直球和館

2025年

2002/02

■東京本邸 1番目 1892年転入
鳥居坂の井上馨侯爵邸


■東京本邸 2番目 麹町区一番町(現:千代田区三番町)


■東京本邸 3番目 渋谷区宮代町(現:渋谷区広尾)敷地2万2千坪 1919年竣工

戦後、大映に売却

聖心女子大に売却


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■江戸時代の京都本邸 和宮屋敷


■京都別邸 京都市上京区河原町通荒神口 1899年竣工
5006



■妙高別邸 新潟県妙高市 1925年竣工


■熱海別邸 静岡県熱海市 1927年竣工


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◆初代 久邇宮朝彦親王 伏見宮邦家親王の子
1824-1891 67歳没

わがままな言動が多く、自分・子・孫と三代続いてお騒がせ皇族の一人であった。


※妻帯せず側室・庶子多数のため主要な子供のみ


●久邇宮邦憲王   初代賀陽宮邦憲王となる
●久邇宮邦彦王   2代当主
●久邇宮守正王   3代梨本宮守正王となる
●久邇宮多嘉王   久邇宮多嘉王家となる
●久邇宮鳩彦王   初代朝香宮鳩彦王となる
●久邇宮稔彦王   初代東久邇宮稔彦王となる

●久邇宮栄子女王  子爵東園基愛と結婚
●久邇宮安喜子女王 侯爵池田詮政と結婚
●久邇宮絢子女王  子爵竹内惟忠と結婚
●久邇宮素子女王  子爵仙石政敬と結婚
●久邇宮篶子女王  伯爵壬生基義と結婚
●久邇宮純子女王  子爵織田秀實と結婚


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川路聖謨『寧府紀事』

御歳は22とかになれせらるとの御事なり。
格別の美僧と申し奉るにはあらねど良き御容貌にて、御英明ことに優れさせ給い、ただただ恐れ入りたる事のみなりき。

1846年閏5月6日
不思議なるは、〔朝彦親王は〕ことに御髪剃らせらること嫌わせ給い、よほどの御晴ならでは御さかやきは遊ばせぬ由。
今日も五分さかやきと言うよりも勝りたる御長髪なり。
与力どもかねて今日は定めて宮の御さかやきあるしか、いかに、など言いて笑いし。
御発明に引き比べては不思議なる御事なり。

1847年2月2日
ある人の秘かに語りしは、一条院の宮(朝彦親王)は御幼年の節、日蓮宗の本山へ御住職のつもりにて、御客分同前の小僧にていらせられしに、けしからぬ御いたづらにて、講中の町人どもへ糞汁をかけなどなされ、大いに暴れ給いけれども、王孫の御事ゆえ、すべき様もあらず、今日は返し奉るべし、明日は返し奉るべしとて困りおりける。

1847年10月12日
<南朝の血筋と自称する朝彦親王>
わが実家は吉野の皇居の血筋なるゆえ、かことに盛んにして、当時(現在)は禁裏も後醍醐帝の御血筋、近衛も鷹司もみな我が実家の者どもが継ぎたり。
不思議なることよ」

1849年閏4月26日
〔朝彦親王〕近ごろ【御かむ鬱】の御症にて、御労症の御発病かあるいは甚だしき御発狂なければよしとて、医の御案じ申し上げる由なり。
それには御外出ならでは御身の御養いかたなしとて、宝蔵院のヤリなど御覧なさるるとて御成りあるとなり。
宮様ならずばいかようにも御保養のあるべけれども致し方なし。
容儀よろしき若衆などは御近習のうちに一人もなし。
しかるに御才発なる御方の御年は25と申す。
このかた肴も食わずにいらせらるるゆえに、癇鬱の御症と【なるなる】べし。
御気の毒のものなり。
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佐々木高行『かざしの桜』明治天皇の娘昌子内親王・房子内親王の御養育係

*久邇宮純子女王は大正天皇のお妃候補になったことがあった

1899年1月
※下田歌子の発言
久邇宮純子女王はとても明治陛下に難しきことならん。
なにぶん久邇宮との御間柄は御事情あり、お聞き届けはあるまじくと考えられ候。
一条経子はよろしからず、残るは徳川か。
しかるに見栄えこれ無し。
もっとも徳川国子は身体丈夫、生質もよろしく、発明なれば、見栄えはともかくしかるべしか。

1899年1月21日
※佐々木と前宮内大臣土方久元の会話

土方◆華族女学校長へも相談し、久邇宮純子女王はいかがと尋ねたるに、何も申し上げ候御義はこれ無しと。
一条経子はいかがかと、一条は教育一同においてもしかるべからずとの答えありたる。
佐々木◆久邇宮純子女王は御病症もあらせられず候らえども、いかにも御体裁よろしからず太子妃には御不相応かと。
そのなか徳川慶喜の娘国子は生質はいたってよろしく、発明の趣き、下田らよりも承り。
しかし至って丈低く、甚だお見立て無しとのことなり。
土方◆御同感なり。

1899年4月8日
※前宮内大臣土方久元の発言

徳川慶喜娘国子は人物よろしき趣きにつき、先日大山巌らと学校へ模様を見に行きたり。なにぶん体格至少にていかがかと考えたれども、人物よろしき趣きにつき、なお体質を検査致せさせ方、これは禎子女王より一層悪しきと申すことにて致し方なく取り消したり。
久邇宮純子女王は天皇に思召しあらせられ難しい。
北白川宮女王は御体質よろしからず。
一条経子は人柄よろしからず。
華族女学校にて各教師も見込みなしと言う。
鷹司房子は弱体にてすでに当御殿にも参殿せぬくらい。
毛利万子はよろしき趣きなれども、薩長二藩閥うんぬんにて人心に関しおる時に向来の皇后宮まで長とか薩とかにてはしかるべからず。
九条節子は体質は丈夫にて悪心はこれ無し。
もやは致し方なく、まずもって七分通り節子と申すことに相成りおり候。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1922年3月19日
※総理大臣小磯国昭の発言

東久邇宮稔彦王は朝香宮鳩彦王より一日遅れて生まれられたるも、稔彦王の生母が鳩彦王の生母より賤しく、特に一日違いの誕生を世間体を繕う必要もありたるべきも、1ヶ月ばかり遅れたる事と為し、稔彦王に対する待遇も鳩彦王に比すれば差別あり。
父久邇宮朝彦親王は維新の頃は朝譴までも受けられたることあり、後年に至りても不平を漏らされたる事もあり。
稔彦王もその不平談を聞かれたる様の事よりして、殿下の性質は自然猜疑心を生ずる様になられたる事と思わるとの談を聞きたる事あり。
稔彦王は宮内省または陸軍省等の人が殿下の為に心配する事を、かえって悪意に御取りなされおる事少なからず。
これはその御性質より来る事なるべし。
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◆2代 久邇宮邦彦王 1代久邇宮朝彦親王の子・娘は香淳皇后
1873-1929 57歳没

わがままな言動が多く、父・自分・子と三代続けてお騒がせ皇族の一人であった。


■妻  島津俔子 公爵島津忠義の娘・姉は山階宮常子妃
1879-1956 76歳没


●久邇宮朝融王  3代当主
●久邇宮邦久王  侯爵久邇邦久となる
●久邇宮邦英王  伯爵東伏見邦英となり後に僧侶東伏見慈洽となる

●久邇宮良子女王 昭和皇后/香淳皇后
●久邇宮信子女王 伯爵三条西公正と結婚
●久邇宮智子女王 東本願寺大谷光暢伯爵と結婚


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『倉富勇三郎の日記』枢密院議長

1914年9月16日
※東久邇宮聡子妃の発言

邦彦王の妃は細川侯爵家より行かるるはずになりおりたるところ、久邇宮家より故障を言われ遂に解約となり、その婦人悦子は一条実輝の妻となれり。
その後 良子女王の問題あり。また此節朝融王の問題あり。今まで3度の紛紜あり。
世人が久邇宮家を相手にせざる様になるべし。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

<信子女王の縁談>

1922年1月8日
※久邇宮家別当栗田直八郎の発言

信子女王の縁談につき牧野宮相へ謀りたる所、
牧野より「どこからも申込なきや」と言い、
自分より「三条実憲公爵に人をもって話をなしたるも、その方より返答なし」と言いたるに、
牧野より「山階芳麿侯爵はいかが」と言われ、自分も良縁と思いその周旋を依頼しおきたり。
久邇宮邦彦王も御懇望なるも、山階侯爵よりなんらの話なし。

1922年1月24日
※久邇宮家別当栗田直八郎の発言

山階宮付事務官より「山階侯爵はなお早しとて承引せられざる」旨を告げ、談は絶えたる訳なり。

1922年7月20日
※倉富&有馬頼寧伯爵の会話

頼寧◆山階宮家別当市来政方より自分の長女静子を山階芳麿侯爵に嫁せしむるよう女子学習院の某に相談し、某より自分に相談したり。
静子は軍人は好まずと言いおるも勧め方によりては承諾せざる事もなかるべく思わるるも、自分らの懸念は山階侯爵の体質なり。
君は承知せざるや。
倉富◆詳知はせず。
ただ身長は非常に高く肉は少なき方なり。
頼寧◆その通りなり。
身長は5尺7寸とかにて体重は13貫何百目という事なり。
単に本人が強壮ならずという事だけならばさほど懸念せざるも、父親は肺患なりしとの事なるゆえ懸念しおれり。
倉富◆久邇宮邦久王よりもよろしからんと思えども、健康の程度がわからざるゆえ充分の調査を必要とすべし。
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◆3代 久邇宮朝融王 2代邦彦王の子
1901-1959 58歳没


素行不良で、祖父・父・自分と三代続けてお騒がせ皇族の一人だった。

酒井忠興伯爵の娘酒井菊子と婚約していたが、7年も経ってから朝融王が一方的に婚約破棄したため大問題となった。

結婚後は侍女に手をつけ、妊娠出産事件に至り大問題となった。(倉富日記1928年6月29日)

戦後は久邇宮家の紋章をつけた久邇香水を販売するが一時的成功に終わる。
銀座のダンスホール〈メリーゴールド〉と神田のダンスホール〈クラブパール〉を経営して失敗。


■妻  伏見宮知子女王 伏見宮博恭王の娘 
1907-1947 40歳没


●久邇宮邦昭王  4代当主
●久邇宮朝宏王  西村桜子と結婚
●久邇宮朝建王  宮沢澄子と結婚

●久邇宮正子女王 伯爵龍田徳彦/梨本徳彦と結婚・熟年離婚
●久邇宮朝子女王 男爵島津斉視と結婚
●久邇宮通子女王 永岡氏と離婚・酒井省吾と再婚
●久邇宮英子女王 本州製紙木下又三郎の子木下雄三と結婚
●久邇宮典子女王 財閥古河潤之助と結婚


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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1928年6月29日
※久邇宮知子妃の発言

父伏見宮博恭王から朝融王も酒井との婚約に破れ、速やかに結婚できざればその面目にも関するにつき、朝融王に婚することを承諾せよと言われ、自分はその時より犠牲になるつもりにて結婚したり。
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『木戸幸一日記』内大臣

1935年8月21日
久邇宮家宇川済別当来訪。
久邇宮殿下の件につき内話あり。
御自覚なき御行動、享楽的な御行為は、実に困ったものだ。

1935年9月5日
宇川別当来庁。
久邇宮殿下横浜の件、その後の経過を聴く。

1935年9月9日
宮内大臣に久邇宮殿下横浜の件を報告す。

1935年9月10日
海軍省において久邇宮殿下に拝謁、久邇宮殿下より今回の件につき遺憾のむね御挨拶あり。
なお久保田と関係を絶つの要を進言、御承諾を得たり。

1935年9月19日
海軍省に至り、久邇宮殿下に拝謁す。
田島仲高属の処分の件なり。

1936年3月25日
内大臣・宮内大臣と面談。
久邇宮殿下〈岩惣〉云々の話あり。
御注意申し上げることとす。

1936年5月4日
久邇宮邸に伺候、久邇宮殿下に拝謁、先般御差遣の宮として海軍兵学校に御出張の際、宮島御泊の際の御行動につき、強く言上す。

1936年5月5日
軍令部にて久邇宮殿下に拝謁、重ねて御注意を言上す。
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『入江相政日記』侍従長

1947年5月21日
昭和皇后御召で出ると、時事の記事につき久邇宮朝融王のことを伺う。
すぐに官房の方にも知らせる。
このため宮内省側はあまり強くも出られなくなった。
困ったことである。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1949年2月12日
昭和天皇◆朝融さん〔久邇宮朝融王〕の後妻のこと、就職のこと、何かないか骨折ってみてくれぬか。
関係の女は1月に死んだ、一人で寝られぬと言う。
田島長官◆就職のことは結城豊太郎〔久邇宮家相談人・元日銀総裁〕より話あり一度話したことありますが、職業軍人のため無理のようであります。
後妻の方は心がけましょう。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1950年5月12日
田島長官◆久邇宮朝融王より富裕税処理に関する人の依頼あり。
また久邇邦昭さん〔久邇宮朝融王の子〕寄宿の話ありたること。
邦昭さんを田島にお預けになりたきは、御自分の私行上 煙たきお気持ちのこと。
昭和天皇◆良宮から聞いているのは正反対で、邦昭の行いが不十分ゆえ教養のために外に出すとのことだった。

