直球和館

2025年

2012/04

◆11代 大河内信古 鯖江藩主間部詮勝の子・婿養子になる 最後の藩主 松平から大河内に改姓
1829-1888 59歳没

1879年 52歳
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■前妻 松平房子  8代松平信順の娘
1860年没


■後妻 溝口鋹子  新発田藩主溝口直溥の娘・福山藩主阿部正教と結婚・大河内信古と再婚
1841-1917


●男子 大河内信好 12代当主
●女子 大河内一子 婿養子を迎え13代当主とする


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◆12代 大河内信好 11代信古の子
1864-1907 43歳没


■妻  牧野美能子 田辺藩主牧野誠成の娘
1867-1933 


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◆13代 大河内正敏 子爵大河内正質の子・婿養子になる
1878-1952 73歳没

1142(1)





■妻  大河内一子 12代信古の娘
1876-1942


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大河内正敏の子 磯野信威の証言

家庭では良いお祖父さんである。
ことに2番目の弟の7歳になる長女の桃子が大のお気に入りで、大変な可愛がりようである。
新橋あたりで恋人だと言って桃子の写真を見せて歩いている。
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●長男 大河内信威 女優山崎しづ江と獄中結婚・離婚・磯野信威となる
●二男 大河内信敬→娘は女優河内桃子
●三男 大河内信定 14代当主
●四男 大河内信秀


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信威は、山名義路男爵の嫡男山名義鶴・黒田善治男爵の嫡男山名孝雄と共に
共産党の影響を強く受けた東京大学新人会のメンバーで、赤化華族と呼ばれた。
父親から廃嫡されるが、実業家・評論家として活躍した。
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★女優 河内桃子 大河内信敬の娘
1932-1988 66歳没

*夫は今治久松定秋子爵の子でテレビプロデューサーの久松定隆



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◆14代 大河内信定 13代正敏の子
1912-1984


■妻  都築千代子 都築伊七の娘
1923年生


●長男
●二男
●長女

東京本邸 浅草区今戸町(現:台東区今戸)
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◆10代 松平輝聴  大多喜藩主松平正敬の子・養子になる
1827-1860 33歳没


■妻  堀田万子   佐倉藩主堀田正睦の娘
1831-1888 57歳没


●長男 大河内輝声  11代当主
●二男 大河内輝剛

●女子 大河内ミチコ 子爵松平乗承と結婚
●女子 大河内光子  土浦藩主土屋挙直と結婚
●女子 大河内淑子  伯爵前田利同と結婚
●女子 大河内銑子  子爵高木正善と結婚


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◆11代 大河内輝声 10代輝聴の子 最後の藩主 松平から大河内に改姓
1848-1882 34歳没


■前妻 不明    庄内藩主酒井忠発の娘


■後妻 杉原フキ


●長男 大河内輝耕 12代当主
●四男 大河内輝耡 伯爵戸田氏秀となる
●男子 大河内光孝

●女子 大河内恭子 侯爵浅野長之と結婚
●女子 大河内桂子 子爵内藤頼輔と結婚


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◆12代 大河内輝耕 11代輝声の子
1880-1955 75歳没


■妻  徳川国子  将軍徳川慶喜の娘
1882-1942 60歳没

*長年、歌人川田順と不倫関係にあった


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佐々木高行『かざしの桜』明治天皇の娘昌子内親王・房子内親王の御養育係

*徳川国子は大正天皇のお妃候補になったことがあった

1899年1月
※下田歌子の発言
久邇宮純子女王はとても明治陛下に難しきことならん。
なにぶん久邇宮との御間柄は御事情あり、お聞き届けはあるまじくと考えられ候。
一条経子はよろしからず、残るは徳川か。
しかるに見栄えこれ無し。
もっとも徳川国子は身体丈夫、生質もよろしく、発明なれば、見栄えはともかくしかるべしか。

1899年1月21日
※佐々木と前宮内大臣土方久元の会話

土方◆華族女学校長へも相談し、久邇宮純子女王はいかがと尋ねたるに、何も申し上げ候御義はこれ無しと。一条経子はいかがかと、一条は教育一同においてもしかるべからずとの答えありたる。
佐々木◆久邇宮純子女王は御病症もあらせられず候らえども、いかにも御体裁よろしからず太子妃には御不相応かと。そのなか徳川慶喜の娘国子は生質はいたってよろしく、発明の趣き、下田らよりも承り。しかし至って丈低く、甚だお見立て無しとのことなり。
土方◆御同感なり。

