直球和館

2025年

2003/01

◆26代 二条斉敬    25代二条斉信の子
1816-1878


■妻  伏見宮恒子女王 伏見宮邦家親王の娘
1826-1916


●男子 二条正麿    男爵二条正麿となる→子は29代当主二条弼基
●男子 二条利敬    子爵東園基愛の娘東園増子と結婚
●男子 二条隆英    男爵四条隆英となる


●二条正麿 男爵二条正麿となる→子は29代当主二条弼基



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◆27代 二条基弘 公家九条尚忠の子・養子になる
1859-1928  69歳没

1879年 22歳
0022d








愛車フォードとともに
1001



■妻  前田洽子 金沢藩主前田斉泰の娘 
1863-1925 62歳没


●実子 二条厚基 28代当主
●実子 二条邦基 政治家横山章の娘横山和子と結婚
●庶子 二条元基
●庶子 二条建基
●庶子 二条恭基
●庶子 二条敏基
●庶子 二条正基
●庶子 二条成基
●庶子 二条倫基

●実子 二条敬子 男爵鍋島直高と結婚
●庶子 二条澄子 小津茂郎と結婚
●庶子 二条承子 仏職平光寿と結婚


●二条敬子 男爵鍋島直高と結婚




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※当時の総理大臣の年給は1万2千円

二条基弘は大資産家の金沢藩主の娘と結婚しており、また公爵は華族中の華族として最低資産10万円が保障されているため、経済的基盤は揺るぎないものであったが、基弘の浪費によって二条家は傾く。

基弘は何事にも精力的な性格で妾にも多くの子を生ませているし、英語・書・詩歌・弓・鉄砲・馬・彫刻・茶・花などに凝った。
30歳近くになってからイギリスのケンブリッジ大学に留学して、帰国してから凝ったのが政治である。
政治活動に資産を使い果たし、大正3年には40万円の借金ができる。
さらに借金を重ねて翌大正4年には100万円にふくれあがる。
二条家は基弘を隠居させ息子の厚基を当主とするが、借金の整理に苦労する。
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◆28代 二条厚基 27代基弘の子
1883-1927 44歳没


■妻 島津泰子 男爵島津長丸の娘
1899-1936 37歳没


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◆29代 二条弼基 男爵二条正麿の子
1911-1985 74歳没


■妻  恭仁子女王 多嘉王の娘 
1917年生



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1010


1011


1012


1013


1014



●長男
●長女
●二女

■東京本邸 赤坂区福吉町
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■京都別邸
1012



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◆22代 一条忠香    21代一条実通の弟・20代一条忠良の子
1812-1863 51歳没


■妻  伏見宮順子女王 伏見宮邦家親王の娘
1827-1908 81歳没


●実子 一条実良    23代当主

●女子 一条明子    伯爵柳沢保申と結婚
●庶女 一条美子    明治皇后/昭憲皇太后


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◆23代 一条実良 22代忠香の子
1835-1868 33歳没


■妻  近衛総子 公家近衛忠煕の娘
1887年没


●女子 一条良子 24代当主一条忠貞と死別・25代当主一条実輝と再婚


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◆24代 一条忠貞 公家醍醐忠順の子・婿養子になるが死別
1862-1882 20歳没


■妻  一条良子  23代実良の娘・死別後再度婿養子を迎える


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◆25代 一条実輝 四条隆平の子/侯爵四条隆謌の養子・婿養子になる
1866-1924 58歳没

*フランスに駐在


■前妻 一条良子 24代忠貞の妻/23代実良の娘・死別
1868-1899 31歳没


■後妻 細川悦子 侯爵細川護久の娘
1877-1945 68歳没


●男子 一条実基 男爵一条実基となる
●男子 一条実光 伯爵佐野常光となる
●男子 一条実英 伯爵南部利英となる

●女子 一条経子 婿養子を迎え26代当主とする
●女子 一条朝子 伏見宮博義王妃 昭和天皇のお妃候補の一人であった
●女子 一条直子 閑院宮春仁王妃・熟年離婚
●女子 一条圭子 子爵鍋島直和の子鍋島直方と結婚
●女子 一条生子 男爵伊達宗克と結婚


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阪谷寿子 阪谷希一子爵の妻・三島弥太郎子爵の娘・四条隆謌侯爵の孫

一条の伯父様〔一条実輝〕は本当は祖父上〔四条隆謌〕さんのお子さんではなく、弟の隆平さんが部屋住み時代にある女の人に産ませたお子さんなのですが、祖父上が自分の子とされ成人してから一条家へ養子にやられたのです。
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◆26代 一条実孝 大炊御門師前の子・婿養子になる
1880-1959 79歳没


■妻  一条経子 25代実輝の娘
1885-1956 71歳没

*九条良致は経子の婿養子になる予定で一条家の養子になっていたが、
経子がこれを嫌ったため破談となり良致は九条家に戻って九条武子と結婚する。


●男子 一条実文 27代当主

●女子 一条正子 財閥三井高陽男爵と結婚
●女子 一条重子 子爵鍋島直庸の子鍋島直浩と離婚・正田文右衛門と再婚

●養女 平松陽子  公家平松時冬の娘・奈良の中宮寺門跡一条尊昭となるが大学生と駆け落ちする


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佐々木高行『かざしの桜』明治天皇の娘昌子内親王・房子内親王の御養育係

*一条経子は大正天皇のお妃候補になったことがあった

1899年1月
※下田歌子の発言
久邇宮純子女王はとても明治陛下に難しきことならん。
なにぶん久邇宮との御間柄は御事情あり、お聞き届けはあるまじくと考えられ候。
一条経子はよろしからず、残るは徳川か。
しかるに見栄えこれ無し。
もっとも徳川国子は身体丈夫、生質もよろしく、発明なれば、見栄えはともかくしかるべしか。

1899年1月21日
※佐々木と前宮内大臣土方久元の会話

土方◆華族女学校長へも相談し、久邇宮純子女王はいかがと尋ねたるに、何も申し上げ候御義はこれ無しと。一条経子はいかがかと、一条は教育一同においてもしかるべからずとの答えありたる。
佐々木◆久邇宮純子女王は御病症もあらせられず候らえども、いかにも御体裁よろしからず太子妃には御不相応かと。そのなか徳川慶喜の娘国子は生質はいたってよろしく、発明の趣き、下田らよりも承り。しかし至って丈低く、甚だお見立て無しとのことなり。
土方◆御同感なり。

1899年4月8日
※前宮内大臣土方久元の発言

徳川慶喜娘国子は人物よろしき趣きにつき、先日大山巌らと学校へ模様を見に行きたり。なにぶん体格至少にていかがかと考えたれども、人物よろしき趣きにつき、なお体質を検査致せさせ方、これは禎子女王より一層悪しきと申すことにて致し方なく取り消したり。
久邇宮純子女王は天皇に思召しあらせられ難しい。
北白川宮女王は御体質よろしからず。
一条経子は人柄よろしからず。
華族女学校にて各教師も見込みなしと言う。
鷹司房子は弱体にてすでに当御殿にも参殿せぬくらい。
毛利万子はよろしき趣きなれども、薩長二藩閥うんぬんにて人心に関しおる時に向来の皇后宮まで長とか薩とかにてはしかるべからず。
九条節子は体質は丈夫にて悪心はこれ無し。
もやは致し方なく、まずもって七分通り節子と申すことに相成りおり候。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

九条良致男爵は幼少の頃、一条家に養子となって入った。
当時一条家には幼い娘が一人いたが〔一条経子〕成年になってこの二人が結婚して一条家を相続することに約束されていたのであったが、娘が大きくなってからこの養子を嫌ったために、ついに里方の九条家へ帰されてしまったといういきさつがあって、一条家と九条家は仲たがいの形になっていたのであった。

また当時一条家の娘が幼かったため、爵位の中継ぎとして細川家から夫婦養子が入っていたのであるが、その二人の間には娘〔一条朝子〕があって、昭和天皇の皇后候補が問題となっていた時にはまさに結婚の適齢期にあったのである。
それが久邇宮良子女王との御結婚が発表になるとすぐ伏見宮家に嫁に行ってしまったので、いかにも当てつけたように世間には見えたのである。

華族の家に後継がない場合には爵位は没収されるころになっていたので、一条家では娘が幼いため細川家から夫婦養子を入れていたが、家付き娘が大きくなって大炊御門家から養子を入れた時に、その相続をめぐって裁判沙汰にまでなったが、結果は家付き娘に大炊御門家から入った養子が一条家を相続することになった。
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高松宮喜久子妃

奈良の斑鳩の里に中宮寺という古い古い尼寺がある。
尼さんは一条尊昭という若い人で、戦後お習字を教えていた大学生とねんごろな仲になり駆け落ちしてしまった。
お茶や習字の先生をして生計を立てているとのことで、後に一度会ったが、髪を伸ばしパーマネントをかけた姿よりは、昔の尼僧姿の方がずっと美しく私には思えた。
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◆27代 一条実文 26代実孝の子
1917-1985 68歳没


■妻  松平好子 子爵松平頼庸の娘
1922-1976 54歳没


●長男 一条実昭
●二男 一条頼実

◆22代 一条忠香 21代一条実通の弟/20代一条忠良の子
1812-1863 51歳没


■妻  伏見宮順子女王 伏見宮邦家親王の娘
1827-1908 81歳没


●実子 一条実良    23代当主

●女子 一条明子    伯爵柳沢保申と結婚
●庶女 一条美子    明治皇后/昭憲皇太后


●一条美子 明治皇后/昭憲皇太后
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◆23代 一条実良 22代忠香の子
1835-1868 33歳没


■妻  近衛総子 公家近衛忠煕の娘
1887年没


●女子 一条良子 24代当主一条忠貞と死別・25代当主一条実輝と再婚


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◆24代 一条忠貞 公家醍醐忠順の子 婿養子になる・死別
1862-1882 20歳没

1879年 19歳
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■妻  一条良子  23代実良の娘・死別後再度婿養子を迎える


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◆25代 一条実輝 四条隆平の実子/侯爵四条隆謌の養子・婿養子になる
1866-1924 58歳没

*フランスに駐在

1009


1011





■前妻 一条良子 24代忠貞の妻/23代実良の娘・死別
1868-1899 31歳没


■後妻 細川悦子 侯爵細川護久の娘
1877-1945 68歳没

2004(1)


2009


2010


2002


フランスで
2005


2013



●男子 一条実基 男爵一条実基となる
●男子 一条実光 伯爵佐野常光となる
●男子 一条実英 伯爵南部利英となる

●女子 一条経子 婿養子を迎え26代当主とする
●女子 一条朝子 伏見宮博義王妃 昭和天皇のお妃候補の一人であった
●女子 一条直子 閑院宮春仁王妃・熟年離婚
●双子 一条圭子 子爵鍋島直和の子鍋島直方と結婚
●双子 一条生子 男爵伊達宗克と結婚


フランスで 左から 経子・朝子・悦子夫人と赤ちゃん実英・フランス人乳母と実光
2006


フランスから帰国する時にフランス人乳母も連れて来る
2008(1)


左から 実光・悦子夫人・実基・実英・朝子
2008(2)


圭子と生子
2012


自宅洋館で 左から 生子・直子・圭子・朝子
1007


1930年 女性3人左から 一条直子・一条朝子・秩父宮勢津子妃
5005(2)



