◆三笠宮寬仁親王 三笠宮崇仁親王の長男
1946-2012
■妻 麻生信子 麻生太賀吉の娘・兄は総理大臣麻生太郎
1955年生
*1980年11月07日 三笠宮寬仁親王&麻生信子と結婚
*1982年04月 三笠宮寬仁親王が「皇籍離脱発言」する。
●三笠宮彬子女王 1981年生
●三笠宮瑶子女王 1983年生
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三笠宮寬仁親王 2006年1月19日 日本会議機関紙『日本の息吹』
「皇室典範問題は歴史の一大事である~女系天皇導入を憂慮する私の真意~」
もしもこの平成の御世で歴史を変える覚悟を日本国民が持つならば、慎重の上にも慎重なる審議のうえ行っていただきたい。
失礼な言い方ですが、郵政民営化や財政改革などといった政治問題をはるかに超えた重要な問題だと思っています。
これは絶対にありえないと私は思いますが、いろいろな人に聞くと「これは平成陛下の御意思である」と言っている人がいるそうですね。
平成陛下の御立場で、ああせよこうせよとおっしゃるわけがない。
本当は私が発言するより皇族の長老である父〔三笠宮崇仁親王〕に口火を切ってもらいたかったわけです。母〔三笠宮百合子妃〕の話では、父は宮内庁次長を呼んであまりにも拙速な動きについてクレームをつけているということでした。
オフクロに「女帝・女系になったら大変なことになることわかってるの」と聞いたら、「もちろん大変なことだ」と言っていました。
三笠宮一族は同じ考えであると言えると思います。
この記事はできるだけ広く読まれてほしいし、日本会議のメンバーのみなさん方が真剣に考えてくださって、本当の世論を形成していただきたい。
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三笠宮寬仁親王
昭和陛下と私個人との他人を交えない会談というのは生涯で2度あった。
これは私が戦後の若い皇族として生きる上で、戦前・戦中・戦後の激動の時代を体験された先輩皇族の方々から限りなく当時の実情というものを伺っておきたいという気持ちがあったからだ。
折りにふれて秩父伯母様・高松伯父様・高松伯母様にお話を伺っていたわけだが、本家本元の昭和陛下とはそういう機会が皆無であったので、高松宮殿下にお願いをし、何とかなりませんかということになった。
高松伯父様はさっそく動いてくださり、吹上御所の応接間で昭和陛下と私二人だけの会談が実現した。
特に興味をそそられて真剣に伺ったのは、二二六事件と終戦の二つの事柄に関してだった。
昭和陛下は御自身の長い摂政時代から天皇という御立場で一貫して立憲君主という立場を取ってきたという話に関連して、「2度だけ自らの意志によって動いたことがある」と仰せになった。
この両事件は本来昭和陛下を輔弼する責任を持つ重臣たちが、前者の場合にはまったく消息不明であったわけだし、後者の場合は御聖断を仰ぎたいむね言上したわけで、いずれも場合も昭和陛下御自身が御動きにならざるをえない状況に置かれたので、御自身の意志で動かれ発言されたということを淡々と私に語られた。
その時点では、この件についてはマスコミ等を通じて昭和陛下の肉声としては正確には発表されていなかったので、私はかなり興奮したのを覚えている。
この事を見ても、昭和陛下が立憲君主としての常通を絶対に踏みはずされないよう御自身を明確に律しておられたことが明白である。
巷にこの両事件の時の昭和陛下の御態度を評して、ではなぜその他の場合にも同様の態度を取られなかったのか、取られていれば違った方向に行ったのかもしれないという類の議論がある。
しかし昭和陛下の仰ることを素直に伺っている限り、両事件以外はすべて時の政府が決定をし、御裁可くださいと上奏したものばかりだから、昭和陛下御自身の御考が反対であったとしても、拒否権発動は立憲君主という御立場上不可能であるため、好むと好まざるとにかかわらず御裁可されざるをえなかったという事実にぶつかる。
したがってもしその時々の昭和陛下の御考をストレートに出しておられれば、立憲君主としての御立場は放棄なさらなければならず、国体は当然麻のように乱れ、その結果どうなったかは我々には想像もできない。
昭和陛下は純情なまでに我国の天皇の置かれている立場を認識され、それに真正直に当たろうと努力をされ続けた人生を全うされた方だと言えよう。
繰り返すが、両事件の時のみ国家の正規の機能がまったく働かず、昭和陛下の御自身の御意見以外解決の道がなかったという例外中の例外であったため、昭和陛下は御自身の御意見をおっしゃった。
そしてそのおかげで、今の我国の繁栄があるのは議論の余地がない。
このことは私におっしゃった会談から数年後に、御自身の御口から記者会見の席で発言されたので、私個人の機密として秘匿する必要がなくなってしまったわけである。
昭和陛下をただ一言で表せと言われれば、「偉大な方であった」としか申し上げようがないのが正直な感想である。
もう一つ私がよく使用した言葉は「逆立ちしても勝てない方」
いずれにせよ我々がいかなる努力を払ってみても、昭和陛下のレベルに達することはできなかった。
驚嘆すべきは公平無私でいらしたということであろう。
たびたびマスコミに取り上げられた事柄に、大相撲の贔屓力士の件がある。
私は昭和陛下に御贔屓の力士がいなかったなどとは絶対に信じられない。
国技館に行幸になった時の身ぶり手ぶりで、ある程度御贔屓力士と推測できる御動作があったとも聞く。
しかし、終生力士名を口にされることはなかった。
もし昭和陛下がお好きな力士名を口にされたら本人は光栄この上もないかもしれないが、他の大勢の力士たちの気持ちを推しはかられて、一国の象徴たる御立場上に口に出されず、全力士に均等に温かい声援を送られたのであろう。
通常の人間にはこういった類の発想と行動は全くできる筋合いのものではあるまい。
私などもいろいろな団体を統括する立場にいるが、どうしても好き嫌いが出がちである。
私自身口では実力を考えて適材適所に配置していると言うけれど、この発言と好き嫌いの感情は紙一重であり、ギリギリのタイトロープをしていると言った方が正しいかもしれない。
