■東京本邸 小石川区小日向第六天町 大地主
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◆13代 松平斉善 将軍徳川家斉の子・養子になる
1820-1838
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◆14代 松平春嶽/松平慶永 田安徳川斉匡の子・養子になる
1828-1890 61歳没
■妻 細川勇子 熊本藩主細川斉護の娘
1834-1887 53歳没
★側室 婦志
1855-1925 70歳没
※春嶽には複数の側室がいたが、育ったのは婦志の子供だけである。
●婦志の子 松平慶民 子爵松平慶民となる
●婦志の子 松平義親 侯爵徳川義親となる
●婦志の子 松平節子 16代当主松平康荘の妻
●婦志の子 松平里子 男爵徳川厚と結婚
●婦志の子 松平正子 男爵毛利五郎と結婚
●婦志の子 松平千代子 公爵三条公美と結婚
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は枢密顧問官
1921年9月30日
※宮内官僚小原駩吉の台詞
松平慶民子爵は福井松平春嶽の子にしてその家を継ぐべき者なるも、幼少なりしをもって松平康荘をしてこれを継がしめ慶民は康荘の養子となりおりたるも、民法施行の結果慶民は指定相続人のごとき形となり問題を生じたり。
慶民はイギリス留学中自ら相続人たる事を辞し、分家して特に子爵を授けられたるものなり。
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◆15代 松平茂昭 糸魚川藩主松平直春の子
1836-1890 53歳没
■1番目の妻 蜂須賀賀代子 徳島藩主蜂須賀斉裕の娘
■2番目の妻 久我幸子 公家久我建通の娘・死別
1878年没
■3番目の妻 広幡幾子 公家広橋胤保の娘
1858-1911
●男子 松平康荘 16代当主
●男子 松平春光 竹屋春光子爵となる
●男子 松平茂時 藤波茂時子爵となる
●女子 松平清子 鍋島直庸子爵と結婚
●女子 松平敬子 加藤泰通子爵と結婚
●女子 松平昭子 戸田康保子爵と結婚
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松平康昌侯爵 松平茂昭の孫
ある時、祖父は「分家から本家を継いで困るような事はありませんでしたか」と尋ねられたそうだ。
「一つだけある」と答えた。
「それは、今までは用を足して自分で始末をしていたけれども、本家を継いだら自分で始末をしてはいけないと言われた。これには困った」
子供の頃からそのように習慣づけられておればなんともないのでしょうが、相当の年齢に達してからそういう風にやらされるのでは困りましょうね。
三井物産の主役としてならした山本条太郎という人がいた。
山本さんのお父さんは私の家の会計の職務にあった。
私の父や母は旧家臣であっても、現在の社会的地位に応じた扱いをしていた。
けれども祖母は違っていた。
山本さんが祖母の部屋へ挨拶に行くと、祖母は山本さんを「太郎」と呼び捨てにする。
祖母にしてみれば、旧臣の息子でありその父は家の会計役をしている。
どんな出世をしたか知らないがとにかく旧臣である会計の息子なんだから、「太郎」と呼ぶ事になんの不自然さも感じないわけだ。
「私を太郎と呼ぶのは、三井の本家とあなただけですよ」と閉口しながら、山本さんが苦笑していたのを覚えている。
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宮武外骨『地獄耳』
山県伊三郎の娘なる竹屋スミコというのは松平春嶽の孫たる竹屋春光の女房だが、学習院女子部に在学中は学力劣等でとても卒業ができぬため、別科という名にして卒業させたものである。
ところがこのご亭主の竹屋春光も春嶽の血筋とはいいながら、学習院時代から有名なおめでたい方であった。
今度貴族院議員に当選したのも山県有朋が左右の者に「竹屋もああしておいては困る」と慨歎したのが、さっそく御意に協うようになったのだという。
