直球和館

2025年

2011/02

■東京本邸 麻布区富士見町
f9528d08.jpg


d067dcd4.jpg



=========================

◆12代 徳川斉荘   将軍徳川家斉の子・養子になる
1810-1845


■妻  徳川猶子/友子 田安徳川斉匡の娘 
1807-1872


●庶子 徳川昌丸    1846年生 一橋徳川家当主となる

●庶子 徳川利子    1838年生 広島藩主浅野慶熾と結婚
●庶子 徳川釧子/釣子 1843年生 岩村藩主松平乗命と結婚


=========================


◆13代 徳川慶臧 田安徳川斉匡の子・養子になる
1836-1849 13歳没


=========================・


◆14代 徳川慶勝/松平義恕/徳川慶恕 高須藩主松平義建の子・高須四兄弟の1番目
1824-1883 59歳没


■妻  丹羽矩子 二本松藩主丹羽長富の娘 
1831-1902 71歳没


●庶子 徳川義宜  1858年生 16代当主
●庶子 徳川義恕  1878年生 徳川義恕男爵となる 津軽承昭伯爵の娘津軽弘子と結婚

●庶子 徳川道子  1856年生 松平義生子爵の前妻
●庶子 徳川登代子 1857年生 18代当主徳川義礼の前妻・離婚
●庶子 徳川良子  1869年生 18代当主徳川義礼の後妻
●庶子 徳川富子  1870年生 毛利元昭公爵と離婚・戸田康泰子爵の3/3番目の妻


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
宮武外骨『地獄耳』1917年

毛利元昭公爵は本当の馬鹿殿様で、そのため東京に置かれず多病の名で三田尻に若隠居させられている。
前夫人は名古屋の徳川家から輿入れしたが、あまり夫の馬鹿なのに愛想を尽かして逃げ出し、その後添いに三条公の御姫様が行っているが、このお姫様は似た者御夫婦の低能なので、めでたく家は治まっている。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


=========================


◆15代 徳川茂徳 14代徳川慶勝の弟/高須藩主松平義建の子・高須四兄弟の2番目
1831-1884 52歳没

父の跡を継いで高須藩11代藩主となる→松平義比
次に尾張徳川家15代当主となる   →徳川茂徳
次に一橋徳川家10代当主となる   →徳川茂栄


=========================


◆16代 徳川義宜 14代徳川慶勝の子
1858-1875 17歳没


=========================・


◆17代 14代徳川慶勝が再度


=========================・


◆18代 徳川義礼 高松松平頼聰伯爵の子・婿養子になる
1863-1908 44歳没

*婿養子となったが放蕩が続いたため除籍されかけた。


■前妻 徳川登代子 17代徳川慶勝の娘・離婚
1857-1908 51歳没


■後妻 徳川良子  17代徳川慶勝の娘・前妻の妹
1869-1924 55歳没


●後妻の子 徳川米子 1892年生 婿養子を迎え19代当主とする


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『明治閨秀美譚』明治25年出版

侯爵徳川義礼氏の夫人は旧尾張藩主徳川慶勝君の第二女なり。
姉君についで義礼君に配す。義礼君元高松家の公達出でて徳川家を継ぐ。
かつて海外を漫遊し帰朝ののち品行やや修まらず、朝に新橋の花を弄し夕に柳橋の月を賞し楽しんで帰るを忘れ、孤閨紅涙宵々夫人の夢魂を騒がせしも、母公を慰め奴婢を戒め夫の過失を覆うて人に知らしめざらん事を努む。

義礼君離縁の議起こり、旧臣二派に分れて争論沸鼎のごとし。
義礼君難を避けて名古屋に閉居するや夫人悲泣してしばしば帰邸を促せども、義礼君難いまだ定まらざるをもって帰るを肯んぜず。
幾ばくもなく紛議の局を結んで平和の団円を見しは、夫人の堅志またあずかって大なりと言う。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


