直球和館

2025年

2003/07

◆27代 大炊御門家信 26代大炊御門経長の弟/25代大炊御門経久の子
1818-1885

1879年 63歳
0063c



●男子 大炊御門師前
●七男 大炊御門幾麿 28代当主
●男子 大炊御門家政 綾小路家政子爵となる

●女子 大炊御門久子 仏職武田神哲と結婚    
●女子 大炊御門吉子 石山基則と結婚


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■夫 大炊御門師前 27代家信の子
1853-1926

*1884年、除籍

1879年 28歳
0028d



●庶子 大炊御門実孝 一条実孝公爵となる


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◆28代 大炊御門幾麿 27代家信の子
1875-1919


●庶子 大炊御門経輝 29代当主
●庶子 大炊御門信子 立川俊三と結婚


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◆29代 大炊御門経輝 28代幾麿の子
1908年生


■妻  徳川絹子   徳川義親侯爵の娘
1913年生


●長男

◆25代 今出川実順 24代今出川公久の子
1832-1864


■妻  鷹司美津子 公家鷹司政通の娘
1845-1919 

1073(1)



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◆26代 菊亭脩季 公家鷹司輔煕の子・養子になる 今出川から菊亭に改姓
1857-1905

1879年 24歳
0024a



■妻  諫早敏子 士族諫早兵庫の娘
1862-1932


●長男 菊亭公長 27代当主

●女子 菊亭英子 子爵高松実村の子高松公重と結婚・男爵有馬頼多と再婚
●女子 菊亭幸子 男爵北島貴孝と結婚


●菊亭英子 高松実村子爵の子高松公重と結婚・男爵有馬頼多と再婚
1074(3)



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枢密院議長 倉富勇三郎男爵の日記 大正11年11月15日

有馬男爵家職員河窪敬直の発言

継母英子と継子誉子と仲悪しく、近来に至り英子は有馬家を去りたしと言う。
英子が何事にも邪険なる事を言う。
誉子の居間には足も踏み入れず、その居間の隣室に行くにもわざわざ屋外に出て回り道を経て行く。
英子があまり自分〔河窪敬直〕に皮肉なる事を言うにつき、暇を乞うと言いたるところ誉子が行きてこれを留めたる。
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枢密院議長 倉富勇三郎男爵の日記 大正11年11月26日

有馬男爵家職員河窪敬直の発言

英子未亡人は京都に行きたいと言いたるも、英子未亡人が転地するについては費用を要するゆえ、有馬伯爵家職員有馬秀雄は「京都は遠きに過ぐ、沼津以東にすべし」と言いたる由。
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◆27代 菊亭公長 26代脩季の子
1889-1944

1074(1)



■妻  中山幸子/章子 公家正親町公董の実娘・中山公憲の養女
1894-1988


●男子 菊亭実賢 28代当主

●女子 菊亭福子 子爵鳥居忠博と結婚
●女子 菊亭修子 鈴木涛男と結婚


左から 章子夫人・赤ちゃん福子・菊亭公長・敏子夫人・幸子・英子
1074(2)



●菊亭福子 子爵鳥居忠博子爵と結婚 1928年 17歳
1928-3017



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◆28代 菊亭実賢  27代公長の子 
1916-1945


■妻  大野寿美子 医者大野良蔵の娘・菊亭実賢と離婚・東京銀行小沢将邦と再婚
1922年生


●女子 菊亭賢子  医者志賀逸夫と結婚

■東京本邸 豊多摩郡千駄ヶ谷町(現:渋谷区千駄ヶ谷)


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◆28代 徳大寺公純 公家鷹司輔煕の子・養子になる
1821-1883 62歳没


■妻


●長男 徳大寺実則 29代当主
●二男 徳大寺公望 西園寺公望公爵となる
●三男 徳大寺通規 中院通規伯爵となる
●四男 徳大寺威麿 末松威麿となる
●六男 徳大寺友純 住友友純男爵となる

●女子 徳大寺福子 大洲藩主加藤泰秋と結婚
●女子 徳大寺永子 人吉藩主相良頼基と結婚離婚
●女子 徳大寺中子 相良頼紹子爵と結婚
●女子 徳大寺照子 阿部正功子爵と結婚


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◆29代 徳大寺実則  28代公純の子
1840-1919 79歳没


■妻  山内嘉年子  高知藩主山内豊資の娘 
1844-1879 35歳没


●長男 徳大寺公弘  30代当主
●二男 徳大寺宣麿  高千穂宣麿男爵となる
●男子 徳大寺則麿  徳大寺則麿男爵となる
●男子 徳大寺彬麿  北条氏恭子爵の娘北条穎子と結婚

