直球和館

2025年

2014/01

首里城
3001



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◆19代 尚泰 18代尚育の子
1843-1901

3000



■妻  佐敷按司加那志
1843-1868


●長男 尚典   20代当主
●二男 尚寅   男爵尚寅となる
●四男 尚順   男爵尚順となる
●五男 尚秀   玉城尚秀となる
●六男 尚光   米原雲海の娘米原福子と結婚
●七男 尚時   池城静子と結婚

●長女 尚真鶴金 政治家護得久朝惟と結婚
●五女 尚政子  内務官僚漢那憲和と結婚
●六女 尚八重子 大蔵官僚神山政良と結婚(東逸泉に嫁ぐ)
●10女 尚鈴子  士族金武朝盛と結婚


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万朝報 1898年

旧琉球王尚泰侯爵は左のごとく多くの妾と庶子を有す。
●琉球人 真鶴金(46)
●牛込区原町士族船岸勝太郎同居平民山本チョウは、秀・ミチヨ・ヤエを生む。
●北豊島郡巣鴨町田中栄蔵の娘コウは、光を生む。
●三重県河芸郡神戸町片山半七の娘貞子は、マサヨ・時を生む。
●下谷区南稲荷町松本カネ養女ユウは、キミを生む。
●千葉県安房郡北三原村西田市五郎同居神田ナツは、チヨ・サヨ・スズを生む。
以上はいずれも小間使いもしくは下女なりしを手をつけ孕ませたるなり。

その嗣子尚典も麹町区三番町高木勝太郎同居士族林武立の娘チエを妾とし、一女を挙げツルと命名す。
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万朝報 1898年

田中鉄工所の谷崎安太郎は日本橋元柳町日野屋光子こと前田ミツ(23)を妾とす。
この女はかつて奈良原男爵に落籍されてともに沖縄に渡りしが、その時 奈良原はミツを旧琉球王侯爵尚泰への土産とし枕席を払わしめたることあり。
その後、奈良原の手を切りて再勤せしなり。
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◆20代 尚典   19代尚泰の子
1864-1920


■妻  金武祥子 金武朝穏の娘
1865年生


●長男 尚昌   21代当主
●二男 尚景   具志頭猷子と結婚
●三男 尚旦   藤田銀行深野半蔵の娘深野美津子と結婚

●長女 尚延子  男爵今帰仁朝英と結婚


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◆21代 尚昌    20代尚典の子
1888-1923

*英オックスフォード大学に留学


■妻  小笠原百子 伯爵小笠原忠忱の娘
1896-1950

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●長男 尚裕    22代当主

●長女 尚文子   伯爵井伊直忠の子井伊直愛と結婚
●二女 尚清子   伯爵酒井忠博と結婚


●尚文子 伯爵井伊直忠の子井伊直愛と結婚 1996年
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◆22代 尚裕   21代尚昌の子
1918-1996


■前妻 戸田瑛子 子爵戸沢正己の娘・死別
1919-1945


■後妻 村瀬啓子 村瀬鐸三郎の娘
1920年生


●長男
●長女
●二女
●三女
●四女

■東京本邸 本郷区向ヶ丘弥生町(現:文京区弥生)8千坪 大地主
1036(2)


4000


■西ヶ原別邸


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◆27代 浅野長勲 浅野懋昭の子
1842-1937 95歳没

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1879年 39歳
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1036(1)



■妻 山内綱子 高知藩主山内豊熙の娘
1845-1919 弘化04-大正08



イタリアで
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ナイアガラで
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『横から見た華族物語』昭和7年出版

十五銀行騒ぎで叩かれた華族で大頭株の中に旧芸州広島藩の浅野家がある。
主人の長勲侯爵は頭脳が綿密というのか、細かいところによく気がつくというのか、旧臣名簿という閻魔帳のようなものをこしらえていて、何の某の娘は当年幾歳で何の某の所へ嫁に入っているというようなことからはじめ、旧臣の身分に関する一切のことを書きとめている。
それほどだからお正月などでも旧臣のうち一人でも年賀に来ない者があると、老人すこぶる御機嫌が悪い。

算盤高いことでもまた有名で、浅野家へ何かまとまった物を売り込もうとする者はいちいち老人に会って直接の取引だが、少しでも高いと思われるとそんな算盤の持ち方はないだろうと言ってそっぽを向いてしまう。

この親にしてせがれの長之氏はなんと不肖な子であったものか。
現在十五銀行の重役をしていながら8千なにがしの新株を背負い込んでいた。
そのうえ整理のためには重役としての私財30万円をも吐き出さねばならなかったため、新株の払い込みと合わせて100万円に近い大損害をこうむったから老人怒るまいことか。
60何歳にもなっている長之氏をとらまえて「この大馬鹿野郎」と怒鳴りつけたということだ。
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◆28代 浅野長之 27代長勲のイトコ/浅野懋績の子
1864-1947

*イギリス・フランスに留学




■前妻 松平鑑子  松江藩主松平定安の娘・離婚
1870-1893


■後妻 大河内恭子 高崎藩主大河内輝声の娘
1877-1913




●後妻の子 浅野長武 29代当主
●後妻の子 浅野峰松 大河内輝信子爵となる
●後妻の子 浅野望子 斯波正夫男爵と結婚
●後妻の子 浅野鉄馬 浅野鉄馬男爵となる

●後妻の子 浅野礼子 華族九鬼隆輝子爵の子九鬼隆興と結婚


●浅野礼子 華族九鬼隆興と結婚



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◆29代 浅野長武 28代長之の子
1895-1969


■前妻 伏見宮恭子女王/結婚後、寧子と改名 伏見宮博恭王の娘・死別
1898-1919

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■後妻 山階宮安子女王 山階宮菊麿王の娘
1901-1974

