直球和館

2025年

2002/01

■東京本邸 芝区三田台町(港区三田)


■鎌倉別邸 

※華頂宮家の鎌倉別邸は関東大震災で倒壊、鎌倉市にある通称旧華頂宮邸は正確には華頂博信侯爵邸である
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◆初代 華頂宮博経親王 伏見宮邦家親王の子 華頂宮を創設
1851-1876 26歳没

*アメリカ留学中に病死


■妻  南部郁子 南部利剛伯爵の娘
1853-1908 55歳没


●男子 博厚親王 2代当主


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◆2代 華頂宮博厚親王 1代博経親王の子
1875-1883 8歳没


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◆3代 華頂宮博恭王=伏見宮博恭王

*伏見宮貞愛親王の子博恭王が華頂宮を継承するが、実家に復帰して伏見宮博恭王となる


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◆4代 華頂宮博忠王 3代博恭王の弟/伏見宮貞愛親王の子
1902-1924 22歳没

*未婚であったため華頂宮家は断絶する


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『高松宮日記』

1921年3月21日
華頂宮博忠王、鴨撃ちに行かるる由。
祭日にはちと休んでもよかりそうなもの。
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◆初代侯爵 華頂博信
1905-1970 65歳没

4代博忠王の甥 
伏見宮博恭王の子伏見宮博信王
臣籍降下して華頂宮の祭祀を継承して華頂宮侯爵となる


■前妻 閑院宮華子女王 閑院宮載仁親王の娘・1951年華子の不倫で華頂博信と熟年離婚・戸田豊太郎と再婚
1909-2003 94歳没


■後妻 早川寿美子   日系アメリカ人
1919年生


●前妻の子 華頂博道 2代当主
●前妻の子 華頂博孝 伯爵伏見博孝となる

●前妻の子 華頂治子 外務大臣松岡洋右の子松岡震三と結婚
●後妻の子 華頂幸子


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『高松宮日記』

1923年8月25日
伏見宮博信王〔華頂博信侯爵〕はやはり脳の具合とお腹の具合で休暇を延長さる。

1923年10月7日
伏見宮博信王〔華頂博信侯爵〕はどうも神経の気味だ。
やはり御友達でも作って快活にお仕向けすることが肝要だ。
私も少し手伝うかと思ったが、よく考えてみるとそれは私の主義にもとった行為のようだ。
山階宮萩麿王も友達が良くない。
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終戦後、収入の道を絶たれた博信は2,000坪の庭を利用して養鶏業を始めた。
いっぽう華子は邸宅を利用してダンス教師を始めた。
1951年、結婚24年を迎えた博信&華子夫妻に離婚スキャンダルがもちあがる。
関係者がこぞって手記を発表し、手記合戦となる。


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酒井美意子 前田利為侯爵の娘・酒井忠元伯爵の妻

華頂博信氏は伏見宮の第三王子・華子夫人は閑院宮の第五王女で、二人とも皇族出身である。
1926年結婚と同時に臣籍降下して華頂侯爵家を創立。
敗戦で収入の道を絶たれた海軍大佐の博信氏は養鶏で、華子夫人はダンス教師で生計を立てようとした。
そこへ夫人の愛人戸田豊太郎がからんでくる。
関係者は手記を発表した。
戸田氏と彼の別れた妻徳川喜和子も負けじと談話を発表した。
空前の手記合戦で読者を喜ばせ、大変な騒ぎであった。
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華頂博信

それは7月18日も深夜であった。
その日、夕方から来邸して華子と用談中の戸田氏がなかなか辞去する気配がない。
もうだいぶ遅いようだからと、それとなく帰宅を促そうと客間に行ってみた。
二人の姿は見えなかった。私は付属のクロークルームをなにげなく開けてみた。
そして、私はそこに見てはならない戸田氏と華子との姿を発見したのだ。
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徳川喜和子 戸田豊太郎の元妻 

華頂様の離婚を新聞で見た時、私はすぐ別れた夫の戸田が一役買っているに違いないと思いました。
戸田は最近、ほうぼうのダンスパーティーなどに華子夫人を連れて歩いているようでした。
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戸田豊太郎

華頂家の離婚問題について、私は責任を感じない。私は華子夫人に愛情はあった。
しかし結婚するという前提でおつきあいしたわけではなく、もちろん今も結婚する意思はない。
これは恐らく華子夫人も同じ気持ちだろうと思う。
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田島道治 日記 宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は96万円

