直球和館

2025年

2001/06

◆三笠宮寬仁親王 三笠宮崇仁親王の長男
1946-2012


■妻  麻生信子 麻生太賀吉の娘・兄は総理大臣麻生太郎
1955年生


*1980年11月07日 三笠宮寬仁親王&麻生信子と結婚
*1982年04月   三笠宮寬仁親王が「皇籍離脱発言」する。


●三笠宮彬子女王 1981年生
●三笠宮瑶子女王 1983年生


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三笠宮寬仁親王 2006年1月19日 日本会議機関紙『日本の息吹』
「皇室典範問題は歴史の一大事である~女系天皇導入を憂慮する私の真意~」

もしもこの平成の御世で歴史を変える覚悟を日本国民が持つならば、慎重の上にも慎重なる審議のうえ行っていただきたい。
失礼な言い方ですが、郵政民営化や財政改革などといった政治問題をはるかに超えた重要な問題だと思っています。
これは絶対にありえないと私は思いますが、いろいろな人に聞くと「これは平成陛下の御意思である」と言っている人がいるそうですね。
平成陛下の御立場で、ああせよこうせよとおっしゃるわけがない。
本当は私が発言するより皇族の長老である父〔三笠宮崇仁親王〕に口火を切ってもらいたかったわけです。母〔三笠宮百合子妃〕の話では、父は宮内庁次長を呼んであまりにも拙速な動きについてクレームをつけているということでした。
オフクロに「女帝・女系になったら大変なことになることわかってるの」と聞いたら、「もちろん大変なことだ」と言っていました。
三笠宮一族は同じ考えであると言えると思います。
この記事はできるだけ広く読まれてほしいし、日本会議のメンバーのみなさん方が真剣に考えてくださって、本当の世論を形成していただきたい。
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三笠宮寬仁親王

昭和陛下と私個人との他人を交えない会談というのは生涯で2度あった。
これは私が戦後の若い皇族として生きる上で、戦前・戦中・戦後の激動の時代を体験された先輩皇族の方々から限りなく当時の実情というものを伺っておきたいという気持ちがあったからだ。
折りにふれて秩父伯母様・高松伯父様・高松伯母様にお話を伺っていたわけだが、本家本元の昭和陛下とはそういう機会が皆無であったので、高松宮殿下にお願いをし、何とかなりませんかということになった。
高松伯父様はさっそく動いてくださり、吹上御所の応接間で昭和陛下と私二人だけの会談が実現した。
特に興味をそそられて真剣に伺ったのは、二二六事件と終戦の二つの事柄に関してだった。
昭和陛下は御自身の長い摂政時代から天皇という御立場で一貫して立憲君主という立場を取ってきたという話に関連して、「2度だけ自らの意志によって動いたことがある」と仰せになった。
この両事件は本来昭和陛下を輔弼する責任を持つ重臣たちが、前者の場合にはまったく消息不明であったわけだし、後者の場合は御聖断を仰ぎたいむね言上したわけで、いずれも場合も昭和陛下御自身が御動きにならざるをえない状況に置かれたので、御自身の意志で動かれ発言されたということを淡々と私に語られた。
その時点では、この件についてはマスコミ等を通じて昭和陛下の肉声としては正確には発表されていなかったので、私はかなり興奮したのを覚えている。
この事を見ても、昭和陛下が立憲君主としての常通を絶対に踏みはずされないよう御自身を明確に律しておられたことが明白である。
巷にこの両事件の時の昭和陛下の御態度を評して、ではなぜその他の場合にも同様の態度を取られなかったのか、取られていれば違った方向に行ったのかもしれないという類の議論がある。
しかし昭和陛下の仰ることを素直に伺っている限り、両事件以外はすべて時の政府が決定をし、御裁可くださいと上奏したものばかりだから、昭和陛下御自身の御考が反対であったとしても、拒否権発動は立憲君主という御立場上不可能であるため、好むと好まざるとにかかわらず御裁可されざるをえなかったという事実にぶつかる。
したがってもしその時々の昭和陛下の御考をストレートに出しておられれば、立憲君主としての御立場は放棄なさらなければならず、国体は当然麻のように乱れ、その結果どうなったかは我々には想像もできない。
昭和陛下は純情なまでに我国の天皇の置かれている立場を認識され、それに真正直に当たろうと努力をされ続けた人生を全うされた方だと言えよう。
繰り返すが、両事件の時のみ国家の正規の機能がまったく働かず、昭和陛下の御自身の御意見以外解決の道がなかったという例外中の例外であったため、昭和陛下は御自身の御意見をおっしゃった。
そしてそのおかげで、今の我国の繁栄があるのは議論の余地がない。
このことは私におっしゃった会談から数年後に、御自身の御口から記者会見の席で発言されたので、私個人の機密として秘匿する必要がなくなってしまったわけである。

昭和陛下をただ一言で表せと言われれば、「偉大な方であった」としか申し上げようがないのが正直な感想である。
もう一つ私がよく使用した言葉は「逆立ちしても勝てない方」
いずれにせよ我々がいかなる努力を払ってみても、昭和陛下のレベルに達することはできなかった。
驚嘆すべきは公平無私でいらしたということであろう。
たびたびマスコミに取り上げられた事柄に、大相撲の贔屓力士の件がある。
私は昭和陛下に御贔屓の力士がいなかったなどとは絶対に信じられない。
国技館に行幸になった時の身ぶり手ぶりで、ある程度御贔屓力士と推測できる御動作があったとも聞く。
しかし、終生力士名を口にされることはなかった。
もし昭和陛下がお好きな力士名を口にされたら本人は光栄この上もないかもしれないが、他の大勢の力士たちの気持ちを推しはかられて、一国の象徴たる御立場上に口に出されず、全力士に均等に温かい声援を送られたのであろう。
通常の人間にはこういった類の発想と行動は全くできる筋合いのものではあるまい。
私などもいろいろな団体を統括する立場にいるが、どうしても好き嫌いが出がちである。
私自身口では実力を考えて適材適所に配置していると言うけれど、この発言と好き嫌いの感情は紙一重であり、ギリギリのタイトロープをしていると言った方が正しいかもしれない。
昭和陛下は特定の一部の人々からの意見をお取り上げになるということは皆無であり、国際政治の分野ならその分野のしかるべき立場を任されている人の意見を聴取され、他の分野であっても同じことを常に心がけておられたから偏るということがなかった。
身内についても同じことが言える。
全校族と全方位外交なさっていたといえる。
特定の皇族の言だけを信用されて、その他の皇族の話に耳を傾けないという御態度は一回もなかったと記憶している。

こういう風に書くと、昭和陛下は物語に出てくる聖人君子のように完全無欠の聖者のように聞こえるかもしれず、冷たいクールな面白くもなんともない人間像に結びつくかもしれない。
だが、まったくそうではなかったところが昭和陛下の昭和陛下たる所以であったと思う。
何を発言されていなくても対面している人にじかに伝わってくる昭和陛下の温かい御人柄が相手を常にリラックスさせる御人徳がおありになった。
常に自然体であられたということが私にはとてつもなく偉大なことと思える。
演技する・見栄をはる・意識するといったふうなことがゼロでいらっしゃったから、いかなる人々をも国内外を問わず自然に懐に入れておしまいになる駘蕩とした大きさをいつも感じていた。
園遊会では式部官長が主要な人々を簡単にご紹介する。
それを受けて昭和陛下は御言葉をおかけになるのだが、その個々人に的確な質問を毎度毎度なされる能力にはただ驚くのみである。
ある年の園遊会で私の義母麻生和子が御招待を受けた。
昭和陛下が発せられた御言葉は「信子さんはよくやっているよ!」だった。
義母が何よりも大事にしている皇室、すなわち長い年月に渡って吉田茂の娘として、また麻生家の妻として皇室に良かれと念じ続けている人物が、よりにもよって末の娘信子を皇室に嫁がせる運命に遭遇してしまい、それまで外側から強力に各宮殿下方をサポートしていた人間が内側に入らざるをえなくなってしまった。
結婚に至るまで私が7年間も反対のために待たされたのを見ても、義母にとっては心配中の心配事だったわけである。
そういう気持ちを持ち続けている人間に対して、昭和陛下はスパッと娘のがんばりを何の演技演出もなくサラリとおっしゃってくださった。
ただで〈臣茂〉の最愛の娘である上、土壌がある人だからたちまち感動の極致に至り、真っ当なお答えの言葉がとっさに出てこなくなり涙があふれたらしい。

私が青少年育成指導者と青少年グループの代表者たちとの懇談を国内で2年間にわたって続けていた時に、何かの集まりで高松宮御殿に伺い、
宴半ばに高松伯父様から「そろそろ若い者たちが昭和陛下とお話をしろ」と御命令が下った。
席についてすぐ昭和陛下から「青少年育成の仕事はどうなっているか?」という御下問があったので、各地で体験した青少年問題の実情をつぶさにご説明した。
実に的を得た御下問が飛び出してくるので、お答えする方も嬉しくなってしまい、思うところを洗いざらい返答申し上げた。

昭和陛下の我々甥・姪への御接しのなさり方は、子供の頃の思い出としてはそれほど強く印象に残るものはない。
しかし、昭和皇后の私への接し方は見事なものであった。
特に印象深いのは小さな子供に時間の許す限りつき合ってくださるというところにあった。
昭和皇后は実に子供の扱いが御上手であった。
御子様を何人も御育てになったから当然でしょうということも言えるが、実によく私たちの話を聞いてくださる、いわゆる聞き上手でいらした。
私が子供の頃いささか戸惑ったのは、年配の皇族・旧皇族様方がものすごいスピードで多くの方々とお話をなさることであった。
私が何かを話しかけられ子供心に緊張し、なんとかまともな返答と考えているうちに、それじゃまたねという風に次に移られているというパターンで、当時はなんとセカセカした方々だろうと思っていた。
私が大人になりイギリス留学をし社交術をマスターする時代が来ると同時に、また主役として決められた時間帯の中で多くの人々に次から次へと話をしていかなければならない場面に直面するようになって、なるほどこの方法を使わなければ全員と公平に話し合うことは不可能なのだと気づくことになる。
だが、昭和皇后は子供の頃からじっくりと私の話を聞いてくださったという記憶が強い。
これは大人になっても、御側に座るとゆったりと時間をかけてお話するという形でずっと続いた。
「学校は楽しいのか?」に始まって、「何を習っているのか?」「友達とはどんな遊びをするのか?」などなど、子供が答えやすいように次々に的確な質問を出してくださるので、私の方は甘えておしゃべりが続くということが多かった。
大人も子供も変わりなくうれしいのは、誰かと話しているとき相手が真剣に聞いてくれることであろう。
子供の頃の昭和皇后のしっかり聞いてくださるというのはうれしいことだった。

昭和皇后の思い出にはもう一つ強い印象がある。
私が留学する前にお別れの ご挨拶に伺った折、玄関でご挨拶を済ませ戻ろうとした。
それは御風邪を召されたか何かで御伏せりになっていることを事前に知っていたためだが、侍従に中に入るよううながされ、御寝所の方に来るようにとのことである。
大変なことになったわいと緊張して、おそるおそる御寝所に伺った。
両陛下をはじめ各皇族様方にお目にかかる時はその時の内容によって口上が違うし、母のようにプロでないから、我々は何度も母に口上を教えてもらい丸暗記して参上するのが常だから、状況が違ってしまったらいったい何を言っていいのか皆目わからなくなってしまうのである。
昭和皇后は御床につかれてはいたが座っておられ、ニコニコと私のしどろもどろの口上を御聞になった。
私としては御伏せりの状態であるから早く退散すべきであろうとの考えが頭の中をいっぱいにふさいでいたのだが、昭和皇后は悠揚迫らず穏やかに御話を御続になるので、結構長い間そこにいるハメになってしまった。
頃合を見計らって「御身体に触られますといけませんから」というようなことを私が申し上げて退出しようとしたら、戦後初めての皇族の単独留学を心配してくださったのだろう、「十分に身体に気をつけて、皇族として国際的視野を広め立派に務めを果たしてきてほしい」とおっしゃった。
戦後初の皇族単独留学第一号モルモットであった私は気負いもあったし、「仰せの御言葉通りがんばってまいります」と申し上げた。
当時の留学生の気持ちというのは昨今のようにパックツアーなど皆無の時であったから、少々オーバーに言えば水杯をしてという雰囲気があった。
戦後初めての試みであるから、本人も周囲の人々も受け入れてくれるイギリス側も、本当にどう転がっていくのか暗中模索の時代であり、私の行為一つ一つが前例になるといった頃だから、当方の覚悟もかなりのものだった。
そんな雰囲気の中で昭和皇后がくだされた安心感というのは大きなものであった。
昭和陛下が威厳を御持の上での御人柄からくる温かさを感じる方だとすると、昭和皇后は常に昭和陛下を常に御立てになりながら、一歩下がって笑みを絶やさない、お優しい、まさに国母陛下とお呼びするにふさわしい大きな方である。

結婚のとき私が一番何を気にし心配したかと言うと、式そのものでも御告文を読むことでも朝見の儀で両陛下にお礼の言葉と今後の抱負を述べることでもなく、ただひたすら束帯を着用することであった。
儀式前の潔斎を済ませたら不浄なことはできないし、非常事態が発生しても束帯を着てしまったら最後、お手洗いに行けない構造になっているからである。
妃が着る十二単ももちろんである。
私は常日頃ヘビースモーカーのせいだと思うが、喉がいがらっぽいなってやたらと飲み物を多くとる。
したがってお手洗いに行く回数もそれなりに増えるのは当り前である。
必然的に仕事先であれどこであれ、まずお手洗いの場所確認が重要な仕事の一つになる。
こういう人間だから、結婚式の1ヶ月前からほぼ完璧と思える体調維持作戦を開始した。
浴びるほど飲んでいたアルコールはきっぱりやめて、1日おきにトレーニングをこなし、三度三度の食事をきっちり取って、眠る時間も十分にという風に普通の人には当り前のことでも、私にとっては暴飲暴食による不摂生のうえ超多忙というのがノーマルライフだったから、想像を絶する豹変ぶりであった。
それもこれも束帯を着た時に体調が崩れることを心配したからに他ならない。
私は生来胃腸が弱いところに持ってきて神経性の胃炎や下痢をすぐ起こす癖があるので、この時ばかりは一生に一度のことであるから一大決心をして摂生に努めた。
結果論からしてこの作戦は見事に功を奏し、6時間あまりの長丁場をお手洗いなしで済ますことができた。
後日私が昭和陛下に何気なく「結婚式の束帯にはすっかり参りました。日頃水分を多量にとる癖がついておりますので、前日の昼から水分は一滴も口にいたしませんでしたし、1ヶ月前から体調整えるなど大変でございました」と申し上げ、「私などに比べると昭和陛下が御束帯を御召になる回数は年間を通じて大変な量でいらっしゃるから、さぞや御苦労の多いことでございましょう」と伺ったところ、
昭和陛下はいとも簡単に「私はふだん水分をあまりとらないから、そんなに苦労なことではないよ」とおっしゃった。
側近が昭和陛下が御小さい時に「必要以上に飲食はなさいませぬように」とお教えしたのか?
はたまたそれらの上に物心つかれた昭和陛下が、意識的に腹八分目ということを心がけておられ、飲み物についても同様なことを実践なさっておられるのか、私にはよくわからない。
我が身と比べてしまうと、よくぞそこまで御自身の御身体をコントロールおできになりますねと申し上げたくなる。
私が無分別な生活になりやすいのは、国民とじかに付き合っているため、そのペースに合せてきたからということも言えよう。
例えば酒の飲み方も私の学生時代には無茶苦茶な先輩がたくさんいて、飲み方も自分の適量もわからない我々に無理やり飲ませて、気分が悪くなれば「吐いてこい!」で、戻って来れば「さあ、もう一丁!」ということが日常茶飯事であった。
我々もたまらんとは思いつつ、これが運動部のしごき方の一つと思っていたから、当然のこととして受け止めこれの繰り返しで今に至った。
途中から本物の酒豪になったのは言うまでもない。
二日酔いはザラになり、往々にして脱水症状で目が覚めるから、なんらかの水分を多量に体内に入れ、夜になればまた飲み始めることになるし、予定のない時は迎え酒ということにもなる。
結局のところ、度を越してしまうという当然の結果を迎える。
すべてが昭和陛下の逆を行っている感じである。
聖人と極道と言ってしまえばそれまでだが、極道風生き方をしていれば束帯の6時間はつらく、昭和陛下のように不摂生をなさらなければ、我々が思うほど苦痛を御感じにならないと言えるかもしれない。
昭和陛下のお育ちになった環境と御自分の御努力が、昭和陛下という方を作り上げたわけであろう。
昭和陛下の方から御覧になれ、「寛仁、何をそんなに深刻に考えておるのか?」というごく自然な御言葉が聞こえてきそうである。

マスコミ報道の皇族の公私の別については、様々な意見がある。
公人なのだからプライバシーはないという人もいるし、個人であっても公私の別は区別されるべきだという人もいる。
私は後者の頑固な信奉者である。
なぜならば私の日常生活にはほとんどプライバシーが無きに等しいからである。
私の家庭内のことはプライベートに属することであり、それを公にする必要性は少しもなく、私の父親像とか妻の母親像はそれらを知っている身近な人々の伝聞でごく自然にもれて知られていく程度で結構である。
両陛下は我国の歴史的伝統の上に厳然としてある象徴としての御立場で行動されるわけだから、マスコミはその正しい部分を正確に報道してもらいたいし、国民の側も必要以上に興味本位にならないで自然体で見守ってほしいと思う。
御生前の昭和陛下に「昭和陛下のお好きな時にふらりとデパートに買い物に行かれるというようなことがおできになれば、とても素晴らしいことと思いますが」と申し上げたことがある。
昭和陛下は「考えたことがあるが、いまの状勢では私がそれをやればデパートの人々が大騒ぎになり、護衛の皆もそれなりに動かなければならない・何よりそのとき買い物に来ていた多くの人々が規制されたりして大きな迷惑を多方面にかけることになるだろうから、私はやらない」という御趣旨を伺ったことがある。
大正天皇が御元気な頃は、ワインをぶら下げて御近しい宮邸においでになったとか、御用邸御滞在中は自転車に乗って一人か二人の側衛官を遠くに従えて散策されたという話を聞いていたので、この手のリラックスムードが我国にもあればいいなと感じたわけである。
しかしこの雰囲気が醸し出されるには、国民サイドの最大級の協力がなければ実現するまい。
高松宮殿下が御生前 口を酸っぱくして言っておられたことに、皇室はいにしえの昔から国民に守られてきたという御言葉がある。
我国の政体には色々な種類のものがあったが、どれ一つとして天子様を根絶やしにしようとした人はなかったわけである
ここに我国の天皇制と国民の間にある、他国の王室とはどうしても比較できない伝統的つながりを見ることができる。
高松伯父様は「京都御所を見てごらん。どこからも侵入できるし防護の策など施していないのに、長い年月決して何者にも犯されずにいるではないか」ともおっしゃっていた。
平成元年の大喪の礼がかくも盛大にかつ厳粛に執り行われ、世界史上空前の164カ国28国際機関からの国賓や代表の参列も得て、国の行事として挙行されたことは、昭和陛下の御遺徳の大きさを如実に物語るものであった。
そして表に見えなかった部分での警察をはじめとする無数の関係者の崩御から当日に至るまでの昼夜を分かたぬ苦労の数々や、過剰警備と感じた人もたくさんいたとは思うが水も漏らさの完璧なまでの準備対策に国民のほとんどの人々が、先帝崩御の悲しみを胸に秘めつつ一致協力して御大喪の成功に真に寄与してくれた。
この事実を思い返す時、偉大なる昭和陛下とその昭和陛下を心からお慕いした国民が、最後のお見送りの時まで万遺漏なきようお守り申し上げた姿こそが、我国の伝統に培われた天皇と国民の強い絆を無言のうちに見事なまでに表現したものであり、高松宮殿下の御言葉にピッタリと合致する我国独特の素晴らしさであったとつくづく思う。

平成の御代になり、今まで以上にマスコミから新しい皇室像は何かとか、開かれた皇室はどうあるべきかというような質問を受ける。
根本的な部分での皇室は2600年以上の伝統に則って存在してきたわけだから変化することはない。
一般的な考えとして、終戦までの神格化された天皇が戦後象徴として人間天皇になられたとか、昭和御世から平成の御代に変わったのだから何かが変化するのではないかという素朴な気持ちがあるのは理解できないわけではない。
だが本質的なものは皇室においては太古の昔から何も変わっていないと言えよう。
昭和天皇が御生前あるときの記者会見で「戦前も戦後も変わったと思わない」という意味の発言をされたが、皇室の本来の存在姿勢や今後のあるべき姿勢という風なことはまさに昭和陛下の仰ったとおりであり、変える必要性もないし変わってもいなかったと言える。
近代皇室像のあり方は昭和天皇神が身をもって御示しになった原則が厳然として存在するので、そのことが変化するとは思えない。
昭和陛下は神道という宗教という枠ではとらわれない神の道の祭主として神事を大事にされてきたこと。
常に世界の平和を心の底から願っておられた人生であったこと。
国民の真の福祉をいつも念頭に置かれて活動されたこと。
全人生において公平無私を貫かれたこと。
数え上げればきりがないが、ここに取り出したいくつかはその中でも重要な部分であると思う。
したがって、御世代りがあったといってこれらのものが変化するとは思えない。
昭和陛下には御公務というものがある。
この御公務の中には国事行為や宮中儀式や皇室外交や地方御巡幸などいろんな種類があり、昭和天皇の場合プライベートな部分の生物学御研究などを含めてほどよく国民の前にそれらが示されてきたので、国民はその時々の昭和陛下の御姿を拝し、昭和陛下のなさっている活動をかなり的確に把握できていたと思う。
国民にじかに触れる場として園遊会や宮中晩餐や記者会見もあったから、昭和陛下の御考や御人柄に触れるチャンスはいくつもあった。
そして皇室は天皇陛下を頂点としたピラミッド型の組織であるから、直系の内廷皇族のなさる分野、斜辺を形成する内廷外皇族の分野とうまく分割ができており、皆様方がオーバーラップする部分と専門フィールド互いに持ち合ってうまく作動してきたと言えよう。
いま昭和天皇という偉大なる巨星を失い高松宮殿下という皇室の屋台骨を支えておられた大番頭とを失って、正直なところ皆様方もいささか途方に暮れておられると思う。
これから新両陛下を、皇太子をはじめとする始めする全皇族がお助けして、平成の御世の正しい舵取りに立ち向かわなければならない正念場であると思う。
ちまたには明治天皇や終戦までの昭和天皇は強大な力を持ちになっていたという風な言い方があるが、平成両陛下ともに周りに重臣たちがおり、その時々の政府の決定を好むと好まざるとにかかわらず御裁可されていたという事実だけで、それをも覆すような権力は一握りも御持ちになっていなかった。
我国の世界にもまれな万世一系の天皇制というものは、立憲君主制とか象徴天皇という言葉が出現していないいにしえの時代から今に至るまで、自然な形での立憲君主制であり象徴天皇であられた。
我国の歴史には院政と呼ばれたものもあり、公家政治もあり、武家政治・軍人政治・政党政治などなど各種の政体があったが、どの政体の時にも天皇おられ、誰も天皇の象徴としての御立場を覆そうとはしなかった。
また逆に言えば、権力を御持ちになったように見える天皇もいらっしゃったが、実際は時のナンバー2である最高責任者が国を動かしていたから、類稀なるバランスがとれた国体というものが存続した。
ここのところが他国の王室と本質的に違うところであろう。
天皇制を振り子と同一視するのは畏れ多いが、私は振り子の中心が天皇であると思う。
振り子の玉の方は右に行ったり左に行ったり真ん中にいたりするし、ある時は360度回ってしまう時もある。
しかしどの時もその中心は変わらないわけだから、振り子そのものが吹き飛んでどこかに行ってしまうということがない。
我国の天皇制とその時々の国民とのあり方をビデオで見直すということが不可能であるので断言はできないが、いにしえの昔から我国民は権力と権威を上手に分離し各々の担当者を自然に決めてきたために、戦争をはじめとする大事件は無数にあるわけだが、我々は未だかつて分裂も分断も植民地化もなく極めて健全に機能してきたのだと思う。
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◆三笠宮崇仁親王 123代大正天皇の四男 澄宮崇仁親王
1915年生