昭和陛下は特定の一部の人々からの意見をお取り上げになるということは皆無であり、国際政治の分野ならその分野のしかるべき立場を任されている人の意見を聴取され、他の分野であっても同じことを常に心がけておられたから偏るということがなかった。
身内についても同じことが言える。
全校族と全方位外交なさっていたといえる。
特定の皇族の言だけを信用されて、その他の皇族の話に耳を傾けないという御態度は一回もなかったと記憶している。
こういう風に書くと、昭和陛下は物語に出てくる聖人君子のように完全無欠の聖者のように聞こえるかもしれず、冷たいクールな面白くもなんともない人間像に結びつくかもしれない。
だが、まったくそうではなかったところが昭和陛下の昭和陛下たる所以であったと思う。
何を発言されていなくても対面している人にじかに伝わってくる昭和陛下の温かい御人柄が相手を常にリラックスさせる御人徳がおありになった。
常に自然体であられたということが私にはとてつもなく偉大なことと思える。
演技する・見栄をはる・意識するといったふうなことがゼロでいらっしゃったから、いかなる人々をも国内外を問わず自然に懐に入れておしまいになる駘蕩とした大きさをいつも感じていた。
園遊会では式部官長が主要な人々を簡単にご紹介する。
それを受けて昭和陛下は御言葉をおかけになるのだが、その個々人に的確な質問を毎度毎度なされる能力にはただ驚くのみである。
ある年の園遊会で私の義母麻生和子が御招待を受けた。
昭和陛下が発せられた御言葉は「信子さんはよくやっているよ!」だった。
義母が何よりも大事にしている皇室、すなわち長い年月に渡って吉田茂の娘として、また麻生家の妻として皇室に良かれと念じ続けている人物が、よりにもよって末の娘信子を皇室に嫁がせる運命に遭遇してしまい、それまで外側から強力に各宮殿下方をサポートしていた人間が内側に入らざるをえなくなってしまった。
結婚に至るまで私が7年間も反対のために待たされたのを見ても、義母にとっては心配中の心配事だったわけである。
そういう気持ちを持ち続けている人間に対して、昭和陛下はスパッと娘のがんばりを何の演技演出もなくサラリとおっしゃってくださった。
ただで〈臣茂〉の最愛の娘である上、土壌がある人だからたちまち感動の極致に至り、真っ当なお答えの言葉がとっさに出てこなくなり涙があふれたらしい。
私が青少年育成指導者と青少年グループの代表者たちとの懇談を国内で2年間にわたって続けていた時に、何かの集まりで高松宮御殿に伺い、
宴半ばに高松伯父様から「そろそろ若い者たちが昭和陛下とお話をしろ」と御命令が下った。
席についてすぐ昭和陛下から「青少年育成の仕事はどうなっているか?」という御下問があったので、各地で体験した青少年問題の実情をつぶさにご説明した。
実に的を得た御下問が飛び出してくるので、お答えする方も嬉しくなってしまい、思うところを洗いざらい返答申し上げた。
昭和陛下の我々甥・姪への御接しのなさり方は、子供の頃の思い出としてはそれほど強く印象に残るものはない。
しかし、昭和皇后の私への接し方は見事なものであった。
特に印象深いのは小さな子供に時間の許す限りつき合ってくださるというところにあった。
昭和皇后は実に子供の扱いが御上手であった。
御子様を何人も御育てになったから当然でしょうということも言えるが、実によく私たちの話を聞いてくださる、いわゆる聞き上手でいらした。
私が子供の頃いささか戸惑ったのは、年配の皇族・旧皇族様方がものすごいスピードで多くの方々とお話をなさることであった。
私が何かを話しかけられ子供心に緊張し、なんとかまともな返答と考えているうちに、それじゃまたねという風に次に移られているというパターンで、当時はなんとセカセカした方々だろうと思っていた。
私が大人になりイギリス留学をし社交術をマスターする時代が来ると同時に、また主役として決められた時間帯の中で多くの人々に次から次へと話をしていかなければならない場面に直面するようになって、なるほどこの方法を使わなければ全員と公平に話し合うことは不可能なのだと気づくことになる。
だが、昭和皇后は子供の頃からじっくりと私の話を聞いてくださったという記憶が強い。
これは大人になっても、御側に座るとゆったりと時間をかけてお話するという形でずっと続いた。
「学校は楽しいのか?」に始まって、「何を習っているのか?」「友達とはどんな遊びをするのか?」などなど、子供が答えやすいように次々に的確な質問を出してくださるので、私の方は甘えておしゃべりが続くということが多かった。
大人も子供も変わりなくうれしいのは、誰かと話しているとき相手が真剣に聞いてくれることであろう。
子供の頃の昭和皇后のしっかり聞いてくださるというのはうれしいことだった。
昭和皇后の思い出にはもう一つ強い印象がある。
私が留学する前にお別れの ご挨拶に伺った折、玄関でご挨拶を済ませ戻ろうとした。
それは御風邪を召されたか何かで御伏せりになっていることを事前に知っていたためだが、侍従に中に入るよううながされ、御寝所の方に来るようにとのことである。
大変なことになったわいと緊張して、おそるおそる御寝所に伺った。
両陛下をはじめ各皇族様方にお目にかかる時はその時の内容によって口上が違うし、母のようにプロでないから、我々は何度も母に口上を教えてもらい丸暗記して参上するのが常だから、状況が違ってしまったらいったい何を言っていいのか皆目わからなくなってしまうのである。
昭和皇后は御床につかれてはいたが座っておられ、ニコニコと私のしどろもどろの口上を御聞になった。
私としては御伏せりの状態であるから早く退散すべきであろうとの考えが頭の中をいっぱいにふさいでいたのだが、昭和皇后は悠揚迫らず穏やかに御話を御続になるので、結構長い間そこにいるハメになってしまった。
頃合を見計らって「御身体に触られますといけませんから」というようなことを私が申し上げて退出しようとしたら、戦後初めての皇族の単独留学を心配してくださったのだろう、「十分に身体に気をつけて、皇族として国際的視野を広め立派に務めを果たしてきてほしい」とおっしゃった。
戦後初の皇族単独留学第一号モルモットであった私は気負いもあったし、「仰せの御言葉通りがんばってまいります」と申し上げた。
