■東京本邸 芝区三田台町(港区三田)
■鎌倉別邸
※華頂宮家の鎌倉別邸は関東大震災で倒壊、鎌倉市にある通称旧華頂宮邸は正確には華頂博信侯爵邸である
=========================
◆初代 華頂宮博経親王 伏見宮邦家親王の子 華頂宮を創設
1851-1876 26歳没
*アメリカ留学中に病死
■妻 南部郁子 南部利剛伯爵の娘
1853-1908 55歳没
●男子 博厚親王 2代当主
=========================
◆2代 華頂宮博厚親王 1代博経親王の子
1875-1883 8歳没
=========================
◆3代 華頂宮博恭王=伏見宮博恭王
*伏見宮貞愛親王の子博恭王が華頂宮を継承するが、実家に復帰して伏見宮博恭王となる
=========================
◆4代 華頂宮博忠王 3代博恭王の弟/伏見宮貞愛親王の子
1902-1924 22歳没
*未婚であったため華頂宮家は断絶する
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』
1921年3月21日
華頂宮博忠王、鴨撃ちに行かるる由。
祭日にはちと休んでもよかりそうなもの。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
=========================
◆初代侯爵 華頂博信
1905-1970 65歳没
4代博忠王の甥
伏見宮博恭王の子伏見宮博信王
臣籍降下して華頂宮の祭祀を継承して華頂宮侯爵となる
■前妻 閑院宮華子女王 閑院宮載仁親王の娘・1951年華子の不倫で華頂博信と熟年離婚・戸田豊太郎と再婚
1909-2003 94歳没
■後妻 早川寿美子 日系アメリカ人
1919年生
●前妻の子 華頂博道 2代当主
●前妻の子 華頂博孝 伯爵伏見博孝となる
●前妻の子 華頂治子 外務大臣松岡洋右の子松岡震三と結婚
●後妻の子 華頂幸子
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』
1923年8月25日
伏見宮博信王〔華頂博信侯爵〕はやはり脳の具合とお腹の具合で休暇を延長さる。
1923年10月7日
伏見宮博信王〔華頂博信侯爵〕はどうも神経の気味だ。
やはり御友達でも作って快活にお仕向けすることが肝要だ。
私も少し手伝うかと思ったが、よく考えてみるとそれは私の主義にもとった行為のようだ。
山階宮萩麿王も友達が良くない。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
終戦後、収入の道を絶たれた博信は2,000坪の庭を利用して養鶏業を始めた。
いっぽう華子は邸宅を利用してダンス教師を始めた。
1951年、結婚24年を迎えた博信&華子夫妻に離婚スキャンダルがもちあがる。
関係者がこぞって手記を発表し、手記合戦となる。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
酒井美意子 前田利為侯爵の娘・酒井忠元伯爵の妻
華頂博信氏は伏見宮の第三王子・華子夫人は閑院宮の第五王女で、二人とも皇族出身である。
1926年結婚と同時に臣籍降下して華頂侯爵家を創立。
敗戦で収入の道を絶たれた海軍大佐の博信氏は養鶏で、華子夫人はダンス教師で生計を立てようとした。
そこへ夫人の愛人戸田豊太郎がからんでくる。
関係者は手記を発表した。
戸田氏と彼の別れた妻徳川喜和子も負けじと談話を発表した。
空前の手記合戦で読者を喜ばせ、大変な騒ぎであった。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
華頂博信
それは7月18日も深夜であった。
その日、夕方から来邸して華子と用談中の戸田氏がなかなか辞去する気配がない。
もうだいぶ遅いようだからと、それとなく帰宅を促そうと客間に行ってみた。
二人の姿は見えなかった。私は付属のクロークルームをなにげなく開けてみた。
そして、私はそこに見てはならない戸田氏と華子との姿を発見したのだ。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
徳川喜和子 戸田豊太郎の元妻
華頂様の離婚を新聞で見た時、私はすぐ別れた夫の戸田が一役買っているに違いないと思いました。
戸田は最近、ほうぼうのダンスパーティーなどに華子夫人を連れて歩いているようでした。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
戸田豊太郎
華頂家の離婚問題について、私は責任を感じない。私は華子夫人に愛情はあった。