1951年7月28日
閑院宮春仁王来邸。

1951年7月29日
伏見宮朝子妃殿下訪問、昨日の件に関し御話す。
見通しは決裂としても長年のこと、子供さんのこと、再考願わしくまたやむを得ずとしても法律的でなく示談的なること、内密なること、閑院宮さんの受け入れ態勢のこと等々。
一度華頂博信氏に会うこと懸案として帰る。

1951年8月2日
華頂博信氏訪問。

1951年8月4日
閑院さん、昨日のこと初めて真剣後悔のこと
不人情な話(すぐ戸田に嫁ぐ案)も出づ。

1951年8月7日
秘書課長高尾亮一の華頂事件の大要を話す。

1951年8月8日
皇族譜研究。
閑院華子は嫡出。

1951年8月9日
華頂事件、新聞に出づ。
華頂氏より発表らし。

1951年8月10日
高松宮妃殿下御来室。
閑院宮春仁王来訪の話、戸田の名を御話す。

1951年8月22日
昨日の閑院春仁氏の毎日の記事にビックリし、今朝の華頂博信氏の毎日の記事に二度ビックリ。

1951年9月20日
閑院華子、戸田と結婚との声明。

1951年12月19日
華頂博信氏、復縁のこと。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1951年8月3日
7月28日閑院春仁氏来訪。
7月29日伏見博孝氏〔華頂博信の子〕訪問。
7月31日閑院氏希望にて伏見氏訪問、三人鼎座。
8月01日閑院氏来訪。
8月02日華頂博信氏訪問、伏見氏報告。
など逐一奏上、離婚やむを得ずとの結論に達したるむね言上す。
昭和天皇「遺憾な出来事だが、今の話ではやむを得ぬ」との仰せ。
春仁氏の御人柄を伺いしところ、
昭和天皇「よくはわからぬ。戦争前は威張る高慢な人とのことであったが、終戦後は変って柔和」との仰せ。

1951年8月9日
田島長官◆華頂博信氏の問題は火曜日に渋谷区役所に届出になりましたところ、華子夫人は皇族として御降嫁になり離婚のため皇族の生家へはお帰りになれぬこと、その後に皇族は無くなりました関係で閑院春仁氏の所へも復帰できぬとの法務府の見解のため、一家創立ということになり、お印が竹で竹村という姓になりましたとのことであります。

1951年8月22日
田島長官◆毎日新聞の閑院さんの手記は御覧遊ばしましたか。
昭和天皇◆見た。
田島長官◆8月18日伏見宮朝子妃から御電話で、「閑院宮様御留守中に御訪問。お書き残しの紙片に、『読売が一行も書かぬゆえ、何か大いに書きはせぬか気になる。ついてはそれの反対の方の新聞に話かける』とかなんとかいう意味のことが書いてあり、華頂さんと田島に伝えてくれとのことゆえかけた」との御話で、〈反対の新聞〉云々の意味が少し不可解と存じておりましたところ、毎日の記事で驚きました。
昭和天皇◆いったん収まったものを、何のためにそんなことを言われるかわからぬ。
田島長官◆まったくその通りでございますが、それを受けて今朝は華頂さんがいっそうあらわに毎日に書かれました。
どういうお気持ちかよくわかりませぬ。
昭和天皇◆華頂さんのはまだ読まぬが、どうも。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1952年9月15日
華頂博信侯爵、徳川家正仲人の件取り消しのこと。
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宮内庁長官 田島道治『拝謁記』

1952年9月16日
田島長官◆帝国銀行頭取佐藤喜一郎から、華頂さん〔華頂博信侯爵〕の再婚 急転やめのことを聞きしこと、式部官長松平康昌から華頂さんが公爵徳川家正に仲人頼みまた中止と電話のこと。
昭和天皇◆お子さん気の毒だねー。
田島長官◆華頂さんお子さんの世話焼くこと絶対になく、慈父慈母のごとき御様子の結果。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1953年12月15日
華頂新夫妻来訪。
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結局、華子と戸田が再婚、博信は渡米して再婚する。


