■東京本邸 小石川区小日向第六天町(現:文京区春日)3,400坪
■軽井沢別邸
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◆1代 徳川慶喜 15代将軍 最後の将軍・維新後は徳川慶喜家を創設し公爵となる
1837-1913 76歳没
■妻 一条美賀 今出川公久の娘
1835-1894 59歳没
*一条忠香の娘千代/照子が慶喜の婚約者であったが、結婚直前に天然痘になってしまったため、代りに美賀が一条家の養女となり慶喜に嫁いだ。
★側室 一色須賀 幕臣一色貞之助定住の娘
1838-1929 91歳没
*正室美賀の御殿女中から慶喜の側室となった。維新後は老女として家政を取り仕切った。
★側室 新村信 幕臣の娘
1905年没
★側室 中根幸 幕臣の娘
1836-1915 77歳没
側室の信と幸は姉妹のように仲が良く、毎晩交代で夜伽を務めた。
信は色白で痩せ型の美人で、幸は少し色黒で大柄で粋なタイプだった。
夜伽の日は局で入浴して夜化粧をして、慶喜が夜食をとっている間に次の間で煙草を吸って待っていた。
夜伽のない日は湯番殿を務めた。二人とも各12人子供を生んだ。
●生母不明 鏡子 徳川達孝伯爵の前妻・本人死亡
●幸の子 厚 徳川厚男爵となる 福井藩主松平春嶽の娘里子と結婚
●信の子 鉄子 徳川達道伯爵と結婚
●幸の子 筆子 蜂須賀正韶侯爵と結婚
●信の子 仲 池田輝知侯爵の娘亨子の婿養子になり池田仲博侯爵と改名する
●幸の子 浪子 松平斉男爵と結婚
●幸の子 国子 大河内輝耕子爵と結婚
●信の子 経子 伏見宮博恭王妃
●幸の子 糸子 四条隆愛侯爵と結婚
●信の子 慶久 2代当主
●信の子 英子 水戸徳川圀順公爵の前妻・本人死亡
●幸の子 誠 徳川誠男爵となる 名和長慶男爵の娘霽子と結婚
●信の子 精 勝海舟の姪伊代子の婿養子になり勝清伯爵となる
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慶喜の息子たちはみな慶喜に似て趣味人で趣味の範囲が広い。
しかし慶喜と同じく趣味であろうと女であろうと対象に凝りすぎ没頭しすぎる傾向があった。
●鏡子は4人の子を残して20歳で死亡
●厚は交通事故や詐欺事件を起す
●浪子は結婚後半年で妊娠中に夫が失踪し死亡認定
●国子は歌人川田順と不倫
●慶久は睡眠薬の量を誤って死亡(自殺説あり)
●誠は妻の母親が電車のホームから転落死
●精は妾と心中して死亡
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佐々木高行『かざしの桜』明治天皇の娘昌子内親王・房子内親王の御養育係
*徳川国子は大正天皇のお妃候補になったことがあった
1899年1月
※下田歌子の発言
久邇宮純子女王はとても明治陛下に難しきことならん。
なにぶん久邇宮との御間柄は御事情あり、お聞き届けはあるまじくと考えられ候。
一条経子はよろしからず、残るは徳川か。
しかるに見栄えこれ無し。
もっとも徳川国子は身体丈夫、生質もよろしく、発明なれば、見栄えはともかくしかるべしか。
1899年1月21日
※佐々木と前宮内大臣土方久元の会話
土方◆華族女学校長へも相談し、久邇宮純子女王はいかがと尋ねたるに、何も申し上げ候御義はこれ無しと。一条経子はいかがかと、一条は教育一同においてもしかるべからずとの答えありたる。
佐々木◆久邇宮純子女王は御病症もあらせられず候らえども、いかにも御体裁よろしからず太子妃には御不相応かと。そのなか徳川慶喜の娘国子は生質はいたってよろしく、発明の趣き、下田らよりも承り。しかし至って丈低く、甚だお見立て無しとのことなり。
土方◆御同感なり。
1899年4月8日
※前宮内大臣土方久元の発言
徳川慶喜娘国子は人物よろしき趣きにつき、先日大山巌らと学校へ模様を見に行きたり。なにぶん体格至少にていかがかと考えたれども、人物よろしき趣きにつき、なお体質を検査致せさせ方、これは伏見宮禎子女王〔大正天皇の婚約者に内定していたが、肺病の疑いありとして取消になった〕より一層悪しきと申すことにて致し方なく取り消したり。