1950年5月15日
昭和天皇◆朝融さんのことだが、ひがんでおいでのことがある。
一つはアメリカは皇族をひどく落ちぶらせようとの意図を持ってると思っておられるらしい。
朝融さんは一途にアメリカはひどくすると思い、ひがんでおられる様子だ。
今一つは高松さんだの他の方はみな楽をしておいでだというひがみを持っておいでだ。
これもみなさん税金等で相当お困りで、朝融さん一人がお困りということはなにのにひがんでおいでだ。
腑に落ちぬことは、「三年経つと金はみな無くなる」と言われるが、利息となればそんなはずはない。
田島長官◆利息だけでは難しいと思います。
石渡と相談の結果、経済顧問は少し重みのある人がよいと存じます。
いま弁護士をしております青木一男〔元大蔵大臣〕が税に詳しく、朝融王に御異議なければさよう取り運ぶつもりでおります。
昭和天皇◆良宮に聞くと、「邦昭をよそに預けるのは経費節減のためだ」と仰せになるそうだが、私は理屈がわからぬ。
人に預けても生活費等は同じく、経費が減るとは考えられぬ。
良宮には今一つ、「邦昭の勉強修養のため」などと仰せになるようだ。
実にわからぬのは三年でなくなってしまうという話だ。
普通に利殖をなしておられれば減るはずないと思うし、御自分で元本をお減らしになるのではないかと思う。
田島長官◆旧宮家ではまだ使用人多く経費かさみ、収入のみで支弁できることは困難と思います。

1950年5月25日
田島長官◆久邇宮朝融王は近来巫女的な迷信にて方角のことなど非常に留意の旨。
昭和天皇◆大宮御所の山中という御用掛〔元侍従長珍田捨巳の娘山中サダ〕が日蓮で、大正皇太后〔貞明皇后〕も多少御関係ゆえ、その点ちょっと注意する。
田島長官◆元宮内庁次長加藤進が「朝融王は嘘つき」と申せし事。
昭和天皇◆加藤の嘘つきと言ったのは時事新報のことだが、その時以来新聞とのことはお慎みのようだ。
田島長官◆昭和陛下の御趣旨を体する皇族・元皇族の方はお少ないようで。

1950年6月17日
田島長官◆久邇宮朝融王の財政の件、経済顧問が調査の結果、収支計算ずいぶん無鉄砲のように存ぜられますが、皇室にて何とかとの御依頼心ありましては真に困ると存じます。
昭和天皇◆現に一回御補助したことはあるが、いったいどんな風か。
田島長官◆使用人の数など、この際使用人はお減らしのおつもりらしきも。
昭和天皇◆それは経済顧問などで首切りをやってもらわんと、朝融さんは弱いから。

1950年7月12日
田島長官◆久邇宮朝融王の件、久邇香水の話、117,000円の赤字予算の話。
昭和天皇◆お弱い性格なのだ。

1950年9月1日
田島長官◆久邇宮朝融王が「徳川義親に田島関係ありや」とのお尋ねにて、「あり」と申し上げしところ、「義親の家に邦昭〔朝融王の子久邇邦昭〕を置いてくれぬか」との御話なりしゆえ、「義親は操行も感心せず」と申し上げましたが、御教育上のことはお考えなく、広い家の内ならどこへでも置いてくれとのお頼みは如何と存じます。
昭和天皇◆義親はいかぬ。
何でも新しがってやって信用できぬ男。

1950年9月6日
田島長官◆久邇宮経済顧問青木が久邇宮朝融王の御態度に憤慨しましたことがありまして。
昭和天皇◆この間うまういってると言ったが、また改革上の御変心か。
田島長官◆青木に対する御態度がどうも御理解なき点に憤慨の様子であります。

1950年9月11日
田島長官◆久邇宮朝融王が信心か迷信か「8月か10月か東京中焼ける」とかいうので、御邸をお売りになることは御熱心で、ピアノを善光寺に疎開されたりしています。

1950年10月17日
田島長官◆久邇宮朝融王のことが読売夕刊に出まして。
〔「久邇氏に斜陽の悩み 宏壮な本邸手放す 追われる生活と税金」〕
昭和天皇◆知らぬ。
記事の概略と久邇家経済顧問塚越に聞きし大妃殿下〔朝融王の母久邇宮俔子妃〕の財務御処理方法の申し上げ、
田島長官「今回の御祝に対するお金を賜りし節は塚越らに運用せしめられた方がよくはないかと存じます」むね言上す。
昭和陛下、進んで何らの御返事なし。

1950年11月6日
田島長官◆久邇宮家の方はちょっと悪いことがありまして、大妃殿下〔久邇宮俔子妃〕の御手許のお金の運用も宮家同様に腐ったのがあるのではないかとの杞憂が杞憂でなくなりましたので、50万円だけは経済顧問塚越に有利確実に保管してもらうことが意味のあることになりました。
昭和天皇◆大妃殿下のもか。

1950年12月1日
昭和天皇「邦昭〔久邇宮朝融王の子久邇邦昭〕に順ちゃん〔順宮厚子内親王〕をもらいたいと良宮に話があった」という御話を初めて仰せになり拝承す。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1951年4月18日
久邇宮邸の買い手、しかるべき人なきや聞く。

1951年5月10日
山梨大将来室。
久邇邦昭氏訪問せし由、襖100面縁問題等話す。

1951年9月19日
久邇宮俔子大妃、初台の家イヤとのこと。
朝融王の意見ならん。

1951年9月25日
久邇宮朝融王、詐欺の話。

1951年9月27日
久邇宮朝融王訪問。
とにかくある日までに良い家なくば初台に願うことと話す。

1951年10月13日
久邇邦昭氏来る。
初台の家はどうもイヤ。
西落合か柿木坂で決めたいらし。

1951年12月3日
久邇宮朝融王、引越し強行のこと。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は96万円

1951年2月23日
田島長官◆昭和皇后より久邇宮朝融王の後妻心配せよとの御話あり。
朝融王の御癖にてやむを得ずば正妻でなきも、一定の女の方が不定よりはよろしきかとも存じます。
昭和天皇◆いいことではないが、あちこちよりはいいかもしれぬ。
人柄と健康さえ良くば。

1951年3月27日
昭和天皇◆久邇さん〔久邇宮朝融王〕の襖絵のことは?
田島長官◆他の元皇族に知れませぬよう致したいと存じまするのは、昭和皇后の御里ゆえに御補助という誤解もせられまする恐れありまするゆえ、インフレの理屈を採れば実に愚な申訳でございますが、35万円の物が100万円に売れたという口実に、朝融王にお上げになるということかと存じます。

1951年4月2日
田島長官◆久邇宮朝融王は婦人の問題もありますし、襖の絵の代金を朝融王に差し上げられますことは如何と思いまするし、久邇宮家経済顧問塚越の話によれば、久邇宮家はお母様なきお子様たちには家庭教師もなく、ちょっと気の毒と申しておりますゆえ、そういう面にお使いになればよいかと存じますので、信託的に遊ばしたらと考えております。

1951年4月21日
昭和天皇◆照ちゃん〔照宮成子内親王〕の所へ松本というのが出入りしている。
ラスプーチンのような穏田行者〔飯野吉三郎〕のような、科学的に言えば動物電気のよく出る人で、予言をしたり共産党の情報を持ち、共産党嫌いで皇室崇拝の人がいるそうだが、悪い人でもないが穏田的な奴ゆえ照ちゃんなどの所へも来るようだ。
田島長官◆類似のことが久邇宮朝融王の場合にもあり。
坊さんか尼さんかの信者に三谷侍従長の妻の兄長尾新輔とか伽藍とかいうのがいると聞きましたが、宮様方がこういう人たちに騙されるのは一番困ります。

1951年6月1日
田島長官◆久邇宮家のこと、買主の聖心女子学院から御邸内の元官舎内に住居の家職連中が立ち退きの請求を受けておりまして、多少争いがありますが、結局久邇宮朝融王の行状濫費と退職金の少ないのの関係上面白くないことがあるようで、何とか朝融王に御忠告する人はないかと存じますが、山梨勝之進はいい人柄ゆえ一度相談してみたいと存じます。
昭和天皇◆良宮の関係で自重というお考えがなく、自由に過ぎる。

1951年6月15日
田島長官◆久邇宮朝融王の御邸はAもダメらしく、Bもはかばかしい返事もなく、最初から目をつけておりました飯尾運送へ経済顧問青木一男〔元大蔵大臣〕から話し込みましたところ、1,350万円で買うとのことでございます。
ただ小さい御家をお買いになるのに大きいこと御希望になれば何の結果もないようなことになりますので、その点努力の要があります。
昭和天皇◆そうか。
それはまず一歩進んだ。よかった。

1951年6月19日
田島長官◆久邇宮朝融王ことでありますが、山梨勝之進は多少の苦言はあえて呈すると引き受けてくれました。
御邸は1,350万円で売れまして、新しい家は思い切って100坪以下の小さい家としていただき、その新しい家が過小という理由で、朝融王に別の家に御住居願うということは如何かと存じておりましたが、山梨も同様な考えであり、御手許金を表会計に統一のお願いをして、もし御承諾なければ御手許金だけで御生活いただくというようなことにもせねばならぬかとも考えます。
元別当国分三亥および元別当宇川済も、「朝融王は仕様がない。大妃殿下〔久邇宮俔子妃〕の御平穏を祈る」と申せし由。
経済顧問塚越から村田に5万円賜うよう申し上げ御異論も仰せなく、事実は3万5千円しか賜らずポケットにお入れになり、村田に賜らぬという態度にはほとほと驚きました。
一昨年は後添えをお頼みになり少し試みましたが、20代がいいとかいう御話で到底ダメと観念せし頃、昭和皇后より「私も断念したから配慮無用」との御話を拝したこともあります。
昭和天皇◆20代の人なんて男の方はいいかしらんが、婦人の方は若い男の方がよいらしい。
二十歳も違っては。

1951年7月12日
田島長官◆久邇邦昭さん〔久邇宮朝融王の子〕の教育のことを依頼してあるのが非常に熱心で好成績、そして就職と考えていましたところ、追試験の結果思わしからず、興銀入行の希望にも無理があり、いっそ久邇宮朝融王の御邸を買いました飯野海運の社員になられたらどうかと思うむね山梨に述
1951年7月26日
昭和天皇◆久邇宮朝融王はいつでもそうだよ。
そうして御実行にならぬから、初めから嘘をついてるということになるのだ。
その点同じ海軍でも高松さんと反対だ。
その場ではそうだと言わずなんだかだと言われるが、実際の行動は口で反対されたことをやられるのでもなく、むしろこちらの言ったことのような行動をなさる。
それは御利口だから。

1951年8月9日
田島長官◆今まで出入なかりし千田貞清・徳川、最近久邇宮朝融王に急に出入し、侍従久松定孝などとも電話した由。
千田・徳川はよほど評判の好ましからぬ人物とのことであります。

1951年8月17日
田島長官◆久邇宮朝融王財政の方面好転のこと申し上げましたが、御本人様は真に困ったことでつまらぬものに乗られるようになりますので、今後は比較的心配のない会社とか人々とかの所で職を得られて時間をつぶし、お金も入るようにということまで考えねばダメかとも存じます。
昭和天皇◆そんなことしてお金があれば、また女の方へということになろう。
難しい。

1951年8月28日
田島長官◆大協石油社長高橋真男が顧問の席が空けば久邇宮朝融王に考えましょうをとの申出が以前ありましたので、若干の時を過ぎ手紙を出しましたところ断られました。
朝融王に顧問料を3万円か5万円か出すことはよいが、あの人とそういう関係ができればそんなことでは済まず、金銭的にもその他にも厄介なことが起きて仕方がないと会社の方から言われ、高橋も実行できぬことになったということでありました。
朝融王のあちこちの実例、無銭飲食的なことといい、何とも手のつけようがなく、菊栄親睦会の除名とかいうようなことはどうかとも考えたこともありますが、今はありませぬし。

1951年9月6日
久邇宮朝融王、御邸売却中止申出のことをざっと御話し、
田島長官「経済顧問青木も憤慨しておりますが、青木がどうか収めると存じます」
昭和天皇「困るねー」

1951年9月10日
田島長官◆久邇宮朝融王の家の件は解決いたしました。
「大妃殿下〔久邇宮俔子妃〕が云々」ということを仰せになっておりましたが、
青木顧問が「大妃殿下が御不便な時は御建増を考えております。今さら売らぬなどとの仰せでは喜んで御仕事することにもなりませぬ。昭和陛下が御心配になっておられますこと青木大いに感激のこと」申し上げしところ、
「私のためではなく昭和陛下のために感激と言うなら、私なんか邪魔者のようだ」と言われたこと、
「子女方の御教育に今少しく御留意のこと」も申し上げしところ、
「秩父宮・高松宮に養子はどうか」とのお尋ねありしこと、
「夫人が無理ならと申し上げしところ、
「朝香さんのように、妾のような者を構うことは」との仰せ。
昭和天皇◆朝融さんの欠点は聞いてる時に反対しないで実行しないことだ。

1951年9月29日
田島長官◆久邇宮朝融王が経済顧問塚越・青木に初台の家が狭いとか坂があると仰せあり、また母が母がとの仰せで、大妃殿下の御話とありては青木もちょっと申し上げかねると申しておりまするゆえ、朝融王にお目にかかり「好意で買ってくれた御邸をこの上長く引き延ばし難きこと」を申し上げ、御不満のことは数多いと存じまするが、とにかくお移り願いたきことをお願い申しましたところ、「建増の考えも致すならば」との仰せにて御承引をこうむりました。
また先日昭和皇后にお会い遊ばした節、「昭和陛下よりの御言葉としてあまりレストランなどで払いの問題などなきようにとの御注意を受けたが、誰がそんなことを昭和陛下に申し上げたろう」との御話でありましたゆえ、
「それは私でございます」と申しましたところ、
「私は払わぬことなどない」との仰せゆえ、
「お客様かご主人かわからぬような会合をなされば、結局不払いという評判になる訳です」と申し上げましたならば、
「これからは礼を言わなければ」というような御話で、誤解を避けるよう慎重にしようとの御話はありませんでした。