●長女 徳大寺順子  鷹司熙通公爵と結婚
●二女 徳大寺祚子  佐竹義生侯爵と結婚
●三女 徳大寺蓁子  財閥三井高縦と結婚
●女子 徳大寺治子  松平頼孝子爵と結婚
●女子 徳大寺伊楚子 島津忠重公爵と結婚


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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

でっぷりと太った大きな体、丸々とした赤ら顔、額は禿げ上がって真っ白な髪をいただき、八の字の白い口髭が束ねられたように重そうに垂れ下がって、その尻が心もち上がっている。
重厚な滅多に口をきかない人物である。
この人はいつも顔を伏せている。
伏せたまま目だけが気を配るようにあちこちに動く。
歩く時は極めて静かで、猫のように足音さえもさせない。
侍従長徳大寺実則はそういう老人であった。
この人が頭を上げて歩くのは自邸内の庭を歩く時だけであった。

この人はほとんど人に会わなかった。
当時夫人はなくなっていたが、兄弟にも会わなかった。
子供にさえもめったに会うことがなかった。
ある時 親戚の方がおいでになるということだったが、徳大寺公爵の親戚の方ともなれば相当多勢の人が来るものと思っていたところ、嫁に行った娘と孫だけで、娘の主人さえも来なかった。
この人はまた宴会に招待されても絶対に出席したことがなかった。
これもまた内大臣・侍従長としての性格から自分を極度に慎んだもので、政治には絶対に関与してはならないという鉄則を実行されていたのであろう。
またこうした内大臣・侍従長としての態度は明治陛下が強く要求されていたものであったろう。
しかしこういった侍従長は徳大寺公爵をもって最後とし、その後の侍従長がとかく政治に関与しがちであったことは歴史が証明している通りである。
徳大寺公爵はそういう人物であったから、家計はあまり豊かではなかった。
明治陛下が御心配になって二度ほど10万円ばかりを贈られたが、それも男子4人女子5人の子福者であったので、すべて子供の結婚費用などにあてられてしまったと聞いている。

西園寺公望公爵は徳大寺公爵の実弟であるが、西園寺公爵が時たま御機嫌を伺いに来られたが、そういう時でも自分は出てゆかないで取次の者に「別に変りはないから、よろしく言ってくれ」と言われるだけであった。
それがある時 西園寺公爵が来られて、初めて30分ばかりお会いになったことがある。
それからしばらくして徳大寺公爵は辞表を提出して内大臣・侍従長を辞め、千駄ケ谷の自分の屋敷に移ったのである。
おそらくその時は西園寺公爵が内閣の使者として辞職の勧告に来られたのであろう。
徳大寺公爵は自邸に引き移ってしまってからは、いかにお召しがあっても絶対に参内しなかったということであった。
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◆30代 徳大寺公弘 29代実則の子
1866-1937 71歳没


■妻  松平久子  川越藩主松平典則の娘 
1866-1945 79歳没


●庶子 徳大寺実厚 31代当主


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『横から見た華族物語』昭和7年出版

先代実則公爵は長い間明治天皇の侍従長として側近に奉持し、日夜頭をかしこみ続けていたため他の場所でも頭をまっすぐにして歩くことができなかったほど謹厳な人物であったが、公弘公爵の代になってから世事に疎いため取巻連に翻弄せられ、由緒の深い千駄ヶ谷の邸宅までとうの昔に人手に渡ったのみか、たちの良くない神経痛に悩まされて今では相州の茅ヶ崎に煙のような生活をしている。
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◆31代 徳大寺実厚 30代公弘の子
1889-1970  81歳没