=========================・


◆19代 徳川義親 福井藩主松平春嶽の子・婿養子になる
1886-1976 89歳没

*困窮した多くの華族家の財産整理を手助けし、「理財の殿様」と呼ばれた。

*1931年軍部と右翼が手を組んだクーデター「三月事件」に当時の金額で20万円の資金提供をした。


■妻  徳川米子 18代徳川義礼の娘
1892-1980 88歳没


●長男 徳川義知  1991年生 20代当主
●二男 徳川義龍  1916年生 大給義龍伯爵となる 朝香宮鳩彦王の娘湛子女王と結婚

●長女 徳川絹子  1913年生 大炊御門経輝侯爵と結婚
●二女 徳川春子  1915年生 西郷吉之助侯爵と結婚離婚
●三女 徳川百合子 1917年生 佐竹義栄侯爵と結婚


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
徳川義親

学習院初等科に入学したが、鉛筆で線が真っ直ぐ引けず、絵も下手で歌もうたえず、体操もダメ。
そのため小学2年に進級するさい落第した。

僕が尾張徳川家を相続した時は、財政は大したものではなく、収支トントンであった。
徳川家の顧問加藤高明伯爵が、「華族は金儲けを考えてはいけません。質素倹約を守るべきです」と言った。
考えてみると、それに違いなかった。
武士の商法と言うが、士族が商売をして成功した例は少ない。
そのボスである大名に商売ができるはずがない。
僕は加藤伯爵の教訓を守った。
数年して気がついてみると、驚いたことに家の収入は支出の3倍にもなっていた。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
徳川米子

明治39年の夏、私は軽井沢にいたの。
ある日散歩に出ると、向こうから学習院の制服を着た学生が来るの。
「あら、軽井沢で学習院の学生は珍しいわ」と思ってすれ違ったの。
夕方お付が「夕食はお客様と一緒です」と言うの。
どなたかと思って食堂に出ると、道で出会った学生なのよ。
後で母から「あの人どう?」って聞かれたので、「いいわ」と答えたの。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『侍従次長 河井弥八日記』参議院議長※当時は内大臣秘書官長

※1926年12月24日徳川義親侯爵は自邸でクリスマスバザーを開き、
右翼から「御不例中に不謹慎である」との非難を浴びて貴族院議員を辞職する

1926年12月29日
宮内次官関屋貞三郎より徳川義親侯爵の問題につき談話あり。

1927年2月4日
内大臣牧野伸顕を訪う。
徳川義親侯爵問題などにつき談ず。
山内長人男爵を訪う。
徳川義親侯爵のことなどにつき相談をなす。

1927年2月25日
宗秩寮総裁仙石政敬を訪い、徳川義親侯爵に対する世評の件につき意見を進む。

1927年2月26日
仙石総裁に対し、徳川義親侯爵問題につき卑見を述ぶ。

1927年2月27日
関屋次官を訪う。
徳川義親侯爵事件の側面感を述ぶ。

1927年3月27日
山内長人男爵来訪。
すこぶる元気よろし。
雑誌太平楽にて徳川家攻撃につき対策の件につき談話あり。

1931年12月25日
徳川義親侯爵、貴族院議員に復職す。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1950年9月1日
田島長官◆久邇宮朝融王が「徳川義親に田島関係ありや」とのお尋ねにて、「あり」と申し上げしところ、「義親の家に久邇邦昭〔朝融王の子〕を置いてくれぬか」との御話なりしゆえ、「徳川義親は操行も感心せず」と申し上げましたが、御教育上のことはお考えなく、広い家の内ならどこへでも置いてくれとのお頼みは如何と存じます。
昭和天皇◆義親はいかぬ。
何でも新しがってやって信用できぬ男。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


=========================


◆20代 徳川義知 19代徳川義親の子
1911-1992 81歳没


■妻  松平正子 宮内大臣松平恒雄の娘・姉は秩父宮勢津子妃
1913年生


●男子 徳川五郎太 1940年生 

●長女 徳川三千子 1936年生 婿養子を迎え21代当主とする
●二女 徳川博子  1938年生 高橋是修と結婚


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
徳川義知

父は私のようなドラ息子が出てきてお宝を売ってしまってはいけないと思い、法人徳川黎明会を作ったんでしょうね。
見せるための美術館ではなく、保存するための美術館だったわけです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
徳川正子 松平正子