当時の留学生の気持ちというのは昨今のようにパックツアーなど皆無の時であったから、少々オーバーに言えば水杯をしてという雰囲気があった。
戦後初めての試みであるから、本人も周囲の人々も受け入れてくれるイギリス側も、本当にどう転がっていくのか暗中模索の時代であり、私の行為一つ一つが前例になるといった頃だから、当方の覚悟もかなりのものだった。
そんな雰囲気の中で昭和皇后がくだされた安心感というのは大きなものであった。
昭和陛下が威厳を御持の上での御人柄からくる温かさを感じる方だとすると、昭和皇后は常に昭和陛下を常に御立てになりながら、一歩下がって笑みを絶やさない、お優しい、まさに国母陛下とお呼びするにふさわしい大きな方である。
結婚のとき私が一番何を気にし心配したかと言うと、式そのものでも御告文を読むことでも朝見の儀で両陛下にお礼の言葉と今後の抱負を述べることでもなく、ただひたすら束帯を着用することであった。
儀式前の潔斎を済ませたら不浄なことはできないし、非常事態が発生しても束帯を着てしまったら最後、お手洗いに行けない構造になっているからである。
妃が着る十二単ももちろんである。
私は常日頃ヘビースモーカーのせいだと思うが、喉がいがらっぽいなってやたらと飲み物を多くとる。
したがってお手洗いに行く回数もそれなりに増えるのは当り前である。
必然的に仕事先であれどこであれ、まずお手洗いの場所確認が重要な仕事の一つになる。
こういう人間だから、結婚式の1ヶ月前からほぼ完璧と思える体調維持作戦を開始した。
浴びるほど飲んでいたアルコールはきっぱりやめて、1日おきにトレーニングをこなし、三度三度の食事をきっちり取って、眠る時間も十分にという風に普通の人には当り前のことでも、私にとっては暴飲暴食による不摂生のうえ超多忙というのがノーマルライフだったから、想像を絶する豹変ぶりであった。
それもこれも束帯を着た時に体調が崩れることを心配したからに他ならない。
私は生来胃腸が弱いところに持ってきて神経性の胃炎や下痢をすぐ起こす癖があるので、この時ばかりは一生に一度のことであるから一大決心をして摂生に努めた。
結果論からしてこの作戦は見事に功を奏し、6時間あまりの長丁場をお手洗いなしで済ますことができた。
後日私が昭和陛下に何気なく「結婚式の束帯にはすっかり参りました。日頃水分を多量にとる癖がついておりますので、前日の昼から水分は一滴も口にいたしませんでしたし、1ヶ月前から体調整えるなど大変でございました」と申し上げ、「私などに比べると昭和陛下が御束帯を御召になる回数は年間を通じて大変な量でいらっしゃるから、さぞや御苦労の多いことでございましょう」と伺ったところ、
昭和陛下はいとも簡単に「私はふだん水分をあまりとらないから、そんなに苦労なことではないよ」とおっしゃった。
側近が昭和陛下が御小さい時に「必要以上に飲食はなさいませぬように」とお教えしたのか?
はたまたそれらの上に物心つかれた昭和陛下が、意識的に腹八分目ということを心がけておられ、飲み物についても同様なことを実践なさっておられるのか、私にはよくわからない。
我が身と比べてしまうと、よくぞそこまで御自身の御身体をコントロールおできになりますねと申し上げたくなる。
私が無分別な生活になりやすいのは、国民とじかに付き合っているため、そのペースに合せてきたからということも言えよう。
例えば酒の飲み方も私の学生時代には無茶苦茶な先輩がたくさんいて、飲み方も自分の適量もわからない我々に無理やり飲ませて、気分が悪くなれば「吐いてこい!」で、戻って来れば「さあ、もう一丁!」ということが日常茶飯事であった。
我々もたまらんとは思いつつ、これが運動部のしごき方の一つと思っていたから、当然のこととして受け止めこれの繰り返しで今に至った。
途中から本物の酒豪になったのは言うまでもない。
二日酔いはザラになり、往々にして脱水症状で目が覚めるから、なんらかの水分を多量に体内に入れ、夜になればまた飲み始めることになるし、予定のない時は迎え酒ということにもなる。
結局のところ、度を越してしまうという当然の結果を迎える。
すべてが昭和陛下の逆を行っている感じである。
聖人と極道と言ってしまえばそれまでだが、極道風生き方をしていれば束帯の6時間はつらく、昭和陛下のように不摂生をなさらなければ、我々が思うほど苦痛を御感じにならないと言えるかもしれない。
昭和陛下のお育ちになった環境と御自分の御努力が、昭和陛下という方を作り上げたわけであろう。
昭和陛下の方から御覧になれ、「寛仁、何をそんなに深刻に考えておるのか?」というごく自然な御言葉が聞こえてきそうである。
マスコミ報道の皇族の公私の別については、様々な意見がある。
公人なのだからプライバシーはないという人もいるし、個人であっても公私の別は区別されるべきだという人もいる。
私は後者の頑固な信奉者である。
なぜならば私の日常生活にはほとんどプライバシーが無きに等しいからである。
私の家庭内のことはプライベートに属することであり、それを公にする必要性は少しもなく、私の父親像とか妻の母親像はそれらを知っている身近な人々の伝聞でごく自然にもれて知られていく程度で結構である。
両陛下は我国の歴史的伝統の上に厳然としてある象徴としての御立場で行動されるわけだから、マスコミはその正しい部分を正確に報道してもらいたいし、国民の側も必要以上に興味本位にならないで自然体で見守ってほしいと思う。
御生前の昭和陛下に「昭和陛下のお好きな時にふらりとデパートに買い物に行かれるというようなことがおできになれば、とても素晴らしいことと思いますが」と申し上げたことがある。
昭和陛下は「考えたことがあるが、いまの状勢では私がそれをやればデパートの人々が大騒ぎになり、護衛の皆もそれなりに動かなければならない・何よりそのとき買い物に来ていた多くの人々が規制されたりして大きな迷惑を多方面にかけることになるだろうから、私はやらない」という御趣旨を伺ったことがある。
大正天皇が御元気な頃は、ワインをぶら下げて御近しい宮邸においでになったとか、御用邸御滞在中は自転車に乗って一人か二人の側衛官を遠くに従えて散策されたという話を聞いていたので、この手のリラックスムードが我国にもあればいいなと感じたわけである。