■妻  松平米子  前橋松平直之伯爵の娘
1899-1994 95歳没


●長男 徳大寺公英 32代当主
●二男 徳大寺斉定 賀陽宮恒憲王の娘賀陽宮美智子女王と離婚
●三男 徳大寺純明

●長女 徳大寺嬉子 西本願寺大谷光照と結婚



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岡部長章『回想記』昭和天皇の侍従

私が侍従になってからの1週間は侍従候所に詰めていても他の侍従と会話し、ひたすらその空気になじむように努めていました。
10日目ほどから当直が始まりました。
当直の初めての土曜日に、徳大寺さんが実に細々としたことを詳しく教えてくれるのでした。
徳大寺実厚公爵は、私より年上になります。
騎兵出身で、明治時代の侍従長徳大寺実則公爵の孫だから否応なく軍人にされたということのようでした。
昭和陛下は御昼食を済まされると、必ず侍従候所に「出かけるから」と電話を寄こされます。
生物学御研究所に行くとの意味です。
そこで侍従が昭和陛下の御供をします。
内苑門の外には近衛兵の歩哨が両側に立っています。
そのとき彼らは捧げ銃をする。
徳大寺さんは「そんな時も侍従は黙って御供をしていればいい」と言います。
「兵は昭和陛下に敬礼をしているのだから、侍従は何もしてはならない。脱帽などしないのだよ」ということでした。
徳大寺さんがしきりに「兵が、兵が」と言うのは、陸軍将校だった経歴のためだったということもわかりました。
何度目かの土曜の当直の時でしたが、私は昭和陛下の後から続いて内苑門を出ていきました。
近衛の護衛兵が捧げ銃をしません。
昭和陛下は背広姿です。
大元帥閣下の礼服を着ているわけではありません。
昭和陛下だと分からないのです。
私はこれは新兵だなと直観しました。
昭和陛下に捧げ銃をしなかったら大変なことになります。
当時のことですから悪意なき欠礼でも重営倉の覚悟をしなければなりません。
私は空手のまま捧げ銃の動作をしました。
通じたのか数秒して歩哨兵が捧げ銃をしました。
この時は私もうれしかったです。
この思わぬ出来事を今までこんなことがなかった先輩の方々にも話したく思いました。
しかしながら責任追及が行われるかもしれないと考え、私の胸にしまっておくことにしました。
何としても後味の悪かった点は、細々と教えてくれた徳大寺さんの「兵が、兵が」の語調でした。
陸軍式と公卿の特権意識の匂いが感じられました。
軍隊に身を置かれたなら、欠礼を補う工夫を後輩侍従に教えるのが当然ではあるまいかと思ったりしたものです。
徳大寺さんのことを言うのではありませんが、こういう細やかな配慮に欠けている面がいくつかあり、日本の歴史伝統の深部の弱点というのはこうした点にあったのだろうかとふと感じたりもしたものです。
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◆32代 徳大寺公英 31代実厚の子
1919年生


■妻  大島和子  政治家大島秀一の娘


●長男 
●二男

◆28代 徳大寺公純 公家鷹司輔煕の子・養子になる
1821-1883 62歳没


■妻


●長男 徳大寺実則 29代当主
●二男 徳大寺公望 西園寺公望公爵となる
●三男 徳大寺通規 中院通規伯爵となる
●四男 徳大寺威麿 末松威麿となる
●六男 徳大寺友純 住友友純男爵となる

●女子 徳大寺福子 大洲藩主加藤泰秋と結婚
●女子 徳大寺永子 人吉藩主相良頼基と離婚
●女子 徳大寺中子 相良頼紹子爵と結婚
●女子 徳大寺照子 阿部正功子爵と結婚


●徳大寺公望 公爵西園寺公望となる



●徳大寺通規 中院通規伯爵となる



●徳大寺威麿 末松威麿となる
9212



●徳大寺友純 住友友純男爵となる



●徳大寺福子 大洲藩主加藤泰秋と結婚



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◆29代 徳大寺実則 28代公純の子
1840-1919 79歳没

1879年 42歳
0042







■妻  山内嘉年子  高知藩主山内豊資の娘 
1844-1879 35歳没


●長男 徳大寺公弘  30代当主
●二男 徳大寺宣麿  高千穂宣麿男爵となる
●男子 徳大寺則麿  徳大寺則麿男爵となる
●男子 徳大寺彬麿  北条氏恭子爵の娘北条穎子と結婚

●長女 徳大寺順子  鷹司熙通公爵と結婚
●二女 徳大寺祚子  佐竹義生侯爵と結婚
●三女 徳大寺蓁子  財閥三井高縦と結婚
●女子 徳大寺治子  松平頼孝子爵と結婚
●女子 徳大寺伊楚子 島津忠重公爵と結婚


●徳大寺則麿 徳大寺則麿男爵となる
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●徳大寺彬麿 北条氏恭子爵の娘北条穎子と結婚
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●徳大寺順子 鷹司熙通公爵と結婚



●徳大寺作子 佐竹義生侯爵と結婚



●徳大寺治子 石岡松平頼孝子爵と結婚
1138(2)



●徳大寺伊楚子 島津忠重公爵と結婚



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◆30代 徳大寺公弘 29代実則の子
1866-1937 71歳没

1879年 18歳
0018


椅子中央が公弘
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■妻  松平久子  川越藩主松平典則の娘 
1866-1945 79歳没





●庶子 徳大寺実厚 31代当主


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◆31代 徳大寺実厚 30代公弘の子
1889-1970  81歳没




■妻  松平米子  前橋松平直之伯爵の娘
1899-1994 95歳没


1912年
20170183(1)