低能児ぞろいの貴族院議員当選中、竹屋春光と大浦兼武子爵の息子兼一とが際立って目立つ大々的低能児だという。
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◆16代 松平康荘 15代茂昭の子
1867-1930 63歳没
■妻 松平節子 14代松平春嶽の娘
1876-1936
●長男 松平康昌 17代当主
●二男 松平康邦 伯爵広橋賢光の娘広橋寿子と結婚
●三男 松平康信 子爵大浦康信となる
●男子 松平康亀 西邑清長の娘西邑恒子と結婚
●男子 松平康忠 梅原逸太郎の娘梅原綾子と結婚
●長女 松平鋹子 財閥三井高公男爵と結婚
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◆17代 松平康昌 16代康荘の子
1893-1957 63歳没
*昭和32年松平康昌が死んだ時、相続税のため福井城の堀と石垣を手放した。
■妻 徳川綾子 公爵徳川家達の娘
1897-1976
*身長172センチ、スタイルの良い美人として有名であった。
●長男 松平康愛 公爵徳川慶久の娘徳川久美子結婚・死別後久美子は井手次郎と再婚→娘智子に婿養子を迎え18代当主とする
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『木戸幸一日記』内大臣※当時は内務大臣
1939年9月11日
朝香宮邸に伺候、朝香宮殿下に拝謁。
湛宮様御縁談、松平康昌侯爵令息松平康愛につき、御直に斡旋すべきむね御依頼あり。
1939年9月15日
松平康昌侯爵を訪い、湛宮様御縁談につき朝香宮殿下の思召を伝え、考慮を求む。
1939年10月23日
森田別当に面会。
湛宮様御縁談に関する松平侯爵の回答を伝え、将来のことを相談す。
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『高松宮日記』
1941年7月18日
松平家より久美子縁談のこと〔松平康昌侯爵の子松平康愛&高松宮喜久子妃の妹徳川久美子〕正式に申込あり。
宮内大臣松平恒雄夫妻仲立ちにて心労す。
1947年4月1日
※徳川久美子が松平康愛と死別した後
池田徳真、高山英華同伴。
東京帝大第二工学部教授なり。
実は久美子のお婿様にどうだという多恵ちゃん〔北白川宮多恵子女王・徳川圀禎の妻〕の考えなり。
1947年8月24日
久美子、喜久子に話した様子は、やはり杉山〔レストラン〈レバンテ〉支配人杉山万吉〕に想いあり。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官
1951年12月20日
田島長官◆元来首相吉田茂は松平康昌をはじめ式部官後藤鎰尾・式部官黒田実みな好きませぬ様子。
昭和天皇◆吉田はどうしてそんなに松平康昌が嫌なのだろう。
元首相芦田均が松平を非常に褒めてたが、そのためかしら。
松平は重宝で宮内庁にいた方が良い。
田島長官◆田島拝命の際〔元宮内大臣〕牧野伸顕より注意ありました一項に、松平は引き続き使う方が宮内庁のためによろしいとの話で、辞めたいという話が出て〔元大蔵大臣〕池田成彬が心配してくれて、大磯の池田の家に松平を呼び、
『新長官は一緒にやって行くつもりだが辞めたいのか』と聞いたところ、
『新官庁は本当に私を式部官長としておくでしょうか』と問いました由。
池田が『その事は保証する』と申してはじめて落ち着きました次第であります。
疑い深いのにちょっと驚きました。
1951年12月25日
田島長官◆先般吉田が『原田日記』の読後感を申しました際、
『木戸や松平康昌が君側に侍してたのでは心細い』とハッキリ申しましたのでありますが、果たしてどの程度の意味か分かりませぬ。
現実のこととして木戸は巣鴨でありますし、松平についてはかねて敬意を表せぬこともあり、何か落ち度のあるとき吉田から何か申して来るのではないかと思いますだけで。
昭和天皇◆吉田は非常に良い人だが、人物を見る点どうかと思う。
真崎甚三郎をいいと思ってるし。
1952年2月25日
昭和天皇◆高松宮妃も言っておられたし、盛厚さん〔東久邇宮盛厚王〕も言ってたが、式部官長松平康昌がイギリス大使とかいうような説があるのか。
