直球和館

2025年

2011/07

◆徳川武定 水戸徳川昭武公爵の子 子爵家を創設
1888-1957 明治21-昭和32 69歳没






■妻 徳川繡子 田安徳川達孝伯爵の娘
1892-1959 明治25-昭和34 67歳没

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●宗子 婿養子を迎え次代当主とする




◆徳川博武 藤岡勝二の子 婿養子になる 医師
1910-1986 明治43-昭和61 76歳没


■妻 徳川宗子 先代武定の娘
1914- 大正03-


左側 宗子&博武夫妻 右側 武定&繍子夫妻



●文武
●秀武

◆1代 徳川義恕 尾張藩主徳川慶勝の子 男爵家を創設
1978-1946


■妻  津軽寛子 津軽承昭伯爵の娘
1886-1961


*徳川義寛は侍従長・北白川祥子は女官長として兄妹で同時に昭和天皇に長く仕えた


●男子 徳川義寛 2代当主
●男子 徳川義孝 津軽義孝伯爵となる 毛利元雄子爵の娘久子と結婚→娘は常陸宮華子妃
●男子 徳川義忠 黒田長敬子爵の娘礼子と結婚・戦後一家でブラジルに移住
●男子 徳川義恭 田安徳川達成伯爵の娘雅子と結婚

●女子 徳川祥子 北白川宮永久王の妃


1993年 徳川義忠の子 徳川義幸
19930272



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◆2代 徳川義寛 1代義恕の子
1906-1996


■妻  三条博子 三条公輝公爵の娘
1914年生


●男子 徳川義真  3代当主
●男子 徳川義正  油谷秀雄の娘油谷智英子と結婚 

●女子 徳川美智子 マルハ中部鉄次郎と結婚


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岡部長章『回想記』昭和天皇の侍従

1945年8月15日は朝早くいつものように紺色の防空服を着て、自転車で官舎を出ました。
宮中は静かなものでした。
何事もなかったのかと胸を撫で下ろしながら侍従室に入った途端、張り詰めた空気を感じました。
三井氏が疲れた様子で腰掛けているその横に、宮内書記官の筧素彦が立ってヒソヒソ話をしています。
何かあったのですかという私の声を制して三井氏が小声で、
「やっぱりね」と小声で襲われたと言い、
「録音盤をどうやって持ち出そうかと相談しているのです」と後ろの戸棚を指差されました。
昨夜から未明にかけて近衛師団の叛乱軍が宮城に押し入り、昭和陛下が吹き込まれた録音盤を探し回ったという事実を聞かされました。
そのとき徳川義寛侍従は反乱軍に顔が腫れ上がるほど殴られたということでした。

反乱軍は総務局をくまなく探したが録音盤は見つからない。
徳川君が機転を利かせて侍従室の粗末な戸棚の中に入れておいたのです。
反乱軍は侍従室にもやってきたのですが、さすがにこんな汚いところにと粗末な戸棚の中までは探さなかったのです。
スフ入りの防空服を着て廊下を歩いていたら近衛の伍長に捕まって、
「録音盤はどこにあるか」と聞かれたのだそうです。
着剣した銃を持つ兵とピストルを握る下士官が囲んでいる。
彼は尾張徳川の分家の長男だというプライドもあったので、
「そんなこと教えられるか」と突っぱねたそうです。
それで殴られ顔が腫れ上がってしまったのです。
徳川君の任官は私より後でしたが、クラスは二つ上でした。
学習院の学生当時から無口で友人と談笑する姿はあまり見ません。
とっつきが良くないのでしょうが、常に孤独であったのです。
8月14日の当直では徳川君はスフの防空服を着ていたそうです。
体も小さいからとても侍従には見えなかったでしょう。
身をもって天皇をおかばいするのが侍従の任務なのですから、すれ違いざまに「録音盤はどこに隠してあるか」と聞かれたら「さあ、わかりません」とでも言えたでしょう。
殺されでもしたらいざという時に役に立てなくなってしまいます。
それでも自分の身が可愛くて逃げたのではないのですから立派なものです。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長