しかしこの雰囲気が醸し出されるには、国民サイドの最大級の協力がなければ実現するまい。
高松宮殿下が御生前 口を酸っぱくして言っておられたことに、皇室はいにしえの昔から国民に守られてきたという御言葉がある。
我国の政体には色々な種類のものがあったが、どれ一つとして天子様を根絶やしにしようとした人はなかったわけである
ここに我国の天皇制と国民の間にある、他国の王室とはどうしても比較できない伝統的つながりを見ることができる。
高松伯父様は「京都御所を見てごらん。どこからも侵入できるし防護の策など施していないのに、長い年月決して何者にも犯されずにいるではないか」ともおっしゃっていた。
平成元年の大喪の礼がかくも盛大にかつ厳粛に執り行われ、世界史上空前の164カ国28国際機関からの国賓や代表の参列も得て、国の行事として挙行されたことは、昭和陛下の御遺徳の大きさを如実に物語るものであった。
そして表に見えなかった部分での警察をはじめとする無数の関係者の崩御から当日に至るまでの昼夜を分かたぬ苦労の数々や、過剰警備と感じた人もたくさんいたとは思うが水も漏らさの完璧なまでの準備対策に国民のほとんどの人々が、先帝崩御の悲しみを胸に秘めつつ一致協力して御大喪の成功に真に寄与してくれた。
この事実を思い返す時、偉大なる昭和陛下とその昭和陛下を心からお慕いした国民が、最後のお見送りの時まで万遺漏なきようお守り申し上げた姿こそが、我国の伝統に培われた天皇と国民の強い絆を無言のうちに見事なまでに表現したものであり、高松宮殿下の御言葉にピッタリと合致する我国独特の素晴らしさであったとつくづく思う。
平成の御代になり、今まで以上にマスコミから新しい皇室像は何かとか、開かれた皇室はどうあるべきかというような質問を受ける。
根本的な部分での皇室は2600年以上の伝統に則って存在してきたわけだから変化することはない。
一般的な考えとして、終戦までの神格化された天皇が戦後象徴として人間天皇になられたとか、昭和御世から平成の御代に変わったのだから何かが変化するのではないかという素朴な気持ちがあるのは理解できないわけではない。
だが本質的なものは皇室においては太古の昔から何も変わっていないと言えよう。
昭和天皇が御生前あるときの記者会見で「戦前も戦後も変わったと思わない」という意味の発言をされたが、皇室の本来の存在姿勢や今後のあるべき姿勢という風なことはまさに昭和陛下の仰ったとおりであり、変える必要性もないし変わってもいなかったと言える。
近代皇室像のあり方は昭和天皇神が身をもって御示しになった原則が厳然として存在するので、そのことが変化するとは思えない。
昭和陛下は神道という宗教という枠ではとらわれない神の道の祭主として神事を大事にされてきたこと。
常に世界の平和を心の底から願っておられた人生であったこと。
国民の真の福祉をいつも念頭に置かれて活動されたこと。
全人生において公平無私を貫かれたこと。
数え上げればきりがないが、ここに取り出したいくつかはその中でも重要な部分であると思う。
したがって、御世代りがあったといってこれらのものが変化するとは思えない。
昭和陛下には御公務というものがある。
この御公務の中には国事行為や宮中儀式や皇室外交や地方御巡幸などいろんな種類があり、昭和天皇の場合プライベートな部分の生物学御研究などを含めてほどよく国民の前にそれらが示されてきたので、国民はその時々の昭和陛下の御姿を拝し、昭和陛下のなさっている活動をかなり的確に把握できていたと思う。
国民にじかに触れる場として園遊会や宮中晩餐や記者会見もあったから、昭和陛下の御考や御人柄に触れるチャンスはいくつもあった。
そして皇室は天皇陛下を頂点としたピラミッド型の組織であるから、直系の内廷皇族のなさる分野、斜辺を形成する内廷外皇族の分野とうまく分割ができており、皆様方がオーバーラップする部分と専門フィールド互いに持ち合ってうまく作動してきたと言えよう。
いま昭和天皇という偉大なる巨星を失い高松宮殿下という皇室の屋台骨を支えておられた大番頭とを失って、正直なところ皆様方もいささか途方に暮れておられると思う。
これから新両陛下を、皇太子をはじめとする始めする全皇族がお助けして、平成の御世の正しい舵取りに立ち向かわなければならない正念場であると思う。
ちまたには明治天皇や終戦までの昭和天皇は強大な力を持ちになっていたという風な言い方があるが、平成両陛下ともに周りに重臣たちがおり、その時々の政府の決定を好むと好まざるとにかかわらず御裁可されていたという事実だけで、それをも覆すような権力は一握りも御持ちになっていなかった。
我国の世界にもまれな万世一系の天皇制というものは、立憲君主制とか象徴天皇という言葉が出現していないいにしえの時代から今に至るまで、自然な形での立憲君主制であり象徴天皇であられた。
我国の歴史には院政と呼ばれたものもあり、公家政治もあり、武家政治・軍人政治・政党政治などなど各種の政体があったが、どの政体の時にも天皇おられ、誰も天皇の象徴としての御立場を覆そうとはしなかった。
また逆に言えば、権力を御持ちになったように見える天皇もいらっしゃったが、実際は時のナンバー2である最高責任者が国を動かしていたから、類稀なるバランスがとれた国体というものが存続した。
ここのところが他国の王室と本質的に違うところであろう。
天皇制を振り子と同一視するのは畏れ多いが、私は振り子の中心が天皇であると思う。
振り子の玉の方は右に行ったり左に行ったり真ん中にいたりするし、ある時は360度回ってしまう時もある。
しかしどの時もその中心は変わらないわけだから、振り子そのものが吹き飛んでどこかに行ってしまうということがない。
我国の天皇制とその時々の国民とのあり方をビデオで見直すということが不可能であるので断言はできないが、いにしえの昔から我国民は権力と権威を上手に分離し各々の担当者を自然に決めてきたために、戦争をはじめとする大事件は無数にあるわけだが、我々は未だかつて分裂も分断も植民地化もなく極めて健全に機能してきたのだと思う。
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1946-2012
