直球和館

2025年

2001/07

◆常陸宮正仁親王 124代昭和天皇の二男 義宮正仁親王
1935年生

*幼少期に小児マヒに罹ったが、戦後まで秘されていた。


■妻  津軽華子 津軽義孝伯爵の娘
1940年生


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『入江相政日記』侍従長

1942年4月1日
今日常陸宮、初等科に御入学。
御病後のためかだいぶおやつれで、どうも心細い。
三里塚で十二分に御静養願いたいものである。
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『入江相政日記』侍従長

1950年5月23日
常陸宮伝育官東園基文・侍従久松定孝・皇子伝育官村井長正・侍従山田康彦と一緒に常陸宮のことにつき協議。
近頃の御様子を聴取していろいろ意見も述べる。
なかなか心配なことである。

1950年5月26日
侍従次長鈴木一・山田侍従・村井伝育官と一緒に常陸宮のことについていろいろ相談する。
我々が心配しているようなことを聞いたのは、今日が初めてだったらしい。

1950年6月14日
常陸宮のことにつき縦横に議論する。
いろいろな人の意見があり、いろいろな事情があって、真に複雑を極めている。

1950年7月6日
今夜宮内庁長官田島道治と侍従長三谷隆信が常陸宮に御相伴に出るそうであるが、常陸宮の御伝育方針をめぐっていろいろな行き違いがあるにのに結局どういう所に落ち着くであろうかと山田侍従も心配している。
毎々のことであるが、実に不思議なことであると思う。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1950年7月5日
田島長官◆三笠宮のことに関連し、東宮様・常陸宮のこともなかなか考えさせられまする。
東宮様は特別にて民法に長子相続もなくなったにかかわらず、皇室だけは長子相続の建前で二男・三男は冷や飯で、この点よほど注意しなければならぬと存じます。
東宮様のことは東宮大夫穂積重遠の無責任では駄目ゆえ、東宮参与小泉信三に変わってもらうという具体案ができてお許しを得て実行しましたが、常陸宮についてはなお研究中。
昭和天皇◆田島は戦争後になって宮様方が平民的自由と皇族の特権とを両方活発にやられるようになったと言ったが、戦前からずいぶん平民的な特権をやっておいでだった。
一つは別当などの人がついていたことと、今一つは検閲制で新聞に出なかったというだけだ。

昭和天皇◆東宮ちゃんと常陸宮は教育が違う。
二人は同じ学習院へ通ってる。
私は御学問所、秩父さんは陸軍幼年学校、高松さんは中等科という風にみな違った教育を受け、私だけは特別だったから。
田島長官◆東宮様は上中下と分けて上の部にお入りになり、馬・テニス何でもなさいますが、失礼ながら常陸宮は中の部にもお入りになれませぬ上、御体格上テニス等の御運動もできず、学習院でも御孤独であるとのことでございます上、東宮様は将来の天皇たる天職お定まりでありまするが、常陸宮は旧憲法時代と違い軍人ということはなくなり、何か将来のことをお考えになる必要があります。
昭和天皇◆今は化学がいいと思う。
しかし専門家になってもらっては困る。
相当の暇つぶしになって、そして趣味の程度ということを考える。
田島長官◆常陸宮の問題で何か最近あったらしき様子。
昭和天皇◆皇子伝育官村井長正が皇子伝育官東園基文や次長を出し抜いて何か言うから、山田に言って次長に注意して、それから次長がいろいろやり出したのだ。
常陸宮さんは私に何でも進んで聞いてくる。
常陸さんはいろいろなことを私に言ってくるから何を考えているのかよくわかる。
東宮ちゃんとも議論してることがよくあるが、なごやかにやってるから心配ないと思ってる。
田島長官◆それが最近必ずしもそうでないと聞きました。
昭和天皇◆これは年頃で、性の問題にも関してると思う。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1951年4月18日
田島長官◆池田の方〔順宮厚子内親王の夫池田隆政〕は、ただ今のところ何の障害も起らず一応無難であります。
名門であり、御仕事も実業で。
昭和天皇◆その実業も土地についたいい意味の実業だし。
田島長官◆職業軍人なき今日、将来常陸宮の御仕事としても結構かと内々考えておりまするような
ことでございます。

1951年6月16日
昭和天皇◆常陸さんが少し共産党に同情的だということを言ったと思うが、昨日話してみるとずいぶん違って、このごろはよほどキリスト教的になった。
常陸さんとてもいつ皇位継承するということがないとは言われないので、やはり偏らぬことがよいと思う。
天皇とかいうような立場はやはり灰色が必要で、仏教も神道も哲学も儒教のようなこともそれぞれ長所があるので、どれということのない灰色にしたい。
東宮参与小泉信三とよく相談してくれ。
田島長官◆そういう変化は何か本か人かがキリスト教の感化を常陸宮に与えましたのでございましょうか。
昭和天皇◆皇子伝育官村井長正の影響もあるかもしれぬが、水島三一郎がクリスチャンだと言ってる。
田島長官◆水島は化学の難しいことを平易に御説明することは上手でございます。

1951年11月1日
昭和天皇◆常陸さんのキリスト教のことだが、非常に熱心で私にも東宮ちゃんにも言うから、友達には秘密にするとは言ってるが話すかもしれぬ。
万一のことあれば常陸さんも皇位を継承すべき人だから、常陸さんの身分としては仏教のことも知り神道のことも知って偏してもらいたくない。
皇室は神道であり、これは私は宗教と思わないが、アメリカ占領軍などで宗教だと言えば客観的には宗教でないと言い切ることもできぬかとも思う。
祝詞をあげること、葬式もやること、結婚もやることを考えると、あながち儀式とばかり言えぬかと思う。
常陸さんは賢所のことなど儀式だからキリスト教とは無関係だと言うが、私はこれはどうかと思う。
東宮参与小泉信三と相談して、一つ仏教や神道の話を聞かせるようなことも考えてくれ。
これには皇子伝育官村井長正の力があるようだから、場合によっては替えることも考えてみてもらわんと。
田島長官◆村井は内村鑑三の弟子矢内原忠雄の弟子で熱心な信者であり、性質がややすっとんきょうな点もあり大きな声で笑いまするし、先年花園天皇御年紀の際、事績に感激して御伝記編纂の事業を熱心に申し出ましたこともあり、少し熱する方でありますが、仏教ならば仏教学者鈴木大拙でも講義を頼んでということも考えられますが。
昭和天皇◆いや、鈴木は難しいよ。
歴史の座談会の時に支那にキリスト教が広まらなかったのは儒教があったからだとの話だったが。
田島長官◆天皇の御位置としてはキリスト教の信者となられることは仰せのごとく困りますことでありますが、仮に平民とすれば信仰にお進みになったということがあればむしろ喜ぶべきことかと思います
昭和天皇◆それはそうだ。
宗教的信仰を持つことは平民ならいいことだ。
しかし万一の場合に継承するかもしれぬという常陸さんとしてはは困る。
田島長官◆仰せのとおりでありますが、東宮様とは多少の差がありまする上、昭和陛下も御承知の通り常陸宮はヴァイニング夫人の帰ります前頃は非常に変で、ヴァイニング夫人も困ると申し、中等科から高等科へお進みの時にもあまり成績がおよろしくなく、いろいろ御心配申し上げておりましたところ、最近非常によくおできになるようになり、英語その他まだ御不得意の学科がありますそうですが、昨年から見ますれば大変な御進歩とのことで大いに喜んでおりますが、田島はこの御進歩と御信仰は離るべからざる関係がおありと思います。
青年の一番難しい時をお乗り切りになる時、キリスト教が役立ち、お落ち着きの結果の御進歩だと思いますから、ただいまキリスト教のことをかれこれ申し上げますことは、角を矯めて牛を殺すということになるかと存じますので、今しばらくお見送りのお許しを得たいと存じます。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1952年1月3日
東宮様・常陸宮に拝謁。
東宮様無表情、常陸宮御言葉ぶりよろし。

1952年9月26日
徳川慶光の娘を常陸宮へとの話。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1952年6月24日
昭和天皇◆この間会食の時に東宮ちゃんが、学習院高等科の優秀は東大へ行くから、その次のが進級してる所へ、外部から入って来る者が相当あり、これが多少対立し、外部から来た者はやはり進歩的と言うか左的であり、学習院高等科から登ったものはそうでないので、なかなか難しいところがあるとのことだ。
学習院院長安倍能成は誠に人格はいいが、そういうことを処理するのに進歩的な方に譲歩する傾きがあるのではないか。
米内光政と似てるのではないか。
昭和天皇◆学習院も世間の大学並に左的な空気はありましょうし、いずれの大学でも教授・学生共に進歩的でなければ一日も治まらぬ情勢ゆえ、安倍も立場も非常に困難だと思います。
勇気がないと言うより、実際的でない理論的であるかと思います。
全面講和論のごとき態度であります。
緒方竹虎に随行しました朝日新聞嘉治隆一の話に、
「蒋介石政権では中共と正面に反対しておりまする以上、日本が国民政府に援助せぬにせよ、少なくとも中共に勢いをつけることだけはやめてもらいたい。南原繁・安部能成・矢内原忠雄というような人の言論は5万の援兵ぐらいの価値がある」と申しておりました。
東宮様の教育の面も大学はなかなか難しく、場合によりますればお辞め願ってもよろしいと考えております。
昭和天皇◆常陸さんも言っておいでだったが、水島三一郎の話に
「東大の中にはそんな悪い学生はいない。あれは外部の学生だ」というようなことを言ってたそうだ。
しかし大学は大学でやるから自治で警察は困るとかいうので矛盾しているように思うが、水島がそんなことを言ってたそうだ。

1952年11月5日
昭和天皇◆私は牡蠣が好きで、常陸さんも好きで、先年二人は大いに食べて〔食中毒〕やったことがあるが、そのとき牡蠣を食べなかった良宮も少しやられた。
牡蠣に付着しがちなものは他にも付着しがちゆえ。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1953年4月14日
田島長官◆常陸宮が御文庫でアメリカの映画を御覧の時、アメリカの宣伝映画と仰せになったことについて、学友連中の空気また安倍参与の理想平和論のことなどよく小泉参与とも相談をいたします。
昭和陛下からも「宣伝映画かもしれないけれども、そう言わないで観たらどうだ」という風に軽く仰せいただきますと大変よろしいかと存じます。

1953年5月18日
田島長官◆常陸宮の御成年も2年半の後で一家御創立の問題もありまするが、高松宮・三笠宮とも御直宮は軍人としてお立ちになる制度下で今のようにおなりになりましたのですが、常陸宮の場合は果たしてどういう御職務をなさいますかも問題であり、大学御進級の科もお決め願いませんければならず、ほぼこの方がよろしいかと一応結論を得て、学校での教育責任者であります学習院長安倍能成の意見を聞く必要もありますので、それらを総合いたしまして昭和陛下のお許しを得たいと存じておりまするわけではありますが、この問題とても政府の了承に関係を持ちませんするし、いずれに致しましても安定政権が望ましく、目下新聞は孝宮和子内親王・順宮厚子内親王の御結婚をスクープできなかったので残念がり、東宮妃は何とかしてスクープすると申しておりますそうでありますが、これは内親王様と違い皇室会議の議を経なければなりませず、どうしても政局の判定は望ましいのであります。
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『入江相政日記』侍従長

1954年11月13日
常陸宮御殿の御歌会。
今日も昭和皇后がならせられ、もう御常連になっておしまいになった。
酒が出たら昭和皇后が御文庫からすぐ鮒寿司をお取り寄せになった。
そして昭和皇后もお喜びで御酒をかなり召し上がった。
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『入江相政日記』侍従長

1958年6月14日
常陸宮御殿で歌合。
例によって大変な騒ぎ。
昭和皇后は始めから、昭和陛下と清宮貴子内親王は途中から、酒肴をいただき8時に散会。
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『入江相政日記』侍従長

1962年2月6日
宮内庁長官宇佐美毅の所へ行き、このあいだ葉山で昭和皇后が吉田茂に常陸宮のことをお頼みになったことなどを中心に話す。
侍従次長稲田周一の所でダベる。
常陸宮のは結局まだなんともなっていないらしい。
困ったことである。

1962年7月12日
稲田侍従次長から常陸宮の御縁談もまったく白紙に返ったと聞く。
やはり旧華族からとの強い御注文の由。
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『入江相政日記』侍従長

1964年2月21日
常陸宮のお見合いを朝日がスクープしたというので大騒ぎ。

1964年4月14日〔常陸宮、納采の儀〕
津軽華子さん、御両親拝謁。

1964年9月4日
常陸宮侍従東園基文。
常陸宮は【侍女長】のことにつき、皇室が信義を失っては大変と涙を流しておっしゃった由。

1964年9月7日
永積侍従次長と【侍女長】問題などについて語り合う。
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田島道治『日記』宮内庁長官

1964年2月21日
秩父宮妃。
今度のことで東宮御夫妻〔平成天皇夫妻〕にショックなきよう。
〔常陸宮&津軽華子の結婚〕

1964年3月3日
宮内庁長官宇佐美毅。
常陸宮苦心談、両陛下 東宮御夫妻〔平成天皇夫妻〕に直言。
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『入江相政日記』侍従長

1966年10月16日
常陸宮御夫妻と御散策。
このあいだ明治会の時に皆様おすすめでお集めのお金どう遊ばすかにつき、昨日侍従次長永積重遠からいろいろ申し上げたるところ、昭和皇后はお取り上げにならず、それを打ち切って今日常陸宮に御相談とのこと。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1974年7月19日
常陸宮妃、御誕生日で宮殿に御参内。
入江侍従長が「本日は御誕辰でお喜び申し上げます」と御挨拶の後、
「大変涼しい日が続き、常陸宮妃の御誕生日らしく思われません」と冗談を言われて、常陸宮妃も大笑いされていた。
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『入江相政日記』侍従長

1975年5月1日
〔5月7日~5月12日のエリザベス女王来日について〕
宇佐美長官・侍従次長徳川義寛・女官長北白川祥子・式部官長島重信と話し合い。
秩父宮妃・高松宮妃が美智子妃・常陸宮妃に、
「和服ではダンスができないから、昭和皇后にお願いして洋服にしろ」と強く言われた由。
お嫁さんたちとしてはそんなことはできないということで、美智子妃・常陸宮妃は和服、他は御勝手にということにしようということになる。

1975年5月3日
晩餐の時のダンスの関係で、美智子妃・常陸宮妃はローブデコルテ、昭和皇后は和服の関係上、御一方では具合が悪いので秩父宮妃・高松宮妃も和服ということで両陛下のお許しを得ようということになる。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1977年3月4日
常陸宮から献上のスッポンを両陛下に御披露。
御料理用ということで、飼育をくいとめる。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1977年7月4日
夜、常陸宮御夫妻御参内。
お飼いになっているチンチラの子が2匹生まれたので、御覧に入れるためカゴに入れてお持ちになった。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1978年1月17日
常陸宮御夫妻、御参内。
御食後〈お能カルタ〉
お能の曲名を漢字で書いたものが取り札、万葉仮名で書いたものが読み札。
両陛下なかなか御上手。
漢字で読めないものもあり、両陛下はお慣れになっている。
源平に分れ半分の50枚を取った。
時間が短く物足りなかった。
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『入江相政日記』侍従長

1980年6月13日
〔元常陸宮伝育官〕掌典長東園基文に会い、東宮様と常陸宮のこと聞く。
この頃はおよろしいとのこと。
皇后宮大夫安楽定信に話しておく。
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『入江相政日記』侍従長

1982年3月10日
常陸宮へ御礼に行く。
常陸宮妃、いつもながらいい方。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1987年4月15日
昭和陛下より「常陸宮が東京倶楽部を継承したら、紫煙に囲まれて肺ガンにならないか」との御心配。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1988年10月18日
夜半かなりの下血があった由。
御寝室にうかがった御様子ではさほどお変りない。
常陸宮妃がお吹き込みになった童話をお聴きになる。

1988年10月22日
昭和陛下、常陸宮妃お吹き込みのイタリア昔話『疥癬にかかったバラリッキ』20分お聴き。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1995年11月14日
常陸宮還暦記者会見で、小児マヒのことあえて言われることなしと。
〔常陸宮は幼少時に小児マヒに罹ったが、戦後になるまで伏せられていた〕
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◆常陸宮正仁親王 124代昭和天皇の二男
1935年生

*幼少期に小児マヒに罹ったが、戦後まで秘されていた。


1955年 成年式 未成年皇族の正装
5014


1955年 成年式 成年皇族の正装
30s9223


0012


1962年
19620001


19620003





■妻  津軽華子 津軽義孝伯爵の娘
1940年生

1964年
9200


1191


3000


ede51ee8


1964年
19640001


1976年
19760204


1976年
19760244


19760246


1982年
19820051


1983年
19830053

◆125代 平成天皇 継宮明仁親王 124代昭和天皇の長男


■妻  正田美智子 日清製粉社長正田英三郎の娘


●浩宮 徳仁親王  125代天皇
●礼宮 文仁親王  秋篠宮
●紀宮 清子内親王 黒田慶樹と結婚


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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1990年3月1日
ティアラの修理費のこと。
由緒品の性格上、理論づけが難しく保留。

1990年4月26日
内田式部官より、園遊会招待の御親族が安西恵美子夫妻などとなっており他と平仄が取れないと。
手塚侍従に話し、納得する。

1990年7月5日
山本侍従長に御即位饗宴用盃のデザインを見せる。
少しゴテゴテしすぎとの意見。

1990年7月23日
紀宮清子内親王のバードウォッチングのこと、庭園課長に準備方申し入れ。

1990年7月27日
紀宮清子内親王、バードウォッチングの後のお弁当を野外でとのお考え。
この暑いのに。
昼食時にその話を出したら、皇太后宮職は吹上では困ると。

1990年8月4日
紀宮清子内親王一行、予定通りバードウォッチングのため皇居へ。

1990年10月23日
宮務課長から紀宮清子内親王の序列位置について聞いてくる。
秋篠宮の次と答える。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1990年5月24日
盧泰愚大統領夫妻来日、国賓。
天皇の御言葉による謝罪について大統領の来日を機に盛んに報道されてきたが、象徴天皇の限界を超えてはならないという政府の方針が韓国民にどの程度理解されたがわからないが、結局落ち着くべきところに落ち着いたと言うべきか。
宮中晩餐。
平成陛下の御服装をテレビで見ると、上着はダブルの背広と全く同じ。
したがって前合せが深く、タキシード特有のひだのあるワイシャツはほとんど見えない。
これではズボンが脇に線の入った正式なものであっても、ダブルの背広に黒の蝶ネクタイをしたもののように見える。
これでタキシードと言えるのか。
こんなタキシードがあるとは知らなかったが、もし新機軸を出すためならとんでもない。
国賓処遇の正餐にまだ広く認められていない服装するなど、一国の最高首脳のすることではない。
世界先進国のもの笑いの的となるだけ。
誰の発案か示唆か知らないが、側近は何をしているのか。

1990年6月30日
4方の写真は正式の記念写真として問題がある。
秋篠宮が両手を前で組んでいるのは論外。
最高の正装をし極めて改まった写真であるべきところ、こんな姿勢では良識を疑われると言うべきである。
従来から秋篠宮は両手を組む癖がおありのようで、そういう写真をよく見る。
平成陛下の左手も甚だよくない。
手のひらを大きく開いている。
自然に伸ばすか軽く握かすべきであろう。
これも癖らしく、国賓との写真でも見かける。
いずれもこの場に立ち会った側近か侍従の者が当然注意してお直し願うべきである。
カメラマンはそこまで立ち入って申し上げることはできない。
折に触れ報道される写真であるだけに、特に日頃からキリッとしない動作の多い秋篠宮にとって大きなマイナスである。
立ち会った側近の責任重大である。

1990年10月26日
平成皇后御誕生日祝賀行事。
侍従職は赤坂とこちらに分かれているので、こちらでは宮殿雉子の間で侍従以下事務職員・仕人など列立で両陛下に祝賀。
昭和天皇の時と異なり、両陛下でお受けになるものが多い。
我々に昼食の御馳走もない。

1990年11月3日
即位礼の習礼。
束帯は下着から一式全部で6.5キロある。
小生は璽の役。
手順がまだほとんど細部は詰めていない上、女官への連絡も悪いのでなかなか進まず。
試行錯誤で行われた。
3回ぐらい行ったが大体のところで終わり。
大筋は決まった。
石帯をつけると装束は重く、2時間あまり立ち通しでぐったり疲れた。

1990年11月10日
総合習礼。
両陛下・皇族方は昨日で終わり。
代役に職員が立つ。

1990年11月12日
即位礼正殿の儀。
途中高御座の帳を開いた直後に鳴るはずの鉦の音が、少し早く帳が開き始めてすぐ鳴ったし、平成陛下に一斉に礼をする合図の太鼓が、まだ御帳台を開いた女官が下部を直していた時に鳴ってしまった。
治した時になってしまった

※即位礼について感想

●習礼を5回(うち3回は両陛下も)したが、両陛下30分のお出ましで終わってしまったことを考えると、5回もする必要は全くなかった。
細部のことに調整にこだわりすぎたのではないか。
高御座の後ろや内部での侍従の所作にこだわりすぎた。
特に心外だったのは、高御座内の国璽・御璽の置き場について法制局が細かなくちばしを入れてきたことだ。
どこに置こうが高御座内に持ち込めば十分であって、目立たないところに置くと宗教色を薄めるために国璽・御璽を持ち込んだ目的が達成されないというのだろうが、なんと小心なることか。
結局神璽の前方に置くことで決着した。
●御列進行の際 平成陛下と同様に中央進むのは宝剣・お裾・神璽の3人だけで、あとは先行する式部官長官・宮内庁長官・侍従長・御笏・御草鞋の侍従全て左側を進行することはおかしい。
全部中央に進むべきだ。
最初の案は宝剣・神璽も左側を進むことになっていたのも改めさせ、その代わり履物を室内にも使う鳥皮に替え、上記3人のみ中央にした経緯がある。
平成陛下の後ろを従うものが中央を歩かないなど、通常のあらゆる御供では全くないことである。
●侍従全員が笏を持たなかったことは束帯の服装として欠陥である。
行進中に何も持たない役の者は腰に手を当てて進み、高御座の後にしき立っている時も同様の姿となる。
このとき笏を持っていないと全く様にならない。
首相の万歳三唱に和して我々も三唱するが、このとき笏を持っている侍従長などは笏を身体の中央に構える。
持っていない者は持っているかのごとく両拳を身体の中央に持ってきて三唱するというのだから笑わせる。
小生はあまりばかばかしいから、拳は腰に当てたままの姿勢で低く三唱した。
●諸役は古風な出で立ち、両陛下も同様、高御座・御帳台も同様。
それに対し三権の長のみは燕尾服・勲章という現代の服装。
宮殿全体は現代調。
全くちぐはぐな舞台装置の中で演ぜられた古風な式典。
参列者は日本伝統文化の粋と称える人もいたが、新憲法の下全員燕尾服・ローブデコルテで行えば済むこと。
数十億円の費用をかけることもなく終わる。
新憲法下初めてのことだけに、今後の先例になることを恐れる。

1990年11月17日
大嘗祭習礼。
今日初めて大嘗宮を見る。
なかなか立派だが14億円とはとても考えられない。

1990年11月28日
即位関係の我々の分担する諸儀が終り、大役が滞りなく終って肩の荷がおりた。
赤坂の侍従は即位の礼の習礼の時から時間刻みの各担当グループの配役行動表を何回も改訂を繰り返しながら伊勢行幸啓まで多量に作って配布したことは、さぞ大変な作業だったことと、問題点はあったものの御苦労なことだったと思う。

1990年12月18日
昭和天皇御服衣品の整理。
宮殿地下の御服所に行き、現物を見ながら取捨選択をした。
背広・礼服・オーバー・天皇服・水着・御運動着・乗馬服など150着ぐらい。
そのうち50着ぐらい選ぶ。
最終的にどうするかは、いずれまた検討する。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1992年10月20日
平成皇后御誕生日。
三笠宮寛仁親王が樋口侍従に、
「皇族の祝賀の際、天皇皇后両陛下というのはいかがなものか。平成皇后お一人が良いのでは?」とのお尋ねがあり、それについての我々の意見を聞きたいとのことでいろいろ話した。
我々の意見ではお一人が良いと思うが、何事もできるだけお揃いでというのが平成流だから、いずれにしても事務主管手塚英臣にお尋ねのあったことを伝え、その意見・説明をお答えするのがよいと話した。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1993年10月20日
平成皇后お倒れの報、出御はお取り止めの由。
皇太后宮侍医内西兼一郎によれば一過性脳虚血かと。

1994年11月24日
文芸春秋の手塚証言などを読む。
岸田英夫がまっとう、渡辺みどりは実態しらず。
〔『美智子皇后の孤独』侍従手塚英臣・帝京大学教授岸田英夫・皇室評論家渡辺みどり〕
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1993年3月31日
御用掛退職。
宮殿鳳凰の間、両陛下お揃い。
平成陛下から「御苦労でした。昭和皇太后〔香淳皇后〕のことをよろしく。体を大切に」と。
平成皇后からはない。

1993年6月24日
侍従長からサンデー毎日の小生の叙勲辞退の記事について聞かれる。
小生から経緯を説明。
4月半頃皇太后宮職引間庶務係長から「旭三の叙勲となるが、受けますか?」とのことだったので、「非常勤ながらまだ出勤しているから辞退する」むね答えた。
卜部氏から同様の電話があったので、
「真意は長い間お仕えしお世話になった昭和陛下なら喜んでお受けするが、ほとんどお仕えしていない平成陛下からは受ける気にならない」と伝えた。

1993年10月20日
平成皇后御誕生日祝賀。
平成皇后は宮殿へのお出まし前に赤坂御所で急にお倒れになった。
はじめ意識も薄れていたが間もなく回復されたが祝賀行事は御欠席で、平成陛下のみ御祝賀をお受けになった。
平成皇后は御昼食もお取りになって通常の御生活に戻られたが、ただ御声は出るが言葉が出ない状態という。
側近奉仕の祝賀の前に事務主幹から一同に説明があった。

1993年10月23日
第48回国体行幸。
平成皇后はその後もな御言葉が出ない状態が続いているので大事をとっておいでにならず、平成陛下のみ御臨席・御視察。
平成皇后は21日に宮内庁病院で東京大学の神経内科の教授の立会いでCTスキャンなどの検査を受けられたが、脳には異常が見当たらず3週間以内で治る見通しと。
肉体的・精神的な疲労、ストレスがひどいと起きる症状で、これが3週間以上続くようだと一種の脳梗塞だという。
それにしても国体へのお出まし中止の発表が、昨日の夜11時とはどういうことか。
御容態からいってお出ましは好ましくないことは、テレビで専門家が口を揃えて言ってるのだから、早く発表すべきだった。
もっとも宮内庁内にお出になることもかえって御気力の充実の上でよろしいのではという医者がいたというが、言葉が出ないことをスタイリストの平成皇后がどれほど気にするか、そのストレスを何と考えるのだろう。

1993年12月8日
両陛下、皇居の新しい御所に御引越。
名称は「御所」
剣璽御動座と両陛下・紀宮清子内親王が同じ車列で行われた。
問題なのは御所御車寄から御所内にお入りになる御列をテレビで見ると、平成陛下が先頭でその後に剣、ついで璽、その後に平成皇后、終りに紀宮清子内親王であった。
剣は平成陛下より前でなければならない。
おそらく赤坂御所を御出発の時も同じ順序だったろう。
新嘗祭における御列も剣の後に平成陛下と決まっている。
吹上御所を平成陛下と剣璽がお発ちになる時も同じである。
侍従が平服で奉持していたのも気になる。
モーニングにすべきだ。

1993年12月10日
吹上御所へ。
庁舎旧侍従室など荷物が廊下にいっぱい出ており、模様替などこれかららしい。
女官候所で皇太后宮女官長北白川祥子に8日の御列のことを問題としたところ、井関英男大夫も同じことを言って調べたところ、昭和天皇崩御直後の剣璽等承継の儀の後、宮殿から赤坂御所へ御剣御動座の時も平成陛下が先頭で、剣、璽と続いたと言う。
この例にならって8日も同様の順にしたと言う。
平成流と簡単に片付けるにはあまりに重大な変更であり、後日問題となろう。

1993年12月11日
平成皇后言葉をお出しになると宮内庁発表。
昨日金沢一郎東京大学教授の診断があり、2日に単語を、10日には簡単な文をささやき声でおっしゃれるようになったとのこと。
この発表を11月の夜中にしたのだから驚く。
総務課など関係者は夜中に大変だったらしい。
10日夜、もっと早く発表すべきもの。
宮内庁の対応相変わらず。