1978年3月1日
宇佐美宮内庁長官が侍医杉村昌雄のことで侍従次長徳川義寛に叱られ、「殿様は怖い」と言った由。
世の中すべて面白い。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1988年4月7日
徳川侍従長辞任の件。
徳川侍従長から「侍従長を辞めることにした。去年からかねてそのように富田宮内庁長官に話していたのだが、昭和陛下の御病気などもあり延々になっていた。後任はせめて宮内庁のことをよく知っている山本宮内庁次官ではどうかと長官に進言し、長官も了承した」と。

1988年4月12日
徳川侍従長退任の記者会見。
昭和11年侍従になってから、昭和44年に入江侍従長のもとに侍従次長を16年間務め、昭和60年侍従長になった。
80歳を超えて昨年夏から辞意をもらしていたが、昭和陛下の御病気のこともあり今日まで来たが、御公務も少しずつなさるようになったので、この機会に辞めるという。
昭和陛下も最初は御許にならなかった、辞めてからも御歌のこと・昭和皇后の御絵の整理のこと・御研究のことなど引き続いて参与として行うから、というので御許が出たという。
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『卜部亮吾日記』昭和天皇の侍従

1988年5月23日
山本侍従長と表御服所に赴き、元侍従長入江相政の『拝聴録』を探索す。
断念しかけたが、最後にキャビネット最下段から発見。
内容確認し、リストを作り、元の場所に収納。
宮殿内内舎人倉庫(地階)第二引き出し・計14袋。

1988年10月21日
『拝聴録』の所在につき、元侍従長徳川義寛に確認するようにと。

1989年8月4日
宮殿表御服所へ。
『拝聴録』の所在確認すれど無し。

1990年11月8日
寺崎手記のこと話題になり、
〔当時の通訳寺崎英成が遺した『独白録』が発表される〕
昭和24年の御日誌をめくると頻繁に拝謁の記録あり。
いずれ『拝聴録』の方も問題となろう。

1996年3月12日
小林侍従らと参与室の元侍従長徳川義寛の手持資料を分類整理する。
肝心の『拝聴録』らしきものは見当たらず。
御研究・御歌関係の資料は、御宸筆以外のものは焼却処分に。

1996年3月13日
『拝聴録』が参与室で見当たらなかったので、念のため表御服所へ探索に、それらしきものなし。
北白川皇太后宮女官長にも電話〔北白川女官長は徳川元侍従長の妹〕心当たりがないか聞く。
山本侍従長に見当たらないむね報告。

2001年2月7日
元侍従長徳川義寛ご遺族から返還された鞄の中の資料を点検する。
いわゆる問題の『拝聴録』コピーと共にでてくる。
やはりという感じ。
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◆3代 徳川義真 2代徳川義寛の子
1934年生


■妻  牛場孝子 牛場道雄の娘
1942年生


●長女 徳川恵子
●二女 徳川純子


孝子夫人
8003


4000(7)


1987年
19870923(2)

◆初代 徳川誠 将軍徳川慶喜の子 男爵家を創設
1887-1968 81歳没


■妻 名和霽子 名和長慶男爵の娘
1896-1982 86歳没

1020(1)





●長男 徳川熙 2代
●二男 徳川脩 3代


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*慶喜の息子たちはみな慶喜に似て趣味人で趣味の範囲が広い。
しかし慶喜と同じく趣味であろうと女であろうと対象に凝りすぎ没頭しすぎる傾向があった。

●鏡子は4人の子を残して20歳で死亡
●厚は交通事故や詐欺事件を起す
●浪子は結婚後半年で妊娠中に夫が失踪し死亡認定
●国子は歌人川田順と不倫
●慶久は睡眠薬の量を誤って死亡(自殺説あり)
●誠は妻の母親が電車のホームから転落死
●精は妾と心中して死亡
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◆2代 徳川熙 1代徳川誠の子 戦死
1916-1943


■妻  松平順子 松平保男子爵の娘 死別・原田進と再婚
1921年生


■1939年 松平順子 学習院出身・趣味はピアノ・茶道・華道 
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◆3代 徳川脩 2代徳川熙の弟
1920-1996