1951年
3001


3002


3003


1980年
19800731



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◆2代 華頂博道 1代博信の子
1930年生


■妻  村松隆江 村松明治の娘 
1931年生


●長男
●二男
●三男

◆初代 華頂宮博経親王 伏見宮邦家親王の子 華頂宮を創設
1851-1876 26歳没

*アメリカ留学中に病死

26歳
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アメリカで
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■妻  南部郁子 南部利剛伯爵の娘
1853-1908 55歳没

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1879年 28歳
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●男子 博厚親王 2代当主


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◆2代 華頂宮博厚親王 1代博経親王の子
1875-1883 8歳没


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◆3代 華頂宮博恭王=伏見宮博恭王

*伏見宮貞愛親王の子博恭王が華頂宮を継承するが、実家に復帰して伏見宮博恭王となる


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◆4代 華頂宮博忠王 3代博恭王の弟/伏見宮貞愛親王の子
1902-1924 22歳没

*未婚であったため華頂宮家は断絶する






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◆初代侯爵 華頂博信 
1905-1970 65歳没

4代博忠王の甥 
伏見宮博恭王の子伏見宮博信王
臣籍降下して華頂宮の祭祀を継承して華頂宮侯爵となる






■前妻 閑院宮華子女王 閑院宮載仁親王の娘・1951年華子の不倫から熟年離婚・戸田豊太郎と再婚
1909-2003 94歳没











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■後妻 早川寿美子 日系アメリカ人
1919年生


●前妻の子 華頂博道 2代当主
●前妻の子 華頂博孝 伯爵伏見博孝となる

●前妻の子 華頂治子 外務大臣松岡洋右の子松岡震三と結婚
●後妻の子 華頂幸子


●華頂治子 外務大臣松岡洋右の子松岡震三と結婚
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◆2代 華頂博道 1代博信の子
1930年生


■妻  村松隆江 村松明治の娘 
1931年生


●長男
●二男
●三男

■東京本邸 1番目 芝区浜崎町(現:港区海岸)
和歌山徳川家の下屋敷


■東京本邸 2番目 麹町区霞ヶ関(現:千代田区霞が関)設計コンドル
九鬼家三田藩邸 1875年転入・1884年竣工 
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■東京本邸 3番目 麹町区三年町(現:千代田区永田町)
1903年竣工


■舞子別邸 兵庫県神戸市 1888年竣工
政治家矢島作郎の別荘を買い上げて造られた
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■翁島別邸「天鏡閣」福島県耶麻郡猪苗代町 1908年竣工
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■葉山別邸「松雲館」 神奈川県三浦郡葉山町
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■巣鴨別邸「紅緑荘」 東京都豊島区 1886年竣工
豪商嘉納治朗作の別邸を買い上げて造られた


■麻布別邸 東京都港区 1896年竣工


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◆6代 有栖川宮幟仁親王 5代有栖川宮韶仁親王の子
1812-1886 74歳没

1879年 69歳
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■妻  二条広子 公家二条斉信の娘
1819-1875 55歳没


●庶子 有栖川宮熾仁王  7代当主
●庶子 有栖川宮威仁王  8代当主

●庶子 有栖川宮幟子女王 水戸藩主徳川慶篤と結婚
●庶子 有栖川宮宜子女王 井伊直憲伯爵と結婚
●庶子 有栖川宮利子女王 伏見宮貞愛親王妃


●有栖川宮利子女王 伏見宮貞愛親王妃 1879年 23歳
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『貞愛親王事蹟』

<利子妃の精神病>

(二番目に生んだ昭徳王が1歳半で亡くなったことをきっかけに)憂鬱に沈みたまえり。
御心痛のきわみ、脳の御悩みに苦しめられ、ついに公の式には列したまはざるに至れり。
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明治の宮廷に出入りしていたドイツ貴族オットマール・フォン・モールの手記

<利子妃の精神病>

利子妃はすでにその頃から、のちに激しくなった精神錯乱の兆しを示されていた。
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佐々木高行『かざしの桜』明治天皇の娘昌子内親王と房子内親王の御養育係

<利子妃と邦芳王の精神病>

1899年8月22日
伏見宮にては禎子女王皇太子殿下の御息所に御内定と申すことにて、何事も同女王には御手厚くあれど、邦芳王にはすこぶる冷淡なる御模様なり。
伏見宮貞愛親王の御息所は有栖川宮威仁親王の御妹君利子女王にあらせられ候ところ、御神経の御病症にて久しく御閉居、同御息所の御誕生邦芳王は御同症にて御閉居なるに、その御取扱よろしからずとの御感触は有栖川殿中にてよほど御不快の趣にてあり。
禎子女王は御妾腹にあらせられ、その辺には言うべからざる御儀ありと漏れ聞くなり。

