◆常陸宮正仁親王 124代昭和天皇の二男 義宮正仁親王
1935年生
*幼少期に小児マヒに罹ったが、戦後まで秘されていた。
■妻 津軽華子 津軽義孝伯爵の娘
1940年生
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『入江相政日記』侍従長
1942年4月1日
今日常陸宮、初等科に御入学。
御病後のためかだいぶおやつれで、どうも心細い。
三里塚で十二分に御静養願いたいものである。
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『入江相政日記』侍従長
1950年5月23日
常陸宮伝育官東園基文・侍従久松定孝・皇子伝育官村井長正・侍従山田康彦と一緒に常陸宮のことにつき協議。
近頃の御様子を聴取していろいろ意見も述べる。
なかなか心配なことである。
1950年5月26日
侍従次長鈴木一・山田侍従・村井伝育官と一緒に常陸宮のことについていろいろ相談する。
我々が心配しているようなことを聞いたのは、今日が初めてだったらしい。
1950年6月14日
常陸宮のことにつき縦横に議論する。
いろいろな人の意見があり、いろいろな事情があって、真に複雑を極めている。
1950年7月6日
今夜宮内庁長官田島道治と侍従長三谷隆信が常陸宮に御相伴に出るそうであるが、常陸宮の御伝育方針をめぐっていろいろな行き違いがあるにのに結局どういう所に落ち着くであろうかと山田侍従も心配している。
毎々のことであるが、実に不思議なことであると思う。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官
1950年7月5日
田島長官◆三笠宮のことに関連し、東宮様・常陸宮のこともなかなか考えさせられまする。
東宮様は特別にて民法に長子相続もなくなったにかかわらず、皇室だけは長子相続の建前で二男・三男は冷や飯で、この点よほど注意しなければならぬと存じます。
東宮様のことは東宮大夫穂積重遠の無責任では駄目ゆえ、東宮参与小泉信三に変わってもらうという具体案ができてお許しを得て実行しましたが、常陸宮についてはなお研究中。
昭和天皇◆田島は戦争後になって宮様方が平民的自由と皇族の特権とを両方活発にやられるようになったと言ったが、戦前からずいぶん平民的な特権をやっておいでだった。
一つは別当などの人がついていたことと、今一つは検閲制で新聞に出なかったというだけだ。
昭和天皇◆東宮ちゃんと常陸宮は教育が違う。
二人は同じ学習院へ通ってる。
私は御学問所、秩父さんは陸軍幼年学校、高松さんは中等科という風にみな違った教育を受け、私だけは特別だったから。
田島長官◆東宮様は上中下と分けて上の部にお入りになり、馬・テニス何でもなさいますが、失礼ながら常陸宮は中の部にもお入りになれませぬ上、御体格上テニス等の御運動もできず、学習院でも御孤独であるとのことでございます上、東宮様は将来の天皇たる天職お定まりでありまするが、常陸宮は旧憲法時代と違い軍人ということはなくなり、何か将来のことをお考えになる必要があります。
昭和天皇◆今は化学がいいと思う。
しかし専門家になってもらっては困る。
相当の暇つぶしになって、そして趣味の程度ということを考える。
田島長官◆常陸宮の問題で何か最近あったらしき様子。
昭和天皇◆皇子伝育官村井長正が皇子伝育官東園基文や次長を出し抜いて何か言うから、山田に言って次長に注意して、それから次長がいろいろやり出したのだ。
常陸宮さんは私に何でも進んで聞いてくる。
常陸さんはいろいろなことを私に言ってくるから何を考えているのかよくわかる。
東宮ちゃんとも議論してることがよくあるが、なごやかにやってるから心配ないと思ってる。
田島長官◆それが最近必ずしもそうでないと聞きました。
昭和天皇◆これは年頃で、性の問題にも関してると思う。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官
1951年4月18日
田島長官◆池田の方〔順宮厚子内親王の夫池田隆政〕は、ただ今のところ何の障害も起らず一応無難であります。
名門であり、御仕事も実業で。
昭和天皇◆その実業も土地についたいい意味の実業だし。
田島長官◆職業軍人なき今日、将来常陸宮の御仕事としても結構かと内々考えておりまするような
ことでございます。
1951年6月16日
昭和天皇◆常陸さんが少し共産党に同情的だということを言ったと思うが、昨日話してみるとずいぶん違って、このごろはよほどキリスト教的になった。