■妻  高木百合子 高木正得子爵の娘
1923年生


●三笠宮寬仁親王  2代当主 麻生太賀吉の娘麻生信子と結婚・兄は総理大臣麻生太郎
●三笠宮宜仁親王  桂宮
●三笠宮憲仁親王  高円宮  三井物産社長鳥取滋治郎の娘鳥取久子と結婚

●三笠宮甯子内親王 近衛忠煇と結婚
●三笠宮容子内親王 茶道家千宗室と結婚


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崇仁親王◆記憶が定かでありませんが、田母沢御用邸でいろんな物を窓から外へ放り投げたらしいですね。
普通なら叱られるところでしょうが、あんまり叱られた覚えがないんですね。
おかしな決まりも残っています。
「投げてよき物」「本当に投げていい物」なんていうふうに。
つまり枕なんかは「投げてよき物」で、硬い物は投げてはいけないと。
百合子妃◆そういう決まりが貞明様の御自身の御手でわら半紙に書かれていたのです。
後から拝見して噴き出してしまいました。
崇仁親王◆御用掛山尾三郎が編み物が上手で指導してくれました。
クッションを編んでおもう様に差し上げたこともあります。
当時日本にはこのような色合いの毛糸はなかったので、山尾がイギリスから毛糸も編み物の本を取り寄せてね。
百合子妃◆あんまり熱中されたので、とうとう貞明皇后様の仰せでお側の者が編み物をしないようにとお止めになったそうです。
男のお子さんでいらっしゃるし、もっと他にすることがあるだろうということでしょうけど。
あまり女々しくおなりにならないようにと。
でも野球も乗馬もお小さい時からずいぶん遊ばしましたしね。

━━貞明様には秩父宮様と高松宮様の間にもう一方御懐妊だったとうかがいますが。

百合子妃◆御流産ね。
護国寺の隣にある豊島岡の御墓所にお墓がございます。

━━貞明様が来日した満州国の溥儀皇帝を大変お心を込めておもてなしになったのは、その流産されたお子様とお歳が近かったためとも言われますね。

百合子妃◆そう、満州の皇帝はそういうお年回りでしたから、それはお優しくされたと思います。
崇仁親王◆本当に親子のようでした。
皇帝の方も坂道などはちゃんと手を差し伸べるられたりして、真に自分の親に対するような御態度でした。
百合子妃◆私が上がってからは改善されたのですが、宮様が御一人でこの御殿にお住まいの頃には、あんまり廊下が長いので御風呂もぬるいのにしかお入りになれなかったそうで。
崇仁親王◆なにしろ沸かす所が別棟で、そこからお湯を手桶に入れて天秤棒で担いでくるもんだからすっかり冷めちゃうんです。
今でも私が入るのは38度です。
百合子妃◆火事を心配したのでしょうね。
焚口が無いものですからどんどん冷めちゃうのね。
私が上がってからはようやく蛇口をひねるとお湯が出るようになって。

崇仁親王◆あんまり成績についても言われた記憶はありません。
あんまりひどくもなかったからねえ(笑)
ある本には「貞明皇后が自らの手元で養育したいと望んだこともあって、幼少期から養育掛が介在せず天皇と皇后の元で日々を過ごした」とされています。
しかし私は青山御所で生まれ幼い時から数十人の職員に囲まれて育ったので、この点は間違いです。
青山御所から週に一回か二回宮城の参内して両陛下に御挨拶するという生活です。
養育掛はしっかり介在していました。
幼い子供から見ればいずれも年寄で、怖い存在に思えたものです。
陸軍士官学校に入学してからは御付武官というのがついてまして何年かで交替するのですが、私が少佐になるまではみな武官の方が上級者でした。
向こうは皇族を守るつもりでしょうが、こっちから見ればいつも見張られているような感じで不満でした。
それが戦後になってようやく監視者がいなくなったので、思ったことを自由に喋れるようになったわけです。

崇仁親王◆おもう様は私が物心つく頃からすでに御具合が悪かったですね。
冬の間は葉山にいってましたが、まだ小さかったのでね。
おもう様が御食事を召し上がっている時に御辞儀に行った記憶はありますけど、一緒に食卓を共にしたという記憶は無いですね。
普通の会話をしたという記憶も無いぐらいですから。
おもう様は奥の御座所にいらして、御辞儀をするだけですぐ下がりました。
その後でおたた様の御部屋に伺うわけです。
12月になってお悪いということで葉山に行きまして、華族さんの別荘を借りて各宮が言ってました。
そこから毎日毎日お見舞いに伺っていたわけですが、ただもうお休みになっているところを御辞儀していただけです。
こちらもどうしようもない。
おたた様は大変なお悲しみではあったと思いますが、あんまり喜怒哀楽を表に出されないから。
落ち着かれていて取り乱したりされない方でした。

崇仁親王◆実は秩父宮は海軍志望だった。そして高松宮は陸軍を志望していたんです。
ところがそのころは陸軍の方が力関係が強かったせいもあって、最初の皇族は陸軍に次の皇族は海軍へということになったんです。
高松宮は実は船に弱かったんですよ。
おそらく海上勤務ではずいぶん苦労したと思います。
私の番になるとどっちでもいいと。
私はそのころ乗馬に熱中してましたので陸軍を選んだわけです。
ただ問題は幼年学校から入るか士官学校から入るかということでした。
幼年学校から入る人は中学1年か2年を終わって入る。
士官学校へ入る人は中学の4年か5年を終わって受ける。
秩父宮は幼年学校から入ったわけですが、貞明皇后はどうも秩父宮が幼年学校から入ったために一般的な常識とか教養を身につける時間が少なかったと思われたようです。
ですから私は学習院中等科4年を修了してから士官学校の予科に入りました。

百合子妃◆貞明皇后がお隠れになってからお手元のお文庫から出てきたのですが、宮様が士官学校へお入りになって初めて書かれた作文を御自筆でお写しになっていらしたのね。
それも先生の朱筆が入っておりますと、そこも朱筆できちんとお写し遊ばされたのね。
本当に御熱心に宮様のことを思っていらしたなあと。
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三笠宮寬仁親王

昭和天皇・秩父宮・高松宮は小さい頃から三人で育った。
三兄弟の兄弟愛がすごく強い。
オヤジは離れた末っ子として育ち、学者専業にしてしまった。
オヤジは高松宮と9歳も違う。
世代が違っている。
伯父様方の皇族観とはニュアンスがずれていた。
オヤジは超真面目で純粋培養されたみたい。
学問の世界ではいいが、対人関係は下手である。
最初はオヤジもスキーをやっていた。
子供がスキーをやるようになって、数シーズンつきあってくれた。
宿で晩飯が終ると、オヤジはベランダの籐椅子で原書を読んでいる。
姉が生まれた時、オヤジはかなり育児をやろうとした。
ところがオヤジがやると姉が泣く。
母親がやると姉の機嫌が直る。
オヤジはある時点まで一生懸命育児を手伝ったが、ことごとくマイナスであることを感じ、父親の資格なしと諦めた。
オヤジは学者だから真理を探究する。
専門外のことにはうとい。
子供のことは母親に任せるのが正しい、生半可な教育論では駄目だと言うことで、子供のことにはノータッチとなった。
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『高松宮宣仁親王』高松宮宣仁親王伝記刊行委員会

三笠宮のお子様方は父親代わりに伯父様の高松宮の所へ出入りされるようになる。
親父さんの三笠宮はお子様方に対して何もおっしゃらないのに、高松宮は寬仁親王を〈トモちゃん〉桂宮を〈ヨッちゃん〉と愛称でお呼びになり、三笠宮のお子様方を我が子のように可愛がられた。
甯子内親王の御結婚も、容子内親王の御結婚も高松宮の御紹介によるものであった。
寬仁親王と麻生信子さんの御結婚がのびのびになっていたのを決断されたのも、高松宮の一言からであった。
高松宮は持病のため御結婚を延ばしておられた桂宮のことも心配しておられた。
高松宮は桂宮が独身であっても独立して宮家を創設できるように各方面に働きかけられた。
「皇族は成年式をもって独立すべきであり、結婚の有無は関係ない」とのお考えであった。
高松宮は桂宮の公職御就任についても心掛けておられたが、不幸なことに御病気となった。
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三笠宮彬子女王

御晩年はお伺いするたびに「御活躍ねえ」とニコニコしながら、私の出したコラムや論文を褒めてくださっていた御姿が思い出される。
でもその穏やかな御晩年に至るまでにはとても語りつくせない程の様々なドラマがあり、様々な新しいことに貪欲に挑戦いかれる殿下のかたわらには控えめに殿下をお支えになる妃殿下の存在がいつもあることに気づかされる。

殿下はお若い頃 頭の回転がお早すぎて、考えておられることと口に出されることが一致しないことがよくおありだったのだそうだ。
「ハンカチ、ハンカチ」とおっしゃっているけれど実は万年筆を探しておられたり、
「眼鏡、眼鏡」とおっしゃっているけれど実は手帳を探しておられたり。
でも妃殿下はそれをスッとお出しになることがおできになったのだとか。
旅先で殿下が「ああ、原稿用紙を持ってくればよかった!」とおっしゃると、
「持ってきておりますよ」とお出しになる。
「宮様は『打出の小槌』と褒めてくださるんですけど、もう原稿を書く方に意識が行っておしまいになるので、あまり感謝はしていただけないのよ」と妃殿下はコロコロとお笑いになる。
ある日 殿下が「ズボンに沼津を入れてくれ!」とおっしゃったのだそうだ。
妃殿下はそれを「万年筆にインクを入れておいてくれということだろう」とおわかりになり、黙って万年筆にインクをお入れになっていたところ、一部始終を見ていた当時の看護師さんに
「おっしゃる宮様も宮様ですが、それを黙って聞いていらっしゃる君様も君様です」と言われたのだと愉快そうに御話くださる。
「あの当時は私も勘がよかったから歳を取ってから勘が鈍くなったらどうしようと思っていたのだけれど、御歳を召して宮様も落ち着かれたのかそういうことはなくなったので助かりましたね」とおっしゃる。
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◆三笠宮崇仁親王 123代大正天皇の四男 澄宮崇仁親王
1915年生


■妻  高木百合子 高木正得子爵の娘
1923年生


●三笠宮寬仁親王  2代当主 麻生太賀吉の娘麻生信子と結婚・兄は総理大臣麻生太郎
●三笠宮宜仁親王  桂宮
●三笠宮憲仁親王  高円宮  三井物産社長鳥取滋治郎の娘鳥取久子と結婚

●三笠宮甯子内親王 近衛忠煇と結婚
●三笠宮容子内親王 茶道家千宗室と結婚


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◆三笠宮寬仁親王 三笠宮崇仁親王の長男
1946-2012


■妻  麻生信子 麻生太賀吉の娘・兄は総理大臣麻生太郎
1955年生


*1980年11月07日 三笠宮寬仁親王&麻生信子と結婚
*1982年04月   三笠宮寬仁親王が「皇籍離脱発言」する。


●三笠宮彬子女王 19811年生
●三笠宮瑶子女王 1983年生

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◆高円宮憲仁親王 三笠宮崇仁親王の三男
1954-2002 48歳没


■妻  鳥取久子 鳥取滋治郎の娘
1953年生

*英ケンブリッジ大学卒業


●高円宮承子女王 1986年生
●高円宮典子女王 1988年生
●高円宮絢子女王 1990年生


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『入江相政日記』侍従長

1974年12月11日
宇佐美長官から三笠宮寛仁親王についてのこと。
同憂に堪えない。

1974年12月25日
昭和陛下から、「今日宇佐美長官が三笠宮寛仁親王について三笠宮へ上がるにつき、江崎玲於奈がスウェーデンの皇族が『日本の皇族はいばっている』と言ったということをよく説くように」との仰せ。
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『入江相政日記』侍従長

1975年6月11日
昭和陛下から御召。
昨夜の三笠宮寛仁親王をめぐってのこと。

1975年12月10日
昭和陛下、宇佐美長官から三笠宮寛仁親王のこといろいろお聞きで御心配。

1975年12月11日
宇佐美長官と昨日の三笠宮寛仁親王のことについて協議。

1975年12月31日
エリザベス女王の御訪日もまた大騒ぎになった。
「我がイギリス」人種が多数現れた。
秩父宮妃殿下・高松宮御夫妻・三笠宮寛仁親王・麻生和子夫妻。
外務大臣宮沢喜一や儀典長内田宏を脅したりしてさんざんの醜態だった。
三木首相も驚いたことだろう。
昭和陛下がしっかりしてらっしゃるからいいようなものの、さもなければ大変面倒なことになるところだった。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1975年3月30日
突然、三笠宮容子内親王スイス・フランスより御帰国の御挨拶に参内。
昭和陛下、御談話室にて御対面遊ばす。
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『入江相政日記』侍従長

1976年1月13日
昭和陛下から御召。
文春の皇族座談会『皇族団欒』の高松宮のこと。
本当につまらないことを申し上げになるから困る。

1976年1月20日
昭和陛下から御召。
また『皇族団欒』の高松宮のこと。

1976年4月19日
「寛さん〔三笠宮寛仁親王〕がカナダのお暇乞いに来られて御対面となったが、何と言うか」との仰せ。
「身を慎むように」とおっしゃってはと申し上げる。
「そうしよう」と仰せ。

1976年7月1日
昭和陛下から「文春の皇族座談会『皇族団欒』のようなものを正しいものと思っていては困る」との仰せ。
三笠宮へ行き、三笠宮妃殿下によく御話する。
あの座談会に批判的だったこと、高松宮一辺倒でないことなどがわかり、すぐ帰り昭和陛下に申し上げる。

1976年7月3日
秩父宮へ行き、秩父宮妃殿下にこの間からのこと洗いざらい申し上げる。
すべて御同意、お喜びだった。

1976年7月5日
陛下に秩父宮妃殿下のことを申し上げる。
「入江、御苦労だった」と仰せくださる。

1976年7月8日
宇佐美長官に、秩父宮妃殿下・三笠宮妃殿下のこと報告する。

1976年9月11日
秩父宮妃殿下御参内、高松宮・東宮様などお集りの時にミグ25事件につきみなさんいいことだとお喜びとのことだったが、昭和陛下は「皇族さんは無責任だから」とおっしゃったとのことで、この無責任についてお掘り下げになった結果の御話。

1976年12月31日
1月10日文春の二月号に『皇族団欒』とかいうくだらない座談会の記事が載った。
秩父宮妃殿下・高松宮御夫妻・三笠宮寛仁親王という顔ぶれ。
司会は加瀬英明。
つまり高松宮が一人で【誇りかに】しゃべっておられるだけ。
すでに昨年の文春の二月号にも加瀬君が書いているが、高松宮から伺ったようなことが多く、それによれば御自分は根っからの平和論者であり、太平洋戦争をとめたのも自分であるという意味のことが書いてある。
昭和陛下にはこれが非常にお気に入らず、実に数えきれないほど御召があった。
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『入江相政日記』侍従長

1977年4月4日
三笠宮へ。
三笠宮妃殿下と、昭和陛下と高松宮との御間柄についてお話し合う。

1977年10月8日
秩父宮妃殿下から御電話。
三笠宮寛仁親王が本を出し、例の対談『皇族団欒』も載せると。
絶対に不可と言う。

1977年10月9日
三笠宮寛仁親王から電話。
「伯母さん〔秩父宮妃殿下〕から伺ったが、承知なさった高松宮に取り止めると言ったら妙にお思いになるだろう」とのこと。
「そんなこと問題にならない。もしこれが出た時のと比べれば、皇室としての損害は比較にならない」と言ったら、
「やめます」とのこと。
まあよかった。

1977年10月11日
昭和陛下に三笠宮寛仁親王の一件を話す。
予の処置にまったく同意。
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『入江相政日記』侍従長

1978年12月8日
正午より午餐。
三笠宮が「娘が中国で大変大事にされた〔三笠宮甯子内親王の訪中〕」とおっしゃったら、
法務大臣古井喜実が「三笠宮様はもうしばらく中国へおいでにならない方がいい」とピシャリとやったのはよかった。
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『入江相政日記』侍従長

1979年5月30日
小川宮務課長来室。
三笠宮寛仁親王が札幌から電話で「帰京後宮内庁病院に入るから準備しろ」と言ったとのこと。
「それは診察を受けてからにすべき」ことを言い、
西野侍医長に「これ以上評判を落としてはいけないから引き受けるな」と言う。

1979年6月5日
三笠宮百合子妃から三笠宮寛仁親王のこと。
真相を聞かせろとのこと。
侍従職に反対があるとはどういうことという話。
宮内庁病院・皇宮警察の甚だしい不評を告げる。
結局それを【しゃくい】上げておやめ願ったと言う。

1979年9月24日
明日三笠宮崇仁親王御参内につき、昭和陛下は「ナポレオンはあんなに素晴らしかったのが、なぜセントヘレナに流されそこで死ななければならなかったのか、それを例にして三笠宮寛仁親王のことを言ってはどうか」との仰せ。

1979年9月26日
昭和陛下に「三笠宮いかがでございましたか」と伺う。
「三笠宮百合子妃は良宮と話していたので聞えなかったかもしれないが、三笠宮には言っておいた」との仰せ。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1979年9月14日
昭和陛下より、三笠宮寛仁親王に関して、竹田宮や山階宮が若年の頃グレた話を御引用。
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『入江相政日記』侍従長

1980年5月21日
三笠宮寛仁親王、納采につき御参内。
少し感じがよくなった。
落ち着かれたか。

1980年6月9日
賜金700万円持って三笠宮へ。
〔三笠宮寛仁親王の結婚祝〕
三笠宮百合子妃に渡す。
大変喜んでいらっしゃった。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1980年6月13日
三笠宮寛仁親王、御婚約の御礼。
「外見だけでなく明治陛下の精神を見習う。テレビなどでウケのよい話などを慎む」の二点。
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『入江相政日記』侍従長

1981年12月13日
文春の三笠宮寛仁親王の放言について新潮より電話。

1981年12月21日
昭和陛下、三笠宮寛仁親王のこといろいろおっしゃっていた。
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『入江相政日記』侍従長

1982年3月4日
昭和陛下から、三笠宮寛仁親王IOC委員就任につき強い不信任感をお持ちで、富田長官によく言ってくれとの仰せ。

1982年3月5日
富田長官から、三笠宮寛仁親王のIOC問題は消えた由。
昭和陛下も御安心だったそうで、よかった。

1982年4月24日
午前7時前に富田長官から電話。
三笠宮寛仁親王が皇籍を離脱して宮廷行事から解放されて、身障者関係のことに専念したいと言い出したとのこと。
手がつけられない。

1982年4月25日
テレビでは三笠宮寛仁親王に同情的なことを言っている。
そんなに皇族というものに重圧がありイヤなら、さっさとおん出てもらいたい。

1982年4月26日
岸田君・大竹君来室。
いずれも三笠宮寛仁親王のこと。
あきれている。

1982年5月13日
三笠宮寛仁親王のこと未解決。
秩父宮・高松宮から三笠宮寛仁親王にサンドイッチと【お料】を進ぜられたら、【お料】は返したとか。
どういう気か。

1982年6月18日
昭和陛下から三笠宮寛仁親王に、イランは国王一族の乱れが国を亡ぼしたこと、戦後GHQは華族制度を一代に限って認めると言ったのを日本の方から全廃を主張したこと、そういうことをよく考えて行動するよう言ってくれとの仰せ。

1982年6月19日
高松宮へ。
高松宮から、三笠宮寛仁親王にも困ったとのこと、彼は気が弱いとのこと。
噂に聞いていた三笠宮寛仁親王が宮内庁はいけないというのとは、ちょっと調子が違う。
戻って富田長官に言っておく。

1982年6月22日
昭和陛下から、三笠宮寛仁親王のこと、イラン・エチオピア・ロマノフ王朝の例を挙げて御心配になっていた。
本当に困った人である。

1982年6月28日
昭和陛下、三笠宮寛仁親王のことばかりいろいろ仰せになる。
こんなに御心配をかけて本当にくだらない。

1982年8月7日
昭和陛下から、三笠宮寛仁親王は何も音沙汰なし、桂宮はだいぶ落ち着いてきたことなど仰せになる。

1982年11月1日
明日のエジンバラ公の午餐に三笠宮寛仁親王が出ることにつき、
「午餐列席前に挨拶に来い。来ないなら午餐には出るなと私が言ったと言っていいから」との仰せ。
小川宮務課長が三笠宮寛仁親王に言った結果、「それなら出ない」とのこと。
あきれたもの。

1982年11月12日
三笠宮寛仁親王御参内。
「ごきげんよう」と言ったが、まったく応対なし。
昭和陛下も「まだ普通でない」とおっしゃる。

1982年12月29日
皇族拝賀。
三笠宮寛仁親王は来ず、三笠宮信子妃のみ。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1982年7月9日
入江侍従長・徳川侍従次長から先般の皇族会議の話を聞く。
主題は富田長官追い出しとか、麻生太郎〔三笠宮信子妃の兄〕や田中六助などが動いているとか、まさに昭和陛下の御気持を逆なでするような話。

1982年7月23日〔那須御用邸〕
三笠宮寛仁親王、鳥羽行中止とのこと。
昭和陛下、御安堵の御様子なり。

1982年11月12日
三笠宮寛仁親王、昭和陛下と10分足らずの御対面。
堅い表情でさっさとお帰り。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1982年5月9日
昭和陛下、三笠宮寬仁親王のこと(皇室離脱宣言)で御心痛の御様子で、今朝も靴下をお履きになりながらしばらく考え事でじっとなさっていたり、御食事中も御手をしばらく動かさなかったりなど、考え事が多いように見受けられたとのこと。

1982年11月1日
明日のエジンバラ公午餐に三笠宮寬仁親王が見えることについて、
昭和陛下が「病気(寬仁親王の病気&皇室離脱宣言)の後一度も会っていないのに、午餐の場で急に会うのはよくない。事前に会うようにするとか考えるように」とのことで、入江侍従長は富田宮内庁長官と相談してなんとかするということだったが、結局御不参ということになるという。

1982年11月2日
エジンバラ公午餐。
三笠宮寬仁親王は結局、「それなら出席しない」ということになった。
今後の行事のこともあり、いつまでも未解決では済まされまい。
富田宮内庁長官などもっと早くあらかじめ解決しておくべきものであったろう。
寬仁親王の方ではもう解決しているとお考えになっているらしいが、三分の理はあろう。
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『入江相政日記』侍従長