1951年10月12日
昭和天皇◆米内光政も久邇宮朝融王は仕方がないと困ったが、本当に困った。
大妃殿下御自身〔久邇宮俔子妃〕も久邇宮家現状を十分御承知ないためにいろいろ仰せになるのではないか。
田島長官◆大妃殿下はおうちのお孫さんたちともあまり接触ないとのことであります。
昭和天皇◆照ちゃんに聞いたが、このあいだお子さん連れで久邇宮家を訪問したが、お子さん連れであるのにお子さんはちっとも出ておいででないし、大妃殿下も出てらっしゃいとも言われぬそうだ。
久邇さんの御家の風はどこかおかしい。

1951年10月15日
田島長官◆久邇宮家、初台の家はお気に入らぬゆえ致し方なしとして、西落合の家は大妃殿下も御覧済みの由で、今一つ柿の木坂にあるとのことです。

1951年10月23日
田島長官◆久邇宮家は西落合に移転先が決まりまして、値段も450万円で手数料も10万円ということでまず一安心いたしました。
昭和天皇◆それはよかった。
これで誤解のないよう御行状をお慎みいただかないと困る。

1951年11月9日
田島長官◆久邇家経済顧問塚越虎雄〔元皇室経済主管〕が参り、久邇宮朝融王は西落合御移転のことは決まり、その差額と箱根の売渡金で多少の手入れのお金を投じましても、お子さん方のご教育にお金を出しましても、どうにか予算の立つことと存じます。
大協石油の顧問料の方も税を引かず3万円差し上げることになりましたそうですし、一段落かと存じます。
飯野海運会社社長俣野健輔が舞鶴行幸のお礼に参りまして、邦昭さん〔朝融王の子 久邇邦昭〕が入社試験の結果3番であったむね申しておりました。
昭和天皇◆朝融さんもみなの厚意に感謝して、久邇家の再興と思われるといいんだがねー。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1952年1月19日
久邇宮朝融王、またかつがれる話。

1952年1月30日
久邇宮朝融王、ムルチ事件。

1952年2月19日
三谷に例の作文渡す。

1952年2月20日
女官長来室。
昭和皇后久邇宮朝融王のこと御心配、智子裏方に頼む云々。
おやめいただき、久邇宮朝融王のこと話す。

1952年3月22日
久邇宮朝融王・東久邇盛厚王行状のこと、昭和陛下御心配のこと。

1952年4月2日
久邇宮家経済顧問青木一男より電話。
久邇宮朝融王と東日本との関係報告あり。

1952年10月17日
山梨大将に久邇宮朝融王の件を話す。
進んで栄木弁護士と共に事に当らんとの話、感激に堪えず。

1952年10月23日
山梨大将より電話で「久邇宮朝融王の手形取り戻し得たり」
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は132万円

1952年1月3日
田島長官◆御成年になられました東宮様〔平成天皇〕へ菊栄親睦会に御出席のお誘いがありましたそうですが、あまり結構な会合でもないようでございます。
賀陽さんの若い方〔賀陽宮邦寿王〕・久邇さんの若い方〔久邇宮邦昭〕が相当酒を飲まれたとの噂、式部官長松平康昌も『我々の会の方ではない事がある』との話で、お酒を召し上がる元妃殿下もあり、鷹司平通〔和子内親王の夫〕あたりも感心せぬ光景もありますとか、順宮様〔池田厚子〕もお酌をなすったとか、戦後急に自由奔放におなりかと存じます。
昭和天皇◆いや、臣籍降下の前からで、秩父さん・東久邇さん〔東久邇宮稔彦王〕・朝香さん〔朝香宮鳩彦王〕など、必ずしも若い人たちばかりではないよ。

田島長官◆久邇宮朝融王でありますが、正月お玄関まで出ましたが、結構なお家であります。
常盤松等にて入金2,200万円、出金は西落合460万はじめ税金等900万円で、概算1,200万円運用し得るようになりまするので、2/3を2割・1/3を1割くらい運用しますれば 200万円、他に山林で50万円、大協石油の顧問料の一部が20万円で約270万円ゆえ、御生活は予算でできることかと存じます。
まず一段落であります。
昭和天皇◆まあ、良かったねー。

1952年1月25日
田島長官◆久邇宮朝融王がまた〈東日本都市開発〉の総裁とかのに名を利用されておられる事実があり、「〔久邇家経済顧問・元大蔵大臣〕青木一男に聞いてくれ」と言うておられれば無事でありまするのをそう言われないため、明らかに断られぬ以上先方は承諾と思うて利用するということ、真に困ったことであります。
昭和天皇◆それは困るねー。弱い性格だねー。

1952年2月3日
田島長官◆久邇宮朝融王がまたちょっと変なことを遊ばして困っております。
インド人が何か犯罪のあったのを許してもらうよう東京地検馬場義続をご訪問になったということで、そのお礼にお金をお取りになったとの噂であります。
なんと申しましょうか朝融王には閉口であります。
国家とか社会とか人のためとかいうようなお考えはなく、自己の快楽ということのみにお動きのように見えます。
なにぶんにも昭和皇后のお兄様で。
昭和天皇◆禁治産にでもしなければいかぬか。

1952年2月5日
田島長官◆久邇宮朝融王の問題はムルチというインド人の問題の他に、また一つ理解しがたい嫌になってしまうようなことがございます。
大協石油の高橋真男に田島との親疎の程度をお聞きになった上に、「ちょうどいい時だから、田島に顧問の塚越虎雄〔元皇室経済主管〕を辞めさせてくれるように話してくれ」とのことであったとのことであります。
人の苦労を感謝する念は少しもおありでなく、まだこれからの仕事もありまするのにそういうことを言われます。
インド人の問題でありますが、先日高津青山という男が安倍の紹介で参りました。
安倍は勤皇の士だと申しておりました。
その高津の話に「昭和皇后のお兄様の朝融王がインド人のムルチというのに2千万円投資されておられるが、先日ムルチがある犯罪で捕らわれたのを釈放運動された。しかしその御礼に300万円取られたとの話であります。それでそのことで馬場検事正に会って話をしたらば、『そのお金だけは返しておかれたほうがいい』という意見を言ってました」というような訳でございます。
とにかく御本人に一度聞いてみる必要がありますので、塚越に頼み朝融王に聞いてもらいましたところ、「ムルチというのはファーイースタントレジングというので知っている。行ったことはあるが投資はない。また金などもらっていない。食料品等を貰ったり買ったりした事があるだけだ。そしてその商会の加藤隆也という者が出入りしてたが、もう来ないようになった」というふうな御返事であったそうであります。
それでただいま宮内庁次長に馬場検事正の所へ行ってもらっております。

田島長官◆久邇宮朝融王の件につき次長が馬場検事正を訪ねました結果、場合によればちょっと嫌な問題となりかねませぬ。
もし金を取っておられますなら、返す方がよろしいと思います。
昭和天皇◆弱き方ゆえ強く出ればおとなしくなるかもしれん。
少し急いで運ぶ方がよい。

1952年2月8日
田島長官◆朝融王の件ですが、かなり強く追及致しましたが、結局ムルチが会社組織になったとき社長になってくれという話で、それを承知してたということだけはわかりましたが、どうしても投資はないと言い張られますし、「金はもらったことない。パンなど食料品・ネクタイ・靴下のようなもので価値5~6万円ぐらいの物をもらっただけだ」とのお話で、これも金で返せばいいでしょうというようなお話。
馬場検事正に贈物をされ、宮様からとのことでお返しにするに苦労して、検事長に相談のうえお返ししたとかいうことと、税関の役人を饗応しておられるらしいのであります。

1952年2月11日
田島長官◆久邇宮朝融王を総裁に奉る〈東日本開発会社〉の社長末延一二三という者と常務の春日井という者が永積の紹介で田島に会見を求めて参りまして、「皇室のため国のためとしてやっていることに雑音が入るので残念」とか申して参りましたゆえ、「青木・塚越に相談されたく、宮内庁には宗秩寮的なものはなく、あっても朝融王に御関係なきことになっている」むね申しました。
昭和天皇◆万一検事局へでも出ることになる場合のため、早く始末することをなぜなさらぬか。

1952年2月16日
田島長官◆久邇家経済顧問青木一男〔元大蔵大臣〕らが新憲法〔久邇家の家憲〕を作り、顧問になるには青木らの同意を要すると決め、大協石油などその手続で致しておりますのに、久邇宮朝融王はそれと時を同じうしてムルチや〈東日本都市開発〉など御関係で、真に恐れ入りますが田島はもう嫌になってしまいます。

1952年2月18日
田島長官◆久邇宮朝融王は始終お出歩きでお出かけ先もわからず、我々がご心配申し上げたるに少しもおいでになりませぬ。
朝融王は国とか社会とか人の為とかいうお考えは少しも無いようで、ご自分の享楽や利益のみに頭を働かせておいでのようで、お金とかゴルフとか宴会とか食事ということには相当突っ込んで口出しになりますが、他の事はいつでも沈黙であります。
田島はお役目上累が皇室に及びますゆえ避けられませぬが、青木・塚越などはその責任もないのによくやってくれると思うぐらいであります。
これらの人も間接ながら天子様のおためと思えばこそ、やってくれてると思います。
昭和皇后のお兄様ということで。
昭和天皇◆どういうお考えなのかねー。累が皇室に及ぶし、及ばねば良いというわけではないが。
田島長官◆元皇族の御身分でどんなことも大したことにならぬとタカをくくっておいででないでしょうか。
昭和天皇◆いや、ムルチのことは外国関係があるからそうはいかぬように思われるし、それはいいとしても新聞に出ればそれでやはり累が皇室に及ぶし。

1952年2月20日
田島長官◆朝融王はまだおいでにならず、昨夜電話をかけましたところお出になりませず、後から電話するとのことでありましたがお電話なく、再度田島よりかけまして渋々お出になったようですが、「まだ青木の所へ行かれぬのはどういうことですか。田島のためではありません。宮様御自身のためであります」と申し上げましても、「そのうちに」というようなことでしたから、昭和皇后の御兄弟として何事もないとお思いなのか。
御自分の享楽のためのみで、お金とか女とかいうことのみで、朝融王は青木の所へはおいでではありませぬが、昨夜有楽座へ活動写真へはおいでになり、本当に田島も朝融王だけは嫌になってしまいます。
昭和天皇◆私と同級で50を越しておいでだが、世のご経験がないため全ての事がそういう風だと思うから、田島も子供だと思って。

1952年2月26日
田島長官◆朝融王はムルチのことと〈東日本都市開発〉総裁のことはこれで片付くと思いますが、後から後から同じようなことをなさるので閉口いたします。
青木・塚越のような顧問だけでは終始お付きしているわけでなく、この際青木・塚越より格の低い人で硬骨の人柄の良い人に御邸に常勤してもらうことが必要ではないかと存じております。
昭和天皇◆朝融さんは婦人がお好きゆえ、しっかりした女性で反対する事は反対するというような人を得られたらいいかもしれない。
田島長官◆ありますれば結構ですが、なにぶん時間が余って仕方ないので困ります。
昭和天皇◆それは他の皇族さんでも元皇族も一緒だが、朝融さんは研究とか本を読むとかいうことが嫌なら、音楽はお好きゆえそれでもおやりになればいい。
婦人も音楽のできるような人がいい。

1952年2月29日
田島長官◆朝融王が青木訪問を躊躇されたのは、ムルチ事件で青木から追求されるのが嫌で一日延ばしにされたらしいとのことでありました。
どうも困りますがこのことはこれでよろしいといたしまして、塚越が「朝融王は公平という指圧師の所へ一日おきに出かけられる。関係のあった二人の女の人も公平で指圧を受けてた。公平は繁盛しなくなると朝融王を看板にするというようなきらいがある」というようなことを申しておりました。
昭和天皇◆指圧そのものは悪くなかろうが、人物が悪ければまたそんなこと。

1952年3月7日
昭和天皇◆松平直鎮〔松平直鎮子爵〕は1~2年前だったか、久邇さん〔久邇宮朝融王〕と一緒に来て、何か神がかりの迷信のようなことを言うから反対したことがある。
〈北辰教〉のやり方は真に困る。
そういう邪教はどうしてできるか。
信仰の自由は困るねー。

1952年3月10日
田島長官◆久邇宮朝融王の事は、永積侍従からも入江侍従からも聞きましたような事をまた聞きまして、永積は糸川松平直鎮子爵から朝融王の御書を取り戻したいような希望も申しておりましたが、とにかく朝融王が北辰神社にご関係なきことは絶対必要と思いましてお目にかかりました。
「今日は何のお叱りを受けますか」というような態度でおいででありましたが、話の筋はよくおわかりになりました。
「直鎮が私に来てくれと言い、風邪で行けないと言ったら、書いた物をと言うことでやったのだ」との話でありました。
ムルチの事はおもらいになったと思ってらした物の書付が向こうにあり、代価を払うとの話でありました。
中に入った加藤隆也という人物のことはわかりませぬが、朝融王としては大した事はなく、改組の時の社長ということにつられておいでだったかと思います
田島はもちろん青木や塚越はいつも難しい事ばかり言うので朝融王の方お近づきにならず、大協石油の高橋の方にお近づきになりますから、高橋からおためになることを申し上げるようにするとよろしいかと存じております。

1952年3月28日
田島長官◆久邇宮朝融王はムルチの方は御関係を深入りされることはない様子でございますが、〈東日本都市開発〉の方はご本人がはっきりお断りにならなければということになっておりますが、ご本人はあまりはっきりでもないご様子でございます。
それから大妃殿下〔朝融王の母久邇宮俔子妃〕の例の襖絵の100万円は利息も積んでありまして130万円になりました。
それからお子様方の分の御降下資金を朝融王が焦げ付かせておしまいになりましたことゆえ、今回御邸御買い替えの差金はお子様方の名義にすると塚越は申しておりました。