常陸さんとてもいつ皇位継承するということがないとは言われないので、やはり偏らぬことがよいと思う。
天皇とかいうような立場はやはり灰色が必要で、仏教も神道も哲学も儒教のようなこともそれぞれ長所があるので、どれということのない灰色にしたい。
東宮参与小泉信三とよく相談してくれ。
田島長官◆そういう変化は何か本か人かがキリスト教の感化を常陸宮に与えましたのでございましょうか。
昭和天皇◆皇子伝育官村井長正の影響もあるかもしれぬが、水島三一郎がクリスチャンだと言ってる。
田島長官◆水島は化学の難しいことを平易に御説明することは上手でございます。
1951年11月1日
昭和天皇◆常陸さんのキリスト教のことだが、非常に熱心で私にも東宮ちゃんにも言うから、友達には秘密にするとは言ってるが話すかもしれぬ。
万一のことあれば常陸さんも皇位を継承すべき人だから、常陸さんの身分としては仏教のことも知り神道のことも知って偏してもらいたくない。
皇室は神道であり、これは私は宗教と思わないが、アメリカ占領軍などで宗教だと言えば客観的には宗教でないと言い切ることもできぬかとも思う。
祝詞をあげること、葬式もやること、結婚もやることを考えると、あながち儀式とばかり言えぬかと思う。
常陸さんは賢所のことなど儀式だからキリスト教とは無関係だと言うが、私はこれはどうかと思う。
東宮参与小泉信三と相談して、一つ仏教や神道の話を聞かせるようなことも考えてくれ。
これには皇子伝育官村井長正の力があるようだから、場合によっては替えることも考えてみてもらわんと。
田島長官◆村井は内村鑑三の弟子矢内原忠雄の弟子で熱心な信者であり、性質がややすっとんきょうな点もあり大きな声で笑いまするし、先年花園天皇御年紀の際、事績に感激して御伝記編纂の事業を熱心に申し出ましたこともあり、少し熱する方でありますが、仏教ならば仏教学者鈴木大拙でも講義を頼んでということも考えられますが。
昭和天皇◆いや、鈴木は難しいよ。
歴史の座談会の時に支那にキリスト教が広まらなかったのは儒教があったからだとの話だったが。
田島長官◆天皇の御位置としてはキリスト教の信者となられることは仰せのごとく困りますことでありますが、仮に平民とすれば信仰にお進みになったということがあればむしろ喜ぶべきことかと思います
昭和天皇◆それはそうだ。
宗教的信仰を持つことは平民ならいいことだ。
しかし万一の場合に継承するかもしれぬという常陸さんとしてはは困る。
田島長官◆仰せのとおりでありますが、東宮様とは多少の差がありまする上、昭和陛下も御承知の通り常陸宮はヴァイニング夫人の帰ります前頃は非常に変で、ヴァイニング夫人も困ると申し、中等科から高等科へお進みの時にもあまり成績がおよろしくなく、いろいろ御心配申し上げておりましたところ、最近非常によくおできになるようになり、英語その他まだ御不得意の学科がありますそうですが、昨年から見ますれば大変な御進歩とのことで大いに喜んでおりますが、田島はこの御進歩と御信仰は離るべからざる関係がおありと思います。
青年の一番難しい時をお乗り切りになる時、キリスト教が役立ち、お落ち着きの結果の御進歩だと思いますから、ただいまキリスト教のことをかれこれ申し上げますことは、角を矯めて牛を殺すということになるかと存じますので、今しばらくお見送りのお許しを得たいと存じます。
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田島道治 日記 宮内庁長官
1952年1月3日
東宮様・常陸宮に拝謁。
東宮様無表情、常陸宮御言葉ぶりよろし。
1952年9月26日
徳川慶光の娘を常陸宮へとの話。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官
1952年6月24日
昭和天皇◆この間会食の時に東宮ちゃんが、学習院高等科の優秀は東大へ行くから、その次のが進級してる所へ、外部から入って来る者が相当あり、これが多少対立し、外部から来た者はやはり進歩的と言うか左的であり、学習院高等科から登ったものはそうでないので、なかなか難しいところがあるとのことだ。
学習院院長安倍能成は誠に人格はいいが、そういうことを処理するのに進歩的な方に譲歩する傾きがあるのではないか。
米内光政と似てるのではないか。
昭和天皇◆学習院も世間の大学並に左的な空気はありましょうし、いずれの大学でも教授・学生共に進歩的でなければ一日も治まらぬ情勢ゆえ、安倍も立場も非常に困難だと思います。
勇気がないと言うより、実際的でない理論的であるかと思います。
全面講和論のごとき態度であります。