1899年12月30日
※元伏見宮家別当清岡公張の発言

伊藤博文などは最初から禎子女王に不同意にてありしと察せられ候。
その次第は別当在職中のある時、伊藤は「伏見宮禎子女王を東宮妃にとの御模様を薄々拝承す。然るに伏見宮御息所は御精神病にてまた若君も御同様なり、至極御大事なり」と言う。
私は「禎子女王は御妾腹にて若君は御本腹なれば御血統には何もなく、伏見家にはさような御病症は御一人もあらせられず」と答えて言った。
伊藤は「それでも御家内にあらせられ候ては如何。十分注意致すべし」と変な口気にてありし。
すでにその頃より異議ありたりと見ゆ。
さよう御大事のことなるに例の軽忽に奏聞致し申さずや。
伊藤は御信用も厚きことなるに、これまで軽率に奏聞せることもありしを承知せり。
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◆7代 有栖川宮熾仁親王 6代幟仁親王の子
1835-1895 60歳没

*身長160センチ・体重68キロ

*皇女和宮と婚約していたが、和宮は公武合体政策のために将軍徳川家茂に嫁がされる。



1879年 46歳
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■前妻 徳川貞子 水戸藩主徳川斉昭の娘・死別
1850-1872 22歳没




■後妻 溝口董子 神戸藩系本多忠穆の実娘・新発田藩主溝口直溥の養女
1855-1923 68歳没

1879年 26歳
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◆8代 有栖川宮威仁親王 7代熾仁親王の弟/6代幟仁親王の子
1862-1913 52歳没

*嫡男が早逝したため有栖川宮は断絶

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■妻  前田慰子 金沢藩主前田慶寧の娘
1864-1923 59歳没

*何かと口をはさみたがる、うるさ型の皇族の一人であった。


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『明治天皇紀』

1889年2月14日
有栖川宮威仁親王その宿願を聴され再び欧州差遣の命を蒙るや、妃慰子かねてより視察の希望あるをもって同行せんことを欲す。
天皇すぐにこれを斥け、
「婦女の洋行はいたずらに西欧の物質文化に眩惑せられ、娯楽または奢侈の悪風を助長するに過ぎず」と為して敢えて聴したまうの意なし。
先年小松宮彰仁親王、小松宮妃を伴いて欧州に抵しが、いたずらに宝石・衣類等を購いしが如き結果にかんがみたまうなり。
父有栖川熾仁親王さらにこれを請えどもついに肯じたまわず。
よりて熾仁親王、自費をもって同行せしめんことを請うに及び、
天皇はじめて「そは勝手たるべし」との仰せあり。
これにおいて威仁親王の願意ようやく達し、この年0月10日慰子の徴行して侯爵前田利嗣夫婦と共に洋行するを許したまう。
利嗣は慰子の兄なるをもって、慰子これと同行しその費は利嗣をして支弁せしむることとせるなり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は宗秩寮職員

1922年8月16日
※宮内官僚小原駩吉の発言

先年東伏見宮依仁親王が婦人を愛せられ周子妃が大いに困り処置方を自分に相談せられたる時、
「有栖川宮慰子妃の如く実子ありかつ性質も剛き方ですら、その問題につき云々せられたる結果は面白からず。ことに周子妃殿下には実子なく性質も弱き方につき、この際は何事も言わず全く無頓着になされおる方がよろしからん」と言いたる事ありたるが、幸いに間もなく婦人の関係は止みたり。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1952年12月8日
田島長官「高松宮様が翁島の御別荘を無償で福島県へ下附になる件でありますが、 有栖川宮威仁親王が御築造のとき地元民より意に反してお取りになっているような原因でもありますが、地元民にお返し願いたいという請願がありまして、表面高松宮様は無償で県へ下附のため国会の協賛を要しておりますが、陰ではどういう風ですか有償であるとの話であります」
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●有栖川宮栽仁王   明治天皇の娘允子内親王と結婚する予定だったが早逝
●有栖川宮実枝子女王 公爵徳川慶久と結婚→娘は高松宮喜久子妃