●一条実光 伯爵佐野常光となる
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●一条実英 伯爵南部利英となる
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●一条朝子 伏見宮博義王妃 昭和天皇のお妃候補の一人であった





●一条直子 閑院宮春仁王妃・熟年離婚
1925年『豊麗典雅 テニスに御趣味を持たれる一条直子姫』
「故一条実輝公爵の第四女直子姫にはこのほど閑院宮春仁王殿下との間にめでたく御婚約がととのわせられました。女子学習院中等科後期2年に御在学中、御年17歳にいらっしゃいます。運動に御趣味を持たれ、特にテニスは大変お好きでまたお上手でいらっしゃるそうでございます」
192402


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◆26代 一条実孝 大炊御門師前の子・婿養子になる
1880-1959 79歳没




■妻  一条経子 25代実輝の娘
1885-1956 71歳没

*九条良致は経子の婿養子になる予定で一条家の養子になっていたが、
経子がこれを嫌ったため破談となり良致は九条家に戻って九条武子と結婚する。



実孝&経子夫妻
1005



●男子 一条実文 27代当主

●女子 一条正子 財閥三井高陽男爵と結婚
●女子 一条重子 子爵鍋島直庸の子鍋島直浩と離婚・正田文右衛門と再婚

●養女 平松陽子 公家平松時冬の娘・中宮寺門跡尊昭となるが大学生と駆け落ちする


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◆27代 一条実文 26代実孝の子
1917-1985 68歳没


■妻  松平好子 子爵松平頼庸の娘
1922-1976 54歳没


●長男 一条実昭
●二男 一条頼実


左:頼実 右:実昭
1014(1)


一条実昭
2001

■東京本邸 麹町区麹町「桜木邸」(現:千代田区麴町の参議院議員宿舎)

■東京本邸 1902年~新宿区下落合「近衛町」1万7千坪

■東京本邸 新宿区下落合

■東京本邸 1924年~麹町区永田町 1千坪

■東京本邸 1929年~新宿区下落合


■「荻外荘」1937年~杉並区荻窪 3千坪


■軽井沢別荘「草亭」1万坪


■箱根別荘「缶南荘」


■小田原入生田 5万坪


■京都別邸「陽明文庫」京都市右京区


■上野池之端別宅 妾山本ヌイの家


■京都別宅    妾海老名菊の家


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◆27代 近衛忠熙 26代近衛基前の子
1808-1898 90歳没

*身長180センチ


■妻  島津興子 鹿児島藩主島津斉宣の娘
1807-1850 43歳没


●男子 近衛忠房 28代当主
●男子 近衛堯熙 男爵常磐井堯熙となる
●男子 近衛忠起 男爵水谷川忠起となる

●女子 近衛総子 一条実良と結婚
●女子 近衛尹子 伯爵津軽承昭と結婚


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◆28代 近衛忠房 27代忠熙の子
1838-1873 34歳没


■妻  島津貞子/光子 島津久長の娘 
1845-1920 75歳没


●実子 近衛篤麿 29代当主
●庶子 近衛英麿 伯爵津軽英麿となる
●男子 近衛堯猷 男爵常磐井堯猷となる

●実子 近衛泰子 本家徳川家達公爵と結婚


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◆29代 近衛篤麿 28代忠房の子
1863-1904 40歳没

*ドイツに留学


■前妻 前田衍子 金沢藩主前田慶寧の娘・姉は有栖川宮慰子妃
1869-1891 22歳没


■後妻 前田貞子 金沢藩主前田慶寧の娘・前妻の妹
1871-1945 74歳没


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※当時の総理大臣の年給は1万2千円

衍子の嫁入り道具は、箪笥17棹分の着物だけで3万5千円。
東京の呉服店にないものは、京都の織元まで行って希望通りの品物を誂えさせた。
しかし嫁いでわずか1年後に亡くなったため、3棹の着物を着ただけだった。
残りの14棹の衣装は形見分けとして嫁ぎ先近衛家の女中に分配された。
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作家長与善郎 近衛文麿・木戸幸一・原田熊雄の学習院時代からの友人

近衛篤麿学習院院長は最高の家柄に生れたせいもあってか、見るからに品よくおっとりとした立派な人で、本職の貴族院議員としての仕事が忙しかったためもあり、実際は案外気を使っていたのだろうと思うが、学生の訓育にかけてはほとんど投げやりとさえ見える放任的無干渉な態度を取っていた。
日露戦争に際してはかなり強硬な主戦論者で伊藤博文を手こずらせたようだが、決して後の右翼国粋論者のような小人物ではなく、当時は危険思想と目されていたトルストイ全集のドイツ語訳を学校の図書館に備えたりしていた所、むしろ進歩的な人であった。
だからノンキで出来損ないの学生が放埓にはびこり得たことの他の学校以上だったのであろうが、一方白樺同人のような変わり種が自由にすくすくと成長し翼を伸ばすのにはこの上ない良い温床であったと我々は今でも近衛さんを徳としている。

武勲赫々たる英雄乃木大将が院長となるに及んで学生は表面質朴剛健になったように見えて、その実意気地のないご機嫌取りのお上手になってしまった。
学生や教師は兵隊でも軍人でもないのだから「院長閣下」と閣下をつけて呼ぶ必要はなく、規則もないのに、そんな呼び方をする者がめっきり多くなったことも嫌であった。
後から冷静に顧みれば乃木さんは別に軍国主義を強制したわけではなく、誠意過多症と誰かが適評したごとく、信念に忠実なあまりの熱心さとその最期が示す通りの激しい忠義一徹の純情とから、近衛さんとは全く反対にちょっとしたことでも見て見ぬふりのできぬ重箱の隅までほじくる干渉のやかましさとなったので、いわば古武士の悲劇的ドン・キホーテだったのだと思う。
茶話会などでは機嫌よく自分が若いうち大の臆病者であった実話を打ち明けたり、いずれ畳の上では死なぬつもりだがとか謎のような言葉を何の気なげに漏らしたりする所は、愛すべき好々爺の感じであった。
ただ学生と寝食を共にする実践躬行から、「この崇高な人格の院長を戴き」などと目の前でおべっかを使う教師や、馬鹿でご機嫌取りの学生がめっきり増え、虚偽だらけの校風となったことが僕らにはいかにも不愉快であった。
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大山武子 近衛篤麿公爵の娘・大山柏公爵の妻

私は強情で意地っ張りで負けるの大嫌いだったから、
父はよく「お兄さんと替わればよかったのに」と言ったものだった。
母も「兄と妹と文武あべこべでして」と人に言った。
「文」と作られた兄は優しくめったに怒らぬのに、「武」と名づけられた私は実にきつい可愛らしくない子だったらしい。
秀麿はイタズラが激しいのにさっぱりしていて人に可愛がられたのに対し、私はみなから憎まれてますます意地っ張りになって行った。
弟たちと大して年が違わぬのに、姉だからと言って何でも我慢させられたし、母のヒザには弟たちが乗るので、私は母のヒザにのって甘えた記憶が少しもない代わりに、父のヒザにはいつも乗せてもらった。

私と秀麿が小学生の頃学校で英語を習ったが、英語で話す力がないので二人は食事のたびにローマ字で話し合った。
下の弟たちにわからないのが愉快だし、意地の悪い老女の悪口を言っても知らぬが仏ですましているのがおかしくてならなかった。
母はわたしたちがローマ字でどんなことを言っても一言も言わないので、英語などわからぬのだと思っていた。
国漢文に造詣の深いことは知っていたが、昔のこととて語学は習わなかったのだとばかり思っていたのに、英語のみならず仏語の教科書もたくさんあったのには驚いた。

3歳で父に死別、生母にもその後生別した母は、他人の手で育てられて親の愛を知らず苦労しぬいて大きくなったので、人間は苦労しなくては駄目だという信念を持っていたらしく、厳しい一方で私たちを育てたが、兄にはあまり叱言を言わなかった。
兄はかなり大きくなるまで、母が叔母であって実母は地下の人になっていることを知らなかったらしい。
いつ知ったかは知る由もないが、父の墓参に行った時並んでいる伯母〔文麿の実母〕の後ろに回り、
「やはり本当だ」と言って涙ぐんでいたのをぼんやり記憶している。
自分の母の忌日が自分の誕生日より1週間遅れていることを確かめたのではなかったろうか。

※実母は文麿を産んだ直後産褥死している 

このことを兄に告げたのは豊浦という老女で、前田家から伯母に付いてきた人だったらしい。
母は大勢の老女たちにずいぶん気がねしていたが、実家の人のくせに豊浦が一番ひどく母をいじめた。
「文麿と私との仲を割いたのも彼女だ」と母が言ったことがある。
兄は青春時代次第に母から離れて行ったが、成人してからは我々が足元にも及ばぬほど母に孝行した。

※父篤麿の前妻は姉前田衍子、後妻は妹前田家貞子、豊浦は姉について近衛家に入った侍女、後妻が同じ前田家の妹であっても面白くなかったらしい。

母は晩年私に述懐して、
「青年時代お兄さんが荒んで行った時には、おもうさん〔文麿の父〕とみたまさん〔文麿の生母〕に何と言ってお詫びしようかと思って毎日生きた心地がしなかったが、総理にまでなってくれたのでこれで私もやっと冥土へ行っても顔を合せられる」と言った。

私は代々の老女たちにいじめられて育ったが、陰になり日向になってかばってくれたのは父の生母の千坂だった。
大名の家などでは当主の生母は何々院と呼ばれ御上通りに大切に扱われるものと聞いていたが、近衛家では家憲で、お家騒動を防ぐため何人子を産んでもみな正室の養子になって、生母は一生召使格で終わらなければならなくなっていた。
千坂は叔父が津軽家へ養子に行く時について行って津軽家の老女になってしまい、時々しか泊まりにこなかった。
その後兄は京都大学へ行き、秀麿は学習院の寄宿舎に、直麿は朝鮮の叔父の元へ行って、家では私と忠麿が二人通学するようになって寂しかったが、まもなく兄は結婚、私も大山家へ嫁して、忠麿も寄宿舎に入った。
兄たちは結婚後もしばらく京都にいたので、家は母が一人きりになってしまった。
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●男子 近衛文麿 30代当主
●男子 近衛秀麿 子爵近衛秀麿となる
毛利高範子爵の娘泰子と結婚・夫58歳&妻54歳の熟年離婚・長井和子と再婚
●男子 近衛直麿 女給川島ミネと結婚本人死別・ミネは能楽師楠川正範と再婚→子は指揮者近衛秀健
●男子 近衛忠麿 男爵水谷川忠麿となる

●女子 近衛武子 公爵大山柏と結婚


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近衛秀麿子爵 近衛文麿の弟

我々学生時代の家の中の騒々しさは相当なものであった。
嫁入り前の姉のピアノ、僕はヴァイオリンに夢中だったし、2人の弟たちも、ホルン・笙・篳篥。
夕刻のひとときなどこれが同時に鳴り出すと、また大変な騒音となった。
大学生だった兄貴、「よくもまあ、鳴り物の好きな一家だな!」
そんな時には、なかなかの大声だった。
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●近衛秀麿 子爵近衛秀麿となる
毛利高範子爵の娘泰子と結婚・夫58歳&妻54歳の熟年離婚・長井和子と再婚