■妻 麻生信子 麻生太賀吉の娘・兄は総理大臣麻生太郎
1955年生
*1980年11月07日 三笠宮寬仁親王&麻生信子と結婚
*1982年04月 三笠宮寬仁親王が「皇籍離脱発言」する。
●三笠宮彬子女王 1981年生
●三笠宮瑶子女王 1983年生
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三笠宮寬仁親王 2006年1月19日 日本会議機関紙『日本の息吹』
「皇室典範問題は歴史の一大事である~女系天皇導入を憂慮する私の真意~」
もしもこの平成の御世で歴史を変える覚悟を日本国民が持つならば、慎重の上にも慎重なる審議のうえ行っていただきたい。
失礼な言い方ですが、郵政民営化や財政改革などといった政治問題をはるかに超えた重要な問題だと思っています。
これは絶対にありえないと私は思いますが、いろいろな人に聞くと「これは平成陛下の御意思である」と言っている人がいるそうですね。
平成陛下の御立場で、ああせよこうせよとおっしゃるわけがない。
本当は私が発言するより皇族の長老である父〔三笠宮崇仁親王〕に口火を切ってもらいたかったわけです。母〔三笠宮百合子妃〕の話では、父は宮内庁次長を呼んであまりにも拙速な動きについてクレームをつけているということでした。
オフクロに「女帝・女系になったら大変なことになることわかってるの」と聞いたら、「もちろん大変なことだ」と言っていました。
三笠宮一族は同じ考えであると言えると思います。
この記事はできるだけ広く読まれてほしいし、日本会議のメンバーのみなさん方が真剣に考えてくださって、本当の世論を形成していただきたい。
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三笠宮寬仁親王
昭和陛下と私個人との他人を交えない会談というのは生涯で2度あった。
これは私が戦後の若い皇族として生きる上で、戦前・戦中・戦後の激動の時代を体験された先輩皇族の方々から限りなく当時の実情というものを伺っておきたいという気持ちがあったからだ。
折りにふれて秩父伯母様・高松伯父様・高松伯母様にお話を伺っていたわけだが、本家本元の昭和陛下とはそういう機会が皆無であったので、高松宮殿下にお願いをし、何とかなりませんかということになった。
高松伯父様はさっそく動いてくださり、吹上御所の応接間で昭和陛下と私二人だけの会談が実現した。
特に興味をそそられて真剣に伺ったのは、二二六事件と終戦の二つの事柄に関してだった。
昭和陛下は御自身の長い摂政時代から天皇という御立場で一貫して立憲君主という立場を取ってきたという話に関連して、「2度だけ自らの意志によって動いたことがある」と仰せになった。
この両事件は本来昭和陛下を輔弼する責任を持つ重臣たちが、前者の場合にはまったく消息不明であったわけだし、後者の場合は御聖断を仰ぎたいむね言上したわけで、いずれも場合も昭和陛下御自身が御動きにならざるをえない状況に置かれたので、御自身の意志で動かれ発言されたということを淡々と私に語られた。
その時点では、この件についてはマスコミ等を通じて昭和陛下の肉声としては正確には発表されていなかったので、私はかなり興奮したのを覚えている。
この事を見ても、昭和陛下が立憲君主としての常通を絶対に踏みはずされないよう御自身を明確に律しておられたことが明白である。
巷にこの両事件の時の昭和陛下の御態度を評して、ではなぜその他の場合にも同様の態度を取られなかったのか、取られていれば違った方向に行ったのかもしれないという類の議論がある。
しかし昭和陛下の仰ることを素直に伺っている限り、両事件以外はすべて時の政府が決定をし、御裁可くださいと上奏したものばかりだから、昭和陛下御自身の御考が反対であったとしても、拒否権発動は立憲君主という御立場上不可能であるため、好むと好まざるとにかかわらず御裁可されざるをえなかったという事実にぶつかる。
したがってもしその時々の昭和陛下の御考をストレートに出しておられれば、立憲君主としての御立場は放棄なさらなければならず、国体は当然麻のように乱れ、その結果どうなったかは我々には想像もできない。
昭和陛下は純情なまでに我国の天皇の置かれている立場を認識され、それに真正直に当たろうと努力をされ続けた人生を全うされた方だと言えよう。
繰り返すが、両事件の時のみ国家の正規の機能がまったく働かず、昭和陛下の御自身の御意見以外解決の道がなかったという例外中の例外であったため、昭和陛下は御自身の御意見をおっしゃった。
そしてそのおかげで、今の我国の繁栄があるのは議論の余地がない。
このことは私におっしゃった会談から数年後に、御自身の御口から記者会見の席で発言されたので、私個人の機密として秘匿する必要がなくなってしまったわけである。
昭和陛下をただ一言で表せと言われれば、「偉大な方であった」としか申し上げようがないのが正直な感想である。
もう一つ私がよく使用した言葉は「逆立ちしても勝てない方」
いずれにせよ我々がいかなる努力を払ってみても、昭和陛下のレベルに達することはできなかった。
驚嘆すべきは公平無私でいらしたということであろう。
たびたびマスコミに取り上げられた事柄に、大相撲の贔屓力士の件がある。
私は昭和陛下に御贔屓の力士がいなかったなどとは絶対に信じられない。
国技館に行幸になった時の身ぶり手ぶりで、ある程度御贔屓力士と推測できる御動作があったとも聞く。
しかし、終生力士名を口にされることはなかった。
もし昭和陛下がお好きな力士名を口にされたら本人は光栄この上もないかもしれないが、他の大勢の力士たちの気持ちを推しはかられて、一国の象徴たる御立場上に口に出されず、全力士に均等に温かい声援を送られたのであろう。
通常の人間にはこういった類の発想と行動は全くできる筋合いのものではあるまい。
私などもいろいろな団体を統括する立場にいるが、どうしても好き嫌いが出がちである。
私自身口では実力を考えて適材適所に配置していると言うけれど、この発言と好き嫌いの感情は紙一重であり、ギリギリのタイトロープをしていると言った方が正しいかもしれない。