緒方竹虎に随行しました朝日新聞嘉治隆一の話に、
「蒋介石政権では中共と正面に反対しておりまする以上、日本が国民政府に援助せぬにせよ、少なくとも中共に勢いをつけることだけはやめてもらいたい。南原繁・安部能成・矢内原忠雄というような人の言論は5万の援兵ぐらいの価値がある」と申しておりました。
東宮様の教育の面も大学はなかなか難しく、場合によりますればお辞め願ってもよろしいと考えております。
昭和天皇◆常陸さんも言っておいでだったが、水島三一郎の話に
「東大の中にはそんな悪い学生はいない。あれは外部の学生だ」というようなことを言ってたそうだ。
しかし大学は大学でやるから自治で警察は困るとかいうので矛盾しているように思うが、水島がそんなことを言ってたそうだ。
1952年11月5日
昭和天皇◆私は牡蠣が好きで、常陸さんも好きで、先年二人は大いに食べて〔食中毒〕やったことがあるが、そのとき牡蠣を食べなかった良宮も少しやられた。
牡蠣に付着しがちなものは他にも付着しがちゆえ。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官
1953年4月14日
田島長官◆常陸宮が御文庫でアメリカの映画を御覧の時、アメリカの宣伝映画と仰せになったことについて、学友連中の空気また安倍参与の理想平和論のことなどよく小泉参与とも相談をいたします。
昭和陛下からも「宣伝映画かもしれないけれども、そう言わないで観たらどうだ」という風に軽く仰せいただきますと大変よろしいかと存じます。
1953年5月18日
田島長官◆常陸宮の御成年も2年半の後で一家御創立の問題もありまするが、高松宮・三笠宮とも御直宮は軍人としてお立ちになる制度下で今のようにおなりになりましたのですが、常陸宮の場合は果たしてどういう御職務をなさいますかも問題であり、大学御進級の科もお決め願いませんければならず、ほぼこの方がよろしいかと一応結論を得て、学校での教育責任者であります学習院長安倍能成の意見を聞く必要もありますので、それらを総合いたしまして昭和陛下のお許しを得たいと存じておりまするわけではありますが、この問題とても政府の了承に関係を持ちませんするし、いずれに致しましても安定政権が望ましく、目下新聞は孝宮和子内親王・順宮厚子内親王の御結婚をスクープできなかったので残念がり、東宮妃は何とかしてスクープすると申しておりますそうでありますが、これは内親王様と違い皇室会議の議を経なければなりませず、どうしても政局の判定は望ましいのであります。
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『入江相政日記』侍従長
1954年11月13日
常陸宮御殿の御歌会。
今日も昭和皇后がならせられ、もう御常連になっておしまいになった。
酒が出たら昭和皇后が御文庫からすぐ鮒寿司をお取り寄せになった。
そして昭和皇后もお喜びで御酒をかなり召し上がった。
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『入江相政日記』侍従長
1958年6月14日
常陸宮御殿で歌合。
例によって大変な騒ぎ。
昭和皇后は始めから、昭和陛下と清宮貴子内親王は途中から、酒肴をいただき8時に散会。
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『入江相政日記』侍従長
1962年2月6日
宮内庁長官宇佐美毅の所へ行き、このあいだ葉山で昭和皇后が吉田茂に常陸宮のことをお頼みになったことなどを中心に話す。
侍従次長稲田周一の所でダベる。
常陸宮のは結局まだなんともなっていないらしい。
困ったことである。
1962年7月12日
稲田侍従次長から常陸宮の御縁談もまったく白紙に返ったと聞く。
やはり旧華族からとの強い御注文の由。
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『入江相政日記』侍従長
1964年2月21日
常陸宮のお見合いを朝日がスクープしたというので大騒ぎ。
1964年4月14日〔常陸宮、納采の儀〕
津軽華子さん、御両親拝謁。
1964年9月4日
常陸宮侍従東園基文。
常陸宮は【侍女長】のことにつき、皇室が信義を失っては大変と涙を流しておっしゃった由。
1964年9月7日
永積侍従次長と【侍女長】問題などについて語り合う。
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田島道治『日記』宮内庁長官
1964年2月21日