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●後妻の子 浅野長愛 30代当主
●後妻の子 浅野茂松 華族山階芳正となる

●後妻の子 浅野頼子 水戸徳川圀順公爵の子徳川圀斉と結婚


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◆30代 浅野長愛 29代長武の子
1927-2007


■妻  鷹司庸子 公爵鷹司信輔の娘
1928-1990


●長男
●長女

東京本邸 荏原郡大崎町(現:品川区大崎)
1088(1)



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◆8代 池田慶政  中津藩主奥平昌高の子・養子になる
1823-1893


■妻  池田宇多子 鴨方藩主池田政善の娘
1830-1877


●男子 池田親忠  男爵生駒親忠となる
●男子 池田政時  子爵池田政時となる

●女子 池田万寿子 婿養子を迎え9代当主とする
●女子 池田千代子 子爵池田政保と離婚
●女子 池田銀子  伯爵柳原義光と結婚


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◆9代 池田茂政 水戸徳川斉昭の子・婿養子になる
1839-1899 


■妻  池田万寿子 8代池田慶政の娘 
1848-1868 


●男子 池田勝吉  池田勝吉男爵となる 上杉茂憲伯爵の娘覚子と結婚
●男子 池田勝順  子爵西尾忠篤の養子になり西尾勝順となる

●女子 池田恒子  子爵堀河護麿と結婚
●女子 池田隆子  伯爵中川久任と結婚
●女子 池田信子  佐々木祐哲と結婚
●女子 池田鎮子  泉谷祐勝と結婚


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池田勝吉男爵の孫 鮫島純子 財閥渋沢正雄の娘・鮫島員重男爵の妻 

池田茂政はお家付きの万寿子姫との間には男児に恵まれず、側室との間に誕生した唯一の男子が母の父でした。
彼は自分が池田侯爵家の跡取りになるとばかり思い込んで成長したらしいのですが、池田家本来の血筋を受け継いでおられる相良子爵家の方が御養子になられ岡山池田本家を継がれました。
祖父は分家して男爵を授かり、私が物心ついた頃には子供の目から見ても芳しからぬ心情の日々を過ごしているように見えました。
侯爵とそれに伴う広大な領地への執着と、当てが外れた人生への不満があったのかもしれません。

父は子会社を作り、名前だけの社長として祖父の収入にしてあげていました。
振り込みが遅れると待ちきれず、娘をあてに受け取りに来訪。
岳父が気がねなくお金を受け取れるよう父は配慮して振り込みにしていたのですが、そんな思いやりもむなしく悪びれる様子もない祖父の態度は、父方の祖父である栄一とのあまりの差にさびしい気がしたものでした。

夜帰宅した父に「申し訳ございません」と低姿勢で詫びる母に対して、
「いいじゃないか。男の照れ隠しが尊大ぶったスタイルになるんだよ」とかえって母を慰め、
「もらう立場よりあげられる立場の方がありがたいさ」と父はあっさり言っているのを聞きました。
もっともある時 父は足の爪を切りながら、岳父にまた母の異母妹〔妾の子〕が誕生したと聞いて、
「母さんの係累がこんなに増えると知ってたら女房にもらわなかったなあ。あれだけは斉昭公〔勝吉の祖父水戸藩主徳川斉昭〕の隔世遺伝かなあ」と冗談交じりに苦笑していました。

(勝吉の死亡時)

父は葬式の準備の指揮をとりました。
私は初めて見る4歳、2歳の幼い「叔父」「叔母」の姿、「殿様ぁ~」と遺体に泣きすがる妊娠中の側室、その光景の異様さにただ呆然としたものでした。
母はすでに生母の亡くなっている腹違いの弟たちの大学卒業と就職の面倒をみて、妹の方は引き取って家の中のことなどを手伝ってもらいながら仲良く過ごし、お嫁入りの世話もしました。
母の異母弟妹がみな穏やかな常識人として成人しましたのはありがたいことでした。
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◆10代 池田章政/池田政詮 最後の藩主
1836-1903


■妻  戸田鑑子 大垣藩主戸田氏正の娘
1838-1906 


●男子 池田政保 子爵池田政保となる
●男子 池田詮政 11代当主


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◆11代 池田詮政 10代章政の子
1865-1909


■前妻 島津充子 公爵島津忠義の娘・池田詮政と離婚・伯爵松平直亮と再婚
1873-1958 85歳没


■後妻 久邇宮安喜子女王 久邇宮朝彦親王の娘 
1870-1920 50歳没


●男子 池田禎政 12代当主
●男子 池田政鋹 子爵池田政保となる
●男子 池田宣政 13代当主

●女子 池田博子 侯爵細川護立と結婚
●女子 池田鋠子 伯爵烏丸光大と結婚
●女子 池田温子 子爵六条有直と結婚


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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は宗秩寮職員

<安喜子女王&篶子女王の姉妹どんぶり>

1922年8月24日
※宮内官僚小原駩吉の発言

壬生基義伯爵の性質は金銭に汚く品行不良にて、妻篶子の姉妹の寡婦となりおる者と私したる事多く、先年死去したる池田詮政の寡婦安喜子のごときもその一人にて、池田家の家職などはしきりに苦心したりし。
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◆12代 池田禎政 11代池田詮政の子
1895-1920 25歳没


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◆13代 池田宣政  12代禎政の弟/11代詮政の子
1904-1988


■妻  津軽富貴子 津軽行雅男爵の娘
1908-1978


●男子 池田隆政  14代当主


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◆14代 池田隆政   13代宣政の子
1926-2012 86歳没


