■東京本邸 麻布区富士見町
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◆12代 徳川斉荘 将軍徳川家斉の子・養子になる
1810-1845
■妻 徳川猶子/友子 田安徳川斉匡の娘
1807-1872
●庶子 徳川昌丸 1846年生 一橋徳川家当主となる
●庶子 徳川利子 1838年生 広島藩主浅野慶熾と結婚
●庶子 徳川釧子/釣子 1843年生 岩村藩主松平乗命と結婚
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◆13代 徳川慶臧 田安徳川斉匡の子・養子になる
1836-1849 13歳没
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◆14代 徳川慶勝/松平義恕/徳川慶恕 高須藩主松平義建の子・高須四兄弟の1番目
1824-1883 59歳没
■妻 丹羽矩子 二本松藩主丹羽長富の娘
1831-1902 71歳没
●庶子 徳川義宜 1858年生 16代当主
●庶子 徳川義恕 1878年生 徳川義恕男爵となる 津軽承昭伯爵の娘津軽弘子と結婚
●庶子 徳川道子 1856年生 松平義生子爵の前妻
●庶子 徳川登代子 1857年生 18代当主徳川義礼の前妻・離婚
●庶子 徳川良子 1869年生 18代当主徳川義礼の後妻
●庶子 徳川富子 1870年生 毛利元昭公爵と離婚・戸田康泰子爵の3/3番目の妻
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宮武外骨『地獄耳』1917年
毛利元昭公爵は本当の馬鹿殿様で、そのため東京に置かれず多病の名で三田尻に若隠居させられている。
前夫人は名古屋の徳川家から輿入れしたが、あまり夫の馬鹿なのに愛想を尽かして逃げ出し、その後添いに三条公の御姫様が行っているが、このお姫様は似た者御夫婦の低能なので、めでたく家は治まっている。
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◆15代 徳川茂徳 14代徳川慶勝の弟/高須藩主松平義建の子・高須四兄弟の2番目
1831-1884 52歳没
父の跡を継いで高須藩11代藩主となる→松平義比
次に尾張徳川家15代当主となる →徳川茂徳
次に一橋徳川家10代当主となる →徳川茂栄
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◆16代 徳川義宜 14代徳川慶勝の子
1858-1875 17歳没
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◆17代 14代徳川慶勝が再度
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◆18代 徳川義礼 高松松平頼聰伯爵の子・婿養子になる
1863-1908 44歳没
*婿養子となったが放蕩が続いたため除籍されかけた。
■前妻 徳川登代子 17代徳川慶勝の娘・離婚
1857-1908 51歳没
■後妻 徳川良子 17代徳川慶勝の娘・前妻の妹
1869-1924 55歳没
●後妻の子 徳川米子 1892年生 婿養子を迎え19代当主とする
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『明治閨秀美譚』明治25年出版
侯爵徳川義礼氏の夫人は旧尾張藩主徳川慶勝君の第二女なり。
姉君についで義礼君に配す。義礼君元高松家の公達出でて徳川家を継ぐ。
かつて海外を漫遊し帰朝ののち品行やや修まらず、朝に新橋の花を弄し夕に柳橋の月を賞し楽しんで帰るを忘れ、孤閨紅涙宵々夫人の夢魂を騒がせしも、母公を慰め奴婢を戒め夫の過失を覆うて人に知らしめざらん事を努む。
義礼君離縁の議起こり、旧臣二派に分れて争論沸鼎のごとし。
義礼君難を避けて名古屋に閉居するや夫人悲泣してしばしば帰邸を促せども、義礼君難いまだ定まらざるをもって帰るを肯んぜず。
幾ばくもなく紛議の局を結んで平和の団円を見しは、夫人の堅志またあずかって大なりと言う。
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◆19代 徳川義親 福井藩主松平春嶽の子・婿養子になる
1886-1976 89歳没
*困窮した多くの華族家の財産整理を手助けし、「理財の殿様」と呼ばれた。
*1931年軍部と右翼が手を組んだクーデター「三月事件」に当時の金額で20万円の資金提供をした。
■妻 徳川米子 18代徳川義礼の娘
1892-1980 88歳没
●長男 徳川義知 1991年生 20代当主