1952年4月5日
田島長官◆〈東日本都市開発〉の人が久邇宮家経済顧問青木一男〔元大蔵大臣〕の所にやってきました由で、はじめは「久邇宮家にいろいろ経済的・物的に尽くしたい』と申しておりました由ですが、青木としては久邇宮朝融王の立場からして「仕事は良いことでしょうが、一般論で同意しかねる」と申した由で、青木としては片付けたということでありますが、朝融王ご自身はどうも断然ではないような風もあります。
昭和天皇◆自動車でも借りてるか。
大協石油から借りればいいのに。
田島長官◆さようであります。
青木の話ではインド人ムルチの方はいろいろ追及しましたが、何かもらっておいでのようなことはなく、さすれば別に大したことはないとのことでありますが、検事のような関係もあり、これはお離れのように思われます。
ただし蘭の栽培に関連してまた何かあると青木は申しておりました。

1952年5月12日
昭和天皇◆朝融さん〔久邇宮朝融王〕からラジオの伝献を受けたのだがねー、あの方だから何がそれがまた利害に関係やしてやしないとかと思うのだが。
田島長官◆何かありますかもしれませぬ。
蘭の温室は200万円もかかりまするが、大妃殿下〔朝融王の母久邇宮俔子妃〕の建て増しすら50万円程度でありますゆえ、御全廃には不同意ゆえ小さくして移すことにするむね塚越が申しておりました。
〈東日本都市開発〉とは手が切れたはずでございますが、また広告に出てますそうで、厳重抗議すると塚越は申しておりました。
今度は何の宗教か存じませぬが、2人の中老婦人が付きまして同行で伊勢参拝をなされたとのことであります。
真に困ります。

1952年6月9日
久邇宮朝融王の〈東日本都市開発〉の件がだんだんひどくなってきた事を申し上げ、
「たぶん新聞には出ますまいが、あるいは。当初より分り切ったことで、真に困ります」と申し上げしところ、
昭和天皇◆直接損害はないねー。
田島長官◆訴訟にでもなればその費用が入用ということになりますが、受身のことで今は積極的に損ということはありませぬ。

1952年8月27日
田島長官◆久邇宮朝融王が新聞に出ておりまして、日印文化協会の総裁になられたとありましたが、発起人は例のインド人ムルチらしくございます。
何かまた悪い影響はないか、久邇家経済顧問青木一男〔元大蔵大臣〕にも相談してみたいと存じております。

1952年9月16日
久邇家経済顧問塚越虎男〔元皇室経済主管〕から聞きし、久邇宮朝融王が新しき女を追って気がどうなったかと運転手が思うほどだということ、飯野海運が動産を100万円で買いしこと、それは大妃殿下〔朝融王の母久邇宮俔子妃〕のための改築に使用のこと、蘭の処分のついたこと、10万円を横取りされしこと、〈東日本都市開発〉の尻を持ち込まれた手紙のことなど申し上しところ、
昭和天皇「準禁治産にする他なし」との仰せ。

1952年10月23日
田島長官◆久邇宮家経済顧問青木一男〔元大蔵大臣〕が参りまして、久邇宮朝融王が1千万円の手形を経済顧問に無断でお振り出しになり、こういうことでは辞する他ない、久邇家経済顧問塚越虎男〔元皇室経済主管〕も同一意見だということでありました。
お引き受けします時に憲法〔久邇家の家憲〕を作り手形の振出は顧問の同意を得るむね明記してあるありまするし、これには朝融王・両顧問および田島も立会人として署名いたしておりまする関係上、辞任はもっともだと言う他はありませぬ。
しかし手形は普通の証文と違いまして支払義務の強い物でありまするゆえ、もしこれが支払いともなりますればせっかく常盤松をお売りになったのが水の泡となりまするし、この手形を渡されて代り手形を持っておられるだけでありますが、これはどうしても取り戻さなければならぬ、急いでやらねばならぬと青木も申しておりましたが、顧問でなく弁護士としてもこの問題に携わるのはイヤだと青木は申しました。
それで久邇宮家家職池内治三郎に事情を聞きました。
千代田銀行支払場所と書かれた支店からの照会に端を発し、顧問には話さんでよいとの回答、取り戻しを試みてウヤムヤとのこと、元子爵松平直鎮の紹介による人間に手形を渡されたことなどを申し上げ、宮内庁の仕事という訳にも参りませんゆえ、従来久邇邦明さん〔朝融王の子〕のことなど親切にしてくれますので、元学習院院長山梨勝之進に頼みまして元東宮職事務主管栄木忠常が弁護士をいたしておりますゆえ、それに池内も今回は朝融王の意思に反抗して十分働き、ついに取り戻したと山梨から電話がありました。
まず幸いだったと存じますが、今後ともこんなことが頻発する恐れは十分ありまするし、その上に青木・堀越の辞任は当然でありますると今後どうなりまするか。
昭和天皇◆そうか、取り戻せてそれは幸いだったねー。
しかし今後が心配だ。

1952年11月4日
田島長官◆久邇宮家のことでありますが、宮内庁分室で久邇宮朝融王にお目にかかり、久邇宮家よりの御依頼で青木一男〔元大蔵大臣〕・塚越虎男〔元皇室経済主管〕の経済顧問となりし経緯および憲法〔久邇家の家憲〕作成の経緯、手形振出の危険性、そのため憲法〔家憲〕の一条たること、その無視によって両人が辞するは当然なること、立会人の田島としても当然と思うことなど、いろいろ申し上げても何ら発言されず、辞められては困るとの話もなく、むしろ黙して認められた形でありました。
手形取り戻しのためには一刻を争うために久邇宮家相談役山梨勝之進〔元学習院院長〕に頼み、山梨が宮内庁および学習院で人物をよく知る弁護士栄木忠常〔東宮職事務主管〕に頼み、幸いにして取り戻したこともお話ししましたが、これについても朝融王から別に御話はありませなんだが、顧問のいなくなったのをいいことにして手形などおやりになってはお家の一大事でありますから、今回のことを頼みました山梨にでもとサゼッションは申し上げました。
山梨が久邇宮家のことに当ってもらえる好意はわかっておりますゆえ頼みましたところ、栄木は人物もわかっておるゆえ頼むとのことで同意しましたが、法律的で経済のことはどうかと思いまするので陰で田島が相談に乗っていいと今は思っております。
顧問のうるさいのが取れたを幸いに何をなさるかわからぬとも考えられますので、皇室の御近親として放っておきますことは田島の職務上関係のあることかとも思いますので、この際昔ありました宮務監督なような者として山梨を頼み、宮務を全て見てみてもらうことして、栄木も頼み、また経済上の運営は大妃様〔朝融王の母久邇宮俔子妃〕のために横山大観の襖の売り代の運用等のこともありますので誰か入用かとは考えますが、この方針はいかがでございましょうか。
昭和天皇◆私は山梨をそうするが一番いいと思うが。
それから効果の点は疑問だが、大妃殿下に申し上げて、少し朝融さんに言っていただいたらどうかと思う。

1952年11月5日
田島長官◆久邇宮朝融王のことでありますが、昨日青木に会いましたところ、久邇宮家に番する人が誰もおらねば半年を待たず危ないと申しておりましたが、今回青木の辞任のことを申しましても後任を頼むとの御話はありませぬ。
それゆえ放置いたします他ありませんが、田島としましては山梨を昔の宮家別当または宮務監督のように依頼して万般後見をしてもらいますことが自然で一番よろしいかと存じます。
昭和天皇◆それは一番良い。そうしてくれ。

1952年11月20日
田島長官◆久邇宮朝融王のことでありますが、久邇宮家相談役山梨はお頼まれもせぬに買って出るという順序はつけましたが、経済顧問のことは何とも目鼻つかずおりましたところ、田島・青木〔久邇家元経済顧問〕・塚越〔久邇家元経済顧問〕は憎まれ役、大協石油社長高橋真男は提供者でお親しみやすく、高橋に万事お打ち明けになり、「田島がえらく怒った。あそこへ頼んでも仕方がないので、元日本銀行総裁結城豊太郎の婿というので藤山愛一郎に頼んだら断られた。それで日本輸出入銀行総裁河上弘一はどうだ」とご相談があり、河上は信頼しうべき人で承知してくれればこれに越すことはなく、高橋は顧問にお願いしている関係もあり、河上も大協石油の監査役ゆえ、この二人の間で受けてもらえば山梨も河上の人柄はいいと思っておりまするし、バラでも結構だと存じます。
顧問がいなくなればうるさくなくていいとのお考えだと困ると存じましたが、誰か欲しいと高橋などに御相談あるのは誠に結構で、ひとつ河上に面会して頼みますつもりでございます。
昭和天皇◆手形などは私なども話を聞いてもよくわからぬ。
朝融さんも手形のことなどよくわからぬだろうと思う。
わからぬことはわかった顧問に聞けば一番安心で世話もないのに、どうしてああいうことをなさるのだろう。

1952年12月2日
田島長官◆久邇宮朝融王の方は、明日久邇宮家経済顧問青木一男〔元大蔵大臣〕・久邇宮家経済顧問塚越虎男〔元皇室経済主管〕が残務終了で来ると申しておりました。
また300万円入るようで。
昭和天皇◆それはいいねー。
田島長官◆青木は田島に何か結末をつけたいらしゅうございますが、山梨が引き継ぎを買って出ておりますゆえ、久邇宮家相談役山梨勝之進〔元学習院院長〕・久邇宮家新経済顧問河上弘一〔日本輸出入銀行総裁〕・久邇宮家新相談役栄木忠常弁護士〔東宮職事務主管〕の線へ具合よく持って行きたいと存じております。

1952年12月16日
田島長官◆久邇宮朝融王がまたも心配なことをなされました。
青木・塚越の2人と今回の河上・大協石油社長高橋真男・山梨・栄木の4人と引き継ぎ打ち合せに河上・高橋が遅刻でありまして、朝融王が先だっての山口同道で来られて高橋の大協石油の手形500万円を貸してくれととのお話であり、もちろんお断りしましたのですが、そんな風でどうも手形の危険が本当におわかりにならず山口と手も切らず、真に困ったことと存じます。
どうも女の関係で何かお金の必要があるのではないかと想像されます。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は132万円

1953年1月16日
田島長官◆久邇宮朝融王のことでありますが、小川雄三という元参議院議員がありまして、利根川工事御覧の節 両陛下と本人とのスナップがありましたのを選挙運動のビラに使った男で、今日海軍中将金沢正夫と同行して参り、「在米邦人が皇族が無理なら元皇族に渡米していただきたいと言うので、朝融王にお願いしたらお喜びでしたが、宮内庁の意見を聞いてくれということで来た」とのことで、3千万円の旅費はその小川雄三が負担し金沢正夫の他に海軍大将野村直邦も御供するとのことでありますが、侍従長三谷隆信に聞きましても野村直邦はあまり考えの深い人ではないとのことでありますし、元皇族でも一個人の金で御旅行になるはいかがかと存じまするし、小川のごとき人物では何かの代償のないはずはないと考えられます。
幸い海軍の人のことであり久邇宮家相談役山梨勝之進〔元学習院院長・海軍大将〕も人物は知っておりましょうから、宮務監督の立場で山梨に善処してもらいたいと思います。
昭和天皇◆金沢は思い出さぬが野村は知ってるが、考えはあまり周密ではないだろう。
私がヒトラーとナポレオンとは同じではないか、ロシアに攻め入ってと聞いた時、単純にヒトラーは違いますと言ってたからねー。

1953年1月19日
田島長官◆山梨が吉田に会いまして、小川雄三が側近などと申しておりますゆえこれはあまり面白くないということを話し、旅券等の問題について外務省の方へも話を通してもらうということになりました。
金沢正夫は山梨が次官の時の副官、野村直邦は山梨が艦政本部長の時の下役ではあるが、「やんわり流産になる方がよろしい」と申しておりましたが、小川の人物は利根川御視察の時に両陛下と撮られた写真を選挙の時に印刷して町々に貼りましたことなどから考えましてもおよそ見当はつくのでありますが、山梨は小川については我々より慎重であります。
野村直邦も参議院を狙っておりますとか、海軍大将山本英輔に相談しましたら「俺が出る、やめろ」と言われたとか言う人だそうでありますが、金沢正夫は利口・野村直邦は押し出しがよくどしっとして、刀の大小ようないいコンビとか申しておりました。
海軍の大将・中将が視察団とか言うて出かけるのもいかがかと存じられます。
参議院選挙のためか急いでおりますので、うっかりしているうちに事の運ばぬのようにと存じております。
野村・金沢はコンビのようでありますが、小川は宮東孝行とかいうちょっと変わった人の紹介で知ったらしく、3人は古くからの仲間ではないようであります。
山梨は朝融王の意図を挫けば顧問として信頼がなくなり、何もできなくなるということを憂えておるようであります。

1953年1月21日
田島長官◆久邇宮家相談役山梨より電話がありまして、野村直邦の同級生の筆頭 海軍大臣近藤信竹が訪問してきました由で、野村に「終戦まで現役の海軍大将・海軍中将二人が揃って軍事視察団などと言って出ては日本の軍国化を世界に疑われ、海軍は従来世界に信用あるのをこんなことで打ち壊しては困る」という話で、野村も「まあ、やめですかねー」というような話であったとの中間報告がありました。
野村はやはり参議院に出るらしくあります。
昭和天皇◆参議院はずいぶん出るね。
元陸軍大臣宇垣一成や何や老人だと言って出なかったようなのが出るが健康が堪えるのかしら。
じっとしてるのが寂しいと言うか虚栄心と言うか、参議院に老人が多く出るねー。