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1504


右が米子夫人



●長男 徳大寺公英 32代当主
●二男 徳大寺斉定 賀陽宮恒憲王の娘賀陽宮美智子女王と離婚
●三男 徳大寺純明

●長女 徳大寺嬉子 西本願寺大谷光照と結婚


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◆32代 徳大寺公英 31代実厚の子
1919年生


■妻  大島和子  政治家大島秀一の娘


●長男 
●二男

■東京本邸 千代田区神田 855坪


■「望緑山荘」大田区山王 1,346坪


■「隣荘」大磯 4,400坪


■「坐漁荘」静岡県興津 1,256坪


■「便船塚別荘」御殿場市


■「清風荘」京都市左京区 3,761坪


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◆37代 西園寺公望 公家徳大寺公純の子・養子になる 総理大臣
1849-1940 91歳没


*遊び人で、花柳界では「お寺さん」という愛称で呼ばれていた。

*紅絹裏にトランプ模様を染めさせた羽織を着こんで夜の町に出かけていた。


■妻帯せず


★妾 小林菊子 芸者玉八
1865-


★妾 中西房子 芸者ふさ奴
1874-1927


★妾 奥村花子 女中
1895-1929

*46歳年下、西園寺がベルサイユ条約でフランスに行った時も同行したが、西園寺以外の子を二度も出産し追い出される


●菊子の子 西園寺新子 婿養子を迎え38代当主とする
●房子の子 西園寺園子 高島正一と結婚


1930年
1930-4000


1930-4003


1930-4005



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万朝報 1898年

西園寺公爵は荏原郡入新井村新井宿の本邸に、新橋にて有名なりし蓬莱屋玉八こと松野キク(31歳)なる妾を蓄え、逗子の別荘には西京の元芸妓艶鶴こと中田フサ(22歳)なる妾を蓄う。
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<西園寺公望の晩年のスケジュール>

朝7時頃に起き、自分でヒゲをそってから洋間で新聞に一通り目を通し、8時過ぎに粥食の朝食をとる。
それから昼まで政府からの報告に目を通したり、手紙を書いたり、読書をして過ごす。
来客があればこの時間に会う。
昼食はラジオのニュースに耳を傾けながら軽い洋食、昼寝のあと3時頃から夕方までまた読書。
フランス語の原書が多く、政治・現代思想・ロシア研究・ヨーロッパ事情・伝記など、丸善を通じて取り寄せたり大使館から送られてきたりした。
外務省から届く外交文書にも丹念に目を通す。
トランプの一人遊びに興じるのもこの時間。
夕食は熱燗の日本酒に日本料理。
夜9時40分のニュースを聞いて10時頃就寝。
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原田熊雄男爵 西園寺公望の私的秘書

俺が老公の秘書になったのは近衛の口ききだよ。
『あなたの親戚にいい男がいます』と言って勧めたからだよ
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大正15年7月2日、原田は住友合資の事務嘱託となり西園寺の秘書を務めるように要請された。
「先日老公から社用の暇に自分の用を足してもらいたいのだがどうか、というお話があった。住友としては公爵の実弟にあたられる友純男爵の御逝去後、西園寺家に対して何かと不行届がありはしないかとそれのみ気遣っているようなわけで、公爵の御用を承っていただければこれに越した幸はない。ことに公爵御自身のお声かかりではあるし、ぜひそういうことにしていただこう」
原田は西園寺が亡くなる昭和15年11月まで14年半にわたって秘書を務めることになった。
原田の交際費・車代などは住友が全額負担したし、住友本社4階には原田のために一室が用意された。


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木戸幸一侯爵

原田君が西園寺公爵の秘書になってから、原田が各方面から情報を集めるために種々の会合が始められたが、東京倶楽部の午餐もその一つであって、高木喜寛男爵・近衛文麿公爵らとしばしば一緒になった。
西園寺公爵は第一次世界大戦後の世相から見て、皇族はもっと常識を持たれることが必要であり、政治上の識見についても今一段の御修練が必要であると痛感せられ、折にふれて原田に話しておられた。
そこで原田はその意を体して秩父宮・東久邇宮などをお招きしてそれとなく種々の御話を申し上げる機会を作ったのであった。
近衛公爵と私はほとんど例外なく陪席することになっていた。

〈朝飯会〉というのは、原田が元老にその時々の問題について報告する資料を得るのが目的で、昭和のはじめから各方面の人を呼んで朝8時から10時頃まで話し合ったものである。
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原田熊雄男爵 西園寺公望の私的秘書 