1983年6月3日
昭和陛下から、浩宮様御留学につき、秩父宮の留学・三笠宮寛仁親王の留学がうまく行かなかったこと、久邇宮との複雑な因縁をなかなかわかってくれないとか、浩宮が帰るまでの二年間生きていられるかなど、クヨクヨしたことをクドクドとおおせになる。

1983年6月8日
〔三笠宮容子内親王&裏千家千政之、婚約〕
今度の御縁を「皇室と京都が再びしっかり結ばれたといって喜んでいる」由。
昭和陛下もお喜び。

1983年12月13日
昭和陛下が中川融〔浩宮オックスフォード留学の主席随員・元国連大使〕に、
「秩父宮も三笠宮寛仁親王もオックスフォード留学は失敗だったが、浩宮の時はそんなことがないように」と仰せになったことにつき、
中川さんが「三笠宮寛仁親王のことは十分わかるが、秩父宮のはどういう御意味か」と言っていた由。
三笠宮寛仁親王は駐英大使平原毅に手紙を出して、浩宮様がいろいろな人にお会いになるよう、それを大使館が妨げると言われたことも聞く。

1983年12月28日
昭和陛下が「秩父宮のオックスフォードの教育は失敗だった」と仰せの件伺う。
つまり不十分だったのと、秩父宮の性質によるが、参謀総長閑院宮載仁親王をダラ幹と言い、当時の軍の勢いに乗ったことなど、との仰せだった。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1983年1月3日
高松宮御誕生日につき、両陛下と御談話室で御対面。
例年30分くらいのところ今年は大変長い。
昨夏以来ヘルペスで公式行事には御不参の美智子妃のこと、(皇室離脱宣言をした)三笠宮寛仁親王のことなどがあったからか。

1983年2月1日
昭和陛下より「寛さん(三笠宮寛仁親王)はイギリスのことについては自分が一番よく知っていると思い上がっている。一昨日吹上に見えた時に『浩宮のオックスフォード御留学について誰が決めたのか』と言っていた。富田宮内庁長官と入江侍従長に伝えておくように」と。

1983年2月2日
昭和陛下より「寛さん(三笠宮寛仁親王)は浩宮の留学の新聞記事を読んで話していたが、あれは正式に閣議了解で決まったものではないと思うが、寛さんは新聞を信用しすぎる。富田宮内庁長官と入江侍従長にさらに追加して伝えておくように」と。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1984年5月9日
三笠宮寛仁親王・桂宮、特に最近は桂宮の行状が定まらず、先日のカタール晩餐に出席するとしながら欠席になったり、昭和陛下も大変気になさっている。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1985年2月19日
昭和陛下より、三笠宮寛仁親王の将来についてのお考え承る。

1985年4月15日
宮務課長小松博より、桂宮NHK退職の件。
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『入江相政日記』侍従長

1985年9月13日
連翠の間、皇族方だけ。
三笠宮寛仁親王、御辞儀してもぜんぜん応えず、依然喧嘩腰。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1986年7月4日
侍従田中直より、三笠宮寛仁親王の御旅行届につき物言いありと。
侍医伊東貞三より、肝炎のこと聞く。
主治医から三笠宮寛仁親王の容体と見解など事情を聞いた上、昭和陛下に御了承得る。

1986年7月11日
宮務課長小松博より、三笠宮寛仁親王の退院予定のこと聞く。

1986年9月3日
三笠宮寛仁親王、酒で入院の由。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1987年4月27日
昭和陛下〔昭和天皇〕高円宮のインタビューについて御危惧。

1987年5月20日
宮務課長小松博から三笠宮寛仁親王の3月~4月入院の件。

1987年10月16日
侍従長徳川義寛より、三笠宮宜仁親王〔桂宮〕独立の件。

1987年12月16日
三笠宮宜仁親王宮家〔桂宮家〕創設に際し賜金のことで協議。

1987年12月18日
三笠宮宜仁親王宮家創設については、「桂宮」「三室宮」の二案。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1988年5月26日
桂宮、緊急入院・手術の報。

1988年10月21日〔昭和天皇闘病中〕
高円宮から京都国体閉会式の復命に参内したき旨、前例なきこととお断りするも感情害され、電話で文句言われる。
高円宮は山本侍従長にも電話で当たる。

1988年11月17日
桂宮、11月20日に退院。
いずれ医療費の御援助も必要か。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1988年1月1日
三笠宮宜仁親王〔桂宮〕は今年40歳におなりになるが、それを機に独立し宮家を創設することになり、1月1日天皇殿下の御沙汰書が徳川侍従長から桂宮に授けられた。
鳳凰の間にて三笠宮百合子妃殿下と桂宮が昭和陛下に御対面になり、御礼を言上なさった。
この宮家創設については御結婚でもなくたまたま40歳という機にというだけで、宮家独立の理由がはっきりしない。
とかく交友関係などで風評のある桂宮が、独立すれば私生活に責任を持つようになるというのかもしれないが、かえって監督の目の行き届かなくなるのを良いことにさらに乱れるおそれありという説もある。
御生活態度から言って良すぎるという酷評を下す人もいる。
桂宮という宮号は桂宮の御印が桂の木であるからというが、幕末まで桂宮という宮家があり、これまで使用されなかった宮号をどうしてお使いにならないのか。
「桂離宮」とか「桂宮邸跡」という標識が京都御苑内にあるなど、まぎらわしい。
この宮号を候補としたこと自体が不可解である。

1988年5月26日
桂宮、緊急手術。
御寝室で倒れておいでのところを午後発見され、都立広尾病院で緊急手術されたが意識はなお戻らず重態と。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1989年1月15日
〔1月7日昭和天皇死去〕
高円宮、お供えバナナおねだり。
御要望のモンキーバナナ5本お包みして高円宮にお渡しする。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1992年10月20日
平成皇后、御誕生日。
三笠宮寛仁親王より樋口侍従に、
「皇族の祝賀の際、平成両陛下というのはいかがなものか。平成皇后御一人が良いのでは?」とのお尋ねがあり、それについての我々の意見を聞きたいとのことでいろいろ話した。
我々の意見では御一人が良いと思うが、何事もできるだけお揃いでというのが平成流だから、いずれにしても宮内職員手塚英臣にお尋ねのあったことを伝え、その意見・説明をお答えするのがよいと話した。
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◆三笠宮崇仁親王 123代大正天皇の四男 澄宮崇仁親王
1915年生


■妻  高木百合子 高木正得子爵の娘
1923年生


●三笠宮寬仁親王  2代当主 麻生太賀吉の娘麻生信子と結婚・兄は総理大臣麻生太郎
●三笠宮宜仁親王  桂宮
●三笠宮憲仁親王  高円宮  三井物産社長鳥取滋治郎の娘鳥取久子と結婚

●三笠宮甯子内親王 近衛忠煇と結婚
●三笠宮容子内親王 茶道家千宗室と結婚


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◆三笠宮寬仁親王 三笠宮崇仁親王の長男
1946-2012


■妻  麻生信子 麻生太賀吉の娘・兄は総理大臣麻生太郎
1955年生


*1980年11月07日 三笠宮寬仁親王&麻生信子と結婚
*1982年04月   三笠宮寬仁親王が「皇籍離脱発言」する。


●三笠宮彬子女王 19811年生
●三笠宮瑶子女王 1983年生

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◆高円宮憲仁親王 三笠宮崇仁親王の三男
1954-2002 48歳没


■妻  鳥取久子 鳥取滋治郎の娘
1953年生

*英ケンブリッジ大学卒業


●高円宮承子女王 1986年生
●高円宮典子女王 1988年生
●高円宮絢子女王 1990年生


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『入江相政日記』侍従長

1946年6月8日
枢密院本会議、憲法草案が議せられ正午過ぎまでおかかりになる。
このとき三笠宮が意見を述べられ、採用せられざるや票決には加わらず退場せられた由。
昭和陛下も非常に遺憾に思し召された由。
心ある者でこの憲法草案に満足している者が一人としてあろうか。
しかるにかかる態度を取られることは、誠に御思召のほども知られざれることで申し訳ないことである。
どうして皇族はかくも昭和陛下をお苦しめするようなことばかりされるのであろうか。
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『入江相政日記』侍従長

1947年1月29日
三笠宮御夫妻をお招きしての会食、大変賑やかであった。
今日はいよいよ三笠宮に一同で苦言を呈するのかと思っていたところ、妃殿下もおられるし大臣夫人もいるしとてもそんな空気ではなく、また本来そういう目的でもなく宮内官とお親しく願えばおひがみもなくなるであろうからという大臣の考えに出発している由。
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三笠宮崇仁親王

東京タイムス 1949年1月1日
『人間としての東宮様』
「東宮様はお付きの人の檻の中にいる籠の鳥という感じがして、お気の毒という一語に尽きると思う。
両陛下がお子様方と今までと同じ形で別居せられているのが残念に思われる」
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田島道治 日記 宮内庁長官

1949年2月20日
三笠宮の新聞にて御感慨ある様子とのこと。

1949年7月15日
陛下に拝謁、昨日のこと委細言上す。
逆効果かも知れぬが三殿下にこの際念のため注意を申し上げるよう御命令あり。
なお、大正皇太后〔貞明皇后〕にも言上せよとのこと。

1949年7月18日
三笠宮御訪問。
高松宮のことに及び落涙す。

1949年9月28日
皇太后宮大夫坊城俊良来訪。
宮様方の行動につき御不満の話。
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『入江相政日記』侍従長

1949年2月8日
宮内庁次長林敬三から「御進講に高松宮もお誘いになっては如何」との件につき話がある。
反対しておく。
また三笠宮と宮内官との懇談会の話もある。

1949年2月21日
田島長官・林次長・鈴木侍従次長・式部頭・栄木・三井・松村と会議。
ようするに三笠宮がつまらないことを新聞におしゃべりにならないようにということから起ってきたもの。
実にくだらないことである。
今日の主題は皇子御教育論。
田島長官は今日の顛末について拝謁して申し上げる。

1949年2月22日
昭和陛下から三笠宮の問題につき、いろいろ御話を伺う。
御前にいたのは1時間半、今までのレコードであろう。

1949年3月14日
田島長官・林次長・鈴木侍従次長・三井・鈴木・山田・予で、いろいろ議論を重ねる。
今日はどういうのか高松宮の御発言も非常に多い。
高松宮はさすがに老熟したところもおありで、だいたい我々と同じ思想のようであるが、三笠宮とはついに平行線的なものであることがわかる。
今日は5時間も毒気にあてられたので参ってしまう。

1949年10月6日
各新聞関係者を御陪食にお召しになる。
三笠宮が「今の新聞に自由があるか」という質問をされた。
この質問も時節柄当たり障りのあるものであるが、毎日の記者が「占領されているのだから多少の拘束はあるが、大したことはない」と答えた。
入御になり一同後引気配を楽しんでいるところへ三笠宮がまた現れ、「さっきの続きをやりたい」とのこと。
困ったと思った田島長官がなんとか止めようとして、「みなさん忙しいから」と言われたが、共同の記者たちなどが「いいじゃありませんか」ということになって、とうとう始まってしまった。
内容を悪用されれば占領政策の批判ということになるし、第一後仕手となって現れ、蒸し返してこういうことをおっしゃるということそれ自体が非常識ではないかと思う。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1949年2月12日
田島長官◆直宮様と御一体は世上の変化上、ますます必要。
三笠宮 正月の新聞のことより宮内庁次長林敬三届出の結果、21日に会合。
(松平永芳〔三笠宮の友人・松平慶民子爵の子〕との往復信書のことは申し上げず、往復信書に表れている三笠宮の気持ちのことを申し上ぐ)

1949年2月21日
昭和天皇◆三笠さんの御結婚は最初私には関係なく、大正皇太后〔貞明皇后〕は仰せ通りになっておられた。
最初松平斉光男爵の娘の話があり、それが辞退の後、学習院の前で会った女子〔細川護立侯爵の娘細川泰子〕を貰いたいと神がかり的な変なことがあり、大正皇太后〔貞明皇后〕はすべて三笠さんの御意思通りであったが、百合子妃の時は私が骨折ってできたのだ。
陸軍の悪い癖があり、今までにも新聞や雑誌に対談等でいろいろのこと、退位論なども論ぜられたが、今度の正月の皇太子論も困る。
元宮内次官の名が出て、女の人のいたことを良いと書いておられるが、実は良くなくて困ったことがあったぐらいだ。
(松平永芳との往復信書のことも申し上げ)
田島長官◆よほど軽率お認めと存じます。

田島長官◆高松宮・三笠宮御懇談の模様大略御報告。
三笠宮は御自分の体験にて東宮様の御養育を想像して今日の実状をあまり深く極めず、正月の新聞では空論の旨。
(三笠宮の結婚の件の問題等のこと申し上げしに、「ウソ」との仰せ。委細は侍従入江相政よりと申し上ぐ)

1949年2月28日
昭和天皇◆新東宮大夫野村行一・新東宮参与小泉信三は正しい良い人で大変よいと思うが、新任の時に高松さん・三笠さんはいつも何かと仰せになることがあるので、その点注意せよ。

1949年3月8日
昭和天皇◆北白川の叔母さん〔北白川宮房子妃〕が高松宮・三笠宮の少し遊び過ぎらるることを言っておられた。
「大正皇太后〔貞明皇后〕も御承知なき様子ゆえ、陛下から仰せになりては」との御話ありし。

1949年3月11日
昭和天皇◆皇位継承または摂政の立場にあることゆえ、万一にも起こるに備えて修養することが高松さん・三笠さんの本分で、他のことをいろいろなさることは本来必要でないことと思う。
然るに映画またはダンスホール等へ出られるほか、民間人の希望に副っていろいろの所に行かれるが、その民間人の悪口もずいぶんあるらしき様子。
これは本分に顧みていただきたく思う。
これは私の理想論かもしれないが。

1949年3月24日
田島長官◆三笠宮は観念論で、「歴史の発展上君主制はなくなり大統領制になりつつある以上、日本の新憲法も天皇制廃止の課程として宮内庁官吏は考えるか」という御話にて、純然たる観念論。
高松宮は「科学が発達しても宗教が盛んになると同じようで、人間の観念理屈だけで歴史は動かぬ」という議論で、高松宮も天皇制支持のように拝しました。
ただしお二人とも天皇陛下の戦争責任問題に関してはちょっと変な言い回しをなさいました。
昭和天皇◆戦争責任については三笠さんが陛下に仰せありし旨。
その節、宣戦の詔書には朕が志ならんやと言ってるではないかと言った。
またパールハーバーは海軍作戦に過ぎぬ。
(この点、田島はいつも残念と思う)

1949年5月10日
昭和天皇◆三笠さんのお考えはどうかねー?
田島長官◆先頃の皇族会のこと、しかし三笠宮は宮内庁官吏に意見を述べらるる機会を作られたゆえ、あまり外部に意見御発表のことはなからんと信じまするが、根本御意見はさほどに変化ありとも思いませぬ。
内部の者より外部の者の意見を重んぜらるる御傾向ゆえ、今後も外部の人を連れて来て御話を聞いていただくようにするつもりにて、それも30代の人がよいと存じます。

1949年5月11日
田島長官◆三笠宮かねて御外遊御希望お漏らしありしも時期にあらず、経費の点もあり実現不可能のむね次長より申し上げ置きしところ、昨日次長をお訪ねになり、御外遊御希望のこと在米日字新聞に出て醵金の記事あり、それがため某牧師 不日 来日とかいうこと。
「過日の不可能との宮内庁意見は陛下まで通りおるや否や」との御質問ありし由にて、
次長は「陛下は御存知なきやと思うも、御同意見なることは推測するに難からずと存ず」返答せし由。
昭和天皇◆兄弟四人のうち一人だけ外遊なきゆえ同情するも、今は時期でない。

1949年6月28日
昭和天皇◆三笠さんが大変落ち着いてこられたように思う。
昨夜の会食の節、高松さんの御言葉に対しての返事など元と非常に違う。

1949年9月15日
〔昭和天皇の研究『相模湾産後鰓類図譜』が出版される〕
田島長官◆宮様方にも科学上の御知識はとにかく、贈呈しかるべきと存じます。
昭和天皇◆秩父さんに「研究所で採集のものを本にする」と話した時に、
秩父さんから「陛下御自身の御名前をお出しになること云々」の御話があり、また本をあげればそれを蒸し返されるかもしれず、イヤなのだ。
田島長官◆それはやはり大きくお考えのうえ御贈呈しかるべきと思います。

1949年9月19日
昭和天皇◆三笠さんから本の御礼がすぐ来た。
三笠さんは近来よほどよくおなりになったように思う。
『改造』に寄稿は困るが、まあよくおなりと思う。
高松さんは遅く御礼が来た。
秩父さんはまだ何とも言ってこない。
東宮も御礼が遅かったが、これは年少で侍従の出したのに気づかれるのが遅くとも仕方ないが、宮様方は新聞も御覧で早く御礼あってしかるべきだ。

その後三谷侍従長曰く、「陛下は今回の本につきては非常に particular である。例えば『田島は東宮御床上げのとき賜物に反対したが、今回は希望するのはどうか』との御話あり。三谷その区別を申し上げ御了解になりし由」

1949年9月28日
昭和天皇◆一昨日の三笠さんの会はどうであったか?
(「フリーメーソンのこと。また東久邇稔彦王事件につき『妥協するな』との御話」のこと申し上ぐ)

1949年10月11日
昭和天皇◆『サンデー毎日』の三笠さんの記事や私に関する座談会を読んだか?
三笠さんが話しておられるだいたいの調子はよろしいが、私と話をするかという問いに対して、四方山の話をすると逃げておかれればいいと思うに、「自然科学に限られるから話がない」と言うのはどうかと思う。

1949年10月12日
田島長官◆『サンデー毎日』は、生物学に関しての座談会に三笠宮はお入りになりませぬが、編集者の意図は入っていただく気持ちかと感ぜられます。
したがって自然科学の御話は自分にはできぬ云々は、編集上ああなりますので、別に三笠宮が変なことを仰せになったとは思えませぬ。
昭和天皇◆いや、「人民の方がよく接触してる」とか言うところは、なんだか嫌味のように思われる。
田島長官◆新聞関係御陪食の時 三笠宮新聞の自由のことの御質問につき、ちょっと申し上げ、あれは少し困りました。
昭和天皇◆絶対の自由は放恣である。
自由は多少の制約を免れぬ。
制約をあえて受ける自由があるとも言える。

昭和天皇◆『サンデー毎日』三笠さんが「自然科学に興味がない」と仰せになるとしても、
「こういう本〔『相模湾産後鰓類図譜』〕が出たことを喜ぶ」と一言あそこで言ってくれたらよさそうだと思う。
それなのに、「国民の方が私たちより近い」とか何とか言うのは嫌味のようで、共産党らが兄弟間がうまくいってないというようなことを持ち込む余地を与えるようなことはまずい。
田島長官◆陛下がお気に遊ばすほど一般読者は思いますまい。
それよりも三笠宮の新聞と自由の御発言の方がよくなかったかと存じます。
昭和天皇◆三笠さんは本の御礼の御挨拶は早かったが、御話は一向に出ず、三笠宮妃殿下が美術的な御話のあとで「模様になる」とちょっとおっしゃるぐらいだ。
秩父さんは御礼は遅かったが、秩父宮妃殿下の御話では外人にお見せになって御利用になさるようだ。
高松さんはしばらくお目にかからぬからわからぬ。
よくお出かけになるようだ。

1949年12月5日
田島長官◆共産党に関しては秩父宮も高松宮も皇室皇族を否定するものゆえあまり好感はお持ちないと存じますが、三笠宮はお若い方ゆえ多少理解をお持ちになりがちの点もあるかと思う程度であります。
昭和天皇◆『サロン』の三笠さんのは、書かなければ書かないが一番いいが、書くとすればこの前のよりはよほどいい。
ただし自分の教育の受け方のことをいっておられるあまりに、あの当時でも奉る人ばかりではなかったはずだと思うに、奉られてばかりいたとお思いなのは、如何に御自分の御修養の御力が足りなかったということを言っておられるようなものだ。

1949年12月9日
田島長官◆恋愛結婚とか見合結婚とかいうことは皇室については如何お考えでございますか。
昭和天皇◆恋愛はとてもで、三笠宮ぐらいがちょうどよいと思う。
私と高松さんは全然古い風で、秩父さんは少し違い、三笠さんぐらいがいいと思う。
大正皇太后〔貞明皇后〕は三笠さんの言いなりで、細川の娘〔細川護立侯爵の娘細川泰子〕を広幡大夫は「御顔が」と言ったが、私は御顔より照ちゃん〔照宮成子内親王〕と同級で、叔母様になる人が照ちゃんと同級ではと思って私は反対し、百合子妃は私が推薦したのだ。
その時のことを思うと、いま三笠さんがいろいろ言われるのはどうかと思ってる。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1950年3月3日
吉田首相を訪問。
三笠宮洋行のこと、高松宮のことを懇談す。
吉田首相としては、三笠宮の件はGHQ副官ローレンス・バンカーの意見を聞くこと、高松宮の件は何か適職心掛けること。

1950年7月28日
三笠宮、共産党同情的失言のこと。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1950年1月2日
昭和天皇◆三笠さんの読売の記事はお書きにならぬ方がよい。
田島長官◆昨年の皇太子籠の鳥の文章よりはよほどおよろしい。

1950年1月6日
昭和天皇◆今朝の新聞に高松さんが東宮御洋行のことを話しておられるが。
高松さんは新聞社員などには実にうまく仰せになり、時期の問題だと仰せになった誠によろしい。
こういうことは秩父さんや三笠さんと違っておよろしい。
三笠さんは御正直で、御口と御腹は一つでその点はおよろしいが、仰せにならぬでもよきことを仰せになり、それも御自分のことをいつでも省みて仰せになるが、多少歪められている場合もある。
例えば結婚の問題なども、私と高松宮は決まっていたようなもので、秩父さんは少し違うが、三笠さんはずっと御自由で御自分で御選択になり、大正皇太后〔貞明皇后〕は三笠さんの言いなりであったのに、御自分では外部の力によったように思って御話になり、ちょっとわからぬ点がある。
日光や葉山の御用邸の付属邸など、大正皇太后〔貞明皇后〕と三笠さんと御一緒にお住みのために作ったものだが、「親子兄弟一緒でなかった」という風に人に御話になるが、あの点はどうかと思う。

1950年1月9日
昭和天皇◆三笠さんが来られて洋行の話もいろいろあったが、
「私はうすうす田島から聞いているが詳しいことは知らぬ。しかし主義は賛成だが方法は研究を要する」と言っただけで、それ以上いいとも悪いとも言わなかったからそのつもりで。
田島長官◆最近は三笠宮もお違いの様子で、2~3年は勉学の御希望もあり、また一面お子様御教育のために数カ月の御旅行のお考えもあり、お迷いの様子であります。

1950年3月12日
昭和天皇◆『主婦の友』の三笠さんの記事やっと見たが、どうも御自分の御経験から今も宮中でまだその通り行われてると思って御話になるのは実に困る。
目下の内廷もそうだというお考えは困る。