しかし結婚するという前提でおつきあいしたわけではなく、もちろん今も結婚する意思はない。
これは恐らく華子夫人も同じ気持ちだろうと思う。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
田島道治 日記 宮内庁長官
※当時の総理大臣の年給は96万円
1951年7月28日
閑院宮春仁王来邸。
1951年7月29日
伏見宮朝子妃殿下訪問、昨日の件に関し御話す。
見通しは決裂としても長年のこと、子供さんのこと、再考願わしくまたやむを得ずとしても法律的でなく示談的なること、内密なること、閑院宮さんの受け入れ態勢のこと等々。
一度華頂博信氏に会うこと懸案として帰る。
1951年8月2日
華頂博信氏訪問。
1951年8月4日
閑院さん、昨日のこと初めて真剣後悔のこと
不人情な話(すぐ戸田に嫁ぐ案)も出づ。
1951年8月7日
秘書課長高尾亮一の華頂事件の大要を話す。
1951年8月8日
皇族譜研究。
閑院華子は嫡出。
1951年8月9日
華頂事件、新聞に出づ。
華頂氏より発表らし。
1951年8月10日
高松宮妃殿下御来室。
閑院宮春仁王来訪の話、戸田の名を御話す。
1951年8月22日
昨日の閑院春仁氏の毎日の記事にビックリし、今朝の華頂博信氏の毎日の記事に二度ビックリ。
1951年9月20日
閑院華子、戸田と結婚との声明。
1951年12月19日
華頂博信氏、復縁のこと。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
田島道治『拝謁記』宮内庁長官
1951年8月3日
7月28日閑院春仁氏来訪。
7月29日伏見博孝氏〔華頂博信の子〕訪問。
7月31日閑院氏希望にて伏見氏訪問、三人鼎座。
8月01日閑院氏来訪。
8月02日華頂博信氏訪問、伏見氏報告。
など逐一奏上、離婚やむを得ずとの結論に達したるむね言上す。
昭和天皇「遺憾な出来事だが、今の話ではやむを得ぬ」との仰せ。
春仁氏の御人柄を伺いしところ、
昭和天皇「よくはわからぬ。戦争前は威張る高慢な人とのことであったが、終戦後は変って柔和」との仰せ。
1951年8月9日
田島長官◆華頂博信氏の問題は火曜日に渋谷区役所に届出になりましたところ、華子夫人は皇族として御降嫁になり離婚のため皇族の生家へはお帰りになれぬこと、その後に皇族は無くなりました関係で閑院春仁氏の所へも復帰できぬとの法務府の見解のため、一家創立ということになり、お印が竹で竹村という姓になりましたとのことであります。
1951年8月22日
田島長官◆毎日新聞の閑院さんの手記は御覧遊ばしましたか。
昭和天皇◆見た。
田島長官◆8月18日伏見宮朝子妃から御電話で、「閑院宮様御留守中に御訪問。お書き残しの紙片に、『読売が一行も書かぬゆえ、何か大いに書きはせぬか気になる。ついてはそれの反対の方の新聞に話かける』とかなんとかいう意味のことが書いてあり、華頂さんと田島に伝えてくれとのことゆえかけた」との御話で、〈反対の新聞〉云々の意味が少し不可解と存じておりましたところ、毎日の記事で驚きました。
昭和天皇◆いったん収まったものを、何のためにそんなことを言われるかわからぬ。
田島長官◆まったくその通りでございますが、それを受けて今朝は華頂さんがいっそうあらわに毎日に書かれました。
どういうお気持ちかよくわかりませぬ。
昭和天皇◆華頂さんのはまだ読まぬが、どうも。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
田島道治 日記 宮内庁長官
1952年9月15日
華頂博信侯爵、徳川家正仲人の件取り消しのこと。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
宮内庁長官 田島道治『拝謁記』
1952年9月16日
田島長官◆帝国銀行頭取佐藤喜一郎から、華頂さん〔華頂博信侯爵〕の再婚 急転やめのことを聞きしこと、式部官長松平康昌から華頂さんが公爵徳川家正に仲人頼みまた中止と電話のこと。
昭和天皇◆お子さん気の毒だねー。
田島長官◆華頂さんお子さんの世話焼くこと絶対になく、慈父慈母のごとき御様子の結果。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
田島道治 日記 宮内庁長官
1953年12月15日
華頂新夫妻来訪。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
結局、華子と戸田が再婚、博信は渡米して再婚する。
1951年
1980年
=========================
◆2代 華頂博道 1代博信の子
1930年生
■妻 村松隆江 村松明治の娘
1931年生