1953年2月11日
田島長官◆久邇家朝融王から海軍大将野村直邦が手を引きましたことは確かで、海軍中将金沢正夫はまだ何か応援しておりますそうでありますが、元議員小川雄三の人物はわかってまいりましたゆえ、近く立ち消えと存じます。

1953年2月25日
田島長官◆野村直邦・金沢正夫は久邇宮朝融王から離れましたが、肝心の小川友三というつまらぬ元議員が離れませず、元法務政務次官遠山丙市とか言う元議員の人物も加わりまして、ララ物資のお礼としておいでになるということが伝わりまして、東久邇宮盛厚王からの通報もありまして厚生省方面・都庁方面で知らぬ事ならばインチキでありまするゆえ調べましたところ、両方とも何も知りませんのとのことであります。
久邇宮家相談役山梨勝之進〔元学習院院長・海軍大将〕は宮務監督のような立場で行くためには初めから御機嫌を損ねては何もできぬからという理由で、朝融王に何も言わず自然に問題の解消するようとの方針でありますゆえ、円満に解決は結構でありますが後腐れの残らぬようにと申しました次第でございます。
海軍の人は手を引きましたが肝心の朝融王はおいでになりたくて仕方なく、外務省へ旅券申請が出ましたとのことで、容易に旅券の出ませぬよう話はしてありますが、ご本人に不可ということを申し上げなければ問題が変転して続きますゆえ、円満主義は結構でありますがこの際はもはやご本人に申し上げぬでは済まぬ時となりましたゆえ、どうも少し円滑に事を運ぶことに一生懸命すぎてこと壊しのことがあるようにも思われます。
昭和天皇◆高宮太平の『天皇陛下』という本に、山梨の円満主義のためにロンドン海軍軍縮条約は軍令部次長末次信正などに押されたという批評が出てたよ。
田島長官◆山梨は吉田と元外務大臣野村吉三郎は仲が悪いと言い、従来は山梨は吉田といい口ぶりでありましたが、昨日の話では山梨も吉田を離れた口ぶりでありまして、改進党総裁重光葵はどうかと申しておりました。吉田は旧軍人一般にも飽かれた様子であります。

1953年2月27日
田島長官◆久邇宮朝融王のララ御礼の事でありますが、厚生省も知らず東京都も知りませぬ事で、落選しました遠山丙市という人の利益のために朝融王を担ぐようでありますので、小川友三が離れず遠山という新たな者が出現しまするゆえ、どうしてもご本尊の朝融王に直接申し上げる必要があると存じまして、山梨は同期生の海軍中将長沢直太郎と保安庁第二幕僚長山崎小五郎を同行して、「遠山とかいう者が朝融王をアメリカにと申しておりますそうですが、居留民から金を取って参議院選挙にするらしい様子で法律スレスレのことをする男ですから、自由党のために利用されるようなことになりますからこれ行きはおやめの方が良い」と話し、この遠山の話は調査を命じましたところ、遠山が農林大臣広川弘禅の所で渡米の話をして、「自分ではダメゆえ、久邇(と呼び捨てにして)を担ぐ」という話を聞いた者があるとの報告で、山梨は朝融王には広川とは言わず自由党と申したようであります。
久邇宮家家職池内治三郎の話では3月6日に御出発と言うので、山梨は3月7日に久邇家関係の一席を催すことを申し上げ、御承知になりましたのでまず大丈夫というような話でありますが、社交的な一席ぐらい洋行となればお取り消しにはなりますゆえ苦慮いたしております。

1953年3月5日
田島長官◆久邇宮家家職池内治三郎が参りまして、久邇宮朝融王が赤坂の芸者を落籍されるためにどこかから200万円を借り入れられ、その期限が来て困っておられるような話を聞きました。
これは困ったことで、その金を得るためにいろいろな誘惑に引っかかられる恐れがあります。
昭和天皇◆そんな金は内廷から出せないよ。
田島長官◆もちろん田島もそれを内廷からなどとは決して考えておりません。
中野にその女の実家か妾宅があるとのことであります。
正夫人を迎えられる意思なく、やむをえず一定の女のありますることはよろしいと存じますが、ご自分も朝香宮鳩彦王のようにと言っておられるとのことでありますが。
昭和天皇◆朝香さんはそうなのか。
田島長官◆熱海の御邸に上りました時、若い女の人がおりましたことは確かでございます。
朝融王は一人の人に定着されれば200万円も致し方ないのでありますが、じきに飽きられるので真に困ります。
今度の洋行問題でも女さんの問題でも、大妃殿下〔朝融王の母久邇宮俔子妃〕は御承知かと聞きましたが御承知ないらしく、大妃殿下のお耳に入ることは憚っておいでのように思われますとのことでありましたから、もし大妃殿下から朝融王に御注意あればお従いでしょうかと聞きましたところ、家職池内はそれはお聞きになりましょうと申しておりました。

1953年3月12日
田島長官◆久邇宮朝融王のことでありますが、元議員小川雄三について在米総領事から外務省に照会がありまして、在留邦人会に朝融王渡米のための資金募集をいたしておるとのことで、外務省としては否定の通知をを致しましたそうでありますが、だんだん真相が出て参ります。
去る土曜日に久邇宮家相談役山梨勝之進〔元学習院院長〕の名で一会催しました。
従来田島の名で致したと同じ種類でありますが、田島は監視するとお思いのためか、土曜日の催しは大変お喜びで今後もやってくれと仰せになりましたそうであります。
久邇家相談役栄木忠常弁護士〔元東宮職事務主管〕が来て尾張徳川が財産を全て会社に移しましたことを久邇家経済顧問高橋真男〔大協石油社長〕が承知しておりますので、それに倣うことに方針を決めましたようであります。
滋賀県の山林はなかなか大したもので1億円ぐらいの価値があるとのことで、青木時代〔元久邇家経済顧問青木一男・元大蔵大臣〕に御邸のためにできました金で、平常の御経費はちゃんとあるとのことであります。

1953年3月26日
田島長官◆久邇宮朝融王の事がとうとう毎日新聞のニューヨーク通信員からの通信で出ましたが、在米邦字新聞の憤慨から小川の名前から除名されたこと、東宮様に拝謁のお世話をするとか・朝融王の御紋付盃は何ドル・他は何ドルと在米邦人の血を吸う悪辣なことということが出て、朝融王のお名前もはっきり出ております。
これはかえってよろしいのではないかと存じます。
山梨は穏便に運びすぎいかがかと存じておりましたが、そのやり方でうまくいったと存じておりますようでございます。

1953年3月30日
田島長官◆久邇宮朝融王のお人形の問題はしかるべく取り計らいました。
〔朝融王が皇太子に人形を献上した〕総務課としては全部断っておりますが、御兄妹様としてそれもどうかと存じまして。
昭和天皇◆実は人形でなくその人がまたとんだ人間ではないか、アメリカ行きの厄介は取れてもまた変な人がくっつくのではないかを私は心配したのだ。
田島長官◆朝融王はどうも人の弁別が難しいと見えますが、ただいまのように解放せられては変な者が寄りつきます。
昭和天皇◆意志が弱いから。
田島長官◆元子爵松平直鎮は今もどうも良くありませんようで経済上も良くなく、朝融王に御紹介して何かいいことでもあるのではないかと察されます。
昭和天皇◆松平直鎮は私の所にも変な神様に関して言ってきたが、私は皇室は神道以外はお断りするとはっきり断ったものだから、それきり来ないよ。

1953年4月14日
田島長官◆久邇宮朝融王に関しますることでありますが、先だっての人形献上の会の人を調べましたところ、大して悪い人のようでなく同時に深い御因縁はなく、献上について一度お目にかかったようになっております。
数日前朝融王が昭和皇后にお目にかかられました節、毎日新聞の重役に頼まれ色紙を御持参になり御真筆をいただきたいとお頼みになりましたそうで、ハッキリお断りすることになっておりますが、人形の献上に成功されたためにまたこういうお願いをされたのではないかと存じます。
また昭和皇后に二つの話を申し上げられたそうです。
一つは立太子礼のごとき時に母方の近親が式に参列できぬとはおかしいということ。
もう一つは昭和皇后がバイオリニストのシゲティをお聴きになるという催しがあるのに朝融王さんなんかにお知らせがないのはおかしいというお話でありましたそうです。
これは邪推でありますが、御真筆をお願いした毎日の重役ではないかと思うのであります。
と申しますのは毎日新聞でシゲティを呼びましてその演奏をお聴きになりますことゆえ、朝融王にお誘いのないことから始まった話ではないかと存じます。
昭和天皇◆毎日新聞はちゃんとした新聞だから人形の場合のような訳のわからぬ人の依頼ではないが、お礼ぐらいお貰いになるのかしら。
田島長官◆毎日は堂々たる新聞でありまするが近来朝日・読売と大競走で、何か新しい企画を狙って紙数の増加を図っております。
東宮様の原色版の御肖像を読者に配布しております手で、昭和皇后の御真筆などいまだかつてない物を読者に配りたいのだと思います。

1953年4月18日
昭和天皇◆元皇族に関することだがねー。
元皇族が天長節に出られぬの不満に思うのは、追放と臣籍降下を考えてるのではないかと思う。
恒徳さん〔竹田宮恒徳王〕のような経済上もよく行ってるところは大したことはなし、また稔彦さん〔東久邇宮稔彦王〕のようにもともと臣籍降下論者の方は何でもないが、朝融さん〔久邇宮朝融王〕とか鳩彦さん〔朝香宮鳩彦王〕とかいうような方は経済的にもうまくないし、朝融さんなどがご自分が悪いから仕方がないが洋行できると思っても洋行できず、そういう点で不満ではないかしら。
田島長官◆竹田宮恒徳王は既に洋行にお立ちになりましたし、朝融王としてはご自分の悪いことは別としてご不満でありましょう。

1953年4月28日
田島長官◆久しぶりに久邇宮家相談役山梨勝之進〔元学習院院長〕に会いましたゆえ、「直接朝融王には何も言わず片づいて、あなたの方策の方が成功でありました」と申しました。
昭和天皇◆いや、穏当な方法はいいけれど、新聞に出てしまった。
早くやれば新聞に出ず、久邇さんの名誉も保たれたわけだよ。
田島長官◆人形の献上も昭和皇后とのご関係もあり些細と存じそのままに願いましたことが、毎日の色紙の問題となりました。
ああいう方は穏健にしてご自分で考えていただくということができませぬので、朝融王には油断はなりませず、誰かお付きしてもらう必要があります。

1953年5月19日
田島長官◆久邇宮家のことは久邇宮家相談役山梨勝之進〔元学習院長・海軍大将〕らに頼んでありますが、昭和皇后と御兄妹ということは切っても切れませんので注意はしておりまして、情報が入れば山梨なり久邇家相談役栄木忠常弁護士〔元東宮職事務主管〕なりに連絡しておりますが、久邇宮朝融王が200万円の手形を振り出され、その支払いに困って栄木のところで何とかしているということでありますが、また850万円の手形もあるとかないとかの話もあるようでございますが、それはかねてお話し申し上げました女の関係のものらしく、その女は赤坂の芸者で中野に家がありますそうで、よく出かけられた〈武むら〉は正式の待合でなく闇の商売屋とのことであります。
前回の200万円はその女を落籍せる金とかの話でありましたが、これもちょっと大金に過ぎるようであり、また噂の850万円はその女が何か商売を始めたいと希望しての元金ではないかととの噂もあるとのことであります。
この前の深川の女の時はやはり商売の金をと要求され、お断りになりその手は切れましたが、その後手形を書くことをお覚えになりまして、これは準禁治産にでもしなければ手形書きを防ぐ手はないように存じます。

1953年6月18日
「久邇宮朝融王に悪いニュースがあるのでありまして」とて、久邇家相談役山梨勝之進〔元学習院長・海軍大将〕来室の500万円・借財および抵当権設定・印鑑紛失届と新印届出に自身出頭のこと・山梨相談役と外科内科診療方法相違のこと・激論せしこと、不孝・不慈・不忠の朝融さんは外科手術を要することなど、細事を御話す。
山梨相談役は辞職かと思いしに、「この程度のことは予想、田島長官在任中に辞めぬ」と申しましたことなど、ありのままに歯に衣着せず申し上ぐ。
大妃〔朝融王の母久邇宮俔子妃〕御落涙のこと、朝融王の行状・迷信好き・自己の享楽以外何もなきことを全部申し上ぐ。
山梨相談役の話ぶり、「ご自分の物を担保にご自分のお金をお使いになるは結構ですが、けしからぬ人間が介在してお損になることはいけませぬ」という調子で、新印形を預かりしことも詳細申し上ぐ。
昭和陛下は「場合により準禁治産もやむなき」旨の御話あり。
心中直系皇族だけ重んぜられることはどうかとの念あるゆえ、
「今夜東久邇宮聡子妃お上りでありますが、最近御病気を遊ばしましたことゆえ、何かお見舞い遊ばすならば結構と存じます」と申し上げしところ、
「時期が大切」との仰せ。

1953年7月3日
久邇宮朝融王の印鑑変更、高利貸しの借入のこと、新経済顧問と久邇家相談役山梨勝之進〔元学習院長・海軍大将〕の配慮のこと、山林は会社になることなど善後策難しく、大妃殿下〔朝融王の母久邇宮俔子妃〕もお嘆きのこと、お姫様方の結婚にも支障ある恐れのこと、海軍時代も副官ら相当困ったとのこと、なにぶんにも皇室が御近親ゆえとの感で高利貸しら悪人がいつまでも絡むことなどなど申し上ぐ。
昭和陛下は憂鬱な御顔にて「準禁治産も仕方ないねー」をお繰り返しながら、昭和陛下から「私から忠告しようか」と仰せにならぬかと期待しながら、昔の皇族監督権は宗秩寮総裁にはなく昭和陛下のみなること、宮内庁長官など何の権もなきことを申し上ぐ。
昭和天皇◆おたた様〔朝融王の母俔子妃〕が仰せになればお聞きになるかしら。
田島長官◆大妃殿下はただお嘆きのご様子に止まりますように存じます。
だんだんお困りになって直接昭和皇后にでも金銭的なお助けでも仰せになりますると困ると存じます。