■妻  順宮厚子内親王 昭和天皇の娘 
1931年生


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1977年
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1950年10月9日
次長鈴木一退官に際し、
「昭和陛下の服装問題にかれこれ仰せになることを御諌言的に申し上げしこと、高松宮様らをよく御抱擁願いたしとの申し出のこと、ゴルフの問題のこと、順宮厚子内親王は浅野長愛へ御降嫁よろしかるべし」とのこと申し上げし由承る。

昭和天皇◆鈴木は辞めてよかった。
田島長官◆線が太いので場所によっては大いに使えると思いますが、侍従次長のような気を配る点は不適。

1950年10月10日
昭和天皇「昨日聞いた浅野長愛の話だが、なぜ女子学習院へ転任したろうか。順ちゃん〔順宮厚子内親王〕との結婚に何らかの関連ありや。あれば縁談できぬ時は変なものだ。順ちゃんが女子学習院に通学中に転任して来たのは」という御話、焦点どうもハッキリせず。
田島長官「順宮厚子内親王と浅野長愛の転任は没交渉と存じます」と申し上ぐ。
「そうか」と深くおうなずきなれど、この御話の焦点ちょっとわからず。
昭和天皇「順ちゃんの意思は今結婚にないが、大谷光紹への口実が〔香淳皇后の妹東本願寺大谷智子が孝宮和子内親王・順宮厚子内親王を子大谷光紹の妻に望んだが皇室側から断った〕留学三年ということゆえ、帰朝前に結婚する方が賢明だ」との仰せにて、浅野長勲の曾孫にて、長勲の息子という人もどんな人か調べる要あり。

1950年11月7日
田島長官◆順宮厚子内親王の御縁談、新陣容で間違いなく慎重に見てやってまいりますつもりでおります。
昭和天皇◆大谷光紹への口上から、大谷の帰国せぬ内というのは頬かぶりではあるが。

1950年12月1日
昭和天皇「邦昭〔久邇宮朝融王の子久邇邦昭〕に順ちゃん〔順宮厚子内親王〕をもらいたいと良宮に話があった」という御話を初めて仰せになり拝承す。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従

1950年5月23日
娘からクラス会での順宮厚子内親王の御様子について聞かされ、学習院大学教授岩田九郎も非常に心配しているとのこと。
名取女官に話さねばならないが、いろいろ続いては困ってしまう。
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田島道治『日記』宮内庁長官

1951年10月3日
岡山に順宮厚子内親王のこと、侍従次長稲田周一困却の話聞く。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従

1951年1月8日
田島長官・宇佐美次長・三谷侍従長・侍従徳川義寛と、順宮厚子内親王の御結婚問題につき協議。
池田・両徳川・松平・鍋島が候補者に残り、結局池田隆政ということで少し進めてみようということになる。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1951年3月2日
田島長官◆順宮厚子内親王の御縁談は公爵・侯爵から順次ずいぶん繰りましたが、ちょうどおよろしいというは少なく、御年齢等のことを加味して約10人ほどに縮め、久松伯爵の子〔久松定成〕とか徳川達孝の孫とか徳川宗家とか鍋島一家とかずいぶん調べましたが、結果として岡山の池田隆政が一番よろしいかと存じましたが、これとて難点はありまする他、鍋島も一人ありまするが、中間御報告的にだいたいのことを申し上げ、御指図によりよろしい者を本格的に調べるということに進むのがよろしいかと存じます。
昭和天皇◆よろしい。

1951年3月9日
順宮厚子内親王の御縁談は結局三名になりたりとて、池田隆政のことを式部官長松平康昌の関係より調べ得たることより申し上ぐ。
鍋島・徳川は三人の内の一人なりしというだけにて、興信所調書には触れず。

昭和天皇◆順ちゃんが下情に通ぜぬため、東京を離れて何か事が起きた場合に、遠隔ゆえ事前に防ぐことができず、手遅れになるようなことはないかしら。
それらの点をプラスマイナスして利害はいずれか。
侍従次長稲田周一◆旧藩主で昔の関係地で生産に従事するということは大変よろしいと存じます。
マイナスの御心配の点よりプラスが大きいと思います。

浅野問題〔浅野長愛との縁談〕には御気持はとにかく、事務的には終止符を打ちたりと思うに、とにかく昭和皇后御気持の情報を待つこととす。

1951年4月18日
昭和天皇◆順ちゃんは照ちゃん〔照宮成子内親王〕と同じ方で、孝ちゃん〔孝宮和子内親王〕とは違う。
田島長官◆池田の方はただ今のところ何の障害も起らず一応無難であります。
名門であり、御仕事も実業で。
昭和天皇◆その実業も土地についたいい意味の実業だし。
田島長官◆職業軍人なき今日、将来常陸宮様の御仕事としても結構かと内々考えておりまするような
ことでございます。
昭和天皇◆地方というのがちょっと欠点だが。
田島長官◆御上京できぬということもございませんし。
昭和天皇◆まあ、今までのところは非常に良いから、これが円滑に進むといいがなー。

1951年7月3日
田島長官◆順宮厚子内親王の池田は最初式部官長松平康昌へ申したることに端を発して進行しましたため、先方は田島にも侍従次長稲田周一にも何か一枚隔てた感じが常々ありますから、話し合いにも松平にすべてかかってくるようでありますから、今回は松平に媒人仰せつけられまするよう。
昭和天皇◆私もよく人物を知っているし、申し分ないことだ。
田島長官◆五摂家の鷹司平通〔孝宮和子内親王の夫〕に二条弼基〔媒人〕大大名の池田に松平、門地の点もちょうどよろしゅうございます。

1951年7月12日
田島長官◆順宮厚子内親王の御縁談ほどなんの障害も起らなかったのは珍しく、池田の親類の細川護立侯爵など何か説が出そうかと存じておりましたが、別に何もなきのみか昨日珍しく挨拶を述べ、喜んだ様子に見受けられました。