*秀麿は愛人・庶子多数。結婚直後に芸者を身請けするなど
秀麿の放蕩に疲れた泰子は父の開発した毛利式速記を修得して速記者となる。


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近衛秀麿子爵 近衛文麿の弟

すでに幼稚園に通っていた頃から、母は秘かに僕のイタズラのカタログを作って人に語り草にしていたという。
しかしイタズラと言っても子供のことだ、大したことはしていない。
白色のレグホンをドイツ染料で染めてみたり、犬にペンキでメガネやヒゲや大勲位の大綬章を描いてやったり。
また家を訪ねてくる将軍たちや親戚の乗馬や馬車馬を追い放してムチで追い回したり、将軍たちの軍刀や長靴を高い椎の木に吊るしたり、そんな程度のことではある。
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1977年 近衛秀健
19770447(3)


1988年 近衛秀健
19880803



●近衛直麿 女給川島ミネと結婚本人死別・ミネは能楽師楠川正範と再婚→子は指揮者近衛秀健


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近衛秀麿子爵 近衛文麿の弟

二歳違いの弟は昭和7年に33歳で病死したが、これもまた多感でしかも実行力に富み、かつ誰からも愛された。
近衛の血統を引いたにしても、極めて珍しいタイプの人間であった。
三木露風氏を敬慕して詩集を出版したり、坪内先生に平安期の長編戯曲を献じたり、ホルンをマスターして日本で最初の交響楽運動に加盟したり、また彼が後年に寝食を忘れて没頭した日本古楽の研究、ことに死の床で完成した『日本雅楽五線譜集成』は世界的な労作である。

彼は津軽の叔父〔津軽英麿伯爵〕に可愛がられ、養子に迎える下心から津軽家に引き取られた。
彼は叔父の急死後急に他姓を名乗るのが嫌になり、この養子縁組をいかにも彼らしい一流の方法で自分から破談に導いてしまった。
津軽家からの公式の使者として藩の長老一戸陸軍大将から面会の申し入れを受けた彼は、
「目下詩集編集中につき、吉原〇〇楼に御来駕願い上げたく…」と申し送ったのであった。
彼はある意味でまったく例のない快男児であった。
彼に先に死なれた時には、自分の半身をもぎ取られたほど落胆した。
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◆30代 近衛文麿 29代篤麿の子
1891-1945 54歳没

*身長5尺9寸5分(179センチ)体重17貫(64キロ)

*プライベートでは女言葉を使った

*戦犯となり青酸カリで自殺


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近衛文麿

哲学者になろうと思っていた私は、高等学校の頃から今度は社会科学に興味を感じ始め、一時東大の哲学科に入り講義を聴いてみたが面白くない。
そこで京都大学に行きたくなり、10月頃東大をやめた。
京都へ行き、入学の期限が過ぎているのに、法科へ入れてくれと学生監に座り込んでやっと入れてもらった。
法律の勉強が目的ではなかったから、法律の講義等にはほとんど出ない。
したがって点も悪くやっと落第しない程度だった。
京都へ行ったために、河上肇氏や西田幾多郎氏や戸田海市氏に教えを受けることができたのは、今も幸せだったと思っている。
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近衛文麿

私はその頃まで政治には何らの関心もなく、むしろ反発さえ持っていたぐらいだったが、憲政擁護運動を毎日新聞で見ている間に多少政治に興味を感じ出した。
そして政治家としては桂太郎さんよりは西園寺公望さんの方が何となく好きであった。
しかし西園寺公は私の父とは政敵ですらあり、同じ公卿でありながら近衛家と西園寺家とは古来極めて縁の薄い間柄であるから、一度も会ったことはなかった。
ある日ふと西園寺さんという人に会ってみたくなって、紹介状も持たずに清風荘を訪れたら幸いに会ってくれた。
しかし初対面の印象はすこぶる悪かった。
大学の金ボタンで行った私を、西園寺公が閣下〃〃と言われるので、こっちもむず痒いような気がして、人を馬鹿にしているんじゃないかとすら思えた。
それから当分訪問しなかった。

卒業して西園寺公をお訪ねすると、初対面の時とは打って変わった態度なので、こちらも無遠慮に若い気迫を挙げた。
それから「大学を出てから何になったものでしょう」と相談すると、
西園寺公は「経験になってよいから、知事になったらどうだ」と言われたのには驚いた。
「知事にはそう簡単になれそうにない」と言うと、
今度は「政党に入るのも一つの行き方だ」と言われた。
しかし私はその時、いくら西園寺公の御声がかりでも、政党に入る勇気はなかった。
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近衛文麿

※1919年第一次世界大戦のパリ講和会議に赴く全権西園寺公望に随行する

この随行中に私は西園寺公からひどく叱られたことが3度ある。
コロンボに寄港して同地の公園を散歩している時いい香りの花があったので、私たちは何心なくそれを折り取って嗅ぎながら談笑していると、これを見た西園寺公がたちまち癇癪玉を破裂させた。
「お前たちはどうして平気でそんな不道徳なことをするのか。そんなことをするなら、もう外国へは連れて来ない」と真剣になって言われた。

それからマルセイユに着く前であったと思う。
税関で荷物を調べられる時にはどうしてうまく言い逃れをするかということを、私たち若い連中が食堂で面白半分に話し合っていると、
それを聞かれた西園寺公は「そんな心がけでは、紳士としてどうして今後世界の舞台に立つことができるか」と言って叱られた。

それからパリへついて、会議が始まってからのことである。
ある日のことちょうどその日は全権のみの会議で、随員たちはその会場に入ることを禁ぜられていたが、新聞記者としてならば入ることができるということだったので、私は自分が株を持っている日本のある新聞社の社員という名目で会議室に入り込み、その日の会議を傍聴した。
するとこれを誰かから耳にせられたものとみえて、西園寺公はさっそく私を呼びつけられ、
「そんな真似をするなら、今日から随員を免職する」とひどい権幕で叱られた。
西園寺公はそれほど嘘と誤魔化しの嫌いな人である。
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作家長与善郎 近衛文麿・木戸幸一・原田熊雄の学習院時代からの友人

近衛文麿は中学時代には実に沈鬱で真面目な秀才だったのが、10年ぶりに会った時にはガラリと別人のように明るいというのを通り越した道楽者然としたのっぺりした顔に変わっているのに一驚したことがある。
時局の変化につれ首相の地位に祭り上げられたのは左右どっち側からも攻撃されることの最も少ない家柄だったためであったが、そこがなまじインテリでもある政治家の弱みというのか、時の国際情勢に対しても天地の公道とか強い正義感とかに立った信念の根底があやふやで、ただ万事円満におさめることを旨としつつ日本の国際的地位を確保し高めることを図ったように思われる。
平和も国力発展も結構であるが、そういう日和見的観測の態度では情勢次第でぐらぐらよろめくのは当然である。
原田が神様のように仰ぐ西園寺公のフランス自由主義仕込みの世界についての広い見識には、近衛などと違って確乎とした心棒は通っていた人と想像する。

軽井沢の兄の別荘で暑を避けていた時、とうに第三次近衛内閣を東条に譲って軽井沢に滞在中であった近衛から食事に招かれた。
細川護立と志賀直哉と僕が料亭に着くと、近衛は当時既にラバウルに移っていた戦局に話を移し、「長与君が思ってるより悪いんだよ」と言った。
「僕は少しも楽観なんかしていない。この頃はこっちの挙げた戦果ばかりが大袈裟に報道されて、蒙った損害は小さく知らされるのだから、我々庶民に実情がわかるわけないじゃないか」と不機嫌に言い返したのだったが、この日華事変以来の大責任者は自分が作った大政翼賛会も有馬頼寧に押しつけたと同様、太平洋戦争がたとえ敗戦に終わろうとそれは東条や松岡その他の責任であり、自分のあずかり知ったことではないとでもいったように、何ら自責の念に悩んでいる風が見えなかった。
彼に招かれた細川も志賀も暗然とした顔で黙しているのに、一番けろりとノンキらしく見えるのはむしろこの前宰相であることがひどく不快だった。

近衛の自殺を聞いた僕は、ちょっと寂しい気がした。
近衛の自殺は天皇の身代りという気持ちも三分ぐらいあったかもしれないが、それより占領軍の裁判によって処刑されるという屈辱感に彼のプライドが堪えられなかった方が七部だったと思っている。

そうした荒仕事には不向きな優柔・無責任な長袖育ちの彼には望むべくもない無理とは知りながら、
それだからこそ彼は右翼革新派からも担がれ、特に日華事変では取り返しのつかぬ大失態を演じたのであるが、平時に普通の上流階級ぐらいに生れていれば議員ぐらいは楽に務められた男であり、また彼よりボンクラであった木戸にしてもなまじ維新元勲の家の相続者でなかったならば、何々局長ぐらいは務まったであろう。
戦争さえ起こらなかったら、原田なども交え面白く冗談を飛ばしたりして付き合えたであろうにと惜しまれるのだった。
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木戸幸一侯爵 近衛文麿の学習院時代からの友人 

原田熊雄君が生まれたのは明治21年、私は明治22年、近衛文麿君は24年である。
原田は途中病気で休学したので高等師範学校附属中学から学習院中等科に転属してきた時、私と同じクラスになった。
以来学習院高等科・京都大学と9年あまり私と原田とは一緒だった。近衛は学習院で1年下にいた。
私や原田と親しく付き合うようになったのは、彼が東京大学に入学したもののすぐ取り止めて京都大学に入学し直し、京都北白川の原田の下宿に立ち寄った時からと記憶する。
京大時代は原田と近衛と私、それに同じ学習院出身の織田信恒君や橋本実斐君と一緒のことが多かった。
西田幾多郎先生を囲んで『善の研究』を読んだり、休日には西田先生を加えて嵐山に遊んだり、みんなで歌を歌って北白川の辺りを歩き回ったりしたものだ。

大学を出て原田は日本銀行に就職、私は農商務省に勤務、近衛は内務省に籍を置き、お互い3人この頃は仲間としての付き合いはあっても、政治的な意味合いはなかった。
その後近衛が貴族院議員になり、原田が西園寺公の秘書を務めるようになり、私が内大臣秘書官長に任命された頃から、我々の活動はにわかに政治的色彩を深めた。

原田といえばすぐ思い浮かぶシーンがいくつかある。
口を開けば「老公が、老公が」と言って西園寺公を心から尊敬していたこと、誰の家に行っても極めて親しげに振る舞って戸棚から菓子を勝手につまみ出したりしていたこと、三国同盟の話を聞いて「近衛は富士山みたいな奴だ。遠目はいいが近づいてみると岩ばかりゴロゴロしている」と怒っていたこと、終戦近くなって身体を悪くしながらも何度か私に手紙や言伝で和平工作を早く進めるように催促してきたことなど、走馬灯のごとく私の脳裏を懐かしくかすめ去る。

原田のゴルフはそそっかしいゴルフだったな。よく荒れてたよ。原田はせっかちなんだよね。
終わってシャワーでも浴びてお茶でも飲もうと思って見たらいないんだよ。
フロントへ行って聞くと「いやもう、サーッとお帰りになりました」ってね。
もうすぐ次のことを考えているんだな。
こっちにさよならも言わずに、シャワーも浴びずに帰っちゃうんだから。
近衛はね、それこそあの風貌そっくりのおっとりしたゴルフだよ。
練習が好きで練習ばかりやってるんだよ。だけど背は高いもんだから飛ぶ。
でもノンキに振ってるからね。
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勝田美智子 原田熊雄男爵の娘・銀行家勝田龍夫の妻