1993年12月12日
剣璽御動座の剣。
8日の御動座の際 剣が平成陛下の後だったことについて夜当直の田中氏に意見を聞いたところ、
「確かに順としては剣が平成陛下の先に行くべきだが、剣・璽ともに移動用の鞄に入れて運んでいるので、正規の御列ではないという考えから、剣が平成陛下の後としたのだろう」とのことだった。
それなら両陛下なり紀宮清子内親王の後にしたらどうかと思うが、そこまで格下げにできず中途半端な形になったと思われる。
「1月7日の吹上から赤坂への御動座の時も、同様の考えから剣璽が平成陛下の後になったのでは」と田中氏は言っていた。
しかし鞄に入れようが剣璽に変わりはないのだから、この扱いには疑義がある。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1995年1月20日
地震のため、〔平成〕天皇御夫妻お慎みでテニス自粛とのこと。

1995年2月3日
現侍従職〔平成〕の歌会始に対する熱意のないこと、不安があるなど愚痴が出る。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1996年3月14日
昭和皇太后〔香淳皇后〕と平成皇后との確執につき、なぜか各社共通の動き。

1996年6月7日
平成陛下、前庭性神経炎によるめまいのため御静養と発表。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1997年9月6日
ダイアナ元妃の葬儀は国民葬ともいえる特異な方式で行われた。
テレビ各局、中継放送。
各国要人など参列。
日本からは駐英大使のみ。
東宮御夫妻に出席招待があったが断った、諸般の事情から皇族の出席はしないと決めたという。
ヨーロッパの王族はしないこと・国葬でないことが理由らしい。
しかしヨーロッパ王族でもスペインなどは出席したとの報道もあり、出席しなかった国には招待状自体が出されなかったという。
ダイアナ元妃と私的に親しかった王族だけに招待状が出されたという。
理由はともあれ、日本は東宮様〔令和の天皇〕・秋篠宮・三笠宮は留学もしているし、ダイアナ元妃は3度来日し皇室とは親しい関係にあったのだから、浮名も多く離婚しているとはいえ、誰か皇族が出席すべきではなかった。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1999年6月17日
正田英三郎氏〔平成皇后の父〕の万一の時について協議。
正田富美子夫人死亡の時を調べる。
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梨木止女子→坂東長康の妻坂東登女子 明治天皇・大正天皇に仕えた女官〈椿の局〉

大正陛下は昔からの明治陛下の仰せになるような言葉で仰せになった。
昭和陛下はいくらか大正陛下にお似ましのようですね。
秩父宮様は下方にお成り遊ばしてるので、兵隊の中で揉まれてござるわね。
一般の人にふさわしいような、近いような御言葉ですわね。
今の東宮様〔平成天皇〕は余計もう、さばけておいでになる。
それにお付きしてる人がみんなそんな粗雑な言葉を使うので。
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司葉子 女優・経済企画庁長官相沢英之の妻

※平成の即位の礼 1990年11月12日より

11月12日「賢所大前の儀」に始まって12月10日の総理大臣主催「天皇陛下御即位記念祝賀会」が終わるまで、計10回あまりの行事に私もお供して宮中に上がらせていただきました。
朝・昼・夜もそのつど着替えるので、その2日間はホテルオークラに衣装を運び込んで泊まり、戻っては着替え、着替えては出かけるということを繰り返しました。
こういう儀式に何を着て行けばいいのか頭を抱え込んでしまうところですが、宮内庁から事前に服装についての詳しい細部にわたっての資料をちょうだいしました。

「正殿の儀」
■男子は
●洋装なら燕尾服・モーニングまたはこれに相当するもの。
シルクハットは不要。
勲章着用。
手袋は随意。
●和装なら紋付の羽織・袴。

■女子は
●洋装ならロングドレスかデイドレスあるいはドレッシーなワンピースかアンサンブルスーツ。
デザインは長袖で衿の詰まったもの。
生地は絹または絹風のもの。
色は淡い色が望ましい。
靴はドレスと同色系のパンプス型。
帽子・手袋は随意。
アクセサリーは随意(金・銀・真珠などの上品なもの)
●和装なら白襟、紋付の色留袖・訪問着、黒留袖でも差し支えない。
羽織は不可。
襦袢は白羽二重または白綸子の長襦袢など。
帯は丸帯または袋帯。
足袋は白。
ハンドバッグは革製ではなく、絹織・佐賀錦・ビーズなどの小型のもの。
履物は糸錦、金色または銀色の布地のものなど。
扇子・アクセサリーは随意。

「饗宴の儀」
■男子は「正殿の儀」に同じ。

■女子は
●洋装ならイブニングドレス。
デザインは長袖で衿のないもの。
胸や背中の広く開いたワンピース仕立。
生地は絹または絹風のもの。
色は淡い色が望ましい。
手袋は革製または化繊のもので、白またはドレスと同色の長手袋。
靴は金・銀の繻子、またはドレスと同色の繻子や絹のパンプス型。
アクセサリーは随意(金・銀・真珠などの上品なもの)
●和装なら白衿、紋付の色留袖・訪問着など。
以下は「正殿の儀」に同じ。

◆その他、毛皮不可、女子は黒色不可。
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◆125代 平成天皇 継宮明仁親王 124代昭和天皇の長男


■妻  正田美智子 日清製粉社長正田英三郎の娘


●浩宮 徳仁親王  125代天皇
●礼宮 文仁親王  秋篠宮
●紀宮 清子内親王 黒田慶樹と結婚


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『入江相政日記』侍従長

1951年7月18日
東宮御所で東宮参与小泉信三・東宮大夫野村行一・東宮侍従黒木従達・東宮侍従清水二郎と懇談。
東宮様の御結婚の問題である。

1951年7月29日
〔田島長官が「〔平成天皇の〕皇太子妃の範囲は、当然元皇族が第一候補に挙げられる」と語る〕
朝日と読売とに東宮様の御縁談について記事が出ていて、田島長官談というのがあるが、これはいったいどうしたものだろうか。
読売が北白川肇子さんの写真について聞きに来る。
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田島道治 日記 元宮内庁長官

1955年3月25日
宮内庁長官宇佐美毅より東宮様御婚儀につき両陛下の御許を受けしにつき、〔田島の立場は〕お墨付きなく宇佐美長官の相談相手とのこと。
消極的・部分的に在民の方よきことには従うむね返事。

1955年4月15日
小泉東宮参与に、宇佐美長官より東宮様御結婚のことにつき話ありしこと言う。

1955年5月8日
秩父宮妃・高松宮妃・東宮参与松平信子夫人。
水戸徳川伯爵徳川文子・久邇宮家令嬢の話あり。

1955年5月10日
小泉東宮参与に電話。
一昨日の松本信子夫人の話を参考のため連絡す。

1955年5月17日
宇佐美長官を訪問。
徳川文子〔田安徳川伯爵家徳川達成の娘〕の件、小泉東宮参与に話せしと同じこと言う。
山梨勝之進〔久邇宮家相談役〕はスムース進行とのこと。
いずれにしても後から割り込みはダメと言う。
〔先方がすでに他の縁談を進めている場合はダメという意味〕

1955年9月17日
小泉東宮参与来訪、東宮様との雑談中の話を聞く。
「平民でもよし、ただし学習院・聖心は固いか」とのこと。

1955年10月9日
小泉東宮参与来訪。
政党・労組等にて、やはり政治家・実業家の娘はダメとの御話。
「徳川文子をそれとなく言い出された」とのこと。
事務的に絞れば徳川文子残るとのこと。
徳川文子そこまで来れば調査の上、良き時を逸せば宮内庁長官の責任とまで言う。
元皇族K〔北白川宮ではないとの原注あり・久邇宮英子女王か〕のことは山梨勝之進〔久邇宮家相談役〕と話すこと。

1955年10月16日
宇佐美長官来訪。
徳川文子調査進めることを始む。
〔しかし徳川文子は他の男性との婚約を発表して候補から外れる〕

1955年12月23日
毎日新聞記者来訪、東宮様のこと聞く。
「現役でなく知らず」と言う。
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『入江相政日記』侍従長

1955年5月1日
東宮様・常陸宮・清宮貴子内親王おなり、御会食。
御食堂へ出たら麻雀のあとがあった。
やはりしみじみとして御話ということはなかなか難しいと見える。
早くそういう風になってくださるといいが。
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田島道治 日記 元宮内庁長官

1956年3月12日
松平信子夫人来訪。
北白川宮肇子女王のこと、毛利のこと。

1956年3月17日
宮内庁長官宇佐美毅を訪問。
大久保栄子〔大久保一翁子爵家大久保安威の娘・平成天皇の同級生大久保忠恒の妹〕のこと。

1956年3月20日
2月24日東宮様の御話、宇佐美長官難局、宮内庁参与勝沼精蔵医師の意見のこと。

1956年5月3日
小泉東宮参与来訪。
林富美子〔林友幸伯爵家林友春の娘〕のこと。

1956年5月22日
宇佐美長官・小泉東宮参与招待。
林富美子進みしやに思う。

1956年8月21日
宇佐美長官・小泉東宮参与に誘われ沓掛の千ヶ滝プリンスホテルに行き、テニスを見る。
この日の沓掛行きは大久保栄子を見るため。

1956年8月23日
東宮様テニス、敗けを見る。
なかなか凄まじ。
目的の人〔大久保栄子〕現れず。
野村東宮大夫に会う。
またテニス場へ行き、目的を見る。
コートにて一時間余り目的の人を視察す。
Gesicht〔顔〕その他も失望す。

1956年8月25日
小泉東宮参与来訪。
大久保栄子の印象、小生と違う。
小生の方 悪し。

1956年9月16日
黒木東宮侍従来訪。
軽井沢および東京にて黒木東宮侍従に初めて大久保栄子の話ありしとて、今日小泉参与を訪問せりとのこと。
「思召あれば、小生印象悪しきなど問題でなし」と言う。

1956年10月1日
黒木東宮侍従来訪。
宇佐美長官と東宮様との経緯聞く。

1956年10月16日
宇佐美長官を訪問。
「東宮様の意見は尊重ながら責任は当局、したがって慎重を要す」と言う。
世の各方面の批判に対する万全の確信持てる順序・準備必要。

1956年11月25日
徳川義宣〔平成天皇の同級生〕雑談。
「東宮様気力なく、fight なく、自信なし。謙虚の気持ちかもしれぬもどうか」と言う。
大久保栄子のこと言う。
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『入江相政日記』侍従長

1957年2月8日
島津忠承君来訪。
お嬢さんが〔平成天皇の〕お妃候補になっているのでうるさくて困ると言い、それに関する妃殿下方のことや何かいろいろ言う。

1957年2月12日〔葉山御用邸〕
宇佐美長官、東京より両陛下に拝謁。
東宮妃のこと申し上げた。

1957年4月12日
黒木東宮侍従と東宮様の御結婚のことについていろいろ話す。
なかなか大変なことらしい。

1957年8月7日
宇佐美長官の所へ行き、
「東宮様にはやはりしみじみと申し上げる人がどうしても必要であること、今のままでは非常に御不幸であり国民も不幸になること」など話す。
よく分ってくれる。

1957年11月29日
読売新聞小野君は「もう北白川さんに決まった」という原稿の依頼。
桐山君・清水君も来たが、これはまだ知らないらしい。
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田島道治 日記 元宮内庁長官

1957年2月6日
宇佐美長官を訪問。
明細な系図表作成、見せらる。
「これ以上の調査無理か」と言う。

1957年4月1日
小泉東宮参与「東宮はダメ。spotlight あたる」と言う。

1957年4月4日
宇佐美長官を訪問。
大久保栄子訪問のこと、昭和陛下も御了承のこと。
お引き受けす。
長官室に入る前、共同通信記者に会う。
「久邇宮さんのことで」ということにす。

1957年4月8日
大久保家を訪問。
最初は主人、後は夫人も同席。
下を向いて何も言わず、一人しゃべり。
第一に洗礼未済を確め、四人だけの秘密頼む数回。
母方実家桂井家・父方大久保本家、祖母あげて断る。
「内意承りたし」と言う。
「経済上のこと心配無用」と言う。
「皇室会議手続あるゆえ、なるべく早く」とも言う。
約40分。
大久保夫人「東宮様の御生活おさびしそう。息子忠恒〔平成天皇の同級生〕に電話30分」とか言う。

1957年4月9日
大久保夫人を訪問す。
門前にてお嬢さん会う、言わず。

1957年4月10日
兄大久保忠恒と会見。
「皇室のためになぜ大久保家が進まぬことをやる要ありや」と言う。

1957年4月14日
大久保家に電話、夫人に会見申し込む。

1957年4月17日
父大久保安威来訪。
「光栄なれど拝辞。離れるのはイヤ。全員反対。あまり平民的でもダメ、象徴は難しい。本人の意思はわからぬが、平民がいいようだ」
宇佐美長官・小泉東宮参与に電話。

1957年4月27日
宇佐美長官・黒木東宮侍従・小泉参与と四人。
昨日大久保夫妻来り、拝辞の話聞く。
「他に選択考えること必要」と言う。

1957年5月13日
小泉東宮参与訪問。
宇佐美長官・小泉東宮参与、東宮様と懇談のこと。

1957年7月17日
宇佐美長官・小泉東宮参与と三人。
東宮様御洋行のこと、御相手のこと。

1957年7月19日
宇佐美長官を訪問。
K〔北白川宮ではないとの原注あり・久邇宮英子女王か〕のこと。
葉山御用邸にて「何かを知っている」と言われたとの嫌味。
長官が話すのか。

1957年10月21日
小泉東宮参与を訪問。
Kに決定。
小泉東宮参与・黒木東宮侍従は東宮様御希望に副わんとK即決の様子。
小生は元来Kよろしと思い、大久保栄子などはあまり賛成せざりしゆえ、Kに大いに賛す。

1957年11月7日
小泉東宮参与訪問。
Kの父の伝を話す。
大賛成す。

1957年11月19日
宇佐美長官来訪。
Empress dissatisfactory 云々のこと。

1957年11月20日
宇佐美長官・宮内庁次官瓜生順良・侍従長三谷隆信・東宮大夫鈴木菊男・小泉参与・僕。
宇佐美長官、Kに当るとのこと。

1957年11月29日
宇佐美長官来訪。
昨夜のKとの話聞く。
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『入江相政日記』侍従長

1958年3月4日
昭和皇后この4~5日、なんだか御機嫌が悪い。
何が原因かわからないが困ったことである。

1958年4月2日
侍従次長稲田周一と、東宮妃の問題、清宮貴子内親王の御縁談のことなどゆっくり語り合う。

1958年6月19日
夕方保科女官長来られ、昭和皇后のこと長くいろいろ話し合う。
いずれもみな困ったことばかりである。

1958年6月30日
稲田侍従次長から昭和皇后への御答のことで相談があり大変いいと思ったが、その結果を聞くと意外に根強いので一同驚く。
稲田侍従次長・保科女官長・侍従小畑忠と相談したが、どんなにしても体裁を取り繕うことはできない。
困ったことである。

1958年8月1日〔那須御用邸〕
侍従山田康彦と東宮様の御縁談の推移について話す。

1958年10月3日
稲田侍従次長が昭和陛下に申し上げたらえらく反対遊ばした由。
そのことをまた昭和皇后に申し上げるように勧めた。

1958年10月8日
侍医西野重孝の所へ行き、稲田侍従次長から言い渡される前によく言っておいた方がよくはないかというようなことについて話し合う。
その後、もう言い渡したとのこと。
大したことなく終わったが、やはり事の真相は蔽うべくもないようである。

1958年10月11日
昭和皇后が秩父宮妃と高松宮妃を呼んで、東宮様の御縁談について「平民からとはけしからん」というようなことをお訴えになった由。
この夏 御殿場でも秩父宮妃・高松宮妃・松平信子夫人という顔ぶれで前宮内庁長官田島道治さんに同じ趣旨のことを言われた由。
しかしそれにしてもそんなことをただじっと見つめているだけとは、情けない知恵のない話である。

1958年10月16日
新聞記者桐山君来訪。
東宮妃のことについていろいろ話がある。

1958年11月14日
会議。
と言っても、稲田侍従次長より東宮妃についての報告。

1958年11月15日
昨日宇佐美長官が両陛下に申し上げたら、昭和皇后が非常に御機嫌が悪かったという。

1958年11月20日
黒木東宮侍従から電話。
正田富美子夫人が服装のことにつき心配しているとのこと。
保科女官長から電話なさるように整えて出勤。

1958年11月24日
高松宮妃の所へ行く。
いろいろのことを聞かされる。
帰って昭和皇后にいろいろ申し上げようというのだが、〈おぐしすまし〉(洗髪)とかで申し上げられない。
後でホールで申し上げる。
よくお聞き下さる。

1958年11月25日
稲田侍従次長に昨日のこと報告する。
黒木東宮侍従と宮内職員田端恒信と五反田の正田家へ行く。
質素な家だし、みんな立派な良い方である。
美智子さん綺麗で、そして立派である。
帰りに東宮職へ行き、鈴木東宮大夫・黒木東宮侍従と打ち合せ。

1958年11月26日
明日の御言葉ぶりについて申し上げる。
それで通ったから、明日は昭和皇后も一応やってくださることは間違いない。

1958年11月27日〔皇太子(平成天皇)&正田美智子の婚約発表〕
テレビカーが4台、自動車は無数、空にはヘリコプター。
10時からの皇室会議は全員一致可決。
そのことを宇佐美長官から昭和陛下に奏上。
昭和皇后には申し上げないと言うので、驚いて稲田侍従次長に御文庫へ行ってもらう。
1時20分正田さんの三人来。
東宮様・両陛下に御辞儀の後、正田さんの三人参進、御礼のあと椅子。
茶菓御話、そのあと東宮様と御茶、記者会見。
この時の美智子さんの立派さは忘れられない。
送り出してから、予の記者会見。
6時に帰宅。
テレビで何度となくその模様を観る。

1958年11月29日
週刊朝日の原稿を書き出す。
昭和皇后に美智子さんの御印象を何と書いたらよいか伺う。
まとまった仰せもないので、昭和陛下が宇佐美長官に仰せになったのと同じでよろしいか伺い、お許しを得る。

1958年12月8日
御婚儀の委員になる。
小泉東宮参与の招宴。
小泉夫妻・正田富美子夫人・保科女官長・女官河合ヤヨイ・女性御用掛高木多都雄・戸田東宮侍従長・黒木東宮侍従・松平信子夫人。
酒をおいしく飲み、御馳走もたくさん食べる。
保科女官長と同車して帰って来て、まもなく寝る。

1958年12月9日
美智子さんの教育に呉竹寮を使うことを、昨日昭和陛下はいいとおっしゃったのに、昭和皇后はいけないとおっしゃった由。
まだモヤモヤがあるらしい。

1958年12月11日
人権擁護の関係、12月16日に美智子さんも交えて御文庫でお催しになったらと保科女官長を通じて申し出たが、「早すぎる」とのことで駄目。
何が早すぎるのか全然わからない。
無意味な不愉快な底流を感じる。

1958年12月22日
三浦義一氏〔室町将軍〕に会う。
今度の御婚儀反対を叫び、柳原白蓮・松平信子夫人が中心となって愛国団体を動かしたりした由。
しかしだいたい取り静めたとのこと。
美智子さんが来られ、旧奉仕者に引き合わせる役を予が務める。

1958年12月25日
読売新聞記者小野昇君、正田富美子夫人の手記をもらって諒解を求めに宇佐美長官の所へ行ってさんざん怒られたと言って、憂さ晴らしにウチへ来る。
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田島道治 日記 元宮内庁長官

1958年1月15日
宇佐美長官・松平信子夫人・小泉東宮参与・宮内庁参与石坂泰三。
後に残れと言われて残る。
宇佐美長官、K〔北白川宮ではないとの原注あり・久邇宮英子女王か〕のこと1~2まずいことを言われ、「色盲のことはやめだなー」と言う。

1958年1月18日
小泉東宮参与を訪問。
宇佐美長官との問答、色盲ダメ、先方辞退にて解決のこと言う。
小泉東宮参与は反対にて、押し切る意見。
私「やはり定石、北白川か」と言うに対し、彼は絶対皇太子〔皇太子の希望通りK〕
両者一致せず。
宇佐美長官の調査不備の責任等、意見一致。

1958年2月25日
Kはイトコ二人ともクロ〔色盲〕
村松博士の意見。
林富美子〔林友幸伯爵家林友春の娘〕は父死因不明、後妻身元不明。

1958年3月1日
宇佐美長官苦慮。
K・林富美子ともに難点あり。
松平信子夫人に候補者なきやを聞く説、必ずしも賛成せず。

1958年3月3日
宇佐美長官・瓜生次長・黒木東宮侍従・東宮大夫鈴木菊男・小泉東宮参与と6人、K思い切る。
林富美子に進む方針。
木下に確めること。
念のため万一のことを思い、平行的に他にも物色のこと。

1958年4月1日
宇佐美長官来訪。
林富美子のこと、新規まきなおしのこと聞く。
〔林富美子が他の男性との婚約を発表して候補から外れる〕

1958年4月12日
小泉参与参与。
血統重んずべきこと、畑のこと、前田のこと、正田~副島〔平成皇后の母方〕調べ良くば賛成言う。

1958年5月20日
鈴木東宮大夫に副島〔平成皇后の母方〕の調べ手交。

1958年5月21日
小泉東宮参与来訪。
明日正田英三郎と会見にて、その読み如何とのこと。

1958年5月22日
小泉東宮参与電話。
正田英三郎会見の結果のため会いたしとのこと。
新聞社来訪で、すぐ小泉参与へはちと vanity 家の気がす。

1958年6月9日
小泉東宮参与来訪、首相吉田茂訪問の報告。

1958年6月21日
例のメンバー。
小生、母親のこと〔正田富美子〕イヤなこと言う。
「しかし衆議賛成なら固執せず」と言う。
小生、母方系統興信所のみにて止まるのは心中どうかと思う。

1958年8月2日
宇佐美長官来訪。
曙光見ゆとのこと。
ただし前途まだ難からん。

1958年8月11日
宇佐美長官訪問。
松平信子夫人に伝うこと。

1958年8月22日
宇佐美長官・三谷侍従長・鈴木東宮大夫・黒木東宮侍従・小泉東宮参与と会談。
だいたい決定。
問題は宮内庁参与勝沼精蔵医師の意見。

1958年8月24日
小泉東宮参与来訪。
Go Abroad ちょっと at a loss
〔正田美智子がヨーロッパ旅行に発ったこと〕

1958年8月25日
秩父宮御殿場別邸。
秩父宮妃・高松宮御夫妻・三笠宮。
〔田島が各宮に正田美智子が最有力候補者になったことを報告する〕

1958年8月26日
宇佐美長官を訪問。
昨日の御殿場の話言う。
秩父宮妃・高松宮妃・松平信子夫人のつるし上げの件。
然るに昨日の小泉東宮参与と正田夫妻会見記に憤慨、休戦いう。

1958年8月30日
徳川義宣〔平成天皇の同級生〕来訪。
東宮様のこといろいろ言う。
「自信あることなし、聞く雅量なし、硬骨遠かる、外遊すること良からん、結婚後にても。あまりに大人、あまりに失敗せぬよう考う。若さなし」

1958年10月2日
小泉東宮参与訪問。
正田美智子のこと聞く。
東宮職関係者は唯一の望みゆえ、如何なることをしても成立せしめたき意思のよう。
小生はやや違う。

1958年10月10日
宇佐美長官来訪。
高松宮妃らお招き、意思発表撃沈云々。

1958年10月17日
宇佐美長官・三谷侍従長・小泉東宮参与と。
北白川宮房子妃には事前必要とのこと。
〔もし北白川肇子に縁談を申し込むならまず祖母に連絡するべきとの意味〕

1958年10月19日
小泉東宮参与電話あり。
正田富美子夫人来訪とか。

1958年11月06日
秩父宮妃。
高松宮妃の話によれば「昭和皇后と懇談の時なきも、御不満解けず」とのこと。

1958年11月15日
宇佐美長官訪問。
経緯詳細聞く。
通告の時期および方法の話。

1958年11月27日
皇室会議。
御発表テレビを見る。
宇佐美長官の御苦労に感謝の念。
万歳。

1958年11月28日
東宮御所に参内。
正田夫妻にも会う。
美智子さんにも挨拶。

1958年12月2日
中川三木会、美智子妃に反対多し。

1958年12月6日
松平信子夫人訪問。
正式につんぼさじきの話。

1958年12月16日
宇佐美長官より電話あり。
清宮貴子内親王の御結婚のこと、田島に相談せよと仰せのこと。

1958年12月20日
葉山御用邸に天機御機嫌伺。
清宮さん、華族結婚望ましと申し上ぐ。
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侍従入江相政より元宮内庁長官田島道治への手紙

1958年12月6日
来る12月8日の夜は小泉氏の主催にて築地の錦水にて、保科・高木・河合と正田富美子夫人・松平信子夫人らの会食あり、黒木君と共に小生もとのことに御座候。
昨夜は常盤松にて秩父宮妃・高松宮妃・三笠宮妃の三宮様に美智子さんをお引き合せになりたる由に候。
このようにして回を重ね行くについれなんとかあいなるべきも、また同時に逆になんとかあいなりにくとも発生すべく、八方に気を配らねばならず骨の折れることに御座候。
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『入江相政日記』侍従長

1959年1月14日〔納采の儀〕
11時に正田さんの三人。
両陛下に三人が拝賀の後、昭和皇后御一方の所へ美智子さん一人出て御伝来の指輪をいただかれる。
結構なことだった。

1959年1月16日
美智子さんへの初講義。
今日はお母さんも一緒。
昭和陛下の思召などもいろいろ話す。
主として正月の行事について話す。
御歌会始のことがかなり大きな分量を占める。

1959年1月19日
会議、東宮職の人員のことについてやる。
宇佐美長官が「女官と女嬬と一人ずつはこちらのを」と言うのを、「断然不可、新規のを」と言う。
「近衛さんはいかん」などと言うのを、大いに「いい」と言ってやる。
みんな予の説に賛同の者が多くて愉快だった。

1959年1月21日
御婚儀委員会。
今日は道筋・饗宴などのことについてであるが、ちょっとしたようなことでもなんだかんだとかなり時間がかかった。

1959年1月31日
美智子さんに講義。
今日は「御子と共に」の御歌を例にひいて「御子」という思想を説き、続いて昭和陛下の生物学御研究について御話する。

御婚儀委員会。
今日は御列のこと、召される範囲のこと、写真撮影のことなど。

1959年2月17日
御婚儀委員会。
相変わらずつまらないことについての論議が続く。

1959年3月6日〔香淳皇后誕生日〕
2時前正田さんの三人参内、御世話する。

1959年3月7日
今朝もまた妻が、正田さんが威張っているということから、予が正田さんを贔屓にしすぎると言って怒り出す。
つまらないことである。

1959年3月11日
週刊朝日に執筆するについて、昭和陛下に今度の御縁談をどうお考えになるかを伺う。
いろいろ聞かせていただく。
そのまま書けないようなこともあるので、これから整えなければならない。

1959年3月12日
昭和皇后が今度の御慶事の馬車六頭、御大礼の時の御自身のも四頭だった、憤慨だとかおっしゃったとのこと。
何事だと言って憤慨する。

侍従山田康彦と二人で御文庫へ行き相撲中継を楽しむ。
相撲が済んでから、昭和陛下が美智子さんのことについて非常に御期待になっていることをいろいろ仰せになる。

1959年3月13日
美智子さんに講義。
今日から新東宮女官長牧野純子さんも加わって聞いておられる。
開戦のこと、終戦のこと、御退位論のことなど。

1959年3月14日
御婚儀の時の馬の数は六頭でいいと仰せになった由。
よかった。

1959年3月20日
美智子さんに講義。
近き将来に起ること・予想されることについて御注意になるべきことをいろいろ申し上げる。
イヤなことも多い。
退出しようとしたら、美智子さんが脳貧血。
しかし大したこともなく、まもなくお帰りになる。

1959年4月8日
東宮職から「4月27日に東宮御夫妻が正田家へいらっしゃることについて昭和皇后にお許しを得てくれ」とのこと。
昭和皇后に申し上げてみたら全然お聞きになっていないらしい。
しかし両陛下とも御機嫌は悪くなく、当然のことだと言ってらっしゃった。
後で黒木東宮侍従が「御機嫌は悪くなかったか?」と何べんも聞くところによると、宇佐美長官が非常にそのようなことを言ったらしい。
これから先これでは困ると言っていた。

1959年4月10日〔結婚の儀〕
美智子さんが正田邸をお出になる頃からずっとテレビを観る。
午前8時に出勤。
結婚の儀は次長室のテレビで観る。
なかなか御立派である。
美智子さんも御長袴、御無事で結構だった。