秩父宮妃。
今度のことで東宮御夫妻〔平成天皇夫妻〕にショックなきよう。
〔常陸宮&津軽華子の結婚〕
1964年3月3日
宮内庁長官宇佐美毅。
常陸宮苦心談、両陛下 東宮御夫妻〔平成天皇夫妻〕に直言。
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『入江相政日記』侍従長
1966年10月16日
常陸宮御夫妻と御散策。
このあいだ明治会の時に皆様おすすめでお集めのお金どう遊ばすかにつき、昨日侍従次長永積重遠からいろいろ申し上げたるところ、昭和皇后はお取り上げにならず、それを打ち切って今日常陸宮に御相談とのこと。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従
1974年7月19日
常陸宮妃、御誕生日で宮殿に御参内。
入江侍従長が「本日は御誕辰でお喜び申し上げます」と御挨拶の後、
「大変涼しい日が続き、常陸宮妃の御誕生日らしく思われません」と冗談を言われて、常陸宮妃も大笑いされていた。
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『入江相政日記』侍従長
1975年5月1日
〔5月7日~5月12日のエリザベス女王来日について〕
宇佐美長官・侍従次長徳川義寛・女官長北白川祥子・式部官長島重信と話し合い。
秩父宮妃・高松宮妃が美智子妃・常陸宮妃に、
「和服ではダンスができないから、昭和皇后にお願いして洋服にしろ」と強く言われた由。
お嫁さんたちとしてはそんなことはできないということで、美智子妃・常陸宮妃は和服、他は御勝手にということにしようということになる。
1975年5月3日
晩餐の時のダンスの関係で、美智子妃・常陸宮妃はローブデコルテ、昭和皇后は和服の関係上、御一方では具合が悪いので秩父宮妃・高松宮妃も和服ということで両陛下のお許しを得ようということになる。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1977年3月4日
常陸宮から献上のスッポンを両陛下に御披露。
御料理用ということで、飼育をくいとめる。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従
1977年7月4日
夜、常陸宮御夫妻御参内。
お飼いになっているチンチラの子が2匹生まれたので、御覧に入れるためカゴに入れてお持ちになった。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従
1978年1月17日
常陸宮御夫妻、御参内。
御食後〈お能カルタ〉
お能の曲名を漢字で書いたものが取り札、万葉仮名で書いたものが読み札。
両陛下なかなか御上手。
漢字で読めないものもあり、両陛下はお慣れになっている。
源平に分れ半分の50枚を取った。
時間が短く物足りなかった。
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『入江相政日記』侍従長
1980年6月13日
〔元常陸宮伝育官〕掌典長東園基文に会い、東宮様と常陸宮のこと聞く。
この頃はおよろしいとのこと。
皇后宮大夫安楽定信に話しておく。
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『入江相政日記』侍従長
1982年3月10日
常陸宮へ御礼に行く。
常陸宮妃、いつもながらいい方。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1987年4月15日
昭和陛下より「常陸宮が東京倶楽部を継承したら、紫煙に囲まれて肺ガンにならないか」との御心配。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1988年10月18日
夜半かなりの下血があった由。
御寝室にうかがった御様子ではさほどお変りない。
常陸宮妃がお吹き込みになった童話をお聴きになる。
1988年10月22日
昭和陛下、常陸宮妃お吹き込みのイタリア昔話『疥癬にかかったバラリッキ』20分お聴き。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1995年11月14日
常陸宮還暦記者会見で、小児マヒのことあえて言われることなしと。
〔常陸宮は幼少時に小児マヒに罹ったが、戦後になるまで伏せられていた〕
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1935年生