1951年8月22日
田島長官◆順宮厚子内親王、先日の三人参内の時など大変結構のように存じますが。
昭和天皇◆「やあ、順ちゃんは素敵だ」などと言うて我々の時代とは時代が違う。
一つにはパンより飯という順ちゃんの嗜好に、隆政も同じというのでとても喜んでる。
とにかく違うが、大変いいようだ。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従

1952年10月7日
順宮厚子内親王、三殿御拝。
袿袴がよくお似合いになり御立派である。
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田島道治『日記』宮内庁長官

1953年11月13日
池田のキリン舎出荷見舞状。
「動物園産業的ならず、猛獣でなかりしは小難、御一考」かと申し送る。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従

1953年10月27日〔四国巡幸〕
岡山の池田邸〔順宮厚子内親王の嫁ぎ先〕
大変な人出。
動物園のあたりを御供して歩きながら、田島長官から昨夜の谷口氏・伊原木氏との会談の結果を聞く。
池田宣政氏〔順宮厚子内親王の舅〕には弱っているらしいし、動物園をやめさせるということもなかなかできないらしい。
いずれも困ったことである。

1953年11月13日
田島長官から「池田動物園のキリン小屋のボヤの御見舞の機会に、本来の姿に返れという忠告のような手紙を出そうと思うがどう思うか」ということで手紙を見せられる。
大賛成を表する。
三谷侍従長はこれを見て賛否を明らかにしなかった由。
驚いたことだ。
いったい何を考えているのであろう。

1953年11月24日
稲田侍従次長に呼ばれて、鷹司さん〔孝宮和子内親王の夫〕のこと・池田さん〔順宮厚子内親王の夫〕のことについて相談を受ける。
いずれも大したことではないが、困ったことばかりである。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1953年10月15日
田島長官◆今回岡山へお立ち寄りにつきまして是非ともお願い致したいと存じますることは、例の池田隆政氏〔順宮厚子内親王の夫〕の動物園のことでございます。
田島は迂闊にもそういうもののできましたことは一向存じませず、それが地方の問題となりましたことを聞きまして、そんなものができたかと承知しましたような次第でありますが、これはいろいろ絡んで他の複雑な関係もあるようでありますが、常識上池田氏の仕事としては牛羊の牧畜は望ましい仕事の部分と存ぜられまするし、たとえ小鳥でも商品として扱われることは、鶏の卵を扱い雛を扱われると同じで結構でありまするが、カバとか虎とかいうものを動物園として経営されることはいかがかと存じられまするので、侍従職の者は全員、侍従次長も徳川義寛侍従も入江相政侍従も、また表の方の総務課長でも一致した意見でありまするゆえ、今回岡山で池田家を御訪問になりますれば同一構内で御覧になりませぬわけには参りませぬが、これをお褒めにならぬよう、少なくも御奨励になったという感じのありませぬように願いたいと存じます。
昭和天皇◆それは良宮ともよく話してだが、やめてしまえというような意味を言うことも。
田島長官◆昭和皇后には侍従次長・女官長が申し上げることになっておりまして、昭和陛下からやめよと仰せいただきますこおとは強すぎますが、少なくも御奨励ではないということだけは是非お願いいたしたいと存じます。
昭和天皇◆あまり進まぬようにすればいいのか」
田島長官◆池田氏の方から昭和陛下にあの事業についてご意見を伺われるような場合には、好ましくないむね仰せいただきたく存じます。
昭和天皇◆まあ、そういうつもりでいよう。

1953年12月15日
昭和天皇◆岡山の池田の問題だがねー。
田島道治◆先日キリン小屋火事の時 火事見舞いのお手紙を出しまして、「もしこれが猛獣小屋の火事で順宮様ら池田家の人はもちろん近所の人でも被害があれば容易ならぬことになります。産業動物園と伺っておりましたが、拝見しましたらば産業らしいところは少なく浅草の興行物のような感じで、これは御一考を要します」と申しましたところ、返事はキリン小屋で小火事だ心配ないというだけで、将来御一考えに対しては一行半句も書いてありませんでした。
順宮様のお里として宮内庁の役人がかれこれ申さば内政干渉だなどと言われますゆえこれ以上は何も申されませぬが、あの動物園に ついて批難せぬ者は絶無と申してもよろしく、先日山陽新聞社社長谷口久吉に聞きましても非常に批難をいたしております。
岡山市長横山昊太も旧池田藩士で岡田在住のしっかりした人が一人欲しいとしきりに申しておりました。
岡山県知事三木行治は動物園攻撃には弁護に立つようなこともしてくれますが、本心はやはり池田家があれをされることには反対らしく、まあ一番同情ある反対で一番公平な立場を取っているのではないかと存じられ、知事らはあの有様では経済上の実体 誰が金を出しているのか、日々の観覧者で現金が入りますが、果たしてどういう計算かわかりませんので、使用人には給料の支払遅延があるとも申します。
いずれにしましてもはっきりさせるために株式会社にして、隆政氏をその社長にして、その月給の形でただいまの個人経営の利益のある所を得られるようにでも仕組むのではないかと思っております。
あるいは市営に移りますかでありますが、とにかく天子様の婿殿が遊ばす品位のある仕事でありませんことは確信をいたします。
牛・羊・鶏等本当の牧畜業でお損をなすっても恥ずかしいことではなく、こんな興行物のようなことで儲かりましてもあまりいい話ではありませんぬ。
先日北海道の土地のことをご進講申し上げました町村敬貴なども動物園のようなことをなさるなら羊や牛や鶏のことなら拝見して何か御来庁になることを申し上げてもと思ったがやめたと申しておりましたような次第で、動物園については誰一人賛成するものはないようでございます。
隆政さんは活動的で少し焦りすぎる点はありますが、まあ若いからと致しまして、池田宣政氏〔隆政の父〕は実につまらぬ人間のようで、当時式部官長松平康昌や侍従入江相政などの話に聞きました以上につまらぬ人間で、これは構うことは要りませんが、これが隆政さんの方の邪魔にならぬようせねばならぬと思います。
池田家の顧問でありました陸軍大将宇垣一成も宣政氏の態度に憤って辞めましたらしく、元内閣秘書官長杉田大三郎は池田家の学資で修学した人でありますが、これも今は池田家の相談人を辞しておりますような訳で、東京と岡山とではいかんともしがたく、ただ警戒しつつ静観するより他はないと存じます。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従
1959年4月13日