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◆2代 徳川慶久 1代徳川慶喜の子
1884-1922 37歳没
睡眠薬カルモチンの量を間違えて死亡。自殺説もある。
1週間後にはアメリカに外遊する予定となっており、その送別会にも出席して帰宅した夜の死だった。
■妻 有栖川宮実枝子女王 有栖川宮威仁親王の娘
1891-1933 42歳没
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高松宮喜久子妃←徳川喜久子
父〔慶久〕は七男でしたから本来なら跡を取らなくてもよかったのですが、お兄様たちがみな方々へ養子に行っちゃってちょうど残っていたのが父だった。
それでつかまっちゃったの(笑)
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岩崎藤子←伊集院藤子 高松宮喜久子妃の親友
1922年徳川さん〔喜久子妃〕のお父様である慶久公が39歳で急逝されました。
前年でしたかお父様が渡米されるので徳川さんも転校なさるというような御話をうかがっており、御自分でも「洋行するための新しいお洋服ができたのよ」と大変お嬉しそうにおっしゃっておりましたくらいでしたから、本当におかわいそうでなりませんでした。
ずいぶん後になって、
「父があのまま元気であれば、私はおそらく宮家には上がらなかったのではないかと思うよ」と妃殿下御自身〔喜久子妃〕からお聞きをしたことがございました。
慶久公爵の御他界以来お母様はお切り下げになさってあそばしましたが、それでもおきれいでございました。
有栖川宮家から御降嫁あそばしましても御所言葉などはお使いにならず、妃殿下よりもテキパキしたところがおありになりました。
御小柄ではございましたが、凛として締まった美貌でいらっしゃいまして、よく面白いことも仰せになりました。
それでもお召し物はお地味でお切り下げになっていますから、妃殿下とよく「慈姑のお化けだ」なんて申し上げておりましたが。
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松平幸子子爵夫人の証言
※慶喜の息子たちはみな慶喜に似て趣味人で趣味の範囲が広い。
しかし慶喜と同じく趣味であろうと女であろうと、対象に凝りすぎ没頭しすぎる傾向があった。
実枝子様は慶光様をお産みになったあと少し胸を悪くなさいまして、一時期転地療養をなさったことがあるのです。
実枝子様というお方は歌右衛門が舞台でやる女形に似た美人の上お気持ちのお優しいお方でしたので、転地をなさる前に慶久様に御不自由をおかけしては申し訳ないというお考えになられたのでしょう。
御自分も納得の上で宮家から連れてきた御側女中の中から一人を公にかしずけておきました。
慶久様は必然的な御身体の御要求かは存じませんが、この女性を心底お好きになられてお愛しになったようです。
これはお父上や御兄弟と似た御性格でひとことに没頭なさいまして、お二人の女のお子様をお産ませになるのです。
そろそろ実枝子様の御身体も回復なさっていらっしゃって、癪にさわってきたのね。
役者遊びをなさるようになったのだそうです。
そのうちにおみお腹もただならずおなり遊ばしたのね、妊娠したのよ。
慶久様は実枝子様のおぐしをお持ちになり、お引き回しにされたことも何度かおあり遊ばされたということでした。
あまり御夫婦喧嘩かひどいものですから仲裁するお方があり、再度日赤の顧問だか特使だかになってもらい渡欧だか渡米だかをしてもらうお約束が出来ていたのですよ。
冷却期間を置かせようとしたのでしょう。
それで出発の期日も決まっていたようです。
その頃から公の毎夜召し上がる睡眠薬の量も急増しましたし、自殺のように一部の方は思ってらっしゃるけど、自殺じゃなくて眠られぬまま飲んだカルモチンの量を間違えた過失死だったの。
慶久様がお妾にお産ませになった二人のお嬢様は無事育ってお嫁にいらっしゃいましたけど、実枝子様の方は存じません。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は宗秩寮職員
1921年12月8日
※宮内官僚松平慶民の発言