1959年4月26日
御散策。
観瀑亭のあたりから元覆馬場のあたりまで、昭和皇后と美智子妃が御手をお繋ぎになっていらっしゃるのを見上げた。

1959年5月13日
昼はデンマーク・コロンビア・インド各大使の御陪食。
美智子妃初めてお出になり、コロンビア大使とよく御話になっていらっしゃった由。

1959年7月8日
美智子妃のことにつきいろいろ論議する。
一日も早く産科医小林隆を御召になることが先決と主張する。
〔令和の天皇を妊娠〕

1959年9月10日
東宮職から電話で「宇佐美長官が明日拝謁する時、美智子妃の今後の御行動につき、リクリエーションのためのお出ましはなるべく遊ばすようにおっしゃっていただきたい」との鈴木東宮大夫の要請により、御文庫で昭和皇后に拝謁申し上げる。
たぶんそうやって下さると思う。

1959年10月17日
正田さんへ行く。
久々のことで夫妻大変喜んで迎えて下さる。

1959年12月8日
東宮職から頼まれた東宮様や美智子妃の御行動と正田さんについてのこと、いろいろ整える。

1959年12月17日
美智子妃御参内のことにつき昭和皇后に申し上げる。
どういうわけか御機嫌が悪い。
意味はよくわかってるが。

1959年12月31日
東宮様の御結婚はすべて素晴らしかった。
一つのブームになったと言っていい。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1959年1月17日
秩父宮妃・高松宮妃つんぼさじきの御不満のこと、正田美智子礼を知らぬこと、正田富美子夫人生意気のこと、昭和皇后まだ解けぬこと、昭和皇后お妃教育に御不満のこと、東宮御苦労のこと、外交団その他不評のことなどなど。
小泉東宮参与に風当り強し。
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『入江相政日記』侍従長

1960年3月12日
病院へ行き、美智子妃の御退院をお送りする。
新宮〔令和の天皇〕にも初めてお目にかかる。
大変な【横目】をしていらっしゃった。

1960年4月1日
東宮御所へ行く。
話していると美智子妃がいらっしゃって、浩宮様〔令和の天皇〕を見るかとおっしゃる。
大きくおなりになった。

1960年9月7日
清宮貴子内親王の「ある日幸せに」というのが元になって、美智子妃と不和であるというような記事がUPにでたことについて相談する。

1960年9月22日〔皇太子夫妻渡米〕
御出発のとき浩宮様は御両親の方なんか御覧にならず、詰めかけている記者連をびっくりして御覧になっている。

1960年12月9日
東宮御夫妻御参内。
長い御旅行お疲れで東宮様は少しお風邪気味、美智子妃がわりに御元気なのは不思議なくらいだった。
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『入江相政日記』侍従長

1961年3月23日
美智子妃、御製。
一時は悲観したが、東宮様のことをずいぶんお詠みになっていらっしゃるので安心する。

1961年8月11日
宇佐美長官に呼ばれる。
最近の奥のおかしな空気、東宮様と美智子妃に対すること、秩父宮妃・高松宮妃のこと、常陸宮のこと、まったく弱ることばかり。
くだらなさに腹が立つが、そんなことを話し合う。

1961年8月16日
稲田侍従次長と話す。
那須で美智子妃が両陛下にこの間からのことをいろいろ率直にお申し上げになったとのこと。
昭和陛下は「よくわかった」と仰せになったが、昭和皇后は終始一言もお発しにならなかったとのこと。
帰りに理髪。

1961年10月4日
高松宮妃から電話。
美智子妃のことなどあらゆること、いつもの通り。
「このままでは皇室は亡びるだけだ」と言ってあげる。
夜、高松宮から電話。
「今朝は長時間失礼した」と。

1961年10月21日
宇佐美長官に呼ばれる。
昨日秩父宮妃から、予が高松宮妃にやったことについて御話があったということで、その時の事情を話しておく。
喜んでもらう。
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『入江相政日記』侍従長

1962年10月20日
美智子妃御誕辰。
美智子妃に「国民の九割九分までは絶対の支持をしていること」を申し上げる。

1962年12月9日
新年用の御写真。
浩宮様のお可愛いことといったらない。
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田島道治 日記 元宮内庁長官

1962年10月31日
秩父宮妃。
昭和陛下のこと、昭和皇后のこと、美智子妃のこと、女官長のこと。

1962年11月7日
鈴木東宮大夫と話す。
ノイローゼ気味、東宮侍従長山田康彦のこと、東宮女官長牧野純子のこと、正田のこと。

1962年12月1日
小泉東宮参与にトラブルメーカー イヤと言う。

1962年12月2日
秩父宮妃。
トラブルメーカーだめ。

1962年12月3日
秩父宮妃・高松宮妃、吐き出して御満足。
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『入江相政日記』侍従長

1963年3月22日
稲田侍従次長から、宇佐美長官が美智子妃が予の書くものについて恨んでいらっしゃるから、当分内廷のことについては書かない方が無難と言った由。
あきれたことである。
美智子妃は宮内庁病院に入院、すぐ手術とのこと。
〔流産〕

1963年3月23日
美智子妃が言われたことを繰り返し考えるが、真に不愉快である。
仮にそう言われたとしても、そのことが当の本人の耳に届くというようなことは昔の側近にはあり得ないことである。

1963年3月24日
明け方から雨の音。
また美智子妃のことが不愉快に思い出される。
ゆうべも侍従徳川義寛が東宮職のガタガタぶりについて大いに語っていたとのこと。

1963年3月28日
山田東宮侍従長が来ていろいろ話してくれる。
この間からの話がだいぶ違ったのは情勢が違ったのか。

1963年3月29日
宇佐美次長と鈴木東宮大夫といろいろ聞くとこの間からのともまた違い、
「両陛下には入江さんのような人があるからいい。昭和陛下も『それは入江に書かせればよい』とおっしゃったとのこと。皇室がこんなに冷たいものとは思わなかった」とのこと。
鈴木東宮大夫と一緒に東宮御所へ行き、東宮御夫妻の御前に出る。
よく御話くださる。
御気持もよくわかった。
少しの錯乱もなく驚くばかりだが、その緻密なところが禍をなしていると思われる。
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田島道治 日記 元宮内庁長官

1963年3月29日
松平信子夫人。
美智子妃病状聞く。

1963年6月16日
秩父宮妃。
美智子妃御病状のこと。

1963年8月27日
鈴木東宮大夫・黒木東宮侍従と話す。
20分ほど東宮様に拝謁。
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『入江相政日記』侍従長

1964年3月9日
東宮御所へ。
東宮様・清宮貴子内親王・鈴木東宮大夫も陪席。
いろいろ御話があったが一番の御注文は、今度の葉山御用邸に東宮御夫妻・孝宮和子内親王夫妻・清宮貴子内親王夫妻がいらっしゃりたいとのこと。
帰って報告。
そのうち奥からも御話があって本決まりになる。

1964年3月14日〔葉山御用邸〕
東宮御夫妻・常陸宮・清宮貴子内親王夫妻も来られる。
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田島道治 日記 元宮内庁長官

1964年2月21日
秩父宮妃。
今度のことで東宮御夫妻にショックなきよう。
〔常陸宮&津軽華子の婚約発表〕

1964年3月3日
宇佐美長官。
常陸宮苦心談、両陛下 東宮御夫妻に直言。

1964年6月9日
冲中重雄博士〔田島と美智子妃の主治医〕
美智子妃健康および自分の診察打ち合せ。
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『入江相政日記』

1965年3月19日
山田東宮侍従長と面談。
東宮様の所も困ったものである。

1965年3月24日
山田東宮侍従長が来て、辞任に当って東宮様にいろいろ申し上げたことについての話。
人使いが荒いこと、臣下のつまらないアラを取り上げないこと、孝養をお励みになるべきこと、常陸宮とお仲良く遊ばすべきこと。

1965年4月21日
東宮御夫妻御参内。
美智子妃よりお直に御懐妊〔秋篠宮〕のことをお申し入れ。

1965年4月23日〔園遊会〕
昨夜美智子妃御出血。
昭和陛下は「各皇族にはありのままを申し入れるように」と仰せになった由。

1965年10月11日
美智子妃、本日御着帯につき御参内。

1965年11月27日
昨日昭和陛下から宇佐美長官に美智子妃の御退院の頃のことについてすべてお許しがあったということだったが、話がうますぎると思ったが、やはり昭和陛下は永積侍従次長から昭和皇后に申し上げるようにと仰せられた由。

1965年12月2日
〔秋篠宮誕生〕
病院に御見舞においでになったらどうかということでいろいろやる。
結局昭和陛下はおいでにならないことになり、昭和皇后御一方ということになる。
でも昭和皇后だけでもおいでになることになって良かった。
昭和皇后が御見舞になった時、美智子妃が起きてお迎えになったということにつき、無理してやしないかというのでお怒りの由。

1965年12月11日
美智子妃御退院をめぐって、東宮侍従重田保夫さんがカチンとやられた由。
こっちにも同じようなことがあったと言うし、ますます困ったことである。
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田島道治 日記 元宮内庁長官

1965年2月20日
冲中重雄博士〔田島と平成皇后の主治医〕訪問。
美智子妃のこと聞く。

1965年3月2日
秩父宮妃・高松宮妃。
女官名和栄子のこと。
東宮御所の方 病気と考える他なし。
その病的焦燥を高めないよう注意すれば真剣のことは手が出ず、医者が正田富美子夫人に説くこと。

1965年5月24日
吉田茂訪問。
東宮御所のこと、美智子妃のこと、昭和皇后のこと。

1965年7月27日
『女性自身』橋本明〔皇太子の同級生で記者〕の記事〔「兄弟/両殿下への提言」〕
東宮様のこと、常陸宮のこと。
小泉東宮参与とと両宮のこと話す。

1965年8月14日
高松宮妃。
『女性自身』の記事の出所。

1965年8月24日
『女性自身』ちょっと驚く。
宇佐美長官訪問、『女性自身』問題。
〔橋本明が皇太子のインタビュー記事
「談 皇太子明仁親王殿下 はじめて語られた自らのお心のうち」を掲載する〕

1965年8月27日
鈴木東宮大夫訪問。
軽井沢にて御忠言の話。

1965年8月31日
高松宮妃。
昭和皇后が夜分秩父宮妃と高松宮妃をお呼びのこと。

1965年9月6日
小泉東宮参与と対談。
鈴木東宮大夫相当申し上げしこと、小泉が御所にて不評のこと、小泉承知、ただし小泉は吉田茂に話すこと不賛成らしい。

1965年9月13日
宇佐美長官訪問。
このごろ短気困るむね強調。
東宮大夫対東宮様は、宮内庁長官対昭和陛下のごとく関門的希望。

1965年10月7日
田辺定義氏〔田島の友人〕
『女性自身』読みおるにつき、適当に心得までに話す。
田辺氏、無視。

1965年10月18日
高松宮妃。
東宮女官長牧野純子辞職のこと。

1965年10月21日
宇佐美長官訪問。
牧野女官長辞職風説なし。
正田夫妻、宇佐美長官に駆け込みの話。

1965年11月1日
鈴木東宮大夫、東宮御所に訪問、一時間半余り懇談。
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精神科医神谷美恵子から元宮内庁長官田島道治への手紙

※神谷美恵子は田島道治の親友前田多門の娘、田島が美智子妃にお話相手として紹介する

1965年7月15日
7月8日には東宮御所に参上。
初めてのこととてまったく虚心にただ雑談をさせていただきましたが、お話はたいそう弾んで、癩病の話・文学の話・教育の話などさまざまな話題に及び、帰宅後いくつか本をお送り申し上げる御約束をしてまいりました。
その日のうちに兄〔前田陽一〕の方へ御電話がございまして、また会いましょうとの御言葉でございました由。
まずまず無事に済んだかと存じております。
心が通い合わなければ何事も始まりませんので、これをもとに今後何かお役に立ちうることがございますれば、させていただきたいと存じおる次第でございます。

1965年7月21日
東宮御所へは参上の折り、『医学的心理学史』を名刺代わりに持参致しました。
『自省録』のことは妃殿の方から話を出され、中の文句まで暗唱しておられるのには恐縮致しました。
お好きなサン=テグジュペリの話などよもやまの話が弾み、癩病とサン=テグジュペリに関する本をお送り申し上げる御約束をしてまいりました。
ごく自然に皇室での御立場の難しさ、その他についても御話がございましたが、私はただ伺うのみにて一切教訓がましい態度を取らないことに致してまいりました。
それが果たしてよろしかったかどうかわかりませんが、会談は終始楽しい感じで笑いも入り混じり、昔の観念で申しましたらずいぶん不謹慎のことでございました。
その日のうちに御所から兄に御電話があり、また会いましょうとの御伝言でございましたゆえ、今後もこうしたことが度重ねられるならば次第に御心を開いて下さるかとも存じます。
もとより庶民の者に何もできようはずもございませんけれど、せめて少しでも御心を軽くするお役にでも立ちるればと念願致す次第でございます。

1965年11月6日
来る12月講演を頼まれておりますので、上京する予定でおります。
その頃は美智子妃の御出産の頃ではないかと存じますが、先だってお目にかかりました時、たとえ御入院中でも私に会いたい、「もしかしたら赤ん坊を見ていただけるかもしれない」など仰せられましたので、いかが致したものかと考えております。
心ばかりの御祝を用意して上京致すつもりでございますが、ただそれを御所にお届するだけにとどめた方がよろしゅうございますでしょうか。
恐れ入りますが、もしお分かりでございましたら御教示くださいませ。

1965年12月4日
美智子妃も今度の御出産ですっかり自信と落ち着きを取り戻され、もう私など御心配申し上げる必要もなくなるのではないかと存じます。
むしろ私などに御用のなくなることを望んでおります。

1966年1月20日
昨年暮れに御所から御直筆のお便りをいただきました。
「また会うのを楽しみにしている」むね記されておりましたが、御正月に鈴木東宮大夫様に宛てて「御元気に忙しくなられることと存じますゆえ、これ以上は御遠慮申し上げた方がよろしいのではないかと存じます」という意味のことを書き送りました。
本日鈴木様からの御手紙で「3月上京の節にはぜひ会いたい」との趣ゆえ、日程を知らせるようにと申し寄こされました。
以上、一応御報告まで申し述べます。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1966年3月4日
秩父宮妃、このごろ東宮御夫妻を食事にお招きの御様子。
高松妃とお打ち合せの御様子。

1966年3月5日
精神科医神谷美恵子博士を誘い、秩父宮邸訪問。

1966年3月25日
美智子妃に神谷美恵子博士のことお話す。
東宮様にもちょっと。

1966年4月7日
神谷美恵子博士、東宮職侍医と話したしとのことにて、沖中重雄博士と打ち合せ。

1966年4月15日
沖中博士訪問。
神谷美恵子博士の問題、薬品などは侍医も承知、今後医薬に関してもし美智子妃希望されし時は沖中博士に連絡のこと希望。

1966年5月2日
宇佐美長官訪問。
東宮女官長牧野純子、私あること1~2の例を聞く。
最近の昭和皇后のこと。
東宮が木戸幸一を呼ばれること東宮大夫鈴木菊男より伝わり、賛意あり。

1966年5月17日
貞明皇后例年祭。
東宮御夫妻は御同列にて御拝。
珍しき新例のように思う。
如何にや。

1966年6月13日
木戸幸一との対話。
東宮様御発意ならば喜んで参上、田島進言の結果なれば拝辞。
当時御養育に東郷・酒巻などおかしいとも思ったが、やはり何かあったように思う。
象徴といえども政治上の見識は必要。
その御修養大切、今は無きようなり。
昭和陛下は18歳より日本の大政治家輩と接触して経験豊かなり。
小生が松方三郎・松本重治・佐藤達夫など一つ下のジェネレーションの人名を申し、稲田の代りに国連大使松井明の名を挙げしも、全部大賛成のようにて、そういうところを近づける方策を考えることは大賛成。
「お召しあれば東宮御所に上って下さるか」と言った時、
「東宮様御自身の御希望ならば喜んで伺うが、東宮御所は旧華族をお嫌いだろう」との返事。
美智子妃に対して不賛成らし。
「恋愛でもなく見合いでもなく、知り合い結婚とでも言うか、結構」といったもの。
やはり内大臣を多年経験せしだけになかなかなり。
木戸という人間知的その猿利口が主と思ったのは少々的外れらしく、大事を語るに足る相当人物と見直す。
久邇宮朝融王行儀問題、朝香宮妃薨去後の問題老女の話、秩父宮の御元気な時の話、高松宮現状評判(素人の噂、お金のこと)などたっぷり話す。

1966年6月17日
鈴木東宮大夫訪問。
神谷美恵子博士従来通りにてよしとのこと。
女官長更迭のこと、候補者に困るのこと。

1966年7月8日
経済企画庁長官宮沢喜一訪問。
美智子妃冊立の大体話す。
皇室は国民の税で食っていること、音楽会などは遊んでる印象、なにか演出必要とのこと。

1966年11月12日
鈴木東宮大夫来訪。
最近の東宮御夫妻の動静話さる。
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精神科医神谷美恵子から元宮内庁長官田島道治への手紙

1966年4月12日
先日の冲中先生〔田島と美智子妃の主治医〕との会見、十分意思疎通のつもりで帰ってはまいりましたが、思い返してみますとあまりに突然に私というヤブ医者が出現したので、多分に戸惑われ御迷惑に感じられたのではないかと恐れます。
もとより私は医師として行動するつもりでは毛頭ございませんし、それゆえにこそ冲中先生との面会をお願い申し上げたのでございました。
つまり純粋に医学的なことは冲中先生や他の侍医の方々にお任せ致したく存じたわけでございます。
その辺のところを一応申し上げは致したのでございますが、まだ多少疑念をお残しではないかと少々心配でございます。
美智子妃があまりに私を御信任くださいますことも少々荷が重く感ぜられておりましたところへ、もしまた私が侍医の方々に御迷惑と感ぜらるる存在となりましたら大変という気が致します。
恐れ入りますが、なぜ私ごとき者が美智子妃の御側へ参上するようになったのか、一度冲中先生の御話いただければ幸いでございます。
またもし私がこれ以上御側へ伺わない方がよいというような御判断がおつきの場合には、なにとぞ仰って下さいませ。
私は決してこの重任に執着してはおりません。
むしろ美智子妃の御心の重みというより重さをどうして差し上げたらよいのか考えあぐねているばかりでございます。
ただいまのところ美智子妃は宗教的なものよりむしろ文学によって御心を慰めておられるようで、先日はいろいろ詩の御話が出ました。
英詩集などお送り申し上げることになっております。
重い御心のはけ口となること、自然の御性向の添って御話相手を務めつつ次第に広やかな心の世界へとお誘いすることを念願としておりますが、時間のかかることと存じます。

1966年4月18日
さっそく冲中先生にお会い下さいまして由、御手数をおかけ申し上げ恐縮に存じます。
やはり私の懸念はまったく根拠のないことではなかったようで、冲中先生に御話いただいてようございました。
先日美智子妃から私へ医学的な事柄について御依頼がございましたのでございますが、冲中先生にお目にかかった結果私は一切医師としての行動せぬ方がよいことがわかりましたので、美智子妃にその意味のことを手紙でお書き申し上げました。
美智子妃にお目にかかるたびごとにお悩みのお打ち明け話が多くなり、どうして差し上げたらよろしいのか思いあぐねますが、私の立場と致しましてはただはけ口となること、そしてできれば相対的な現実を超えた世界に安らぎを発見されるようにお誘い申し上げることのみかと存じております。

1966年4月21日
以前から見れば美智子妃の精神状態は大変よくおなりになったとのことを冲中先生から伺い、そうでございましょうと信じますが、ただいまの状態も決して理想的とは申されません。
お目にかかりますたびごとに堰を切ったように縷々としてお悩みを御話になり、それが次第に多くの時間を占めるようになりました。
朝起き出せないほどの憂鬱にもしばしば襲われになることを伺いまして、なんとかして差し上げたいと考える次第でございます。
普通の方の場合でございますと、適当に少量の薬などを用いながら週に一回面接して精神療法をするということになるのでございますが、医学的なことにはタッチしない建前でございますし、またごくたまにしかお目にかからないので、いわゆる精神療法も難しゅうございます。
精神療法と申しましてもただお悩みはけ口となって差し上げること、そして仰せのように人生観・宗教観の広い立場から御話相手になることでよいとは存じますが、何としてもせめて一カ月に一回ぐらいは定期的にお目にかかるのでなければ大した効果もないように存じます。
私が東京在住ならもっとしばしばお会いしたいのにとか、手紙をくれとか仰せられます。
それどとりあえず御手紙は時々お出ししておりますが、在京の方で適当な方があれば代っていただきたいという気が拭いきれません。
美智子妃の最大の悲劇は孤独でいらっしゃることのように思われます。
お悩みはもちろんのこと、詩とか文学とか御関心の深い題目についても気軽に話し合える相手がいないと先日仰せでございました。

1966年8月16日
この前美智子妃から三時間近くにわたって伺いましたお悩み、それは神経症の名のつくほどのものでございますが、皇室制度というものについての御不安感が大きな原因になっておりますことがわかり、どうしても私自身の頭の中をその点について整理しておかねばという必要を感じました。
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『入江相政日記』侍従長

1967年8月19日
稲田侍従長から、東宮職のことがすべて高松宮妃に筒抜けとのことを聞いた。

1967年11月13日
東宮御所。
美智子妃に拝謁、二時間以上。
「昭和皇后様はいったいどうお考えか。平民出身として以外に自分に何かお気に入らないことがあるか」などお尋ね。
それぞれお答えして辞去。

1967年11月14日
宇佐美長官と稲田侍従長と永積侍従次長に昨日のことを報告する。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1967年1月13日
昨日の御歌会に美智子妃お出でなかりしこと。

1967年1月21日
宮内庁長官宇佐美毅来訪。
美智子妃、小袿取り戻しのこと。

1967年3月4日
神谷美恵子博士来訪。
美智子妃スキー後にてお目にかかる。
御元気のよう。
「両陛下・入江その他皇族各自 新聞雑誌との連絡あるようだが、私にはないので煩わしい」との御話あったとのこと。
私はそれは反対、持たぬ方がよし、他の宮様がそんなもの持ってることは無視する御用定必要。
多少あるかもしれぬが、それをやめていただくことに我々も陰ながら努力すべきと思っています、とて昭和皇后拝謁、小泉参与免職のことなど話す。

1967年3月20日
鈴木東宮大夫来訪。
神谷美恵子博士が受けし美智子妃の希望話し、それはあまり配慮なき望むむね神谷美恵子博士に答えし話。
「fight に変化」のむね言いしところ、
「それはノイローゼに混入して考えあるところ、放置より仕方なし」との意見。

1967年6月18日
高松宮妃。
高松宮5月31日にカナダノイローゼ発病の御話。
その後まず御快癒の由。
それにつき宮内庁随員なきこと、式部官長のスローモーなこと、宮内庁長官更迭の話を聞いたこと、鈴木東宮大夫のこと、芦田場合によりては御退位云々のこと初めて口外す、御代代り国家のため心配と言う。
だから宮内省に腹のあるしっかりした人 入用とのこと、松村金五100点の話あり。
北海道知事となりし人、ちょっと難しと言う。
松方三郎、ちょっと困る点あり、細君死んだがとのこと。
松井は100点らし。
小泉は少し点落ちる。
美智子妃に感心せぬ話。
常陸宮妃が立てられることなど。

1967年6月22日
宇佐美長官・元宮内庁次長林敬三と三人、宮内庁人事の話。
式部官長原田健ダメの話、鈴木東宮大夫のこと、東宮大夫の地位低きこと、東宮侍従浜尾実 鈴木東宮大夫の頭は古きこと改めて自覚す。
侍従長・次長更迭同時はできず、どちらを先にするかとのこと。
東宮職ちょっとだらしなく、報告少なきこと。
侍従穂積重道をを自治省再押しつけのこと、東宮侍従重田保夫さほどでないこと。
小泉信三参与の時 東宮職にてブーブー化しこと、元東宮大夫野村行一も不平ありしこと。
知らぬが仏か。
しかし小泉の人物学識はみな尊敬す。

1967年7月5日
東宮御所。
鈴木東宮大夫同席、東宮御夫妻と二時間お話す。
皇孫殿下〔令和の天皇〕も御同席、御挨拶じき退去遊ばさる。
行儀およろし。
小泉・安倍死に、吉田・山梨健康衰え、田島もいつ死ぬか知れず。
皇孫殿下御教育の御参考かと考える旨にて、穂積大夫交代の経緯詳細言上す。
浩宮様、論語素読結構のこと、政府人でなく民間人広く御接触希望すること等々。

1967年8月2日
高松宮妃。
明治天皇祭 袿の問題、昭和皇后と美智子妃との対話のこと。
東宮女官名和栄子〔名和長憲男爵の娘・高松宮喜久子の親類〕よりの話。
保科女官長ウソの話、東宮妃袿拝借身分の差にあらず、大正皇太后〔貞明皇后〕より拝領大事の品、大事とあっけにとられた話。
帽子靴30贅沢、欲しい物は買うとのこと。

調書持参、鈴木東宮大夫と話す。
東宮御夫妻の公事のみ。
だいたいにて良きも、美智子妃については多少不賛成の点あるらし。

1967年8月18日
高松宮妃。
徳川誠〔高松宮喜久子妃の叔父〕病室見舞に、病室で誠夫人の妹東宮女官名和栄子が語りしこと。
東宮侍医由本正秋「こんな嫁さん、民間にもなし。美智子妃衆人満座で人を叱り、昭和皇后のこともあまり良く言わず。大膳が夜食的なものを買いにやらされ、タクシー代に困るとか。欲しいと思う物は必ず買い、東宮侍従重田保夫が予算のカラクリをやる」
看護婦長も悪く言う。
美智子妃は首相佐藤栄作および夫人をよく言わる。
そして美智子妃はよく来ることは明かさず、長官更迭説を言う。
いつか佐藤夫人に言いしごとく、大夫・式部など人事を良くするは長官の責任。
長官更迭など思いもよらずと言う。
遡りて秩父宮妃・高松宮妃に正田美智子のことを言わざりしとこと、御殿場にて田島を吊るし上げし話を持ち出さる。
しかし同時に東宮様が昭和皇后に美智子をもらってくれとせがまれし話もなさるゆえ、実情は多少御存知と思わるるが、小泉東宮参与が軽井沢でテニスで機会を作り、そして持ち出したとまで思っておられるらし。
探しもしないで云々。
古いと言ったではないかとなかなかこの話に熱心なり。
過去のことだが、小泉東宮参与が美智子さんの妹の仲人をしたのは unwise と直言した話もする。
結局宇佐美長官に直接話されたしと言う。
午後にでも呼ぶ勢い。

1967年9月2日
高松宮妃。
宇佐美長官は信頼できなくなったという話。
8月18日直接宇佐美長官に話される方よろしと申せしより、さっそく御話になった様子。
その結果本人たちに事情も聞かず、黒木東宮侍従が■■をしたとのこと。
噂のある人に会わぬのもおかしい。
鈴木東宮大夫も黒木侍従も美智子妃の機嫌取りばかりという話。
宇佐美長官もダメとのこと。
田島は東宮御夫妻に御信任ない以上、辞めるが当然ゆえ探盗人くらいの考えかも知れぬと申し上ぐ。
7日の会合にて融和図らんとせしこと水泡のようなり。

1967年9月13日
高松宮妃。
あらためて黒木東宮侍従より女官名和栄子に緘口令下るとか。
鈴木東宮大夫・女官長牧野純子なかよしとか、高松宮ルートが明となり名和女官大変らしく、宇佐美長官の命令か、鈴木東宮大夫・黒木東宮侍従懸命、みな免職は恐れる。
名和女官も食えぬとのこと。
緘口令出たについて部外の人に言わぬよう東宮女官宮崎恒子によく言っていただくこと頼む。
外務大臣夫人、数千円の本を差し上げるに、御接待はあるも何の御礼もなしとの意見。
美智子妃につき、またその母につき、私の考えを述ぶ。

1967年9月22日
皇室ことに東宮御所のことで眠れず。

1967年10月30日
宇佐美長官訪問。
東宮女官今村淑子はダメとのこと。
牧野女官長もおかしいこと。
宇佐美長官も鈴木東宮大夫も東宮御夫妻には忠言しおること。
東宮御夫妻、自説固持の性質のこと。
美智子妃が東宮様よりうわ手とのこと。
神谷美恵子博士に新聞記者紹介を頼みしこと恐れ入るむね話をし、いつも週刊誌にも会いたい旨あり。

1967年11月15日
鈴木東宮大夫訪問。
昨年来美智子妃、牧野女官長に直言。
鈴木東宮大夫ら陪席、このとき牧野女官長は弁解的、一生懸命やってると言う。
その後、行為改まる。
黒木東宮侍従、名和女官に緘口令言う。
名和女官無能、今村女官の方はよし。
美智子妃は名和女官が高松宮ルートたることいまだ知らず。
知らさぬ方よしとのこと。
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『入江相政日記』侍従長

1968年2月12日〔葉山御用邸〕
2月25日の映画には浩宮様御一方とのこと。
どうして美智子妃がおいでにならないかよくわからない。
東宮侍従浜尾実さんに聞いてみてもわからない。
昭和陛下も御不審だった。