侍従次長稲田周一と岡山のことをいろいろ話す。
池田さんの方〔順宮厚子内親王の夫池田隆政〕の問題だということになる。
侍従徳川義寛に話すと、必ずしもそうでもないらしい。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従

1965年5月1日
池田隆政さん〔順宮厚子内親王の夫〕の会社が具合が悪く、5月いっぱいは保つだろうが8千万円の赤字はなんともならないとのこと。

1965年5月28日
宮内庁長官宇佐美毅と岡山の池田隆政さんの経営潰滅のこと。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長

1971年2月4日
宇佐美長官から、岡山の池田隆政さん〔順宮厚子内親王の夫〕の事業はいよいよ駄目とのこと。
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◆8代 池田慶政  中津藩主奥平昌高の子・養子になる
1823-1893

1879年 58歳
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■妻  池田宇多子 鴨方藩主池田政善の娘
1830-1877


●男子 池田親忠  男爵生駒親忠となる
●男子 池田政時  子爵池田政時となる

●女子 池田万寿子 婿養子を迎え9代当主とする
●女子 池田千代子 子爵池田政保と離婚
●女子 池田銀子  伯爵柳原義光と結婚


●池田親忠 男爵生駒親忠となる



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◆9代 池田茂政 水戸徳川斉昭の子・婿養子になる
1839-1899 

1879年 42歳
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■妻  池田万寿子 8代池田慶政の娘 
1848-1868 


●男子 池田勝吉  男爵池田勝吉となる
●男子 池田勝順  子爵西尾忠篤の養子になり西尾勝順となる

●女子 池田恒子  子爵堀河護麿と結婚
●女子 池田隆子  伯爵中川久任と結婚
●女子 池田信子  佐々木祐哲と結婚
●女子 池田鎮子  泉谷祐勝と結婚


●池田勝吉 男爵池田勝吉となる



●池田隆子 伯爵中川久任と結婚





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◆10代 池田章政/池田政詮 人吉藩主相良頼之の子・養子になる 最後の藩主
1836-1903

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1879年 45歳
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■妻  戸田鑑子 大垣藩主戸田氏正の娘
1838-1906 


●男子 池田政保 子爵池田政保となる
●男子 池田詮政 11代当主


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◆11代 池田詮政 10代章政の子
1865-1909

1879年 16歳
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■前妻 島津充子 公爵島津忠義の娘・池田詮政と離婚・伯爵松平直亮と再婚
1873-1958 85歳没




■後妻 久邇宮安喜子女王 久邇宮朝彦親王の娘 
1870-1920 50歳没




●男子 池田禎政 12代当主
●男子 池田政保 子爵池田政保となる
●男子 池田宣政 13代当主

●女子 池田博子 侯爵細川護立と結婚
●女子 池田鋠子 伯爵烏丸光大と結婚
●女子 池田温子 子爵六条有直と結婚


●池田政保 子爵池田政保となる



●池田博子 侯爵細川護立と結婚



●池田鋠子 伯爵烏丸光大と結婚



●池田温子 子爵六条有直と結婚



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◆12代 池田禎政 11代池田詮政の子
1895-1920 25歳没




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◆13代 池田宣政  12代禎政の弟/11代詮政の子
1904-1988


■妻  津軽富貴子 男爵津軽行雅の娘
1908-1978


●男子 池田隆政  14代当主


1978年
19780432



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◆14代 池田隆政 13代宣政の子
1926-2012 86歳没

5000


5001



■妻  順宮厚子内親王 昭和天皇の娘 
1931年生

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米軍によるカラー写真
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1952年
0001

*昭和戦前には華族の中でも5指に数えられる資産家だった

■東京本邸  芝区三田綱町(現:港区三田)土地5万坪・建物2千坪
1030(1)


■北海道農場 4,053町歩

■徳島別邸

■高輪別邸

■鉄砲洲別邸

■熱海別邸

■洲崎浜町邸


■北海道農場 1億5千万坪 田畑山林9千町歩 小作人1千戸 馬で回っても一週間かかる広さだった。


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◆14代 蜂須賀茂韶  13代蜂須賀斉裕の子
1846-1918 71歳没


■前妻 蜂須賀斐子 親族蜂須賀隆芳の娘・離婚


■後妻 徳川随子  水戸徳川慶篤の娘
1854-1923 69歳没


茂韶には11人の側室がいたが、すべての側室を辞めさせることが随子側の結婚の条件であった。
しかし随子自身はかつて松平定教子爵(松平定敬とされるのは誤り)と婚約していたことを理由に
「二夫にまみえず」として茂韶とは寝所を共にせず、自分の侍女萩原京を側室にさせた。
茂韶は毎週月・水・金は随子夫人の住む本邸に泊まり、火・木・土・日は側室お京の住む高輪別邸に泊まった。


●庶子 蜂須賀正韶 15代当主


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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

