直球和館

2025年

2012/07

◆初代子爵 松平慶民 福井藩主松平春嶽の子
1882-1948 

オックスフォード大学で





■妻  新田幸子 新田忠純男爵の娘




●長男 松平永芳  2代当主
●二男 松平忠永  公爵徳川家正の養子となるが離籍

●長女 松平美智子 侯爵伊達宗彰と結婚
●二女 松平綾子  男爵吉川重国と結婚
●三女 松平英子  伯爵鹿島晃久と結婚


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『倉富勇三郎日記』

1921年9月30日
※宮内官僚小原駩吉の発言

松平慶民子爵は福井松平春嶽の子にしてその家を継ぐべき者なるも、幼少なりしをもって松平康荘をしてこれを継がしめ慶民は康荘の養子となりおりたるも、民法施行の結果慶民は指定相続人のごとき形となり問題を生じたり。
慶民はイギリス留学中自ら相続人たる事を辞し、分家して特に子爵を授けられたるものなり。
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立つ左から 綾子 永芳 忠永 英子
座る左から 美智子 慶民 幸子夫人
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◆2代 松平永芳 1代慶民の子
1915-2005


■妻  醍醐充子 侯爵醍醐忠重の娘


●長男 松平永忠

●長女 松平礼子 婿養子を迎え3代当主とする
●二女 松平武子 財閥住友芳夫と結婚


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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1953年2月27日
田島長官◆元宮内大臣松平慶民の長男松平永芳という人はいい人でありますが、少し調子の違った人で、元学習院院長山梨勝之進を訪ね三笠宮様〔三笠宮崇仁親王〕の御同級で、三笠宮様の御近状について非常に心配だといろいろ申し出ましたようであります。
要するに他の宮様のように出る人も少なくをお寂しいかおひがみのようで、そこへ赤い系統の者が詰めかけるのかと思われるというような意味であったようでございます。
御洋行はどうしても必要でありますが、東宮様〔平成天皇〕の御帰朝まではもちろん少し時が経ちませんと、引き続き政府にも頼めませぬ。
準備行動はいたしまするが実行は先になりますゆえ、もし松平永芳の言うような点もありますれば、もう少し世間の交渉もありますように工夫いたしますることも良いかと存じますが。
昭和天皇◆そんなことをして、また変な人間との交渉ができるのではないか。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長

1980年5月30日
富田宮内庁長官から、靖国神社の松平永芳君が、
「浩宮様は御成年におなりになったのだから、靖国神社に御参拝になるべきだ」と言ってきた由。
「そんなのほっとけば」と言う。
「そう思うけれど東宮御所〔平成天皇家〕は大騒ぎ」とか。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長

1983年3月14日
靖国神社の宮司松平永芳が馬鹿なこと、浩宮様〔令和の天皇〕の御留学について反対を言ってきたとか。
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『卜部亮吾日記』昭和天皇の侍従

2001年7月31日
朝日の記者来訪、昭和天皇が靖国神社の御参拝をお取り止めになった経緯。
直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず。
1975年11月21日が最後、このとき戦没者墓苑にも行幸啓あり。

2001年8月15日
靖国合祀以来天皇陛下参拝取り止めの記事。
合祀を受け入れた松平永芳は大馬鹿。
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◆3代 松平秀治 松平圀秀の子・婿養子になる
1949年生


■妻  松平礼子 2代永芳の娘
1950-1980


●長男
●長女

■夫  松平恒雄 会津藩主松平容保の子 宮内大臣 
1877-1949 72歳没


■妻   鍋島信子 鍋島直大侯爵の娘・姉は梨本宮伊都子妃
1886-1969 82歳没


左:母鍋島栄子 右:信子
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●長男 松平一郎 次代当主
●二男 松平次郎 早逝