近衛さんは風呂で「スミレの花咲く頃…」という宝塚少女歌劇団のなんかをよく歌っていた。
すると父はドンドン風呂の中にまで入って行って二人で合唱してた。
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有馬頼寧伯爵 近衛文麿の友人

ある日何か緊急な用があって原田君が近衛君の寝込みを襲ったことがある。
近衛君と奥さんが寝室にいた。
遠慮のない原田君はズカズカその寝室に入るなり、
「奥さん、起きて下さい」と言って奥さんを寝室から追い出してしまった。
そして近衛と何か用談を始めたのだが、近衛君は床の中で起きようともせず、原田君は寒くはあるしバカバカしいと思ったのか、奥さんの寝台の抜け殻に横になり近衛君と話を続けた。
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牛場友彦 近衛首相秘書官 

ある時近衛さんがお妾さんの山本ヌイと蚊帳の中で寝ていると、原田さんがいきなりやってきて蚊帳の中にまで入り込んで、
「この女だけはよせ」と言った。
山本は意地の悪い女だからね。
ところが近衛さんは周囲が反対すると意地になって、ますますそっちへ走って面白がるとろこがあったんですよ。
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原田熊雄男爵 近衛文麿の学習院時代からの友人

近衛という奴は他人の迷惑などちっとも考えないワガママ者だ。
僕など一番の被害者だ。
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木戸幸一侯爵 近衛文麿の学習院時代からの友人

近衛の相談相手として一番親しかったのは、まあ原田と僕だろうね。
一番困ってくるとやっぱり僕のところへ来るね。
それで女の問題だと原田のところへ行くんだ。
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石渡荘太郎 近衛文麿の学習院時代からの友人 

近衛公はお父さんを亡くされてから著しく大人びてこられたように思う。
それまでは極めて子供っぽい方であったが、それからはしっかりしてこられた。
近衛公は学生としては極めて善良な学生で、またいろいろの方面の勉強もされ、本当に何の落ち度もない学生であった。
あまり得意でない学課は「武科」といっていた体操で、特に器械体操は不得手であり、足掛けも尻上がりもろくにできず、いつも立ち往生されていた。
乃木大将は私どもの3年の頃院長になって来られ、近衛公の訓育については非常に関心を持ちいつも心配されていたし、近衛公も乃木大将の指示には真面目に服しておられたと記憶する。
近衛公は中学の3,4年頃からランニングを始められ、とにかくあのコンパスだからたいていの者はかなわなかった。
府中から新宿まで14里の競走をしたことがあって、その時も確か1着であったかと思う。

近衛公は人格識見では級中でも重きをなしていて、何かというと級中のことは近衛公の意見を聞き合った。
自分では超然として級内の紛争などには一切関係されなかったのであるが、しかし何かの場合には必ず近衛公の意見を徴した。
最初1年の時は40人の組が2つで全部で80人ほどいたが、卒業する時は24人しかいなかった。
24人の中で近衛公は7番、私が8番で卒業した。
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原田熊雄男爵 近衛文麿の学習院時代からの友人

西園寺さんは「近衛の親父さんは正直ないい方だったが、どうも少しわからず屋で困る時もあった。思想の点では、かえって当主の方がいいかもしれない」と語った。

ともかくね、西園寺さんと近衛とはお公卿さん同士だしね、
近衛が可愛くてしょうがないんだよね、理屈抜きで。
我々から見れば、西園寺さんはお公卿こっちは野武士だからね。
公卿同士というのは、何となくやっぱり肌が合うんだね。
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木戸幸一侯爵 近衛文麿の学習院時代からの友人

陛下も公卿さんというものはね、ちょっと違って見ておられるよね。
親しみを持っておられる。特に近衛なんてのは公卿の筆頭だからね。
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有馬頼寧伯爵 近衛文麿の友人

近衛君は桜炭のようなもので、おこすのに時はかかるが、客席の火鉢にふさわしく品もあれば熱もある。
木戸君は堅炭のようなもので、桜炭と一緒に桐の火鉢に入れて客席に出すということもあるが、一方七輪の火を起こすのにも使われるというわけで、体裁ばかりでなく実用のところも多分にある。
原田君は消炭のようなもので、桐の火鉢につぐようなことはなく、多くは七輪とかその他台所用として用いられる。
その特徴は起こり易くて便利であるが、火がつきやすいだけに堅炭と同様時々はねて畳に焼け焦げを作ったりなどすることがある。
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『横から見た華族物語』昭和7年出版

新人張りの文麿公爵にして迷信家であることは矛盾しているが、あれで相当かつぐ方だから不思議である。
文麿公爵の身長は5尺9寸5分あるが、自身では5尺9寸だと言って5分だけ切り捨てる。
これは9寸5分という寸法が政治家には縁起の悪い短刀の寸法と同じだから、それを嫌って端数だけ抹殺するのだそうだ。

また文麿公爵は常識を超越した衛生家で、ちょっと風邪をひいても咳一つ出なくなるまでは外出は無論のこと来客にも一切面会しない。
それでいつでももう良くなると言ってから、2週間ぐらいは人に顔を見せない。
それほどだから苺ひとつ食べるにしても水道の水を沸騰させ、それを0度以下に冷やしたもので充分洗ってからでなくては口にせぬということだ。
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岡部長章『回想記』昭和天皇の侍従

拝謁の人はみんな緊張しています。
初めての人などは特にそうです。
拝謁者の中で最もリラックスしていたのは近衛さんが随一でした。
第一次近衛内閣の時だったと思いますが、入江侍従が近衛さんの拝謁が終わって侍従候所に戻ってくるなり、「やっぱり関白さんですよ」と言うんです。
絹張りの椅子の背が温かかったのだそうで、他の人ならば浅く腰かけて背もたれなど使わないのです。
すこぶる長身の近衛さんはノンキに足なんか組んで、ゆっくりとお話ししているのです。
初めての拝謁者は他に何も言うこともないでしょうから、
「簡単に申し上げます」という感じで始まることが多い。
近衛さんは「御機嫌よろしくて、結構で…」などと切り出します。
陛下も「そちらも元気で何より」と御受になるようです。
そういう空気は事務官一同が感じることでした。

大正時代にかれこれ10年間ほど在米していた私の実姉三井栄子が、「木戸さんなんて全くアメリカを知らない。そのうえ人はやはり自分の体に似た考えを持つのよ。文さん(近衛文麿)はこせつかぬところがあるが、正反対で考えが小さいのだから!(近衛文麿は平均より背が高く、木戸幸一は平均より背が低かった)文さんが拝謁して直接陛下に申し上げようとしても、木戸が邪魔してお会わせしないのよ。文さんも木戸なんかを通さず直接出たらいいのに。それが踏み切れないの」などと私に遠慮なく語ったことが思い出されました。
久しい以前から両人はゴルフ仲間でしたし、近衛さんは私どもの母の里前田家の親類でもありましす。
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■妻 毛利千代子 子爵毛利高範の娘・華族同士の恋愛結婚
1896-1980 84歳没


一高時代近衛は通学途上でいつも見かける女子学習院の女学生を見初める。
近衛は同じく女子学習院に通う妹の武子を使って、その女学生が毛利高範子爵の娘千代子だと知った。
千代子は武子の一年先輩だった。

近衛公爵家側は最初せめて伯爵家ならと子爵家との縁談に難色を示したが、明治天皇の喪が明けた大正2年4月27日に毛利子爵家へ正式に申し入れ、6月17日に結納式を済ませ、11月9日に京都で結婚式が行われた。
新郎22歳&新婦17歳。
近衛はまだ京都大学に通っていたので学生結婚だが、
京都吉田中大路町にある呉服屋の二階建の別荘を買い取っての豪華な生活だった。


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石渡荘太郎 近衛文麿の学習院時代からの友人

ある土曜日に箱根に行こうと勧められ一緒に行ったことがある。
その時公爵は実は嫁に欲しい女があるという話で、よく聞いてみると、今の千代子夫人をぜひとももらいたいが、何か方法はあるまいかということであった。
ほとんど一晩寝ずに二人で話し、いかにして千代子夫人を求め得るかという相談をした。
これも高等学校時代の近衛公の思い出の一つである。
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風見謙次郎 近衛文麿のドイツ語の家庭教師

明治44年5月31日、自分は上野駅を発って新潟医専に赴任した。
近衛公も見送りに来て、虎屋の羊羹とカフスボタンを記念にもらった。
翌明治45年高等学校を出ると、近衛公はすぐ新潟にやって来た。
家では母と二人きりで接待もできないから食事は外でやることにし、鍋茶屋など方々食べ歩いた。
鍋茶屋で例の新潟盆踊りを見て興がった。
当時新潟で有名な「おしげ」という妓を指して「先生、あの目ですよ」と言ったのは、当時婚約中の今の夫人の目のことだった。
電車の中で見初めた話など前からしていた。
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近衛文麿から妹武子への手紙 

※近衛の縁談と武子の縁談が同時進行していた。

1913年4月24日
拝啓春暖の候、ますます御健勝御勉学のことと存じ候。
当家も行くやら取るやらで、にわかに春が参り候ような心地いたし候。
トルストイの『復活』と『順礼紀行』の2冊御送り致し候。
『復活』は今まで仮綴じなりしを、今度大阪の北小路に頼み西洋人に製本してもらい立派に出来上がり候。
『復活』の始めの所にトルストイの伝記人物等記しあり。まずこれを読むべく。
しかして大臣大将にもあらず、赫々の事功をも樹てず、半生を百姓と共に田園に過ごしたるトルストイが、なぜ世界最大の偉人として崇敬せらるるか、人間の真の立派な生活とはいかなるものか、とくと御考えあるべし。

今日毛利高範さんより手紙参り、千代子さんは烈女伝が好きなれど、何かその他にもためになるものがあったら送ってやってくれとのことに候ゆえ、近日『ああ無情』でも送り申さんかと存じおり候。
『復活』と『順礼紀行』も読み終わったら御貸しあるべし。
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野口昭子 近衛文麿の長女・島津忠秀公爵と結婚・整体師野口晴哉と駆け落ち再婚

若い時の母の写真を見ると、娘の私でもハッとするような美人である。
電車の中で父に見初められて18歳で結婚したというが、なんだかわかるような気がする。
それなのに、子供の頃の記憶の中に母の面影が浮かんで来ない。
おそらく私たち兄妹は「御方」と称する廊下づたいの離れに住んでいて、タッチという老女格の人に育てられたからかもしれない。
戦前の母の華やかさは、ゴルフで三井夫人と女子選手権を争ったり、母がモデルになった『赤い日傘』が帝展に入選したりして話題をまいたが、本来は家庭的なことが好きで、料理・刺繍・縫い物・編み物・染物など、セーターなどは2,3日で編み上げてしまうし、自分の和服は全部自分で縫っていたし、刺繍は衝立・クッションなど今も残っている。

母は豪放磊落な気性の兄を最も愛し、父よりも気が合うらしかった。
また家庭的で明朗な性格の妹をいつも褒めていたが、私のことは父兄会に行っても「本ばかり読んでいて女らしいことは何もできない困った子でございます」と言っていたという。
手先が器用で何でもできる母にとって、私はまったく価値のない駄目女であった。
私が劣等感に陥らなかったのは、何を言われても馬耳東風、学校から帰ると広い芝生に寝転んで青い空を眺めたり、兄の遊び相手としてチャンバラなどしていたからかもしれない。
それに別邸の祖母が私を特に可愛がってくれて、いつも「この子はいい子やね」と褒めてくれた。