昭和陛下は特定の一部の人々からの意見をお取り上げになるということは皆無であり、国際政治の分野ならその分野のしかるべき立場を任されている人の意見を聴取され、他の分野であっても同じことを常に心がけておられたから偏るということがなかった。
身内についても同じことが言える。
全校族と全方位外交なさっていたといえる。
特定の皇族の言だけを信用されて、その他の皇族の話に耳を傾けないという御態度は一回もなかったと記憶している。
こういう風に書くと、昭和陛下は物語に出てくる聖人君子のように完全無欠の聖者のように聞こえるかもしれず、冷たいクールな面白くもなんともない人間像に結びつくかもしれない。
だが、まったくそうではなかったところが昭和陛下の昭和陛下たる所以であったと思う。
何を発言されていなくても対面している人にじかに伝わってくる昭和陛下の温かい御人柄が相手を常にリラックスさせる御人徳がおありになった。
常に自然体であられたということが私にはとてつもなく偉大なことと思える。
演技する・見栄をはる・意識するといったふうなことがゼロでいらっしゃったから、いかなる人々をも国内外を問わず自然に懐に入れておしまいになる駘蕩とした大きさをいつも感じていた。
園遊会では式部官長が主要な人々を簡単にご紹介する。
それを受けて昭和陛下は御言葉をおかけになるのだが、その個々人に的確な質問を毎度毎度なされる能力にはただ驚くのみである。
ある年の園遊会で私の義母麻生和子が御招待を受けた。
昭和陛下が発せられた御言葉は「信子さんはよくやっているよ!」だった。
義母が何よりも大事にしている皇室、すなわち長い年月に渡って吉田茂の娘として、また麻生家の妻として皇室に良かれと念じ続けている人物が、よりにもよって末の娘信子を皇室に嫁がせる運命に遭遇してしまい、それまで外側から強力に各宮殿下方をサポートしていた人間が内側に入らざるをえなくなってしまった。
結婚に至るまで私が7年間も反対のために待たされたのを見ても、義母にとっては心配中の心配事だったわけである。
そういう気持ちを持ち続けている人間に対して、昭和陛下はスパッと娘のがんばりを何の演技演出もなくサラリとおっしゃってくださった。
ただで〈臣茂〉の最愛の娘である上、土壌がある人だからたちまち感動の極致に至り、真っ当なお答えの言葉がとっさに出てこなくなり涙があふれたらしい。
私が青少年育成指導者と青少年グループの代表者たちとの懇談を国内で2年間にわたって続けていた時に、何かの集まりで高松宮御殿に伺い、
宴半ばに高松伯父様から「そろそろ若い者たちが昭和陛下とお話をしろ」と御命令が下った。
席についてすぐ昭和陛下から「青少年育成の仕事はどうなっているか?」という御下問があったので、各地で体験した青少年問題の実情をつぶさにご説明した。
実に的を得た御下問が飛び出してくるので、お答えする方も嬉しくなってしまい、思うところを洗いざらい返答申し上げた。
昭和陛下の我々甥・姪への御接しのなさり方は、子供の頃の思い出としてはそれほど強く印象に残るものはない。
しかし、昭和皇后の私への接し方は見事なものであった。
特に印象深いのは小さな子供に時間の許す限りつき合ってくださるというところにあった。
昭和皇后は実に子供の扱いが御上手であった。
御子様を何人も御育てになったから当然でしょうということも言えるが、実によく私たちの話を聞いてくださる、いわゆる聞き上手でいらした。
私が子供の頃いささか戸惑ったのは、年配の皇族・旧皇族様方がものすごいスピードで多くの方々とお話をなさることであった。
私が何かを話しかけられ子供心に緊張し、なんとかまともな返答と考えているうちに、それじゃまたねという風に次に移られているというパターンで、当時はなんとセカセカした方々だろうと思っていた。
私が大人になりイギリス留学をし社交術をマスターする時代が来ると同時に、また主役として決められた時間帯の中で多くの人々に次から次へと話をしていかなければならない場面に直面するようになって、なるほどこの方法を使わなければ全員と公平に話し合うことは不可能なのだと気づくことになる。
だが、昭和皇后は子供の頃からじっくりと私の話を聞いてくださったという記憶が強い。
これは大人になっても、御側に座るとゆったりと時間をかけてお話するという形でずっと続いた。
「学校は楽しいのか?」に始まって、「何を習っているのか?」「友達とはどんな遊びをするのか?」などなど、子供が答えやすいように次々に的確な質問を出してくださるので、私の方は甘えておしゃべりが続くということが多かった。
大人も子供も変わりなくうれしいのは、誰かと話しているとき相手が真剣に聞いてくれることであろう。
子供の頃の昭和皇后のしっかり聞いてくださるというのはうれしいことだった。
昭和皇后の思い出にはもう一つ強い印象がある。
私が留学する前にお別れの ご挨拶に伺った折、玄関でご挨拶を済ませ戻ろうとした。
それは御風邪を召されたか何かで御伏せりになっていることを事前に知っていたためだが、侍従に中に入るよううながされ、御寝所の方に来るようにとのことである。
大変なことになったわいと緊張して、おそるおそる御寝所に伺った。
両陛下をはじめ各皇族様方にお目にかかる時はその時の内容によって口上が違うし、母のようにプロでないから、我々は何度も母に口上を教えてもらい丸暗記して参上するのが常だから、状況が違ってしまったらいったい何を言っていいのか皆目わからなくなってしまうのである。
昭和皇后は御床につかれてはいたが座っておられ、ニコニコと私のしどろもどろの口上を御聞になった。
私としては御伏せりの状態であるから早く退散すべきであろうとの考えが頭の中をいっぱいにふさいでいたのだが、昭和皇后は悠揚迫らず穏やかに御話を御続になるので、結構長い間そこにいるハメになってしまった。
頃合を見計らって「御身体に触られますといけませんから」というようなことを私が申し上げて退出しようとしたら、戦後初めての皇族の単独留学を心配してくださったのだろう、「十分に身体に気をつけて、皇族として国際的視野を広め立派に務めを果たしてきてほしい」とおっしゃった。
戦後初の皇族単独留学第一号モルモットであった私は気負いもあったし、「仰せの御言葉通りがんばってまいります」と申し上げた。