今朝徳川慶久来り貴官に面会せんと欲したるも、不在なりしをもって自分に話したり。
徳川は「今年末よりカリフォルニアあたりに行かんと欲す」
※倉富&宮内大臣牧野伸顕の会話
牧野◆徳川の家庭に関することを聞き居るや。
倉富◆何も聞くところなし。ただし徳川より庶子出生届を出したるは妙なことなりと思い居るのみ。
牧野◆徳川が赤十字の用務を帯び洋行して帰りたる頃よりのことなりとかいうことなり。夫婦のあいだ調和を欠き、慶久はそのため極度の神経衰弱を病み居るとのことなり。徳川の不在中 夫人が待合に入りたることあり。また芝居観に行きたることありとかいうことなり。名家の家庭にこの如き風聞あるは実に困りたることなり。
1921年12月20日
※宮内大臣牧野伸顕の発言
徳川慶久が一昨年頃、西洋より帰りたる後嫉妬を起こしたり。
その原因は不在中 妻が待合に行きたること家扶と私したることありということ等なる由。
慶久は一度は離婚を言い渡したるも妻これに応ぜず。
ある時は妻を厳責したるも服せざるため、ついに刀をもってその髪を切りたるも、わずかに切りたるのみなりし由。
その後 妻は葉山の有栖川宮別邸に行き居る由なり。
慶久は近々洋行する由なるが娘喜久子を伴い妾を随行せしむる由にて、妻は異見なきも娘が悪感化を受くることを気づかいおるとのことなり。
1921年12月24日
※倉富&有栖川宮務官武田尚の会話
倉富◆徳川慶久と夫人との間、反目しおらざるや。
武田◆夫人弱体にてこれまで3回流産せられたるゆえ医師避妊を勧め、そのため別邸に転地せられおる事多く、夫人より妾を勧められおる事は聞きおれり。
1922年2月28日
※宮内官僚松平慶民の発言
有栖川宮慰子妃が娘の実枝子が夫徳川慶久の十日祭に参列せず、またその髪を切りたる事につき話あり。
「一度の相談もせずしてこのごとき事をなしては困る」との事なりし由なり。
また徳川厚男爵の妻すなわち自分の姉里子も、十日祭に親族は集まりたるも主なる未亡人がおらざりしとて不満を唱えおりたり。
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『木戸幸一日記』内大臣※当時は内大臣秘書官長
※1932年8月、3代宮内大臣田中光顕伯爵が9代宮内大臣一木喜徳郎に辞職を迫り、
一木宮相は1933年1月に辞職する。
1932年8月25日
田中光顕伯爵の行動の真相を知ることができた。
問題は高松宮殿下と徳川喜久子姫の御成婚に関連するものであって、田中氏が宮内大臣当時、有栖川宮栽仁王に内親王を配せんとする議があったところ、
明治天皇は「有栖川宮の系統には狂人があるので、かくのごとき系統のところには内親王を婚嫁せしむることを得ず」と仰せられたることあり。
田中氏はこの点より見て高松宮殿下に喜久子姫を配するはよろしからずと考え、かねて御内意の存したる時も宮内当局に注意したるが、御成婚御内定の際も一木宮相に考慮方を注意したるにもかかわらずこれを決行したるは実に不都合なるゆえその責任を問うというのであって、もし宮内大臣にして辞職せざるにおいては、この問題を暴露して争うと言うのである。
1933年4月25日
湯浅宮相が元宮相田中光顕伯爵と会見し、
田中氏より「高松宮の御子孫と皇室の御縁談なきよう取り計われたし」と申し入れ、
湯浅宮相が「深く念頭に入るる」ということにて、円満解決せしとのことなりき。
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徳川久美子→松平久美子→井出久美子
母実枝子の御輿入れの行列は、先頭が第六天の屋敷に着いても、後ろがまで有栖川宮邸から出ていないほどの長さだったと聞いております。
父が亡くなったあと母は「御後室様」と呼ばれ、まだ30代にもかかわらず黒などの暗い色の着物しかお召しになりませんでした。
日曜日だけ戻って来兄慶光の帰宅を誰よりも待ちわびておりました。
兄が帰り無邪気に喜ぶ母の姿を見るのが私もうれしく、一緒に日曜日を楽しみにしておりました。
姉喜佐子と私は毎日の服までおそろいで、何をするにも一緒、まるで双子のように育てられ、「お二方様」と呼ばれていました。
二人ともお転婆でしたが、色白で女らしい姉と男勝りで真っ黒に日焼けしていた私。