●有栖川宮栽仁王 明治天皇の娘允子内親王と結婚する予定だったが早逝



●有栖川宮実枝子女王 公爵徳川慶久と結婚→娘は高松宮喜久子妃
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『明治天皇紀』

1906年1月9日
昌子内親王をもって竹田宮恒久王に、允子内親王をもって有栖川宮栽仁王に配せんとし、内旨を侍従長侯爵徳大寺実則に伝えたまう。
これより先有栖川宮威仁親王、内親王中一人を得てその嗣栽仁王の妃と為さんと欲し、侯爵伊藤博文を介して内請する所あり。
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前任の有栖川宮務官平山成信から後任の有栖川宮務官西紳六郎への手紙

1916年10月20日 必親展
過日拝顔の節お尋ね御座候 徳川喜久子様の件は、小生宮務官奉職中の1913年6月22日 当時の宮内大臣渡辺千秋 舞子御別邸に伺候し、故有栖川宮威仁親王〔高松宮喜久子妃の祖父〕の御病室で拝謁の上、第三皇子宣仁親王に高松宮の御称号を賜ることに内定なりたるむね言上せしに、深く聖旨の厚きに御感佩遊ばされ、その儀御決定の上はなるべく早く御発表なり候よう取り計いくるるよう渡辺宮相に御頼談ありたる後、他日徳川喜久子様御成長の上、高松宮妃に御選定の御都合にもなり候はば、誠に御満足遊ばさるむね御内話あり。
渡辺宮相も御希望の趣にはまったく御同感につき、時機を見て大正両陛下にも内奏仕るべきむねお答え申し上げ退席さられ表客室にて休息中、有栖川宮妃は威仁親王の思召により御滞在中の喜久子様を親しく客室にお連れになり、渡辺宮相にお引き合せ遊ばされたる次第に御座候。
この段、参考まで申し上げ置き候。
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宮内大臣波多野直敬から有栖川宮務官西紳六郎への手紙

1917年3月27日
高松宮妃に関係する件、前宮内大臣渡辺千秋より別紙の通り中継を受け候。
1916年12月、大正皇后より本大臣へ同様の御沙汰あり候。
当時御内約済と言うまでには運びおらざるも、相当の時機においてお取り極めあらせらるべき御内意と伺い奉り候。
参考まで申し置き候なり。
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別紙
有栖川宮威仁親王御病気重くならせられ候際、宣仁親王に高松宮の御称号を賜い、かつ成長の後は徳川慶久公爵の娘喜久子を妃にならせられたき御内願を拝承し、帰京の上そのむね委細言上置き候こと、お引き継ぎ申し述べ候。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は宗秩寮職員

1922年2月28日
※宮内官僚松平慶民の発言

有栖川宮慰子妃より、娘の実枝子が夫徳川慶久の十日祭に参列せず、またその髪を切りたる事につき話あり。
「一度の相談もせずしてこのごとき事をなしては困る」との事なりし由なり。
また徳川厚男爵の妻すなわち自分の姉里子も、「十日祭に親族は集まりたるも、主なる未亡人がおらざりし」とて不満を唱えおりたり。
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『木戸幸一日記』内大臣※当時は内大臣秘書官長

※1932年8月、3代宮内大臣田中光顕伯爵が9代宮内大臣一木喜徳郎に辞職を迫り、
一木宮相は1933年1月に辞職する。

1932年8月25日
元宮内大臣田中光顕の行動の真相を知ることができた。
問題は高松宮殿下と徳川喜久子姫の御成婚に関連するものであって、田中氏が宮内大臣当時、有栖川宮栽仁王に内親王を配せんとする議があったところ、
明治天皇は「有栖川宮の系統には狂人があるのでかくのごとき系統のところには内親王を婚嫁せしむることを得ず」と仰せられたることあり。
田中氏はこの点より見て高松宮殿下に喜久子姫を配するはよろしからずと考え、かねて御内意の存したる時も宮内当局に注意したるが、御成婚御内定の際も一木宮相に考慮方を注意したるにもかかわらずこれを決行したるは実に不都合なるゆえその責任を問うというのであって、もし宮内大臣にして辞職せざるにおいては、この問題を暴露して争うと言うのである。