首相夫人になって荻窪に移っても、でしゃばらず気さくで気取らない母の評判は良かった。
『庶民的で三等車に乗る公爵夫人』などと雑誌に書かれたりした。
母は父の死は覚悟していたが最愛の兄の死だけはどうにも信じられないらしく、兄のことを話すといつも涙ぐんだ。
そして湯河原に移るとだんだん私を頼るようになった。
クラス会や旅行に何を着て行ったらいいかまで、私に相談するようになった。
湯河原での一人住まいの生活でも、四季の野菜作りや花作りをしながら、人にあげたり御馳走して喜ばれることを何よりの楽しみにしていた。
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細川護貞 近衛文麿の娘婿 

戦中近衛公にお供してゴルフをやった。
思えばどんなに戦争が激しい時でも、近衛公は年1,2回はプレーされていた。
軽井沢・小金井・我孫子などで、ハンデは8か9くらいだったろう。
面白いスイングで、振り上げると手と一緒に顔が全部右に行ってしまう。
「近衛さんは球を見ないでゴルフする。球を見ないでよく当たるな」と失礼にもみんなで笑ってしまった。
しかし、本当にゴルフ好きだった。

また奥様の千代子さんが大変面白いかたで、活発というか磊落というかすごい方だった。
女性の東西対抗があって関西の人と試合があった時、何か気に障ったらしい。
後ろ向きに股の間からパターを打って、相手は怒ってやめるとかやめないとかケンカになったことがあった。
戦後モンペ姿のままで草履に釘のついた板を打ち付け、靴の代用にしていたという勇敢なお転婆だった。
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大正5年2児の父となっていた近衛文麿25歳は京都の芸者藤菊21歳を見初める。
半年後近衛は京都大学を卒業して東京へ戻ったため、藤菊を東京に呼び寄せて妾として囲う。
近衛が用意したのは、目白の自宅から近い雑司ヶ谷にある新築の一軒家だった。
大正7年妊娠した藤菊はヴェルサイユ条約のため近衛がフランスにいる間に娘を産んだ。
近衛は帰国しても藤菊母子に会うことはなかった。
大正8年近衛家の使者から妾解消を命じられた藤菊は幸子を連れて京都へ戻り、再び祇園で芸者となる。
昭和19年26歳になった幸子は、近衛の父篤麿の漢籍の師の長男に嫁いだ。


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海老名菊 近衛文麿の妾・祇園芸者〈藤菊〉昭和42年

お殿様がお亡くなりになりましてから、はや22年。
わたくしも72歳となりました。
京都の祇園では指折り数えて2番目の老妓と言われながら、三つ子の魂百までのたとえ、お茶屋さんの情けに頼って毎夜のお座敷を務めさせていただいております。

わたくしは21歳、文麿様は26歳。
年号で申しますと大正5年の秋頃であったと思います。
世間は不景気風が吹き第一次大戦が始まって間もないその頃、わたくしは祇園の芸妓としてお殿様と知り合いました。
当時のわたくしときましたら京言葉で言えばほんとに「アホ」のようなもので、世間知らずでございました。
わたくしが芸妓になりましたのは、明治45年16歳の時です。
繩手の「鉄久」の子として13人兄妹の10人目に生れ、早々と祇園に入りました。
今と違いまして祇園はことのほか怖おうございました。厳格だったのです。
たとえ21歳になっても、おかあさん〔女将〕の前に出るとピリピリしたものです。
文麿様に初めてお目にかかったのは、確か「つたの屋」という小茶屋ではなかったかと思います。
お座敷に通りますと、お殿様は一人で飲んでいらっしゃって、その周囲を10人ばかりの芸妓さんが取り囲み、いわば首実検の最中でした。
首実検と申しますのは、芸妓を集めて飲んだ後で、茶屋の女将に「あれ」と指名することを言います。
じかに芸者と交渉するのは客の値打ちが下がると言われたものなのです。
羽織袴をお召しになったお殿様は、その時静かに杯を傾けておられました。
その頃はまた祇園にも山本有三さん・菊池寛さん・久米正雄さんなどが学生としてたびたびお見えになっていましたから、そういうお一人だろうと思っておりました。
お酒はあまり強くない様で、芸者を4,5人呼んでしゃぶしゃぶ料理を食べながら会話を交わされるといった風でした。
陽気に騒ぐといった方ではございません。聞き上手というのでしょう。
むしろ静かすぎるぐらいで、わたくしは「このお客はんはお坊さんやろ」と思ったほどです。
そのお座敷が終わってわたくしは「これは見られ振られやな」と思っていましたところ、どうしたことでしょう、お殿様は10人の芸妓の中からわたくしを御指名なさったのでございます。

文麿様は明治45年に一高を御卒業されいったん東京大学哲学科に進まれましたが、途中で京都大学の法科に移られていたのでございます。
一番最初は信玄袋を担ぎ人力車に乗って、白川村の田んぼの一軒家鶴井牧場の邸に原田熊雄男爵を訪ねて飛び込んで来られたそうです。
それから新築の家を下鴨東林にお借りになり、家賃15円で住み着かれました。
このお宅は杉林に囲まれて高塀のある家屋でございましたが、飯炊婆のスエさんと塚本様だけがお仕えする質素な暮らしぶりだったようです。
1ヶ月150円程度の生活費であったと聞いております。
そらから約1年後にお殿様はかねて相思相愛であられました御後室様〔千代子夫人〕とめでたく結ばれ、結婚式を挙げておいでです。
御恋愛の頃、お殿様は塚本様に向かって「僕の奥さん、決まったか?」とお聞きになったこともあるそうでございます。
御自身の結婚でありながら、その決定は第三者からでなければ耳に入らない御立場にあったのでしょう。

御結婚と同時に吉田中大路のちょっとした二階建の古い家を借りて越されました。
やがて長男の文隆様がお生まれになり、長女の昭子様も御誕生になりました。
そういう時にわたくしはお殿様の目に止まったのでございます。
お殿様とのお付き合いは、それから度重なりました。
「菊、遠出をしようか」などと言って、わたくしを連れて洛外を散策なさる。
いつも和服で、5尺9寸という長身、体重17貫という御姿は、今で言えばスマートで堂々たるものでした。

そうするうちに大正6年の春のある日、わたくしはおかあさんから呼ばれました。
「菊や、お前は来月から東京住まいどっせ」と言うのです。
生まれてから京を離れた覚えのないわたくしはビックリしました。
「どうしてですのん?」
「若様の思召どすがな。文麿様におつきして江戸へのぼることになりましたさかい」と鶴の一声でございます。
「どうだ、小さいけれどなかなかいい家だろう。これは僕が自分の足でさんざん探し回って見つけたんだ」と晴れ晴れした表情でお迎え下さったのです。
見回すと、台所・6畳・4畳半合わせて四間あり、小さい庭があって玄関と門のある家で、非常に感じのよい日本家屋でした。
お殿様は家探しがお好きなようで、目白には先代からのお宅があり、永田町にもあり、後には荻窪の荻外荘に移られました。
京都の他に軽井沢・湯河原・箱根・鎌倉山にも別荘をお造りになったのは御存知の通りでございます。
この家でわたくしは女中1人をつけていただき、3年間を過ごしたのです。

文麿様がいらしゃると嬉しくて仕方がございません。
「お料理は何にいたしますか、若様」と、祇園育ちの慣れない手に包丁を持って、お殿様と二人で食べる献立に夢中になったものでございます。
食事の用意ができると、晩酌を1合ぐらいお飲みになる。
時には機嫌よくチョビヒゲを濡らして、2,3合お飲みになったりしました。
「菊、今日は外で食事して歌舞伎を観ようよ」と仰せられる。
当時のデパートといえば、高島屋にもよく御一緒いたしました。
御後室様のお買物をなさる時も、「千代子と同じ着物を菊にも買ってやろう」とおっしゃって、わたくしの遠慮を押して買って下さる。
誠に申し訳なくもありがたく、目頭を熱うしたものでございます。

「若様のお子を妊んだ」その寿の帯を締めます時、わたくしは明るい花びらに包まれたように幸福感でいっぱいでございました。
日本でも数えるほどの高貴な血をわたくしのお腹の子が受け継いだのです。
お殿様にもたいそう喜んでいただいたものです。
しかしこの赤ちゃんが産まれる時、お殿様は日本にはいらっしゃいませんでした。
産み月も近くなった頃「今度パリへ行くことに決まった。大事に産むんだよ」とおっしゃって、慌ただしく浜田病院へ入院の手続を取って下さり、大正8年1月に神戸を出帆あそばされました。
こうして私の初めての子が誕生しましたのが、大正7年10月11日です。
病院にはいち早く近衛家から御祝いの品々が届き、本当に光栄に思ったものです。
「女の子なら幸子と命名するように」という真情のこもったお便りをパリからいただきました。
その後1年ばかりはわたくしも雑司ヶ谷に住まいましたが、お殿様にお目にかかる機会はもうございませんでした。

大正8年秋、近衛家から使者が来ました。
「殿様は御帰朝後はお忙しいのであなた様を見舞ったりして差し上げられません。京都に帰って自由に生きてほしいとの御言葉でございます。のちほど殿様の御志としてしかるべき金子を御用意してお届けする予定です。幸子様の将来に関しては父親としての責任を果たすとのことでございますので」
口元が文麿様そっくりの幸子の晴れ姿を遠くから見て、わたくしはとうとう泣いてしまいました。
その夫も御後室様のお心遣いで、住友系の立派な会社に就職し働かせていただくようになりました。

幸子が父親であるお殿様にお目にかからせていただいたのは、たしか2度ではなかったかと存じます。
最初は昭和19年、和歌山の望海楼に幸子がその夫や子と共に参りました。
その時お殿様は和歌山の住友金属を御視察で、数十名の随行員と御一緒でしたが1時間ばかり時を割いて下さいました。
「元気かね。色が黒いが海岸にいるせいかな」
お殿様がもう母親となった幸子をジッと御覧になって言われた最初の言葉がこれでございました。
2度目にお会いしたのも昭和19年だったでしょう。
高野山金剛峰寺で近衛家先祖を祀る祭礼が催された時のことです。
当時のお殿様の華やかさと申しましたら、大阪の難波から高野山まで特別列車が出されたほどでございます。
伺いますと、お殿様のお義母様も御後室様もいらっしゃって、幸子たちはただ恐れ入ってうつむいていたそうでございます。

わたくしの晩年の最大の思い出と申しましたら、叶わぬものと諦めておりました御後室様へのお目通りが果たせたことでございましょう。
お殿様のお隠れ後、お墓参りに大徳寺にいらっしゃった歳、近衛家のお斎御供養が催されました。
その時わたくしはお酌として呼ばれて、初めて御後室様にお声をかけていただきました。
雲の上の方ゆえどんなお方かと緊張してお座敷にあがりましたところ、とても優しく気さくな方で、「お互いに苦労しましたね」とおっしゃり、このありがたい御言葉をいただいて胸が詰まりました。
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昭和3年春、近衛文麿37歳は新橋の芸者駒子24歳を見初める。
駒子は5尺2寸と背が高かった。
昭和6年には娘が生まれ、近衛はまた佐知子(サチコ)と名づけた。
佐知子は籍だけ近衛の弟水谷川男爵の養女として置いた。