対照的な私たちだからこそ気が合ったのでしょう。
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●実子 徳川慶光 3代当主
●実子 徳川喜久子 高松宮宣仁親王妃
●庶子 徳川喜佐子 榊原政春子爵と結婚
●庶子 徳川久美子 松平康愛と死別・医師井手次郎と再婚
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『高松宮日記』
1941年1月27日
喜久子より久美子〔高松宮喜久子妃の妹徳川久美子〕の婚約につき相談あり、意見なしと返事す。
私は他人の結婚に語る自信なし。
自らにすら自信なき事なればなり。
1941年7月18日
松平康昌侯爵家より久美子縁談のこと正式に申込あり。
宮内大臣松平恒雄夫妻仲立ちにて心労す。
1947年4月1日
※徳川久美子が松平康愛と死別した後
池田徳真、高山英華同伴。
東京帝大第二工学部教授なり。
実は久美子のお婿様にどうだという多恵ちゃん〔北白川宮多恵子女王・徳川圀禎の妻〕の考えなり。
1947年8月24日
久美子、喜久子に話した様子は、やはり杉山〔レストラン〈レバンテ〉支配人杉山万吉〕に想いあり。
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◆3代 徳川慶光 2代徳川慶久の子
1913-1993
■妻 松平和子 会津松平保男子爵の娘
1917-2003
●長男 徳川慶朝 4代当主
●長女 徳川安喜子 深川行雄と結婚
●二女 徳川真佐子 政治家平沼赳夫と結婚
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『高松宮日記』
1933年5月28日
慶光・二妹〔高松宮喜久子妃の兄妹〕を呼び夕食を共にす。
慶光さんも母を喪い急に大人びたし、アカの方に引っぱられかけるらしかったが、本人はそれを警戒していた。
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徳川久美子→松平久美子→井出久美子
戦争で第六天町の屋敷を国に物納して住まいを失った兄慶光は、喜久子妃殿下の勧めで10年ほどブラジルに行っておりました。
缶詰の缶をつくる会社の方が妃殿下とご縁があり、その会社のブラジル工場にお世話になっていたのです。
10年ほどしてから兄がブラジルからひょっこり戻ってまいりました。
嗣子としての心構えや自覚を促す意味もあってに遠方暮らしでしたが、ちゃらんぽらんな性格は全然変わっていませんでした。
兄は「天下の大将軍のお孫さん」と周囲にチヤホヤされる場面も少なくなく、それに乗せられてしまうような甘い部分もどこかにあったのでしょう。
「自分は徳川家の嫡子で、世が世なら将軍である」親戚一同の前でそんな調子です。
他所様の前でも同じように話すので、初めのうちは周囲も「よっ、大将軍」と持ち上げますが、そういった待遇は長続きはしないものです。
父親不在と思っていた甥慶朝は兄が帰国した途端に、昔の家臣が兄の方になびいていくのを見て複雑な思いを抱えていたようです。
親子の関係は難しいものがありました。
そんな兄も甥も他界しました。
今となっては二人の胸中はいかばかりであったのか女の私にはわからないこともありますが、少しでも歩み寄りお互いの心の中では再び親子の絆を結んでいたことを切に祈ります。
とはいえ妹の私としては「どうでもいいメンツで家じゅうをこじらせて、それこそ世が世なら二人とも切腹ものですよ」と厳しい言葉が口をついて出てしまいます。
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徳川慶光の取材
1972年、徳川慶光の一家三人は芝高輪からすずかけ台の建売住宅に移り住んだ。
戦後平民化を余儀なくされた徳川家の人々は、市井の忘れられた存在へと風化を早めている。
慶光も一時期一族の前から姿を消し、誰も消息を知らなかった。
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◆4代 徳川慶朝 3代徳川慶光の子 カメラマン
1950年生
■妻 長岡貴子 長岡祥三子爵の娘・離婚