■妻  山田美恵子 理学者山田幸五郎の娘
1929年生


●長男 徳川康久  4代
●長女 徳川公子  山尾技研山尾信孝と結婚 


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◆4代 徳川康久 3代徳川脩の子
1948年生


■妻  宮崎静江 宮崎寛の娘
1950年生


1998年 徳川康久
19980090

◆初代 徳川厚  将軍徳川慶喜の子 男爵家を創設
1874-1930 55歳没




■妻  松平里子 福井藩主松平春嶽の娘
1878-1955 77歳没





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●男子 徳川喜翰  2代 詐欺事件を起こす
●男子 徳川喜福  大木遠吉伯爵の娘伸子の婿養子になり大木喜福伯爵となる
●男子 徳川喜好  詐欺事件を起こす
→子徳川泰章も会社の金を使い込んだうえ詐欺事件を起こし逮捕される
●男子 徳川喜知
●男子 徳川喜堅  3代

●女子 徳川喜久子 平民多賀鉉之輔と恋愛結婚して除籍される
●女子 徳川喜和子 戸田豊太郎と結婚離婚


●徳川喜福


●徳川喜好


●徳川喜知


●徳川喜久子


●徳川喜和子


徳川喜和子 1929年
1929-2003



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東京朝日新聞 1923年11月22日

*喜久子は平民多賀鉉之輔と恋愛結婚して除籍される

『愛人を求めて平民となった徳川家令嬢
不自由な華族の階級から人間としての解放』
「このほど徳川一門の徳川厚長女喜久子嬢の分家が宮内省に出願され11月21日許されて、華族喜久子嬢はいよいよ平民の徳川喜久子となって、徳川厚男爵と同番地に一家を創設した」
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◆2代 徳川喜翰 1代徳川厚の子 詐欺事件を起こす
1897-1938 41歳没






■妻  白井美代子 白井新太郎の娘
1908年生


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◆3代 徳川喜堅 2代喜翰の弟/1代厚の子
1907-1971 64歳没




■前妻 大藪スミコ 大藪守治の娘
1912年生


■後妻 木村智佐子 木村辰夫の娘 
1928年生


●前妻の子 徳川喜寿 4代
●前妻の子 徳川喜昭 永田美晴と結婚
●前妻の子 徳川喜忠

●後妻の子 徳川喜永 岡田美恵子と結婚


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◆4代 徳川喜寿 3代徳川喜堅の子
1938年生


■妻  荘埜俊子 荘埜重信の娘
1940年生


●長男
●二男
●長女




慶喜の息子たちはみな慶喜に似て趣味人で、趣味の範囲が広い。
しかし慶喜と同じく趣味であろうと女であろうと、対象に凝りすぎ没頭しすぎる傾向があった。
厚もまた乗馬・狩猟・ビリヤード・絵画などが玄人はだしだったといわれる。
厚が次に凝り始めたのが自動車の運転であった。
当時自動車は運転手に運転させるもので持ち主自らがハンドルを握ることはなかったが、厚は運転に夢中になる。
しかし大酒飲みの厚は飲酒運転のすえ車を溝に落とすという事故を繰り返していた。
大正7年3月7日厚は帝国ホテルで食事をして酒をかなり飲んだ。
夜7時頃厚は男性を轢くがそのまま逃亡する。
通行人が通報して男性は病院に収容、全治3週間の重傷であった。
同じく通行人が通報した車体番号によって指名手配され、車の中で泥酔していた厚が発見される。
厚が覚えていない、気づかなかったとひき逃げを認めようとしなかったうえ、
「そう荒立てるほどの事件でもない。被害者には見舞金として15円ほどやったのでかえって喜んでいる」などと言ったため世論が反発、免許は取り上げられ、罰金刑に処され、宮内省から警告を受けた。

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宮武外骨『地獄耳』

先日自動車で人をひいて逃げた徳川厚は、有名な放蕩者で待合に流連して家に帰らぬことが多い。
その時 三太夫の迎えぐらいではダメなので、宗家の頭領徳川家達が自身で出かけていき、ヤット引っぱって帰るのだそうな。
元来厚は徳川慶喜の正統で世が世なら16代将軍になる人だが、その宗家は田安家から養子の徳川家達のものになり自分は男爵で安んぜねばらなぬのが何よりの不平で、それで蕩楽するのだという。
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厚の三男喜好は名古屋で詐欺団を結成し、土地に関する私文書偽造詐欺を働く。
昭和8年7月7日喜好に懲役2年の判決が下る。
ところがその後 母親里子と長男喜翰も共犯者であったことが判明。
里子は分家させられ、喜翰は逃げ回った。