私が知った頃の蜂須賀茂韶侯爵は、浅黒い丸顔の丸々と太った柔和な眼差しをしたお爺さんであった。
ところが古参の仕人が、
「いや、あの爺さん見かけによらずなかなかきかん気の人でね」と言って次のような話をした。
以前宮中で御陪食には明治陛下がお飲みになった盃を順に回して、いわゆる陛下のお流れを頂戴したものであった。
ところがある日 陛下の御盃が順々に回って蜂須賀侯爵のところに来た。
蜂須賀侯爵はくだんの盃をぐっと一気に飲み干すと恭しく両手で盃を捧げて、
「天盃ありがたく頂戴つかまつりました」と言ってのけるやいなや、あっという間に盃を懐中に入れてしまった。
驚いたのはお流れをまだ頂戴していない末座の人たちである。
怒るわけにもいかずあっけにとられていると、それを御覧になった陛下はすかさず、
「蜂須賀、さすがは御家柄だのう」と仰せられたので、緊張していた一座の空気がほどけてどっと賑やかな笑い声が起った。
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◆15代 蜂須賀正韶 14代茂韶の子
1871-1932 61歳没

*カエルが嫌いで、恐怖心を抱いていた。
三田綱町の何千坪もある池が蛙の繁殖地となったら慶應義塾に寄付した。

*ノミも蚊も殺さず、尾頭付きの魚も食べず、形がわかる鶏料理は食べなかった。


■妻  徳川筆子 将軍徳川慶喜の娘
1876-1907 31歳没


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蜂須賀年子 蜂須賀正韶の娘

私の父は人間嫌いというほどではなかったが、人に対する情は薄かった。
ことに、女嫌いであったことは事実である。
父は男女関係について全く幼稚だったような気がする。
8年も外国にいたくせに女性というものをほとんど知らない。
自分の妻にさえ、ある種の恐怖心を感じていたようだ。
新婚当時女の扱い方を知らなかったため、夜の営みのことを考えると居ても立ってもいられず、戸棚に隠れて一夜を過ごしたという話もある。
父はすべての動物に対しても、さしたる愛情を持っているとは見えなかった。
たぶん生まれつきなのであろうと思うほかはなかった。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

蜂須賀正韶侯爵は非常に平民的な人物で、私たちの面倒もよく見てくれた人である。
そのくせどういうものか、儀礼ばったことには妙に厳格であった。
たしか鴨猟の時だったと思うが、私が煙草をくわえたままで外套を着せたら、
「その格好はなんだ!」と叱られたことがあった。

この人は色の白いなかなかの好男子で、早くに夫人を亡くしたにもかかわらずついにやもめを押し通してしまった。
宴会の時に芸者などが寄って行くとすぐ逃げ出してしまうほどの堅人であったが、この人の息子は逆に非常な放蕩者で、妾狂いのあげくついに華族の礼遇を停止されてしまったほどだった。
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●男子 蜂須賀正氏  16代当主

●女子 蜂須賀年子  松平康春子爵と結婚離婚・デザイナー
●女子 蜂須賀笛子  松田正之男爵と結婚
●女子 蜂須賀小枝子 佐竹義種子爵と結婚


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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は帝室会計審査局長官

1919年1月21日
※松田正之男爵の兄 有馬頼寧伯爵の発言

松田正之の結婚を蜂須賀よりしきりに申し込みに来る。
松田の未亡人〔静子〕の性行が普通ならざるゆえ、充分に聞き質したる上に決心せられたき旨を蜂須賀に申し向けおきたる。

1919年6月27日
※松田正之男爵の発言

自分も寡婦〔静子未亡人〕も結婚して異存なきにつき今日電話にて結納の事等しかるべく取り計いくれたき旨を依頼したるところ、
頼寧は「有馬家にて嫁を貰う訳にあらざるゆえ、正之と寡婦と相談してしかるべく取り計いたらばよろしかるべし」と言えり。
左のごとき返答はすこぶる意外なりしも、
ともかく寡婦に対し頼寧の返答とは言わず「松田家の結婚なるゆえ第一に寡婦の希望を聞きたし」旨を話したるところ、
寡婦は「このことは万事頼寧に依頼すべき」旨を告げたり。
やむをえず頼寧の返答を言いたるところ「しからば結納はこちらにて取り計うことにして差し支えなし。その費用は自分より半分出すにつき、正之より半分を出すべし。先年有馬秀雄〔有馬伯爵家職員〕より正之の住居は有馬家にて設備し、生計費も有馬家にて支弁すべき事を申し出ており。かつ自分と正之と別居することは頼寧よりも希望の一条件として申し出ておることにつき、別居と言う以上はその家は有馬家にて設備するが当然なり。よりて家と生計費の事はこの際是非とも有馬家にて引き受けることに相談しおかざるべからず。もし引き受けざるならば自分にも考えあり」と言えり。
自分の考えにては寡婦の希望のごとく有馬家にて引き受けてくれるならば結婚問題を進行してもよろしきも、もしその事が出来ざるならば結納を済まさざるうちに結婚話を止むる方がよろしからん。
しからざれば処置に困ることとなるべし。よりてこの事につき頼寧に相談してくれよ。

1919年6月29日
※松田正之男爵の兄 有馬頼寧伯爵の発言

結納ぐらいは松田家にて取り計いてよろしからんと思い、その趣旨を電話にて正之に答えたるまでにて、絶対世話せざる趣意にあらず。
自分と蜂須賀との間には既に相当の黙契あり。
正之の生計費を幾分にても寡婦より出さしめんとすれば寡婦が承諾せざる事は初めより分かりおるにつき、左様の事は少しも考えおらず。
正之には自分の考えは既に話しおきたることあるにつき、左様の誤解をなすべきはずはなきことなり。