田島長官◆高松宮妃は松平を高く御評価ですし、盛厚王も松平が宗秩寮総裁の時、新木問題で田島と話が合わぬとき松平を訪ねられたような訳でお近いと存じますから、まあごヒイキがありますし、外人例えばシーボルトなども極秘でアメリカ行き大使は誰がいいと相談するほど親密で、外人には努めますから好評で一部そういう噂もありましょうが、可能性はあまりあるとも存じません。
吉田が松平を好きませず、式部官長でさえ気に入らぬくらいに見えますから。
昭和天皇◆盛厚さんは元内大臣木戸幸一の関係もあって。
田島長官◆田島も公私を判然いたしますればいろいろの長所はありまするが、松平は親密な場合には少し相手に甘くなる場合が起きる恐れがあるかと思います。
田島などは友人や親しい者には一層つらく考えるように心がけておりますが。
いつか拝謁の問題でありましたが、同一の条件の二つの場合に、一つは頼み込まれてYESとなり、普通の場合は原則どおりNOと言うようなこともあったかと思います。
いずれにしましても吉田が外務大臣である以上、可能性はありませぬかと存じます。
それに何と申しましても大大名の華族さんで、我々平民とは違う所もあります。
1953年4月24日
田島長官◆アメリカ人2名本日急に拝謁願いたいとのことで、式部官長松平康昌もその意見のようでありましたが断りました。
昭和天皇◆朝融さん〔久邇宮朝融王〕もそうで、断りはイヤだからになる。
田島長官◆松平康昌もどうも個人的な問題にも頼まれてイヤと言い切れず、かえって後で困ることもあるようで、内大臣府にいた子供の母もろともに家を貸し、今ちょっと手こずっておりますようであります。
少し意志の弱いと申しますか頼りない点がありますのが、吉田が松平康昌をよく評価せぬ理由かと存じます。
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松平綾子夫人
木戸さんが絞首刑になられるようだと昭和陛下に響くとかいうので、大変だったらしゅうざんすね。
それで極東裁判は大みそかまであって元旦だけが休みだったんですかねえ。
それで東条さんの言われたことがどうとかで、それを東条さんにうまく弁明していただくように、1月2日からまた始まるんで、それまでの間に打ち合わせなきゃいけないとかそんなことがあったらしいんですね。
それで田中隆吉さんという方がいらっしゃいましたね、元旦の朝、2時だか3時頃にうちの塀を乗り越えて訪ねて来られて、来てくれとかって。
それで暗いうちに出て行ったことを覚えているざんすよ。
そしてそれは具合よく済んだらしいざんすけどね。
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徳川久美子→松平久美子→井出久美子 徳川慶久公爵の娘・松平康愛の妻
初めて康愛にお会いしたのは、姉と一緒にクライスラーに乗せられ千駄ヶ谷の松平家に出かけた日です。
お庭でテニスをしました。
テニスがとてもお上手で、なんて素敵な方だろうと思った記憶があります。
6歳年上の主人は成城高校時代だからアイスホッケーの選手をしていました。
東京大学農学部卒業後は日本郵船に勤めておりました。
父がロンドンに留学していた関係で英国紳士の振る舞いが身についていたのか、いつでもピシッとしていてとてもダンディーな方でした。
ヨーロッパにずいぶん長く行っていたようで、語学も堪能でした。
主人が入隊してしまいに新妻が一人暮らしをするのもいかがなものかということで、原宿の家を引き払い千駄ヶ谷の松平家で義父母と同居することになりました。
一緒に暮らし始めてみると、姑との関係などなかなか難しいものがありました。
主人のいる久里浜で一緒に暮らしたいとも願い出ましたが、姑は久里浜は方角が悪いと言い行かせてはもらませんでした。
主人が帰ってくるのは月に2~3度です。
その上で義父母は早く子供を作れと急かしました。
姑綾子は同じ徳川家からお嫁に来ていましたが優しく接してはもらえず、なかなか良い関係が築けませんでした。
ちょっと見ないぐらいに素敵な息子だったから仕方がなかったのかもしれませんね。
可愛い息子を取られたという感じだったのでしょうか。