来客があって客間に置き物を飾りたい。
そのためには事務所へ行っていちいち許可を取らなければならない。
2~3日経つともう事務所から「まだお使いでございますか」と催促なんですよ。
ゆっくり眺めている暇もございません。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


=========================


◆21代 徳川義宣  堀田正恒伯爵の子堀田正祥・婿養子になる
1933-2005


■妻  徳川三千子 20代徳川義知の娘
1936年生


●長男

◆12代 徳川斉荘   将軍徳川家斉の子・養子になる
1810-1845


■妻  徳川猶子/友子 田安徳川斉匡の娘 
1807-1872


●庶子 徳川昌丸    1846年生 一橋徳川家当主となる

●庶子 徳川利子    1838年生 広島藩主浅野慶熾と結婚
●庶子 徳川釧子/釣子 1843年生 岩村藩主松平乗命と結婚


=========================


◆13代 徳川慶臧 田安徳川斉匡の子・養子になる
1836-1849 13歳没


=========================・


◆14代 徳川慶勝/松平義恕/徳川慶恕 高須藩主松平義建の子・高須四兄弟の1番目
1824-1883 59歳没





高須四兄弟左から ④桑名松平定敬③会津松平容保②一橋徳川茂栄①尾張徳川慶勝
ea96fe95.jpg



■妻  丹羽矩子 二本松藩主丹羽長富の娘 
1831-1902 71歳没

c6059b85.jpg



●庶子 徳川義宜  1858年生 16代当主
●庶子 徳川義恕  1878年生 徳川義恕男爵となる 津軽承昭伯爵の娘津軽弘子と結婚

●庶子 徳川道子  1856年生 松平義生子爵の前妻
●庶子 徳川登代子 1857年生 18代当主徳川義礼の前妻・離婚
●庶子 徳川良子  1869年生 18代当主徳川義礼の後妻
●庶子 徳川富子  1870年生 毛利元昭公爵と離婚・戸田康泰子爵の3/3番目の妻


左から 良子 富子 米子 義恕 矩子夫人
bcf62d97.jpg


左:徳川富子 右:徳川良子



●徳川義恕 徳川義恕男爵となる 津軽承昭伯爵の娘弘子と結婚

左:徳川義礼 右:徳川義恕
404ecfc0.jpg



●徳川富子 毛利元昭公爵と離婚・戸田康泰子爵の3/3番目の妻



=========================・


◆15代 徳川茂徳 14代徳川慶勝の弟/高須藩主松平義建の子・高須四兄弟の2番目
1831-1884 52歳没

父の跡を継いで高須藩11代藩主となる→松平義比
次に尾張徳川家15代当主となる   →徳川茂徳
次に一橋徳川家10代当主となる   →徳川茂栄


=========================・


◆16代 徳川義宜 14代徳川慶勝の子
1858-1875 17歳没


=========================・


◆17代 14代徳川慶勝が再度


=========================・


◆18代 徳川義礼 高松松平頼聰伯爵の子・婿養子になる
1863-1908 44歳没

*婿養子となったが放蕩が続いたため除籍されかけた。

イギリスにて





■前妻 徳川登代子 17代徳川慶勝の娘・離婚
1857-1908 51歳没


■後妻 徳川良子  17代徳川慶勝の娘・前妻の妹
1869-1924 55歳没



232a907d.jpg


dcba10ec.jpg



●後妻の子 徳川米子 1892年生 婿養子を迎え19代当主とする


=========================・


◆19代 徳川義親 福井藩主松平春嶽の子・婿養子になる
1886-1976 89歳没

*困窮した多くの華族家の財産整理を手助けし、「理財の殿様」と呼ばれた。

*1931年軍部と右翼が手を組んだクーデター「三月事件」に当時の金額で20万円の資金提供をした。

1021(1)






ebeb32ef.jpg





■妻  徳川米子 18代徳川義礼の娘
1892-1980 88歳没





1021(2)


c9c24bc3.jpg


1929年『海を渡り行く人』
「南洋バタヴィアで開催の汎太平洋学術会議に出席する徳川義親侯爵は、4月末夫人同伴鹿島立ちました。
侯爵は会議終了後、痛快な猛獣狩りをするはずであります」
1929-2023