1919年8月1日
※倉富&蜂須賀正韶侯爵の会話

蜂須賀◆末広重雄〔京都大学法学部教授〕は宇和島の人にて伊達家に関係あり。末広の話に松田の未亡人は極端なる性行なるように言うとのことにて懸念なきにあらず。種々の話を総合すれば結局未亡人は利欲の念の強き人のようなるがいかが。
倉富◆予はこれまで一回本人に面会したるのみにてこれを批評するは不都合なれども、要するに利欲心の強き人の様なり。本人は実子ある訳にあらず。ただし相当の資産もある模様につき、この上にそれほど金銭を欲する原因は了解しがたし。
蜂須賀◆本人より伊達宗曜男爵に対し嫁の候補者なきやと言いたる由。これは松田正久の親族某の嫁を探すためなる様なり。未亡人が金を蓄えるは、この某に贈与するためならんと思わる。
倉富◆松田正久の存命中いったん実子として入籍しおりたる者を戸籍の誤りなりとて裁判上の手続をなし除籍したるが、その原因は未亡人がその人を嫌いたるためなる様に聞きおれり。かの人の心理状態は何とも判断できがたし。有馬家と未亡人との間は非常に激しき衝突を起こしたることあり。原因は未亡人より某家に対する負債あり、これを返済するため有馬家より出金してくれよとの相談あり。しかるに負債なき事実明瞭となり有馬家はその請求に応ぜざりし事よりの紛糾にて、結局女の浅薄なる考えと言う他なし。
蜂須賀◆有馬家より持参の5万円と御下賜の3万円とを正之の有となしたらばともかく生計を立つることを得るならんとの話をなしおりたることあるも、3万円はもちろん5万円を取り戻すことも容易ならざるべし。頼寧より松田のために邸宅も設けざるべからずとの話ありたるも、自分は左様のことは如何様になりても頓着せず。娘にも出来得るだけその辺の覚悟はなさしめおるつもりなり。
倉富◆有馬家としてもすぐに松田のために建築する様の事は事情できざるべく、もし只今の住居にて間に合わざるならば当分借家でもせざるをえざるべし。
蜂須賀◆それにて結構なり。
倉富◆正之が選定相続をなし、麻布の邸宅は正久存命中より妻の所有となりおり。正之には何も相続すべき財産なし。
蜂須賀◆頼寧が「蜂須賀より持参する金ありてもその金額等は未亡人に明かさず、元資は蜂須賀家に留め置き利子だけを正之に渡してくれる方が好都合なり」との話あり。その事にいたすつもりなり。

1919年9月13日
※倉富&有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の会話

橋爪◆寡婦は正之に対し「お前の住居は頼寧が引き受けらるるゆえ、まず家を買いたるうえ結婚することにならざるべからず。家を買い入れるまでは婚期を定むべからず」という趣なり。
倉富◆松田にては住居のことも生計のこともすべて有馬家に一任し寡婦は何も世話をなさずに、家を買うまでは婚期を定めずとはあまりにワガママなる申し分なり。予は頼寧より充分寡婦に交渉せられ一切干渉がましきことをなさざる様取り決めらるる必要あると思う。
橋爪◆寡婦より正之に対し「蜂須賀より持ち来る嫁装はすべて松田家へ運び入れ、入用の分だけ新夫婦の住居に持ち行く様にせよ」と言いたる。
倉富◆言語道断なり。左様の事をなしたらば品物はすべて寡婦が差し押さえることとなるべし。左のごとき事を言うならば、なお一切の干渉を途絶しおく必要あり。
橋爪◆正之の持参したる公債証書5万円は既にこれを売却して株券を買入れ、配当金1万5000円は収入とすることとなりおれり。
「正之が寡婦に対する行動よろしければその資産は正之に譲るも、さもなければ他に遣わす」と言いたる。

1919年9月18日
※倉富&蜂須賀正韶侯爵の会話

倉富◆先日橋爪より松田の寡婦より家買入れのこと、嫁装を松田家に運び入れること等の注文をなす趣を聞けり。
蜂須賀◆娘に対しても寡婦の性行が普通ならざるゆえ、何事も軽率に言わず夫婦の間の意思の齟齬せざる様に注意すべきことを訓示しおけり。

1919年10月6日
※倉富&宮内大臣波多野敬直の会話

倉富◆蜂須賀正韶はいかなる事より娘を松田に嫁せしめる事を考えたるや。なかなか熱心にて予にも会いたいと言い、面会のうえ種々話をなしたり。
波多野◆初めは末広重雄より蜂須賀に話して、蜂須賀もこれを思い立ちたる訳なり。
山本達雄が「松田の寡婦は実に困りたる人なり」と言えり。
倉富◆先頃も松田の婚儀につきちょっと面倒なることありたり。
波多野◆松田の家のことは蜂須賀の方にては「家は自分の所にもあるゆえ、そこに住ましめてよろし」と言いおりたるところ、
石井為吉は「家までも蜂須賀の物に住みては蜂須賀の養子になりたる様になるとて寡婦が承知せざりし」と言えり。

1920年8月20日
※松田正之男爵の発言

先日自分官を辞する時、君〔倉富〕より「官を辞したらば家計に不足を生ずることなきや」と言われ、
その時は「家計には差し支えなし」と妻が言うにつきその旨を答えおきたる所、その後毎月不足を生じ、
妻は「自己の不行届きゆえ実家より補助を受けることとすべし」と言うも、それにては有馬家の面目にも関する事と思い先日有馬家に対し補助の増額を求めおきけり。
これまでは年額600円、今年は妻が出産するゆえそのための費用を請求して400円を補助する旨通知来りおれり。
よりてその他に500円を増して総額1500円と致したし。