1953年7月25日
「久邇宮朝融王の滋賀県の山林は会社組織にしましたが、田島は本邸もその中に入れること申しましたが、相談役山梨は入れませなんでこの間の事件が起きましたが、山梨がよく申し上げました結果、朝融王もつまらぬことをしたとお思いのようでございますが、〔元日本興行銀行総裁〕河上弘一〔大協石油社長〕高橋真男らと協議のうえ邦昭さん〔朝融王の子久邇邦昭〕の名義にすることになりましたそうでございます」と申し上しところ、抵当権付売買ということ御合点なく、いろいろ御質問あり。
昭和天皇◆それでもはや安全か。
田島長官◆それは昭和皇后のお里方という事実のあります以上、金貸しの奴が皇室で必ず何とかすると考えれば危険はいつでもあります。
禁治産者とせぬ限り、危険はあるわけであります。

1953年8月10日
昭和天皇◆今朝良宮のところへ朝融さん〔久邇宮朝融王〕が来て、清宮さん〔清宮貴子内親王〕を邦明さん〔朝融王の子久邇邦昭〕のところへもらいたいという話があったということだ。
私は結論から言えば断って良いと思うのだが、その断りの理由を何とするか。
大谷の場合との関係もあるから〔香淳皇后の妹東本願寺大谷智子が孝宮和子内親王を子大谷光紹の妻に望んだが皇室側から断った〕どう言って断ったものかねー。
田島長官◆お答えは昭和皇后と御兄妹の御関係でなるべく角立ちませぬ申し条の方がよろしいと存じまするゆえ、申し上げ方につきては少し考えさせていただきたいと存じます。
明日にでも申し上げたいと存じます。
しかし清宮様でございましたらばまだ先のことでございますが、お待ちになりますのでございましょうか。
昭和天皇◆それは待つとのお話だ。
田島長官◆朝融王はいろいろ接触申し上げました節、あまりお子様のことをお考えになったことはありませぬ。
ご自分のことのみお考えでありまして、今回のお話も邦明様のおためとのお考えではありましょうが、どうも清宮様とご結婚になれば将来皇室との密接な関係で全て御便利というお考えからではないかと邪推いたされまする。
朝融王がかつてお子様方のお話の出ました時に、秩父宮・高松宮・閑院宮に後継者がないから3軒へ養子という制度が皇族はダメならば事実上の養子にしてもらうと良いと仰せになりましたことなどを合わせ考えてみますれば、どうもまた皇室とご縁ができればいろいろ御便利があるとの考えから出たのではないかと邪推いたされます。
久邇家相談役山梨勝之進〔元学習院長・海軍大将〕は宮家からお頼みになり、経済的な面は〔元日本興行銀行総裁〕河上弘一〔大協石油社長〕高橋真男でありまするが、邦明さんの御就職・御結婚についてはずいぶん奔走いたしておりましたが、今回のことはそういうところへはご相談はないことかと思われまするが。
田島拝命前に賀陽宮様と孝宮様の時には宗秩寮総裁松平康昌が出まして、〔賀陽宮邦寿王と孝宮和子内親王との縁談破談〕先方様はお急ぎであり孝宮様はお急ぎでないという風な申し方を致したと伺いますが。
昭和天皇◆今度は先方は急がぬと言うのだから、その理由はダメだ。

1953年8月11日
田島長官◆昨日お話は侍従次長ともよく相談いたしましたが、やはり御イトコさんのような近親の方はなるべく避ける方針ゆえこの話は見合せのことというように、後に残りませぬ言い方が一番よろしいと存じまする。
こういうことはいい場合は別でありますが、お断りの場合は早いお返事の方がよろしいと存じますゆえ、明後日那須へお出かけ前すなわち明日中にお返事あるほうがよろしいと存じます。
侍従次長稲田周一に御使を仰せつけられるのがよろしいかと存じます。
稲田ならば意味ははっきりと、そして柔らかに申すことと存じます。
昭和天皇◆そうか。
それは早い方が良いが、朝さんはなんだか宮内官を忌避しておられるようだし、だから昨日も直接良宮の所へ言ってこられたのだが、良宮が明日にでも呼んで良宮から話したらどうか。
田島長官◆昭和皇后のご兄弟の場合、はっきり仰せになりましても、それでも再考というようなことになり、昭和皇后が「ええ」とでも仰せになりますれば後に残るように存じまするし、久邇さんの方で忌避なさいましても、侍従次長が御使に出ますは当然でありまして、田島は稲田をお通しいただいてお返事の方がおよろしきと存じます。
昭和天皇◆久邇さんへの御返事は、法律では許してあるが優生学上および医学上からはイトコの結婚は避けた方がいいということゆえ、これは見合せしてもらいたい旨で言え。
ことに邦昭さんは御長子であるから良い後継者を一層必要であるからということを言え。
先方がそれでも何か言ったら、大谷も同様の理由でやめたのだと言え。
ただしこれはなるべく言わんで済めばその方良し。
稲田個人の用件のごとくして電話で今日都合を聞け。
先方へ行ったら両陛下の御使として右のごとく言え。

1953年11月4日
田島長官◆久邇家相談役山梨勝之進〔元学習院長・海軍大将〕が参りまして久邇さん〔久邇宮朝融王〕の御邸の担保の問題はお損になるかもしれぬとの話やら、御邸は仕方ないとしても滋賀の山林だけは手のつかぬようにしたく、山の名前を取って〈金勝林業会社〉とかを作り、社長は久邇家相談役栄木忠常弁護士〔元東宮職事務主管〕でありますゆえ今回は朝融王はどうすることもできず、御邸はどうなりましても1億近いこの山林はどうにもならぬようになったと申しておりました。
しかし従来はちょいちょい伐木して税金も納めず収入としておいでのものを、会社となりましてはそうもなりませず、納税には困るとの話もありました。
しかし従来の無税がむしろ嘘でありますゆえ、税金の軽減を適法に考えればずいぶんありますゆえ、若干の納税はやむをえぬと申しておきました。

1953年11月9日
田島長官◆久邇宮朝融王がまた変なことをなされそうで困っております。
久邇宮家相談役山梨が外務次官を訪問し、朝融さんが元海軍中将金沢正雄とか元議員中村嘉寿らとアルゼンチンにお出かけになるということでお止めしているが、旅券などあったら止めておいてもらいたいむね申し入れがあり、外務省としてはいかぬとか言いかねるというような話をしたむね外務省から宮内次長に電話がありましたそうですが、これは同じことの繰り返しで誠に困ります。
元議員小川友三と中村嘉寿と違いますだけで、訳もわからずにお出かけになりますのはいかがなものかと思いまするし、平素の御行状から察しますれば、外地で香しからぬことになると存ぜられ、場合によりますれば昭和陛下から御言葉でも拝せねばとも考えられます。
昭和天皇◆外務大臣などはどう考えてるだろうか。
田島長官◆岡崎外相はブラジルの時は勝ち組・負け組などあり元皇族などはおいで願いたくないと申しておりましたが。
昭和天皇◆私がただやめなさいと言うよりも外務大臣から外交上に障りがあると言えばいいが。

1953年11月10日
田島長官◆東条内閣の時に運輸大臣をいたしました五島慶太とも申す者は東横鉄道の実権者でありますし、その会社は不動産の分譲事業などをいたしておりますが、田島は鉄道勤務の時の同僚で知っておりますが、今日その息子に手紙を持たせて参りましたことは、久邇宮朝融王が先だってお金を借りてお貸しになり、そのことで久邇家相談役山梨らが苦心しております男と一緒に五島をお訪ねになり、各宮家の名前を連ね「それらの方々の全部の不動産を管理する組合を作りその理事長に五島になってくれと」のお願いで、五島はそのような仕事をいたしておりますゆえ儲け仕事でもあり田島のところへ様子を聞きに参りましたゆえ、「その男は久邇さんに債務がありその債務の返済を迫られている男であって、そんな計画など無茶苦茶なものである」とあらすじだけ話しまして、五島も朝融王のことは承知しておりますゆえ、タッチせぬようはっきり申しておきました。
この方はまずこれで止まると存じますが、山梨らが後始末に苦心しておりまする最中に、その男に乗せられて御行動なさいますことは何と申し上げてよろしいかわかりませぬ。
昭和皇后の御近親ゆえみないろいろ苦労いたしまするが、結局こういう風では朝融王の御行動で皇室の不名誉になるようなことができぬとは保証できませぬので、朝融王としては御不名誉でも準禁治産の宣告ということも必要になるのではないかとさえ思われまする。
そういうことができるかどうか法律的に調べてみるだけの段階に達したのではないかと存じます」
昭和天皇◆それは一つ手続のことだけは調べておいてもらおう。

1953年11月11日
田島長官◆昨夜久邇家相談役山梨を訪問いたしましたところ、山梨ら相談役一同南米行きの件不賛成ゆえ、外務省で旅券のことどうなりましょうと、どうしても行くと仰せあれば連袂辞任してあとはご勝手にと出る覚悟のほどを聞きました。
柔かい言葉の奥に山梨は決心があります。
五島申出の件も山梨に話しましたし、久邇家相談役栄木忠常弁護士〔元東宮伝育官〕にも通じまして準禁治産申立の手続研究はだいたい頼みました。
滋賀の山林を会社組織にいたしましたゆえ安心のようでも無担保で手形を出さるれば、準禁治産でない限り支払の義務があり、皇室が御親類ということでやる者がないとは申し切れませぬし。
昭和天皇◆よくよくのことゆえ、実際には準禁治産などやるべきでない。

1953年11月13日
昭和天皇◆朝融王は利益で動く人ゆえ、結局不利益だと言ったらわかりそうなものだが。
田島長官◆もちろんそういうことは申し上げまするが、高利貸しなどよからぬ輩が利益として申し上げる嘘の利益の方がより大きく、その甘い言葉に乗せられ真の不利益ということの判別力がおありになりませぬゆえダメでございます。
このまえ手形にお懲りになりながら、また担保付手形で借金をなさいますので、口車に乗られます。

1953年12月15日
昭和天皇◆久邇さん〔香淳皇后の兄久邇宮朝融王〕のことは久邇宮相談役山梨がやっているが、あれはどうなるだろう。
田島長官◆「富裕税に関して顧問が欲しい」との仰せゆえ、「一般ならば考えましょう」と申し、青木一男〔元大蔵大臣〕・堀越虎男〔元皇室経済主管〕を推薦いたし、その結果憲法〔久邇家の家憲〕ができまして、それを朝融さんが破られ手形が発行されて、青木らは御不信任とて憤慨して辞任しましたが、これは当然のことでありますが、田島もその憲法の立会人となっておりますために青木らと一緒に去ることになりまして、朝融王の方から河上弘一〔日本興業銀行総裁〕にお頼み、陰ながら口添えしましてできましたが、それによりまえ海軍および学習院の関係で山梨が邦明さん〔朝融王の子久邇邦昭〕の就職の心配などをいたしましたこともあり、田島の引きましたあと山梨が引き受けたような形でありますが、宮家から御依頼になったわけではありませんのでお礼は宮内庁長官の交際費から支弁いたしております。
一度ゆっくりと田島に会いたいとのことでありましたので山梨を訪ねましたところ、従来は久邇宮家の家職がまず山梨に通じ、山梨がある程度こなして、田島に連絡するという取り扱いであったのを、今後は久邇さんの家職は直接宮内庁長官に通じ、新長官からの話で山梨が動くということにして欲しいとの話でありました。
山梨が久邇さんのことから手を引いてしまうというような様子はありませぬゆえ、新長官が山梨を訪問して敬意を払いお頼みしますれば、順序の問題も解決し従来通りになるのではないかと存じます。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1953年1月22日
松平官長に久邇宮朝融王の事件、手形と渡米話す。
手形の山口清も渡米案を持つこと聞く。

1953年6月16日
山梨大将より電話「久邇宮朝融王より新印形預かりし」と。
柔らかな例の調子にて話せし様子。
後難を残さねば幸せ。

1953年8月21日
山梨大将訪問。
久邇宮朝融王、高利貸の話。
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『入江相政日記』侍従長

1954年8月19日〔北海道行幸〕
久邇宮朝融王が松平直鎮子爵と本荘千代とかいう神がかりの女に囲まれてニセコに来られ御対面願いたいということなので、断然おやめ願うべきであると主張し、まず昭和皇后の同意を得て、続いて昭和陛下のお許しも得て、北海道庁を通じて断っておいたのに、またいらっしゃるとのこと。
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◆4代 久邇宮邦昭王 3代朝融王の子
1929年生


■妻  弘世正子   財閥弘世現の娘
1937年生


●長男
●二男
●長女


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『入江相政日記』侍従長

1972年6月21日
植さんと久邇家の御財政について話し合う。
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『入江相政日記』侍従長

1974年12月19日
久邇家のこといろいろ話す。
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『入江相政日記』侍従長

1976年12月16日
植さん来訪、久邇家の財政難のこと。
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『入江相政日記』侍従長

1980年6月26日
植さんに賜金を渡す。
久邇家、大変具合よくいっているとのこと。
よかった。
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『入江相政日記』侍従長