姑はペルシャ猫を飼っていたのですが、猫好きの私になぜかなかなか懐いてくれませんでした。
姑が私のことを嫌っているということを猫はわかっていたのでしょう。
姑は麻雀が大好きで、メンバーが足りないからすぐに来てと呼び出され自転車で代々木まで行ったことも幾度もありました。
そうしたわけで、今でもペルシャ猫と麻雀は好きになれません。
主人の実家の千駄ヶ谷に戻ってからも、戦死したとも復員するともはっきりしない状況で義父母と同居を続けるのは胸が締めつけられるような日々でした。
救いは日増しに成長する娘智子だけです。
ただしそれは義父母も同様で、義母と智子を奪い合うような毎日でした。
主人の戦死広報が来たのは終戦の翌年のことでした。
やがて私がまだ若かったこともあり、本人にまったくその気がないにも関わらず、周囲が私の再婚に向けて動き始めました。
私はもしやという一縷の望みを持ち続けていました。
戦死したはずの方がひょっこり復員してきて、家族が飛び上がって喜んだというような話があったのです。
そのうちの一人が、主人の成城時代の親友井出次郎氏です。
二人はアイスホッケー部の仲間でもあり、スポーツマンらしいさっぱりした性格もお互いに気に入っていたようでした。
縁とは不思議なもので、命からがら帰国した井出氏と戦争未亡人の私の再婚話が持ち上がりました。
思いもよらない展開とはいえ、周りに勧められる男性よりはこの人の方が好ましいという感情が心のどこかにありました。
不思議な巡り合わせで繋がる縁がある一方で、つらい別れも訪れました。
それは夢にも思わぬ、娘智子との別れでした。
松平家にとって主人は一人息子で、その血を引くのは智子しかいませんでした。
しぶる私を徳川家と松平家で説得し、智子は松平家に残り私だけが離籍することになりました。
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■18代 松平宗紀 徳川達成伯爵の子・婿養子になる
1940年生
■妻 徳川智子 17代松平康昌の孫/徳川康愛の娘
1944年生
●長男
●二男
●長女
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◆13代 松平斉善 将軍徳川家斉の子・養子になる
1820-1838
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◆14代 松平春嶽/松平慶永 田安徳川斉匡の子・養子になる
1828-1890 61歳没
■妻 細川勇子 熊本藩主細川斉護の娘
1834-1887 53歳没
★側室 婦志
1855-1925 70歳没
※春嶽には複数の側室がいたが、育ったのは婦志の子供だけである。
●婦志の子 松平慶民 子爵松平慶民となる
●婦志の子 松平義親 侯爵徳川義親となる
●婦志の子 松平節子 16代当主松平康荘の妻
●婦志の子 松平里子 男爵徳川厚と結婚
●婦志の子 松平正子 男爵毛利五郎と結婚
●婦志の子 松平千代子 公爵三条公美と結婚
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は枢密顧問官
1921年9月30日
※宮内官僚小原駩吉の台詞
松平慶民子爵は福井松平春嶽の子にしてその家を継ぐべき者なるも、幼少なりしをもって松平康荘をしてこれを継がしめ慶民は康荘の養子となりおりたるも、民法施行の結果慶民は指定相続人のごとき形となり問題を生じたり。
慶民はイギリス留学中自ら相続人たる事を辞し、分家して特に子爵を授けられたるものなり。
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◆15代 松平茂昭 糸魚川藩主松平直春の子
1836-1890 53歳没
■1番目の妻 蜂須賀賀代子 徳島藩主蜂須賀斉裕の娘
■2番目の妻 久我幸子 公家久我建通の娘・死別
1878年没
■3番目の妻 広幡幾子 公家広橋胤保の娘
1858-1911
●男子 松平康荘 16代当主
●男子 松平春光 竹屋春光子爵となる
●男子 松平茂時 藤波茂時子爵となる
●女子 松平清子 鍋島直庸子爵と結婚