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山本ヌイ 近衛文麿の妾・新橋芸者〈駒子〉昭和32年

近衛公と私が初めて深い契りを交わした家は、田中屋の出店になっていた長田屋というお茶屋さんでした。
長田屋は今の銀座交詢社の横丁にあったんです。
長田家の跡が後になって桑名になったのです。桑名は原田熊雄さんが大変贔屓にした家です。
その時分新橋の一流芸者の面倒をみると1ヶ月どのくらいかかったかという相場を披露しますと、良い人で500円、普通300円くらいじゃなかったでしょうか。
私が最初に近衛公からいただいた御手当は月300円でした。
その頃着物が1組300円、帯が1本300円くらいだったでしょう。
田中屋の女将樋田千穂さんのお書きになった『新橋生活四十年』を拝見しますと、女将さんが大阪の北新地に古吉という名前で出ていた時分、伊藤博文公爵のお世話になっていただいた御手当は「伊藤さんから私に対しての月々の御手当は、大枚300円でした」と書かれてますから、私などよりもずっと昔に月300円の御手当を出された伊藤公爵はさすがに大したものだと思いますわ。

私がパパの御世話を受けるようになってから、最初に御役についたのは昭和3年秋に行われた昭和御即位大礼の時の大礼使長官でした。
さっそく家令の横屋さんが私の家にやって来ました。
家令が威儀を正し改まった切り口上で言うことには、
「殿様が何とおおせられても、あなた様は京都へ殿様のお供をなさらぬよう、お家のためにお願い致します」
私は家令の物々しい口上に笑いがこみ上げてくるのをグッと押さえて、
「横屋さん、そのことでしたら御安心くださいな。私いくら馬鹿な女でも、公私の別くらいわきまえてますわ」
家令はホッとした顔で帰りました。

昭和4年で芸者を辞め、近衛と二人の人目を忍ぶ愛の巣を下谷区茅町に造りました。
横山大観画伯の御住居の近くで、不忍池を前に上野の杜の見える閑静で四季の眺めもよろしいところでした。
パパは東京にいる時は、私の家に帰ってきても絶対に泊まりませんでした。
遅くなっても本宅へ戻りました。
私がパパとゆっくり幾日かを一緒に過ごすのは、御役向きではないお忍びの旅行の時だけです。
京都にも一緒によく行きました。そんな時は大嘉を宿にしました。
箱根に行く時は、塔ノ沢福住別館を常宿としていました。
パパとの旅行が私にとっては水入らずの一番楽しい時でした。

新橋で私がパパの御世話になる前に、一つ年上の彼女があったんです。
その人は福松家の寿満子姐さんの家の人で、名古屋辺りの人で芸名を貞竜、本名を宮木タマさんと言いましてね。
パパに惚れたのか、名門に惚れたのか、とにかくパパがお見えになると「御前〃〃」と下にも置かぬ、それは大変なもてなしです。
パパが生魚を食べずお刺身に熱湯をかけて食べるようになったのも、彼女がそうさせたという話で、もっと極端な例はリンゴをアルコールで消毒して「さあ御前様、召し上がれ」と言ったので、同席した原田熊雄さんがお腹を抱えて笑ったという話もあります。
昭和12年第一次近衛内閣が成立して内閣総理大臣の椅子に着くと同時に、きれいさっぱりと手を切ったようです。

私たちはパパと一緒になってから、3回移転しました。
はじめ下谷池之端にいたのですが、私の母が亡くなってから荻外荘への往復に都合がいいように、代々木八幡の近くの渋谷区初台へ、30坪の家を2軒新築しました。
当時は建築制限で30坪以上は建てられなかったのです。
1軒の方は「択卿舎」と名づけてパパの客間に設計し、広間と茶室がありました。
もう1棟は私と娘が済み、芝生の庭に娘のためにブランコなども作りました。

昭和15年日独伊三国同盟が締結された時、日本橋三越で三国同盟の展覧会がありました。
パパと一緒にそれを観に行きますと、パパの写真が大きく出ているのです。
「パパも偉いものね」と言いますと、
不機嫌な顔をして「こんな同盟をして、今に抜き差しならなくなるよ。困ったものさ」と噛んで吐き出すように言ったのが、今でも耳の底に残っています。

昭和16年夏、パパが私に「お前たちも一度、母にお目にかかって御挨拶申し上げておいた方がいいだろう」と言われて、私と娘はパパに連れられて目白の御屋敷へ伺ったことがあります。
客間へ通されて、娘は初めて祖母と対面という次第です。
茶菓のおもてなしを受けて面目をほどこし、いざお暇という段になってパパの後について玄関を出ますと、沓脱石の上にパパと娘の履物は揃えてあるけれど、私の履物はないのです。
パパが小間使いに尋ねると、「はい、内玄関の方にございます」
パパと娘は表玄関から、私は内玄関から表に出て、一緒に自動車に乗りました。
昔から下世話に「腹は借りもの」と言います。
私は身分の卑しい芸者、しかし娘はれっきとした近衛家の血を継いでいる。
だから親子であっても格式の違いがあって、お妾というものは玄関から出入りすることはまかりならぬというのでしょうね。

その年の9月に入ってからでしょうか、まだ暑くて芝山内の杜で蝉が鳴いている時分でしたから。
美容院で髪を結っていると、近衛の自動車が迎えに来ました。
その頃の近衛の車はクライスラーで、車両番号251でした。
運転手さんの口上で、急用ができたからすぐ支度をしてくるようにとのことでした。
私を乗せた車は下谷から神田へ出て日比谷公園のところを通って、芝公園の伊藤文吉さんのお家に着いたのです。
参りますと近衛が「今日は大事なお客さんで秘密を要することなんだ。それで人目を避けてここへ来てもらうことにした。接待も他の人では困るからお前が万事やってもらいたい」と仰せつかりました。
秘密のお客さんというのは、アメリカ大使グルーさんだったのです。
近衛・グルー会談の場所になった家の主人公伊藤さんは近衛と親しい間柄で、近衛に小唄を仕込んだお師匠さんがこの伊藤さんなんです。
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●実子 近衛文隆 愛称:ボチ  31代当主
●実子 近衛通隆 愛称:ミミ  加藤四郎の娘節子と結婚

●実子 近衛昭子 愛称:ヘメ  公爵島津忠秀と結婚・整体師野口晴哉と駆け落ちして再婚
●実子 近衛温子 愛称:オン  華族細川護貞と結婚→子は32代当主近衛忠輝

●庶子 近衛幸子        生母海老名菊〈芸者藤菊〉
●庶子 近衛佐知子/斐子    生母山本ヌイ〈芸者駒子〉


●近衛昭子 公爵島津忠秀と結婚・整体師野口晴哉と駆け落ちして再婚


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近衛文麿の娘/野口昭子のクラスメイトの証言

うらやましいくらいきれいな御弁当を、さもまずそうにノロノロ食べて、そのうち鐘が鳴ってしまうので残す。
近衛さんの〈お残し〉は有名だった。
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大村光子 四条隆英子爵の娘・大村泰敏子爵の妻 
上田和子 水野勝邦子爵の娘・上田駿策の妻

大村◆私のクラスには近衛昭子さんがいらしたの。こちらはお姫様で御自分で御飯を召し上がっていないの。みんなお次〔使用人〕が食べさせていました。
上田◆お昼時になると供待ち部屋からお次がいらっしゃるの?
大村◆だから自分では食べないの。驚いちゃうわね。〈おこぶ〉という厳格なおばあさんが年中付いて、お髪をこうやって梳かしたりしていました。大変なものだったわよ。だから本人は御自分でできないのです。やはり近衛家御出身でおつむがいいから、勉強はよくお出来になりましたね。それから伝統的なもので御字がすごくきれいでした。お転婆でいらしたけど〈おこぶ〉というのが付いてかえって反発しちゃったのね。
上田◆でも昭子様はどこかでそれをお外れになるのね。
大村◆そうそう、正反対なのね。構っちゃいない方でした。
上田◆でも昭子さんはおきれいな方ね。
大村◆お性質も良い方でした。
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寺島雅子  細川護立侯爵の娘・寺島宗従伯爵の妻
勝田美智子 原田熊雄男爵の娘・勝田龍夫の妻

勝田◆近衛昭子さんの事は「へめさん」と言ってましたね(笑)
寺島◆お付きなど周りが「姫様、姫様」と呼ぶのだけれど、またお小さくてそれが言えなくて、自分の事を「へめ、へめ」とおっしゃるのです。それであだ名になって今でもみんな「へめさん」と言っております(笑)
勝田◆80歳を過ぎても「へめさん」なのよ(笑)
寺島◆〈鬼婆ごっこ〉というのもしましたね。
勝田◆佐竹三恵子さん〔佐竹義立男爵令嬢〕が張り切っていらっしゃいました。佐竹さんは必ず鬼婆で、近衛さんがお姫様。
寺島◆「おへめさん」が必ずお姫様でしたね。佐竹さんは御自分が鬼婆がお好きなので、どうしてもなりたいのです(笑)
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昭子&野口晴哉夫妻




1976年
19760352


1980年
19800013



●近衛温子 華族細川護貞と結婚→子は32代当主近衛忠輝


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野口昭子 近衛文麿の娘・島津忠秀公爵と結婚・整体師野口晴哉と駆け落ち再婚

銀座で落ち合うこともあったが、そんな時の妹は黒のトーク帽をちょっと斜めにかぶって、赤いスカーフをちょっとのぞかせた黒いコートを見事に着こなしていた。
私よりもオシャレで明朗闊達で、誰から〈オンちゃん〉と愛されていた。
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寺島雅子 細川護立侯爵の娘・寺島宗従伯爵の妻 

兄の護貞は近衛温子さんとゴルフでミックスを組んでいたのですが、お互い好きになって結婚しました。
兄は真面目で怖かったけれど、〈オンちゃん〉と知り合いになってからはすごく良くなりました。
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細川護貞 近衛温子の夫 

近衛文麿さんと父護立は、父の方がかなり先輩だったがお互いかなり親しくしていた。
私も長男の文隆君とは幼なじみで、妹温子とは子供の頃から一緒に遊んだ。
その文隆君がアメリカ留学から一時帰国し、横浜港へ出迎えに行ったら温子も来ていた。
彼女は13歳、私は19歳。その時彼女はいつもと違う印象だった。
「非常に明るくていい子だな」と思い、結婚を意識した。
文隆君が滞在している間一緒に付き合い、交際していくうちに両方で好きになった。

どうしても結婚したいということになり母に話してみると、「それはダメだろう。もうお相手が決まっていると聞いている」と言う。
しかもそれは宮様だと言うではないか。
「あきらめた方がいい」と母はつれなかったが近衛さんに確かめてみようと思い、彼女を通じて聞いてもらったら「そんな事はない」と言うので安心したのだった。
その時「ダメだったらどうしようか」と言うと、彼女は「なに、駆け落ちすればいいよ」と簡単に言う。
そう言って二人で笑った事があったが、本当に明るく積極的な人だった。