昭和2年4月から6月に興津に戻られるまで2ヶ月間京都の清風荘に滞在された。
最初自分は京都ホテルに一室を借りて、そこから朝晩西園寺公の所に通うことにしておいた。
その由を西園寺公に話すと、
「清風荘は広いし部屋も充分ゆとりがあるから、そんなことはしないでぜひ清風荘に泊ってくれ」というお話であったから、ホテルを断って清風荘の2階に室をいただいて一緒におった。
室でころがりながら本でも読んでいると、知らないうちに来られて「もう飽きたでしょう」と御自身で掛物を替えたり床の間の置物を替えたりして下さる。
また必ず自分の室には葉巻の新しい箱が絶やさず置いてあった。
食事は必ず朝昼晩西園寺公と二人で食堂でいただいたが、ことに晩餐にいたっては食後葉巻はもちろんのこと、とても上等のブランデーを出されて、コーヒーも極めて上手に入ったもので、いつも変わらない態度で接して下さった。

晩餐後執事がカゴに蛍を2千匹も入れたのをもらったと言って持ってきた。
西園寺公と食後漫談中であったので、「庭に放じて御覧になったら」とお話したら、
「それはよかろう」というので2千匹の蛍をカゴから出すと実に美しい。
思わず見とれていると、
「つかぬことを伺うが、貴下は若いからすでに常識として御存知かと思うが、蛍の光には熱がないという研究は5,60年前からしきりにされていたが、その結果はどうなりましたか」という問いであった。
さっそく翌日京都大学の懇意の専門教授を尋ねて聞いて帰り、午餐の卓上で披露したら非常に満足されて、
「ありがとう。一つ知識を増やしました」と喜んでおられた。
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原田熊雄 西園寺公望の私的秘書

木戸が「祖父木戸孝允の日記に、明治元年に西園寺公にお目にかかったくだりに『西園寺公は公卿中の英才なり』と書いてありました」という話をすると、
西園寺公は「貴下のお祖父さんは実に緻密な方でいろいろお世話になった。ある時『貴公は公卿中の第一人者だ』と言われたから、自分は『不満足だ』と答えたところ、『それでもまだ日本一とは言えないじゃないか』と言われる。黙っていると『では、世界一なら御満足か』と言われるから、『自分は日本一とか世界一とか、順位などをとやかく言うのではない。要するに世界で役に立つ者の一人だと言われればそれで満足だ』と言ったところ、大いに賛成されたことがある」と笑っておられた。
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『木戸幸一日記』木戸孝允の孫

1933年1月27日
食事中西園寺公望公爵に「最近出版せられたる祖父の日記の中に、西園寺公爵を『堂上中の英才なり』と記すせる」旨御話したるに、
西園寺公爵は「〈青柳楼〉というのでよく酒宴をされ、自分もそこへ行って陪席したことが度々あるが、
孝允侯爵が自分に『堂上中第一の人物だ』と言われたので、自分はあまり喜ばなかったので、
『それでは日本一か?』と言われたが、それにも答えず、
『ならば世界一と言われたいのか?』とのことなりしゆえ、
『否。自分は一とか二とかを争うものではない。世界で働ける役に立つ人間だと言われたい』と答えたところ、
『そこだのー』と膝を叩いて賞されたことを覚えている」と話された。
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若槻礼次郎男爵 総理大臣 

西園寺公は人一倍ものやさしい方で、その言葉遣い、その態度など、いわゆる「ぶらず」という方で、元老ぶらず・公爵ぶらず・誰をもごく平等に待遇され、相当の敬意を払われる。
だから西園寺公と話をして帰ると、みな非常にいい気持になる。
だれにも好感を持たれる方であった。
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近衛文麿 総理大臣

私はその頃まで政治には何らの関心もなく、むしろ反発さえ持っていたぐらいだったが、憲政擁護運動を毎日新聞で見ている間に多少政治に興味を感じ出した。
そして政治家としては桂太郎さんよりは西園寺公望さんの方が何となく好きであった。
しかし西園寺公は私の父とは政敵ですらあり、同じ公卿でありながら近衛家と西園寺家とは古来極めて縁の薄い間柄であるから、一度も会ったことはなかった。
ある日ふと西園寺さんという人に会ってみたくなって、紹介状も持たずに清風荘を訪れたら幸いに会ってくれた。
しかし初対面の印象はすこぶる悪かった。
大学の金ボタンで行った私を、西園寺公が閣下〃〃と言われるので、こっちもむず痒いような気がして、人を馬鹿にしているんじゃないかとすら思えた。
それから当分訪問しなかった。