●女子 松平敬子 加藤泰通子爵と結婚
●女子 松平昭子 戸田康保子爵と結婚
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松平康昌侯爵 松平茂昭の孫
ある時、祖父は「分家から本家を継いで困るような事はありませんでしたか」と尋ねられたそうだ。
「一つだけある」と答えた。
「それは、今までは用を足して自分で始末をしていたけれども、本家を継いだら自分で始末をしてはいけないと言われた。これには困った」
子供の頃からそのように習慣づけられておればなんともないのでしょうが、相当の年齢に達してからそういう風にやらされるのでは困りましょうね。
三井物産の主役としてならした山本条太郎という人がいた。
山本さんのお父さんは私の家の会計の職務にあった。
私の父や母は旧家臣であっても、現在の社会的地位に応じた扱いをしていた。
けれども祖母は違っていた。
山本さんが祖母の部屋へ挨拶に行くと、祖母は山本さんを「太郎」と呼び捨てにする。
祖母にしてみれば、旧臣の息子でありその父は家の会計役をしている。
どんな出世をしたか知らないがとにかく旧臣である会計の息子なんだから、「太郎」と呼ぶ事になんの不自然さも感じないわけだ。
「私を太郎と呼ぶのは、三井の本家とあなただけですよ」と閉口しながら、山本さんが苦笑していたのを覚えている。
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宮武外骨『地獄耳』
山県伊三郎の娘なる竹屋スミコというのは松平春嶽の孫たる竹屋春光の女房だが、学習院女子部に在学中は学力劣等でとても卒業ができぬため、別科という名にして卒業させたものである。
ところがこのご亭主の竹屋春光も春嶽の血筋とはいいながら、学習院時代から有名なおめでたい方であった。
今度貴族院議員に当選したのも山県有朋が左右の者に「竹屋もああしておいては困る」と慨歎したのが、さっそく御意に協うようになったのだという。
低能児ぞろいの貴族院議員当選中、竹屋春光と大浦兼武子爵の息子兼一とが際立って目立つ大々的低能児だという。
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◆16代 松平康荘 15代茂昭の子
1867-1930 63歳没
■妻 松平節子 14代松平春嶽の娘
1876-1936
●長男 松平康昌 17代当主
●二男 松平康邦 伯爵広橋賢光の娘広橋寿子と結婚
●三男 松平康信 子爵大浦康信となる
●男子 松平康亀 西邑清長の娘西邑恒子と結婚
●男子 松平康忠 梅原逸太郎の娘梅原綾子と結婚
●長女 松平鋹子 財閥三井高公男爵と結婚
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◆17代 松平康昌 16代康荘の子
1893-1957 63歳没
*昭和32年松平康昌が死んだ時、相続税のため福井城の堀と石垣を手放した。
■妻 徳川綾子 公爵徳川家達の娘
1897-1976
*身長172センチ、スタイルの良い美人として有名であった。
●長男 松平康愛 公爵徳川慶久の娘徳川久美子結婚・死別後久美子は井手次郎と再婚→娘智子に婿養子を迎え18代当主とする
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『木戸幸一日記』内大臣※当時は内務大臣
1939年9月11日
朝香宮邸に伺候、朝香宮殿下に拝謁。
湛宮様御縁談、松平康昌侯爵令息松平康愛につき、御直に斡旋すべきむね御依頼あり。
1939年9月15日
松平康昌侯爵を訪い、湛宮様御縁談につき朝香宮殿下の思召を伝え、考慮を求む。
1939年10月23日
森田別当に面会。
湛宮様御縁談に関する松平侯爵の回答を伝え、将来のことを相談す。
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『高松宮日記』
1941年7月18日
松平家より久美子縁談のこと〔松平康昌侯爵の子松平康愛&高松宮喜久子妃の妹徳川久美子〕正式に申込あり。
宮内大臣松平恒雄夫妻仲立ちにて心労す。