当時の留学生の気持ちというのは昨今のようにパックツアーなど皆無の時であったから、少々オーバーに言えば水杯をしてという雰囲気があった。
戦後初めての試みであるから、本人も周囲の人々も受け入れてくれるイギリス側も、本当にどう転がっていくのか暗中模索の時代であり、私の行為一つ一つが前例になるといった頃だから、当方の覚悟もかなりのものだった。
そんな雰囲気の中で昭和皇后がくだされた安心感というのは大きなものであった。
昭和陛下が威厳を御持の上での御人柄からくる温かさを感じる方だとすると、昭和皇后は常に昭和陛下を常に御立てになりながら、一歩下がって笑みを絶やさない、お優しい、まさに国母陛下とお呼びするにふさわしい大きな方である。
結婚のとき私が一番何を気にし心配したかと言うと、式そのものでも御告文を読むことでも朝見の儀で両陛下にお礼の言葉と今後の抱負を述べることでもなく、ただひたすら束帯を着用することであった。
儀式前の潔斎を済ませたら不浄なことはできないし、非常事態が発生しても束帯を着てしまったら最後、お手洗いに行けない構造になっているからである。
妃が着る十二単ももちろんである。
私は常日頃ヘビースモーカーのせいだと思うが、喉がいがらっぽいなってやたらと飲み物を多くとる。
したがってお手洗いに行く回数もそれなりに増えるのは当り前である。
必然的に仕事先であれどこであれ、まずお手洗いの場所確認が重要な仕事の一つになる。
こういう人間だから、結婚式の1ヶ月前からほぼ完璧と思える体調維持作戦を開始した。
浴びるほど飲んでいたアルコールはきっぱりやめて、1日おきにトレーニングをこなし、三度三度の食事をきっちり取って、眠る時間も十分にという風に普通の人には当り前のことでも、私にとっては暴飲暴食による不摂生のうえ超多忙というのがノーマルライフだったから、想像を絶する豹変ぶりであった。
それもこれも束帯を着た時に体調が崩れることを心配したからに他ならない。
私は生来胃腸が弱いところに持ってきて神経性の胃炎や下痢をすぐ起こす癖があるので、この時ばかりは一生に一度のことであるから一大決心をして摂生に努めた。
結果論からしてこの作戦は見事に功を奏し、6時間あまりの長丁場をお手洗いなしで済ますことができた。
後日私が昭和陛下に何気なく「結婚式の束帯にはすっかり参りました。日頃水分を多量にとる癖がついておりますので、前日の昼から水分は一滴も口にいたしませんでしたし、1ヶ月前から体調整えるなど大変でございました」と申し上げ、「私などに比べると昭和陛下が御束帯を御召になる回数は年間を通じて大変な量でいらっしゃるから、さぞや御苦労の多いことでございましょう」と伺ったところ、
昭和陛下はいとも簡単に「私はふだん水分をあまりとらないから、そんなに苦労なことではないよ」とおっしゃった。
側近が昭和陛下が御小さい時に「必要以上に飲食はなさいませぬように」とお教えしたのか?
はたまたそれらの上に物心つかれた昭和陛下が、意識的に腹八分目ということを心がけておられ、飲み物についても同様なことを実践なさっておられるのか、私にはよくわからない。
我が身と比べてしまうと、よくぞそこまで御自身の御身体をコントロールおできになりますねと申し上げたくなる。
私が無分別な生活になりやすいのは、国民とじかに付き合っているため、そのペースに合せてきたからということも言えよう。
例えば酒の飲み方も私の学生時代には無茶苦茶な先輩がたくさんいて、飲み方も自分の適量もわからない我々に無理やり飲ませて、気分が悪くなれば「吐いてこい!」で、戻って来れば「さあ、もう一丁!」ということが日常茶飯事であった。
我々もたまらんとは思いつつ、これが運動部のしごき方の一つと思っていたから、当然のこととして受け止めこれの繰り返しで今に至った。
途中から本物の酒豪になったのは言うまでもない。
二日酔いはザラになり、往々にして脱水症状で目が覚めるから、なんらかの水分を多量に体内に入れ、夜になればまた飲み始めることになるし、予定のない時は迎え酒ということにもなる。
結局のところ、度を越してしまうという当然の結果を迎える。
すべてが昭和陛下の逆を行っている感じである。
聖人と極道と言ってしまえばそれまでだが、極道風生き方をしていれば束帯の6時間はつらく、昭和陛下のように不摂生をなさらなければ、我々が思うほど苦痛を御感じにならないと言えるかもしれない。
昭和陛下のお育ちになった環境と御自分の御努力が、昭和陛下という方を作り上げたわけであろう。
昭和陛下の方から御覧になれ、「寛仁、何をそんなに深刻に考えておるのか?」というごく自然な御言葉が聞こえてきそうである。
マスコミ報道の皇族の公私の別については、様々な意見がある。
公人なのだからプライバシーはないという人もいるし、個人であっても公私の別は区別されるべきだという人もいる。
私は後者の頑固な信奉者である。
なぜならば私の日常生活にはほとんどプライバシーが無きに等しいからである。
私の家庭内のことはプライベートに属することであり、それを公にする必要性は少しもなく、私の父親像とか妻の母親像はそれらを知っている身近な人々の伝聞でごく自然にもれて知られていく程度で結構である。
両陛下は我国の歴史的伝統の上に厳然としてある象徴としての御立場で行動されるわけだから、マスコミはその正しい部分を正確に報道してもらいたいし、国民の側も必要以上に興味本位にならないで自然体で見守ってほしいと思う。
御生前の昭和陛下に「昭和陛下のお好きな時にふらりとデパートに買い物に行かれるというようなことがおできになれば、とても素晴らしいことと思いますが」と申し上げたことがある。
昭和陛下は「考えたことがあるが、いまの状勢では私がそれをやればデパートの人々が大騒ぎになり、護衛の皆もそれなりに動かなければならない・何よりそのとき買い物に来ていた多くの人々が規制されたりして大きな迷惑を多方面にかけることになるだろうから、私はやらない」という御趣旨を伺ったことがある。
大正天皇が御元気な頃は、ワインをぶら下げて御近しい宮邸においでになったとか、御用邸御滞在中は自転車に乗って一人か二人の側衛官を遠くに従えて散策されたという話を聞いていたので、この手のリラックスムードが我国にもあればいいなと感じたわけである。