●二男 徳川義龍 1916年生 大給義龍伯爵となる 朝香宮鳩彦王の娘湛子女王と結婚
●長女 徳川絹子 1913年生 大炊御門経輝侯爵と結婚
●二女 徳川春子 1915年生 西郷吉之助侯爵と結婚離婚
●三女 徳川百合子 1917年生 佐竹義栄侯爵と結婚
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徳川義親
学習院初等科に入学したが、鉛筆で線が真っ直ぐ引けず、絵も下手で歌もうたえず、体操もダメ。
そのため小学2年に進級するさい落第した。
僕が尾張徳川家を相続した時は、財政は大したものではなく、収支トントンであった。
徳川家の顧問加藤高明伯爵が、「華族は金儲けを考えてはいけません。質素倹約を守るべきです」と言った。
考えてみると、それに違いなかった。
武士の商法と言うが、士族が商売をして成功した例は少ない。
そのボスである大名に商売ができるはずがない。
僕は加藤伯爵の教訓を守った。
数年して気がついてみると、驚いたことに家の収入は支出の3倍にもなっていた。
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徳川米子
明治39年の夏、私は軽井沢にいたの。
ある日散歩に出ると、向こうから学習院の制服を着た学生が来るの。
「あら、軽井沢で学習院の学生は珍しいわ」と思ってすれ違ったの。
夕方お付が「夕食はお客様と一緒です」と言うの。
どなたかと思って食堂に出ると、道で出会った学生なのよ。
後で母から「あの人どう?」って聞かれたので、「いいわ」と答えたの。
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『侍従次長 河井弥八日記』参議院議長※当時は内大臣秘書官長
※1926年12月24日徳川義親侯爵は自邸でクリスマスバザーを開き、
右翼から「御不例中に不謹慎である」との非難を浴びて貴族院議員を辞職する
1926年12月29日
宮内次官関屋貞三郎より徳川義親侯爵の問題につき談話あり。
1927年2月4日
内大臣牧野伸顕を訪う。
徳川義親侯爵問題などにつき談ず。
山内長人男爵を訪う。
徳川義親侯爵のことなどにつき相談をなす。
1927年2月25日
宗秩寮総裁仙石政敬を訪い、徳川義親侯爵に対する世評の件につき意見を進む。
1927年2月26日
仙石総裁に対し、徳川義親侯爵問題につき卑見を述ぶ。
1927年2月27日
関屋次官を訪う。
徳川義親侯爵事件の側面感を述ぶ。
1927年3月27日
山内長人男爵来訪。
すこぶる元気よろし。
雑誌太平楽にて徳川家攻撃につき対策の件につき談話あり。
1931年12月25日
徳川義親侯爵、貴族院議員に復職す。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官
1950年9月1日
田島長官◆久邇宮朝融王が「徳川義親に田島関係ありや」とのお尋ねにて、「あり」と申し上げしところ、「義親の家に久邇邦昭〔朝融王の子〕を置いてくれぬか」との御話なりしゆえ、「徳川義親は操行も感心せず」と申し上げましたが、御教育上のことはお考えなく、広い家の内ならどこへでも置いてくれとのお頼みは如何と存じます。
昭和天皇◆義親はいかぬ。
何でも新しがってやって信用できぬ男。
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◆20代 徳川義知 19代徳川義親の子
1911-1992 81歳没
■妻 松平正子 宮内大臣松平恒雄の娘・姉は秩父宮勢津子妃
1913年生
●男子 徳川五郎太 1940年生
●長女 徳川三千子 1936年生 婿養子を迎え21代当主とする
●二女 徳川博子 1938年生 高橋是修と結婚
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徳川義知
父は私のようなドラ息子が出てきてお宝を売ってしまってはいけないと思い、法人徳川黎明会を作ったんでしょうね。
見せるための美術館ではなく、保存するための美術館だったわけです。
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徳川正子 松平正子
来客があって客間に置き物を飾りたい。
そのためには事務所へ行っていちいち許可を取らなければならない。
2~3日経つともう事務所から「まだお使いでございますか」と催促なんですよ。
ゆっくり眺めている暇もございません。
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◆21代 徳川義宣 堀田正恒伯爵の子堀田正祥・婿養子になる
1933-2005
■妻 徳川三千子 20代徳川義知の娘
1936年生
●長男