1947年4月1日
※徳川久美子が松平康愛と死別した後
池田徳真、高山英華同伴。
東京帝大第二工学部教授なり。
実は久美子のお婿様にどうだという多恵ちゃん〔北白川宮多恵子女王・徳川圀禎の妻〕の考えなり。
1947年8月24日
久美子、喜久子に話した様子は、やはり杉山〔レストラン〈レバンテ〉支配人杉山万吉〕に想いあり。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官
1951年12月20日
田島長官◆元来首相吉田茂は松平康昌をはじめ式部官後藤鎰尾・式部官黒田実みな好きませぬ様子。
昭和天皇◆吉田はどうしてそんなに松平康昌が嫌なのだろう。
元首相芦田均が松平を非常に褒めてたが、そのためかしら。
松平は重宝で宮内庁にいた方が良い。
田島長官◆田島拝命の際〔元宮内大臣〕牧野伸顕より注意ありました一項に、松平は引き続き使う方が宮内庁のためによろしいとの話で、辞めたいという話が出て〔元大蔵大臣〕池田成彬が心配してくれて、大磯の池田の家に松平を呼び、
『新長官は一緒にやって行くつもりだが辞めたいのか』と聞いたところ、
『新官庁は本当に私を式部官長としておくでしょうか』と問いました由。
池田が『その事は保証する』と申してはじめて落ち着きました次第であります。
疑い深いのにちょっと驚きました。
1951年12月25日
田島長官◆先般吉田が『原田日記』の読後感を申しました際、
『木戸や松平康昌が君側に侍してたのでは心細い』とハッキリ申しましたのでありますが、果たしてどの程度の意味か分かりませぬ。
現実のこととして木戸は巣鴨でありますし、松平についてはかねて敬意を表せぬこともあり、何か落ち度のあるとき吉田から何か申して来るのではないかと思いますだけで。
昭和天皇◆吉田は非常に良い人だが、人物を見る点どうかと思う。
真崎甚三郎をいいと思ってるし。
1952年2月25日
昭和天皇◆高松宮妃も言っておられたし、盛厚さん〔東久邇宮盛厚王〕も言ってたが、式部官長松平康昌がイギリス大使とかいうような説があるのか。
田島長官◆高松宮妃は松平を高く御評価ですし、盛厚王も松平が宗秩寮総裁の時、新木問題で田島と話が合わぬとき松平を訪ねられたような訳でお近いと存じますから、まあごヒイキがありますし、外人例えばシーボルトなども極秘でアメリカ行き大使は誰がいいと相談するほど親密で、外人には努めますから好評で一部そういう噂もありましょうが、可能性はあまりあるとも存じません。
吉田が松平を好きませず、式部官長でさえ気に入らぬくらいに見えますから。
昭和天皇◆盛厚さんは元内大臣木戸幸一の関係もあって。
田島長官◆田島も公私を判然いたしますればいろいろの長所はありまするが、松平は親密な場合には少し相手に甘くなる場合が起きる恐れがあるかと思います。
田島などは友人や親しい者には一層つらく考えるように心がけておりますが。
いつか拝謁の問題でありましたが、同一の条件の二つの場合に、一つは頼み込まれてYESとなり、普通の場合は原則どおりNOと言うようなこともあったかと思います。
いずれにしましても吉田が外務大臣である以上、可能性はありませぬかと存じます。
それに何と申しましても大大名の華族さんで、我々平民とは違う所もあります。
1953年4月24日
田島長官◆アメリカ人2名本日急に拝謁願いたいとのことで、式部官長松平康昌もその意見のようでありましたが断りました。
昭和天皇◆朝融さん〔久邇宮朝融王〕もそうで、断りはイヤだからになる。
田島長官◆松平康昌もどうも個人的な問題にも頼まれてイヤと言い切れず、かえって後で困ることもあるようで、内大臣府にいた子供の母もろともに家を貸し、今ちょっと手こずっておりますようであります。
少し意志の弱いと申しますか頼りない点がありますのが、吉田が松平康昌をよく評価せぬ理由かと存じます。
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松平綾子夫人
木戸さんが絞首刑になられるようだと昭和陛下に響くとかいうので、大変だったらしゅうざんすね。
それで極東裁判は大みそかまであって元旦だけが休みだったんですかねえ。