1982年3月10日
昭和陛下より、元宮内庁長官田島道治が久邇宮朝融王・徳川喜好・松平直鎮の神がかりをとめてくれたときのいきさつは、東本願寺問題の参考になりはしないかとの仰せ。

1982年3月12日
久邇宮朝融王の神がかりを田島元長官が取りしずめたのを参考にして東本願寺が何とかなるまいかとの昭和陛下の仰せにつき徳川侍従次長と相談。
今度のとはまったく性質が違うし、内藤君が一生懸命やっているから、もうしばらく様子を御覧になっていただきたいと申し上げる。

1982年3月16日
昭和陛下が、久邇宮朝融王を新興宗教から離したのは大協石油社長高橋真男が一緒に食事をしたりして懇談したから、東本願寺にも内藤の他にそのような人を見つけなければならないとおっしゃる。
「そんな人みつかりません」と申し上げたら、
「なんとしても見つけなければ」とおっしゃる。
「東伏見邦英さん〔香淳皇后の弟〕さえお近づきになれないのだから」と申し上げたら、おわかりになった。

1982年6月24日
植さんに久邇宮家への賜金を渡す。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1983年6月23日
洋楽演奏会に久邇宮正子女王陪聴のこと。
大真協会〔久邇正子の信仰〕のこともあり、昭和皇后〔香淳皇后〕との接触は避けねば。
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◆2代 久邇宮邦彦王 1代久邇宮朝彦親王の子・娘は香淳皇后
1873-1929 57歳没

*わがままな言動が多く、父・自分・子と三代続けてお騒がせ皇族の一人であった。






■妻  島津俔子 公爵島津忠義の娘・姉は山階宮常子妃
1879-1956 76歳没

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●久邇宮朝融王  3代当主
●久邇宮邦久王  侯爵久邇邦久となる
●久邇宮邦英王  伯爵東伏見邦英となり後に僧侶東伏見慈洽となる

●久邇宮良子女王 昭和皇后/香淳皇后
●久邇宮信子女王 伯爵三条西公正と結婚
●久邇宮智子女王 東本願寺大谷光暢伯爵と結婚


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●久邇宮邦久王 侯爵久邇邦久となる



●久邇宮邦英王 伯爵東伏見邦英となり後に僧侶東伏見慈洽となる



●久邇宮信子女王 伯爵三条西公正と結婚



●久邇宮智子女王 東本願寺大谷光暢伯爵と結婚



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◆3代 久邇宮朝融王 2代邦彦王の子
1901-1959 58歳没

*素行不良で、祖父・父・自分と三代続けてお騒がせ皇族の一人だった。

*伯爵酒井忠興の娘酒井菊子と婚約していたが、7年も経ってから朝融王が一方的に婚約破棄したため大問題となった。

*結婚後は侍女に手をつけ、妊娠出産事件に至り大問題となった。(倉富日記昭和3年6月29日)




■妻  伏見宮知子女王 伏見宮博恭王の娘 
1907-1947 40歳没

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●久邇宮邦昭王  4代当主
●久邇宮朝宏王  西村桜子と結婚
●久邇宮朝建王  宮沢澄子と結婚

●久邇宮正子女王 伯爵龍田徳彦/梨本徳彦と結婚・熟年離婚
●久邇宮朝子女王 男爵島津斉視と結婚
●久邇宮通子女王 永岡氏と離婚・酒井省吾と再婚
●久邇宮英子女王 本州製紙木下又三郎の子木下雄三と結婚
●久邇宮典子女王 財閥古河潤之助と結婚


左:英子女王 右:典子女王
1017


座る左から 三条西信子・母俔子妃・朝融王・知子妃
2016



●久邇宮通子女王 永岡氏と離婚・酒井省吾と再婚
1016


後列左が酒井省吾 手前が通子
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●久邇宮典子女王 古河潤之助男爵と結婚
8000



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◆4代 久邇宮邦昭王 3代朝融王の子
1929年生

1944年
3001


1993年
3008



■妻  弘世正子   財閥弘世現の娘
1937年生

1957年
3011


3007



●長男 
●二男 
●長女 


3012


久邇宮邦昭王の娘
4000(4)

◆初代 久邇宮朝彦親王 伏見宮邦家親王の子
1824-1891 67歳没

*わがままな言動が多く、自分・子・孫と三代続いてお騒がせ皇族の一人であった。

1879年 57歳
0057



※妻帯せず側室・庶子多数のため主要な子供のみ


●久邇宮邦憲王   初代賀陽宮邦憲王となる
●久邇宮邦彦王   2代当主
●久邇宮守正王   3代梨本宮守正王となる
●久邇宮多嘉王   久邇宮多嘉王家となる
●久邇宮鳩彦王   初代朝香宮鳩彦王となる
●久邇宮稔彦王   初代東久邇宮稔彦王となる

●久邇宮栄子女王  子爵東園基愛と結婚
●久邇宮安喜子女王 侯爵池田詮政と結婚
●久邇宮絢子女王  子爵竹内惟忠と結婚
●久邇宮素子女王  子爵仙石政敬と結婚
●久邇宮篶子女王  伯爵壬生基義と結婚
●久邇宮純子女王  子爵織田秀實と結婚


●久邇宮邦憲王 初代賀陽宮邦憲王となる



●久邇宮邦彦王 2代当主



●久邇宮守正王 3代梨本宮守正王となる
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●久邇宮多嘉王 久邇宮多嘉王家となる



●久邇宮鳩彦王 初代朝香宮鳩彦王となる



●久邇宮稔彦王 初代東久邇宮稔彦王となる



●久邇宮栄子女王 子爵東園基愛と結婚
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●久邇宮安喜子女王 侯爵池田詮政と結婚



●久邇宮絢子女王 子爵竹内惟忠と結婚



●久邇宮素子女王 子爵仙石政敬と結婚



●久邇宮篶子女王 伯爵壬生基義と結婚

座る:基義&篶子夫妻 立つ:基義の弟町尻量基
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●久邇宮純子女王 子爵織田秀實と結婚

■東京本邸 1番目 1872年 神田区西小川町(現:千代田区西神田)


■東京本邸 2番目 富士見町 
酒井家庄内藩邸


■東京本邸 3番目 麹町区紀尾井町(現:千代田区紀尾井町)
1879年転入
1882年和館竣工 800坪
1891年洋館竣工 200坪 設計:片山東熊

戦後大谷財閥が買い取り、4万平米の庭園を残して解体しホテルニューオータニになる
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花壇と温室
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■熱海別邸 静岡県熱海市
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■京都別邸 河原屋敷
5005



■東京中野別邸 東京都中野区 1882年竣工


■銚子別邸 千葉県銚子市 1905年竣工


■鎌倉別邸 神奈川県鎌倉市 1905年竣工


■軽井沢別邸 長野県北佐久郡軽井沢町


■藤沢別邸 神奈川県藤沢市


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◆19代 伏見宮貞敬親王 18代伏見宮邦頼親王の子
1775-1841 65歳没


■妻  一条輝子    公家一条輝良の娘
1795-1828 33歳没


※側室・庶子多数のため主要な子供のみ


●庶子 伏見宮邦家親王 20代当主
●庶子 伏見宮守脩親王 初代梨本宮守脩親王となる


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◆20代 伏見宮邦家親王 19代貞敬親王の子
1802-1872 69歳没


■妻  鷹司景子    公家鷹司政熙の娘
1814-1892 78歳没


※側室・庶子多数のため主要な子供のみ


●実子 伏見宮貞教親王 21代当主
●実子 伏見宮貞愛親王 22代当主

●庶子 伏見宮晃親王  初代山階宮晃親王となる
●庶子 伏見宮朝彦親王 初代久邇宮朝彦親王となる
●庶子 伏見宮彰仁親王 初代小松宮彰仁親王となる
●庶子 伏見宮能久親王 2代北白川宮能久親王となる
●庶子 伏見宮博経親王 初代華頂宮博経親王となる
●庶子 伏見宮智成親王 初代北白川宮智成親王となる
●庶子 伏見宮家教親王 伯爵清棲家教となる
●庶子 伏見宮載仁親王 6代閑院宮載仁親王となる
●庶子 伏見宮依仁親王 初代東伏見宮依仁親王となる

●庶女 伏見宮万佐宮  瑞龍寺門跡村雲日栄となる
●庶女 伏見宮貴子女王 1877年雲州松平直応伯爵と離婚・奥平松平忠敬子爵と再婚


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◆21代 伏見宮貞教親王 20代邦家親王の子
1836-1862 26歳没


■前妻 鷹司積子    公家鷹司政通の娘・死別
1838-1860 22歳没


■後妻 鷹司明子    公家鷹司輔煕の娘
1845-1878 33歳没


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◆22代 伏見宮貞愛親王 21代貞教親王の弟/20代邦家親王の子
1858-1923 64歳没


■妻  有栖川宮利子女王 有栖川宮幟仁親王の娘 
1857-1927 69歳没

*利子女王が貞愛親王に嫁いだ時にはすでに貞愛親王には十代の頃に側室に生ませた嫡男博恭王がいた。


●庶子 伏見宮博恭王  25代当主
●実子 伏見宮邦芳王
●実子 伏見宮昭徳王  早逝

●庶子 伏見宮禎子女王 山内豊景侯爵と結婚
大正天皇が皇太子時代に皇太子妃として婚約発表されたが肺病の疑いありとの理由で婚約は取消となった。


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『貞愛親王事蹟』

<利子妃の精神病>

(二番目に生んだ昭徳王が1歳半で亡くなったことをきっかけに)憂鬱に沈みたまえり。
御心痛のきわみ、脳の御悩みに苦しめられ、ついに公の式には列したまはざるに至れり。
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明治の宮廷に出入りしていたドイツ貴族オットマール・フォン・モールの手記

<利子妃の精神病>

利子妃はすでにその頃から、のちに激しくなった精神錯乱の兆しを示されていた。
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佐々木高行『かざしの桜』明治天皇の娘昌子内親王と房子内親王の御養育係

<利子妃と邦芳王の精神病>

1899年8月22日
伏見宮にては禎子女王皇太子殿下の御息所に御内定と申すことにて、何事も同女王には御手厚くあれど、邦芳王にはすこぶる冷淡なる御模様なり。
伏見宮貞愛親王の御息所は有栖川宮威仁親王の御妹君利子女王にあらせられ候ところ、御神経の御病症にて久しく御閉居、同御息所の御誕生邦芳王は御同症にて御閉居なるに、その御取扱よろしからずとの御感触は有栖川殿中にてよほど御不快の趣にてあり。
禎子女王は御妾腹にあらせられ、その辺には言うべからざる御儀ありと漏れ聞くなり。

1899年12月30日

※元伏見宮家別当清岡公張の発言

伊藤博文などは最初から禎子女王に不同意にてありしと察せられ候。
その次第は別当在職中のある時、伊藤は「伏見宮禎子女王を東宮妃にとの御模様を薄々拝承す。然るに伏見宮御息所は御精神病にてまた若君も御同様なり、至極御大事なり」と言う。
私は「禎子女王は御妾腹にて若君は御本腹なれば御血統には何もなく、伏見家にはさような御病症は御一人もあらせられず」と答えて言った。
伊藤は「それでも御家内にあらせられ候ては如何。十分注意致すべし」と変な口気にてありし。
すでにその頃より異議ありたりと見ゆ。
さよう御大事のことなるに例の軽忽に奏聞致し申さずや。
伊藤は御信用も厚きことなるに、これまで軽率に奏聞せることもありしを承知せり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年4月7日
※倉富&宮内大臣牧野伸顕伯爵の会話

倉富◆伏見宮別当より博恭王〔当時の当主は父貞愛親王〕の住居の事につき相談あり。今まで博恭王は子華頂宮博忠王と同居せられおるところ、華頂宮も成年に進むならん。到底同居にては済まざるゆえ住居の工夫を請うということなりしなり。しかるに博恭王は独立の方にあらず。皇族一人ごとに住居を賜う事は到底出来がたき事につき、博恭王の住居は伏見宮にて処置せらるべきものとの考えを定め、伏見宮別当にその旨を伝えたり。しかるにその後 建築の計画広大になる事になりそうなる様に聞きうるゆえ、
予より「なるべく小規模にして経費の節約を図るべし。博恭王は独立の方にあらざるゆえ公式の事はすべて伏見宮本邸でなさるればよろしく、言わば仮の住居にて朝夕の事さえ間に合えばそれにて済む訳なる」旨を告げおきたり。しかるにこの節建築の費用の概算を宮内省に出したるところ、規模広大にして費用25万円余を要する事となりおれり。
別当を問い質したるところ「伏見宮にては一部分もこれを支弁すべき余裕なく、過半は御補助で宮家より支出するものも立て替えてもらい年賦にて償還せられる様いたしたい」との事なり。只今の設計ならば到底25万円にて出来る見込みなく3,40万円は要するならんと思わる。
牧野◆到底左のごときにて出来るものにあらず。誠意あるものと認めがたし。
倉富◆いかがすべきや。
牧野◆いかがすると言うて、考え様もなき事なり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年4月14日
※宮内官僚仙石政敬子爵の発言

4月8日に催されたる伏見宮の園遊会の食卓は随分ひどき有様にて、
某少将などは「この設備には君も関係いたしおるか」と言うにつき、
「しからず」と答えたるところ、
某は「皇族が園遊会を催さるるならば皇族の催しだけの事はなさらざるべからず。このごとき乱雑なる事ならばむしろ催されざる方がよろし」と言いおいたり。
その日は雨が降りたるゆえなおさら混雑したるべきも、
「晴雨に関わらざる催しなれば雨の時の準備も為し置からざるべからず」と言う。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