●長男 徳川義知  1991年生 20代当主
●二男 徳川義龍  1916年生 大給義龍伯爵となる 朝香宮鳩彦王の娘湛子女王と結婚

●長女 徳川絹子  1913年生 大炊御門経輝侯爵と結婚
●二女 徳川春子  1915年生 西郷吉之助侯爵と結婚離婚
●三女 徳川百合子 1917年生 佐竹義栄侯爵と結婚


=========================


◆20代 徳川義知 19代徳川義親の子
1911-1992 81歳没


■妻  松平正子 宮内大臣松平恒雄の娘・姉は秩父宮勢津子妃
1913年生

5cf1d2b6.jpg



●男子 徳川五郎太 1940年生 

●長女 徳川三千子 1936年生 婿養子を迎え21代当主とする
●二女 徳川博子  1938年生 高橋是修と結婚


=========================


◆21代 徳川義宣  堀田正恒伯爵の子堀田正祥・婿養子になる
1933-2005


■妻  徳川三千子 20代徳川義知の娘
1936年生


●長男

*和歌山徳川侯爵家は1898年の長者番付で全国9位となった資産家

■東京本邸 麻布区飯倉町 1万2000坪


=========================


◆14代 徳川茂承    西条藩主松平頼学の子松平頼久・養子になる
1844-1906 62歳没


■前妻 伏見宮則子女王 伏見宮邦家親王の娘 
1850-1874 23歳没


■後妻 本多広子    越後新発田藩系本多忠興の娘 
1856-1886 30歳没


●前妻の子 徳川久子 婿養子を迎え15代とする
●前妻の子 徳川孝子 伊達宗陳侯爵の後妻
●後妻の子 徳川保子 松平頼和子爵と結婚


=========================


◆15代 徳川頼倫 田安徳川慶頼の子 婿養子になる
1872-1925 52歳没


■妻  徳川久子 14代徳川茂承の娘
1873年生


●男子 徳川頼貞 16代
●男子 徳川宣方
●男子 徳川治  落馬で死亡


=========================


◆16代 徳川頼貞 15代徳川頼倫の子
1982-1954 61歳没


■妻  島津為子 島津忠義公爵の娘・姉は山階宮常子妃・久邇宮俔子妃
1898-1989 91歳没


●男子 徳川頼韶 17代
●女子 徳川宝子 婿養子を迎える


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『横から見た華族物語』昭和07年出版※当時の総理大臣の年給は9,600円

先代の頼倫侯爵は物柔らかな利口な人物であったが、当主の頼貞侯爵はあまり評判が良くない。
頼倫侯爵が死んだ時、頼貞侯爵は3000万円の財産を相続して80万円の相続税を納めた。
その前には十五銀行の騒ぎに56万なにがしの損害をこうむった。
それやこれやで財政が苦しくなったので、1928年に什器の売り立てをやって臨時収入200万円を手に入れた。
頼貞侯爵は旧弊な家職どもに取り囲まれているにもかかわらず、皮肉にも日本より外国のことを好む。
特にフランスのことを好む。
だから紀州家の本邸は万事フランス式でやっているが、特に台所は一切フランス張りでその料理が頼貞侯爵の何よりの自慢だとある。
これは先年頼貞侯爵が大阪ホテルで食事をした時料理が非常にお気に召したところから、そこのコックを高い給金をはらって本邸へ雇い入れてから始まったという話だ。