1933年4月25日
湯浅宮相が田中氏と会見し、
田中氏より「高松宮の御子孫と皇室の御縁談なきよう取り計われたし」と申し入れ、
湯浅宮相が「深く念頭に入るる」ということにて、円満解決せしとのことなりき。
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■東京本邸 豊多摩郡渋谷町(現:渋谷区東)

※戦後は常陸宮邸となる

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■逗子別邸 神奈川県逗子市 1910年竣工


■葉山別邸 神奈川県三浦郡葉山町 1914年竣工
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■箱根別邸 神奈川県足柄下郡箱根町 1927年


■蓼科別邸 長野県茅野市蓼科


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◆初代 東伏見宮依仁親王 伏見宮邦家親王の子伏見宮依仁親王
1867-1922 54歳没

*ハワイのカイウラニ王女との縁談話が持ち上がったこともある


■先妻 山内八重子 高知藩主山内豊信の娘・依仁親王と離婚・子爵秋元興朝と再婚
1869年生

*姉は北白川宮能久親王妃光子


■後妻 岩倉周子 公爵岩倉具定の娘
1876-1955 78歳没


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『明治天皇紀』 

1903年1月31日
小松宮彰仁親王の請を充し依仁親王をして彰仁親王の継嗣たる事を止め、別に一戸を立てて東伏見宮と称せしめたまう。
彰仁親王男子なきをもって故北白川能久親王の第四子輝久王を養うこと子の如くす。
依仁親王は既に継嗣と為れりといえども彰仁親王はこれに遺産を伝うるの意なく、ついに自ら臣籍に下り別に養子を納れてその跡を継がしめんと欲し、去年4月まさにイギリスに航せんとするに臨み、宮内大臣田中光顕子爵に告げ詮議するに、
「もし輝久王をして遺産を継がしめ、これを臣籍に列して侯爵を授け、小松氏を称するを得しめば、自ら臣籍に下るの一事を断念すべく、依仁親王には別に家号を賜りて一戸を立てしめんと欲する」の旨をもってす。
こと宸聴に達す。
天皇、その情を憐みてこれを充し、ついにこの恩命を下したまえるなり。

1907年2月26日
北白川宮能久王の寡妃富子および小松宮彰仁親王の寡妃頼子相議し、能久親王の子輝久王をもって彰仁親王の遺跡を継がしめんがため、皇族の身位を改むることなくその嗣子と為さんと欲し上書してこれを請う。
天皇、侍従長侯爵徳大寺実則をして伊藤博文の意見を徴せしめたまう。
伊藤以為らく「皇族の養子を許さざるは皇室典範に明文あり。ゆえに皇族の身位を改めずしてその嗣子と為すことは則ち不可なり。ただし勅旨または情願をもってこれを臣籍に降し、授くるに公侯爵中の一をもってし、なお適当の資産を下賜し、もってその嗣と為さば則ち可ならん」と。
天皇、伊藤の意見に基づき翌日徳大寺をして命を宮内大臣子爵田中光顕に伝え、
富子・頼子二妃の情願を斥け、輝久王を臣籍に降ろして公侯爵中の一を授け、小松の家号を賜い、彰仁親王の遺跡を継がしむべき旨懇諭せしめたまう。
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彰仁親王は実子が無かったため異腹弟依仁親王を養子に迎えていた。
当然小松宮家は依仁親王によって継がれるはずであったが、
突然彰仁親王は自分の臣籍降下と北白川宮輝久王を養子にすることを主張する。
輝久王は彰仁親王の同腹弟北白川能久親王が側室に生ませた子である。

当然宮内大臣はこれをしりぞける。
すると今度は輝久王だけでも臣籍降下させて侯爵にして自分の遺産を相続させてくれたら、
自分の臣籍降下はあきらめると主張する。
根負けした政府はこれを認め、依仁親王には東伏見宮を創設した。

ところが東伏見宮が創設された直後に彰仁親王が死亡、小松宮家の当主の座が空白となった。
そこで今度は彰仁親王の妻頼子妃と北白川宮輝久王の母富子妃の二人が、
輝久王を臣籍降下させず皇族のまま小松宮家を相続させたいと主張した。
明治天皇はこれを一蹴、当初の予定通り輝久王は臣籍降下して小松輝久侯爵となった。

彰仁親王がそこまで依仁親王に相続させることを嫌がった理由ははっきりしていないが、
彰仁親王と依仁親王は別々の側室の子、彰仁親王と能久親王は同じ側室の子、
異腹弟ではなく同腹弟の子に遺産を遺したかったのかもしれない。