明るく現代的な人だけに、突然結核で亡くなった時には非常なショックを受けた。
温子との結婚生活はわずかに4年しかなかった。再婚したのは5年後のこと。
話はずいぶんあったが何しろ多忙で、しかも二人の子供がいて再婚していいか迷っていた。
家内の薫子は遠い親戚筋で、細川家の筆頭家老の家だった。
子供の頃から知っており年はちょうど一回り下で、戦争中でもあり京都でほんの身内だけの式を挙げた。
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『高松宮日記』

1937年4月20日
細川護貞の結婚披露あり華族会館へ行く。
お嫁さんは近衛公爵の次女温子。
はじめは半ば恋愛だったので婚約したのが、お嫁さん少しお転婆すぎるので仲たがいしかけたのを、またそのために大急ぎというわけか式をしてしまった。
まったく花嫁らしくない。
貞ちゃんがうまく続けられればよいがという感じなり。

1940年8月11日
新聞を見ると、細川の温ちゃん〔細川護貞の妻近衛温子〕とうとう逝く。
結婚の御披露で初めて向き合って座ったようなものだったが、貞ちゃんのお嫁さんというのでよそよそしい感じをしなかった。
以来、会ったのは2~3度か。
それでこないだ細川邸へ行った時ももう寝ていて会えなかったのが寂しい気がしたのに、まったく幽明ところを異にすという気持ちがひしひしとする。
またあの顔が見られるのじゃないかと夢のようであり、見られないと思うと細川家ではわがままな奥さんであったかもしれぬが、他人には面白い懐かしい思い出しかない。

1940年9月11日
北白川宮で葛城様の敏様〔細川温子の義妹葛城敏子・葛城茂麿の妻・細川護立侯爵の娘〕に会う。
温ちゃんの最期は意識不明で安らかだったが、一カ月も前に遺言してにぎやかにしてくれとのことで、お通夜もにぎやかだったそうな。
雅ちゃん〔細川雅子・葛城敏子の実妹〕転地しているのだそうなと聞いたら、そんなことはないしノンキにして元気だとのことだった。
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◆31代 近衛文隆 30代文麿の子
1915-1956 41歳没

*身長5尺9寸(178センチ)体重21貫(79キロ)

1918大正7年近衛文麿の長男近衛文隆は、父の勧めで学習院中等科卒業後アメリカに留学する。
ローレンスヴィル・ハイスクール卒業、プリンストン大学政治に進学。
ゴルフ部長として全米1位となるなどアマチュアゴルファーとして活躍するが、ゴルフ・ダンス・女の毎日で卒業はおぼつかず、1938昭和13年父から帰国を命じられて大学を中退してに帰国する。

1939昭和14年祖父近衛篤麿が設立した東亜同文書院の講師として上海へ赴く。
文隆は反日女スパイ鄭蘋茹(テン・ピンルー)に対してスパイ活動を行う。
鄭蘋茹の父鄭越原は中国人検事、母鄭華君は日本人士族木村花子、両親は父が日本留学中に知り合い結婚して中国に住んだ。
しかし軍部から睨まれ、帰国を余儀なくされる。

1940昭和15年陸軍二等兵として召集、満州阿城砲兵連隊第三中隊に入隊、陸軍中尉まで昇進した。
1944昭和19年大谷正子(貞明皇后の姪/西本願寺大谷光明の娘)と結婚。
ハルビンで神前挙式の後ヤマトホテルで披露宴が行われた。
二人の結婚生活は8ヶ月だった。

1945昭和20年8月15日満州で終戦を迎え、8月19日に捕虜となる。
その後、シベリアの収容所を15ヶ所転々と移動させられた。
1956昭和31年イヴァノヴォ収容所で病死した。41歳没。


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父文麿から子文隆への手紙

1935年10月17日
先だっての帰朝の時、大洋丸に乗っていた日本人の船客でボチ〔文隆の愛称〕の行動に眉をひそめぬ者はほとんどなかった。
あまりのことに見るに見かねてある教授が忠告をした。次いで鈴木覚太郎氏も忠告をした。
しかし反省の色が少しも見えないのでいずれも失望した。
船員たちも3年前の渡航の時と比べてこうも変わるものかと陰で囁き合っていたと。
昨年以来のボチの言動に対しては、僕も絶えず注意を払ってきている。
そして僕も、実は失望してる一人だ。
アメリカの健全なる方面の影響がほとんど見られなくて、最も悪い方面の感化が著しく目立つからだ。
おたあ様はこの話を聞いて泣いているよ。ボチはいったい何のためにアメリカに行ったのか。
アメリカに留学して最大の収穫は、良きアメリカ人の友を得ることだ。
ボチは今日まで、どれだけ将来を語るに足る友を得たか。
ちょっと英語が上手くなった意外に、いったいどれだけの収穫があったか。
少しでも忠告をしたり真面目な話をしたりする人のところには煙たがって近寄らずに、酒を飲ませたり女の話をしたりする人甘やかしてくれる人を、親切だ物が分かった人だと言うて、自分の耳に少しでも快くないことは強いて聞こうともせず反省もしないということは、なんという浅薄さだ。
快楽のみを追うている魂の抜け殻のような状態。どうしてこんなになってしまったのか。
情けないと思う。もう留学はやめにして日本に帰るがよい。
こんな調子でなお3年もいたら、いったいどんなになるか。何よりもおたあ様を安心さしてくれ。
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近衛通隆 近衛文麿の二男

ボチさん流に言わせれば「オヤジの単なる取り越し苦労さ」でしょう。
船の人たちが眉をひそめたと言うが、20歳そこそこのボチさんが何をしたと言うのでしょう。
なんのことはない、バーでハイボールのグラス片手に、大声で多少傍若無人にハイカラな歌を歌ったとか、美しいガールフレンドと腕を組んで派手にデッキをのし歩いた、だいたいそんなところで間違いはありますまい。
「陽気で気前が良くてハンサムな御曹司」であったボチさん、それ以外の何ものでもないでしょう。

アメリカでのいわば「明るい快適な生活」の中にふと迷い込んだ一通の書簡。
ボチさんはこれを読まれた時、必ずやハッと胸に応えるものがあったはずです。
そして僕がボチさんを羨ましく思ったのも、そのためです。
僕がこれを読んで羨ましいというか感動を覚えたのは、僕には父からこんなにこっぴどく怒られた記憶がないからです。
小さい時から父が子供たちに嫌なことを言ったり、キツイ物言いをしたという経験はないのです。
いつも遠くから見守っているだけで、必要があれば母を通じて伝えるようにしていましたから。
従来知らなかった父の一面を見ると同時に、ボチさんがとても羨ましく感じたのです。
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小野寺百合子 小野寺信の妻 

小野寺機関に出入りしていた近衛文隆氏はかねてから小野寺に、
「東京へ行って父文麿公に会って、直接に日支和平論を説いてほしい」と頼んでいた。
直接訴えることは望むところであったから、文隆氏から父公宛の手紙を持参して帰国した。
夫が意を強くしたのは、秩父宮殿下のご支持であった。
秩父宮殿下へ参謀本部の作戦課戦争指導班におられたが、「日支事変解決のためには重慶と直接交渉をするべきである」との信念を持っておられたので、小野寺が申し上げた直接工作案に対して大いに激励を賜った。
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早水親重 小野寺機関のメンバー 

一方には影佐禎昭氏の梅機関等の活動も始まり、片や我らの動きもいつとわなく注意を向けられるところとなり、機関関係者の文隆氏に対する悪戯的謀略等のあった。
すみやかに上京し日本朝野の認識を改めさせねば事が間に合わなくなると痛感、文隆氏・武田信近氏・自分の3人協議のうえ上京することにした。
5月下旬相次いで入京し、朝野に呼びかけ、当時参謀本部部長たりし秩父宮殿下にまで意見具申するなど、共に熱情を傾け一時好転の兆しも見えたが、かえって当局を刺激するところとなった。
廟議はがせんその方に傾き、6月5日の対支処理要綱で直接交渉派の動きは一切まかりならぬと相成り、万事休した。
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作家有馬頼義 近衛文隆の友人・有馬頼寧伯爵の子

近衛文麿の長男文隆と私は友人であり、同じ昭和15年の1月に現役兵として入隊した。
所属が違って、私は北満の駐屯地へ行き、文隆はしばらく内地に残っていた。
月と狼ぐらいとしか付き合えない私のところへ、文隆はしばしば腹の立つ手紙を寄こした。
無類の悪筆である。
初年兵の1期の教育機関に、文隆は上官数人を連れて新橋の花柳界へ遊びに行ってゴマをすっている。
その時に読んだ芸者の名前まで私に知らせて寄こした。

その後文隆はやはり満州に渡り、将校になり、終戦の時ソ連に連れて行かれ、向こうで病死した。
さんざんいい思いをした罰さと私は思ったが、そう思ったところで文隆という一人の友を失った悲しみは今でも消えていない。
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近衛秀麿子爵 近衛文隆の叔父・近衛文麿の弟

ボチがモスクワの捕虜キャンプに客死してから10年近くなる。
ボチとは亡兄の長男文隆の愛称であった。
幼児の頃に最初に発した言葉が「ボチ」であったからだと記憶している。
勿論「僕」と言いたいところだったのを。

学習院を中退した彼はプリンストンにやられた。
その間全米オープンに出場したりなどするうちに、我が一家にも珍しいくらい線の太い若者に育ったものであった。
昔僕もゴルフに夢中であった頃、よく内外の著名なプロについて回った。
しかし僕はボチほどスコアや勝敗を度外視して純粋にゴルフを楽しんだ男を見たことがない。
僕は彼に対しては最初から戦意喪失しているので、勝負を挑まれると「オジちゃんは全部パーで回ったことにする。それで良かったらやろう」
僕は一球も叩かずパーで上がったつもりで、ただ一方的に彼の男性的なプレイを楽しみながらついて歩いて、済んでスコアを調べるとたいがいトントンであった。
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細川護貞 近衛文隆の友人・近衛文麿の娘婿 

6尺近い大男のまん丸顔は親しみがあり、彼の大きな笑い声は周囲の憂愁を吹き飛ばすような不思議な魅力があった。
学習院中等科を終えるとローレンヴィルハイスクールに入学、ゴルフ部に入り翌年にはキャプテンとして活躍する。
その翌年には名手ジーン・サラゼンとラウンドし、その実況はラジオで放送されたほどである。
後プリンストン大学に進んで、ゴルフ部のキャプテンを務めた。

関東軍の砲兵隊に応召して満州に渡り、ハルピンで結婚式を挙げ、その3ヶ月後に終戦、彼は全線で捕らえられ、そのままシベリアに抑留された。
それ以来7年余り生死のほども不明だった半ば我々もあきらめかけていたが、
昭和27年12月本人から母の千代子夫人宛に俘虜郵便第一号が届いた。
近親者の中にはこの葉書の真偽を疑う者もいたほどだった。
病気をしているようだったが、ともかく一縷の光明を得た思いだった。
それから文通が始まり42通の葉書が届いた。
文隆君がイワノヴォ将官収容所で獄死したのは昭和31年10月29日のことであった。
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『木戸幸一日記』内大臣※当時は内務大臣