1968年9月26日
昭和皇后「東宮女官長後任に松村淑子の件、考えたがどうも都合が悪いと思う」との仰せ。
やはりキリスト教だからだろう。

1968年9月27日
宇佐美長官・稲田侍従長に松村淑子は駄目ということを伝える。
東久邇家を常盤松の官舎に引き取ることについて打ち合せ。

1968年10月16日
昭和皇后に拝謁、東宮女官長松村淑子につきお許しを得る。
また揺り返しがあるかもしれないけれど、一応これで済んだ。
宇佐美長官も稲田侍従長も喜んでくれた。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1968年3月5日
国民として昭和陛下の御代はよいとして、東宮様には昭和陛下のような御徳望ましいと思う。

1968年7月1日
神谷美恵子博士。
東宮大夫鈴木菊男は美智子妃ファン。
他は女官長牧野純子・東宮侍従長戸田康英・女官みなダメ。
グラフに出るのも研究。
厚化粧の割に皮膚若い所なし。
女官、代払のことあり。
神経病の一種。
全然恰当。

1968年7月3日
秩父宮妃。
高松宮妃直言のことは、なかなか大したこととお御話。
あの方ならねばできぬこと。

1968年11月23日
神谷美恵子博士、美智子妃の驚の話。

1968年11月26日
鈴木東宮大夫。
ほとんど個人的東宮御夫妻御伝言。
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『入江相政日記』侍従長

1969年8月6日〔那須御用邸〕
東宮様の浜名湖の御土産のカニ、いつもならどこかへプイということだったろうに、昭和皇后さっそくお描きになった。
いい具合に前田青邨〔香淳皇后の絵の師〕も激賞。

1969年9月1日
宇佐美長官から美智子妃の整形のことなど聞く。
〔平成皇后は肋骨の変形のため宮内庁病院で手術する〕
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『入江相政日記』侍従長

1970年9月1日
三笠宮百合子妃から、三笠宮寛仁親王が東宮御夫妻〔平成天皇夫妻〕と明方4時まで議論、続いて東宮御夫妻は軽井沢で夜8時から12時半まで同じことについて談じ込まれた由。
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『入江相政日記』侍従長

1971年12月1日
新年用御写真の時の録音、NHKがやるとは知らなかったが、とにかく東宮様〔平成天皇〕がお進みにならず、宇佐美長官も大反対とのことでやめになる。
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『入江相政日記』侍従長

1972年6月19日
侍医長西野重孝来訪。
美智子妃のこといろいろ心配しての話。
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『入江相政日記』侍従長

1973年2月23日
東宮侍従井関英男が話していく。
相変わらずで、進歩もしなければ変化もしない。
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『入江相政日記』侍従長

1974年3月8日
久宮祐子内親王〔早逝した昭和天皇の娘〕祥忌につき御機嫌を伺う。
昭和陛下は今晩ギリシャ劇においでになる東宮様〔平成天皇〕のことについていろいろ仰せになる。

1974年4月11日
宇佐美長官といろいろ話す。
今日の美智子妃のは、どうやら見当がついたとのこと。
宇佐美長官と東宮御所。
宇佐美長官・鈴木東宮大夫・東宮侍従重田保夫と美智子妃の御前。
藤島泰輔〔平成天皇の御学友〕がしゃべったことがお気に障った件、はじめはすごかったが、終りは大いにお笑いになった。

1974年4月12日
東宮侍従重田保夫来訪。
藤島泰輔に言う方法のこと。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1974年9月25日
夜、東宮四殿下御参内。
美智子妃は御発熱で御不参。
秋篠宮ヤンチャで広間のドラを一発鳴らす。
紀宮清子内親王可愛い。

1974年10月5日
東宮職からの連絡ということで、
「明日美智子妃と秋篠宮が、紀宮の運動会にお出まし」のむね申し上げたところ、
このところお風邪のため2~3回御参内がお休みであった「美智子妃は大丈夫か侍医に聞くように」とのことであった。
冨家崇雄侍医を通じて聞いてもらい、冨家侍医から
「お熱は下がらないが、御気分が爽快であるからお出まし」とのことを申し上げた。
昭和陛下は「ぶり返さないか?」とのことで、
冨家侍医は「拝診しておりませんから、何とも申し上げられない」旨お答えしたとのこと。
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『入江相政日記』侍従長

1975年3月3日
昭和陛下に、この間からの高松宮妃・美智子妃などのことについて申し上げる。
御納得いただいた。

1975年3月25日
昭和陛下から御召。
昭和陛下が美智子妃にゴルフとダンスはしないようにとおっしゃったことについての、昨日の宇佐美長官への仰せ、それの布衍だった。
すぐ宇佐美長官に伝える。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1976年8月31日
東宮侍従八木貞二は、先頃の毎日新聞の東宮様〔平成天皇〕批判記事について気にしていた。
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『入江相政日記』侍従長

1976年5月10日
日清製粉〔美智子妃の実家〕と山崎製パンとのこと、笹川良一も心配してるとか。
馬鹿な話。

1976年8月23日〔那須御用邸〕
宿舎で会食。
西野侍医長も出席、誠に楽しかった。
「どうしてこうも東宮職と違うのか」など言っていた。

1976年12月31日
赤坂方面〔平成天皇家〕の人気は依然冴えず困ったもの。
しかしこれはまったく手がつけられない。
その意味も含めて昭和陛下がますます御機嫌でいらっしゃるよう祈るほかない。
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『入江相政日記』侍従長

1977年4月1日
歌会始のことにつき協議。
御用掛木俣修は東宮職のことをしきりに憂い嘆いていた。

1977年6月10日
衆議議長保利茂が昭和陛下の御風格を讃え、「それに反して赤坂の方〔平成天皇家〕は」と言う。
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『入江相政日記』侍従長

1978年1月14日
宇佐美長官と、もう少しハッキリ東宮様〔平成天皇〕に御話して混乱のないようにしなくてはと話し合う。

1978年3月11日
安嶋東宮大夫と面談。
美智子妃の例のクリスチャン問題についてよく話す。

1978年3月25日
東宮様のことについて黒木東宮侍従長来室。
安嶋東宮大夫は美智子妃のことで大苦慮とのこと。

1978年4月12日
式部官長湯川盛夫来室。
東宮様がドイツの勲章をお受けにならないとかなんとかいうくだらぬことを聞く。

1978年6月15日
黒木東宮侍従長に、元東宮侍従浜尾実などがよくしゃべるお膝元での御教育は東宮様〔平成天皇〕がお初めてとのテレビの言説に対する昭和陛下の御不満を伝えておく。

1978年8月20日〔那須御用邸〕
昭和陛下から東宮様記者会見のこと。
「那須は嫌いなどとなぜ言うのか」の件。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1978年7月12日
東宮御所〔平成天皇〕増築部分の参観。
1階の3宮様の個所・進講室・私室など。
2階の美智子妃の御服室・御化粧室など。
2階部分は宮内庁長官・宮内庁次長のみに披露し、他の部局長には見せないと。
なかなか良くできているが、3宮様個室にそれぞれ防犯シャッターがガラス戸の内側に下がるようになっているのは不可解。
カーテンはシャッターの外側に硝子戸の中につけるのだろうから、夜間シャッターを間近にしての居住ということになり、倉庫にいるようなことになるのではないか。
毎日シャッター降ろすのでないならば非常用なのか。
紀宮の室の窓際に少し室内に寄ったところに大きな柱があったが、外側に出すと別の柱と2本並び外観を損ねるというが、内側が狭くなるだろうものだから使う者本位に考えない建築家の犠牲になったわけか。

1978年10月3日
今月から東宮様〔平成天皇〕の定例御参内が火曜日になった。
浩宮様〔令和の天皇〕が大学の都合で水曜日はよくないということから。
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『入江相政日記』侍従長

1980年3月31日
東宮御所。
東宮様〔平成天皇〕もなかなか努力して立派になっていらっしゃる。
あと大事なボルト一本打ち込めばという感じ。

1980年6月13日
〔元常陸宮伝育官〕掌典長東園基文に会い、東宮様と常陸宮のこと聞く。
この頃はおよろしいとのこと。
皇后宮大夫安楽定信に話しておく。
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『入江相政日記』侍従長

1981年10月30日
東宮御所〔平成天皇〕いくらかよくなってきた。
ただし侍従がまだいけない。
上と下はよくなったとのこと。
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『入江相政日記』侍従長

1982年3月23日
昭和陛下より、「富田長官は皇室評論家4人について悪く言っていたが、それより元東宮侍従浜尾実の方がずっといけない」との仰せ。

1982年4月8日
昭和陛下から、御外遊のことにつき東宮様〔平成天皇〕との割り振りのことなどいろいろ仰せ。
大いに意欲がおありになる。

1982年8月13日〔那須御用邸〕
昭和陛下、御熱7度6分、御脈100以上。
戦没者追悼式はおやめになる他なかった。
昭和陛下から「8月15日はどうなったか」との仰せ。
「東宮様御名代、美智子妃はただ御供、したがってごゆっくり御養生を」と申し上げる。

1982年8月14日〔那須御用邸〕
昭和陛下ちょっと御機嫌悪く、
「私が外遊の時に東宮ちゃんがやった時のように、何も言葉は言わないんだろうな」との仰せ。
すぐ東京に連絡。
侍従卜部亮吾が富田長官そのことを言ったら、ギョッとした由。
卜部侍従曰く「そういうことがわかっているから侍従職ははじめから消極的だった」と言っていた。
そして御言葉も用意していたのに、願わないことにした由。
つまらないことである。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1983年1月20日
黒木東宮侍従の急逝の由 知り驚く。
死に場所がトルコ風呂ということで週刊誌など取材の動き。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1983年4月11日
東宮様〔平成天皇〕の御会釈御言葉。
東宮様の事務担当者からこちらの庶務係長に
「宮内庁新採用職員に御会釈の際の東宮様の御言葉の参考に、昭和陛下の同職員拝謁の際のものを教えて欲しい」と言ってきた。
それで「昨年までの東宮様御自身のものを参考にすればよいので、昭和陛下が何とおっしゃろうと関係ないと思う」と断わらせた。
ところが早速八木事務主管から電話が来たので、同じ趣旨のことを伝えたところ、
「下の者が上の者の御言葉を参考にするのは当然ではないか。東宮様が聞いてくれるようおっしゃっているのだから知らせてほしい」という。
「昭和陛下の代わりにお会いになるのではないのだから、独自にお考えになったらよいではないか」と言ったが、
「秘密扱いになっているか」とのことで、
「そんなことはない」と知らせてやった。
見識のないこと甚だしい。
また東宮様の希望なら、事務を通じないで、直接東宮侍従からこちらの侍従に言ってくればよいのだ。
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『入江相政日記』侍従長

1983年1月19日
夜12時40分、東宮〔平成天皇〕侍従曽我剛から電話。
東宮侍従長黒木従達が死んだと。

1983年1月20日
黒木東宮侍従長、新宿二丁目の外出先って何だろうと思っていたが、彼にとって都合の悪いところ。
惜しいことをしたもの。
高松宮へ。
高松宮御機嫌。
すっかり申し上げ、全部済む。
「黒木のあと機械的に重田保夫でもあるまい」とのこと。

1983年1月24日
新潮・文春・週刊朝日にも黒木東宮侍従長のこと大きく出ているらしい。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1984年12月14日
東宮侍従曽我剛より、紀宮清子内親王が映画『風の谷のナウシカ』御所望とか。
東映の浜田氏に相談。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1986年3月17日
東宮侍従八木貞二より美智子妃御入院、子宮筋腫手術のこと。

1986年4月15日
共同通信に終戦時両陛下から東宮様あての御手紙が公表される。
〔元東宮侍従村井長正が書き写していた4通の手紙〕

1986年4月16日
村井元東宮侍従あて警告文案を練る。

1986年4月17日
村井問題につき、徳川侍従長に富田長官の意向を伝えるも、態度不変。

1986年4月18日
階段にて村井元東宮侍従とバッタリ、汗顔の至りと。

1986年6月11日
徳川侍従長・安楽侍従次長と叙勲候補の件について、元女官今城誼子と元東宮侍従村井長正は除外のこと。

1986年12月17日
山本次長より、また新潮に橋本明のレポートあり、元東宮侍従村井長正が情報提供していると。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1986年4月15日
戦争末期終戦直後の東宮様〔平成天皇〕宛の両陛下の御手紙各新聞に。
特に読売はトップに内容要旨を掲げた。
東宮侍従村井長正が伝育官当時写していたものを、昭和陛下の御立派なことを私するに忍びずと、共同通信の橋本明記者〔平成天皇の御学友〕を通じて発表したものという。
山本宮内庁次長は私信を公開するとはけしからんといい、徳川侍従長は昭和陛下に御許を得てからすべきなのに、昨日村井氏から電話があったが、すでに記者に発表してからでは遅いと呆れていた。
我々にしても側近としてあるまじきことと憤慨に堪えないところ。

1986年12月18日
『新潮45』によれば、昭和陛下が終戦直後戦争の責任を痛感なさって御退位をお考えになったものの、司令部の容れるところとならなかったことはよく知られているところ。
しかしそれまでに時の田島宮内庁長官に命じ、戦争責任を内外に明らかにする詔書を起草せしめられたこと、その草案のことは田島長官の御遺族が保管していることなど元侍従村井長正が語り、共同通信の橋本明記者〔平成天皇の御学友〕により『新潮45』に掲載された。
先に昭和陛下の東宮様への御手紙公開で物議を醸した村井氏の再度の暴露記事で、宮内庁も困惑。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1988年1月29日
東宮侍従八木貞二から文春の記事について、
〔天皇侍従職と東宮職の確執について〕
「歌会始の美智子妃の御所作については問題あり」と。
〔今年の歌会始で美智子妃が参列者に会釈した。天皇主催の儀式で美智子妃が会釈をすることは不適切であった〕

1988年5月11日
正田家に不幸があった場合の対応策について協議。
山本侍従長と正田家の問題など話し合い。

1988年5月28日
11時過ぎ電話で正田富美子夫人の死去の報入る。

1988年5月29日
昭和陛下に正田富美子夫人の死去について申し上げ、東宮様の方に見舞をするように仰せ。
「親類だから」と思ったより反応大。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1988年2月26日
二二六事件につき毎年お慎みであるが、東宮様〔平成天皇〕と浩宮様〔令和の天皇〕が今日から28日まで岩手県八幡平にスキーにお出かけになるので、
昭和陛下は「このような日に出発するとは慎みが足りない。しかも暗殺された内大臣斉藤実は岩手県出身でもある」というお気持ちが強い。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1989年2月28日
今後の両殿下の拝謁の進め方、特に平成皇后ができるだけ多くお出になりたいとのことで、これまで昭和天皇両陛下がなさってきたものを大幅に変更する必要が出てきた。
結局国事行為に関連する叙勲は平成陛下のみ、公的な性質の強いものも同様とする。
それ以外の大臣等の表彰にかかるものは、夫妻で出席か否かにかかわらず、両陛下とする。
このような案になった。

1989年4月18日
紀宮清子内親王成人。
侍従長の御祝詞言上は極めて簡潔。
これに対し平成陛下から「ありがとう」と御礼。
肝心の紀宮からは一言も無い。
はなはだ心外。
両陛下はいったい何をお考えか。
御自分も結構だが、成人になられた御本人から祝賀の職員に何の御挨拶もないとは。

1989年5月12日
宮殿侍従候所に先帝陛下の侍従が詰めることについて異議あり。
新帝陛下が宮殿においでの時、我々も宮殿に行く。
従って御供してきた侍従と2人が候所にいることになるが、我々は何のために行くのか。
先帝時代は候所には侍従1人で用を足していた。
我々も御遺物の整理にかかっているので、宮殿に行く暇はない。
以上のことを全員で侍従長に話して、そのように進めてもらうよう頼んだ。

1989年6月28日
この数日先帝陛下の遺産相続につき、新聞・テレビの報道が続く。
宮尾宮内庁次長は事実が記者に漏れているのではと神経過敏になっているらしく、卜部亮吾主管が昨日も今日も呼ばれ注意を促された。
宮廷筋からも何かと注意あるらしい。
もっと積極的にといかぬまでも、あまり隠し立てしてはかえって反発を買う。
報道されて当然の国民的関心事なのだから。

1989年7月8日
昭和天皇の遺産相続につき、新聞各紙一斉に報道。
1カ月ぐらいまでは宮内庁次長宮尾盤は記者会見の内容発表はしないと言っていたが、結局記者からの要望もありかなり詳しく発表した。
ただ相続税額の4億余は発表された数字ではなく、記者会で課税対象額をもとに計算したものだという。
どうして数字まで発表してやらないのだろう。
こんなところが宮内庁流というのだそうだ。

1989年8月4日
両陛下、即位後最初の内外記者会見。
丁寧に御発言になっておられ、なかなか良い。
平成皇后も同様で良いが、「東宮様」はいただけない。
皇太子であっても皇后は上位にあることだし息子なのだから、このような公的な場では耳障りだった。
「東宮」または「浩宮」で良いのでは。
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◆125代 平成天皇 継宮明仁親王 124代昭和天皇の長男


■妻  正田美智子 日清製粉社長正田英三郎の娘


●浩宮 徳仁親王  125代天皇
●礼宮 文仁親王  秋篠宮
●紀宮 清子内親王 黒田慶樹と結婚


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『高松宮日記』

1933年12月23日
皇子〔平成天皇〕御誕生の由。
7時少し過ぎに電話にて承知。
まことに私も重荷の下りたようなうれしさを、考えてみればおかしな話ながら、感じてやまず。

1933年12月29日
参内。
新宮〔平成天皇〕に見上げたり。
とても赤いお顔にて、お鼻大きく高く見受けたり。
シャンペンの杯をあげ、退出。
継宮とはちょっとおかしい気がしたが、よくよく明仁とつけてみると良い御名なり。
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『高松宮日記』

1934年1月7日
新宮〔平成天皇〕が御誕生になってみな大喜びだ。
しかしお兄様〔秩父宮〕も御同感のようだが、はやり御教育方法が心配になる。
新宮の御養育御教導ほど重大な問題はあるまい。
すでに照宮成子内親王その他の方々の御養育で経験もある通り、早くその方策を決定し計画を立ててかからねば失敗するであろう。
そしてこれは一般論ではいけないので、現実に即し今日に適した特殊な方法でなくてはならぬ。
両陛下は共に極めておやさしい。
おそらく本当にお叱りになることはあるまい。
しかも二方とも大して御強壮な身体でない場合、そこに生まれる御子は気丈な方でない方が普通であろう。
してその上に育て方が弱々しくされることによって、男さんについて果たしてどうであろうか。
照宮成子内親王ですら、魚屋とか何屋とか果てはお寺というような物についての概念を持っていられないで、国語読本等に関する興趣もおわきにならず困るような話である。
まして御成人後はいよいよ下情に遠ざかられる立場の方が、自由なるべき小学時代までをそんなことで甚だ困りものである。
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『入江相政日記』侍従長

1937年8月24日
どういうものか東宮様〔平成天皇〕は太陽の直射がお嫌いで、太陽が雲間を漏れて強く照りつけてくるとすぐ嚶鳴亭へお駆け込みになる。
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『入江相政日記』侍従長

1940年3月26日
侍従小倉庫次と東宮様〔平成天皇〕の御教育方針につきいろいろ話し合いをした結果、元侍従大金益次郎に実情を述べて相談してみようということになり、午後大金さんの所へ行く。
実情を話した結果大金さんも非常に心配し、できるだけのことはしようということになる。

1940年11月6日
侍医頭侍医長八田善之進の所へ行く。
今日の仮御所における会議に臆することなく、東宮伝育官石川岩吉を攻撃すべきむね気合をかけておく。

1940年11月7日
八田侍医頭の所へ行き、昨日東宮仮御所で行われた会議の顛末を簡単に聞く。
大金さんの所へ行き東宮様の問題につき協議。
武官を置かず伝育官を東宮侍従にせらる範囲において東宮職を早く設置、石川伝育官の上に大きな東宮大夫を置くか、皇后宮大夫広幡忠隆を宮内大臣にし黒田を大夫にするぐらいがオチであろうということになる。

1940年12月4日
東宮様の御近況相も変わらぬ。
石川伝育官の不届きなやり方を聞いて憤慨する。
小倉侍従がこのあいだ広幡大夫・石川さんと協議した東宮様御将来の御教育方針につき聞く。
要するに東宮職を早く設置し伝育官は侍従にしないこと、しかして大人物の東宮大夫でも据えれば石川伝育官は手も足も出ないのだがということになる。
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『入江相政日記』侍従長

1941年5月27日
東宮伝育官山田康彦がその後の東宮御所の状況を話す。
呆れ果てたことばかりで今始まったことでもないが、石川伝育官が引っ込まない限りは東宮様の御伝育は全くできない。

1941年6月4日
山田伝育官と東宮御所のことをいろいろ話す。
石川岩吉という人は全く自己あって東宮様のことは全く閑却しているとしか考えられない。
東宮御所の伝育官・侍医結束して石川さんに当たらなければなるまい。
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『入江相政日記』

1942年3月2日
山田伝育官が仮御所の近況につき話す。
石川伝育官の奇々怪々の行動につきいろいろ話を聞く。
どういう人だかよくわけがわからぬ。
東宮様のおためを思っての行動とはどうしても受け取れぬ。
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『高松宮日記』

1943年1月18日
より東宮様御学問所に関する研究経緯を聞く。
現在東宮様は算術なども一般より計算等に時間がおかかりになるが答は間違いなくなさるので知能の方は普通であるが、やはり御身体の方が考慮を要する点なり。
宮内大臣松平恒雄の意見にもあり、運動場を一般と一緒にお使いになり、その間に得るところ少なからずと考えその方針なり。
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『高松宮日記』

1944年2月28日
東宮様の御教育に関しては、かえって万世一系という国体に心易しとするためか、関心足らざるを感ず。
はるかに外国の国王・皇帝の後嗣の教育は直ちに皇室の存続の問題として本能的に考えられ、自他ともに熱心に厳格適切に行わるるにあらずや。
今時局の困難に直面し将来如何なる事態となるも、いよいよ天皇の御素質・英明にまつこと大なるを思えば、いまだ幼き東宮様の御身の上には実に容易ならぬ御苦労を願わざるを得ざるなり。
この意味でも速やかに成年の教育を受けしめ、一日も早く天皇として人格を備えらるるよう努めざるべからず。
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『高松宮日記』

1945年10月22日
東宮様の御教育についても根本的に考えを改むる要あり。
すなわち外国人に対しても単に拝謁でなく、十分応待し得らるべき御教育を必要とす。
御留学もこの見地より考うべきなり。
アメリカかイギリスか、これは各々見方による。
長短あるべし。
アメリカとしてはイギリスはすでに世界的な国にあらずして、今後の問題はなんとしても米ソの問題しかもアメリカが関係を密にせざるべからざる国となるべし。
それには早く御留学になるを可とす。
同年輩のアメリカ人とお近づきになりあることは、将来の両国の提携に資すること極めて大なるべし。
アメリカ人の考え方を御理解ありて将来の日本の優れたるところを具現し給う上に、効果大なるべしとす。
イギリスとすれば王室を持って伝統ある国として他になきものなれば、その味わうべきものは深し、ただちに日本の皇室として例を求むるところ多く、将来親交を結ぶべき国として比すべきものなき国柄なりとなす。
御学問所についてもただちに考えを革めてかかるべき時なり。
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『高松宮日記』

1946年2月2日
東宮様、お成り。
初めてなり。
客間のライターがお珍しく、点けたり消したり何度も何度も。
南洋でもらった海亀の剥製大中小、お欲しそうだったので「差し上げましょう」と言ったら、
二度も見にいらして「あれか、これか」とおっしゃる。
三つともというは少し欲ばりすぎるとお考えらしかったが、
「みなお届けしましょう」と言うて片づく。
豚と緬羊はやはり触ってお楽しみ。
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『入江相政日記』侍従長

1947年9月18日
東宮様のこの夏以来の御傾向は真に憂うべきものであることを話す。
侍従長大金益次郎もことごとく同感で、東宮職の現状は深憂に堪えないと言っておられた。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1948年10月10日
東宮侍従黒木従達来る。
東宮様は自己中心、思いやりなし、わがまま。
同窓生によりて匡正したし云々。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は48万円

1949年2月3日
今日東宮様、テニスコートにお成り。
先日もそのことあり警衛等に困る。

昭和天皇◆今後も頻繁とすれば、外人には分らぬ皇居内の説明は何とするか。
皇居に東宮の生活を移す問題を考えよ

1949年7月8日
昭和天皇◆マッカーサーは東宮の印象は非常に良かったらしい。
知的にも聡明で、落ち着いてチャーミング云々だと言ったとのこと。

1949年8月30日
昭和天皇◆東宮の住居のことだが、先だって小泉参与らがずいぶん東宮さんは常陸さんと違う、思いやりが足らぬということを強く言ったが、葉山の時は気がつかなかったがどういうものか。
(御真意のほどちょっと解しかねしも)
田島長官◆御警衛はボディガードの方に重点を置き、警視庁の配置する御警衛は廃止または少数とするよう警視庁に申し入れのことに致してあります。
昭和天皇◆あ、そうか。そんならそうだ。

1949年11月8日
昭和天皇◆実は東宮御殿は私の所と近い所がよいと思う。
往年エドワード8世と御話した時、「父陛下にどれぐらいお会いになるか」と聞かれたが、その頃は週一度ぐらいであったゆえ、忠孝の国と言われる日本として返答に苦しんだことを今も私は忘れぬ。
エドワード8世は朝一度ちょっと父王にお会いになって、各自自由の行動に移られるようであった。
東宮ちゃんはいずれ外遊するであろうが、その時また私のように苦しい返答をさせたくないと思うからだ。
田島長官◆昭和陛下は赤坂離宮は御住居としてお好みにならぬ由を承りまして承知しておりまするが、民間にては赤坂御所こそ新憲法下の宮殿としてふさわしく、この皇居はむしろ民衆の交通を阻害しているとも言えるため、半蔵門から下町の間へ蟠踞するのをイヤがる者もありまするゆえ。
昭和天皇◆この皇居も問題となれば私の住居もどこになるかわからぬが、いずれにしても東宮ちゃんの家は近い所がよいと思われる。

昭和天皇◆東宮妃を迎える場合、将来の皇后となる人ゆえ、条件は非常に難しい。
第一家柄の点だが、これも一応限られるし、本人の人物はもちろん必要だが、遺伝的なことも十分考慮の必要あり。
それから恋愛結婚とか自由結婚とかいうのではないが、本人同士の夫婦関係が円満にいくことを考えてしなければならぬ。
そのうえ本人同士の結婚関係はよくても、私ら舅とかにも良き人でなければならぬ。
田島長官◆従来もいろいろな点を考えておりましたが、御趣意に従いましていろいろ考えなければと存じております。

1949年11月28日
昭和天皇◆このあいだマッカーサーと会った時、講和は近いとの印象を受けた。
遅くも来年の6月ぐらいではないかと思う。
ついては東宮ちゃんの外遊のことだが、英米へ行くことはまずどうしても必然だと思うが、その時期の問題だ。
田島長官◆そのことは先般来、時期・期間・供奉員・費用等の点を考えております。
時期の問題は高校御卒業後ということが一応考えられますが、平和克復の直後ということもかえってよろしいかとも存じます。
期間はあまり長くなく一年半ぐらいで、アメリカの規模の小さいイギリス風の学校にちょっとおいでになり、その後イギリスへお渡りになりケンブリッジかオックスフォードのおいでになるということで。
昭和天皇◆フランスぐらいは旅行して。
田島長官◆最長二年。
昭和天皇◆一年半だなー。
ヴァレットも英語ができぬと困る。
私の時は原忠道という、今は大倉組かなにかにいるのが大変よかった。
閑院宮載仁親王のお付きしてたのは言葉が甘くなく、原が助けたこともある。
また萩本即寿とかいう者もいたが、これはいけなかった。
田島長官◆英仏両方できるとしては前田陽一。
(あまり御賛成なき御様子に拝す)
昭和天皇◆松井明などいいではないか。
外務省が離さぬかもしれぬが。

田島長官◆東宮様の御外遊は、できれば御婚約の上のことがよろしいかと存じます。
昭和天皇◆それはそうだ。
私は離れてるから東宮ちゃんがどんな考えかわからないし、また何も考えていないだろうが、外国へ行けばエドワード8世のような〔結婚スキャンダル〕ことも考えられぬでもないし。
それも難しいが、私の時とは時勢も違うので婚約後は交際をすべきだと思うが、また交際の結果イヤになるということも考えられて、これは難しい。