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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

<依仁親王の不倫問題>

1922年8月16日

※宮内官僚小原駩吉の発言

先年依仁親王が婦人を愛せられ周子妃が大いに困り処置方を自分に相談せられたる時、
「有栖川宮威仁親王の妻慰子妃の如く実子ありかつ性質も剛き方ですら、その問題につき云々せられたる結果は面白からず。ことに周子妃殿下には実子なく性質も弱き方につき、この際は何事も言わず全く無頓着になされおる方がよろしからん」と言いたる事ありたるが、幸いに間もなく婦人の関係は止みたり。
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『木戸幸一日記』内大臣

1933年10月11日
東伏見宮事務官加藤内蔵助氏来庁。
水野忠款子爵が周子妃殿下に「内大臣より外交団との御交際を御勧めしたる」がごときことを申し上げたる由にて、妃殿下もその御気持ちになりおらるるところゆえ、外交団との御交際に要する費用として従来良子妃〔香淳皇后〕御補導として賜りたる(昭和6年に打ち切った)1万円を御下賜相なるよう願いたくとの希望あり、相談せらる。

1933年10月12日
東伏見宮に賜りたる良子妃御補導費としての1万円は、大正12年に始まり年々御手許より賜りおりたるところ、御世の代りたるとき昭和陛下より「補導をなさざるになぜ賜るや」につきお尋ねあり。
その結果、昭和6年に5千円を賜りて打ち切りたるものなり。
内大臣の言葉はさほどまで強き意味にはあらざるべく、他の宮家との関係上これを支出するのは面白からず。
ことに寡妃たる周子妃殿下に特に費用を差し上げてかくのごときことを願うは面白からず。
断ることとす。

1934年3月28日
東伏見宮家高橋別当を招き、周子妃殿下の愛国婦人会総裁としての御行動につき注意を促す。

1936年11月23日
湯浅内府より山口県における愛国婦人会に東伏見宮周子妃殿下御台臨の状況につき話あり。
遺憾の点多し。
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『高松宮日記』

1937年5月7日
帝国ホテルにて東伏見伯爵と亀井伯爵令嬢の結婚披露宴あり。
東伏見宮大妃〔東伏見宮周子妃〕いたくお喜びなり。
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◆初代伯爵 東伏見邦英/東伏見慈洽
1910-2014 104歳没

久邇宮邦彦王の子久邇宮邦英王
臣籍降下して東伏見宮の祭祀を継承して東伏見伯爵となる
後に僧侶となり東伏見慈洽と改名


■妻  亀井保子 伯爵亀井茲常の娘


●男子 東伏見韶俶 2代当主
●男子 東伏見慈晃
●男子 東伏見睿俶

●女子 東伏見邦子


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『木戸幸一日記』内大臣

1933年11月16日
※東伏見宮家別当高橋の発言

東伏見邦英伯爵の不満は京都大学入学、東京大学入学を勅命により阻止云々。

1937年8月2日
東伏見宮家別当高橋来庁。
東伏見伯爵家の財政その他につき、詳細な話を聴く。
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『高松宮日記』

1937年5月7日
帝国ホテルにて東伏見伯爵と亀井伯爵令嬢の結婚披露宴あり。
東伏見宮大妃〔東伏見宮周子妃〕いたくお喜びなり。

1943年5月8日
《東伏見邦英伯爵の管長問題》
皇族会議。
東伏見邦英伯爵の比叡山真言宗管長のことは、元久邇宮属なりし飯田というもの京都にあり真言宗宗務に関係あるとかにて、その策動にて得度する要なくてとて東伏見伯爵に申し入れ、彼は昭和皇后の弟宮なりしとのことで宗会議等の関係を丸め得るとでも簡単に考えたるか。
東伏見伯爵も歴史研究にも便なりくらいにて、東伏見大妃〔養母東伏見宮周子妃〕・久邇大妃〔実母久邇宮俔子妃〕に話あり、別に反対もされなかったとのことにて新聞に出たわけにて、得度することに東伏見伯爵は大反対とのことなり。
本願寺の者は「昔は叡山と奈良から妻帯することについて盛んに攻撃されたるに、今度は真言宗の管長から妻帯することになるとは面白いこと」と言っている由。
〔東伏見邦英伯爵はすでに妻子持ち〕
文部省では管長は、
●徳のある者
●得度すること
などを条件と考えある由にて、宗務会議等にて改訂をしてもその点文部省で許可せざるべし。
ただ例の官僚的に申し出なければ、意志を表明せざる態度は不適当なことである。
星島は先に3年の執行猶予なりしも、相変わらず東伏見伯爵の身辺にあり。
他に人もなきらしく、今回のことには直接関係は無いようなり。