●長女 松平節子 秩父宮勢津子妃
●二女 松平正子 尾張徳川義親侯爵の子徳川義知と結婚


左から 松平恒雄・勢津子・信子・正子
手前  次郎
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左から 信子夫人・一郎・正子・勢津子・松平恒雄
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左から 正子・勢津子
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●松平正子 尾張徳川義親侯爵の子徳川義知と結婚
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徳川久美子 公爵徳川慶久の娘・侯爵松平康昌の子松平康愛と死別・医者井手次郎と再婚

恒雄様もご立派な方でしたが、信子夫人も堂々とされた御立派な御婦人でした。
信子さまは猫が大のお嫌いで、二階から振り投げたことがあると聞きました。
豪快な女性だったのですね。
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岡部長章『回想記』昭和天皇の侍従

内大臣の中で毎日宮城に勤めて苦労されたのは、湯浅倉平さんでした。
その前の牧野伸顕さんは月に1度しか出勤しなかったと聞きました。
二二六事件の時なども湯河原の天の屋別館に行っていたのです。
牧野内府はそういう状態でしたから、二二六事件の時には宮内大臣の湯浅さんが詰め切りで、牧野内府に代わって陛下の御相談相手になっていたのです。
私が任官した時にも、
「牧野さんはめったに出てこないんだから、あれではどうにもならない」という話をよく聞きました。
湯浅さんが内大臣になり、松平恒雄駐米大使が新しく宮内大臣に親任された時が、一番宮内省が充実していた時代だという声もありました。
その湯浅さんがが病気で退官して、人がいないものだから近衛首相が近衛内閣の国務大臣木戸幸一を擁して内大臣にしたのです。
木戸内府は毎日出てきてはいましたが、日常的に接している私たち侍従の目からは湯浅内府とはずいぶん違って見え、沢本砲兵大佐などは小柄な木戸さんの目が鋭く知恵者らしい風貌から、「猛禽類」だと評したことがありました。
この「猛禽類」というのは陸軍では評判の良い人物につけるあだ名とされています。
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『木戸幸一日記』内大臣

1940年10月9日
中山侯爵来訪。
賀陽宮殿下の御意を体し、松平恒雄宮相の進退につき話あり。
一応承り置くこととす。

1940年10月15日
賀陽宮邸に伺候、賀陽宮殿下に拝謁。
中山侯爵を通じお話ありたる松平恒雄宮相の進退につき、
●松平宮相が政治外交に関与するがごとく宣伝せらるるは全く事実にあらざること、
●今日宮内大臣の進退は我国が目下外交転換に際し諸般の準備不十分なる点に鑑み、英米を刺激する行動は相当慎重を要すること
●皇族方がこの種のデマにお迷いになり策動せらるるがごときことありては容易ならざる旨
を言上、御嘉納を得たり。

1940年10月24日
竹田宮恒徳王に拝謁す。
以下の諸件につき御意見を賜る。
いずれも重大なる事項なれば、研究すべきむね言上す。
●重大なる時局に鑑み、側近の整備強化・松平恒雄宮相の進退
●昭和陛下の御相談お相手としての侍補のごとき制度の必要
●侍従人選についての考慮
●内親王御降嫁に対する方針の確立
●皇族養子禁止制度の再検討