1899年4月8日
※前宮内大臣土方久元の発言

徳川慶喜娘国子は人物よろしき趣きにつき、先日大山巌らと学校へ模様を見に行きたり。なにぶん体格至少にていかがかと考えたれども、人物よろしき趣きにつき、なお体質を検査致せさせ方、これは禎子女王〔大正天皇の婚約者に内定していたが、肺病の疑いありとして取消となる〕より一層悪しきと申すことにて致し方なく取り消したり。
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川田順 歌人

〔大河内国子との不倫について〕諸方から面白半分の文章を書くようになったら大変だ。
むしろ先手を打って僕みずから事実を告白する方が安全だと考えた。
いっそのこと自分で書いた方が誤伝がなくてよろしいと決心した次第である。
僕は彼女が新婚の時〔国子は明治34年結婚〕から知っていた。
国子は僕の妹みか子を訪ねて牛込の宅に見えた。
彼女らは学友だがクラスは1年違った。
僕と同じ年の国子は徳川家の女性で、以前から僕の歌のファンであった。
むろんそれっきりで何の交渉もなかった。

明治39年正月、僕は七里ヶ浜を前にした腰越に避寒した。
ある日突然国子が姪の蜂須賀年子さんを連れて訪問した。
15代将軍様の姫君にしては軽率だと僕は驚いた。
「東京なら知らず、どうしてこんな所まで?」
「大磯の別荘で年を越しましたの。こちらにおいでのことをみか子さんから承りましたので」
貴族というものは生まれつきの傍若無人で人を恐れることを知らないのだと僕は驚いた。
以来時々葉書のやりとりをし両三度会ったけれども、僕はいつも感情を押し殺して彼女を刺激しないように努力した。

同明治39年の4月、華族会館である大きな会合が催された。
森鴎外先生の講演が済むと、いささかビールの酔いの回った僕は庭に出た。
余興が始まるというので大広間に戻ると、次は国子のヴァイオリン独奏だ。
控室にいた彼女は弓の糸のほつれたのを、「早く切ってちょうだい」と僕に言った。
僕はそれを引きちぎりながら彼女について大広間へ急いだ。
彼女は薄水色の袂をひるがえして華やかに一曲を奏した。
この日僕は押し殺してきた感情をもはや抑えきれなくなった。
「赤坂見附に僕の知っている静かな家がありますが、そこで晩餐を一緒にして下さいませんか?」
「これからですか?それは駄目よ。裾模様で外を歩かれないじゃありませんか」
翌朝彼女からの電話で、
「今日三田の姉〔蜂須賀筆子〕のところへ参りますから、11時頃赤坂見附の並木の下でお待ち下さい」

「昨晩は夜通し眠れませんでした。あなたもそうでしょう。よく眠れたようなあなたでしたら、わたくしここから帰るわ」
「蜂須賀さんへは何時までにおいでになったらいいんです?」
「2時頃」
二人だけで会うことは彼女の境涯上容易でなく、月に一度がせいぜいであった。
稀には国子が牛込の宅にも見えた。
「順ちゃん、千姫様からお電話ですよ」と兄嫁が僕をよくからかった。
「お義姉さん、これをあなたご自身で風呂にくべて下さい」と歌日誌を渡した。
「焼きながら読みました。大変なご執心で、これでは手がつけられないと思いました」と兄嫁は微笑した。

同明治39年の暮れも僕は腰越に避寒し、国子は大磯の別荘にいた。
大晦日に彼女は老女をお供にして来訪した。
江の島の弁財天にお詣りしたが、昼時に食事をしようと言うと老女は国子に
「御遠慮あそばす方がよろしゅうございましょう」と言った。

明けた明治40年正月、「おいで下さいませんか」と葉書が来たので出かけた。
夕食後国子が海岸を歩きましょうと言うと、
老女が「こんな寒い暗い晩に、おやめになりましたら」
「いいのよ。お月様を見ようと言うのじゃないもの」
彼女はずんずん先に立って出るので僕も老女もついて出た。
老女の名はシマである。
シマは幕府瓦解の時慶喜公に従って静岡へ移った忠実な侍女だ。