1944年1月14日
《東伏見邦英伯爵の管長問題》
文部省ははじめから俗人に修行なき人には許さずと言うも、態度極めて消極的なり。
最近得度して僧籍に入るとの考えを持ち、そうすれば管長になれるとの見方をしておられる。
本年になりてより久邇宮朝融王〔東伏見邦英伯爵の兄〕に珍しく面会、その話をされし由。
朝融王は「どうせなっても失敗するであろうからやらせてみよう」との考えの由。
宮内省としてはとめたいが下手にとめだてすると、「東伏見宮の祭祀を継がぬ」と申し出られるのを恐れる。
先の場合にもそういう脅しを用いられた。
東伏見宮大妃〔東伏見宮周子妃〕にしてみれば最も重大なることにて、昨年これも珍しく東伏見宮が法隆寺を自ら案内されたのをひどく喜ばれて、宮内大臣松平恒雄・宗秩寮総裁を食事に召したというくらいのこともあり。
僧籍に入ることを望まれぬが、これは絶対ということでないので仕方なしとも考えられようが、祭祀のことになると大問題で大妃殿下のもっとも痛心されることになり、松平宮相もこの点を考えねばならぬ立場にあり。
管長就任に関しては叡山側もこれで世襲の管長を叡山に置けるという考え。
青蓮院〔天台宗門跡寺院〕ではそれで収入も増すであろうという考え。
上野〔天台宗寛永寺〕では京都久邇宮邸を住居とされよう、そしていずれは東京の移られて上野に来れようというなどの、それぞれの考えで賛成している。
黒幕たる星島・飯田はすでに運動金を消費しているとか。
管長になれば年10万円はもらえよう等、就任のためには100万円も用いられよう等の考えあり。
結局現在ではやはり文部省から速やかに、時局も考えかかる管長は許さぬ方針をそれぞれに示達するを適当とすべしとの所見を宗秩寮総裁に語る。

1944年3月3日
《東伏見邦英伯爵の管長問題》
その後文部省からインチキな得度では許さぬ旨、宗務当局者に強く話たるところ止めとなる。
東伏見伯爵も断念したとか。
それにつけても星島は磯子に常住し特別の配給として白米・玉子・肉等を警察から、それが受けなくなったので経済部から受けて、しかも代金も払わず、東伏見伯爵が月の半分は京都なのを一カ月分取って、なにかと言うと皇族出をふりまわし、量も皇族以上とか。
神奈川県知事近藤壌太郎も警察に出すなと言って止まったと思って知らずにいたり。
笑い話以上なりと。
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◆2代 東伏見韶俶 1代邦英の子
1940年生


■妻  田島礼子  田島一男の娘
1944年生


●長女
●二女

◆初代 東伏見宮依仁親王 伏見宮邦家親王の子伏見宮依仁親王
1867-1922 54歳没

*ハワイのカイウラニ王女との縁談話が持ち上がったこともある

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■先妻 山内八重子 高知藩主山内豊信の娘・依仁親王と離婚・子爵秋元興朝と再婚
1869年生

*姉は北白川宮能久親王妃光子




■後妻 岩倉周子 公爵岩倉具定の娘
1876-1955 78歳没



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2008




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1929年
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◆初代伯爵 東伏見邦英/東伏見慈洽
1910-2014 104歳没

久邇宮邦彦王の子久邇宮邦英王
臣籍降下して東伏見宮家の祭祀を継承し東伏見伯爵となる
後に僧侶となり東伏見慈洽と改名


■妻  亀井保子 伯爵亀井茲常の娘


養母東伏見宮周子妃と




1941年
3006




1985年
19850530



●男子 東伏見韶俶 2代当主
●男子 東伏見慈晃
●男子 東伏見睿俶

●女子 東伏見邦子


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◆2代 東伏見韶俶 1代邦英の子
1940年生


■妻  田島礼子  田島一男の娘
1944年生


●長女
●二女


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