*幼少期に小児マヒに罹ったが、戦後まで秘されていた。
■妻 津軽華子 津軽義孝伯爵の娘
1940年生
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『入江相政日記』侍従長
1942年4月1日
今日常陸宮、初等科に御入学。
御病後のためかだいぶおやつれで、どうも心細い。
三里塚で十二分に御静養願いたいものである。
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『入江相政日記』侍従長
1950年5月23日
常陸宮伝育官東園基文・侍従久松定孝・皇子伝育官村井長正・侍従山田康彦と一緒に常陸宮のことにつき協議。
近頃の御様子を聴取していろいろ意見も述べる。
なかなか心配なことである。
1950年5月26日
侍従次長鈴木一・山田侍従・村井伝育官と一緒に常陸宮のことについていろいろ相談する。
我々が心配しているようなことを聞いたのは、今日が初めてだったらしい。
1950年6月14日
常陸宮のことにつき縦横に議論する。
いろいろな人の意見があり、いろいろな事情があって、真に複雑を極めている。
1950年7月6日
今夜宮内庁長官田島道治と侍従長三谷隆信が常陸宮に御相伴に出るそうであるが、常陸宮の御伝育方針をめぐっていろいろな行き違いがあるにのに結局どういう所に落ち着くであろうかと山田侍従も心配している。
毎々のことであるが、実に不思議なことであると思う。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官
1950年7月5日
田島長官◆三笠宮のことに関連し、東宮様・常陸宮のこともなかなか考えさせられまする。
東宮様は特別にて民法に長子相続もなくなったにかかわらず、皇室だけは長子相続の建前で二男・三男は冷や飯で、この点よほど注意しなければならぬと存じます。
東宮様のことは東宮大夫穂積重遠の無責任では駄目ゆえ、東宮参与小泉信三に変わってもらうという具体案ができてお許しを得て実行しましたが、常陸宮についてはなお研究中。
昭和天皇◆田島は戦争後になって宮様方が平民的自由と皇族の特権とを両方活発にやられるようになったと言ったが、戦前からずいぶん平民的な特権をやっておいでだった。
一つは別当などの人がついていたことと、今一つは検閲制で新聞に出なかったというだけだ。
昭和天皇◆東宮ちゃんと常陸宮は教育が違う。
二人は同じ学習院へ通ってる。
私は御学問所、秩父さんは陸軍幼年学校、高松さんは中等科という風にみな違った教育を受け、私だけは特別だったから。
田島長官◆東宮様は上中下と分けて上の部にお入りになり、馬・テニス何でもなさいますが、失礼ながら常陸宮は中の部にもお入りになれませぬ上、御体格上テニス等の御運動もできず、学習院でも御孤独であるとのことでございます上、東宮様は将来の天皇たる天職お定まりでありまするが、常陸宮は旧憲法時代と違い軍人ということはなくなり、何か将来のことをお考えになる必要があります。
昭和天皇◆今は化学がいいと思う。
しかし専門家になってもらっては困る。
相当の暇つぶしになって、そして趣味の程度ということを考える。
田島長官◆常陸宮の問題で何か最近あったらしき様子。
昭和天皇◆皇子伝育官村井長正が皇子伝育官東園基文や次長を出し抜いて何か言うから、山田に言って次長に注意して、それから次長がいろいろやり出したのだ。
常陸宮さんは私に何でも進んで聞いてくる。
常陸さんはいろいろなことを私に言ってくるから何を考えているのかよくわかる。
東宮ちゃんとも議論してることがよくあるが、なごやかにやってるから心配ないと思ってる。
田島長官◆それが最近必ずしもそうでないと聞きました。
昭和天皇◆これは年頃で、性の問題にも関してると思う。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官
1951年4月18日
田島長官◆池田の方〔順宮厚子内親王の夫池田隆政〕は、ただ今のところ何の障害も起らず一応無難であります。
名門であり、御仕事も実業で。
昭和天皇◆その実業も土地についたいい意味の実業だし。
田島長官◆職業軍人なき今日、将来常陸宮の御仕事としても結構かと内々考えておりまするような
ことでございます。
1951年6月16日
昭和天皇◆常陸さんが少し共産党に同情的だということを言ったと思うが、昨日話してみるとずいぶん違って、このごろはよほどキリスト教的になった。
常陸さんとてもいつ皇位継承するということがないとは言われないので、やはり偏らぬことがよいと思う。