同明治40年3月、彼女は修善寺温泉からほとんど毎日のように便りしてきた。
「ぜひおいで下さい」とのことなので、
1週間ばかりしてやっと決心し修善寺を訪ねると「一昨日お帰りになりました」
その後で苦情を述べると、
「あなたがお悪いんです。ずいぶんお待たせになったから、帰る日が来てしまったのです。おいで下さいと申し上げたら、すぐおいでになるものですよ」
この言いぐさは命令しているように聞こえて僕は不愉快になった。
彼女に対して僕の唯一の不満は、彼女が生まれた身分を時として無意識の間に示すことであった。

貴族の国子は天真爛漫さおのずから身につけていた。
彼女は遠慮せず、時々大きな声で泣いた。
大学の卒業試験が済んでほっとした頃のことである。
向島の百花園の帰り道僕らはその近所の家でしばらく休息した。
さて何が悲しかったのか、突然国子は大きな声で泣き出した。
僕はびっくりし茫然とした。
「お屋敷ではございません。ここはよそでございますよ」とシマがたしなめた。
シマが僕らを促したので一足先に門を出た。
後から追いついたシマは、「お行儀がよろしゅうございません」と再び国子をたしなめた。

同明治40年夏、大学を卒業した僕はどこにでも就職できる成績だったが、国子の危険から遠ざかるために大阪を選んで赴任した。
ところが翌明治41年4月彼女は周囲の人々の思惑もはばからず、有馬温泉への湯治の道すがら大阪に下車し、シマ一人をお供にしてむさくるしい下宿に僕を訪ねてきた。
シマは遠慮しておかみさんの部屋へ下がって行った。
中之島の花屋旅館に1週間泊まった国子は、公園の藤棚の花が散りつくしたころ有馬へと去った。

国子は兵衛に、僕は御所ノ坊に宿を取った。
国子と鼓ヶ滝を一見して山道を下りてくると、谷の岸で待っていたシマが、
「お二方が川を流れてきたら、シマも申し訳にすぐ飛び込む覚悟をしておりました」と悲痛な顔をした。
僕はぞっとしたが国子は平気だった。
夜分9時頃になると僕は必ず宿へ帰った。
「御遠慮には及びませんよ。わたくしがお供していることですし、この旅館は広くて離れた部屋がいくつもございますから」とシマは言ってくれたが、同宿するほどあつかましい男ではなかった。
帰京した国子は関西での一部始終を弟の慶久さんに話した。
「お姉様は桂昌院〔5代将軍の生母〕のことを御存知ですか?良し悪しに関わらず、結局女が悪名を背負うものですよ」と戒めたそうだ。

同明治41年7月慶久さんから招かれて大阪から箱根の奈良屋に向かった。
容姿端麗の彼は夏羽織を着ていたが、羽織の紐の環は葵の打物でそれが大変上品に見えた。
彼はこの恋愛を断念せよとまでは言わなかった。
当時彼も女の問題で悩んでいた。
侍女の一人と相愛していたが、とうてい遂げられぬ仲とあきらめて侍女が郷里へ帰ったのはつい半年前のことである。
「鶯が鳴いています。有馬でもたくさん鳴いたそうですね。姉から何もかも聞きました。まさか夫婦にはなれないのだから、お二人は結局悲恋に終わるでしょう。それでいいじゃありませんか。どうぞ、心と心で」と忠告してくれた。
(明治41年11月慶久は有栖川宮威仁親王の娘実枝子女王と結婚する)

同明治41年秋僕らは不忍池のほとりを歩き弁天堂の前に来た。
「慶久が何か申しましたか?」
「いいえ、何も」
「なぜお隠しになるのです。慶久から聞きました。夫婦には到底なれないって申しましたでしょう」
「そうでした」
「夫婦になれなかったら、あなたはどうなさるつもり?」
百花園の時のように声を出して泣かれたら困るので僕は立ち上がった。
「忘れ物しました」
「何を?」
「パラソル」
「取ってきてあげましょう」
「そんなものどうでもいいの」と彼女はすたすた歩いた。
国子は既婚の座から下りてこられない。
下りてきても勅許を要するから夫婦にはなれない。
「御夫婦にはなれませんよ」僕はこの苦悶を隠しながら、国子と会うのをやめなかった。
僕はその後も隔月には上京した。