1950年4月3日
田島長官◆三笠宮 孝宮和子内親王御結婚に関し、読売新聞社長馬場恒吾に書簡の事件。
真にどういうお考えか解しかねます。
御洋行など如何なものかと存じます。
昭和天皇◆馬場が取り上げなかったのは非常によかったから、吉田は馬場と懇意ゆえ、感謝してることを伝えてくれ。

1950年4月5日
田島長官◆三笠宮の御洋行は随行者に松平ぐらいの者がおれば格別として、誰もお連れにならぬ場合、アメリカの空気にお慣れにならぬ内に日本人の新聞記者等に何を御話になるか心配でございます。
御本人も今年は御洋行の意思なきことゆえ結構ですが、三笠様の対新聞に御意見発表は無軌道ゆえ心配でございます。

1950年5月2日
田島長官◆読売新聞社長馬場恒吾に書簡の件、三笠宮は「馬場に親展で送ったのに云々」との仰せで、読売新聞記者は「社長が何と言っても書く」と申してるくらいでありますので、何と申しても新聞社長への御手紙は如何かと存じます。

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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1950年6月22日
昭和天皇◆田島は知らぬから宮中服のできた沿革を話しておこう。
それは第一に高松宮妃殿下の主唱でできたので、秩父宮妃殿下などと研究の結果できた。
私はむしろ反対だったが、結局出た。
理由は洋服は英米的だというのである。
同盟の独伊も洋服だからと反駁したが、軍人などは何か国粋的なものという声を上げてた。
これに妃殿下がまず乗ぜられた。
第二に繊維不足という時勢の声に対し、一反の反物ででき、上衣は丸帯でできるということであって、まあ結局承知したが、後でわかったことには、上衣は丸帯ではできず新調ということになり、東久邇の叔母さん〔東久邇宮聡子妃〕など「洋服以上に面倒だ」と私にこぼされるようになり、宮内大臣松平恒雄に上衣をやめることをいくら話してもなかなかやらず、通牒でやっと出したが、「戦時中」とあったゆえ、これを「当分」と変えようとしたが、松平は遂にやらず宮内大臣が石渡荘太郎になってこれが実現した。
上衣のヤメやら何やらで大正皇太后〔貞明皇后〕は結局今までお着にならず、お作りにならない。
なお高松宮妃殿下の御自分的な理由は、今までの洋服裁縫師がいなくなったことであるが、これは私的な理由で私はどうも賛成できなかった。
その高松宮妃殿下が戦後批評が出るとすぐ洋服を自由になさるのはどうかと思う。
秩父宮妃殿下の、相当の研究の結果ゆえ不評でも何とか改良してという立場の方が理解できる。
フランス大使か誰かが三笠宮妃殿下に「この服はなってない。パリでお作りなさい」と言ったこともあると聞いている。
私は宮中服には本来賛成してない。
和服が良いと思うが、大正皇太后〔貞明皇后〕が不様という訳で不賛成で宮中服となり、しかも大正皇太后〔貞明皇后〕は宮中服は召さぬ訳だ。
田島長官◆和服について併用の意味で大正皇太后〔貞明皇后〕のお許しを得て、和服の方向に行き得るかよく研究いたします。
昭和天皇◆大正皇太后〔貞明皇后〕のモンペも戦争の防空から来てて、戦時色はある。

1950年7月5日
田島長官◆三笠宮のことに関連し、東宮様・常陸宮のこともなかなか考えさせられまする。
東宮様は特別にて民法に長子相続もなくなったにかかわらず、皇室だけは長子相続の建前で二男・三男は冷や飯で、この点よほど注意しなければならぬと存じます。
東宮様のことは東宮大夫穂積重遠の無責任では駄目ゆえ東宮参与小泉信三に替ってもらうという具体案ができてお許しを得て実行しましたが、常陸宮についてはなお研究中。
昭和天皇◆田島は戦争後になって宮様方が平民的自由と皇族の特権とを両方活発にやられるようになったと言ったが、戦前からずいぶん平民的な特権をやっておいでだった。
一つは別当などの人がついていたことと、今一つは検閲制で新聞に出なかったというだけだ。

1950年7月8日
田島長官◆三笠宮は宮内職員高尾亮一に「エチケットの点は誠に申し訳ない」と仰せになりましたそうでございますが、「共産党に関しては自分の考えがあり、御国のためと思えば国から皇族費をもらっておる以上言わざるを得ない」というような説をお述べになり、
高尾は「今あなたはパージ同様の御身で、政治につきいろいろ仰せになるはよろしくありませぬ」と申し上げ、まあ御納得の様子とのことでありました。
三笠宮はやはり田島など老人の言よりは、高尾などの若い人の言うことの方が御耳に入りやすいようであります。

1950年7月10日
昭和天皇◆三笠さんが歳費をもらうから国のためと思うことは言わなければならぬと言うは間違ってると思う。
田島などが国から俸給をもらうのと、宮さん方が国から歳費をもらうとは意味が違うと思う。
宮さん方が歳費をおもらいになるのは、皇位継承の身分としてまた摂政になり得る地位として、これは実現する場合が少ないとしても、私の御名代で地方へ行っていただく時などは明らかに私の代りであって、そのためには政治にわたる問題など御話になってることは非常に妨げとなることゆえ、その点をよくお考え願ってよほど慎重に御行動していただくより他ないと思う。

1950年7月11日
昭和天皇◆三笠さんが茶をやっておられるとのことで、近く名古屋に行かれるとのことゆえ、先生は近所の人ということだが、そこへ来る人はどんな客か。
田島長官◆そっと調べましょう。
昭和天皇◆茶道の真髄を把握されればこれは結構だが、茶道によって交わられる人によってはどうかと思う。

1950年7月24日
田島長官◆三笠宮御移転の御希望にて、赤坂御用邸内に新築御希望の由。
昭和天皇◆何の理由で移転か。
田島長官◆お子様通学のため、および洋行の時の御用心ではないかと思います。

1950年7月30日
田島長官◆大正皇太后〔貞明皇后〕に拝謁、三笠宮の共産党云々のことは申し上げように注意しまして事実ありのまま申し上げ、次に三笠宮邸新築の問題はあらかじめ大正皇太后〔貞明皇后〕御承知と承りしところ、初耳のようにて、「新築は相当金額ゆえ、ただいまの所でガソリンを用いて御通学の方がよい」との御話あり。
昭和天皇◆三笠さんはデモクラシーで自動車をお用いに議論あるべし。
田島長官◆宮内庁の内には、「赤坂御用邸内に御邸新築ということと平素の三笠宮の御主張は一致せぬ」と申す者もあります。

1950年9月18日
田島長官◆東京新聞の三笠宮の御意見発表は、現地で同様の御発言がありましたか否か心配になり、現地に聞き質しましたが、現地ではそのことございませんでした。
昭和天皇◆高松宮妃殿下のように発表前にお見せいただくといいのだがねー。
もっとも高松さんは妃殿下のやり方に御反対だそうだが。

1950年10月31日
田島長官◆三笠宮が白衣勇士のために何か御活動を始められるというニュースが読売方面から入りましたので、宮内職員高尾亮一に事情を伺いに出させましたところ、義手義足の関係からある程度力にはなろうと仰せになり、新聞記者にそのことを電話遊ばしたということでございます。
昭和天皇◆だいたい、新聞記者に進んで電話をおかけになること自体がどうかと思う。
田島長官◆その点ちょっと困ります。

1950年11月14日
田島長官◆三笠宮よりまた御邸問題・洋行問題の御話あり。
洋行は講和後になりても皇弟の御立場上、御留学とは申せ随員等のことも考える要あり。
したがって経費等のこともあり、国際国内状勢に大によることゆえ、なかなか決定難しきむね申し上ぐ。
昭和天皇◆三笠さんは全体的な総合的結論でなく、一局部のことでグラグラ意見が変わるのは困る。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1951年11月27日
三笠宮洋行の件にて拝謁のはずなり。

1951年11月29日
三笠宮御来室、御渡米希望。
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『入江相政日記』侍従長

1951年4月22日
三笠宮から御電話で「これから行ってもいいか」ということでおいでになる。
何かと思ったら、「夜まで御勉強になることになったが夕食の用意がない。何か名案はないか」ということで、お勧めしたら「では御馳走になろう」ということで、いったんお帰りになり、夕食の支度ができてからお知らせして、6時過ぎにおいでになり8時にお帰りになる。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1951年6月5日
昭和天皇◆昨日突然秩父宮妃殿下と高松宮妃殿下が来られて、高松宮妃殿下は宮中服は失敗だったとの観念があるらしく、はっきりあれは間違いだったとの話はないが、秩父宮妃殿下は別の態度で何か一新軌軸を出そうとしたもので、一朝一夕に廃すべきでなく、また戦時に関連したものでもないとのお考えが強く、とても強固だ。
それほど時局に影響ないならば、その時にも私は言ったのだが、
「戦争済んでから日本古来の伝統も考えてゆっくり新しいものを創造していいではないか」
それをあの際やったのは、何と言っても戦時色あるを免れぬと思う。
三笠さんなども「洋服は米英式だ」と言ってたような時代で、
私は「ドイツ式でないのか」と言ったことがある。
だからこの際 私の天皇服のように一時 人の目の見える所のみとして、世の批評を聞き、再検討・再出発すればよいので、そのつなぎに和装をやってみれば、またそれの批評も出よう。
秩父宮妃殿下が宮中服成立の経緯につき、相当主張あることを物語りしゆえ、話が出るかもしれぬから参考に話す。
田島長官◆田島は大正皇太后〔貞明皇后〕に昭和皇后和装の明瞭な同意を得るつもりでありましたのが御崩御ですが、陛下の御趣意にも合しまするゆえ、和装をお始め願えばよいと存じます。
昭和天皇◆秩父宮妃殿下が宮中服に執着強く、改良してモノにしたい意思が強いが、何か古い伝統のあるものは廃するに忍びぬことがある。
田島長官◆それはそうでありますが、宮中服はそういうものではありませぬ。
昭和天皇◆そうだよ。

1951年6月15日
昭和天皇◆大正皇太后〔貞明皇后〕の御遺書の事だがねー。
大正皇太后〔貞明皇后〕は筧克彦の御進講「神ながらの道」をお聞きになったのだが、その筆記をどういう意味かわからぬが秩父さんにあげてくれとある。
これはその通りにするだけのことゆえ差し上げてもいいが、どうして秩父さんかということはわからない。
とにかく秩父さんは貞明皇后の一番お気に入りであった。
三笠さんも末のお子さんで〔溺愛され〕高松さんが御不平で、
戦争の時 支那の上海か何か危険な所へお出でになったのも、その御不平のためであったような話も聞いた。

1951年7月9日
昭和天皇◆中部日本の新聞に大正皇太后〔貞明皇后〕を悲しむ歌を秩父宮妃殿下・高松宮妃殿下がお作りの時、三笠さんが断ったというのはどういう訳か、私にはわからぬ。
そのことで両妃殿下が廊下まで良宮を追いかけてきて聞いておられた。
三笠さんの従来の行動と矛盾で不可解だ。
田島長官◆三笠宮は宣伝的なことはやめたいという御趣意のようでございます。
昭和天皇◆それはおかしい。
従来三笠さんはずいぶん新聞にいろいろ宣伝的なことをなすったではないか。
田島長官◆それは、今後は宣伝的なことをおやめの意味でございましょう。
昭和天皇◆御反省で今後もなさらぬなら結構だが、どうもわからぬ。

1951年9月7日
田島長官◆一億円の宮殿化費用という東京新聞の記事に関し、三笠宮から田島へ御手紙をいただきました。
「住むに家なき人もまだ多く、白衣の勇士の物乞もあり、高税に喘ぐ国民多数の中で、宮殿のできることは不賛成。場合によれば私はそこへは足踏みせぬつもり」というような意味でありましたゆえ、参上して真相を申し上げ御理解を願おうと、御心持には全然同感のむねを申し上げ、外国使臣拝見の場所の絶対的必要・皇太子様御成年式は大喪儀のように戸外でやれぬこと・陛下の御住居でなく象徴としての機能施行場所なることを申し上げ、わかったとの御言葉はありませんでしたが、反論は一語も遊ばしませんでした。
なお6千万円という貞明皇后大喪儀の巨額ひねくれてお考えの点は争いましたが、「いや、そういう意味ではない」との仰せで、だいたい御了承を得たと存じております。
6千万円巨額のようでも、英照皇太后の70万円は物価指数を掛ければ約5億円で、その一割強の6千万円は多額とは言えず、それは御納得でありまして、「貞明皇后の場合やむを得ぬ」と仰せになりました。

1951年12月3日
昭和天皇◆三笠さんがまた読売新聞に出てる。
東京新聞には文部大臣天野貞祐との対談があった。
あれはまだいいが、読売の方はどうかと思う。
田島長官◆三笠宮が皇居再建に御反対のことは前からでございます。
最近また増えて参りました。
文芸春秋のレスター女史との御談話の中にちょっとどうかと思います御発言があります。
昭和天皇◆皇族という身分を顧みれば、言うべきでない事はたくさんある。
普通人でも高位とか責任の地位になれば言いたいことも言えず、退職後もその責任は残るものだ。
いやしくも皇位継承のありうる身分の方として言葉を慎んでもらわねば。
田島長官◆高松宮は上手に物を仰せになりますが、三笠宮は純と申しますか仰せになりますので、陛下も時々お困りになりますが、以前から見ればよほどお慎みのように存じます。
昭和天皇◆高松さんも田島の来ぬ前の頃は相当お話になった。
田島長官◆三笠宮の御洋行の件は先年陛下にお伺い致し、御兄弟みなさま御洋行ゆえ時期が来ればお出かけは結構と思うが平和まではとの御話を承りおりました。
終戦直後とは違いアメリカとの関係上御微行といえども事務官か何かが随行せねばどうかと思われまするし、従来は在留邦人とかの寄付にまって費用の御支弁というような話も出ておりまするが、今日となっては国の費用ということになろうかとも思いまするし、皇室としてはその旅費をお出しいただく訳には参らず、いろいろ難しいと存じます。

1951年12月9日
田島長官◆三笠宮御洋行のことは、首相吉田茂は「皇弟として寄付金等にて御旅行は国の威厳にも関しまするゆえ、三笠宮のおいでとなれば国会も費用は承認しましょう」というような話でありました。

昭和天皇◆三笠さんは読売や文芸春秋などで人が政治に利用されてるなんて言っておられるが、三笠さんは文芸春秋に利用されてることには気づかれぬのかしら。
おかしいではないか。
また礼のことを言っておられるが、行事となれば多少バラバラで困るというような場合もあり、きっかけを必要とすることもあるので一概に言えぬのを、ああいう風に言っておられる。
田島長官◆一理あるも全面的には御賛成申し上げかねる節もあります。
昭和天皇◆アメリカがこうやって占拠している以上はいいことは言わず、どうしても長く当局におれば出てくるマズイ事柄を取り上げて、反米思想に乗じて共産の者が共産主義のために美名を平和とか戦争反対とか言っていろいろやるのは困ったものだ。
これはちょうど戦前に軍閥者が忠君愛国というような、ちょっと文句の言えぬ事を看板にして戦争へと駆り立てたのと同じであって真に困ったことだ。
それゆえ政府はアメリカに対しては反米思想の起こる原因を無遠慮に言って反省してもらい、日本国内に対しては共産主義の仮面の平和の美名の正体を暴露して、大いに戦うことをせねばならぬと思う。

1951年12月25日
田島長官◆また三笠さんが読売に載っておられます。
昭和天皇◆あの内容は以前にすればよほど慎重で言葉を濁し、首相が譲位ばかり論じていて、譲位の結果の実際というようなことを少しも考えていないといった事を言っておられる。
田島長官◆言葉を変えますれば三笠宮以外の誰か普通の人の意思ならば結局譲位は駄目かとの結論とも見られ、ああいう風に新聞社へお出かけになりあいう問題に口をお出しになることがいかぬと存じます。
式部官長松平康昌と記事の件を話し合い、「三笠さんは細かいことにはを頭が良いが、大綱の御判断は少し〈おつむり〉(頭)が悪いようだ」と申しましたが、宮様方は逆であって欲しいのでございます。
昭和天皇◆それは陸軍の教育の弊だ。
細かい事に頭を働かしすぎる。
東条なども首相で相当細かった。
田島長官◆三笠宮はああいうジャーナリズムに出ることがお好きのようでありますが、陛下の仰せの通り自由は人権として認められていますが、地位の一番高い天子様は一番自由を束縛されておいでになり、皇族としてはあまり御自由と思し召されぬ方が願わしいのでございます。
三笠宮の御洋行の際、御供が非常に難しいと存じます。
昭和天皇◆それは非常に難しい。
例えその人物が良くても三笠さんとのコンビが悪ければ何もならぬ。
コンビは同型でいいこともあるし異型でいいこともあるが、いずれにしても三笠さんとのコンビが良くなければ駄目だ。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1952年2月13日
三笠宮「イギリス戴冠式名代どうするか。外遊にとっては最も良い機会だが」との御話。
「御差遣あるかもわからず、またあってもお近い御関係の方ですかしら」と言う。

1952年4月20日
三笠宮、ヘルシンキオリンピック行きのことお尋ねあり。
「三笠宮御洋行の当然を政府側が言うまでは待ちの方得策でなきか」と申し上ぐ。

1952年4月25日
三笠宮来室。
金を自弁すればヘルシンキオリンピック行ってもいいかとの御話。
それも不可、時期お待ちのこと申し上ぐ。

1952年4月27日
秩父宮に御言葉の文申し上ぐ。
「固い・抽象的、まずよからん」とのこと。

1952年4月28日
高松宮に御言葉の文申し上ぐ。
「戦争のことは言わぬ方よし。今さら平和論を言うと言われる」とのこと。

三笠宮に御言葉の文申し上ぐ。
約50分熟考、御説あり。

1952年4月29日
三笠宮、御言葉について意見書御持参。

1952年5月3日
式典は無事終了。
約一年苦労の御言葉もよし。

1952年5月5日
白根松介、GHQに三笠宮御渡米のこと相談、大筋の当りよろしいと言う。

1952年5月10日
三笠宮、都立大学寺沢助教授釈放運動のこと話す。
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『入江相政日記』侍従長

1952年3月4日
里見岩雄の『三笠宮に対する公開状』を読む。
実によく書けていて、我々の言わんとすることを全部言っている。
これは相当に効くだろうと思う。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1952年1月3日
昭和天皇◆『貞明皇后』という本を見ると三妃殿下の歌が載ってるが、ああやって載るぐらいなら中部日本から御三方のお歌と言ってきた時、三妃殿下お出しになればいいのに、三笠さんが「そんな宣伝のようなこと」と言われたのだが、矛盾してるねー。
人のことは宣伝などと言って、御自分もずいぶんいろんな新聞に宣伝的なことを書いたり喋ったりしておられる。

1952年2月11日
田島長官◆英ジョージ6世の葬儀は東京で大使館主催の弔祭式があるかと存じますが、ヴィクトリア女王の時は小松宮彰仁親王両殿下、エドワード7世の時は皇太子両殿下〔大正天皇夫妻〕ジョージ5世の時は高松宮両殿下が御名代ということでおいでになっておりますが、今回は国際関係が正常でございませぬので御名代はどなたにお願い致しましょうか。
昭和天皇◆秩父さんは御病気で御無理ゆえ、高松さんにお頼みしてもらおう。
田島長官◆皇后陛下御名代も高松宮妃殿下にお願い致しましてよろしゅうございますか。
昭和天皇◆御健康はどうかしら。
万一健康上の問題があれば秩父宮妃殿下にお願いしてくれ。
田島長官◆まだ先のことでありますが、戴冠式が6カ月後なれば国交回復後と存じます。
その節もし駐英大使でなく御名代というような場合はいかがでございましょうか。
昭和天皇◆御親類の国は別として他の国の参列者の振り合いを見て、例えばフランスが大統領自ら行くという場合で政府も希望するようなら、私はむしろ名代が行った方が良いと思う。
その時もそれはやはり高松宮だ。
秩父さんは行かれないから、また三笠さんは歳もお若いから。

1952年2月18日
田島長官◆三笠宮が田島の部屋へおいでになりまして、
「戴冠式の御名代はどうなるか、私の外遊ということについて最も良い機会だが」との仰せでありました。
突然でありましてビックリしましたが、直接こんなに早く御話が出ようとは予期いたしませんでしたが、「8月よりもっと早いかもしれませぬ。したがって正常国際関係が復活していないかもしれませぬし、またその際皇族がお出かけになることになるか大使的な人になるかも分かりませぬ」とハッキリせぬお答えを致しておきましたが、陛下に直接御話があるかもしれませぬゆえ、ちょっとお耳に入れておきます。
昭和天皇◆高松さんは社交のことは御上手で、私なんかよりとても御上手だし、秩父さんが行かれれば一番良いがそれは駄目ゆえ、高松さんはこういう時には適当な御長所がおありだ。
この前高松さんが行かれたのはガーター勲章の御答礼で戴冠式とは違う。
戴冠式だからねー。

1952年2月25日
田島長官◆今日の新聞には戴冠式はやはり8月7日で、先方から招待状が来てみなければわかりませぬのだそうでございます。
昭和天皇◆イギリスは昔から親善だから、できれば今後も。

1952年2月29日
田島長官◆秩父宮から御手紙をいただきましたが、戴冠式に御名代の問題があれば東宮様がよろしいということであります。
田島はそれまで想像もいたしませんでしたが、御手紙を拝見してみればごもっともであり筋の通ったことで、具体的に考えてみるだけの要はあると思いました。
侍従長三谷隆信は消極的で、東宮職では若い連中はとにかく東宮参与小泉信三・東宮大夫野村行一の間では否定的に傾いております様でありますが、秩父宮に直接お伺いして両陛下に申し上ぐべきと存じまして藤沢〔秩父宮別邸〕へ上りました。
秩父宮は例の通り御自分の結論に反する事は枝葉的にお考えになりお論じになりますが、秩父宮の仰せは大筋はよく通っております。
「戴冠式御参列は難しいことでなくなんでもないことで、御役目というものがない。これは高松さんがガーター勲章の御答礼においでになったのとは全然違う。スターとして主役は何もない。ならびに大名的である」ということで、御自分様の御経験の順序を伺いました。
「前夜グロスター公の晩餐会から始まって、当日は式部官に誘導されて席にお着きになるだけ、国会での午餐・バッキンガムでの午餐も向こうの人は不慣れな方にはちゃんと気をつけてくれるから心配無用。私的にはクイーンがお呼びになる少数の宴会もあろうけれども、大してお困りになることはない。随従の者もある程度までお付き添いできる」
「軍艦は無し、飛行機も汽船も外国のものであり、右翼の者から問題にされる」ということも申しましたが、
「日本が一等国だった時のことを思っては駄目だ」との仰せでした。
秩父宮は非常な御熱意で、「話が進まなければ陛下に直訴する」との御話でありました。
田島もこういう場所へ一度おいでになればその御経験は御自信をお付けになる機会でよろしいかとその点は結構と存じますが、田島・宮内庁次長宇佐美毅の積極に傾くこと三谷侍従長・小泉参与の消極に傾くこともあくまでも感じで、まだ意見と申すまでのものでもございません。
昭和天皇◆交通の問題を心配するのは右翼ばかりではない。
東宮ちゃんとしてはまたとない機会であるが、東宮ちゃんは身体が健康とは言えないし、行くとすれば香港・シンガポールの線はどうしても不可と思うゆえ、カナダかアメリカ経由ということになる。
そうするとイギリスに行く前に相当疲れてしまうと思う。
その上イギリスの儀式ということは主役でなくてもやはり疲れるから、その点どうかと思う。
秩父さんの議論は筋は通っている。
これは三笠さんをやめてもらうには非常に良いがねー。