1949年11月29日
昭和天皇◆東宮ちゃんが渡米する以上は、ヴァイニング夫人との関係をよくしたい。
供奉員のことだが、松井明など外務省の人が取れぬ場合は東宮職の人を考えねばらなぬが、私は東宮侍従戸田康英と考えるが、これは英語の関係で東宮侍従清水二郎にすべきかと思う。
田島長官◆東宮参与小泉信三は東宮侍従黒木従達を人物最良・真面目で慎重と申しておりますゆえ、東宮職からとすればむしろ黒木と存じます。
清水は先般伝育官になる時にも必ずしも衆議一致でなく、田島も人物は如何かと存じます。
昭和天皇◆そうか、清水はそうか。
それならば黒木がよかろう。
とにかく東宮職から一人は取らなければ。
田島長官◆国家的至要のことにつき、吉田首相はもちろん外務大臣も松井らよろしき者を割愛すると存じます。
昭和天皇◆そうすると、松平を大将として三人の高等官が行くことになる。
田島長官◆そのほかにヴァレットとしますと、概算月1万円として年4千万円以上にて、昭和25年度予算の関係が、もし昭和25年内に御渡米となれば如何あいなるや研究する。
昭和天皇◆東宮ちゃんはむしろ西洋などあまり好かぬのではないかと思う。
寝巻もパジャマでなく着物だ。
私も常陸宮もパジャマだが。
教育を受けた頃が戦争右翼思想時代ゆえ、日本独善的で西洋をあまり尊重せぬ傾向で、私たちの時代と違う。
例えば「ヴァイニング夫人は常識はあるが知識はない」と批評したり、外国の事物にすべて批判的であるゆえ、長く旅行したいとは思わぬと思う。
しかし今日内外の状況上、当然洋行はせねばならぬ。
ことにイギリスをはじめフランス・ベルギー等にも行く必要あり。

1949年12月5日
昭和天皇◆私は最近一つ安心したのだが、『天皇の印象』の記事につき東宮ちゃんが私に真否を第一に尋ねた。
ものを批判してかかる態度はよいと思う。
田島長官◆御批判的態度はのべて反省的態度ゆえ、それはよろしい御傾向と存じます。

1949年12月19日
田島長官◆昭和陛下に何か特別なお考えがおありで東宮様御外遊 比較的早い時期との仰せがありましたのでございましょうか。
昭和天皇◆講和は締結された時にまた退位等の論が出て、退位とか譲位とかいうことも考えられるので、そのためには東宮ちゃんが早く洋行するのがよいのではないかと思った。
(感激して落涙滂沱、声も出ずしばし発言し得ず)
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1950年1月5日
田島長官◆秩父宮から東宮様御洋行の御意見を伺いました。
「日本の大学を2年なされることと、その前に3カ月くらい御渡米のことであります」と申し上げしところ、
「東大ということになれば共産党員の学生などもずいぶんいるし、どうかと思う」と仰せにて、
「さもなければ学習院大学でございますが」と申しました。
(昭和陛下は秩父宮の御案に御賛成なき御様子に拝す。3カ月ぐらいの渡米案にもあまり御賛成なき御様子なり)
田島長官◆池田成彬に面会の折り、イギリスの教育がよろしくハーバード出身にかかわらず三子をイギリスに送り同窓より批難された時、「日本は共和国でなく君主国ゆえ、日本の子弟はイギリスが至当」と論ぜしことありとのことにて、「皇太子の場合はイギリスが望まし」と申しおりました。
またアメリカの女子は好奇心もあり男女交際も自由過ぎる点もあり、イギリスになどと申しておりました。

1950年1月6日
田島長官◆東宮様来学年より第二外国語始まるにつき、とにかく試験的に学校でないフランス語のレッスンをお始めになることにつき、前田陽一を第一候補に考えておりまする。

1950年3月11日
昭和天皇◆東宮ちゃんによく話して、夜遅く起きていない習慣に変えてもらうことが先決だ。

1950年7月5日
田島長官◆三笠宮のことに関連し、東宮様・常陸宮のこともなかなか考えさせられまする。
東宮様は特別にて民法に長子相続もなくなったにかかわらず、皇室だけは長子相続の建前で二男・三男は冷や飯で、この点よほど注意しなければならぬと存じます。
東宮様のことは東宮大夫穂積重遠の無責任ではダメゆえ東宮参与小泉信三で変わってもらうという具体案ができてお許しを得て実行しましたが、常陸宮についてはなお研究中。
昭和天皇◆田島は戦争後になって宮様方が平民的自由と皇族の特権とを両方活発にやられるようになったと言ったが、戦前からずいぶん平民的な特権をやっておいでだった。
一つは別当などの人がついていたことと、今一つは検閲制で新聞に出なかったというだけだ。

昭和天皇◆東宮ちゃんと常陸宮は教育が違う。
二人は同じ学習院へ通ってる。
私は御学問所、秩父さんは陸軍幼年学校、高松さんは中等科という風にみな違った教育を受け、私だけは特別だったから。
田島長官◆東宮様は上中下と分けて上の部にお入りになり、馬・テニス何でもなさいますが、失礼ながら常陸宮は中の部にもお入りになれませぬ上、御体格上テニス等の御運動もできず、学習院でも御孤独であるとのことでございます上、東宮様は将来の天皇たる天職お定まりでありまするが、常陸宮は旧憲法時代と違い軍人ということはなくなり、何か将来のことをお考えになる必要があります。
昭和天皇◆今は化学がいいと思う。
しかし専門家になってもらっては困る。
相当の暇つぶしになって、そして趣味の程度ということを考える。
田島長官◆常陸宮の問題で何か最近あったらしき様子。
昭和天皇◆皇子伝育官村井長正が皇子伝育官東園基文や次長を出し抜いて何か言うから、山田に言って次長に注意して、それから次長がいろいろやり出したのだ。
常陸さんは私に何でも進んで聞いてくる。
常陸さんはいろいろなことを私に言ってくるから何を考えているのかよくわかる。
東宮ちゃんとも議論してることがよくあるが、なごやかにやってるから心配ないと思ってる。
田島長官◆それが最近必ずしもそうでないと聞きました。
昭和天皇◆これは年頃で、性の問題にも関してると思う。

1950年9月1日
昭和天皇◆東宮ちゃんは留学はとにかく、洋行は必要だと思う。
私も行って見聞を広め有益だった。
大学は南原繫総長の間は東大はイヤだから、学習院の方がよいと思う。
南原が辞めた後なら東大でもよいが。

昭和天皇◆東宮ちゃんが軽井沢を気に入り、戯談半分に御用邸が欲しい云々の話もあったとのことだが、テニスと馬ならば那須でもできる。
他に原因があるのか。
田島長官◆友人が数名軽井沢におりましたこと、外人が多くおり会話等の関係などによるかと存じます。

1950年9月4日
昭和天皇◆東宮ちゃんやはり軽井沢よほど気に入ったらしく、珍しいことだが昨日も軽井沢の話を後から後から話してた。
常陸さんはそういうことをするが、東宮ちゃんとしては珍しい。
どうも軽井沢の空気全体がよほど気に入ったらしい。
「馬は宮内庁の馬でないのがいい」と言ってた。
だいたい宮内庁の馬は馬場ばかりの調教ゆえ、外では驚くことが多く駄目だ。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1951年7月3日
東宮様近状前途光明なきこと、単調なこと、性的年頃のこと。

1951年9月13日
華頂令嬢、東宮妃候補のこと。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1951年8月3日
朝日記者との会見、東宮妃のことに触れしゆえ、
田島長官「平民の子は才色兼備でもどうかと思う。やはり貴族階級に限られる」というような話をしたこと申し上ぐ。

1951年9月3日
田島長官◆昨日・一昨日沓掛の東宮様の御機嫌を伺って参りました。
軽井沢は非常にお気に入りのようでありまして、来年もまた御希望のように拝しました。
昭和天皇◆常陸さんから聞いたのだが、「葉山も沼津も那須もみな売って軽井沢に買えばよい」と言ったそうだ。
田島長官◆今年は馬を四頭お連れになりましたようでございます。
厩は県の方で建てましたようで、借賃を出すことと致しました。
またテニスもホテルの方でコートを作りまして借賃を出すことに致しまして、馬とテニスで御満足のように存じます。
御自分の嫌いなイヤなことは少しもなさらないようにお見受け致しましたが、東宮様の御地位としては、また将来の天皇陛下としての御修養のためには、イヤなことも遊ばすということが御必要ではないかと思いました。
昭和天皇◆それは確かにその傾向がある。
私などは余り好きでないことは進んでやらねばならぬとするためか、ちょっと困ることにもなる。
例えば絵はあまり好きでないが、努めて観に行ったりすると、反対に非常に好きだと言われることもある。
田島長官◆御興味のないことは捨てておしまいになり、試みようとも遊ばされぬように拝察いたしました訳でございます。
昭和天皇◆私も統計や数字は不得手であるが予算など必要ゆえ、努めてやる。
田島長官◆先だって東宮様は那須に一週間もお出ででございましたが。
昭和天皇◆自然界を見ることなど嫌いで、テニスとかピンポンとかいう方に興味があるようだ。
常陸さんはよく来るよ。
田島長官◆御自分のイヤなこと嫌いなことをむしろ進んで遊ばす昭和陛下の御修養は、やはり杉浦重剛の倫理の教えによりますこと大きいのでございましょうか。
昭和天皇◆杉浦を右翼の人のように思うが、イギリスで化学を学んだ人で非常に視野が広かった。
あるいは宗教家・哲学者は攻撃するだろうが、杉浦は「常識的に真理は一つである。釈迦も孔子もキリストも方法が違うだけで帰一するところは一つだ」と言ってた。
非常に視野の広い、包容的な考えは私にも影響があったかとも思う。
それともう一つは、私は生物学と同程度に興味があったのは歴史で、ことに箕作元八の西洋歴史は私に非常に役立った。

1951年9月29日
昭和天皇◆東宮ちゃんはいつ外国へ行くのか知らぬが、その時までには妃殿下はきっぱり決めたいと思う。
東宮ちゃんはシンプソン夫人みたような問題は決して起こさぬと確信してるが、老婆心で洋行する前にはぜひともはっきり決めた方がよいと思う。
メアリー皇太后のような方でも私に良宮のことを聞かれた。
決まっていて、そしてゴタゴタしたでしょう。
それの返事に困ったことがある。
私のこの経験からも、はっきり返事のできるようにして行く方がよい。
それから社会の実情が変化して、私は大正皇太后〔貞明皇后〕〔貞明皇后〕の御意思というので突然波多野が言って来て、別に私の意思もなく決まり、その後も結婚まで別に会見するでもなしであったが、近ごろは孝ちゃん〔孝宮和子内親王〕でも順ちゃん〔順宮厚子内親王〕でも婚約後往復をしてる。
これらの変化を考えると、事情に即したことをせねばならず、今一つそう早く結婚することもどうかと思う。
例えば二十歳というようなことは、そして婚約のあまり長いのもどうかと思う。

1951年10月22日
昭和天皇◆東宮ちゃんは普通の学生のように3年とか4年とか留学するということはできぬ。
私の外遊のようではないにしても、学校に入学して学問するというではなく、学生生活の経験のための短期の留学ということはあるかも知れぬ。
田島長官◆東宮様来年高等科御卒業につき、学習院大学部へ御進学願うことに決定、奏上のはずでありまする。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1952年1月3日
東宮様・常陸宮に拝謁。
東宮様無表情、常陸宮御言葉ぶりよろし。

1952年1月7日
東宮妃の範囲、第一回打ち合せ。

1952年3月14日
東宮様エスケープ事件。

1952年3月15日
東宮様エスケープ事件その後のこと。

1952年11月11日〔皇太子の立太子式の翌日〕
両陛下および東宮様拝賀す。
少々感情的になりちょっとベソ。

1952年11月17日
東宮様にも stick する御癖あり、ちょっと注意を要するとのこと。
昭和陛下の手指のこと話す。
当然あれと関係あり、清宮貴子内親王にはなしと。

1952年11月20日
小泉参与来る。
東宮様の御癖と御疲労の時のことと。
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『入江相政日記』侍従長

1952年2月16日
6時ちょっと前に我が家に東宮・常陸宮・順宮厚子内親王・清宮貴子内親王御参。
御夕食御会食。
御食後、麻雀。
家でも麻雀を遊ばしてた由。

1952年6月19日
東宮侍従黒木従達が東宮様にこの夏の御予定について東宮様に伺ったら、
「那須と軽井沢がいい。終始常陸宮と一緒でいい」とおっしゃった由。
これは反省遊ばした結果だと言う。
それはそうであろうけれど、さればといってそのまま安心していいものかどうか。
実に考え方が安易すぎると思う。
山田侍従と二人であきれ返ってしまう。
常陸宮伝育官東園基文が問い詰めてみたが、まったく大丈夫と考えているらしい。
何をか言わんやである。

1952年7月24日〔葉山御用邸〕
東宮参与小泉信三・東宮大夫野村行一参邸。
一時間半にわたって東宮様の御成績について両陛下に申し上げる。
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宮内庁長官 田島道治『拝謁記』

1952年1月11日
田島長官◆東宮妃の問題でありますが、鈴木菊男に学習院の名簿による机上調査を頼みましたが、東宮様の御結婚の時期の問題で高等科1年くらいの人から初等科6年くらいの人まで適格となりますが、昭和陛下の場合は宮内大臣波多野敬直が御成年と同時に突如久邇宮良子女王のことを申し上げましたとのことでございますが。
昭和天皇◆私は突然であったが、大正皇太后〔貞明皇后〕にはその前にいろいろお話あったらしい。
(1)そう早く結婚はせぬが、まず24~25歳ぐらいか。
(2)大学卒業せず外国へ行くかもしれぬが、外国行く前に決めることは必要。
(3)自分と良宮との2つの歳の差は少し近すぎる。
若い時はさほどでないが年を取ると女の方が早く老いるゆえ、5つぐらい違うほうが良い。
さりとて10は多すぎるゆえ5つ違い見当が良い。
(4)家柄関係で血の繋がる所となることもやむを得ないが、イトコはいかぬ。
イトコ以上離れた方が良い。
全然血縁ない所もとより良い。
(5)少数ながら複数候補者を東宮ちゃんに出すという田島の考え方は良い。
田島長官◆先の長い問題ではありますが、孝宮和子内親王・順宮厚子内親王の時と同様極秘に周到に運びまするために、両陛下・東宮様の御心持を伺いたいと存じます。
昭和天皇◆よろしい、二人に言おう。

1952年2月11日
田島長官◆英ジョージ6世の葬儀は東京で大使館主催の弔祭式があるかと存じますが、ヴィクトリア女王の時は小松宮彰仁親王御夫妻、エドワード7世の時は皇太子御夫妻〔大正天皇夫妻〕ジョージ5世の時は高松宮御夫妻が御名代ということでおいでになっておりますが、今回は国際関係が正常でございませぬので御名代はどなたにお願い致しましょうか。
御思召を伺います。
昭和天皇◆秩父さんは御病気で御無理ゆえ、高松さんにお頼みしてもらおう。
田島長官◆昭和皇后御名代も高松宮妃にお願い致しましてよろしゅうございますか。
昭和天皇◆御健康はどうかしら。
万一健康上の問題があれば秩父宮妃にお願いしてくれ。
田島長官◆まだ先のことでありますが、戴冠式が6カ月後なれば国交回復後と存じます。
その節もし駐英大使でなく御名代というような場合はいかがでございましょうか。
昭和天皇◆御親類の国は別として他の国の参列者の振り合いを見て、例えばフランスが大統領自ら行くという場合で政府も希望するようなら、私はむしろ名代が行った方が良いと思う。
その時もそれはやはり高松宮だ。
秩父さんは行かれないから、また三笠さんは歳もお若いから。

1952年2月18日
田島長官◆三笠宮が田島の部屋へおいでになりまして、
「戴冠式の御名代はどうなるか、私の外遊ということについて最も良い機会だが」との仰せでありました。
突然でありましてビックリしましたが、直接こんなに早くお話が出ようとは予期いたしませんでしたが、
「8月よりもっと早いかもしれませぬ。したがって正常国際関係が復活していないかもしれませぬし、またその際皇族がお出かけになることになるか大使的な人になるかも分かりませぬ」とハッキリせぬお答えを致しておきましたが、昭和陛下に直接お話があるかもしれませぬゆえ、ちょっとお耳に入れておきます。
昭和天皇◆高松さんは社交のことは御上手で、私なんかよりとても御上手だし、秩父さんが行かれれば一番良いがそれはダメゆえ、高松さんはこういう時には適当な御長所がおありだ。
この前高松さんが行かれたのはガーター勲章の御答礼で戴冠式とは違う。
戴冠式だからねー。

1952年2月25日
田島長官◆今日の新聞には戴冠式はやはり8月7日で、先方から招待状が来てみなければわかりませぬのだそうでございます。
昭和天皇◆イギリスは昔から親善だから、できれば今後も。

1952年2月29日
田島長官◆秩父宮から御手紙をいただきましたが、戴冠式に御名代の問題があれば東宮様がよろしいということであります。
田島はそれまで想像もいたしませんでしたが、御手紙を拝見してみればごもっともであり筋の通ったことで、具体的に考えてみるだけの要はあると思いました。
侍従長三谷隆信は消極的で、東宮職では若い連中はとにかく東宮参与小泉信三・東宮大夫野村行一の間では否定的に傾いております様でありますが、秩父宮に直接お伺いして両陛下に申し上ぐべきと存じまして藤沢〔秩父宮別邸〕へ上りました。
秩父宮は例の通り御自分の結論に反する事は枝葉的にお考えになりお論じになりますが、秩父宮の仰せは大筋はよく通っております。
「戴冠式御参列は難しいことでなくなんでもないことで御役目というものがない。これは高松さんがガーター勲章の御答礼においでになったのとは全然違う。スターとして主役は何もない。ならびに大名的である」ということで、御自分様の御経験の順序を伺いました。
「前夜グロスター公の晩餐会から始まって、当日は式部官に誘導されて席にお着きになるだけ、国会での午餐・バッキンガムでの午餐も向こうの人は不慣れな方にはちゃんと気をつけてくれるから心配無用。私的にはクイーンがお呼びになる少数の宴会もあろうけれども、大してお困りになることはない。随従の者もある程度までお付き添いできる」
「軍艦は無し、飛行機も汽船も外国のものであり、右翼の者から問題にされる」ということも申しましたが、
「日本が一等国だった時のことを思ってはだめだ」との仰せでした。
随行者の人選の問題は松平康昌らの名前なども申し上げましたが、
「松平は十分いいとは言えぬが、最近イギリスなどへ行ったということで及第点とも言えぬこともない。イギリスに在勤・在住・留学等の然るべき人がきっとあるだろう」との仰せでありました。
「なかなかありません」と田島が申し訳しても、
「小泉さんというような人も知らなんだが、東宮様にああいう人ができたように探せばあるよ」との話でありました。
重光葵も足が悪くなければとの御話もありましたが、これはイギリスでは好評でもとにかく戦犯の点もあり問題になりませんし、徳川家正など良い点たくさんありますが、グロスター公接伴として当時問題になりました由で問題になりません。
秩父宮は非常な御熱意で、「話が進まなければ昭和陛下に直訴する」との御話でありました。
田島もこういう場所へ一度おいでになればその御経験は御自信をお付けになる機会でよろしいかとその点は結構と存じますが、田島・宮内庁次長宇佐美毅の積極に傾くこと三谷侍従長・小泉参与の消極に傾くこともあくまでも感じで、まだ意見と申すまでのものでもございません。
昭和天皇◆交通の問題を心配するのは右翼ばかりではない。
東宮ちゃんとしてはまたとない機会であるが、東宮ちゃんは身体が健康とは言えないし、行くとすれば香港・シンガポールの線はどうしても不可と思うゆえ、カナダかアメリカ経由ということになる。
そうするとイギリスに行く前に相当疲れてしまうと思う。
その上イギリスの儀式ということは主役でなくてもやはり疲れるから、その点どうかと思う。
秩父さんの議論は筋は通っている。
これは三笠さんをやめてもらうには非常に良いがねー。

田島長官◆東宮様のスキーお出かけに関しまして、スキー場へずいぶん人が押しかけまするので、旅館その他の関係もあり首相吉田茂から白洲次郎の小屋をというような話も出ました次第で、東宮職としては県庁や一般の人に迷惑をかけぬ趣旨のもとに今回は尾瀬沼ということで、人里離れたところだそうでございます。
何か御病気の場合心配で外科の他内科の医者をもお連れになる必要ないかと念を押しましただけで過ぎましたところ、25日御出発の前々日に情報が入りまして、昭和陛下に対し京大生が試みようと致しました公開質問のようなことをするという噂、また100名ばかりの者が御歓迎申し上げるというようなことを聞き込み、小泉参与も心配いたしまして野村東宮大夫・黒木東宮侍従・宇佐美次長と5人で相談の結果、警察が責任を持つという以上、王者としていったん御発表になり地元の関係の者もそのつもりでおりますのを誰にもわかる理由でなしにお取り止めにはなれぬ、それも単なる嫌がらせ程度を例の球根栽培の指令でやることとしか田島には思えませぬゆえ、十分注意しておいで願うことに決定して、御予定通り25日お出かけになりまして、国旗を掲げたり奉迎歌を歌ったりいたしまして何事もなく、山小屋への御予定も御無事でございます。
京都の事件といい近畿行幸のビラまきといい、日共の指令に動く人間のある限り油断はできませぬのが、今回のことで教えられましたゆえ、御成年でもあり東宮様の御行啓につき、御子様であった時のように東宮職だけで大体決め、形式的に本庁が当たるというのはどうかと考えるように至りました。
今後は御行啓の場合の侍従職と本庁との関係のように、東宮職と本庁と密接に統合して動くようにしたいと存じております。

昭和天皇◆東宮ちゃんの御名代の話ね、良宮と話したのだが「それはちと早い、若すぎる」と言ったのだ。
しかし私が「私がイギリスへ行った歳と比べると1年かそこらの差だよ」と言ったら、
「そうですか。そんならむしろ賛成です。行ったほうがいい」と言うのだ。
それでまたとない機会だし筋の通ったことだから、具体的な事とか客観情勢とか国民感情とかで行けなくなることもあるかもしれんが、それらの点が全て差し支えないならまあ望むという方の考えだから。
実は私は東宮ちゃんが長く留学というようなことはあまり好かぬので、そういう意味での留学とか洋行とかいうことはやめたいと思うぐらいだ。
アメリカが留学など言う時でも、これをやっておけばそれを断るにもいいしね。
田島長官◆前例ではイギリスからの御招待があって決まるのでありますが、敗戦の今日果たしてイギリスはどういう風でありますか、それまでは秘密でなければなりませぬ。

1952年3月3日
田島長官◆先日秩父宮にお目にかかりました時、
「東宮様の御服装はさしあたりは普通の服装以外のものは考えません」と申し上げましたら、
「ロンドンの仕立屋では燕尾服でも3回仮縫いをするから3週間ないし1カ月かかる」という御話がありました。
昭和天皇◆秩父さんが戴冠式に行かれたのはまだ日本のいい時で、私が行った時も日英同盟のある頃とは違うとしても、やはりよかった。
今度東宮ちゃんが行っても、その時のような待遇は受けられぬかもしれぬ。
どうもイーデンは労働党の外務大臣より日本に好意を持っていないようだし。
秩父さんの考えも御自分の行かれた時の考えでおられる点が多い。

1952年3月4日
昭和天皇◆昨日ニュース〔映画上映会〕に三笠さんが来られて、
「戴冠式には誰が行くのか」というお話であったから、私は「研究中だ」と言っておいた。
田島長官◆御自分でおいでになりたいとは仰せになりませんでしたか。
昭和天皇◆それは言わないが、行きたいらしい。

1952年3月5日
田島長官◆吉田首相は戴冠式の問題は東宮様で非常に賛成でありまして、秩父宮から御話のあった際すぐ結構と申し上げましたようでございます。
両陛下の御思召もお進みであり、秩父宮は御発起であり吉田首相も大賛成とありますれば、経費の点もまずよろしかろうと存じます。
この問題は新聞記者の注意を引き、今朝の新聞にも高松宮とか出ております。
昭和天皇◆東宮ちゃんは船に弱いが、それは寝てればいいから船がいい。
飛行機は墜落せぬと限らぬから船がいい。
フランスは共産党が多いからやめか。
それでもベルギー・オランダ・スウェーデンは王国だから行った方が良い。
田島長官◆随員のことも参考までにというような態度で、吉田首相は山梨勝之進〔元学習院院長・元海軍大将〕と松平信子〔秩父宮勢津子妃の母〕を挙げておりました。
「海軍大将で?」と田島が申しました節、
「軍縮の時の次官で、その後は学習院長であり、イギリスにいたこともあり、英語を話し文学の方もわかり、適当と思う」との話でありました。
「女さんは?」と田島が申しましたら、
「松平夫人ならば王室のことはよく知り、また友人も多いと思う」というような意見でありました。
(昭和陛下は「この際女では」とて信子さんのことは問題外らしく、山梨は「老人で」との御話)
田島長官◆なお吉田首相はしきりに「小泉はダメですか?」と話がありましたが、
「足が無理でありますから」と申しておきました。
〔小泉は空襲により顔に火傷の跡が残り、足が不自由だった〕
昭和天皇◆小泉が一番いいが、イギリスであの火傷はどうだろう。
話が出て爆弾の火災のこともどうかとも思う。
私に付いて行った沢田節蔵はどうだろう。
田島長官◆物の切り盛りはできませぬ。
人間はよろしいかもしれませんが、言葉数が多いだけで一向とりとめはありませぬ。
弟の沢田廉三はこれに反しましてなかなか気の利いた男でありますが、少し才気すぎて人物が東宮様に御供するという面に欠けるところがあります上に、戦争中に仏印に参りました等でちょっと問題になりません。
昭和天皇◆山梨は人物が立派で吉田がいいというのはわかるけれども、なにぶん老人でどうかと思う。
小泉は顔の火傷のことでイギリスに行くにはちょっとどうかと思う。
田島長官◆起居すべて不自由で軽井沢に参りますにも妻が参りますほどゆえ、小泉参与はダメでございます。
昭和天皇◆それでは結局、式部官長松平康昌か。
田島長官◆積極的に適任の点はありませぬも、秩父宮も最近渡英の点などで及第との御話で、まず無難で及第点はありまするが、吉田首相がいかがでございましょうか。
昭和天皇◆前田多門はどうか。
田島長官◆イギリスにはおりませぬが、アメリカやスイスには在勤いたしまして、英仏用は足すかと存じます。
田島は親しい友人でございますが、必ずしも適任とも申されまぬ。
安倍・小泉らの間にさほど重く見られておらぬのではないかと存じまする点も気になります。
それよりも前田の長男前田洋一という者は東宮様のフランス語の先生で、英仏語とも堪能であります上に、三谷侍従長の下で外交官も致しておりましたし、事務の才能もありますので、随員には適格性があると存じております。
小泉参与はむしろ山梨より元外務大臣野村吉三郎の方が良いと思ってたようでありますが、アメリカならばとにかくイギリスではと存じます。
昭和天皇◆松本俊一という外務次官をやってた人物はいいがねー。
田島長官◆これは人物だと聞いております。
三谷侍従長は駐米大使堀内謙介はいかがと申しておりました。
昭和天皇◆戦争中に外務次官をしてたからあれはいかぬ。
田島長官◆人物は温厚でありまするが、少し温厚にすぎるようでありまする。
クリスチャンでありますが少し活気に乏しいと申しますか、御批准書紛失事件は少し本人に気の毒な事情にあったと三谷侍従長は申しておりました。
昭和天皇◆永井松三はとても問題にならぬ。老人でとてもダメ。
(永井は招待状なしにイギリス弔祭式に参りし話・勲章を下げて来た話・それを忘れて三谷侍従長と話したなど申し上ぐ)
昭和天皇◆三谷はどうだ。
田島長官◆三谷侍従長はヴィシーの点がいかがかと。
〔三谷は戦時中フランスの親ドイツ政権ヴィシー政権の時の日本大使だった〕

1952年3月7日
田島長官◆戴冠式の件、第一に船にしましても飛行機にしましても御疲労になることと思われまするし、次に船はまず大丈夫でありまする代り、昭和陛下の時の軍艦とは違いアメリカ汽船等であれば新聞記者の同乗者が相当あります上にアメリカの乗客が相当うるさく、結局船で御静養できず御疲労になるということで、それよりは飛行機の方がよろしくて、同乗者は制限されまするし、早くお着きになって御静養の方がよろしいとの意見。
東宮様となれば飛行機会社の競争激しく、そのためには何か失敗すればその会社の運命にも関しまするゆえ最良の飛行機・最良のパイロットを必ず使うものと思われ、決して危険はないとの説もありまして。
昭和天皇◆うん、それもそうだ。飛行機だねー。
田島長官◆新聞記者なども宮様は三宮様〔秩父宮・高松宮・三笠宮〕で、秩父宮は御病気として、他の二宮様ではあまり世の注目を引かぬらしく、ひそかに東宮様と思ってるのもあります。
昭和天皇◆どうしてそんななのかねー。
高松さんは社交はお上手だし、内地でもいろいろお出ましになるが、それがかえって困るということになるらしく、大正皇太后〔貞明皇后〕から直接伺ったが、埼玉県県会議長が直接大正皇太后〔貞明皇后〕へ『高松宮は困る』と言ってきたことがあるとの話で、大正皇太后〔貞明皇后〕は否定の御返事をなすったと聞いたが、そういうこともある。
田島長官◆実は吉田首相が初めから東宮様と思いましたのも、両宮様がイヤなためもあるかと思われます。
昭和天皇◆吉田はどうしてかねー。秩父さんはいいようだが。
田島長官◆高松宮は御招待もお断りしますし、封書も拝見せんでお返しいたしますし、吉田首相は感情的にイヤらしゅうございます。