全体有馬家より自分に対する態度についても了解しがたきこと少なからず。
安藤信昭〔兄〕に対しては資産として10万円を分与し家屋代として5万円を与えたるに、自分には資産は5万円にて家屋代は1万円なり。
兄弟の別あるにしてもせめて家屋代は安藤の金額ぐらい与えてもよろしかるべきはずなり。
久米子〔妹〕が結婚するについても持参金3万円を遣わしなおその後の補助もなしおり。
頼寧は貧児救済とか貧民教育とかに金を費し新聞などもこれを称賛しおれども、弟に高等貧民ありて生活もできずと言うては兄の面目にも関することと思う。
蜂須賀より妻の出産に要する衣類・器具等はすべて遣わしくれたり。
蜂須賀より厚くしてくれるだけ、自分としては有馬家の薄遇に対する不平あり。

※倉富&有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の会話

倉富◆先年頼寧が正之と寡婦との不和を仲裁したる結果、正之が持ち行きたる公債証書5万円のうち2万5000円の利子は寡婦が受け取る事となりたるにつき、有馬家よりその金額だけは補助するが当然なるべし。しかるに1250円を補助せず600円を補助する事となしたるは如何なる事情なりしや。
橋爪◆家を買うまでは正之1ヶ月50円の家賃を要したるゆえ、600円以上は家賃と差し引くべくものとして600円と定めたり。
倉富◆それは無理なるべし。以前は家賃を払いたるにしてもその時は単身なりしが、この節は配偶者もできたるゆえ家賃と差引勘定する訳にはいかず。今年は正之の希望通り1500円を補助し、来年よりは1250円を補助せらるる様取り計いを望む。
橋爪◆自分も持参金5万円の利子に相当するだけは補助せらるるが穏当なりと思う。

1920年2月24日
※有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の発言

正之が家を買入れられたる時、1000円の余金あり。
これにて応接間を作られるはずなりしが、
その時は正之は「応接間は強いて作るに及ばず。その金にて電話を買い、その他にも必要なる事あるにつきその方に使いたし」との話あり、これを費消せり。
しかるにこの節に至り舅蜂須賀正韶が松田家に行き、
「空地もあるゆえ応接間の一つぐらいはありたし」と言いたるより、これを作る希望を起したる模様なり。
正之より「有馬家にて500円ばかり貸しもらいたし」との話なり。

1922年9月9日
※松田正之男爵の発言

現住居は狭くして不便なり。
既に2人の子を喪い書生を置けば病気に罹り、ともかく面白からざる事多し。
妻は家の門が鬼門に当るとの事を聞き神経を悩ましおるにつき住居を変更したし。
しかるに現住居を売却したるだけの金にては他に家を買入れる事できざるゆえ、
有馬家にて家を買いその所有はもとより有馬家の物と為しおきてよろし。
無料にて自分の住居に充つる事にいたしたし。

俸給1600円・利子3750円・実家の補助1250円、計6600円なり。
無事の時なればこれだけににて間に合わざる事なし。
ただし妻は何も買う事を得ず。気の毒なり。
妻は先頃より神経衰弱にて微熱あり。
小田原の蜂須賀の別邸に妻の妹小枝子が転地しおるにつき、妻もその方に行きおれり。
しかるに鎌倉あたりに移る事にいたしたしと思いおる所なり。
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◆16代 蜂須賀正氏 15代正韶の子
1903-1953 50歳没

*北白川宮美年子女王と婚約していたが、破談となった。

*アフリカ探検や女性関係に湯水のごとく金を使い、父正韶が死んだ時には約100万円の負債があることが判明した。

*1945年爵位返上


■妻  永峰智恵子 日系アメリカ人 
1909-1996 87歳没


●長女 蜂須賀正子


*正氏の死後、正氏の姉蜂須賀年子と智恵子未亡人と間で財産争いが続く


1977年
19770441(1)




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『木戸幸一日記』内大臣※当時は宗秩寮総裁

1933年10月30日
蜂須賀正氏公爵来庁。
売立出品中の『栄花物語』を高松宮家に献上の件につき相談あり。
予としては入札で意外の高値にて落札したる以上、1/3にしか当たらざる宮家の下賜8万円にて御受納になるは面白からず、打ち切るを至当とする旨を答う。

1933年10月31日
池田成彬氏来庁、『栄花物語』の件なり。
種々相談の結果、高松宮への献納は蜂須賀家より辞退し、いかなる高値にて買い手あるも当分は売却せざる方針にて進むことに一致す。

1933年12月13日
黒田長敬侍従より、蜂須賀家親戚よりの依頼なりとて、
「蜂須賀侯爵家の乱脈は困ったものなるが、いずれ親族会を開き整理する予定なるゆえ、それまでは処置を取られざるようお願いしたし」とのことなりき。

1934年2月27日
酒井伯爵より蜂須賀侯爵家の内情を聴く。
お家騒動にならなければよいがと思う。

1934年5月9日
蜂須賀正氏侯爵来庁、蜂須賀家の問題につき種々話あり。
予は侯爵の将来の生活につき注意を与え、反省を求む。

1943年6月26日
武者小路宗秩寮総裁来室。
蜂須賀侯爵の問題につき、隔意なく意見を交換す。

1943年11月26日
松平恒雄宮内大臣来室。
蜂須賀侯爵の処分その他につき話あり。
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『高松宮日記』

1945年5月2日
白金の密輸で蜂須賀正氏侯爵と高辻正長子爵が検挙された記事、新聞に出づ。
高辻がリュックサックにて持ち出すを、満州安東で捕まった。
高辻のは御紋付の時計もあり、蜂須賀のは外国の貨幣にて外国のもので儲けようというのがまた悪いと司法側で言う由。
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