紀州家では予算制度がやまかしくて、1年の経常費を50万円と計上している。
先代頼倫侯爵の時には80万円であったが、当時は使用人が70人もいた。
今は西洋風の簡単な生活で、頼貞侯爵の召使としては4人きりである。
それで年50万円といえば、月に割って2万5000円の勘定となる。
どんな贅沢でもできそうに思われるが、頼貞侯爵に言わせると自由に使える金といってはあまりないそうだから、生活費以外に無駄な金がよほど消えるのであろう。

1930年の春、欧米漫遊の旅に立った。
一行は7名それで旅費として月に1万円ずつ費やす予算であったが、行ってみるとその倍額の要求となり、外遊2年の間に50万円に近い金を使ってしまった。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
上田貞次郎の日記 和歌山徳川家の相談役・経済学者

1927年4月
徳川家の問題はもちろん財政整理である。
今春は予定通り什宝売却を断行して好成績であった。
売上160万円に達した。
手取り124万9000円。
しかし十五銀行破綻のために毎年7万円の収入減となる。
頼貞侯爵も大いに節約の意思はあるが、実行はできない。
本邸は今年も予定超過で、総額20万円以上使っている。
今借金は210万円で昨年末に比すれば70万円減じたが、結局本邸も売却しなければ整理はできない。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
上田貞次郎の日記 和歌山徳川家の相談役・経済学者

1929年9月
徳川家の借金はまだ250万円ある。
先代からの引き継ぎの時350万円あったのが、什器売却で100万、土地売却で200万作ったにも関わらず100万しか減らないのは、現在支出超過が毎年20~30万円ずつあるからだ。
頼貞侯爵は今外遊中だが毎月1万円の旅費を予定していたのに、5月以来すでに8万円すなわち倍額出ている。
何事にしても、主人が締まらなければ何もならぬ。
この顧問の仕事は実に馬鹿馬鹿しい。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
1934年6月19日の東京朝日新聞に
『徳川侯爵家を恨み老植木師が服毒 積立金を返さぬと』という記事が出る。
長年紀州徳川家に雇われていた植木職人が紀州徳川家事務所に給料から天引きで積み立て貯金をしていたのに、退職の際に総額804円を返してもらえなかった。
何度事務所にかけあっても拒否されたので、徳川家の中で猫イラズを飲んで抗議の自殺をした。
後日遺族に1000円の弔慰金を支払うことで決着した。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『侯爵徳川義親の日記』〔徳川義親侯爵は徳川里子夫人の弟〕

※徳川義親は「理財の殿様」と呼ばれ、困窮した多くの華族家の財産整理を手助けした

1936年12月5日
徳川頼貞侯爵来訪。
頼貞侯爵家整理につきて話す。

1936年12月26日
頼貞侯爵・夫人を訪ねて、今後の方針を話す。

1936年12月27日
頼貞侯爵家に4万円援助し、一時の急を救う。

1937年1月14日
頼貞侯爵は司直により裁くことを決心す。

1937年1月19日
頼貞侯爵に隠居する決心の必要なることを説く。

1937年2月28日
半田治三郎に頼貞侯爵家の家政を調査させる。
半田の報告にては、現在の状態にては1日700円の損失になると。

1937年5月6日
頼貞侯爵家の岸田秘書来り、日本銀行総裁池田成彬よりの回答を聞く。
聞くまでもなく駄目なことは明瞭なりしなり。
岸田秘書ももとより覚悟なりしも、あまりに冷淡なる態度に憤慨す。
人の落ち目となりたる時には、人は決して助くるものあらざるを痛感す。
頼貞侯爵はことのとにつきて認識を有せず。
今日なお楽観の状態なるを悲しむ。

1937年7月31日
頼貞侯爵家より片岡秘書来る。
自動ピアノをPCLに売りたる代金1,400円を受け取りに来る。
片岡秘書は、主家没落の悲運を嘆じてゆく。

1937年11月12日
十五銀行に阿野季忠子爵を訪ねる。
「頼貞侯爵家の整理問題につき、十五銀行は抵当物全部を投げ出されたならば債務打ち切りまでのことはするも、それ以上はできぬ」とのこと。
極めて至当な話なり。
要するに大名の家として己れの不始末から人の情けを受けることは恥辱なり。
十五銀行は断然債権を主張しても論なし。