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『木戸幸一日記』内務大臣※当時は宗秩寮総裁

*当時の総理大臣の年給は1万2000円

1933年7月17日
徳川喜好詐欺事件、里子夫人も関係せる等につき話があった。

1933年9月6日
《徳川喜好詐欺事件の件》
近藤政次を欺き、11万円を費消。
判決はありしも、近藤には一文も返らざるゆえ、共犯関係ありと目せらるる母親里子をさらに訴えんとす。

徳川喜翰男爵、親戚中を奔走しつつあり。
里子は既に分家せり。
喜好も同様。

1934年2月13日
徳川喜翰男爵に喜好氏の詐欺の件につき解決を勧む。

1934年2月15日
近藤政次氏来庁。
徳川喜好氏の詐欺事件につき陳情するところあり。
誠に不都合なる事件なり。

1934年4月2日
近藤政次氏来庁。
徳川喜好氏の詐欺事件なり。

1934年8月10日
玄洋社田中源造来庁、徳川喜好自殺の件につき話あり。
宗秩寮としての行動は不可なる旨を説明す。

1934年8月21日
玄洋社田中源造他3名来訪、徳川喜好の件につき談あり。
当方の立場を明瞭ならしむ。
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週刊文春 1972年
『徳川慶喜公曾孫 サギ将軍の人品骨柄 葵の紋のご威光も空しく156万円で御用のお粗末』

徳川慶喜の四男厚は父より早く1882年男爵を授けられ一家を創立した。
厚の三男喜好の一粒種が詐欺容疑で神奈川県警戸部署に逮捕された泰章である。
泰章は大学卒業後新聞社の広告局に入ったが不都合があって辞め、次の化粧品会社でも使い込みが発覚して勤まらず、ついには詐欺漢にまで転落した。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1952年3月7日
昭和天皇◆松平直鎮〔松平直鎮子爵〕は1~2年前だったか、朝融さん〔久邇宮朝融王〕と一緒に来て、何か神がかりの迷信のようなことを言うから反対したことがある。
〈北辰教〉のやり方は真に困る。
そういう邪教はどうしてできるか。
信仰の自由は困るねー。

1952年3月10日
田島長官◆久邇宮朝融王の事は、永積侍従からも入江侍従からも聞きましたような事をまた聞きまして、永積は松平直鎮子爵から朝融王の御書を取り戻したいような希望も申しておりましたが、とにかく朝融王が北辰神社に御関係なきことは絶対必要と思いましてお目にかかりました。
「今日は何のお叱りを受けますか」というような態度でおいででありましたが、話の筋はよくおわかりになりました。
「直鎮が私に来てくれと言い、風邪で行けないと言ったら、書いた物をと言うことでやったのだ」との話でありました。

1953年3月30日
田島長官◆松平直鎮子爵は今もどうも良くありませんようで経済上も良くなく、朝融王に御紹介して何かいいことでもあるのではないかと察されます。
昭和天皇◆松平直鎮は私の所にも変な神様に関して言ってきたが、私は皇室は神道以外はお断りするとはっきり断ったものだから、それきり来ないよ。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従

1954年8月19日〔北海道巡幸〕
久邇宮朝融王が松平直鎮子爵と本荘千代とかいう神がかりの女に囲まれてニセコに来られ御対面願いたいということなので、断然おやめ願うべきであると主張し、まず昭和皇后の同意を得て、続いて昭和陛下のお許しも得て、北海道庁を通じて断っておいたのに、またいらっしゃるとのこと。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長

1982年3月10日
昭和陛下より、元宮内庁長官田島道治が久邇宮朝融王・徳川喜好・松平直鎮の神がかりをとめてくれたときのいきさつは、東本願寺問題の参考になりはしないかとの仰せ。

1982年3月12日
久邇宮朝融王の神がかりを田島元長官が取りしずめたのを参考にして東本願寺が何とかなるまいかとの御上の仰せにつき徳川侍従次長と相談。
今度のとはまったく性質が違うし、内藤君が一生懸命やっているから、もうしばらく様子を御覧になっていただきたいと申し上げる。
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