1940年10月25日
お召により閑院宮邸に伺候、閑院宮殿下に拝謁。
以下の点につきご意見を賜る。
●昭和陛下の御健康上御運動の励行の要あるべし。
●松平恒雄宮相の進退、皇族方の御内意を承る。
●昭和陛下と皇族方とのお親みを深くするため、一段の工夫をなす要あるべし
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1950年1月10日
田島長官◆宮中炎上の際 戦災にもかかわらず、宮内大臣松平恒雄辞任の例もあり。
昭和天皇◆松平の場合は表面は炎上になっているが、裏が少しある。
私と意見の違ったこともあったが、だいたい長いせいか宮内省内の空気が事が進まぬので困ってたらしいので、内大臣木戸幸一が宮内次官白根松介の意見を聞いたところ、
「辞めていただく方が宮内省のためによい」とのことでああなったのだ。
なお田島は戦災と言うと空襲のことを思ってるかも知れぬが、空襲警報の終わった後で御堀を越しての参謀本部跡の測量部からの飛び火である。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1951年12月17日
昭和天皇◆宮内大臣や宮内庁長官はよく変わることはいかぬ。
〔元宮内大臣〕松平恒雄は8年ぐらいやってた。
田島長官◆松平恒雄はあまりに長く、近衛文麿らはこれを変えたく、〔元文部大臣〕前田多門に内交渉しまして、田島は前田から相談を受けお受けするよう勧めましたが、これは実現を見ませんでした。
後で〔元大蔵大臣〕池田成彬に聞けば、原田熊雄が近衛なども大いにこの事を言ってたとのことでありました。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1952年3月25日
昭和天皇◆松平信子だがねー、良い点もたくさんあるがいかぬ点もあるので、それは誰か若い人でその欠点を補う人を付けたらいいのではないかと思う。
信子をどうかと思った一例は、おたた様に宮中服のことをよく伝達してくれなかったことだ。
これは〔元宮内大臣〕松平恒雄と〔恒雄の妻〕信子の連絡が悪かったためかもしれん。
また信子が私の気持がわかってても、おたた様への申し上げようがいけなかったのかどちらか知らぬが。
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■夫  松平一郎 先代松平恒雄の子
1907-1922 85歳没


■妻  徳川豊子 徳川家正公爵の娘
1913年生


後列立つ左から 正子の夫徳川義知 一郎 次郎
前列椅子左から 正子 信子夫人 秩父宮勢津子妃 恒雄 一郎夫人豊子
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●長男 松平恒忠
●二男 松平恒孝 本家徳川家当主 徳川恒孝となる 寺島宗従伯爵の娘寺島幸子と結婚
●三男 松平恒和

◆松平斉 津山藩主松平斉民の子
1874- 明治07-

*失踪のまま生死不明


■妻 徳川浪子 将軍徳川慶喜の娘
1880-1954 74歳没






●斉光 次代当主


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<松平斉男爵失踪事件>
松平斉の父松平斉民/確堂は将軍徳川家斉の子で、家達が徳川宗家の後継者に決まると後見人として確堂が選ばれた。
息子斉は父確堂とともに徳川宗家に出入りしており、ここに預けられていた慶喜の娘たちとは顔見知りであった。
しかし風采の上がらぬ斉は慶喜の娘たちにはあまり人気がなかった。
だからその後、斉との縁談が持ち上がった浪子は乗り気ではなかった。
しかし静岡の慶喜から呼びつけられ、世話になっている確堂の子と結婚するように説得された。

二人は結婚するが、結婚後は夫婦仲はうまく行った。
東京大学で植物学を学んでいた斉は、結婚後も屋敷と大学を往復する生活を送っていた。
ところが7ヶ月後、斉は失踪する。
当時浪子は妊娠中、斉も子の誕生を楽しみにしていたという。
妻も家族も一切心当たりがなかった。
慶喜もかなり心配した。
松平家はこれを警察には届けなかったため、当時新聞などで騒がれることもなかった。

翌年浪子は斉光を生んだため当主として家を存続させる。
蜂須賀正韶侯爵に嫁いだ浪子の姉筆子が子供を遺して亡くなっていたため、慶喜は浪子に蜂須賀家の後妻となるように勧めたが、浪子はこれを断り松平家にとどまった。
現在に至るまで斉の行方は不明のままである。
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◆松平斉光
1897-1979 82歳没




■妻 徳川直子 水戸徳川昭武公爵の娘
1900-1989 89歳没






●光子 豊田禎夫と結婚
●英子 岩瀬義郎と結婚
●華子 鎌田勇と結婚
●斉義 次代当主




◆松平斉義
1941-


■妻 相馬順子 相馬澄胤の娘
1946-


●斉康
●斉忠
●陽子

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