●長男
●二男
●長女
■軽井沢別邸
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◆1代 徳川慶喜 15代将軍 最後の将軍・維新後は徳川慶喜家を創設し公爵となる
1837-1913 76歳没
■妻 一条美賀 今出川公久の娘
1835-1894 59歳没
*一条忠香の娘千代/照子が慶喜の婚約者であったが、結婚直前に天然痘になってしまったため、代りに美賀が一条家の養女となり慶喜に嫁いだ。
★側室 一色須賀 幕臣一色貞之助定住の娘
1838-1929 91歳没
*正室美賀の御殿女中から慶喜の側室となった。維新後は老女として家政を取り仕切った。
★側室 新村信 幕臣の娘
1905年没
★側室 中根幸 幕臣の娘
1836-1915 77歳没
側室の信と幸は姉妹のように仲が良く、毎晩交代で夜伽を務めた。
信は色白で痩せ型の美人で、幸は少し色黒で大柄で粋なタイプだった。
夜伽の日は局で入浴して夜化粧をして、慶喜が夜食をとっている間に次の間で煙草を吸って待っていた。
夜伽のない日は湯番殿を務めた。二人とも各12人子供を生んだ。
●生母不明 鏡子 徳川達孝伯爵の前妻・本人死亡
●幸の子 厚 徳川厚男爵となる 福井藩主松平春嶽の娘里子と結婚
●信の子 鉄子 徳川達道伯爵と結婚
●幸の子 筆子 蜂須賀正韶侯爵と結婚
●信の子 仲 池田輝知侯爵の娘亨子の婿養子になり池田仲博侯爵と改名する
●幸の子 浪子 松平斉男爵と結婚
●幸の子 国子 大河内輝耕子爵と結婚
●信の子 経子 伏見宮博恭王妃
●幸の子 糸子 四条隆愛侯爵と結婚
●信の子 慶久 2代当主
●信の子 英子 水戸徳川圀順公爵の前妻・本人死亡
●幸の子 誠 徳川誠男爵となる 名和長慶男爵の娘霽子と結婚
●信の子 精 勝海舟の姪伊代子の婿養子になり勝清伯爵となる
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慶喜の息子たちはみな慶喜に似て趣味人で趣味の範囲が広い。
しかし慶喜と同じく趣味であろうと女であろうと対象に凝りすぎ没頭しすぎる傾向があった。
●鏡子は4人の子を残して20歳で死亡
●厚は交通事故や詐欺事件を起す
●浪子は結婚後半年で妊娠中に夫が失踪し死亡認定
●国子は歌人川田順と不倫
●慶久は睡眠薬の量を誤って死亡(自殺説あり)
●誠は妻の母親が電車のホームから転落死
●精は妾と心中して死亡
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佐々木高行『かざしの桜』明治天皇の娘昌子内親王・房子内親王の御養育係
*徳川国子は大正天皇のお妃候補になったことがあった
1899年1月
※下田歌子の発言
久邇宮純子女王はとても明治陛下に難しきことならん。
なにぶん久邇宮との御間柄は御事情あり、お聞き届けはあるまじくと考えられ候。
一条経子はよろしからず、残るは徳川か。
しかるに見栄えこれ無し。
もっとも徳川国子は身体丈夫、生質もよろしく、発明なれば、見栄えはともかくしかるべしか。
1899年1月21日
※佐々木と前宮内大臣土方久元の会話
土方◆華族女学校長へも相談し、久邇宮純子女王はいかがと尋ねたるに、何も申し上げ候御義はこれ無しと。一条経子はいかがかと、一条は教育一同においてもしかるべからずとの答えありたる。
佐々木◆久邇宮純子女王は御病症もあらせられず候らえども、いかにも御体裁よろしからず太子妃には御不相応かと。そのなか徳川慶喜の娘国子は生質はいたってよろしく、発明の趣き、下田らよりも承り。しかし至って丈低く、甚だお見立て無しとのことなり。
土方◆御同感なり。
1899年4月8日
※前宮内大臣土方久元の発言
徳川慶喜娘国子は人物よろしき趣きにつき、先日大山巌らと学校へ模様を見に行きたり。なにぶん体格至少にていかがかと考えたれども、人物よろしき趣きにつき、なお体質を検査致せさせ方、これは伏見宮禎子女王〔大正天皇の婚約者に内定していたが、肺病の疑いありとして取消になった〕より一層悪しきと申すことにて致し方なく取り消したり。
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◆2代 徳川慶久 1代徳川慶喜の子