しかしこの雰囲気が醸し出されるには、国民サイドの最大級の協力がなければ実現するまい。
高松宮殿下が御生前 口を酸っぱくして言っておられたことに、皇室はいにしえの昔から国民に守られてきたという御言葉がある。
我国の政体には色々な種類のものがあったが、どれ一つとして天子様を根絶やしにしようとした人はなかったわけである
ここに我国の天皇制と国民の間にある、他国の王室とはどうしても比較できない伝統的つながりを見ることができる。
高松伯父様は「京都御所を見てごらん。どこからも侵入できるし防護の策など施していないのに、長い年月決して何者にも犯されずにいるではないか」ともおっしゃっていた。
平成元年の大喪の礼がかくも盛大にかつ厳粛に執り行われ、世界史上空前の164カ国28国際機関からの国賓や代表の参列も得て、国の行事として挙行されたことは、昭和陛下の御遺徳の大きさを如実に物語るものであった。
そして表に見えなかった部分での警察をはじめとする無数の関係者の崩御から当日に至るまでの昼夜を分かたぬ苦労の数々や、過剰警備と感じた人もたくさんいたとは思うが水も漏らさの完璧なまでの準備対策に国民のほとんどの人々が、先帝崩御の悲しみを胸に秘めつつ一致協力して御大喪の成功に真に寄与してくれた。
この事実を思い返す時、偉大なる昭和陛下とその昭和陛下を心からお慕いした国民が、最後のお見送りの時まで万遺漏なきようお守り申し上げた姿こそが、我国の伝統に培われた天皇と国民の強い絆を無言のうちに見事なまでに表現したものであり、高松宮殿下の御言葉にピッタリと合致する我国独特の素晴らしさであったとつくづく思う。
平成の御代になり、今まで以上にマスコミから新しい皇室像は何かとか、開かれた皇室はどうあるべきかというような質問を受ける。
根本的な部分での皇室は2600年以上の伝統に則って存在してきたわけだから変化することはない。
一般的な考えとして、終戦までの神格化された天皇が戦後象徴として人間天皇になられたとか、昭和御世から平成の御代に変わったのだから何かが変化するのではないかという素朴な気持ちがあるのは理解できないわけではない。
だが本質的なものは皇室においては太古の昔から何も変わっていないと言えよう。
昭和天皇が御生前あるときの記者会見で「戦前も戦後も変わったと思わない」という意味の発言をされたが、皇室の本来の存在姿勢や今後のあるべき姿勢という風なことはまさに昭和陛下の仰ったとおりであり、変える必要性もないし変わってもいなかったと言える。
近代皇室像のあり方は昭和天皇神が身をもって御示しになった原則が厳然として存在するので、そのことが変化するとは思えない。
昭和陛下は神道という宗教という枠ではとらわれない神の道の祭主として神事を大事にされてきたこと。
常に世界の平和を心の底から願っておられた人生であったこと。
国民の真の福祉をいつも念頭に置かれて活動されたこと。
全人生において公平無私を貫かれたこと。
数え上げればきりがないが、ここに取り出したいくつかはその中でも重要な部分であると思う。
したがって、御世代りがあったといってこれらのものが変化するとは思えない。
昭和陛下には御公務というものがある。
この御公務の中には国事行為や宮中儀式や皇室外交や地方御巡幸などいろんな種類があり、昭和天皇の場合プライベートな部分の生物学御研究などを含めてほどよく国民の前にそれらが示されてきたので、国民はその時々の昭和陛下の御姿を拝し、昭和陛下のなさっている活動をかなり的確に把握できていたと思う。
国民にじかに触れる場として園遊会や宮中晩餐や記者会見もあったから、昭和陛下の御考や御人柄に触れるチャンスはいくつもあった。
そして皇室は天皇陛下を頂点としたピラミッド型の組織であるから、直系の内廷皇族のなさる分野、斜辺を形成する内廷外皇族の分野とうまく分割ができており、皆様方がオーバーラップする部分と専門フィールド互いに持ち合ってうまく作動してきたと言えよう。
いま昭和天皇という偉大なる巨星を失い高松宮殿下という皇室の屋台骨を支えておられた大番頭とを失って、正直なところ皆様方もいささか途方に暮れておられると思う。
これから新両陛下を、皇太子をはじめとする始めする全皇族がお助けして、平成の御世の正しい舵取りに立ち向かわなければならない正念場であると思う。
ちまたには明治天皇や終戦までの昭和天皇は強大な力を持ちになっていたという風な言い方があるが、平成両陛下ともに周りに重臣たちがおり、その時々の政府の決定を好むと好まざるとにかかわらず御裁可されていたという事実だけで、それをも覆すような権力は一握りも御持ちになっていなかった。
我国の世界にもまれな万世一系の天皇制というものは、立憲君主制とか象徴天皇という言葉が出現していないいにしえの時代から今に至るまで、自然な形での立憲君主制であり象徴天皇であられた。
我国の歴史には院政と呼ばれたものもあり、公家政治もあり、武家政治・軍人政治・政党政治などなど各種の政体があったが、どの政体の時にも天皇おられ、誰も天皇の象徴としての御立場を覆そうとはしなかった。
また逆に言えば、権力を御持ちになったように見える天皇もいらっしゃったが、実際は時のナンバー2である最高責任者が国を動かしていたから、類稀なるバランスがとれた国体というものが存続した。
ここのところが他国の王室と本質的に違うところであろう。
天皇制を振り子と同一視するのは畏れ多いが、私は振り子の中心が天皇であると思う。
振り子の玉の方は右に行ったり左に行ったり真ん中にいたりするし、ある時は360度回ってしまう時もある。
しかしどの時もその中心は変わらないわけだから、振り子そのものが吹き飛んでどこかに行ってしまうということがない。
我国の天皇制とその時々の国民とのあり方をビデオで見直すということが不可能であるので断言はできないが、いにしえの昔から我国民は権力と権威を上手に分離し各々の担当者を自然に決めてきたために、戦争をはじめとする大事件は無数にあるわけだが、我々は未だかつて分裂も分断も植民地化もなく極めて健全に機能してきたのだと思う。
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