<利子妃と邦芳王の精神病>

1924年9月8日
※伏見宮付事務官梶田文太郎の発言

利子妃は本年3月頃軽き脳溢血あり。
その後、脳症はかえってよろし。
利子妃は故貞愛親王在世の時は一日一回は必ず機嫌を候せられ、昨年親王が銚子に行かれたる時はその日を日記に記しおられ、親王の帰京遅き旨の話をなされる事あり。
侍女らは銚子にて病気療養中なる旨を答え置き、その後は何とも言われず、あるいは既に薨去を知りおらるるならんかとも思わる。
むしろ事実を告ぐる方よろしからんと話したる事あれども、
侍医西郷吉義は「突然感動せらるる様の事あれば脳溢血を起す恐れあり」とてこれを止めおれり。
邦芳王はまったく事理の弁別なし。
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『高松宮日記』

1933年6月6日
伏見宮邦芳王の御葬儀に参列。
幼年校まで修められて御病気になられたことを聞いて、ややお気の毒さを加えたり。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

<伏見宮禎子女王を押しつけられた山内侯爵家>

*上杉重子と婚約していた山内豊景侯爵は
伏見宮貞愛親王から大正天皇との婚約が解消となった娘禎子女王を押し付けられて
重子との婚約を解消する

〔大正天皇との婚約解消で〕困ったのは伏見宮家である。
貞愛親王・禎子女王御自身の心情はもちろんのこと、宮家としてもなんとなく傷がついた感じである。
それでなるたけ早く姫君は嫁がせた方がよかろうということになり、いろいろと相手の男子を物色されていたのである。
ある時宮中で宴会があって、大勢の華族たちが御陪食にあずかった。
伏見宮殿下は大尉の軍服を着た若い山内侯爵獅子の姿を目に止められた。
やせぎすではあるが、どこかキリッとしていかにも頼もしい好青年士官である。
そこで伏見宮殿下はさっそく近づいていかれて、
「どうだ、君はまだ独身だろう?」とお尋ねになった。
そこで山内大尉が事実を明白にすればよかったのであるが、
ついうかうかと「はい、さようでございます」と言ってしまったのである。
「それではどうだね。ワシの娘を嫁にもらってはくれまいか」と直談判を始められた。
それでもなお山内大尉にもう少し勇気があればよかったのであるが、なにぶんにも宮殿下からの直々の御談判である。
若い大尉がすっかりあがってしまったことも想像に難くない。
「はい」と答えてしまって、その自分の言葉の重大さに気がついた時にはもう遅かった。
「それではよろしくお頼みしますよ」
伏見宮殿下はようやく心の重荷が下りたといったようにご満足気に笑われた。
おそらく帰途についた山内大尉の気持ちは複雑であり、さすがに若くて元気のある青年士官も意気消沈したことであろうと思われた。
と言うのは、その時山内大尉は確かにまだ独身だったことには違いなかったが、すでに上杉伯爵家の娘と婚約が成立していたからである。
若い大尉はその日邸に帰るとすぐ、一家をあげて評議したであろう。
ところが相手がなにぶんにも宮殿下である。
いったん承知してしまったことを覆すということはいかにもできにくい。
一家がどういう結末をつけたかは、その後間もなく山内家と上杉家との婚約が破談になったということが伝わって明白となった。

このことで最も打撃を受けたのは、言うまでもなく上杉伯爵家の娘であったろう。
乙女の純情はみじんに砕かれた。
彼女はその後何事もなかったかのように、高辻子爵と結婚した。
高辻子爵は公卿華族で、大正時代には東宮侍従をやった人物である。
小柄ないかにも温厚な人物で、家庭では寛大なよき主人であることがうかがえた。
また高辻家は公卿華族としては比較的資産にも恵まれており、それ相応の生活をしていた。
夫人との間には子供もあり、長女は音楽学校に入っていた。
そうした表面だけを見れば、高辻家にはどこにも不満や家庭的な破綻を生じる余地がないように見えた。
夫人は中年以降にもその若き日の美貌と怜悧とがいまだに物を言っている風で、年に似合わず夫人の周囲にはいつも華やいだ雰囲気が漂っていた。
高辻子爵夫人の晩年には、とかく自暴自棄の行動が多かった。
中年を過ぎた高辻夫人の乱行を思い浮かべて、女の業の深さに暗澹とした気持ちを抱いたのであった。
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◆23代 20代邦家親王が再度


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◆24代 22代貞愛親王が再度


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◆25代 伏見宮博恭王 24代貞愛親王の子
1875-1946 70歳没


■妻  徳川経子   将軍徳川慶喜の娘
1882-1939 56歳没


●伏見宮博義王  3代華頂宮となるが伏見宮にもどる
●伏見宮博忠王  4代華頂宮となるが戦死
●伏見宮博信王  侯爵華頂博信となる
●伏見宮博英王  伯爵伏見博英となる

●伏見宮恭子女王 侯爵浅野長武と結婚して寧子と改名
●伏見宮敦子女王 伯爵清棲幸保と結婚
●伏見宮知子女王 久邇宮朝融王妃・敦子女王と知子女王は双子


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■夫  伏見宮博義王 25代博恭王の子
1897-1938 40歳没


■妻  一条朝子  公爵一条実輝の娘・妹は閑院宮直子妃
1902-1971 68歳没

*香淳皇后とは女子学習院の同級生で、共に昭和天皇のお妃候補であった。


●伏見宮博明王  26代当主

●伏見宮光子女王 尾崎行雄の孫尾崎行良と結婚
●伏見宮章子女王 サッポロビール草刈広と結婚


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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

<博義王の脳病>

1921年4月18日
※倉富&宮内官僚仙石政敬子爵の会話

仙石◆博忠王の病気は始めは痔核のつもりにて一度治療したるところ再発し、診断の結果痔瘻なる事わかり切開治療するため上京せられたるなり。父博恭王およびその王子もみな病弱にて困る。
倉富◆博義王も虚弱なりや。
仙石◆博義王は身体は弱からざるも、脳膜炎に罹られたるため脳が悪し。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

<博義王の誤射事件>

1922年11月4日
※倉富&宮内官僚関屋貞三郎の会話

倉富◆矢吹御猟場にて流弾のため人を傷つけたる事実、皇族の過失なるやの噂あるがいかが。
関屋◆分からず。
倉富◆今日の官報に伏見宮博義王・博忠王が御猟場に行かれている事は掲載しおれり。
関屋◆しかり。操銃も未熟せられざるゆえ間違いあるやも計り難し。

1922年11月5日
※宮内官僚井上勝之助の発言
御猟場における過失傷事件は博義王の流弾なるも、式部官石川成秀子爵の流弾と為したる趣なり。

1922年11月6日
※倉富&宮内官僚酒巻芳男の会話

酒巻◆御猟場における事件は聞きたりや。
倉富◆聞きたり。石川成秀の過失という事に為したるにあらずや。
酒巻◆しかり。即夜に西園寺八郎の取計にて見舞金100円を持たせて属官を遣し、翌日石川自身が見舞いに行き、被害者は二十歳前後にて模範青年と言わるる者なる趣、加害者に対し訴を起す様の事は決してなき模様なり。被害者の傷は指に弾が留りおり、只今は熱があるゆえ弾を抜き取る事はできず。解熱したる後これを抜き取るつもりなりとのことなる趣なり。

1922年11月7日
※宮内官僚小原駩吉の発言

博義王とともに矢吹御猟場にあり。
博義王、過ちて銃弾を飛ばし人を傷く。
御猟場における猟に必ず主猟官を出張せしむる事と為したるは、このごとき事のある場合を慮るより出でたるものにて、この節もまったく石川成秀の過失と為し、被害者に対して主猟官が職務上の過失より出でたる事として宮内省より相当に慰謝するつもりなり。
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『木戸幸一日記』内大臣

1935年10月30日
坊城伯爵より、博義王御狩猟の件につき話あり。

1935年10月31日
伏見宮家四竈孝輔別当を招き、博義王の御狩猟につき注意す。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
海軍大将 井上成美

<博義王の死因>

宮様というものは、責任のあるところへ付けられるような教育をされていないんです。
大将の仕事のできない方を無理矢理に持ってきたなんていうのは、それは宮様がお気の毒なんだ。
宮様というものは非常に素直に育っておられて、いわゆる宮家のお付きの言うことをやっていればいい。
またお付きもお付きで、自分の受け持ちの宮様とか皇子様とかそういう人の気にさわることを言えばクビになるから、気にさわらんようにばっかりやってるんです。
伏見宮博義王殿下はね、お付き武官が殺したようなものです。
不眠症になられたんです。お付きが睡眠薬かなんかお勧めしてね。
ああいうものはだんだんエスカレートしていくから、二服で効かない三服で効かない、四服も五服も飲むようになった。
それをハイハイと言ってお付きの奴が飲ませた結果、睡眠薬中毒になって効かなくなったんです。
そういう風で宮様というのはお気の毒なものなんだ。
だから博義王なんかもう少し生きられるはずなのに、若くして亡くなられてお気の毒だ。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1949年11月30日
昭和天皇◆伏見朝子妃殿下は、姑に書道三味線等までよく仕えられた。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1950年10月23日
昭和天皇◆伏見光子さんのことは新聞で見た。
田島長官◆伏見宮家の者の話ではやや宣教師の宣伝が多く、今から交際が始まるということでございます。
昭和天皇◆人物は良いのか。
田島長官◆悪いとの話もないようでございますが、中学も卒えておらず、職業も安定を欠いているように存じます。

1950年12月1日
某日に聞きし伏見光子さんの問題申し上ぐ。
〔読売新聞1950年11月25日「元姫宮と結婚の自由 尾崎行良君と明春挙式の伏見光子さん」〕
昭和天皇◆学校の優秀と世間とは違う。
専門教育と基礎教育、天才教育と基本教育、難しい問題だ。
学校の優等生必ずしも社会の優等生ではない。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1951年5月15日
伏見光子さん神沢事件の存在のことちょっと申し上ぐ。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1952年11月4日
「陛下の仰せもあり〔平成天皇のお妃候補の〕一応の適当年齢者を調べ出す仕事を書陵部長三井安弥がやっておりますが、その際にも年齢はそう近くないことに致して考えておりましたところが、東宮教育参与小泉信三が東宮様と二人だけでいろいろお話の際、比較的早く結婚したいとの意思を表明されたということを聞きました。早く御結婚となりますれば妃殿下の年齢は東宮様に近くということになります。また先年三里塚へ馬にお乗りにおいでになる時、やはり乗馬をされるというので伏見さんの二人目の方〔伏見章子〕に対して御希望がありましたが、世間がうるさいからとておやめ願ったことがあります。特定の方として考えられるのはちょっと伏見さんくらいであります」
「伏見さんは短命の筋で」

1952年11月7日
「私は摂政のとき良宮と博恭王の王女の双子の方、清積伯爵へ行った人〔伏見宮敦子女王〕と朝融王妃となられた方〔伏見宮知子女王〕とがテニスも同じぐらいお上手であったので、博恭王妃殿下〔伏見宮経子妃〕に赤坂離宮へお遊びにおいでくださいと、私はただそれだけの意味で言ったところ、博恭王妃殿下がどう貞明皇后にお話になったかわからぬが、私は貞明皇后からひどく叱られたことを今でも記憶している。どういうことがわからぬが、当時秩父宮妃殿下の問題か何かあって、〔単に秩父宮のお妃選びが始まっていた時期という意味〕貞明皇后は反対であったらしく、そのためかと思われるので、何か伏見さんについては貞明皇后はお考えの点があったらしい」
「歴代の宮内大臣は御結婚の問題ではなかなか大変で、宮内大臣一木喜徳郎も高松宮妃殿下の問題で辞めておりますし、また女の方の御心にはなかなかいろいろなものがありますから、よく注意いたしまして」
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


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◆26代 伏見博明 伏見宮博義王の子
1932年生


■妻  吉川和子 吉川光器吉川武の娘


●長女
●二女 
●三女

◆23代 20代邦家親王が再度


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◆24代 22代貞愛親王が再度


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◆25代 伏見宮博恭王 24代貞愛親王の子
1875-1946 70歳没






■妻  徳川経子 将軍徳川慶喜の娘
1882-1939 56歳没









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●伏見宮博義王  3代華頂宮となるが伏見宮にもどる
●伏見宮博忠王  4代華頂宮となるが戦死
●伏見宮博信王  侯爵華頂博信となる
●伏見宮博英王  伯爵伏見博英となる

●伏見宮恭子女王 侯爵浅野長武と結婚して寧子と改名
●伏見宮敦子女王 伯爵清棲幸保と結婚
●伏見宮知子女王 久邇宮朝融王妃・敦子女王と知子女王は双子


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母経子妃と
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●伏見宮博忠王 4代華頂宮となるが戦死



●伏見宮博信王 侯爵華頂博信となる



●伏見宮博英王 伯爵伏見博英となる



●伏見宮寧子女王 侯爵浅野長武と結婚して寧子と改名



●伏見宮敦子女王 伯爵清棲幸保と結婚
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●伏見宮知子女王 久邇宮朝融王妃・敦子女王と知子女王は双子
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■夫  伏見宮博義王 25代博恭王の子
1897-1938 40歳没





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■妻  一条朝子 公爵一条実輝の娘・妹は閑院宮直子妃
1902-1971 68歳没

*香淳皇后とは女子学習院の同級生で、共に昭和天皇のお妃候補であった。










●伏見宮博明王  26代当主

●伏見宮光子女王 尾崎行雄の孫尾崎行良と結婚
●伏見宮章子女王 サッポロビール草刈広と結婚


●伏見宮章子女王 草刈広と結婚
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◆26代 伏見博明 伏見宮博義王の子
1932年生




■妻  吉川和子 吉川光器吉川武の娘


●長女
●二女
●三女


1982年 伏見博明の娘 
19820934(1)


4000(22)

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