇で終わってしまったと思っています。
物心つかれた時には御自分の立場が人と違うということがすでにおわかりになっていたはずですし、教授陣も周囲の大人たちもそのつもりで接したはずですから、見事に公正無死な御人格が形勢されたのだと思います。
平成天皇からは時代が様変わりしてしまいましたし、いわゆる「帝王学」というカテゴリーはなくなったと言ってもいいでしょう。
一昨年秋篠宮家に悠仁親王がお生まれになりました。
悠仁親王は天皇になられるだとしたらではなく、天皇になられるのです。
徳仁皇太子からは昔風の帝王学はなくなってしまっていますから、悠仁親王から突然復活するというのは無理でしょう。
我々のような環境にいれば、嫌でも周囲がそういう目で見ますし、家来衆もそのつもりでお務めしますし、御本人もある年齢から当然意識して生活をなさることになります。
積極的にあらゆる分野の人々の御進講を受けられ、できるだけ御視察なさるという形を取れば、21世紀の帝王学は十分身についてこられるでしょう。

徳仁皇太子は御自身の御生活態度は御立派ですが、マイホーム主義が過ぎていると思います。
御家族のことを発言されたり公表なさるのではなく、もっと国民のことを常に心にかけられた発言をしていただかないと、将来の日本の御大将として「帝王学」はどうなっているのだろうということになります。
東宮御所には一昔前までは徳仁皇太子のお小さい時からお側にいた曽我侍従という人がいて、私は徳仁皇太子へのお願い事はこの人にしてうまく行っていましたが、彼の死去以降まったく風通しが悪く、雅子妃の本当の御容態はわかりません。
徳仁皇太子の「人格否定発言」がありましたよね。
あのとき僕は徳仁皇太子の苦しい胸のうちを思い、長い手紙を書いたんです。
「本当に雅子妃の人格を否定するようなことがあったのなら、その時どうして周囲に相談なさらなかったのか。解決に向けて今後どうして行くおつもりなのか。『人格否定がありました』と言いっ放しではなく、現状を変える方法を探しましょう。妃殿下のことでお悩みを抱えておられるのなら、私も同じです。一度腹を割ってお話できませんか」といった内容の長い手紙です。
お返事は来たんだけど、儀礼的な短い返事だった。
これにはさすがに落胆しましたねえ。
ああ、気持ちは届かなかったのかと。
徳仁皇太子には子分がいない。
平成天皇には常陸宮もおられるし、ウチの父もまだ生きている。
ところが徳仁皇太子には、「徳仁皇太子のためなら何でもやります」という子分が周囲に一人もいない。
しかも妃殿下は御病気である。
あの御立場にあって孤独であることの苦しみはいかばかりかと考えると、本当に胸が痛みます。

雅子妃は高松宮妃の御葬儀の時、喪主の私を始め伯母様の御親族にも見事に気配りのある御言葉をおかけになりましたし、紀宮の御披露宴の時も元旦でも当り前の会話のやりとりがあります。
直近では赤坂御用地でリハビリのため私が歩いていた時、雅子妃はわざわざ車を降りてこられて話しかけてくださいましたが、普通以上に明るく思いやりにあふれていらっしゃいました。
しかしながら医師本人の口から発言がないので、本当のところはわかりません。
治療の面から言えば、御本人が西洋・東洋・その他あらゆる治療法に好奇心を持たれて挑戦なさるお気持ちがないと成功しません。
私の入退院の時のように、主治医は包み隠さずすべてを発表し、こと細かく説明して国民を安心させるべきです。

女帝を認めるか否かの問題ですが、女帝を認めるという立場に立つと、2669年125代続いてきた万世一系の国体というものを、いつの日かなくすことに結びつきます。
愛子内親王を女帝にできる制度が現実化した時のことをお話します。
愛子様が適齢期になられた時、一般国民の中からしかるべき男性を配偶者にして愛子様に天皇になっていただくということになります。
この場合配偶者のことを外国式にプリンスコンソートにちなんで「皇配陛下」と呼ぶのかもしれませんが、昨日まで普通の名前で呼ばれていた人が突然ある日から「陛下」と言われるのは途方もない違和感があるでしょう。
そしてお二方が子宝に恵まれた時、その方々にも一般人から配偶者を選ぶことになります。
これが延々と続くとなると、愛子様の配偶者・御親族・そのお子様方の配偶者の御親族の祭祀も祀らざるを得ず、万世一系という太い糸がプッツリとキレ、代々の国民の人々が天皇家に対して崇敬の気持ちを持ってきてくれた素晴らしい伝統がガラガラと崩れ去ります。
そしていつの日にか「天皇家の家系も平成までは特別だったけど、今は我々の家系とどこが違うのか」とまちがいなく言い出すでしょう。

秋篠宮家に悠仁親王が御誕生になったとはいえ、男性が少ない情況が変わったわけではありませんから、皇室典範の改正はいずれにせよ必要なことです。
その方法の一つとして、一番まっとうな形として臣籍降下された11宮家の中から現存しておられる御一家に復帰していただくのが一番自然でしょう。
もともと皇族でいらしたわけですし、万世一系に連なっておられる方々ですから。
昔の御名前で戻られるのもよいでしょうし、あるいは秩父宮家・高松宮家のように絶家になってしまった宮家を名乗っていただくという形もあります。
そうしておいて、いま一つは現役皇族とお戻りいただいた皇族の方々との間に養子の制度を認めることです。
お戻りになった皇族男子の中から真子様・佳子様の御主人を選ぶという方法もあるでしょうし、真子様・佳子様がお戻りになった皇族男子の所へ嫁に行かれるという形もあるでしょう。
常陸宮や私が戻られた皇族の中から男子を養子としていただき、両宮の祭祀を続けてもらうこともできることになります。

旧皇族の方々は現役皇族の我々と絶縁しているわけではなく、たびたび宮殿や御所やその他でお目にかかっているのです。
ですから、今日復帰されても違和感はまったくないですよ。
その反対にどれほど古い家柄や名家の方でも、普通の方が突然宮様と呼ばれることになる方が、よほど違和感は大きいでしょうね。
もちろんこういう作業をするためには、全員丸ごと戻すのか、長子御一家のみを戻すのか、いろいろ考えなければなりませんが、必ず良い結論が出ると思っています。
一般から養子を取るというのは、品位と自覚を急に持てということですから、御当人が当惑なさるでしょうし、一朝一夕に身につくことではありませんから、今も伝統・行事・立居ふるまい・言葉遣い・礼儀等々を御存知の旧皇族方が一番適任でしょう。
昔も現在と似たような情況は何度もあって、その度に9親等も10親等も離れた方を探し出してきて皇位に就いていただいた例がいくつもあるのですから。
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