天皇とかいうような立場はやはり灰色が必要で、仏教も神道も哲学も儒教のようなこともそれぞれ長所があるので、どれということのない灰色にしたい。
東宮参与小泉信三とよく相談してくれ。
田島長官◆そういう変化は何か本か人かがキリスト教の感化を常陸宮に与えましたのでございましょうか。
昭和天皇◆皇子伝育官村井長正の影響もあるかもしれぬが、水島三一郎がクリスチャンだと言ってる。
田島長官◆水島は化学の難しいことを平易に御説明することは上手でございます。
1951年11月1日
昭和天皇◆常陸さんのキリスト教のことだが、非常に熱心で私にも東宮ちゃんにも言うから、友達には秘密にするとは言ってるが話すかもしれぬ。
万一のことあれば常陸さんも皇位を継承すべき人だから、常陸さんの身分としては仏教のことも知り神道のことも知って偏してもらいたくない。
皇室は神道であり、これは私は宗教と思わないが、アメリカ占領軍などで宗教だと言えば客観的には宗教でないと言い切ることもできぬかとも思う。
祝詞をあげること、葬式もやること、結婚もやることを考えると、あながち儀式とばかり言えぬかと思う。
常陸さんは賢所のことなど儀式だからキリスト教とは無関係だと言うが、私はこれはどうかと思う。
東宮参与小泉信三と相談して、一つ仏教や神道の話を聞かせるようなことも考えてくれ。
これには皇子伝育官村井長正の力があるようだから、場合によっては替えることも考えてみてもらわんと。
田島長官◆村井は内村鑑三の弟子矢内原忠雄の弟子で熱心な信者であり、性質がややすっとんきょうな点もあり大きな声で笑いまするし、先年花園天皇御年紀の際、事績に感激して御伝記編纂の事業を熱心に申し出ましたこともあり、少し熱する方でありますが、仏教ならば仏教学者鈴木大拙でも講義を頼んでということも考えられますが。
昭和天皇◆いや、鈴木は難しいよ。
歴史の座談会の時に支那にキリスト教が広まらなかったのは儒教があったからだとの話だったが。
田島長官◆天皇の御位置としてはキリスト教の信者となられることは仰せのごとく困りますことでありますが、仮に平民とすれば信仰にお進みになったということがあればむしろ喜ぶべきことかと思います
昭和天皇◆それはそうだ。
宗教的信仰を持つことは平民ならいいことだ。
しかし万一の場合に継承するかもしれぬという常陸さんとしてはは困る。
田島長官◆仰せのとおりでありますが、東宮様とは多少の差がありまする上、昭和陛下も御承知の通り常陸宮はヴァイニング夫人の帰ります前頃は非常に変で、ヴァイニング夫人も困ると申し、中等科から高等科へお進みの時にもあまり成績がおよろしくなく、いろいろ御心配申し上げておりましたところ、最近非常によくおできになるようになり、英語その他まだ御不得意の学科がありますそうですが、昨年から見ますれば大変な御進歩とのことで大いに喜んでおりますが、田島はこの御進歩と御信仰は離るべからざる関係がおありと思います。
青年の一番難しい時をお乗り切りになる時、キリスト教が役立ち、お落ち着きの結果の御進歩だと思いますから、ただいまキリスト教のことをかれこれ申し上げますことは、角を矯めて牛を殺すということになるかと存じますので、今しばらくお見送りのお許しを得たいと存じます。
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田島道治 日記 宮内庁長官
1952年1月3日
東宮様・常陸宮に拝謁。
東宮様無表情、常陸宮御言葉ぶりよろし。
1952年9月26日
徳川慶光の娘を常陸宮へとの話。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官
1952年6月24日
昭和天皇◆この間会食の時に東宮ちゃんが、学習院高等科の優秀は東大へ行くから、その次のが進級してる所へ、外部から入って来る者が相当あり、これが多少対立し、外部から来た者はやはり進歩的と言うか左的であり、学習院高等科から登ったものはそうでないので、なかなか難しいところがあるとのことだ。
学習院院長安倍能成は誠に人格はいいが、そういうことを処理するのに進歩的な方に譲歩する傾きがあるのではないか。
米内光政と似てるのではないか。
昭和天皇◆学習院も世間の大学並に左的な空気はありましょうし、いずれの大学でも教授・学生共に進歩的でなければ一日も治まらぬ情勢ゆえ、安倍も立場も非常に困難だと思います。
勇気がないと言うより、実際的でない理論的であるかと思います。
全面講和論のごとき態度であります。
緒方竹虎に随行しました朝日新聞嘉治隆一の話に、