1884-1922 37歳没
睡眠薬カルモチンの量を間違えて死亡。自殺説もある。
1週間後にはアメリカに外遊する予定となっており、その送別会にも出席して帰宅した夜の死だった。
■妻 有栖川宮実枝子女王 有栖川宮威仁親王の娘
1891-1933 42歳没
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高松宮喜久子妃←徳川喜久子
父〔慶久〕は七男でしたから本来なら跡を取らなくてもよかったのですが、お兄様たちがみな方々へ養子に行っちゃってちょうど残っていたのが父だった。
それでつかまっちゃったの(笑)
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岩崎藤子←伊集院藤子 高松宮喜久子妃の親友
1922年徳川さん〔喜久子妃〕のお父様である慶久公が39歳で急逝されました。
前年でしたかお父様が渡米されるので徳川さんも転校なさるというような御話をうかがっており、御自分でも「洋行するための新しいお洋服ができたのよ」と大変お嬉しそうにおっしゃっておりましたくらいでしたから、本当におかわいそうでなりませんでした。
ずいぶん後になって、
「父があのまま元気であれば、私はおそらく宮家には上がらなかったのではないかと思うよ」と妃殿下御自身〔喜久子妃〕からお聞きをしたことがございました。
慶久公爵の御他界以来お母様はお切り下げになさってあそばしましたが、それでもおきれいでございました。
有栖川宮家から御降嫁あそばしましても御所言葉などはお使いにならず、妃殿下よりもテキパキしたところがおありになりました。
御小柄ではございましたが、凛として締まった美貌でいらっしゃいまして、よく面白いことも仰せになりました。
それでもお召し物はお地味でお切り下げになっていますから、妃殿下とよく「慈姑のお化けだ」なんて申し上げておりましたが。
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松平幸子子爵夫人の証言
※慶喜の息子たちはみな慶喜に似て趣味人で趣味の範囲が広い。
しかし慶喜と同じく趣味であろうと女であろうと、対象に凝りすぎ没頭しすぎる傾向があった。
実枝子様は慶光様をお産みになったあと少し胸を悪くなさいまして、一時期転地療養をなさったことがあるのです。
実枝子様というお方は歌右衛門が舞台でやる女形に似た美人の上お気持ちのお優しいお方でしたので、転地をなさる前に慶久様に御不自由をおかけしては申し訳ないというお考えになられたのでしょう。
御自分も納得の上で宮家から連れてきた御側女中の中から一人を公にかしずけておきました。
慶久様は必然的な御身体の御要求かは存じませんが、この女性を心底お好きになられてお愛しになったようです。
これはお父上や御兄弟と似た御性格でひとことに没頭なさいまして、お二人の女のお子様をお産ませになるのです。
そろそろ実枝子様の御身体も回復なさっていらっしゃって、癪にさわってきたのね。
役者遊びをなさるようになったのだそうです。
そのうちにおみお腹もただならずおなり遊ばしたのね、妊娠したのよ。
慶久様は実枝子様のおぐしをお持ちになり、お引き回しにされたことも何度かおあり遊ばされたということでした。
あまり御夫婦喧嘩かひどいものですから仲裁するお方があり、再度日赤の顧問だか特使だかになってもらい渡欧だか渡米だかをしてもらうお約束が出来ていたのですよ。
冷却期間を置かせようとしたのでしょう。
それで出発の期日も決まっていたようです。
その頃から公の毎夜召し上がる睡眠薬の量も急増しましたし、自殺のように一部の方は思ってらっしゃるけど、自殺じゃなくて眠られぬまま飲んだカルモチンの量を間違えた過失死だったの。
慶久様がお妾にお産ませになった二人のお嬢様は無事育ってお嫁にいらっしゃいましたけど、実枝子様の方は存じません。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は宗秩寮職員
1921年12月8日
※宮内官僚松平慶民の発言
今朝徳川慶久来り貴官に面会せんと欲したるも、不在なりしをもって自分に話したり。