●長男
●二男
●三男
■鎌倉別邸
※華頂宮家の鎌倉別邸は関東大震災で倒壊、鎌倉市にある通称旧華頂宮邸は正確には華頂博信侯爵邸である
=========================
◆初代 華頂宮博経親王 伏見宮邦家親王の子 華頂宮を創設
1851-1876 26歳没
*アメリカ留学中に病死
■妻 南部郁子 南部利剛伯爵の娘
1853-1908 55歳没
●男子 博厚親王 2代当主
=========================
◆2代 華頂宮博厚親王 1代博経親王の子
1875-1883 8歳没
=========================
◆3代 華頂宮博恭王=伏見宮博恭王
*伏見宮貞愛親王の子博恭王が華頂宮を継承するが、実家に復帰して伏見宮博恭王となる
=========================
◆4代 華頂宮博忠王 3代博恭王の弟/伏見宮貞愛親王の子
1902-1924 22歳没
*未婚であったため華頂宮家は断絶する
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』
1921年3月21日
華頂宮博忠王、鴨撃ちに行かるる由。
祭日にはちと休んでもよかりそうなもの。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
=========================
◆初代侯爵 華頂博信
1905-1970 65歳没
4代博忠王の甥
伏見宮博恭王の子伏見宮博信王
臣籍降下して華頂宮の祭祀を継承して華頂宮侯爵となる
■前妻 閑院宮華子女王 閑院宮載仁親王の娘・1951年華子の不倫で華頂博信と熟年離婚・戸田豊太郎と再婚
1909-2003 94歳没
■後妻 早川寿美子 日系アメリカ人
1919年生
●前妻の子 華頂博道 2代当主
●前妻の子 華頂博孝 伯爵伏見博孝となる
●前妻の子 華頂治子 外務大臣松岡洋右の子松岡震三と結婚
●後妻の子 華頂幸子
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』
1923年8月25日
伏見宮博信王〔華頂博信侯爵〕はやはり脳の具合とお腹の具合で休暇を延長さる。
1923年10月7日
伏見宮博信王〔華頂博信侯爵〕はどうも神経の気味だ。
やはり御友達でも作って快活にお仕向けすることが肝要だ。
私も少し手伝うかと思ったが、よく考えてみるとそれは私の主義にもとった行為のようだ。
山階宮萩麿王も友達が良くない。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
終戦後、収入の道を絶たれた博信は2,000坪の庭を利用して養鶏業を始めた。
いっぽう華子は邸宅を利用してダンス教師を始めた。
1951年、結婚24年を迎えた博信&華子夫妻に離婚スキャンダルがもちあがる。
関係者がこぞって手記を発表し、手記合戦となる。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
酒井美意子 前田利為侯爵の娘・酒井忠元伯爵の妻
華頂博信氏は伏見宮の第三王子・華子夫人は閑院宮の第五王女で、二人とも皇族出身である。
1926年結婚と同時に臣籍降下して華頂侯爵家を創立。
敗戦で収入の道を絶たれた海軍大佐の博信氏は養鶏で、華子夫人はダンス教師で生計を立てようとした。
そこへ夫人の愛人戸田豊太郎がからんでくる。
関係者は手記を発表した。
戸田氏と彼の別れた妻徳川喜和子も負けじと談話を発表した。
空前の手記合戦で読者を喜ばせ、大変な騒ぎであった。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
華頂博信
それは7月18日も深夜であった。
その日、夕方から来邸して華子と用談中の戸田氏がなかなか辞去する気配がない。
もうだいぶ遅いようだからと、それとなく帰宅を促そうと客間に行ってみた。
二人の姿は見えなかった。私は付属のクロークルームをなにげなく開けてみた。
そして、私はそこに見てはならない戸田氏と華子との姿を発見したのだ。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
徳川喜和子 戸田豊太郎の元妻
華頂様の離婚を新聞で見た時、私はすぐ別れた夫の戸田が一役買っているに違いないと思いました。
戸田は最近、ほうぼうのダンスパーティーなどに華子夫人を連れて歩いているようでした。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
戸田豊太郎
華頂家の離婚問題について、私は責任を感じない。私は華子夫人に愛情はあった。