「蒋介石政権では中共と正面に反対しておりまする以上、日本が国民政府に援助せぬにせよ、少なくとも中共に勢いをつけることだけはやめてもらいたい。南原繁・安部能成・矢内原忠雄というような人の言論は5万の援兵ぐらいの価値がある」と申しておりました。
東宮様の教育の面も大学はなかなか難しく、場合によりますればお辞め願ってもよろしいと考えております。
昭和天皇◆常陸さんも言っておいでだったが、水島三一郎の話に
「東大の中にはそんな悪い学生はいない。あれは外部の学生だ」というようなことを言ってたそうだ。
しかし大学は大学でやるから自治で警察は困るとかいうので矛盾しているように思うが、水島がそんなことを言ってたそうだ。
1952年11月5日
昭和天皇◆私は牡蠣が好きで、常陸さんも好きで、先年二人は大いに食べて〔食中毒〕やったことがあるが、そのとき牡蠣を食べなかった良宮も少しやられた。
牡蠣に付着しがちなものは他にも付着しがちゆえ。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官
1953年4月14日
田島長官◆常陸宮が御文庫でアメリカの映画を御覧の時、アメリカの宣伝映画と仰せになったことについて、学友連中の空気また安倍参与の理想平和論のことなどよく小泉参与とも相談をいたします。
昭和陛下からも「宣伝映画かもしれないけれども、そう言わないで観たらどうだ」という風に軽く仰せいただきますと大変よろしいかと存じます。
1953年5月18日
田島長官◆常陸宮の御成年も2年半の後で一家御創立の問題もありまするが、高松宮・三笠宮とも御直宮は軍人としてお立ちになる制度下で今のようにおなりになりましたのですが、常陸宮の場合は果たしてどういう御職務をなさいますかも問題であり、大学御進級の科もお決め願いませんければならず、ほぼこの方がよろしいかと一応結論を得て、学校での教育責任者であります学習院長安倍能成の意見を聞く必要もありますので、それらを総合いたしまして昭和陛下のお許しを得たいと存じておりまするわけではありますが、この問題とても政府の了承に関係を持ちませんするし、いずれに致しましても安定政権が望ましく、目下新聞は孝宮和子内親王・順宮厚子内親王の御結婚をスクープできなかったので残念がり、東宮妃は何とかしてスクープすると申しておりますそうでありますが、これは内親王様と違い皇室会議の議を経なければなりませず、どうしても政局の判定は望ましいのであります。
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『入江相政日記』侍従長
1954年11月13日
常陸宮御殿の御歌会。
今日も昭和皇后がならせられ、もう御常連になっておしまいになった。
酒が出たら昭和皇后が御文庫からすぐ鮒寿司をお取り寄せになった。
そして昭和皇后もお喜びで御酒をかなり召し上がった。
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『入江相政日記』侍従長
1958年6月14日
常陸宮御殿で歌合。
例によって大変な騒ぎ。
昭和皇后は始めから、昭和陛下と清宮貴子内親王は途中から、酒肴をいただき8時に散会。
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『入江相政日記』侍従長
1962年2月6日
宮内庁長官宇佐美毅の所へ行き、このあいだ葉山で昭和皇后が吉田茂に常陸宮のことをお頼みになったことなどを中心に話す。
侍従次長稲田周一の所でダベる。
常陸宮のは結局まだなんともなっていないらしい。
困ったことである。
1962年7月12日
稲田侍従次長から常陸宮の御縁談もまったく白紙に返ったと聞く。
やはり旧華族からとの強い御注文の由。
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『入江相政日記』侍従長
1964年2月21日
常陸宮のお見合いを朝日がスクープしたというので大騒ぎ。
1964年4月14日〔常陸宮、納采の儀〕
津軽華子さん、御両親拝謁。
1964年9月4日
常陸宮侍従東園基文。
常陸宮は【侍女長】のことにつき、皇室が信義を失っては大変と涙を流しておっしゃった由。
1964年9月7日
永積侍従次長と【侍女長】問題などについて語り合う。
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田島道治『日記』宮内庁長官
1964年2月21日
秩父宮妃。