1952年3月12日
田島長官◆28日御陪食には東宮様お出まし願います事はお許しを得ましたか。
昭和天皇◆聞いたが、知らぬ人も多く、話題に困ることはないか。
田島長官◆家永三郎は歴史の博士で御承知ゆえ、前田陽一ぐらいでございましょう。
安倍・小島もおりますゆえ、話題にお困りのことはないと存じます。
侍医勝沼精蔵に診察前に極秘で、御洋行のことあるやも知れずこれにお耐えになる御健康か否か申しておきましたが、拝診後に十分およろしい御健康とのことでありました。
勝沼は飛行機渡欧の経験もありまするゆえ、その線も付加して御疲労になる事なども申しましたが、大丈夫とのことでありました。

1952年3月14日
昭和天皇◆昨日小泉と野村の東宮ちゃんの教育の話を聞いて親切なのに驚いたよ。
私の時と比べて想像もつかぬほどのことだ。
ピアニスト原智恵子とかピアニスト安川加寿子とかの女流音楽家を呼ぶとか、映画なども見るらしいし、誠に自由なことだと思う。
個人教授でない以上大家に過ぎると言うが、私の時でも大家であった。
大家は教育法がまずい学殖だけと言うが、それなら他の生徒も興味がないはずだと思って聞いたが、この点あまり返事がはっきりしなかった。
私は東宮ちゃんは国語や漢文に興味がないのは教授法のためではないと思う。
田島長官◆東宮様の御成績のことでございますが、学問で身を立てるとかいうのでなければ、ビリでは困りますが1/3ぐらいでおいでなれば結構と存じます。
入間野武雄の話に新木栄吉が7番で1番の小林正一郎と申すは銀時計で、二人とも日銀に入りましたが結局小林は理事で終わり新木は総裁になりました。
昭和天皇◆陸軍や海軍で剣など褒美にもらったのが案外ダメだ。
田島長官◆東宮様に関しては宵っぱりが悪い習慣で、これはお直し願いたいと存じます。
勝沼侍医も申しておりまして、大正皇太后〔貞明皇后〕の御遺伝かなどと申しておりました。
昭和天皇◆西洋流の夜会などはあまり早く寝る癖の人は困る。
(東宮様のことは無意識に御弁解的なこととなる)

1952年3月22日
田島長官◆書陵部長鈴木菊男と管理部長三井安弥でありますが、これを入れ替えに致したいと存じます。
その方が適材適所と存じます。
昭和天皇◆人事のことはいいが、東宮妃〔平成天皇のお妃候補〕の調べを鈴木がやってたのはどうなるか。
田島長官◆一応学習院分だけ調査済でありますし、他の学校は学習院以外はどうかと思いまする。
昭和天皇◆外遊と決まればそうもいかぬかもしれぬ。
田島長官◆今回の戴冠式の御外遊については特にお考え申し上げる必要はなく、御留学のような長い御滞在でありましたらその前に東宮妃をお決め願うがよろしいかと存じます。

田島長官◆吉田首相は随員に山梨と申しておりましたが、若い人はどうも山梨の長所はあまりわかりませず、侍従長大金益次郎が秘書課長高尾亮一に「山梨さんは偉い」と申しました節、
高尾が「どこが偉いのですか」と申し、大金は「歳を取ればわかる」と申しました由。
宇佐美次長も「まだ偉い所がわからぬ」と申してましたゆえ、東宮様もお若うございますゆえ、世代ということは考えなければならないと存じます。
昭和天皇◆山梨は細いのだよ。
野村吉三郎はボーッとしてる。
松平恒雄なども野村はボーッとしてると言っていた。
下の者は野村の方がいいのだろう。
吉田は山梨と松平信子がいいと言ってたが、
私は「松平は女で老人で、たとえイギリスのことを知ってても供奉長官というわけにはいかんと思う。山梨はいいと思うが若い者の考えもあるので、考えておく」と言っておいた。
(松平信子については絶対反対、山梨についてはこれ以上の人がなければまあいいという御気持に拝す)
元侍従武官鮫島具重について伺ってみしも、
「いい人というだけで、とうてい供奉長官として切り盛りするという人物ではない」
元常陸宮伝育官桑折栄三郎について伺ってみしも、
「まあ、桑折ぐらいか」との仰せ。
両人とも、とてもダメとわかる。

1952年3月25日
田島長官◆三笠宮がおいでになって、
「東宮様は決まったか」とお尋ねがあり、
「宮様も好機会があればお出かけ得られます」と申し上しところ、
「ヘルシンキオリンピックはどうか」との話がありました。
よほど洋行に御熱心と存じます。
昭和天皇◆大事なことを忘れていた。
鮫島は南方の司令官だったのだから、あれが良ければ三谷のヴィシーもかまわぬし、小泉だっていいのだがねー。
田島長官◆戦争の司令官たることは三谷侍従長のヴィシー以上に悪いでございましょうが、小泉参与の方は戦争犠牲者の方でありますから。
昭和天皇◆しかし戦争の話に繋がるからやはり良くない。
それから松平信子だがねー、女でダメと言ったが男女同権でもあり先様が女王だからいいかもしれん。
どうしても誰もいない時には最後の切り札としてどうかと思ってる。
信子は良い点もたくさんあるがいかぬ点もあるので、それは誰か若い人でその欠点を補う人を付けたらいいのではないかと思う。
しかしこれはどこまでも最後の切り札だよ。
信子をどうかと思った一例は、大正皇太后〔貞明皇后〕に宮中服のことをよく伝達してくれなかったことだ。
これは松平恒雄〔元宮内大臣〕と信子〔恒雄の妻〕の連絡が悪かったためかもしれん。
また信子が私の気持がわかってても、大正皇太后〔貞明皇后〕への申し上げようがいけなかったのかどちらか知らぬが。

1952年3月26日
昭和天皇◆今日の学習院の卒業式、吉田も慣れてきて演説が上手になったねー。
田島長官◆吉田首相も東宮様について、よろしい印象でありました。

1952年6月24日
昭和天皇◆この間会食の時に東宮ちゃんが、学習院高等科の優秀は東大へ行くから、その次のが進級してる所へ、外部から入って来る者が相当あり、これが多少対立し、外部から来た者はやはり進歩的と言うか左的であり、学習院高等科から登ったものはそうでないので、なかなか難しいところがあるとのことだ。
学習院長安倍能成は誠に人格はいいが、そういうことを処理するのに進歩的な方に譲歩する傾きがあるのではないか。
米内光政と似てるのではないか。
昭和天皇◆学習院も世間の大学並に左的な空気はありましょうし、いずれの大学でも教授・学生共に進歩的でなければ一日も治まらぬ情勢ゆえ、安倍も立場も非常に困難だと思います。
勇気がないと言うより、実際的でない理論的であるかと思います。
全面講和論のごとき態度であります。
緒方竹虎に随行しました〔朝日新聞社出版局長〕嘉治隆一の話に、
「蒋介石政権では中共と正面に反対しておりまする以上、日本が国民政府に援助せぬにせよ、少なくとも中共に勢いをつけることだけはやめてもらいたい。南原繁・安部能成・矢内原忠雄というような人の言論は5万の援兵ぐらいの価値がある」と申しておりました。
東宮様の教育の面も大学はなかなか難しく、場合によりますればお辞め願ってもよろしいと考えております。

1952年6月25日
昭和天皇◆もし東宮ちゃんが学習院を辞めるとなると学習院の声価に関すると思うが、その点はどうだろう。
田島長官◆場合によれば必ずしも学習院御在学の要はないのでお辞めもよろしいと申し上げましたつもりで、御退学を願うと腹を決めたわけでも何でもございません。
昭和天皇◆いや、学習院としては東宮ちゃんが辞めたとなれば評判が悪く影響するだろうから、東宮ちゃんの話を聞いても社会科がどうもいかぬとのことで、学習院大学教授清水幾太郎というのを喧嘩両成敗で辞めればそれでは良いのではないかと思うのだ。
田島長官◆安部は人物はよろしいが議論は公平というわけで、マルクスの勉強もよろしいと公然と申しておりますが、現実離れした理想論をする頭の傾向で全面平和論を固持しておりますことで、いつか田島が「清水はひどい」と申しました時にも、「考えてはいるが」というようなことでありました。
どこでも大学長は相当進歩的でなければ一日も務まらぬような情勢でありますが、最後には御退学を願う場合もあると小泉参与と話し合いましただけで、具体的にその方向へ進んでるわけではございませぬ。
昭和天皇◆いや、私の学問所は洋行の機会にやめになったのだから、今度の戴冠式に行くことになればその時がいいと思う。

1952年8月27日
田島長官◆立太子の礼に関しての献上の問題は一切お受けになりませぬ方がよろしいということでお許しを得まして通牒いたしましたが、竹田宮恒徳王が馬術オリンピック出馬の馬が逸物であるために東宮様に御献上になりたく、さりとて馬術の方にはその資金がなく東京都知事安井誠一郎に話し込み、都よりの献上品ということで知事から話がありまして、皇室経済法の話を致しまして駄目と申しましたところ、宮内庁へ寄付ということならば結構、ただし献上一切やめの例外を東京都によろしいとすれば全国各都道府県それぞれに致すこととなり通牒の趣意に反しまするので、全国の都道府県全部で馬一頭を宮内庁へ寄付し、東宮様御乗用ということになりまするということで、内閣の方とも話し合いまして決定いたしました。

1952年9月8日
田島長官◆小泉参与が「東宮様はdutifulである」と申しまして、先般の長野県御旅行の際も大変よく遊ばしたということで結構なことと存じております。
昭和天皇◆評判がいいのはいいことだ。それにしても宮様方は。
田島長官◆三笠宮が皇居前広場をメーデーに禁じ警視庁の練習に許すのかどうかということを厚生大臣吉武恵市に御話になり、それが警視庁に伝わり警視庁では皇居内の一部を貸してくれとて申して参りました。
はなはだ面白くないのでございます。
御意見を宮内庁の者にでもちょっとお漏らしになればと存じますが、直接政府の役人に仰せばまずい場合を生じると存じます。
昭和天皇◆常に政治向きの発言なきよう言ってあるのだが。
田島長官◆東宮大夫野村行一辞意のことは申し上げましたが、小泉参与とのコンビの点を考えまするとなかなか詮考が難しくなりまするが、後藤光蔵を考えました。
陸軍省軍務局・参謀本部等には無関係で教育総監部にあり、また侍従武官として昭和陛下も御存知でありよろしいかとも考えましたが、吉田首相はなるべく軍人はやめてくれと申しまする上に、本人は申し分ない者としましても友人たる軍人が東宮職に訪問することはありえますし、それがよからぬ誤解を生みますことは避けなければなりませぬのでこれはやめました。
元文部次官日高第四郎がよろしいと存じまして、学習院院長安倍能成からも3回ほど説いてくれましたが、結局辞退いたしまするので思い切りました。

1952年9月10日
田島長官◆外務省から連絡がありまして、いよいよエリザベス2世戴冠式に昭和陛下の御名代がおいでいただけるか、またそれはどなたかを御通知願うというような申し入れが、駐日イギリス大使デニングから外務大臣宛にありました由。
(とて、右文章を翻訳して申し上ぐ。
ミッションは3人以内とか一行も最小限度とか注意事項に)
昭和天皇◆3人の制限が一行のことでなければそれでよろしい。
(交通に関しては往路カナダ経由・帰路アメリカの御希望あり)
昭和天皇◆フランスは共産党強きが如何。

1952年9月13日
田島長官◆イギリス戴冠式の招待が参りましたために吉田首相と打ち合せましたところ、これを閣議に付して決めるとのことでありましたが、閣議は機密が保たれませぬからと交渉を重ねまして、閣議で原則として御名代は御差遣に相なるということだけ決めましたが、極秘扱いで議題からも消し右の書類も回収いたしました由で、外務大臣岡崎勝男と話しましたところ、外務省としては今月一杯いっぱいくらいに原則的なことを返事をいたし、どなたがお出かけになりますかということは今年一杯くらいと申しておりました。
イギリス女王にどなたということがわかるまでは秘密にというイギリス側の希望も、他国の招請に応ずる具体的返事など公表されますると新聞社の問い合せもありましょうがと心配しますが、岡崎外相はノーコメントと申しておりました。
予算の裏付けのないのは困りまするが、これは総選挙後の国会の補正予算以外に手はなく、予算を作りますためには日程供奉員御巡遊国等目安を宮内庁で秘密に立てませんと大蔵省へ要求もできませぬゆえ、極秘でこれにかかっております。
昭和陛下の御意思は御決定と拝しまするが、東宮様は既に御了承でございましょうか?
昭和天皇◆招待状なき以上まだ話していない。
私が言うか、良宮にでも言ってもらうか、田島の方からか。
田島長官◆両陛下から御内話願えばよろしいかと存じます。

田島長官◆東宮様御名代のことは極秘のことでありますが、秩父宮の御発言によって参りましたことゆえ、招請のあったことぐらい昭和陛下から秩父宮と御話になりますることは如何と存じました次第であります。
(別に何とも仰せなし)

1952年10月16日
昭和天皇◆順ちゃん〔順宮厚子内親王〕の結婚式に比べると、今度の皇太子の式典〔立太子の礼〕の方はなんだか温かみがないようだねー。
田島長官◆国事となりますると御血縁の方も御出席願えぬというような点多少変でありまするが、国事という建て前は取った方がよろしいと存じましてそうなりました以上、今日の場合やむを得ませぬと存じます。

1952年11月4日
田島長官◆立太子の礼もだんだん近づきまして、鷹司信輔夫妻〔孝宮和子内親王の舅姑〕・池田宣政夫妻〔順宮厚子内親王の舅姑〕のことを承りましたが、これは御召になりますのか、あるいは何か賜物でよろしいのでございましょうか。
昭和天皇◆私は東宮ちゃんの兄弟みな揃うという日に、その二夫婦も入れたらいいではないかと思ってる。
田島長官◆今の御話でありますと、孝宮・順宮の夫の両親は揃ってるのに、照宮成子内親王の〔舅姑〕東久邇宮稔彦王&東久邇宮聡子妃はなぜお招きないかということになりはいたしますまいか。
昭和天皇◆それは菊栄親睦会に招いてあるからと言えば、照ちゃんはわかると思う。

昭和天皇◆このあいだ東宮ちゃんが秩父さんや高松さんなんかをお呼びした時の話に、高松さんが結婚問題をお聞きになった時、東宮ちゃんが私たち〔昭和天皇夫妻〕は二つ違いだということを言ったそうだ。
これは邪推だが「私たち〔昭和天皇夫妻〕は二つ違いだ」と言ったことの裏には、自分にも二つぐらいで良い女性を心に描いているようなことはないだろうか。
田島には前に話したように、私たちよりは少し離れた五つ六つ違いぐらいがいいと言ったが、もしそういうことがあればそれでまた考えねば。
田島長官◆それは重大問題でありまするが、昭和陛下の仰せもあり一応の適当年齢者を調べ出す仕事を書陵部長三井安弥がやっておりますが、その際にも年齢はそう近くないことに致して考えておりましたところが、小泉参与が東宮様と二人だけでいろいろ御話の際、「比較的早く結婚したい」との意思を表明されたということを聞きました。
早く御結婚となりますれば東宮妃の年齢は東宮様に近くということになります。
また先年三里塚へ馬にお乗りにおいでになる時、やはり乗馬をされるというので伏見さんの二人目の方〔伏見章子〕に対して御希望がありましたが、世間がうるさいからとておやめ願ったことがあります。
特定の方として考えられるのは、ちょっと伏見さんくらいであります。
昭和天皇◆伏見さんは短命の筋で。
田島長官◆東宮様の御配偶のことは最も重大でありますゆえ、小泉参与ともよく相談いたします。
昭和天皇◆東宮ちゃんの結婚に関連してだが、私の経験によればイギリスの時のメアリー皇后ほどの教養の高い方でも、私に恋愛とか結婚の問題をお話かけになったことがある。
今度東宮ちゃんが行くについても、エリザベス女王はお若いし、どんな御話が出ぬとも限らぬ。
そういう点は西洋は日本とは違うからねー。
田島長官◆おでかけの時はあらかじめそんな御回答も用意して。

1952年11月7日
田島長官◆だんだん立太子の礼が近寄りまして、東京会館のごとき大きな布を下げ「奉祝立太子礼」としてありますし、宮内庁側は消極的でありまするのに、世間の関心は意外に大きいので驚いております。
昭和天皇◆吉田が話してた東宮ちゃんへの祝品に対する服部時計店の職人の話といい、また田島が話した玉座の製作者の話といい、一方に共産党のようなものがあるが、また地方にはああいう日本人が昔ながらの伝統で皇室のこと・国体のことを思ってくれるかと思って私はうれしく思ったことだが、今の東京会館の話もそうだ。宮内庁側としては消極でいることがよろしい。
そして自然に一般に関心の高まるということは誠に結構だ。
田島長官◆この気分が根無し草でないように、根底のあるものにならなければと存ずるのでございます。
付和雷同的でない、心からの気持ちになってほしいと存じます。

1952年11月12日
昭和天皇◆飛行機会社の運動があるようだが、安全確実ということならば、東宮ちゃんは船に強くないから飛行機の方がいいかもしれぬ。
田島長官◆田島の所へは先日遠回しに日航社長柳田誠二郎が申して参りましたし、式部官長松平康昌の所へはBOACの者が参ったようでございますが、BOACが特別機を勝手に提供してくれれば別でありますが、先方の定期空路に便宜してくれるということならば、インド・シンガポールなどの東南アジア各地に着陸するのではないかと存じます。
昭和天皇◆それはいかん、それはいかん。
それならカナダを通り、そして絶対安全ならば飛行機もいいということだ。

1952年11月14日
昭和天皇◆西洋人また日本の人でも今度の立太子礼、何か聞かぬか。
田島長官◆秩父宮から既にお聞きと存じますが、大使たちの夫人が呼ばれなかったので、大いに恨んで残念がっておりますそうでございます。
昭和天皇◆聞いた。そうだ、そうだ。
大使たちはそれで余計に羨ましがらせて、こうだったああだったと言うことらしい。
田島長官◆饗宴で陶器の杯など相当紛失いたしまするが、これは盗みには違いありませんが、それだけ皇室の物が世間で珍重されまするゆえ、記念にいただきたいとも考えられますので、あまりひどく悪くも取らぬようにしております。

1952年11月21日
田島長官◆昭和陛下は東宮様御渡英の御供小泉の顔の点を御心配でありましたが〔小泉の顔には空襲で受けた火傷の跡があった〕吉田首相からかまわぬとの意見で、
昭和陛下も「首相やら外務大臣やら大使やらの人の意見ゆえ、それならば」と仰せになりましたが、新聞の下馬評では5人の御供は「小泉参与・東宮参与松平信子・首相秘書官松井明・侍医・侍従」とのことであります。
吉田首相は東宮様御渡英の御供として山梨勝之進と松平信子を持ち出しましたが、山梨は歳を取りすぎ、信子は男様の御供に女さんではおかしいとて問題にせず、そのうちどうしても人が見つかりませんので、吉田首相に新聞に名前の出てる下馬評の人名を列挙しましたところ、元外務大臣佐藤尚武のようなバカはダメだという調子でありまして、元駐ドイツ大使武者小路公共もダメだと申しました。
外務官僚徳川家正もダメだと申しました。
昭和天皇◆佐藤のような人柄の人をバカと言うのか。
吉田も自分の嫌いな人はひどく言うねー。
佐藤のような人を馬鹿と言う。
田島長官◆田島も武者小路はどうかと存じまする。
徳川家正もちょっとまずい問題があり、また大小の判断もどうかと思いまするゆえダメと存じますが、吉田は自分の好悪ではっきり源平に分けまするゆえ、田島は吉田に「首相の好きな型の人でなくばダメという主観ではなく、もっと客観的に常識で納得する人を考えて欲しいということと、数は5人は無理ということ」を力説しましたが、そのうちに海軍大将井上成美のことを申しまして、
「昭和陛下も人柄をお褒めになる。逗子のそばで学校の先生をして近所でも尊敬してる」との話で。
昭和天皇◆南洋作戦のとき少し後退しすぎたようで軍令部総長にはどうかと思うが、事務能力は素晴らしいもので、海軍大臣はもちろんできるし実に立派な人だ。
徹底的平和論者で首相米内光政は非常に褒めたし、米内・山本五十六・井上と大臣・次官・局長の時は良かった。
今回の役には軍の作戦ということは無関係であるしいい人だと思う。
田島長官◆田島が「首相がなるべく軍人はやめてくれと言った」と申しましたところ、
吉田首相は「そんなことは言わぬ」と申しまするゆえ、
「確かに首相は言われた。だから元外務大臣野村吉三郎にもらった紹介名刺をまだ使わぬ」と申しましたところ、最近吉田首相は野村にはいい感じではないように察しました。
昭和天皇◆なぜだ
田島長官◆再軍備関係でないかと想像いたします。
昭和天皇◆吉田は自分の好きな人ではなければだめで困る。
吉田が「白洲次郎をアメリカにやる」と言うから、
「アグレマンの取れなかったような人を出して良いのか」と私が質問したの。
そしたら吉田は「政権が代るし、悪かったのはGHQ経済科学局長マーカットに悪かったのだ」と言うのだよ。
それから「私の進駐軍に反したことを言うのを彼がやったためだ」と言うが、吉田は一旦いいとなったらいいのでどうもおかしいね、白洲を使うというのは。
田島長官◆とにかくアグレマンの来なかった人をそういうことは少しおかしいように存じます。
昭和天皇◆そうだよ。

1952年11月27日
田島長官◆東宮様御渡英の随員の首席を急ぎますので、吉田首相から井上成美の名が出ましたが、評判だけではと存じ横須賀まで会って参りました。
誠に立派な人物で人柄の点は申し分ないと存じまするが、山本五十六連合艦隊司令官の下の第4艦隊司令長官でありまする以上はとうていダメかと存じまする。
そこで小泉参与と会見いたしまして、三谷侍従長しかないと申しましたが、宇佐美次長とも熟議致しまして三谷侍従長しかないという結論を得ておりまして、全く符節を合するように感じました。
田島が選択の範囲を定めておりましたことは、東宮様御一方で御供も少なく海外へおいで遊ばしますのでありますから、両陛下の御信頼遊ばす人、直接御承知で御安心の行く人ということを考えておりまするので、式部官長松平康昌は最近イギリスにも参りましたし、侯爵ということもプラスでありますが、なんと申しましても侍従長の方が全てよろしいので、小泉参与も田島も次長も同意見であります上、ヴィシーの点で今まで考えませんでしたけれども〔戦前三谷侍従長がフランスの親独政権ヴィシー政権の駐仏大使であったこと〕今日となりましては三谷一本で行くより仕方ないと存じます。
三谷侍従長でなくば元外務大臣有田八郎がよろしいかと存じますが。
昭和天皇◆木戸は有田を議論倒れだと評していた。
木戸は重光葵とはよく、重光を通して有田と話してた。
また駐日イギリス大使クレイギーと論争してた関係もあるから有田はどうかと思う。
三谷がいい。
田島長官◆ヴィシーのこともありまするが、平和的であるとの定評の昭和陛下の侍従長として4年以上勤続いたし、現にその職にありまするのので問題はないかと存じます。
昭和天皇◆英語・フランス語ができるし、外国の経験はあるし、人柄はわかってるしよろしい。
また吉田は松平康昌が嫌いでとうていダメだ。
東宮ちゃんが西洋人と英語・フランス語で話すと疲れるという話だが、東宮ちゃんはできるだろうか。
食卓の時などは英仏を使うは良いが、会見の本当の話は通訳を使うを原則とすることにしてもらいたい。
そうすれば通訳をする間に考えをまとめることもできるし、その方がよろしい。
そうなれば随員の中に通訳を一人別に考えるか、または私の時のように出先の大使館の人を頼むかである。
私は御用掛山本信次郎が通訳で、英仏伊ができた。
沢田の兄〔沢田節蔵〕は外務省からであり、弟〔沢田廉三〕は大使館で出した通訳だ。

1952年12月1日
田島長官◆吉田首相は「三谷侍従長はよろしいでしょう。〔筆頭随員を三谷侍従長とすること〕ただし師伝としてはどうかと思うから、小泉参与を外務省からでも別動隊として行ってもらって、東宮様が世界をお回りになる御輔導するようにしてもらいたいと思う」と申しますゆえ、
「経費は大丈夫でしょうか。奥さんも同行で」と申しましたところ、
「東宮様のためゆえそれは出しますが、ブラリという訳には行かぬので、外務省の顧問とか何とかになってもらわねばと思う」とてひどく要望でありました。
また「松平信子はどうか?」と申しましたゆえ、
「遊撃隊としてはして下さる場合もあると思いますが、吉田首相は少人数説で、私もその方が良いと思って、余地はありませぬ」と断りました。
昭和天皇◆吉田はずいぶん矛盾したことを言うのだねー。
少人数とか敗戦国らしくとか言ってるかと思うと、東宮様のためなら小泉夫妻を別に行ってもらうとか松平信子をとか言うのはどうも矛盾だ。

昭和天皇◆通産大臣池田勇人の問題で国会がゴタゴタしてる。池田の言うことも正直な点があるが、〔池田は『ヤミ行為等での倒産・自殺は仕方なし』と発言して更迭〕
ああいう言い方をしてはいかん。
政治は人情ということも考えぬと、理屈にあったことを言ってもいかぬし、いい方を注意せぬといかぬが、政情不安で東宮ちゃんの渡英が難しくなるようなことはないか。
田島長官◆対英外交は超党派的で間違いないと存じまする。
昭和天皇◆万一予算の済まぬうちに解散にでもなったら。
田島長官◆その場合には予備金支出ということもありましょうし、御心配ないかと存じます。

1952年12月2日
昭和天皇◆師伝という問題ねー。
来年東宮ちゃんが渡英するのは、私が西洋へ行ったのと同じ年齢だよ。
そうしてみると私の時には珍田捨巳であったが、今度は三谷だが、
〔自分の外遊の補導役は一人だったのに、皇太子には補導役が二人も必要と考えることは〕
どうも東宮ちゃんを軽蔑してることのように思えるがどうか。
田島長官◆吉田首相は一辺倒の人間で、最初から小泉参与が良いと信じ切っておりますのをいろいろ申し上げまして三谷侍従長で承知はいたしましたが、小泉参与が御供することがが東宮様にとって望ましいという一念が、知らずああいう提案になったかと存じます。
別に東宮様に対してどうということはないと存じます。
ただ東宮様は目下大学生で御旅行は見学で御修行でありますから、役人風な人間のみでなく教師風の人が御供する方が良いというだけのことと存じます。

田島長官◆吉田首相はヴィシー問題を〔戦前三谷侍従長がフランスの親独政権ヴィシー政権の駐仏大使であったこと〕
自分一人でよろしいと申しましたが、外務省は今後連絡していかなければなりませんので、外務大臣岡崎勝男と今までの要点を話しまして了解を得ました。
岡崎外相も今さらヴィシーは問題ないでしょうとのことでありました。
昭和天皇◆岡崎も差し支えないと聞けば私も安心だ。
三谷が学習院女子部長になる時 吉田内閣の時 岡崎が次官で、ちょっとヴィシーのことを懸念したことがあったから。
田島長官◆昭和陛下が平和の御方であることは今日内外に周知され、その侍従長を4年半にわたり務めておりまするということで、ヴィシーの勤務は消えると田島は信じておりまするし、芦田内閣の時 侍従長任命の際やはりその点顧慮いたしましたが、GHQ民政局次長ケーディスもなんとも申しませんでしたゆえ大丈夫と存じます。