卒業して西園寺公をお訪ねすると、初対面の時とは打って変わった態度なので、こちらも無遠慮に若い気迫を挙げた。
それから「大学を出てから何になったものでしょう」と相談すると、
西園寺公は「経験になってよいから、知事になったらどうだ」と言われたのには驚いた。
「知事にはそう簡単になれそうにない」と言うと、
今度は「政党に入るのも一つの行き方だ」と言われた。
しかし私はその時、いくら西園寺公の御声がかりでも、政党に入る勇気はなかった。
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近衛文麿

※1919年第一次世界大戦のパリ講和会議に赴く全権西園寺公望に随行する

この随行中に私は西園寺公からひどく叱られたことが3度ある。
コロンボに寄港して同地の公園を散歩している時いい香りの花があったので、私たちは何心なくそれを折り取って嗅ぎながら談笑していると、これを見た西園寺公がたちまち癇癪玉を破裂させた。
「お前たちはどうして平気でそんな不道徳なことをするのか。そんなことをするなら、もう外国へは連れて来ない」と真剣になって言われた。

それからマルセイユに着く前であったと思う。
税関で荷物を調べられる時にはどうしてうまく言い逃れをするかということを、私たち若い連中が食堂で面白半分に話し合っていると、それを聞かれた西園寺公は、
「そんな心がけでは、紳士としてどうして今後世界の舞台に立つことができるか」と言って叱られた。

それからパリへついて、会議が始まってからのことである。
ある日のことちょうどその日は全権のみの会議で、随員たちはその会場に入ることを禁ぜられていたが、新聞記者としてならば入ることができるということだったので、私は自分が株を持っている日本のある新聞社の社員という名目で会議室に入り込み、その日の会議を傍聴した。
するとこれを誰かから耳にせられたものとみえて、西園寺公はさっそく私を呼びつけられ、
「そんな真似をするなら、今日から随員を免職する」とひどい権幕で叱られた。
西園寺公はそれほど嘘と誤魔化しの嫌いな人である。
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近衛文麿 総理大臣

西園寺公は、まったく国家本位という他はない。
西園寺公はすべてをアンパイアの立場で公平に見ていられる。
だから政治家というより、元老というような地位が一層適するのであろう。
平素の行動も淡々として少しも豪傑ぶったり英雄ぶったりしないし、物事にも固執しない。
西園寺公は功名心にかられるとか我意を通すとかいうことが少なく、物事に拘泥せず淡々としていられるので、政治家によくある親分子分の関係がない。
この点伊藤公もそうであった。
ところが山県公は自分の見込んだ人はどこまでも引き上げるという風があった。
しかし長州人なら誰でも能力の有無にかかわらず引き立てるというのではない。
世間では長閥と言うけれど、山県公の恩顧を蒙った平田東助・大浦兼武などは長州人ではない。
だから山県公の行き方は、原さんが政党の力によって国家に貢献しようとしたように、
人材を集めてこれによって自分の豊富経綸を行おうとしたのである。
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近衛文麿 総理大臣

西園寺公は強い人であった。実に所信に忠実な人であった。
そして徹底した自由主義・議会主義であった。
自分は思想的にいろいろ遍歴をした。
社会主義にも国粋主義にもファッショにも魅かれた。
各種の思想・党派の人々とも交友を持った。
しかし西園寺公は徹底していた。
終始一貫して自由主義・政党主義であった。
自分はナチ化はあくまで防いだが、大政翼賛会というわけのわからないものまで作ってしまった。
が、やはり西園寺公の政党政治が良かったのである。
これ以外に良い政治方式はないかもしれない。
識見といい勇気といいやはり西園寺公は偉い人であった。
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岡部長章『回想記』昭和天皇の侍従

元老の西園寺公望公爵は私が侍従に就任して4年目の昭和15年に病死しましたが、興津の坐漁荘から宮城に内閣の指名などでの御下問に応えるため来られた時に何度か会いました。
一言で言えば実に典雅な人でした。
青年時代10年間もフランス留学していただけにフランス語の原書を常に読んでいましたし、書でもまた一流の書家顔負けです。
いつも竹の長い杖を携えてやってくるのです。
全身に古い王朝貴族の匂いが漂い、身のこなしもまた優雅でした。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

元老は最後に西園寺公爵一人になった。
皇室が西園寺公爵にとられた待遇は皇族以上であった。
西園寺公爵が参内されるとなると、宮中は大騒ぎでテーブルのセットまで新しいものと取り替えられたほどである。
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池田成彬 大蔵大臣