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◆12代 徳川斉荘 将軍徳川家斉の子・養子になる
1810-1845
■妻 徳川猶子/友子 田安徳川斉匡の娘
1807-1872
●庶子 徳川昌丸 1846年生 一橋徳川家当主となる
●庶子 徳川利子 1838年生 広島藩主浅野慶熾と結婚
●庶子 徳川釧子/釣子 1843年生 岩村藩主松平乗命と結婚
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◆13代 徳川慶臧 田安徳川斉匡の子・養子になる
1836-1849 13歳没
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◆14代 徳川慶勝/松平義恕/徳川慶恕 高須藩主松平義建の子・高須四兄弟の1番目
1824-1883 59歳没
■妻 丹羽矩子 二本松藩主丹羽長富の娘
1831-1902 71歳没
●庶子 徳川義宜 1858年生 16代当主
●庶子 徳川義恕 1878年生 徳川義恕男爵となる 津軽承昭伯爵の娘津軽弘子と結婚
●庶子 徳川道子 1856年生 松平義生子爵の前妻
●庶子 徳川登代子 1857年生 18代当主徳川義礼の前妻・離婚
●庶子 徳川良子 1869年生 18代当主徳川義礼の後妻
●庶子 徳川富子 1870年生 毛利元昭公爵と離婚・戸田康泰子爵の3/3番目の妻
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宮武外骨『地獄耳』1917年
毛利元昭公爵は本当の馬鹿殿様で、そのため東京に置かれず多病の名で三田尻に若隠居させられている。
前夫人は名古屋の徳川家から輿入れしたが、あまり夫の馬鹿なのに愛想を尽かして逃げ出し、その後添いに三条公の御姫様が行っているが、このお姫様は似た者御夫婦の低能なので、めでたく家は治まっている。
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◆15代 徳川茂徳 14代徳川慶勝の弟/高須藩主松平義建の子・高須四兄弟の2番目
1831-1884 52歳没
父の跡を継いで高須藩11代藩主となる→松平義比
次に尾張徳川家15代当主となる →徳川茂徳
次に一橋徳川家10代当主となる →徳川茂栄
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◆16代 徳川義宜 14代徳川慶勝の子
1858-1875 17歳没
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◆17代 14代徳川慶勝が再度
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◆18代 徳川義礼 高松松平頼聰伯爵の子・婿養子になる
1863-1908 44歳没
*婿養子となったが放蕩が続いたため除籍されかけた。
■前妻 徳川登代子 17代徳川慶勝の娘・離婚
1857-1908 51歳没
■後妻 徳川良子 17代徳川慶勝の娘・前妻の妹
1869-1924 55歳没
●後妻の子 徳川米子 1892年生 婿養子を迎え19代当主とする
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『明治閨秀美譚』明治25年出版
侯爵徳川義礼氏の夫人は旧尾張藩主徳川慶勝君の第二女なり。
姉君についで義礼君に配す。義礼君元高松家の公達出でて徳川家を継ぐ。
かつて海外を漫遊し帰朝ののち品行やや修まらず、朝に新橋の花を弄し夕に柳橋の月を賞し楽しんで帰るを忘れ、孤閨紅涙宵々夫人の夢魂を騒がせしも、母公を慰め奴婢を戒め夫の過失を覆うて人に知らしめざらん事を努む。
義礼君離縁の議起こり、旧臣二派に分れて争論沸鼎のごとし。
義礼君難を避けて名古屋に閉居するや夫人悲泣してしばしば帰邸を促せども、義礼君難いまだ定まらざるをもって帰るを肯んぜず。
幾ばくもなく紛議の局を結んで平和の団円を見しは、夫人の堅志またあずかって大なりと言う。
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◆19代 徳川義親 福井藩主松平春嶽の子・婿養子になる
1886-1976 89歳没
*困窮した多くの華族家の財産整理を手助けし、「理財の殿様」と呼ばれた。
*1931年軍部と右翼が手を組んだクーデター「三月事件」に当時の金額で20万円の資金提供をした。
■妻 徳川米子 18代徳川義礼の娘
1892-1980 88歳没
●長男 徳川義知 1991年生 20代当主
●二男 徳川義龍 1916年生 大給義龍伯爵となる 朝香宮鳩彦王の娘湛子女王と結婚