昭和天皇◆東宮ちゃんの御名代の話ね、良宮と話したのだが「それはちと早い、若すぎる」と言ったのだ。
しかし私が「私がイギリスへ行った歳と比べると1年かそこらの差だよ」と言ったら、
「そうですか。そんならむしろ賛成です。行ったほうがいい」と言うのだ。
それでまたとない機会だし筋の通ったことだから、具体的な事とか客観情勢とか国民感情とかで行けなくなることもあるかもしれんが、それらの点が全て差し支えないならまあ望むという方の考えだから。
実は私は東宮ちゃんが長く留学というようなことはあまり好かぬので、そういう意味での留学とか洋行とかいうことはやめたいと思うぐらいだ。
アメリカが留学など言う時でも、これをやっておけばそれを断るにもいいしね。

1952年3月4日
昭和天皇◆昨日ニュース映画〔上映会〕に三笠さんが来られて、
「戴冠式には誰が行くのか」という御話であったから、私は「研究中だ」と言っておいた。
田島長官◆御自分でおいでになりたいとは仰せになりませんでしたか。
昭和天皇◆それは言わないが行きたいらしい。

1952年3月5日
田島長官◆吉田首相は戴冠式の問題は東宮様で非常に賛成でありまして、秩父宮から御話のあった際すぐ結構と申し上げましたようでございます。
両陛下の御思召もお進みであり、秩父宮さまは御発起であり吉田首相も大賛成とありますれば、経費の点もまずよろしかろうと存じます。
この問題は新聞記者の注意を引き、今朝の新聞にも高松宮とか出ております。
昭和天皇◆東宮ちゃんは船に弱いが、それは寝てればいいから船がいい。
飛行機は墜落せぬと限らぬから船がいい。
フランスは共産党が多いからやめか。
それでもベルギー・オランダ・スウェーデンは王国だから行った方が良い。

1952年3月7日
田島長官◆戴冠式の件、第一に船にしましても飛行機にしましても御疲労になることと思われまするし、次に船はまず大丈夫でありまする代り、陛下の時の軍艦とは違いアメリカ汽船等であれば新聞記者の同乗者が相当あります上にアメリカの乗客が相当うるさく、結局船で御静養できず御疲労になるということで、それよりは飛行機の方がよろしくて、同乗者は制限されまするし、早くお着きになって御静養の方がよろしいとの意見。
東宮様となれば飛行機会社の競争激しく、そのためには何か失敗すればその会社の運命にも関しまするゆえ最良の飛行機・最良のパイロットを必ず使うものと思われ、決して危険はないとの説もありまして。
昭和天皇◆うん、それもそうだ。飛行機だねー。
田島長官◆新聞記者なども宮様は三宮様〔秩父宮・高松宮・三笠宮〕で、秩父宮は御病気として、他の二宮様ではあまり世の注目を引かぬらしく、秘かに東宮様と思ってるのもあります。
昭和天皇◆どうしてそんななのかねー。
高松さんは社交は御上手だし、内地でもいろいろお出ましになるが、それがかえって困るということになるらしく、大正皇太后〔貞明皇后〕から直接伺ったが、埼玉県県会議長が直接大正皇太后〔貞明皇后〕へ「高松宮は困る」と言ってきたことがあるとの話で、大正皇太后〔貞明皇后〕は否定の御返事をなすったと聞いたが、そういうこともある。
田島長官◆実は吉田首相が初めから東宮様と思いましたのも、両宮様がイヤなためもあるかと思われます。
昭和天皇◆吉田はどうしてかねー。秩父さんはいいようだが。
田島長官◆高松宮は御招待もお断りしますし、封書も拝見せんでお返しいたしますし、吉田は感情的にイヤらしゅうございます。

昭和天皇◆「糸川松平直鎮子爵は1~2年前だったか、朝融さん〔久邇宮朝融王〕と一緒に来て、何か神がかりの迷信のようなことを言うから反対したことがある。
〈北辰教〉のやり方は真に困る。
そういう邪教はどうしてできるか。
信仰の自由は困るねー。
三笠さんも「天照大神はいかぬ。神様で日本は敗けた。〈高御産巣日神〉の信仰でなければ」と言われたこともある。
田島長官◆三笠宮がいろいろなことお論じになりますことに、御忠告する公開状が右翼の雑誌に出ました。
半分読みましたが、ごもっともと存じます。

1952年3月14日
田島長官◆三笠宮家経済顧問入間野武雄〔元日本専売公社総裁〕が参りまして、三笠宮家では四半期に20万円入間野にお預け年間80万円貯蓄をなさいますことを来年度より御実行とのことであります。
また入間野懇意の本屋から三笠宮に何か書いていただきたいという話がありました時、入間野は田島の名を使いまして駄目と断ったと申しておりました。
昭和天皇◆三笠さんが怒りはせぬか。
田島長官◆それは入間野が適当にいたします。

1952年3月25日
田島長官◆三笠宮がおいでになって、「東宮様は決まったか」とお尋ねがあり、
「宮様も好機会があればお出かけ得られます」と申し上しところ、
「ヘルシンキオリンピックはどうか」との話がありました。
よほど洋行に御熱心と存じます。

1952年4月25日
田島長官◆三笠宮がおいでになりまして、御洋行希望のお話がありました。
「ヘルシンキオリンピック選手の名誉団長というような資格で行くということはどうか」との仰せありましたので、
「宮様の海外御は内地で遊ばしているようなわけには参りませず、国費でしかるべき御供を連れてお出かけが必要と存じます。いつか吉田首相に話しました時も、国費でなければならぬ意見のようでありました。今回イギリスの戴冠式も1億近い金が要るのではないかと思います。その上に皇族様の海外御旅行費を国費でということになれば、何かちゃんとした廉がありませぬとどうかと存じます」と申し上げておきましたところ、
今日は「国に費用を厄介かけねばどうか、オリンピックで」との御話でありましたゆえ、
「天子様の御兄弟としての格式がありますから御供は要りますし、やはり国の費用によるべき事でありますゆえ、お急ぎない方がよろしゅうございます」むね申し上げました。
昭和天皇◆三笠さんの行きたいことはよくわかるが。

1952年4月28日
〔1952年5月3日サンフランシスコ平和条約発効記念式典の御言葉〕
田島長官◆三笠宮は御言葉を綿密に6回はお読み返しになりまして、
そして御意見として「《アメリカを始め》は無くて良い。連合国の中に含まれる」との仰せ。
それから「《国本に培い》とはどういう意味か」との御質問で、
「民力を養い物質的な面に対しての精神的な基本の意味」と申し上げましたが、
「どうもわからぬ、字引を持ってこい」とて引きましたが、国の基本となることとあるのみでありました。
その他には「全体的に文章語と口語がチャンポンである。もっと文章語を取って口語文にすればよい」との仰せでありました。
ただし「《今や世局は》から《期してまつべきであります》までは満点だ」との御話もありました。
ずいぶん時間をかけてお考えでありましたが、口語体でないのと《アメリカを始め》の二つだという御話でありましたが、御退位のくだりには何の仰せもありませんでした。
お三方〔秩父宮・高松宮・三笠宮〕ともに御話を致し終りました。
昭和天皇◆《アメリカを始め》は、やはり反米的なのだろうねー。
私は取ることは反対だ。
アメリカが一番友好的であったもの。

1952年4月30日
田島長官◆三笠宮にお目にかかりまして《アメリカを始め》御異議のありますることは既に申し上げましたが、御一心にお考えになりまする御性質で昨夜遅く突然お訪ねになり、文書にしたとてお渡しがあり拝見いたしましたが、文体よりして見ますれば陛下に開陳しておいでのように存じまする。
私はもとより改訂お願いする意思はありませんが、陛下への御意見書を私が途中でしまい込んでしまいますこともできませぬので、ここに差し上げまする。
(と申し上しところ、
内容を見ようともなされず封筒を手になされたままで)
昭和天皇◆三笠さんは何でも一徹で、洋行のこともそうだが、英米といっても今度は違う。
またアメリカのやり方も感心せぬ事もあるが、朝鮮動乱でもアメリカが率先しなければイギリスはじめ誰も出兵しないし、もし朝鮮の南までソ連化すれば日本はどういうことになるか。
経済援助もアメリカのみがしてくれたし、条約がを結ぶとしてもイギリスだけだったらあれより寛大でないものになったろうと思う。
イギリス国風が保守的ということと王室があるということとが日本の親しみだが、国情から言ってイギリスは日本に対してはアメリカと違った立場に立つようになってるから、《英米を始め》とすることはできぬし、単に連合国とだけはアメリカに対する気持ちとしても不十分だと思う。
三笠さんは個々の事柄で筋が通れば大局から見ないで、その個々との小さいと思われる事から結論を出されるのはどうも感心できない。
文章の体のことは過渡期で程度の問題で、私もみなにわかる方がいいが、いろいろ考えてああなったので。

昭和天皇◆三笠さんのを読んだけれども、第一こういう文案を見せて意見を聞いているのではないのを誤解してるようだ。
田島長官◆その点は誤解ありませぬように三笠宮にも申し上げました。
今回こういうものをお出しになりますことになりましたが、陛下としては宮様方が式で初めてお聞きになるのも御不本意で、事前にお見せになるという意味のことは誤解なきようお伝えいたしまして、秩父宮・高松宮は御了解であります。
三笠宮も御承知でありますが、御性格上思い込みになりますと申し上げられずにおられない方と存じます。

(「第二に」とて《アメリカを始め》を削り《英米を始め》とすることについて陛下は強い反対の御意見で)
昭和天皇◆三笠さんはアメリカがはじめに共産党を歓迎し後に圧迫したと言っておいでだが、その他はじめにまずくて変えたことが多いと言っておられるが、行きがかりにこだわって頑張るより君子豹変でアメリカが過を見て改めるは私は偉いと思ってるくらいだ。そしてアメリカのやり方が大局において日本のためであったことは争えぬことだ。

1952年5月12日
田島長官◆三笠宮が5月1日の事件で検挙されました都立大学の寺沢恒信という助教授が、『人物がいいから釈放されたい』と元警視総監石田馨を通じて警視総監田中栄一に御話になったということであります。
こういう一種変な進歩的な事を遊ばす方は、御洋行はよほど考えものと思っております。

1952年5月13日
田島長官◆宮内職員高尾亮一から三笠宮に寺沢助教授釈放御依頼の件の御軽挙をお責め致しましたところ、相当御困却の御様子で「宮内庁長官・次長は知ってるか」とのお尋ねがありました由。
いわんや陛下にまで申し上げありとは御存知ありません。
「砂が少しついてても検挙するという警視庁のやり方を非難し、寺沢もその程度と思ってやったことだ」との御弁解だったそうですが、寺崎は一隊を指揮したとかの話であります。
たとえ端役でありましても、宮様としてそういう軽い御行慎んでいただかなければ困ります。

1952年7月2日
昭和天皇◆散歩してる所へ三笠さんが突然おいでになって、〈世界仏教徒会議〉の総裁をやるのがおイヤのようで、その理由が前例になるからとか形ばかりの総裁で内容に触れぬからというようなことらしいのであるが。
田島長官◆田島はこのことにつきまして相談に与っておりますが、宮内庁と致しましてはお受けになりましても差し支えないものでありますが、ぜひお受け願いたいとも申し上げておりません。
三笠宮は「受けなければならぬ」というようなお口ぶりでありましたが、その際田島は初めて5千万円くらい募金の要があり、博善社と申します葬儀屋を事業としている坊さん〔中山理々〕が事実上の首脳者ということを伺いまして、「その2点はちょっとイヤなことと思います」と申し上げました次第で、三笠宮は「先方としては大会の時の挨拶とレセプションの時の主人役だけだ」と言っておいででありました。
「ただ仏教を一つやると宗教のことは今後断れるぬようになるから」との御話もありました。
よくわかりませぬが、受けるかどうかお迷いのようであります。
昭和天皇◆田島の今の話を聞かぬうちは、私はむしろお受けになったらいいと思ってた。
三笠さんの言われる会の内容にあまり立ち入れぬのことはつまらぬという考え方は間違ってるので、皇族が名誉総裁になるのはその方がよろしいと私は思ってるので。
ただし今田島に聞いた話では私も考えを変えねばならぬ。
田島長官◆高松宮の赤十字社の場合など総裁として相当仕事に関わりがあったような御話でありますが、これはおよろしくないかと思いますので。
昭和天皇◆皇族は責任を取ることができない。
例えその総裁を辞めても皇族は辞めるという訳にはいかぬ。
実際の仕事に当るということはやらないようにしなければならんと思う。

1952年7月4日
昭和天皇◆さっき三笠さんが来て、田島が言ってた募金のことが少しイヤだがとて、今日は別に受けるのをイヤがる口調はなかったよ。
田島長官◆三笠宮が『赤旗』にインタビューで御話になりましたことが外国へ響いているということで、ロシアに関係ある世界的な会合に日本も出席すべきだというようなことと聞いております。
先だって福島の新聞の事件は申し上げましたが、〔三笠宮が福島県の警察予備隊誘致を批判した〕三笠宮は一部的に真理と思われますると全体的にどうかと思うこともドンドン言われまする。
昭和天皇◆地位を考えない、その影響がどうあるかということを少しも考えない、困る。
それは秩父さんも高松さんも、御地位ということ影響如何ということのお考えがどうかと思う。
田島長官◆高松宮は御言葉はなかなか御利口に仰せになりますが、御行動は必ずしもそうも参りませぬようで、平和になったという御気持が多少は関係あるかもしれません。
昭和天皇◆平和になった今日ますます世間の目が光るから慎重の要がある。
田島長官◆警視総監田中栄一が三笠宮につきまして宇佐美次長に話したいことがあると申しておりました由。
これは騒擾被告釈放のことと存じまするが、場合により御忠告申し上げようと存じております。

1952年7月18日
昭和天皇◆その後三笠さんの『赤旗』のことはどうか。
田島長官◆三笠宮のあまり御慎重でないことが世間にも広まり、だんだん重きを置くことがないようになる傾向があるやにも存じます。
この度予備隊へ参りました元侍従武官吉橋戒三が申しておりましたが、士官学校時代から同じ御性格で、どうもちゃんとしておいでにならない御性格というようなことでありました。
昭和天皇◆三笠さんは御子様も4人もおありで、そんな風では困る。

1952年8月27日
田島長官◆三笠宮の仏教大会の問題は結局お断りになりましたそうでございます。
今になって小さな理由でお断りになりましたことは少しどうかと存じますし、こういう風で外国へなどおいでになりますことは皇弟としていかがなものか、ちょっと考えさせられまする。

1952年9月8日
田島長官◆小泉参与が「東宮様はdutifulである」と申しまして、先般の長野県御旅行の際も大変よく遊ばしたということで結構なことと存じております。
昭和天皇◆評判がいいのはいいことだ。
それにしても宮様方は。
田島長官◆三笠宮が皇居前広場をメーデーに禁じ警視庁の練習に許すのかどうかということを厚生大臣吉武恵市に御話になり、それが警視庁に伝わり警視庁では皇居内の一部を貸してくれとて申して参りました。
甚だ面白くないのでございます。
御意見を宮内庁の者にでもちょっとお漏らしになればと存じますが、直接政府の役人に仰せばまずい場合を生じると存じます。
昭和天皇◆常に政治向きの発言なきよう言ってあるのだが。

1952年9月10日
田島長官◆外務省から連絡がありまして、いよいよエリザベス2世戴冠式に陛下の御名代がおいでいただけるか、またそれはどなたかを御通知願うというような申し入れが、駐日イギリス大使デニングから外務大臣宛にありました由。
(とて、右文章を翻訳して申し上ぐ。
ミッションは3人以内とか一行も最小限度とか注意事項に)
昭和天皇◆3人の制限が一行のことでなければそれでよろしい。
(交通に関しては往路カナダ経由・帰路アメリカの御希望あり)
昭和天皇◆フランスは共産党強きが如何。

1952年9月13日
田島長官◆イギリス戴冠式の招待が参りましたために吉田首相と打ち合せましたところ、これを閣議に付して決めるとのことでありましたが、閣議は機密が保たれませぬからと交渉を重ねまして、閣議で原則として御名代は御差遣に相なるということだけ決めましたが、外務大臣岡崎勝男と話しましたところ、外務省としては今月一杯いっぱいくらいに原則的なことを返事をいたし、どなたがお出かけになりますかということは今年一杯くらいと申しておりました。
イギリス女王にどなたということがわかるまでは秘密にというイギリス側の希望も、他国の招請に応ずる具体的返事など公表されますると新聞社の問い合せもありましょうがと心配しますが、岡崎外相はノーコメントと申しておりました。
予算の裏付けのないのは困りまするが、これは総選挙後の国会の補正予算以外に手はなく、予算を作りますためには日程供奉員御巡遊国等目安を宮内庁で秘密に立てませんと大蔵省へ要求もできませぬゆえ、極秘でこれにかかっております。
陛下の御意思は御決定と拝しまするが、東宮様は既に御了承でございましょうか。
昭和天皇◆招待状なき以上まだ話していない。
私が言うか、良宮にでも言ってもらうか、田島の方からか。
田島長官◆両陛下から御内話願えばよろしいかと存じます。

田島長官◆東宮様御名代のことは極秘のことでありますが、秩父宮の御発言によって参りましたことゆえ、招請のあったことぐらい陛下から秩父宮と御話になりますることは如何と存じました次第であります。
(陛下、別に何とも仰せなし)

1952年12月9日
田島長官◆三笠宮が『青年よ、銃をとるなかれ』という一文をお書きになりまして雑誌にお載せになりましためか、ウィーンで開かれる共産系の会合の案内が来まして、その返事を書くよう式部にお話があり、官長が御返事なき方が良いむね申し上げ、どうしてもお出しになるとしてもお断りというだけで良いと思うとのことで、日本文で変な御返事でもお出しになれば良くないと存じます。
御地位をお考え願いませんと。
昭和天皇◆困るね、それは。高松さんもだ。
田島長官◆高松宮は改進党の代議士に招かれて栃木県においでになりましたのが、だいぶ問題のようであります。
昭和天皇◆改進党なれば。
田島長官◆保守党ではありますが、その代議士の人物がどうも感心しませぬので、政治的に御利用になられたことで反対党の代議士連がブーブー申しておりまして。

1952年12月18日
田島長官◆東宮様御誕辰拝賀のことでありますが、新嘗祭の時 東宮様が殿上で御拝になります時、宮様〔高松宮か三笠宮〕から「前例はあるのか」とのお尋ねがありまして、「あります」と申し上げましたが、その御質問の裏には宮様方はモーニングで拝礼かと思っておいでであったかと想像されますから、「本来は宮様方も御装束をおつけ願うのであります」と申し上げましたが、「それは嫌だ」との仰せもありました。
それから御神楽の時 東宮様御拝の時に臣下は起立いたしますが、もちろん宮様方はおかけのままであります。
これは親王として御同等とのお考えもあるかと存じまするゆえ、御誕辰拝賀となりますると宮様方の御誕辰にも東宮様が賀にお出かけになるべきかという問題もあり、真に難しくデリケートでありますため、御思召を拝したいと存じまして。
昭和天皇◆それはなかなかデリケートだが、皇太子の身位は未来の天皇で、私には叔父甥でも公には一段高いのだから行かぬでもよいと思う。

田島長官◆雑誌『改造』に細川護貞の話が出ておりまして、〔『真相天皇に達せず』〕今回は天皇に真相伝わらずという書き方でありますが、近衛文麿びいきで木戸幸一ぎらいのようであります。
昭和天皇◆ちょっと私にも当たっているような所もある。
三笠さんが終戦の時はそんな言い方であった。
大統領の方がいいくらいだ。
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三笠宮崇仁親王から宮内庁長官田島道治への手紙

1953年7月20日
田島長官様
渡欧の件につきいろいろ御配慮を感謝いたします。
1954年度に海外へ旅行することは過早のように考えられます。
私個人としては3~4年後の留学を目標として諸準備を整えたいと思っております。
それ以前でも特に好機があれば、かならずしも不可能ではありません。
主滞在地はヨーロッパとし、帰途比較的余裕のある日程でアメリカ大陸を視察したいと思います。
滞在の基幹は予算の許す限り長いことを希望いたします。
家族の件は状況に応じて定めたいと思います。
ただしこの1~2年の中であれば、私一人ということになりましょう。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1953年8月18日
三笠宮訪問。
三笠宮妃殿下必ずしもお子様置いて行くのはイヤでない御様子。

1953年12月2日
三笠宮、南米行きむしろ御希望のこと。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は132万

1953年1月21日
田島長官◆今朝の朝日新聞の記事に三笠宮が式部の部屋へ『New York Times』を御持参になり、陛下が御葬儀に列せられなかったこと・御生前に御見舞においでにならなかったことを書いてあるのだという記事がありましたが、これは〔批判〕覚悟でお願いしたことでありますが、独善でおせっかいなど困ります。
昭和天皇◆日本人の普通の常識のある人は黙ってる癖があるし、投書でもする人とか何か言う人はやや癖のある人で、行われていることに同意の人は多くても黙しているし、ちょっと独善的・批判好きな人の議論がいかにも多数説のごとく見える点がある。
大正皇太后〔貞明皇后〕の御葬儀の時でも賛成の人は黙してて、反対の人が言ってきたねー。
それは葬儀のことだけではない。
反米思想の問題でもそうだし、古い事を言えば戦争勃発前の日米間の関係もそうだ。
この問題になるとアメリカもうちょっと上手くやれば良いのに、あの時も通商断絶とかなんとか強く出る。
海軍軍縮会議でも5:5:3が無理ならもう少し日本に認めて秘密の紳士協定で適当にあるとかすればいいが、アメリカの国柄なかなかできない。
今日の場合も同じで、アメリカ側が奄美大島返還とか巣鴨戦犯釈放とか占領政策中の行き過ぎを認めて改定に協力するとかいう事実に表れる手を打てば良いのだが、アメリカはそれをしない。
しなければ占領中の失敗はどうしたって無くはないから、反米思想は日本人の例の批判・独善的な人の議論で溢れる。
真に困ったことだ。