1939年6月7日
警保局長・警視総監の来訪を求め、近衛文隆君と重慶工作云々の件につき協議す。

1939年6月8日
近衛公爵と会談。
主として文隆君の件なり。
警視総監・安藤局長と文隆君の件につき協議す。

1939年6月9日
上海よりの来電につき有田外相より話あり。
●文隆君はフランス租界居住高恩伯(重慶と連絡ある者と認めらる)方に出入りし、美人の娘と交際す。
文隆君は常にこれを連れ歩きたる様子、何らか関係発展せば、たとえ高恩伯において政治的に利用する意図なしとするも、結局累を父君に及ぼすおそれあり。
●戴笠は偽物にして、真物は当時重慶にありたり。
●上海青年クラブ総裁に祭り上げられたり。

警視総監・警保局長と同上の件につき協議、以下の報告あり。
●文隆君は小野寺信中佐の手先となれる早水親重・武田信近らと共に重慶工作に深入りしつつあり、杉原正己も参画す。
●文隆君は数日前林家にて早水・武田らと会食し、その席には西園寺公一君も出席せり。

1939年6月23日
橋本保安課長来り、文隆君の件につき報告するところありたり。
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『木戸幸一日記』内大臣

<近衛文隆の縁談>

1944年1月24日
近衛公爵と面談。
近衛文隆君と久原房之助氏の娘久原久美子との問題につき苦慮して相談あり。
武者小路宗秩寮総裁に相談したるも、なんら名案も出ず。

1944年2月3日
武者小路宗秩寮総裁来室。
近衛文隆君の配偶の件につき相談す。

1944年2月4日
武者小路宗秩寮総裁来室。
昨日の件につき名簿を持参せらる。

1944年2月28日
近衛公爵より電話にて、近衛文隆君の配偶に大谷光明氏の令嬢大谷正子云々の話ありたり。

1944年10月12日
近衛公爵を訪、本日ハルビンにて挙行の近衛文隆君の結婚式に慶びを述ぶ。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1953年11月24日
「近衛の長男が〔シベリアに抑留されていた近衛文隆〕ソ連より帰りましてどうなりますか。どんなことを致しまたは言いますか、新聞は目をつけておりますが」
「皇室だけ残し皇族は少なく華族はやめてということは新聞紙などもその主張の下であろうに、皇室・皇族関係の記事は非常に欲しがるというのは非常に矛盾だが」
「近衛の長男がどうなって帰りますかわかりませぬが、日本の新聞は物見高くニュースバリューがありさえすれば、皇室でも何でも構わない利用しようという商業主義でありますゆえ」
「アメリカのなどの新聞のように、広告で計算を立て読者層にあまり期待せぬようだといいが、それはそういかぬし、困った」
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■妻  大谷正子 貞明皇后の姪/西本願寺大谷光明の娘 
1924年生

*夫文隆が満州に駐屯していたためハルビンで神前挙式の後ヤマトホテルで披露宴が行われた。
二人の結婚生活は8ヶ月だった。


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近衛正子 近衛文隆の妻・西本願寺大谷光明の娘

近衛の母は主人が亡くなった時「あなたの好きなようになさい」と言ってくれました。
「再婚してもいいし、実家に帰ってもいいし、ここにいたかったらずっといてもいい」と。
私は「近衛家に置いていただきます」と答えました。
だって再婚してもボチさんと比べた時に、あんなに気の合う人っていないんじゃないかなと思ったんです。
表面的にはずいぶん違うんですよね。
あちらは活発だし、社交的だし、楽天的だし。私はどちらかと言えば反対でね。
でも根本的なところでどこか共通点があったように思います。

私が満州から引き揚げてきて机の整理をしていたら、アメリカ時代のラブレターがいっぱい出てきたんです。
近衛の母が「ボチさんから結婚する前に処分しておいてくれって言われてたけど、忘れちゃったわ。
よかったら読んでみて」って言うの。
でも英語の手書き文字ですから読みにくくてね。
生きて帰ってきたら、少しとっちめてやろうかなと思って残しておいたんですけど、もう曾孫〔義理〕も生まれたことですから、捨てましょうか。
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●実子ナシ
●芸者東千代子との間に庶子 東隆明


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◆32代 近衛忠輝 30代文麿の孫/文麿の娘温子の子
1939年生


■妻  三笠宮甯子内親王 三笠宮崇仁親王の娘
1944年生


●長男 近衛忠大 33代当主


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近衛忠輝のインタビュー

上流人が下流人と同じテレビ番組を観たり、農民の子と競って東京大学に入るなどの現状では、上流階級が育つ素地はありません。
だから、昔の上流階級がよい意味での指導性を発揮せざるを得ないのです。
私はね、社会が安定するためには、恵まれた人が高い見識を持ち、しっかりとした階級を構成することが絶対に必要だと思うのです。

※しかし一人息子の忠大はNHKに入りディレクターとなった。
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『入江相政日記』侍従長

1965年5月28日
宇佐美長官と三笠宮甯子内親王の御縁談のこと。

1965年5月31日
三笠宮御夫妻にお会いして、甯子内親王の御縁談について伺う。

1965年7月8日
今朝三笠宮妃殿下といろいろお話し合ったことにつき、島津忠承君〔日赤社長・三笠宮甯子内親王の婚約者近衛忠煇の勤め先〕を訪ねる。
いろいろ懇談する。

1965年7月20日
三笠宮妃殿下から長い電話。
宇佐美長官や小川別当から近衞忠煇さん〔三笠宮甯子内親王の婚約者〕に
「週刊誌に会うなとかしゃべり過ぎる」とか注意があるが、そんなこと言っても仕様がないという御話。

1965年9月21日
島津忠承君を訪問。
宇佐美長官が近衞忠煇さんのことについて、新聞記者に評判が良くないと言っていたことを注意してもらうように言いに行く。
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『入江相政日記』侍従長

1966年12月19日
〔三笠宮甯子内親王結婚〕
三笠宮甯子内親王御夫妻参内。
大変な御元気。
おうれしそうなので安心する。
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◆33代 近衛忠大 32代忠輝の子 
1970年生


■妻  久邇桂子 久邇朝建の娘


●長男
●二男
●長女

◆27代 近衛忠熙 26代近衛基前の子
1808-1898 90歳没

*身長180センチ

1879年 73歳
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■妻  島津興子 鹿児島藩主島津斉宣の娘
1807-1850 43歳没


●男子 近衛忠房 28代当主
●男子 近衛堯熙 男爵常磐井堯熙となる
●男子 近衛忠起 男爵水谷川忠起となる

●女子 近衛総子 公家一条実良と結婚
●女子 近衛尹子 伯爵津軽承昭と結婚


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◆28代 近衛忠房 27代忠熙の子
1838-1873 34歳没

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■妻  島津貞子/光子 島津久長の娘
1845-1920 75歳没

前列左端が光子 島津公爵家の女性たちと
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●実子 近衛篤麿 29代当主
●庶子 近衛英麿 伯爵津軽英麿となる
●庶子 近衛堯猷 男爵常磐井堯猷となる

●実子 近衛泰子 本家徳川家達公爵と結婚


●近衛英麿 伯爵津軽英麿となる



●近衛泰子 本家徳川家達公爵と結婚



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◆29代 近衛篤麿 28代忠房の子
1863-1904 40歳没

*ドイツに留学

1879年 18歳
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ドイツで
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■前妻 前田衍子 金沢藩主前田慶寧の娘・姉は有栖川宮慰子妃
1869-1891 22歳没

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■後妻 前田貞子 金沢藩主前田慶寧の娘・前妻の妹
1871-1945 74歳没


●前妻の子 近衛文麿 30代当主

●後妻の子 近衛秀麿 子爵近衛秀麿となる 
毛利高範子爵の娘泰子と結婚・夫58歳&妻54歳の熟年離婚・長井和子と再婚
●後妻の子 近衛直麿 女給川島ミネと結婚本人死別・ミネは能楽師楠川正範と再婚
→子は指揮者近衛秀健
●後妻の子 近衛忠麿 男爵水谷川忠麿となる
●後妻の子 近衛武子 公爵大山柏と結婚


左から 文麿・武子・忠麿・直麿・秀麿
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●近衛秀麿 子爵近衛秀麿となる 
毛利高範子爵の娘泰子と結婚・夫58歳&妻54歳の熟年離婚・長井和子と再婚

*秀麿は愛人・庶子多数。結婚直後に芸者を身請けするなど秀麿の放蕩に疲れた泰子は父の開発した毛利式速記を修得して速記者となる。



1934年
193401


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大人3人左から 秀麿の妻泰子・文麿の妻千代子・文麿 千代子と泰子は姉妹
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●近衛直麿 女給川島ミネと結婚本人死別・ミネは能楽師楠川正範と再婚→子は指揮者近衛秀健
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◆30代 近衛文麿 29代篤麿の子
1891-1945 54歳没

*身長5尺9寸5分(179センチ)体重17貫(64キロ)

*プライベートでは女言葉を使った

*戦犯となり青酸カリで自殺


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1945年
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■妻  毛利千代子 子爵毛利高範の娘・華族同士の恋愛結婚
1896-1980 84歳没

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千代子夫人と実父毛利高範子爵
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●実子 近衛文隆 愛称:ボチ  31代当主
●実子 近衛通隆 愛称:ミミ  加藤四郎の娘加藤節子と結婚

●実子 近衛昭子 愛称:ヘメ  公爵島津忠秀と結婚・整体師野口晴哉と駆け落ちして再婚
●実子 近衛温子 愛称:オン  細川護貞と結婚→子は32代当主近衛忠輝

●庶子 近衛幸子        生母海老名菊〈芸者藤菊〉
●庶子 近衛佐知子/斐子    生母山本ヌイ〈芸者駒子〉


左から 温子・文隆・通隆・昭子
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左から 文麿・温子・千代子夫人・昭子・通隆
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●近衛通隆 愛称:ミミ 加藤四郎の娘加藤節子と結婚
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●近衛温子 愛称:オン 細川護貞と結婚→子は32代当主近衛忠輝

結婚披露宴で左から 
細川護立侯爵・細川博子夫人・木戸幸一侯爵・細川護貞・近衛温子・木戸鶴子夫人・文麿・千代子夫人  
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◆31代 近衛文隆 30代文麿の子
1915-1956 41歳没

*身長5尺9寸(178センチ)体重21貫(79キロ)

*アメリカのローレンスヴィル・ハイスクール卒業、プリンストン大学政治に進学。
ゴルフ部長として全米1位となるなどアマチュアゴルファーとして活躍するが、ゴルフ・ダンス・女の毎日で卒業はおぼつかず、父から帰国を命じられて大学を中退してに帰国する。

*陸軍二等兵として召集、陸軍中尉まで昇進、満州で終戦を迎えソ連の捕虜となる。
1956昭和31年収容所で病死した。

アメリカで ハイスクールの卒業式で文麿と


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■妻  大谷正子 貞明皇后の姪/西本願寺大谷光明の娘 
1924-2017

*夫文隆が満州に駐屯していたためハルビンで神前挙式の後ヤマトホテルで披露宴が行われた。
二人の結婚生活は8ヶ月だった。



嫁と姑


シベリアの夫の墓前で
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●実子ナシ
●芸者東千代子との間に庶子 東隆明


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◆32代 近衛忠輝 30代文麿の孫/文麿の娘温子の子
1939年生


■妻  三笠宮甯子内親王 三笠宮崇仁親王の娘
1944年生


●長男 近衛忠大 33代当主


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1965年
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1966年
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1966年 結婚式
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◆33代 近衛忠大 32代忠輝の子 
1970年生


■妻  久邇桂子 久邇朝建の娘


●長男
●二男
●長女


1977年
19770001


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