大正6~7年頃、第一次大戦中のことです。
私がこの大磯の家を買おうと思って竹越与三郎君を介して話を進めたところ、この家の隣の百姓が30坪か40坪の所有地を西園寺さんに売りつけようとしておるが、西園寺さんはいっこうに買わない。
そこで百姓が嫌がらせにわざと豚を飼った。
たいていの者ならたまらないから少し高くても買うところだが、西園寺さんはがんばって最後まで買わなかった。
そこで私は買う時の条件をつけた。
「この豚を私の手で片づけるつもりです。それができたらこの家を買いますが、それができなかったら買いません」とね。
話は簡単に片づき、今玄関にかけてある西園寺さんに頼まれて伊藤博文が書いた「隣荘」の額をつけてくれて、それで万事決まったのです。
西園寺さんのところへもっと高く買おうという者がだいぶ押しかけてきたそうですが、
「池田と約束しておるから」と言って断ったということです。
そういうところはきちんとした人です。
4万円で4千坪、建坪は80坪で西園寺さんがみずから図を引いた家です。
あの人はしゃれたことが好きで、まるで待合のような建物でした。
何しろ玄関はないし、畳には縁がないし、実に瀟洒たるものでした。
私みたいな野暮天が入るには粋すぎた。
口の悪い加藤高明さんが「伊藤さんが建てた隣の『滄浪閣』は変な西洋館で田舎の役場みたいだし、お前の家はまた安蕎麦屋というところだね」と悪口を言ったぐらいです。
双方とても適評ですね。
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◆38代 西園寺八郎 公爵毛利元徳の子・婿養子になる
1881-1946 65歳没


■妻  西園寺新子 37代公望の娘
1886-1920 34歳没


●長男 西園寺公一  ゾルゲ事件に連座して逮捕・除籍される
●二男 西園寺二郎
●男子 西園寺不二男 39代当主

●女子 西園寺春子  財閥住友友成と結婚
●女子 西園寺愛子
●女子 西園寺美代子 明治生命阿部一蔵と結婚


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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

西園寺八郎氏は毛利家から西園寺家に養子に行った人であったが、宮内省に入ってからは式部官・式部次長と進み主馬頭になって辞めた。
なにしろ長州系であり養父が元老であったから、すこぶる鼻息が荒かった。
自分自身もワガママができるのは養父の生きているうちで、養父が亡くなればもう我が物顔できなくなるということを心得てやっているので実際始末が悪かった。

西園寺八郎氏は、我々の仲間では「高級ごろつき」と言っていた。
どうしてこんな香ばしからぬニックネームをつけられたかと言うと、この人は実に手の早い人で、御大礼の予行をやっている時などそばで何もせず見ている者があると、飛んで行って「何をしているのだ!」と突き飛ばすようなことがよくあったからである。
とにかく気の短い、手の早い人であった。

背はあまり高くなかったが、でっぷりと肥った丸顔の男で、剣道が非常に好きだった。
この人と宮内次官関屋貞三郎とが仲が悪かったのは有名な話であるが、階級からいえば自分の上役である次官に向かって、やはり大礼の練習中であったがと思うが「そこをどけ!」と大声で怒鳴りつけたのを覚えている。

八郎氏は皇太子殿下(昭和天皇)のことになると夢中であった。
式部次長だった時もそうだったが、主馬頭になっても宮内省よりも東宮御所に行っている時間の方が多かった。
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■夫  西園寺公一 38代八郎の子
1906-1993

*ゾルゲ事件に連座して逮捕・除籍される


■妻  雪江    芸者雛蝶


●長男 西園寺一晃
●二男 西園寺彬弘


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西園寺公一の妻 雪江夫人の取材


牛場友彦
『昔の雪江さんはポーッとしていて物なんかめったに言わない人でしたよ。
それがすっかり女史になったでしょう。
ちょっとした演説はするし、テレビにも出るし』

雪江は群馬県館林の出身。
数え17歳の時、新橋で一流と言われた〈河辰中〉に預けられる。
当時〈河辰中〉は美人ぞろいで評判であったが、〈雛蝶〉と呼ばれた雪江はたちまち売れっ娘になった。
無口で愛嬌に乏しいが、天性の美貌がものをいった。
雪江は公一に身請けされたのではなく、2年の年季を勤め上げた上お礼奉公も済ませてから公一と事実婚に入った。
しかし新婚早々から公一はめったに家に帰ってこなかった。
雪江は主人のいない西園寺家で家令や女中頭に囲まれてつらい日々を送る。

買い物をはじめ家事の一切は家令夫妻が実権をにぎっている。
外出もままならない、台所に入るのもダメ、芝居・映画ももってのほか。
西園寺家に出入りしていた雪江の母や姉も自然と足が遠のくことになる。
「私の知り合いは下品で開けっぴろげでしょう。家風に合わないというわけなんですね。
私のことを奥さんとは見てくれないんです。
陰で『あの女、あの女』と呼んでいて、長男一晃の事は『若様』と言って家令が抱いて寝る。
私には任せられないというわけなんでしょうけど。
時間が来たら起きて、時間が来たら寝る。格子なき牢獄ですよ。
パパは子供がいるから週に一回帰ってくるという風で、私に愛情なんてあったのかしら」