1952年12月5日
昭和天皇◆吉田はなんだか三谷では物足らぬようなこともいい、小泉のことを言った。
万全を望んでもなかなか難しいので、海軍大将井上成美が良くても第4艦隊司令長官では仕方ないし、陸軍でも後藤光蔵は人物がいいということは間違いないが果たしてこれに適任か、また陸軍中将辰巳栄一はイギリスのことはよく知ってるとして東宮ちゃんの随員長として果たしてどうかねー。
田島長官◆それは世間に納得はないかと存じます。
今朝山梨を訪ねました時に、山梨も「良い所へ落ち着きましたね」と申しましておりましたから、まず無難な人選であったと存じます。
昨夜吉沢清志郎という芦田内閣の時の外務次官に会いましたが、「まあ良いところですね」と申しておりました。
少なくとも一般には無難のようであります。
山梨は井上は人物はよろしゅうございますが少し協調的でない、元首相米内光政の葬式にも上京せぬというようなことが極端だという感じがあるらしゅうございます。
昭和天皇◆老人でなくて、人物が良くて、戦争にあまり関係のない人間というのは、海軍にもなかろう。
田島長官◆吉田首相は元外務大臣佐藤尚武をバカと申しますし、嫌いな者は近づけませぬ剣幕ゆえ、小泉参与のことを引っ込めましたのはよほどの譲歩と存じますが、別の形で何とかしたいと望むのと存じますが。
飛べば間に合うのでありますゆえ、お出かけ後でもよろしいが、今日小泉参与のことを云々しますことは良くないと存じます。
昭和天皇◆吉田は師伝とか言うて私の時の閑院宮載仁親王のこと思っているかもしれぬが、何一つ教えていただいたことはなし、師伝ということは別にない。
田島長官◆駐英大使松本俊一はBOAC御利用はイギリスに感じよしとありますが、クイーンエリザベス号に御乗船も感じよいと存じます。
昭和天皇◆吉田はカナダが飛行機を日本まで出すと言ってるとか言ってたよ。
田島長官◆場合によってはそういう話もできるむね松平康昌から聞きましたが、アメリカの船プレジデントラインもなかなか一生懸命で東宮様に御乗船願えればよろしいらしく、ただいま太平洋の客船はこれだけで他は貨物船でありまするが、プレジデントラインはサンフランシスコでありまするが、場合によればバンクーバーにするとのことで、そうなれば一番よろしいかと存じております。

1952年12月7日
昭和天皇◆東宮ちゃんのカナダ行き、北の方を通る飛行機はやめた方が良い。
私の北海道行きの考慮などから考えても、もしものことがあると悪いから。
田島長官◆東宮様洋行準備委員会の決定として太平洋はプレジデントウィルソン号、大西洋はクイーンエリザベス号として手紙で通告了承を得たいと存じております。
北の方の問題は今回のアイゼンハワー大統領の秘密旅行の点を考えましても、北方ソ連の方は思わしくないと存じますし、日本御出発の時は船の方がよろしいと存じますが、吉田にはカナダ行きの北方飛行機の嫌な理由は申し述べませんでよろしいかと存じます。

1952年12月9日
田島長官◆東宮様御渡英の準備委員会もだんだん進んでおりまするが、随員の方は三谷侍従長・首相秘書官松井明の他に式部官吉川重国、黒木東宮侍従、東宮侍医佐藤久もし佐藤の都合が悪しければ東宮侍医佐分利六郎。
昭和天皇◆佐分利は外科だ。
田島長官◆さようではござりますが、東宮様の御健康状態は数年承知いたしおりますゆえよ大丈夫と存じます。
今一人侍従をつけるかの問題が未定であります。東宮侍従戸田康英をつけるか否かであります。
昭和天皇◆病気ということがあるから。
田島長官◆少人数の建前でありますから。
ロンドンまでの交通はプレジデントライン号とクイーンエリザベス号よろしと決定しまして問い合せましたところ、既にだいぶ満員の様子でございます。
バンクーバー問題もどうなりますかわかりませず、場合によればカナダまで飛行機か鉄道ということかと存じます。
随員の方は判任官級としては会計の人・荷物の人・ヴァレー〔従僕〕ら3~4人というところであります。
昭和天皇◆ヴァレーは語学ができぬると困るよ。
私は原忠道という大正天皇の侍従職の属官であった人物と萩本即寿というヴァレーと二人であったが、これはフランス語ができてよかった。

1952年12月16日
田島長官◆今日東宮様御渡欧の閣議を開きましたそうで。
昭和天皇◆それはとっくに済んでたのではないか。
田島長官◆あれは御名代として戴冠式においでの事でありまして、今日はその前後に欧米各国を御旅行になるという事であります。
昭和天皇◆それで国々は。
田島長官◆ハワイ・サンフランシスコからカナダ・イギリス・フランス・スペイン・イタリア・ベルギー・オランダ・デンマーク・ノルウェー・スウェーデンそれから北米ということであります。
プレジデントウィルソン号もクイーンエリザベス号も確約できましてまず結構と存じます。
乗客輻輳とのことでいかがかと存じておりましたが。
昭和天皇◆やはり乗船してもらいたいのか。
田島長官◆その点もありましょうが、キュナード社〔クイーンエリザベス号の会社〕にはイギリス大使館から何か申したとかとも聞いております。
ただプレジデント社〔プレジデントウイルソン号の会社〕のバンクーバー問題がまだ決まりませんので。
昭和天皇◆それはどうせニューヨークへ来てエリザベスに乗るのだから、サンフランシスコに着いてもまあ同じようなものだ。
田島長官◆バンクーバー着になりますれば問題はありませんが、サンフランシスコ着の場合はカナダと相談して飛行機に願いますか汽車に願いますか決定することになります。
随員も今日閣議で了解を得まして、三谷侍従長・首相秘書官松井明・侍医佐藤・式部官吉川・黒木東宮侍従・戸田東宮侍従、小泉参与の熱心な希望によりまして決定いたし、その代りに随行の事務は3人で合計9人ということになりました。
昭和天皇◆吉田は小泉の問題はもうなんとも言わぬか。
田島長官◆小泉参与のことは熱心でありますが、一応今回の随員はこれだけということに了解はいたしました。
ただし小泉参与も1936年に洋行いたしましたきりで、戦争後の欧米の変化は以前の何十年にも匹敵いたし、東宮様御輔導役として一度視察しますることは必要という意味で、小泉洋行ということが出る可能性はあるかとも存じますが。
昭和天皇◆私の時は朝鮮人の問題がやかましかったが、私はこれはデマだと思っていたが、東宮ちゃんの身辺の問題はよく注意して。

1952年12月18日
田島長官◆東宮様御誕辰拝賀のことでありますが、新嘗祭の時 東宮様が殿上で御拝になります時、宮様〔高松宮か三笠宮〕から「前例はあるのか」とのお尋ねがありまして、「あります」と申し上げましたが、その御質問の裏には宮様方はモーニングで拝礼かと思っておいでであったかと想像されますから、
「本来は宮様方も御装束をおつけ願うのであります」と申し上げましたが、「それは嫌だ」との仰せもありました。
それから御神楽の時 東宮様御拝の時に臣下は起立いたしますが、もちろん宮様方はおかけのままであります。
これは親王として御同等とのお考えもあるかと存じまするゆえ、御誕辰拝賀となりますると宮様方の御誕辰にも東宮様が賀にお出かけになるべきかという問題もあり、真に難しくデリケートでありますため、御思召を拝したいと存じまして。
昭和天皇◆それはなかなかデリケートだが、皇太子の身位は未来の天皇で、私には叔父甥でも公には一段高いのだから行かぬでもよいと思う。

1952年12月18日
田島長官◆東宮様御渡欧の予算を政府に提出しまするのは会計の規定がなかなか難しく、昔と違って内廷もお貧乏でございまして1,500万円の基礎勘定も2内親王様の持分はお分けになり、大正皇太后〔貞明皇后〕の分は税金の残りは癩病へ御寄付になり減少いたしましたが、幸い投資の株の値上がりのために株の一部を売りますれば1千万円ぐらいできて、残りは最初の基金以上あるかと存じますゆえ、内廷基金から1千万円の御支出をお許し願いたいと存じます。
東宮様の御土産だけでも1万ドルぐらいは御入用かと存じますがこれで360万円、あと670万円は旅費の不足額補充の覚悟がいるかと存じます。
昭和天皇◆株を売るのを何を売るか知らぬが、その売られた株の会社が迷惑することはないか。
田島長官◆その点は絶対にございませぬ。
内廷会計というような名前を出しての所有の形式ではありませぬので、株式投資の金銭信託の形で信託会社が株式を持っておりますゆえ、その点の御心配は絶対にありませぬ。

昭和天皇◆子供の読むような雑誌であったが、東宮ちゃんの立太子礼が占領中であったために遅れたと書いてあったが、これも私の心地とは違った話だ。
私は11歳ぐらいで少尉となり、立太子後はすぐ東宮武官というものができた。
私は武官ほど嫌なものはないとしみじみ思った。
元侍従武官後藤光蔵は例外で、ほとんど軍のスパイで私の動静あることないことを伝えるだけの者で、こんなイヤな者はない。
それゆえ立太子礼を行えば東宮職内に東宮武官ができるから、私は立太子礼を成年後に延ばそうと終始考えてやってきたので、戦争中からずっとそのつもりであったのだ。
それを雑誌に占領中だったためというのは実におかしな間違いだ。
武官が困るので、実は侍従長と海軍のバックでいくらか抑える意味で予備役または予備にして海軍大将にしたのだよ。

1952年12月24日
田島長官◆昨日首相秘書官松井明が参りまして、
吉田首相が「カナダは招請もあることゆえ太平洋は飛行機に願った方がよい。船だとダメだ」と申しましたとの話ゆえ、
「我々責任のあります者がいろいろ研究の結果かく決めることに至りましたことゆえ、これは田島は職を賭しても動きませぬ」むね松井に申しました。
松井によりますれば、最近帰朝しました白洲次郎の説に起因しているようにも察せられますが、松井は連絡が悪いとか言うので相当ひどくやられたようであります。
書面に船のことをも書いて出したのでありますから、今更そんな思いつきで申しましても田島としては聞かれませぬ。
松井が結果を電話して参りましたのには、
「ひどい叱られ方であったが、まあ少し時を置けば」というような語調でありました。
ロンドン郊外に大使館で借りました家も、
「松平信子さんのような人が行けばよろしいが、そういう人が行かねば下宿屋みたようになるゆえやめた方がいい」と申しました由。

1952年12月26日
昭和天皇◆吉田は道路のことも改造のことも何とも言わなかった。
しかし飛行機のことは言った。
それも矛盾してることを言うのよ。
ハワイの日本人があまり上等でないからとか、船中で新聞記者に困らされるからとか言って、
「カナディアンパシフィックの北の方を」と言うから、
「私の北海道へ行くのはいかんという首相の話と、千島の北を通っていく便で行くとは矛盾ではないか。絶対に北の方はいかん」と言ったら、
「それならば南の方を通るように先方へ話してみる」と言うので、
「新しい線を慣れぬパイロットがやることは不安だと思うし、医者の言によれば飛行機は疲れるので乗った時間だけ休養とるが必要がある」と言うと、
「それならば途中ウエーキとかで御休養をお取りになればよいい」と言うが、
「ウェーキ島か何かで休んでも東宮ちゃんは休養になるかしら。島流しのような気がするだろう」と言っても、
「それではカナディアン社の方はやめます」とはどうしても言わない。
「カナディアン社の方で御心配の行かぬようにさせます」というようなことを言って聞かないのだよ。
それから「政府は少しもその決定を知らぬ」と言うから、
「そんなことはない。田島が手紙を書いたはずだ」と言ったら、
「忘れたかもしれない。そういうのは官房長官にしてほしい」というようなことを言う。
それで私は「張群事件の二の舞は困る」と言ったんだよ。
〔式典に招待するランクは各国大公使に限ると決定したため、アメリカ極東軍司令官クラークは招待しないと決まったのに、吉田首相が大公使でもなくクラークより格下の台湾特使張群を勝手に招待したので、急遽クラークも招待することになった事件〕
田島長官◆多くの人が周到に考慮した結果で、昭和陛下もそれがよろしいと仰せのものをずいぶん我を張りますものでございますなあ。
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宮内庁長官 田島道治『拝謁記』

1953年1月4日
(秩父宮薨去の御悔み言上)
田島長官◆御喪儀次第は失効いたしました皇室喪儀令を参考としてお決め願っておりますが、その喪儀令の中に直系卑属なき場合の喪主は勅定すとありまして男女の別は買いてありませぬ。
道理でおかしいことはございませぬゆえ、秩父宮妃を喪主に御勅定願いたいと存じます。
昭和天皇◆よろしい
田島長官◆大正皇太后〔貞明皇后〕の時のように国事と致しますことはできませぬゆえ、秩父宮家御喪儀と致しまして費用を要しまするので、内々大蔵当局とは話し合いをいたしております。
喪儀令によりましても御直拝はございませんし、庶民の間でも最近までは目上の者は目下の者の葬儀には参りませぬ習慣もありまするゆえ、両陛下は御代拝しかるべきかと存じます。
昭和天皇◆秩父さん医療費がかかっているだろうから、この間のだけでは足るまいから、その点よく研究してくれ。
田島長官◆御不幸に関連いたしまして東宮様の御洋行のことでありまするが、予定通り行われて結構と存じます
(と申し上しところ、それは無論との御様子にて)
昭和天皇◆3月は東宮ちゃんの壮行会や何やらあると思うし、3月は東宮ちゃんのために忙しい。

1953年1月8日
田島長官◆秩父宮薨去のため多少遅れて参りましたが、東宮様御洋行の予算の点は1億1千万円を今年度予備費で認めてくれ、秩父宮御葬儀に関する700万円も今年度予備金で出すとのことであります。
御文庫の営繕2,500万円も昭和27年度予備費にしてくれとの話でありましたが、これはやめまして昭和28年度予備金にして欲しいとのことでありまして、植物の御移植等には帰ってよろしいかと存じ同意いたしました。
昭和天皇◆それは遅い方が良いが、どうして政府は堂々と予算に組まぬのだろう。
いつも予備費支出をするが。
田島長官◆ごもっともでありまして、大蔵省の意思がどういう点かわかりませぬが、正式予算で議論されますれば衆議院には社会党左派もおりまするし、参議院には共産党員もおりまするゆえ、皇室のために議論されるのを取らぬと考えておるのではないかと想像しておりまする。

田島長官◆昨年首相吉田茂がカナダのことを申し上げました後の円満解決の旨は申し上げましたが、〔吉田が皇太子外遊に際し船でなくカナディアン航空を使うことにこだわった件〕
内閣官房長官緒方竹虎が「期間・随員全員の名前等と共にウィルソン号およびエリザベス号のことを長官の手紙で見て閣議で決めたので、いまさらカナダなどというあなたが悪い」と申しましたところ、
吉田首相は「そんな手紙は覚えてない」とのことで、
緒方は「その手紙を見た以外にルートのことを知るはずがない」と言い、
吉田首相も「そうか」と了承しました由でございます。
今までの官房長官と違い緒方はそれはあなたが悪いとなかなか平気で申すらしいのでございます。
昭和天皇◆緒方はいいねー。吉田は非常識だよ。
日本の飛行機会社のことなら首相の力でどうかするということはわかるが、
カナダの航空会社を「南を通して御覧に入れます」などと言うのおかしいよ。

1953年1月27日
田島長官◆東宮様御出発前の御行事のことでありますが、2月23日ぐらいからお出かけ願いまして。
昭和天皇◆2月23日か、寒い時だね。
東宮ちゃんの体大丈夫か。
田島長官◆その点は侍医の意見も聞きまして定めますが、3月には東京における御行事が次々におありかと存じます。
昭和天皇◆そうか。それでも寒いようだ。
田島長官◆外国で無名戦士の墓に御参拝でありましょうから、靖国神社という案がありまして。
昭和天皇◆無名戦士は私もみな行ったよ。
田島長官◆靖国神社となりますると明治神宮を先にということになります。
昭和天皇◆むろんそれは先だよ。
田島長官◆東宮様も一度歌舞伎を御覧がよろしいかと準備いたしております。
昭和天皇◆皇族や兄弟の会合はなるべく東宮ちゃんの出発に近接して欲しい。
順ちゃん〔順宮厚子内親王〕には非常に忙しい時になるそうだから出発と近づけてほしい。
照ちゃん〔照宮成子内親王〕の産後も遅い方がいいから。

1953年1月28日
田島長官◆東宮様御出発前の御日程のことにつきまして、東宮様御自身御旅行等は早くしておしまいになり、23日から関西へお出かけになり、月末に御帰京後一週間くらい葉山御休憩の御希望であります。
御洋行前の御勉強が御負担が多いようでありますが、万全を期しての御講義と思いますが、お疲れでは何ともなりませぬから。
昭和天皇◆それは適当にしたらいいだろう

1953年1月30日
田島長官◆東宮様の御出発前の御日程は、2月23日から3月1日まで関西御旅行、3月2日多摩へ御参拝になり、葉山へ御休養におでかけ願い、3月10日関係国大公使と御陪食、3月11日閣僚・両議長・最高裁判所所長と御陪食、3月17日に随員・随行員一同両陛下に御相伴仰せつけられますようお願いいたします。
3月18日に外交官カクテルパーティー、3月20日に先生・旧奉仕・現役宮内官で御茶を賜うことにし、3月22日御学友の茶会、3月23日は御装束を召して三殿参拝、3月27日菊栄会御陪食、28日両陛下・直宮・御兄弟方の御晩餐、3月29日御文庫で御内宴、3月30日皇居で御食事・御出発、4時50分御出帆と予定いたしました。
昭和天皇◆よろしい。
田島長官◆汽車でありまするが、先だってお乗りの時は元皇族用で戦後米軍高官用となりました物を修繕して東宮様用と致しましたところ、動揺が殊のほかひどく、今回は第2号の昭和皇后の御車をお許し願いたいと存じます。
昭和天皇◆よろしい。ただ赤くて女らしいが。
田島長官◆大正皇太后〔貞明皇后〕御乗用の第3号はもっと女性向きと伺いました。
昭和天皇◆よろしい。
田島長官◆随員は支度料として7万5千円ないし15万円出ますが、そんなことでとうてい洋服はできませず、もとより備品の形で銘々のを作るのでありますが、予算の97万円でも不十分でありますので、別に内廷費から140万円ほどいただきたい存じます。
昭和天皇◆よろしい。
田島長官◆東宮様の御調度は主として外国でお作りの分として宮廷費で210万円認められておりますが、お身回りの化粧鞄とか燕尾服のワイシャツの真珠のボタンとかいろいろありますので、50万円ほど内廷費からいただきたいと存じます。
昭和天皇◆よろしい。
田島長官◆靖国神社は明治神宮の後で適当の日に御参拝。
昭和天皇◆やはり靖国神社へ行くのか。
田島長官◆ハワイへおいでになれば442連隊などの墓へおいでが想像されますから。
昭和天皇◆それはちょっと違う。
田島長官◆違いまするが、敵国たりし国の無名戦士の墓へ参られれば我国の戦死者のためには当然。
昭和天皇◆そういう風な遺族側の考えか。

1953年2月2日
昭和天皇◆このあいだ東宮ちゃんが洋行のために少し詰め込まれ過ぎではないかと言ってたので、ちょっと聞いてみたのよ。
そしたら「ええ、少し」と言ってたが、これは遠慮して言ってると思うから少しでなく疲れてると思うから、いろいろ勉強準備するは結構だが、病気になっては何もならぬから小泉参与にでもちょっと言ってくれ。
私など行く前に何もしなかったよ。

1953年2月11日
田島長官◆仰せのありました東宮様への御洋行前の御勉強のことでありますが、小泉参与に伝えました結果半減に致しました由であります。

田島長官◆東宮様の御帰途には、太平洋および太平洋とも飛行機御用いのお許しを得たいと存じます。
近距離としましては大陸は、SASまたはKLMなど安全優秀な飛行機会社のものに限られております。
昭和天皇◆大西洋はアメリカの飛行機・太平洋は他のアメリカの飛行機が良いと思う。
田島長官◆パリ御発ではありますが結局ロンドン経由であります。
やはりBOACの方がよろしいかとも考えております。
太平洋はパンアメリカン機で結構と存じられます。

1953年2月17日
田島長官◆東宮様の歌舞伎は聞写真の騒ぎが大変で、小泉参与など尻もちをついたと申しておりました。
松竹社長大谷竹次郎はなにぶん広告的でありますから。
〈狂い〉が一人ネクタイを差し上げると申し騒ぎましたそうでございます。
御人気は無くても困りますが、難しゅうございます。
歌舞伎はあまり面白いともお感じでなかったように伝え承りました。

田島長官◆東宮様御洋行の件、スウェーデンの御都合でドイツの方が先になりましたために、KLMはないことになり大陸はすべてSASのみとなりました。
SASはスカンジナビア三国経営で大丈夫でございます。
デンマークのアクセル殿下が重役と承っております。
大西洋はBOAC・太平洋はパンアメリカがよろしいとのことで、連絡しますれば特別機が出るかもしれぬとのことでありました。

1953年2月23日
田島長官◆吉田首相は小泉参与外遊の必要が変わりませんためか、全然別の観点から小泉洋行の説がでまして、東宮様の先生として15~16年前に洋行したのみでは不十分で、戦後激変の欧米を見学することは御教育上必要という立場で、この際あっさりこれをお許し願いたいと存じます。
昭和天皇◆よろしい。しかし全然別であるということをはっきりさせてくれ。
田島長官◆どうせ同行いたしますならば、往来ででも戴冠式を見学した方がよろしく、駐英大使松本俊一はそのためには座席の予約を早くする必要もあると申しましたゆえ、その方面だけに話せば出発は東宮様お出かけ後でそれまで秘密にすれば。
昭和天皇◆いや、いろいろな事はじき漏れるから、時を延ばすよりも東宮ちゃんとは全然別だということをはっきりしてもらわねば困る。
田島長官◆先日昭和陛下からモーニングの範囲が広すぎる御話がありましたが、今回の東宮様御出発は御旅装ゆえ背広と存じますが、お見送りの服装はどうかという問題であります。
吉田首相は昭和陛下の那須へ行幸の時すらモーニングでありますゆえ。
昭和天皇◆それは背広と決めて、首相がそれ以上のものを着て来ても黙認するさ。
去年の国体にどこかの市長が燕尾服を着てたようなものだ。

1953年3月5日
田島長官◆先にお許しを得ました小泉洋行の件は東宮様とは全く別個という話を早く発表することにつきまして、東宮様御出発前に発表いたしますれば別個の事由をつけましても世間で何らかの関係ありと取りますることは必定ゆえ、東宮様御出発後に文化施設とかロックフェラー財団仕事の打ち合せのためとか称して発表しました方がかえって人の疑を起こさせぬようでありまするゆえ、その方向で取り計らいをお許し願いたいと存じます。

1953年3月27日
昭和天皇◆沼津を全廃するという話だが、葉山も全廃して別にどこか考えてもいいと思う。
油壺の近くの初声というのをちょっと考えたが、結局海軍にやってしまった。
東宮ちゃんはあんなに軽井沢が好きだから、軽井沢にもう一つということも考えられる。

1953年3月31日
田島長官◆昨日東宮様御機嫌良く御出発遊ばされましておめでとう存じます。
昭和天皇◆テレビで見た。
とても明瞭で私はあれほどまでに進歩しているとは思っていなかった。
しかし東宮ちゃんばかりでなく、大使連中や吉田の顔なども見えてる方がもっと興味があるのだが。

昭和天皇◆葉山と沼津をやめて東宮ちゃんも希望してるから軽井沢とどこか南伊豆の温泉と採集のできる所と言ったが、軽井沢はやめて葉山の本邸は残し、沼津の代わりに南伊豆の温泉のある所と代える案がいい。
田島長官◆案と言うよりも構想と申すべきもので、数年または十数年を要するものもあると存じます。
(すぐにも御用邸の改善ができるとの御予想でありしか、案外の御心持ちらしく)
昭和天皇◆十数年もかかることなら飛行機で行くということも考えねばならぬ。
田島長官◆那須のごときも近所の共産党が何か言ってるという事でありますが。
昭和天皇◆どういう事を言うのか。広すぎると言うのか。
田島長官◆どういう事を主張しているか判然といたしませぬが、広すぎるという事かも知れませぬ。

昭和天皇◆田島は東宮御所を子供さんと一緒と言っておったが、果たしてその同居説は行われるか。
東宮ちゃんの時 西園寺公望なども強硬に言ってああなったことで、ヴァイニング夫人から聞かれた時には家が狭いからと言ったほどで、私の本心はもちろん同居を希望するのだが、元侍従次長鈴木一でも元侍従次長木下道雄でも元帝室林野局長官岡本愛祐でも強い西園寺主義の信奉者で、ヴァイニング夫人の時でも今更従来の主義を変更遊ばしては困りますと言うのだから、容易にできるとは思えない。
三笠さんのお子さんが果たしてどういう風におなりかは、注目すべきことだと思う。
私たちのように別居で養育教育されたものに比して、旧皇族では御同居でお育てになった方々の方に問題が多いということも考えてみなければならぬ。
これはやはりお甘やかしになるためではないかと思う。

1953年4月2日
田島長官◆吉田首相から電話がありまして、小泉洋行はどうなっているのかとのことでありまして、おかげさまで東宮様の御出発までは秘密が保たれましたゆえ、別のことだという御思召に添いますことは容易になりましたが、吉田首相は大使にするなど電話がありまして、それはダメでしょうと申しておきましたが、外務省の参与とか何とかになるのではないかと存じます。

1953年4月10日
田島長官◆東宮様ハワイで具合良く御旅行のようで誠に結構と存じます。
昭和天皇◆吉田の言ったような飛行機でなくて良かったよ。
田島長官◆しかし御署名ぜめになっておいでの御写真が出ておりましたが、お帰りになってああは参りませぬ。
昭和天皇◆郷に入っては郷に従えということもある。
もっともサインは日本にいた時も学習院でやってたようだ。

昭和天皇◆同居問題だがねー。
あれはみな一致して反対で、侍従長鈴木貫太郎も元侍従次長広幡忠隆も女官がいるからダメだと言うので。
田島長官◆西園寺公望も反対と承りましたが、直接昭和陛下に申し上げましたでしょうか。
昭和天皇◆いや、宮内大臣湯浅倉や広幡を経ての話で間接だ。
間接だが西園寺もその説で決まった。
女官はそんなことはない、御同居で結構だという考えのようだった。
私はむろん賛成で、成年に達するくらいまでは同居で教育する、結婚すればもちろん別居するという考えであったが、みな反対でそうなった。
日本では奉仕の観念とか教育の関連とがどうしても矛盾する面があるためダメということだった。
(これは初めて伺う言葉だが、心中簡明で要を得た反対論の真髄と思った。
どうも昭和陛下は同居希望は仰せになりつつも、一面別居の方教育上よろしくにあらずやとの強い疑問を心中に潜在的に御抱持になるものか、この際表れ来るものかと拝察せらる)
昭和天皇◆もし手元で教育ということになると、学校へ対しての父兄は皇太子妃または皇太子が直接学校に当るのか。
将来は天皇・皇后が当たるのか。
田島長官◆それは同居別居とは関係ありませぬので、関係の者が学校へ出ますれば結構と存じます。
昭和天皇◆直接手元で養育すれば父母として子供のことを最もよく知ってるゆえ、学校に対して行くというこが起きてくるのではないか。
田島長官◆そういうことはないと存じますが。
昭和天皇◆家庭教師は置くのだろうなー。
三笠さんがいいモデルだ。
御自分の御意見でああやって教育をしておられるが、三笠宮妃の健康が悪い。
あれは皇族の立場としての仕事の他に、普通の家の母としての仕事を多くやりすぎられるためではないかしら。
三笠さんは私達より長くを大正皇太后〔貞明皇后〕のそばにおられたゆえ、高松さんなんかよりワガママなところがあるように思う。
私は大正皇太后〔貞明皇后〕とは時々意見が違い、親孝行せぬというようはことにもあるかと思うが、同居が長ければもっと意見が一致するのかもしれぬが、時代の空気にもよるし、内閣官房長官緒方竹虎のような人でも天皇に父母ナシ的な考えといつか聞いていたようなわけで、元来私も希望したことゆえ、子供も同居すれば増築可能という建築方針はいいと思うが、物には一利一害でこの問題も難しい。

1953年4月14日
田島長官◆小泉は来月顧問という形で出発するそうでございます。
東宮様御出発後 日も経ちまして別途である意味は十分と存じまするが、学習院長安部能成や作家長与善郎らの参りましたロックフェラー財団の人選委員でありますゆえ、その面の方とも連絡するという建前でありますので結構かと存じます。

1953年4月16日
田島長官◆小泉洋行の件、外務次官にロックフェラーの文化交流要件のためということを持ち出しましたところ、困る顔つきであれは政府は関係せぬ建前ゆえ外務省顧問の資格では困るとの話のため、やはり有余年欧米を知らぬため現地につき見学視察のことは東宮様御教育上必要にて洋行という事の方ありのままで良いとの旨ゆえ、それで結構と存じまする。