1953年2月25日
田島長官◆三笠宮のことは心配でありまして、クラーク大将らアメリカ軍を鴨猟に御召の節、皇族としておいでお願いましたところ拒否するなど、反米的な御気持が相当露骨のようでありまする。
昭和天皇◆そのことは初めて聞いた。
田島長官◆総裁の仕事を願うこともいろいろ難しい点があり、やはり御洋行が一番よろしいかと存じます。
イギリス戴冠式への御希望を申出ありましたが、秩父宮の御発議で東宮様となりましたゆえ、三笠宮としては御失望かと存じます。
それゆえ政府に頼み何かの名義で御洋行の機を作ることは、三笠宮のためにも皇室にも日本国にもよろしいかと存じます。
昭和天皇◆高松宮妃殿下もそんなことを言っておられて、洋行は第一の方法と思うが随員が大切だ。
田島長官◆式部官長松平康昌は外交官僚日高信六郎が良いとのことであります。三谷侍従長も日高は良いと申し、三谷は東宮様随員首席にも一度日高と申したことがあります。
昭和天皇◆日高は立派ないい人物だと思う。
ただし三笠さんに対して影響を及ぼす力があるかどうか、その点が駄目なら人物が良くても駄目だ。
三笠さんがその意見に動かされるようなあまり年齢の違わぬいい人はないものか。
田島長官◆秩父宮・高松宮は皇孫でお生まれになり、三笠宮は皇子としてお生まれで、大正皇太后〔貞明皇后〕が末っ子は可愛いと言うのでお可愛がりになったというようなことも多少ございましょうか。
昭和天皇◆私などは〈おもう様〉〈おたた様〉と御一緒のことはあまりないが、日光や葉山の付属邸というものは三笠宮のためにできたという一例を見ても、田島の言ったようなことはあった。
三笠さんはワンパクで、籐椅子をお振り上げになったのを女官がお止めしたのを、子供は活発でなければと大正皇太后〔貞明皇后〕がお止めになったというような例もある。
陸軍少将田内三吉というのが養育掛としてずっとお付きしてた。
秩父さんや高松さんは恥ずかしいのかちっとも三笠さんと遊ばない。
私は遊んでやったことがある。

1953年2月27日
田島長官◆元宮内大臣松平慶民の長男松平永芳という人はいい人でありますが少し調子の違った人で、元学習院院長山梨勝之進を訪ね三笠宮の御同級で、三笠宮の御近状について非常に心配だといろいろ申し出ましたようであります。
要するに他の宮様のように出る人も少なくをお寂しいかおひがみのようで、そこへ赤い系統の者が詰めかけるのかと思われるというような意味であったようでございます。
御洋行はどうしても必要でありますが、東宮様の御帰朝まではもちろん少し時が経ちませんと、引き続き政府にも頼めませぬ。
準備行動はいたしまするが実行は先になりますゆえ、もし松平永芳の言うような点もありますれば、もう少し世間の交渉もありますように工夫いたしますることも良いかと存じますが。
昭和天皇◆そんなことをして、また変な人間との交渉ができるのではないか。
田島長官◆秩父宮の後のスポーツ関係の総裁にでもおなりになりまするということは、如何なものかと考えられます。

1953年3月3日
田島長官◆赤十字社の名誉副総裁をお願い致しましたところ、高松宮御夫妻はお引き受けになりまして「義務はないか」くらいの御話でありましたが、三笠宮は「引き受けるが、国連軍関係のことには出ない」という条件付との話がありましたそうです。
昭和天皇◆赤十字が国連軍と無関係ということはない。
田島長官◆国連軍関係の人とは御同席がおイヤというだけのことと存じます。
鴨猟にクラーク大将御召の時の御出席御拒否と同じ御心持であります。
ああいうことを無造作に仰せになり世間に出ますれば、御地位が御地位で困ると存じます。

1953年3月17日
昭和天皇◆昨夜三笠さんが活動〔活動写真の上映会〕で見えた時の話に、
「聖心女子学院や立教大学の卒業式に行ったが非常に良い」という御話であったから、
「宗教的なためか」と聞いたら、
「そうではない」ということで、
「それならば欧米的か」と言ったら黙っておいでであって、黙認されたと思うが、それは結局伝統を認められたことと思う。
日本でも昔は伝統的に私の写真に敬礼して君が代を歌うということが伝統的になってたが、戦後自由主義の履き違えで伝統を重んじなくなったが、これはどうかと思う。
三笠さんの洋行もいいが、それまでの間に伝統の精神を重んじていただくために、俳句は季を重んじるゆえ伝統を重んじると思うから、三笠さんは俳句がお好きであるから、その俳句界で俳人富安風生などと御話になれば自然伝統ということがおわかりになるのではないかと思う。
田島長官◆お好きな道から致すことも一方法でございますから。

1953年3月26日
田島長官◆高松宮妃殿下が三笠宮御洋行に関して御話になりましたと見えまして、
三笠宮は「高松宮妃殿下は私の子供のことなど少しも考えておられぬ」との御話がありましたとかで、
「自分は外国旅行より留学したい」との仰せでありましたそうです。
昭和天皇◆それは高松宮妃殿下から聞いた。
高松宮妃殿下を通して三笠さんの考えというのも聞いた。
我々はお父様お母様とは言わないで〈おもう様〉〈おたた様〉と言うのだが、三笠さんはこれを改めて普通のお父様お母様として御実行になっているそうだが、それはそれでいいとしてその裏付けになっているものに何かあれば面白くないと思う。
高松宮妃殿下のお話に「子供を連れて行かなければ百合君さん〔三笠宮百合子妃〕が神経衰弱になってしまう」とのことだが、私は神経衰弱になるのは三笠さんではないかと思う。
なぜならお父様お母様のような皇族として従来なかったことを始められているのが、御留守中に壊されるのを御心配になるからだ。
皇族たる権利と庶民たる権利を二重に享有せんとする思想である。
権利ある者はそのための義務があるはずだ。
二重の権利はいかぬ。

1953年3月31日
昭和天皇◆田島は東宮御所を子供さんと一緒と言っておったが、果たしてその同居説は行われるか。
東宮ちゃんの時 西園寺公望なども強硬に言ってああなったことで、ヴァイニング夫人から聞かれた時には家が狭いからと言ったほどで、私の本心はもちろん同居を希望するのだが、元侍従次長鈴木一でも元侍従次長木下道雄でも元帝室林野局長官岡本愛祐でも強い西園寺主義の信奉者で、ヴァイニング夫人の時でも今さら従来の主義を変更遊ばしては困りますと言うのだから、容易にできるとは思えない。
三笠さんのお子さんが果たしてどういう風におなりかは、注目すべきことだと思う。
私たちのように別居で養育教育されたものに比して、旧皇族では御同居でお育てになった方々の方に問題が多いということも考えてみなければならぬ。
これはやはりお甘やかしになるためではないかと思う。

1953年4月4日
昭和天皇◆新聞で見たが、三笠さんはどうしてああいう話をされるのだろう。
リクレーションの歌の監督というのかそういう所まで出かけて、著作権の問題があるのかしら。
民主政治云々はまだいいとして、東宮ちゃんのことを引き合いに出して、国民が東宮ちゃんのことに熱するのに反対してるようで、三笠さんの気持ちを邪推する者もあろう。
聞く人にどう作用するかを考えて、もう少し自重してもらわないと。
田島長官◆少し口軽い発言と存じます。
東宮様に対する三笠宮の御不平みたようにも取られますゆえどうかと存じます。

1953年4月10日
昭和天皇◆同居問題だがねー。
あれはみな一致して反対で、侍従長鈴木貫太郎も元侍従次長広幡忠隆も女官がいるから駄目だと言うので。
田島長官◆西園寺公望も反対と承りましたが、直接陛下に申し上げましたでしょうか。
昭和天皇◆いや、宮内大臣湯浅倉平や広幡を経ての話で間接だ。
間接だが西園寺もその説で決まった。
女官はそんなことはない、御同居で結構だという考えのようだった。
私はむろん賛成で、成年に達するくらいまでは同居で教育する、結婚すればもちろん別居するという考えであったが、みな反対でそうなった。
日本では奉仕の観念とか教育の関連とがどうしても矛盾する面があるため駄目ということだった。
(これは初めて伺う言葉だが、心中簡明で要を得た反対論の真髄と思った。
どうも陛下は同居希望は仰せになりつつも、一面別居の方教育上よろしくにあらずやとの強い疑問を心中に潜在的に御抱持になるものか、この際表れ来るものかと拝察せら)
昭和天皇◆もし手元で教育ということになると、学校へ対しての父兄は皇太子妃または皇太子が直接学校に当るのか。
将来は天皇・皇后が当たるのか。
田島長官◆それは同居別居とは関係ありませぬので、関係の者が学校へ出ますれば結構と存じます。
昭和天皇◆直接手元で養育すれば父母として子供のことを最もよく知ってるゆえ、学校に対して行くということが起きてくるのではないか。
田島長官◆そういうことはないと存じますが。
昭和天皇◆家庭教師は置くのだろうなー。
三笠さんがいいモデルだ。
御自分の御意見でああやって教育をしておられるが、三笠宮妃殿下の健康が悪い。
あれは皇族の立場としての仕事の他に、普通の家の母としての仕事を多くやりすぎられるためではないかしら。
三笠さんは私達より長くを大正皇太后〔貞明皇后〕のそばにおられたゆえ、高松さんなんかよりワガママなところがあるように思う。
私は大正皇太后〔貞明皇后〕とは時々意見が違い、親孝行せぬというようはことにもあるかと思うが、同居が長ければもっと意見が一致するのかもしれぬが、時代の空気にもよるし、内閣官房長官緒方竹虎のような人でも天皇に父母ナシ的な考えといつか聞いていたようなわけで、元来私も希望したことゆえ、子供も同居すれば増築可能という建築方針はいいと思うが、物には一利一害でこの問題も難しい。

1953年4月30日
昭和天皇◆三笠さんが来月学者の仲間のように学会へ旅行されるとのことだが、もう少し他の公共のために旅行せられて、高松さんがスポーツ関係とかなんとかで旅行せられるような風はなく、ただ学会のために出られるというのは、私が生物学が好きでその学会のようなものへ出て、そのために公共のものに出なければ大変なことだ。
皇族も皇族の義務を重んじて、もう少し考えてやってもらわなくては本当に困る。

1953年5月18日
田島長官◆吉田首相が逆コースと言われますのは、昨日なども交通規制に違反で平気で飛ばしまするし、つまらぬことには気を用いませぬから。
昭和天皇◆だからワンマンだと言われるのだよ。
田島長官◆ワンマンも結構ですが、つまらぬことでワンマンはつまらぬと思います。
宮内庁の責任者としましては、内廷費および皇族費の増額の問題・三笠宮の御洋行の問題・常陸宮御成年の問題等、政府と篤と協議すべき問題を持っておりますので、皇族費の問題は現に秩父宮妃殿下で迫られておりまするし、三笠宮はどうもいろいろな面から考えましてできるだけ早く御洋行を願った方がよろしいと存じます。
御兄弟中お一人だけ御洋行のないこと、今回は東宮様がお出かけになりましたことなどで、お心持ちの上からもおよろしくない点がありましょうし、また思想その他御行動の上にも多少改めていただきたいためにも、この際どうしても御洋行が一番よろしいとの結論は動きませんので、昨年メーデーの容疑者の貰い下げを遊ばすなどは御軽挙と存じまするし、今年のメーデーに宮内職員高尾亮一がちょっと伺いましても、「外出はするが行き先は言えぬ」とのことであったとかで。
昭和天皇◆三笠さんは万一の時には皇位継承の権件がある方だという御自覚が足らんと思う。
洋行は良いと思う。
田島長官◆ただそれにはお付きの人が良い人が見出されねば案が良くても実行できませんので、東宮様の随員首席も苦労いたしましたが、三笠宮の随員も非常に人選が難しいと存じます。
昭和天皇◆東宮ちゃんの場合は何も輔導は要らんが、三笠さんの場合はそうでないから人選は難しい。
(少し東宮様偏愛と言うか公平なる御意見とは拝承せざるも要点は三笠宮につき)
田島長官◆東宮様は御教導するだけでありますが、三笠宮には御言動についてお止めしたりお諫めしたりする必要がありますので非常に難しいと存じて、今申した人と今一人従僕でもありませんがそういう風の人と二人は入用かと存じます。
三谷侍従長と松平式部官長とに相談致しまして、両者のとの意見まず一致したのは元上海総領事日高信六郎でございます。
田島は一度も会ったことのない人でわかりませんでしたので、先日小泉参与の送別会の節一緒に食事をいたしましたが誠によろしい人のように存じました。
陛下も御通訳もいたしましたことゆえ御承知かと存じますが、いかがでございましょうか。
昭和天皇◆いい人だよ。
通訳もしたが、大使の時に私もよく話を聞いたが、いいと思う。
田島長官◆小泉参与もいい人だと思うとの話でありましたが、果たして三笠宮に強く御意見を申し上げるというような強さがありまするか如何と存じております。
昭和天皇◆いや、それは南支の大使をしてて、あの軍の力の強いところであれだけやってたから相当やれると思う。
あるいは東宮大夫に適任かもしれぬね。

1953年6月22日
田島長官◆田島が宮内庁長官を拝命いたしましたのは芦田内閣からでありましたが、突然の話で驚き断りましたが、「5月3日の憲法記念日までに決まらねば、GHQの方から先方へ猟官運動をしている者を押しつけてくるかもしれぬ」と芦田首相が申しましたのが気になりまして、GHQに猟官するような奴よりは田島の方がまだマシだと存じ、ついに拝命するに至りました次第で、芦田首相に侍従長は田島の推選する者に同意してほしいという条件を出しました。
侍従長三谷隆信はおとなしい人で誰にでも評判はよろしいが、何一つしないので学習院ではやや持て余しておりましたが、人物は誠実で頭が良くて大人しくて、侍従長はむしろ消極的な方がよろしいぐらいで、かつて御通訳をいたしたこともありますので三谷に承諾してもらいましたが、侍従長としては誠に適当と存じます。
申さば田島は追放の多い最中に代用食のようなことで拝命いたしました次第で、その時分はまだ東京裁判以前でありまして、今日とはずいぶん違っておりまして、陛下御退位の問題もやかましく、陛下から「元内大臣牧野伸顕にはよく打ち明けて大切なことは相談する方がよろしい」とのお示しもありましたので、大事と思いますることは考え抜きました結果を牧野のところへ参り相談いたしました。
爾来表の方のいろいろな問題にも当たりましたが、この問題は昨年5月3日の陛下の御言葉によりまして終止符を打ちました。
奥のことも5年間いろいろな人からいろいろなことを耳にいたしましたし、表のことに関する奥のこともありますので、自然奥のことにも頭を使うは当然でありました。
例えば三笠宮の思想・行動の上にどうかと思われる節があり、三笠宮にも少し御態度を変えていただきたいなどということを申して参りましたけれども、一面田島は宮内庁のことに全責任ある身として考えてみますれば、三笠宮がどうしてそういう風におなりになるのか、おなりになるには宮内庁長官として職務の不十分なところがないのかと反省してみますると、やはりないとは申されませぬ。
しばしば御洋行の御希望を承りました時、「在外邦人の金などでは駄目でございます。お兄様はみなさま御洋行ゆえ、堂々皇族としておいでになれますような機会を考えます」と申して参っておりましたところ、今回のイギリス女王戴冠式には東宮様がおいでになりますことになり、三笠宮としては御不満にお思いにもなりませんが、自分はいつ行けるかとお思いになりますことは当然であり、また陛下は終戦と同時にひどくお変りになりましたが、宮家の変化に比べますれば日常の御生活ことに経済の面では格段お違いにならぬとも申されまするに反し、特に三笠宮はお子様も大勢さんおありで、今後いかになり行くかと先をお考えになれば、進歩的な思想についてのお考えになりますのも多少は理由のあることと反省して考える必要があり、さすれば宮内庁長官として三笠宮の思想・行動をただ困るというだけでなく、その原因になることに対策を立てぬが職責上悪いということになりまするので、具体案としてとにかく一度御洋行願うことがよろしい、またできる限り経済上お楽になりますよう取り計らいますことが必要と存じまして、昨年来政府側に対しても予算等を頼んでおります次第であります。
田島は一長官でありまするが、陛下と遊ばされましては、皇族の一員である三笠宮に対して望ましいかぬ思想・行動おありの時には、それはどういうわけか、どうしてかとお考え頂き、単に困るというだけではなく、なんとかお考えいただくことが必要ではないかと存じまする。
高松宮にしてもいろいろのことがあり、最近霜害が最もひどかった川越地方へ視察においでの節、宿屋以外の料理屋にお泊まりになるというので地方新聞にちょっと出まして、埼玉県知事が心配して宮内庁次長のところまで参りましたようなことがあります。
軍人でおいでの方が毎日お勤めになる軍職がなくなり、ありがたかっておいでを願うとなれば、時間がおありゆえお出かけになります。
いくら共産党の世の中になりましても、皇位継承権をお持ちの三笠宮が如何とも遊ばされることはできぬは明白で、皇室の首長たる陛下に大きな御立場から大らかになっていただくことが必要かと存じます。
昭和天皇◆その点は分かったが、高松さんの妃殿下〔高松宮妃殿下〕もヴァイニング夫人の時に良宮に先んじて英語を習い、またじきに辞めてしまうとか、秩父さんが私にゴルフを勧め、それではとやりだすと御自分は飽きてやめておしまいになる。
秩父宮妃殿下も高松宮妃殿下と一緒に宮中服をお作りになるに熱心でいて、評判が悪くなると一緒になって悪口を言い、そして御自分は和服を着るというように、飽きやすくて人より先じたがったりなさるから、どうもそういう点が…。
田島長官◆田島の立場としては申し上げるのもつらいことでありまするが、そういうことはすべて宮様の方がお悪いとは存じます。
宮様方の方がお悪いと断言せざるを得ぬとしましても、陛下が宮様方と同列に立って向こう様がこうだからこうだと仰せになりますことは、陛下の御立場としてはいかがかと存じます。
田島は仏教の家ですが、キリスト教の方では羊飼いは普通についてくる羊の群れよりも迷える羊の方を余計に心配するということであります。
この羊飼いのようなお気持ちで、弟様方をも親心で子のように思いになればと存ずるのでございます。
(昭和天皇「うんうん」と強く御応えになり、「具体的にどういう方法にしたらばよいか」との仰せあり)
田島長官◆毎週のニュースはおやめになり、月2回ぐらい御懇談の御食事でも共にせらましたらばと存じますが、よく侍従次長稲田周一と練りまして申し上げます。

1953年6月24日
昭和天皇◆宮内庁長官の話もあったので、昨夜は御馳走をしたのだが、スッポンもあったので。
田島長官◆スッポンのスープでありますか。
昭和天皇◆いや、スッポンの料理だよ。
高松さんは非常にお喜びだったが、高松さんと御懇親するのは食事以外よりないよ。
御料理の話の中で三笠さんもいろいろな物をお食べになってるようで、牛の頭の料理はおいしいとかなんとか言ってられたが、私は三笠さんは矛盾もはなはだしいと思うのだがねー。
平素いろいろ進歩的な意見を言われるが、ああいう贅沢な料理の御話もなさる。
それにちょっと心配なのは、御口が軽いから昨夜のような御馳走の話を外でされやせぬか。
皇室は御質素などと言っているが、この間は御馳走が出たなどと言われると誠に困ったものだが。
三笠さんは困るよ。
この前 長官に『7千万円もかけて仮宮殿を作るは贅沢だ』など言ってきたなら、牛の頭とか贅沢な料理などは知らぬはずだ。
矛盾だよ、三笠さんは。
田島長官◆三笠宮は7千万円の時も相当仰せありましたが、御説明しますればまあおわかりになりますし、昨年の5月3日の御言葉中の《米国をはじめ》を削れとのことでもなかなかやかましく、《英米をはじめ》の訂正にまでお折れになりましたが、反米的でかなりきつく申され、田島へ御手紙、また官邸へもおいでになりなどいたしましたが、陛下がお決めと申しました後は何とも仰せありませんでしたから、お若いためにちょっと進歩的な思いつきのおありの時は仰せになりますが、おわかりになればそれでだいたい静かにおなりのようでありますが、どうも矛盾よりも進歩的なものに余計お気が向くらしく、先だってもアメリカ国務省に太平洋問題調査会の人間が巣食うことの調査拒否を調査報告をお話ししてもらいました時も、普通はずいぶん恐るべきことだと感ずべきなのに、そういうことはまあありがちのようなお考えで、根底に何かちょっとどうも。
昭和天皇◆どうも高松さんも三笠さんとは昨夜もあまりお話なさらぬ。
秩父さんがお亡くなりになって、高松さんは秩父宮妃殿下にいろいろ尽くしておいでになるようだが、どうも三笠さんとは合わぬようだ。
田島長官◆秩父宮は同じ陸軍でもあり、三笠宮も御殿場までお出かけになり、むしろ高松宮への御話は秩父宮を通されたというようなことも聞いておりますが、どうも三笠宮のことは何とか致さなければなりませんが、秩父宮なき今日どうしてもお二方だけゆえ、だんだんにお歳も召してやっていただく他ないと存じております。
田島と致しましてはとにかく経済面その他でできるだけ三笠宮のお気持ちのいいことをすることは必要だと思っております。
昭和天皇◆まあ私としては長官の言った注意で努めてやるから、具体的なやり方は長官の方でよく考えてくれ。
(申さば諫言的な申し上げのこと御容認の御言葉と拝し恐懼す。また感激す)

1953年6月29日
昭和天皇◆皇族さんの名代のことだが、さっき田島が高松さんに聞いても侍従御差遣で結構と仰せになるが、だいたいおイヤなのだ。
窮屈で今までどなたもおイヤであるのだ。
田島の言った主意で皇族さんにも一体となって懇意的にするのであるが、食事をしたりニュースだけではつまらぬとなれば、楽しみということのみになり、それが漏れて皇室が楽しみのようなことばかりやっているように間違われるのも困る。
災害の見舞いの御名代となれば公然でよくわかって、皇族もいろいろしておいでということもわかると思うが。

1953年6月30日
昭和天皇◆三笠さんの洋行のことねー、あれは留学ということに決まっているのか、ただの視察旅行ではおイヤなのか。
私は御年齢から言っても留学というのはどうかと思うし、参議院なんとかいう婦人議員〔高良トミ〕のようにソ連に入るというようなこともあるまいが、視察旅行ではじめから旅程が決まっている方がよろしいし、留学されても三笠宮妃殿下とでやはり視察旅行はなさりたいであろうから、国の経費も少なく済むと思うから一挙両得と思う。
私は三笠さんは矛盾してると思うよ。
災害地など御名代に行かれたとき代議士の選挙運動に利用されるのはイヤだと言われたというのに、アカのようなものには利用されるようなことをなさるというのはどうもわからぬ。
田島長官◆三笠宮としては別にアカの方に同情してるという立場でないおつもりかもしれませぬので、例えば職員の30円弁当かなにかお取りの時に、
宮内職員高尾亮一が「皇族さんとしてそれはおかしゅうございます。大膳へ頼みどうとも致します」と申し上げまして、
「いいよ」との御話でありましたそうで、三笠宮はすべて簡便が良いというお気持ちの御行動で、この点 高松宮はこういう軽いことは少しもありませぬ。
昭和天皇◆高松さんはそういう点はいい。
田島長官◆実は災害地に侍従御差遣のことを高松宮に申し上げましたゆえ、三笠宮にも申し上げねば悪いと存じまして昨日申し上げましたが、その時 下の侍従の部屋で侍従連と御一緒で一つの机で原稿書きをしておいででありました。
戯談的に「いつ侍従を拝命になりましたか」と申し上げたようなわけでございます。
昭和天皇◆それは陸軍の風で、兵隊と同じことをするという流儀なのだ。