明治42年芝の増上寺〔徳川家霊廟があった〕が炎上し、新聞で知った僕は驚いて国子へ見舞状を出した。
彼女の返事は案外さっぱりしたもので、
「焼けたものはしょうがないではありませんか。それよりもなぜあなたは、この春寒にわたくしが風邪を引いていないかと心配して下さらないのです?」と書いて寄こした。
先祖の廟所が焼けようが焼けまいが、彼女にはたいした関心事ではないらしい。
あきらめねばならぬ時が迫ってきたと思った。
けれども国子の考えは僕とまったく違っていた。

同明治42年上京して隅田川の岸の国子の邸を訪れ、
「互いに破滅を避けねばなりません。あなたは外国へ行って下さいませんか」と感情を押し殺して勝手な一言を吐いた。
国子は黙ったままで涙をぬぐった。
10日ほど経ってから手紙が来た。
「わたくしは外国へは参りません。あなたは残酷です。わたくしが虚弱で、時々病気をすることをよく御存知ではありませんか。どうしても破滅するとお思いでしたら、男子のあなたが洋行なさったらいいではありませんか。わたくしはあなたの身体をあきらめます。それよりも大切なことがあります。あなたの恋愛はわたしくのより不純です。わたくしに外国へ行けとおっしゃるのは、身体のことを恐れていらっしゃるのでしょう。身体は千里万里離れても、心は離れませんよ。そしたら同じことではありませんか。御記憶下さい。わたくしは離れませんよ。一生離れません」

明治43年僕は京都で結婚した。
翌明治44年についに国子は主人のいるロンドンへ発った。
発つ日を知らせてきたので、神戸港の税関ランチででドイツ船に乗る彼女を人知れず見送った。
彼女はロンドンで病気し、いくばくもせずして帰国した。
それからすぐに入院した。
元来繊弱の生まれつきの彼女は、その後もとかく病と親しんだらしい。

14年余りを経て大正13年、国子から手紙を寄こし、詠草を添削して下さいませんかと頼んできた。
僕は再び心の燃え上ることを恐れて返事しなかったが、彼女はやがて詠草を送ってきた。
送ってきたものを返さないわけにはいかないので、添削してやった。
以来数年の間に毎年1、2度詠草だけを送って来た。
彼女は既に再会したものの如く妄想しているらしかった。
僕は再び秘かに会うことを抑制した。
すると昭和3年になってついに彼女から決定的の手紙が来た。
「どうしても会って下さらないのならば、大阪へ行ってお目にかかります」
僕はただちに彼女に電話で、「皆さんの御承認があればお目にかかります」と言った。
彼女の家族の若夫婦〔輝信&富士子〕から、
「母も初老を過ぎました。ぜひお目にかかりたいと申します。それで皆で相談の結果、今後は私たちも仲間入りしてお友だちになります。御遠慮なく家庭へ遊びにおいで下さい」という手紙が来た。
僕は考え込んだ。
国子の心情をよく知っている華族の人々が熟議して決めたことだから、他人がかれこれ言うべき筋合いではない。
人間的理解ある手紙で僕は救われた気がして、「いずれ近日参上します」と返事した。

再会の第一日は同昭和3年代々木の邸で、めずらしく主人(僕の亡兄龍と学習院で同級)も同席した。
互いに47歳になっていた。
一座の人々にはなんのわだかまりもなかった。
和やかなようで寂しく、寂しいようで和やかであった。
主人は朗々として宝生流の一曲を謡い、「川田君も」と勧めたので僕も観世流の花筐を謡った。
主人が僕ら二人に対して想像以上に寛容であったことについては深い理由があった。
その理由を書いて差し支えないものならば、僕らの罪は軽減されるに相違ない。
けれども書けない。
主人も数年前にこの世を去った。