1953年4月21日
田島長官◆東宮様のニュース、実にお楽しそうでございます。
昭和天皇◆吉田が飛行機なんとか言ってたが、船の方が良かったよ。
楽しそうなのは麻雀など好きだからねー。

1953年5月5日
田島長官◆三谷侍従長〔皇太子外遊の随員〕の手紙によりましても東宮様御元気の御様子でありまするが、カナダは相当日程が混んでおりましてお疲れになったのではないかと存じます。
夜分お遅いようでありますが、朝は寝坊遊ばすようでおよろしいかと存じますが、とにかく大西洋の船では御休養ができたかと存じます。
(と申し上しところ、夜の遅いことはあまりお好みならぬ御様子を拝す)

田島長官◆チャーチル首相の午餐会の様子は、集めた人や演説等なかなか考えたやり方のようで良かったと存じます。
〔1953年04月30日チャーチル首相が午餐会を主催し皇太子を招く〕
ニューカッスルは御歓迎申し上げぬということでなかなか難しいようでございますが、
〔地元イギリス人捕虜団体の抗議により皇太子のニューカッスル訪問が中止になる〕
カナダやアメリカのように御歓迎ばかりでなくニューカッスル見たようなこともチャーチル首相の配意の午餐会などあってみますれば、かえって御修行になっておよろしいことと存じております。
昭和天皇◆私が行った時には大きなコールストライキにぶつかった。
そのためちょっと不便をしたこともあったが、その際のイギリス国民の落ち着きと同時に当局が着々対策を立ててやっていくところを見て大いに良かったと思う。
何と言っても立憲君主制としてはイギリスはいいからねー。

1953年5月11日
昭和天皇◆小泉との話に東宮妃〔お妃候補〕の歳のことも言ってたが、「これは結婚の時期にもよる」ということを言っておいた。
それから「宮内庁長官も婚約御結婚までの間は短いがいいと言っていて、私も短いが良いと思う」と言っておいたが、同時に矛盾であるが東宮妃となってから東宮妃のことを修行すればいいという理屈かもしれぬが、それはちょっといかぬゆえ、その準備のためには少し期間が必要だ。
それから婚約中交際するか否かの問題だが、「私の時代はなかった」と言った。
しかしこれはあった方が良いと思う。
田島長官◆それは無論のことでありまして、内親王様でも明治時代と違い、孝宮和子内親王・順宮厚子内親王は御交際になりました。
昭和天皇◆いや、照ちゃん〔照宮成子内親王〕の時と順ちゃん〔順宮厚子内親王〕の時と違うのだもの。

1953年5月12日
昭和天皇◆ニューカッスルの問題はなきも、朝鮮人が危ないというので上陸に困ったこともある。期間は6ヶ月でだいたい同じだが、船も軍艦で往復の期間の方が滞在期間より長いので、今度のように往復期間が短縮されれば、同じ期間でも東宮ちゃんはずいぶんいろいろのところへ行ける。

昭和天皇◆東宮ちゃんの結婚話だがねー、婚約と結婚と期間が離れるのはいかんと思うが、同時に東宮妃となり将来の皇后となればそのための用意というものはどうしても特別にしなければならないが、これも試験勉強みたようなものだが必要だ。
その他にやはり普通の家庭の妻のようなことも必要だから、その点なかなか難しい。
田島長官◆平民の我々でもちょっとした結婚ならば調度品の調整等に半年かそこらはかかりまするゆえ、東宮妃ということになればそういう物的準備が6ヶ月以内というようなことは考えられませぬ。
1年くらいはかかるかと存じまする。
そのうえ範囲は場合により従来のような皇族とか公卿・大大名の公爵・侯爵とかいう者に限りませねば、新たに東宮妃に上るということになりますれば、余計特別の御教育が要りまするし、なかなか東宮妃の問題は容易ではありませぬ。
それよりも私どもで候補者数名または十数名を選定いたしまするのが大変でございまして、門地・人物その他の要件がいろいろありまして、どうか良い方をと念じておりまする。
御結婚は内廷のことかもしれませぬが、皇太子の御身分上内廷だけとも申されませぬかもしれませぬゆえ、賢所大前の儀とは参りませぬが、それらの点も研究せねばなりませぬゆえ、孝宮和子内親王・順宮厚子内親王の御結婚も大切ではありますが、皇室に血統の入りますることゆえ一層重要でありますので大変のことと存じております。
また御母にならせられまする昭和皇后の思召はいかがかと存じ、女官長保科武子を経て伺いましたが、特別の御話はなく「優しい人がいい」というような御話がありましたが、昭和陛下の思召はいかがでございましょうか。
昭和天皇◆皇后となる資格を備えなければならず、外国との交際もあり東宮ちゃんは外国語ができるから外国語もできなければいけないし、また普通の家庭の妻としても要素がいるからなかなか難しい。
あまりおとなしくても困る。
物も言わぬような人は気持ちがわからぬし。

1953年5月18日
田島長官◆吉田の逆コースと言われますのは、昨日なども交通規制に違反で平気で飛ばしまするし、つまらぬことには気を用いませぬから。
昭和天皇◆だからワンマンだと言われるのだよ。
田島長官◆ワンマンも結構ですが、つまらぬことでワンマンはつまらぬと思います。
宮内庁の責任者としましては、内廷費および皇族費の増額の問題・三笠宮の御洋行の問題・常陸宮御成年の問題等、政府と篤と協議すべき問題を持っておりますので、皇族費の問題は現に秩父宮妃で迫られておりまするし、三笠宮はどうもいろいろな面から考えましてできるだけ早く御洋行を願った方がよろしいと存じます。
御兄弟中お一人だけ御洋行のないこと、今回は東宮様がお出かけになりましたことなどで、御心持ちの上からもおよろしくない点がありましょうし、また思想その他御行動の上にも多少改めていただきたいためにも、この際どうしても御洋行が一番よろしいとの結論は動きませんので、昨年メーデーの容疑者の貰い下げを遊ばすなどは御軽挙と存じまするし、今年のメーデーに秘書高尾良一がちょっと伺いましても、「外出はするが行き先は言えぬ」とのことであったとかで。
昭和天皇◆三笠さんは万一の時には皇位継承の権件がある方だという御自覚が足らんと思う。
洋行は良いと思う。
田島長官◆ただそれにはお付きの人が良い人が見出されねば案が良くても実行できませんので、東宮様の随員首席も苦労いたしましたが、三笠宮の随員も非常に人選が難しいと存じます。
昭和天皇◆東宮ちゃんの場合は何も輔導は要らんが、三笠さんの場合はそうでないから人選は難しい。
(少し東宮様偏愛と言うか公平なる御意見とは拝承せざるも要点は三笠宮につき)
田島長官◆東宮様は御教導するだけでありますが、三笠宮には御言動についてお止めしたりお諫めしたりする必要がありますので非常に難しいと存じて、今申した人と今一人従僕でもありませんがそういう風の人と二人は入用かと存じます。
侍従長と式部官長とに相談致しまして、両者のとの意見まず一致したのは元上海総領事日高信六郎でございます。
田島は一度も会ったことのない人でわかりませんでしたので、先日小泉の送別会の節一所に食事をいたしましたが誠によろしい人のように存じました。
昭和陛下も御通訳もいたしましたことゆえ御承知かと存じますがいかがでございましょうか。
昭和天皇◆いい人だよ。
通訳もしたが、大使の時に私もよく話を聞いたが、いいと思う。
田島長官◆小泉参与もいい人だと思うとの話でありましたが、果たして三笠宮に強く御意見を申し上げるというような強さがありまするか如何と存じております。
昭和天皇◆いや、それは南支の大使をしてて、あの軍の力の強いところであれだけやってたから相当やれると思う。
あるいは東宮大夫に適任かもしれぬね。
田島長官◆常陸宮の御成年も2年半の後で一家御創立の問題もありまするが、高松宮・三笠宮とも御直宮は軍人としてお立ちになる制度下で今のようにおなりになりましたのですが、常陸宮の場合は果たしてどういう御職務をなさいますかも問題であり、大学御進級の科もお決め願いませんければならず、ほぼこの方がよろしいかと一応結論を得て、学校での教育責任者であります学習院長安倍能成の意見を聞く必要もありますので、それらを総合いたしまして昭和陛下のお許しを得たいと存じておりまするわけではありますが、この問題とても政府の了承に関係を持ちませんするし、いずれに致しましても安定政権が望ましく、目下新聞は孝宮和子内親王・順宮厚子内親王の御結婚をスクープできなかったので残念がり、東宮妃は何とかしてスクープすると申しておりますそうでありますが、これは内親王様と違い皇室会議の議を経なければなりませず、どうしても政局の判定は望ましいのであります。

1953年5月20日
昭和天皇◆〔平成天皇の〕東宮妃の問題が『婦人クラブ』という雑誌に写真入りで出てるよ。
田島長官◆何人ぐらい出ておりますか。
昭和天皇◆さー、はっきりは知らんが10人ぐらいは出てる。
久邇さん〔久邇宮通子女王と久邇宮英子女王姉妹〕なんかも出てるが、あれは大谷のこの前の関係もあり到底ダメな話だ。
〔香淳皇后の妹東本願寺大谷智子が孝宮和子内親王を子大谷光紹の妻に望んだが、遺伝学の見地からイトコ結婚を避けたい皇室側から断った〕
こちらの調査の参考になるぐらいではあるが、ああいうものは困る。
田島長官◆各新聞スクープに大熱心で困りますが、さりとてどうすることもできませぬ。
むしろ今度他の婦人雑誌も出ましてかえって興味が薄くなりますかもしれませぬが、宮内庁次長の話では新聞の連中は大変な意気込みとのことであります。

1953年5月27日
田島長官◆田島拝命直後、上野の美術展覧会への行幸啓の時、宮内庁のしきたりもわかりませず、美術関係の人々と御接触結構と存じ、相当引下がって美術関係の人が昭和陛下のおそばへ参りますよう致しておりましたが、共同通信記者田中徳に注意されまして、長官・侍従長は昭和陛下の少なくとも1メートルぐらいのところに侍しておらねばいかんと注意を受けたことを今でも記憶いたしております。
東宮様・常陸宮ら修学旅行においでの際などは他の同級生との御行動上伝育官が多少離れますることはありましょうし結構とも存じますが、昭和陛下の場合果たしてどの程度がよろしゅうございましょうか。
昭和陛下のように今とは全く違った空気の下にお慣れになっておいでの方と、東宮様ら時勢の推移に関連して御成人の方との間にも自然差異あるべきは当然でありまして、どういう風にするが一番よろしいか研究いたしたいものと存じております。
昭和天皇◆イギリスの風を見て我国の制度も新しく見直し、改めるべきは改めるということは望ましい。

1953年6月7日
田島長官◆小泉参与〔皇太子外遊随員〕が着英後の手紙が着きまして、一部読ませていただきます。
(とて大部分読み上ぐ。
あまり御興味深く御聴取のように拝せざりしも、後刻昭和皇后の御思召にて女官長より大要聞きたしとのことで、ついに書面を御手元に差し出せしところを見れば、多少御興味ありしか)

1953年6月17日
田島長官◆戴冠式の天然色の活動写真はいかがでございましたか。
(と申し上しところ、さほどの御感興でもなき御様子)
田島長官◆明瞭でございましたか。
昭和天皇◆明瞭は明瞭だが、果たしてあの色が実物通りかどうかは、実物を見ぬから分からぬ。
田島長官◆秩父宮妃はテレビを3回もご覧になりましたそうで、儀式的な一部の他は全部見えて1時間40分とかかかりますと承りましたが。
昭和天皇◆それはテレビと言っても写したのだから結局映画だろう。
(さほど御覧になりたき御様子にも拝せず)
田島長官◆東宮様のイギリスの御行事が無事お済みになりまして誠に100点と存じまする。
オックスフォードの風邪も戴冠式の前にお軽く済みましたうえ御警戒のお役に立ち、また御歓迎ばかりでなくニューカッスルのような程度のものもありましたことは、かえっておよろしかったと存じております。
〔地元イギリス人捕虜団体の抗議により皇太子のニューカッスル訪問が中止になる〕
昭和天皇◆よかった。
しかし読売か何かに書いてあったが、皇太子は順番が下で秩父さんの時は一番だったということを単に言っているが、皇太子でも秩父宮でも個人としてでなく国の反映であるのだから、日本の国力がそれだけ下がったということに感慨無量でなければならぬのに、読売はそこへ来ていないがどういうものか。

1953年7月1日
田島長官◆皇室経済法および同施行法改正法律案が両院を通過いたしまして、今日官報号外で公布されました。
昭和天皇◆昨日署名したよ。
田島長官◆昭和陛下も内廷費を3,800万円に増加する時 せんでもよろしいとの仰せで、右の次第で今後はちょっと増額は差し控える方が賢明ではないかと考えております。
したがって三笠宮の御洋行も内閣では昭和29年度の費用に計上しますことは結構と申しましても、考える必要があるのではないかと思っております。
政府は東宮様の御洋行1億1千万円も秩父宮御喪儀費もみな予備費支出でありましたが、予算に入るとなれば議会で議論の対象となりますゆえ、よほど慎重に致さねばと存じております。
昭和天皇◆私は三笠さんはイギリスよりアメリカの方がいいと思う。
イギリスはああいう空気もあるし。
田島長官◆アトリー前首相の方でも保健大臣ベヴァンのような左がかりの人もおりますゆえ、イギリスでない方がよろしいかもしれませぬ。
昭和天皇◆三笠さんは東宮ちゃんと違い、洋行に大きな意味はないから。
田島長官◆それはやはり見聞を広められ、また国外から日本ご覧になるということはございましょうが。

田島長官◆共同通信記者田中徳が帰りまして早速宮内庁長官室に参りまして話をしましたが、侍従が言葉の関係で御供に不適な場合があり、首相秘書官松井明のみの時があり、松井は紳士的でありますが侍従がおらぬのはどうかと思うとの旨でありますが、大使館の書記官が何かが参ることもありちょっとそこに面白くない面もあるように感じたらしいことを申しておりました。
田中は「三谷侍従長に言ったって、どうするという人でもなし」というような調子でありました。
昭和天皇◆そうか。
だから戸田東宮侍従〔皇太子外遊の随員〕や黒木東宮侍従〔皇太子外遊の随員〕には英語をやっていくようにしたのだが。
田島長官◆にわか仕込みではどうにもなりまぬが、これはまあいろいろの関係もありますので、御腹へお入れ願います。
昭和天皇◆私も一度田中の話を聞こうか。
田島長官◆記者クラブの連中の評判では少し感覚がずれておるようなこともありますが、一面クラブの者一同一度拝謁したいという希望もありますので、那須で御散策の折〈嚶鳴堂〉あたりで田中その他2~3人の帰朝者を含み、新聞社のクラブ員とちょっと御話願う機会を作りたいと考えておりますから。
昭和天皇◆それはいい。お茶でも出して。

1953年7月10日
田島長官◆内廷の基本金1,500万円は幸いに株式となっておりました分が騰貴いたしましたため、東宮様に1千万円をお持ち願いましても1,500万円以上はありまする勘定で結構な結果ではありますが、株式への投資は慎重に致しませねばこれと反対の場合も生じ得まする理屈でありますゆえ、先日昭和陛下に内廷費の増額のことを申し上げました節、それは要らぬとの仰せで、皇族費は確かに赤字が出ますゆえ、増額案を出します際同時に内廷費も増しませねば、てにをはが合いませぬと申し上げました通りゆえ、ミンクの外套の問題も昭和皇后の御料として恥かしからぬ物でなければ、安くてもかえって無駄に帰しまするゆえ、今日国産の最上30何万円とかでお決めになりました由。

1953年7月14日
田島長官◆昨日小泉参与〔皇太子外遊の随員〕から来信がありまして、エリザベス女王の御評判のとてもおよろしいことと共に、夫のエディンバラ公が男の男というので男の好く男と言うので大変評判のよろしいことが書いてありました。
小泉の手紙によりますと、東宮様の御意思は比較的早く御結婚になりたいらしいのでありますが。
昭和天皇◆寂しいのだろう。
田島長官◆それで早ければ先だって昭和陛下が年齢は5つ6つの差がいいとの仰せが、短縮しませんと東宮妃になる方の年齢が足らぬことになり、お歳が近き候補者が狭められることになりますが、先ほどのように女王陛下の御徳も配偶者の御人柄で良くなりますゆえ、東宮妃の御選択はよほど慎重でなければなりません。東宮様の学習院における単位の記事は御覧になりましたでしょうか。
昭和天皇◆見たよ。
実は今日聞いてみようと思っていたところだ。
田島長官◆田島は東宮様は必ずしも学習院御卒業の必要もなく、また御卒業になりたければ5年おやりになりましても結構であり、いずれにしましても特に学習院に頼みまして個人御教授の単位を勘定に入れる無理をすることはまずいと存じております。
昭和天皇◆私は5年に伸ばすことはいかんと思う。

(その理由は御学友が変わるからいかんとの仰せゆえ)
田島長官◆田島が学習院御卒業になりませんのでもよろしいと申し上げましたのは、単位の御勉強のためではなく同年輩の者との切磋琢磨が主眼でありまして、1年多くおいでになってもよろしいかと存じます。
(御学友が変わるのは悪いからそれは反対だと非常に強く御主張になる)
田島長官◆しかし寮は上級も下級もあり、東宮様は高等科時代の優秀学生とは東大に入りましても御文通うもありますようでありますし、さほど違いはありませぬと思います。
(何としても御聞きなく、数回強く繰り返し)
昭和天皇◆場合によったらこの際を機として学習院はきれいさっぱり辞めて単独で勉強することにするのがいい。
(と大声にて繰り返し仰せ)
田島長官◆とにかく小泉帰朝後よく相談の上のことにいたしたい。
(なおも「この際を機会に学習院ときれいさっぱりした方が良い」との仰せ)

1953年7月20日
田島長官◆朝日新聞でなかなかやかましく東宮様御進学問題を扱っておりまするが、きれいさっぱりとの思召も承りましたが、きれいさっぱりとなりますれば、何か東宮職側が要求でもして、それが不可能となってきれいさっぱりとなったという風な誤解があるかもしれませぬ点も考えられ、またいろいろ世間の議論になっておりますゆえ、とにかく東宮様御帰朝まで、御教育上の責任者小泉の帰朝まで、この問題はそっといたす方がよろしいかと存じます。
昭和天皇◆この前学友との関係からもきれいさっぱりと言ったが、よく考えると今後東宮ちゃんは公務に出る場合も多くなり、普通の学生のようにはいかなくなるから、何年いてもダメということになるゆえ、あれはどうもきれいさっぱりがよろしい。
(この前の思召を一層理論詰めの御話にて、根本には東宮様に対する例の身びいきにて、完全にお出来上がりのごとき御前提にて、その御前提の上に学習より公務に御多忙との御考をお立てのように恐れながら拝察せらる節あり。
これはかねて小泉と申し合せての大方針とも反することゆえ、小泉帰朝後よく熟議し、一同さよう考えますとて昭和陛下の御再考を厳粛にお願いする他なく、そのためには昭和陛下の思召に添わぬ言葉を時々申し上ぐる他なしと思う。
これは難問題となる可能性あり、昭和陛下の御聡明をもってしても、この肉親の方々に対する無批判的には恐れながらご感心申し上げ得ず、心中永嘆す)

1953年8月1日
田島長官◆小泉参与〔皇太子外遊の随員〕は今少し内面の問題についてあるよう願わしく、6ヶ月間のこういう御旅行は最大限度であって、早くお帰りになってまた内面的な御修行遊ばすことが必要だとの旨を書面で申して参りました。

1953年8月11日
田島長官◆昨日国際電電社長渋谷敬三の代理としまして重役福田耕が参りまして、東宮様と国際電話で御話を一度遊ばしてはとのことでありました。指図は禁止しましても事実上は聴き得るのでありますから、傍聴は防げませぬ。時差の関係もありますと申しましたところ表を送ってくれまして、両方とも御睡眠でない時に可能であります。
昭和天皇◆それはもうやめよう。
もしそういう通話をすれば、今後大統領などから電話があっても出なければならぬ。
(国際電話は昭和皇后もお進みなし、ヤメとのこと)

昭和天皇◆ニクソン副大統領の来ることは宮内省としてもよく考えておいてくれ。
この前バークレー副大統領も来たが。
田島長官◆あの時は平和克復以前でありましたので君主国の皇太子同様の扱いということで、御陪食もあり二重橋から入れましたが、今回は平和後でありますゆえ、前例もよく調べまして。
昭和天皇◆皇太子とすれば東宮ちゃんが答礼に行くということも考えられる。
(またしても東宮様を完成とお考えの前提で、御帰朝後国事に引っ張り出しになりたき御様子見ゆ。
これは今後の東宮様根本方針に関するゆえ、仰せに異論あるも小出しに反対申し上げず、小泉とも相談・方針確立の上はっきり申し上ぐる心組にて、「まだ時間もありまするゆえ」と申し上ぐ)

1953年9月14日
田島長官◆東宮様のスイスの御疲労はやはりお疲れかと存じまするが、東宮侍従黒木従達〔皇太子外遊の随意〕の手紙にて(御洗面の際 青くなり倒れられたことは申し上げを控え)お元気でアメリカお出かけになりましたようで、秩父宮のお話では主役ではないとの仰せでありましたが、その通り戴冠式は何でもありませんでしたが、その後各国では全て主役でありまするからお疲れかと存じます。

1953年10月7日
田島長官◆東宮様羽田までお迎えのことに関しまして私どもの申し上げ方が不備でございましたために、昭和陛下に御心配をおかけ申し上げました結果となり誠に恐れ入りますが、全員おいで願うことは都合が悪いので、御希望の方々を少数と存じておりましたのでございますが。
昭和天皇◆私は皇族代表は常陸さんだと聞いていたので、高松宮妃などが行くということを聞いて驚いたのだよ。
田島から常陸宮が代表と聞いていたから。
田島長官◆田島も手続がございまするのでそれも調べましたが、飛行機が遅れた場合にどうするかとの御下問に対して菊会親睦会をお延し願う他ないと申し上げましたのみで。
昭和天皇◆田島から聞いた。
常陸宮とは言わなかったかしらぬが、常陸宮になるだろうと言った。
(記録を見た上でのことなれど、田島から聞いたと強く仰せゆえ)
田島長官◆それでは田島の思い違いでございましたかもしれませぬ。
そのために御心を煩わしまして申し訳ございませんでした。
昭和天皇◆私は自分で行きたいのだがいろいろの都合で行けぬのだが、一親等が行かず二親等が行くなどということはおかしい。
皇族代表が常陸宮だからそうかと思ってたのに、高松宮妃や秩父宮妃が行くと聞いて驚いたのだよ。
(羽田までお出かけがさほど重大な親等問題ではなしと思うも)
田島長官◆それでは昭和陛下の御思召を伺いまして考えたいと存じまするが。
昭和天皇◆常陸さんは行く。
それから照ちゃん〔照宮成子内親王〕なんか6人は菊栄親睦会の枠外でみな行く。
それから皇族さんも行かれるということだ。
田島長官◆それでは清宮貴子内親王は学校の御都合でなくてもこれはよろしゅうございますか。
昭和天皇◆それは都合で行けぬのだからよろしい。
田島長官◆大勢さんですと東宮様の御行列前に皇居へ御出発願う手順がうまくいくかどうかを心配することから起っておりますが、照宮ら御六人おいでならば菊栄親睦会の御方でありまするから他にはなくともよろしゅうございますか。
昭和天皇◆いや、竹田さん〔竹田宮恒徳王〕は最近西洋で東宮ちゃんと会っているのだから、私は竹田さん御夫婦が行かれるがいいと思う。
6人は菊栄親睦会の枠の外だ。
田島長官◆竹田宮も御希望がないとのことでありますが、昭和陛下は御六人の他に誰方があったほうがよろしいとの御思召でございましょうか。
昭和天皇◆私は竹田さんがいいと思うが、あるいは長老で賀陽さん〔賀陽宮恒憲王〕ということかもしれぬ。
どちらにしても誰かが行かれた方がいいと思う。
田島長官◆それではこれは昭和陛下の御思召と先方様へ申し上げましてもよろしゅうございますか。
昭和天皇◆よろしい。

1953年10月14日
田島長官◆東宮様御帰朝後あまり御疲労もなく結構なことと存じます。
昭和天皇◆どうも疲れてないようだ。
自動車の運転とかいう話だから、疲れた者がそんなことできるはずないから疲れてないよ。

1953年11月4日
田島長官◆東宮様の御外遊の費用はまだ未済でありますが、概算1/3は余りましたと存じます。
内廷費で1千万円をお持ち願いましたのは万一国費で不足の場合を考えましたが、その方は4千万円近く余りましたゆえその必要なく、国費で支弁されぬ性質の東宮様のお買物およびお土産品等は500万円でありますから、内廷費も500万円は返るわけでございます。
国費の4千万円は余りとして大蔵省にきれいに返すつもりであります。
昭和天皇◆余りはきれいさっぱり返すがよろしい。
そうしておけば常陸さんの洋行の時にもまたいいわねー。

1953年12月7日
昭和天皇◆東宮ちゃんの進学のことなんかどうなる?
田島長官◆先日宇佐美次長・三谷侍従長・野村東宮大夫・小泉参与とも相談いたしまして、いずれも大体の方向は一致いたしておりますが、今年いっぱいには何とかせねばならぬと申しておりましたような次第で、今年いっぱいにお決めを願うことになりますと存じます」
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小泉信三から宮内庁長官田島道治への手紙

1953年7月30日
学習院問題について考えたことを申し上げます。

■学習院に無理を頼み込んで強いて四年御卒業工作をすることは禁物と思います。
■しからば5~6年かかっても構わぬと申し得るか。
これは世間で受ける説でしょうが、事実上は価値少なしと思います。
●皇太子が正規学生として課程履修を遊ばす最も強き理由はクラスメイトをお持ちになることですが、ここで一年あるいは二年お遅れになるということは、すなわちこの高等科以来あるいは初等科中等科以来の御級友と離れて別のクラスにお入りになるということで、それは小生らが従来接した学生の最も苦痛とするところです。
それをお舐めさせ申すだけの価値ありや否や。
●仮に5年6年かかっても構わぬ、ぜひ正規の課程を御履修さるべきだという世間受け説に従うとしても、果たしてそれが実行できるものか否か。
すでに教授会に感情的虚栄的な正義論が行われるとすれば、皇太子のお為めにする特別的なお取り扱いは大小を問わず一々頼み込まねばなりますまい。
現に野村東宮大夫の手紙によれば、皇太子が体操をなさらぬことを問題とする教授ある由。
おそらくそれは体操などの不得手の中にも不得手なる型の人の言うことでしょうが、それを反省する人々ではありますまい。
それは皇太子の御品位のため、決して取るべきではないと思います。
●然らばすなわち皇太子としては今後引き続き学習院に御通学になり、御級友と共に聴くに値する講義をお聴きになり試験もお受けになり寮生活もお続けになり、しかし正規学生の義務と権利からはお離れになること。
名は聴講生でも何でもよし。
かくして四年の後に正規学生と同等以上の学力をおつけになって大学課程を御修了になり、もし必要とあらば御履修になった課目につき世間の信用する委員会のようなもので学力の証明をして発表すればよろしいと思います。

高見のごとくこの際 御退学は穏やかではないと思います。
同時に何年かかっても構わぬという説は事実実行困難で、これからますます御多忙の皇太子が一般学生とすべて同様のお取り扱いをお受けになるということは、名はすなわち美なるもたちまち障害に障害にぶつかる結果となりましょう。
学習院の教授諸君がみな大人なら話のしようもありましょうが、それは無理でしょう。

1953年9月2日
皇太子はサンモリッツにお着きになった後も、二日ばかり御食欲なく部屋に引きこもりがちなので佐藤侍医にしつこく所見を質しましたが、侍医はすぐよくおなりになりますと言い続けていましたが、一昨日からテニスをお始めになり、昨日は四セットばかりなされました。
ただし皇太子が頑健でおありにならぬことは常に忘るべきでなく、この点御側近の者は口癖のように申しますから、十分御気付申し上ることと思います。
一つ御報告すべきは、皇太子がアルコールに対する御嗜好をほとんど失われたのではないかと思われるほど、酒類に対し無趣味におなり遊ばされたことです。
従来お好きであったのは赤ワインでしたが、このごろはろくに口をおつけにならず、ストックホルムのパーティーで日本酒を1~2杯お飲みになったのを拝見した以外、いずれの機会でもお断りになり、佐藤侍医の所見も同じでした。
もしこれ自制によるものなら大したものであり、まことに結構な次第だと存じます。
野村東宮大夫はいつも気にしていますから、もしおついでがありましたらこのことを翁にお伝えください。
自制と言えば夜ふかしの方はなかなかいけません。
昨夕の御話の間に真顔になってそのことを申し上げました。
御側近の人々は点が辛く、皇太子は彼らに対し駄々をおこねになることも時々あるようです。
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