1953年7月1日
田島長官◆皇室経済法および同施行法改正法律案が両院を通過いたしまして、今日官報号外で公布されました。
昭和天皇◆昨日署名したよ。
田島長官◆陛下も内廷費を3,800万円に増加する時 せんでもよろしいとの仰せで、右の次第で今後はちょっと増額は差し控える方が賢明ではないかと考えております。
したがって三笠宮の御洋行も内閣では昭和29年度の費用に計上しますことは結構と申しましても、考える必要があるのではないかと思っております。
政府は東宮様の御洋行1億1千万円も秩父宮御喪儀費もみな予備費支出でありましたが、予算に入るとなれば議会で議論の対象となりますゆえ、よほど慎重に致さねばと存じております。
昭和天皇◆私は三笠さんはイギリスよりアメリカの方がいいと思う。
イギリスはああいう空気もあるし。
田島長官◆アトリー前首相の方でも保健大臣ベヴァンのような左がかりの人もおりますゆえ、イギリスでない方がよろしいかもしれませぬ。
昭和天皇◆三笠さんは東宮ちゃんと違い、洋行に大きな意味はないから。
田島長官◆それはやはり見聞を広められ、また国外から日本を御覧になるということはございましょうが。

1953年7月14日
田島長官◆吉田首相にちょっと三笠宮の御洋行のことを話しましたが、どうもすぐよろしいとは申しません。
三笠宮のお考えも御留学で単身か、妃殿下御同行の御旅行か、時に変わりますので、一度軽井沢へ伺い御真意を承りました上で、改めて首相に頼むより他ないかと存じております。

1953年7月20日
田島長官◆三笠宮御洋行の件は、お目にかかり申し上げましたところ、妃殿下御同行の御都合、御子様方等のことで御熟考になりますということで、近く御返事を承ることに相なっております。
(この日カラーの上にネクタイを遊ばし、今朝髭剃りもお怠りかと思うほどで、御言葉は快活に大声なれども、御気分はさほどおよろしくなきにこれなきやと思わる)

1953年7月25日
田島長官◆三笠宮御洋行のことについて、御手紙で当分その御希望ないむねお申し越しになりました。
(と御前にて手紙を全部読み上げしところ)
昭和天皇◆陸軍式だねー。
田島長官◆御本人に御希望ないことはやむをえませんが、お考え方などにも一度御外遊あそばしたらと存じまする点もありましたことゆえ、御洋行で一応解決すると存じましたが、それが駄目となりますれば、三笠宮の御思想・御行動に対する何らかのことを考えなければなりませぬと存じまするところ、最近また困ったことを警察方面から申して参りました。
三笠宮ががユダヤ教と関係が濃く、若干金をおもらいになっているとかいうことと、アカがかった者との接触が多いとのことでありまして、そのため右翼的な東亜連盟の元陸軍中佐内山一弥という者が三笠宮に対して何かしら考えているとのことであります。
新聞雑誌上で攻撃するのか、あるいは暴行とか危害ということですかわかりませぬが、そういう噂があります。
実際三笠宮は昨年メーデー事件の関係者の貰い下げをお試みになりましたし、今年のメーデーの節には「外出はするが、どこへ行くかは言えぬ」との御返事でありましたが、とにかく東京都立大学教授阿部行蔵とかいう中共引き揚げなぞに関係のある相当アカがかった者がよく出入りしてることは確かのようであります。
中共引き揚げについても、日赤などがずいぶんこの阿部らに悩まされたとのことであります。
昭和天皇◆私は監視すると言っては悪いが、昔の別当式にちゃんとした人をつけてよく監督することが必要だと思う。
田島長官◆多少左へ傾いておいでとしますれば、右がかった人を入れて中正という風にも考えられまするが、それもやはり駄目で、三笠宮のお考えに同感しながらお導きすることは難しいと存じます。
昭和天皇◆一昨日そのことで良宮が鵠沼へ行き、また今日も秩父宮妃殿下が見えていろいろ話して、三笠宮妃殿下は三笠さんのことをどうお考えになっているか、三笠宮妃殿下はなかなか考えがおありの方だから、三笠さんが田島長官などに御話になることが果たして真実なのかどうかを、なんらかの方法で秩父宮妃殿下から尋ねてもらうことを話していたのだが、御本人が今の手紙のように今はイヤで先の話ということになれば、秩父宮妃殿下に話したこともオジャンだから、長官から秩父宮妃殿下に三笠宮の御手紙のことと、その警察の情報も話してくれ。
(との御話ゆえ、秩父宮妃殿下とお直に御電話連絡す。
女官長保科武子からも「あのことはヤメ」との電話があったとの御話。
三笠宮のことはよほど御軫念と見え、いろいろ御話あり。
三笠宮に拝謁の時の三笠宮妃殿下および御子様関係の御話、高木家〔三笠宮百合子妃の実家〕の方の事情、両宮家につき御話のことも申し上ぐ)

1953年8月1日
田島長官◆三笠宮のことでありますが、警視庁で御心配申し上げてることを 御本人様に申し上げぬわけには参りませぬので申し上げましたところ、特に御関心の様子もなかったように承りました。
間接に伝言でありまするゆえ、何と仰せになったかはわかりませぬ。
御洋行には外国語は御必要ゆえ、外国語の御勉強をお勧めして、しかるべき思想の良い外人と言語の御勉強としてお付き合いになればよろしいのではないかと考えております。
昭和天皇◆田島への返事に「またいい機会があれば1~2年の内でも行きたい』とあるが、いい機会とはどんなことか。
田島長官◆高松宮も三笠宮のことを非常に御心配で、先日も上がりました節「例えば明年のブラジルの400年祭に高松宮のおいでをお願いしてるとのようなことはどうか」と仰せになっておりましたが。
昭和天皇◆それならば高松さんが三笠さんにそういう風に言えばいいね。
田島長官◆高松宮が先方へ三笠宮をと御話をお付けになりましても、三笠宮がイヤと仰せになりますれば何ともなりませぬ。
昭和天皇◆それもそうだ。
田島長官◆これは田島の拝察でありますが、三笠宮はちょっとした御洋行をお一人で遊ばしたといたしますれば、政府が三笠宮妃殿下と御一緒に諸国御漫遊というようなことに二度とは金を出してくれまい、小さいので済ませられてしまってはつまらぬとのお考えがおありかと思います。
昭和天皇◆私はこのまえ秩父宮妃殿下とも御話したのだが、本当に三笠宮妃殿下が御同行できぬのか、お子様のことを口実にしておいでなのか、実情がわからぬ。
三笠宮妃殿下が三笠宮のお考えをどういう風に考えておられるか。
もし私情で子供と離れたくないとしても、三笠宮のおために洋行が良いとなればこの際私情を捨てるお考えになるべきとも思うし。
田島長官◆那須へ秩父宮妃殿下をお誘いになりまして、秩父宮妃殿下は非常にお喜びで、どうか高松宮・三笠宮も那須へ仰せいただきたいと存じまする。
昭和天皇◆妃殿下方ならともかく、宮さんは来られてもどうも。
田島長官◆お受けになるならぬは宮様方の御自由として、三笠宮などもしこんなことでまたおひがみのようなことは困りまする。
高松宮も三笠宮御洋行のこと御希望が4~5年先とのこと申し上げに出ました際も、「御自分でできることはある程度のことをしても行かれると良い。また外国語の御勉強の方法もいいだろう」と仰せになりました。

昭和天皇◆三笠さんのことだがねー。
常陸宮さんの北海道行きのとき本のことで知事に話してくれというような話があったそうで、教科書のようなものならいいがまた変な本など困ると思って、常陸宮さんには「知事には言わぬ方が良い」と言っておいた。
また清宮さん〔清宮貴子内親王〕が軽井沢へ行く時、「三笠さんと御交際はいい、御話のことは気をつけて」と言っておいた。
とにかく三笠さんは宗教の歴史よりも興亡の歴史を御勉強になれば良いのよ。
ソ連ほど目的のために手段を選ばぬ国はない。
平和とかなんとか言って、あんな侵略主義の国はない。
マレンコフ首相はベリヤ副首相をああいう風にするし、また今度軍閥はマレンコフをもどうかするかもしれぬし、日本との中立条約は破るし。
ソ連のけしからのことは本当にひどい。
(陛下は特にルーマニア王室に関する態度に御憤慨あり)

昭和天皇◆三笠さんがアカがかった者にうまく乗せられても、決して結果は良くないことをどうしてわからぬのか。
その点、英米は条約と言うか約束は固い。
英米も今まで過失なしとはしないが、はるかによろしい。
田島長官◆皇室典範改正の時にも三笠宮は何か新説をお出しになりましたとか。
昭和天皇◆天皇選挙説だよ。
田島長官◆皇長子でなくても良いとのことで、時の内閣書記官長諸橋襄の取り計いで、それが枢密院の人の手には入らなかったとか伝聞いたしておりますが。
昭和天皇◆それが天皇選挙説だよ。
壬申の乱・南北朝等と歴史が証明してる。
歴史を御勉強になってどういうことだ。
社会党では西尾末広とか松岡駒吉とかはわかってると思う。
片山哲もいい人に違いないと思うが、どうも弱い。
クリスチャンが弱いと限ったことではないと思うが、どうも弱い。
三笠宮さんのことはね一。

1953年8月13日
昭和天皇◆三笠さんのこと、その後 警察の方面から別に何もないか。
田島長官◆ありませぬ。
(三笠宮の矛盾のこと、ルーマニアの王室に対するスターリンのやり方を見れば態度をちゃんとする必要は自明なこと、やり方により逆効果を生ずることを大いに考えねばいかぬこと、4~5年先ならば常陸宮の留学とぶつかって競争になり難しくなること、この点数回強調なされる)

1953年8月27日
田島長官◆軽井沢で三笠宮御夫妻に拝謁いたしまして、御洋行の問題をいろいろ承りましたが、御手紙ではあれだけはっきり4~5年先と仰せになりながら決してそうばかりではなく、やはりその前でもお出かけになりたい御希望らしく、また三笠宮妃殿下の御意思も三笠宮の仰せになりましたお子様とお離れになることが駄目というのではなく、適当な御養育なり信頼できる者さえあればお出かけになるとはっきりしました仰せで、この点は陛下が最初から秩父宮妃殿下に御話になりましたことが当たっておりますのでちょっと驚きました。
三笠宮はどうも御意思が時々お変りになりグラグラしておいでのようであります。
ただ一つ仰せになりましたことは、私は学問ということに離れたくない、宗教史には限らぬが歴史の範囲でやりたい、だから今でも留学ということを考えてるとの仰せははっきりしておりました。
昭和天皇◆私の生物学のようなもので自然科学でも人文科学でも学問をなさることは至極結構で、私も御賛成だが、それはどこまでも皇族たる本分を尽くすことが主であって、従たることということをお忘れにならないように願わねばならぬ。
皇族であること、皇弟をとして象徴たる私に代わって御名代的なことをしてもらうとか、万一の場合には皇位継承の義務もある方なのだから、そのことを主たる職分として、学問はどこまでも従でなければならぬ。
三笠さんはどうも意見がグラつく。困る。
田島長官◆三笠宮が積極的に御話がありましたのは、とにかく洋行準備委員会というようなものを作ってもらいたい、三笠宮御夫妻と宮内庁の者としかるべき学者とで、との御話がありました。
昭和天皇◆その委員会というのも陸軍のやり方だ。
そしてグラつくのも陸軍だ。
現にアッツ島の惨事もグラついたためだ。
一時は守ると言い、一時は放棄すると言い、また守ると言い、グラグラしたためああなったのだ。
三笠宮は全て陸軍の悪い点をお持ちだ。

1953年9月11日
田島長官◆前回申し上げましたように秩父宮の相続税の金額は29万円だそうでありまするが、新しい相続法ではお子様のありませぬ節は御兄弟にも相続権がありまするので、陛下・高松宮・三笠宮になりまするが、もちろん御取得の御意思はなく秩父宮妃殿下に全部でありますので、宇佐美次長より高松宮・三笠宮の御了承を受けましてございます。
軍人恩給の問題で、皇族のうち高松宮は恩給をお受けになり得られまするし、三笠宮は一時金だそうでありまするが、皇族としては恩給の積金は遊ばしておりませんし、皇族費は国家の支給でありまするゆえ、御遠慮の方しかるべきと考えまして、そのことを宇佐美次長より申し上げ、両宮とも御了承であります。
先日は三笠宮・秩父宮妃殿下をお招き遊ばしまして、みな非常にありがたくお喜びのように拝しました。
昭和天皇◆三笠さん、警察の方の話は別段ないか。
田島長官◆別にございませぬ。
日赤社長島津忠承が御進講いたしました節、三笠宮の御関係の東京都立大学教授阿部行蔵は中共引き揚げで島津もよく存じておりまして、近世史専攻の人と申しておりましたのみならず、三笠宮とこの人との関係も相当よく承知いたしておりました。

1953年9月14日
昭和天皇◆三笠さんのことねー、那須へおいでのことを喜んでおられたとのことだが、それがお考えの上にすぐ影響するということもなかろうが、悪い影響のなかったことは確かだ。
田島長官◆それはもちろんでありますゆえ、御洋行問題の打ち合せ会、三笠宮の御提案でありますゆえ、軽井沢から御帰京後さっそく1~2回開いてその結果を見たいと存じます。
昭和天皇◆そうしてもらうんだねー。
しかし三笠宮さんのグラグラするということは悪いことだが、それだけにまた那須へ来られたりしたことで、左がかったことにもグラグラが来てお変わりになるといいが。
田島長官◆それは結構でありますが、そのような場合にもグラグラの御性格ではまた逆にグラグラとも考えられますゆえ、やはり御身分の御自覚の上に、進歩的なお考えをお持ちになっても先天的に駄目ということをはっきり御承知になりますことが必要で、そのため御洋行はよろしいと存じますゆえ、その方をやってみたいと存じます。
御留学で長期にわたりますると、政府の予算をもらう必要がありますが。
昭和天皇◆私は留学はよして、御巡遊になるのがいいと思う。
田島長官◆さようでありますが、この点は軽井沢で三笠宮両殿下ともはっきり御留学希望のむね仰せでありました。
三笠宮妃殿下御同行云々の点は、三笠宮の御話と三笠宮妃殿下の御話とは少し違いまして不思議に思いました。
それゆえ今後御要望の相談会の時は、必ず三笠宮妃殿下も御同席願うことにいたしました。
昭和天皇◆三笠さんは神がかりと言うか、デタラメで夢見たようなことを言う癖がある。
御結婚問題の時も学習院の門で会ったとかいうわけで、細川の娘で松井に嫁している人〔細川護立侯爵の娘細川泰子〕と結婚したいと言われて、いろいろ調べたが時間が合わない。
全く夢見たように門で会ったなどと言われる。
自分で思うと何でもそれにくっつけるというか。

1953年9月15日
昭和天皇◆三笠さんは今日の伊勢神宮式年遷宮用神宝を拝見されたかしら。
私はまだその感想を聞いていないが。
田島長官◆今日は是非拝見したいという御話で、昭和皇后と御一緒に拝見遊ばしたと存じます。
昭和天皇◆神宝はずいぶん高価なものらしいが、それをまた贅沢な物という風にお考えか、神様のために結構なものだとお考えか。
後者ならば結構だが、前者だと誠に困ることだと思う。
田島長官◆それは万が一にも前者のようなお考えはないと存じます。
昨年3階を7千万円で仮宮殿に改造しました際は御手紙をいただきましたが、今回は国家予算ではありませぬし、国民の浄財によるものでありまするし、元来神様のためのものに昭和時代工芸の最高峰の文化財という意味もありまするゆえ、その御心配はないと存じます。
実は先だって新聞に散見いたしまする東宮様の自動車の件は、松本大使帰国の時に打ち合せまして、戴冠式には各国から多数の人が参り借り上げ自動車などではうまく参りませんので一両お買い上げのことにいたしまして、イギリスの御旅行後にお売り払いもつまりませんので自然お持ち帰りということと存じておりましたことに田島の不周到の点もありましたが、東宮様の記事は新聞が何でも大きく扱いまするので、図らずも神戸着から横浜の荷降しまで大々的に掲載され、いかにもクイーンと同じ車をただお買いになったように取られまして、投書も相当数まいりますので、三笠宮もこのことを何か仰せになりはせぬかと存じておりますがまだ何も仰せありませぬ。
昭和天皇◆自動車は売る方が良いか。
田島長官◆その必要はありませんが、しばらく御乗車になりませぬ方が賢明と存じております。
昭和天皇◆三笠さんがそういう風ならいいが、相手を構わず例えば阿部行蔵のような人に単純に神宝の立派なことをお話しになった場合に、先方がそれを利用するとすれば三笠さんの触れたことを種にするゆえ、三笠さんは話す先とか場合とかを考えぬと、何の気なしに話されても結果の悪いことがある。
田島長官◆三笠宮は従来相手のことやその話の結果をあまりお構いなかったきらいはありましたが。

1953年10月1日
田島長官◆歴史学者が政府に歴史教育の逆コースになることには反対だから政府は考慮すべきという意味の御意見書を提出いたしましたが、その中に三笠宮も入っておいでの記事が各新聞に出ております。
その中には桃色の人がおりますかもしれませんが、歴史学者家永三郎とか民俗学者柳田国男というような名前もありますゆえ、必ずしも不真面目なものではありますまいと存ぜられますが、皇位継承に御関係のあります皇族が政治に御関与のような形になりますことは、違法ではありませんでも不穏当になるかもしれませぬ。
昭和天皇◆私も逆コースと言って軍国主義の時のようなことに帰るのはもちろんいけないが、国の歴史を知ることをも逆コースの言葉で反対するのはいけない。
三笠さんがそういう中に入るということはたとえ穏当でも…。

1953年10月2日
田島長官◆三笠宮のことで、朝日新聞はお付きしている者が悪いというような意味、毎日は記者がお訪ねしてインタビューの記事を相当長く掲げております。
毎日のインタビューもそう極端なことは仰せになっておりませぬが、朝日の記事では皇室を重んずる文部大臣大達茂雄などが心配している様子に見えます。

1953年10月7日
昭和天皇◆三笠さんだがねー、さっき大阪高等検察庁検事長藤原末作が中共引き揚げの話をした時に阿部という教授が〔東京都立大学教授阿部行蔵〕と口まで出たけれどもやめたが、その後三笠さんはどうかしら。
田島長官◆今日あの席で陛下は三笠宮の御顔を御覧になりましたか。
昭和天皇◆見ない。
田島長官◆田島は三笠宮が札幌高等検察庁検事長草鹿浅之介から聞いておいでの時と大阪検事長が舞鶴の話を申し上げました時とは、確かに御顔つきが違ったように感じました。

1953年10月14日
田島長官◆警視庁から聞きました三笠宮と阿部行蔵との関係を少しつきとめたく、法務大臣犬養健に頼んでおきましたところ田島に報告がありましたが、赤旗編集の経歴もあり純然たる党員であるらしくあります。
しかも同志社大学出身のためか四谷教会の牧師ともありまして、この点はちょっと世間を欺きやすいかと存じます。
昭和天皇◆新教の人は自由が多く許されてるから、その点カソリックはまずそういう点はない。
三笠さんは国体に行くようだから、その前に話した方が良いと思う。

1953年10月15日
田島長官◆三笠宮の件は犬養法相の調査で阿部がれっきとした共産党員であるということだけでありまして、三笠宮といかなる関係にあるか具体的に確たることが分明でありませず、今なお調査中でありまする。
今日の程度で三笠宮に申し上げましても何の効果もなく、あれこれと反対の抗弁を遊ばすだけでありますが、何か動かぬ証拠が出てどうしても御反省を願うという時に申し上げました方が有効と存じまする上に、馬術大会で関西にお出かけで実質上19日国体行幸啓前に申し上げることは不可能でございます。
東宮様の御外遊の費用は1億1千万円の内3千万円概算では残るのではないかと考えられますが、これはもちろん政府へ返上いたします。
また内廷の方の1千万円、東宮様御持参の分は500万円ぐらいで御済と存じます。
陛下は皇族費増加とのバランスもあり、既に国会を通過しまして来年からは3,800万円、今年も3,600万円はあります。
500万円ぐらいは年々基金に繰り入れができるのではないかと存じます。
さすれば内廷費の内から三笠宮の御洋行費に若干賜りましても、別に内廷にお困りのことはないかと存じますゆえ、三笠宮に対してもさようの御仕向になりますれば三笠宮は御言動にも影響あるかとも存じられます。

1953年10月30日
昭和天皇◆三笠宮が歴史教育の意見書に名を列ねておられることだが、古事記にはこうある日本書紀にはこうあるということで日本歴史を教えることは私は少しも悪いとは思わぬに、歴史教育をすることに反対というのはどういうのか。
田島長官◆あの意見書は柳田国男のような学者も名を列しておりますゆえ、アカがかった人のみではありませぬし、逆コースで戦前の通りに旧に復するのは困るというのかと存じますが、三笠宮を岡山の考古学の村〔月の輪古墳〕へ御案内いたしましたのはちょっとアカがかった教授であり、またあの村の教育委員の一人は共産党員とか聞きました。それからその考古学研究に1万円御寄付になりましたそうでございます。
昭和天皇◆そうか。
学問上の友だけならばよろしいが、その人物が右翼か左翼かに偏しておれば、学問の上だけのことにならぬ影響を与えるからそこを考えればならぬ。
私はそれゆえ海運会社の社長小畔四郎が学問上のことをはいいが右翼に過ぎるので断然生物学研究所へ出入りせぬことにした。

1953年11月3日
昭和天皇◆岡山の件ねー、〔月の輪古墳〕三笠さんが食堂でも盛んにそればかり言っておいでゆえ、私はちょっと文部大臣大達茂雄には言ったが、あまりあればかり熱心では困るゆえ、田島から大達文相に三笠さんのことをよく話してくれ。
(大達文相に国家地方警察本部斉藤昇より聞きし、考古学発掘の村の教育委員に共産党員あること、誘導者もアカがかった人であること、1万円寄付のこと、都立大学教授阿部行蔵のこと、目下どんな関係か調査依頼中のことなど話し、陛下より話せとの御話のことを話す)

1953年11月4日
昭和天皇◆三笠さんのことだがねー。
大達文相はああいう人で皇族の言うことは何でもまともにそのまま受け取るような人だから昨日ちょっと私も言ったのだが、三笠さんは考古学のことだけがよければそのために裏面ではどういう影響があるかということを少しも考えないのは困るねー。
田島長官◆これはをお聞き流しを願いたいと存じまするが、靖国神社で今回奉賛会のようなものを作り6億とかの募金をいたしまするので、総裁は皇族ということで筑波藤麿宮司の方から高松宮にお願いに出ましたところ、他にも募金のものたくさんおありでお断りになりまして、三笠宮に御内話になりましたところ、軍人であった関係もあり合祀の必要は大いに認め結構なことだが、裏面に再軍備と関連がにあることゆえイヤだとの仰せでありまして、田島はこのを考えは内部の御話としてはよろしいとしまして、外部ことに神社などには聞こえぬ方がよろしいと存じておりまして、宮司の方も三笠宮には一蹴されそうだとも申しておりますゆえ、直接は三笠宮にお会いにならぬの方がよろしいかと考えております。
高松宮がどうしても駄目ならば、女性でも秩父宮妃殿下にでもおなり願うほうがよろしいのではありますまいかと考えております。
これなどは三笠宮は表面のことでなく裏面のことを想像しての御議論で、表面裏面の問題でなく御興味を引くことには進歩的と申しますか、非戦・平和・反米という一連のことに全ておくっつけになってお考えということになるかと存じられます。
昭和天皇◆矛盾だねー。
あることは裏面を考え、あることは表面だけを考え、矛盾だ。