次回に代々木を訪問した時若主人の信さん曰く、
「おかげで家庭が和やかになりました。母も近頃は御機嫌です。それまではだだをこねて困ることが時々ありました。今度のことは父も十分に了解しての話で、御迷惑はかけません。ただ父は、川田君の奥さんも一緒に遊びに来て下さると一番いいのだがとは申しました」
他人の家庭を和やかにして、僕自身の家庭は?
罪の深いことだと心の中で妻へ詫びを言った。
襖を開けて入って来た国子は「信さん、なんのお話?」
「何でもありません。おたあさまが時々私たちを困らせたというお話ですよ」と信さんは明るく笑った。
代々木の邸では、家職の老人や女中たちは国子と僕との間柄が普通の交際ではないことを薄々勘付いたらしい。
僕たち二人の関係はもはや秘密ではなく、公知の秘密となった。
以来ときどき訪問し山や海へも小旅行をしたが、僕の妻も黙認してくれた。
国子は毎年1度か2度は関西に来て僕を誘い出した。
いつも若夫婦がお供なので窮屈でないわけではなかったが、僕らを監視するという如きケチ臭い人ではない。
十分理解しての上のことだ。
互いの家庭を乱す恐れのある行為はなるべく慎むことにした。

永き別れとなった最後の日のことを思い出してみよう。
56歳の某日のことであった。
原宿の家を訪うて午餐をいただくと、
「これから二人だけでお芝居へ行ってもいい?」と国子は子供が親にねだるように若夫婦に言った。
若夫婦は「よろしゅうございますが、晩方にはお帰りあそばせ」と苦笑して承知した。
一幕も見終わらないうちに彼女は「出ましょうよ。大川が見たいの」と言う。
僕らは自動車で永代橋まで来た。
うすら寒い風が吹いたが、橋から川の左岸の細い街を歩いた。
京都に帰ると数日して、「母が脳溢血で倒れました」と富士子さんから知らせてきた。
その後5年間は唯一半年ばかり意識を回復しただけで、あとは寝たっきりであった。
再三見舞ったが、意識まったく不明ですやすや寝息していた。
再会から10年余りして国子は病没した。
一昨年の晩秋若夫婦に勧められて、銀杏の落葉を踏みながら武蔵野の菩提寺に参詣し国子の墓を拝んだ。

ここで彼女の生活のことを顧みる。
明治15年1月、不思議にも僕と同年同月に静岡の徳川邸で生まれ、やがて学校に通う頃から千駄ヶ谷の徳川家達公の邸に預けられた。
僕の妹の観察によると、
「国子様はわがままでお威張りなさるので評判が悪いのよ。境遇のせいかもしれないけど、お友だちが少ないの。上品だけれども、兄さんがおっしゃるほどの美人じゃないと思うわ」
彼女は口数が少なかった。信仰らしいものはなかった。
一番の楽しみは短歌を作ること、稀に歌舞伎を観ること。
衣装道楽・履物道楽で、斜陽に傾いてからも立派な身なりをしていた。
着物や帯の模様にしばしば椿の花を散らした。
人形を蒐集する趣味を持ち、僕から進呈した古い宋の陶人形を愛玩した。
それから彼女は音痴の疑いがある。
公知の秘密を快く思わない妹はこんなことを言った。
「長唄のお催しの時、下手なくせに姉様顔なさるので皆さんお困りなのよ」
国子の嫁入り先の大河内子爵家は今戸にあった。
都鳥浮く大川に臨み広大な構えだ。
今戸から代々木に移転したが、この邸の豪壮さも今戸に劣らなかった。
昭和の初めの金融大恐慌で国子の家も大きな損失を被ったらしいが、それでも数年間はじっと構えていた。
次は逗子に、次は赤坂に、次は原宿にと転々とした。
移転するごとに家が小さくなるのを僕は寂しく感じたが、国子はいつも平気な顔をしていた。
僕らとはさすがに育ちが違う。

この原稿を編集部へ渡す前に、ぜひ通らねばならぬ一つの段階がある。
それは国子の遺族の承認を求めることだ。
富士子さんに見せたところ、
「結構でございます。ずいぶん御遠慮ね」とたちどころに承認されたので僕は拍子抜けした。
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◆13代 大河内輝信 12代輝耕の甥/浅野長之侯爵の子・養子になる
1900-1988 88歳没