今度のことで東宮御夫妻〔平成天皇夫妻〕にショックなきよう。
〔常陸宮&津軽華子の結婚〕
1964年3月3日
宮内庁長官宇佐美毅。
常陸宮苦心談、両陛下 東宮御夫妻〔平成天皇夫妻〕に直言。
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『入江相政日記』侍従長
1966年10月16日
常陸宮御夫妻と御散策。
このあいだ明治会の時に皆様おすすめでお集めのお金どう遊ばすかにつき、昨日侍従次長永積重遠からいろいろ申し上げたるところ、昭和皇后はお取り上げにならず、それを打ち切って今日常陸宮に御相談とのこと。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従
1974年7月19日
常陸宮妃、御誕生日で宮殿に御参内。
入江侍従長が「本日は御誕辰でお喜び申し上げます」と御挨拶の後、
「大変涼しい日が続き、常陸宮妃の御誕生日らしく思われません」と冗談を言われて、常陸宮妃も大笑いされていた。
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『入江相政日記』侍従長
1975年5月1日
〔5月7日~5月12日のエリザベス女王来日について〕
宇佐美長官・侍従次長徳川義寛・女官長北白川祥子・式部官長島重信と話し合い。
秩父宮妃・高松宮妃が美智子妃・常陸宮妃に、
「和服ではダンスができないから、昭和皇后にお願いして洋服にしろ」と強く言われた由。
お嫁さんたちとしてはそんなことはできないということで、美智子妃・常陸宮妃は和服、他は御勝手にということにしようということになる。
1975年5月3日
晩餐の時のダンスの関係で、美智子妃・常陸宮妃はローブデコルテ、昭和皇后は和服の関係上、御一方では具合が悪いので秩父宮妃・高松宮妃も和服ということで両陛下のお許しを得ようということになる。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1977年3月4日
常陸宮から献上のスッポンを両陛下に御披露。
御料理用ということで、飼育をくいとめる。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従
1977年7月4日
夜、常陸宮御夫妻御参内。
お飼いになっているチンチラの子が2匹生まれたので、御覧に入れるためカゴに入れてお持ちになった。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従
1978年1月17日
常陸宮御夫妻、御参内。
御食後〈お能カルタ〉
お能の曲名を漢字で書いたものが取り札、万葉仮名で書いたものが読み札。
両陛下なかなか御上手。
漢字で読めないものもあり、両陛下はお慣れになっている。
源平に分れ半分の50枚を取った。
時間が短く物足りなかった。
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『入江相政日記』侍従長
1980年6月13日
〔元常陸宮伝育官〕掌典長東園基文に会い、東宮様と常陸宮のこと聞く。
この頃はおよろしいとのこと。
皇后宮大夫安楽定信に話しておく。
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『入江相政日記』侍従長
1982年3月10日
常陸宮へ御礼に行く。
常陸宮妃、いつもながらいい方。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1987年4月15日
昭和陛下より「常陸宮が東京倶楽部を継承したら、紫煙に囲まれて肺ガンにならないか」との御心配。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1988年10月18日
夜半かなりの下血があった由。
御寝室にうかがった御様子ではさほどお変りない。
常陸宮妃がお吹き込みになった童話をお聴きになる。
1988年10月22日
昭和陛下、常陸宮妃お吹き込みのイタリア昔話『疥癬にかかったバラリッキ』20分お聴き。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1995年11月14日
常陸宮還暦記者会見で、小児マヒのことあえて言われることなしと。
〔常陸宮は幼少時に小児マヒに罹ったが、戦後になるまで伏せられていた〕
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