1937年12月27日
頼貞侯爵家整理につきての報告。
やや目鼻のつきたるところにして、代々木の邸宅を小田急に売る約束でき、これにて解決の第一歩となすとのことなり。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
徳川頼貞は東京大崎に洋風の大邸宅を作り<パレス・クィーン・エリザベス>と名づけた。
パーティーを開くときは、金ピカの制服を着た召使を玄関に立たせ、ヨーロッパ宮廷風に招待客の名前を読み上げさせた。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
徳川正子 会津松平恒雄の娘・尾張徳川義知の妻

駐英大使で赴任した父の後を追って私もロンドンに参りましたのですが、ちょうど頼貞様の御外遊の時期でごさいました。
お嬢さんの宝子さんがまだお小さくて、5つぐらいでしたでしょうか。
郊外の方にバトラーがいるお家をお借りになって、看護婦が宝子さんをつきっきりで看ておりました。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


=========================


◆17代 徳川頼韶 16代徳川頼貞の子
1917-1958 41歳没


=========================


◆18代 徳川剛  日系二世の青山由太郎の子・婿養子になるが離婚
1924年生


■妻  徳川宝子 17代徳川頼韶の娘 
1926年生


●長女 
●二女 


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
戦後宝子は生活のために池袋の西武百貨店と日比谷の三井ビルにレストラン「マルキーズ」を開店して成功するが、夫が勝手に権利を売って逃げてしまい離婚に至る。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


1977年
19770445(3)


1980年
19800338(1)

和歌山徳川侯爵家は1898年の長者番付で全国9位となった資産家


=========================


◆14代 徳川茂承 西条藩主松平頼学の子松平頼久が養子になる
1844-1906 天保15-明治39 62歳没

1879年 37歳
0037i





■前妻 伏見宮則子女王 伏見宮邦家親王の娘 
1850-1874 嘉永03-明治07 23歳没


■後妻 本多広子    越後新発田藩系本多忠興の娘 
1856-1886 安政03-明治19 30歳没


●前妻の子 徳川久子 婿養子を迎え15代とする
●前妻の子 徳川孝子 伊達宗陳侯爵の後妻
●後妻の子 徳川保子 松平頼和子爵と結婚


●徳川孝子 伊達宗陳侯爵の後妻



●徳川保子 松平頼和子爵と結婚



=========================


◆15代 徳川頼倫 田安徳川慶頼の子 婿養子になる
1872-1925 明治05-大正14 52歳没

イギリスで




1e164856.jpg



■妻 徳川久子 14代徳川茂承の娘
1873年生








●男子 徳川頼貞 16代
●男子 徳川宣方
●男子 徳川治  落馬で死亡


=========================


◆16代 徳川頼貞 15代徳川頼倫の子
1982-1954 明治25-昭和29 61歳没

*ケンブリッジ大学に留学

イギリスで


後列中央が頼貞
f0d20185.jpg





■妻 島津為子 島津忠義公爵の娘 姉は山階宮常子妃・久邇宮俔子妃
1898-1989 明治31-平成01 91歳没







頼貞夫妻 音楽家エフレム・ジンバリストと
273ee3ce.jpg


1929年『海を渡り行く人』
「今秋ベルリンで開かれる万国商事会議に出席する徳川頼貞侯爵は、5月夫人同伴渡航しました。
侯爵夫妻は会議後1年半各国を音楽行脚する予定であります」
1929-2023(1)



●男子 徳川頼韶 17代
●女子 徳川宝子 婿養子を迎える


=========================


◆17代 徳川頼韶 16代徳川頼貞の子
1917-1958 大正06-昭和33 41歳没


=========================


■夫 徳川剛  日系二世の青山由太郎の子 婿養子になるが離婚
1924年生


■妻 徳川宝子 17代徳川頼韶の娘 
1926年生


●長女
●二女

このページのトップヘ