■妻  四条富士子 公爵四条隆愛の娘・イトコ結婚
1909年生


●男子 大河内輝義 14代当主

●女子 大河内祐子
●女子 大河内鈴子


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◆14代 大河内輝義 13代輝信の子
1928年生


■妻  籏久子   籏栄吉の娘
1932年生


●長男
●長女

◆10代 松平輝聴  大多喜藩主松平正敬の子・養子になる
1827-1860 33歳没


■妻  堀田万子   佐倉藩主堀田正睦の娘
1831-1888 57歳没


●長男 大河内輝声  11代当主
●二男 大河内輝剛

●女子 大河内ミチコ 子爵松平乗承と結婚
●女子 大河内光子  土浦藩主土屋挙直と結婚
●女子 大河内淑子  伯爵前田利同と結婚
●女子 大河内銑子  子爵高木正善と結婚


●大河内銑子 子爵高木正善と結婚
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◆11代 大河内輝声 10代輝聴の子 最後の藩主 松平から大河内に改姓
1848-1882 34歳没




■前妻 不明    庄内藩主酒井忠発の娘


■後妻 杉原フキ


●長男 大河内輝耕 12代当主
●四男 大河内輝耡 伯爵戸田氏秀となる
●男子 大河内光孝

●女子 大河内恭子 侯爵浅野長之と結婚
●女子 大河内桂子 子爵内藤頼輔と結婚


●大河内輝耡 伯爵戸田氏秀となる



●大河内恭子 侯爵浅野長之と結婚



●大河内桂子 子爵内藤頼輔と結婚
1089(2)



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◆12代 大河内輝耕 11代輝声の子
1880-1955 75歳没


■妻  徳川国子  将軍徳川慶喜の娘
1882-1942 60歳没

*長年、歌人川田順と不倫関係にあった


大河内輝耕&国子夫人
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◆13代 大河内輝信 12代輝耕の甥/浅野長之侯爵の子・養子になる
1900-1988 88歳没


■妻  四条富士子 公爵四条隆愛の娘・イトコ結婚
1909年生


●男子 大河内輝義 14代当主

●女子 大河内祐子
●女子 大河内鈴子


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◆14代 大河内輝義 13代輝信の子
1928年生


■妻  籏久子   籏栄吉の娘
1932年生


●長男
●長女

■東京本邸 東京市下谷区中清水町


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◆11代 松平正質/大河内正質 鯖江藩主間部詮勝の子・婿養子になる 最後の藩主 松平から大河内に改姓
1844-1901


1090


1879年 37歳
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■妻  松平峰子  10代松平正和の娘
1852-1937 


●男子 大河内正敏 吉田藩大河内正敏子爵となる
●男子 大河内正倫 12代当主

●女子 大河内完子 小西新右衛門と結婚


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◆12代 大河内正倫  11代正質の子
1885-1948


■妻  亀井須賀子  亀井茲明伯爵の娘
1894-1929


左から 亀井須賀子・亀井祥子・亀井孝子
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●男子 大河内正陽  13代当主
●男子 大河内正孝  間瀬照代と結婚
●男子 大河内正雄  佐川知代と結婚

●女子 大河内寿美子 関屋友彦と結婚
●女子 大河内貞子  松本清一と結婚


●1939年 大河内寿美子 1918年生・156センチ・学習院出身・趣味は洋裁・長唄・料理・書道
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◆13代 大河内正陽 12代正倫の子 
1916年生


■妻  稲垣安子  稲垣信太郎の娘
1929年生


●長男
●長女

◆16代 桜井忠興  15代松平忠栄の子 最後の藩主 松平から桜井に改姓 
1848-1895

1879年 33歳
0033i



■前妻 戸田茅子  松本藩主戸田光則の娘
1850-1873


■後妻 小笠原キン 小倉藩主小笠原忠幹の娘
1850-1917

1162(1)



●三男 桜井忠胤  17代当主


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◆17代 桜井忠胤 16代忠興の子
1881-1931

1161(1)



■妻  本多鷹子 子爵本多忠敬の娘
1888-1969

1161(2)



●長男 桜井忠養 18代当主


●長女 桜井章子  子爵南部利克の子南部信克と結婚
●二女 桜井美知子 子爵南部利克の子南部信雄が婿養子になる
●三女 桜井加寿子 菅原文道と結婚
●六女 桜井博子  士族石崎良弥と結婚
●七女 桜井瑳紀子 久保田正彦と結婚


●桜井章子 子爵南部利克の子南部信克と結婚
1162(2)



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◆18代 桜井忠養 17代忠胤の子
1916-1985


■妻  千良子  裏千家14代千宗室の娘
1920年生


●長男
●二男
●長女

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