それで東条さんの言われたことがどうとかで、それを東条さんにうまく弁明していただくように、1月2日からまた始まるんで、それまでの間に打ち合わせなきゃいけないとかそんなことがあったらしいんですね。
それで田中隆吉さんという方がいらっしゃいましたね、元旦の朝、2時だか3時頃にうちの塀を乗り越えて訪ねて来られて、来てくれとかって。
それで暗いうちに出て行ったことを覚えているざんすよ。
そしてそれは具合よく済んだらしいざんすけどね。
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徳川久美子→松平久美子→井出久美子 徳川慶久公爵の娘・松平康愛の妻
初めて康愛にお会いしたのは、姉と一緒にクライスラーに乗せられ千駄ヶ谷の松平家に出かけた日です。
お庭でテニスをしました。
テニスがとてもお上手で、なんて素敵な方だろうと思った記憶があります。
6歳年上の主人は成城高校時代だからアイスホッケーの選手をしていました。
東京大学農学部卒業後は日本郵船に勤めておりました。
父がロンドンに留学していた関係で英国紳士の振る舞いが身についていたのか、いつでもピシッとしていてとてもダンディーな方でした。
ヨーロッパにずいぶん長く行っていたようで、語学も堪能でした。
主人が入隊してしまいに新妻が一人暮らしをするのもいかがなものかということで、原宿の家を引き払い千駄ヶ谷の松平家で義父母と同居することになりました。
一緒に暮らし始めてみると、姑との関係などなかなか難しいものがありました。
主人のいる久里浜で一緒に暮らしたいとも願い出ましたが、姑は久里浜は方角が悪いと言い行かせてはもらませんでした。
主人が帰ってくるのは月に2~3度です。
その上で義父母は早く子供を作れと急かしました。
姑綾子は同じ徳川家からお嫁に来ていましたが優しく接してはもらえず、なかなか良い関係が築けませんでした。
ちょっと見ないぐらいに素敵な息子だったから仕方がなかったのかもしれませんね。
可愛い息子を取られたという感じだったのでしょうか。
姑はペルシャ猫を飼っていたのですが、猫好きの私になぜかなかなか懐いてくれませんでした。
姑が私のことを嫌っているということを猫はわかっていたのでしょう。
姑は麻雀が大好きで、メンバーが足りないからすぐに来てと呼び出され自転車で代々木まで行ったことも幾度もありました。
そうしたわけで、今でもペルシャ猫と麻雀は好きになれません。
主人の実家の千駄ヶ谷に戻ってからも、戦死したとも復員するともはっきりしない状況で義父母と同居を続けるのは胸が締めつけられるような日々でした。
救いは日増しに成長する娘智子だけです。
ただしそれは義父母も同様で、義母と智子を奪い合うような毎日でした。
主人の戦死広報が来たのは終戦の翌年のことでした。
やがて私がまだ若かったこともあり、本人にまったくその気がないにも関わらず、周囲が私の再婚に向けて動き始めました。
私はもしやという一縷の望みを持ち続けていました。
戦死したはずの方がひょっこり復員してきて、家族が飛び上がって喜んだというような話があったのです。
そのうちの一人が、主人の成城時代の親友井出次郎氏です。
二人はアイスホッケー部の仲間でもあり、スポーツマンらしいさっぱりした性格もお互いに気に入っていたようでした。
縁とは不思議なもので、命からがら帰国した井出氏と戦争未亡人の私の再婚話が持ち上がりました。
思いもよらない展開とはいえ、周りに勧められる男性よりはこの人の方が好ましいという感情が心のどこかにありました。
不思議な巡り合わせで繋がる縁がある一方で、つらい別れも訪れました。
それは夢にも思わぬ、娘智子との別れでした。
松平家にとって主人は一人息子で、その血を引くのは智子しかいませんでした。
しぶる私を徳川家と松平家で説得し、智子は松平家に残り私だけが離籍することになりました。
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■18代 松平宗紀 徳川達成伯爵の子・婿養子になる
1940年生
■妻 徳川智子 17代松平康昌の孫/徳川康愛の娘
1944年生
●長男
●二男
●長女