●長女 徳川絹子 1913年生 大炊御門経輝侯爵と結婚
●二女 徳川春子 1915年生 西郷吉之助侯爵と結婚離婚
●三女 徳川百合子 1917年生 佐竹義栄侯爵と結婚
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徳川義親
学習院初等科に入学したが、鉛筆で線が真っ直ぐ引けず、絵も下手で歌もうたえず、体操もダメ。
そのため小学2年に進級するさい落第した。
僕が尾張徳川家を相続した時は、財政は大したものではなく、収支トントンであった。
徳川家の顧問加藤高明伯爵が、「華族は金儲けを考えてはいけません。質素倹約を守るべきです」と言った。
考えてみると、それに違いなかった。
武士の商法と言うが、士族が商売をして成功した例は少ない。
そのボスである大名に商売ができるはずがない。
僕は加藤伯爵の教訓を守った。
数年して気がついてみると、驚いたことに家の収入は支出の3倍にもなっていた。
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徳川米子
明治39年の夏、私は軽井沢にいたの。
ある日散歩に出ると、向こうから学習院の制服を着た学生が来るの。
「あら、軽井沢で学習院の学生は珍しいわ」と思ってすれ違ったの。
夕方お付が「夕食はお客様と一緒です」と言うの。
どなたかと思って食堂に出ると、道で出会った学生なのよ。
後で母から「あの人どう?」って聞かれたので、「いいわ」と答えたの。
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『侍従次長 河井弥八日記』参議院議長※当時は内大臣秘書官長
※1926年12月24日徳川義親侯爵は自邸でクリスマスバザーを開き、
右翼から「御不例中に不謹慎である」との非難を浴びて貴族院議員を辞職する
1926年12月29日
宮内次官関屋貞三郎より徳川義親侯爵の問題につき談話あり。
1927年2月4日
内大臣牧野伸顕を訪う。
徳川義親侯爵問題などにつき談ず。
山内長人男爵を訪う。
徳川義親侯爵のことなどにつき相談をなす。
1927年2月25日
宗秩寮総裁仙石政敬を訪い、徳川義親侯爵に対する世評の件につき意見を進む。
1927年2月26日
仙石総裁に対し、徳川義親侯爵問題につき卑見を述ぶ。
1927年2月27日
関屋次官を訪う。
徳川義親侯爵事件の側面感を述ぶ。
1927年3月27日
山内長人男爵来訪。
すこぶる元気よろし。
雑誌太平楽にて徳川家攻撃につき対策の件につき談話あり。
1931年12月25日
徳川義親侯爵、貴族院議員に復職す。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官
1950年9月1日
田島長官◆久邇宮朝融王が「徳川義親に田島関係ありや」とのお尋ねにて、「あり」と申し上げしところ、「義親の家に久邇邦昭〔朝融王の子〕を置いてくれぬか」との御話なりしゆえ、「徳川義親は操行も感心せず」と申し上げましたが、御教育上のことはお考えなく、広い家の内ならどこへでも置いてくれとのお頼みは如何と存じます。
昭和天皇◆義親はいかぬ。
何でも新しがってやって信用できぬ男。
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◆20代 徳川義知 19代徳川義親の子
1911-1992 81歳没
■妻 松平正子 宮内大臣松平恒雄の娘・姉は秩父宮勢津子妃
1913年生
●男子 徳川五郎太 1940年生
●長女 徳川三千子 1936年生 婿養子を迎え21代当主とする
●二女 徳川博子 1938年生 高橋是修と結婚
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徳川義知
父は私のようなドラ息子が出てきてお宝を売ってしまってはいけないと思い、法人徳川黎明会を作ったんでしょうね。
見せるための美術館ではなく、保存するための美術館だったわけです。
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徳川正子 松平正子
来客があって客間に置き物を飾りたい。
そのためには事務所へ行っていちいち許可を取らなければならない。
2~3日経つともう事務所から「まだお使いでございますか」と催促なんですよ。
ゆっくり眺めている暇もございません。
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◆21代 徳川義宣 堀田正恒伯爵の子堀田正祥・婿養子になる
1933-2005
■妻 徳川三千子 20代徳川義知の娘
1936年生
●長男














