徳川は「今年末よりカリフォルニアあたりに行かんと欲す」
※倉富&宮内大臣牧野伸顕の会話
牧野◆徳川の家庭に関することを聞き居るや。
倉富◆何も聞くところなし。ただし徳川より庶子出生届を出したるは妙なことなりと思い居るのみ。
牧野◆徳川が赤十字の用務を帯び洋行して帰りたる頃よりのことなりとかいうことなり。夫婦のあいだ調和を欠き、慶久はそのため極度の神経衰弱を病み居るとのことなり。徳川の不在中 夫人が待合に入りたることあり。また芝居観に行きたることありとかいうことなり。名家の家庭にこの如き風聞あるは実に困りたることなり。
1921年12月20日
※宮内大臣牧野伸顕の発言
徳川慶久が一昨年頃、西洋より帰りたる後嫉妬を起こしたり。
その原因は不在中 妻が待合に行きたること家扶と私したることありということ等なる由。
慶久は一度は離婚を言い渡したるも妻これに応ぜず。
ある時は妻を厳責したるも服せざるため、ついに刀をもってその髪を切りたるも、わずかに切りたるのみなりし由。
その後 妻は葉山の有栖川宮別邸に行き居る由なり。
慶久は近々洋行する由なるが娘喜久子を伴い妾を随行せしむる由にて、妻は異見なきも娘が悪感化を受くることを気づかいおるとのことなり。
1921年12月24日
※倉富&有栖川宮務官武田尚の会話
倉富◆徳川慶久と夫人との間、反目しおらざるや。
武田◆夫人弱体にてこれまで3回流産せられたるゆえ医師避妊を勧め、そのため別邸に転地せられおる事多く、夫人より妾を勧められおる事は聞きおれり。
1922年2月28日
※宮内官僚松平慶民の発言
有栖川宮慰子妃が娘の実枝子が夫徳川慶久の十日祭に参列せず、またその髪を切りたる事につき話あり。
「一度の相談もせずしてこのごとき事をなしては困る」との事なりし由なり。
また徳川厚男爵の妻すなわち自分の姉里子も、十日祭に親族は集まりたるも主なる未亡人がおらざりしとて不満を唱えおりたり。
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『木戸幸一日記』内大臣※当時は内大臣秘書官長
※1932年8月、3代宮内大臣田中光顕伯爵が9代宮内大臣一木喜徳郎に辞職を迫り、
一木宮相は1933年1月に辞職する。
1932年8月25日
田中光顕伯爵の行動の真相を知ることができた。
問題は高松宮殿下と徳川喜久子姫の御成婚に関連するものであって、田中氏が宮内大臣当時、有栖川宮栽仁王に内親王を配せんとする議があったところ、
明治天皇は「有栖川宮の系統には狂人があるので、かくのごとき系統のところには内親王を婚嫁せしむることを得ず」と仰せられたることあり。
田中氏はこの点より見て高松宮殿下に喜久子姫を配するはよろしからずと考え、かねて御内意の存したる時も宮内当局に注意したるが、御成婚御内定の際も一木宮相に考慮方を注意したるにもかかわらずこれを決行したるは実に不都合なるゆえその責任を問うというのであって、もし宮内大臣にして辞職せざるにおいては、この問題を暴露して争うと言うのである。
1933年4月25日
湯浅宮相が元宮相田中光顕伯爵と会見し、
田中氏より「高松宮の御子孫と皇室の御縁談なきよう取り計われたし」と申し入れ、
湯浅宮相が「深く念頭に入るる」ということにて、円満解決せしとのことなりき。
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徳川久美子→松平久美子→井出久美子
母実枝子の御輿入れの行列は、先頭が第六天の屋敷に着いても、後ろがまで有栖川宮邸から出ていないほどの長さだったと聞いております。
父が亡くなったあと母は「御後室様」と呼ばれ、まだ30代にもかかわらず黒などの暗い色の着物しかお召しになりませんでした。
日曜日だけ戻って来兄慶光の帰宅を誰よりも待ちわびておりました。
兄が帰り無邪気に喜ぶ母の姿を見るのが私もうれしく、一緒に日曜日を楽しみにしておりました。
姉喜佐子と私は毎日の服までおそろいで、何をするにも一緒、まるで双子のように育てられ、「お二方様」と呼ばれていました。
二人ともお転婆でしたが、色白で女らしい姉と男勝りで真っ黒に日焼けしていた私。
対照的な私たちだからこそ気が合ったのでしょう。