1953年11月6日
昭和天皇◆三笠さんねー、宮内庁長官も言ってたが矛盾な話で、あることには裏など考えずに表面だけを見て、ある問題には裏がいかんと言い、実に矛盾だ。
三笠さんには困る。
田島長官◆個々の問題に困りましても仕方ありませんので、やはり何とかして御洋行が一番よろしいかと存じます。
昭和天皇◆御留学とか歴史とかだけれども、それより御視察的な方が良く、歴史よりも王室と国民との関係を諸外国にわたり見てきていただきたいよ。
田島長官◆三笠宮なども宮内庁の者より外部の者を信用なさる傾向がありますから。

1953年11月8日
昭和天皇◆阿部行蔵が検挙されたが、三笠さんは。
田島長官◆とうとう新聞に出ましたようになりましたゆえ、この機会に正面からああいう人とお近く遊ばすことはお考えを願いたいむね申し上げたいと存じております。
近く例の御洋行相談会を開きますることになっておりますゆえ、少し卑怯でありますが役所の者大勢でああいう人とお近いのは困りますむね申し上げたく、この機会を逸しないようにいたしたいと存じております。
以前メーデー事件の時の東京都立大学助教授寺沢恒信の釈放を御申出になりましたことがありましたが、そのことはいけなかったと御自覚でございましょうから、今度もまた阿部について釈放など遊ばすことはないと存じております。

1953年11月9日
田島長官◆三笠宮は吊し上げられた婦人がスパイかどうかというような御話でありまして、宮内職員高尾亮一が「そんなことよりも阿部が連れて行かれる以上、あまり良い人物ではありますまい」と申し上げ、それでその辺のことはおわかりになりましたと思いますとの話であります。

1953年11月10日
昭和天皇◆昨夜三笠さんから阿部の話は出なかった。
しかし考古学の方には利用されることを少しも心配されないくせに、菊栄会親睦会の会場がいつも光輪閣ではどうかとの高松さんの御話で三笠さんがいろいろ研究されたが、目白の椿山荘とかの話も出たが、それは商売だから会場にすると利用されるといかんというので、決められたのは三井クラブで、商売上利用されないからいいとの話だが、どうも矛盾の話で、あることには利用されることを気にしあることには利用されるかもしれぬということをお考えにならぬ。
おかしい。
田島長官◆御興味のないことには利用されやせぬかと御戒心になりますが、御自分の好きな事には利用されるかもしれぬという警戒心が浮かばぬということならば、まあ理詰で御注意申し上げてわかっていただけるかとも思われまだよろしゅうございますが、普通何でも利用されると悪いとお気づきの方が考古学等の名前のものには利用される以上に、興味や同情をお持ちのために利用されるもいいとかいう風な御気分が御腹にありますようでございます。

1953年11月18日
田島長官◆ただいま教科書は国定ではなく各本屋の競争でありますが、三笠宮を編纂委員の一人とお頼みして、その部分は既にできて御名を出すかということで、宮内職員高尾亮一まで御話があり、お出しにならぬ方がよろしいと申し上げましたそうでありますが、これも事後に仰せあっても困ります。
昭和天皇◆それは困るねー。
本屋は広告に使うかもしれぬ。
商売に利用されると悪いからとて菊栄親睦会の会場に椿山荘をお避けになるだけのお考えならば、本屋に利用されることがおわかりにならぬはずはないと思う。
歴史の学者と言われるもまだ始めて年数も経たぬし、専門の学者でもなし。

1953年11月20日
昭和天皇◆三笠さんのことだがねー、本の問題。
もし三笠さんが私が本を出してるからと思って出してもいいと思われてるようなことはないと思うが、もしあるとすればそれは私を例にされても全然違う。
今まで出てる本は私の著書というわけではない。
今までのは研究所の結果で、主として調べた人があるのだ。
将来私の本が出ることがあるとしても、それは私一人ではなく御用掛富山一郎なり誰なりと相談してから出すので、三笠さんのようにいきなり自分の考えの本を出すことはない。
また私が歌を出すことがあるが、あれをまた例にされるかもしれぬが、これも宮内庁長官なんかが見て良いものを出すということにしているので、私だけのものを私だけの意見で出すのではないから。
田島長官◆それは事情が違います。
もし三笠宮が陛下のことを仰せになりましても、その点は心得ております。

1953年11月24日
昭和天皇◆三笠さんの新嘗祭に関する本をもらったからはしがきを呼んだが、阿部行蔵の話によってということを明記したことはない方が良いと思う。
ああいう人の名前をわざわざ出す必要はないと思う。
どういう影響があるかという考えがもう少し欲しい。
極右の人ではけしからんと思うし、左翼の者は実際以上に利用するかもしれぬし。
田島長官◆阿部が拘引される前にお書きになりましたかとは存じますが、既に阿部の評判はあるのでございますから、そういうことをお書きは無益で有害かと存じますが。

1953年11月30日
〔三笠宮洋行相談会の第一回が開かれた〕
昭和天皇◆三笠さんのことはどうだった。
田島長官◆田島より外国お出ましのことを口を切り、
「人間三笠宮として御研究のため御留学御希望のようでありますが」ということを申し上しところ、
三笠宮は「私は学問もどこまでも皇族として皇族の枠内でやるのだ」との御話があり、ちょっと田島は拍子抜けいたしましたくらいでありますが、甚だ結構な次第であります。
昭和天皇◆それは結構だね。
三笠さんはフラフラなさるからずっとそのお考えならいいがねー。
田島長官◆その点はアテにはなりませんが、高松宮は社会事業とかいろいろなことを遊ばしますので、同じことをやるよりは各皇族各分担してやるのがいいので、
「私は障害者のためとかいう風にしてるし、皇族として私は学界を何かしたいと思ってる」とのお話がありました。
小泉参与も「〔留学というものは〕まあ先生に面接はできまするが、いわば本を買って帰るくらいと言えぬこともありませんので、別に御留学ということに重きを置かれる必要もないむね」および「ひとたび国外へ出て日本を眺めまする時に国内においてお感じになれぬものを感じまするゆえ、ぜひ一度御外遊は必要なむね」を申し上げました。
三笠宮は単なる短期旅行をすることはイヤだというような意味および従来の経緯を田島に述べよとの仰せもあり、田島がそれを申しませなんだらば御自分で在米邦人の好意の申出、グルー元駐日アメリカ大使の協力、エール大学の便宜等の問題がそのままになっているために、これを全然打ち切るかどうかというむねを仰せありました。
それから費用の問題が話になりまして、政府に頼むためには何か公的な催しに御出席ということでないと政府の予算が取れぬこと、および予算もなかなか大金に上りますこと、皇族として海外においでになります以上御供もしかるべき人が必要であり、また妃殿下も御一緒の方がおよろしく、妃殿下にも御供が入用でありますゆえ、少なくとも4人の旅費となりますとなかなかの金額に上ります。
皇族の海外旅費というものはありませぬが、仮に普通の人間の3倍といたしますと、御二方で6人分となりお付きを加えて8人分となりますゆえ、先だっての東宮様の供奉員が約300万円でありますから2,400万円、これが半年の御旅程で仮に1年としますと5千万近くとなりますのむねを宮内庁次長・秘書課長より方々申し上げ、三谷侍従長も欧米では妃殿下同伴でなければおかしいと思う話、お付きの三谷でもなぜ一人で来たのかと聞かれたくらいだというような話をいろいろ申し上げまして、留学ということは経費その他いろいろの面から御一考の要あるむねは御承知になったのではないかと存じまする。
そして皇族としての枠内でということを仰せになり、留学でも普通人のようにはできぬことも御承知の様子でありました。
田島は元皇族を担いで在外邦人がお金を出すということが一再ならずありましたが、選挙費などを作る必要の人の利用的態度など想像されておやめを願ったこともありますので、宮様としてはお出かけになります以上皇族としての御体面、従って御費用の要りますことも申し上げました。
三笠宮妃殿下はあまり御発言ありませなんだが、お子様を内地に残しては絶対に行かれぬとの御話もありませんなんだ。
それから田島より新嘗祭に関する本のはしがきのことも申し上げ、
「御本も至極結構でありますが、はしがきの中に明らかに阿部行蔵の名前をお挙げになっておりますが、阿部も釈放になりましたがああいう次第ゆえ、あれの名前お挙げになりましたのは」と申し上げましたところ、
「実際阿部という人の話で発足したという事実を書いただけの話で、あの会合はあの人の力によってできたが、会が始まってからは阿部という人は都立大学へも寄り付かず、平和運動に熱心になってからは学校へも来ないよ」との仰せ。
「都立大学には参りませんが、三笠宮邸へは時に参上いたしましたか」と伺いしところ、
「都立大学にも行かぬぐらいで、もちろん私の所へも来ぬ」という御話でありました。
「式年祭はやめたらばとの御意見は、先ほどの皇族の枠内としましてはいかがなものでございましょう」と申し上げた時に、
「あれは皇紀二千六百年とかいうのは明らかに事実に反していることに基づいてのことは、あれはおかしいからやめたらと思う」との御意見をお述べになりました。
昭和天皇◆私は賢所など祭ることを宗教と認めるという考えにいつも反対しているのであるが、一面宗教的だと言われるれば言えぬこともない点もあるのはその点で、二千六百年というような歴史の史実に反するということはあるが、事実に反するからとて直ちに式年を廃しなくても、それは伝説というもので、国家的に意義あれば何もやめなくていいと私は思うのだが、この論になるとまた賢所などのお祭りをやることを宗教だと見られても仕方がないという結論になり、これはちょっとおかしな話だが困る点だよ。
現に私たちなどはキリストの十字架も史実ではなく、従って復活なども考えられず、これは史実ではないか宗教としては認めてるだのだから。
田島長官◆三笠宮は時々御意見も変わりますゆえ将来のことは何とも申し上げられませぬが、あまり時間を隔てずに同じメンバーで今一度固めたいと存じております。
三笠宮がヘブライの歴史については日本には他の人もありませんような御話で、それに関するアメリカ人のある著述に御興味をお持ちになり、歴史の方面にはその方の人はなく、宗教学専攻の東大の人と二人で御翻訳になりましたそうでございます。
近く原稿ができ上るらしくありますが、せっかく三笠宮の初めての御仕事に万一誤訳などあるとの批難ありませぬよう、一度誰か翻訳の原稿を拝見するように運びました方がよろしくはないかという話が出まして、これは宮内庁次長か秘書課長から三笠宮にお話し致しますことになっております。
昭和天皇◆それはまあよかったが、時々お変りになるから。

1953年12月1日
田島長官◆今朝秩父宮妃殿下から承りましたが、金曜日の会合の後で〔第一回三笠宮洋行相談会〕三笠宮妃殿下から秩父宮妃殿下に御電話がありまして、会合の結果具体的に予算等の困難なこと、留学等の意味などよほどお考えになった御様子だと御話を伺いました。
この際あまり時を経たず、ある程度の具体的な方針決定を見たいと存じております。

1953年12月3日
田島長官◆皇族さん方はだいたい今まで人頼みで何の御心配もありませんでしたがこういう時世になりまして、御存知ない割に入ることを欲せらるるため、ひっかかられるのは当然であります。
大体宮家の方々は御自分が御承知ない会計のことを御自分でおやりになりますからこういうことになります
秩父宮は自分の所は財産もないし相談するまでもないという仰せでありましたが、全部御自分で切り盛り遊ばしてたらしく、その後有利に回る御相談がありました時も田島に大丈夫かとお尋ねあり、少額である程度以上はよろしいと申し上げたことはありましたが、一つも焦げつきなどはできず、この間相続税の時に初めて拝見しまして、つまらぬ株が少々ありましたが、これも少ないのでただいま東芝社長石坂泰三の手で整理いたしておりますが、かような次第で秩父宮妃殿下は会計のことは何も御存知なく、従ってただいまは石坂・田島らでご相談を承っておりまするため少しも危なげもありません。
昭和天皇◆秩父さんは強い方で、御自分でお決めになるとずいぶん激しく言われたのだが。
田島長官◆それは田島も他の問題でずいぶんひどく仰せになりましたこともありますが、一応は筋の通ったことでありますから、かような面からの見方もありますと申し上げれば、そうかと仰せになることもありました。
現に東宮様の御洋行の時でも御熱心に仰せになり、三笠宮御希望も御承知の上で今回は東宮様だときつく御主張で、田島への御手紙にも理路整然と御主張になりました。

田島長官◆三笠宮のことでちょっとよろしい朗報でございますが、高松宮の御話で高松宮はブラジルにおいでになりませんが「三笠宮にいかが」との仰せで、
三笠宮は「南米へは皇族は誰も行ってないから行ってもよい」と仰せられました由で、三笠宮は往復とも船でおいでになりたく、また北米等には寄らぬとの話でありましたそうでございます。
船はどういうわけか存じませんが、北米へお寄りにならぬのはそれで御外遊が済んだとなってはとの御懸念かとも邪推いたされますが、宇佐美次長が「南米へ直接のものは少なく、自然北米にお立ち寄りとなりましょう」と申しました由であります。
昭和天皇◆皇族さんはみな御自分は独特というようなお考えがあるので、高松さんも誰も南米においでがないからと行ってみようとの御気もあるのだよ。
それができて欧米御周りということになれば一番いいねー。
田島長官◆御本人様御希望も承りましたことゆえ、外務省と話を進めてみますように申します。
昭和天皇◆三笠さんのそのことだがねー。
雑誌『キング』に三笠宮をめぐりて民謡の座談会というのが出てる。
内容はいちいち見てないからどういう風に書いてあるか知らぬが、皇族が民謡に関しての座談会においでにならればならぬということはないように思われる。
今度また第二回でもあれば、この間の皇族の枠内でという御話とはちと違うということを言う機会が良い。

1953年12月12日
昭和天皇◆三笠さんのことはその後どうだ。
田島長官◆翻訳の方は文法的なことに万全を期するむね申し上げましたところ、願ったり叶ったりとの仰せで、式部官黒田実が拝見することになっております。
昭和天皇◆三笠さんの会合の〔三笠宮洋行相談会〕第二回目はまだか。
田島長官◆それはまだでありますが、第二回には宇佐美次長も出席し南米のことも十分承知しておりますから、いずれ宇佐美が第二回のことを考えると存じます。

1953年12月15日
昭和天皇◆三笠さんのことだが、あればどうなったろう。
田島長官◆先日申し上げました以降何もございません。
南米のことも宇佐美次長もよく承知で、外務省とも話をしておりますゆえ、田島退きましても何の差異も生じません。
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『入江相政日記』侍従長

1954年10月18日〔京都出張〕
泉井さんと足利惇氏〔日本オリエント学会会長〕さんがみえて、二人とも三笠宮がイラク発掘に担がれていらっしゃるのを心配していた。
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『入江相政日記』侍従長

1959年10月8日
今日三笠宮が拝謁をお願いになり「東宮御所も宮殿も御造営をおやめになった方がいい」とお申し上げになった由。
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『入江相政日記』侍従長

1961年10月6日
三笠宮邸へ。
三笠宮妃殿下にこの間からのことゆっくり御話しようと思っていたら、三笠宮もわざわざ途中で帰って来てくださった。
ありがたいことだが、その代り三笠宮妃殿下にゆっくり話すことはできなくなった。
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『入江相政日記』侍従長

1965年3月20日
宮内庁長官宇佐美毅から、三笠宮が紀元節問題で政府の人といろいろお会いになるので、これ以上発展してはまずいから、三笠宮妃殿下から適当に家族会議でもということを申し上げてくれとのこと。

1965年5月28日
宇佐美長官と、三笠宮甯子内親王の御縁談のこと。

1965年5月31日
三笠宮御夫妻にお会いして、甯子内親王の御縁談について伺う。

1965年7月8日
今朝三笠宮妃殿下といろいろお話し合ったことにつき、島津忠承君〔日赤社長・三笠宮甯子内親王の婚約者近衛忠煇の勤め先〕を訪ねる。
いろいろ懇談する。

1965年7月20日
三笠宮妃殿下から長い電話。
宇佐美長官や小川別当から近衞忠煇さん〔三笠宮甯子内親王の婚約者〕に
「週刊誌に会うなとかしゃべり過ぎる」とか注意があるが、そんなこと言っても仕様がないという御話。

1965年9月21日
島津忠承君を訪問。
宇佐美長官が近衞忠煇さんのことについて新聞記者に評判が良くないと言っていたことを注意してもらうように言いに行く。
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『入江相政日記』侍従長

1966年5月31日
三笠宮の紀元節問題、また政治家を大勢を呼び、公聴会に民社推薦で出てもいいと言われたとかのこと。

1966年6月1日
三笠宮家に行き、三笠宮妃殿下に紀元節問題で御協力をお願いする。

1966年9月15日
三笠宮寛仁親王が青山で交通事故の由。

1966年9月16日
三笠宮寛仁親王の事故はUターン禁止区域ではなかったとのこと。
よかった。

1966年12月19日
〔三笠宮甯子内親王結婚〕
三笠宮甯子内親王御夫妻参内。
大変な御元気。
おうれしそうなので安心する。
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『入江相政日記』侍従長

1967年7月3日
宇佐美長官から、三笠宮の親王様方の交通事故について聞く。
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『入江相政日記』侍従長

1969年12月9日
宇佐美長官から、清宮貴子内親王のこと、桂宮のこと。
徳川侍従次長から、清宮貴子内親王のこと、東久邇さんのこと。
いい話は一つもなし。
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『入江相政日記』侍従長

1970年8月8日
エチオピア皇太子夫妻をめぐる東宮様の三笠宮のこと。

1970年8月11日
エチオピア皇太子妃の席次のことはまだ続いているらしい。

1970年8月12日
この間からのエチオピア問題につき申し上げ、三笠宮の方ももうこの辺でお済まし願いたいむね申し上げ、それですっかり済む。

1970年9月1日
三笠宮百合子妃から、三笠宮寛仁親王が東宮御夫妻と明方4時まで議論、続いて東宮御夫妻は軽井沢で夜8時から12時半まで同じことについて談じ込まれた由。
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◆三笠宮崇仁親王 123代大正天皇の四男 澄宮崇仁親王
1915年生


■妻  高木百合子 高木正得子爵の娘
1923年生


◆1915年12月02日 誕生 51センチ・930匁(3,487グラム)
◆1921年10月13日 学習院幼稚園入学
◆1922年04月08日 学習院初等科入学
◆1928年04月12日 学習院中等科入学
◆1932年04月01日 陸軍士官学校予科入学
◆1934年09月01日 陸軍士官学校本科進学
◆1935年12月02日 成年式
◆1936年05月29日 陸軍士官学校本科卒業
◆1939年12月13日 陸軍大学校入学
◆1941年10月22日 結婚
◆1941年12月05日 陸軍大学校卒業
◆1944年04月26日 第一子甯子内親王誕生
◆1946年01月05日 第二子寬仁親王誕生
◆1948年02月11日 第三子宜仁親王(桂宮)誕生
◆1951年10月23日 第四子容子内親王誕生
◆1954年12月29日 第五子憲仁親王(高円宮)誕生
◆1988年02月26日 前立腺ガン手術
◆2001年09月13日 慢性硬膜下血腫手術
◆2002年11月19日 右鼠径ヘルニア手術
◆2002年11月21日 第五子高円宮死去
◆2010年03月16日 左白内障手術
◆2010年06月22日 右白内障手術
◆2012年06月06日 第二子寬仁親王死去
◆2012年07月12日 僧帽弁形成術
◆2014年06月08日 第三子桂宮死去
◆2016年06月21日 うっ血性心不全によりペースメーカー埋め込み術
◆2016年10月27日 死去


●三笠宮寬仁親王  2代当主 麻生太賀吉の娘麻生信子と結婚・兄は総理大臣麻生太郎
●三笠宮宜仁親王  桂宮
●三笠宮憲仁親王  高円宮  三井物産社長鳥取滋治郎の娘鳥取久子と結婚

●三笠宮甯子内親王 近衛忠煇と結婚
●三笠宮容子内親王 茶道家千宗室と結婚


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◆三笠宮寬仁親王 三笠宮崇仁親王の長男
1946-2012


■妻  麻生信子 麻生太賀吉の娘・兄は総理大臣麻生太郎
1955年生


*1980年11月07日 三笠宮寬仁親王&麻生信子と結婚
*1982年04月   三笠宮寬仁親王が「皇籍離脱発言」する。


●三笠宮彬子女王 19811年生
●三笠宮瑶子女王 1983年生


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◆高円宮憲仁親王 三笠宮崇仁親王の三男
1954-2002 48歳没


■妻  鳥取久子 鳥取滋治郎の娘
1953年生

*英ケンブリッジ大学卒業


●高円宮承子女王 1986年生
●高円宮典子女王 1988年生
●高円宮絢子女王 1990年生


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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年年6月17日
※宮内官僚南部光臣の言葉

貞明皇后は三笠宮に御会い遊ばさるる事が唯一の御楽なる趣なる。
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東京朝日新聞 1922年

三笠宮様は皇太子を「東宮様」秩父宮〔淳宮雍仁親王〕を「あつ御兄様」高松宮を「ちい兄様」と呼んでおられる。 
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『高松宮日記』

1937年5月22日
三笠宮おねだりにて竹田宮へ今晩お呼ばれとのことに、一緒に来いとのことに上る。
(活動映画とダンスのためなりと)
三笠宮も物心つきて、独りさびしさを覚え始めし有り様なり。
ことに騎兵の連中には誘惑も自然と多きもののようなり。
秩父宮も一般の皇族と自ら異なるものあると自覚せしむるを要すと御出発前に御注意ありし。
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『木戸幸一日記』内大臣

1937年4月2日
大谷太夫来庁。
三笠宮御配偶選定につき、種々懇談す。
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『木戸幸一日記』内大臣

1940年6月4日
松平恒雄宮相来室。
三笠宮御配偶の件につき、懇談す。

1940年9月3日
松平恒雄宮相と三笠宮御配偶の問題につき懇談す。
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『木戸幸一日記』内大臣

1941年1月11日
松平恒雄宮相と三笠宮御配偶の問題につき懇談す。

1941年3月30日
三笠宮妃高木百合子御勅許。
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『入江相政日記』侍従長

1941年2月2日
大谷さんが今朝来て三笠宮からの御話を言った由。
百合ちゃんはなお年少、あまり深い判断もあるまいが、とにかくお受けすることになった由。

1941年2月3日
広幡さんからも百合ちゃんの話がある。
坊城兄上からも百合ちゃんのことにつき今までの経緯を話される。

1941年3月30日
三笠宮御婚約御発表につき各新聞に百合ちゃんの写真がたくさん出ている。
坊城さんと高木さんが御礼に参内される。
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1921年8月16日、東京日日新聞に三笠宮の童謡『月と雁』が発表される。
「月夜の空を 雁飛びて 宮君(みやくん)御殿で それ見てる」
これを作曲家本居長世が作曲、長女本居みどりと二女本居貴美子が歌ったレコードが評判となり、図案化されて反物の模様になったりノートの表紙にまでなった。
三笠宮は次々と童謡を発表、本居長居・本居みどり・本居貴美子でレコード化され、全国に広まり、小学校でも教えられ、三笠宮は「童謡の宮様」と呼ばれるようになる。

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