しかし結婚するという前提でおつきあいしたわけではなく、もちろん今も結婚する意思はない。
これは恐らく華子夫人も同じ気持ちだろうと思う。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
田島道治 日記 宮内庁長官
※当時の総理大臣の年給は96万円
1951年7月28日
閑院宮春仁王来邸。
1951年7月29日
伏見宮朝子妃殿下訪問、昨日の件に関し御話す。
見通しは決裂としても長年のこと、子供さんのこと、再考願わしくまたやむを得ずとしても法律的でなく示談的なること、内密なること、閑院宮さんの受け入れ態勢のこと等々。
一度華頂博信氏に会うこと懸案として帰る。
1951年8月2日
華頂博信氏訪問。
1951年8月4日
閑院さん、昨日のこと初めて真剣後悔のこと
不人情な話(すぐ戸田に嫁ぐ案)も出づ。
1951年8月7日
秘書課長高尾亮一の華頂事件の大要を話す。
1951年8月8日
皇族譜研究。
閑院華子は嫡出。
1951年8月9日
華頂事件、新聞に出づ。
華頂氏より発表らし。
1951年8月10日
高松宮妃殿下御来室。
閑院宮春仁王来訪の話、戸田の名を御話す。
1951年8月22日
昨日の閑院春仁氏の毎日の記事にビックリし、今朝の華頂博信氏の毎日の記事に二度ビックリ。
1951年9月20日
閑院華子、戸田と結婚との声明。
1951年12月19日
華頂博信氏、復縁のこと。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
田島道治『拝謁記』宮内庁長官
1951年8月3日
7月28日閑院春仁氏来訪。
7月29日伏見博孝氏〔華頂博信の子〕訪問。
7月31日閑院氏希望にて伏見氏訪問、三人鼎座。
8月01日閑院氏来訪。
8月02日華頂博信氏訪問、伏見氏報告。
など逐一奏上、離婚やむを得ずとの結論に達したるむね言上す。
昭和天皇「遺憾な出来事だが、今の話ではやむを得ぬ」との仰せ。
春仁氏の御人柄を伺いしところ、
昭和天皇「よくはわからぬ。戦争前は威張る高慢な人とのことであったが、終戦後は変って柔和」との仰せ。
1951年8月9日
田島長官◆華頂博信氏の問題は火曜日に渋谷区役所に届出になりましたところ、華子夫人は皇族として御降嫁になり離婚のため皇族の生家へはお帰りになれぬこと、その後に皇族は無くなりました関係で閑院春仁氏の所へも復帰できぬとの法務府の見解のため、一家創立ということになり、お印が竹で竹村という姓になりましたとのことであります。
1951年8月22日
田島長官◆毎日新聞の閑院さんの手記は御覧遊ばしましたか。
昭和天皇◆見た。
田島長官◆8月18日伏見宮朝子妃から御電話で、「閑院宮様御留守中に御訪問。お書き残しの紙片に、『読売が一行も書かぬゆえ、何か大いに書きはせぬか気になる。ついてはそれの反対の方の新聞に話かける』とかなんとかいう意味のことが書いてあり、華頂さんと田島に伝えてくれとのことゆえかけた」との御話で、〈反対の新聞〉云々の意味が少し不可解と存じておりましたところ、毎日の記事で驚きました。
昭和天皇◆いったん収まったものを、何のためにそんなことを言われるかわからぬ。
田島長官◆まったくその通りでございますが、それを受けて今朝は華頂さんがいっそうあらわに毎日に書かれました。
どういうお気持ちかよくわかりませぬ。
昭和天皇◆華頂さんのはまだ読まぬが、どうも。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
田島道治 日記 宮内庁長官
1952年9月15日
華頂博信侯爵、徳川家正仲人の件取り消しのこと。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
宮内庁長官 田島道治『拝謁記』
1952年9月16日
田島長官◆帝国銀行頭取佐藤喜一郎から、華頂さん〔華頂博信侯爵〕の再婚 急転やめのことを聞きしこと、式部官長松平康昌から華頂さんが公爵徳川家正に仲人頼みまた中止と電話のこと。
昭和天皇◆お子さん気の毒だねー。
田島長官◆華頂さんお子さんの世話焼くこと絶対になく、慈父慈母のごとき御様子の結果。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
田島道治 日記 宮内庁長官
1953年12月15日
華頂新夫妻来訪。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
結局、華子と戸田が再婚、博信は渡米して再婚する。
1951年
1980年
=========================
◆2代 華頂博道 1代博信の子
1930年生
■妻 村松隆江 村松明治の娘
1931年生
●長男
●二男
●三男