牛場が小田原近くに構えていた別荘に、雪江がまだ小さかった次男彬弘を抱いて熱海の西園寺家から逃げてきたことがある。
心配した牛場はともかく母子を預かり、公一に手紙を書いた。
「私宛てに手紙が来たんですが、『家風に合わないで出たものは仕方ないから帰ってこなくてもよい。子供は迎えを差し向けるから渡せ』って言うんですよ。
冷たい人だなと思って泣いちゃいました」

戦後は目黒に土地を見つけバラックを建てて住んだ。雪江は必死で働いた。
しかし公一は浅草橋に住みついて相変わらず家には寄りつかない。
赤坂に家を見つけ引っ越した。すると公一は浅草橋から目黒へやってきて別棟を建てて住んだ。
「あの人は、私のいない後にいない後に来るような感じでしたね」
公一はウィーンで開かれた世界平和評議会に日本代表として渡航する事になった。
3ヶ月分の生活費を置いていったが、3年も帰ってこなかった。

公一がやっとウィーンから帰ってきたと思ったら、今度は中国へ行くと言う。
ここで置いていかれたらいよいよ終わりだと思った雪江が同行を申し出ると、公一は「どっちでもいい」と言った。
子供たちに訊くと、長男は「嫌だ」と言った。
二男は「僕には父親はいないよ。いらないや、あんなもの」と言った。
しかし夫妻はやっと入籍して、一家で中国へ向かった。

「人間として自身がついたのは中国でです。
私の育ちは恥ずかしい育ちですよね。パパの方がいい育ちでしょう。
ところが中国ではパパが悪い育ちで、私はいい育ちなんです。
人間に大切にされたの、一生で初めてでした」
13年後帰国、雪江は中国からの輸入品を扱う〈雪江堂〉を経営した。
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宗秩寮総裁 木戸幸一侯爵 日記

1939年6月9日
警視総監・警保局長と近衛文隆君の件につき協議、以下の報告あり。
●文隆君は小野寺信中佐の手先となれる早水親重・武田信近らと共に重慶工作に深入りしつつあり、杉原正己も参画す。
●文隆君は数日前林家にて早水・武田らと会食し、その席には西園寺公一君も出席せり。

1942年1月29日
原田君来訪。
西園寺公一氏の件につき話あり。
しばらく静観を勧む。

1942年2月19日
湯沢内相と面談、西園寺公一氏の件を聴く。

1942年3月17日
富岡警視総監来庁。
西園寺公一氏、国防保安法・軍機保護法関係にて拘引せられたるむね話あり、驚く。

1942年3月18日
甘露寺次長と西園寺公一氏の件につき相談す。
武者小路宗秩寮総裁と西園寺公一氏の件につき相談す。

1942年3月20日
官邸において、近衛公爵と西園寺公一氏の件を中心に懇談す。
予は極力自重を希望す。

1942年5月7日
橋本伯爵の来訪求め、武者小路宗秩寮総裁・内大臣秘書官長松平侯爵と共に尾崎秀実事件に関連し、西園寺公爵家の問題につき相談す。

1942年5月13日
岩村法相来庁。
ゾルゲの件につき話あり。

1942年5月18日
近衛公爵来室。
スパイ問題その他につき懇談す。

1942年5月21日
武者小路宗秩寮総裁来室。
西園寺公一氏の件にを相談す。

1942年5月22日
武者小路宗秩寮総裁来室。
西園寺八郎公爵の西園寺公一氏の事件に対する決意につき見通しを語り、懇談す。

1942年5月25日
野村盛康氏来邸。
西園寺公一氏の件につき懇談す。

1942年5月26日
武者小路宗秩寮総裁を総裁室に訪ね、西園寺公一氏の件を話す。

1942年5月30日
武者小路宗秩寮総裁来室。
内大臣秘書官長松平侯爵と3人にて西園寺公爵家の問題につき相談す。

1943年11月9日
武者小路宗秩寮総裁来室。
西園寺公一君の件につき相談す。

1943年12月2日
武者小路宗秩寮総裁来室。
西園寺八郎公爵、宮内省関係および貴族議員辞職の意向につき相談あり。
武者小路総裁の意見に同意す。
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◆39代 西園寺不二男 38代八郎の子
1910-1986 76歳没


■妻  鮎川春子   財閥鮎川義介の娘
1920-


●長男
●二男
●長女

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