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●実子 徳川慶光 3代当主
●実子 徳川喜久子 高松宮宣仁親王妃
●庶子 徳川喜佐子 榊原政春子爵と結婚
●庶子 徳川久美子 松平康愛と死別・医師井手次郎と再婚
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『高松宮日記』
1941年1月27日
喜久子より久美子〔高松宮喜久子妃の妹徳川久美子〕の婚約につき相談あり、意見なしと返事す。
私は他人の結婚に語る自信なし。
自らにすら自信なき事なればなり。
1941年7月18日
松平康昌侯爵家より久美子縁談のこと正式に申込あり。
宮内大臣松平恒雄夫妻仲立ちにて心労す。
1947年4月1日
※徳川久美子が松平康愛と死別した後
池田徳真、高山英華同伴。
東京帝大第二工学部教授なり。
実は久美子のお婿様にどうだという多恵ちゃん〔北白川宮多恵子女王・徳川圀禎の妻〕の考えなり。
1947年8月24日
久美子、喜久子に話した様子は、やはり杉山〔レストラン〈レバンテ〉支配人杉山万吉〕に想いあり。
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◆3代 徳川慶光 2代徳川慶久の子
1913-1993
■妻 松平和子 会津松平保男子爵の娘
1917-2003
●長男 徳川慶朝 4代当主
●長女 徳川安喜子 深川行雄と結婚
●二女 徳川真佐子 政治家平沼赳夫と結婚
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『高松宮日記』
1933年5月28日
慶光・二妹〔高松宮喜久子妃の兄妹〕を呼び夕食を共にす。
慶光さんも母を喪い急に大人びたし、アカの方に引っぱられかけるらしかったが、本人はそれを警戒していた。
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徳川久美子→松平久美子→井出久美子
戦争で第六天町の屋敷を国に物納して住まいを失った兄慶光は、喜久子妃殿下の勧めで10年ほどブラジルに行っておりました。
缶詰の缶をつくる会社の方が妃殿下とご縁があり、その会社のブラジル工場にお世話になっていたのです。
10年ほどしてから兄がブラジルからひょっこり戻ってまいりました。
嗣子としての心構えや自覚を促す意味もあってに遠方暮らしでしたが、ちゃらんぽらんな性格は全然変わっていませんでした。
兄は「天下の大将軍のお孫さん」と周囲にチヤホヤされる場面も少なくなく、それに乗せられてしまうような甘い部分もどこかにあったのでしょう。
「自分は徳川家の嫡子で、世が世なら将軍である」親戚一同の前でそんな調子です。
他所様の前でも同じように話すので、初めのうちは周囲も「よっ、大将軍」と持ち上げますが、そういった待遇は長続きはしないものです。
父親不在と思っていた甥慶朝は兄が帰国した途端に、昔の家臣が兄の方になびいていくのを見て複雑な思いを抱えていたようです。
親子の関係は難しいものがありました。
そんな兄も甥も他界しました。
今となっては二人の胸中はいかばかりであったのか女の私にはわからないこともありますが、少しでも歩み寄りお互いの心の中では再び親子の絆を結んでいたことを切に祈ります。
とはいえ妹の私としては「どうでもいいメンツで家じゅうをこじらせて、それこそ世が世なら二人とも切腹ものですよ」と厳しい言葉が口をついて出てしまいます。
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徳川慶光の取材
1972年、徳川慶光の一家三人は芝高輪からすずかけ台の建売住宅に移り住んだ。
戦後平民化を余儀なくされた徳川家の人々は、市井の忘れられた存在へと風化を早めている。
慶光も一時期一族の前から姿を消し、誰も消息を知らなかった。
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◆4代 徳川慶朝 3代徳川慶光の子 カメラマン
1950年生
■妻 長岡貴子 長岡祥三子爵の娘・離婚
●長男
●二男
●長女